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「わたしと遊んで」(マリー・ホール・エッツ作)という絵本があります。野原に遊びにやってきた女の子が最初は積極的に動いて、バッタやカエルやカメなどに「一緒に遊ぼう」と働きかけます。でも、みんな逃げてしまって女の子は独りぼっちになってしまいます。そのうち女の子はあきらめて一人で石の上に腰掛けてジーッとしていたら、さっき逃げていった生き物たちがみんな戻ってきて、女の子の回りで遊び始めました。そして、その女の子は最後に ああ わたしは いま とっても うれしいの。 とびきり うれしいの。 なぜって、みんなが みんなが わたしと あそんでくれるんですもの。と言います。私はよくこの絵本を気質の勉強会に持って行きます。そして、みんなの感想を聞きます。すると、粘液質(ねんえきしつ)や憂鬱質(ゆううつしつ)の人は「素敵ですね」と言います。でも、多血質(たけつしつ)の人はピンとこないようです。さらに胆汁質(たんじゅうしつ)の人はもっと積極的に「よく分からない」と言います。「こんなお話しのどこが素敵なのか全然分からない。なんでこんなお話しが絵本になっているのかすら分からない」と言い切った胆汁バリバリの人もいました。彼女は、「だってこの女の子は何にもしないでただ座っているだけじゃない」と言いました。憂鬱質や粘液質の人はからだを使って特別な行動などしなくても、感覚や思考を働かせるだけで、素敵な何かが生まれることをよく知っています。だから、この女の子の「何もしない」が分かるのです。それに対して、胆汁質の人は「行動し積極的に関わることでしか何も生まれない」という価値観を持っているので、何もしないままで「うれしい」と言うこの子の気持ちが理解出来ないのです。それで胆汁質は話を聞いているうちにイライラして来てしまうのです。確かに、野原に行って、仲間と一緒に虫を探したり、木登りしたり、鬼ごっこをするのも楽しいです。でも、野原の真ん中に座ってジーッとしていると、自分と世界がつながっていること、自然の美しさ、生命の世界が豊かであること、そして自分の感覚が宇宙全体に広がっていく感覚など、色々なことを発見することが出来ます。憂鬱質の人はこのように空想することが、そして粘液質の人はこのような感覚世界に浸っているのが大好きです。ですから、いつも静かに浸っていたいと思います。でも、この内的な世界はデリケートなので活動的に動き回ると消えてしまうのです。ちなみに、粘液質の人は肌に触れてくる風、木々の木漏れ日の揺らめき、水の音、お日様の暖かさなどにうっとりとします。憂鬱質の人は精神的感覚を好み、粘液質の人は身体的感覚を好みます。(胆汁質は達成感を好み、多血質は関わり合いを好みます。)憂鬱質や粘液質の人があまり活発に活動しないのは、このように「内的な活動」をしているからなのです。でも、胆汁質や多血質の人にはその「内的な活動」が見えません。子どもの成長においても、胆汁質や多血質の子の方が一見早く成長するように見えます。憂鬱質や粘液質の子は成長がゆっくりのように見えます。でも、手仕事のような活動をさせると、胆汁質や多血質の子どもたちはすぐ飽きてしまいますが、憂鬱質や粘液質の子どもたちはあまり飽きません。むしろ自分がやっていることと対話することができるので面白さを感じます。表面的には不活発ですが内面はしっかりと成長しているのです。つまり、胆汁質や多血質の子どもは表面的には成長が早いように見えるのですが、内面の成長に関して言えば、憂鬱質や粘液質の子どもの方が早いのです。その違いを私は「外側から育つ子」と「内側から育つ子」というように表現しています。でも、どちらのタイプの子でも、気質を肯定され、自分のペースに合わせて育つことが出来れば思春期頃にはお互いの差は縮まっていきます。胆汁質や多血質の子も内的な活動が出来るようになり、憂鬱質や粘液質の子も外的な活動が出来るようになるということです。でも、子どもを教育する立場の大人にそのような認識がなく、遅れている部分を仕付けや教育にによって取り戻させようと追い立ててしまうと、そのままの状態で大人になってしまいます。そして、持って生まれた自分の能力を生かすことが出来なくなります。
2023.11.14
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気質が違うと「言葉」も違います。同じ「日本語」を使っていても、その意味も、使う目的も、使い方も違うのです。だから話がかみ合わなくなってしまうのです。みんな「同じ日本語なんだから話せば通じる」と思い込んでいるのですが、それは思い込みにすぎないのです。実際みんな「あの人にはなんで話が通じないのかしら」と感じたことはあるのではありませんか。子どもに対しても、パートナーに対しても。外国の人ならなおさらです。通訳を介したからといって話が通じるわけではないのです。ただし、「通じる話」もあります。「通じる話」は「客観的な事実」についての話です。「あの木はリンゴの木です」とか、「これは○○について書かれた本です」とか、「あと1時間で食事です」とかいうような話です。英語で言うと「I have a pen.」「This is a tree.」などというような言葉です。これは「世界を外側から見る人たち」、つまり胆汁質や多血質の人がよく使っている言葉です。それに対して「主観的な事実」についての話は「同じ主観」を持っている者同士なら通じますが、「異なった主観」を持っている者の間ではいくら話し合っても通じません。キリスト教徒とイスラム教徒と仏教徒が、心や命や自然などいうような「主観とのつながりが強いこと」に関していくら話し合っても話は通じないのです。使っている「言葉」が違うのですから。欧米の人が胆汁質や多血質が強いのは異民族との関わりが多かったからなのでしょう。歴史的に、自分とは異なった宗教、異なった文化、異なった言語、異なった価値観(主観)を持った人たちと関りながら生きてきたので、必然的に話しが通じやすい「主観的な事実」を中心にした言語や、価値観や、感性が作られたのでしょう。それに対して、人の移動を阻むような山や川や森や自然が多いアジアでは、自分とは異なった宗教、異なった文化、異なった言語、異なった価値観(主観)を持った人たちと関わる機会は多くありません。そのため、宗教や文化や言語や価値観が特殊化しやすいのです。日本はその典型です。そういう文化圏では、「阿吽の呼吸」で色々なことが通じてしまうので、あらたまって分かり切った「事実」を伝える言葉や意識や感覚は発達しません。そして周囲のみんなと同じように考え、感じ、行動するようになります。自分とは異なった言葉や価値観や意識を持った人と出会う機会が少なければそれは当然の結果です。憂鬱質や粘液質の人たちにも似たような傾向があります。そして、日本人は憂鬱質や粘液質が強い民族です。以前、青森に呼ばれて行った時、「この辺では山一つ越えたら言葉が微妙に違う」と言っていました。異質な価値観を持った他者との出会いが少ない状況で暮らしていると、「自分たちだけで通じる言葉」、「自分たちだけが分かる感覚」が発達するのです。それは「若者言葉」という現象にも表れています。双子も自分たちだけで通じる言葉やコミュニケーション方法を使っているみたいです。でも自分たちはそれが当たり前だと思っています。それしか知らないのですから。そのため、自分たちの言葉、自分たちの価値観のまま、自分たちとは異なった言葉や価値観を持った人たちに話しかけます。そして、それが通じないと相手を否定します。気質のワークでは「自分辞書つくり」というのをやるのですが、例えば「木」という言葉を「木」を知らない人に説明するための言葉を考えてもらいます。すると、「気質が違う人は違う言葉を使っているんだ」ということが分かります。面白いですよ。
2023.11.13
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この世界には大きく分けて西洋文化・西洋文明と東洋文化・東洋文明の二つのタイプの文化と文明があります。ただし、実際にはこの二つは複雑な入れ子状態になっているので明確には分離できないのですが、大きな傾向としてはこのような違いがあるのではないかと思っています。そしてこれもまた「大きな傾向としては」ということですが、西洋の人は東洋の人よりも胆汁質や多血質が強いように感じます。それはつまり、昨日書いたように「人間や自分たちが生きている世界を外側から見ようとする傾向がある」ということでもあります。それが「科学」の発見にもつながったのでしょう。そして東洋の人は西洋の人よりも粘液質や憂鬱質が強いです。それは、「人間や自分たちが生きている世界を内側から見ようとする傾向がある」ということでもあります。その違いが大きく表れているのが宗教です。キリスト教における神は人間が生きている世界とは別の世界に存在しています。ユダヤ教の神もイスラム教の神も同じです。そして、その神がこの世界や人間を創り出したと伝えられています。でも、人間や世界を創った神は一人に決まっていますから、当然「どの神様が本物か」という論争が起きます。また、神と人間の間には絶対的な上下関係があります。なにせ、人間を創ったのが神様なんですから。そして、その人間の下に自然があります。神は人間の支配者ですが、人間は自然の支配者なんです。そういうように神様が創ったからです。キリスト教にはそういう世界観があります。欧米の人は日本人がクジラを殺すと「残酷だ」と言います。西洋的な思考に慣れてしまった日本人は犬を食べる中国人を見て残酷だと言います。でも、食肉として飼育されている牛や豚を殺しても「残酷だ」とは言いません。人間が動物を殺して食べるのは神様から与えられた権利だからです。日本人は「クジラを殺して食べるなんて残酷だ」と言われると「自分たちだって牛やブタを殺しているじゃないか」と反論しますが、この反論は的外れなんです。仏教的な感覚がまだ残っている日本人にとっては、牛やブタの命も、クジラの命も、人間の命も同じものですが、キリスト教的な感覚からするとこれらは全く別のものだからです。人間の役に立つものなら人間の判断で殺してもいいのです。それに対して仏教では「牛やブタの命も、クジラの命も、人間の命も同じものだ、だから、人間の勝手な都合でむやみに殺してはいけない」と説いています。だから本来の仏教徒は肉を食べないのです。食べないだけでなく殺しもしません。実際、今でも小乗仏教のお坊さん達はお肉を食べません。今の日本にあるのは「お釈迦様が説いた教え」ではなく、お釈迦様の教えを基に創られた「仏教」という名の宗教です。だいぶ昔に見たのですが、『セブン・イヤーズ・イン・チベット』という映画があります。オーストリアの登山家ハインリヒ・ハラーとまだ少年だったダライラマ14世との交流を描いた作品です。その中で、映画館を作る工事をするときに「ミミズがいるから」というだけで工事が止まってしまうシーンがありました。これが仏教における根本的な価値観なんです。あと、キリスト教の神は人間界の外の世界にいますが、仏教における仏は人間と同じ世界にいます。ただちょっと存在している次元が違うだけです。そして人間も厳しい修行を通して仏がいる次元に入ることが出来ると言われています。キリスト教では人間が神になることは100%ありえませんが、仏教の「仏」は「私たちの可能性」そのものであり、「仏」は仲間でもあるのです。ただ今の時代、ヨーロッパでもキリスト教を信じる人はどんどん減ってきているようです。「神」の代わりに「科学」が生まれたからです。その「科学」も人間を支配する位置にいます。そして命の価値を否定します。あと、世界を外側から見ようとする人たちは「量」を基準に物事を判断します。科学が扱っているのも「量」です。胆汁質や多血質の人も「量」を大切にします。「テストで何点取れたか」というのも「量」です。量は比較できるのです。それに対して、世界を内側から見ようとする人たちは「量」よりも「質」を重視します。量は機械でも計測することが出来ますが、質を感じるのは人間の感性です。そのため、科学で扱うことが困難です。粘液質や憂鬱質の人もまた、量よりも質の方を重視します。私は、欧米の人たちの思考方法を「縦軸思考」、東洋の人たちの思考を「横軸思考」と呼ぶことができるのではないかと思っています。これはどちらの方が優れていると言うことではなく、「両方が支え合わないことには、この世界を正しく理解することが出来ないのではないか」ということです。でも、現代社会は縦軸思考に偏りすぎています。今の時代、「男性と女性の間に上下はない」というのは多くの人が知っていますが、「子どもと大人の間にも上下はない」ということを知っている人は少ないです。
2023.11.12
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昨日も書いたように、「気質の違い」は「役割の違い」でもあるのですが、「役割」が違うということは「視点」が違うということでもあります。同じ「子ども」に関わっていても、学校の先生と、その子の親とでは子どもに対する役割が違います。そして役割が違うので子どもを見るときの視点も違います。先生は「子どもに勉強を教え、その行動を監督する」という視点で子どもを見ています。親の視点は様々ですが、多くの親は「子どもが幸せになるように」という視点で子どもを見ています。ですから、「学校に行くことが子どもの幸せにつながっていない」と感じたら、学校以外の場を選択するという事もします。でも、学校の先生にはそういう選択肢はありません。「役割が違うと視点も違う」というのはそういうことです。ですから、「気質の違い」は「視点の違い」としても表れています。多血質の人の視点はいつも「外側」に向いています。そのため、外側の変化に対しては敏感です。でもそれ故に、落ち着きがなく常に外側の変化に振り回されてしまいます。たかどのほうこさんの絵本に出てくる「まあちゃん」のようですまた、その場の状況に合わせて考え、行動するのは得意ですが、原理原則を持たないため論理的に考えるのはあまり得意ではありません。言い換えると、自分の考えや価値観にこだわらないからこそ、自由にその場の状況や相手に合わせることが出来るのです。短所としては、それ故に自分と向き合うのが苦手です。また子育てなどで自分と向き合わざる終えないような状況になると悩みに囚われて抜け出せなくなります。胆汁質の人の視点はいつも「前」を向いています。「外」という点では多血質と同じなのですが、多血質の人は全方位に意識を向けているのに対して、胆汁質の人は前だけを見ています。そのため、悩みません。それに対して、前を向いていない多血質の人は簡単に迷い悩みます。また、前しか見ていないので前に壁があった場合でも、回り道を探しません。その壁を壊すか乗り越えて前に進もうとするのです。とよたかずひこさんの絵本「どんどこももんちゃん」の主人公、「ももんちゃん」のようです。問題は自分に見えないものは「存在しないもの」として簡単に切り捨ててしまうことです。そして、現実的なことには興味がありますが、心の世界やスピリチャルな世界には興味がありません。その反対が憂鬱質の人です。いつも「後ろ」(自分の内側)ばかりを見ています。後ろしか見ていないので、怖くて前に進めません。そして前を向いていないので簡単に落とし穴に落ちたり、迷路にはまってしまいます。そのことで反省はするのですが、前を見ていないので同じ事を繰り返します。アーノルド・ローベルの絵本「がまくんとかえるくん」のシリーズに出てくる「がまくん」のようです。粘液質の人の場合は多血質の人の反対です。憂鬱質の人のように後ろ(自分の内側)を見ている点では同じなのですが、憂鬱質の人が一方向しか見ていないのに対して粘液質の人は全方向に意識を向けています。そのため、冷静に自分を分析することが出来ます。だから憂鬱質の人が感じているような不安は感じませんが、外の世界に対する興味は薄いです。また、感情の起伏も少なく怒りません。いつも穏やかです。ジョン・バーニンガムの絵本に出てくる「ガンピーさん」のようです。
2023.11.11
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「気質」は脳が創り出しているものではなく「からだの癖」のようなものです。この場合の「からだの癖」とは、目に見える動きやしぐさの癖のことではなく、その人のからだの内側で働いている目では見ることが出来ない生命活動や、感覚や、内臓の働きの癖のようなものを指します。ですから、自分の意志ではコントロールできません。人は見た目が違うだけでなく、「からだの内部」や、「命の働き」や、「感覚の状態」も一人一人違うのです。だから同じ薬を飲んでも効き方が違うのだし、同じものを食べてもからだに対する影響が違うのです。「気質」は、その、からだの内側で働いている「目では見ることが出来ない部分」を、「集団の中での役割」という視点で分類したものです。集団が存続するためには、個々の違いと、その違いに基づく役割分担が必要になるからです。それはつまり、「筋肉や運動神経に優れたものは、戦士としての役割がふさわしく、判断力に優れたものはリーダー的な役割がふさわしいというようなことです。また、同じものを食べても病気になる人とならない人もいます。音に優れた人、色に優れた人、味に優れた人、匂いに優れた人、皮膚感覚に優れた人もいます。動体視力に優れた子は野球などのスポーツに向いているでしょう。そしてこのような違いは幼い頃から見られるものです。更にその能力を高めるためには教育が必要になりますが、教育で、その持って生まれた感覚や能力のタイプを変えるのは難しいです。木に鉄の属性を持たせるのは非常に困難ですよね。そんな感じです。これは「兄弟」という関係の中でも表れるようで、同じ親から生まれ、同じような子育てを受けていても、子どもたちは一人一人独自の個性を持っているのが普通です。心の個性も、知性の個性も、からだの個性も、感覚の個性も、免疫の個性も一人一人違います。これは、子どもたちに多様な個性を持たせることで、様々の困難な状況の中でも集団としての生存確率を高めようとする生物としての戦略のようです。そしてこのような違いがあるから、集団としてもまとまりやすくなるのです。人間が社会という大きな集団を作り、それを維持運営することが出来るのは、社会を構成している一人一人の個性が違うからなんです。ちなみに、私には四人子どもがいますが、長女は粘液質が強く、長男は多血質が強く、次女は胆汁質が強く、次男は憂鬱質が強いです。次女と次男は性格が全く逆です。ちなみに親は二人ともA型です。長男もA型ですが、残りは全部O型です。ですから私は血液型占いを信じていません。また、同じタイプのものを大勢集めた場合も、最初からあった「かすかな違い」が増幅して、その中で多様性を創り出そうとするシステムが自然界にあります。人工的な世界は同質性を求めますが、自然界は同質性を嫌うからです。だから、マンションなどに同じような年齢、収入、家族構成、学歴の人ばかりが集まってしまうと、そこでバトルが起きるのです。子どもの群れでも、同じ年齢・性別・性格の子ばかりを集めても、遊びも群れも成り立ちません。それでも無理やり「一緒に遊べ」と押し込めれば、元々持っていたかすかな違いが増幅して多様性が生まれます。多様性が生まれないことには群れとしての活動が出来ないからです。それが出来なければ群れは分裂します。でも、その状態は固定されたものではありません。あるグループではリーダー的に振る舞っていた子が、別のグループでは大人しくなってしまうこともあります。長いことやっているある会に、いつもお母さん達を仕切ってくれている胆汁質が強いお母さんがいました。でもある時、和太鼓奏者もやっているというもっと胆汁質が強い人が来た時には、その人は胆汁ではなく、多血に回りました。無意識的に、そうやって、群れを維持しようとしたのでしょう。同じ気質の人ばかりを集めても、しばらくするとその中に四つの気質の役割を担う人が現れてきます。そうでないと群れが維持できないからです。気質というのは個に属するものであると同時に全体に属するものなんです。だから、個の事ばかりを見て全体という視点を持たないと見えてこないのです。自分の気質を知りたいのなら、自分が集団(全体)の中でどのような立場と役割で振る舞っているのかということをよく観察してみるしかないのです。自分で「自分」をいくら熱心に観察しても、自分の気質は分からないのです。**************横浜にある「Umiのいえ」企画の「気質の講座」です。Zoomによるオンライン講座ですから、遠くにお住まいの方でも参加できます。11月24日(金)です。詳細は以下のサイトでご覧になって下さい。「Umiのいえ」*************12月10日(日) 10:00~15:00 「自分を知るワークショップ」 4000円/日「気質」の考え方を手がかりに、一番身近でありながら、身近すぎてよく分かっていない「自分」について知るためのワークショップです。このワークのお問い合わせ、お申し込みは以下までお願いします。<篠>
2023.11.10
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昨日は、つまり、気質について知るためには「心」や「性格」ではなく、「からだ」に目を向ける必要があるということです。「気質の違い」は「心や性格の違い」ではなく「からだの違い」なんです。と書きましたが、実際、気質が違うと骨格や筋肉の付き方が違います。声や、姿勢や、歩き方や、からだの使い方や、目つきも違います。雰囲気も違います。逆に言うと、からだのエクササイズなどを通して、声や、姿勢や、歩き方や、からだの使い方や、目つきなどを変えると、本質的な気質は変わらなくても、日常的な生活の場における気質は結構変わるということです。これはみなさん、生活の中で色々と実感しているのではありませんか。姿勢を変えるだけで気分が変わりますよね。気分が変われば、感覚の働きも、感じ方も、考え方も変わるものです。まあでも、日常的に意識し続けなければ自然と、自分本来の姿勢に戻っていきます。そして、気質の状態も戻っていきます。あと、からだが違うと感覚の状態も違います。人は、病気をしたり年を取ったりして生命力が落ちてくると、自分のからだを守る必要上感覚の働きが鋭敏になります。(自分の匂い以外の)匂いや、気配や、音に敏感になります。周囲の人の心にも敏感になり、疑心暗鬼になることもあります。逆に力に溢れ元気いっぱいの時は、常に「何が出来るか」を探しています。些細な感覚的変化は気にならなくなります。知らないことに対する不安よりもワクワク感の方が強くなります。叱られても、失敗しても、多少のことなら跳ね返します。食事の後や眠いときなどは動きたくなくなります。そして、ただ見て、ただ感じて、ボーッとしていたくなります。何かハッピーなことがあると、心もからだも軽くなります。そして、楽しそうなことに敏感に反応するようになります。お箸が転がっただけで笑います。でもその一方で、落ち着きを失い、物事を深く考えなくなります。同じ人間でもからだの状態が変わると、こんなにも心や感覚の状態が変わるのです。そして人は、生まれつきある偏りを持って生まれてきているのです。特別なことをしなくても、筋肉や骨格がしっかりとしている子もいます。音楽など習っていなくても音に敏感な子もいます。絵画など習っていなくても色に敏感な子もいます。人の心に敏感な子、周囲の様々な動きや変化に敏感な子もいます。体操など習っていなくてもからだの使い方が上手な子もいます。こういう違いは生まれつきです。お母さんのしつけ方でそうなっているわけではありません。子どもは、一人一人異なった個性を持って生まれて来ているのです。その「生まれつき」のところに「気質」というものがあるということです。ですから、気質を知ることで、子どもが持って生まれてきた能力や才能を肯定し、自分らしく生きる手助けがしやすくなるのです。
2023.11.09
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昨日、あと、インドにも中国にも古来から似たような考え方があります。それぞれ分類の数は異なっていますが、視点は似ています。と書きましたが、インドでは伝統医療をまとめたアーユルベーダの中に、中国では2000年前の「黄帝内経」という医学書の中に書かれているようです。ヨーロッパの気質に対する考え方も、2000年くらい前のヒポクラテスというギリシャのお医者さんが言い出したそうです。日本では野口整体の生みの親である野口晴哉も似たようなことを書いています。ここで面白いことに気づきます。気質について気づき、それを言い出したのはみんな「心」ではなく「からだ」の専門家達だということです。つまり、気質について知るためには「心」や「性格」ではなく、「からだ」に目を向ける必要があるということです。「気質の違い」は「心や性格の違い」ではなく「からだの違い」なんです。まただから「しつけ」では変えようがないのです。確かに、気質が違うと心や性格にもその違いは表れます。でもそれは、心や性格といったものが「からだの働き」の強い影響下に置かれているからに過ぎません。現代人は「心」は大切にしても「からだ」は大切にしませんが、実際には「心」よりも「からだ」の方が先にあるのです。ちなみに「からだを大切にする」ということは「健康を大切にする」ということとは全く違いますからね。実際に、からだの状態が変わると気質の状態も変わります。そしてそれは心や性格の変化としても表れます。空腹時と食事が終わった後とでもからだの状態は異なっています。ですから、心の状態も異なっています。空腹時にはイライラしていて子どもを待てないのに、お腹いっぱい美味しいものを食べた後はあまりイライラしなくなります。また、空腹時よりは子どもを待てるようになります。そうではありませんか。春・夏・秋・冬といった季節の変化も、からだの変化を引き起こします。そのため、春の気分と、夏の気分と、秋の気分と、冬の気分は違います。春になると動物たちのからだは「春のからだ」になります。これは人間も同じです。気持ちがウキウキして、動きたくなります。色や自然界の変化に敏感になります。でもまだ目覚めたばかりなので、頭の働きとからだの働きがまだうまくつながっていません。夏になると、頭の中に留まっていた気の働きがからだ全体に回るようになり、活動量が増え、大きな目的や目標に向かって活動したくなります。秋になると外側に向かっていた気の働きが、冬の準備のために内側に向かうようになります。活動量も低下します。そして、メランコリックな気分が強くなり、音や光に対する感受性も高くなります。不安も強くなり、自分を見つめる時間も長くなります。冬になると、動物たちは食糧難と寒い時期を乗り越えるために活動量を減らしてひたすら春が来るのを待つようになります。程度の違いはありますが、こういう変化は誰にでも起きます。(人工的に管理された環境の中で生活している現代人はかなり乱れてしまっていますけど・・・。)成長に伴っても「からだの状態」は変化します。そのため、心の状態も変化します。幼い子どもの心は常に春のようにウキウキしています。意味もなくスキップしたり、歌ったり、踊ったりもします。でも、10才を過ぎて思春期が始まると、そういう「子どもらしい行動」は減ってきます。筋肉や骨格もしっかりとしてきて、声も太くなります。そして、目的や目標に向かって頑張ることを楽しむようになります。競争意識が強くなったり、大人に対する反抗心も強くなります。50代になってくると若い頃にギラギラしていた人も落ち着いてきます。そして、肉体的には若い人に追いつけなくなります。また、すぐ疲れてしまうようになり、頑張ること自体が難しくなってきます。からだの不調が出始めるのも50代だそうです。そして、からだの不調は心の不調とも関係しています。そしてだんだん枯れていって老人と呼ばれるようになります。老人になると様々なことに対する反応が鈍くなります。活動への意欲も減ります。そして、人にペースを合わせることが苦手になりマイペースになります。このような変化は、寿命が短かった昔の人と、寿命が長くなった現代人とではその状態が現れる年令が違うかも知れません、変化の過程自体は今も昔も変わりません。そしてこのようなからだの変化と共に気質も変化しているのです。同じ人でも子どもの頃の気質と、老人になってからの気質は全く異なるのです。でも、同じ年令の人たちの中での相対的な気質の状態はそれほど変わりません。子どもの時活動的だった人は、大人になって活動量が減っても、同年齢の人の中では活動的なままのことが多いのです。子どもの頃、いつも小さいことが気になっていた人は、大人になってその状態が弱まっても、同年齢の人の中では他の人よりは小さいことが気になるのです。そして、それがその人の気質になります。
