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ずっと忠をただしだと思っていた。神田川がヒットした年、二十歳であった。3畳一間の大きな下宿の近くにあった銭湯へ、「赤い手拭 マフラーにして・・・」と歌いながら歩いて行ったのをいまでも覚えている。1974年1月10日初版 620円そういえば、このころは1974年5月10日第1版発行 690円帯は吉田拓郎の文章が発行されフォーク関連の全盛期であったと思います。これはちょっと前の本ですが、昭和46年9月30日初版 590円 雑誌ではガッツ 1972年7月号 200円これは遠藤賢司の3ページと吉田拓郎の記事が2ページだけだったけど買ったと思う。泉谷しげるの方がページ数が多いけど、泉谷はどうでも良かった。結局、泉谷は春夏秋冬がヒットした一発歌手で、今でもメディアに出ているのが不思議なくらい。喜多條さんと岡本おさみさんは特に想い出深い。久しぶりに、今日はお二人の作詞した曲でも聴くかな。岡本おさみさんの詞で特に好きなのは、吉田拓郎のLP「伽草子」の中の制服という曲。気持ちだけ73、74年に戻ろうかな。
2021年12月01日
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梓みちよさんが亡くなった報道を目にしました。従兄が大学を卒業して就職したのがワタナベプロで、最初梓みちよさんの運転手だったそうです。従兄の母親の弟がワタナベプロにいた関係で就職したのだとは思いますが。もうこの頃には付き合いがなかったので、親戚か親の話だったと記憶しています。結婚式の時も、梓みちよさんのお母さんまで出席していたそうです。ただ、その後いつか不明ですが、ワタナベプロはやめていました。今はその従兄がどこで何をやっているのかは全然知りません。
2020年02月04日
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そういえば、小学生のころ(昭和30年代)、キンポンカンと言っていたなあと思い出しました。きん(近畿大学)ぽん(日本大学)かん(関西大学)まあ意味は分かる人は分かると思いますが。当然、小学生といっても東大や京大が頭のいいひとが行く大学だというのはわかっていました。また、高校2年の時から関西学院大学はあこがれの学校でした。でも、学力が足りなくて受験することにはなりませんでしたが。まあそんなことをここ数日連続でやっているテレビを見ていて思い出しました。
2018年05月24日
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昭和45年(1970年)高校2年生の時この時、全校生徒数は3221人男子校でした。中を見ると、住所、電話番号、出身中学両親の名前、職業が掲載されていました。いまだったら個人情報といって大変なことになりますね。電話もまだ引いてなかったり、呼や有が番号の頭についていたりして今では考えられません。万博があった年で修学旅行へも行きました。京都の恋、京都慕情、愛は傷つきやすく洋楽も豊作の年であったと思います。魔法、霧の中の二人、又、レッドツェッペリンの移民の歌など他にいっぱいありました。ボーリングも爆発的に流行っていて、修学旅行先の東京で勝手に4~5人で後楽園まで行ったのを思い出します。冬はスケート。ちょっと上手くなったらフィギアからホッケー靴に履き替えて、よく転んでいました。この年はいい年でありました。
2017年02月04日
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もう20年ほど前、友人がガンでなくなりました。入院をしたのを知ったので、お母さんにどこの病院へ入院しているか聞いたのですが、頑として教えてくれませんでした。その時は何で会わせてくれないんやろうと思ったのですが、変わり果てた息子の姿を見せたくなかったのでしょう。転移したから、また入院しなくてはならないと電話で話したのが最後になってしまいました。まだ、40代半ばだったので無念だったとは思いますが、実際の気持ちは知る由もありません。 小学5年の時、初めて一人で映画を観に行ったことがありましたが、それが松方さん主演の「伊賀の影丸」でした。当時は少年サンデー、マガジン、キングがあり、中でもサンデーが一番読まれていたのではないのかと思います。戦争と忍者は定番でしたが、その中でも伊賀の影丸は別格でした。伊賀=正義。甲賀=悪者と思っていました。由比正雪だったか悪の親玉がいたような記憶があります。 年を取ったら友人はいらないと数年前から人間関係の断捨離を行っていますが、先の友人とはもっともっと年を取るまで付き合うだろうと思っていたので今でも残念でなりません。松方さんは子供の私にとってヒーローでした。
2017年01月25日
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「あなたがえらぶ チャレンジショー」という番組を覚えていますか。これがその時の招待券です。昼の部と夜の部の2回収録があったんですね。各8、9枚残していました。何でも残した入るものだから、嫁さんがよくこんなの残していると呆れられます。性格だから仕方ない。それに、こんなのまで残しているものだから、半分バカにしているものと思います。この用紙を見ていると当時はまだ湿式のコピー機しかない時代で、今がどれだけ便利なのかが分かります。この日、両方とも審査員をする予定でしたが、夜の部の審査員はやめました。多分、昼の部から時間が長かったので飽きたのだと思います。初めて、テレビに映りました。日時は1970年6月14日(日)だから、高校2年生の時です。ウィキペディアによると1970年1月~9月まで日本テレビ系列で放送されていたみたいです。南海放送が日本テレビ系列ですからね。隣の幼馴染と2人でいったのですが、着ている服の色のバランスでかなり離されて記憶があります。もう、カラー放送だったんですね。大阪万博もこの年開催中で、日本も元気な頃です。こういうきっかけがあると、色々と思い出します。
2016年11月08日
