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10/24(木)、11/17(日)、12/12(木)と群馬に行きます。今回のテーマは「表現」です。気質の話もします。詳細は未定です。*************幼い子ども達はみんな「自分の成長」を望み、「自分の成長」を喜びます。それは日々「自分の成長」を自分自身でも実感できるからなのでしょう。でも、成長とともに多くの子ども達が「成長」を望まなくなります。そして「成長」の代わりに、「競争に勝つこと」や「お金を得ること」を望むようになります。「ゲームが出来れば他には何もいらない」という子も出てきます。そして、我が子が幼い頃は「うちの子天才だ」と思っていたお母さんやお父さんが、次第に子どもへの期待を失い「うちの子は欠点ばかりだ」などと言うようになります。どうしてそのように変化してしまうのでしょうか?私なりにその理由を考えてみました。幼い頃の成長は主に「からだの成長」なので目に見えるし子ども自身も実感もやすいです。子どもと一緒に大人もその成長を喜ぶことが出来ます。でも、「からだの成長」がある程度進むと「心の成長」が始まります。でも「心の成長」は見える人には見えますが、見えない人には見えません。子ども自身も実感することが出来ません。子どもが「自分の心」に目覚め始めると、子どもはその「自分の心」(自分らしさ)を守ろうとし始めます。それもまた「心の成長」の表れなんですが、多くのお母さんやお父さんが「心の成長」を喜ぶことなく、「ワガママになった」「いうことを聞かなくなった」「反抗的になった」と、子どもを非難、否定し始めます。多くのお母さんやお父さんが、「からだの成長」は素直に喜んでいたのに、「一人の人間として生きようとする心の成長」は否定するのです。そのような人は、「簡単に子どもを喜ばせるもの」は与えますが「心の成長に必要なもの」は与えません。「心の成長」興味のない人には「心の成長に必要なもの」が分からないからです。その結果、子ども自身も「心が成長する喜び」を感じなくなり「心の成長」を望まなくなります。代わりに、「簡単に喜びや楽しさを得ることが出来るもの」ばかりを求めるようになります。じゃあ、「心が成長するためには何が必要なのか」ということです。そこで「表現との出会い」や「自分を表現すること」が必要になるのです。反抗期は、「心が育ち始めた子どもの自己表現」なんです。ということで続きます。
2024.09.11
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「命」は「人工的に作られたもの」ではありません。自然の働きに従って、自然の中に自然に生まれたものです。ですから、そのシステムは100%自然の働きとつながり、自然の働きに従っています。朝・昼・晩という光の変化に対応して命の働きも変化します。その時の気温や湿度の状態に合わせても、命の働きは変化しています。住んでいる場所の空気の濃度によっても、命の働きは変化しています。「何を食べているのか」ということも命の働きに影響を与えています。そして、つい最近になるまで、人間は自分が住んでいる周辺に生えている草や木、周辺に生きている生き物たちをその食の対象にしていました。そして、自分が住んでいる周辺に生えている草や木、周辺に生きている生き物たちは100%その土地の自然の働きの影響下にいます。砂漠にすんでいる民と、森で暮らしている民と、草原で暮らしている民と、都会で暮らしている民とでは、感覚の働き、心の働き、からだの働き、命の働きが微妙に違うのです。周囲には自然しかなく、何キロメートルも先まで見通せるところに住んでいる人たちと、数十メートル先しか見えないビルと人工物に囲まれた中に住んでいる人たちとでは、感覚の働きも、心の働きも、からだの働きも、命の働も違うのです。もっと言えば、月や太陽の動きも、命の働きに影響を与えています。私はインドの最北部にあるラダックという州に行ったことがありますが、その中心都市「レー」は標高3500mにあります。ちょっと山の方に行けば4000mを簡単に超えてしまいます。自動車が通過可能な世界一標高の高い峠として知られる海抜5,359mにある「カルドゥン・ラ」にも行きました。高山病用の薬を飲んでいたので、頭痛や吐き気は起きませんでしたが、自由にからだが動かないのと食欲が出ないので難儀しました。ホテルの階段を上るだけでも富士山の頂上付近を登るのと同じなんですから。「カルドゥン・ラ」で車から降りたときは、酔っぱらったようになってまっすぐに歩けませんでした。でも、当然ながら、現地の人たちは普通に動き生活していました。現地の人と、旅行者である私とでは命の働きが違うのです。また、「春に食べたいもの」と「夏に食べたいもの」も違います。「朝食べたいもの」と、「夜食べたいもの」も違います。「からだを動かして遊んだ後に食べたいもの」と、「からだを動かさずに頭だけを使って仕事をした後に食べたいもの」も違います。「子どもが食べたいもの」と、「大人が食べたいもの」も違います。そして、まだ自然の働きによって生まれたばかりで、自然の働きによって成長しつつある幼い子ども達は、その自然の働きの影響を受けやすいのです。なぜなら、幼い子ども達は、自分が生まれてきた世界の状態に合わせて自分の意識、感覚、心、からだを整えている真っ最中だからです。そうやって、自分が生まれてきた世界の食べ物や、気温や、酸素濃度や、ばい菌などに対応する能力を、からだの機能の中組み込んでしまうのです。また、それに合わせて意識や、感覚や、心や、からだの状態も整っていきます。そのため、幼い時に人工的に管理された環境の中だけで生活し、人工物だけと関わり、不自然に作られた食べ物ばかりを食べて成長した子は、自然に対して違和感を感じる感覚や、感性や、心や、からだを持った状態に成長してしまう可能性が高いのです。そしてそれが、多くの現代人の、特に若い人たちの感覚や、感性や、心や、からだの状態でもあります。問題は、そのように育った子は、「自分の中の自然」「自分という自然」に対してまでも、違和感を感じる感性が育ってしまうということです。すると「ありのままの自分」を肯定できなくなります。そして、人工物と同じように「自分」も作り替えようとします。今ではお金さえかければ理想的な美女にだってなることが出来ます。スタイルだって人工的に変えることが出来ます。でも、どんなにお金をかけても「病」と、「老い」と、「死」という自然の働きからは逃れることが出来ません。どんなに自然に逆らってみても、最後は100%敗北するのです。また、そのような感性を持った人たちは、結婚して子どもが生まれると、子ども達の能力や、性格や、成長も、お金をかけ「子育てマニュアル」に従えば、自分の理想に合わせて人工的に作り変えることが出来ると思い込んでしまっています。でも、子どもの命も、からだも、成長も自然現象であって人工物ではありません。ですから、子どもの成長は「自然の働きかけ」には従いますが、「人工的な働きかけ」には従いません。そのことに気付かないと、子どももお母さんもどんどん苦しくなってしまいます。そして、子どもの命や成長を支えている命の働きも狂い始め、自己否定をし始めます。
2024.09.10
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(昨日からの続きです)人間は服を着ることで、自分の皮膚と自然との間に壁を作りました。靴を履くことで、自分を支えてくれている足と、さらにその足を支えてくれている大地との間に壁を作りました。家(巣)は人間以外の生き物も作りますが、人間はさらにその中で人工的に光を作り出し、自分たちに合わせて空気や温度をコントロールし、家の中にいながら外の世界とつながる方法を作り出し、家から出なくても生活できるようになりました。さらにはその「家」を拡張して、都市という形で家の周囲の環境まで「家」に含めてしまいました。その結果、現代人は、「頭で処理する情報」を通して世界とはつながっていますが、「からだの働き」を通して自然という「命を生み出し、命の働きを支えている世界」とつながることをしなくなりました。家の中にいれば、外の気温が分かりません。風が遠くから運んでくるものの気配を感じることも出来ません。天気の変化に伴う空気の変化を感じることも出来ません。風の音も、鳥の声も聞こえません。季節の変化に伴う草木や空気や光の変化にも気づきません。もちろん、そんなに完全に家の中に閉じこもりっきりの人はあまりいないでしょうが、でも、「家」を「人工的に管理された空間」という風に考えれば、都市も、電車の中も、会社の中も、「家」の一部です。自然との関係で見たら、都市全体が集合住宅のようなものです。そのような、自然から切り離された「人工的に管理された空間」の中だけで暮らしていると、からだは「自然」ではなく「人工的に管理された環境」に合わせるようになります。家の外は夜であっても、家の中が昼間のように明るくて、刺激的な映像と音に満たされていたら、からだは「昼のからだ」のままで「夜のからだ」にはなれないのです。問題は、成長が終了して、老化が始まっている大人たちはそれでもいいのですが、成長過程にある幼い子ども達にとってはそれは非常に困った状態なんです。子どもの心とからだの成長は自然現象です。その自然現象は、子どもが生活している環境に適応するように自動的に子どもの心とからだの状態を調節しています。その時、子どもが「命の働きに対して不自然な人工的な環境」の中だけで暮らしていると、子どもの心とからだの状態が、「子どもの命と成長を支える働き」と分離してしまうのです。そして、子どもの「心とからだの育ち」が遅れたり歪んだりしてしまうのです。人間の様々な能力は、必要や環境に合わせて成長するように出来ているからです。日常的に「人工的な大きな音」や「刺激的な音」に囲まれて生活している子どもは、「耳を澄ます」とか「耳を傾ける」という能力が育たなくなります。「自動的に動く映像」ばかり見ている子は、「意識を向けて観察する」という能力が育たなくなります。歩く時間が少ない子は「歩く能力」が育たなくなります。また、疲れやすくもなるし、色々なことに対して「面倒くさい」「億劫」と感じやすくもなります。長い時間平気で歩くことが出来るような子は、待つことも出来るし、何かに取り組むときの持久力も高いのです。からだを使った遊びをしていなければ「からだ全体のつながり」が育たなくなります。それはまた思考力の育ちとも関係しています。子ども達は「コマの回し方」や「木の登り方」を工夫し、学ぶ過程で思考力も育ててるのです。簡単に回すことが出来るように作られているベーブレードを回すだけなら思考力は必要ありませんが、「ひもを巻いて回すコマ」を回せるようになるためには「頭とからだの思考力」が必要になるのです。仲間と一緒に泣いたり笑ったりケンカしたり遊んだりしなければ、「感情の育ち」や「社会性の育ち」が遅れます。森や自然の中で、自然を感じながら遊んで育った子は自然を「自分の仲間」として大切にする感性が育つでしょう。そういう感性が育った子はSDGsなどという言葉を教えなくても、自然を大切にするようになるでしょう。自分の足で大地に触れ、大地に流れている水と遊び、風に吹かれ、鳥の声を聴き、野の草花や虫たちと遊びながら育った子は、知識としてではなくリアルな実感として「生きているとはどういうことなのか」ということを知り、「命の実感」を感じることが出来るようになるでしょう。その感性は、子どもが成長して大人の社会、人工的な社会とのかかわりが大きくなって心やからだが苦しくなった時に、子どもの心やからだが壊れないように「子どもを守る働き」をしてくれるでしょう。また、そのような感性が育っている子は自分で自分の心やからだを傷つけるようなことはしないでしょう。だから子どもを自然から切り離してはいけないのです。人工的な環境の中に閉じ込めてはいけないのです。子どもは本能的にそのことを知っているのです。だからすぐ裸になりたがり、すぐ裸足になりたがり、すぐ駆け回りたくなり、すぐ高いところに登りたがり、すぐ水溜に入りたがるのです。大人も同じです。悩みや苦しみがあったら、無理矢理それを取り除こうとするのではなく、そのまま自然の中に入り、自然に包まれてみて下さい。自然は世界最高のヒーラーですから。
2024.09.09
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ディズニーの「インサイドヘッド」という映画があります。あらすじは普段は少女の頭の中の司令室で、彼女の幸せのために尽くすヨロコビ、イカリ、ムカムカ、ビビリ、カナシミという5人の感情たち。ところが引っ越しで環境が変わり、少女の気持ちが不安定になってしまう。彼女の頭の外へ吸い出されてしまったヨロコビとカナシミは、司令室に戻ろうと必死に少女の後を追いかける。というようなものです。似たような視点から描かれた「カラーモンスター」という絵本もあります。絵本の紹介にはカラーモンスターはじぶんでもなにがなんだかよくわかりません。いろんなきもちがごちゃごちゃ。こんがらがったきもちをほどかなくてはなりません。カラーモンスターはうれしい、かなしい、いかり、ふあん、おだやか、5つのきもちをせいりすることができるでしょうか?自分の感情を把握して気持ちの整理や表現ができるようになる本。と書かれています。カラーモンスターに登場するのは、「いかり」「うれしい」「ふあん」「おだやか」「かなしい」という名前の5つのモンスターです。インサイドヘッドに登場するのと似たようなキャラクターです。いずれの作品も、自分の内側にある感情と向き合うことがテーマになっています。(ただし、最初にお断りしておきますが、私はこの映画は見ていません。絵本はパラパラと見た程度です。ですから誤解も含まれているかも知れません。)私はこの二つの作品のことを知った時、「欧米的な発想だな」と感じました。「心の問題」を「からだの問題」とつなげることなく、「心の中だけの問題」として扱おうとしている点でです。心理学的とも言えます。欧米では、「本来切り離せないものをバラバラにしてから調べて、それを再構成して全体のことを知ろうとする」という方法が主流です。科学はその方法によって生まれました。そもそも、キリスト教では「感情」を扱いません。「良い感情」は「神様からのささやき」で、「悪い感情」は「悪魔からのささやき」というような扱いはしますが、「感情」というものに対して、「命の働きと密接につながっている人間らしさや自分らしさを支えている大切な働き」という発想はありません。キリスト教的な発想では、「心」は「神様(聖なるもの)とつながるもの」ですが、からだは「土(不浄なもの)とつながるもの」です。「魔女」と呼ばれ迫害された人たちも「土」とのつながりが強い人たちです。その「心」と「からだ」を分離して考える考え方は、キリスト教とは関係がないと思われているこの映画や、絵本のようなものにも一貫しています。自分の心と向き合うために「自分の中の感情」を、その働きによってバラバラにして扱うという発想自体が西洋的です。それに対して、お釈迦様が説いた仏教では、「自分の感情」と向き合うことこそがメインテーマでした。その仏教では「怒り」「喜び」「苦しみ」などの様々な感情を「別々のもの」としては扱いませんでした。喜びがあるから悲しみが生まれ、苦しみがあるから喜びが生まれ、安心があるから不安が生まれるというように良い感情も悪い感情もみんなつながり合っているからです。光と闇を分離することが出来ないように、「良い感情」と「悪い感情」を分離することは出来ないのです。また人は苦しいがゆえに深い学びをすることが出来る場合もあります。悲しいがゆえに人に優しくすることが出来る場合もあります。「私」という存在の他に「多様な感情」があるのではなく、「多様な感情の集合体こそが私という存在なんです。そしてその感情の集合体の大本に「からだ」という存在があります。「感情」は「からだ」からのメッセージなんです。からだが整えば肯定的な感情が優勢になったり、自分の感情に振り回されなくなります。でも、からだが歪めば否定的な感情が強くなったり、特定の感情にこだわるようになります。ですから「心の問題」を「心の中だけの問題」として見ると、迷路にはまってしまうのです。だから西洋医学では心の問題を処理するときに簡単に薬を使ってしまうのです。でも、薬では心の問題を解決することは出来ないのです。それは明らかな事実です。実は、「からだの様々な活動や出会いに基づく学びや成長」を通してしか、「悩み」や「苦しみ」を本質的に解決することは出来ないのです。いくら自分の感情と向き合っても無駄なんです。自分の感情と向き合うことで一時的な処理は出来たとしても、それが「学び」と「成長」につながっていなければ、またすぐに同じ問題が繰り返されてしまうのです。<明日に続きます>
2024.09.08
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現代社会には、「狭い部屋の中に閉じ込められ、傍にいる人間はお母さんだけ、お話しするのも、関わり合うのもお母さんだけ、子どもの相手をしてくれるのはオモチャや、テレビや、タブレットや、ゲーム機などという機械や人工物だけ」という状況の中で育っている子どもたちがいっぱいいます。これでは、お母さんも苦しくなり、子どもが「独り立ちできる一人前の人間」として育たないののは当たり前です。「独り立ちする」ということは「人と人のつながりの中で自分らしく生きる」ということです。「一人ぼっちで生きる」ということではありません。そもそも人は「一人ぼっち」では生きていくことが出来ない生き物なんです。でも、「一人ぼっち」で育った子は「人と人のつながりの中で自分らしく生きる能力」を育てることが出来ないまま大人にならざる終えないのです。「からだの育ちに必要なもの」を与えなければからだは育ちませんよね。これは明らかなことです。その「からだの育ちに必要なもの」とは食べ物だけではありません。いくらいっぱい食べ物を与えても、食欲がなければ食べないからです。子どもがいっぱい食べるようになるためには、いっぱいからだを動かす必要があります。からだを動かす目的も必要です。からだを動かす喜びを伝えてくれる仲間や大人も必要です。そういうものを与えずに、ただ、美味しいものをいっぱい食べさせても、食べたものがからだの育ちに使われることなく、脂肪として溜め込んで肥満になるだけです。それでも、食べていれば「子どもの成長を支える命の働き」によって体は大きくなり、性的な成長も進み、見かけは成長しますが、成長するのは「みかけ」だけです。心もからだも中身は幼い時のままです。でも、見かけだけは成長するので、お母さんはその状態に問題を感じません。周囲の子どもの多くも同じ状態なのでなおさらです。「これが今どきの子ども達なんだ」と思うだけです。それが問題として表れてくるのは、子どもが思春期を迎えるころです。思春期になると子どもたちは親から離れて独り立ちする準備を始めます。子ども自身が望むと望まないとにかかわらず、そういう成長プロセスに入ってしまうのです。思春期が来ると、本人が望んでいなくても、自動的に性的な成長が始まりますよね。それと同時に自立のための「自他分離」が始まるのです。「反抗期」と呼ばれるものはその表れです。それは、幼い時から家族に守られて旅をしていたのに、思春期になると「ここから先は一人で行きなさい」と、突然、家族が去って行ってしまうような感じです。そこから先の旅を共にする仲間は自分で見つけなければならないのです。でも、それまで「狭い部屋の中に閉じ込められ、傍にいる人間はお母さんだけ、お話しするのも、関わり合うのもお母さんだけ、子どもの相手をしてくれるのはオモチャや、テレビや、タブレットや、ゲーム機などという機械や人工物だけ」という状況の中で育った子は、「一人で歩く能力」も「仲間を見つけたり、仲間を作る能力」も育っていません。学校では他の子と出会っていますが、生徒一人一人が個別につながり合って学んだり、遊んだりしているわけではありません。学校も、子どもを管理し、勉強を教えるだけで「仲間づくり」のサポートをしていません。そのため、毎日学校で会っておしゃべりしていても、「仲間としてのつながり」は作れないのです。だから学校から帰ってまで一緒に遊ぼうとはしないのです。それでも、思春期前の子どもは、オモチャや、テレビや、タブレットや、ゲーム機があればそれで満足していられます。でも、思春期が来てしまうと、それだけでは満足できなくなってしまうのです。お母さんが一緒の時はゲームをしながらでも、お母さんについて歩いていれば迷子にはなりませんでした。でも、思春期がくると、いつの間にか一人ぼっちになってしまっていることに気付くのです。当然、孤独や不安も感じるようになります。その現実や孤独や不安を忘れるために、さらにネットの世界やゲームに依存してしまう子も多いです。子どもの頃は単なる遊びだったゲームが、思春期頃から現実逃避の道具に変化していくのです。そのような状態の子は、自分を守ることばかりを考えるようになります。「前に進む」とか、「自分を成長させる」とか、「自分の世界を広げる」などということには関心がありません。問題は、そのまま大人になり、結婚して子どもが生まれても、自分を守ることばかり考えている大人が増えて来たことです。「子どもの犠牲にはなりたくない」などと言う人もいます。そして、子どもが犠牲になり同じことが繰り返されます。もしその負の循環を断ち切りたいのなら、子どもを一人だけで囲い込んで育てることを止めた方がいいです。人と人のつながりの中で子どもを育てるようにした方がいいです。そしてそのためには、お母さん自身が「人と人のつながり」の中に身を投じる必要があります。でも、「子どもには仲間を作ってあげたい、でも、私は一人でいいです」などと言う人が結構いるのです。でもそれは無理なんです。私の主な活動対象は、幼い子どもであり、お母さんです。でも、子どもが思春期を迎え、それまでの問題が目に見える形で吹き出し始めてから相談に来る人が多いのです。私のブログを読んで「そういうことだったのか」と気付いて相談メールを送ってくる人も多いです。でもそれが「幼児期からの育ち」につながるものなら、すでに思春期を迎えた子どもに対して出来る事は限られてしまうのです。親の苦しみも分かります。同時に子どもの苦しみも分かります。だからなんとかしてあげたいと思うのですが、何にも出来ないのです。それが歯がゆいのです。だから、後悔しない子育てをしてもらうために、ブログでこういうことを書いているのですが、まだ子どもが幼くて成長に関する問題が「困ったこと」として表れていない状態のお母さんの多くは、こういうことには興味がないのです。
2024.09.07
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それがどんなことでも、「新しいこと」を始める時には「お手本」が必要になります。赤ちゃんが話し始める時にも、歩き始める時にも、感じ始める時にも、考え始める時にも、遊び始める時にも「お手本」が必要になります。「学ぶ」の基本は「真似る」だからです。まただから、日本人らしい人に育てられた子は日本人らしく育ち、フランス人らしい人に育てられた子はフランス人らしく育つのです。私は自宅では造形教室をしていますが、お父さんが大工さんの子は、最初から道具の扱い方が上手です。何かを作ったり、絵を描いたりするのが好きなお母さんに育てられている子は、何かを作ったり絵を描いたりすることを楽しむことが出来ます。うちの長女の家庭では、長女も旦那さんも歌や音楽が好きです。合唱もやっています。そして、子ども達三人もまた歌や音楽が好きです。「勉強しなさい」と追い立てるから子どもは勉強するようになるのではなく、お母さんが勉強したり、学んだりすることを楽しんでいる姿を見て、子どもは自分の意思で勉強するようになるのです。「優しくしなさい」と強く言うから「優しい子」に育つのではなく、常にお母さんの優しさに触れているから「優しい子」に育つのです。「自由に生きることが出来る大人に育ってほしい」と願っている人は多いですが、お母さん自身が自由に生きることを諦めてしまっていたら、いくら「自由に生きることが出来る大人に育ってほしい」と願っても、子どもは「自由に生きることが出来ない大人」に育ってしまうのです。子どもがイジメをしていると「イジメはよくない」と子どもを非難しますが、大人がお互いに助け合う姿を見せていなければ、子どもも仲間と助け合うことが出来なくなります。そして、自分を守ることばかり考えるようになります。「イジメ」はその結果に過ぎません。だから、「どのような大人と、どのように関わりながら育っているのか」ということと「どのような仲間と、どのように関わりながら育っているのか」ということが、「子どもが育つ方向性」を決めてしまうのです。助け合いながら創造的に遊んでいる仲間と関わりながら育っている子は、助け合ったり、創造的に感じ、考え、行動することが出来る能力を育てることが出来るでしょう。でも、大人たちによって無理やり連れてこられた子どもたちを集めても、子ども達は本能と欲求に従って行動するようになるばかりです。ケンカやイジメも起きます。そんな時、子どもが憧れるようなことが出来る年上の子や大人がその場にいれば、子ども達はその子や大人から学ぼうとし始めます。それもまた本能だからです。私は火花を起こして火をつけるファイヤースターターを10個ぐらい持っていますが、子ども達がバラバラに遊んでいる場で、私がチャッチャと火をつけてみせると、何も言わなくても子ども達が群がってきます。そして、夢中になって火おこしを始めます。誰かが成功すると歓声が起きたりもします。中には火おこしにはまってしまい、一人で黙々と1時間以上も取り組む子もいます。薪割りにはまる子もいます。ベーゴマも同じです。竹馬やコマも。昔の子ども達の遊びにはそういう力があったのです。そして、そういう技が得意な子が中心になって群れがまとまっていたのです。また、昔の子ども達の群れには、世代を超えて長い間受け継がれてきた「子どもと子どもをつなぐ遊び」がありました。子ども達はその遊びを共有することでつながることが出来たのです。そしてそのような場で、「ルールを守ること」、「弱い子を守ること」、「みんなで相談すること」、「みんなで協力すること」などを学んでいたのです。ですから、「群れて遊んだ経験がない子」や「みんなと一緒に遊ぶ楽しさを知らない子」をいくらいっぱいあつめて一緒に遊ばせようとしても、それだけでは「遊び」も「つながり」も生まれないし、「遊びを通して子ども達が育つ場」も生まれないのです。子どもの群れが群れとして機能するためには、みんなが憧れるような「かっこいいお兄ちゃんやお姉ちゃん」が必要なんです。そういう子がいない時には、子ども達が憧れるような事が出来る「かっこいいお母さんやお父さん」でもOKです。むしろ、弱肉強食的な原理に支配された場になってしまい、