2023.11.08
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気質による分類を、性格分類と同じようなものと考えている人が多いですが、この両者は全く別のものです。物事を分類するときには色々な分類の仕方があります。例えば、これは椅子です、これは本です、これはお箸です、これは机ですというように、そのものの「社会的な機能」によって分類する方法があります。「性格分類」と呼ばれているものはこの仲間です。性格は、優しい、怒りっぽい、社交的、寡黙、頑張り屋などといった言葉で表現されますが、その分類は、その人が自分の周囲の人や環境とどのような関係を作っているのかということを基準にして判断されています。性格は「社会的評価」でもあるのです。そのため、評価する人によって「乱暴な子」が「元気な子」と評価されることもあります。どちらに分類されるかは、評価する人によって決められてしまうからです。それに対して、これは木で出来ています、これは石で出来ています、これは鉄で出来ています、これは木と鉄の組み合わせで出来ていますというように「素材」で分類する方法もあります。この場合、必然的に分類の数は減ります。椅子や、家や、紙や、お箸といった社会的機能から見たら全く異なったものでも、素材という点から見たら「木」という一つのものに分類されてしまうからです。また、素材という視点で分類するなら、だれが分類しても似たような結果になります。そして、「気質」の考え方は、この「素材による分類」と似ているのです。同じ椅子でもその素材は様々です。木でできた椅子も、鉄でできた椅子も、石でできた椅子もあります。それらは社会的な機能から見たら同じものですが、素材という視点から見たら全く別のものです。そして、素材が違えば作り方も、扱い方も異なります。木で椅子を作ることが出来る人なら、木でおもちゃを作ることも出来るでしょう。基本的な扱い方が似ているからです。でも、木を扱う人に鉄を渡しても何も作れません。木でできた椅子を雨ざらしにしておいたら腐ります。これは木でできたものならお箸でも、オモチャでも、紙や家でも同じです。鉄でできたものを雨ざらしにしておいたら椅子でも、包丁でも、遊具でも錆びます。でも、石でできたものならば、その形に関わらずに雨に打たれても変化しません。でも、固いものがぶつかったら簡単に割れてしまいます。木でできたものはナイフで加工することができます。でも、鉄で出来たものを加工する場合にはナイフは役に立ちません。トンカチの方が役に立つでしょう。でも、石でできたものをトンカチでたたいたら壊れてしまいます。気質とはこの「素材」のようなものなんです。ですから、気質が似ているからと言って性格が似ているとは限りません。性格形成には、育ちや学びの影響も大きいからです。でも、素材としての特性は育ちの影響を受けにくいのです。リーダーシップに優れた会社の社長と、凶悪なやくざの親分とでは当然性格は違うでしょうが、「胆汁質」という気質が強いという点では似ているのです。胆汁質が強くなければグループをまとめることが出来ないからです。ちなみに、古代ギリシャの人が考えた気質の分類では、基本気質として「憂鬱質」「粘液質」「胆汁質」「多血質」の四つがあります。これは、この世界を構成していると言われた「地・水・火・風」の四大元素に対応しています。古代ギリシャの人は、この四つが世界を形作っている素材だと考えたのです。でも、これは色を作っている「三原色」に「明暗」を加えた四つの要素のように、実際には混ざり合って存在しています。家を作るときにはメインとなる木だけでなく、土台には石が、木と木をつなぐところには鉄も使われていますよね。そんな感じです。あと、インドにも中国にも古来から似たような考え方があります。それぞれ分類の数は異なっていますが、視点は似ています。ギリシャ人は「地・水・火・風」の四つの要素で世界が構成されていると考えましたが、東洋ではそれに「空」を足して「地・水・火・風・空」の五大要素になっています。これはどちらが正しいということではなく、世界観の違いがこの世界を構成している根本要素の分類の違いにも影響しているのです。私の気質の考え方にも「空」的な要素が入っています。
2023.11.07
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自然界は「多様性」に満ちています。それは誰でも知っていることですが、問題はその「多様性が存在している意味」を理解しているかどうかということです。「多様性」は「みんなちがってみんないい」というような単純なものではありません。人のからだは、目、鼻、口、耳、足、手、肌、内蔵、血管などといった様々な感覚器官や臓器などで構成されています。細かく分けたら切りがありません。それらの「人間を構成する様々な要素」は、形も、機能も、働き方も、素材もみんな違います。一人の人間を構成しているものなのに、肌を構成している素材と骨を構成している素材は全く異なります。でも、それら「全く異なるもの」がつながり合い、支え合い、統合的に働くことで、一人の生きた人間が活動することが出来るようになっています。というか、異なったものがつながり合い、支え合い、統合的に働かないことには、人間は人間として存在出来ないし、人間としての能力も発揮できないのです。それは機械でも同じです。機械がちゃんと動き働くためには、その働きを支えるための様々なパーツがお互いにつながり合い、支え合い、統合的に働く必要がありますよね。それが命の仕組みであり、自然界の仕組みでもあるのです。同じようなことが家族の中にも、様々な群れの中にも、社会の中にもあります。会社には様々な役職の人が居ます。まず、大きなことを判断し、決断する役割としての社長がいます。小さな判断は部下に任せますが、全体に関わるような大きな事は社長が判断します。それは「どう歩くか」とか「どう話すか」はからだに任せていても、「人間としてどう行動するのか」ということは頭が判断するのと同じです。でも、社長だけでは何も出来ません。頭がいくら動きたいと思っても、手足がなければ動けません。お客を集める役割としての営業も必要です。どんなに良い製品を作っても、営業がちゃんと働かないことには会社はつぶれます。会社の内部を整える、経理や、総務といった役割の人も必要です。でないと、営業がいくらいっぱい注文を取ってきても、その注文を管理することも、品物を流すことも出来ません。さらには新製品を研究、開発する人が必要な場合もあります。このように、色々な役割の人が助け合うことで「会社」が一つの統合体としてちゃんと機能するのです。それが出来ない会社はつぶれるのです。社長だけが威張って、それぞれの役割の人を信用せず、否定し、細かいことにいちいち口を出しているような会社はつぶれます。家族も同じです。お父さん(お母さん)だけが威張って家族全員を支配しているような家庭は、家族として機能しません。子どもの成長を支えることも出来ません。また、お父さん(お母さん)が責任放棄して自分勝手なことをやっている場合も同じです。そして、「気質」は、人間の社会やつながりを潤滑に支えるための役割分担として存在しているのです。そして面白いことに、人は生まれつき、特定の役割にあった素質を持って生まれてくるのです。それが「気質」なんです。特別な訓練など受けていないのに、幼い頃からデリケートな感受性を持っている子どもたちがいます。音に対する感受性、色に対する感受性、形に対する感受性に優れた子どもたちがいます。特別な仕付けなど受けていないのに、人付き合いが上手な子もいます。人の心を感じ取ることが得意な子もいます。丁寧な仕事が好きで得意な子もいます。声が大きくて、活発で活動的な子もいます。いつもおしゃべりばかりしている子もいれば、いつもジーッとしている子もいます。いつもジーッとしているような子は、ひたすら見たり、聴いたり、感じたり、考えたりしている子どもたちです。内面の活動に没頭しているのでからだが動かないのです。力が強い子も、体が柔らかい子もいます。大人がそういう教育をしたからというのではなく、生まれつきそういうタイプの子どもたちが居るのです。もちろん教育によっても変わりますが、子どもたちは皆、生まれつき異なった「素質」(気質)を持って生まれてきているのです。それは子どもを何人も育てている人には当然の事実なんですが、一人しか育てていないと「子どもは生まれつきみんな違うんだ」ということが分からないのです。その結果、「育て方次第で子どもはどのようにも育つ」と思い込んでしまったり、「子どもの状態はすべて自分の育て方の結果」だと思い込んでしまったりするのです。そして、そこから子育ての苦しみが始まるのです。
2023.11.06
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子どもが泣くのにはワケがあります。子どもが笑うのにもワケがあります。子どもが苦しむのにも、悲しむのにもワケがあります。子どもが遊ぶのにもワケがあります。子どもが大きな声を出すのにもワケがあります。子どもがお母さんにまとわりつくのにもワケがあります。子どもがちゃんと食べないのにも、ちゃんと片付けないのにもワケがあります。子どもが「楽しいこと」は自分の意志でやるのに、「楽しくないこと」からは逃げようとするのにもワケがあります。森の中で、男の子が棒を拾い振り回すのにもワケがあります。ドングリなどの実や、きれいな石を見つけたら拾うのにもワケがあります。崖を見つけたら登りたがるのにもワケがあります。水溜があったら入っていくのにもワケがあります。靴を左右反対に履こうとするのにもワケがあります。裸ん坊でも恥ずかしくないのにもワケがあります。他の子が持っているものが欲しくなるのにもワケがあります。それは子ども自身にもどうにもできない、子どもの「命の働き」や「人間の本能」とつながった「ワケ」です。ですから自然現象と同じものです。でも、大人達はこの「自然現象」を無理矢理押さえつけたり、コントロールしようとしています。その結果、子どもの自然な成長の形が歪むことになります。それは今、リアルな自然に起きている問題と同じです。またそれは、自己肯定感の低さとか、成長への欲求や生きる意欲の低下として表れます。だからといって、「そのまま肯定していい」「好きにさせていい」ということではありません。もしそれが、「周囲に迷惑をかける困った行動」ならば、「子ども自身にもどうにも出来ないんだ」ということを理解した上で、その行動や感情や衝動を子どもの成長につなげてあげれば、多くの場合は子どもはそういう行動を卒業して、次の段階に進むことが出来るのです。上に書いたようなことは子どもの成長に伴う自然現象なので、その成長段階を通り抜けてしまえば自然と消えてしまうものだからです。でもだから、子どもが、このような感情や、衝動や、行動を通して「自分の成長につながる色々なこと」を学ぶ事が出来るのは「幼児期」という短い期間だけなんです
2023.11.05
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「子育て」に関してみんな大きな勘違いをしています。多くのお母さん達が、「どのようにして子どもを育てたらいいのか分からない」と言います。そして、子どもの育て方を知りたくて、色々な本を読みあさっています。でも、実際には「子育ての方法」なんて存在しないのです。情報としては色々な「子育ての方法」がありますが、その中に「我が子の育て方」はないのです。子育てにおいて必要になるのは「子育ての方法」ではなく、「自分とは違う立場にいて、自分とは異なる考え方、感じ方をしている〝子ども〟という存在とのつき合い方」だけなんです。実際、「子育て」なんて特別に考えたことが無くても、毎日子どもと楽しく一緒に生活していれば、子どもは親から色々なものを吸収して、勝手に育っていくのです。その場合、無理に「子育て」など意識する必要はありません。現代の子育ての大きな問題は、みんな「子育て」を意識しすぎることなんです。だから、子育てが不自然になってしまっているのです。母親にとって、子育ては生活そのものです。そして、母親の人生の一部です。母親の生活や人生と離れて、子育てがあるわけではありません。ですから、子育てばかり意識していると母親の生活や母親の人生にゆがみが生まれてしまうのです。その結果、夫婦関係や親子関係にもゆがみが生じてきます。子どもの育ちにも「ゆがみ」として伝わっていきます。それが、職業として子どもと関わっている幼稚園の先生や、育児書を書いている様々な先生とは異なるところでもあります。育児書に書いてあるような理想的な子どもとの関わり方が可能なのは、基本的に幼稚園の先生のような「生活とは切り離された場」で子どもと関わっている人たちだけです。“先生、あのね”と言われて、ずっとつき合うことが出来るのは、それが仕事だからです。でも、主婦の現実の生活では、“お母さん、あのね”と言われて、ずっとつき合っていたら、掃除、洗濯、買い物などの“主婦としての仕事”が出来なくなってしまいます。実際、幼稚園の先生でさえ、わが子の対応には手を焼いています。園児がいたずらをしても笑って見ていることが出来ても、わが子がいたずらをしたら自分の子育て能力が疑われてしまいます。幼稚園の先生ばかりではありません、普通のお母さんでも、「子育て」を意識すればするほど、子育ては辛くなるのです。でも、だからといって「お母さんの生活の方を優先させて、子どもを放っておいてもいい」ということではありません。ご主人が仕事が忙しいと言って、家事も子育てもつき合ってくれなければ、辛くなって、家事にも子育てにもやる気をなくしてしまいますよね。それと同じように、子どももお母さんが「忙しい 忙しい」と言ってばかりいて、自分の方に気持ちを向けてくれなければ、やる気をなくしてしまうのです。そして、ゲームやネットの世界にのめり込んでいきます。要は、「子育て」は親が子に一方的にするものではなく、「親と子の共同作業によって成り立っている」ということなんです。それが、昨日書いた「二人三脚」ということであり、「人間が人間を育てる」ということでもあるのです。ですから、「子育て」の一部を子ども本人に任せてしまってもいいのです。子どもは周囲の大人を見たり、様々な体験を通して「自分育て」をしているのですから。その子どもの「自分育て」を支えるのが「子どもの育ちを支える子育て」でもあるのです。母親が考えるのは、その子どもとどのように楽しい人間関係を作るか、毎日どのように楽しく生活するか、それだけでいいのです。そうすれば、子どもは自分の個性、能力、感性に合わせて、(必要なものは自分の力で大人から吸収しながら)勝手に育って行くのです。でも、多くのお母さんが「それだけでいい」ということを知らずに、「感性も育てなければ」とか、「学力も育てなければ」とか、「しつけも必要だし」というように考えて、子どもの育ちに無関係なもの、子どもの育ちを阻害するようなものをいっぱい押しつけています。でも、子どもと一緒に楽しく生活することが出来ていない人に、そのようなものを子どもに与える事は出来ないのです。なぜなら、そのようなことは、毎日の楽しい生活の延長上に勝手に伝わっていくことだからです。教えようとした時点で子どもは拒否するのです。ちなみに、子どもは親の期待には応えてくれませんが、人間としての信頼には応えてくれます。
2023.11.04
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今の時代、出産や子育てをただの「つらい労働」だと考える人たちがいっぱいいます。政治家にも、医者にも、お母さんたちにもそう考える人がいっぱいいます。そういう人たちは、どうやったら出産や子育てを楽にできるのかを常に考えています。単に「つらい労働」に過ぎないのなら、便利な機械やインフラを使って効率的に、楽に、安全に、早くそれを済ませてしまおうと考えるのは自然なことです。出産でも無痛分娩や帝王切開が増えてきているようです。でもそれが可能なのは、子どもが自分の意志を持って動き始めるまでのことです。子どもは「自分のからだの中の成長欲求」には従いますが、それと矛盾するような「お母さんの意志」には従わないからです。「従わない」というよりも「従えない」という言い方の方が正しいかもしれません。言葉が達者になって「心」が目覚め始めると、子どもをコントロールするのはもっと困難になります。それでも力づくで抑え込もうとするお母さんもいます。ゲーム機やタブレットを与えてアメとムチでコントロールしようとするお母さんもいます。諦めて子どもを放り出してしまうお母さんもいます。(ネグレクト)いつまでも「子どもをコントロールするためのマニュアル」を探し続ける人もいます。私に相談してくるのはこのような人が多いです。でも、いずれの方法を使っても、子どもはお母さんの思い通りには育ちません。むしろ、子どもをコントロールしようとすることで子どもの成長が阻害され、自立が困難になり、本来は必要がない苦しみまで生まれてしまうのです。「出産や子育てをただのつらい労働だと考える人たち」は、「自分もまた子どもだった」ということを忘れてしまっているのでしょうか。目の前にいるのは、単なる「労働の対象」ではなく、「何十年か前の自分」と同じ存在なんです。そんな子どもが求めているのは「楽で効率的な出産」でも、「楽で効率的な子育て」でもないのです。もちろん、最低限の衣食住は必要ですが、それ以上に子どもが求めているのは「安心」なんです。そして、その「安心」は「共に」という感覚の中で満たされます。「安全」と「安心」は同じものではありません。子どもの周囲から危険なものを取り去って安全な空間を作っても、「共に」がなければ子どもは不安を感じるのです。逆に、目の前にトラがいても、お母さんに抱かれていれば安心を感じるのです。単なる「労働の対象」としてしか扱われていない子どもは、この「安心」を感じることができないのです。そして、「安心」に満たされていない子は、「安心」を求めて自分のことばかりを考えるようになってしまいます。その結果、集団生活ができなくなり、他の子と仲間としてつながることも困難になります。不安も強くなり、自己肯定感も低くなります。楽や簡単や便利を求める出産や子育ては、子どもが自己主張を始めるまでは上手く行くのですが、自己主張を始めるようになった途端に破綻するのです。自己主張をする子どもとの向き合い方が分からないからです。でも最初から、出産や子育てを、子どもの意志や気持ちを尊重した「子どもとの二人三脚」だと考えている人には、そういう「子育ての破綻」は訪れません。最近の出産は「大人の都合」に合わせて行われていることが多いですが、本来、出産時の子どもは単なるお客さんではありません。子どもの側から母親のからだに「そろそろいいよ」とサインを送って陣痛を起こしているのですから。古来から出産は、子どもと母親の二人三脚で行われていたのです。大人の都合だけでなく、子どもの都合や意思も尊重していたのです。産まれた後も同じです。子どもは泣き声やからだの状態で、自分の気持ちや、必要なものをお母さんに伝えようとしています。そして、お母さんがそのことに気付き、ちゃんと対応してあげていると、子どももお母さんに気持ちを合わせてくれるようになります。子どもが自分の意思で行動するようになっても、お母さんが子どもの意思を尊重して「支配せず、支配されず」という関係の中で二人三脚で生活していると、子どもの方もお母さんのやり方を学ぶことができます。確かに二人三脚は不自由だし面倒くさいですが、「共に」という感覚を大切にしながら、親子共々不自由を楽しみながら子育てをしていると、子どもはやがて、一人でも歩いていけるようになるのです。そしてお母さんは楽になります。その逆に、お母さんだけが楽に、自由になるような子育てをしていると、子どもは成長するにつれてお母さんの自由を奪いに来るのです。
2023.11.03
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歌を聴いたことがない子に「歌いなさい」と言っても無駄です。上手な歌を聴いたことがない子に「もっと上手に歌いなさい」と求めても無駄です。どんなに叱っても、怒鳴っても、叩いても、脅かしても、聞いたことがない歌は歌えません。そんなこと当たり前ですよね。でもなぜかみんな、子育てではその当たり前を無視するようなことをしているのです。「静かにしなさい」と言われても、幼い子どもには「静か」という言葉の意味が理解できません。(でも、〝ほら、鳥の声が聞こえるよ〟と音に意識を向けさせると、静かになります。そういう体験の繰り返しの中で「静か」という言葉の意味が感覚的に分かるようになるのです。)「片付けなさい」と叱られても、「片付ける」ということがどういうことなのか分かりません。(片付けることが出来るようになるためには「違い」を知る必要があります。)「早くしなさい」と言われても「早くする」ということがどういうことなのか分かりません。子どもは、「約束よ、分かった!」と言われれば「分かった」と答えます。ても、幼い子どもには「約束」という言葉の意味が分かりません。ただ、お母さんが「分かった」という言葉を求めたから「分かった」と答えただけです。「ゴメンナサイ」も同じです。「ゴメンナサイを言いなさい」と言われれば「ゴメンナサイ」と言うことはできます。でも、「ゴメンナサイ」の意味が分かっていないから、自分が迷惑をかけた相手に対してではなく、お母さんに言ったりします。「ゴメンナサイ」と言えばお母さんの怒りが収まることを知っているからです。「おしっこ大丈夫?」と聞かれたら「ダイジョウブ」と答えます。でも、子どもはただそう答えるだけです。自分のからだの中の「おしっこの状態」を確認する能力がないからです。他の子を打った我が子に「打たれた子の痛み」を伝えようとして、「打たれたらこんなに痛いんだよ」などと言って、我が子に対しても同じように打つお母さんがいますけど、あれは絶対に止めた方がいいです。自分が打った相手から打ち返されるのなら、子どもにもその意味が分かります。でもいきなり、何の関係もないお母さんから打たれるのです。それに、子どもが打たれて感じるのは「自分の痛み」だけです。「自分が打った相手の子の痛み」なんか分かるわけがないのです。皆さんは分かるのですか?皆さんも子どもの頃はいっぱい叱られ悲しい思いをしたと思うのですが、今、自分が叱っている子どもの悲しみが分かるのですか。また、子どもには、子ども本人にしか分からない「打った理由」があります。それを無視して、いきなり全く関係がないお母さんから打たれたら親子の信頼関係は崩れます。そんな時子どもが理解するのは「お母さんは自分の気持ちを理解してくれない」という想いだけです。大人と子どもとでは言葉や現実を認識する能力も、認識の仕方も異なっているので、大人にとっては当たり前のことでも、子どもにとっては当たり前ではないのです。大人が生きている世界では「1+1=2」ですが、子どもが生きている世界では「1+1=不明」なんです。大人の論理は時空間の束縛を受けていますが、子どもの論理は感覚のおもむくままに展開して時空間の束縛から自由なんです。そのことを理解しないまま、大人の価値観や大人の考え方を子どもに押しつけるような子育てや教育をしてしまったら、子どもは「今学ぶべきこと」を学ぶことが出来なくなってしまうのです。子どもが大人と同じように見たり、感じたり、考えたりすることが可能になるのは9才を過ぎてからです。それでもこの能力の育ちには大きな個人差があるので、大人になっても分からないままの人もいます。*************生徒募集のお知らせです。毎月、第二土曜日の午前に、茅ヶ崎の駅の近くでやっている「土曜アトリエ」の生徒を募集しています。毎回テーマを決めて活動しています。詳しくはこちらをご覧になって下さい。次回は11日です。**************横浜にある「Umiのいえ」企画の「気質の講座」です。Zoomによるオンライン講座ですから、遠くにお住まいの方でも参加できます。11月24日(金)です。詳細は以下のサイトでご覧になって下さい。「Umiのいえ」*************12月10日(日) 10:00~15:00 「自分を知るワークショップ」 4000円/日一番身近でありながら、身近すぎてよく分かっていない「自分」について知るためのワークショップです。このワークのお問い合わせ、お申し込みは以下までお願いします。<篠>
2023.11.02