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先日62歳になって、子供のころの記憶として一番古いのは何かと考えてみました。というのも記憶力には自信があったのに、最近、それも揺らいできました。 幼稚園の時の記憶はけっこう残っているので、5歳まではあるということですが、幼稚園へ上がる前というのがなかなか思い出せない。ただ、小学生の時3、4年の記憶が1、2年より薄い。 最近、サメが出たという情報が毎日報道されていますが、中学生の時、梅津寺(ばいしんじ)海水浴場でもフカ(その頃はサメとは言わなかった)にかまれた人がいるとか話題になったことを思い出します。また、台風が去った後、砂浜にサメが打ち上げられていたのは見たことがあります。だからと言って、遊泳禁止になることはありませんでした。 10代の終わりころ、九州の従兄と中島行の船に何十匹のイルカがついて泳いできたのを見たことがありますが、今のように報道されることはありませんでした。 そういう風に考えると、現在はちょっとしたことでもマスメディアは報道するとあらためて思います。 この田舎でもテレビの民放は4局ありますが、18時代はどの局も報道番組で、同じような事象を順番が違うだけで放送している。個性がないというかアニメ、ドラマ、パラエティなどなど局ごとに違うことをやればいいのにと思います。 個性が問われる時代に個性がない。行きつくとこうなったのかもしれませんが。 数年前からBSを観る機会が増えました。サブリメントや通販は除いて。
2015年08月22日
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ここのところネスカフェのバリスタでインスタントコーヒーを飲んでいたのですが、段々とえぐくなったので、今朝はというより夜中にレギュラーを飲みました。スッキリした味で、バリスタで淹れたインスタントも美味しいとは思ったのですが、何カ月も飲み続けるといけません。たまに飲むのがいいのかもしれません。 レギュラーコーヒーで思い出すのは大学1年の時、隣の部屋の守屋さんが「コーヒーでも飲まない。」と誘ってくれたのが、喫茶店以外で初めて飲んだレギュラーコーヒーでした。当時、本当はコーヒーはあまり好きではなかったのでが、JAZZを聴きながらレギュラーコーヒーを飲むというのが何か大人やなあと思い、それからはコーヒーが好きになったのです。ジョン・コルトレーンも同時に聴くようになり好きになりました。 この頃だったと思いますが、母親と話していて戦争の話しになり「ピカドンが島からも見えた。」と言ったのを思い出しました。瀬戸内海の島で生まれた母親は当時15歳くらいで、凄い衝動を受けたと言っていました。今年で終戦から70年目を迎えますが、二度と起こしてはならないと改めて思います。 戦争を知らない戦後生まれですが、小学生の頃の少年サンデーにしてもマガジンにしてもまだ戦争ものが連載されていました。ノートにゼロ戦などをよく描いていたのを覚えています。戦争の名残も昭和40年代まてあったように思いますが、それらも今ではなくなってしまいました。風化させてはならないと強く思いますね。
2015年08月06日
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よく雨が降る春です。梅雨よりこの菜種梅雨の方が雨量が多いと何かで読んだことがありますが、正にその通りだと思います。 雨が降ると思い出すことがあります。それが強烈なことではなく、何気ない何で覚えているんだろうというレベルのことなのです。 学生時代、大商大の友人が下宿していた東大阪の小坂へ遊びに行った時のことなのですが、翌日、急にバイトが入ったと言って私を置き去りにして出かけていってしまったのです。その日は雨で、何しに来たんやろうと・・・。窓ガラスを通して雨が降っている、結構、暗い思い出です。 この町は「私たちが住む町にそっくりやろう。」と友人が言っていた通り、帰省したと思うくらい、街並みがそっくりで、変に落ち着くところでした。 夕方、一人で銭湯に行って、待ってても仕方ないのでそのまま帰ったのですが。どうやって行ったとか、下宿の部屋がどうだったとか、季節がいつだったか、その時の状況は全然覚えていないのですが、雨が降るとその時のことを思い出すのです。ちょうど40年前のことです。
2015年04月10日
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今朝は先ほどから雪が舞っています。雪なんてほとんど降らないので、思わず写真に撮ってしまいました。 私が中2の頃(昭和42年)は、勉強机に向かって勉強じゃなく切手の整理をしながらラジオを聞いていました。こういう表紙の切手整理帳中はこういう感じで西ドイツ製のフィルムの間に切手を挟んで台紙に貼り付けていくのです。そんな中、毎日ラジオを聞き始めたのです。プロ野球中継がないオフシーズン11月頃から3月くらいまでだったと思いますが、夜の7時代か8時代に愛川欽也さんのラジオ番組があり、結構Hな話が中学生にとってはたまらなく面白いものでした。女性器のことをテトラ(ポット)と言っていたのは今でも覚えています。早口のシャベリで月~金まで毎日やっていたのではないのかと思います。 オールナイトニッポンもこの頃始まったのではないのかと思います。走れ歌謡曲まで聞くとほとんど寝る時間がなく授業中は寝ていたと思います。愛川欽也さんは1934年生まれですから、あの放送は33歳の時だったということですね。面白かったなぁ。
2015年03月10日
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中学から高校にかけてAMラジオ(田舎ではFM放送がなかった)をよく聞いていました。その中でも電話リクエストが人気がありました。その頃から疑問に思うのですが、聴きたい曲をリクエストするのですが、それ程聴きたいのであればレコードくらい持ってるやろうと思ったのです。何でワザワザ電話をしたりハガキを出したりするんやろう。自分の名前(ペンネーム)を読んでくれるかどうかドキドキしたりして。と思いつつリクエストしていましたが。ローカル(南海放送)でも大変人気があった「みゅーじっくまらそん」という番組があったのをふっと思い出したのです。パーソナリティの泉浄彦さん(南海放送アナウンサー)は絶大な人気がありました。オープニングの曲はオールナイトニッポンのティファナブラスの曲とは別の密の味(?)だったかな。 午後4時くらいからの放送で公開番組だったと思うのですが、その当時は道後樋又に南海放送があり、隣の1級上の幼馴染とよく見に行っていました。ラジオが元気な頃で、土曜などはダイエー千舟店(後に松山店に変更)にサテライトスタジオがあり、これにもよく行っていました。 今でもラジオはリクエストを募集していますが、ビジュアルがない分、耳に訴える部分で曲をリクエストがやりやすいんですかね。そういいながら、私も高校の時、吉田拓郎の「今日までそして明日から」のリクエストを門田洋子さん(南海放送アナウンサー)に読んでもらった時は嬉しかったのを覚えています。ずっと後、門田さんとゴルフをご一緒した時その話をしたら覚えていると言ってくれて、そんな訳ないか。でも嬉しかったですね。門田さんはその当時のリクエストハガキを今でも全部大事に取っているとおっしゃっていたのが印象に残っています。仕事で割り切ってやっていたのではないのでしょうね。良い人です。