2024.09.06
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現代社会の子どもたちは、「大人が、大人の価値観に基づき、大人のために作った社会」の中だけで暮らしています。でも子どもたちは、その「大人が、大人の価値観に基づき、大人のために作った社会」に適合することが出来ません。また大人たちも、子どもたちをいきなり「大人の社会」に放り出す危険性を知っています。だからネットなどにも「子どものためのフィルター」をかけたりしています。そして「子どものための公園」を作り、「子どものためのオモチャ」を作り、「子どものための場所」を作り、「子どものためのお菓子」を作り、「子どものためのテレビ番組」などを作っています。「子どものための権利」なるものも作っています。そしてそれが「大人としての優しさ」だと思っています。それはつまり、「現代社会に生きている子ども達は常に子ども扱いされている」ということです。現代社会では大人と子どもが、「大人」という「子どもを守り世話をする存在」と、「子ども」という「大人に守られ世話を受ける存在」に分かれてしまっているのです。問題は、「子ども」という「大人に守られ世話を受ける存在」も、やがて「大人」という「子どもを守り世話をする存在」にならなければいけないのですが、「その役割の交代を子どもたちが学ぶ場」がないということです。大人たちも子どもたちに「大人としての役割」を伝える機会がありません。そのため、現代社会では大人になってもまだ「子どもの時に受けていた保護」を求め続ける「見かけは大人、中身は子ども」の大人が増え続けています。30才、40才、50才になってもまだ親の保護を求め続けている人もいます。成長の過程で「大人になるための学び」「守る側になるための学び」を学んでいないのでそれは当然の結果なんです。昔の子ども達は兄弟も多かったし、遊びの場にも異性や異年齢の子もいっぱいいて、みんなで助け合いながら遊んでいました。そして、子どもは他の子を「子ども扱い」しません。自分よりも幼い子には手加減しましたが、同じような年齢なら対等に関わりました。助け合うこともしたし、ケンカもしました。子ども相手に子どもが「おれは子どもなんだから」と主張しても、相手も「おれも子どもだ」と主張してくるでしょう。子どもが「子どもとしての権利」を主張できるのは相手が大人の時だけなんです。これは「権利」と呼ばれるもの全般に言えることです。「女性としての権利」は男性に対してしか主張できないのです。昔の群れ遊びの場には、幼児から高学年の子までいました。私が属していたグループをまとめていたのは中学生のお兄ちゃんでした。下は幼稚園ぐらいの子です。幼稚園ぐらいの子と高学年の子がみんなで一緒に遊んでいたのです。そういう場では「僕は子どもなんだから」などと子どもの権利を主張する子はいません。また、大きい子が小さい子も一緒に遊べるように工夫していました。そして最初は「世話を受けていた子」がやがて「世話をする側」になっていきました。つまり子どもたちは、「群れ遊びの場」で楽しく遊びながら「大人になるための学び」や「守る側になるための学び」もしていたのです。また「お手伝い」という形で「大人の役割」も学んでいました。あとこれも非常に重要なことなんですが、子どもだけでなく自然もまた子どもを「子ども扱い」しません。「子どもが登りやすいように自らの形を変える木」などというものは存在しないのです。落ちてもケガをしないように地面をフカフカになどしてくれないのです。だから、自然の中で遊ぶためには、子どもの方が自然に合わせる必要があるのです。「自然は危険だ」と言って子どもを自然から遠ざける大人もいますが、でも子どもが「自立して生きることが出来る大人」になるためには、「自らの力でその危険を克服するための学び」をする必要もあるのです。人工的に作られた公園で子どもがケガをしたら、付き添っていた大人か、公園の管理者がその責任を問われます。でも、森の中で遊んでいてケガをしたら、それは子ども自身の責任です。子ども自身で何とかするしかないのです。昔の子どもの群れには「大人の付き添い」などなかったのですから。子どもが「子どもを子ども扱いしない自然」の中で、「子どもを子ども扱いしない異年齢の子ども達」と群れて遊ぶことが、「子どもが大人になった時の学び」を支えてくれていたのです。でも、それもほぼ消滅してしまいました。現代社会に生きる子ども達は、「大人として生きるために必要な学び」を学ぶ場を失ってしまったのです。
2024.09.05
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昨日のブログ「自然とのつながりを取り戻そう」(もっと自由に生きるために)に対して、「めげぞう」さんから以下のようなコメントをいただきました。小学校のお母さん達に、放課後の過ごし方を聞いてみたら,半数以上の子ども達が、放課後誰とも遊んでいない事がわかりました。平日全て習い事をしている子平日全て民間学童で過ごしている子2週に1度くらいは約束して誰かと遊ぶけどそれ以外はiPadをやっている子びっくりしたのが、外で遊ぶ事を母が良い事だと思ってませんでした。地域のプレイパークに小学生の子ども達が来ない事がよくわかりました。そして低学年からスマホです。遊べるかわからないけど家にピンポンしようと言うことも皆無でした。地域で、外でも遊ばせないのですから、自然は程遠いと思います。海にも川にも危ないから行かないそうです。何を育てているのかわからなくなります。学校や地域によって程度差はあると思いますが、日本全体としてもこのような状態が進行しているのは確かだと思います。植物でも、動物でも、昆虫でも、成長するためには栄養が必要です。そしてその栄養は幼虫の時と成虫の時、幼体の時と成体の時は異なります。芋虫の時に必要な栄養と、蝶になってから必要な栄養は異なります。おたまじゃくしの時に必要な栄養と、カエルになってから必要な栄養も異なります。ちなみに、今ネットでその違いを調べたら、AIの回答は以下の通りでした。おたまじゃくしとカエルの食べ物は次のとおりです。おたまじゃくし草食よりの雑食で、茹でたホウレンソウやナッパ、カツオブシ、ニボシ、米、パンなどを食べます。人工飼料も与えられますが、同じ餌ばかり与えると栄養バランスが偏って成長が阻害される可能性があります。また、動物質の餌を与える場合は、水質の悪化に注意が必要です。カエル肉食性で、ハエ、蛾、コオロギなどの生きた昆虫を食べます。水生のカエルはメダカなどの小魚を与えます。カエルの種類や大きさによって食べる虫は異なり、アマガエルはガガンボやアブラムシ、ウンカなどの田んぼの稲を食い荒らす害虫を食べています。繁殖期のオスはほとんどエサを食べません。つまり、カエルは肉食ですが、おたまじゃくしの時は「植物も含めたバランスの取れた栄養」が必要だということです。人間の場合でも、赤ちゃんに必要な栄養、幼児に必要な栄養、思春期前後の子どもたちに必要な栄養、大人になってから必要な栄養、老人に必要な栄養は異なりますよね。もっと細かく言えば、季節によっても「からだに必要な栄養」は異なります。朝昼晩でも「からだに必要な栄養」は異なります。なぜなら、年齢や季節や一日の時間によって「からだの状態」が異なるからです。「からだをいっぱい使って遊んでいる子」と「本ばかり読んでいる子」は「からだの状態」が異なります。だから、「必要な栄養」も異なります。そのくらいのことはみんな知っているのではないでしょうか。そして人間の場合は「からだ」だけでなく、「知性」や、「心」や、「感覚」や、「意識」や、思考力」や、さらには「魂」まで育てる必要があります。その場合でも、「知性の育ちに必要なもの」と「心の育ちに必要なもの」は異なります。「思考力の育ちに必要なもの」と「感覚の育ちに必要なもの」も異なります。さらには、同じ「知性の育ちに必要なもの」であっても、子どもの年齢によってその内容は変わります。子ども一人一人の特性によっても異なります。子どもの育ちには、こんなにも多様な「必要なもの」があるのです。ですから、大人がそれに合わせて子どもに栄養を与えるのは不可能なんです。でも、大丈夫なんです。子どもは「遊び」を通して、「自分の成長に必要なもの」を自分の本能で満たそうとするからです。感覚が育っている時は、感覚を刺激するような遊びを好みます。身体能力が育っている時には身体能力を必要とするような遊びを好みます。社会性やコミュニケーション能力が育っている時には仲間と遊びたがります。言語能力が育っている時には「おしゃべり」や「言葉遊び」などを楽しみます。子どもたちはこのようにして「遊び」を通して、本能的に「自分の育ちに必要なもの」を満たそうとしているのです。男の子は、思春期になってからだがしっかりとしてくると肉が食べたくなりますよね。それと同じ働きです。子ども達は「多様な状況での多様な遊び」を通して、自分自身の状況に合わせて自分自身の成長を促しているのです。それは子どもの遊びを見ているとよく分かります。成長に合わせて「遊び」が変化していくからです。でも現代社会の子どもたちは、めげぞうさんのコメントにもあるように、その「遊び」を奪われてしまっています。そして、「成長が終わってしまった大人」と同じものを与えられています。テレビやゲームやネットなどで得ることが出来るものは、「成長が終わってしまった大人の感性」によって作られた「成長が終わってしまった大人」のためのものです。「成長しつつある子ども」のためのものではありません。皆さんは、大人と同じ味付け、大人と同じ栄養の食べ物を幼い子どもたちに与えていますか。普通はそんなことしないですよね。それに子どもも嫌がりますよね。カレーを作るときも「子ども用」を別に作ったりもしますよね。でも、現代の子どもたちは「大人と同じ環境」の中で暮らし、「大人と同じルール」を求められ、大人のように義務に縛られ、子どもらしく感じ、考え、行動する自由を奪われて生活しています。また、刺激や情報に関しては大人と同じものを与えられています。現代の子どもたちは、「子どもが必要とし、子どもが求めるもの」ではなく、「大人が必要とし、大人が与えるもの」だけで成長しなければならないのです。でもそれは無理なんです。
2024.09.04
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子どもたちを喜ばせるのは簡単です。「欲しいもの」を与え、「行きたいところ」に連れていき、「見たいもの」を見せ、「やりたいこと」をやらせ、「食べたいもの」を食べさせれば、子どもたちはすぐに喜びます。ただし、その「子どもたちを喜ばせるもの」は、子どもたちが「すでに知っているもの」である必要があります。すでに「ポケモン」をよく知っているから「ポケモンミュージアム」に連れて行くと喜ぶのです。ディズニーの映画やキャラクターを知っているから、「ディズニーランド」に連れて行くと喜ぶのです。そして子どもたちは、日常的にテレビや、映画や、ゲームや、youtubeなどを通して、そういうものに触れ、あこがれを感じています。また、企業もそういうメディアを通して子どもたちにそういうものを欲しがるように働きかけています。アイドルに会いたいと思うのも同じです。メディアが作りあげた「キラキラしたアイドル」を見ているから、アイドルに会いたくなるのです。そして、会うと喜ぶのです。その「キラキラ」は、メディアが作りあげた幻想なんですが、子どもたちはそのことを知りません。そして、これらの「子どもたちを喜ばせるもの」の全てが、大人たちが創り出した人工物です。自然や、命や、からだなどとのつながりがない虚構の世界です。そのため、「命の働きとつながった子どもの成長」を支える力はありません。また、お金がないと得ることが出来ません。また、それ自体に多様で複雑な世界が含まれているわけではないのでしばらくすると飽きます。自然界は、それ自体が生き物なので、常に動き変化しています。だからいつまで見ていても飽きないのですが、人工物は生き物ではないので、人間が変化させないことには変化しないのです。そのためそのままではすぐに飽きます。だから常に新しい商品を作り出しています。でもそれを得るためには「お金」が必要です。また、その「人工的な世界」の中に閉じ込められ、人工的な世界の中にあるものだけを欲しがり、喜ぶようになってしまった子どもは、その世界から外に出ていかなくなります。お金さえあれば、簡単に「欲しいもの」を得ることが出来るのですから、そこから出ていく必要がないのです。でも、「常に新しい刺激を得るためのお金」に対しては執着するようになります。やりたいことをやった結果としてお金を得るのではなく、お金を得るために働くようになるのです。だから仕事は何でもいいのです。テレビでも「空き時間に簡単にバイトが出来ますよ」と宣伝しています。そして、現代社会には「お金を稼ぐために生きている人」がいっぱいいます。それはそれで「一つの生き方」ですから、そういう生き方をしている人を否定はしませんが「もったいないな」とは思います。せっかく与えられたたった一度っきりの人生を、お金を稼ぐためだけに使ってしまうのはもったいないです。そんな現代社会でも、まだ「命の世界」や「自然の世界」とのつながりが強い3才ごろまでの幼児は、積極的に「外の世界」に出ていこうとします。でも、「外の世界」を嫌う大人たちによってすぐに「安全で、清潔で、刺激的で、快適に管理された人工的な世界」に連れ戻されてしまいます。その繰り返しを通して子どもたちは外の世界に対して興味も感じなくなります。「自分たちが暮らしている人工的な世界の外にはもっともっと大きな世界が広がっている」ということも分からなくなります。さらには「外の世界」に恐怖を感じるようになってしまう子すらいます。また、大人たちも「外の世界」のことを語りません。虫の面白さ、草や木の美しさ、風の音、光の揺らぎ、雲の不思議について語りません。命の不思議、死の不思議も語りません。というかそもそもそういうことを知りません。出会ったことがないのですから。その一方で、子ども達に「虫やばい菌の恐ろしさ」や、「自然の不潔さや危険性」はいっぱい教えています。そのため、人工的な世界の中だけで暮らしている子どもたちは、次第に「外の世界」に対する興味を失うだけでなく、「外の世界」を怖がるようになります。そういう子は、部屋の中に虫がいただけで「殺して殺して!」と大騒ぎをします。ちなみに虫は「外の世界」の住人です。うちの教室には時々「蚊」が出没するのですが、「蚊」がいただけで大騒ぎをする子もいます。そういう子の家には蚊がいないそうです。クモも時々出没しますが、当然、クモでも大騒ぎします。気になるのは、そのような時「外に出して」ではなく「殺して」と主張する子が多いことです。「蚊なんか全部殺しちゃえばいいんだ」と言う子もいます。昔、と言っても、人類史的にはつい最近のことですが、人々は自然と共に生きていました。そのため、自然から学び、自然と対話する能力を持っていました。自然の怖さも知っていましたが、素晴らしさや、美しさや、面白さも知っていました。お金がなくても自然があれば衣食住の全てを賄うことが出来ていたのです。子どもたちもまた、自然があればいつまでも遊んでいることが出来ました。ただし、自然は「ただそこにあるだけ」ですから、子どもの方が能動的に感じ、能動的に考え、能動的に行動しないことには楽しくないし、遊びも生まれません。だからこそ、能動的に感じ、能動的に考え、能動的に行動する能力を育てることが出来たのですが、人工的な世界が子ども達に与えているものは、お金がないと楽しめないものばかりです。それらはお金がないと楽しめませんが、お金があれば能動的に感じ、能動的に考え、能動的に行動しなくても楽しく遊ぶことが出来ます。そしてそれ故に、中毒性があります。
2024.09.03
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お母さんは、子どもが幼いうちは毎日、四六時中、我が子と一緒にいます。遊んでいる時も、食事をしている時も、テレビを見ている時も、寝ている時も一緒です。だから、「自分の子どものことは自分が一番よく知っている」と思っています。でもそれは思い込みに過ぎません。多くのお母さんたちが知っているのは、「お母さんと一緒にいる時の我が子」「家の中にいる時の我が子」「日常生活を行っている時の我が子」に過ぎないからです。「自然の中の我が子」、「仲間の中の我が子」、「何かを描いたり作ったりしている時の我が子」、「仲間と一緒にからだを動かして遊んでいる時の我が子」のことはあまり知らないのです。そういう場に立ち会うことがあまりないからです。「我が子を海に連れて行ったら、どういう反応をして、どういう遊びを始めるのか」などということは、実際に子どもを海に連れて行かないと分からないのです。実際、私は、30年近く、親子で一緒にからだを動かしたり、歌ったり、踊ったり、作ったり、劇をやったり、わらべ歌で遊んだりするような活動をしていますが、そういう場で初めて「それまで見たこともない我が子」の姿を見て驚くお母さんも多いです。家では普通に遊んでいるのに、他の子がいる場に来ると固まって動けなくなってしまう子もいます。みんなで遊んでいるのに、みんなと一緒の輪に入らず、一人だけで遊びたがる子もいます。絵本を読んでいる時には多くの子が静かに話を聞いていますが、そんな時も全く関心を示さない子もいます。絵本を読んでいる人の真ん前に立って、他の子から「見えない」と言われる子もいます。静かに集中してお話しを聞く子もいます。輪になって座っている時に、絶対に自分のお母さんのお膝にしか座らない子もいれば、他のお母さんのお膝でも気にしない子もいます。さらには、他のお母さんのお膝にばかり座りたがる子もいます。劇遊びなどで、役になるために変身する時も、ノリノリで変身する子もいれば、変身を嫌う子もいます。お母さんが変身しても大丈夫な子もいれば、お母さんが変身すると泣き出す子もいます。そのような子どもの状態は、私の教室に来る前からその自身が持っていた特性なのですが、そういう状況の中での我が子を見たことがないお母さんは、そういう場で「それまで知らなかった我が子の姿」を見ることになるのです。幼稚園に行くようになって、先生から「幼稚園での我が子の姿」を聞いて、家にいる時とは全然違うその姿に驚く人も多いのではないでしょうか。狭い部屋の中や、ブランコや滑り台があるような小さな公園で遊んでいる子の状態と、森や野原で仲間と一緒に自由に走り回って遊んでいる時の状態は全く違うのです。からだの動きも、声も、笑顔も全く違うのです。以前、体験に来た人が、家では見たことがないほど活発に動き回り、家では見たことがないような笑顔で遊んでいる我が子を見て、「こんな笑顔初めて見た」と言っていました。このお母さんだけではありません。毎日一緒にいるのに、子どもの「本当の笑顔」や「本当の姿」を知らないお母さんがいっぱいいるのです。「我が子の素晴らしさ」、「我が子の問題点」、「我が子の能力」、「我が子の気質」に気付かないお母さんもいっぱいいます。そのようなことに気付くことが出来る場面に立ち会ったことがないからです。確かに、テレビを見ている時も笑うかもしれません。美味しいケーキをもらった時も笑うかもしれません。でも、仲間と一緒に自由に走り回って遊んでいる時の笑顔はそれとは全くレベルが違うのです。からだ全体が光っているような笑い方をするのです。狭い空間に閉じ込められ、自由を奪われた状態で暮らしている子どもたちは、その命のエネルギーや光を内側に閉じ込められてしまっているのです。そして、その状態が長く続くと命のエネルギーも光も萎えていってしまうのです。エネルギーというものは動き循環することで保たれるものだからです。
2024.09.01
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自覚しているかどうかはともかくとして、子育てをしている多くの親は、我が子に対して何らかの期待を持っています。例えば、「優しい子に育ってほしい」、「良い子に育ってほしい」、「自立した人間に育ってほしい」、「スポーツが得意な子に育ってほしい」、「勉強が出来る子に育ってほしい」、「強い子に育ってほしい」、「かっこいい子に育ってほしい」、「賢い子に育ってほしい」などなどです。子どもに対して何にも期待しないで子育てをしている人の方が少ないのではないでしょうか。そして、実際の子育てにおいても、その期待に沿って子どもに言葉かけをしたり、子どもを励ましたり、子どもを追い立てたり、子どもの遊びや生活の環境を整えようとしています。ですから、そのお母さんが子どもにどのような言葉かけをして、どのようなことに追い立てているのかを見れば、そのお母さんが子どもに何を期待しているのかを知ることが出来ます。本人が自覚していなくても、周囲の人には分かるのです。私の場合は、今思えば「賢い子に育ってほしい」だったのではないかと思います。ただし、子育てをしている最中にはそんな自覚はありませんでした。「今、振り返って思えば」ということです。だから勉強にも追い立てませんでした。「学校の成績」と「賢さ」は関係がないからです。「優しさ」も強制しませんでした。「優しさ」は「賢さ」の表れに過ぎないからです。「優しくしなさい」と言わないと優しくできないのは「優しい子」ではないのです。「良い子」も求めませんでした。大人や親の言うことに従うだけの子は「賢い子」ではないからです。「自立」も強制しませんでした。「精神的自立」もまた「賢さ」の結果に過ぎないものだからです。子どもに「自分らしく生きる」ことを望むのなら、「自分の感覚で感じ、自分の頭で考え、自分の意思と判断で行動することが出来る賢さ」を育てることが必要になります。じゃあ、私は何をしたのかというと、山のように読み聞かせをしました。仲間や自然と出会わせました。色々なところに連れていき、色々な大人と出会わせました。モノや道具に依存しない色々な遊びや活動に子どもたちを誘いました。「そのような関わり合いで育つ何か」を期待していたからです。今思えばそれが「賢さ」ということだったのではないかということです。じゃあ、その「賢さ」ってなんなのか、ということです。私はそれを「相手の立場に立って考える能力」と考えて、このブログに書こうと思っていたら、ちょうど「賢さ」について書いた記事と出会いました。それは「ナゾロジー」というサイトの以下の記事です。「賢い」と思われる人の条件は相手を思いやれること!11カ国で共通以下はここからの抜粋です。「賢い」と思われる人には多くの国で共通する特徴があったようです。カナダ・ウォータールー大学(University of Waterloo)の研究チームは最近、11カ国における約2700名の参加者を対象に「どういう人を賢いと思うか」を調査。その結果、どの国でも「内省的で論理的に思考し、他人の感情を思いやって気遣うことができる人」が最も賢い人と捉えられていました。研究の詳細は2024年8月14日付で科学雑誌『Nature Communications』に掲載されています。どうやら、私が「賢さとは何なのか」と考えていたことは、私一人の思い込みではなかったようです。ここではっきりしているのは、どの国でも、「成績が良いこと」を「賢いこと」とは認識してないということです。世界中で多くの人が、「賢さ」とは「相手の立場に立って感じ、考え、判断する能力」と考えているということです。それは、そこが「人間らしさの根幹」だということなのでしょう。ただし、「賢さってなにか」ということが分かっても、実際にそれを育てるのは至難の業です。なぜなら、「賢い子ども」を育てるためには、親もまた賢くなる必要があるからです。ただし、潰すのは簡単です。子どもが感じていること、子どもが考えていること、子どもがやりたいこと、子どもの成長に必要なことを無視して一方的に親の期待を押し付ければ、「賢さの育ち」を簡単につぶすことが出来ます。でもそれを止めるためには、親自身が自分の人生を自分の意志で生きる覚悟が必要になります。
