全10件 (10件中 1-10件目)
1
海の方へ久しぶりに散歩へ行きました。先日、デジカメを買い替えたのでちょっと試し撮りをと思い、肌寒い中ラガーシャツ1枚で出かけました。風が少しありましたが全然寒くなかった。そこで1枚築港の先端に佇んでいたサギですかね、近くに寄っても逃げない大物でした。 こういう路地を抜けて 田舎に住んでいると、チョットの距離でも車で移動してしまうので歩く癖を忘れないようにしないと。家の前の兄さん(10歳上)なんて煙草を買いに行くのに100mもないのに車で行っていました。そのお蔭か糖尿になってしまいましたが。 これも久しぶりに猫の写真これが本人の枕なのです。
2014年11月07日
コメント(0)
昔を思い出しつつ散歩しています。この三津という松山の小さな町。あらためて歩いてみると、色々思い出すことが出来面白い。今日はこの小さな町の中に醤油屋が4軒あります。1軒目は丸木醤油レトロ感がある汚い文字で書かれた告知が何ともいえません。2軒目は遠藤醤油向こうの白壁の蔵がある建物ここは同級生です。3軒目は村要本店 4軒目は田中屋ここも同級生の実家になりますもう一軒あったように記憶していますが現在は跡形がないのでわかりません。記憶違いかもしれません。我が家はこの4軒ではなく丸金醤油(香川県)を使っていました。母親なりにこだわりがあったことと思います。 歩いていてこの建物を見て思い出しました。現在は愛媛FAZになっている場所は昭和45年ころまで運転免許センターがあり松山西警察署が現在の場所の裏通りこの建物側にあったのです。同じような看板を出した店がこの通りには多くあったのを思い出しました。40年以上経つのにまだ当時の名残がある建物があること自体田舎なのだと実感します。
2013年08月01日
コメント(0)
近所を散歩してみました。先日Amazonに3冊注文しましたが、昨日もう一冊注文しました。「東京版アーカイブス-あの頃のニュース」発掘泉さんの本を読んでいて、ちょっと違うなぁと思う部分があります。育った環境が違う。海の近くで育った私などの遊びのフィールドは海が中心で、昆虫採集よりは魚釣り。アサリやごかい(魚釣りのエサ)掘りなんです。昭和30年代まではここは干潮の時砂浜になっていました。数年前無くなってしまいましたが、昭和40年頃徳山セメントの工場が出来て船が着岸するため砂浜を掘り起こしてしまったのです。徳山セメント跡 小学校の近辺を何十年か振りに歩いてみました。我が家から300mくらいの位置にあります。文具屋がまだありました。小学校の東側の裏門ここを出て角に郵便局がありますが、全校朝礼のあと行進して帰る際抜け出て記念切手の発売日は切手を買いに行っていました。全校生徒が1200人位いたので外へ出ても目立たなかったのです。まだ昭和30年代が残っています。フェリー乗り場のほうへいってみました。港の玄関口のビルが取り壊されていました。このビルです。柳井からのフェリーが入港してきたところでした。昭和40年代までは広島行きのフェリーや水中翼船が頻繁に出入りしていましたが、廃線になり寂れた港になってしまいました。昭和30年代、40年代は元気な町でした。近くの商店街も元気で、その中にレコード屋も2軒あり、町まで行かなくてもほとんどのものが揃いました。そう言えばまだ銭湯も残っていました。(因みに同級生の家)当時は町内に十数軒ありましたが、多分残っているのはここ1軒だけだと思います。泉さんの本にルンビニーという名の幼稚園が出てきますが、私が通っていた幼稚園がルンビニ幼稚園という名前でした。ここのお寺がやっていたのです。 子供の頃と比べると距離感が違う。背が高くなった分、目線の高さが違うからでしょう。
2013年07月09日
コメント(0)
今月は忙しく、まだ1日しか休んでいません。毎年6月下旬から8月の初めまで別部門の仕事をしなければなりません。冬も11月下旬から12月下旬までその仕事をしなければならず、この間はほとんど休めません。今日は少し早く帰って夕食を食べて風呂を上がると、妻が玄関で誰かと話しているので何かと思い玄関に行くとどうも刑事さんらしく、近所で独居老人宅へ3人組の強盗が入ったらしいのです。老人を後ろ手に縛って逃走したみたいです。そこまでしか話してくれないので、どうなったのかは解らないのですが。年齢が40から50代だそうで、一応私も容疑者です。近所でそんなことをしそうなやつに心当たりがないかと言われても、この辺りもマンションなどが増えて誰が住んでいるかわからないし、まして近所の人間が近所に強盗に入るかと刑事さんには言いました。仕事も大分落着いてきたので今週からはやっと休めそうです。