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最初にちょっと生徒募集のお知らせです。毎月、第二土曜日の午前に、茅ヶ崎の駅の近くでやっている「土曜アトリエ」の生徒を募集しています。毎回テーマを決めて活動しています。詳しくはこちらをご覧になって下さい。次回は11日です。***********昨日、近くのお店に行ったらベビーカーに2才ぐらいの子どもを乗せて買い物に来ているお母さんがいました。で、驚いたのはそのベビーカーには「タブレットホルダー」が付いていて、子どもはそれで何かを見ているのです。こういうものが今、流行っているのでしょうか。驚きました。買い物をするお母さんの後をゲーム機を持って付いて歩く子どもは時々見かけますが、タブレットが付いているベビーカーは初めて見ました。ちょっと見ていたら、子どもは慣れているようで自分で操作していました。そして、大人しく座っていました。子どもに騒がれることを恐れているお母さんにとっては、これは救世主なんでしょうね。確かにこういう便利な機械を使えば、子育ては楽になるかも知れません。問題は、ただ楽になるだけならいいのですが、その「楽」と引き替えに子どもの成長が阻害されてしまうことなんです。また、子どもの成長が遅れてしまうため、その「楽」は、子どもが幼いうちだけしか続きません。なぜなら、子どもが大きくなりお母さんから離れて活動することが多くなると、からだは大きくなっても心の方が幼いままの子どもは色々なところで色々な問題を起こすようになってしまうからです。まず、仲間とうまくつながれません。学習能力も低いです。自分勝手な行動しか出来ません。能動的に感じ、考え、行動する能力が育たないので、受け身的に「楽しいこと」や「楽」を求めるようになります。いつまでも親に依存するようになります。それはつまり「協調性がないわがままな子」になるということです。兄弟がいても兄弟の仲は悪くなります。また、子どもの成長に寄り添っていないので、お母さんは我が子のことが分からなくなります。親子の信頼関係も築けません。そのため、子どもが大きくなってから問題に気づき、子どもの状態を変えようとしても、子どもはお母さんの言葉に耳を傾けません。子育ては子どもの成長を支えるためのものです。それが子育て本来の目的でもあります。そしてこれは、人間だけでなく子育てをする全ての生き物たちに共通の原則です。そんなことは意識していないでしょうが、犬や猫も子どもの成長を支えるために子育てをしているのです。そうしないと、種が続かなくなってしまうからです。まただから「子育てで楽しよう」とも考えません。そんなこと考えるのは人間だけです。確かに便利な機械を使いこなせば子育ては格段に楽になるでしょう。でも、「楽になる」ということと「子どもの成長を支えることが出来る」ということは同じではないのです。むしろ、便利な機械が子どもから様々な出会いや成長の可能性を奪ってしまうのです。便利な機械に依存することなく、子どもの成長を支えるような子育てをしていると、最初は大変でも次第に子どもと一緒に感じ、考え、遊ぶことも出来るようになります。子育ての楽しさも分かってきます。子どもはお母さんとの関わり合いを通して、仲間や他の大人との関わり方を学ぶことが出来ます。ですから、時期が来たら子どもは自信と希望を持って親から離れて行くことができます。確かに、今の時代子どもを便利な機械に預けずに子育てをするのは非常に大変なことです。でも、子どもとちゃんと向き合って子育てをしていると、最初は苦しくても、子どもの成長に伴ってだんだん楽しく、楽になっていくのです。ただし、このような子育てをするためにはお母さんの仲間作りが必要になります。一人だけではどんなに頑張っても無理だと思います。
2023.11.01
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昨日、あるお母さんから「子どもの声を騒音として扱うことを禁止する法律を作って欲しい」という声がありました。全くその通りだと思っていたら、ドイツにはもうすでにそのような法案があるそうです。ですから、全く荒唐無稽な話ではないのです。日本でもそういう案が国会でも出たようです。でも、積極的に審議されてはいないようです。金をばらまいたり、お母さんが仕事をしやすい環境作りには力を入れても、お母さんが「幸せな子育て」をしやすい環境を作ることには力を入れる気がないのでしょう。「東京新聞 TOKYO Web」参考https://www.tokyo-np.co.jp/article/246934「少子化は金をばらまけばなんとかなる」というのが日本の政治家の発想なのでしょう。でも、今の日本の社会の「子育てのしづらさ」は異常だと思います。「子どもの子どもらしさ」や、「子育てをしているお母さん」に対する不寛容は目に余ります。つい先日も、公園で遊んでいたら「子どもの声がうるさい」と公園の近くの人に文句を言われたお母さんがいました。幼稚園の隣の家から文句が来て、子どもを園庭で自由に遊ばせることが出来なくなってしまった幼稚園もあります。知り合いがやっている幼稚園でも、同じような問題で悩んでいます。子どもの泣き声が外に漏れないように一年中窓を閉め切りエアコンを付けっぱなしにして、外で泣かれるともっと困るので外にも出さず、子どもを付けっぱなしのテレビの側で寝かせたままにしているお母さんの話も聞きました。これはもう立派な虐待です。子どもの子どもらしさに対する周囲からの文句がお母さんに虐待を強いているのです。それで、ストレスに耐えかねたお母さんが何か事件を起こすと「全くひどい親だ」と親を責めます。江戸の末期に日本にやってきた欧米の人たちが驚き、感心した日本人の子どもに対する寛容さと優しさはどこに消えてしまったのでしょうか。子どもが泣くのは言葉を話すことが出来ない子どもが行うことが出来る唯一の自己表現であり、それは権利でもあります。子どもが大きな声を出すのは感情のコントロールを学ぶためです。子どもがジーッとしていないのは、成長しつつある感覚や筋肉が刺激を求めているからです。子どもは自分の意志で動き回っているのではなく、子どもの中の成長本能が子どもを動かしているのです。そして、同じような状態の子がいると共鳴し合い大騒ぎになります。よく公園遊びで問題になるのはこの声です。でもその姿はすごく楽しそうです。心もからだも緩んでいます。そんな楽しそうな姿を見ていると、「このような活動が子どもの成長には必要なんだ」ということがよく分かります。その一方で、子どもの成長にとって自然な環境や刺激を与えられることなく、自然な成長が阻害されてしまった子もジーッとしていることが出来なくなります。でも、このような状態の子の心とからだには強いストレスがあり、心もからだも緩みません。だからジーッとしていることが出来ないのです。そしてそれは表情の違いとして表れています。また、自分を守ることばかり考えているのでトラブルも起きやすいです。今、発達障害の子が増えていますが、実際に増えているのは先天的な発達障害の子ではなく、成長に必要なものを与えられることなく育ってしまったことで成長が歪んでしまい、擬似的に発達障害のような状態になってしまった子です。外に出ることも他の子や他の大人とも関わることなく、一日中テレビやゲームだけを相手にして遊んでいる子は、当然のことながら「他者と共存する能力」や「他者とコミュニケートする能力を育てることができません。話しかけられもせず、言葉がない環境で育った子は言葉で表現したり、他者の言葉を理解する能力も育ちません。言葉が育っていない子は、思考力も自分の感情をコントロールする能力も育ちません。自由に声を出し、自由に動き回ることを禁止された状態で育っている子は、心とからだの働きがつながりません。そのため、心とからだの状態が不安定になり、不安が強くなります。当然のことながらそういう子が増えれば、社会は混乱していきます。やがて学校も崩壊するでしょう。政治家はもっと真剣に子どもが幸せに生きることが出来る社会、お母さんが安心して子育てが出来る社会を作ることに力を入れるべきなんです。そうでないと、日本はますます衰退していきます。**************横浜にある「Umiのいえ」企画の「気質の講座」です。Zoomによるオンライン講座ですから、遠くにお住まいの方でも参加できます。11月24日(金)です。詳細は以下のサイトでご覧になって下さい。「Umiのいえ」*************12月10日(日) 10:00~15:00 「自分を知るワークショップ」 4000円/日一番身近でありながら、身近すぎてよく分かっていない「自分」について知るためのワークショップです。このワークのお問い合わせ、お申し込みは以下までお願いします。<篠>
2023.10.31
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よく「子育てに正解はない」と言われます。でも、実際には本屋さんに行くと子育て関連の本がいっぱい並んでいます。そしてそれらの本には「正解」が書いてあります。でも、ここで問題になるのはその「正解」が本によってみんな違うことです。ですから、子育てに悩んでいたり、一生懸命子育てをしようとして色々な本をいっぱい読みあさる人ほど混乱して、子育てへの自信を失っていきます。すると子どもの状態はますます手が付けられなくなり、お母さんはますます自己嫌悪が強くなります。人間にとっての「子育て」とは、何にも知らない、何にも出来ない状態の赤ん坊を、「一人前の人間」に育てる行為です。これが「子育て」の原点です。ここに異論を挟む人は滅多にいないと思います。問題は、その「一人前の人間」とはどのような人間なのか、という「人間像」が一人一人違うことです。経済的に自立した人間を「一人前の人間」と考える人がいます。また、自分の頭で考え、自分の感覚で感じ、自分の意志と責任で行動することができる人間を「一人前の人間」と考える人がいます。きちんとした仕事が出来る人間を「一人前の人間」と考える人がいます。人格的に優れた人を「一人前の人間」と考える人もいます。みんなと助け合うことが出来る人間を「一人前の人間」と考える人もいます。有名人や社会的地位の高い人を「一人前の人間」と考える人もいます。子育てが出来る人を「一人前の人間」と考える人もいます。実際にはもっともっと色々な「一人前」があるでしょう。これだけ色々な「一人前」があったら、一人前の人間を育てるための方法にだって色々な種類があって当然です。さらには、(例えば)「経済的に自立した人間」を育てるための方法論にだって色々なやり方があるでしょう。「小さい時からびしびし鍛えた方がいい」と考える人もいれば、「小さい時は充分に遊ばせた方がいい」と考える人もいます。その結果、本屋さんには数知れぬほどの「子育て書」が並ぶことになります。そして、人は自分の好みに合わせて、子育て書を選んでいきます。つまり、自分の人間像を肯定してくれている本を選ぶわけです。多くの場合、人は自分が育てられた方法を肯定してくれるような子育て方法を肯定します。厳しく育てられた人は「厳しく仕付ける子育て」を肯定します。優しく育てられた人は、「優しく育てる子育て」を肯定します。時に、厳しく育てられたが故に「厳しく育てる子育て」を否定する人がいますが、でも感覚的に、「厳しくしない子育て」がどのようなものか分からないので、色々本を読みあさることになります。そして、不安になります。「自分が受けた子育て」を肯定することが出来ない人も、色々な本を読みあさり、不安になります。自分が受けた子育て以外の子育てのイメージが分からないからです。人は体験したことのないことをイメージすることは出来ないのです。親が、自分を肯定するための子育て方法を子どもに押しつけると、子どもは「おれはあんたじゃない」と反逆します。逆に、子育て方法に不安を感じながら子育てをしていると、子どもも不安を感じ不安定になります。でも、ここで見落とされている大事なことがあるように思うのです。それは、「子どもは親の思い通りに育つようには出来ていない」ということです。これは子育てを終えた人なら誰でもが知っている事実なのではないでしょうか。でも子どもがまだ小さい時には、お母さん達はこの事実をよく知りません。「自分が頑張れば子どもは思い通りに育つ」と思い込んでしまっているお母さんもいっぱいいるように思います。その思い込みが間違えであったと気付くのは、子どもが中学生頃になってからです。改めて言いますが、子どもは親の思い通りに育つようには出来てはいないのです。そのことを理解していないと、理想通りに育てようと頑張れば頑張るほど子どもはお母さんやお父さんの理想から遠ざかっていきます。子どもは自らが育ちたいように育つのです。その育ちを支えているのは「あこがれ」です。子どもは「あこがれ」に導かれるように育っていくのです。ですから、子どもはいつでも「あこがれ」を探しています。それは本能です。小さな子どもはアンパンマンやウルトラマンにあこがれを感じます。そして「アンパンマンになりたい」などと言います。時にはそれはお母さんかも知れません。テレビの中のアイドルかも知れません。でも、大人になってまで「アンパンマンになりたい」などという人はいません。小さい時には「アンパンマン」であっても、成長するにつれ、それがもっと現実的なスポーツマンや、お花やさんや、学者などに変化していきます。子どもは自分の成長に合わせてちゃんと「あこがれ」も変えて行くのです。だから、お子さんが「アンパンマンになりたい」などと言っても心配する必要はありません。そんな風に「あこがれ」を持つことが出来た子どもはまっすぐ育ちます。でも、あこがれを持つことが出来ない子は不安になり、迷子になり、苦しみます。それは多くの場合、親の期待を押しつけられてしまった子どもたちです。親の期待を押しつけるということは、子どもの「あこがれ」を否定することになってしまうのです。でも、それでは子どもは自分が育つべき方向を見失うことになってしまいます。子育て書の多くは大人からの視点ばかりで書かれています。子育てが楽になるような方法ばかり書かれています。親の期待通りに育てる方法ばかり書かれています。でも、子どもを「大人の製品」ではなく、「一人前の人間」に育てたいのなら、子どもの視点に立った、子どもの「あこがれ」を育てる子育てが必要になるのです。ちなみに、私が言うところの「一人前の人間」とは、自分の大切さも、仲間の大切さも知っていて、自分一人でも、またみんなと一緒にでも色々な活動をすることが出来る人間のことです。難しく言うと「全体から切り離された個でも、全体に縛られた個でもなく、全体とつながりながらも縛られず自由に生きることが出来る個」ということです。
2023.10.30
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「苦しみ」にとらわれて抜け出すことが出来なくなっている人の考えをよく聞いていると、共通してみんな何らかの「正解」を求めているような気がします。「子育てを楽にする正解」、「優秀な子どもを育てる正解」「苦しみを消してくれる正解」「子どもが言うことを聞くようになる正解」「幸せを手に入れる正解」などなどです。そして、「正解」を求めてネットで情報を探したり、色々な本を読んだり、色々な講座に行ったり、セラピストやカウンセラーの所に行ったりしています。でも、固定された「正解」があるのは「頭の中」と、その「頭の中」の働きによって「人工的に作られたもの」だけです。「生命の世界」や、「心やからだの世界」や、「自然界」や、「私たちが生きている現実の世界」には「正解」など存在していないのです。私たちは、もともと「正解がない世界」に生きているのに、頭の働きや社会の都合で「正解」を決め、それに束縛されてしまうから、生命がゆがみ、心やからだがゆがみ、苦しみが生まれてしまうのです。じゃあ、どうやったら「正解がない世界」を幸せに生きていくことが出来るのかというと、そこで必要になるのが、「自分の頭で考え、自分の心と感覚で感じ、自分の意思と責任で行動する能力」なんです。結果にこだわらず、過程を「味わい、楽しむ能力」も必要になります。出来合いの「正解」を求めるのではなく、自分にとって必要なものは自分の力で発見し、創り出していくしかないのです。そしてそれは、「遊び」を創造する子どもたちの行為に似ています。自然の中に子どもたちを連れて行くと、大人が教えなくても子どもたちは「遊び」を創って遊び始めます。ただし、それが出来るのは普段から自然の中で遊んでいる子どもたちです。大人に買ってもらったおもちゃでばかり遊んでいる子は、なかなか遊びを創造することが出来ません。そして自然の中に連れて行っても、どうしていいのか分からず「退屈だー」と言うばかりです。またそのような子に限って「正解」を求めます。「自然」の中には「正解」はありませんが、「人工物」の中には正解があるからです。森の中で拾った木々や木の実は、切っても、貼っても、投げても、振り回してもOKですが、買ってもらった「積み木」を、切ったり、貼ったり、投げたり、振り回して遊んではいけないのです。「遊び方」が決まっているからです。また、カードゲームでも勝手に絵を描いて自分のカードを作ってはいけないのです。買ってきたカードでないと有効ではないのです。でも、そんな「正解」が通用するのは、人間が作った世界の中だけです。学校で教えてくれる「正解」は、学校の中だけでしか通用しない「正解」です。しかもその正解は先生によっても違っています。同じ答案用紙でも、採点する先生が違えば違う点数になることもあるのですから。だからそんなものに縛られる必要はないし、縛られてはいけないのです。でも、学校で「正解」を学び、「正解」に束縛され、幼い頃から人工物だけに囲まれて育っている現代人は、子どもや、子育てや、心や、からだや、生き方にも正解があると勘違いしてしまっているのです。そのような人に、「正解などありません。自分で考えて自分で決めればいいのです」と言うと、みんな戸惑ってしまいます。でも、多くの人の苦しみは、その「正解へのこだわり」によって生まれているのです。「正解」を手放せば楽になるのです。
2023.10.29
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東洋経済onlineというサイトに、以下のような記事が出ていました。「成績が良いといじめられる」日本人の特殊性能力が低くていじめられるケースは世界中にあります。でも、みんなよりも能力が高くてもいじめられてしまうのは、あまり日本以外の国では見ない現象のようです。とにかく日本では、良いことでも悪いことでも、人と違っていて目立ってしまうといじめの対象になってしまうのです。そのため、常に相互監視や足の引っ張り合いをします。未だにマスクを外さない人たちも「目立ちたくない人」なんでしょうか。この記事の中に以下のようなエピソードが紹介されていました。認識の甘さを痛感しつつも、1つのエピソードを思い出した。先日訪問したある中学校の校長先生によれば、生徒から「褒めないでほしい」と言われることが少なくないそうだ。よくよく聞いてみると皆、「みんなの前で」褒められるのは困るのだという。一人だけ目立ってしまい、仲間はずれにされる可能性が高まるというのだ。うちの教室でも、誰かが「ぼく、○○が出来るんだ」とか「○○が得意なんだ」というと、周囲にいた子が数人「自慢かよ」と冷やかしたことがありました。それで私が、「なんで自分が得意なことを自慢しちゃいけないの?」と子どもに話したことがあります。こんな足の引っ張り合いをしていたらみんな不自由になって苦しいはずなのに、「自分らしさ」を肯定されないで育っている日本の子ども達は、「みんな一緒」の中に安心を感じるのでしょう。そういう感覚の子ども達にとっては「他の人と違う子」に違和感と不安を感じ排除しようとしてしまうのでしょう。発達障害の子が問題視されるのも、発達障害の子は「みんなと一緒」が出来ないからです。というか「みんなと一緒」が出来ない子は、それだけで問題児として扱われてしまうのです。日本の保育や教育システムでは、「みんなと一緒」が出来ない子が一人でもいると保育や教育がしにくくなってしまうのです。なぜなら、日本では「みんなと一緒」を前提にして保育や教育のシステムが作られているからです。だから、一人でも「みんなと一緒」が出来ない子がいるとみんなが困るのです。問題があるのは「その子」ではなく「そのシステム」の方なんですが、みんな国が作ったシステムには従って、子どもの方を否定するのです。そして、「エジソンはすごい人」と歌いながら、実際にエジソンのような協調性がない子が周囲にいるとみんなで叩くのです。日本で行われているのは、国や先生が「右向け右」と言えば、みんなが一斉に右を向くように指導する教育です。そのため、個性や自分らしさを大切にする芸術教育や表現教育には全く力を入れていません。むしろ否定しています。芸術教育や表現教育では「一人一人の違い」が大切にされなければならないからなのでしょう。日本では、「上手な絵」は褒められますが、自分が感じたことを大切にした「自分らしい絵」は指導の対象になります。感想文も「先生が求めるもの」を推測してそれに合わせて書けば褒められますが、本当に自分が感じたまま書くと指導の対象になります。そういう日本の教育の状態に対して、この記事を書いた人は子どもたちを「皆と同じであるべき」といった無意識の思い込みから解放しようとするなら、義務教育のうちに適切な介入が必要だ。1つの有望な方法が、「異年齢学級」の導入だと筆者は考えている。異年齢学級の目的は、均質性とは正反対の、「差異」や「異質性」を集団内に求めることにある。学級内でさらに年少〜年長の混成グループに分かれ、自分たちでテーマを決定し、「遊び・学び・対話・催し」をバランスよく行う。その中で、教え合い、助け合い、また年上は年下に模範を示そうという自覚が生まれる。「学び」の場合も一斉授業ではなく、子ども同士、わかる子がわからない子に教えるというスタイルが基本だ。そこでは、子どもたちの「生きる力」「学ぶ力」を引き出すために、先生の役割は、一方的に「教える」立場のティーチャーから、子どもたちの学びを「支え見守る」コーチャー(コーチする人)へと変わる。ということです。と書いています。でもちょっと待って!これって、昔から続いてきた群れ遊びの現場で起きてきたことそのまんまですよね。群れ遊びで大切なことは「みんな一緒」ではありません。また、指導者がいないのですから、「何をするのか」をみんなで話し合う必要があります。ルールも自分たちで決めなければなりません。でも、「みんな一緒」という子育てや教育を受けてきた子をいっぱい集めても、この「話し合う」ということが出来ないのです。そのため「群れ遊び」も始まりません。そして簡単にイジメが始まります。ちょっと目立つ子がいると、みんなが同じ事を言ったりやったりするのです。そうやって安心を手に入れようとしているのでしょう。それに、子どもの頃から同調圧力の中で育ってきた先生達に、このような指導が出来るのでしょうか。
2023.10.28
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幼い子ども達は、描くことも、歌うことも、踊ることも、何かを作ることも、お話を作ることも大好きです。「遊び」もいつも創りだしています。大人は「遊びの方法」を知りたがりますが、子どもは誰からも教えてもらわなくても、自由に遊びます。絵を描く時も、大人は「描き方が分かんない」とか「上手に描けない」などと言いますが、2,3才までの子どもで、そんなことを言っている子どもとは会ったことがありません。どんな下手な歌を歌い、下手な踊りを踊っても、恥ずかしがる子もいません。この時期の子ども達は、心が目覚め始めたばかりなので、芸術的な活動がしたくてたまらないからです。それが本能的な「心の欲求」なんです。心が育つための栄養素として「芸術的な活動」が必要になるのです。そして、それが想像力や創造力や人間性の育ちに大きな影響を与えているのです。でも、4,5頃から大人のようなことを言い出す子が現れます。つまり、上手下手を気にする子が現れるのです。そして、「ぼく下手だから・・・」と言って、描かなくなったり、歌わなくなったり、踊らなくなったりします。失敗を恐れる子も出始めます。周囲の大人によって、「子どもらしさ」を肯定されながら育っている子はまだまだそんなことは言い出さないのですが、常に大人によって評価されながら育っている子は、そういう意識が目覚め始めてしまい、自分を表現しなくなるのです。大人はそのつもりがなくても、子どもが描いたり、創ったりしているときに、その「行為」ではなく「結果」を評価していると子どもも結果を気にするようになるのです。特に、憂鬱質の子は「結果」を気にします。憂鬱質の子は大人が自分に求めているものを敏感に感じ取るからです。実際にはそう言わなくても、憂鬱質の子は「大人の無意識」まで感じ取る能力があるのです。そんな時は、お母さん自身が上手下手にこだわらず、創ったり描いたりすることを楽しんでいる姿を見せて上げればいいのですが、多分それは無理でしょう。ですから、自由に描かせようなどと思うことは諦めて、「そのままの子ども」、「そのままの状態」を肯定して下さい。「結果にこだわる描き方」があってもいいのです。でもそれが絶対ではないということです。ただそれだけのことです。子どもはハサミで何かを切ったり、セロテープをペタペタ付けたりするのが大好きです。それなのに、大人は「何を作るの?」とか「何を作ったの?」などと結果ばかりを気にします。そして、結果がはっきりとしていないと「無駄なことはしないで」といいます。大人の価値観的には「ただ切るだけ」、「ただ貼るだけ」ということが理解出来ないからです。「色水遊び」をするときも、2,3才頃の子ども達は、ただ色を混ぜるだけで、特別「きれいな色」を作ろうとはしません。なぜなら、子どもにとっての興味は、「きれいな色」ではなく、「色が変わること」の方だからです。子どもは「変化」そのものを楽しんでいるので、「結果」のために活動しているのではないのです。そこが大人とは違うのです。「絵を描く行為」を楽しんでいるのであって、「絵」を描いているのではないのです。「創る行為」を楽しんでいるのであって、「何か」を創っているのではないのです。「字」を書くのも同じです。幼い子どもが「字を書いた」と言って持ってきたものを見ても、とても「字」とは思えません。それで大人は「正しい字」を教えようとしてしまうのですが、子どもは「字を書くという遊び」をしているだけで、「字」を書いているのではないのです。そこの所を誤解してしまうと、困ったことになってしまいます。幼い子どもの活動は「楽しむためのもの」であって、「作品を作るためのもの」ではないのです。だからこそ芸術的に展開するのです。子どもが「結果」を意識するようになるのは4,5才頃からです。「社会的な意識」が目覚め始めると、子どもは「結果」を気にするようになるのです。その時、周囲の大人が「結果」よりも「楽しむこと」を大切にしているなら、子どもも「自分を自由に表現し、その喜びを体験することが出来るのですが、大人が「結果」ばかりを求めていると、子どもは大人の期待に応えようとするばかりで、自分を表現しなくなるのです。でも、そんな子ども達でも自由に自分を表現したいのです。それが心の成長に伴う「心の欲求」だからです。ですから、大人が「大切なのは結果じゃないんだよ」と言うことを伝えてあげると、子どもは人が変わったように生き生きと自分を表現し始めるのです。その落差を見ていると、子どもがいかにいつも「子どもらしさ」や「自分らしさ」を抑えて生きているのかがよく分かります。遊びでも同じです。仲間と一生にからだを動かして遊んでいるとき、自然の中で遊んでいるときの笑顔は、部屋の中で遊んでいるときには見ることが出来ない笑顔です。「我が子のこんな笑顔初めて見た」と素直に言ってくれるお母さんもいます。でも、そのことに気付いている大人は非常に少ないです。***********************最後に、ワークの告知です。会場はいずれも茅ヶ崎です。11月26日(日) 10:00~15:00 「劇遊び」 3000円/日劇の内容は未定ですが、宮沢賢治の童話で遊ぶと思います。ただしこの日は、私に劇遊びを教えてくれた、賢治研究家で、元小学校の先生だった泉山先生と一緒にやります。先生の体調が悪いときには私が一人でやります。12月10日(日) 10:00~15:00 「自分を知るワークショップ」 4000円/日一番身近でありながら、身近すぎてよく分かっていない「自分」について知るためのワークショップです。いずれのワークもお問い合わせ、お申し込みは以下までお願いします。<篠>
