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東京でもライラックの花が咲き出しました。小さく可憐な花で白と薄紫の両方がありますが、華麗豪華な染井吉野桜に隠れて目立ちません。匂いもほのかで上品な香りがあり、良い花木と思います。やはり北国の花ですから、日本では札幌でのライラック開花情報が中心となる様です。しかし、ヨーロッパでは春を告げる花として愛でられているようです。戦場での戦士に春を告げる象徴として小説にも度々登場して来ます。ヨーロッパと言っても広く南北に分布してしていますので、南独のミュンヘンでは5月上旬に咲きますが、北欧では6月にならないと咲き出しません。1998年6月にスウェーデンを訪問した時は、ストックホルムで開花が始まり、南のヨーテボリでは満開となっていました。北欧のライラックは木も大きく、花も豪華に咲きますので、日本で言う可憐な花のイメージとは少し異なる様に思います。
2003.04.12
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海外旅行に行って音楽会に出掛けるのはとても楽しいことと思うのですが、そこでの宿泊が1~2泊の中で見つけるのはなかなか難しい様です。ニューヨークとかロンドンの大都会ですと、毎日コンサートホールでの演奏会はありますし、ミュージカルも多数ありますから好きなものを選んで、クレディットカードを用いた電話予約をするとチケットボックスでチケットを受け取ることが出来るのですが、その他の都市では日程に合った演奏会はなかなか見つかりません。音楽の好きな町、ザルツブルクとプラハでは事情は少し違って小規模な音楽、室内楽の演奏会が毎日どこかで開催されますので、町を散歩しながら気軽にチケットを購入することが出来る様です。これはザルツブルク城で行われた演奏会のパンフレットですが、訪問した日に町中でその日の夕方の演奏会チケットが購入出来ました。最上階の「領主の間」では年間200回以上のコンサートが催されているようです。パンフレットの紹介文によりますと、このホーエンザルツブルク城は1977年に築城900年を迎えました。その「領主の間」は1498年から1502年に掛けて大司教レオンハルト・フォン・コイチャッハにより祝祭の間として造られました。各入口の縁取りと4本の柱はザルツブルク産の赤い大理石で造られ、その柱の中の1本には1525年の農民戦争時の大砲弾の傷跡が見られます。天井は星空を表しており、およそ3000個の黄金の玉で飾られています。重厚な梁は全長17mに及び多数のドイツ領国の紋章で飾られています。ザルツブルク訪問の際は、是非お試し下さい。夜に沈むザルツブルク旧市街を眺めることも出来ますし、古い木の床で行われる演奏会も魅力的です。
2003.04.11
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世界各地の旅をした時、何かその場所の思い出になる物、例えば絵葉書等を、買っておきたくなります。あまり高価でなく、直ぐに取り出せてそれらを見ることで思い出せるものが良いのです。日本の観光地では、殆ど見ることはありませんが、海外を訪れますと、都市でも又どの観光地でも飾って置くことを目的としたスーベニアスプーン(お土産スプーン)が売られています。値段は500円から1000円程度で、それ程負担にもなりませんし、かさばる物でもありませんので持ち運びに不便とはなりません。室内に飾って置いて、時々眺めることで、色々な思い出が直ぐに蘇って来ること請け合いです。買うに際しては、銀メッキの物を選んで買うことをお勧めします。銀磨きで時々掃除をしますと元々の輝きが戻って綺麗になります。手入れが不要な物は金メッキのスプーンですが、どうにも高くて、多分3000円程なので手軽とは言えません。自宅の居間の壁に掛けてあるスーベニアスプーンです。スプーン・ラックは昔駐在した時に揃えたものと、その後米国出張した時に買ってきたものが混在しています。スーベニアスプーンの数も100本を越えましたので、飾り棚に陳列出来ないクロムメッキで古くなった物は机の引き出しに保管してあります。
2003.04.06
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第二次世界大戦では壊滅的な打撃を受け、戦争裁判が開かれた所として知られています。城壁に囲まれた保存地区は、戦後多くの時間を掛けて復興再建され、観光資源としても生かされる様になりました。ミュンヘンに次いでバイエルン州第2の都市ですが、古く14~15世紀のルネッサンス時代に黄金期を迎え、芸術の都として発展し、16世紀にはヨーロッパ最大の画家の1人に数えられる或るブレヒト・デューラーがその半生を過ごした町でもありました。 1995年10月に訪問した時は、旧市街見物が夕刻となってしまい、デューラーの家がなかなか見つかりませんでした。再度、訪問してパッヘルベルのカノンとジークでも聴きながらゆっくりと散策して見たい町です。
2003.04.04
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リヨンはフランス中南部に位置し、ローヌ川とソーヌ川の合流する交通の要衝地帯で、フランス第三の都会です。織物・紡績工場も多くあって、パリのファッション専門店はおおよそ此処に工場を持っていると言われています。リヨンが歴史に初めて登場するのはシーザーがゴール攻略の為、此処に前進基地を置いたのがBC43年のことで、2000年以上の歴史の重みにも支えられています。フールビエールの丘に残る古代ローマ劇場はその頃の名残です。続いて歴代のローマ皇帝が交通の要衝としたことで、リヨンが発展することとなりました。14世紀にフランス王国の下に入り、イタリアから絹織物技術を導入し17・18世紀にはリヨンは絹織物を中心とした産業が非常に栄え、19世紀には機械化した紡織機が更にリヨンに富をもたらしました。現在では紡織だけでなく、化学工業や機械工業も取り入れた工業都市として発展しています。 1991年3月に訪問しましたが、到着した時は曇天で三時間程の市内見物をしました。未だ緑が芽生えていませんのが残念でしたが、丘から見る町の展望は中々のものでした。駅に戻る頃天候が回復、青空が出てきました。リヨンは過去種々の技術導入などをしてはいますが、保守的な気風の町のようです。従って、様々な国籍の人達が雑多に生活するパリと較べると雰囲気がガラッと変わると言われています。しかし、フランスで有数の食通の町として知られ、有名なレストランが多いとのことです。
2003.03.28
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チェコ共和国の首都プラハは、人口およそ140万人の都市です。ボヘミヤ文化の中心地として栄え、市内には多くの歴史的建造物が残っています。赤い民家の屋根と数多くの尖塔がマッチした、その美しい佇まいは“百塔の町”とも呼ばれています。プラハの町は、中心を流れるヴルタバ川を境に東西に分かれていて、右岸地区には旧市街や観光ホテルがあり観光客がいつも多く見られます。一方、左岸地区の中心はプラハ城、大統領官邸を始め、数々の教会など見所が多いようです。 1995年10月に訪問した時は、雨の降る寒い天候となりました。翌朝、雨は上がっていたのですが曇天で寒さも続いていた様で、素晴らしい観光が出来たとは思いませんが、晩秋のヨーロッパは霧の濃い朝は普通のことだと思っています。カレル橋は町の象徴でもあり、プラハ観光の中心的役割を果たしているようです。左右の欄干には多数の聖人の石像が設置されていますが、大戦の名残なのか黒く汚れていますので、識別するのは可成り事前の知識が必要だと思います。
2003.03.24
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ルツェルンは中世の面影を留める小さく美しい湖畔の町です。町の象徴となっている木製のカペル橋、美しいフィーアヴァルトシュテッター湖(四つの森の国の湖の意味)が町の雰囲気を高めています。清涼なロイス川のカペル橋付近には白鳥が遊び、湖岸からは有名なピラトゥス山も望める素晴らしい観光都市です。古くは小さな漁村であったこの地に8世紀ザンクト・レオディガー修道院が建てられてからこの町は栄え始めたとのことです。更にザンクト・ゴッタルト峠が13世紀に開通すると、ドイツとイタリアを結ぶ商業取引の重要な積み替え地として発展したそうです。 これらの写真は1983年9月撮影したので、カペル橋は1993年焼失前のものです。ルツェルンは小さな町ですので、歩いて十分見て回れます。中世の雰囲気のある旧市街をのんびり歩き美術館や博物館を見学しながらゆっくりと過ごしたい町です。