2024.08.31
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子育てで一番大切なことは子どもの「笑顔」を育てることです。子どもの「笑顔」が育っている時、お母さんにも家族にも笑顔があります。というか、本当はその逆で、お母さんや家族に笑顔があるから子どもの笑顔も育っていくのですが、いずれにしても子どもの笑顔は子育ての大切なバロメーターでもあるわけです。確かに、子どもは泣いたり怒ったり悲しんだりしながら成長していくのですが、それでも家族の支えがあればすぐに笑顔に戻ることが出来るのです。そして、すぐに笑顔に戻ることが出来る子は感情が豊かな子でもあります。私の見た範囲ですが、笑顔の少ない子はどうも感情が偏っていることが多いように感じるのです。そのようなタイプの子は、感情が固まってしまっていて、笑うことだけでなく、素直に怒ることも、泣くことも出来ないような気がします。笑顔のない子(人)は自分を守ることに精一杯なのです。笑うということは緩むことです。でも、緩むということは無防備になることでもあります。だから、不安や緊張が強い子はからだを緩ませることなく顔だけで笑おうとするのです。だからなんとなく不自然だし、他の子との間の壁が消えないのです。顔は笑っていてもからだは相手を拒否しているのですから。このような「笑顔」で子育てをしているお母さんも多いような気がします。実は、「からだが緩んで出てくるような笑顔」は心が健康である証拠なんです。だから、「笑顔がある子」は心の病気にかかりにくいのです。まただから、そのような笑顔の子の周りには色々な子が集まるのです。世の中には様々な子育て法や教育法があります。でも、それがどんなに立派な哲学や、理論や、方法を持っていても、実際にそれらを実施していく過程で、お母さんや子どもから笑顔が消えてしまうようなら、それはそのお母さんにも、子どもにも合っていないのです。だから、そのことに気づいた時点ですぐやめた方が身のためです。そうでないと、取り返しがつかないことになってしまいますから。例えば、すぐに他の子を打ってしまう子が時々います。それで周囲の子やお母さん達との関係が悪くなってしまうこともあります。でも、そのような子に対して「他の子をぶたないように」強制しても事態は良くなりません。かえって悪化してしまうこともあります。親子の関係も悪くなり、子どもの笑顔も消えます。そんな時は「打たないように」強制するのではなく、「他の子と仲良く遊ぶ楽しさ」を体験させるのです。でもそのためには、大人も子どもの中に入って色々な遊びを伝えたり、一緒に楽しく遊ぶ必要があります。そうすれば笑顔が増えます。そして、笑顔が増えれば結果として他の子をぶつ回数は次第に減っていくのです。なぜなら、自分を防御する理由が消え、からだが緩んでくるからです、もし、「自分で勉強する子に育てたいのなら、勉強を強制しない方がいいです。勉強を強制したら勉強が嫌いになってしまうだけですから。そうではなく、勉強することの楽しさを教えるのです。そうすると笑顔が増えます。でもそれは「勉強を楽しむことが出来る大人」にしか出来ませんけど。子どもがお手伝いをしないのなら、お手伝いが楽しくなるようにお母さんと一緒にお手伝い遊びをしてください。子どもはお母さんと一緒なら楽しくなるのです。一人でも出来るようになるのはその楽しさを充分に味わってからです。子どもの笑顔が育つように子育てをしているのなら、特別な教育方法などに頼らなくても子どもは素敵な大人に育つのです。そこに、特別な「しつけ」などいらないのです。
2024.08.31
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いつも書いていることですが、子どもの頭と、心と、からだの育ちには「子ども自身の自由意思に基づく自由な活動」が絶対的に必要です。でも、ただ放し飼い状態で自由にさせるだけでは、子どもは欲望と本能に振り回され、進むべき道を見失い、迷子になり、不安になり、自信を失い、誰かや何かに依存することで安心と居場所を得ようとし始めます。困った行為をするグループに所属することで安心と居場所を得ようとする子もいます。そんな時、手っ取り早く「やるべきこと」を与えてくれるのが「ゲーム」です。ゲームは次から次へと課題を与えてくれます。じっくり考えるとか、しっかりと感じるとか、わざわざからだを動かすといったような面倒くさいことも必要ありません。次から次へと刺激的で楽しい課題を与えてくれるので、ただ反応しながらその課題をクリアしていくだけで達成感も得ることが出来ます。また、ゲームを通して仲間づくりも出来ます。お母さんもまた、子どもが外に出て困った仲間とつるんだり、事件や事故に合う危険性も減るので安心します。(ネットを通して困った人や困ったコンテンツと出会うことも出来ますが、そこは気にしないのでしょう・・・)それにゲームで遊ばせていると、子どもはお母さんにまとわりつきません。だから、お母さんも自由になります。その時間に家事をしたり、ネットを見たりすることも出来ます。ただし、問題がないわけではありません。それは、「ゲームの中で学んだことは、ゲームの中でしか役に立たない」ということです。リアルな世界で遊び、体験し、学ぶ機会を犠牲にしていくらいっぱいゲームで遊んでも、ゲームの中で学んだことは、自分の命が生きているリアルな世界では役に立たないのです。それはまた、子ども自身の「人間としての成長」にも役に立たないということを意味しています。ネットの記事なんかを読んでいると、「ゲームは子どもの脳機能の発達に有効だ」というような記事を見かけます。それゆえにゲームを肯定する人もいます。でも、いくら脳の機能がアップしても、それに「人間としての成長」が伴わないのならその能力が有効的に活用されることはないのです。「自分の命やからだが存在しているリアルな世界」で生きていくために必要なことを学ぶためには、「自分の命やからだが存在しているリアルな世界」での体験が絶対的に必要なんです。VRで海の中をいっぱい泳いでも、実際の水に入って泳ぎを学ばなければ泳げるようにはならないのです。本人が泳げる気になって海に飛び込んだら溺れてしまうのです。ゲームの中でいっぱい走り回っても、子ども自身の心肺機能も筋骨格も育たないのです。でも、リアルな世界での体験が乏しい子ども達には、そのことが分からないのです。「ゲームの中で釣りが上手なら、実際にやっても上手に出来るはずだ」と思い込んでしまうのです。でも、テレビを見ているとそんなことには一切触れず、「ゲームの楽しさ」ばかりを宣伝しています。リアルな世界での体験が乏しい親たちも、そのことに問題を感じません。そしてそういう親が増えて来ました。お金や、経済や、競争にしか興味がない大人達は、子どもの「人間としての成長」にも興味がないのでしょう。だから、「ゲームにしか興味がない子ども達」が大量生産されてしまっているのでしょう。今、子ども達に「一番やりたいことは何?」と聞くと、多くの子(男子はほとんど全員)が「ゲーム」と答えます。人生で一番「多様な体験」と「多様な学び」と「多様なつながり」を必要とする時期に、ゲームにしか関心がない子、ゲームとしかつながろうとしない子が凄く多いのです。でも皆さんの子どもが、社会に出てからも生き生きと自分の人生を生きていくことを願うのなら、親はマスコミの言いなりになってはいけないのです。テレビもマスコミもゲーム会社も、皆さんのお子さんの成長には興味がないのですから。国もまた同じです。様々な子育て支援も、子どもの幸せや成長を支えるためのものではありません。単に、大臣や党に対する評価を上げるためのものです。中島みゆきの「宙船(そらふね)」という歌詞の通りです。その船を漕いでゆけ おまえの手で漕いでゆけおまえが消えて喜ぶ者に おまえのオールをまかせるな全文はここで見て下さい。
2024.08.30
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幼い子どもたちは「成長する喜び」に満ちています。出来なかったことが出来るようになった時「ねえねえ、お母さん見て!」と見せに来ますよね。しょっちゅう「なぜ? どうして?」と聞いて来るのも、知らないことを知ることが「成長する喜び」につながるからです。他の子が竹馬に乗っていると自分も乗りたくなったり、他の子が上手にコマを回しているのを見ると自分も上手に回したくなるのも、仲間とつながり、仲間と一緒に成長することが子どもにとっての喜びだからです。子ども達は、自分の意思で努力し、出来なかったことが出来るようになることで、リアルに自分の成長を実感することが出来るのです。それが、子どもの成長における「遊び」の意味と役割でもあります。ここで重要なことは、ただ「出来なかったことが出来るようになる」ことではなく、「自分の意志でやったかどうか」ということなんです。子どもたちは、遊びの場では大人に強制されなくても、自分の意思で努力しますよね。自分の意思で努力するからその活動が楽しくなるのです。そして、自分の意思で努力したからこそ、その過程で学んだことが「子どもの成長」を支える力になるのです。勉強でもスポーツでも、大人に強制されてやって出来るようになっても、それだけでは子ども自身の成長にはつながらないのです。確かに、たとえそれが強制によるものでも、出来なかったことが出来るようになれば能力はアップします。でも、能力はアップしても、それが自分の意思で行ったものでなければ「成長する喜び」にはつながらないし、また「子ども成長を支える力」にもならないのです。だから一流大学を出てもその能力を使って犯罪を犯す人がいるのです。子どもたちを勉強に追い立てている人たちは「追い立てないと勉強しないから」と言います。でもそれは違うのです。学ぶことが「成長する喜び」につながらないから、子どもは勉強しないのです。まただから、追い立てやらせてはいけないのです。そんなことをしたら、子どもは「逃げること」ばかりを考えるようになってしまうのです。一流のスポーツ選手は追い立てられて練習したから一流になったのではなく、自分の意思で練習したから一流になることが出来たのです。一流の選手は成長する喜びを知っているのです。まただから、選手をやめて新しい世界に入っても、その新しい世界で成長することが出来るのです。スポーツが好きな人は「スポーツには子どもを育てる力がある」と言いますが、実際には、「スポーツ」が子どもを育てるのではなく、「自分の意思による活動」が子どもを育てるのです。努力を強制したら成長は止まってしまうのです。これは勉強でも同じです。でも、世の中の多くの大人達がこれをやってしまっています。子ども時代に、遊びや、仲間や大人との関わり合いを通して「成長する喜び」を知った子は、強制されなくても、自分の意思で学び、遊び以外の活動を通しても成長を求めるようになるのです。問題は、最近の子どもたちには、自由に自分の意思で活動する場も、時間も、一緒に成長を競い合う仲間も与えられていないということです。その一方で、常に大人に監視され、他の子と比較され、良い子を求められ、勉強に追い立てられています。そのため「成長する喜び」を知りません。だから、ゲームのような、簡単に、手っ取り早く、楽に楽しむことが出来る遊びにはまってしまうのでしょう。でも、ゲームをやって進化、成長するのは、ゲームの中のアバターだけです。スキルアップするのもアバターです。ゲームをやっている本人は成長しないのです。「たまごっち」でいくら上手に「たまごっちの中の生き物?」を育てても、「たまごっちをやっている子ども」は成長しないのです。
2024.08.29
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古来から、人間が人間らしく生きるために必要な基準として「真・善・美」という考え方が大切にされてきました。goo辞書には「真・善・美」に関して以下のように書かれています。認識上の真と、倫理上の善と、審美上の美。人間の理想としての普遍妥当な価値をいう。でも、古来から大切にされてきたこのような考え方も現代人には「価値がないもの」になってしまいました。まず、AIの進歩で「真」が曖昧になりました。昔の人は「百聞は一見に如かず」と言いましたが、科学の進歩で「本物と区別がつかない偽物」を簡単に創り出すことが出来るようになってしまったからです。100年以上「真実」を写してきた写真ですら、撮ったその場で簡単に加工して「嘘」を創り出すことが出来るようになりました。AI技術を使えば、岸田総理に花笠音頭を躍らせることだって出来てしまいます。皆さんが登場していなくても、皆さんそっくりの顔と姿と声を持ったアバターが登場するリアルな映画だって作ることが出来ます。それでアメリカでは役者の組合が懸念を表明しています。江戸川コナン君の決め台詞は「真実はいつも一つ」ですが、実際には「人間によって真実と認定されたもの」が「真実」として扱われるだけです。人間による判断が「真実」を決めているのです。そのため「真実」はそれを判断する人によってコロコロ変わります。芥川龍之介の小説 「藪の中」を基に撮った黒沢明監督の 「羅生門」という映画のとおりです。ちなみに「真実」と「真理」は異なります。「真実」は人間が確定しますが、「真理」の方は人間を超えた存在です。でもそれ故に議論の対象にはなりません。「美」と同じように「真理」を感じることが出来る人には「真理」は存在していますが、感じることが出来ない人には存在していません。そして、人間が作ったものに囲まれて暮らしている現代人は「真理」を感じる感性が萎えてしまっています。「美」を感じる感性も萎えてしまっています。現代人における「美」は社会的な雰囲気が作りだしている蜃気楼なようなものです。ですからコロコロ変わります。「善」もまた人それぞれです。ある人にとっての「善」は別の人にとっての「悪」であることもあります。アメリカと戦争していた時、日本人にとってはアメリカの兵隊を殺すのは仲間や国を守るための行為であり、善でした。でも、アメリカ人にとっては日本の兵隊を殺すのが仲間や国を守るための行為であり、善でした。「戦争は正義と正義の戦いだ」とも言われます。両方とも「自分の方が正義だ」と主張するのです。人々がまだ宗教を信じていた頃は、宗教が「善」を規定していましたが、異なった宗教を信じている人は異なった「善」を信じていました。現代人は科学を信じていますが、科学は「この世界には唯一の真実も、絶対的に正しい善も存在しない」ということを明らかにしてしまいました。また、「多様性を尊重する」という価値観の元では「善」を一元化する考え方は否定されています。「美」についても同じです。時代や国や文化が違えば「美」の基準は異なります。男性と女性でも異なります。もっと言えば一人一人異なります。美人コンテストでは美しい人を選びますが、その方法は多数決です。「美」には正解がないからです。人々がまだ「つながり」を大切に生きていた頃は、その「つながり」が「真・善・美」の基準を与えてくれていました。というか、「真・善・美」を共有することで「つながり」が維持されていたのです。でも、「つながり」が失われてしまった社会で生きるために必要になるのは「真・善・美」ではなく「お金」です。そして「お金」を得るために必要なのは競争です。「真・善・美」はみんなで共有する必要がありますが、「お金」は共有する必要がないからです。そのため、多くの人が、我が子がその競争に勝ち抜くために子どもたちを競争に追い立てています。でも、幼い頃から競争に追い立てられて育った子は「安心感」も「自己肯定感」も育てることが出来ません。社会に出ても、会社に入っても、結婚しても、子どもが生まれても、他の人と助け合うことが出来ないのです。現代社会では「社会的に共有された真・善・美」は存在しません。でも、家庭や家族がつながり合い、支え合って、幸せに暮らすためには、少なくとも家族の間では「真・善・美」が共有されている必要があるのです。親子間、夫婦間で競争を始めたら家族は崩壊してしまうからです。また、子どもたちの群れ遊びの場でも同じです。「群れ遊び」が成り立つためには、仲間同士で「真・善・美」が共有されている必要があるのです。一人一人が自分勝手な「真・善・美」を主張していたら戦いが起きるだけです。そしてそのためにはお母さんやお父さんが、自分の価値観、自分の生き方、自分が大切にしていることをはっきりとさせる必要があるのです。子どもが他の子をいじめた時にどういう対応をするか。ケンカをした時どういう対応をするか。ドロンコ遊びをした時どういう対応をするか。そういう日常的で些細な関わり合いが、子どもの「真・善・美」の感覚を育ててくれるのです。そしてその感覚が子どもが自分らしく生きる道しるべになってくれるのです。
2024.08.28
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現代社会では、何百年と地域や部族の中で大切にされ、受け継がれてきた価値観や、考え方や、感じ方や、からだの使い方の大切さが否定され、毎日のように変化し続けています。真・善・美の感覚も変化しています。でも、人間の心とからだの基本的な構造や、そのシステムや、育ち方は、何万年も前から変わっていません。栄養状態や衛生状態が良くなることで多少からだの成長が早くなったり、寿命が延びたりしたりはしていますが、からだの基本的な構造や、システムや、育ち方が変わったわけではないので、栄養状態や衛生状態が100年前に戻れば、成長の早さや寿命も元に戻ります。スポーツの記録も年々伸びていますが、人間のからだが進化しているわけではありません。スポーツで使う道具や施設が進化しているから記録が伸びているだけです。東京オリンピックで、アベベ・ビキラは裸足でフルマラソンを走り切りましたがその記録は2時間12分11秒でした。当時の世界記録です。ネットで調べたら、現在の世界記録は、エリウド・キプチョゲ(ケニア)が10月12日、オーストリア・ウィーンで、非公認のフルマラソンで出した1時間59分40秒2だそうです。アベベよりも12分も早いですが、でも、人類の足が速くなったわけではありません。エリウドに裸足で、アベベと同じコースを同じ条件で走らせたら、100%そんな記録は出せないはずです。アベベを超えられるかどうかも不明です。同じ時代の選手でも、お金の有無が記録の結果に直結してしまっています。同じ能力を持った選手でも、より高い装備を手に入れることが出来る人の方が良い記録を出すことが出来るのです。でも、これはフェアではないですよね。現代スポーツはお金がかかるという時点でフェアではないのです。でも、多くの人がそれらを「技術の進化のおかげ」とは考えずに、「人間の能力が進化した」と勘違いしています。繰り返しますが、人間のからだの基本的な構造や、システムや、育ち方は、1万年前の古代人とほとんど同じなんです。変わったのは頭の中と、生活環境だけなんです。科学の進歩で生活環境が変化したから、それに伴って、見かけ上の状態が変化しているだけなんです。成長に必要なものも変わっていません。ですから、1万年前の子どもの成長に必要なものと、現代に生きている子どもの成長に必要なものも基本的には同じです。それは手を使い、頭を使い、心を使い、感情を使い、からだ丸ごとを使った活動をし、多様な体験をし、仲間と関わり、大人から学ぶことです。そのような活動を通して、子どもたちは意識や、心や、知能や、からだや、様々な個人としての能力や、社会人としての能力を育ててきたのです。人類誕生以来何十万年と、人間らしさも、文化や文明もその能力によって受け継がれてきたのです。でも、近代に入り、科学の急激な進歩と、便利な機械の登場によって状況は一変してしまいました。特にここ半世紀ほどの変化は人類史に例を見ないほど過激でした。人類規模で、こんなにも短時間で生活環境が激変してしまったことなど過去に一度もなかったのです。スマホやコンピュータなどを使えば頭を使わなくても高度な計算をすることが出来るようになりました。でもその一方で簡単な計算も出来ない人達が増えて来ました。機械を使えば重いものを持ち上げることが出来るようになりました。でも、その一方で重いものを持ち上げる筋力は低下しました。機械を使えば誰でも美味しいご飯が炊けるようになりました。でも、その一方で機械がないとご飯を炊けなくない人が増えて来ました。ゲームがあれば子どもは一人でも退屈しないで遊ぶことが出来るようになりました。でも、その結果リアルな世界での人と人の関わり方を学ぶことが出来ない子が増えて来ました。相手に共感したり、誰かと助け合う能力も低下しました。ゲームの中では助けいますが、それは利害を共有しているからに過ぎません。ゲームの中には、利害を超えた助け合いは存在していないのです。そういう価値観が肯定されてしまったら、ゲームがゲームとして成り立たなくなってしまうからです。スポーツのチームの中での助け合いも同じです。そのような能力がなくても、便利な機械があれば豊かで贅沢な生活が出来るようになったのです。「それが現代人らしさであり現代人の生活だ」とも言えますが、それは同時に、人間の能力が低下していることとセットになっているのです。子育てをする時、子どもの教育をする時にはそのことを忘れてはいけないのです。
2024.08.27
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日本人は「自分を表現する」ことが苦手です。苦手どころか逃げようとします。自分が感じていることや、考えていることを言葉や行動に出そうとしません。そして、ただ黙って周囲に合わせています。みんな、幼い子どもの頃はそんなことなかったはずなのに、周囲の大人から「良い子」や「正解」を押し付けられ、「みんなと一緒」を強制されているうちにそのような感性が育ってしまうのです。日本の社会では「みんなと違うこと」は「直さなければいけない欠点」なんです。「発達障害」と呼ばれる子が増えてきたのも、学校に行かない子、行けない子が増えてきたのも、社会の「均一圧力」が強くなった結果なのでしょう。「セルフ・レジ」のようなシステムも、社会の多様性を奪ってしまっています。そして、そのようなしつけや教育を受けているうちに、感じたり考えたりする能力自体が萎えてしまっています。コロナ騒動の間に「顔を出してはいけない」と押し付けられ、なんの考えも持たずにそれに従順に従った人たちは、今でも顔を隠して生きています。でも、一人で散歩している時も、自転車に乗っている時もやっているのは「感染を防ぐためのマスク」ではなく「顔を隠すための布」に過ぎません。顔を隠して生活している人がいっぱいいる社会は不気味です。そんな人たちでも、幼い子どもの頃には一生懸命に感じ考え、それを言葉と行動によって表現しようとしていたはずなのに、日常的にそれが否定されることで、感じたり、考えたり、言葉や行動によって自分の感覚や、思考や、想いを表現する能力の育ちが止まってしまったのでしょう。そのような人に、「感じてみて」、「考えてみて」、「言ってみて」、「やってみて」と言っても「何を求められているのか」ということ自体が分からないようです。子育ての勉強会で「子どもから〝なんで勉強しなければいけないの〟〝なんで学校に行かなければいけないの〟と聞かれたらなんて答えますか」と聞いても、納得できるような答えが返ってくることは稀です。「子どもには自分らしく生きて欲しい」と言っている人に、「じゃあ、自分らしさって何ですか?」と聞いても納得できる答えが返ってきません。そのような問いにちゃんと答えることが出来るような人はもうすでに「自分らしく」生きているのです。そして、お母さんが「自分らしく」生きているのなら、子どもも「自分らしく」生きることが出来るように育っていくのです。それは、「日本語を話すお母さん」に育てられれば、子どもも日本語を話すようになるのと同じことです。自分は自分らしさを失った状態から抜け出そうともしないで、子どもにだけそれを求めても無理なんです。でもまだ子どものうちなら、ちょっとした刺激を与え、感じ、考えたことを言葉や行動で表現することを肯定しているうちに、子どもたちはどんどん感じ始めます。考え始めます。発言し始めます。行動し始めます。すると、他者との関わり合いが生まれます。その過程で自分とも出会います。そして、頭と心とからだの成長が始まります。自分らしく生きる能力も育ちます。人間としての精神も育ちます。そしてもっと学びたいとも思うようになります。それが子どもの本能だからです。だから、子どもの育ちには「覚えさせる教育」ではなく、「表現させる教育」が必要なんです。「黙って言うことを聞きなさい」というしつけではなく、「君は何がやりたいの? 何が言いたいの?」と、問いかけるしつけが必要なんです。言いなりになるために聞くのではなく、対話を始めるために聞くのです。でもそのためには、まず大人が、自分の頭で考え、自分の感覚で感じ、自分の言葉で語り、自分の意思で行動することから始める必要があるのですけどね。
2024.08.26
