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先日、「ネットを毎日使い続けた子どもの3年後の脳画像が衝撃…認知機能、記憶や学習に関わる海馬のほか、言葉や感情を処理する領域の発達が止まっていた」というニュース記事を読みました。東北大学の研究ですからいかがわしいものではありません。このような記事を読んで衝撃を受ける人もいるかも知れませんが、「だろうな」と納得できる人もいるでしょう。私も「だろうな」と思っただけです。だからいつも「子どもを外に連れ出して遊ぼう」と言っているのですから。現代人は「簡単・便利」が大好きです。ですから何でもかんでも簡単に済まそうとします。その欲求に後押しされて機械文明が発達してきました。その結果、歩かなくても移動できるようになりました。ご飯の炊き方を学ばなくても美味しいご飯が炊けるようになりました。ネットを使えば世界中のことでも簡単に調べることが出来るようになりました。もうしばらくしたら、AIが日常生活の中にまで入り込んで、考えたりすることもしなくて済むようになるでしょう。絵を描くのも、詩を作るのも、物語を作るのもAIがやってくれます。AIを3Dプリンターとつなげたら、工作や彫刻もやってくれるでしょう。人間はただ、「こんな絵を描いて」「こんなもの作って」と言葉で指示を出すだけでいいのです。子育ての相談にも乗ってくれるようになるでしょう。AIロボットがもっと進化すればお母さんの代わりに子育てまでやってくれるようになるかも知れません。そしてそれは、人間の能力を機械に移植してきた結果でもあります。そして、人間の能力を機械に移植することで、人間にはそのような能力が必要なくなりました。必要なのはその機械を買うお金だけになったのです。ちなみに、その「失った能力」とは、「自分の頭で考え、自分の感覚で感じ、自分の意志と責任で行動する能力」です。でも困ったことに、その能力は、子どもたちが大人になったときにお金を稼ぐために必要な能力でもあったのです。「簡単で便利な機械に依存した生活の中でその能力を育てそこなってしまった」ということはつまり、「お金がないと生活できない状態に育ってしまったのに、そのお金を稼ぐ能力がない」ということでもあります。そういう状態になってしまった子はまず親に依存しようとします。それが最近増えてきている「パラサイト・シングル」という状態です。ちゃんと仕事をしようとしても、「頭を使うような仕事」や「誰かに指示を出すような仕事」はそれなりの能力が必要になるので出来ません。かといって、機械に囲まれて育った子は、特別な技術や技能も持っていません。機械の操作は得意でも自分の趣味や興味の範囲内でしか使えません。コミュニケーション能力も育っていないので、他の人とチームを組んでやるような仕事も出来ません。だからといって、単価が安い仕事には就きたくありません。簡単・便利に慣れてしまった今どきの子は、簡単に手っ取り早くお金を稼ぎたいのです。そして、それが出来ると思い込んでいるのです。手間がかかる現実世界のことを知らないで育ったからです。造形の場でも、体験がない子に限って簡単に作れると思い込んでいます。そういう子どもたちにとって理想の仕事が「ユーチューバー」です。でも、質の高い動画を作るためには自分の頭で考え、自分の感覚で感じ、自分の意志で行動する必要があります。それがどんな仕事であろうと、ちゃんと仕事をして、ちゃんと稼ぐためにはやっぱり自分の頭で考え、自分の感覚で感じ、自分の意志で行動する能力が必要になるのです。これがこの世界の現実なのです。それが出来ない子は過激なことをやって視聴者を集めようとします。犯罪に近いようなことをやって視聴者を集めようとしている「ユーチューバー」もいます。簡単にお金を稼ぐために闇バイトのようなものに手を出す子もいます。善悪を判断したり、その行為によって誰かが困るという想像もできないのです。そしてそういう子が増えてきています。だからといって、「便利な機械や、ネットやゲームを排除しなさい」ということを言いたいわけではありません。また、そんなことはできません。そうではなく、「生活でも、遊びでも、そういうものに過度に依存しない方がいいですよ」ということと、しっかりと「与える年齢や与え方を考えた方がいいですよ」ということを言いたいのです。確実に言えることは便利な機械や、ネットやゲームとの出会いは、遅い方がいいということです。程度にもよりますが、少なくとも7才前には出来るだけ避けた方がいいです。可能なら9才までは避けた方がいいです。5才前なんて問題外です。3才前に与えるのはほぼ虐待です。あと、「多動性が強い子」や「寂しさを感じている子」はゲームにはまりやすく、抜け出しにくくなってしまう傾向があります。だから気を付けた方がいいです。問題は、多動性が強い子の子育てはなかなか大変なので、ついお母さんは自分の時間を作るために「ちょっとだけよ」と与えてしまうのです。すると、その「ちょっと」から子どもは抜け出せなくなります。この問題を解決するためにはお母さんの「仲間づくり」が必要になります。また、子どもを寂しくさせているようなお母さんは、最初から「子どもへの影響」など考えないでしょう。また、子ども任せにしないことも必要です。やむおえず子どもにゲームを与える場合は、お母さんもゲームに興味を持ってください。そうすれば、ゲームが親子共通の遊びになりますから子どもを孤独にしないで済みます。それと同時に、屋外で、自然の中で、からだをいっぱい使ったり、仲間と群れて遊ぶ時間をちゃんと作ってあげる必要もあります。リアルな世界の中で、五感を使い、頭を使い、手を使い、からだを使い、心を使い、言葉を使うような活動が、思春期前の子どもの育ちには絶対的に必要なんです。幼い時にそういう遊びをいっぱいして育った子の場合は、10才以降ゲームにはまってもそんなに心配する必要はありません。中学生になるころから距離の取り方が分かるようになるからです。ゲーム以外の場所にも自分の居場所を持っている子は、そんなに心配しなくても大丈夫なんです。それがない子が依存症になりやすいのです。
2023.09.24
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ゲームの世界や機械の世界には「許し」は存在しません。「ごめんね」、「ちょっと間違えちゃった」、「ちょっと待ってね」も通用しません。また、相手が機械に不慣れなお年寄りでも、操作がよくわかっていない子どもでも同じ対応しかしません。そして操作ミスで何かトラブルが起きると、自己責任として扱われ、機械もその機械を管理している会社も責任を取ってくれません。機械や、機械に管理されている社会では「人間的なぬくもり」や「優しさ」は価値がないのです。パスワードなどという意味不明な暗号を覚えていないと、大事なことが出来ません。お金も引き出せません。そして、忘れっぽくなったお年寄りが数回間違えただけで、もうその日はお金が引き出せなくなります。以前銀行で、隣でお金を引き出していたおばあちゃんがパスワードを声に出しながら打ち込んでいました。声に出すことで確認していたのでしょう。お年寄りとしては自然な行為ですが、でも、機械を相手にする場合にはそのような行為は完全にアウトです。こちらが微笑んでも、機械は微笑み返してくれません。