2003.03.17
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マッターホルンの偉容を堪能するのに一番良い方法はゴルナーグラート展望台から眺めることだと思います。ツェルマット駅からゴルナーグラート・オーバランド鉄道(GOB)に乗ってラックレールの旅を約1時間弱楽しんで終点から少し登った所に展望台があります。この登山鉄道は町中から、樹木の多い森林・渓谷地帯を抜けて草原地帯に入り、更に瓦礫ばかりのアルプの世界へと様々に変化を鑑賞出来る素晴らしい旅が楽しめるのです。マッターホルンの高さは4478mで、ずば抜けて高い訳では無いのですがゴルナーグラート展望台から見ると、周りの山を従えて天空に聳える偉容が見事の一語なのです。展望台から視点を変えると、この付近のアルプスの最高峰モンテ・ローザ(4634m)が目の前に迫って見えます。眼を落とせば純白のゴルナー氷河も広がっています。この展望台は登山鉄道で行けるものとしては、スイスでは二番目に高い地点(3089m)ですが、眺望の良さから見ても最高の展望台だと思います。 此処には1983年9月に訪問しただけです。1996年は事前に天気が良くないと聞きましたので此処の見物はパスしてしまいました。3000mを越えるアルプの世界ですが、下山の際はリッフェル湖迄登山道に沿って歩いてリッフェル湖に写る逆さマッターホルンも鑑賞してから、登山電車にて乗って下さい。
2003.03.15
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スイスで最も日本人旅行者に人気の高いアルペン・リゾートとして知られていますし、日本語で宿を紹介してくれる観光案内所も整備されています。4000m級のアルプス山塊、アイガー、ヴェッターホルンの麓に広がるなだらかな傾斜地に位置する人口僅か3500人の町ですが、あまりに人気が高いので豪華なホテルやシャレーが建ち並び過ぎているとも思っています。しかし、この町からは本当に美しいヨーロッパアルプスの山塊が堪能出来ます。町の中心街からも切り立つ岩壁の目立つヴェッターホルンはよく見えますし、リフトに乗って丘陵地帯に登ればベルナー・オーバランドのアルプスが一望出来るのです。 1983年9月に訪問した時は、少しもやってはいましたが快晴でしたので、アルプスの美しさを堪能出来ました。1996年8月に再訪した時は、低く雲が立ちこめ全ての山が中腹からは雲海の中で見えず残念な想いをしてしまいました。グリンデルワルトは日本との結びつきも強く、長野県安曇村との姉妹村となっていますので、近年日本語の案内所も充実し、レストランでも日本語のメニューが用意される場所が多くなっている様です。ゆっくりとした滞在をして散歩・トレッキングを楽しむことが良いようです。
2003.03.14
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ピラトゥス山に登ると言っても登山電車を利用して行くのです。ルツェルンからほど遠くない所にピラトゥス山登山鉄道駅はありました。この登山鉄道は世界一の急勾配で知られています。赤い色の電車は当初森の中を急勾配で登って行きます。その後誰も降りない途中駅を過ぎると、草地に岩が混じるようになり、その後蛾々たる岩塊の中を登って行きます。登山鉄道の終点はピラトゥス東峰エーゼル峰(2120m)の直下にあります。1983年9月末の天気の良い日に訪問しました。途中からもやった感じとなりましたので下がはっきりとは見えないもですが、そこから突き出た山々は綺麗に見ることが出来ました。山頂は広くありませんが、手すり付きの散歩道が整備されています。ルツェルン市街・フィーアヴァルトシュテッテ湖は北東眼下に、アルプス連峰は南側に見渡すことが出来ます。旅行ガイドブック類を見ても、この山頂から写真は殆どがもやった状態が多いのでルツェルン市街からのスモッグが此処の谷間に停留しているかも知れません。観光の国スイスでも、人間生活の影響が豊かな自然を汚しているのを見ると、これからよほど地球環境保護に力を入れないと後生に美しい自然を残せないと思います。
2003.03.13
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レマン湖畔のモントルーから少し南東に行った所にエーグル(Aigle)と言う小さな町があります。 そこから山道に入って行きますとディアブルレ(Diablerets)と言う小さな村があります。ディアブルレは小さな悪魔達と言う意味なので地名として珍しいと思いますが、名の知られたアルペンリゾートだと言うことです。集落の外れからゴンドラリフトがあって、ディアブルレ氷河に行くことが出来るので、夏スキーのメッカとなっています。又、カナダのコロンビア大氷原の雪上車程大きくはありませんが、スノーバスと呼ばれる雪上車で氷河上を回って呉れるそうです。1996年8月に訪問した時は生憎の雨となり、二日間肌寒くディアブルレ氷河には行く気が起きませんでした。雨上がりの午前中の宴会と、夕方エーグル城での宴会を見て下さい!エーグル城は町はずれの葡萄畑の中に造られている古城です。宴会を城内の中庭で行うには小さすぎた様でしたので、場外でロシア人達とロシア語で“カチューシャ”を熱唱した楽しい思い出があります。
2003.03.08
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ピンポイントでルーブル美術館を見学・鑑賞しましたが、既に午後となりました。ホテル・サンラザラールの集合時間は午後4時ですので、もうそれ程市内見学時間は残っていません。再び、地下鉄に乗って凱旋門迄行って見ました。道案内に迷ったのか中央のロータリー広場には出ませんでしたが、天気もも良くないので、上に登る気にもなりません。シャンゼリゼー大通りをコンコルド広場に向かって歩き、セーヌに掛かる橋で最も美しいと言われるアレキサンダー三世橋を渡って見ることにしました。橋を渡って、ナポレオンの遺体を安置していることで知られているアンバリッド(廃兵院)のドーム屋根が黄金色に輝いているのが見えました。しかし、見学する時間は無さそうなので諦めてホテルに引き返すことにしました。天候が回復して来て、アレキサンダー三世橋が陽に当たって綺麗になりました。1900年のパリ万博以来展示場として使われているガラスと鉄骨の構造物のグラン・パレは遠くから見る方が良さそうです。ホテルで荷物を受け取り、ドゴール空港に着いて空港ロビーでくつろぐ頃は快晴となっていた様に思います。1991年3月は湾岸戦争直後で海外旅行が自粛されていましたので空いていました。今回のイラクへの武力行使が行われないように祈るばかりです。イラクが武器を隠しているのは確かでしょうが、米国・英国はあまりに好戦的だと思っています。
2003.03.06
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地下鉄から出てくるとセーヌ河畔でした。シテ島のノートルダム寺院が見えていましたので、ルーブル美術館は近くの対岸にありますので歩いて行くことにしました。しかし、ルーブル宮の東端からは入ることが出来ませんので、リボリ通りまで出て西に向かって入口を探す他ありません。コメディ・フランセーズの本拠地パレ・ロワイアルを過ぎてようやく、ルーブル宮に入ることが出来ました。雨は上がったようでしたが、曇天でした。ピラミッド形のガラスで出来た入口には人が並んでいました。観光客の少ない季節でも此処だけは混雑しているようです。8年振りのルーブルは様変わりしていました。案内所が充実して各国語の案内書が整備されていますし、館内も展示物毎の翼が分かり易くなっています。最も展示物が多すぎて、キチンと整理されていると言うよりも、これでもかと収蔵物の多さを誇っている様に感じられました。見たいポイントを決めて置かないと時間が幾らあっても足りません。この時はダヴィンチの三点とミロのビーナスを鑑賞出来れば良いと言うことにしました。中でも微笑を浮かべながら天を指差す聖ヨハネ像を目指して行き、幸いに見ることが出来ました。何故このようなモチーフを選んだのかは解説書も無いので分かりませんでした!