2023.10.27
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最初に、横浜にある「Umiのいえ」企画の「気質の講座」の告知を書かせて頂きます。Zoomによるオンライン講座ですから、遠くにお住まいの方でも参加できます。11月24日(金)です。詳細は以下のサイトでご覧になって下さい。「Umiのいえ」*************古来より、「しつけ」は、ご先祖さま達が自分たちのアイデンティティーとして、守り、伝えてきた大切な文化を、次世代につなげていくためのものでした。そしてこのような「しつけ」を伝えてこなかった民族はいません。「しつけ」を失ってしまったら民族も崩壊してしまうからです。(実際、そうやって崩壊してしまった民族がいっぱいいます。)その「しつけ」の内容は民族によっても違うし、また、時代と共に変化もしますが、「世代から世代へと受け継がれていく」というシステム自体は普遍でした。言葉や、立ち居振る舞いや、服装や、状況に合わせた行動の仕方や、生活の仕方、歌や踊りや手仕事などを伝えるのも「しつけ」でした。「母の味」を伝えるのも「しつけ」でした。そのようなものを学び、身につけることで、子どもは自分が属している文化圏の中で一人前の大人として自立して生きていくことが出来るようになったのです。日本語を話す文化圏に生まれたのに、ちゃんとした日本語を学ぶことが出来ないまま育ってしまったら、大人になって社会に出たとき「一人前の大人」として生きていくのが困難になってしまうのは明らかなことですよね。だから「言葉」を伝えることも、大切な「しつけ」なんです。でも、今の日本では「伝承されてきたしつけ」は消えてしまいました。代わりに生まれたのが、「親の思い通りに子どもの行動などをコントロールしようとするしつけ」です。でもこれは昨日も書いたように「しつけ」ではなく「調教」です。そして、お母さんの支配下で、調教的な方法で育てられた子は家の外の世界での生き方を学ぶことができなくなります。そのため、外の世界に出て行くことが出来なくなったり、マニュアル的な方法に頼るようになります。人々が、まだ地域社会とのつながりが強い中で生活していた時代は、お母さんもまた地域とつながって生活していました。子育ても、子どもも、地域とつながっていました。だから子どもは地域とのつながりの中で、親からだけでなく色々な人から様々な「しつけ」を学ぶことができました。その学び方の基本は「見て学び、やって学ぶ」というものです。叱られて学ぶこともありました。でも、現代社会では周囲から孤立した状態で子育てをしている人がいっぱいいます。子どもも外では遊びません。それは子育てにおいては重大な問題なんですが、さらに家の中でも子どもはお母さんから切り離されています。お母さんは一人で家事や仕事をして、子どもも一人でテレビを見たりゲームをしています。食事の時も、お母さんは別のことをして、子どもだけで食べています。こういう生活では「しつけ」を伝えることは不可能です。「ちゃんと食べなさい」、「きれいに食べなさい」と言われてもその「お手本」がないのですから。そもそも一人で食べても楽しくありません。楽しくない状況で食べていれば、好き嫌いが出やすくなります。食べ方も汚くなります。基本的に、「しつけ」は伝承によって伝えるものですから、必ず「お手本」が必要になるのです。言葉を伝えることは、子どもの人間らしさを育てるしつけにおいて最も大切なことですが、言葉を必要としないような生活をしていたら、子どもに言葉を伝えることは出来ません。「言葉の大切さ」をいくら説いても、言葉と出会う機会を与えなければ子どもは言葉を学びようがないのです。子どもを支配するような子育てをしていると、子どもはそんなお母さんを模倣して、他の子を支配しようとするようになります。お母さんが「良いお母さん」を演じていると、子どもはそんなお母さんを模倣して「よい子」を演じるようになります。でも、その「よい子」はお母さんがいないところでは消えます。子どもに乱暴な言葉を使っていると、子どもも乱暴な言葉を使うようになります。子どもの言葉に耳を傾けていないと、子どもも他の子や大人の言葉に耳を傾けなくなります。子どもが言うことを聞かないのは、お母さんが子どもの言葉に耳を傾けていないからです。お母さんが理屈で子どもを叱っていると、子どもも理屈で返すようになります。お母さんと仲がいい関係を築けていない子は他の子とも仲の良い関係を築くことが出来ません。そして、自分中心に感じ考え行動するのですぐにケンカが起きます。そんなことを意図していなくても、子どもの方は「お母さんがやっていること」を「しつけ」として受け取ってしまうのです。
2023.10.26
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子どもが、精神的にも経済的にも自立して、自分らしさを大切にしながらも他者とつながり、自由に幸せに生きていくことが出来るように育てるためには「しつけ」が必要です。でも見ていると、「しつけ」と称して「調教」をしている人がいっぱいいます。でも、「調教」では子どもは育たないのです。そして、いつまでも自立できないままになってしまいます。「しつけ」は「子どもの育ちを支えるためのもの」です。でも、「調教」は、「大人の都合に合わせて子どもの行動を管理するためのもの」です。そこには、「子どものためのもの」なのか、「大人のためのものなのか」という違いがあります。犬などの動物を調教するのは、人間の都合に合わせて「犬の行動」を管理するためです。それでも犬が困らないのは、犬は、成長しても自立する必要がないからです。飼い主の言うことを素直に聞いていればかわいがってもらえるし、死ぬまで住むところも食べ物も与えてもらえます。そして犬はそれ以上を望みません。でも人間の子どもの場合はそれでは困るのです。もし子どもが、お母さんの言うことを素直に聞いて、言われた通りにお勉強をして、言われた通りにお片付けをして、言われた通りに「ゴメンナサイ」を言い、言われた通りに一人で大人しく遊んでいることが出来るような子に育ってしまったら、子どもは、思春期が近くなってもお母さんから離れることが出来なくなってしまうでしょう。「自分の頭で考え、自分の心と感覚で感じ、自分の意志で判断し行動する能力」が育たなくなってしまうからです。出ていきたくても出ていけなくなってしまうのです。そして子どもは苦しみます。親もまた外に出ていけない子どもを抱えて苦しみます。そう書くと「うちの子は私の言うことを聞かないから大丈夫だ」と思う人もいるかも知れませんが、実際には「言うことを聞かない」のではなく、お母さんの要求が子どもの能力を超えてしまっているため、「言うことを聞くことが出来ない」のです。「静かにしなさい」「ジーッとしていなさい」と言われても、幼い子どもは自分の意志で自分の感情や行動をコントロールすることが出来ません。一人でジーッとしていることが出来るのは楽しいことに集中している時だけです。お母さんもそれを知っているので、静かにして欲しい時にはスマホやゲーム機を与えます。すると子どもは、スマホやゲーム以外の「楽しいこと」には興味を感じなくなります。外に出ていかなくなります。仲間を求めなくなります。その結果、お母さんは子どもの相手をしなくて済むようになるので楽になります。また、それらの電子機器での遊びはすぐに中毒になるので「言うことを聞かないとスマホ(ゲーム)をやらせないよ」と、子どもを脅し、調教する便利な道具としても使うことができます。でもその結果、子どもは「学ぶ楽しさ」、「工夫する楽しさ」、「発見する楽しさ」、「外の世界の面白さ、楽しさ」を知るきっかけを失ってしまいます。そんな時、スマホやゲームではなく「折り紙」や「パズル」や「図鑑」などを与えるお母さんもいます。そして、スマホやゲームは会話を遮断しますが、「折り紙」や「パズル」や「図鑑」は、子どもと一緒に楽しむ事も出来ます。会話のきっかけにもなります。そして、日常的に子どもと会話する習慣が出来ていると、お互いの意思の疎通がしやすくなるので「調教」ではなく「しつけ」がしやすくなります。会話がない関係では力ずくになるか「アメとムチ」を使って調教するようになります。また、「早くしなさい」「ちゃんと片付けなさい」という要求も子どもの能力を超えています。子どもには、「早く」とか「ちゃんと」の基準自体が理解できないからです。それに、子どもには「義務感」はありません。楽しければやるし、楽しくなければやりません。ただそれだけのことです。だから「楽しさ」を教えてあげたり、「楽しく出来るような状況」を作ってあげれば子どもは進んでやります。「学ぶ楽しさ」を知った子どもは、追い立てられなくても勉強するようになるのです。先日テレビで、お母さんに何かをねだっている子が「成績が上がったら買ってもらえることになった」と嬉しそうに言っていました。それを見ていた出演者たちもみんな「良かったね」と反応していて強い違和感を感じました。これって調教の常套手段ですよね。勉強はお母さんのためにするものではないのですから。
2023.10.25
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町を歩いていると「歩きスマホ」をしている人を時々見かけます。スマホを見たり、操作しながら自転車に乗っている人さえいます。そういう人を見ると、他人事ながら「怖いな」と思うのですが、なぜか本人は怖いとは感じないようです。実際に死亡事故を起こして禁固刑になったり、何千万円もの罰金を払うことになった人もいるのに、「自分は大丈夫」と思っているのでしょう。近所の八百屋さんの脇に、自動車道路から自動車道路へと抜けることが出来る細い道があります。歩行者と自転車しか通れない細い道です。その道を抜けるといつも自動車が走っている道ですから、道を抜け、道路に出る時には十分に左右を確認する必要があります。少なくとも私はそう思います。でも、多くの高校生たちが左右を見ないまま飛び出してきます。「自動車が来るかもしれない」と想像することが出来ないようです。幸いにその道は買い物客も多い道なので、車も速度を緩めているので大きな事故を見たことはありませんが、でも、いつもハラハラしてしまいます。真夏の炎天下の中、幼い子どもを車の中に残したまま買い物に行って、帰って来たら熱中症になっていたというようなニュースもよく聞きます。止めた自転車の後ろに子どもを座らせたまま、自転車を離れ立ち話をしたり、買い物をしたりしているお母さんも時々見かけます。子どもがお母さんを追って降りようとしたり、誰かがぶつかったり、強い風が吹いたら、自転車が倒れ、子どもは大けがをしてしまうでしょう。でも、そのような行為をしているお母さんはそういう想像をしないのでしょう。先日、電車の中で、ハイヒールを履いて、オシャレな服装をして、子どもを抱いて歩いている人を見かけました。「しつけ」と称する虐待で子どもを死なせてしまう親もいますが、そのような親は、「まさかこんなことで死ぬとは」と思っていたのでしょう。このような行為の背景には、想像力の欠如があります。だから、「歩きスマホをしているとこういう事故が起きる可能性があるよ」などというような情報を流して、想像力を喚起しようとしているのでしょう。でも、いくら情報を流したり注意を喚起しても、「その情報につながるような体験」のない人は、そのことを自分自身のこととつなげて想像することが出来ないのです。そして、体験がない人ほど「そんなことは知っているけど自分は大丈夫」という根拠のない思い込みを持っているのです。だから、いつまで経っても「オレオレ詐欺」も「歩きスマホ」も減らないのです。知識は可能性を示してくれます。でも、実際の体験に裏付けされていない知識は、その可能性を自分自身のこととつなげてくれないのです。スマホを見ながら自転車に乗っていたら事故を起こす可能性があることは誰でも知っているはずです。ても、まさか自分が事故を起こすとは思っていないのです。それにつながるような体験がないからです。棒やノコギリやトンカチを、ゲームの中の勇者のように振り回す子がいます。それで、「誰かに当たったらどうするんだ、アブナイからやめなさい」と言うのですが、「大丈夫」と返事をしてくる子がいます。でも、その「大丈夫」には何の根拠もありません。何の根拠もないのに分かったつもりになっているからこそ怖いのですが、でも、「分かったつもり」になっている本人はその事を知りません。「だいじょうぶ だいじょうぶ」と分かったつもりになってカッターを使い、指を切り、以来、怖くてカッターを使わなくなってしまった子もいました。外で子どもが騒いでいると「親がちゃんと仕付けないから子どもが騒ぐんだ」と文句を言う人がいますが、そのような人は「子どものリアル」を知らない人です。「子どものリアル」を知らないから、「子どもは親がちゃんと仕付ければちゃんと育つんだ」と思い込んでいるのです。でもそれは空想であって想像ではありません。「実際の出来事」とつながるような想像は、「実際の体験」の延長にしか生まれてこないのです。「現実の世界での様々な体験」が、「現実の世界とつながった想像」を可能にしてくれるのです。実際に木登りをして落ちたり、ケガをしたり、怖い想いをしたりした経験があるから、木を見て「登り方」を想像することが出来るようになるのです。そういう体験のない子は「非現実的な登り方」を空想することしか出来ないのです。でも、そういう子に限って、実際に登っている子を見て「下手だな、僕だったらもっと上手に登れるのに」などと言います。それで「じゃあ、登ってみて」と言うのですが、でも、実際には登ろうとしません。登ろうとする子もいますが、すぐに「こんなはずじゃあ・・・」という反応をします。そしてやめてしまいます。ゲームの中でやっている釣りが得意だから、現実の釣りも上手なはずだと思い込んでしまう子もいます。そういう子に限って、実際にやらせると「こんなはずじゃ」という反応をします。最近は、この「こんなはずじゃ」で、頑張って入学した大学や、頑張って就職した会社をすぐにやめてしまう若者も多いそうです。リアルな子どもを前にして、「子育て」に挫折する人も多いです。その自分の想像力の原点となるような体験をするのが7才までの幼児期なんです。「7才までにどういう体験をしたのか」ということが、その子の想像力の原点になっていくのです。ゲームは子どもたちから、その想像力の原点となるべきリアルな体験を奪ってしまうのですが、リアルな体験を奪われた子は、今度はゲームの中の体験を通して、現実の世界を想像するようになります。でも、その世界には「リアル」がありません。それでも子ども時代はなんとかなります。でも、大人になり、社会に出て、現実の世界の中で生きなければならなくなった時、「こんなはずでは」という「現実の壁」に突き当たってしまうのです。でも、リアルな体験の乏しい子はそこで途方に暮れてしまうのです。だからといって、単にゲームを取り上げればいいということではありません。本当は、ゲームがなくても自由に楽しく遊べるようになるのが理想なんですが、もうすでにゲームでの遊びにはまってしまっている子の場合は、ゲームとの関わり方を大人が教える必要があるのです。それも7才までに教えた方がいいです。7才までの子はまだ親の言葉に耳を傾けてくれるからです。ゲームに子育てを依存してしまっているとそれが出来なくなってしまうのです。テレビやスマホやyoutubeも同じです。
2023.10.24
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人間であろうと、地球であろうと、足下の小石や野の花であろうと、全てのものに「歴史」があります。突然そこに生まれ、突然その状態になったわけではありません。あなたの「怒り」や「悲しみ」や「喜び」にも「歴史」があります。その歴史の流れの中で人は怒り、悲しみ喜ぶのです。皆さんの「からだ」も、長い歴史の中で生まれてきたものです。血の中の鉄は、地球が生まれる以前に起きた星の爆発の結果生まれたものです。あなたの考え方、感じ方の癖は、あなたの生命がたどってきた歴史の中で生まれたものです。みなさんが子育てをしているときに感じる子どもに対する怒りの中には、皆さんの子どもの頃からの歴史が隠されています。今、世界のあちこちで戦争が起きていますが、この戦争にも長い歴史があります。いきなり戦争が始まったわけではありません。そして、流れの結果、戦争をしざるおえない状況になると、人々は自分がやっていることを正当化(物語化)し始めます。そして、積極的に戦争をし始めます。イジメや虐待をやっている当事者も、一度それをせざるを得ない状況に追い込まれると、自分がやっていることを正当化(物語化)し始めます。すると、ドンドン、エスカレートして行きます。あなたが怒るようなことでも、あなたとは違う歴史を生きてきた人にとっては怒るほどのことではないかも知れません。「物質の世界」も、「自然の世界」も、「人の心の世界」も全て、長い長い歴史の結果、今の状態になっています。その「歴史」を言葉で読み解くと「物語」が生まれます。ですから、この世界は「物語」で出来ているといってもいいかも知れません。あなたの足下に転がっている小石でさえも、長い長い「物語」の結果、あなたの足下にたどり着いたのです。その「実際」は知ることが出来ません。でも、想像することは出来ます。そして、想像することで、世界も、自分も、足下の小石も、目の前の子どもも、「生命」を得ることが出来るのです。「小石」には生物学的な「生命」はありませんが、「物語」(想像された世界)の中では「生命」を得ることが出来るのです。人の想像力には「生命を与える働き」があるからです。だから、「石」や「山」や「太陽」が神様になったりするのです。「希望」もその想像力によって生まれます。逆に、想像力を働かせない時には「実際に生命あるもの」でさえも「生命」を失います。そのような時には、「人間」でさえ「生命あるもの」ではなく、「動く肉」にしか見えなくなることがあります。そのような感覚の状態になっている人は、人を殺すことに罪悪感を感じることもありません。皆さんがお肉屋さんで買って来たお肉を包丁で切っても罪悪感は感じないですよね。それと同じです。私たちは、「人を殺してバラバラにした事件」の話など聞くと、「罪悪感は感じないのか」、「どうしてそんなひどいことが出来るのか」などと思いますが、想像力を働かせなければ、そのような感覚は生まれないのです。その一方、「お肉屋さんのお肉」にすら、「生きている時の牛や豚の生命」を想像する人達もいます。そのような人にとっては、お肉は「物」ではなく、人が命を奪った「死骸」であり「死体」です。そして、普通に肉を食べている人達を「残酷な行為をする人達」と感じているかも知れません。更にまたその一方、「牛や豚の生命を私たちが受け継ぐんだ」と考える(想像する)人達もいます。そのような人にとっては「お肉」は「牛や豚の命を伝えるもの」であって、単なる「物」でありません。死んでいるのに「生命を持つもの」なのです。このように、人間においては「想像する働き」が世界を創っているのです。そして人は「自分が想像した世界」を生きているのです。「想像する能力」を育てる事は、「世界を創り出す能力」を育てる事になるのです。子ども達は、言葉と出会い、物語と出会い、仲間と出会い、自然と出会う事でその能力を育てています。でも、大人達は子ども達に「言葉」を伝えていません。「物語」を与えていません。「仲間」や「自然」と出会う機会も与えていません。そして、つながりから切り離された「物の世界」に閉じ込めようとしています。ちなみに、想像力が欠如した子は群れて遊ぶことが出来ません。工夫することも、失敗から学ぶことも出来ません。そして自分のことばかり考えています。***********************最後に、ワークの告知です。会場はいずれも茅ヶ崎です。11月26日(日) 10:00~15:00 「劇遊び」 3000円/日劇の内容は未定ですが、宮沢賢治の童話で遊ぶと思います。ただしこの日は、私に劇遊びを教えてくれた、賢治研究家で、元小学校の先生だった泉山先生と一緒にやります。先生の体調が悪いときには私が一人でやります。12月10日(日) 10:00~15:00 「自分を知るワークショップ」 4000円/日一番身近でありながら、身近すぎてよく分かっていない「自分」について知るためのワークショップです。いずれのワークもお問い合わせ、お申し込みは以下までお願いします。<篠>
2023.10.23
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最後にワークの告知が書いてあります。昨日は、見ただけでは「リアル」と「非リアル」の区別がつきにくくなってしまった時代、「リアル」と「非リアル」の溝を埋めるのは「想像力」だけなんです。でも、今の時代、その想像力が欠如している大人があまりにも多すぎるのです。子どもの想像力を潰すような活動はいっぱいありますが、子どもの想像力を育てるような活動はあまり見かけません。と書きましたが、これは、子ども達と話をしていても、お母さん達と話をしていても強く感じることです。お母さん達は子どもの成績を気にします。成績だけを気にします。良ければ喜び、子どもを褒めます。悪ければ悲しんだり怒ったりして、子どもを叱ったり、追い立てたりします。でも、その成績が何を調べているのか、何を意味しているのかということについては考えません。成績は子どもに関するデータの一つですが、「何を調べた結果のデータなのか」「それはどういうことを意味しているのか」ということを考えることなく、先生によるデータ評価の結果だけを見て子どもを褒めたり、追い立てたりしているのです。ここにも「想像力の欠如」があります。自分で調べ、自分で考え、自分で想像することなく、テレビや、政治家や、医者や、学校や、先生や、身近な人の言うことをそのまま信じてしまう人も、「想像力が弱い人」、「自分の頭で考えない人」です。コロナ騒動下で露呈したようにそういう人の方が扱いやすいですから、子どもや大衆を思い通りに管理したい人たちは、子どもの想像力や思考力を育てるような教育には力を入れません。戦争中の教育でも、子ども達は自分の頭で考えることを否定されていました。そして、その流れは戦後も続いて来ました。なぜなら、戦争中に自分の頭で考えることを否定するような教育を受けた人たちが、「追いつけ、追い越せ、消費は美徳だ」というスローガンの基に、ロボットのように頑張って日本の社会を再生してきたからです。そのため、戦争が終わった後でも価値観や思考の多様性が生まれなかったのです。今の日本にあるのは「バラバラ」であって「多様性」ではありません。その違いは、「バラバラ」はぶつかり合いますが、「多様性」は支え合い、共存することができます。(「みんな違う」というだけでは「多様性」ではないのです。これは子どもの群れでも同じです。)教育現場では「正解」を固定しています。答えは合っていても、「先生が教えた解き方」で解かないと×にされてしまいます。感想文も、本当に自分が感じたことをそのまま素直に書くと指導されてしまいます。学会でもまだ確定されていないようなことでも、学校では確定された事として教えています。皆さんは「1192(いい国)つくろう 鎌倉幕府」と覚えたかも知れませんが、皆さんが覚えた正解は、今では正解ではないですからね。ちなみに宮沢賢治は生徒に質問されたとき、最先端の研究を紹介しながら「こういう意見もありますが、こういう意見もあります」と色々な意見を子ども達に伝え、正解を固定しなかったそうです。こういう教育を受けた子ども達は自分の頭で考えるようになるでしょうね。以下は、谷川俊太郎が描いた絵本です。「考えるとはどういうことなのか」、「想像するとはどういうことなのか」ということの一つの形がこの中に描かれています。えをかく 新版 (講談社の創作絵本) [ 谷川 俊太郎 ]***********************最後に、ワークの告知です。会場はいずれも茅ヶ崎です。11月26日(日) 10:00~15:00 「劇遊び」 3000円/日劇の内容は未定ですが、宮沢賢治の童話で遊ぶと思います。ただしこの日は、私に劇遊びを教えてくれた、賢治研究家で、元小学校の先生だった泉山先生と一緒にやります。先生の体調が悪いときには私が一人でやります。12月10日(日) 10:00~15:00 「自分を知るワークショップ」 4000円/日一番身近でありながら、身近すぎてよく分かっていない「自分」について知るためのワークショップです。いずれのワークもお問い合わせ、お申し込みは以下までお願いします。<篠>
2023.10.22