2015年02月21日
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若い頃は正月といってもあまり意識することはなかったのが、歳とともに節目として気にするようになりました。 当然、NHKの紅白など観たことがなかったのが年々観るように、厭、観なくてはいけないように気持ちがなりました。特に今年は中森明菜が出るというので。 ただ、ああいう感じが分っているのであれば、最初のしゃべりなしで歌だけ歌わせればいいのに、NHKは気配りが出来ないなと感じました。 金粉入りの日本酒(普段家では酒は飲まない)や金粉入りの日本茶を買ったりして、何で金粉なのか分かりませんが、正月は金粉なのです。特に、年度変わりの節目を大事に考えるようになったのです。 大学3回生の時の年末、郵便局で夜中のバイトをしたことがあります。12月31日までしたのは2人だけで、いつもは夜10時頃から朝の5時頃までだったと思うのですが、局員の計らいで12時で終了で朝5時までの給料をくれたのを覚えています。いい時代だったのかもしれません。1月1日の朝いったん下宿に帰り、帰省の荷物を持って初詣のため京都へ行きました。 4回生の時は我が家で12月31日の夜から元旦の朝まで麻雀をしていました。たぶん昼間はパチンコをしていたと思うのですが。パチンコと麻雀はとにかく煙草をやたら吸うので、いつもくわえているという感じで、身体にいいわけないですよね。 働き出してからは、年度内に家に帰ることはなく毎年、仕事が年明けまでかかっていました。今ではカウントダウンなんてやっていますが、全然そういう節目として年度替わりを意識したことはありませんでした。70年代から2000年くらいまで紅白を観たことはなかったと思います。ということで、2015年元旦は全国的に天候は荒れ模様のようですが、私の気持ちは逆に穏やかなものです。
2014年12月31日
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テレビは録画して観る割合がだんだん増えてきました。NHKの朝ドラ、相棒の再放送BSでは昭和の云々というタイトルのものは探して録画に登録しています。 フォークルの一日だけの「新結成記念解散音楽會」も録画で観ました。ここのところ図書館で本を借りることが多くなり歴史ものを中心で借りていますが、たまに全然別の東京、京都のものとか芸能関係のものを借ります。という本も先日読みました。こういう本は時代考察するのにはもってこいで、自分のその時代に照らし合わせて読むと面白いのです。まあこの中で加藤和彦さんとの生活なども書かれていて、いろいろと想像させられます。 また、「石津謙介 VAN」もBSでやっていたので録画で観ました。私にとってはアイビー=青春ですから見逃すわけにはいけません。くろすとしゆきさんも当時青山あった、VANの本社に行って話していましたが80歳にならているのには驚きました。VAN=青春ではないのですね。私たちの間では当時VANは極力避けていました。みんなが着ているもんなんかという意識があり、違うメーカーのものを探していました。KENTのダッフルコートなどはVANヂャケット製ですが外せないものもありました。1973年12月に買ったものですから41年前になります。まあこれ以外にも結局はVANの製品は買っていました。 毎月頒布する通販で昔「はいせんす」というのがあって、石津謙介さんのニットタイを買っていたのを思い出します。服の基本をアイビーで学びました。地元の友人は1名を除いて全員アイビーなので、情報がとびかって服の話ばかりしていたのが懐かしい。テレビで昭和についてのものは今後も録画して観ようと思っています。
2014年10月20日
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昨日、「秋の夜長のあまちゃんライブ」を録画していたものを観ました。その中で大友良英さんが「映像に音楽をつけるのは可笑しい日常に音楽はない」という趣旨のことを言っていましたが、思い出の中には常にバックの中に音楽が流れています。TVやラジオは無音状態が何秒か忘れましたが続くと放送事故らしいので、音楽が効果的に使用されていると思います。その音楽との出会いを考えてみた時、母親の腹の中にいた時から始まっていると思います。おそらく、ラジオから流れてくる戦前の音楽だったと思います。妙に懐かしいメロディなのです。数年前、大学卒業したばかりの子がイヤフォンでいつも音楽を聞いているので、イヤフォンを外して聞いてみたら、戦前の音楽を聞いていたのです。驚きました。どういう経緯でこういう音楽を聞いているのか解りませんが、千差万別とはよく言ったものだと感心しました。 最近、方言がブームらしく今朝も沖縄のグループが方言にこだわりたいと言っていました。しかし、です。ブームと言ってもあるフレーズを面白がって言うだけだと思うのです。その地方のしかわからない、微妙にニュアンスがあると思うのです。松山でも「そうじゃけん」とか「ほうじゃけん」という言い方がありますが、「そうじゃけん、のう」と「そうじゃけん、なあ」と一つの言い方でも3通りはあるのです。「のう」を付ける場合は同い年か年下に使用します。「なあ」になると年上の場合もあるし、年下に言ったりすることもあります。ちょっと柔らかい言い回しになるのです。はなしの流れで「そうじゃけん」だけで言い切る場合もあったりして、小さい時から言ってていたり、聞いたりしないと伝わらない。だから、方言にこだわって音楽も含めて思いを人に伝えるというのは非常に難しいと思います。小学生の頃、国語の本読みの場合標準語のイントネーションでしゃべらなくては先生に怒られたものです。大学に入学して初めてのゼミのに出席をした時、大阪の人たちは大阪弁で平気でしゃべっていたのには驚きました。親しい間柄以外は、なるべく標準語に近いイントネーションでしゃべりなさいと教育されていましたから。まあそういう大阪的な考え方には最後までついていけませんでした。「あまちゃん」がかなり影響しているのでしょう。地方色がより出ていい結果をもたらしていると思います。何のために標準語があるのかを考えさせられるいい機会になりました。