2003.02.24
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ホテルはサン・サラザール駅の近くのホテル・サラザールに泊まりました。この日は日本に帰国するのですが、出発は夕方ですので、朝9時にチェックアウトして荷物をロビーで預かって貰い市内見物に出掛けることにしました。雨模様なのでホテルの売店で雨傘を買って出発です。 サン・サラザール駅からオペラ座を通ってコンコルド広場に出て、そこから地下鉄に乗ってパリッ子に人気のあるリュクサンブール市民公園に行って見ることにしました。朝10時にもなっていませんので、コンコルド広場にも観光客は殆どいませんでした。雨も止んではいたのですが、遠くにあるエッフェル塔などは霞んで見えていました。地下鉄でこの辺だろうと思って降り、市街地の中をリュクサンブール公園に着きましたが、緑も少ないこの時期は市民の人達の散策する姿も疎らでした。1991年3月は湾岸戦争が終わった直後で、行き帰りの飛行機もガラガラに空いていました。政府からの海外渡航自粛も解除されていましたが、まだまだパック旅行団体が戻っていない時でした。1960年代、ジャン・ポール・サルトル氏などが口角泡を飛ばして論争したというサンジェルマン・デ・プレと言う所まで歩いて行きました。サンジェルマン大通りに出たのですが、案内書も無いのでそれらしき喫茶店も見あたりません。時代が過ぎ去ってしまったのだろうと思いました。仕方なく、他の場所に移動することにし、地下鉄に乗りました。
2003.02.23
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ザルツブルクは古くから塩の産地として、又ドイツ・イタリアを結ぶ主要交通路として重要な土地でしたので、オーストリアで最も早くからローマ文化とカトリック教の洗礼を受けて来ました。ローマカトリック教会は司教座を此処ザルツブルクに置いて領地経営もさせて来ましたので、アルプスの北に位置する教会としては最も権威ある聖堂の様です。起源は744年聖ビルギリウスが聖堂として創建し、その後ロマネスク様式、ルネサンス様式に改装された歴史を持つようですが第二次世界大戦の爆撃で破壊されてしまいました。現在の建物は1959年に修復されたものですが、ウィーンのシュテファン寺院同様に、内部が極めて明るくなるように設計されています。1995年10月に訪問した時の写真をご覧下さい!フラッシュ無しの撮影でも十分に撮れたと思います。大聖堂の正面びはドーム広場があり、広い美しい広場となっています。ドーム正面には1771年に造られたマリア像があり、画家達が描いた絵など展示即売させています。その時のザルツブルク散策風景は下記を見て下さい。10月になると天候は安定しているのですが、朝晩の霧が深くひどい時には20メートル先も覚束ない状況になります。但し、日中は素晴らしい晴天を満喫できます。
2003.02.15
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ザルツブルクは中規模の町ですが、歴史的な旧市街は雰囲気的にはモーツアルト一色です。飛躍を望んだモーツアルトにとっては、活動するには舞台が小さすぎると共に、この地を取り仕切るコロレド大司教との折り合いも悪く、25才にして辞職状を叩きつけてウィーンに去って行ってしまったのです。しかし、此処を訪れる観光客にとっては、清冷なザルツァッハ川沿いを散歩してモーツアルトの生家、その後移り住んだ家を見学して、ミラベル宮殿などをゆっくりと鑑賞出来ますので人気が高いのです。毎年7月にはモーツアルトを記念したザルツブルク音楽祭が祝祭劇場で催され、世界中から愛好家が訪問して来ますのでホテルは全て満杯となるそうです。又カリスマ的指揮者のカラヤンが育ち、活躍し終焉の地ともなったザルツブルクは音楽愛好家が是非とも訪れたい場所ともなっています。美しい高原の湖が散在するオーストリア湖水地方“ザルツカンマーグート”も近く、映画「サウンド・オブ・ミュージック」の舞台としても知られ、それに因んだ観光バスも多く運行されています。2000年5月に訪問した際の朝の散歩風景をご覧下さい!朝早いと混雑を極める観光客の姿も殆ど無く、ゆっくりと散歩が出来るのです。多分、何度訪問しても旅の雰囲気が満喫出来、又来てみたいと思わさせる不思議な町でもあるようです。
2003.02.13
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ウィーンのシンボルの一つであるステファン寺院は、国立劇場横から始まる国ケルントナー通りにあります。此処は町の中心街となっている歩行者天国でもあります。教会の周囲に広場を大きく設けていませんが、有名ブランドの店も多く観光客でごった返しています。教会の全体写真を撮影するのは難しく、広角レンズ等を準備しておく必要があります。一際目立つモザイク模様の屋根は第二次世界大戦で焼け落ちた屋根を修復する際に施されたもので、古くからのものとは違うようですがよく目立ちます。普通、教会の尖塔は前面の位置に建設されるのですが、ステファン寺院では側面に設置されています。建設開始が12世紀中頃とのことですが、その当時既にケルントナー通りがあってそうした設計となったのかは経緯を確認していないので分かりませんが、その137mの尖塔が前面部に無いので採光が自由に出来たことで、教会内部が明るいのです。尖塔が前面にある、ドイツのケルン大聖堂、イギリスのウェストミンスター寺院などは、中に入った途端は暗闇に眼がなかなか馴染めませんが、ステファン寺院ではそんなことはありません。側面窓がステンドグラスで無く、通常の透明ガラスになっている為かも知れませんが、パイプオルガンのパイプも外光に当たっているので、よく鑑賞出来るのです。1995年10月中旬の天気の良い日に訪問しました。このペスト記念塔もケルントナー通りにあってステファン寺院から近い所にあります。ケルントナー通りは、夜になっても賑わいは衰えず、ストリート音楽家も出て来て色々なことを催しています。。レストランに出掛けた帰りには、通りをぶらついて楽しんで下さい。
2003.02.09