話しかけても言葉を返してくれません。そもそも「顔」がないのですから。AIロボットはそういうことができますが。当然のことながら、AIロボットの応答はクールで機械的です。感情がないのですから。どんなに強硬なクレーマーでも、機械を相手に文句を言うことはできません。機械に向かって「謝れ」「土下座しろ」と言っても無意味です。もしかしたら「クレーマー」と呼ばれる人は「人間的な関わり合い」に飢えている人なのかも知れません。機械の操作は「みんな一緒」「みんな同じ」を前提に考えられています。痴呆症になったお年寄りでも、幼い子供でも、天皇陛下でも、同じ操作をしないと、同じようには動いてくれないのです。そして当然のことながら、日々機械と向き合って遊んでいる子はそういう「機械のやり方」に慣れてしまいます。そして、「話しかける」ことも、「微笑む」ことも、「待つ」ことも、「許す」ことも出来なくなります。そんなことする必要がないからです。相手の気持ちを考えることも出来なくなります。その結果、「一人の人間として他の人と関わりながら生きていくための方法」を学ぶことが出来なくなってしまいます。これは、相手がゲーム機や機械でなくても、オモチャでも基本的には同じです。「一人の人間として他の人と関わりながら生きていくための方法」は、他の人との人間的な関わり合いを通してしか学ぶことが出来ないのですから。いつもゲームで遊んでいる子は、認知能力が高いという研究もありますが、いくら認知応力が高くなっても、それと引き換えに「人間らしさ」を育てる機会を失ってしまったら、一人の人間として自立して生きていくことが困難になってしまうのです。そして、昔から、子どもたちが「人間らしさ」に触れ、それを学び、育てることが出来る場が「家庭の中」や「仲間と群れて遊ぶ場」だったのです。でも、最近の子どもたちは家庭の中でも家族との触れ合いが多くありません。お母さんも、積極的に子どもと関わろうとはしません。昔は「お手伝い」という形での関わり合いがいっぱいあったのですが、簡単で便利な機械の登場で「お手伝い」は必要なくなりました。それで退屈してまとわりついてくる子どもを遠ざけるために、ゲーム機やスマホやおもちゃやテレビといった「機械」や「物」を与えます。幼いうちから保育園や習い事に通わせる人も多いです。でも、そういう場には「対等な人間関係」がありません。先生と一対一の関係を育てることも出来ません。
2023.09.22
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あと、現代人のおかしなところは、その異常な「清潔志向」です。テレビでも「除菌除菌」と言い立てています。そして、除菌製品のCMがいっぱい流れています。コロナ騒動でそれが加速しましたが、それ以前からそういう流れは強くなって来ていました。それは、人間と自然のつながりを無視して、人間を「個として自立した生き物である」という錯覚から生まれています。でも、「個」として自立しているのはその意識だけであって、心もからだも、自分の周囲の人や環境と切り離せない状態で密接につながっているのです。私たちは、自分の周囲にいる生き物たちと菌を交換することで、自分の周囲にいる生き物たちと情報交換しているのです。そうやって、自分が生きている環境に適応しようとしているのです。病気と言われるものはその過程で発生します。ですから、生き物が病気になるのは自然なことなんです。そのため、ほとんどの高等な生き物は、自分の周囲とのつながりから切り離されたら、正常に命の働きを維持することが出来なくなってしまいます。過度の除菌がやっていることはそういうことなんです。そもそも、からだの中にも表面にも様々な菌がいて私たちの命を守ってくれているのです。菌は命を守るバリアとしても働いているのです。これは「信じるか信じないかは・・・」というような怪しい話ではありません。ちゃんと科学的に確認されている事実です。また、からだの中の菌は心の状態にも大きな影響を与えています。子どもの幸せは腸が7割 3才までで決まる!最強の腸内環境(藤田紘一郎/監)というタイトルの本もあるくらいです。除菌除菌とやっていると、消えるのは周囲の菌だけでなく体内の菌まで消えてしまうのです。その結果、徐々に生命力が低下していきます。心も感覚も不安定になります。「私」は「みんな」の一部なんです。だから切り離せないし、切り離そうとしてもいけないのです。確かに、短期だけなら他者から切り離された状態で宇宙や海の底に行くことはできます。からだの中に生態系を模写したものが存在しているからです。でも、その「小さな生態系」は「大きな生態系」とつながっていないと、次第に痩せて狂い始めるのです。それは、酸素タンクをしょって海の底に潜るようなものです。酸素がなくなるまでは海の底に潜っていることが出来ます。でも、それは長くは続きません。でも、人間は、自分達だけがそのつながりに支配されていない自立した存在だと思い込んでいます。その背景にはキリスト教の影響があります。キリスト教の神はすべてのつながりから切り離された、絶対的に自立した存在です。そして人間はその神に似せて作られたことになっています。だから人間だけ別格なんです。そのキリスト教の思想においては、人間にとって一番大切なのは「神様とのつながり」だけであって、他のつながりはどうでもいいのです。そういう思想があったから自他を分離し、全体を分解して科学が生まれました。でも、適度なところで自然とのつながりや、人と人のつながりを取り戻す努力をしないと、人類は科学の暴走によって滅亡すると思います。除菌も適度なところでやめておいた方が無難ですよ。子どもの幸せは腸が7割 3才までで決まる!最強の腸内環境のつくりかた [ 藤田紘一郎 ]
2023.09.21
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(話が整理されていませんが時間がないのでそのままアップします)「人と人のつながり」が希薄になることで「許し合う」ということが難しくなりました。そして、「人に迷惑をかけてはいけない」という価値観が広がりました。そしてみんな「みんなと一緒」「みんなと同じ」を目指すようになりました。それが正しいやり方かどうかは分からなくても、とりあえずみんなと同じことを言い、同じことをしているのなら文句は言われないからです。そのような考え方が広まった現代の日本の社会では、「人と違うことを言ったり、やったりする人」は「困った人」として扱われてしまいます。「みんなと一緒」が出来ない子は「問題児」として扱われます。でも、みんなが「みんなと一緒」「みんなと同じ」を目指すようになることで競争が生まれました。その道がどこに向かっているのか分らなくても、みんなで同じ道を歩いていると少しでも他の人よりも先を進みたいと思うのが人情です。そして、競争に勝つことが目的になります。その道の先に何があるのか分らなくてもです。でも最初から、一人一人「自分の生き方に合わせた異なった道」を歩いているのなら競争は起きないのです。「落ちこぼれ」も生まれません。「落ちこぼれ」という言葉は、競争に負けた者を指す言葉だからです。そしてそれが、「遊びを通してつながった子どもたちの群れ」の自然な姿でもあるのです。