2013年09月15日
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久しぶりと言ってももう50年ぶりくらいでしょうか。子供の頃、砂糖を混ぜてそのまま食べたり、お湯を入れて練って食べたりしていたのが懐かしく、買ってみました。結構、整腸作用や血液の浄化にいいみたいです。 最近料理をすることがあり、検索して調べているのですが、ツナを使った料理が結構あります。知人からゴーヤをたくさんもらったのですが、ゴーヤはまずいイメージがあり今まで一度も食べたことがないのです。何でツナみたいな臭いもの使うんやろ、と思います。それでも食べられないことはありませんが、納豆だけはいまだに駄目です。先日、片栗粉で葛まんじゅう風を作りました。なーんてことはない、これも子供の頃、病気をしたら作ってくれたものに餡子を入れるだけのものでした。料理には興味がテレビでも料理番組をよく観て録画します。ドレッシングの作り方でしょうゆとサラダ油と米酢を1対1対1の単純な配合で結構いけるのです。こういうのをアレンジしていろいろ派生させてゆく楽しみがあります。しばらくは料理にこだわってみようと思っています。
2013年08月24日
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昭和44年頃になると 相変わらず新発行の切手はシートで買って、未使用のものには興味を失っていました。大阪万博の切手帳などは例外として。 ここでちよっと反れますがこの本を読み始めましたが、平凡1964と違って、全部読む気がしない。同じ東京もんの小林信彦さんや泉麻人さんの本は読んでいて楽しいのに何故なんでしょう。あまりにも私的になりすぎると、よくないのかもしれません。客観性も必要なのではと思ってしまいます。最近CSよりBSプリミアムが面白い。今、「ザ・テレビっ子 TV60懐かし番組」の録画したものを観ています。最初はおはなはんの当時の映像が放送されています。因みにおはなはん通りです。愛媛県 大洲市60年代の音楽とか京都を題材にした番組岩合さんの猫など録画して観るのはBSプレミアムが圧倒的に多い。反れてしまいましたが。初日カバーF.D.C(First Day Issue)ともいいます。まずはどれを集めて良いのか。何から始めればよいのか。周りには収集している人がいませんでしたから。どういう風に入ったかは記憶にありません。色々な絵柄、印刷方法があり、自ずと好みが解ってきました。写真印刷されたものより版画のものに惹かれ渡辺版のものを集めるようになります。その後、自分で絵を書いたりしてのめりこんで行くのです。色えんぴつで描いた拙い絵です。1969年頃よりFKK版という会員制の頒布会に入会します。
2013年08月23日
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単片(1枚)からシートで買い始めて、過去に発行された切手もシートで欲しくなってきました。所謂、投資感覚だったんですね。1枚よりはシートのほうが高くなる。高くなるというだけで、売りたいという意識はないくせに、です。趣味週間シリーズの雨傘の女だったか?シリーズものをシートで集めるのです。年賀シリーズもそうです。ただ値段が高いものはやめました。前にも記した通り保存に自信がなかったからです。10年ほど前にヤフーオークションで約400シートと単片などなどは売ってしまいました。これはオークションに載せた写真です。年賀の小型シートと一部のシートだけは残していますが。常に保存に対しては不安があり、あまり神経を使わなくて済む初日カバーへとシフトしてゆくのです。未使用は価値があるが初日カバーは使用済みになってしまうので、最初は抵抗がありました。これについては後日
2013年08月22日
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読み始めました。この本は面白い。当時のことを思い出させてくれます。小林泰彦、立木義浩、横尾忠則高田賢三などなどビッグネームがまだ駆け出しの頃だったんですね。記事のタイトルにきみはVAN党かJUN党か?とか記事中にヨコスカマンボとか懐かしいコトバがちりばまれていて飽きささない内容です。ヨコスカマンボは高校の学生ズボンで穿いていました。足の長い友人のズボンを腰まで落として短足が余計に短く見えるのに、当時はいいと思ってやっていたんですね。かばんはベチャンコにしてとここまで記すと不良のようですが、全然普通の高校生でした。当時はアイビーの対極にコンチがありました。この本にも出てきますがエドワードやタックがありますが。浪人している年(1972年)に大商大へ行っている友人が「吉田拓郎が着とったTシャツこうて(買って)きてやったぞ。」と言って、買ってきてくれたのが、エドワードのモスグリーンのTシャツでした。本を糸口に様々なことを思い出します。
2013年08月21日
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小学生の頃、切手収集は一大ブームでした。熱心かそうじゃないかは別にこういうストックブックを1冊は持っていたと思います。私は小学3年生の頃から集め始めました。最初は1枚とかペア(2枚)、田型(4枚)で大蔵省製造が付いているものを欲しがりました。中学2年の時から本格的に集め始めたのです。本格的になると周りの同級生は幼稚に思い全国の収集家と郵便を通して付き合うようになりました。熱心な人はガリ版刷りの趣味誌というものを、月間とか隔週とかで有料で発行していました。中でもオークションに人気がありました。これらは引越しの際に他のものも含めて母親に全部捨てられました。母親にとってはゴミだったのでしょう。メンズクラブも1972年から1990年頃まで1号も欠かさず揃えていました。中学から10数人と文通していた手紙やプラレール(3畳分は十分ありました)他私にとっはお宝ものが無くなってしまいました。自分では捨てられないので良かったのかも知れません。
2013年08月18日