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ヨーロッパ大陸の北部は、天気の良くない冬が長く、目映い光が乏しい季節となります。そのせいかどうかは調べていませんが、北部にある教会には微細な光を使って、美しい祭壇画を創り上げようとステンドグラスが発達した様です。確かに、明るい光に恵まれたイタリアの教会では、ステンドグラスよりも、フレスコ画が発達した様な感じがします。有名なバチカンのシスティーナ礼拝堂では、素晴らしい壁画で飾られていますが、これは光がいつも溢れているのではっきりと見ることが出来るのです。ステンドグラスの美しい教会となると、ドイツにあるケルン大聖堂、パリ郊外の世界遺産シャルトル大聖堂が有名です。又、パリ市内にあるノートルダム寺院の側壁の丸窓は“薔薇窓”として極彩色の美しい幾何学文様で有名です。何回かパリに滞在したことはあるのですが、シャルトル迄は電車で1時間程掛かりますので、行ったことが無いのは残念です。 ケルン大聖堂、ノートルダム寺院等のステンドグラスをご覧下さい!これらはASA400のフィルムで撮影したのですが、光量が不足して上手く撮れていません。この頃のデジカメはASA1600迄対応していますので、もっと鮮明な写真が出来ると思いますので訪問する方は試して見て下さい。旧約および新約聖書を良く把握していれば、ステンドグラスが何を表現しているのか理解出来るのだとは思います。しかしながら、暗闇に浮かぶ光の芸術を鑑賞しつつ、堂内からパイプオルガンなり賛美歌合唱なりの音楽を耳にすると、なにがしか荘厳な雰囲気に浸ることが出来るのは確かなことです。ノートルダム寺院で聞こえたアベ・マリア、ウルム大聖堂で聞こえたバッハのオルガン曲などは今でも忘れることはありません。
2003.01.29
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ガムラスタン(旧市街)は、西からのメーラレン湖の流れが東のバルト海と出会う地点に浮かぶ小さな島で、ストックホルム発祥の地です。その後南北に発達し、現在ではストックホルムは14の島から市街地が構成されているようです。ストックホルムには1998年6月に訪問し、4泊しましたが到着した日以外は、生憎雨にたたられてしまいました。北のベニスと呼ばれる美しい市街地を十分に堪能出来無かったのは残念ですが、まあこれも旅の一コマと思えば良いとします。北緯60度に位置する地点では、6月でも白夜となりませんが真夜中になっても漆黒の夜の帳が降りず、ぼんやりと薄暗い感じの夜だったのは初めての不思議な経験でした。 到着した日は天気の良い午後に恵まれましたので、ガムラスタン(旧市街)迄の散歩を楽しみましたので、ご覧下さい!画像は翌日の雨中の市内観光の一枚です。その後雨がひどくなり翌々日は土砂降りとなりました。ガムラスタン(旧市街)へ市中心部から行くには、旧通りと思われるドロットニングガータンを真っ直ぐ南下して進みます。この通りは土産物屋さんも多く、通りは各種の旗で満艦飾で飾られています。小さな橋を渡りますと、国会議事堂のあるヘンゲアンスホルメン島(聖なる魂の島の意味だそうです)を経て、王宮・大聖堂のあるガムラスタン(旧市街)に到着します。バルト海側の岸壁からはノーベル賞受賞者の滞在するグランドホテル、国立美術館を含め、美しい海と島の風景が楽しめます。
2003.01.27
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ボイマンス美術館はオランダ最大の貿易港ロッテルダムにあります。訪問したのは1999年3月でしたが、寒い雨の日でした。三日前にアムステルダムに泊まった時は雪が降っていましたが、その翌日は天候が回復し、海岸のリゾート地であるスヘフェニンゲンに二泊して帰国する日となりました。飛行機は夜出発となりますので、半日のゆとりを利用してボイマンス美術館に行って見ることにしました。ロッテルダム駅で旅行トランクをロッカーに預け、駅前のデパートに行って雨傘を買い、美術館が近くにあると思い徒歩で出掛けました。歩いている内に雨風が強くなって、なかなか見つかりませんし、濡れるは寒いはで大変なことになりましたが後の祭りです。ようやく到着した時は、ほっとしましたが風邪もひいてしまった様です。そんな日だった為か、館内は入館者も少なく空いていてゆっくりと楽しめました。最も見たかったブリューゲルの「バベルの塔」の絵がある部屋には誰もおらず、ひっそりとしていたのには吃驚しました。ものすごい細密画で、人が又骸骨人間もいたと思うのですが、一心不乱に建設に従事している様子が描かれていたのです。人間の不遜を正す為に、従事した人々は飛散しバベルの塔は打ち捨てられるのですが、ブリューゲルはそれを暗雲として塔の上に漂わせ暗示している様でした。館内は撮影禁止でしたので、売店で購入した絵葉書をスキャナーでアップしましたのでご覧下さい!オランダを含むフランドル地方は油絵が発明され、フランドル派画家達が多く輩出されたので、名画が沢山残されていて不思議はありません。悲運の画家レンブラントが息子ティトスを描いた唯一の油絵も此処にあったのかと感激しました。アムステルダムの国立美術館、ゴッホ美術館と違って混雑は少ないので、数多くの名画が静かに自分と向き合いながら鑑賞出来る美術館です。
2003.01.26
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ルーブル美術館は世界最大の収蔵量を誇る美術館なので、1日なり半日なりの短期間で十分に鑑賞することは出来ません。最初に、入口で各国語の案内書を入手し自分が鑑賞したい順番を決めて、其処だけを集中的に鑑賞する必要があります。エジプト古代美術、ギリシャ・ローマ時代、東洋美術、彫刻類、王冠・壺等の美術品、家具、絵画等多種多様なのです。ルイ14世の王冠はイギリス王朝に次ぐ大きなダイアモンドが散りばめている逸品ですが、探すのは大変です。特に絵画はイタリア、スペイン、フランドル、オランダ、フランスの多数の絵画が時代別に陳列されているので、順番に見ていくと数日掛かることになってしまいます。それに加えて、入館者も非常に多く混雑が激しいのです。「モナリザ-ダヴィンチ」、「ミロのヴィーナス」の前は時間によっては団体客が来襲しますと見ることも困難となりますので、暫く様子を見る時間を取って置かなければなりません。私の場合は二回程しか入館したことはありませんが、「ミロのヴィーナス」、ダヴィンチの最後の三作、レンブラント、フェルメール、ドラクロアを集中的に見て来ました。20年程前は、日本での海外旅行ブームが来ていませんでしたのでそれ程混雑はしていませんでした。中央広場のガラスのピラミッドからの地下入口が出来てから、観光客は飛躍的に増大しているようです。1983年当時の案内書を含めて、ご覧下さい。ミロのヴィーナス付近はゆったりと見学出来たのです!