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無事、楽しく、お泊まり会は終わりました。滝ジャンプしたり、滝に打たれて修行をしたり、カニや虫を捕まえたり、ドラム缶風呂や五右衛門風呂に入ったり、花火をしたり、キャンプファイヤーをして怪しい新興宗教のように踊りまくったりしましたが、今回のメインイベントは夕食後の「劇遊び」でした。やったお話はみんなが知っている「桃太郎」と、ちょっと怖い「三枚のお札」でした。それぞれお母さんにリーダーを任せ私はノータッチでしたが、いやー、面白かったのなんの。子ども達やお母さん、お父さん達の底力らを感じました。本当は、子ども達の素敵な表情を捉えた写真をお見せしたいのですが、昨今の諸事情であまり子ども達の顔をお見せできないので、「なんとなく」という写真だけを選びました。こういう表現遊びをすると、子ども達も、お母さん達もどんどん成長していくのが分かるのです。食事でも同じですが、「出すから入る」のです。出すから「入ったもの」が栄養として頭と心とからだに回るのです。でも、現代の教育では出させないで入れることばかりを考えています。だから詰まってしまうし、苦しくなってしまうし、身動きが取れなくなってしまうし、どんなに口の中や腹の中に詰め込んでも、子どもの頭と心とからだを育てる栄養として吸収されないのです。「(なんちゃって)桃太郎」なぜか恐竜も家来に桃太郎に自分の能力を見せる恐竜パン泥棒まで出てきますやられてしまった鬼。でも、この後仲直りします「(なんちゃって)三枚のお札」ヤマンバ、怖いでしょ子ども達がキャーキャー言って逃げ惑いますお札の一枚目は手裏剣が出ます二枚目は大雨が降ります三枚目はなぜかクマが出てきますみんな、子どもとお母さん達で考えました。キャンプファイヤー踊る原住民
2024.08.25
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今日はこれから、山北の「ペガススの家」という所で毎年やっている親子遊びの合宿に行ってきます。ということで、明日のブログはその合宿から帰ってから書きます。******************ダンスを学んだことがない人や、ダンスを見たことがない人に、「自由に踊っていいよ」と言っても、自由に踊ることは出来ません。本人は自由に踊っているつもりでも、周囲の人にはそれは「自由」ではなく「デタラメ」にしか見えません。本人も、そのようなダンスでは楽しくないのですぐに飽きてしまいます。ストレスが溜まっているときなどはデタラメに踊るだけでも気持ちがいいかも知れませんが、それは「排泄」であって、私が言っているところの「表現」ではありません。(排泄もまた「表現」の一種ですが、「表現」のような「人を育て、自由を楽しむ行為」とは異なるものです。)実は、「自由に踊ることが出来る人」は「踊ることを楽しむことが出来る人」でもあるのです。これは、お料理でも、絵を描くことでも、子育てでも、人生を生きることにおいても、仕事でも同じです。「自由に子育てが出来る人」は、「子育てを楽しむことが出来る人」であり、「子育てを楽しんでいる人」は「自由に子育てが出来ている人」でもあるのです。人は「自由がない行為」を楽しむことが出来ないからです。その時、もっと「自由にならなければ」などというような精神論では自由になることが出来ません。むしろ、不自由になります。じゃあ、どうやったら楽しめるようになるのかというと、「学び方」を工夫するのです。その「工夫」が学びを楽しくしてくれるのです。勉強も工夫するから楽しくなるのです。そして、工夫するから身につくのです。ただ頑張っているだけでは身にはつかないのです。そして、「自由」は、その「工夫」の中で実現されるのです。でも、「工夫」をしたことがない人には「工夫する」ということがなかなか分からないようです。子どもでも、最近の子は、思い込みでやってみて、その思い込み通りに行かなかったときにはすぐに諦めてしまう子が非常に多いです。「こうやってだめだったら、ああやってみよう」と工夫することが出来ないのです。そんな時、ただ頑張るだけではどんどん迷路のどん詰まりに追い込まれ、苦しくなるばかりです。そういう子育てをしている人もいっぱいいます。「早くしなさい」と言ってもダメだったら、他の方法を工夫するのです。何回言ってもダメなのに、ただそれを繰り返し続けるだけの人は「工夫しない人」です。それでは「子育て」は苦しくなるばかりで楽しくなりません。自由にもなりません。じゃあどうやって工夫するのかと言うことですが、その時に必要になるのが「視点の切り替え」なんです。ただし、視点の切り替えが出来るようになるためには、「知識」ではなく「多様な体験」が必要になるのです。体験が「自分の視点」を与えてくれるのです。知識の中にあるのは「他人の視点」だけです。だから、知識ばかりいっぱい詰め込んで体験が不足している子は、学ぶことを楽しむことが出来ないし、自由に感じ、考え、表現することも出来ないのです。だから、子ども時代はお勉強などさせずに、いっぱい遊ばせた方がいいのです。
2024.08.24
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現代人は「簡単・便利」と引き換えに「自由」を失っています。社会の色々なことが機械化されることで、私たちの生活は簡単で便利になりましたが、その分一人一人の能力は低下し、不自由になってしまいました。でも、そのことに気付いている人は多くありません。気付くきっかけがないからです。私はパソコンなるものが登場する前からコンピューターを使っていました。オフィスコンピュータなる、冷蔵庫のように大きなコンピュータです。そのコンピュータを動かすためには、その動きを制御するためのコードを入力しなければなりません。パソコンなるものが登場し、私がそれを扱うようになったのは1983、4年頃のことです。まだ「ウィンドウズ」は存在していない時代です。その頃のパソコンもまた、オフィスコンピュータと同じように電源を入れても真っ黒な画面が立ち上がるだけでした。コードを入力して動作を指示しないと何にも出来ないのです。電話回線を使ったパソコン通信なるものはありましたが、インターネットなどはありませんでした。でも、コードを入力して動作を指示しないと何にも出来ないのですが、コードを記述すれば100%コード通りに動きました。「自分仕様のアプリ」も作ることが可能でした。で、1995年にウィンドウズが登場したのですが、びっくりしました。電源を入れただけで画面が立ち上がるのですから。コードを打ち込まなくても作業が出来るのですから。アプリも自分で作らなくても出来合のものがいっぱい出てきました。自分で作るのではなく、数ある中から選ぶだけで良くなったのです。それは便利でした。でもそれと同時に自由を失いました。それまではパソコンを私のやり方に従わせていたのに、ウィンドウズではウィンドウズやアプリのやり方に私が従わなければならなくなってしまったからです。セルフレジと同じです。人間の店員さんならお客の要望にある程度は合わせてくれますが、セルフレジでは、100%お客の方が機械のルールに従うしかないのです。それはまたレゴとも似ています。レゴでは色々なパーツをくっつけるだけで簡単に色々なものが作れますが、パーツそのものを自由に自分で作ることは出来ません。レゴで遊ぶときにはレゴのルールに従うしかないのです。それが「便利の代償」です。また、レゴでは「のようなもの」しか作れません。レゴでも「トンカチのようなもの」を作ることは出来ます。でもそれは、あくまでも「のようなもの」であって「トンカチ」そのものではありません。「椅子のようなもの」も作ることが出来ます。でもそれは「本物の椅子」ではありません。簡単で便利なオモチャで作れるのは「オモチャ」であって「本物」ではないのです。でも、本物の道具と材料を使えば、自分のイメージに合わせて本物の椅子も、本物の家も、本物の洋服も、本物のお料理も作ることが出来ます。ただし、そのためには「本物を使いこなすための修練」が必要になります。レゴで作るように誰でも簡単に出来るわけではないのです。でも、修練することで本物を作り出す自由を手に入れることが出来るのです。簡単で便利に遊ぶことが出来るレゴでいくらいっぱい遊んでも、本物を作れるようにはならないのです。そして、子どもの成長にはそういう「本物と出会う体験」が絶対的に必要です。まただから、子どもには学ぶことや修練することが楽しい時期があるのです。歩き始めの幼い子どもは転んでも転んでもまた立ち上がり歩こうとしますよね。2,3才の子は色々なことにチャレンジしようとします。当然ケガもします。でも、諦めません。でも、そうやってハサミやナイフの使い方、ノコギリやトンカチの使い方を学ぶことが出来るのです。うちの4番目は赤ちゃんの時から教室でウロウロしていたので、3才ごろにはもうナイフも、ノコギリも、トンカチも自由に使っていました。ケガもしていましたが、自分でバンドエイドを貼っていました。また、4,5才ごろになると、さらに活動が大きくなります。この頃の子は無茶なこと、危険なことでも大人の目を盗んで平気でやってしまいます。その結果ケガをしてもまた挑戦します。何回ケンカをしても、またその子に寄っていきます。昔から、幼い子どもたちはそうやって、失敗を繰り返しながら、ケガをしながら道具の使い方、からだの使い方や、仲間の作り方を学んでいたのです。またその過程で、頭の使い方、心の使い方、感覚の使い方を学んでいたのです。でも、この時期に安全で、簡単で便利な機械を与えてしまうと、努力すること、頑張ること、工夫すること、考えること、感じること、からだを使うことが苦手な子が育ってしまうのです。「本物の道具」と「本物の材料」を与えないと、本物を作る能力が育ちません。「本物の体験」を与えないと「本物の自分」を知ることが出来ません。「本物の友達」と遊ばないと、本物の友達を作ることが出来ません。それは、「自分だけの本物の人生」を生きることが出来なくなってしまうということを意味しています。ゲームの中の世界と、本物の世界は全くの別物なんですから。
2024.08.23
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簡単で便利な機械に囲まれて、自由な時間も、自由な空間も、一緒に遊ぶ仲間も与えられず、大人の保護や、監視や、管理のもとで、一人だけで機械を相手に遊び、受け身的に生活している現代の子どもたちには、自分の人生を自分の意思で生きていくために必要な能動性を育てる場がありません。そのため、何でも「やってもらう」のが当たり前だと考えています。親子遊びの場で工作をする時も、子どもたちは自分でやろうとせず「お母さんやって」とお母さんに仕事を委託して、自分は遊んでいます。「先生やって」と私のところに持ってくる子も多いです。それで、「最初は分からない、出来ないのも当たり前だな」と思って、やり方を教えようとすると、私に任せたまま本人はどこかに行ってしまうのです。そばにいて、私がやることを能動的に観察しようとはしないのです。これは自宅でやっている教室でも同じで、ちょっと難しいと感じるとすぐに「先生やって」「先生手伝って」と言って来る子がいっぱいいます。昔は「先生は手伝わないで」と手伝いを拒否する子もいましたが、今ではそういう子は皆無です。「手伝って」と言ってくる子も、私に任せたまま自分は友達とおしゃべりしています。そばにいて私がやっていることを観察し、学ぼうとはしないのです。そのため、いつまでたっても出来るようになりません。そういう子に共通しているのが「観察力が弱い」ということです。見本を見せても見本を見ようとしません。ただ眺めることは出来るのですが、観察力が弱いのでどう見たらいいのか分からないのです。テレビもyoutubeもボーっと眺めているだけで楽しむことが出来ますからね。ただ眺めるだけなら、視覚に特に問題がなければだれでも出来ます。赤ちゃんでも出来ます。でも、ただ眺めているだけではその対象から何も学べません。なにも発見することが出来ません。そのため、すぐに退屈します。だから、テレビのように常に動き変化している対象なら眺め続けることが出来るのですが、静止しているものに意識を集中し続けることが出来ないのです。静止しているものを観察するためには、自分の意識の方を能動的に動かすしかないのです。感じながら、考えながら、意識を働かせながら見ているから、静止しているものでも見続けることが出来るのです。ちなみに、客観的に見る能力がまだ育っていない7歳前の子は、空想画は描けても観察画を描くことは出来ません。見て描かせても客観的な観察画にはなりません。その証拠に、観察画なのに見えていないものまで平気で描いてしまいます。そして、この「観察能力」は「学習能力」とも直結しています。先生の話を聞いても、本を読んでも、実験をしても、観察能力が低い子はその対象から何も学ぶことが出来ないからです。ただボーっとしか見ることができない子は、話を聞いてもただボーっと聞くことしかできないのです。また、観察力が育っていない子は、本に書いてある文字は読めても、その言葉の中から何も発見することが出来ないためすぐに飽きてしまいまいます。そのような能動的な意識の働きが育つためには自由意思に基づく自由な体験が必要になるのです。実は、昔の子どもたちにとっては当たり前だった、自由な時間と自由な空間の中での仲間との自由な遊びが、子どもたちの能動性を育てていたのです。また、遊びを通して観察力も育っていました。子どもは子どもに丁寧に教えたりはしません。また子どもにもプライドがあるので他の子に聞いたりはしません。コマ回しが出来ない子は、「上手にコマを回している子」のことを観察し、その技を盗んでいたのです。昔の職人の世界と同じです。でもそういう「遊びを通して学ぶ場」も消えてしまいました。そのため、依存心ばかりが強く、自分の意思で能動的に動くことが出来ない子どもたちがいっぱい育っています。「○○ガチャ」という言葉でなんでも人のせいにしようとする人たちが増えたのも、その結果だと思います。確かに「ガチャ」による影響は大きいです。それは調査研究されています。でも、「それを乗り越える能力も人間には与えられているんだ」ということを忘れてはいけないんだと思うのです。
2024.08.22
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今、「○○ガチャ」なる言葉がはやっています。「親ガチャ」とは、子どもは親を選べない、でも、自分が生まれた家が金持ちか、親が優しいか、親の社会的地位が高いかで自分の一生が決まってしまう。これは自分の力ではどうにもできない。だから、良い親のもとに生まれた子はラッキーで、そうでない子はアンラッキーとして諦めるしかない。というような考え方です。一方、親の方にも「子ガチャ」なることを言う人もいます。親は生まれてくる子ども子どもの、性格、知能、容姿を選ぶことが出来ない。性格がいい子、頭の良い子、容姿に優れた子が生まれたらラッキーで、そうでない場合はアンラッキーとして諦めるしかない。というような考えです。このように考える人たちは、自分の人生をすべて「運」で決めてしまっているのでしょう。まただから「運がいい人」を羨むのでしょう。そのような人は、「成績が良い子」を見ても「それだけ努力したんだな」とは思わずに、「子どものためにお金を惜しまないいい親をゲットしたんだな」と考えたりするのだと思います。また、努力はせずに結果だけを望み、「僕だってお金持ちの家に生まれていればもっとすごいことが出来たはずなんだ」などと、成功している人を見ると羨むのでしょう。親の方も、よその「成績が良い子」を見て、「頭がいい子をゲット出来て羨ましい」と思うのでしょう。でも、このような考え方は不毛です。このように考える子どもも、このように考える親も、自分が「自分の人生」の主人公になることを諦めてしまっています。「自分の可能性」を自分で放棄してしまっています。あと「自分ガチャ」なる言葉もあります。生まれてくる時に、自分の容姿や、頭の善し悪しや、スタイルを自分で選ぶことが出来ないからです。「自分ガチャ」を言うような人は、「僕だって、大谷翔平のような能力を持っていたらあのぐらいの活躍は出来たんだ」とか、「私だってもっと可愛くてスタイルが良かったらアイドルになれたんだ」というように考えるのでしょう。「成功するまでの努力」は見ずに「成功した結果」だけを見て羨むのです。でも、現実世界で、「自分が受け取ったガチャ」を変えるのは困難ですが、ゲームやネットの世界なら、お金の力で自分好みの容姿や能力をお金で買うことが出来るのです。「運」すらもお金で買うことが出来ます。お金さえあれば、ゲームの中で現実世界ではどうにもならない「ガチャ問題」を解決することができるのです。「違う自分」になることが出来るのです。それもまた、みんながゲームにはまる理由の一つなんでしょう。やはりお金がかかりますが、容姿だけなら整形美容でも同じようなことが出来ます。「親ガチャ」「子ガチャ」を言うような人は、ゲーム感覚で「自分」や「自分が生まれてきた世界」を理解しているのではないでしょうか。昔の子ども達の「アナログ遊び」の世界では、「お金」はあまり価値を持ちませんでした。お金をいっぱい持っているからと言って木登りが上手になったりはしないのですから。コマを回したいのなら自分で頑張って努力するしかなかったのです。そして、頑張って努力して回せるようになった子を見て憧れることはあっても羨むことはなかったのです。でも今ではベイブレードを買えば、努力せずに誰でも簡単に回すことが出来ます。そんな時、家が貧しくてベイブレードを買ってもらえない子はペイブレイドを持っている子を見て羨むでしょう。「親ガチャ」を恨むかも知れません。「努力して回せるようになった子」を見て羨むことはないのに、「努力せずに買ってもらっただけの子」を見たら羨むのです。そして、人を羨むような子は自分自身もまた受け身的な状態で生活しているのではないでしょうか。受け身的な生活しか知らないので、「努力することで自分の能力を変えることが出来る」、「自分の運命を変えることが出来る」ということを知らないのです。だから、自分では努力せずに、結果だけを見て羨むのです。でも今、子ども達の能動性を育てる場も、遊びも消えてしまいました。だから「ガチャ」を恨む人が増えて来たのではないかと思うのです。
2024.08.21
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最近の子どもたちは「無知からくる自信」は過剰に持っているのですが、「体験に基づく自信」は悲しいくらい持っていません。そのため、初めてやるようなことでも、最初は「そんなの簡単だよ」と大言壮語します。上手にできない子を見て「下手だ」などと簡単にバカにしたりもします。それで私が「君はやったことあるの?」と聞くと「やったことはないけど、こんなの簡単じゃん」などと言います。「ユーチューブで見たことがあるから出来る」などと能天気に言う子もいます。これは、電車の中などで子どもが泣いていると「ちゃんとしつけていないからだ」などと、お母さんを非難する人も同じです。そういう話を聞くと「じゃあ、お前がやってみろよ」と言いたくなります。でも、そのような人ほど「それは俺の責任ではない」などと言って、自分ではやろうとしません。また、思い込みだけで言いたい事を言う人ほど実際の体験もないし、ちゃんと考えたことも、ちゃんと学んだこともありません。家事や子どもの相手が忙しくて片付けが出来ない、お料理が手抜きになってしまうお母さんに対して、「一日中暇なはずなのに、なんでこんなことも出来ないんだ」などと文句を言うお父さんも同じです。始めてやるノコギリ、初めてやるトンカチ、初めてやる工作に苦戦している我が子を見て「なんでこんなことも出来ないの」と言うお母さんも同じです。そんな時は、お母さんにもやってもらいます。以前、幼稚園の企画の工作体験の場にもそのようなお母さんがいたので、「じゃあ、お母さんもやってみてください」と、お母さんにもやらせたら子どもよりも下手でした。「簡単に出来そうに見えたけど、こんなに難しいんですね」と言ったお母さんもいます。「体験を通して学ぶ」という体験が少ないので、「初めてやることは上手に出来なくて当たり前だ」という当たり前のことが分からないのです。便利な機械を使えば最初から上手に出来てしまいますからね。子どもに勉強を教えていて「なんでこんなことも分からないの」と子どもを非難する人も同じです。すでに答えを知っているお母さんには簡単でも、まだ答えを知らない子どもにはすごく難しいのです。それに、このようなことを言うお母さんほど「なぜそうなるのか」は理解できていません。ただ答えを知っているだけです。また勉強が嫌いです。勉強が好きなお母さんは「分からないから面白い」「分からないから楽しい」ということを知っているので、分からないで悩んでいる子どもを馬鹿にしたりはしないのです。子どもに対して、「なんでこんなことも分からないの」とか、「なんでこんなことも出来ないの」などと言ってばかりいるようなお母さんは、自分自身の体験を通して「子どもは強制しないと勉強しない」ということを学んでしまったのでしょう。「体験を通して学ぶ」という体験が乏しい人ほど「無知からくる自信」を持っています。だから上手にできない人を簡単に馬鹿にし、否定するのです。そういう人ほど「自分の無知」を知らないのです。そして、悪戦苦闘して努力している人も見て「ダサい」とか言って馬鹿にします。でも、そのような人が実際にやらなければならないような状態に陥った時、急にその自信は崩壊してしまいます。また、「体験を通して学ぶ」という体験が乏しい人は諦めも早いです。思い通りにいかないと簡単にあきらめて放り出します。「分からない」「出来ない」を楽しみながら、色々と工夫したり試行錯誤することが出来ないのです。「誰でも最初は分からない、出来ないが当たり前だ」と言うことが分かっていないのです。また、「汗水垂らして努力する」ことをダサいと感じる感性も育ってしまっています。でも、「無知からくる自信」は、実際にやらなければならなくなった時に簡単に崩壊してしまいます。結婚する前、子育てを始める前は「しつけなんて簡単よ」と思い込んでいたような人ほど、実際の子育てでは簡単に挫折するし、諦めも早いです。最初は、ネットで得られるような様々な情報を活用して子どもを思い通りにしつけようとします。「しつけのマニュアル」を知っていれば簡単に仕付けられると思い込んでいるのです。でも、子どもを思い通りに育てるのは不可能です。どんなに情報を集め、マニュアルを学んでその通りにやっても、子どもはお母さんの期待通りには育ちません。それで今度は、思い通りに子どもが育たない原因を子どもに押し付けます。「子どもが言うことを聞かないからだ」「子どもの性格が悪いからだ」「子どもが私を馬鹿にしているからだ」などを意味不明な理由をこじつけて「私は悪くない」と思い込もうとするのです。「子ガチャ」です。子どもの方もまた自分のことを分かってくれない親を見て「親ガチャ」と言います。学校の先生も選べないので「先生ガチャ」もあるでしょう。先生の側からの「生徒ガチャ」もあるでしょう。「運が悪かった」ということです。「ガチャ」のように、なんでも「運」のせいにするのです。そこにあるのは人生に対する受け身の姿勢だけです。「自分の人生は自分の力で創るんだ」という能動的な意志が希薄なんです。そして楽しそうに子育てをしている人、素敵に育っている子どもを見て羨ましがります。「子ガチャが成功したんだね」ということです。仲の良い夫婦を見て「夫ガチャに成功したのね」などと考える人もいるかも知れません。「そのような状態の人は、そのような結果を得るためにいっぱい努力したんだ」ということが分かっていれば、そう簡単に羨んだり、嫉んだりしないのでしょうが、子どもの頃から与えてもらえるだけの生活しかしてこなかった人には、それが分からないのです。そういう人は、「自分の運命は自分で変えることが出来る」ということを知らないのです。「自分の人生は自分の意志で能動的に手作りしていくしかない」ということを知らないのです。実際に「親ガチャ」はありますが、それを生かすも殺すも自分次第なんです。
2024.08.20