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昔は、たとえ子どもに嫌われても、「これはまだ子どもには早い」とか、「これは子どもに与えない方がいい」などという「大人の判断」をする大人がもっといたような気がするのです。でも最近は、そういう判断をする親も大人も減ってきたような気がします。最近の大人たちは、「子どもの成長」、「心の成長」、「人間としての成長」という視点から、「子どもに与えてもいいもの」、「与えるべきもの」、「与えてはいけないもの」を判断しなくなりました。というか、「判断基準」そのものが消えてしまいました。むしろ、子どもの欲求をお金儲けにつなげようとする大人や、子どもが望むものを子どもに与えて子どもに好かれようとする大人の方が増えてきたような気がするのです。そこで求められているのは「安全性」だけです。ただし、「身体的安全性」だけです。「心への安全性」は無視されています。それを買い与える親たちも「身体的安全性」は気にしても「心への安全性」は、ほとんど気にしません。からだに害があると大騒ぎしますが、心に害があっても気にしません。そもそも気付きません。そういう視点を失ってしまっているからです。子どもたちの話を聞いていると、ホラー映画を見ている子が結構いるようです。血が飛び散るようなスプラッター映画を見ている子も多いようです。聞くと、お父さんと一緒に見ている子が多いです。そしてお父さんはそれを止めません。しばらく前に話題になった「鬼滅の刃」でも、リアル映画化したら見るに耐えないようなホラーシーンの連続ですよね。「話題の映画だったら見たけど、途中まで見て気持ち悪くなったのでやめた」と言っていたお母さんがいましたが、私はその反応の方が正常だと思います。(ちなみに、私はあの映画は見ていませんが、「鬼滅の刃」が話題になり始めたころに、興味があったのでネット動画で基礎知識を得る程度には見ています。)「リアルじゃないんだからいいじゃないですか」と言う人も多いと思いますが、今の時代「リアル」と「非リアル」の間の境界は曖昧です。実際、軍隊には、ゲーム感覚で実際に人を殺すシステムだって存在しているのですから。兵隊が罪悪感を感じたりPTSDに苦しむことがないように、意図的に人を殺すリアル感を消しているのです。見ただけでは「リアル」と「非リアル」の区別がつきにくくなってしまった時代、「リアル」と「非リアル」の溝を埋めるのは「想像力」だけなんです。でも、今の時代、その想像力が欠如している大人があまりにも多すぎるのです。また、想像力を育てるような教育も存在していません。子どもの想像力を潰すような活動はいっぱいありますが、子どもの想像力を育てるような活動はあまり見かけません。「鬼滅の刃」が大好きな人は、「家族愛を謳った素晴らしい映画だ」と言いますが、どれだけ作品の質が高くても、「それを子どもにも見せていいものなのかどうか」ということは別の問題のはずなんです。「家族愛がテーマだからOK」、「子どもが主人公なんだから子どもが見てもOK」ということなのでしょうか。それだけで、その是非を判断しているのでしょうか。家族はバラバラ、夫婦の会話もない、日常的に子どもを叱り、追い立て、子どもの言葉に耳を傾けない子育てをしているような人から「家族愛が素晴らしいのよね」という感想を聞くと、何と答えていいのか困ります。
2023.10.21
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(昨日の続きを書こうと思っていたのですが、強く気になることがあったので、違う内容になってしまいました)日々、色々なお母さんたちと話をしていて強く感じることがあります。それは、最近のお母さんたちの子育てには「子どもの都合や欲求に合わせる子育て」と、「大人の都合や欲求を子どもに押し付ける子育て」の二種類しかないのではないかということです。親と子の間に「支配するか」「支配されるか」の一方通行の関係しかないようなのです。どうやら、「人間として対等な関係」、「支え合う関係」、「つながりあう関係」、「伝承する関係」が親と子の間から消えてしまったようなのです。このような変化が起きたのは「親と子の間」だけではありません。社会全体において大人と子どもの間の人間関係がこの二種類だけになってしまったような気がするのです。企業は、そんな「子どもの都合や欲求に合わせる子育て」をしているお母さんに向けて、子どもの要求をかきたてる様々な商品を開発したり、子どもが行きたくなるような場所を作ったりしています。お母さんたちも、頑張って子どもの要求に合わせているお母さんを「良いお母さん」だと思い込んでいます。子どもも、いつも「自分の欲求をかなえてくれるお母さん」のことが大好きです。そして、幼いころから自分の欲求を満たすような遊びしかしてこなかった子は、「自分の成長を支えてくれるお母さん」よりも「自分の欲求を満たしてくれるお母さん」の方が好きになるのでしょう。そのため、お母さんたちは子どもに嫌われないように、一生懸命に子どもの期待に応えようと頑張っています。でも、いくら子どもの期待に応えても、子どもがちゃんと成長していくわけではありません。大人が道を指し示さなければ、子どもは自分の成長の方向性を見失い、進むべき道が見えなくなり、不安になり、どんどん迷路にはまって苦しくなっていきます。その結果、自分と他の人と比較する事でしか自分の価値を感じることが出来なくなってしまっています。それは例えば、子どもを全く知らない土地に連れて行って「自由に好きなところに行っていいよ、何をしてもいいよ」と放り出すようなものです。これは大人でも同じですが、知らない場所で放り出されたら、まず自分の安全を確保しようとします。そして、目に見える範囲で面白そうな所に行き、目に見える範囲にいる人と同じように行動しようとするでしょう。とにかく「見える範囲」のことしか分からないのですから。目に見える世界の向こう側にどんなに素晴らしい世界が広がっていても、そこに行こうとはしないでしょう。それを教えてくれる人がいないのですから。それを伝え、そこに導いてあげるのが「子どもの成長を支える」ということだし、「大人の役割」なのではないかと思うのですが、自分もまた、「その向こうの素晴らしい世界」を知らないまま育ってしまった人にはその導きが出来ないのです。そして、自分自身もまた「自分の可能性」に蓋をして「目に見える身近な世界」の中だけで生きています。でも、「自分自身の可能性」を大切にしようとしていない大人に、「子どもの可能性」を育てることが出来るわけがないのです。最初に、最近の子育てには、「子どもの都合や欲求に合わせる子育て」と、「大人の都合や欲求を子どもに押し付ける子育て」の二種類があると書きましたが、でも、この二つは基本的には同質なので簡単に入れ替わります。子どもが幼くて、簡単にその要求に合わせることが出来るうちは子どもに合わせることでよいお母さんを演じようとします。でも、子どもが成長して活動範囲が広がり、自分自身の欲求や意志が強くなり、そう簡単にその要求に合わせることが難しくなってくると、今度は一転して、子どもに自分に合わせるように求め始めるのです。子どもに対して、「お母さんの要求に応えるように」、「お母さんの生活リズムを壊さないように」求めるのです。そのようなお母さんは子どもの言葉に耳を傾けません。子どもの気持ちを無視します。自分に都合が悪いことは全部無視します。何かあったらその責任を全て子どもに押しつけます。そして「あんたのせいで」と叫びます。先日もスーパーでそういう状態の親子を見かけたので、ちょっと吐き出したくなって書かせて頂きました。
2023.10.20
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最初に、ワークの告知をさせて下さい。会場はいずれも茅ヶ崎です。11月26日(日) 10:00~15:00 「劇遊び」 3000円/日劇の内容は未定ですが、宮沢賢治の童話で遊ぶと思います。ただしこの日は、私に劇遊びを教えてくれた、賢治研究家で、元小学校の先生だった泉山先生と一緒にやります。先生の体調が悪いときには私が一人でやります。12月10日(日) 10:00~15:00 「自分を知るワークショップ」 4000円/日一番身近でありながら、身近すぎてよく分かっていない「自分」について知るためのワークショップです。いずれのワークもお問い合わせ、お申し込みは以下までお願いします。<篠>***************子どもにとって「遊び」は「呼吸」のようなものです。ただし、呼吸を止めたら死にますが、遊びを止めても子どもが死ぬことはありません。だから大人達はそんなに深く考えることなく、子どもの遊びを止めてしまうのでしょう。でも、死にはしなくても、子どもから遊びを奪ったら子どもの「成長」は止まります。「肉体の成長」ではなく「心の成長」が止まるのです。それは、「人間らしさの成長」、「魂の成長」といったようなものです。でも現代人は、「知能の成長」には興味があっても、「心の成長」にはあまり興味がありません。また、それがどういうものなのか深く考えようともしません。子どもは本能的に「心の成長」が止まる危険性を感じているので、大人の目を盗んで必死になって遊ぼうとします。大部分のお母さんは、そんな子どもの姿にあきれ、諦めて、ある程度の遊びは許容していますが、堂々と遊ぶことが出来る時間も、場も、一緒に遊ぶ仲間も与えてもらえません。現代の子ども達は「子どもの正当な権利」としては遊ばせてはもらえないのです。そんな「大人の目を盗んでやる遊び」はどうしても歪んでしまいます。「イジメ」という形で遊ぼうとする子もいます。自分の世界に閉じこもって一人だけで遊ぼうとする子もいます。また、一人だけで出来る遊びが中心となってしまうため、子どもの世界が広がりません。それは、「好奇心の欠如」、「他者への無関心」、「成長欲求の低下」という形で表れています。最近の子ども達と話しているとそいういうことを強く感じるのです。<明日に続きます>
2023.10.19
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科学には「再現性」が求められます。同じようにやったら同じ結果にならなければ「科学」としては認められないのです。その対極にあるのが「芸術」です。絵を描くことや踊りを踊ることそのものが「芸術」ではありません。もう二度と再現できない「一期一会」の世界で色々体験し、学び、それを楽しむのが「芸術」なんです。再現不能なものに真剣に取り組むからこそ価値があるのです。ですから、AIロボットが絵を描いたり、踊りを踊ったりしてもそれは芸術ではないのです。また、マニュアルに従って描いたり、踊ったりしてもそれは芸術ではありません。幼稚園の子に絵を描かせるとき、絵の描き方をマニュアル化して描かせている幼稚園もあるようですが、それは「作業体験」であって「芸術体験」ではありません。またそれは「人生」そのものでもあります。「人生」は「芸術」なんです。それなのに多くの人が人目ばかりを気にして、人と競争ばかりして、自分の「芸術としての人生」を台無しにしています。まあそれも「人生」なんですが、死ぬ前になって「私の人生空っぽだった」と気付いてもやり直しが出来ないのです。自分の人生を自分のものとして大切に生きるためには、自分の目で見て、自分の耳で聞いて、自分の感覚で感じて、自分の頭で考えて、自分の意志で判断し行動する必要があるのです。とにかく「あなたの人生」は「あなたのもの」なんですから。自分の人生には自分で責任を取るしかないのです。そして、「子どもたちの遊び」もまた芸術です。子どもたちは「一期一会」の世界で遊んでいるのです。よく「子どもとの遊び方を教えてください」という人がいますが、子どもとの遊びで一番大切なのは「一期一会」を共有し、一緒に楽しむことなんです。「方法」ではないのです。方法論には再現性があります。そして、方法を学んだ人はその方法を繰り返すことで遊ぼうとします。でも、そのような遊びには「形」はあっても「命」がありません。また、方法にこだわる人は「遊び」を「生き物」として扱うことが出来ません。そのため、最初はいいのですがすぐ飽きます。子どもの遊びは「生き物」なんです。ですから、常に変化しています。それは遊びを通して子どもが成長している証でもあるのです。遊びを方法論で考えてしまうと、その「子どもの成長」に対応できなくなってしまうのです。「子どもの遊び」に付き合う場合も同じです。子どもと「一期一会」を共有し、今しかできないことや、今という瞬間を一緒に楽しめばいいのです。すると子どもは、大人であっても「仲間」として受け入れてくれるのです。でも、人目を気にしながら生きている人にはそれが難しいみたいです。
2023.10.18
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昨日は、古代の遺跡の中に芸術的な活動の痕跡を見つけると、そこに人間らしさを認めることができます。人間以外の生き物でも必要に応じて道具を作ったりはしますが、生活に必要がない芸術的な活動を楽しむのは人間だけなんです。それだけ「人間らしさ」と「芸術的な活動」の間には深いつながりがあるのです。と書きましたが、今日はこの「芸術」について考えてみます。国語辞典には、「芸術」(gooのネット辞書から)(1)特殊な素材・手段・形式により、技巧を駆使して美を創造・表現しようとする人間活動、およびその作品。建築・彫刻などの空間芸術、音楽・文学などの時間芸術、演劇・舞踊・映画などの総合芸術に分けられる。(2)芸・技芸。わざ。「凡(およそ)―は、…切差琢磨の功を積まざれば、その極に至りがたし/読本・弓張月(前)」英和辞典では「Art」芸術, 美術; 技術, 技能; ((集合的)) 芸術作品; (pl.) 学芸 (liberal arts), 人文科学; 人工; 技巧, 熟練; (時にpl.) 術策; 〔古〕 学問.と書いてありました。この両者を比べてみると、日本人が感覚として持っている「芸術」と、英語の「Art」は同じではないことに気付きます。日本人が「芸術」という言葉を使うと、なにか「高尚」な感じがします。それは「芸術」という概念が、明治の頃に欧米の美術品や、美しさを見せる芸術的な活動と共に入ってきたからなのでしょう。でも、英語のArtの方はもっと生活に即したもののようです。英語では、料理人や大工まで熟練するとArtになるのですから。どうも日本人は“美”にこだわる民族のようです。そして、私の印象では一般的に“美”という言葉は、“俗”という言葉とは対立したイメージを持っているようです。日本人は、“美”に“聖”なるものの匂いを感じるのかも知れません。武士道、茶道といった“道”のつくものも一つの“美学”によって支えられています。そこで語られる美学は“俗”と対立した論理、概念で語られています。そのような日本人にとって芸術は特別なものなんです。そして、実際多くの人が芸術は美術館や劇場にしかないと思いこんでいます。でも、欧米におけるアートは必ずしも“美”を目的としたものではありません。日常生活における自己表現も、歩き方も、話し方も“技術”と言う視点で見れば全てアートなのです。つまり、日本人が考えるような“芸術”は、欧米人から見たら“美を目的としたアート”と表現するしかない、狭い領域のことなのです。(つまり、欧米には美を目的としないアートもあるということです。)この違いは受動的に生きてきた日本人と、能動的に生きようとしてきた欧米人の感覚の違いかも知れません。日本人は芸術を“感覚に響くもの”として捉え、欧米人は“行動によって表現するもの”として捉えているのだろうと思います。もしかしたら欧米人は、“行動すること”、“表現すること”の中にこそ、“美”を感じているのかも知れません。そして、私が“芸術”という言葉を使う時には実はこの英語の“Art”に近い意味で使っています。多分、シュタイナー教育の中で“芸術”と訳されている言葉も、本来の意味はこの“Art”に近いものだろうと思います。つまり、私から見たらけん玉も、コマ回しも、竹馬も、お絵描きも、ダンスもみんな“芸術”(アート)なんです。普通は、子どもの歌や絵は“芸術”としては扱われていませんが、私から見たらそれらも立派な“芸術”です。私は、子どもの生命活動から生まれたもの、また子どもの生命活動と共鳴するものを“芸術”と言う言葉で表しています。そして、それは大人の芸術とは異なります。なぜなら、大人の芸術は自由意志の現れですが、子どもの芸術は生命活動の現れだからです。でも、その子どもの芸術の中には大人の芸術の全てが含まれています。絵画も、歌も、踊りも、文学も、演劇も、技術も、学問も、「Art」のところに書いてあった全ての要素が、子どもの芸術の中には入っているのです。大人の芸術と子どもの芸術は異なりますが、大人の芸術は子どもの芸術の延長にしか存在できないのです。大人は幼い時に直感で得たものを意識を使って再現しているだけなのです。それが大人の芸術なんです。人々がまだ自然の中で素朴な生活をしていた頃には、大人の芸術も子どもの芸術と似たようなものでした。でも、、文明や文化の進歩とともに、大人の概念世界が複雑になり、それにともなって大人の芸術が芸術本来の生命活動からどんどん離れ、知的で難しくなってきてしまったのです。だから、大人たちは子どもの芸術を幼稚なものとしてしか理解できなくなってしまっているのです。でも、私は原点に立ち返って、子どものそのような活動をあえて“芸術”と呼んでいます。大人たちは意識によって芸術を作りますが、子どもたちは生命活動によって芸術として生きているのです。ですから、子どもたちを芸術として関わろうとする時、子どもたちは生き生きとしてきます。子どもたちが幼い時に、意識的にそのような子どもの芸術的な活動を支援することは、子どもの生命活動を支えるだけでなく、子どもが大人になった時の可能性を大きく広げることにもつながるのです。子どもが大人になった時に花を開かせるための種は、すべてこの時期の芸術的な活動の中で生まれるのですから。
2023.10.17
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人類は、不便、危険であることを嫌い、どのようにしたら不便や危険を解消出来るのかということを色々と考え、研究してきました。その結果、世の中はどんどん便利で安全になりました。今では、お料理の作り方など知らなくても、包丁など使えなくても、美味しいお料理を食べることが出来ます。歩くのが苦手でも、乗り物を使えば歩くよりずっと早く移動することが出来ます。昔は鉛筆はナイフで削りましたが、今では電動鉛筆削機の穴に差し込むだけでアッという間にきれいに削れます。自分で考えなくても、本やインターネットなどで調べればすぐに答えが得られます。また、外灯で夜は明るくなり、道は平になり、突然襲ってくる獣はいなくなりました。(今では人間が一番危険です)“食べ物が腐っているかどうか”、“これは食べられるかどうか”などということを自分で判断しなくても済むようになりました。子どもが木登りしていて木から落ちてケガをしたら、昔は“木から落ちか子が下手だった”で済まされましたが、今ではその木の管理者が責任を求められ、下手をすると木が切られてしまいます。道の段差にけつまずいて転がれば、昔は“気を付けなさい”で終わりでしたが、今では道の管理者が文句を言われます。便利が増え、危険が少なくなればそれにともなって、人間の機能は低下します。人間の機能はそのように出来ているからです。お年を召して機能が低下した人や、障害を抱えている人にとってはそれは意味のある大切なことだとは思いますが、今その機能を育てなければならない年齢の子どもたちにとってはそれはあきらかに子どもの成長を妨げる邪魔者なんです。それでも、昔のように大人の社会と子どもの社会が分離していた時代には大人の社会が便利になっても、子どもたちは外で走り回っていました。でも、今、子どもたちは大人と同じ空間で生活しています。同じ物を使い、同じ環境で生活しているのです。ですから、当然子どもたちもその“便利”と“安全”を享受しています。但し、“自分の成長”と引き替えにです。昔の子どもは平気で何時間も歩き、遊び回りました。でも、今の子どもはそんなには歩きません。移動する時には自転車を使います。何時間も子どもを歩かせるイベントもあり、何時間も歩き通す子どもも確かにいますが、でも、イベントとして歩くのと生活の中で歩くのでは心とからだに対する影響の与え方が根本的に異なります。現代人は不便や苦労を楽しみません。昔は、“若い時の苦労は買ってでもしろ”と言いましたが、今の若者にはその意味は理解出来ないでしょう。苦労したら、苦労した分のお金をもらわないことには割が合わないと思っています。でも、こんなに便利になった世の中にもまだ何百年も前と同じように“不便を楽しむ”活動もあるのです。それが、手仕事や芸術の分野なんです。それらの分野ではむしろ“便利・簡単”は嫌われます。不便だからこそ楽しいのです。そして、自分の心とからだと知性と魂の全てを注ぎ込む必要があります。つまり、丸ごとの自分を投入しないことには芸術的な活動は出来ないのです。でも、簡単便利を求める現代人は芸術的な活動を楽しむことも放棄し始めています。活動自体を楽しむことよりも、上手を求めるようになったからです。AIを使えば簡単にプロが描いているような絵を作ることが出来ます。そのうち絵描きは絵筆を持つのではなく、キーボードを叩くようになるでしょう。でも、人間が芸術的な活動を楽しむことが出来なくなったら、その時点で人間から「人間らしさ」は失われてしまうのです。古代の遺跡の中に芸術的な活動の痕跡を見つけると、そこに人間らしさを認めることができます。人間以外の生き物でも必要に応じて道具を作ったりはしますが、生活に必要がない芸術的な活動を楽しむのは人間だけなんです。それだけ「人間らしさ」と「芸術的な活動」の間には深いつながりがあるのです。
2023.10.16
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子どもの育ちに一番大きな影響を与えているのは、「お母さんの生き方」です。どういうしつけをして、どういう教育をして、何をやってあげて何をやってあげなかったかではありません。「お母さんの生き方」は「お母さんの価値観」によって導かれます。そしてその価値観に従って子どもをしつけ、子どもと関わり、子どもと会話し、子どもと遊び、子どもにオモチャを与え、子どもに色々な学びや体験を与えようとしています。「どういうおやつを与えるのか」という事まで、お母さんの価値観が影響しています。その時、お母さんの生き方や価値観がしっかりとしているのなら、そのような「子どもの育ちに関わる全てのこと」に一貫性が生まれます。一貫性があるので子どもの心やからだの中にお母さんの価値観が定着していきます。子どもも安心します。そして、自分の考え方や生き方を育てる事が出来るでしょう。先日、「兄弟げんかを止めさせるにはどうしたらいいのでしょうか?」などと聞いてきた人がいましたが、その時私は「では、お母さんはどういう解決法を求めているのですか?」「兄弟の関係がどのようになって欲しいと思っているのですか?」と聞きました。ケンカを止めさせるだけなら、二人を引き離したり、大きな声で叱れば止めるでしょう。でも、それを繰り返していると兄弟の仲が悪くなります。ケンカから痛みや悲しみを学ぶことも、仲直りの仕方も分からなくなります。そして、お母さんとの関係も悪くなります。そして、仲良く遊ぶのではなく、お互いに関わらないで別々に遊ぶようになるでしょう。「そういうことを望んでいるのですか?」ということです。また、自分の生き方や価値観がしっかりとしていない人は、社会の流れや、周囲のお母さんの考え方ややり方に振り回されます。「優しい子に育って欲しい」と願っている人は多いですが、願うだけで結果が得られるのならそんな楽なことはありません。そんな時は、お母さん自身が困っている人を助けたり、子どもに苦しんでいる人のことを伝えたり、絵本やお話しをいっぱい聞かせて「人の心」に対する感受性を育ててあげるしかないのです。「なんでもっと優しく出来ないの!!」と怒鳴っているお母さんがいますが、子どもに優しさを求めるのなら、それを自分自身の生き方の中で子どもに見せていくしかないのです。お母さんや大人が、「言っていること」と「やっていること」が違うと子どもは混乱するのです。そして、楽や自分を守ることばかりを考えるようになるでしょう。テレビやゲームに関しても、単に「みんながやっているから」とか「自分が楽だから」ではなく、お母さん自身の生き方や考えの基に与えるのならそんなに心配しなくて大丈夫なんです。時々、幼稚園時代はテレビもゲームもスナック菓子も与えず、「子どもは遊ぶのが一番」という子育てをしていたのに、小学校に入って他の子は字が書けて、算数が分かって、英語が話せたりすると急に焦ってしまい、突然、それまでとは180度違う子育てを始めてしまうお母さんがいます。子どもは混乱するでしょうね。また、「幼児期には勉強を教えない」という思想を持ったシュタイナー幼稚園に通わせているのに、幼稚園から帰ってきたら塾に通わせているお母さんもいます。心配なのでしょうね。でも、そういう一貫性のない子育てを受けた子は、自分の価値観や考え方を育てることが出来なくなるでしょうね。それは、子どもが思春期を迎えることに問題になってきます。また、自分の生き方や価値観がしっかりとしていないお母さんは、周囲の声に振り回されてしまいすぐに「子育ての迷路」に入ってしまいます。そして苦しくなります。そしてそういうお母さんを見て育っている子も、自分の人生の道筋を描くことが出来なくなります。子育てで一番大切なのは、どういうしつけをして、どういう教育をして、何をやってあげて何をやってあげなかったかではなく、お母さん自身が自分の人生を自分の価値観に従ってちゃんと生きているかどうかなんです。
2023.10.15