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お亡くなりになりました。パーソナリティという言葉を初めて聴いたのは高崎一郎さんだったと思います。このオープンリールテープの中に懐かしい音がたくさん入っているのですが、デッキがないので聴くことができません。この中に日立ミュージックインハイフォニックの1968年12月31日のエンディングの部分を録音しています。高校の受験勉強をするふりをしてラジオを聴いていたわけです。印象的なナレーションなので今でも覚えています。この時の声が高崎一郎さんだと信じていたのですが、ウィキペディアを見てみるとやってないみたいなのです。声はそうだったと思うのですが。夜の9時か10時から30分の番組でした。イメージとしてはジェットストリーム的な静かで上品な番組でした。と言っても私が聴いていたのは1967、8年頃だけですけど。 先日の続きで大阪万博の思い出です。前にも書きましたが、並んで待つということが嫌いなので、すぐ入れるパビリオンばかり選んで入っていました。これは春も夏に行った時も同様。絵葉書のケース唯一、45分並んで入ったのが日本館でした。アメリカ館やソ連館は3時間待ち。時間がもったいない、限られた時間なのにと思っていました。基本的に今でもその考え方は変わりません。昼食でもいくら美味しい店があっても並んでまで食べたいとは思わない。隣の不味くても(まあ限度がありますが)腹が肥ればいいのでそちらに行きます。何故かソ連館のパンフレットがあります。春は母親も行ったのでその時もらったのでしょう。基本的にこういうところへ行くと一人で行動します。誰かと一緒だと相手に合わせなければいけないので。これからパンフレットです。読売新聞の記念メダル万博会場へ行く目的が会場でしか買えない切手帳だったわけで、会場に入って最初に目的を達していたので、パビリオンを見るということは2次的なことだったのです。ただ、夏の会場で食べた冷やし中華は美味かった。冷やし中華を初めて食べたからでしょうが、何杯食べたか。サラサラの氷にコカ・コーラを入れたコーラフローズンも美味しかった。ザラザラでないサラサラ感がよかった。
2013年08月17日
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私たちの世代は富澤一誠さんの本によるとシラケ世代と言われていました。70年安保を境にして、世の中が落ち着いてきた時代ということでしょう。と言っても私の通っていた大阪の地方大学では75年の試験は学園紛争のため全部レポート提出になりました。そのお陰で卒業できた先輩が多くいました。一部では熱い人がまだまだ残っていましたが、私たちはシラケていました。学校封鎖で試験じゃなくレポートだけになって喜んでいました。70年は大阪万国博覧会が開催された年でありました。高校2年の時でした。3月と修学旅行で7月の2回行きました。当時は切手収集に熱中していたので、会場でしか発売していない切手帳を買うのが主な目的でした。万博のマークのところが銀と金がありました。この銀が会場でしか買えないものでした。1次と2次があり、4種類あります。これはFKK版の初日カバーですが、開けると合計金額100円の切手帳です。まだ30枚くらい持っています。万博関連のしょうもないものです。会場案内のパンフですね。中味はチケット入れ?なのかケースがプラスチックのマッチ箱です。5個セットで売られていたものです。こういう小物グッズはまだまだあります。以前も記しましたが、ホームページにのこういう万博関連のグッズをのせていたら愛知万博の時、テレビ東京のなんでも鑑定団の番組スタッフからメールで打診があったのです。しかし、小物しか持っていないのでお断りしました。番組で放送されましたが、やはり凄いものを持ってられる方はいっぱいいました。70年夏の修学旅行の時も暑かった。バスは冷房など無く、窓全開でも熱風とほこりしか入ってこない。ただこの夏を境に行動が変わってしまったのです。切手収集といってもこの時は初日カバーに熱していました。毎日ボーリングにのめりこんでいきました。麻雀を覚えたのもこの頃で、切手収集は新発行されたシートをアルバムに収めるだけになり、切手熱は冷めてしまったのです。この後、吉田拓郎、アイビーに移行します。
2013年08月13日
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これは何なのか自分でも解らない。近くのオジサンがくれました。その頃はニャンコのおいちゃんと言っていました。小学生の頃お札と古銭をくれました。切手は集めていましたが古銭には全然興味がなくその時にもらったままこのケースに保存しています。かれこれ50年近く経ちます。10年ほど前、40年振りくらいになりますか古銭あげると言って今度はこんな立派なケースに整理したものをくれました。中身はこういうものです。ついでみたいに、これもくれました何なんでしょう。オジサンからとったらいつまでも私は子供なのでしょうね。ただそのオジサン数年前に亡くなってしまいました。身近で好きな人が段々少なくなってしまいました。
2012年05月16日
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本棚にある本を見てみました。昔、IVYに興味があり、JAZZを聞いている頃、ずっとメンズクラブとスイングジャーナルは買っていました。コレクションとして持っていたのですが、家を建て替える際に母親が借りていた仮住まいに置いていたらすっかり他の大切なものも含め捨てられていました。何も言いませんでしたが、その時は本当にショックで・・・といっても取り返しがつかないので仕方ないかと切り替えました。かすかにその名残が残っていました。1978年1月号の付録表紙がピーコック=キース=ディジョネットというアルバムです。このレコードは持っています。当時キース・ジャレットは最も好きなピアニストでした。1979年7月号の付録Jに乗っかっている写真はキャノンボール・アダレイのSOMETHIN’ELSEタイトルはキャノンボールですがマイルス・ディビスのと言ったほうが良いアルバムです。このレコードも持っています。一時期このレコードオークションで高値が付いていました。1980年1月号の付録この頃は渡辺貞夫が元気なころです。1983年1月号の付録レコード屋に置いてあった冊子です。140ページの本格装丁50年代、60年代の演奏をまだまだ聞いていた頃です。月刊平凡 1968年1月号付録 歌本です。中を見てみると今は考えられませんが、’68年オール・スター住所録として当時の人気俳優や歌手の住所が番地までキッチリ掲載されています。ナショナルのテープレコーダを買ったらくれた冊子だと思います。こちらのタイトルはヒットソング集になっていますが片方はテープレコーダ操縦術になっています。これもテクニクスのおまけ本です。1974年か75年頃だと思います。メンズクラブは1972年から198数年まで欠かさずそろえていたのですが、唯一残ったのはこの付録です。1984年1月号付録メーカーごとの広告本ですが、くろすとしゆきさんや小林泰彦さんの文章が掲載されています。最後に付録ではなく何故買ったのか不明な本イルカのライヴに行ったのがこの頃だったからか永井龍雲が最初にこうして掲載されていますが、全然興味がなかったし、ましてふきのとうとかオフ・コースがカラーページを飾っていますがそれ以上に興味がなく、やはりイルカなのか。1980年3月1日にここで紹介されているあしたの君へのLPは買っているので。