その群れにあるのは競争ではなく支え合いです。支え合うからみんなで一緒に楽しく遊ぶことが出来るのです。また、「遊び」を共有することでつながっているグループで大切なのは「みんな同じ」ではなく、「違い」を肯定し、その「違い」を生かしたり、みんなで支え合ったりすることです。現代人は「人と違うことをするから他の人の迷惑になる」と考えますが、遊びの場では逆に「みんな一緒」では遊びが楽しくならないので困るのです。群れ遊びの場にはリーダー的な役割の子が必要になるのですが、「みんな一緒」「みんな同じ」という教育を受けた子どもたちのグループでは、リーダー的な役割をこなすことが出来る子がいないので、群れ遊びが出来ないのです。「俺が一番偉いんだぞ」とみんなを支配しようとする暴君は結構いますけどね。「鬼を決めるのは差別だ」と言って鬼を作らなければ「鬼ごっこ」は出来ません。また、みんなで同じように逃げたら楽しくありません。みんなが自分の判断で自由に逃げるから鬼ごっこは楽しくなるのです。そして「鬼」は交代する必要があります。足の遅い子がいつも鬼になっていたら、逃げる方は楽しくありません。鬼になっている子も楽しくありません。だから交代するのです。子どもたちもそのことを知っているので足の遅い子ばかりを狙うようなことはしません。足の速い子もわざとつかまったりします。大人たちは、「みんな同じ、みんな一緒という形」の中に平等を求めますが、子どもたちの遊びの場では、みんなが自分らしさを発揮しながらも、みんなが楽しくなるような工夫をすることで平等を実現しようとしているのです。遊びのルールが分からない小さな子や障害を持っている子がいる場合は、特別ルールを作ってみんなが楽しく遊ぶことが出来るような方法を考えます。「違い」を違いとして認め、その違いに合わせた工夫をすることみんなが楽しくなるように遊びを工夫するのです。それが「子どもの知恵」です。そこには差別はありません。みんな一緒、みんな同じを目指すから競争や差別が生まれるのです。ただし、ここに書いたのは一昔前の子どもの遊びの風景です。最近の子どもたちの「遊びの風景」ではありません。昔の子どもたちは幼い子から大きい子まで一緒に遊んでいました。最初から、遊びに参加している子どもたちの能力がバラバラだったのです。だからこういう工夫をしなければ遊びが成り立たなかったのです。最近の子どもたちも鬼ごっこは大好きですが、基本的に同年齢の子としか遊びません。異年齢の子を集めて鬼ごっこをしても、同年齢の子ばかりを追いかけて小さい子は無視します。自分たちだけで遊ぼうとするのです。言い換えると「みんな一緒」に付いて来ることが出来る子だけを相手にするのです。勝ち負けを競うスポーツの場ではそれでもいいのですが、様々な能力の子がみんなで楽しむための遊びの場でそれをやられると楽しくなくなってしまうのです。また、逃げるのが好きな子はタッチされても鬼になることを拒否します。大人が入っていると大人にばかり鬼を押し付けます。そして、タッチしても交代してくれません。群れて遊んだ体験が乏しい子は、群れのルールは守らないで、一人一人自分勝手にルールを作るのです。そして自分だけ楽しもうとします。だからすぐにトラブルが生まれます。ケンカをしても何が悪かったのか、どうしたらいいのかを自分たちで話し合えば次第にみんなで遊べるようになるのですが、最近の子はその「話し合う」ということが苦手です。その場に大人がいると、大人が勝手にジャッジしてしまい、子どもたちが話し合うきっかけを奪ってしまいます。それが、子どもをつながりから切り離し、一人一人の違いを肯定せず、「みんな一緒」「みんな同じ」を求めた子育てや教育の結果なのでしょう。ちなみに、私が親子での鬼ごっこを指導する場合は、様々な特別ルールを作ります。子どもは走ってもいいけど大人はケンケンとか、親子で手をつないだ状態で追いかけ、逃げるとか。みんな同じ、みんな一緒を目指すから逆説的に差別が生まれるのです。現代人が目指す「男女平等」は「女性も男性と同じように」というものです。「男性も女性と同じように」ではありません。ですから、「女性も男性と同じように」という考え方自体が、もう女性差別の思想を含んでいるのです。テレビで、国会の男性議員が「女性議員も増やします」と言っていましたが、男性が増やそうとしなければ女性議員が増えないシステムそれ自体がおかしいのです。
2023.09.20
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「人と人のつながり」が失われることで「お互い様」という考え方も消えました。そして、「つながり」の中で感じていた「安心」の代わりに、「みんな一緒」「みんな同じ」という状態の中に「平等」と「安心」を感じるようになりました。「つながり」が消えた社会では「平等」が大切になるのです。命の平等ではなく、社会的平等です。そういう価値観の社会では、自分らしく生きることは肯定されません。みんなが「自分らしさ」を主張したら必ずぶつかり合いが起きるからです。昔の人は、そのぶつかり合いを平和的に回避する方法として「お互い様」という考え方を大切にしましたが、今では「お互い様」という考え方を大切にする人は多くありません。でも、現実の世界に生きている人は、みんな一人一人異なった事情の中で生きています。老人は早く歩けません。でも、「みんな一緒」「みんな同じ」を目指している社会では、それは「迷惑なこと」です。そのため非難されます。人に迷惑をかけないことを理想としている社会ではその非難は正義です。障害を持った人も、他の人と同じように行動できません。それもまた迷惑なことです。だから非難されます。他の子とは異なった能力や感性を持った子も非難されます。子どもは大人と同じように考えたり、感じたり、行動したりすることが出来ません。それもまた大人にとっては迷惑なことです。だから、子どもらしい子どもは非難されます。人は一人一人異なった感覚、考え方、価値観を持っています。自分らしさを大切に生きるということは、そういう自分の感覚や、考え方や、価値観を大切に生きるということなんですが、それはつまり他の人とは異なった生き方をするということでもあります。そしてそれも、「みんな一緒」や「みんな同じ」を目指している人たちにとっては迷惑なことです。だから自分らしく生きようとすると非難されます。「学校には行かない」という選択もその一つです。そして、失敗すると「それ見たことか」とみんなで叩きます。でも、その人が社会的に成功すると手のひらを返したように褒め称えます。コロナ騒動下でも、テレビや医者や政府の言うことに従わないで、自分の感じたように、自分が考えたように行動する人は、誰に迷惑をかけていなくても「迷惑な存在」として非難されました。規律を乱す、調和を乱すということなのでしょう。そして、子どもだけでなく子育てをしているお母さんも、邪魔者扱いされています。子どもを育てると言うことは、「子どもの命や、子どもらしさや、子どもの成長を守り育てる」ということでもあります。でも、子どの成長は、「社会の原理」ではなく「命の原理」に従っているので、子どもの命や、子どもらしさや、子どもの成長を守ろうとすると、必然的に「みんな一緒や、みんな同じを大切にする社会」の中では異分子になってしまうのです。そして、非難されます。