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12日に群馬に呼ばれてワークをしてきました。私は色々なところから呼ばれていますが、群馬は初めてです。大勢の方が参加して下さいました。みんな素敵なお母さん達でした。20名定員でしたが、「ベーゴマをやったことがある人?」と聞いたら、2/3ぐらいのお母さんが手を上げたのにはビックリしました。他の所でそんな質問をしても2,3人いるかいないかですから。これだけで、どういうことを大切にして、どういう生活をしているお母さん達が参加して下さったのか分かりますよね。で、その夜は呼んで下さった方の家に泊めて頂きました。その方の家は古民家を買い取りリフォームしたすごく大きな家です。二階は蚕を飼っていた巨大な空間がそのまま残っていました。その方は昭和の初め頃にタイムスリップしたような家で、昭和の初め頃にタイムスリップしたような生活をしていました。お子さんは小二(女子)、年中(男子)、2才(?・男子)の三人ですが、テレビもありません。もちろんゲーム機もありません。小二のお姉ちゃんの好物は「ニンジン」で、自分でニンジンを切ってパクパク食べていました。おやつで柿が出たときは、小二(女子)、年中(男子)の二人は自分で包丁で切って好きに食べていました。普通の家ではハサミすら「あぶないから」と言って自由に扱わせないのに、この二人は包丁も普通に使っていました。テレビもゲーム機もない、オモチャすらほとんどない状態で子ども達は退屈していたか、お母さんにまとわりついていたか、というと全くそんな事はありませんでした。にぎやかなくらいズーッと遊んでいました。その家の中にはハンモックが二つと縄ばしごがかけてあって、置いてあるのはジャンベ(太鼓)や様々な楽器類です。レゴのようなオモチャもちょこっとありましたが、本当に「ちょこっと」です。お父さんの仕事は農業で、子ども達も時々手伝うようです。こういう生活は今の時代では珍しいですが、でも、私が幼い頃はこれが当たり前でした。(ハンモックや縄ばしごやジャンベは当たり前ではありません出したけど・・・)私が子どもの頃だけではありません、人間は何千年、何万年とこのような生活を繰り返してきたのです。私が幼稚園ぐらいの時には、家にテレビがあるのは相当なお金持ちだけでした。ゲーム機なんてまだ発明すらされていません。オモチャも、木やブリキで出来たものはありましたが、プラスチックで出来たものはほとんどありませんでした。(セルロイド製はありましたけど)電気で動くオモチャもなければ、ベイブレードのような簡単に回せるコマもありませんでした。凧などの「あそぶもの」はみんな自分で作りました。ですから、男の子はみんな「肥後守」というナイフを持って歩いていました。「遊び」は、自分一人で何かを作ったり、探検や冒険をしたり、仲間と群れて昔遊びをしたり、大人に隠れて「危ないこと」をやったりしていました。そして子ども達はそういう生活に満足していました。そういう「なにもない」状態の中で、自分の力で色々発見し、色々な遊びを創り出していました。遊びの伝承もあったし、子どもと子どもだけでなく、子どもと大人の間にも様々なつながりがありました。お店に買い物に行けば「○○ちゃんお使いかい」などと、名前で呼んでもらえました。そういうつながりがいっぱいあったので、寂しいと感じることも、退屈だと感じることもありませんでした。路上で遊んでいても、大きな声で遊んでいても叱られませんでした。最近の子は「遊んでくれるもの」がなかったり、「遊んでくれる人」がいなかったりするとすぐに「退屈だ」と言いますが、そういうものがない時代の子ども達の方が退屈を感じなかったのです。「遊んでくれるもの」がなくても、「遊んでくれる人」がいなくても、自分の感覚で感じ、自分の頭で考え、自分の意志で判断し行動することで、自分自身の「学び」と「成長」を感じることが出来たからなのでしょう。実際、子ども達はそういう素朴な生活の中で色々な体験をし、色々なことを学んでいたのです。他の人と幸せな関係を築く能力、他の人に自分の考えを伝え、他の人の考えを聞き、理解し、共感する能力、目的を共有し助け合う能力、自分の頭で考え、工夫し試行錯誤して、頭の中のイメージを具体的な形に作り上げていく能力、昔の子ども達は毎日の生活や遊びの中でそういう能力を育てていたのです。でも、テレビやゲーム機や、便利なオモチャや、楽しく遊ばせてくれる場が色々と登場することで、そういう能力を育てる必要が消えてしまいました。人間と関わらないのですから、人間として成長する必要もなくなりました。子どもが「退屈だ」と言うと、「自分の子育てがちゃんと出来ていないのではないか」と感じ、退屈しないように先回りして、色々な刺激を与えるお母さんも増えてきました。で、どうなったか・・・・。渡りをする蝶、「アサギマダラ」もいました。
2023.10.14
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人間は感覚の働きを通して、世界と、自然と、社会と、自分自身とつながり、幼い頃からのそのつながりの中で「心」や「からだ」が形成されるので、その人の感覚の状態が、そのまま「その人の心とからだの状態」に直結してきます。ですから、「その人はどういう感覚を持っている人なのか」ということが分かれば、「その人はどういう人なのか」ということまで大まかに分かります。また、「子どもの感覚育て」がそのまま「子どもの心とからだ育て」にもつながります。現代人は子どもの「頭」ばかりを育てようとしますが、「頭の働き」もまた「感覚の働き」の支配下にあるので、「頭育て」ばかりをさせられ「感覚育て」が出来なかった子は、自分の感覚で感じ、自分の頭で考え、自分の意志で判断し行動することが困難になります。ただ、赤ちゃんはみんな同じ感覚の状態で生まれてくるわけではありません。「感覚の初期値」にはかなり大きな個人差があるのです。最初から匂いに敏感な子、音に敏感な子、色に敏感な子、触覚に敏感な子、味に敏感な子、そしてその逆に、それらに鈍感な子もいます。この違いが気質の違いとなって現れて来ます。実は、「気質の違い」は「性格の違い」ではなく「感覚の違い」なんです。それと、「五感」と呼ばれる感覚は「自分と他者との関係性の中で必要となる感覚」ですが、「バランス感覚」のように、「自分自身を維持するために必要な感覚」もあります。からだを動かしたときに、自分のからだの動きを感じる感覚もあります。それらの感覚があるから、目を閉じた状態でも歩けるわけです。また、「お腹の調子」や「からだの調子」や「意識や心の状態」を感じる感覚もあります。みなさんにも「今日はなんか頭がすっきりしない」ということがあると思いますが、そういうことを感じるための感覚もあるということです。最近は自己肯定感が低い人が多いですが、その自意識を支えている感覚もあります。「自分」を感じることが出来るから、人は「自己肯定感が低い自分」を感じることが出来るわけです。「自分」を感じる感覚がなければ、自意識も生まれないし、自己肯定感が低いことに悩むこともないのです。これらの「からだの働きとつながった感覚」は、様々な「からだの体験」を通して育って行くので、子ども時代にどのような体験をしたのかによって、育ち方に大きな違いが出てきます。「バランス感覚」自体は誰にでもありますが、室内でばかり遊んでいた子と、屋外で野山を走り回り、木登りをしたりして遊んだ子とではその育ちに大きな違いが生まれるのです。「からだの動きを感じる能力」も、子どもの時の体験の質によってその育ちに大きな違いが生まれます。「自意識の育ち」もまた、「からだの活動」とつながっています。「からだの活動」を通して他者と出会うことで、人は「自分」という存在とも出会えるからです。木登りをすることで「木とは違う自分」に気づきます。犬と遊ぶことで「犬とは違う自分」に気づきます。他の子と遊ぶことで、「他の子とは違う自分」に気づきます。何かを作ったりする活動でもその素材との対話や、自分が作った作品を通して「自分」と出会えます。つまり、子どもが「自分」に気づき、「自分」を育てるためには、感覚の働きを通した「他者との出会い」が必要だと言うことです。ただし、「支配できない相手」との出会いでないと意味がありません。「支配できる相手」は自分を映す鏡になってくれないのです。ですから、室内で、自由に支配できるオモチャやゲームなどで一人っきりで遊んでいるだけでは、自分でも「自分」が分からなくなってしまうのです。そしてそれは、大きな不安につながります。これらの「からだの働きとつながった感覚」の他にも、さらに他の感覚もあります。それは、「心の働きとつながった感覚」です。「五感の働き」や「からだの働きとつながった感覚」は、人によって程度の差は大きいですが、その違いは「程度の違い」に過ぎません。ですから、古代の人も現代の人も、日本で育った人も、アメリカやアフリカで育った人も、「五感の働き」や「からだの働きとつながった感覚」の質にはそれほど大きな違いはありません。だからオリンピックでも、世界中の人が共通のルールで戦えるわけです。でも、「心の働きとつながった感覚」は、全く人それぞれです。その感覚に優れている人もいれば、その感覚が全くない人もいます。その違いは「文化の違い」として現れます。日本語には、「オノマトペ」と呼ばれる「視覚的な感覚を音化した言葉」がありますが、これは欧米の人にはない感性のようです。「美醜を感じる感覚」も全て「心の働きとつながった感覚」です。ですから、分かる人もいれば、どんなに説明しても分からない人もいます。このような「心の働きとつながった感覚」は先天的なものではないので、後天的に学ぶことが出来なかった人には理解出来ません。日本人にはワビ・サビを感じる感性や、視覚的な現象に音を感じる感性があります(大分弱くなりましたけど)が、これらの感覚は日本語を学ぶことで育ちます。日本語が日本人の心を作り、日本人の感性を目覚めさせているのです。ちなみにシュタイナー教育では人には12種類の感覚があると言っています。それは、視覚、聴覚、味覚、嗅覚、触覚、熱感覚、運動感覚、平衡感覚、生命感覚、言語感覚、思考感覚、自我感覚などです。詳しいことはご自分でお調べ下さい。
2023.10.13
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昨日、「心の問題」の背景には「からだの問題」があり、「からだの問題」の背景には「感覚の問題」があるのです。でも、現代社会では「感覚の働き」は必要とされていません。また、それを育てる場もありません。と書きましたが、でも、このことがなかなか理解されません。シュタイナー教育にはこのような視点からの教育法があるのですが、他には見当たりません。モンテッソーリ教育も「感覚の育ち」は大切にしているようですが、シュタイナー教育とは視点が異なります。「モンテッソーリ教育」で大切にしている感覚は「客観的に観察し、判断するための感覚」です。この感覚能力が育つと「客観的に見、感じ、考える能力」が育ちます。これはこれで大切な能力なんですが、今の時代、決定的に足らないのが「その対象とつながり、味わうための感覚」なんです。それは、「青い色」を「これは青だ」と判断する能力ではなく、「青とつながり、青を味わう能力」です。「あ」という声を聞いて「これは〝あ〟です」と判断する能力ではなく、「あ」とつながり、「あ」を味わう能力です。どうですか、意味不明でしょ。そして実は、この感覚能力は、先日来書いていた「武道」でも必要になるのです。武道においても「客観的に観察し、判断するための感覚」は必要です。でも、それだけでは深い世界に入っていけないのです。スポーツにおいては相手は敵であり、他者です。だから「客観的に観察し、判断するための感覚」が必要になります。でも、力を使わず、相手と対立せず戦う武道ではこの感覚はかえって邪魔になるのです。力も使わず、相手と対立することもなく相手を倒すためには、相手と一体化する感覚が必要になるからです。一体化した状態で相手の力を使い、それに合わせることで相手の動きを誘導するのです。だから相手は戦っている気がしないのに倒されてしまうのです。ブルースリーは「Don't think! Feel.(考えるな!感じろ)」と言いましたが、それがこれです。太極拳には、その感覚を養うための「推手」(すいしゅ)という練習法もあります。こちらを見ると、それがどんなものか分かります。それほど多くはありませんが、私もやりました。ですから、ブルースリーが言うところの「Feel」は私たちが一般的に使っている「感じる」ではないのです。私たちが一般的に使っている「感じる」は「客観的に観察し、判断するための感覚」の方だからです。そしてそれは「考える」という頭の働きとつながっています。ブルースリーは「Don't think」という言葉でそれを否定したのです。川や海などで泳ぐときには、いちいち頭で考えずに川の流れや波と一体になって泳ぐ必要がありますよね。自分の想い通りに泳ごうとするのではなく水の流れや波と一体になって、それに逆らうのではなく、むしろそれを利用して泳ぐのです。それが出来ないと溺れてしまいます。それが、ブルースリーが言う所の「Feel」なんです。これは、人々がまだ自然とともに生きていた時代には当たり前の感覚だったでしょう。でも、便利な機械があればこの感覚は必要がありません。川の流れや波を感じ、それを利用する能力がなくても、船があれば好きなところに行くことが出来るのですから。その場合、必要になるのは「流れや波を感じる能力を育てる」ことではなく、「船の操縦法を学ぶこと」です。問題は、現代人が私たちの一番身近にあって、絶対に離れることが出来ない「からだという自然」まで、この感覚で支配しようとし始めたことです。その結果、人々は「からだの声」を聴こうとはしなくなりました。具合が悪いときには薬を使って黙らせようとします。でもそれを繰り返していると、心の方に問題が表れてくるのです。心とからだは一体ですから。
2023.10.11
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今、「自分に自信がないお母さん」や「不安が強いお母さん」が非常に多いです。あきれるくらい多いです。そういうお母さんは、分からないことがあっても自分の頭で考えようとしません。考えるのではなく正解を探そうとするのです。そして、正解が見つからないと悩みます。でも、子育てや人生の正解なんてどこにも存在していません。だから、自分の頭で考えて色々と工夫し、やってみればいいのですが、自分に自信がないお母さんにはそれが出来ないのです。そして、毎日同じことを繰り返します。でも、当然のことながら、同じことを繰り返しても同じ結果にしかなりません。そのため、「抜け出すことが出来ない檻」の中に閉じ込められているような苦しさを感じます。そういうお母さんに育てられている子だって苦しいでしょう。自分の人生に希望を持つこともできなくなるでしょう。そういう状態のお母さんにはいくつかの共通した特徴があります。まず、興味の範囲が非常に狭いということです。毎日の家事や、目先のことや、子育てや自分のことしか考えていません。そして、自分の時間を楽しむための趣味を持っていません。そういう人は「趣味を楽しむ時間なんかない」と言います。でも、「自分の時間」は「与えてもらうもの」ではなく、色々と考え、工夫し、「自分で作り出すもの」です。実際、そういう言い訳をする人に限って、「自分の時間を」作ろうとしていないように見えます。「自分の時間」を作っても「やりたいこと」がないからです。むしろ、「自分の時間」があったとしても、そこに、それほど必要がない家事や子育てを詰め込んで忙しくしてしまう人がいっぱいいます。忙しくしていると安心するのでしょうか。「自分の時間」は「自分と向き合う時間」でもあります。「自分の時間」を作ろうとしない人は、それを避けようとしているのかも知れません。現代人は子どもも大人も「暇」を嫌いますが、それもまた「自分と向き合うこと」から逃げようとする表れなのでしょう。それに対して、色々なことに興味を感じて色々と考えたり勉強しているような人や、色々な趣味を持って楽しんでいるような人は「悩みのループ」にはまりにくいのです。それほど自己肯定感も低くありません。意識が「外の世界」とつながっているからです。他にも、私が「自分に自信がないお母さん」「不安が強いお母さん」の特徴として感じるのは、「からだ」が育っていない人が多いということです。「肉体」は育っていても、「自分の命の働きを支えているからだ」が育っていないのです。だから生命力が弱いのです。そして人は、生命力が弱くなると自分を守ることばかりを考えるようになるのです。一般的に、年を取ると生命力が衰えてきます。すると自分を守ることばかり考えるようになります。今の人たちは実年齢は若いのに、からだの状態に関しては老人達と似ているのです。そしてそれは「感覚の働き」が萎えていることの表れでもあります。「生き生きとしたからだ」は「生き生きとした感覚の働き」によって支えられているからです。「生き生きとした心」もまた、「生き生きとした感覚の働き」によって支えられています。「心の問題」の背景には「からだの問題」があり、「からだの問題」の背景には「感覚の問題」があるのです。でも、現代社会では「感覚の働き」は必要とされていません。また、それを育てる場もありません。私はそれが「自分に自信がないお母さん」や「不安が強いお母さん」、そして「心を病む人」が増えてきた原因なのではないかと考えています。
2023.10.10
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日本の武道について説明するのは難しいです。武道で大切にされているのは「からだの使い方」以上に「感覚や意識や心の使い方」だからです。「からだの使い方」は目で見ることが出来ます。目で見ることが出来るので説明することもできます。youtubeでも見て確認することが出来ます。でも、「感覚や意識や心の使い方」は、目で見ることが出来ません。その違いは触れればわかりますが、触れてみて「違う」ということは分かってもどうしてそういう違いが生まれているのかは分かりません。見かけは同じなのに、「感覚や意識や心の使い方」が違うと、触れたときの感覚が全く違うのです。たとえば、ただ腕をつかんだ場合と、相手のからだ全体を意識して腕をつかんだ場合とでは、見かけは同じでも、「つかまれた感触」が全く違うのです。ちなみに武道では「触れる」という感覚を大切にしています。これは太極拳でもシステマでも同じです。これは、力と力がぶつかり合って戦うスポーツにはない感覚です。柔道もスポーツ化される過程でこの感覚を失ってしまったようです。「武道」は「肉体と肉体の戦い」ではなく「心と心の戦い」なんです。だから、からだの大きさにも、年齢にも関係しないのです。江戸時代の話ですが、少しぐらい道場剣法で強い人でも、竹刀ではなく真剣で戦ったら町中のケンカ慣れしているやくざに簡単に切られてしまったそうです。命知らずのやくざに、心で負けてしまったからなのでしょう。スポーツは決められたルールの中で、勝ち負けを競うだけです。負けても死にはしません。でも武道は、ルールのない戦いの中で、命のやり取りをしながら生き延びるために生まれてきた技術です。今では命のやり取りはしませんが、それでもそれが武道の原点にはあるのです。まただから試合はしないのです。試合をするためにはルールが必要です。ルールなしで武道の試合をしたらけが人が続出するでしょう。私が学んでいる古武術の先生も「ここでこう力を入れたら腕が折れるから」と言って指導しています。でも、ルールを決めたらもうそれはスポーツであって武道ではなくなってしまうのです。根本的なところで両者は全く違うのです。そんな武道は日常生活の中でも使えます。武道で一番大切なのは戦わなくてもいい場合は戦わないことです。小さなことでいちいち戦っていたら命がいくつあっても足りませんから。また、安易に敵を作らないのも大切なことです。相手が怒ってきたときにも「ニコッ」と返すのも武道の技です。これが出来ないと、押されたら無意識的に反応して押し返してしまいます。すると、そこを突かれて技をかけられてしまいます。武道は「心の使い方」とつながっているがゆえに「生き方」ともつながっているのです。今の時代、命のやり取りはしませんが、武道を学ぶことで敵を作らなくても自分らしく生きることが出来る手助けになると思います。また自分の心や、からだや、感覚との関わり方も分かります。「自分」を知る手助けにもなります。そして「自分」に振り回されなくなります。姿勢もよくなるでしょう。身近なところでは合気道なんかいいと思います。社会が近代化する過程で子どもの生活の中から失われてしまった心や、感覚や、からだの使い方を学ぶこともできると思います。
2023.10.09
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最初にお断りしておきますが、武道にも色々とあります。考え方も、修行方法も様々です。どの流派でも姿勢は大切にされていますが、どういう姿勢がいいのかは流派によって異なります。技が異なるからなのでしょう。ですから異論反論色々ある方もいらっしゃるかも知れませんが、ここで書いているのは私が学び、私が知っている範囲での武道やからだの使い方に関しての知識に過ぎません。また私は偉そうなことを書いていますが達人ではありません。まだまだ初心者です。その辺はご理解ください。****昔の日本人の「からだの使い方」は現代人の「からだの使い方」とは大きく異なっていたようです。欧米の人の「からだの使い方」とはもっと大きく異なっていました。わかりやすいところで言うと、日本と欧米とでは「ノコギリの使い方」が逆です。日本では引いて切りますが、欧米では押して切ります。引いて切るときには腕よりも腰を使います。押して切るときには腰よりも腕や体重を使います。それは日本人と欧米人の骨格や筋肉の違いとも関係しているのかも知れません。日本の刀と、欧米の剣やサーベルの使い方も違います。からだの使い方がそもそも違います。欧米では剣やサーベルを道具として使っていましたが、日本における刀は自分のからだの一部です。だから、「剣術を学ぶ」と言うことは「剣の使い方」を学ぶことではなく、「剣と一体になったからだの使い方」を学ぶことです。そしてそれがそのまま今の柔道の源流である柔術につながっています。もともと、「剣術におけるからだの使い方」と「柔術におけるからだの使い方」は同じだったのです。そのため、古武術では、体術だけでなく刀や杖を使った稽古もやります。合気道も同じでしょう。合気道の動画などを見ていると、手ではなく刀や杖(じょう)を使っても合気をかけることが出来るようです。日本人にとって刀や杖は道具ではなく手の延長なんです。西洋で生まれた「勝ち負けを競うスポーツ」を学ぶ時に必要になるのはパワーとスピードを身につけることです。それは剣やからだを道具として使ってきた人たちの発想です。でも、勝ち負けを競わず、力を使わないで戦う武道の学びにおいては、パワーやスピードはあまり意味がありません。それよりも、「感覚や心やからだの使い方」を学ぶ必要があるのです。そこで求められるのは、「現代人のからだの使い方」とは全く異なった「からだの使い方」です。皆さんは「ナンバ歩き」というものをご存じですか。現代人は手を振って歩きますが、昔の人は手を振って歩きませんでした。そもそも、手をぶらぶらさせていませんでした。さらに、「着物」という大股では歩くことが出来ない服を着ていました。この状態で歩くと自然と「ナンバ」になります。それは「からだをひねらない歩き方」です。よく「ナンバ歩き」というと「右手と右足、左手と左足を一緒に動かす歩き方」というような説明をする人がいますが、そんな変な歩き方はしません。そもそも手をブラブラ振らないのですから。皆さんが靴を履いて普通に歩くときには、後ろ足を蹴って歩きますよね。でも、「ナンバ」で歩くときには後ろ足を蹴らないのです。後足に力を入れて蹴って前に進むのではなく、前足の力を抜いて前に倒れるようにして前に進むのです。方向転換するときも、行きたい方向の足の力を抜けばそちらに進むことが出来ます。そうするとからだをねじることが困難な着物を着ていても、早く歩けるのです。両足で立って見て下さい。その状態から右側に歩いてみて下さい。左足で蹴っていますよね。でもその時、左足で蹴るのではなく右足を抜いてみて下さい。すると、からだが右に傾きますよね。それに合わせて足を出せばいいのです。この方が蹴るよりも力は少なくてすむし早いのです。欧米の人や現代人は力を入れて動いていますが、昔の日本人は逆に力を抜くことで動いていたのです。刀も、腕に力を入れて振るのではなく、腕の力を抜いて振ります。そうしないと日本の刀は切れないし曲がったり折れてしまったりするのです。あと、からだをつながりの中で使おうとします。簡単に言うとからだを固めないのです。何か重いものを持ち上げるとき、普通は、下半身を固めて、それを土台にして腕や上半身だけで持ち上げようとしますがそれをやると腰を痛めます。そうではなく、腕も、足も、腰も固めないのです。力も入れません。そして、からだに重さを預けてしまうのです。すると楽に上がります。右手で技をかけるときには左手も生きている必要があります。上半身を使うときには下半身も生きている必要があります。そうしないと力ずくになってしまうからです。あと重要なのは姿勢です。仲間と技を掛け合っていてどうしてもかからないのに、指導してくれている人に姿勢を直してもらうだけで、さっきまで力いっぱいやってもかからなかったのに、力を入れなくても簡単に技がかかるようになるのです。ものすごく不思議です。他にもまだまだ不思議なこと、面白いことが山のようにあるのですが、これくらいにしておきます。ちなみに、私は茅ヶ崎でからだの教室をやっています。ご興味のある方はこちらにご参加下さい。
2023.10.08
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スポーツと呼ばれるものには必ず「試合」があります。そして、勝ち負けを競うのがスポーツの目的でもあり、面白い所でもあり、スポーツがイベントとして成り立つ所以でもあります。でも、合気道や古武術と言われるものには試合がありません。私は、システマというロシアの格闘技も学んでいますが、システマにも試合はありません。太極拳にも試合はありません。(実力の確認や腕試しとしての試合はあるでしょうが、それをするかどうかは個人の趣味であって、スポーツのように必ず必要なものではありません。)なぜなら、合気道にも、古武術にも、太極拳にも、システマにも攻撃技がないからです。「攻撃を受けたときの受け」しかないのです。受け技しか持っていないものが立ち会っても戦いが起きるわけがないのです。スポーツではそれだけで負けになってしまうでしょう。練習の場では、一方が「仮想敵」になってそれを受けて練習するのですが、これは型の正確さの確認のために行うものであって、勝ち負けとは関係がありません。型が正しく出来ていないと受けられないのです。(型がないシステマでは、型の確認ではなくからだの使い方の確認をします)太極拳のあの型も「こう来たらこう受けてこう返す」という「型」なんです。そして、攻撃には力が必要ですが、受けて返すだけなら力は必要がないのです。相手の力を利用すればいいのですから。ただし、どんな攻撃でも自由に受け流すためには、心やからだの自由と、その自由を支えるためのしっかりとした土台(からだ)が必要になります。そして、その時に必要になるのが「正しい姿勢」なんです。そして、姿勢に厳しいのがこれらの「試合をしない武術(格闘技)」の特徴でもあります。ロシア生まれのシステマでもそれは同じです。それに対して、勝ち負けを競う柔道では姿勢は無視されています。ただし、柔道の開祖の加納治五郎の姿勢はいいですよ。(youtubeで古い動画を見ることが出来ます)そうでないと「柔よく剛を制す」といった柔道は出来ませんから。スポーツ化され、勝ち負けを競うようになる過程で姿勢は二の次になってしまったのでしょうね。でもだから、体重別を取り入れる必要が生まれたのでしょうね。ちなみに、私が小・中と通っていた柔道の道場の先生も姿勢には厳しかったです。ちゃんと背筋を立てて組み合っていないと注意されました。私が昔太極拳を学んでいた先生は実践派の人だったので、型を覚えるだけでなく実際に使ってみる練習もしていました。でも、必ず先生本人が相手をして、生徒同士は戦わせませんでした。その時、先生は「下手な者同士が戦うと、力ずくになってしまい変な癖がついてしまうから」と言っていました。力ずくの戦いでは技よりも体格や、筋力や、体力の方がものを言います。だったら長い時間をかけて技を学ぶよりも、筋トレをした方がすぐに強くなれるのです。でも、この強さはからだが衰えるとともに簡単に消えていきます。合気道の動画を見ると、お年寄りの先生がポンポン若者を投げています。あれを「やらせ」だと言う人もいますが(中にはそういうものもあるようですが)実際にそういうことが出来る人もいるのです。太極拳の世界にもそういう人はいます。あれは、相手の力をまともに受けず、戦っていないから出来ることなんです。確かに、試合をしない武道や格闘技では、その人が本当はどれくらい強いのか分かりません。でも確実に言えるのは、そういう武道は、年をとっても、やればやるほど「からだが持つ深い世界」を知り、楽しむことが出来るということです。また、心の成長にもつながります。中国の少林寺で生まれた小林拳は、敵と戦うためでなく、お坊さん達が自分たちの心とからだの修行のために考え出したものです。