2003.01.17
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オルセー美術館は、鉄道線路も無く残っていたオルセー駅を改造して作られ、開館したのは1986年12月のことでした。ルーブル美術館とはそれ程離れていませんで、セーヌ川の対岸に位置しています。印象派以降の絵画がルーブル美術館から移されて、展示されているのが魅力です。ルーブルを含めて、通常の美術館では中世の宗教画、ルネッサンス絵画から順番に展示されているので、丹念に鑑賞して行きますと是非見たいと思っていた時代の絵に出会う頃には疲れてしまうのですが、オルセー美術館では、古典派の雄であるアングルから始まりますのでそんなことはありません。思い切り、好きな絵だけを好きな時間だけ楽しめると言う様になっている美術館なのです。その為、世界各国からの入館者は極めて多く、開館時刻前から長蛇の列となります。中学生を引率している美術の先生などが、列の中で仏語・英語なりで説明している姿も多く見られます。日本人も印象派、後期印象派については学校で教えられていることが多く、日本人入館者も多数で館内には日本語の説明書も備えられています。元々は駅舎のいう制約から、面積は広くありませんので展示は高さ方向に整備されています。ゴッホ、ゴーギャン等の後期印象派の展示室は多分駅舎の屋根の上4階か、5階に新設されているスペースに設けられています。1991年に訪問した時は、開館時間が午前中のみで二階以上は閲覧出来ない日となっていましたので、珍しく空いていました。入館料金も半額で、その時は写真撮影は出来ました。1998年再訪した時は、入館者で溢れかえっていました。その時の写真が残っていませんので、写真撮影は禁止となったのかも知れません。1991年に訪問した時の写真をご覧下さい! それにしてもアングルの名画「泉」の表面防護ガラスに室内の様子が写ってしまっています。ルーブルにあった時にはガラスは無かった様に思いますが・・
2003.01.16
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ヨーロッパの大都市は海沿いの港湾都市としてより、大河沿いの河川都市として発達している例が多い様です。最も、人類の文明の発達が、古来から川を中心に発達して来た歴史から考えると当然なのかも知れません。エジプト文明 - ナイル川メソポタミヤ文明 - チグリス・ユーフラテス川黄河文明 - 黄河インダス文明 - インダス川大河は、飲料水および生活用水の水源として利用され、且つ水利輸送として利用することで各地との交易が盛んになることで、文明が発達することが出来たのです。一方、河口近くの港湾都市は、川の水源は塩分を含んだ汽水となっているので飲料水としては別に求める必要がありました。又水利輸送手段として海上船舶は、嵐に備えて堅牢で大型である必要から、建造技術は時代を相当下がらないと確立されていなかったことから発達は遅れました。内陸の川とは言っても、ローマ中心を流れるテベレ川は水質が悪く飲料に適さない為、ローマ人は遠くの水源から水道設備を構築して供給する技術を発達させました。ローマ帝国軍が駐屯したヨーロッパ各地で彼等は病気感染を怖れて川の水源を飲料水として使用せず、水道設備を発達させたのです。ロンドンは彼等に席巻されたとは思いませんが、ロンドン付近のテームズ川は河口に近く、その水位は潮の干満によって6m程変化する様ですので、水質は汽水で飲料水として利用出来ません。水道発達後の特異な都市かも知れません。それに引き換えヨーロッパ大陸側の大都市は、殆ど大河沿いに発達しています。パリを流れるセーヌ川は、未だ中流域にあり比較的水質も良く流れは思ったより速いのです。ノートルダム寺院のあるシテ島では中州の島で流れが二分され、小川の様に狭くなっています。ドイツを代表する大河ライン川は汚染されていますが、これはローマ軍団が駐屯した時に水道設備を遺して行ったことで水源としての役割を放棄した結果だと思われます。ローレライの急流を過ぎた下流域にある、ボン、ケルン、デュッセルドルフでは悠々たる大河の様相です。フランクフルトを流れるマイン川は清流とまではいきませんが、それ程汚染されていないと思います。かえって上流のヴュルツブルクでは茶色に見える濁った小さな流れの様です。ハイデルベルクはネッカー川と丘陵地帯が良く整合された町造りがされている様です。此処の流れも綺麗に思えました。ヨーロッパ最大のドナウ川も上流域にあるアインシュタイン生誕の地ウルムでは狭く急流ですが、既に清流ではありません。丘陵地帯から山岳地帯に移動するに従って、町中に清流が確保されています。ロマンチック街道にあるランツベルクを流れるレヒ川、ザルツブルクでのザルツァッハ川は冷たい清流で清涼感を満喫出来ます。プラハを流れるブルダバ川(モルダウ)は既に大河の様相ですが、釣り人が散見されるので水質は悪くないのだと思います。プラハ城と中心街を分断している川で、カレル橋は観光のメッカとなっています。フランスのリヨンはローヌ川に沿って発達していますが、河岸丘陵の高台にはローマ帝国の駐留跡が残されている古い町です。此処も平地なので清流ではありませんが、あまり汚染はされていない様でした。ヨーロッパの都市と川の様子を数例スライドショーでご覧下さい!
2003.01.08
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一昨日、夏の湖を紹介しましたが、寒い冬には夏の美しい滝を思い起こして見るのも一興かと思います。滝の世界代表格は何と言っても米国・カナダ国境のナイアガラ滝、半分崩れ堕ちたアメリカ滝、馬蹄形のカナダ滝を上から、横から、下からと色々鑑賞できるように整備されている観光メッカです。「霧の乙女号」に乗ってカナダ滝の滝壺近くまで迫ってずぶ濡れになるのも良い思い出となります。米国ヨセミテ公園には、数多くの美しい滝があります。ネバダ滝、霧のベール滝等々ありますが、代表格はヨセミテ滝です。二段となっていて総計高さは400mに達します。カナダのバンフ国立公園付近にも美しい滝があります。ジャスパー国立公園にあるアサバスカ滝は、落差はあまり無いのですが、清流と山岳が良くマッチしている美しい滝です。バンフの隣に位置するヨッホー国立公園のタカッコー滝は訪れる人も少なく、滝壺付近に行って霧状のマイナスイオンが沢山享受することが出来ます。スイスのラウターブルンネンにあるシュタウプバッハ滝はオーバーハングした断崖から人家近くに水流が堕ちてくるので驚きます。美しい滝です。開かれた渓谷と居住地区が不思議にマッチした美しい滝です。 古い写真が多いのですが、スライドショーでご覧下さい
2003.01.06
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シオン城はレマン湖に突き出た岩場に建てられているので、遠くからだと湖に浮かんでいる様に見えます。城の前にはセントバーナード峠経由の旧イタリア街道が走っていることで、城は街道の見張り、且つ物品税・通行税を徴収する関所・要塞の役割を担っていた。この岩場には、青銅器時代から住人がいたようですが、11~13世紀に構築されたものが現在のシオン城の基点であるとされています。当初シオン司教の所有でしたが、12世紀にサボア伯爵に封地として与えられた後、大規模に改築され今日の景観を呈することとなりました。14世紀以降は牢獄として使われた忌まわしい歴史がありますが、16世紀にベルン地方のスイス人に解放され、倉庫・武器庫として使われることとなりました。19世紀には史跡復元工事が始まりましたが、英国詩人バイロンによって「シオン城の囚人」として唄われ、その名は不滅なものとなりました。それに触発されたのか、文豪ユーゴーを始め、数多くの著名な人々がシオン城を訪れ、作品に引用することになりました。 現在は城内見学コースが道順案内番号によって整備されていますので、効率良く見学が可能です。
2002.12.19
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楽聖と呼ばれるベートーベンの生家は、ライン川沿いの美しい小さな町ボンの旧市街にあります。ボンは東西ドイツ統一前の西ドイツ時代は首都として機能していた品の良い小都会ですが、あまりにこぢんまりしていた為“首都村 Hauptdorf ”等と呼ばれていたそうです。 ボン大学は昔の選帝候宮殿と主庭園がそのまま大学のキャンパスになっているのです。従って古くから大学都市、首都としての時代背景もありますので、モーツアルト一色であったザルツブルクとは違って、別にベートーベンを記念した商品はこの町にはありません。楽聖ベートーベン(1770~1827)が生まれた家は、旧市街北部のボン小通り(Bongasse)に連棟長屋の一角として残っていますが、東京月島の連棟長屋と雰囲気が同じです。父親が飲んだくれだったので貧乏な世活を送ったこともあり、ウィーン定住後は一度もボンを訪れることは無かったと言われています。玄関の扉を入るとショップ付きの案内所があり、階上には資料、肖像画、自筆の楽譜が展示してあります。中でも、彼が悩んだ難聴対策器具は相当幼稚に見えるもので、彼の時代はそのような補聴器しか出来なかったのかと可哀相に思えてきます。見学を終えて下に降りて来ると、中庭にはベートーベンの胸像がありますが、ロダンの弟子が製作したとのことでどこか“考える人”の雰囲気がある様でした。 出口はショップになっていますので、解説本・音楽CD等が売られています。チェロソナタの創始者ベートーベンの小品をフルニエとケンプの演奏でお聞き下さい!私の場合は記念にエミール・ギレリス演奏の三大ピアノソナタCDを購入しました。見学後ライン川に行ってみますと、ローレライの急流地帯は過ぎていますので、なだらかで悠揚たる大河と変化しています。河畔にはレストランもありますので、天気が良ければ屋外席でゆっくり食事を取ることも楽しますので試して下さい!