非難する人たちと同じような価値観を持っているお母さん達も、子どもを非難します。「あんたのせいで私が・・・」などと、子どもを責め立てたりもします。そのことで、子どもは心に傷を負い、自己肯定感を失うのですが、ただ心に傷が付くだけで、みんなと一緒が出来るようにはなるわけではありません。思春期前の子どもには、「自分が他の人からどう見えるのかと」いうこと自体が生理的に分からないからです。だからいつも叱られている子は、自分の意志ではなく、大人の意志に従って生きるようになります。大人の言うことに従っていれば叱られないからです。子どもを非難している人だって100%昔は同じ状態だったし、「自分らしさを肯定して欲しい」と思っていたはずなのに、大人になると、平気で「子どもらしさを大切にしている人」を、非難否定するようになるのです。それは、現代的な子育てや、教育や、テレビやマスコミの成果なのでしょう。でもそれは、自分で自分の首を絞める行為でもあるのです。老人を非難している人だって、早死にしない限りやがて同じ状態になります。病気や事故で、自分自身が障害を抱えてしまうことだって珍しくありません。また、自己肯定感を失い自分らしく生きることが出来ることが出来なくなった子どもは、親を苦しめることになるでしょう。<続きます>
2023.09.19
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家族の中の誰かが不幸になっても、その負の影響は家族全員に及びます。また、他のみんなが不幸なのに一人だけ幸せになるということもありません。家族の間に嫉みや恨みが生まれ、その幸せを阻害しようとするからです。それが可能になるのは、家族の間に「一人の喜びをみんなで共有出来る関係」ができている時だけです。そういう時には、「一人の喜び」が「みんなの喜び」になります。家族は運命共同体だからです。これは学校のクラスでも同じです。違うのはクラスの場合は「問題を抱えた子」を排除できるということです。家族という関係ではこれは出来ません。じゃあ、排除すれば問題を解決できるのか、他の子は幸せになるのかというと、そういう結果にはなりません。「問題を起こす子」を排除すれば、その後しばらくは「問題が起きない状態」が訪れるでしょう。先生は授業がやりやすくなるでしょう。でも、それで残った子達が幸せになるというわけではありません。「問題を起こす子」に対して同じ立場でいた他の子どもたちが、「共通の問題」を失いバラバラになります。また「排除」を喜ぶような子は他の子とつながることが出来ませんん。「排除」を悲しむような子は学校に行くことが苦しくなるでしょう。また、「排除を喜ぶような子」の多くは、自分自身でも問題を抱えています。そのため、そういう子の中から、第2、第3の「問題を起こす子」が生まれてきます。オセロのように、状況次第で白と黒が簡単にひっくり返ってしまうのが人間という動物なんです。以前、河合隼雄さんの本で読んだのですが、子どもの中の一人が問題児で相談に来られた方がいたそうです。それで色々とお母さんの話を聞いているうちにお母さんの意識が変わったそうです。すると、子どもを治療したわけではないのに子どもの問題行動が減っていったそうです。面白いのはその後です。問題を起こしていた子が問題を起こさなくなってくると、それまで問題を起こさなかった子が問題を起こすようになってくる事があるそうなのです。お母さんが一人の子で手一杯の時は、他の子は問題を起こさないのです。お母さんのことが大好きだからです。でも、問題が片付いて手が空くと「僕のことも見て」と問題を起こすようになるのです。「問題を起こして排除された子」も、「問題を起こさざるおえないような状況」の中にいたから問題を起こしていただけであって、「問題児」という固定された性格の子どもではないのです。そして「つながり」に支えられていない子はみんな「問題児予備軍」でもあるのです。だから、排除するという方法ではイタチごっこにしかならないのです。これに対処するためには、「一人の問題はみんなの問題でもある」という意識で、子どもたちをつながりの中で支えてあげるしかないのです。問題を起こしている子も、「問題を起こす理由」が消えれば、問題を起こさなくなるのです。難しいのは、その問題が家庭の中にある場合です。学校の先生は子どもの家庭の中までは手を出せませんから。そういう場合は、何をやっても子どもの問題行動は消えないかも知れません。それでも、先生がそういう子どもにどのように向き合っているのか、ということが他の子どもたちの心に大きな影響を与えるのです。先生が、「問題を起こしている子」も仲間として関わろうとしている姿を見て育った子は、大人になった時に、そういう苦しい子どもを出さないような家庭を築くことができるようになるのではないかと思います。そして、同じことが社会や、国や、地球単位でも言えるのです。私たちは運命共同体なんです。だから競争なんかしている場合ではないのです。
2023.09.18
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「政府広報オンライン」に、以下のように「発達障害」に関する説明が書いてあります。発達障害は、広汎性発達障害(こうはんせいはったつしょうがい)、学習障害、注意欠陥多動性障害など、脳機能の発達に関係する障害です。発達障害のある人は、他人との関係づくりやコミュニケーションなどがとても苦手ですが、優れた能力が発揮されている場合もあり、周りから見てアンバランスな様子が理解されにくい障害です。発達障害の人たちが個々の能力を伸ばし、社会の中で自立していくためには、子供のうちからの「気づき」と「適切なサポート」、そして、発達障害に対する私たち一人一人の理解が必要です。この文章を読むと、発達障害が「個の問題」として認識されていることが分かります。だから、国はその原因については議論せず、療育などで個別に対応することで対処しようとしているのでしょう。でも、この考え方では、今、なぜこんなにも発達障害の子が増えてきているのかを説明できません。それで農薬や、電磁波や、食品添加物や、テレビや、ゲームなどの害を言う人がいるのでしょう。また、「実際には増えてなんかいないんだ、ただ世間の関心が高まったからちょっとの違いでそれを発達障害などと言い立てる人が増えたのだ」などと言う人もいるのでしょう。確かに、農薬や、電磁波や、食品添加物や、テレビや、ゲームなどの影響もあるかもしれません。でも、そういうものは社会の変化とともに生まれてきたものです。そしてその社会の変化は色々なところに表れています。まず、現代人は、頭や、からだや、感覚を使うことが減りました。他の人とつながり、生活や、遊びや、感覚などを共有することも減りました。ちょっと具合が悪いだけで簡単に薬をのむようになりました。言葉や、技術や、精神性を受け継ぐことが難しくなりました。過度に加工された食品や、添加物まみれの食品や、不自然に育てられた野菜や肉も日常的に食べています。受精することも、出産することも、子育ても、生活も、死も、医者や国や社会にコントロールされるようになりました。テレビは人々の無意識に働きかけて、人々の意識や行動をコントロールしようとしています。(こういうことを言うと陰謀論者のようですが、でも実際に効果があるからCMに大金を使っているのです。)