2009年07月19日
コメント(0)
現在、午後9時30分ですが、雷の音がだんだんと近づいてきます。しばらく雨が降っていないので、ちょうどいいのですが。ということで、花火大会があることを思い出しました。今年も8月10日日曜日に三津浜花火大会があります。我が家の猫には大変迷惑なイベントで、花火が上がりはじめるとどこに隠れるのか姿が見えなくなります。この日だけは車での外出は控えなければなりません。帰れなくなりますから。大会概要を見ていると、15号玉が打つあげられるそうで、花火にはあまり興味はないのですが、これだけは楽しみです。15号玉は直径45cm重量35kg高さ500mまで上がり400mを超えるくらい開くそうです。ただ猫がねェ。そう云えば、もうスグ伊予鉄三津駅が取り壊されるそうです。新しい駅舎はこうなるそうです。新しい駅舎時代は変わってゆくということでしょうね。
2008年08月06日
コメント(0)
先週の休みに町を歩いて写真撮りました。今朝、2階のキッチンの窓から外を眺めていて、私が生まれる前から存在する家とマンションがうまく溶け込んでいると感じ写真を撮ってみました。同じアングルなのですが、3階ベランダからの景色とは全然違う生活観を感じます。東西に家が並んで建っているため、南端の家以外は自然の光が不足してしまいます。ということで、古い屋根に天窓が施され、光を家の中へ取入れる工夫がなされています。建て替える前の我が家も東西に細長い家で南側は隣の家とひっついていました。そのため、取り壊しにはかなり苦労しました。我が家を取り壊したため、隣の家の土壁がむきだしになったのです。 現在80歳過ぎだと思うその隣のおばさんと、この書き込みを中断してノラ猫にエサをやりに外へ出ると会いました。 不思議なことに3級下の幼なじみが町内の世話役をしているのですが、子供時代は殆ど外で遊んだことがなく、子供同士の交流も当然ありませんでした。本当は子供の時、みんなと遊びたかったのかもしれません。今ではそれなりにこなしていますから。毎年1回、町別のソフトボール大会に参加したことがありますが、昔の懐かしい顔はほとんど参加していないのです。2年間だけ参加して止めました。生家を離れて違う町へ行った人の方が多いと思うのですが、この地区に残っているのもたくさんいます。 ただ、顔だけ知ってる先輩などは今頃どうしているのだろうと、この写真を撮って思ったのです。
2006年09月12日
コメント(0)
生まれ育った町をあらためて歩くというのも悪くありません。今朝の新聞記事がきっかけで、写真を撮って残しておこうと思ったのです。 愛媛県松山市 伊予鉄・三津駅駅舎全景です駅の内部駅の裏側あらためて見て、レトロというよりは廃屋に近いボロボロの建物です。伊予鉄が新駅舎を検討しているのが納得できました。地元住民は情緒的な感情だけの意見ですからお話になりません。地元住民として建て替えに賛成だと思いました。駅から見た三津浜商店街方向です今は商店街から駅にかかる橋の工事中です。今更橋を広げてどうするのでしょう。子供の頃、町へ行く時は、今はなき商店街のアーケード下を歩いて駅まで行っていました。アーケードもなくなって、殆どシャッターが降りています。昔は、年末や夏の土曜夜市などは前に歩けないほどの人通りがあったとは、、、感慨深い。 路地路地の中には、こういう古い建物が残っています。こういうのを見ていると、昭和30年、40年代を感じます。路地とは言わずせこと言っていました。「そこのせこを入ったところ」などと使っていました。長い間歩かない道なので、こういうのが出来ていたのは知りませんでした。内港には漁船がいっぱい停泊しています。古さと新しさが混在している町なのです。
2006年09月05日
コメント(6)