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「自己肯定感が低い」という状態の反対は何だと思いますか?「低い」の反対は「高い」ですから、一般的には「自己肯定感が低い」の反対は「自己肯定感が高い」ということになりますよね。でも、「低い」も「高い」も評価によるものです。「自分自身の価値観による評価」です。そのため、自己肯定感が低い人に対して「自分をほめる」という方法を勧める人もいます。自分のいい所を探し出して自分をほめるのです。「出来ないこと」ではなく「出来ること」に意識を向けるのです。そのようにして、自分自身に対する自分の評価を変えるのです。確かにこの方法でも一時的には自己肯定感を高めることが出来ます。でも、この効果は長続きしません。一時的には自己肯定感が上がっても、「評価による自信」は不安定なので、ちょっと失敗したり、ちょっと人から非難されたりするとすぐに消えてしまうからです。自分で自分をほめて自己肯定感をあげても、実際の自分自身の能力が上がるわけでも、他者からの評価が上がるわけでもありません。そのため、お酒を飲んで辛いことを忘れるのと似たような効果しかないのです。それは自己肯定感が低くなってしまった原因と関係しています。3歳ごろまでの幼い子どもたちはみんな自信に満ちています。自分で自分を責めたりする子はいません。でもそれは自分で自分を褒めているからではないですよね。その自信はどこから来ているのかというと、お母さんや家族の人から無条件に肯定され、「大切な存在」として守られているからなんです。その安心感が子どもの自信を支えているのです。幼い子どもの自己肯定感を支えているのは「安心」なんです。でも、4,5歳ごろになって仲間と遊んだり、他の大人と関わり合う機会が増えてくると比較されることが多くなります。お母さんからも、無条件に受け入れてもらえなくなります。「お母さんの言うことを聞かない子は嫌いよ」などと言われたりもします。他の人から比較されなくても、自分で「自分」と「他の子」を比較し始めます。「○○ちゃんはコマが上手だけど、僕には回せない」とか、「○○ちゃんは足が速いけど、僕は遅い」などと比較し始めるのです。でもだからといって、それがそのままその子の自己肯定感を下げるわけではありません。他に好きなことや、得意なことがある子はコマが回せなくても、足が遅くてもそんなに気にしないものです。あと、コマが回せなくても、足が遅くても、みんなから「大切な仲間」として受け入れられている子も自己肯定感が下がりません。「仲間に受け入れられている」という安心感があるからです。スポーツでは「能力の上下」を競い合います。ですから、どんなにサッカーが好きでも足の遅い子は非難されます、どんなに野球が好きでもボールを投げるのが下手な子は非難されます。どんなにダンスが好きでも、それだけでダンスの競技に出たら非難されます。(先日のオリンピックで実際にありましたよね)でも「遊びの場」は「競い合う場」ではなく「体験や楽しいを共有する場」です。また、色々な能力の子がいるからこそ一緒に遊んでいると楽しいのです。足が速い子、木登りが上手な子、歌が得意な子、虫を見つけるのが得意な子、ボーっとしているのが得意な子、こんな風に色々な子がいるから、遊びに多様性が生まれ楽しくなるのです。人間に「上手下手」や「得意不得意」があるのは当たり前なんです。それが「自分らしさ」でもあります。その「当たり前」や「自分らしさ」が肯定される場で、仲間と助け合いながら遊んで育てば自己肯定感などと言うものに囚われなくなるのです。勉強でも、仕付けでも、スポーツでも、大人が決めた価値観を押しつけられ、競い合わされるから、人の評価を気にするようになり、「私は私のままでいい」という安心感が失われ、自己肯定感が低くなってしまうのです。「私は自己肯定感が低いんです」などと「何の意味もないこと」に囚われなくなるためには、「自己肯定感」を高めようとするのではなく、「私は私のままでいいんだ」ということに気付く必要があるのです。そのためは「つながりに支えられた安心」や「私のままを受け止めてくれる仲間」が必要になるのです。
2024.08.19
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昨日、ネットのニュースを見ていたら障害を持っている人が補助や手助けを受けることに対して「ずるい」と感じる人が増えてきたそうです。この「ずるい」は子どもたちもよく言います。遊びの場でも、小さい子だけ「おみそ」として特別ルールを作ろうとすると「ずるい」と言います。最近の子はちょっと難しそう、ちょっと大変そうだとすぐに「手伝って」と言ってきます。でも、ちょっと頑張れば出来る程度の時は、「じゃあ、応援してあげるね。ガンバレ、ガンバレ、○○ちゃん」と言うのですが、すると「いじわる」と言われます。そんな時、自分で出来そうな子には自分でやらせ、どうしても無理そうな子は手助けするのですが、すると「○○だけずるい」と言います。電車の優先席は、本来、お年寄りや妊婦や何らかの事情で立っているのが困難な人のためにあるはずなのですが、そういう人に対しても「ずるい」という感情を持っている人が結構います。以前、家内と台湾旅行に行った帰りに二人で優先席に座っていたら、30代ぐらいの男性が「年金生活者がのうのうと椅子に座ってるんじゃないよ。おれに席を譲れ。おれは働いて疲れているんだ。」と言ってきました。色々とお話をしただけで譲りませんでしたけど。この人も椅子に座っている私たちを見て「ずるい」と感じたのでしょう。ちなみに台湾で電車に乗ったら、乗った途端に100%席を譲ってもらえました。日本と台湾とでは若者の意識が全く違うようです。この「ずるい」は子どもや、妊婦や、子育てをしている家庭にも向けられています。実際、特別な補助をしようとすると「子どもだけずるい」「妊婦だけずるい」「子育て家庭だけずるい」と言い出す人がいます。我が子に対してまで「ずるい」と感じる親もいます。子育てをしている妻に対して「三食昼寝付きでずるい」と感じている男性もいます。仕事で外に出ているご主人に対して「子育てを手伝わないでずるい」と感じている女性もいます。そこにあるのは「妬み(ねたみ)」という感情なんですが、この「妬み」は社会的に成功したアイドルなどにも向けられます。キラキラしたアイドルを妬んでいる人は、そのキラキラをつぶしたいと考えます。そして、どうでもいいような短所や欠点を探し出して非難否定し、ネットで拡散します。追い詰めます。それで自殺にまで追い込まれる人までいます。このように人を妬む人は、自分を肯定できない人です。自己肯定感が高い人は他の人を妬んだりはしないのです。自己肯定感が低い人は、自分に自信がなく自分の未来に希望を持てません。冒険もチャレンジもしないので世界が閉ざされてしまっています。だから、「楽をしているように見える人、得をしているように見える人」がいると、妬みの感情が目覚めてしまうのでしょう。いま、自己肯定感が低い子どもたちがいっぱいいます。大人も同じです。そして、自己肯定感が低い人は子育てでも苦しんでいます。夫婦関係も上手く行きません。相手とちゃんと向き合うことが出来ないからです。子育ての悩みを聞いていると、自己肯定感が低い人からの相談が圧倒的に多いです。問題は、どうしてこういう状態になってしまったのかということです。
2024.08.18
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昨日、「他者との出会い」が自分への理解を深めてくれるのです。本当の「自分らしさ」を知りたいのなら「他者」と出会うことから逃げてはいけないのです。ということを書きました。このことの意味は皆さんが思っているよりも大きなことです。人間が「人間について」知りたいと思ったら「自然」と出会う必要があるのです。人間が作ったものに囲まれて、人間が作った社会の中だけで生きていたら、「自然」についてはもちろんですが、「人間について」も分かるようにはならないのです。ちなみに、西洋文明は自然と向き合うことなく、一方的に自然を支配しようとしてきました。現代社会はその延長上にあります。だから自然が壊れ、そのことで人間が苦しむことになってしまったのです。その状態を変えたいのなら、人間の力や科学の力で「人間にとって都合がいい自然」を回復しようとするのではなく、「自然との対話」に目覚める必要があるのです。自然が回復するのはその結果に過ぎません。鏡に映った自分をいくら一生懸命に見ていても、自分だけ見ていて他の人を見ようとしなければ「自分について」分かるようにはならないのです。同じところをグルグル回るだけで悩みや苦しみから抜け出せないような人は、自分しか見ていない人です。整形を繰り返している人も同じです。他者との出会いがなく、他者から肯定される体験がないまま育った子は、自分でも自分を肯定することが出来ません。だから「違う自分」になりたがるのです。「不自由」と出会わないで育った子は「自由」について知りません。その逆もあります。「自由」と出会わないで育った子は、自分がどんなに不自由な状態でもそのことに気づきません。「光」と出会わないで育った子は、「闇」に囲まれていても、そのことに気づきません。「善」と出会わないで育った子は、「悪」に囲まれていてもそのことに気づきません。「死」と出会わないで育った子は、「生」についても知りません。「自分のからだ」について知りたいのなら「思い通りにならないからだ」と出会う必要があるのです。実際、皆さんも、病気やケガをした時には「自分のからだ」と出会いますよね。でも、ほとんどの人が病気やケガが治ってしまえば自分のからだのことを忘れてしまいます。でも現代人は、「思い通りにならないもの」「見たくないもの」「聞きたくないこと」を排除して、「思い通りになるもの」「見たいもの」「聞きたいもの」だけに囲まれて生活しようとしています。様々な便利な機械や、ネットやゲームはそのような状態を与えてくれます。でもだから、狭い世界に閉じ込められて苦しくなってしまうのです。また、成長することも出来ず、自分についても知ることが出来なくなってしまうのです。今は夏休みです。家族みんなでキャンプに行って、ちょっと不便な生活をしてみませんか。自然と出会ってみませんか。子どもたちが人間について、文明について、命について、自然について知るきっかけになるかも知れませんよ。
2024.08.17
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「自分らしさを大切にしよう」という言葉はよく聞きます。また、「自分らしさ」を大切に生きたいと思っている人もいっぱいいます。でも、その自分の「自分らしさ」はどのようなものなのかを知っている人は少ないです。例えば、感じ方や、考え方や、話し方や、歩き方といったものも「自分らしさ」の一部なんですが、自分がどのような感じ方をしているのか、考え方をしているのか、話し方をしているのか、歩き方をしているのか皆さんはご存じですか。多分、ほとんどの人が知らないと思います。知る機会がないのですから。確かに、自分自身が感じている自分の感じ方や、考え方や、話し方や、歩き方はあるでしょう。そして多くの人が、それが「自分らしさ」だと思い込んでいます。でもそれは、「自分にとっての自分らしさ」に過ぎません。他の人から見た「その人らしさ」ではありません。例えば、全然太っていないのに「私は太っている」と思い込んでいる人がいます。「太っている」というのがその人にとっての「自分らしさ」なんでしょう。でも、周囲はその人を「太っている人」として扱うことはないでしょう。実際には太っていないのですから。それで、「みんな私のことを分かってくれない」などと思うのかも知れませんが、実際に自分のことを分かっていないのは自分自身なんです。「なんでみんな、私のことを分かってくれないの」と訴えているような人ほど、自分のことを分かっていないのです。周囲の人は、その人の「その人らしさ」に合わせているだけなんです。それが、「自分が思い込んでいる自分らしさ」と異なっているから、「周囲の人が自分を理解してくれない」などと感じてしまうのです。カウンセラーの人なら、痩せている人が「私は太っている」と言っても、それを否定しないで聞いてくれるでしょう。相談者の立場に立って、感じ、考え、話を聞くのがカウンセラーの仕事ですから。でも、日常生活の場で、そのカウンセラーのような対応を他の人に求めるのは不可能です。ほとんどの人が自分の立場に立って、感じ、考えているからです。「私のことを分かって」という想いの人が集まって、「自分」の押し付け合いをしているのが現実の世界なんです。そんな時「みんな私のことを分かってくれない」と思うのでしょうけど、みんなのことを分かろうとしない人ほど「私のことを分かってくれない」と訴えるのです。でも、「みんなのこと」を分かろうとしている人は「自分のこと」も分かっています。客観的な「自分らしさ」は他者との比較の中で生まれてくるものなので、他者の「自分らしさ」を理解しようとすることで、自分の自分らしさが分かってくるからです。また、「自分らしさ」が分かっていないと、他の人の気持ちをその人の立場に立って聞くことも出来ません。日本から出たこともなく、外国の人と会ったこともなく、外国の人の文化や歴史や考え方にも興味がない人は日本人の「日本人らしさ」について知りません。生まれたときから赤い光の中で暮らしてきた人は、自分が赤い光の中で暮らしているということに気づきません。気付くきっかけがないからです。そんな感じです。でも、外国に出かけ、外国の人と話し合い、外国の人の文化や歴史や考え方に興味を持って勉強している人は「日本人らしさ」も知っているのです。「他者との出会い」が自分への理解を深めてくれるのです。本当の「自分らしさ」を知りたいのなら「他者」と出会うことから逃げてはいけないのです。でも、現代人にはその場がありません。簡単で便利な機械が介在してくれることで、直接他者と出会わなくても困らなくなったからです。これは子どもの生活でも同じです。昔の子どもたちは、仲間と群れて遊ぶ場で一緒に協力したり、ケンカしながら「自分について」知ることが出来ました。でも、他の子と関わらないで遊ぶことが多い現代の子には「自分と出会う場」がないのです。その結果、「みんな私のことを分かってくれない」「私は孤独だ」と疎外感を感じながら生きている子が増えてきたように感じます。いくら「私のことを分かって」と訴えても、相手のことを分かろうとしない人は永遠に自分のことも分からないままなんです。
2024.08.16
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昨日は孫6人と篠家の家族キャンプで、今日は家内と二人で山梨の北杜市にある、「おいしい学校」という、廃校になった学校を使った宿泊施設に泊まっています。名前の通り、お料理は最高に美味しいです。ということで、今日も簡単にさせて頂きます。先日、ネットで「コロナ対策におけるマスクの有効性」を色々な調査結果を基に論じた記事を読みました。結構大規模な調査をした結果、マスクをした群の方が若干ではあるが有意なレベルでコロナに罹る割合が少なかったそうです。で、その人は「だからマスクをした方がいい」と結論付けていました。それで私は、「この人は全体が見えない人」「関係性の中で物事を考えることが出来ない人」なんだな、と思ったのです。詳しくは知りませんが、この人は良い大学を出た「頭がいい人」なんだろうと思います。でも、テストの成績は優秀でも、現実に即して考えるのは苦手なようです。マスクの問題を考える時に「実際にマスクをする人の立場に立って考える」という視点が、完全に抜けてしまっているのです。幼い子ども達の成長への影響、コミニケーションに与える影響、本人、及び周囲に与える心理的な影響、呼吸への影響、肌への影響、生活の質への影響、病人や老人への影響、障害を持った人たちへの影響、マスク内で発生する雑菌の問題、子ども達の身体的活動に対する影響、まだまだあると思いますが、そういう「現実世界に存在する問題」を一切切り捨てて、マスクとコロナの関係だけを取り上げて「マスクをした方がコロナに罹りにくいからマスクをした方がいい」と論じているのです。なぜか、同じような論理で、マスクやワクチンを肯定するような人ばかりがテレビやマスコミには登場するのです。そして、それを見て、そのまま信じる人もいっぱいいます。私は、そういうことも「知識を覚えさせることだけに偏った教育」の困った結果なのではないかと思っています。メリットだけでなくデメリットもちゃんと調べてみんなに伝え、それでどうするのかは、その本人に決めさせるのが、民主主義のあり方としては正しいのではないかと思うのでですが、皆さんはどう思いますか?もっとも、そのようなことが可能になるためには「知識を覚えさせるだけの教育」「ペーパーテストだけで子どもを評価する教育」をやめる必要がありますけどね。現在位の状態では「自分の頭で考えて判断して」と言われても、途方に暮れて困ってしまう人の方が多いような気がします。
2024.08.15
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今日はキャンプに来ているので簡単にさせていただきます。昨日、「木を守る」ということは「木という現象を成り立たせているものすべて」を守るということなんです。「木という現象を成り立たせているもの」が壊れてしまえば、どんなに一生懸命に「目の前にある木」を守ろうとしても、木は枯れてしまうのです。それは周囲の土や、水や、光や風や、微生物や、様々な生き物を守るということでもあります。それらを守らないと「木」を守ることは出来ないのです。「子ども」も同じです。「子ども」を守るためには、「成長過程にある子どもという現象」を支えているすべてのものを守らなければいけないのです。そうでないと、見かけは「子ども」でも中身が「子ども」ではなくなってしまうのです。ということを書きました。ここに書いたことは、冷静に考えれば「当たり前のこと」です。でも、世界を「つながり」の中で見なくなってしまった現代人はそのことを忘れてしまったようです。どうしてそういうことになってしまったのかというと、それは、現代人が「つながりに支えられた体験」を通してではなく、「試験のための知識」を学ぶことで「自分が生きている世界」のことを学ぶようになったからなのではないでしょうか。確かに体験を通して学ぶのは効率が悪いです。時間もかかります。マニュアルは通用しません。指導者の教育が大変です。指導者の質がそのまま学びの質に直結してしまうからです。それに対して、「知識を覚えさせるだけの教育」は簡単です。オンラインでも出来ます。「ちゃんと学んだかどうか」のチェックも簡単にできます。なにしろ、ペーパー試験だけでチェックできるのですから。効率もいいです。資格を取るのが趣味の人もいっぱいいます。じゃあ、「資格をとったらちゃんと仕事が出来るのか」というとそんなことはありませんよね。学校の先生はみんな教員免許を持っています。でも実際には、素敵な先生もいれば、素人よりも困ったとんでもない先生もいっぱいいますよね。「教員免許を持っている=教師としての能力が育っている」ということではないのです。ペーパー試験に合格したらもらえるような資格を持っていても、それだけでは、子どもの育ちを支えることは出来ないのです。でも、親は先生を信じて子どもを学校に預けています。「知識」は「つながり(全体)」切り離されています。切り離さないことには知識化できないからです。だから知識をいくらいっぱい学んでも、私たちの世界を支えている「つながり(全体)」は見えてこないのです。「命を守る」とはどういうことなのか、「自由」とか「子ども」を守るとはどういうことなのか、が分かるようにはならないのです。まただから、子どもが言っていること。子どもがやっていることの意味が見えないのです。子どもは「つながりそのもの」を見て、「つながり」のなかで物事を理解しようとしているからです。「物語」が好きなのもそのためです。でも困ったことに、私たちの社会は知識を覚えるだけの教育を受けた人たちが動かしています。
2024.08.14
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「平和」とか、「愛」とか、「自由」とか、「子ども」とかいうものは「存在しているもの」ではありません。実際に存在しているのは「言葉」だけであって、「それらの言葉が示すものの実体」は人の心の中にしかないのです。だから人によって解釈が違うし、「これが○○です」と展示して見せることも出来ないのです。一見分かりやすい「木」というものでも同じです。みんな「木」は存在していると思い込んでいますが、実際に存在しているのは「私たちが木と呼んでいる何か」だけなんです。「平和」も、「愛」も、「自由」も、「子ども」も、「木」も現象に過ぎません。「存在しているもの」ではなく「現象」なんです。それは「虹」に似ています。「虹」も「現象」であって「存在」ではないですよね。虹は見る人との位置的な関係性の中に現れるので、同じ虹を見ているようでも、みんな違う虹を見ているのです。まただから、どんなに早く虹を追いかけてもたどり着けないのです。私は飛行機に乗っている時に、眼下に「〇い虹」を見たことがあります。その〇の真ん中に飛行機の影が映っていました。そして、高速で動いている飛行機と同じ速さで動いていました。そういうことが可能なのも「虹」が「存在しているもの」ではなく「条件が整った時に現れる現象」だからなんです。だから「虹を守る」ということは「虹という現象を成り立たせているものを守る」ということなんです。「虹」だけを守ることは出来ないのです。何を言っているのか分からない人も多いかもしれませんが、この理解がないと子どもが生きている世界が理解できないのです。子どもがどうやって言葉を覚えているのかが理解できないのです。「平和」という言葉の意味をどう伝えたらいいのかが理解できないのです。「子どもを守る」ということがどういうことなのか理解できないのです。「木を守る」ということは「木という現象を成り立たせているものすべて」を守るということなんです。「木という現象を成り立たせているもの」が壊れてしまえば、どんなに一生懸命に「目の前にある木」を守ろうとしても、木は枯れてしまうのです。それは周囲の土や、水や、光や風や、微生物や、様々な生き物を守るということでもあります。それらを守らないと「木」を守ることは出来ないのです。「子ども」も同じです。「子ども」を守るためには、「成長過程にある子どもという現象」を支えているすべてのものを守らなければいけないのです。そうでないと、見かけは「子ども」でも中身が「子ども」ではなくなってしまうのです。「子ども」という現象は、ただ単に年齢によって決まるのではないのです。「成長意欲に満たされた状態」が「子ども」という現象なんです。だから、子どもがケガをしないように、病気をしないように、犯罪に合わないように、ケンカをしないようにしているだけでは「子ども」を守ることは出来合いのです。子どもを「つながり」から切り離したら「子ども」を守ることは出来ないのです。
2024.08.13
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よく「平和を守ろう」などという言葉を聞きます。「平和の大切さ」は自明のこととして扱われています。でも、「平和」というものに「具体的な実体」はありません。各自が各自の頭の中に勝手に創りあげたイメージに過ぎません。ですからワークなどで「平和って何ですか?」と聞くと様々な答えが返ってきます。気質によってもそのイメージは違います。胆汁質の人が考える「平和」と、憂鬱質の人が考える「平和」は同じではないのです。また、戦争を体験した人が考える「平和」と、戦争なんかまったく知らない人が考える「平和」も同じではありません。アメリカ人が考える「平和」と日本人が考える「平和」も違うでしょう。「平和」という言葉が存在しているから、「平和」というものも実際に存在しているものだと勝手に思い込んでいるのです。でもそんなものどこにも存在していないのです。「命」とか「子ども」とか「自由」とか「平等」などというものも同じです。というか、言葉には実体がないのです。人間は、言葉があると実体がなくても実体があるように思い込んでしまうのです。人間は簡単に言葉に騙されてしまうのです。ですから「平和を守ろう」、「子どもを守ろう」、「自由を守ろう」、「平等を守ろう」というような大きな目的ではみんな賛成しても、「そのために具体的に何をするのか、何を目的にするのか」ということはみんな違うのです。(気質のワークでこのようなことを話し合うと面白いですよ)A国とB国が戦争している場合でも、A国は「A国の平和」を守るために、B国は「B国の平和」を守るために戦っているのです。両者とも「平和」を守るために戦っているのです。不思議なことですよね。それはつまり、「平和を守ろう」という考え方が、逆に戦争を引き起こしてしまうこともあるということです。「みんなの自由を守るために」と色々な規則を作れば、結果、みんな不自由になります。「みんなの平等を守るために」と、「誰かが考えた平等」をみんなに押し付ければ、必ず不平等を感じる人も出てきます。「子どもを守ろう」という場合も、「大人によって管理された空間」の中で「子どもに害を及ぼすもの」を排除することで子どもを守ろうとする人もいれば、多少の危険、多少のケンカがあっても、子どもの自由意思に基づく行動を守ろうとする人もいます。「子どもを守ろう」という場合の「子ども」の意味も、「守る」の意味も人によって違うのですから。体格も、性別も、食欲も、年齢も異なる子どもたちに平等にケーキを切り分ける場合、正解なんてあると思いますか。ある人は、そのような違いを無視してすべて同じ大きさに切り分けて「これで平等だ」と言うかも知れません。でもある人はからだの大きな子には大きく切って、小さな子には小さく切って「これで平等だ」と言うかも知れません。男尊女子の価値観が生きていた時代だったら男性の方を大きくして、女性の方を小さくして「これで平等だ」と言ったかもしれません。でもいずれの場合でも、「これでは不公平だ」と感じる人が出て来るでしょうね。じゃあ私だったらどうするかということですが、私は、形ではなく「みんなが納得できる状態」が「平等」だと思っているので、みんなで話し合います。正解を固定しません。「平和」も「自由」も同じです。ですから、私は、子どもたちの「話し合う能力」「対話する能力」を育てることが「平和」や「自由」や「平等」を守ることになるのではないかと思っています。政治の世界でも同じです。いくら平和を願っていても、政治家に「話し合う能力」「対話する能力」がなければ、戦争に巻き込まれてしまう可能性が高くなるのです。で困ったことに、日本の政治家の「話し合う能力」「対話する能力」は高いと思えません。でも、学校では「平和について教える授業」はしていても「話し合う能力」や「対話する能力」を育てるような授業はしていません。そのやりかたは戦争中と同じです。ただ、教える中身が変わっただけです。