テレビで「コロナは怖いんだ」という情報を大量に流し恐怖をあおることで、医者や国の言うことに従う人が増えました。受精の仕方、出産の仕方、子育ての仕方も、子どもの成長にダイレクトに影響を与えています。出産前にお母さんがどういうものを食べ、どういう生活をして、どういう薬を飲んでいたのかということも、子どもの成長には関係しています。それが分かっているから、みんな妊娠中、授乳中にはお酒を飲まないのですよね。「幼児期のことは記憶に残らないから大丈夫」と考える人もいますが、「記憶」には残らなくても「神経回路の構造」の中には残ってしまうのです。「意識」の中には残らなくても「無意識」の中には残ってしまうのです。お母さんになる人のからだの記憶の一部は、子どものからだの中に受け継がれるのです。分かりやすいのは「腸内細菌」です。腸内細菌にはその人がどういうものを食べ、どういう生活をしてきたのかということが記録されています。そしてそれが子どもに受け継がれるのです。そして腸内細菌の状態はその人の意識や、心や、からだの状態と密接につながっているということが最近分かってきています。「自閉症スペクトラムと腸内細菌の状態が関係しているようだ」という研究もあります。また、「科学的に安全が確認できているから大丈夫」などといいますが、それは単に「現時点では危険性が確認されていません」というだけのことです。実際、当初は安全と言われてきたものが後から「実はあれは危険なものだった」と言われるようになったものはいっぱいあります。アスベストも、DDTも、農薬も、有機フッ素化合物も、当初は「安全なもの」でした。神奈川県の広報には有機フッ素化合物は、近年、有害性や蓄積性などが明らかとなってきたため、製造、使用等が制限されている物質です。と書かれていますが、最初は「安全だ」と宣伝しておいて、後からそんなこと言われても困るのです。私は、そういうもろもろの社会の変化が積み重なって、発達障害と言われるような状態の子どもたちが増えてきたのではないかと考えています。それはつまり、これは「個の問題」ではなく「社会全体の問題」だということです。社会全体が不自然な状態になってしまったから、自然の一部である人間にも歪みが生まれているのです。何かトラブルが起きると、まず最初は弱いところ、感受性が高いところにその影響が表れます。大人と子どもであれば、まず子どもに影響が出ます。子どもでもデリケートな感受性を持った子どもに強くその影響が表れます。「炭鉱のカナリア」と同じです。それを、「警告」と受け取らずに、単なる「カナリアの問題」として処理していると、後で取り返しが付かないことになってしまうのです。だから、発達障害の子の問題は、子どもや家族だけにその責任を押しつけるのではなく、社会全体で考える必要があるのです。だからといって社会の変化を排除してばかりいたら生活できません。だから、どこかで折り合いをつける必要があります。その時大事になるのが、「自然とのつながり」「仲間とのつながり」「人と人のつながり」なんです。このつながりを失わないように生きていれば、子どもの状態に多少のトラブルがあっても乗り越えていくことが出来るのです。肯定的な感情に溢れ笑顔で暮らしていれば、多少は害のあるものを取り入れても排泄することが出来るのです。命の働きには「命の働きに害を及ぼすもの」を排除しようとする機能も備わっているからです。また、こういうつながりを大切にする人が増えれば、「お金を大切にする社会」から、「人間を大切にする社会」へと変わっていくのではないでしょうか。また、不自然なことをする人も減っていくのではないでしょうか。私はそれを願います。
2023.09.17
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今、「発達障害」と呼ばれるような状態の子が増えています。専門家の中には「そういう問題に対する意識が向上し、検査数が増えたから、結果として発達障害の子が増えたように見えるだけだ」と、目の前の現実を見ようとしていない人も多いですが、でもこれは日々子どもと接している人たちが共通して感じている現実です。そのため、子育ても、学校の授業も非常にやりにくくなってしまっています。また、そういう状態のまま大人になっている人も多いです。そういう人は、大人であっても社会人として普通に生活することが困難です。自分で自分をコントロールすることが出来ないので、色々なところでトラブルを起こします。子どもも大人も、そういう状態の人は平気で遅刻をしたり、平気で約束を破ったりします。集団のルールを守るのも苦手です。「他者の視点に立つ」ということが苦手なため、相手の気持ちや、考え方や、価値観を理解することが出来ません。その結果、「自分勝手な人間」として周囲に扱われます。それで非難されてしまうのですが、でも、自分でもどうしようもできません。何を非難されているのかということ自体が理解できません。それで、「僕は何も悪くないのに」と、自分を非難する人に対して逆恨みしたり、その場しのぎの嘘をつくことで自分を守ろうとすることもあります。嘘をついても「自分は悪くない」と思っているので罪悪感はありません。そういう状態の大人は、子育てにおいても、子どもが思い通りにならないと「悪いのは子どもだ」と決めつけます。それがその年齢の子にとっては当たり前の状態でも、お母さんのかかわり方が子どもの状態をこじらせていても、そういう視点からの発想が全くないのです。他の人が説明しても、反発するだけで受け入れません。とにかく、自分を守ることだけを最優先するのです。その結果、過度の虐待をしてしまうこともあります。でも、そういう人は子どもがいくら泣き叫んでも「ワガママ」としてしか感じません。また、必ずしも、子どもが嫌いだから虐待しているとは限りません。大好きなんだけども、子どもの気持ちを理解することができないから結果として虐待になってしまうこともあります。大人になってしまってからそういう状態を直すことは非常に困難ですが、でもまだ思春期前の子どもなら何らかの手の打ちようもあります。子どもの年齢にもよりますが、私は子どもを「人と人のつながり」の中に戻してあげれば、かなり状態が改善していくのではないかと思っています。多くの場合、そういう子は個別に指導されるようですが、指導する人がどんなに優秀な専門家だったとしても個別に指導する方法には限界があるのでう。なぜならば、発達障害の子の一番大きな問題は「社会性の欠如」だからです。社会性を育てたいのであれば、個別に指導するだけでは無理なんです。子育てにおいても、お母さん一人で子どもの社会性を育てることは不可能ですよね。社会性は「人と人のつながり」の中でないと育てようがないからです。それは、水に触れさせることなく泳ぎ方を教えるようなものです。また、個別に指導されるということ自体が、不自然な状態でもあります。周囲からも「特別な奴」と見られてしまうでしょう。じゃあどうしたらいいのかということですが、話は簡単です。子どもたちを自然の中に連れ出し、目的を共有する仲間と関わりながらいっぱい遊ばせてあげれば、自然と状態は落ち着いてくるのです。子どもは、仲間との遊びを通して社会性を身につけるように出来ているのです。だから、子どもから遊びを奪ってはいけないのです。私は遊びの場で子どもと出会うことが多いです。その時、みんなで楽しく遊ぶことが出来ていた子が、あとでお母さんから「療育に通っている」と聞かされることが結構あります。遊びの場ではなんに問題もない子が療育に通わされているのです。私は問題があるのは、子どもの方ではなく「みんな一緒」や「みんな同じ」を求める幼稚園や学校の方なのではないかと思っています。また、子どもを「つながり」から切り離して、個別に育てようとする現代社会の子育てのあり方も大きく影響しているような気がします。「つながり」から切り離された状態で育てられているのに社会性が育つわけがないのです。