仕事を終えて帰ると、山口の友人からハガキが届いていました。「仕事をやめ田舎へ帰ってきました。」という内容でした。中学が同じで、浪人時代お互い宅浪をしていて再会し同じ大学になり下宿も4年間一緒でした。お父さんの仕事の関係で山口県から中学時代転校して来たのです。今時ハガキなのです。電話で済ましてしまう昨今ハガキは新鮮でした。字は大変下手なのですが。書き出しが「拝啓 風に秋を感じる候 ますますご健勝のこととお喜び申し上げます」とあり候がちょっと気になりましたが、小さなことはまぁまぁまぁ、、、。最後に「元気なうちに一度松山にも行ってみたいです。その時はよろしくお願いします。敬具」で締めくくられていました。昔から硬派でもっと気楽に書けばいいのに、と私のようなコンニャクみたいに柔かい軟派人間は思ってしまうのです。この友人には、いろいろな面で助けてもらったので、いつも感謝の念でいっぱいなのです。昔は手紙とかハガキは日常当たり前の伝達手段でしたが、現在では非日常なものになりつつあります。私の従姉弟が母親に絵手紙を殆ど毎日数年間出し続けていますが、現在ではそれが珍しく、ローカルのテレビや新聞に取り上げられています。緊急なものは別として、手軽なハガキを見直したいと思いました。
2006年09月04日
コメント(4)
まだ、昔の面影は残していますが、マンションが増え町並みは変りつつあります。ここも過疎と小子化の影響で子供の数が激減しています。我が家から撮った写真です。北西方向で、この先にフェリー乗り場があります。北東方向です。古い屋根の向こうに14階建ての結構大きいマンションがあります。緑がありますが、ある家の裏庭になります。町中にはほとんど緑はありませんから。東方向になります。この先にも古い町の中に14階建てのマンションが目立ちます。松山は規制があるのでしょうか、14階なのです。この先に三津浜商店街、私鉄の伊予鉄三津駅があります。南東方向になります。こちらも古い屋根の中に目立ってマンションがあります。これも14階なのです。後に見えているのも14階なのです。この先にはJR三津浜駅があります。又、道後温泉や松山城や繁華街はこの方角になります。南方向になります。この方角には松山市の支所と小学校と中学校があります。南西方向になります。この方向に松山空港があります。車で7分くらいの距離です。西方向です。直線距離としては200m先が海です。松山の中心地からすれば郊外となりますが、昔はサブ的な地域として商店街なども賑っていました。前にも書きましたが、私が小学校へ入学した昭和35年当時全校生徒は1800人くらいいたものが卒業時は1200人くらいになりました。現在、小学校は1学年2クラスしかありません。それも1クラスの人数が少なく過疎を象徴しています。今後、この古い町並みも新しい家に替わり替わってしまうのでしょう。
2006年08月30日
コメント(0)
今日は私の住む町について写真を撮ってきました。MacWin1954さんのようにキレイに撮れれば、写真を写すという楽しみも拡がるのでしょうが。これは図書館の前です。もう終わってしまいましたが、「がんばっていきまっしょい」というテレビドラマがありましたが、その時の主人公の実家として使った家です。この辺りはドラマなどの撮影では舞台になることがあります。今はやっていませんが、近所の医院です。いつ頃の建物かは不明ですが、恐らく、当時はモダンな建物だったと想像出来ます。氷屋さんでした。今はやっていません。前掛けをしたおじさんが自転車の後に氷を積んで配達していたのが浮かびます。これは醤油屋です。右の建物です。何の関係かは知りませんがこの町には醤油屋が何軒かあります。ここは、今でも醤油を作っています。三津浜銀天街と言って商店街です。長さは350mほどです。ほとんど営業はやっていません。以前はアーケードがあったのですが、2年ほど前老朽化したため全部撤去してしまいました。寂れ行く町を写真に撮っていると、時代の流れ、空気感の違いを感じます。昔は、この辺りはこんなニオイがしていたのにとか。子供たちの声(自分も含めて)がいたるところでしていたのに、今はひっそりと静まりかえっています。そういえば、時代劇が好きになりました。自分も変っているのですね。
2006年06月27日
コメント(4)
全10件 (10件中 1-10件目)
1