2012年05月15日
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昨日、収集物でテレビに出演したと書きましたが、その時出さなかったもので恐らく現在持っているものの中で一番古いものです。パッチン(メンコ)です。小学生の頃、らんこん(ビー玉)とともによく遊んだものです。昭和30年代ですね。印刷がずれていたりして、このラフ感がいいですね。坂本九と橋幸夫は特にずれています。
2012年05月14日
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今日は伯母の葬式のため会社を休み出席していました。この歳になるとどうも結婚式よりは多くなります。普段は会うことのないいとこなどとこういう機会でしか会えないというのも皮肉なものです。大阪、広島、九州など住んでいる所もバラバラなので仕方がありません。こういう時は何故か昔の曲が聞きたくなりYOU TUBEで天地真理などを聞いていたのですが、茶木みやこの「泪橋」を見つけました。関連動画欄に「北山杉」があるではないですか。同じ投稿者なので、チャンネル登録しました。両方とも30年以上前の曲ですが、亡くなった伯母はその時、現在の私より若かったのかなどと意味のない歳の計算などをして、時をさかのぼることは出来ませんが、思い出として戻ることは出来ます。ということで明日からは前に向かって歩かなければ
2008年03月12日
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日本プラモデル興亡史「日本プラモデル興亡史」を借りてきました。プラモデルはもう何十年作っていませんが、何故か読みたくなりました。プラモデルの歴史を知りたいというわけでもありませんが、私が小学生の頃、作っていたプラモデルはどのような状況の中だったのか知りたくなりました。私が住むこのあたりは海が近く貯木場があり、広い空き地がありました。日曜日などはラジコン飛行機を飛ばす人がいて、よく見に行っていました。現在では衰退してしまいましたが近くに商店街がありその中に池田無線というプラモデル屋がありました。この本の中にある伊号潜水艦は作った覚えがあり、小学校の池の中に沈めてしまいました。小3の時、病気で学校を休みプラモデルを買ってきて作ったことや山口へ旅行をした際、旅行先で戦艦大和を買ったことを覚えています。旅行先で作れるわけでもなく何故旅行先で荷物になるのに買ってもらったのか今では全然覚えていません。老後の楽しみとしてプラモデルを作ろうと思っています。
2008年02月26日
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2008年になってしまいました。二黒土星の私の運勢は高島易断によると飛躍運だそうですこぶるいいみたいです。昨年も押し迫って転職したのですが、今年の方が良かったみたいです。ということで、1978年の音楽でも聴いてみてはいかがですか。柴田まゆみ「白いページの中に」ユー・チューブの映像です。自身が歌っているのはコチラです。この曲を聴いていると絵夢のアルバム「VARIATION」に収録されているくもりガラスが思い出されます。これは1979年に発売されましたからこの頃のトレンドかもしれません。ついでに、同じころの丸山圭子の「どうぞこのまま」この頃の歌を聴いていると何故か落ち着きます。と言ってお正月の音楽でもありませんが。
2008年01月01日
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家から車で10分程のところに衣山(きぬやま)シネマサンシャインがあります。映画館へ行くのはおそらく10年振りくらいになると思います。妻と二人で、午後12時35分から上映の「ALWAYS 続三丁目の夕日」を観に行きました。夫婦どちらかが50歳以上だとチケットが1000円になるのです。これから月に1回は映画でも観に行こうかと思うのです。久しぶりなのか、今まで気がつかなかったのかカメラワークが違って感じられました。観覧しているこちら側が動いているように感じられるシーンがあり驚きました。いろいろ子どもの頃を思い出す部分がありました。昔は道路舗装をしていなくて、砂埃がたつのでよく水をうっていたのを思い出しました。又、家庭ごとに縁台があり、夏は家のオモテにだして将棋などをしていたものです。私の住む地域も内風呂がある家はほとんどなく、銭湯は社交場でした。上映時間中は子どもの頃に戻った気持ちになり、ズッと便利になった現代にはない情を思い出すことが出来、お金では買えない何かがあったように思うのです。寅さんシリーズのように今後、続いていくように思うのですが。
2007年11月27日
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こういうサイトがあります。てのひら工房ほとんどの家には無くなった家具を見ることが出来ます。買うことも出来ます。知り合いにこれとは違うものを作る人がいます。その人の家に行ってアップしようと思いつつそのままになっています。私はこれでガマンしています。グリコのおまけシリーズです。5年ほど前に流行ったものです。1~3弾あり、写真のものはほとんど2弾です。全部そろえようかと思いましたが、先ほどの知り合いの家にあるので見に行ったらいいと思い止めました。ミニチュアものは結構好きなのです。
2007年02月13日