2023.09.16
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現代人は、「科学」という言葉に弱いです。「科学的エビデンスがある」と言われると反論できません。コロナ騒動下において政府や医者から押し付けられた様々な規制や、行動指示に関しても、「科学的エビデンス」がその根拠にされました。そして、その規制や押し付けに反対する人は「非科学的な説を信じる陰謀論者」として扱われました。ほとんどの政治家も、医者も、マスコミも、テレビ局も同じ態度を取りました。でも、その根拠になっている「科学的エビデンス」には統一的な根拠がないのです。データの取り方や対象を変えるだけで得られるデータの状態は変わってしまうからです。その結果、そのデータによって演繹される「科学的エビデンス」も変わってしまうのです。そしてそのデータのとり方を決めているのは人間です。そのため、そのデータのとり方を決めている人間の都合や、感情や、思い込みや、価値観が、その結果としての「科学的エビデンス」に大きな影響を与えてしまうのですテレビで、咳をした時のウィルスの拡散の仕方をスーパーコンピューターがシミュレートした結果をよく放送していましたが、あれも細かい初期条件を設定したうえでの結果です。その初期条件をちょっと変えるだけで結果も変わります。そして、その初期条件を設定しているのは人間です。そもそも、そういうシミュレーションをさせようとすること自体が人間の都合です。まただから、テレビで言っているのとは異なることを言う医者や科学者もいっぱいいるのです。ただし、そういう人の意見はテレビでは紹介されないので、自分で探すしかありません。また、その方法が科学的エビデンスによって正しいことが証明されていたとしても、その方法が「人間らしさ」と矛盾するものなら、私たちは「科学的に正しい判断」よりも「人間らしい判断」の方を選択すべきなんです。そうでないと、私たち「人間」の存在価値が消えてしまうからです。AIが「科学的に正しい判断」だけを優先するように人類に求めたら、人類は滅亡します。国が「少子化が進んでいるからもっと子どもを生み育てなさい。そうしないと国が滅びます。このことには科学的エビデンスがあります」と言われたらどうしますか。従いますか?科学は人間が使う道具にすぎません。そのため、それがどういう結果をもたらすのかは、それを使う人間次第なんです。今流行りのAIも万能ではありません。従来のコンピュータは人間が与えたデータだけで演算していましたが、AIは自分でデータを探しに行くことが出来ます。論理的にはネットとつながっている世界中のデータを使うことが出来ます。でも、AIに出来るのは目的に合ったデータを探し、それをもとに演繹する作業だけであって、人間のように自分の体験を通して元データそのものを作り出すことは出来ません。また、自分で自分の活動の目的を決めることも出来ません。子どもの世話をするAIロボットを描いた「M3GAN(ミーガン)」という映画でも、その活動目的は人間によって与えられていました。でも、その任務を遂行することだけに忠実だったために様々なトラブルが起きるのです。人間だったら、人間としての常識や周囲の状況に合わせて手段を選ぶのですが、ミーガンには人間的な判断をする能力が備わっていなかったため、目的を遂行するためなら手段を選ばなかったのです。そして、次々と恐ろしいことが起きていきます。(私は見ていませんけど、この映画に関する様々なニュースを読んでいるとそういう映画のようです。)繰り返しますが、科学は道具にすぎないのです。そのため、それがどういう結果をもたらすのかは、それを使う人間次第なんです。これからの人類の歴史が「ミーガン」のようなホラーになるのか、みんなが幸せに生きることが出来る「ハッピーストーリー」になるのかは、私たちの子育てや教育のあり方に大きく関わっているのです。だからこそ、子育てや教育では、知識を覚えさせたり、大人の言うことに従順に従う子どもを育てることを目的にしてはいけないのです。知識を覚えさせることよりも、人間らしさを育てることの方を優先すべきなんです。能力は高いけど自分の頭で考えない、自分の感覚で感じない、自分の意志で判断しない人間はAIロボットと同じようなものです。もっとも、かなり性能は落ちますけど。そういう状態の人間は、「あいつは敵だから殺せ」と言われたら、躊躇なく殺すでしょう。国はそういう人間の方が欲しいのかも知れませんけど、皆さんはどうですか。我が子にそういう人間になって欲しいですか。以下は、さっきネットニュースを見ていて見つけたニュースです。中国、AIロボットが胎児を育てる「人工子宮」システムを開発中国は色々研究していますよ。
2023.09.15
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しつこいですが、また「言葉」について書いています。言葉の大切さについていくら説明しても、言葉が通じる人にしか届かないのがもどかしいです。言葉の基本は、まず「話し言葉」です。その「話し言葉」によって、人と人がつながり、感覚や感情や思考を共有し、文化や文明を生み出し、色々な知識や技術を伝承してきたのです。人類の人間としての文化は何万年も前に始まりましたが、人間が「文字」を使うようになったのは、つい2,3千年前のことです。しかも最初は、「人と人のコミュニケーションツール」として使われたのではなく、何かを記録したりするためのものとして使われました。また、中国ではお上の命令を国の隅々まで伝えるためにも文字が使われたようです。とにかく広いですからね。いずれにしても、文字は「生活に必要なもの」ではなかったのです。今でも文字を使わないで生活している人はいっぱいいます。ハワイに住んでいた人たちは19世紀になるまで文字を持っていなかったそうです。それでも、豊かな文化や精神性をはぐくみ、幸せに生きることが出来ていたのです。人は文字を知らなくても、「人と人をつなぐ言葉」(話し言葉)を知っていれば、豊かな文化や精神性をはぐくみ、幸せに生きることが出来るのです。それが「話し言葉」なんです。だから子どもたちには「文字言葉」を伝える前に、しっかりとした「話し言葉」を教えてあげる必要があるのです。「話し言葉」が使えない人は他の人とつながることも、学ぶことも、成長することも出来ません。自分の感覚で感じ、自分の頭で考え、自分の意志で行動することも困難になってしまいます。当然、幸せに生きることも困難になってしまうでしょう。また、話し言葉が使えない人は、文字を学んでも文字を「言葉」として使うことが出来ません。「文字」それ自体は「記号」であって「言葉」ではないからです。