2002.12.14
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スイスからリヒテンシュタインを経て、フェルドキルヒェ(Fekdkirche)からチロル谷街道に入ります。ドイツ領のダラース(Dalaas)を通って、国境のアールベルク峠(Arlbergpass)トンネルを抜けるとオーストリアチロルとなります。所々整備が遅れた山道もありますが、オーストリアチロルの中心地インスブルックを通って、ミュンヘン-ザルツブルク高速道路に合流するまで続きます。その間、街道の南側には美しい谷が続き、時間を見つけて立ち寄ることで素晴らしい景色を堪能することが出来ます。主なものでもPaznautal、Pitztal、Otztal、Stubaital、Zillertal等が挙げられます。小さい谷は数多く存在すると思います。Talはドイツ語で、英語で言えばValley、つまり谷のことですが、有名な観光地オーバーグルグル(Obergurgl)はオッツタール(Otztal)に入って1時間もドライブしないと着かないくらい谷は深いのです。街道の北側はバイエルンアルプスの山麓になっているので、美しい高原風景が広がります。バイエルンアルプスの最高峰(2962m)はドイツ国境にあり、インスブルックからも遠くありません。Zillertalの北側に位置するアッヘン湖(Achensee)は典型的な高原の湖です。兎に角チロルは美しいのです!インスブルックから、イタリア・ドロミテ山塊、アッヘンゼー観光は下記にあります。 リヒテンシュタイン経由でオーストリア・チロルの中心地インスブルックへ
2002.12.08
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ロンドンを訪問しますとトラファルガー広場に行かれる方は多いと思います。市内観光バスの発着所でもありますし、広場には数多くの名画を展示する国立美術館もあるからです。しかし、ロンドン・トラファルガー広場の四頭のライオン像「三越」のシンボルである二頭のライオン像と兄弟であることを知っている人も多く無いと思います。明治政府は、石川島、長崎に造船所を興したのですが、明治初期には鉄製の軍艦を作る能力が無かったので、英国に軍艦「朝日」を注文したのです。それが完成して日本に納入されるに際して、トラファルガー広場のライオンの鋳型から作られて、軍艦の処女航海共々ライオン像二頭が日本に運ばれて来たのです。又、デパートの中のデパート「三越」が、「三井越後屋呉服店」で明治時代には三井グループから蔑まれ、左遷した重役陣に売却したことを知っている人は多く無いと思います。「三越」の隆盛はその後のことで、左遷された重役陣が一念発起、努力して成し遂げたのです。彼等は所謂“リストラ”にはめげなかったのです。 我々も未曾有の経済危機と悄げることなく頑張る必要があります!トラファルガー広場のネルソン提督記念塔の下に、四頭のライオン像が設置されています。ナイル河の戦い、セント・ヴィンセントの戦い、コペンハーゲンの戦い、そして有名なトラファルガーの海戦の勝利を記念しているです。今度行くことがあったら、三越と兄弟か?と良く見てあげて下さい!1991年3月に訪問した時は、湾岸戦争直後で飛行機には空席が目立ち、忙しくないので客室乗務員の方々が良く話しをして呉れました。ロンドンは冷たい雨に煙っていました。
2002.12.07
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スイスの女流作家ヨハンナ・シュピリは、隣村イェンニスに滞在しながら、マイエンフェルトと丘陵地帯を舞台とした「アルプスの少女 ハイジ」を執筆したと言われています。可憐な少女暮らしぶりを綴った小説は広く女性ファンを魅了して来ましたが、30年程前に宮崎駿監督がフジテレビのカルピス劇場にアニメとして放映したことで、一挙に人気が沸騰することになりました。マイエンフェルトはスイス・オーストリア国境にある人口2000人弱の小さな村で取り立てて観光スポットも無いのですが、世界一の小国リヒテンシュタインも近いこともあって、其処を観光後、ハイジの舞台にも登場するラガーツ温泉に滞在しながらマイエンフェルトを訪れる日本人女性旅行者が多いようです。「ハイジの道(Heidi Weg)」と呼ばれる二つのハイキングコースがが作られており、一つは「オレンジコース(Kleiner Heidi Weg)」で所要時間1時間半の平坦で近年作られたハイジの泉を巡るコースです。もう一つは、「緑のコース(Grosser Heidi Weg)」で、山羊飼いペーターの家、ハイジの牧場・山小屋、イェンニス村、シュピリの散歩道を巡る所要時間4時間半のコースです。何れのコースも登山靴は不要ですが、緑コースでは舗装のない林道・草むらを歩きますのでウォーキングシューズ程度はあった方が良いと思います。2000年5月での体験記です。残念ながら、着いた日は快晴で美しい山が楽しめたのですが、翌日のトレッキングではハイジの山小屋付近で雨に見舞われ良い眺望を満喫は出来ませんでした。
2002.12.03
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1989年のイタリアへの旅写真紀行文です。その頃までの旅紀行は数多い写真が入れられているのは珍しかったのです。10年後のインターネット時代を先取りした画像・文章の融合を目指した作者の時代感覚が時宜を得たものとなっています。写真を入れた文学は古寺巡礼も含めて名著があるのですが、絵画、寺院、彫刻と言った分野で、なかなか文章では表現しにくいものを提示することが目的だったのでした。作者の辻邦生氏は、あとがきで次のように述べています。「今度のイタリアの旅で僕は初めて素直にの中に自分を解き放つことが出来たような気がする。旅は魂を昂揚させる貴重な機会であり、詩を読んだり。音楽を聴いたりするのと同じ働きをする。特に今度の旅ではをその場の即興的印象として書き留めた。その上ふんだんに堀本氏の写真を入れて貰ったので、本と言う空間に、イタリアの夏がそっくり入っているような感じになったのは嬉しい。」辻邦生(1926~1999) 東大仏文科卒。1957年、フランス・パリ大学に留学、ギリシャに旅行してパルテノン神殿に接したのを機会に強い創作衝動に駆られて作家生活に入った。 帰国後の1963年、長編小説「廻廊にて」で近代文学賞を受賞。死の影を帯びた滅びの感覚と永遠性の希求と言うことが、その後の辻文学独自のテーマとなった。 1968年「安土往還記」で芸術選奨新人賞を、1972年には「背教者ユリアヌス」で毎日芸術賞を受賞し、以後、歴史の転換期を生きる人物に新たな光を与え、人間存在の本質を鋭く探る独特の歴史小説を次々と発表した。 1995年「背教者ユリアヌス」などイタリアゆかりの小説を発表した功績で、イタリア政府から功労勲章を贈られた。同年、西行の生涯を描いた「西行花伝」で谷崎潤一郎賞を受賞。書き出しから暫くすると、こんな文章に出会います。「何故イタリアにいると幸福になれるのだろう。スタンダールに惹かれた時期があったからだろうか。彼はイタリアに惚れ込んだ人で、領事をしながら「赤と黒」「パルムの僧院」を書き、墓碑銘に「ミラノの人」と彫らせた程である。「書くことが最大の快楽」と言っていたこの作家に言い知れぬ共感を覚えていた。僕も書くことが最大の快楽なのである。」まるで、霧深い北部の人ゲーテ、カロッサがイタリア行きを望んだような息吹きを持って紀行文を連ねて行きます。中部イタリアとシシリー島で作者自身の「旅は幸福への奇跡的な治癒薬になりはしないか」との思いもあって・・存命していれば、このジャンルにも数多い相当な足跡を残したであろうと考えると、残念でなりません。
2002.11.26
