僕は横田さんの当事者運動における行動綱領を読むまでは、「愛と正義」については、いいイメージしか持っていませんでした。
#「正義」については、「戦争はすべて正義の戦争として始まる」という意見にふれてからは、少し警戒して考えるようになっていましたが、「愛」については手放しで礼賛するところがありました。
それが、荒井さんの前作の 『差別されてる自覚はあるか 横田弘と青い芝の会「行動綱領」』
を読むことで、くつがえされました。
それは非常にショッキングであり、たくさんの「?」を僕に投げかけてきました。
だからこそ、こうやって、「?」の背景を追究しようとしています。
2冊目である 『どうして、もっと怒らないの?』
も読むことで、この行動綱領の理由が、よりはっきりと見えてきた気がします。
結局は「愛」という言葉も、とらえ方次第なのだなあと思いました。
「愛」にもいろいろな愛があり、一方的な「愛」もあります。
僕は、人間のすべての問題は、つまるところ最後は「愛」の問題に帰着するのではないかという気がしています。
その「愛」のとらえ方ひとつで、真逆に行ってしまうことがあるのを山ゆり園の事件などから感じ、恐ろしく思っています。
僕が上に引用したところの続きにも、とても印象的な言葉が多く出されていました。
僕は、そのひとつひとつにとても考えさせられました。
たとえば、
「最終的に機会を奪う親の『優しさ』」
「親が障害者を囲い込んでしまっていた」
「青い芝の会の運動って、『能力主義』にたいして徹底的に反発した」
といったことなどです。
(3つの言葉はすべてp170より)
皆さんは、どう思われるでしょうか?
横田さんは親の「愛」を糾弾した方でした。
横田さんの場合だけでなく、「子ども」を親の「愛」が縛っていることが、大人がよかれと思って勝手に判断して、子どもから主権を奪っていることが、多々あるように思います。
僕は 第1回
のときに、「 学校教育の中で、あまりにも『子ども』を客体としてとらえすぎているのではないか
」ということを書きました。
ここのところで、僕が第1回に書いたこととも、つながってくる気がしています。
僕は、子どもが問題を起こした時に、恥ずかしながら、「黙って言うことを聞いていればいい」と思ってしまうことが、たくさんありました。
大人として、親として、教師として、自分を振り返って、反省するところが、たくさんあります。
さらに、荒井さんは次の言葉も、言われています。
・結局は「健全者」にとって都合の良いかたちでなら障害者は生きていてもいいよ、ということではないか
(p171)
6/29シンポジウム「インクルーシブ教育の… 2024.05.24
矢田明恵「海外のインクルーシブ教育~フ… 2024.05.23
ADHDの子どもにとって動くことは必要! … 2024.05.16
PR
Category
Keyword Search
Free Space
Calendar
Comments