それに対して、「話し言葉」では「声」それ自体に、言葉的な意味が含まれています。「あ」という音にも「お」という音にも、身体感覚的な意味が含まれていて、それが組み合わさって「あお(青)」という言葉が生まれているのです。「あお」という音は記号ではないのです。「すき」という言葉もその声の違いが意味の違いを生み出しています。文字言葉は、遠くにいる人に「意味」を伝えるために使われますが、「話し言葉」は、そばにいる人たちと身体感覚や感情を共有するために使われてきたのです。一番わかりやすいのが「おいしいね」とか「楽しいね」という言葉です。文字言葉は、宛先不明の一方通行的な使われ方をしますが、話し言葉は感覚や、感情や、思考を共有する相手がそばにいることで初めて成り立つ言葉なんです。そして子どもたちは、大人たちから「話し言葉」を受け継ぐことで、その言葉とつながっている文化や、文明や、人間性や、精神性や、知識や、技術を受け継いできたのです。でも、最近の子どもたちには言葉を共有できるような仲間がいません。簡単で便利な機械が表れたことで言葉を必要とする生活も消えました。生活の技術を大人が子どもに伝える必要も消えました。現代社会に生きている子どもは、大人や仲間から「話し言葉」を学ばなくても遊べるし、生活もできるのです。今では、ご飯の炊き方を教えてもらわなくても、炊飯器があれば美味しいご飯を炊くことができます。仲間から遊びを教えてもらわなくても、仲間と話し合わなくても、機械を相手に一人で楽しく遊ぶことが出来ます。先生の言うことが理解できなくても、(日本の教育では)教科書が読めてそれをそのまま覚えることが出来れば、テストではそれなりの点数を取ることが出来ます。でも、そういう状態で育った子は「文字」は読めても「言葉」が理解できません。そのため「本」を楽しむことも、「本」から学ぶことも出来ません。また、仲間を作り、仲間とつながることも出来ません。子ども達は本能的に仲間が欲しいのですが、つながり方が分からないし、つながる技術もないのです。そして今、そういう状態の子が増えています。文字を介したネットでは簡単につながりを作れますが、でも、ネットでのつながりでは感覚や体験の共有が出来ません。まあ、今時の若者は最初からそんなもの求めていないみたいですが。また、そのつながりは簡単に切ることができます。また、何が本当で嘘なのかも不明です。「女の子だと思ってチャットしていたら実際には中年のおじさんだった」という事件もあります。嫌いなのに「すき」と書き送ることも出来ます。「文字」は記号だからそういうことが出来るのです。「声」ではそういうことが出来ないのです。それはそれで、「深く関わりたくない」という感性を持った今時の若者の文化としてはいいのかも知れませんが、このような感覚で子育てしていたら、子どもの意識や、思考力や、感覚などの育ちを支えることが出来ないのです。様々な体験や技術を伝えることも出来ません。本を読んで楽しんだり、本から学ぶこともできなくなります。まあ、それでも困らないのですからそのことに問題を感じることもないのでしょう。そのことに問題を感じるのは古い人間だけなのかも知れません。でも、「人間らしさを大切にしたい」と思う心が残っているのなら、子ども達にちゃんと「話し言葉」を伝えてあげるべきだと思います。ちなみに、「自分が考えたこと」や「感じたこと」を、自分の言葉で説明することが出来る子は、文字を覚えれば文章も書けるし、理解することもできます。本を読み楽しむことも出来ます。だから、文字を教えるのは後からでも大丈夫なんです。むしろ、急がない方がいいのです。
2023.09.14
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最近の子どもの多くは、小学校に入る前からもう文字を読んだり、書いたりすることが出来ます。シュタイナー教育では「7才までは文字を教えるな」と教えていますが、それでも、多くのお母さんが我が子が小学校に入る前に文字が書けるようになっていないとすごく心配なようです。我が子をシュタイナー幼稚園に通わせていながら、幼稚園から帰ったらこっそりお勉強の塾に通わせているお母さんもいます。(子ども自身から聞きました)そういう人は、シュタイナー教育を「情操教育」としてしか理解していないのでしょうね。勉強などせず、毎日いっぱい遊んでいる森の幼稚園系のお母さんにもそういう心配している人がいっぱいいます。小学校の先生の方も、本来「文字の読み書き」は小学校に入ってから学ぶようになっているはずなのに、「小学校に上がってくるまでには、みんなある程度の文字の読み書きが出来るようになっているはずだ」という前提で子ども達に接しています。そのため、文字の読み書きが出来ない子は戸惑います。お母さん達もそれを心配して、小学校に入る前には文字の読み書きを教えてしまうのでしょう。実際、年長さん頃には、絵本ぐらいなら一人で読める子はいっぱいいます。「読んであげようか」というと「自分で読めるからいい」と拒否されたこともあります。私が子どもの頃は、小学校に入るまで字の読み書きが出来ないのは当たり前でしたが、今ではある程度の読み書きが出来るのが当たり前のようです。でもなぜか、幼稚園時代にはもう「文字の読み書き」が出来る現代の子ども達の方が、小学校に入ってから初めて文字を学んだ昔の子ども達よりも「文章」が読めないのです。「文章」が書けないのです。本を読むことを楽しむ事も出来ません。「文字」は書けても「文章」が書けないのです。「文字」は読めても「文章」が読めないのです。成長してから「文章の読み書き」が出来るようになっていなければ、幼いうちから「文字の読み書き」が出来ても全く意味がないのです。一人で絵本を読むことが出来ても何の意味もないです。幼いときから「お勉強」をしてきたはずなのに、どうして「文章の読み書き」が出来ないのかというと、「生活体験や、感覚体験や、感情体験や、からだの体験とつながった言葉の学び」が圧倒的に不足しているからです。「言葉」の基本は「話し言葉」なんです。「文字言葉」ではありません。ましてや「文字」なんかではありません。そのため、「話し言葉」が育っていない子は、いくら文字の読み書きが出来ても「言葉(文章)の読み書き」が出来ないのです。また、「話し言葉」が育っていない子は、他の人の話に耳を傾けることが出来ません。自分の考えや、感じたことを相手が分かるように伝えることも出来ません。本を朗読することは出来ても、読んで書いてあることを理解し、味わい、楽しむことが出来ません。そしてそれが最近の普通の子ども達の状態でもあります。学教崩壊は子どもの言葉力が育っていないことから起きているのです。発達障害と呼ばれるような状態の子が増えてきたのも同じです。また、だから試験でも「文章題」や「応用問題」が苦手なんです。でも、そのような視点から学級崩壊を論じている文章は読んだことがありません。ですから、これは私の個人的な意見に過ぎません。文字を教える時間があったら、子どもを外に連れ出していっぱい遊んで下さい。その方がズーッと子どもの言葉力は育つのですから。そして、言葉力が育った子は、自分の頭で考え、自分の感覚で感じ、自分の意志で行動できるようになります。実際、自分の頭で考え、自分の感覚で感じ、自分の意志で行動できている子に何かを問いかけてみて下さい。ちゃんと「自分の言葉」で返してくれますから。ただし、教えないのに勝手に読み書きが出来るようになってしまう子もいます。そういう子は好きにさせて下さい。本人の意志でやっているのなら遊びと同じですから、止めさせる必要はありません。信じるか信じないかはあなた次第です。