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1992年新潮社から刊行された饗庭氏著「幻想の都市」からの抜粋です。プラハ城の基礎は、スラブ系の民族王朝プシェミスハル家によって9世紀に建てられるが長くは続かず絶えてしまい、他民族の支配を受けることになった。ドイツ皇帝家系のルクセンブルク家が取って代わり、2代目のカレル(1346-1378)に至っては神聖ローマ帝国の首都にもなった。その後、1512年以来、ウィーンのハプスブルク家のドイツ化支配が始まり、1918年のオーストリア-ハンガリー帝国の崩壊までその支配は続いたのである。従って、人口比にすればドイツ系住民の比率は圧倒的に小さく、大多数を占める被支配階級のチェコ系住民にとって、プラハ城は愛憎のこもる歴史の象徴となったことは否めない。少数の民族にはドイツ人以外に、カフカもその一人であったユダヤ人がいる。歴史の過程でドイツ系ユダヤ人が増大し、富裕なものは新市街に住み、そうでないものは旧市街のユダヤ人ゲットーに暮らすこととなった。彼等は、若干の例外を除けばチェコ系住民から陰に陽に憎まれていたことに変わりは無い。その意味ではドイツ系ユダヤ人が最も嫌悪されたのである。つまり、支配者のドイツ語を話す上に、本来的なユダヤ人蔑視がそこに加わっていたからであった。1880年以降はチェコ民族運動による緊張によってユダヤ系以外のドイツ人が流出し、ナチスがプラハ占領した1939年には、総人口100万の内、ドイツ系はわずか6万人であったと言う。この町はバロック様式の建物で満ちているが、ウィーンとは異なりハプスブルク家の権力の中心になったことは無い。1402年、ベトレヘム礼拝堂の説教師となったヤン・フスによるチェコ語の説教と免罪符の拒否に端を発したフス派宗教革命とカトリックの抗争、結果としてのプロテスタント排除がきっかけとなって、ハプスブルク家によるドイツ化とイエズス会の発展が、プラハの町にバロック様式をみなぎらせたのだ。ルネッサンスからマニエリスムを飛び越えて一足飛びにバロックになったのである。ボヘミヤ音楽を世界に広めたドボルザークやスメタナには記念館があるのですが、文学にて同等若しくはそれ以上の足跡を残したカフカやリルケには何一つ無いプラハの今日はどうなって行くのだろう。リルケは民族を超える芸術の意味を語っており、それはチェコ、ドイツ、ユダヤ系を越えた精神の「別の国」に内面を高める意義をもっており、プラハの都市発展の意思を見ることが出来ると思われる。プラハの春からの30年の長い期間の弾圧を経て、自由主義国家チェコ共和国の首都プラハは建設ラッシュに燃えている。貴族の家と思われる住宅もホテルに改造される等、資本主義への移行が急展開中です。北大西洋条約機構(NATO)にも加盟して、経済発展が期待されている。2002年の100振りの洪水災害にも拘わらず、その方向は変わりようが無いと思われます。しかし、リルケの言う「芸術が抵抗によって生き、自由によって滅びる」がどの様に展開していくのか注目される所です。1995年10月訪問したプラハは雨上がりの冷たい時でした。
2002.11.24
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ザルツブルクは山間部への入口にある、小高い山々に囲まれ、中心に清冷な川がある美しい町です。古くから塩の産地を抱え、東西南北の何れの方面からも交通の要点であり、なかでもローマとは密接な関係でローマ教皇によって任命された大司教が宮廷から町を統治するという宗教的な雰囲気であったと言うから、北のローマと呼ばれ、ウィーン及び近隣のドイツ都市とは違って極めてイタリア的でもあった様です。ドイツ語圏にあるにも拘わらず、明るいイタリア雰囲気の町を堪能して下さい。観光の目的となる旧市街は、新市街とは隔絶されていて、ホーエンザルツブルク城のある丘とザルツァッハ川にはさまれた狭い地域に限定されているので、半日もあれば足りる様にも思います。広い世界に羽ばたきたかったモーツアルトにとってはあまりに小さなコミュニティだったと想像も出来る筈です。夏7月は世界的行事となったザルツブルク音楽祭で、非常に混み合いますので、観光の目的では春5月、秋10月が良いと思います。その時でも音楽家集団がミラベル宮殿、ホーエンザルツブルク城で毎晩モーツアルトコンサートをしていますので、雰囲気を味わうことが出来ます。新緑の春をモーツアルトの歌の様に愛でることも楽しいし、朝霧の消えた秋の見事な錦風景の中を散策することも素晴らしいことだと思います。又ザルツカンマーグートと言う湖水地方も近くなので、高地に美しい湖が点在する所を訪問することも是非試して見て頂きたいと思います。 秋のザルツブルク旧市街は、朝晩の深い霧から午前9時頃眼を覚まし、素晴らしい風景を提供してくれます。春のザルツカンマーグートでの低山トレッキングも楽しんで下さい!
2002.11.23
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彼の代表作はロマンチック街道中の人気都市ローテンブルクの聖ヤコブ教会にあります。西側二階に設置されている“聖血祭壇”です。彼は清らかに又まるで生きている様に彫刻すると言うことで名を知られています。トーマス・マンも次のように講演の中で述べています。「私が完全な共感を覚える一人の男がいます。その名はティルマン・リーメンシュナイダーと言い、敬虔な工芸の親方、彫刻家で木彫家でしたが、彼の作品-需要が多く、多数の像を刻み込んだ祭壇像や清らかな彫刻品はドイツ全土に亘って礼拝の場所に飾られた-の誠実で表現力豊かなその手堅さによって高い名声を博していました。彼の最も身近な生活圏だったヴュルツブルクでも、人間として、市民として高い声望を克ち得て市参事会員の一人でした。生まれながらの謙虚さ、自由で平和な創造を愛する心から、政治や世間的な争い事とは縁遠い人でした。しかし、貧しい人々・圧迫された人々への共感から、領主、司教や諸侯に反抗するようになりました。その気になれば、これら上流階級の人文主義的な時代流の愛顧を勝ち取ることも容易だったのですが、共感した正義の為に犠牲にすることにしたのです。ヴュルツブルク市が“城”に対して農民抑圧戦への従軍拒否、又司教に対する革命的態度を執るようにし向けたのは、主として彼の影響力でした。彼はその為に、恐ろしい償いをしなければなりませんでした。と言うのは、農民一揆が鎮圧された後、彼が反抗した歴的勢力は残虐極まる復讐を彼に加えたのです。投獄し、拷問にかけて、“悪魔の手”を潰して、木や石から美を呼び起こすことがもはや出来ない打ちのめされた男として放逐したのです。」 マルティン・ルターがカトリックを糾弾した後“権威に従え!”と言って農民抑圧に向かったのとは大きく異なる正義の人間だったのです。
2002.11.12
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各航空会社がマイレージを貯めると無料航空券が貰えるプログラムを展開中で、旅好きの方々はどこかのプログラムに参加していると思いますが、本当にメリットがあるのでしょうか?気のつく問題点は次の三つだと思います。1)有効期間が三年間と短いこと マイレージが航空券を貰える程貯めるには三年位、掛か るので行きたい時期に使いにくい。2)権利譲渡が限られている 二親等の親族などに限られているので、家族の事情があ る時は譲渡出来ずに放棄せざるを得ない。3)往復が定められていて変更不可 往きは兎も角、帰りの便は変更自由で無いと自由な旅行 が出来ない。4)ホテル等は特典に入っていない ホテル代は通常料金ですと、恐ろしく高いので航空券の みでは安価な旅行は無理。外国系航空会社では、これらのデメリットが無いものもあるのですが、日本発世界へと言う訳には行かないので、日本系航空会社に参加しておられる方が多いと思うのです。私は従来、これらのデメリットを克服すべく、毎年夏に国内で行く所を決めて置き、無料航空券を使って来ました。理由は国内航空券は安く手に入りにくいので、海外旅行に充当するよりは遙かに得だったからです。しかし、情勢は変わって来ました。前売りの期間指定で相当の割引が適用されて来たのです。私の経験を数例:1)外国系ではストライキが突然行われる 往きは良かったのですが、旅行途中でストライキとなり ました。事前情報はありませんでした。帰りの便は他の 航空会社の通常料金だったのでとても高いものとなりま した。2)片道でも、所要マイレージが同じ これは個人的理由だったのですが、とても損をした気分 になります。3)ホテル代が高くて無料航空券代が相殺 パックツアーの人達が、同じホテルに泊まって朝食クー ポンで無料なのに、こちらは通常料金で更に朝食代数千 円払わなければならなかった。4)代替の金券が売却出来ない 数年前までは、航空券の替わりに金券も貰えました。 20000マイルで5万円の旅行券で、金券ショップに売りに 行けたのです。今は利用者指定で3万円ですので、売るこ とも出来ません。結局、安価に旅行出来るような幻想はあるのですが実際は客取り込み作戦に乗せられているだけではと思うのですが、皆さんはどう考えますか?最初に考えたユナイテド航空の担当者は偉いビジネスマンだと感心はしますが!特に海外は安価な航空券が出回っているので、行きたいと思った時に色々調査して企画するのが、最善の方法だと思うのですが・・・
2002.11.07
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古いのですが、英国旅行アップしました。スペイン・ポルトガルには行ったことがありませんので、取りあえずヨーロッパ編は終了です。楽天広場の画像制限が今後どうなるのか分かりませんが、他の無料提供HPを利用することを考えて見ましょう!Yahoo!Japan Geocitiesで12MB、 Yahoo!USA Geocitiesで15MB提供して呉れます。Yahoo!USA Geocitiesはトップページを英文で作る必要がありますが、その他のページは日本語でも大丈夫です。Yahoo!Japan Photos(30MB)、Photohighway(100MB)等は写真収蔵には良いのですが、一枚ずつ取り出して表示させるのには不便と思います!でも楽天さんの危機対応策も、竹中君の不良債権処理策と同様、ブーイングしたいですね!