2024.08.12
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ケンカをしないからといって仲がいいわけではありません。ケンカをするからといって仲が悪いわけでもありません。戦争がないからといって平和なわけではありません。「悪いこと」をしないからといって「いい人」というわけではありません。人殺しや犯罪がないからといって「平和な社会」だというわけではありません。人に頼らないから自立しているというわけではありません。悩みや苦しみがないからといって幸せだということではありません。お金がないからといって貧しいというわけではありません。社会的に成功しているから幸せだということではありません。「毎日いっぱいご飯を食べることが出来ているから豊かなんだ」ということでもありません。「外から見た姿」と「中から見た姿」は同じではないからです。それはつまり、「いっぱい食べても満たされない人よりも、少しの量でも満たされる人の方が、本人的には豊かなのではないでしょうか」ということです。「お金はいっぱいあっても心が満たされない人よりも、お金はなくても日々の小さなことにも幸せを感じ、周囲の人に感謝して生きることが出来ている人の方が豊かなのではないでしょうか」ということです。「ケンカをしているから仲が悪いんだ」というのは、外から見た評価です。でも、ケンカをしながらでもいつも一緒にいたがる子が本当に仲が悪いのでしょうか?「戦争がないから平和なんだ」というのも、外から見た評価です。確かに、戦争が起きれば平和は失われます。でも、戦争がなくても「人と人が助け合わない社会」「生きることに安心を感じることが出来ない社会」は平和ではないような気がするのです。今の日本は戦争をしていません。だいぶ勢いは落ちてきましたが、それでも世界の中では豊かな方です。そういう意味では平和です。そして、この平和を守ろうとしている人たちもいっぱいいます。でもその一方で、「刑務所に入りたいから」と犯罪を犯す人が増えてきました。「誰でもよかった」と人を襲う事件もよく聞きます。「簡単にお金が手に入るから」と、簡単な気持ちで闇バイトに手を出す若者も増えてきました。ちょっとした落ち度に付け込んで相手をののしるカスハラも増えてきました。子どもが嫌いな人、子どもを許容できない人も増えてきました。血肉が飛び散るようなホラー映画が大好きな人もいっぱいいます。子どもと一緒に見ている人もいっぱいいます。(子どもからの情報です)表面的には平和でも、その平和を「大切なこと」として守ろうとする意識はそれほど高くないのです。むしろ退屈を感じ刺激を求めている人がいっぱいいます。ネットの投稿を見ていても、「大きな災害」を待ち望んでいる人もいっぱいいるみたいです。戦争にあこがれる若者すらいます。刺激が欲しいのでしょう。日本の平和は自分たちの力で創りあげたものではありません。戦争に負けて、アメリカや世界の圧力によって受け身的に与えられたものです。連合軍は連合軍の立場で戦争責任を追及しましたが、日本人自身が「自分の事として」反省することはしませんでした。日本人が得意な「過ぎてしまったことは忘れよう」という能力が発揮されたのでしょう。そのため、日本人は「戦争がない=平和」という短絡的な発想をするばかりで、平和の作り方も、平和の維持の仕方も知りません。学校では「知識としての平和」については教えていても、実際に自分たちが生きている社会での平和の作り方や維持の仕方を教えてはいません。もし子どもたちに、「平和の作り方や維持の仕方」を伝えたいのなら、今のような「一方的に先生が言葉で教えるだけの授業」や「先生が子どもを先生の価値観だけで評価するシステム」をやめるべきなんです。そして、子ども同士が話し合い、子どもと先生が話し合うような形で、子どもたちの学びを支える必要があるのです。平和は「話し合い」の上にしか成り立たないのですから、「話し合いの技術」を育てることが平和を育てることにもつながるのです。第二次世界大戦もそれがなかったから始まってしまったのです。平和は、ただ守るのではなく、常に創り続けていないと維持できないのです。守っているだけでは中身がスカスカになってしまうのです。子どもと子どもが話し合わない、大人と子どもが話し合わない、先生が子どもや親と話し合わない。政治家が国民と話し合わない社会は、戦争はなくても平和な社会ではないのです。
2024.08.11
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もうすぐやってくる8月15日は「終戦記念日」です。戦争で死んだ人のことや、命と平和の大切さを今一度想い出すための記念日です。浅草に住んでいた私の父の母と妹、つまり私の祖母と叔母は、3月10日の「東京大空襲」で亡くなりました。父は、特攻隊で宝塚にいたので助かりました。その特攻隊も、父が飛ぶ前に戦争が終わったので今の私がいます。(仲間は飛んでしまったのですが、ある理由で父だけみんなと一緒には飛ばなかったのです。)私自身は戦争が終わって6年後に生まれたので直接戦争は知りません。でも、私が子どもの頃は戦争の記憶が濃く残っている時代でした。当たり前のことですが、その当時の大人は100%戦争体験者でした。街の中にもまだ戦争の名残が色濃く残っていました。駅には、白い服を着て、アコーディオンを弾いている戦争で怪我をした人たち、いわゆる傷痍軍人と呼ばれる人たちがいっぱい立って物乞いをしていました。鎌倉駅の前にもいました。父や母や祖父からも戦争の話をよく聞かされました。母は、学校の帰りに機銃掃射を受けたと言っていました。「田んぼの真ん中に落下傘で落ちてきたアメリカ兵を大人たちが棍棒などを持って殴りかかって殺してしまった「という話も聞きました。家内の父は兵隊には行きませんでしたが、戦後、開拓民として北海道に渡り、大変な苦労をしたそうです。義父と北海道旅行をした時、その話をいっぱいしてくれました。なにしろ、電気も水道もなく、農耕には適さないような荒れた土地でなんとか生き延びなければならなかったのですから、当時の体験は、筆舌に尽くし難いものだったようです。でも今、その戦争の記憶は薄れてしまいました。遠くの国で起きている戦争の話は聞きますが、自分の親兄弟や友達が死んでいるわけではありません。自分達の命や、衣食住が脅かされているわけでもありません。だから、ただ「可哀想だ」と感じるだけです。子どもたちはゲームの中で殺し合って遊んでいます。大人たちも、助け合うのではなく勝ち負けを競い合っています。子どもたちに「ケンカはやめなさい」とか「イジメはやめなさい」などと言ってはいますが、「仲良くする楽しさ」や「仲良く遊ぶ遊び方」を体験を通して伝えようとはしていません。ただ叱るだけです。大人同士も仲良くしていません。でも、二度と戦争が起きないような社会を作るためには、子どもたちに「仲良くする楽しさ」や「仲良く遊ぶ遊び方」を伝える必要があるのです。いくら戦争の悲惨さを教えても、平和の作り方を知らない子は平和を守れないからです。実際に戦争が動き出したら「戦争反対」も言えなくなってしまいます。「戦争が起きたら逃げる」と言う子もいますが、逃げることも出来なくなるのです。「敵であっても人を殺すのはよくない」などと言えば、非国民扱いされます。コロナ騒動の時のワクチンやマスクのように、相互監視によって行動や意見が制限されるのです。また、戦争を超さない世界を創るためには、子ども達の「自分の感覚と心で感じ、自分の頭で考え、自分の意思で判断し行動する能力」を育てる必要もあります。戦争が動き出したら、国は決して本当のことを言わなくなるからです。というか、戦争につながらなくても、国民に隠し事をするような国は危険なんです。そういう点で今の日本は非常に危険です。その嘘を見抜き、支配されないためには「自分の感覚と心で感じ、自分の頭で考え、自分の意思で判断し行動する能力」が必要なのです。そしてそれが、平和な社会を作るために必要なことなんです。平和な社会は国が作るものではなく、私たち一人ひとりの意識と生き方が作り出すのです。なぜなら、私たち一人ひとりの意識と生き方が、国の形を決めるのですから。「本当のこと」を隠したり、利害関係で繋がった組織票で政治を動かそうとする考え方は、民主主義の理念に反するのです。ちなみに、第9条があるから大丈夫などとは考えないで下さいね。国が本気になったら、こんなもの簡単に変えてしまうことも出来るのですから。国が情報操作して、「9条は危険な考え方だ」と偉い学者達にテレビなどで言わせれば、世論は簡単に変わってしまうのです。そんなことしなくても自分たちだけで簡単に変えることもできます。だからこそ、「平和」を維持するためには、「自分の感覚と心で感じ、自分の頭で考え、自分の意思で判断し行動する能力」を育てる必要があるのです。戦争反対をいくら言い立てても、戦争の悲惨さをいくら伝えようとしても、「自分の感覚と心で感じ、自分の頭で考え、自分の意思で判断し行動する能力」が育っていない子には伝わらないのです。
2024.08.10
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(去年の8月にアップした文章に少し手を入れたものです)子どもを叱ってばかりいるお母さんがいます。でも、叱られてばかりいる子どもは、オドオドし、憶病になるだけで行動が改善されることはありません。それは、目隠しされている状態の人に「真っ直ぐ歩け」と言っても意味がないのと同じです。「真っ直ぐ歩け」と言う前に、目隠しを取ってあげる必要があるのです。そして、自分にとって価値のあるものに目を向けさせてあげるのです。そうすれば「真っ直ぐ歩け」などと言わなくても、自分の意思で真っ直ぐ歩くようになるのです。ただし、お母さんが向かわせたい方向とは違う方向に歩き出すでしょうけど。「イジメをヤメロ」と言うのは簡単です。でも、相手の悲しみや苦しみが分からない子に「イジメをヤメロ」と言っても無駄なことです。厳しく叱れば隠れてやるようになるだけです。「ケンカなんかしないで仲良く遊べ」と言っても、「一緒に遊ぶ楽しさ」や「楽しく遊ぶ遊び方」を知らず、相手を「仲間」として受け入れることも出来ないような子が仲良く遊べるわけがないのです。「遊んでばかりいないで勉強しろ」と言っても、「勉強の楽しさ」や、「勉強の仕方」を知らない子が勉強するようになるわけがありません。それは材料を与えることもせず、作り方も、作る楽しさも教えないのに「自分の力で立派な家を建てろ」と言っているのと同じことだからです。そんなこと出来るわけがないですよね。子どもにそういうことを要求している大人にだって出来ません。でも、お母さんだけでなく、世の中の多くの大人達が、「自分でも出来ないようなこと」を子どもには要求しているのです。いくら「戦争反対」を叫んでも、戦争の悲惨さを知らない人にはその訴えは届きません。色々な写真を見せ、色々な体験話を聞かせても戦争に対する恐怖心が生まれるだけです。そして、いくら恐怖心を広めても、戦争は防げないし、平和な社会も作ることも出来ません。それは、「仲間と一緒に遊ぶ楽しさ」や「楽しく遊ぶ遊び方」を知らない子に、「仲良く遊べ」と要求するのと同じことです。戦争はなんで悲惨なのかというと大勢人が死ぬからではありません。人と人が殺し合うからでもありません。実際、ウクライナではいま多くの人が死んでいます、人と人が殺し合っています、でも、多くの日本人はそれを情報として知っているだけでウクライナの人と一緒に悲しんだり、苦しんだりはしていません。悲惨だという状況は認識していますが、実際に悲惨さを感じているわけではありません。どうしてなのかというと、ウクライナに「自分にとって大切な人」がいないからです。ウクライナが自分にとって「大切な国」ではないからです。戦争が悲惨なのは、自分にとって大切な家族や、大切な仲間や、大切な想い出や、大切な故郷や、大切な文化や、大切な生活が失われてしまうからです。ただ単に人と人が殺し合うからではありません。でも、ウクライナに「大切な家族」や、「大切な仲間」や、「大切な想い出」を持っている日本人は多くありません。だから、人ごととして見ていることが出来るのです。人は、「自分にとって大切なもの」を守るために戦うのです。そして、「自分にとって大切なもの」が失われたときに悲しむのです。だから、「戦争がない平和な社会を作ることが出来る子」を育てるためには、人と人のつながりの中で「大切なもの」や「失いたくないもの」をいっぱい育ててあげる必要があるのです。大切な仲間、楽しい想い出、大好きな事や大切にしていることをいっぱい育ててあげることが平和教育になるのです。そういう「大切なもの」をいっぱい育てることが出来た子なら、「戦争が起きたらそういうものが全て失われてしまうんだよ」と伝えることで「戦争の悲惨さ」を伝えることが出来るでしょう。10才以降の子ならその判断が出来ると思います。江戸幕府が300年も平和を築けたのは、人々が戦国時代の悲惨な想い出を語り継いだからではありません。むしろその逆に、人々が日々平和に生きることの中に「楽しさ」を見いだしたからなんです。だから、あれだけの文化が花開いたのです。それと同じように、平和な社会を持続させるためには、子どもたちに「大好きな家族」、「大好きな仲間」、「楽しい想い出」、「自然の美しさと面白さ」、そういうものをいっぱい育ててあげる必要があるのです。また、外国の人ともつながり、外国の文化や歴史にも興味を持たせるような関わりも必要です。フランスに想い出があったり大切な友だちがいるなら、フランスと戦争をしたいなどとは思わないのです。皆さんだって、子どもの頃楽しく遊んだ川、楽しく遊んだ野原、楽しく遊んだ仲間を失いたくはないですよね。破壊されそうになったら守ろうとしますよね。でも、自分の事や、お金や、地位や、名誉にしか興味がない人は、自分の利益のために戦争を利用するかも知れません。戦争が起きても「自分にとって大切なもの」が失われないどころか、むしろ戦争が起きることで「自分にとって大切なもの」を得ることが出来るのですから。でも今、「つながり」の中で「自分にとって大切なもの」を育てることが出来ない子どもたちがいっぱいいます。「自分の命」や「からだ」すら「大切なもの」でなくなってしまっている子もいっぱいいます。それは、大人達が、子ども達から「遊び」を奪い、「仲間」を奪い、「自由に感じ、考え、行動する喜び」を奪い、「自然」を奪い、お金を得ることや、競争に勝つことの大切ばかりを教えて来たからです。そういう状態の子は平和を守ることには興味が無いでしょうね。戦争の悲惨さを教えても、逆に「面白そう」と思うかも知れません。実際、人が人を殺し、人が無残に死ぬようなホラー映画を面白がって見ている子がいっぱいいますから。遊びとしてのゲームの中でも楽しそうに殺しています。実際、「戦争に行ったら鉄砲が自由に撃てるんでしょ。戦争に行きたい。」と言っていた子がいました。皆さんのお子さんにとって「大切なこと」は何ですか?皆さんにとって「大切なこと」は何ですか?「人と人のつながり」の中に「その大切なこと」がある人は、平和を守ろうとするでしょうね。でも、勝ち負けや、名誉や、お金といったようなものにしか価値を感じることが出来ない人は、平和には関心がないでしょうね。
2024.08.09
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昨日は、子ども達に「本人の自由意志に基づかない活動」を強いると、子どもの心とからだがバラバラになってしまうのです。すると、心も不安定になります。ということを書きましたが、子どもが、自立して自分らしく生きることが出来るようになるためには、この「本人の自由意思に基づく活動」が必要になるのです。昔の子どもたちの「子どもたちによる、子どもたちのための群れ遊びの場」ではそういう活動が出来ていました。そんな群れ遊びの場では、嫌ならやらなければいいのです。飽きたら色々と工夫して楽しくすればいいのです。ケンカしても自分たちで解決しました。監視や管理や命令をする大人はいませんでした。「遊びとしての勝ち負け」は競いましたが、勝つことにこだわりはしませんでした。楽しくなくなってしまうからです。それに、昔の群れ遊びの場には色々な年齢の子、色々な能力の子、色々な性格の子が集まっていたので、「みんなが同じルールを守って勝ち負けを競う」という活動自体が出来ませんでした。小学校の高学年の子と幼稚園ぐらいの子が勝ち負けを競い合っても意味がないのです。それよりもみんなが助け合って楽しく遊ぶことの方が大切だったのです。ですから、小さい子には「おみそ」といって特別ルールを作ったりもしました。でも、最近の子たちは小さい子にだけ特別ルールを作ろうとすると「ずるい」と言い立ててきます。固定されたルールに従って勝ち負けを競うスポーツのような活動が成り立つためには、年齢や、体の大きさや、性別や、能力などの同質性が必要になります。実際、スポーツではそうなっていますよね。そして、最近の子どもたちは自分と似た年齢、似た趣味、似た能力の子としか遊ぼうとしないし、また遊べません。だからスポーツは出来ても群れ遊びが出来ないのです。でも、そのような条件が与えられているのは学校やスポーツクラブのような特殊な場だけです。以前、学童に呼ばれて遊びのワークをしたことがあるのですが、異年齢のグループを作らせて遊ばせようとしたのですが、みんな自分と同じ学年の子とだけ群れて、みんな一緒に遊ぼうとしなくて難儀したことがあります。小さい子が困っていても大きな子が助けないし、小さな子が危ないような遊びも平気でするのです。でも、社会に出たら、昔の群れ遊びの場のように、色々な年齢、色々な趣味、色々な能力の人と関わりながら生きていくしかないのです。「会社」もそのような場です。「家族」も同じです。でも、幼い頃から多様性が失われ、助け合うのではなく勝ち負けを競い合う群れの中で育った人は、「会社」や「家族」という「多様性に支えられた群れ」の中ではどうしたらいいのか分からないのです。結婚して子どもが生まれても、自分とは異なった感覚や考え方を持ち、異なった世界に生きている子どもとの関わり方が分からない、自分とは異なったルールを持っているパートナーとの関わり方が分からない、そして「自分勝手(マイルール)」をお互いに押し付け合う、今、そういう人が非常に多いのです。将来子どもが自立して自分らしく生き、幸せな家庭を築くために必要なのは「勝ち負けを競う合う能力」ではなく、「助け合う能力」なんです。でも今、その「助け合う能力」を育てる場がありません。もっとも最近は、結婚願望もあまりなく、子どもも嫌いで子どもを持ちたいという願望も弱く、一人で気楽に生きたいと願っている若者が多いみたいですけど。
2024.08.08
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スポーツでは「勝ち負け」を競います。そして、そんなスポーツが大好きな人は山のようにいます。「子どもの心とからだの成長にはスポーツが必要だ」と言う人も山のようにいます。実際、スポーツは学校教育でも積極的に取り入れられています。部活動でも文化部よりも運動部の方が盛んなようです。でも、そのような考え方に根拠はありません。スポーツが好きな人の思い込みに過ぎません。実際、明治になるまでの日本の子ども達はスポーツではなく遊びで、心とからだを育てていたのですから。そしてそれは日本だけの話ではありません。確かに、子どもの心とからだの成長には運動が必要です。でも、その運動は子ども自身の自由意思に基づくものであるべきです。子ども自身の自由意思に基づく運動であるから、子どもの心とからだの成長に肯定的に働きかけ、心や感覚やからだが統合されるのです。スポーツも子ども自身が望んでやるならいいのですが、授業として嫌々やらされている子もいっぱいいます。実際、「勝ち負けにこだわらない子」、「戦うことが嫌いな子」、「指示や命令で動かされるのが嫌いな子」、「運動が嫌いな子」もいっぱいいるのです。そういう子ども達に、大人の指示や命令に従って運動を強制するのは「訓練」に過ぎません。実際、スポーツは軍隊の訓練としても取り入れられて来ました。また、偏った身体の使い方をしたり、年令不相応に負荷が高い活動をすることでからだを壊す子も出てきます。生理が止まってしまう女の子もいます。でも、鬼ごっこでも、木登りでも、コマ回しでも、遊びでからだを動かす場合は、それほど偏ったからだの使い方をしないものです。疲れたら休めます。また、自分流のからだの使い方も許されます。子ども達に「本人の自由意志に基づかない活動」を強いると、子どもの心とからだがバラバラになってしまうのです。すると、心も不安定になります。本来、子どもの成長にとっては「大人が決めたルールの下で勝ち負けを競うスポーツ」は必要がないのです。実際、「スポーツをやっている子の方がスポーツをやっていない子よりもちゃんと成長している」なんてことないですよね。運動部の不祥事も時々聞きますよね。それに、明治になるまで日本にはスポーツなんて存在していませんでした。ちなみに、江戸時代まで行われていた剣術や武道は「勝ち負けを競うスポーツ」ではありませんからね。本来学校は、「スポーツをやる場」ではなく「学びの場」です。ですから、学校では「スポーツの楽しさ」よりも「学ぶ楽しさ」を伝えるべきなんです。算数を学ぶ楽しさ、国語や歴史を学ぶ楽しさ、理科や社会を学ぶ楽しさを伝えるべきなんです。それが学校というものが存在している理由なんです。でもみんな、その学校本来の役目と意味を忘れてしまっています。
2024.08.07
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今、テレビをつけるとオリンピック関係のニュースばかりで盛り上がっています。まるで今の日本には、オリンピック以上に大切なニュースも、扱うべき問題も存在しないかのようです。株が大暴落しても、オリンピックの話題の隙間に少し流れるくらいです。次に多いのが「この夏の暑さ」についてです。オリンピックが始まる前に流れていたような多くの事件や出来事や話題はもう消えてしまったのでしょうか。そして、CMも含めてテレビに出てくる人はみんな「スポーツのすばらしさ」を思いっきり言い立てています。スポーツが盛んになると日本が元気になる、経済が活性化する、子どもたちも元気になる、などなどです。「子どもたちはスポーツさえやっていればちゃんと育つ」的な考えの人も多いです。学校の部活でも、文化部は低調のようです。数も減っているようです。うちの子は長女が弦楽部でしたが、他の3人はみんな運動部でした。(テニス、剣道、陸上)ちなみに私は運動部が嫌いで(運動が嫌いなわけではありません)、中学の時は「地学天文部」、高校の時は「映画研究部」でした。子どもたちが運動部に入って知ったのは、「運動部はとにかくお金がかかる」ということです。靴やラケットや合宿やその他さまざまな所で出費があります。確かに、経済活動には大きく貢献しているようです。(長女はコントラバスでしたが、買えないので学校のを借りていました。)でもそのため、経済的に困窮している家の子は運動部に入ることが難しいようです。部活動も学校教育の一環として行っているとするのなら、これは公教育の在り方としてはどうなんだろうと思わざるおえません。あと、スポーツでは勝ち負けを競います。だから競技として成り立つのです。サッカーでも野球でも、勝ち負けを競わなければ「遊び」として成り立つのですが、それはスポーツ本来の姿ではありません。そのスポーツでは「パワーとスピード」を非常に重視します。というか、それを様々な形で競い合うのが「スポーツ」の基本的な形です。テクニックも必要ですが、それは「パワーとスピード」をコントロールするためのテクニックです。肉体の柔らかさも求められますが、それは「パワーとスピード」を効率よく使ったり、ケガを避けるためにです。人間は本来「パワーとスピードに依存しない生活をする動物」なので、「パワーとスピードに頼った活動」ばかりをしているとからだを壊してしまうのです。「パワーとスピードに頼った活動」は、本来、人間にとっては不自然な活動なんです。だから「からだ」もそのようには出来ていないのです。実際、人間の様々な文化的な活動、生産的な活動、知的、芸術的活動、人間らしさが表れるような活動において「パワーとスピード」を必要とするものはスポーツの世界だけです。生活の場でも、学びの場でも、仕事の場でも、「パワーとスピード」はほとんど役に立ちません。ゴリラは筋トレなどしなくても力が強いです。チーターは走るトレーニングなどしなくても早く走れます。生活のレベルを超えて訓練しなければ身につかない能力は、その動物にとっては本来必要がない能力なんです。実際、スポーツ的なトレーニングを何もしていなくても、少しも困らずに生活している人の方が多いです。でもだからこそ、「スポーツ」は見世物として成り立つのです。努力しなければ得ることが出来ない「人間らしさを超えた能力」だから、それを見てみんな驚くのです。スポーツを「見世物」と書くと嫌な気分を感じる人もいるかも知れませんが、古代ローマの時代から歴史的に見てもそうなんですから、それは事実として受け入れるしかありません。まただから。プロスポーツを観戦するときにはお金が必要になるのです。ちなみに、相撲は「神さまに対する見世物」として生まれました。実際、現代社会でもスポーツは見世物として扱われています。だから「経済活動」と密接につながっているのです。ちなみに「健康のためのスポーツ」は「スポーツ」というよりも、「遊び」です。そこで大事なのは「勝ち負け」や「記録」ではなく「楽しむ」という事だからです。すのため、パワーやスピードにもこだわりません。ですから「健康のためのスポーツ」はいいと思います。それは否定しません。でも、子どもにはそれすらも必要がありません。子どもには「遊び」があるからです。子どもに「スポーツ」は必要ありませんが「遊び」は絶対的に必要なんです。からだの基礎がある程度出来上がっている大人なら、スポーツの人工的な不自然さを楽しむのもOKですが、そのからだの基礎を作っている時期の子どもには不自然なからだの使い方を要求されるスポーツはあまりふさわしくないのです。子どもがからだの活動を通して育てなければならないのは、「パワーとスピード」でも、「スポーツ的な能力」でもなく、「心や意識の働きとつながった丁寧なからだの使い方」なんです。それが子どもの心とからだを統合させ、精神的な安定をもたらすのです。子どもは本能的にそれを知っています。だから大人に指示命令されなくても、自分の意思で遊ぶのです。人類が「パワーとスピード」を身につける代わりに発達させたのが「考える能力」と「心を使って想像し、手を使って創造する能力」です。それが人間の人間らしさを支えているのです。そして、子どもたちはその能力もまた遊びの中で身につけているのです。でもなぜかみんな、その人類の進化に逆らうような活動にばかり夢中です。