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就職して営業活動をしていた頃、あるタバコ屋のおばあちゃんと親しくなり色々と話をしていました。そのおばあちゃんが若い頃の話になり、大正琴が流行っていて弾いていたことを聞かされ、早速次の休みに買ったのがこれです。ただ、あまりにも習得が簡単すぎて数日で飽きてしまいました。1977年(昭和52年)の思い出です。
2007年01月03日
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これらは一体なんでしょう?ということで、母親の台所を整理していて見つけました。どれが一番古いのかは不明です。小学生の時は、4年生の頃から給食が始まりましたが、昼食は学校から家に食べに帰っていたので弁当箱は要らなかったと思います。さすがに中学生になると、校区が広くなるので弁当を持っていきました。しかし、2年生の頃から給食が始まりましたので、弁当箱が必要だったのは1年間くらいでした。高校は3年間弁当を持って行きました。これは箸箱を横にセット出来ました。又、おかずとご飯を区分け出来るようになっています。キャラクター入りのオシャレ?なものです。タッパーウェアというシール容器が流行ったのを覚えていますか。フタをすると液体がこぼれないと驚いたものです。フタを見ると、ご飯とおかずを区切る部分に溝があり、混じらないように配慮されています。もう一つ、食パン入れです。パンをこの中に入れていると柔らかさが保てると言っていたのを覚えています。タッパーウェアは登録商標されているので、通常はシール容器と言わなければなりません。昔、チラシ作りをしていた頃、タッパーという言葉を使って、タッパーウェアの会社から抗議がありお詫び文をチラシと店頭の掲示板でした覚えがあります。油性のペンもマジックと通常言ってしまいますが、これも同様です。フェルトペンといわなければならないのです。商品名の最後の部分に○Rがついているか気を付けなければなりません。明日から年末まで更新出来ないかも知れませんので、今年はこれが最後になるかもしれません。
2006年12月26日
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まぼろし放送懐かしのテレビ番組主題歌特集2で聞くことが出来ます。他にナショナルキッドや少年ジェット、名犬ラッシーなど、懐かしいメロディがおぉという感じで流れています。忘れていた昭和30年代中ごろの少年、厭、幼少の頃の忘れていた出来事などを思い出すかもしれませんよ。
2006年12月07日
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小学校に通い始めた私にとって、テレビが面白かった。チロリン村とくるみの木、ホームラン教室、ポンポン大将、ケペル先生のものしり博士、お笑い三人組、箟ちゃんのとんま天狗などなど。不思議に全曲はムリですが、タイトル曲は今でもメロディが浮かんできます。情報量が少ない子供の頃なので、刻みこまれているのだと思います。ホームラン教室の小柳徹さんがカッコ良く、若くして亡くなったと思うのですが残念だったことを今でも覚えています。現在生きておられたら、いい役者さんになっていたでしょう。20歳の時、この方も交通事故で亡くなられました。八波むと志さんが亡くなった時も同じ気持ちでした。喜劇俳優でしたが、大変才能のある人だったと思います。1964年交通事故で亡くなりました。エノケンが喜劇王みたいなことを言われていますが、この人の方がはるかに面白かった。ポンポン大将は桂小金治さんしか記憶にありません。隅田川を走るポンポン船の船長でした。現在、当時の映像をみたらどうなのか?
2006年12月07日
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最近は大型銭湯が増えました。子供の頃、私の住む町では恐らく99%は家に風呂がなく、ほとんどの人が銭湯を利用していました。私が銭湯を利用するのは高校生になってからで、それまでは父親が仕事をしていた会社が近くにあり、その会社の風呂に毎日入りに行っていました。その会社は製材所だったので、仕事が終わるとみんな風呂に入って帰るのです。みんなが入る30分くらい前に行って入っていたので、いつも一番風呂でした。先日子供が「なやぎ湯がなくなっとった。」と言うのを聞いて、又、一つ昭和の名残が消えました。私にとっては、当時三津には10以上銭湯があり、どの銭湯にも行ったことはありますが、町内にあった玉乃湯の方がより思い出深いものがあります。玉乃湯は家から50mくらいで、柳湯は150mくらい離れていましたから。プラスチック製の2段(上がザルになって水切りが出来る)になった桶に石鹸、タオル、ナイロンタオル、シャンプー、リンスを入れて、友人と毎日誘い合って行っていた交友の場でもあった銭湯。帰りには銭湯の近くにあった喫茶店にもよく寄っていたので、今考えると、ゴールデンタイムのテレビは見ていなかったことになります。関係ないのですが、懐かしい絵柄の物入れ兼イスです。持ち運びに便利な取っ手もついています。大きさは高さ45cm、直径30cmくらいです。一番風呂へ行って、風呂屋の木製の桶がタイル貼りの床に当たって響くあの音を、もう聞くことが出来ません。
2006年12月06日
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高校時代に死んだ親父のことを思い出しています。どこに行くにもネクタイを締めていました。私が赤ん坊の時からの写真を見てもネクタイを締めていない姿は1枚もありません。外に出かける=ネクタイを締めるだったと思います。休日に私をバイクの後に乗せて出かけるにもネクタイ着用。吉田拓郎のおやじの唄を同時に思い出しました。昭和の思い出です。
2006年12月01日
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高校2年生の頃、ひょんなことから近所の団塊世代の人と付き合うようになりました。男ですよ、念のため変な意味ではなく。近所の貸し本屋(マンガ)でよく会っていたのです。マンガが好きな方で毎日借りに行っていました。その影響で私もマンガが好きになり、毎日行くようになったのです。当時、1冊借りるのに30円くらいだっと思います。その人は昭和22年生まれで、地元の井関農機という会社に就職したばかりでした。それから、私が大学1年生の頃まで付き合っていました。というのが、その人が結婚をし東京へ転勤になってしまったのです。 よく連れ歩いてくれて、その人の友達やその彼女(結婚相手)とも一緒に遊ぶようになりました。私が20歳くらいで6歳も上となるとずいぶん大人で、話している中で色々と教えてもらったと思っています。あれから30年以上経ち、久しぶりに会いたくなりました。随分、お世話になりました。何処へ行っても100%おごってもらっていましたから。東京へ転勤になってからも、数年間は帰省すると寄ってくれていつもビアガーデンへ行っていたのを思い出しました。その人も来年60歳。どう変化しているのでしょう。