2002.11.02
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画像制限があるので、別のHPに収蔵し漸くアップロードしました!ベネルックス三国はフランス、ドイツとは違って英語が良く通じるので、日本人観光客も少し安心出来ると思います。オランダには1991年3月に調査旅行として最初の訪問、アムステルダムに一泊フォレンダム観光し、北東ホーランド地方訪問後、即日ドイツのケルン市に入りました。1997年4月はライン河の川下り、レンブラント「夜警」、チューリップ公園観光を目的に二回目の訪問となりました。この時はベルギーにも足を延ばし、ブリュッセルにてフランドル派の名画も鑑賞出来ました。1998年3月は、ハーグでの業務旅行でアムステルダム、スヘフェニンゲンに各一泊、翌日の帰国前にロッテルダム美術館でブリューゲルの名画「バベルの塔」を見ることが出来ました。
2002.11.01
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大英博物館は250年前に創立された長い歴史を持つ、素晴らしい博物館です。創立時期はスペイン無敵艦隊を破ったオランダ海軍を凌駕し、世界に冠たる海洋王国として君臨した時期と一致し、ナポレオンをも駆逐したこともあって、資金と軍事力にものを言わせて収集した結果が陳列されています。古代エジプト、メソポタミア、ギリシャ文明の遺物は膨大な量で、何とまあこんなに多くエジプト、イラク、ギリシャの国宝を持ち帰れたのかと感心してしまいます。ナポレオン軍が発見した「ロセッタ石」が何故此処に陳列されているのか経緯は知りませんが・・、しかし、古代文字研究を発展させたのは大英博物館の力量があったのでしょう!アテネのパルテノン神殿の壁から剥ぎ外した、膨大なレリーフは「エルジン大理石室」として、独立展示にされています。これらの祖国復帰は無いのか?と変な想いにも駆られる程です。しかしながら、永遠の古代都市ローマは町中が博物館ですが、何とエジプトからの収奪品の多いことに驚かされますので、収奪行為は古今東西を通じて歴史の常なのかも知れません!!館内の図書館には、民主主義の基礎となった「マグナカルタ」(大憲章)の他、バッハ、ベートベンの自筆音楽原稿もあって必見です。収蔵量も莫大で、マルクス、レーニン等も持論展開をする為にこの図書館で詳しく調査したと言われています。写真撮影は特別の指示が表示されていなければ、フラッシュ撮影もOKです。
2002.10.28
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観光名所としてガイドブックに紹介されている所を訪問してがっかりしたことも多いと思います。反論はありましょうが、思いつくままに・・1.ローマ 真実の口 粗末な部屋の粗末な台の上に変哲も無い石板が置かれているだけで、歴史的意味の無いもので映画の影響で訪れると失望する。2.ブリュッセル 小便小僧 見に行くのは日本人・韓国人ばかり、小さな通路の一角にあるが分からずに通り過ぎるほどの存在。3.ニューヨーク ロックフェラーセンター 広場とも言えぬ小さな場所、クリスマスの時期でもなければ何にも無い所。テレビニュースの影響大きい。4.インスブルック 黄金の小屋根 本物は別設置で、黄金色のレプリカの屋根がある小さな広場。5.ホノルル ワイキキビーチ 砂を運んで浜を補強している小さな砂浜、ハナウマベイでゆっくりと時間を過ごしたい。6.ローマ トレビの泉 綺麗な噴水と泉の広場だが、スケールが小さいので吃驚。観光宣伝の影響が大きい。7.ハーグ マドローダム ミニュアチュアタウンとして有名だが、スケールが小さい。開園動機は理解するが子供の教育用施設。8.コペンハーゲン チボリ公園 東京の後楽園遊園地と変わらない小さな遊園地。9.ジュネーブ 聖ピエール教会 旧市街の小さな区画にあり、全容が良く分からない。まだまだ、在るとは思いますが・・
2002.10.27
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欧米での音楽会は、日本で行くことに較べ価格が数分の一となりますので大いに魅力があります。しかしながら、個人旅行をしていても、精々2~3泊程度なのでスケジュールにあった気に入る音楽会に出掛けるのは難しいのです。私の場合、記憶を辿っても回数が限られています。1989年7月 エルトン・ジョン ハリウッド野外コンサートこの時はロスアンジェルス1泊のみで、ホテルチェックインして部屋から地域案内に電話してその晩に予定されているコンサートを聞いて、チケット売り場に直行・購入した。エルトン・ジョンが1時間位現れず、前座演奏が長かった。1995年10月 モーツアルト室内楽 ホーエンザルツブルク城コンサート1泊で市内見物中に、チケット売り場の窓に宣伝が貼ってあったので購入した。ミラベル宮殿コンサートもあったが、演奏題目に惹かれて、こちらを選択。日本人のオーボエ奏者もいたので吃驚しました。コンサート後、城砦から霧の中に沈んだザルツブルクが印象的でした。1996年10月 レミゼラブル ブロードウェイミュージカル1996年10月 内田光子ピアノ ニューヨークリンカーンセンターこの時は2泊で、ミュージカルは他人が世話をしてくれたもので、自分では購入せず、チケット代を払ったのみ。 内田光子は催し物案内で見つけ、ホテルに世話を依頼したが仲介料が要るとのことで、部屋からチケットオフィスに電話予約した。この際クレジット番号を明かすとチケット事前購入は不要となり、リンカーンセンターに直接行き、そこで予約番号を言うとチケットが貰えました。
2002.10.26
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