2023.10.07
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「めげぞう」さんから以下のような質問を頂きましたのでお答えします。最近、武道の世界を親子でのぞいてみたいのですが、武道は勉強やスポーツとは全く違う世界なのでしょうか?もし可能でしたら教えていただけたら嬉しいです。武道は、頑張っている感じはしないイメージです。武道にも色々とあって一概に論じることは出来ないのですが、「めげぞう」さんが「頑張っている感じはしないイメージです」と書いていらっしゃるので、多分、合気道や古武術系の武道をご覧になったのでしょう。実は日本古来の武道は、一見、スポーツに似ていますがその内容は全く異なっています。まず、目的が全く違います。練習方法も、からだの使い方も全く違います。スポーツでは勝ち負けを競います。でも、武道では勝ち負けを競いません。「じゃあ、どんだけ強くなったか分からないじゃないですか」と言われたらその通りです。でも、上達すれば意識や、感覚や、心や、からだの状態が変わってきます。また、見える世界、感じる世界も変わってきます。それまで感じることが出来なかったものを感じることが出来るようになったり、見えなかったものが見えるようになるのです。これがなかなか面白いのです。また、スピードとパワーを重視するスポーツでは「フィジカルトレーニング」(肉体訓練)がメインですが、武道では感覚や、精神や、心の鍛錬の方が重要になります。武道には「肉体を鍛える」という発想がないのです。時代劇を見ていても、重い刀を振り回すのに筋トレなどをしてからだを鍛えているお侍さんは出てきませんよね。宮本武蔵なんか3年間も本ばかり読んで過ごしたのですから。ただし、だからといって「肉体がか弱くてもいい」という話ではありません。実際、かなり過酷な練習を求められます。でも、その目的が勝ち負けを競うスポーツとは異なっているということです。「相手をやっつけるための筋肉」は必要はなくても、「自由に自分の姿勢や動きや感覚や精神を制御するための筋肉」は必要になるからです。それは、からだを動かすための「外側の筋肉」ではなく、内蔵や骨格を支えている「内側の筋肉」です。また、スポーツでは勝ち負けを競います。でも、武道では勝ち負けを競いません。なぜなら武道は「相手に勝つためのもの」ではなく「自分を守るためのもの」だからです。ですから、戦わなくても逃げられるなら逃げた方がいいのです。そして、実戦の場では心もからだも自由に動かせる方が生き延びる可能性が高くなるのです。ただし、名を上げるために戦うときには勝つために戦います。でもそれは、武道本来の目的ではありません。太極拳も力を使わないで戦う武術ですが、昔の中国では、初心者は空気イスのようなトレーニング(站椿功)を3時間続けて出来るようにならないと教えてもらえなかったそうです。これもまた筋トレではありません。私も、昔太極拳を学んでいたときはこの空気イスをしょっちゅうやらされました。かなりきついです。だから頑張ります。すると先生が来て「頑張るな」と言うのです。で、「頑張るな」と言われたので立ち上がりました。すると「立つんじゃない」と叱られました。中腰のままで、しかも姿勢を崩さないで「頑張るな」と、無茶なことを要求されるのです。さらには、「からだを緩めろ」、「笑え」などとも言われました。足がきつくてきつくてしょうがない状態なのに。この時、「腰が抜ける」という状態を初めて体験しました。急に足に力が入らなくなってストーンと倒れてしまったのです。これは筋肉的にはかなりきつい練習ですがこれもまた筋トレではないのです。筋肉を付けるのが目的ではないからです。合気道でも「膝行」というものをやります。膝立ちのまま歩くのです。動画で見ると分かりやすいですが、これもやってみるとかなり筋肉がきつくなります。動画を参考にしてやってみて下さい。きっと明日は筋肉痛です。でもこれも筋トレではありません。最初に太極拳を学んでいた先生が柳生診陰流もやっていたので、その先生に連れられて柳生診陰流の練習を見たことがあります。その時は「振り棒」という、ほとんど家の柱レベルの太さの棒を振っていました。それを千回以上振ると言っていました。https://www.youtube.com/watch?v=0qFLjwLLf4U先生の腕もまた丸太のように太かったですが、これもまた筋トレではありません。長くなりそうなので明日に続けます。
2023.10.06
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多くのお母さんたちが「子どものために」と頑張っています。子どものために食事を作り、子どものために洗濯をし、子どものためにあれこれ考え、子どものために仕事をして、子どものために時間を作って公園に行ったりして、子どものために習い事に通わせ、他にもいろいろ「子どものために」とやっています。そして、それが「母親としての勤め」だと思い込んでいます。そして周囲も、子どものためにあれこれやってあげているお母さんを見て「良いお母さん」だと評価します。お母さん自身も、そのように子どものために色々とやってあげないと子どもはちゃんと育たないと思っています。だから必死になって「子どものために」と頑張っているのでしょう。自分の人生や、やりたいことや、自分らしい生き方まで放棄して・・・。というか、最初からそういうものを持っていない人ほどそういう子育てにはまっていきます。そして、追い詰められていきます。その結果、子どもに対して「あんたのせいで」という感情を持ってしまうお母さんもいます。自分でそういう状態を作り出しているのに、思い通りにならないとその責任を子どもに転化してしまうのです。でも、子どもの育ちに必要なのは「色々とやってあげること」ではないのです。お母さんが子どもの犠牲になることでもないのです。そもそも、子どもはそんなこと求めていません。多くのお母さんが、「子どもが求めていないもの」や、「子どもの育ちに必要がないもの」や、「子どもの育ちを阻害するようなもの」を子どもに与えるために一生懸命に頑張っているのです。その一方で「子どもが求めているもの」や「子どもの育ちに必要なもの」は与えていません。そういうものに気付いてもいません。それは、お母さん自身が自分の人生をちゃんと生きていないからなのではないでしょうか。お母さん自身が、「自分の人生を幸せに生きるためには何が必要なのか」が分かっていないから、「子どもの育ちに必要なもの」も分からないのです。あれこれやってあげてしまうのも、「子どものために」というより、あれこれやってあげていないと不安になってしまうからに過ぎません。子どもを「早くしなさい」とか、「勉強しなさい」などと追い立てるのも、追い立てていないと不安になってしまうからです。子どもに色々と習い事をさせるのも、みんなと同じようにしていないと不安になってしまうからです。でも実際には、子どもがお母さんに求めていることも、子どもの育ちに必要なことも、もっとシンプルなことなんです。幼い子どもはただ、お母さんの傍にいたいだけなんです。子どもがお母さんに求めているもの、そして、子どもの育ちに必要なものは、お母さんと感覚や、感情や、体験や、言葉や、物語を共有することだけです。「何かをやってあげること」ではなく、「子どもと色々なことを共有すること」が大切なんです。だから、色々なことを子どもと一緒に楽しめばいいのです。それだけで子どもはちゃんと育つのです。「美味しいご飯を作ってあげる」というのも母心かも知れませんが、子どもに手伝ってもらいながら一緒に楽しくご飯を作る方が子どもの育ちを支える力になるのです。また、子どもが食べている間に別のことをするのではなく、素朴な食事であっても「美味しいね」と顔を見合わせたり、色々と楽しいことをお話ししながら一緒に食べた方が美味しく感じるものです。また、作ってもらったものだけを食べている子よりも、お母さんと一緒に作っている子や、お母さんと一緒に食べることを楽しんでいる子の方が食べることを楽しむことが出来るようになるでしょう。また、好き嫌いも少なくなるでしょう。子育ての世界に「簡単便利」の思想を取り入れてはいけないのです。お母さんと一緒に歌を歌って育った子は歌が好きになるでしょう。お母さんと一緒に感じたり考えたりして育った子は、感じたり考えたりすることが好きになるでしょう。お母さんと一緒に仲間と遊んだ子は、仲間と遊ぶことが出来るようになるでしょう。でも、そのためにはまずお母さん自身が、自分の感覚や、感情や、やりたいことや、生き方をちゃんと取り戻すところから始める必要があるのです。自立していないお母さんに子どもの自立を支えることが出来るわけがないのです。
2023.10.05
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「私たちの行動」は「私たちの心」が決めています。これは子どもでも、大人でも同じです。大人になると頭で考えて行動することも多くなりますが、でも、頭が「自分の心」と矛盾する行動を求めてきたとき、「自分の心」を否定して頭の判断に従ってばかりいると、「心の働き」がどんどん萎えてきます。そして、否定的な感情に囚われやすくなります。からだも固まってきます。それでも、頭の指示に従ってからだを動かしていると非常に疲れます。だって、ブレーキをかけたままアクセルを吹かしているようなものだからです。度を超せば、心やからだが壊れます。でも、「心の声」に従って行動しているときにはからだは緩みます。からだが軽くなります。感覚も働き始め、色々なことに気付くことが出来ます。また、頭の働きも活性化します。子どもたちが夢中になって遊んでいるときはこのような状態です。でも、大人達は子どもたちがこのような状態で楽しく遊んでいると、「遊んでばかりいないで勉強しなさい」と叱ります。また、このように自由に遊べる場も、時間も与えません。勉強だって楽しくやれば効率よくなるのに、なぜか頑張らないとできないような退屈なものに変えて子どもたちに押しつけています。そのため非常に効率が悪くなってしまっています。だから、さらに自分の気持ちを否定して頑張らないと付いていくことが出来なくなってしまっているのです。日本の大人達は「頑張らない人間はダメ人間だ」という教えの、怪しい新興宗教にはまってしまっているのでしょうか。でも、自分の気持ちを否定して頑張って勉強しても、「自分の気持ちを否定して学んだこと」は身につきません。子どもの心とからだを育てる力にもなりません。せいぜい、成績という記録を伸ばすのに役に立つだけです。でも、記録を伸ばすことが出来れば、記録と引き替えに子どもたちが疲れ果てても親や先生は喜びます。子どもの方も、勉強が自分の成長にはつながっていなくても、成績がアップすれば親や先生が喜んでくれるので、それで自分を納得させようとします。そして「記録アップ=自分の成長」と思い込みます。本来の「成長する喜び」を知らないからです。問題は、学校を卒業した後です。スポーツ選手なら引退した後です。良い成績を得るためにだけに頑張って勉強してきた子にとっては「卒業」は「勉強からの引退」と同じです。大学に合格した途端に勉強を引退してしまう子もいっぱいいます。そして、勉強以外のことを知らない自分に気付き戸惑います。それでも「自分の思い通りに生きる生き方」も、「自分の成長につながるような学び方」も、「他の人とのつながり方」も知らないので新しい依存先を探します。そこでまた頑張ることを求められます。でも、やがてそこも定年という形の卒業を迎えます。そしてまたどうしていいのか途方に暮れます。趣味に生きることが出来る人は幸いですが、ただ頑張って生きてきただけの人には趣味などありません。ただ、死ぬまでお金を稼ぐために頑張るだけです。息を引き取るまで息を詰めて生きるのです。パラリンピックでは「障害があっても頑張れば報われる」というメッセージを流しています。「だからみんなも負けないでガンバレ!」ということなんでしょう。でもそれは幻想です。世の中には死ぬほど頑張っても報われない人もいっぱいいるのですから。実際、みんな頑張っています。頑張っていない人を探す方が難しいです。子育て中のお母さん達もみんな頑張っています。でも、その頑張りが報われないのでみんな苦しんでいるのです。それでも頑張らないと世間は冷たい目で見ます。へそ曲がりの私には、「頑張れば報われる」というメッセージは、人々を永遠に頑張り続けさせるためのトリックに過ぎないように思えるのです。そこで目的にしているのは「個人の幸せ」ではなく、社会の維持です。スポーツでは頑張った結果が記録に表れます。メダルをもらえる人もいます。でも、子育てや人生では、いくら頑張っても記録は出ません。メダルももらえません。むしろ頑張れば頑張るほど苦しくなります。世の中には「頑張ることでうまく行く世界」と「頑張らない方がうまく行かない世界」があるのです。「頑張らない方がうまく行く世界」を支えているのは「楽しむ力」です。勉強が楽しい子は「ガンバレ」と強制されなくても勉強するのです。「もう止めなさい」と叱られるまで勉強することだってあるのです。私は「頑張れば報われると嘯いている社会」や「頑張らないと生きていけない社会」よりも、どんなに障害があっても、頑張らなくても幸せに生きていけるような社会の方が好きです。それは競争社会ではなく共存社会です。「頑張る子育て」よりも「楽しむ子育て」の方が好きです。「頑張る生き方」よりも、「人生を楽しむ生き方」の方が好きです。子どもがお母さんに求めているもの、そして、子どもの育ちに必要なものは、お母さんと感覚や、感情や、体験や、言葉や、物語を共有することだけです。「頑張って何かをやってあげること」ではなく、「楽しみながら子どもと色々なことを共有すること」が大切なんです。だから、色々なことを子どもと一緒に楽しめばいいのです。それだけで子どもはちゃんと育つのです。
2023.10.04
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私たちの「からだ」は、生まれる前に「人類が体験してきたこと」と、「生まれてから体験したり学んだりしたこと」と、それまでに「食べてきたもの」で出来ています。「生まれてから体験したり学んだりしたこと」の中には「言葉」も含まれます。「からだ」は「言葉」によっても育っているからです。「違う言葉」を持っている人は「違うからだ」を持っているのです。また、この「食べてきたもの」にはお母さんや、ご先祖が食べてきたものも含まれます。日本人の腸は欧米の人よりも長いそうですが、これもまた「ご先祖が何を食べてきたのか」ということと関係しています。日本人は「海藻」をよく食べますが、この海藻を消化できる腸内細菌を持っているのは日本人だけだそうです。「日本人の腸だけに存在?:海藻を消化する細菌」(wired)皆さんもまた海藻を消化できるでしょうが、それはご先祖のおかげでもあります。私たちのからだの状態は、「ご先祖が何を食べ、どう生きてきたのか」ということと切り離せないのです。腸内細菌は人の健康状態だけでなく意識や心の状態にも強く影響を与えているそうですが、その腸内細菌も、産まれてくるときや毎日の生活の中でお母さんから受け継いでいるものが多いのです。自分が住んでいる環境や、どういう所でどういう遊びをしたのかということも腸内環境には影響しているのです。お母さんのからだの中の卵子は、お母さんが産まれたときにはもうすでに一生分出来上がっているそうです。ですから、お母さんの食生活や、生活状態や、心やからだの状態もお母さんのからだの中の卵子の育ちに影響を与えています。私は「気質」という考え方を色々学び皆さんにもお伝えしていますが、その「気質」も、その人が「どういう環境で、どういう生活をしてきたのか」ということや「何を食べてきたのか」ということと関係しています。その人の母語もまた気質の状態に影響を与えています。日本人の気質は日本語によって作られている部分が大きいのです。そしてその「気質」もまた「からだ」に属しています。「気質」は「心」ではなく、その「心」を作り出している「からだ」に属しているのです。だから「しつけ」では変えようがないのです。叱ったり、説得したりしても変わらないのです。でも、食生活や日常生活を変えることで子どもの気質の状態も変わります。多動性のある子は「甘いもの」を減らし、刺激が少ない環境で育てた方がいいでしょう。それと下半身が育つような生活や遊びが有効だと思います。ゲームのような目や頭だけに働きかけるような遊びは、多動性を強化します。それは「学び」全般に悪い影響を与えます。ちなみに、子どもは普通の状態でもうすでに多動性が強いです。だからゲームはほどほどにした方がいいです。でも、その多動性を失った老人はゲームをすることで元気が出たりします。乱暴な子は「肉」を減らし、野菜を多く食べるようにした方がいいでしょう。それと手や指先を使うような活動も必要です。乱暴な子は「太い筋肉」を使うのは得意なんですが、「細い筋肉や神経」を使うのが苦手だからです。怖がりの子は本をいっぱい読むといいです。「言葉の学び」が安心を育ててくれるからです。また、上半身の筋肉がつくような活動も有効です。食べ物としては体を温めてくれるようなものを意識して食べた方がいいと思います。いつもボーっとしているような子は、トラブルは起こしませんが、放って置かれがちなのでもっと積極的に関わってあげた方がいいです。また、手仕事に向いています。お肉も食べた方がいいと思います。今日、「食べ物とからだ」について書こうと思ったのは、昨日、以下の記事を読んだからです。「カップ麺の牛乳戻し」子どもの食生活が危機的だぜひ、お読みになって下さい。子どもの食生活が危機的な状況になっています。それは子どものからだが危機的な状況になっていることと同じです。子どものからだが危機的な状況になっているということは、子どもの意識や、心や、感覚の状態も危機的な状況になってしまっているということです。
2023.10.03
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現代人は「からだ」を道具のように使っています。体調が悪くても薬か何かを使って「からだからの声」を押さえつけてしまいます。テレビを見ていると、「○○を飲んで元気になろう」などというようなCMが溢れています。人間以外の動物たちはみんな、元気がないときには活動を休止します。元気が出ないときにまで無理をしてからだを動かそうとするのは人間だけです。人間は「からだからの声」を「頭の働きを阻害する邪魔者」として否定しようとします。そして、「頭からの指示」に従わせようとしています。そして、同じようなことを自然や子ども達に対しても行っています。「自然からの声」にも、「子どもからの声」にも耳を傾けません。自然災害は「自然からの声」です。子どもの問題行動も「子どもからの声」です。言葉化されてはいませんが、ちゃんとしたメッセージを含んだ声なんです。その「言葉化されていない声」からのメッセージを読み解くことで、自然や、子どもや、自分のからだとうまくやっていくことが出来るのです。「からだからの声」を無視し、無理に頑張ったり、薬などを使って無理矢理言うことを聞かせていると「からだ」が壊れる前に「心」が壊れます。本当は「心」が壊れる前に「からだ」が壊れているのですが、無理して頑張ったり、薬の力でそれを押さえつけているので外側にまでその状態が表れないのです。頑張りや薬でも抑えきれなくなったときには表に出てくるのですが、その時には重大な状態になっています。自分の「からだ」がいっぱいいっぱいになっていると、「頭の働き」や「心の働き」や「感覚の働き」に余裕がなくなります。部分ばかり見るようになり、全体が見えなくなります。そのため、物事をつながりや関係性の中で見ることが出来なくなります。肯定的なことは見えなくなり否定的なものばかりが見えるようになります。美味しい、気持ちがいい、楽しい、嬉しいというような肯定的な感覚や感情が働きにくくなります。その一方で、まずい、怖い、気持ちが悪い、つまらない、腹が立つというような否定的な感情はすぐに起きるようになります。人工的な強い刺激には反応できても、自然からの優しい刺激には反応できなくなります。子どもの笑顔や子どもの心が見えなくなります。空の青さや、お花や、自然の美しさを感じることができなくなります。全般に「美しさ」を感じなくなります。「判断する」ことは出来ても「味わう」ということが出来なくなります。そして、自然に対して「美しさ」を感じることが出来なくなると、道徳的な感性も消えます。自分を支えてくれている無数のつながりも見えなくなり、孤独になります。孤独になると自己肯定感も消えます。自己肯定感が低くなるのは成功体験が少ないからではありません。「自分を支えてくれているもの」を感じることが出来なくなるからです。そして、自分のことばかりを考えるようになり、人と人のつながりを大切にする「人間らしさ」を失います。そのからだの状態は「表情」や、「姿勢」や、「声」や、「目つき」や、「感覚の偏り」や、「筋肉の緊張状態」の中に表れています。ゲームは子どもに「不自然なからだの使い方や、頭の使い方や、心の使い方や、感覚の使い方」を求めています。そのため、日常的にゲームばかりやっている子のからだはいっぱいいっぱいです。そういう状態の子は、強い刺激がないとすぐに退屈します。自分の意志で能動的に動けません。聞くことや対話することが出来ません。作業することは出来ても創造的な活動をすることが出来ません。からだや、脳や、感覚の働きが育っている最中の子どもにゲームを与えると、自由に考え、自由に感じ、自由に行動する能力の育ちが阻害されてしまうからです。洗脳されやすくもなります。ゲームには、人のからだを固め、脳の働きをパターン化させ、感覚や心の働きを麻痺させる働きがあるのです。でも、幼児期に様々な体験を通してそういう能力がある程度育った子なら、ゲームで遊んで一時的にそういう状態になってもしばらくすると元に戻ります。だからそれほど心配する必要がありません。ゲーム自体に問題があるわけではないのです。問題があるのは「与える時期」と「与え方」の方なんです。
2023.10.02
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昨日も書いたように、人間の知的な能力は指や手を使うことで育ってきました。そしてそれは、現代社会に生まれた子ども達についても言えることです。子どもの成長は人類の進化とリンクしているからです。古代人と同じような状態で生まれてきた子ども達も、指や手を使う活動を通して意識や知性の働きを目覚めさせているのです。指や手は、頭の中のイメージを現実世界の中で実現するために使われます。先日、竹をナイフで削って「お箸を作る」という活動をしたのですが、頭の中に「お箸」のイメージがない子は、いくら上手に竹を削ることが出来ても「お箸」を作ることは出来ません。そして、「お箸」は知っているのに「お箸」をイメージすることが出来ない子が多いのです。毎日使っているものなのにイメージできない子がいっぱいいるのです。そういう子は「お箸の見本が見たい」といいます。古代の人が石を割ってナイフやヤジリを作るときも、頭の中に、しっかりとしたナイフやヤジリのイメージを持って作っていたでしょう。粘土で何かを作るときも同じです。頭の中のイメージを現実世界の中で実現してくれるのは「指や手の働き」です。絵を描くときも、文字を書くときも同じです。イメージが先にあって、それに従って指や手が働くのです。でも、幼い子ども達はまだ頭の中だけでイメージを作ることが出来ません。ですから、グチャグチャ描いて、グチャグチャいじくり回します。粘土を渡してもグチャグチャやるだけです。でも、そのグチャグチャの過程で、目と指や手の感覚や頭の中のイメージがつながり、頭の中だけでもイメージを作ることが出来るようになるのです。頭の中でイメージしたものを指や手を使って描いたり作ったりすることが出来るようになるためには、十分な「グチャグチャ体験」が必要なんです。そしてそれが思考力の育ちへとつながっていくのです。普段から手を使って活動することで「頭の中でイメージする能力」が育ち、それが「思考力」を目覚めさせるのです。でも、その子どもの「グチャグチャ」を受け入れることが出来ない人がいます。そういう人は、ちゃんと描いたり、ちゃんと作るのならいいのですが「グチャグチャ」は無駄な行為だと思い込んでいるのです。幼稚園などでも「グチャグチャ遊び」を十分にさせずに、いきなり、素敵な作品を描かせたり作らせたりするような所があります。そういう園では見本を真似させたり、マニュアル的な描き方を指導しているようです。結果として、お母さん達を喜ばせるような「素敵な絵」や「素敵な作品」が出来るのですが、でもそれは「子ども自身が育った結果」ではありません。頭の中でイメージできるようになったわけでもありません。そういう子はお手本やマニュアルがないと描いたり作ったりすることが出来ません。そして今、そういう状態の子がいっぱいいます。そのまま大人になると、子育てでも苦しむようになります。子育てには正解がないのですから、とにかくグチャグチャ、あれこれやってみるしかないのです。その過程で、「子ども」や「自分」の何かが見えてくるのです。すると、「どうしたらいいのか」というイメージが見えてくるのです。でも、それが出来ない人はいきなりお手本やマニュアルに頼ろうとするのです。でも、「皆さんのお子さんのことを書いた子育て書」なんて、この世に存在しないのです。それが書けるのは、お母さんだけなんですから。
2023.10.01