2006年09月07日
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昨日はカラーテレビが家にやってきたのはいつか思い出せなかったのですが、カラープリントについては覚えているのです。アルバムを開くと、一冊目はモノクロばかりが貼り付けられた少しセピア色をした少年時代のものです。2冊目途中からカラープリントが登場します。昭和41年、中学1年生の時でした。この頃、カラープリントのプリント代は1枚80円くらいだったと思います。ですから、写真を写してもすべてをカラープリントするわけではありませんでした。それほど高価なものでした。 高校2年生の時、修学旅行へ行き写真をたくさん撮って帰ったのですが、その時の写真は1枚もありません。この頃のプリント代は覚えていないのですが、まだまだ高いものでした。親からプリントすると言ってお金をもらって、当時大ブームだったボーリング代に消えてしまったのです。修学旅行へ行くために一眼レフのカメラを買ってもらったのに、親不孝者です。このカメラです。コニカ製です。フィルムの巻取り部分が取れてしまいました。修学旅行の思い出の曲 ヒデとロザンナの「愛は傷つきやすく」♪自由にあなたを愛してあ~いしてで始まる曲です。
2006年09月06日
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ノスタルジック・ワールドというサイトがあります。団塊の世代の方だと思うのですが、子供時代のテレビ番組や映画を思い出させてくれます。テレビの黎明期がどうだったのか、忘れていた番組を思い出します。「それいけスマート」は忘れていました。小さい頃の1、2歳違いは現在の5歳から10歳くらい違いに感じられます。私が7歳の頃(昭和35年)、団塊世代は11~13歳。10歳では14歳~16歳ですから記憶がより鮮明で、私が覚えていないことまで思い出させてくれるのです。こちらの昭和チック秘宝館は昭和30年、40年代の日常生活を思い出すことが出来ます。今日、三津の町を歩いていて、昭和30年代40年代を思い出す場所や瞬間がありました。特に商店街には思い出がいっぱい置いてありました。現在は存在していませんが、そのお店があった場所の前に立つと思い出すのです。商店街の入口にあるアルプという喫茶店は40年代によく行きました。他の喫茶店は残っていないのですがここはまだ生きていました。喫茶店については昭和チック秘宝館に詳しく書かれてあります。商店街の入口です。当時の面影はありません。当然、アーケードがなくなっているのでそれだけで違い明るすぎます。こんな看板がありました。この商店街で誰がお店を出すのでしょう。 たまに町をブラブラするのもいいですよ。
2006年09月05日
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愛媛県歴史文化博物館という施設が愛媛県の西予市というところにあります。松山から車で3時間くらい西方にあります。ここに「昭和期の愛媛」ということで昭和30年~40年にかけての街かどを再現しています。これは常設展示ですからいつ行っても見ることが出来ます。まぁ全国的にブームなのでどこの地域でもこういうコーナーはあると思います。団塊の世代(昭和22年~24年)の方々にとっては懐かしい展示だと思います。私の世代(28年)としても懐かしさは感じます。ただ、昭和33年長嶋茂雄のデビューの記憶などは全然ありません。この時にはテレビも我が家にはありませんでした。近所の水道屋へテレビを見せてもらいに行っていました。ナショナルキッドの記憶が薄くあります。 先日大洲市のポコペン横丁を紹介しましたが、こちらの絵の方がリアル感があるかもしれません。大洲市・ポコペン横丁 まぼろし商店街1丁目
2006年08月22日
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愛媛県大洲市(おおずし)という、伊予の小京都といわれる小さな町にポコペン横丁という昭和の町並みを再現した場所があります。古い方はNHKの朝の連ドラ「おはなはん」の舞台になった場所といえば解かるかもしれませんね。松山から車で2時間ほど山の方へいかなければなりません。他の人の愛媛の旅というのに紹介されています。わたなべヨシコのやじきたたび日記 仕事の関係で、昭和30年代を彷彿させる店作りに参加しています。私の持っているものも提供する予定です。私はアドバイザー的な立場で、このポコペン横丁も知人に教えました。今日、その知人が大洲に行ったのですが、昭和30年代のものを集めたコーナーがあるのですが、そこのオーナーと話したらしく、今月の17、8日にVANのコーナーも展開するそうです。ちょっ見せてもらったらしいのですが、かなりスゴイとのこと。今度私も見に行こうと思っています。世の中には蒐集家がいるものです。
2006年08月13日
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昭和30年代、旅行へ行くと、努力や根性という楯やペナント、又、絵葉書などを買って帰りませんでしたか。左下の高知は版画です。四国銀行でもらったものです。裏に住所と名前を書く欄があり、郵便で送ったりもしました。この中の2種も中学生の頃、山口県の文通相手から送ってもらったものです。記憶にはありませんが、私もお返しで送ったと思います。修学旅行や遠足というと、必ず都こんぶを買っていました。今でもスーパーのレジ前で売っていたりします。小遣いの金額が決められていて、それより多い金額を持って行くのですが、見つかったらいけないということで、隠すのに色々考えたりしました。めんどくさいから先生も一人一人調べたりしないとは、今考えると解かるのですが、当時は真剣でした。
2006年07月17日
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