2024.08.06
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自分に自信がない人、不安ばかりが強い人、ほかの人や何かに依存する傾向が強い人、子どもの欠点ばかりあげつらう人、自分のことは棚に上げておいて他の人を評価ばかりする人、自分の意見を言わない人、自分を表現しようとしない人、見栄や体裁や人目ばかり気にしている人、新しいことに挑戦することを避ける人、失敗することを恐れる人、「違う自分」になりたがるような人は、「減点法」で自分や、人や、世界を見ています。その「減点法」の基準は自分であったり、社会的な価値観であったり、自分が「正解だと思い込んでいるもの」であったりします。そしてそれは固定されています。学校では100点を上限として減点法で子どもたちの学力を評価していますが、「減点法」という方法では、子どもたちが「先生の頭の中にある正解にどれだけ近づいたのか」ということだけが評価の基準になります。そこには「子どもの可能性やその子らしを育てる」という視点は皆無です。そのため困ったことに、教育を受けることで「子どもたちの可能性」や「その子らしさ」がつぶされてしまっています。それに反抗して「私は私だ」と主張する子は問題児として扱われます。なぜ、教えられたことをちゃんと覚え、「先生の期待通りに感想文を書き、先生の期待通りに絵を描き、先生の期待通りに正解を書くような子」だけが評価され、「自分らしく感じたことを書いた感想文」や、「自分が感じたように描いた絵」が否定されてしまうのでしょうか。算数でも、なぜ「自分で考えた解き方」で解いてはいけないのでしょうか。なぜ、お母さんや先生の期待度通りに勉強をせず、自分が大好きな虫取りや、木登りばかりやっている子は否定されるのでしょうか。なぜ、学校の勉強はせずに、昆虫や、石や、電車や、恐竜などといった自分の趣味の勉強ばかりしている子は否定されるのでしょうか。学校では、なぜ自分の考えや、自分の意見を言ってはいけないのか。なぜ、「言われたことだけ」をやって「自分がやりたいこと」をやってはいけないのか。なぜ、お母さんや先生は子どもや生徒の言葉に耳を傾けないのか。子どもの気持ちを感じ取ろうとしないのか。子どもの「その子らしい成長」を願わないのか。そういう事を言うと、「そんなことを許したら、みんなが自分勝手なことを言ったりやったりするようになって学校や社会が乱れてしまう」などと言う人がいますが、だったら、「自分の欲や感情に支配されず、自分の頭で考え、自分の感覚で感じ、人の言葉に耳を傾け、自分の意見を言い、自分の意志と判断で行動できる能力」を育てればいいのです。その能力を育てようとせずに、「自由にさせたら乱れる」といって、子どもを束縛しようとするのは大人の身勝手です。というか大人自身が自分の感覚で感じ、自分の頭で考えることを放棄してしまっているのでしょう。でも、そんなことをしていたら、子どもは成長しません。社会も自由を失い活力を失います。みんなが人目を気にして生きるようになります。だからネットの中で自由を得ようとしているのかも知れません。でも大人は、そんなネットの中でも「あれをしてはいけない、これをしてもいけない」などとネットマナーを教えようとしています。でも、大人や先生には、子どもたちが実際にネットの中でやっていることを監視することは出来ません。本当に必要なことは「ネットマナー」を教えることではなく、「どうしてそれがいけないことなのか」を自分の感覚で感じ、自分の頭で考える能力を育てることなんです。通知表をなくそうとしている学校もありますが、学校を「一方的に大人が教える場」ではなく「大人と子どもが共に育つ場」に変えないことには、通知表をなくしても意味がないのです。
2024.08.05
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「自分の心」にこだわっていると、当然のことながら「心の世界」はドンドンと狭くなっていきます。周囲を見ないで自分ばかり見ているのですからそれは当然のことです。実際にそのような状態で外を歩いたら、石に躓いたり、木にぶつかったり、穴に落ちたり、人にぶつかって怒鳴られたりしてしまうでしょう。それはスマホに夢中になりながら歩いている人と同じ状態です。でも、そのような状態の人は、どうしていつも自分ばかりがそういう災難に遭うのかが分かりません。スマホを見ている人の場合は、何かにぶつかった時にはスマホから目を離して原因を確認することも可能ですが、小さいときから「自分の心」しか見ないまま育った人は、何か災難に遭うと、その苦しみ故に逆に余計に自分の「心の世界」に入り込んでしまうからです。そして、苦しみの原因は「ちゃんと目を開けて周囲を見ていない自分」にあるのにも関わらず、「これは誰かのせいに違いない」と、自分の困難の原因を人のせいにしたりします。「自分は何も悪いことをしていないのに」とも言います。そのような人は、確かに「悪いこと」はしていないのですが、「周囲の状況を見ていない」という「間違ったこと」はしているのです。でも、そのことが分かりません。自分のことばかり見て育っているからです。その状態から抜け出し、自分の心を広げるためには、「視点を変えて見る」とか、「他者の立場に立ってみる」という訓練が必要になるのです。子育てのワークショップなどでは、子どもに対するお母さんの愚痴や文句を聞いて、その状況をそこに参加しているメンバーで再現してみるということをすることがあります。(最近は、気質のワークばかりで、子育てワークショップはあまりやりませんけど・・・。)お母さんから子どもの状態をよく聞いた別の参加者が、そのお母さんが言うように子ども役を演じるのです。そして、いつもやっているように子どもと関わって貰います。いつも言っていることを言い、いつもやっていることをやって貰います。次に、役を交代して貰います。ここで視点の変換が起きます。普段、お母さんが子どもにしていることを、お母さんが子どもの立場になって体験するのです。すろとそれだけで泣き出す人が多いです。「子どもの立場に立ってお母さん(自分)に手紙を書く」というワークもあります。このようなワークを通して「他者の視点」に気付くことが出来るのです。内観法という日本生まれのセラピーでも似たようなことをします。「他者の視点」に気付くことで、「自分の心」へのこだわりが減り、「自分の心」が広がって行くのです。そして、目の前の子どもの顔やからだの状態や、青い空や、肌に触れる風に気付くようになるのです。植物や動物の立場に立ってみる、古代の人の立場になってみる、外国の人の立場に立ってみる、地球の立場に立ってみるということも有効です。そういう「他者の立場に立ってみる」という意識の使い方を通して、「心の世界」はどんどんと広がり自由になって行くのです。でも、現代人の心はそれとは全く逆の方向に進んでいます。そのため「心の世界」がどんどん狭くなってきてしまっています。その根底には「自分ファースト」の価値観があります。あと、この「意識的に自分の視点を切り替える」というという方法は子どもには出来ません。「意識的に意識の切り替えを行う自我の働き」が成熟していないからです。大人でも、「意識的に意識の切り替えを行う自我の働き」が弱い人は、上に書いたようなワークは出来ません。「他者の立場に立って考えてみる」ということが出来ないのです。自我の働きが未成熟だと、「自分」から離れることが出来ないからです。人間以外の動物たちはみんなこのような状態です。子どもの場合には「物語」をいっぱい読んで上げることが、「他者の視点に立つことが出来る心の育ち」に大きな影響を与えます。物語の中で「他者の体験」が出来るからです。ただし、動画などの映像で見せてしまうとその働きは消えます。一番いいのは「素話」ですが、素話が出来る人は多くないので絵本でもいいです。
2024.08.03
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悩みを抱えていて、悩みから抜け出せなくて苦しんでいる人は、「一つの考え方」「一つの見方」「一つの視点」にばかり囚われて、頭と心の自由を失ってしまっています。子育てでも、人生でも、「正解」に囚われている人ほど悩みが多くなるし、悩みから抜け出せなくなります。また、子どもや周囲の人との対立も多くなり、子育てや人間関係が上手く行かなくなります。でも家庭でも、学校でも「正解」しか教えてくれません。でも、私たちが生きている現実の世界には「固定された正解」などありません。あるのは「その場、その状況に合わせた正解」だけです。だから、現実世界を自由に生きるためには、その場、その状況に合わせて、自分の感覚で感じ、自分の頭で考えて正解を導き出すしかないのです。親や先生といった「他の人から与えられた正解」は「一つの例」に過ぎないのです。そして、「その場、その状況に合わせて、自分の感覚で感じ、自分の頭で考えて正解を導き出す能力」は、教科書を使った授業、暗記中心の授業では育てようがないのです。「自然の中での仲間と群れて遊ぶ自由な遊び」ではそのような能力が育ちますが、今の子どもたちはそのような遊びをすることが困難です。「創ったり、描いたり、表現したり、演じたりといったような芸術的」な活動もそのような能力を育ててくれますが、そういう活動を大切にしている学校は少ないです。道を歩いていて、道の真ん中に石が落ちていたとします。小さな石なら無視できます。ちょっと大きいのなら「じゃまだな」とどかすことも、避けることも出来ます。でも、その道をふさぐほどの大きな石が落ちていたらどうしますか?そんな時、その道(正解)にこだわる人は何とかその石をどかそうとするかもしれません。でも、自分の力では動かせないほど大きくて重かったら、その前で立ち往生して自分の不運を嘆くかもしれません。でももし、その状況を空から見ている人がいたら、その道にこだわって立ち往生している人はどう見えると思いますか。立ち往生している人には、目の前の「大きな石」しか見えないかもしれませんが、上から見ている人には「その石の周囲に広がっている広い野原」が見えているかも知れません。その野原の向こうに、「自分の目標」も見えているかも知れません。それが分かったら、目の前の道(石)にこだわらずに、野原の中に自分で道を作ってしまえばいいのです。そうすれば前に進むことが出来るのですから。また、ちょっと戻れば別の道があるかも知れません。でもそれに気づくためには、別の視点(次元)から考えてみる必要があるのです。石の向こうだけが「前」ではないのです。自分が進んでいる方向が前なんです。自分らしく生きるということはそういうことなんです。ちなみに、進むのをやめてしまった人には「前」がありません。このようにちょっと視点を変えてみるだけで頭と心が自由になるのです。
2024.08.03
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何でもかんでも、自分が管理していないと不安を感じる人がいます。仕事でも部下を信じて任せることが出来ない人がいます。子育てでも、子どもを信じて任せることが出来ない人がいます。そういう人は常に、子どもの言うことや行動をチェックしています。そして、常に自分の期待通りの結果を出すように相手に求めています。子どもの気持ちや、能力や、らしさなど無視します。そして、期待通りの結果を出せないと叱責します。「頑張ったところ」は見ずに「出来ていない所」だけを見ています。常に減点法で相手を評価します。また、失敗を許しません。そのため、そういうお母さんに育てられた子も、失敗を恐れるようになります。新しいことにチャレンジしなくなります。そして成長が止まります。そのような人は、相手の立場や視点に立って感じたり、考えたりするのが苦手です。常に「自分」だけが正解で、自分中心に感じ、自分中心に考え、自分中心に行動するのです。そのため、他の人とつながることも、助け合うことも出来ません。そのような人は周囲の人から見たらものすごく不自由な状態なんですが、本人はそのことに気づきません。そして、自分の考えや感覚だけが「正解」だと思い込み、それを相手にも押し付けます。でも当然相手は拒否します。(子どもは拒否できませんけど)そのため、強い不自由を感じることになります。その不自由の原因は自分が作っているのですがそのことに気付かないため、「周囲が自分を攻撃して、周囲によって自分が不自由になっている」と思い込みます。平気でカスハラをするような人はそのような状態なのでしょう。このような状態の人は「心」だけでなく「からだ」も固いです。感覚の働きも歪んでいます。「自分を守ろうとする意識が強い人のからだ」は「鎧」のように固くなってしまっているのです。胸が閉じ、背中は板のように固まり、股関節が緩みません。呼吸も浅いです。声も固いです。そのため「やわらかい動き」をすることが出来ません。「ゆっくり」が苦手です。感覚の働きも歪んでいて、判断することは出来ても味わうことが出来ません。でも中には、自分のそのような状態に気付き、自由になりたいともがき苦しんでいる人もいます。それで頑張って色々なことをするのですが、「頑張る」という方法ではからだを緩めることは出来ないのです。「溺れた時はもがくのではなく、からだの力を抜き水にからだを任せなさい」と言いますがそれと同じです。そして、からだの力を抜くためには「思考」ではなく、「味わう」という感覚の働きに意識を向ける必要があるのです。ストレッチをやる時も、「どれだけ曲がるか」に意識を向けるのではなく、ゆっくりと丁寧に動きながらからだの変化に意識を向け「からだ」を味わうのです。青い空を見て味わい、子どもの笑顔を見て味わい、花を見て味わい、毎日の食事を丁寧に味わうのです。すると少しずつ緩んできます。すると、少しずつ心が自由になってきます。すると、からだも自由になってきます。
2024.08.02
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私は「成長する」ということは「自由になること」なのではないかと思っています。寝たきりだった赤ちゃんがハイハイできるようになると、それだけ自由になります。ハイハイしか出来なかった赤ちゃんが立って歩けるようになると、それだけ自由になります。手が使えなかった子が手が使えるようになると、それだけ自由になります。平地しか歩けなかった子が山道や崖まで登れるようになれば、それだけ自由になります。ハサミやノコギリやナイフといった道具が使えなかった子が、それらを使いこなせるようになると、それだけ自由になります。虫や草や木のことを知らなかった子がそういうことを学べば、それだけ自由に感じ、考え、行動することが出来るようになります。色々な知識や技術を学び吸収することが出来れば、それだけ自由に感じ、考え、行動することが出来るようになります。でも最初は、その全てが「不自由」として存在しています。寝たきりだった赤ちゃんがハイハイし始める時、思うようにならないハイハイは不自由です。ハイハイしか出来なかった赤ちゃんにとって立って歩くことは不自由です。手が使えなかった子が手を使って何かをしようとする時、不自由を感じます。ハサミやノコギリやナイフといった道具が使えない子にとっては、道具を使うことは不自由です。学ぶ楽しさを知らない子にとっては、学ぶことは不自由です。そして、不自由を嫌う現代人は、それらの不自由と向き合い、不自由を乗り越えることで自由を得ようとするのではなく、簡単で便利な機械や道具やマニュアルを使って不自由を取り除こうとしています。上手く歩けない子には、簡単にうまく歩けるように歩行器を与えます。手や道具が使えない子には、不便な道具ではなく、道具を必要としないような簡単で便利なキットを与えます。今の学校の工作はそのような状態のようです。考えることが苦手な子には、考えなくても済むようなマニュアルを与えます。理解することが苦手な子には、暗記だけすれば済むような形の勉強だけさせます。遊びを知らない子、遊ぶことが苦手な子には、簡単に遊べるゲームを与えます。ゲームの中でなら、走るのが苦手な子でも自由に走ることが出来ます。結果、不自由と向き合わなくても、新しいことに挑戦しなくても、学ぶことで成長しなくても、便利な機械に依存することでそれなりに自由になることが出来るようになりました。それが現代人が享受している自由です。未来においては、何のトレーニングもしなくても、アイアンマンが着ているような「モビルスーツ」を着て、超人的に走ったり飛んだりすることも出来るようになるかもしれません。勉強などしなくても、脳内に埋め込まれたチップがオンラインで色々なことを教えてくれたり、考えたりしてくれるようになるかもしれません。脳内に埋め込まれたチップで、ゲームも出来るようになるかもしれません。人間の自由を支えてくれる機械やインフラが発展することで、人間自身が学び成長する必要がなくなってきたのです。でも、その機械を買うためのお金は必要です。ですからみんなお金を稼ぐためだけに生きるようになるでしょう。そして、お金の奴隷になるでしょう。お金を失うことは自由から何まで全てを失うことにつながってしまうからです。人間としての成長がない状態の人がお金の亡者になったら社会は混乱するでしょうね。また、人間として成長できない人たちでも、社会に大きな影響を与えることが出来る強大な力を得ることが出来るようになります。自分の部屋の中にいたまま、社会全体を混乱させるような事件を起こすことも可能になります。というか、もう可能です。刀を持たせる時には、その刀の使い方だけでなく「使っていい時」と「使ってはいけない時」を判断できる能力も育てる必要があります。これは刀だけでなくどんな武器でも同じです。でも、現代社会では「刀の使い方」は教えても、「使っていい時」と「使ってはいけない時」を判断できる能力を育てることをしていません。道徳教育のような形で言葉では教えていても、判断能力を育てること自体をしていないのですから全く無意味です。
2024.08.01
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人は、社会的、物質的、自然的、環境的な不自由の中で暮らしています。自力で空を飛びたいと思っても飛べないし、暑さや寒さから逃れるためにはお金が必要です。裸になりたいと思っても、街中で実際にそれをやるとお巡りさんに捕まります。また、人間関係が自由をもたらしてくれることもありますが、不自由をもたらすこともあります。そういうものは「外から来る不自由」です。では魔法かなんか使えるようになったり、大金持ちになったり、最高権力者などになったりしてその「外から来る不自由」を取り除くことが出来るようになったら人は自由になることが出来るのでしょうか。多くの人がそれを望んでいますが、でも、実際には「外から来る不自由」を100%排除しても人は自由になることは出来ません。なぜなら、「不自由」は外側からだけでなく、内側からもやってくるからです。考えることが苦手な人は、自由に考えることが出来る人よりも不自由な人生を送っています。でも考えることが得意でも、自分の考えに振り回されて不自由になってしまっている人もいます。人目を気にして生きている人は不自由を自分で作り出しています。だからといって人目を気にしないで生きてしまうと、今度は「自分勝手なことをするな」と周囲の人が不自由を与えてきます。皆さんは「自由に発言してもいいよ」と言われたら、自由に発言できますか?「自由に踊っていいよ」と言われたら、自由に踊ることが出来ますか?出来る人もいるかも知れませんが、ほとんどの人はそんなこと出来ないのではないでしょうか。人は、生きている間はどんなことをしても不自由から逃れることは出来ないのです。「自由」と「不自由」は「光」と「闇」のようにセットになっているものだからです。そのため、どちらを取っても、もれなくもう一方がくっついてきてしまうのです。「自由」を求める行為が「不自由」を作り出してしまうこともあります。逆に「不自由」を前向きに引き受けることで「自由」になることもあります。じゃあどうしようもないのか、というとそうでもないのです。「不自由」が不自由なのはその不自由から逃れようとするからなんです。「不自由」の意味を知り、「不自由」から学び、「不自由」を通して成長することが出来るのなら、その「不自由」は「人を束縛するもの」ではなくなるのです。そして、「不自由」のおかげで人は成長し自由になることが出来るのです。「子育て」を「束縛」と考えて「子育て」から逃げようとすればするほど、逆に「不自由」が増えてしまうのです。でも、「子育て」を前向きに受け止め楽しむようにしていれば、お母さんはどんどん成長していきます。そして、成長するに従い自由になることが出来るのです。子どもともよい関係を築くことが出来ます。そのことがまた自由を与えてくれます。それはお母さんだけでなく、お父さんでも同じです。
2024.07.31