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「からだの使い方」は「意識の働き」とのつながりが強いです。特に、指先や腕の使い方は、「意識の働き」と密接につながっています。だから、古代の遺跡を発掘したようなときでも、そこで出土した遺跡を見るだけで、その当時の人達の知的レベル、文化レベルが分かるのです。遺跡として残っているのは全て指先や腕の働きによって創られたものです。手を使うのが苦手な現代の子ども達を古代の人たちと同じような状況で暮らさせても、何万年後まで残るような「知的な人類の痕跡」は残せないでしょうね。人類がその知的な能力を獲得したのは、二足歩行をするようになって両手が自由になり、色々なものを創ったり、道具を使ったりすることが出来るようになったからだという説があります。手の活動が人間の知能を発達させたのですが、それは「二本足で立って歩く」という能力によって支えられていたのです。でも、現代の子ども達は人類の進化を支えてくれた「歩く」という活動自体が苦手です。機能的には歩けるのですが、歩くことを嫌がります。そしてすぐに疲れます。姿勢も悪いし、心肺機能もからだ全体の筋肉も育っていないし、そもそもからだの使い方がヘタなので効率的な歩き方が出来ないのです。(そういう子は風船も膨らませることが出来ません。大人でも・・・)スポーツをやっている子は走ることは上手ですが、「走る」のと「歩く」のは別の活動です。歩いているときには感覚が開いていますが、走っているときには感覚が閉じていますから。歩きながら歌うことは出来ても、走りながら歌うことは出来ませんよね。そもそも、人間以外の動物が走るのは獲物を捕まえるときや、敵から逃げるときのような、特別な状況の時だけなんです。特別なことが何も起きていないのに走り回るような動物はいないのです。そして、もともとは人間も同じなんです。実際、昔の日本人は、飛脚のような一部の職業の人以外は走らなかったそうです。戦の場でも走ったでしょうが、日常生活では走らなかったのです。だから、走るのには適さないような「着物」を着て普通に過ごす事が出来たのです。でも、歩くのは得意でした。「伊勢参り」では江戸から伊勢までの1000km以上を25日程度で歩いたそうです。一日40km程度です。特にスポーツなどやっていない普通の人がこれだけ歩けたのです。私は、町中で人々が歩くのをよく観察しているのですが、「この人は歩くのが上手だな」と感じるような歩き方をしている人は少ないです。その一方で、「何かからだにトラブルがあるんじゃないか」というような不自然な歩き方をしている人は結構います。私が子どもの頃ですら、遊びながら平気で何キロも、何時間も歩き続けることが出来ました。歩くのが目的ではなく、遊ぶために歩いたのです。私は鎌倉の材木座(海の近く)育ちですが、山を越えながら平気で大船近くの山の中の池まで友達と一緒にカエル釣りに行ったのです。(二駅離れています)そんな「歩くこと」を支えている胴体や下半身の働きは、その人の「生命力」や「無意識の働き」とのつながりが強いです。「歩くのがおっくうだ」というような時は、生命力が低下しているか、ストレスや悩みなどを抱えているときです。「走る」のには筋力が必要ですが、「歩く」のに必要なのは筋力ではなく「心の元気」と「からだの使い方」なんです。そして、いっぱい歩いてると自然とからだ全体が統合され、心とからだのバランスが取れ、基礎生命力が育つのです。「疲れにくいからだ」も育ちます。でも、幼いうちから、日常的に歩くことを楽しむような生活をしていないと、だんだん歩くことが億劫になってしまいます。そして、すぐ疲れるようになってしまいます。そういう状態になってから、歩かせようとしても嫌がります。でも、7才までの子ども達なら、遊びながら歩いたり、歩くことを楽しむような生活をしていると、自然と歩くことが好きになります。からだの使い方も上手になるでしょうし、心の元気も育ちます。
2023.09.30
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私は家では造形教室をやっているのですが、当然のことながら造形の場ではトンカチ、ノコギリ、ナイフなどの様々な「道具」を使います。でも、普段からそういう道具を使って活動しているような幼稚園を出た子でなければ、ほとんどの子がそのような道具を使うことが出来ません。使ったことがないのですから、それはそれで当然なんですが、問題はその取り組み方です。日常的にからだを使っていっぱい遊んでいるような子は、知らなくても色々と工夫してすぐに使えるようになります。からだの使い方を道具や状況に合わせることが出来るからです。またそれを楽しむ事も出来ます。でも、からだで遊ぶ機会が少なかった子は、知識や思い込みだけで動こうとします。でも、当然のことながらうまく行きません。それでやってみせるのですが、やって見せてもすぐにそれを真似できるのは普段から、からだでいっぱい遊んでいる子だけです。やって見せて分からないのですから、説明しても分かりません。そしてすぐに「疲れた、かったるい、腰が痛い、面倒くさい」などと言い始めます。そして、思考停止して途中で放り投げるか、「先生手伝って」と言っています。そういう子の場合は半分ぐらいまで手伝います。その時「手伝うから側で見てて」というのですが、最初から興味がないのですぐにどこかに行ってしまいます。でも、からだが使える子は「ぼくが代わりにやってあげる」などと言って手伝ったりしています。これは、コマや竹馬のような「道具を使った遊び」でも同じです。子どもが一人前の大人になるためには色々なことを学ばなければならないのですが、その学び方には三通りあるのです。まずは、「やって学ぶ」という学び方です。そして、「やって学ぶ」という学びをいっぱいした子は、その経験を元に「見て学ぶ」ということが出来るようになります。からだを使っていっぱい遊んでいる子は、その「見て学ぶ能力」が高いのです。「やって学ぶ」という体験を積んでいない子に見せても真似できないのです。また、見て学ぶことも出来ません。例えば、実際に先生について太極拳などを学んだ人は、その自分の体験のレベルに合わせてyoutubeを見るだけでも学ぶことができます。でも、実際に学んだことがない人がいくらいっぱいyoutubeを見ても、見るだけでは学ぶことができないのです。造形の場では輪ゴムをつなげるような場面がしょっちゅうあるのですが、最初は知らない子でもからだ遊びをいっぱいやってきたような子は、一回やってみせるだけですぐに出来るようになります。でも、からだで遊んでこなかった子は、目の前で何回やってあげても出来るようになりません。「見て学ぶ能力」が育っていないからです。この能力が育っていない子は、何でもかんでも教えてもらおうとします。でも、教えてもなかなか出来ません。このまま大きくなって会社に入ったら面倒くさい新入社員になるでしょうね。最後の一つは「聞いて学ぶ」というものです。でも、この能力もまた「やって学ぶ」「見て学ぶ」という能力に支えられています。その能力があるから聞くだけでも学ぶことが出来るのです。ただし、「やって学ぶ」ことや「見て学ぶ」事が出来ても、その過程で「言葉」を学ぶことが出来なかった子は「聞いて学ぶ」ことが出来るようにはなりません。この「聞いて学ぶ能力」が育っている子は、ドンドン自分の世界を広げていくことが出来ます。
2023.09.29
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人間のさまざまな能力や、人間を「人間」として特徴づけている精神性や、幸せな社会を作るために必要な「人間らしさ」といったようなことは、遺伝子に書き込まれているわけではなく、育ちの過程で、そういうものを身に着けている人とつながり、関わることでしか受け継ぐことができません。遺伝子に書き込まれているのは、「そういうものを受け継ぐことが出来る能力」だけであって、その中身は生まれた後から身に着けるしかないのです。これは客観的な事実です。そのため、それらを学ぶべき時期の子どもたちを「人と人のつながり」から切り離した状態で育てていると、現代に生まれた子どもであっても、本能に支配された「人間以前の状態」のまま育ってしまうのです。その人間以前の状態でも機械の操作は出来ます。チンパンジーやゴリラだって、子どもと同じレベルでスマホを使いこなすことが出来るのですから。それはつまり、スマホを作るためには高度な知能が必要ですが、スマホを使うだけならチンパンジーやゴリラレベルの知能で十分だということです。(そこで社会の二極化、人間の二極化が起きてしまっています。)タイムマシンで過去からまだ高度な言葉や知能を持たない原始人を連れてきても、便利な機械があれば現代人と同じような生活が出来るのです。そして困ったことに、そのような状態の子どもたちが増えてきているのです。大人たちが子どもたちから「大人とのつながり」、「仲間とのつながり」、「自然とのつながり」、「様々な体験とのつながり」を奪ってしまったからです。でも、ちゃんと生活できているのでそのことに気付かないのです。そのような子どもたちの特徴は、消費するだけの活動はできても、何かを創造するような活動が出来ないということです。また、創造することが出来るような子は本を読むことが出来ますが、消費活動しかできない子は本を読むことが出来ません。言葉が育っていないからです。あとまた、現代社会では別の問題も発生しています。「言葉の育ち」だけでなく「からだの育ち」も非常におかしな状態になってしまっているのです。昨日、お墓参りに行ったのですが、途中、ベビーカーに乗せられている2才ぐらいの女の子を見ました。子どもはその中で弛緩した状態で不自然な形にからだをくねらせて横たわっていました。無気力な表情をしていました。最近、十分に自分で歩けるはずの年齢の子でも、ベビーカーに乗せられ荷物のように運ばれている子どもをよく見かけます。その方が安全だし、お母さんも自分のペースで歩けるから楽なのでしょう。そんなベビーカーの中を見ると、子どもはリクライニングシートにでも寄りかかっているようにからだを弛緩させてグニャとした状態で座っています。頭を起こして周囲を見たりもしていません。お母さんと会話もしていません。同じような状態で犬を運んでいる人もよく見かけますが、人間の子どもは特別な時以外はちゃんと自分の足で歩かせるべきなんです。そうしないとからだの働きが統合されないからです。筋力も、持久力も、意思の働きも、能動性も育ちません。言葉の学びが遅れれば、知能や心や精神の発達も遅れます。でも、言い換えれば遅れるだけです。まだ幼いうちなら、ヘレンケラーのように「つながり」の中で言葉を得ることで、知能や、心や、精神の発達を取り戻すこともできます。でも、「からだの育ち」が歪むとそれすらも困難になってしまうのです。からだの働きに支えられている「感覚の働き」や「認知機能」そのものが狂ってしまうからです。すると精神状態が不安定になったり、「現実」と「空想」の区別がつきにくくなります。いわゆる「心の病」にかかりやすくなります。生命力も低下するので病気にもかかりやすくなります。一度こういう状態になってしまうと、バランスの取れた自然な状態に戻すのは非常に困難になってしまうのです。「遅れ」と「歪み」は違うのです。ちなみに、「発達障害」と呼ばれているような子は、からだの使い方も下手です。指先を使ったり、からだ全体を統合して使うような活動が苦手です。ゆっくりと動いたり待つことも苦手です。意思の力も弱いので、我慢することが出来ません。姿勢も歪んでいます。そして疲れやすいです。部分にはこだわりますが、全体に意識を向けることが苦手です。このような状態は「知能や心の問題」ではなく「からだの問題」なんです。だからいくら言葉で説得しても無駄なんです。言葉の育ちが後れている子は昔からいましたが、からだの育ちがこんなように歪んでしまっている子が増えたのは、社会が近代化されたつい最近のことなんです。これは新しい社会現象なんです。私が子どもと関わる仕事を始めた30年くらい前には、もうすでのこのような「子どものからだの異常」を指摘する本が何冊も出ていました。その時の子ども達が今、親になっています。
2023.09.28
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「言葉」は、リアルな世界で、リアルな体験を通して、リアルな人と関わることでしか学ぶことが出来ません。そして、「関わりの在り方」が、子どもが学ぶ言葉の質や内容を決めてしまいます。一方的に指示や命令で子どもを動かすばかりで、子どもの言葉に耳を傾けないような子育てをしていると、指示や命令に関するような言葉は覚えますが、それ以外の言葉は学べなくなります。その場合、単純な行動を求めるような簡単な指示や命令なら従えますが、自分の頭で考え、自分の感覚で感じ、自分の意志で判断する必要があるような指示や命令には従うことが出来ません。自分の頭で考え、自分の感覚で感じ、自分の意志で判断するための言葉を学んでいないからです。それは例えば「ちゃんと片付けなさい」というような命令です。「ちゃんと」には正解がありません。10人いれば10通りの「ちゃんと」があります。だから、自分の頭で考え、自分の感覚で感じ、自分の意志で判断する必要があるのですが、日常的に単純な行動を求めるような単純な指示や命令ばかりを受けて育っている子にはそれが出来ないのです。そのため、お母さんの顔色を見て、どうしたらいいのかを判断するようになります。自分の頭で考えた「ちゃんと」ではなく、お母さんの顔色を見ながら「お母さんに叱られない状態」にしようとするのです。それが、子どもにとっての「ちゃんと」になってしまうのです。お母さんはそんな我が子を見て「やればできるじゃない」と言いますが、そういう子はお母さんがいない場では出来ません。行動の羅針盤としての「お母さんの顔色」がないからです。でも、お母さんはそのことを知りません。逆に、家ではお母さんの言うことを聞かないのに外ではちゃんとできる子がいます。そういう子は、自分の頭で考え、自分の感覚で感じ、自分の意志で判断しようとしている子です。まただから、家では素直にお母さんの言うことに従わないのですが、子どもの成長としては問題がありません。でも、自分の言うことを聞いてくれない我が子に手を焼いて、相談にくる人が結構いるのです。多くのお母さんが、自分の頭で考え、自分の感覚で感じ、自分の意志で判断できる子よりも、単純に、自分の言うことに従ってくれる子どもの方がいいみたいです。でもそういう子は、成長とともに色々な問題が起きてくるのです。成長とともに、自分の頭で考え、自分の感覚で感じ、自分の意志で判断しなければならないような場面が増えてくるからです。また、そういう子は精神的に自立することもできないので、不安も強くなります。むしろ、自分がやりたいことがはっきりとしていて、お母さんの言うことに素直に従わないような子の方が、成長するにしたがって子育てが楽になっていくのです。ただし、子どもが自分の言うことを聞かなくても子どもを否定しないでいることと、大勢の仲間や大人との関わりの中で育っている必要はあります。それがないと、自立するのではなく、ただ「自分勝手な子」になるだけです。「自立している子」は他者とつながることが出来ますが、「自分勝手な子」は他者とつながることが出来ません。一見似ているのですが、その中身が違うのです。「自立している子」は「多様で豊かな言葉」を持っています。だから、自分の頭で考えることも、色々な人とつながることも、自分の意志で行動することもできます。それに対して、「自分勝手な子」は「単純で偏った言葉」しか持っていません。だから考え方や行動にも偏りが生まれてしまうのです。だから、他者とつながることができないのです。そして人は、自分と同じ言葉を持った人とつながろうとします。日本語しか知らない人は日本人とばかりつながろうとしますよね。でも、英語も話せる人なら外国の人ともつながることができますよね。それと同じです。その人が持っている言葉が、その人が生きる世界を決めてしまうのです。まただから、子どもは自分が持っている言葉に合わせて「類は友を呼ぶ」という状態になるのです。自分の頭で考えることが出来る子は、自分の頭で考えることができる子と友達になろうとします。それに対して、自分の頭で考えることが出来ない子は「言葉」ではなく「利害関係」でつながろうとします。でも、このつながりは脆いし危険です。これは大人でも同じですよね。こういう現象を引き起こしているのが「言葉」なんです。そして、子どもはお母さんから「人生最初の言葉」を学びます。それを「母語」(mother tongue)と言います。その、「お母さんから学んだ言葉」が、その後から子どもが学ぶ言葉の方向性を決めてしまうのです。お母さんが日本語を話していれば、子どもも日本語を学び始めるでしょう。お母さんが英語を話していれば、子どもも英語を学び始めるでしょう。内容についても同じです。だから、お母さんが子どもとどういう言葉で、どういう会話をしているのかということが、子どものその先の人生に大きな影響を与えているのです。でも最近、テレビやスマホやゲームの普及で、その会話自体がない家庭が増えています。そういう状態で育った子は、自分勝手にしか育ちようがありません。
2023.09.27
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いわゆる「五感」と呼ばれる感覚の育ちの後に続いて、「言葉」が育ち始めます。その「言葉の育ち」は「感覚の育ち」と連携しています。美味しいものを食べながら「美味しいね」と語りかけられることで、「感覚」と「言葉」がつながります。「感覚」と「言葉」がつながるためには「体験」と、「言葉」と、それを「共感してくれる人」が必要になるのです。人間以外の生き物たちも「感覚の働き」は持っていますが、そんな「言葉の働きとつながった感覚の働き」を持っているのは人間だけです。人間は、「真・善・美」につながる感覚も持っていますが、これらの感覚も「言葉の働きとつながった感覚」です。ですから、「感覚の働きとつながった言葉」がちゃんと育っていない子は、「真・善・美」に関することを理解することができません。そのため、他の人が困るようなことでも簡単にやるようになります。そんな時「他の人が困るでしょ」と言っても意味が通じません。罰を与えればやらなくなるかもしれませんが、自分がなぜ罰を与えられているのか分かっていないため、逆恨みをします。言葉が「言葉」として成り立つためには、「感覚の働き」とつながった形で「言葉」を学ぶ必要があるのです。だからこそ、言葉が育っている時期にはその感覚に共感してくれる大人がそばにいる必要があるのです。そして、「感覚の働きとつながった言葉」を学ぶことが出来ている子は、めったに「死ね」とか「殺すぞ」などという言葉は使わないものです。テレビや、ゲームや、youtubeからでも「言葉」を学ぶことはできますが、テレビや、ゲームや、youtubeから学ぶことが出来る言葉は「感覚の働き」とつながっていません。ただの記号です。だから「情報の伝達」には使えても、「感覚の共有」には使えないのです。まただから、テレビや、ゲームや、youtubeから言葉を学んだような子は、平気で「死ね」とか「殺すぞ」などと相手の心が傷つくようなことを言うことが出来るのです。そんな時、「意味が分かっていないからいいんじゃない」という人もいますが、大切なことは「意味」ではなく、その言葉が持つ「感覚的な働き」の方なんです。会話が出来るAIロボットに、「夕日がきれいだね」と言っても、その言葉に共感してくれるような答えは返ってこないでしょう。どんなに優秀なAIロボットでも、「夕日に関する説明」はできても、「夕日の美しさを感じる能力」は持っていないからです。そして、7才までの子どもたちは、その「感覚の働きとつながった人間としての基礎を支えてくれる言葉」を学んでいるのです。だから、7才までの子どもの近くには、子どもが感じたことや考えたことに共感し、それを言葉化してくれる大人がそばにいる必要があるのです。ちなみに、人類が言葉や様々な文化や精神性を育てることが出来るようになったきっかけとして「老人」の登場があったようです。昔も今も、若い大人は狩りをしたり、家事をしたりと忙しいものです。子どもの相手なんかしている暇などありません。そうですよね。そんな時、一線からは退いていても、知恵も技術も持っている老人が子どもの相手をするようになったのです。そして、この「老人の登場」が人類史では非常に大きな意味を持つのです。老人は自分では狩りをすることが出来ません。だから助けてくれる仲間がいないと厳しい自然界では生きて行くことが出来ません。でも、人類が群れを作り大勢で助け合いながら生活するようになることで、獲物を取ることが出来ない老人でも生きていくことが出来るようになったのです。老人には知識や知恵があります、それをみんなで共有したでしょう。また、一線から退いているので暇です。ですから、子どもの世話をしたり教育をしたでしょう。色々な話を語って聞かせたりもしたでしょう。そういう役割を担ってくれる「老人」という存在が人類の集団の中に生まれることで、文化の継続や蓄積が可能になったのです。ですから、「老人の登場」は人類史の中で非常に大きな意味を持っているのです。でも、昭和30年代に始まった高度経済成長時代に核家族化が進み、子どもの育ちの場に老人がいなくなりました。子どもの世話をして、子どもに色々なことを教え、お話を語ってくれていた老人が子どものそばから消えたのです。その核家族化は「専業主婦」の登場とセットになっていました。専業主婦という形で子どものそばに、子どもの育ちを支えるための人間を残そうとしたのでしょう。でも、現代社会ではそのような考え方はあまり肯定されていません。そして、女性も働きに出るようになりました。だったら老人をまた家庭の中に呼び戻す必要があったのですが、老人の代わりに保育園を利用するようになりました。でも、保育園の先生は子どもと一対一でのんびりと付き合ってはくれません。生活の共有もしていないので、生活を通して言葉や知恵を伝えることも出来ません。出来るのはお母さんがお迎えにくるまで安全に保護することだけです。子どもが保育園から家庭に帰ってきてもお母さんは忙しいです。そんな忙しいお母さんの救い主として、「お母さんの代わりに子どもの相手をしてくれる機械」が登場しました。でも、機械は共感してくれません。感覚につながる言葉を教えてもくれません。一緒に遊んでもくれません。お話を語ってもくれません。ただ、強い刺激を与えて、子どもが退屈しないようにしてくれるだけです。「老人の登場」と共に目覚めた人類の文化や精神性の継続が、それを伝えてくれる人が消えることで今途絶えようとしているのです。
2023.09.26
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子どもの成長を考えるときには、「生命の進化の歴史」「動物の進化の歴史」「人類の進化の歴史」「人間の進化の歴史」を学ぶところから始めた方がいいですよ。子どもの成長は「進化」の繰り返しでもあるのですから。進化の過程で起きたことを無視して、いきなり過去を忘れた現代社会の価値観に合わせて子どもの成長をコントロールしようとしても不可能なんです。私たちが「人間」になったのは、生命の歴史35億年のうち、ほんの数十万年前です。そして、私たちの命の働きの中にはその35億年、数十万年の記憶がちゃんと残っているのです。そして子どもたちは、その「命の記憶」を頼りに成長しようとしているのです。だから、精子と卵子という単細胞が合体しただけの細胞が、細胞分裂を繰り返しながら生命進化の歴史をたどって、人間にまでたどり着き、人間の子として産まれることが出来るのです。この進化の繰り返しは産まれた後も継続しています。赤ちゃんは、人間として完成した形で産まれてくるのではないのです。特に、人間の赤ちゃんは他の動物たち以上に進化の過程としては未熟な状態で産まれてくるのです。産まれたばかりの赤ちゃんでも、おっぱいを吸い、泣くという形で自分の心とからだの状態を伝えようとすることは出来ますが、それ以上のことは出来ません。人間は人間以前の状態で産まれてくるのです。だから、その進化を繰り返しやすいようにサポートしてあげる必要があるのです。それを無視すると、見かけは人間でも中身は人間以前の状態で成長が止まってしまうのです。産まれた後すぐに成長を始めるのが「感覚の育ち」です。その感覚のうち一番最初に目覚めるのは「耳の働き」なのではないかと思います。自分一人では何もできない状態だからこそ耳の働きが重要なんです。赤ちゃんはおなかの中にいるときから耳を働かせて、お母さんの声や周囲の音を聞いていますから。ちなみに、ご臨終ですと言われた後も耳は働いています。それは臨死体験をした人が証言しているとおりです。だから、赤ちゃんにはいっぱい話しかけてあげてほしいのです。優しい音、気持ちがいい音をいっぱい聞かせてあげてほしいのです。お母さんが安心に満たされていると、その安心は声を通して赤ちゃんに伝わります。すると赤ちゃんも安心します。赤ちゃんは、「お母さんの声」をとおして「お母さんの心」に触れ、「心」というものを体験しているのです。また、風の音、鳥の声など「自然の音」も子どもを安心させます。赤ちゃんが嫌いなのは緊張した声、不安な声、怒鳴り声などです。そういう声を通して赤ちゃんは自分が安心な状況の中にいないことを知るのです。そして不安を感じ、その不安を「泣く」という形で訴えようとします。それなのに「泣くんじゃない!」という怒鳴り声が返ってくることがあります。それが繰り返されると、進化の中の何かがストップしてしまいます。また、「機械が発する音」も嫌いです。「命の記憶の中にない音」だから不安を感じるのでしょう。でも、赤ちゃんはそういうものにもすぐ慣れてしまいます。そして、慣れてしまうということは昔の人とは感覚の特性が異なった状態で成長するようになるということでもあります。それが現代人特有の感覚の状態です。自然の音に取り囲まれて暮らしていた昔の日本人は、「風の音」や「虫の声」のような「自然の音」とも対話することが出来ましたが、現代人はそういうことが苦手です。耳の働きと並行して、皮膚感覚も成長を始めます。抱かれ方でお母さんの気持ちも分かります。お母さんに触れられたときにも、皮膚感覚でお母さんの気持ちが分かります。これはワークという形で体験することも出来ます。「大嫌い」という気持ちで相手に触れた時と、「大好き」という気持ちで相手に触れたときとでは触れられた人が感じる感覚が違うのです。そんな時、おっぱいを与えたり、おむつを替えるとき以外ベビーベッドの中で寝かされたままだと、皮膚感覚の育ちにも影響が出るでしょう。当然、その状態では話しかけることも少ないでしょうから、声や皮膚を通して「心の体験」をすることが出来ません。それは、子どもの「心の育ち」に影響が出るでしょう。ただし私は「子育てはこうあるべきだ」ということを言いたいわけではありません。客観的事実として「命とは、子どもとは、子どもの成長とはこういうものなんですよ」ということをお伝えしたいだけです。それを知った上でどう判断し、どういう子育てをするのかは皆さんご自身の生き方の問題です。この話は、まだまだ後があるので明日も続きます。
2023.09.25
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