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先日、「人間関係における不自由は自由の奪い合いによって生まれている」ということを書きました。それはつまり、あなたの自由が別の人の不自由を引き起こし、別の人の自由があなたの不自由を引き起こしている可能性が高いということでもあります。両者が密接な関係であるほどその影響は強くなります。お母さんが「自分だけの自由」を求めれば、子どもは不自由になります。ご主人が「自分だけの自由」を求めれば奥さんが不自由になります。大人たちが「大人だけの自由」を求めれば、子どもが不自由になります。そして、「他者に不自由を押し付けて得た自由」は巡り巡ってまた自分のところに返ってきてしまうので、結局は不自由になります。お母さんが自由になるために子どもに不自由を押し付けていれば、子どもが成長しなかったり、親子の信頼関係が築けなかったり、問題行動を起こすなりして結局自分のところに返ってきてしまうのです。皆さんが老人になって自分では自分の身の回りの作業が出来なくなった時に、「自分が我が子に対してどのような不自由を押し付けていたのか」を知ることが出来ます。同じように返してくれるからです。楽しみにしていて下さい。だから、人が「本当の自由」を得るためには「私という個人的な視点」ではなく、「私たちというつながりに支えられた視点」が必要になるのです。昔から東洋には、自然とのつながりを通して得たそのような視点がありましたが、個人主義を大切にする欧米的な価値観によって破壊されてしまいました。簡単で便利な機械や社会システムも「つながり」の破壊の手助けをしています。西洋では個人主義が盛んですが、それでもバラバラにならなかったのは、神の前での平等を説く宗教が「私たち」という視点を支えてくれていたからです。そのための「一神教」なんです。たった一人の神をみんなで信仰するから間接的に「私たち」という意識が生まれていたのです。でも、そのキリスト教の神も力を失ってきています。ですから、子どもたちに自由に生きて欲しいのなら、競争に勝つことだけを考えて子どもを追い立てることをやめた方がいいです。競争は自他を分離して「私たちという意識の育ち」を阻害してしまうからです。ではどのようにしたら、子どもたちが「私たち」という視点を育てる手助けが出来るのかということです。まず必要なのは「感情や、行動や、大切なことを共有することが出来る仲間」との出会いです。大切な仲間との出会いがなければ「私たち」という意識は生まれません。でも、ただ子どもたちを大勢集めるだけでは、「自由の奪い合い」が起きるだけです。そして力の強い子は自由になり、力の弱い子は不自由になります。イジメも起きるかも知れません。森の幼稚園でもこの問題は起きています。時々相談を受けますから。「寄せ集め」が「仲間」になるためには「共有するもの」が必要になるのです。それが遊びであったり、目的であったり、歌や踊りであったり、物語であったり、共通体験であったりするのです。地域の中に世代を超えた群れが存在していた時代は、その「共有するもの」も世代を超えて伝承されていました。でも、大人たちが大人の自由を得るためにその群れを破壊してしまいました。それとともに「共有されてきたもの」も消えてしまいました。だから、大人がそれを子どもに返してあげる必要があるのです。森の幼稚園では出来るだけ大人の介入を避けようとしている所が多いですが、支配し、管理するような関りは避けた方がいいですが、子どもたちが仲間づくりしやすくなるような「共有するもの」を与えるような関りは必要なんです。プレイパークではそれがプレイリーダーの役割です。プレイリーダーは、「常識的な大人」としてではなく「子どものような感性を持ち、子どものような発想をすることが出来る遊びの先輩」として子どもたちと関わっています。伝承が途絶えてしまった社会に生まれてきた子どもたちがまたつながりを取り戻すためには、「共有するもの」をいっぱい持っている大人が「遊びの先輩」として子どもと関わってあげる必要があるのです。ただしここで重要なことは「子どもをお客さんにしない」ということです。「子どもが色々なことに興味を持つきっかけとしての大人」は必要ですが、「子どもにいろいろと教えようとする大人」は必要がないということです。でも、保育園や幼稚園などの先生は子どもをお客さんにしてしまっています。最近の子どもたちは「みんなで遊ぶ遊び」を知りません。もちろん「わらべ歌」も知りません。ベーブレードは知っていても、ひもを巻いて回すコマは知りません。知っていても、回せる子は少ないです。ベーゴマになるとさらに少なくなります。そんな子どもたちでも、楽しそうにコマを回している大人がいれば「僕もやってみたい」と寄ってくるのです。「コマ回しを教えてあげるから集まっておいで」などという必要はありません。そして、「教えて」と言われたら教えればいいのです。「わらべ歌」も「わらべ歌」を知っている大人が集まって勝手に遊べばいいのです。そして、子どもが「まぜて」と言ってきたら入れてあげればいいのです。そして、子どもたちが増えてきたら大人は静かに消えればいいのです。「みんなで一緒に遊ぶ遊び」は、一緒に遊んだ体験がない子が何人集まっても発見できないのです。そのような「みんなで一緒に遊ぶ遊び」が、子どもの意識を「私」から「私たち」へと広げてくれるのです。そして、子どもの心が自由になっていくのです。他にも「物語を読む」ことで「私たち」という意識を広げることも出来ます。
2024.07.30
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「自然」は「人間」のために存在しているわけではありません。「人間」もまた「自然」の一部であり、木々や生き物たちは「人間の仲間」であって、そこに「上下の関係」はありません。キリスト教ではそこに「上下の関係がある」と説いていますが、その根拠は人間が作り出した聖書だけです。人間よりも古くから存在している「自然」がそのように証言しているわけではありません。実際、「自然」は「人間の命令」には従ってくれません。森でクマに出会ったとき「下がれおろう、人間様じゃぞ」と言っても、クマは「ははー」などと言って引き下がってはくれません。森の中で「虫がいっぱいいて困る、何とかしろ」と言っても、自然は何もしてくれません。だから、力づくで何とかしようとします。キリスト教が提示する「人間」と「自然」の間の「上下の関係」は、その、人間の「力づく」に正当性を与えていますが、「自然」がその正当性を受け入れているわけではありません。むしろその逆に自然は「自然」を守るために徹底的に抵抗しています。今起きている様々な環境問題や温暖化の問題もその自然による反抗の表れです。でも人間はそれも、科学の力を使って力ずくで自然を押さえ込もうとしています。そんなことをしたらさらに「倍返し」になってしまうのに。人類はそんな不便な自然の中で、あれこれ工夫しながら生き延びてきました。自然を支配しようとするのではなく、逆に自然の力を借りながら自然と共に何十万年と生きてきたのです。人類の知恵や、技術や、様々な文化や文明はその工夫の結果です。でも、その「自然との関わり合いによって得た能力」によって、「人間が人間だけのために創りあげた社会」の中では、人間こそが王様であり神様です。「アレクサ、電気をつけて」と言うだけで、暗い部屋が明るくなったりします。もはや。電気をつけるために立ち上がる必要すらなくなったのです。友達の家まで行かなくても友達と話が出来たり、図書館に行かなくても調べごとが出来たりします。自然を相手にしている時にケガをしたら「自分のせい」ですが、人間が作った環境の中で人間が作ったものでケガをしたら、それは「人のせい」です。時には裁判沙汰になります。人間は楽をするために、簡単で便利な生活を得るために様々な道具や機械を作り出してきました。それでも電気仕掛けになる前は、道具を使う人にもそれなりの学びと、努力と、能力が必要でした。トンカチやノコギリといった道具を使いこなせるようになるためにはそれなりの練習が必要です。その過程でケガをすることもよくあります。うちの教室でも「ケガ」は日常的に起きています。ただし、ケガを繰り返しながら学ぶ子もいれば、たった一回のケガで「もうケガをしたくない」と、その作業に手を出さなくなる子がいます。そういう子は「出来ないこと」がどんどん増えていき、どんどん不自由になっていきます。道具や自分のからだを使って遊ぶプレイパークでも、「ケガと弁当は自分持ち」という言葉を標語にしています。自然の中の遊びやプレイパークのような所では、子どもたちは不便を工夫によって面白いことや楽しいことに変えながら遊んでいるのです。それが「自由になる」ということでもあるのです。「与えてもらう自由」に慣れてしまった子は、「自由を与えてくれる相手」に依存するようになります。でもそれは「自由」を失うということでもあるのです。「自由になる」ということは、「自分」が自分自身の人生の主人公にになることなんです。子ども達はそんな自由を得るために、自分の感覚や、思考や、心や、からだを使って、自分の意志で、「思い通りにならない自然」を相手に、「思い通りにならない仲間」と関わりながら遊んでいるのです。
2024.07.29
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親子キャンプ(合宿)から帰ってきました。昨日泊まったのは神奈川県の山北という所にある「ペガススの家」という所です。この「ペガススの家」は横浜にある「りんごの木」という幼稚園の園長先生が描いた「ぼくはいかない」という絵本の舞台になったところです。この「ペガススの家」は「何にもないけど何でもあるところ」と言われています。私は、この「ペガススの家」で20年くらい前から毎年合宿をしています。お風呂でさえ、「五右衛門風呂」が一つと、川遊びの後に入るドラム缶風呂が二つだけです。キッチンも皆さんのお母さんお父さんが子どもの頃のような状態です。ご飯を炊くのはカマドで羽釜で炊きます。一応ガスコンロはありますが、有料になるので私たちは使いません。今回もほとんど全部薪で調理しました。子ども達は川で遊んだり、竹で工作したりしました。私が竹工作の指導をしました。遊具はありません。あるのは水と石と草と素敵な景色くらいです。いるのはカニや、魚や、オタマジャクシや、素敵な虫、そしてアブやブヨやヒルといった困った虫くらいです。今時の子どもやお母さんが喜ぶようなものはなにもありません。でも、何にもないのですけど、子ども達はそこにあるものだけで夢中になって遊びます。それが「工夫力」であり、「自由である」ということなのではないでしょうか。「ないもの探し」をすれば不自由になります。でも、すでにそこにあるものを工夫して遊ぼうとするのなら自由になります。でも、最近の子は「ないもの探し」ばかりして、つまんない、退屈だと言い続けます。お母さん達も同じような状態です。子どもに「ないもの探し」ばかりしています。この右奥の小川で「ヤマメのつかみ取り」をしました。
2024.07.28
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私は若いころバックパッカーでヨーロッパやアジアの色々な国を回っていました。スペインに半年、インドに二か月弱、後は色々な国を渡り歩いていたのですが、当然、かなりのカルチャーショックがありました。特にインドでですけど。みんな、電車やバスに乗るときに我先に中に入ろうとするのです。なぜかインドの人は布団のような大きな荷物を持って電車に乗ろうとしている人が多く、そういう人が、中の人が出てくるのを待たずに無理やり入ろうとするのです。「そういう人もいる」という状態ではありません。「みんな」です。それで、入ろうとする人は入り口で詰まってしまって入れません。中にいる人は出口が詰まっているため出られません。そこで、両者とも力づくで無理やり自分の目的を遂げようとするのですが、すごく長い時間がかかってしまいます。それを見ていて呆れてしまいました。同じような体験が中国でもありました。まだみんな人民服を着ている頃の中国です。こちらはバスで同じようなことをしていて、中はガラガラなのに中に入るのに長い時間がかかってしまいました。そんな時はちょっと譲り合った方がスムーズに行くものです。昭和の日本人はそのことを知っているので、譲り合うことに慣れています。でも、日本人の場合は、お先にどうぞ。いえいえ、あなたからどうぞ。そんなこと言わずにお先にどうぞいえいえ、あなたの方が年上ですからお先にどうぞなどと、譲り合いすぎて時間がかかってしまうこともあります。それはそれで問題ですけど・・・。だから、謙譲の美徳を大切にする日本人が、自己主張が強いインドや中国の人と商売などで戦って勝てるわけがないのです。常識が全く違うのですから。私がインドや中国で見たのは、「自由を奪い合うと逆に不自由になってしまう」という現実です。そんな時はちょっとだけ「自分の自由」を我慢して譲り合うだけで、もっともっと自由になることが出来るのです。(ただしこれも程度問題ですけど。)でも日本でも、「謙譲の美徳」という価値観はどんどん薄れてきています。相手の謙譲につけ入る人が増えてきたからなのでしょうか。電車などでも、年寄りがいても、子どもがいても、妊婦がいても気にしないで我先に席を確保しようとする人がいっぱいいます。ちなみにコロナ騒動が始まる直前に台湾に行ったのですが、台湾では優先席などなくても私が入ると必ず若者が席を譲ってくれました。100%です。(それはそれで複雑な心境でしたけど・・・)ネットの世界では「謙譲」は全く意味を持ちません。自己主張が絶対に有利なのです。「謙譲の美徳」が意味を持つのは、「顔が見える付き合い」「顔を知っている人同士」の間だけだからです。顔が見えない相手に謙譲しても意味がないのです。まただから、イジメでも顔が見えない状態だと過激になりやすいのです。「謙譲」だけでなく、「優しさ」や、「思いやり」や、「助け合う」といった「人と人との付き合い方の基本」は、顔が見える関係、大切な何かを共有しているつながり、ダイレクトに利害がぶつかり合うような状態の中で痛い思いをしながら学ぶしかないのです。子どもにとってはそれが「大切な仲間との群れ遊びの場」なのです。ネットの中での付き合いでは「人と人の付き合い方の基本」を学べるわけがないのです。大人や学校は、子どもたちに「ネットマナー」を教え、「ネットの中でもマナーを守りなさい」などと言いますがそれは「ちゃんと言ったからね、あとはあんたの責任よ」という責任の押し付けに過ぎません。もし本当に、子どもたちにネットの世界でもマナーを守るように伝えたいのなら、まず、リアルな世界で「大切な仲間と群れて遊ぶ体験」をいっぱいさせてあげるところから始めるしかないのです。リアルな世界で優しさや、思いやりや、謙譲や、助け合いといった「人と人とのかかわり方の基本」と出会っていないのに、ネットの中でそれを守れと言っても100%無理に決まっているのです。それは実際の木を見たことも、木に触れたことも、木と遊んだこともない子に「木を大切にしなさい」と言っているのと同じことだからです。そういう状態の子はネットの中では自由でも、実際に自分が生き、生活し、仕事をしている現実世界では不自由でしょうね。自分に自信を持てないし、人に自由を奪われる不安も強く、自分らしく自由に生きることも出来ないでしょうね。
2024.07.27
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昨日は、大人には「子ども自身の自由」を与えることはできないですが「大人が作り出した不自由」を取り除いてあげることは出来るのです。そして、「大人が作り出した不自由」を取り除くことで初めて、子どもたちは「自由に生きるために必要な能力を得るための活動」を自由に行うことが出来るようになるのです。ということを書きました。皆さんが「子どもの成長」を望むのなら、「大人同士が自由を得るために発生した不自由」を子どもに押し付けるのはやめたほうがいいです。子どもには「大人が作り出した不自由」を解決する能力はないからです。そのため、「大人が作り出した不自由」押し付けられた子どもたちは、大人の目が届かない所で自由を得ることを学んでしまいます。それは時として、困った事件につながってしまうこともあります。大人が「イジメはやめろ」と一方的に押し付ければ、大人には見えない所でイジメるようになるだけのことです。ただし、「大人が作り出した不自由」を取り除いたからといって、子どもが自由になるわけではありません。子どもが子どもの群れの中で遊んでいる場合には、「子ども同士の自由の奪い合いによる不自由」が発生してしまうからです。そしてそれが「ケンカ」という形で表れます。でも、「子どものケンカ」は子ども同士で解決できるのです。子どもの最大の目的は「楽しく遊びたい」ということだからです。ケンカしたままでは遊べなくなってしまうのです。楽しくもなくなってしまいます。だから、「ごめんね」なんて言わなくても、いつの間にかまた一緒に遊びだすのです。子どもが群れて遊ぶ場を作っている人たちはそういう現場をいっぱい見ています。ただし、子どものケンカに必要以上に大人が介入してしまうと、子どもは「自分たちでケンカを解決する能力」を育てることが出来なくなります。それはまた、「自分の力で自由を得る能力」が育たなくなってしまうということでもあります。「ケンカするくらいなら一人で遊びなさい」と子どもを群れから引き離して、テレビやゲームやおもちゃで一人で遊ばせてしまっても、子どもは「自分の力で自由を得る能力」を育てることが出来なくなります。でも、そういう対応をしてしまう大人が多いのです。「子どものトラブル」が「大人のトラブル」に発展してしまうことを恐れているからです。それはつまり「大人の不自由」を子どもに押し付けているということでもあります。ただし、大人が介入した方がいいケンカ(トラブル)もあります。それは常に大人の不自由を押し付けられている子が、一方的に他の子の自由を奪おうとしている場合です。そういう子は、ほかの子を「一緒に遊ぶ仲間」として認識していません。そんな体験がないからです。「一緒に遊びたい」という気持ちを共有している子ども同士なら、ケンカしても自然と仲直りをすることが出来るのですが、最初から「自分だけ楽しければいい」という感覚の子は、仲直りする意味も目的も分かりません。もちろんそんな気持ちもありません。ただ邪魔なだけです。だから大人が介入しないことには、その群れ全体の遊びが止まってしまうのです。これは子どもだけでは解決できない問題です。そんな場合は、大人が介入した状態でその子を排除しなくても遊びが継続出来るようにサポートしてあげる必要があるのではないかと思います。ただし、黒子としてですけどね。大人の介入を嫌う人もいますが、「仲直りが出来ない子」にはもうすでに大人からの影響が深くしみ込んでしまっているのですから、今更「大人の介入」を排除しようとしても意味がないのです。むしろ、「親とは異なる対応をしてくれる(自分を認めてくれる)大人」との出会いが、その子の成長には必要なのではないでしょうか。排除することで解決するのではなく、その子の成長を支えることで解決するのです。ただし難しいのは、この方法には限界があるということです。子どもの成長に一番大きな影響を与えているのは母親や父親の価値観や、母親と父親の関係だからです。いずれにしても「子ども同士の自由の奪い合いによる不自由」は、子ども同士で解決することが出来ます。「群れ」しか遊ぶ場がなかった昔の子どもたちは、こうやって「私」から「私たち」という視点と意識を育てていたのです。(家族の中でも同じです)でも、今、「そのような学びをすることが出来る群れ」の中で遊ぶことが出来ている子は本当に少数です。ただし、「子ども同士の自由の奪い合いによる不自由」は、子ども同士で解決することが出来ますが、それだけで子どもが自由になるわけではありません。子どもたちの群れ遊びは自然の中で行われることが多いですが、その自然が「不自由」として立ちはだかるからです。起伏もあり、石や枝や木の実も落ちていて、色々虫もいて、ところどころぬかるんでいるかも知れないようなところで鬼ごっこするのは、学校の校庭で鬼ごっこするのとは比べ物にならないくらい不自由なんです。でも、子どもたちはその不自由を避けるのではなく、逆に楽しむことで乗り越えてしまいます。
2024.07.26
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実は、みんなが「自分だけの自由」を求め、相手を思い通りにしようと思うから「不自由」が生まれるのです。ただし、均一に不自由になるわけでなく、「社会的弱者」と呼ばれる人たちにその不自由が集中する傾向があります。政治家が「自分たちだけの自由」を求めれば、国民が(特に社会的な弱者)が不自由を押し付けられることになります。大人が「大人だけの自由」を求めれば、子どもが「不自由」を押し付けられることになります。子どもは完全なる社会的弱者ですから、大人の不都合が「子ども」と「子どもを守ろうとする母親」に集中してしまうのです。母親が「子どもからの自由」を求めれば、そこで生まれる不自由はダイレクトに子どもだけに向かいます。でも、そのような不自由は時間差をおいて、さらに大きな不自由となって自分に返ってきてしまうのですが、多くの大人が、多くのお母さんがそれを知りません。そのことに気付くのは「不自由」が実際に自分に返ってきてからです。この「大人の自分勝手が作り出した不自由」は子どもにはどうしようも出来ません。大人にしか、「大人が作り出した不自由」を取り除くことが出来ないのです。先日、「自由に生きる能力は与えることが出来ない、自由は自分の力で得るものだ」というようなことを書きましたが、「大人のエゴが作り出した不自由」は大人が取り除いてあげる必要があるのです。大人には「子ども自身の自由」を与えることはできないですが「大人が作り出した不自由」を取り除いてあげることは出来るのです。そして、「大人が作り出した不自由」を取り除くことで初めて、子どもたちは「自由に生きるために必要な能力を得るための活動」を自由に行うことが出来るようになるのです。でも実際には子どもたちは「大人が作り出した不自由」に取り囲まれて生活しています。そして、「大人の自由に抵触しない自由」だけを与えられています。「放任」も、「好きなだけテレビを見せゲームをやらせる」のも、「大人の自由に抵触しない自由」です。子どもはその自由を喜びますが、その「与えられた自由」はかえって子どもが自由に生きるための能力の育ちを阻害してしまうのです。なぜなら、「与えられる自由」は「子ども時代にしか与えられない自由」だからです。「与えられる自由」しか知らない子は、「子ども」と呼ばれる年齢を過ぎると、急に不自由に取り囲まれ、生きる苦しさを味わうことになるのです。「子ども」ではなくなってから、子どものときに学んだ「好きなことしかしないという自由」を行使しようとすると、周囲の大人たちから非難されてしまいます。また。「好きなことしかしないという自由」に慣れてしまった子どもは、「自分が自立していくために必要なこと」を学ぶことも「押し付けられた不自由」として逃げようとしてしまいます。とにかく「与えられる自由」に慣れてしまった子は、「不自由を押し付けられること」を極端に拒否するようになってしまうのです。そういう子が多く集まれば、学級崩壊は必然的に起きます。
2024.07.25
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社会から「人と人のつながり」が失われ、子どもの頃から他者との親密な出会いも関りもなく、便利な機械に囲まれて「自分中心」の生活を送ってきた現代人は「私たち」という視点で物事を見たり考えたりすることが出来なくなりました。そんな現代人は、「私たち」ではなく「私」という視点だけで色々なものを見たり、考えたり、行動したりしています。「私たち」という体験がないまま育っているのですから。それは当然の結果なんでしょう。でもだから、「人と人のつながり」によって成り立っていた社会というものが成り立たなくなってしまっているのです。「カスハラ」をする人達も「私たち」ではなく「私」という視点だけで相手を責めています。「パワハラ」も同じです。子どもの声がうるさいと文句を言う人も同じです。「私たち」という意識が存在していた時代の人は「子は宝」と言って、親だけでなく地域の人たちみんなで子どもたちを見守っていました。でも今、そういう感覚の人は少なくなりました。子育てで、子どもから自分を守ろうとしているお母さんまでいます。我が子と自分を「私たち」という視点で考えることが出来ないのでしょう。人間関係の問題の解決法に正解などありません。「私たち」という視点に立って話し合い、お互いに納得が出来る解決策を探るしかないのです。でも「私たち」という視点を失ってしまった社会ではその話し合い自体が出来ません。ただ、「私」を主張し合ってののしり合うだけです。そんな「私たち」という意識を失った社会ではみんな不自由を感じています。子育てをしているお母さんも不自由を感じています。外で走り回って遊びたい子も不自由を感じています。実は、現代人が感じている「不自由」を生み出しているのは「他の人の自由」なんです。「私たち」という意識が薄い人たちが集まっている場で、誰かが「自分だけの自由」を主張すれば、そのしわ寄せが近くにいる人に及びます。そしてその人は不自由を感じます。そして不自由を感じた人は不自由を生じさせている人を束縛しようとします。その結果、自分だけの自由を得ようとしている人も不自由を感じます。そうやってお互いにがんじがらめになってしまっているのです。お母さんが自分だけ自由を得ようとすれば、子どもは不自由になります。そして、自分勝手な行動を始めます。その結果、お母さんも不自由になります。先生が生徒一人一人のことを忘れ、自分の「学級経営」のことばかり考えるようになれば生徒は不自由を感じます。そして自分勝手なことをはじめ学級は崩壊します。電車の中で足を広げたり、大騒ぎをしたり、寝っ転がったりして自分だけ自由を得ようとすれば、その電車に乗り合わせた人が不自由を感じます。歩道を本来歩道を走ってはいけない乗り物で我が物顔(自由に)走れば、歩道を歩いている人が不自由を感じます。そして、警察に通報すればその乗り物に乗っている人は指導されます。「私たち」という視点を欠いた自由を得ようとする行為が、逆に不自由を招いてしまうのです。そこで欠如しているのは「お互い様」(私たち)という意識です。人間関係における不自由は自由の奪い合いで起きているのです。そしてこれらは本来、「私たち」という意識で、みんなで話し合えば解決できるはずなんです。ただし、「私たち」という意識を失ってしまった人はその話し合い自体が出来ませんけど。「私たち」は束縛ではないのです。もともと、人間は「私たち」という単位でないと生きることが出来ない動物なんです。「私たち」という考えたかを受け入れないと、自由に生きることが出来ないのです。それは現代人の価値観とは合わないかもし知れませんが、それが「動物しての人間」の現実なんです。もし子どもに自由に生きて欲しいのなら「私たち」という視点で物事を見たり感じたりする能力を育てた方がいいですよ。もちろんそのためにはお母さん自身も「私たち」という視点で物事を見たり感じたり行動する必要がありますけどね。
2024.07.24
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