2023.09.13
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日本には昔から「話し言葉」と「書き言葉」という二つの言葉があります。(英語にもあるようです)そして、明治時代になって言文一致運動が起きるまではこの二つははっきりと分かれていました。そして、文字が書ける人はこの二つの言葉を使い分けていました。「文字を学ぶ」ということは「書き言葉を学ぶ」ということとセットになっていたのです。その「書き言葉」は今でも残っていますが、メールやチャットなどの普及とともに、その重要度は低下しています。そして、書き言葉が書けない、読めない若者も増えてきました。「話し言葉」の方は普通に生活していれば誰でも学ぶことが出来ます。それに対して「書き言葉」の方は教育を受けなければ学ぶことが出来ません。でも、ある程度責任のある仕事に就こうとするのなら「書き言葉」を学ぶことは必須です。生活には必要はないですが、自分の世界を広げるためには必要なんです。それは例えば、現代社会における英語のようなものです。実は、「話し言葉」も「書き言葉」も同じ「日本語」ではあるのですが、この二つは、全く異なった視点に立って使われる異なった言葉なんです。そのため、「言葉を通してつながることが出来る世界」が全く異なっているのです。「話し言葉」では相手が目の前にいます。ですから、状況とセットにして言葉を使うことが出来ます。指を指して「あれ持ってきて」と言えば「あれ」が何であるかすぐに分かります。「嫌な天気だね」と言うだけで、それがどういう状態の天気を指しているのかすぐ分かります。同じものを食べながら「美味しいね」と言えば、どの味を美味しいと言っているのか分かります。また、「話し言葉」は声の調子とセットにして使われています。「あの子きれいじゃない」という言葉を語尾を上げて言えば、「きれいだよね。そう思うだろ」と同意を求めている言葉になります。でも、語尾を下げて断定的に言えば「あの子はきれいじゃない」という否定的な意味になります。「話し言葉」のまま文字で投稿するSNSなどではこのニュアンスの違いで多くの誤解が生まれています。このように、「話し言葉」は本来、状況や声を共有していることを前提にして使われる言葉なんです。でも、メールやSNSなどを使っている若者達は、状況や声を共有していない相手にも、平気で話すのとおなじ表現で文字化しています。でも、これでは誤解が生じたり、意味がちゃんと伝わらないのは当たり前なんです。私の所には時々、子育ての相談メールが来るのですが、若者的な話し言葉で書かれているメールも来ます。でも、それを読んでも意味不明なんです。その人のことも、その人の子どものことも知らないのに、そういうことをよく知っている友達にでも相談するような言葉で書いてあるのです。まず、当然の常識として、親しくない人に文字だけで何かを相談する場合は、まず、自己紹介が必要になります。でも、その自己紹介もないのです。名前も明かさず、自分が聞きたいことだけをいきなり聞いてくるのです。それを見ただけで、「子どもやご主人との意思疎通が出来ていなくて、一方通行の苦しい子育てをしているんだな」ということが分かります。自己紹介の次に、状況説明や前提説明も必要になります。そして「自分の考え」を書き、「何が問題なのか」、「何が聞きたいのか」を書きます。そういうことを伝えた上で、「相談に乗って下さい」と言われるのなら相談に乗ることも出来るのですが、いきなり「こういう子にはどうしたらいいんですか」と聞かれても答えようがないのです。そして、そういう人ほど正解やマニュアル的な方法を聞いて来ます。そういう人は「話し言葉」は学ぶことが出来ても、「書き言葉」を学ぶことが出来ないまま育ったのだろうと思います。「書き言葉」は「目の前にいない、状況や声を共有していない相手に向けて使われる言葉」です。目に前にいない相手に、自分が言いたいことだけを書いても通じないのです。それをすると誤解だけが生まれます。ですから、文字だけで何かを伝えたいのなら、自分が言いたいことだけを書くのではなく、相手の立場に立って、状況や声のニュアンスを伝えるような工夫も必要になるのです。外国の人に手紙を書くのなら、その人が理解できる言葉で「日本人(自分)の常識は通用しない」と言うことを理解した上で書く必要がありますよね。それと同じです。つまり、「書き言葉を学ぶ」ということは「相手の視点に立って考えることを学ぶ」ということでもあるのです。そして、子ども達がその「書き言葉」を学ぶことが出来るのが「本」なんです。ただし、文字だけで書かれた「絵のない本」です。絵本は絵を補助にして「話し言葉」で描かれていることが多いです。ですから、あまり「書き言葉」の学びにはならないのです。でも、今時の若者達は「文字だけで書かれた本」が苦手なようです。長文を読むのも、書くのも苦手です。そしてそれが今時の若者達の普通なのでしょうが、でもその普通は人間としての普通ではないのです。ちなみに、文字が存在しない時代には、「人の声によって語られる物語」が「他者の視点に立って考える」という考え方を伝えてくれていました。「時代や地域を超えて複数の人に物語を伝える言葉」が「文字言葉」の原点でもあるからです。だから「物語」をいっぱい聞いて育った子は、本に書いてある「文字言葉」にもなじみやすいのです。でも、最近の子は「物語」を「映像と共に聞く」ことはあっても、「声だけで聞く」ことはありません。でも、映像があることで物語の中に入ることが出来なくなってしまうのです。そのため「他者の視点の体験」が出来ないのです。これは別に「伝承された物語」でなくても大丈夫です。お母さんが雲を見ながら、「雲の物語」を子どもに語ってあげるだけで、子どもは「他者の視点に立つ能力」を育てることが出来るのです。自分が子どもの頃のことを話してもいいです。とにかく、「いま・ここ」から離れた世界のことを語ってあげればそれが「物語」になり、子どもはその「物語」を通して「他者の視点に立って考える能力」を育てることが出来るのです。そしてそれが、その後に続く「文字によって学ぶ学習」を支える力になるのです。しっかりとした「文字言葉」を教えたいのなら、最初は「文字」ではなく「物語」を伝えた方がいいのです。「文字」の読み書きだけを教えても、視点の切り替えを学ぶことが出来なければ「文字言葉」が使えるようにはならないのですから。
2023.09.12
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「言葉」を失うということは「心」を失うことです。そして「心」が失われれば、言葉の働きによって支えられている心の中の「時間」や「空間」も消えます。その結果、過去や未来のことや、「ここ」以外の場所のことを考えることが出来なくなります。当然、論理的に考えることも出来なくなります。真・善・美や道徳的なことを感じる感性も消えます。美しいものを見ても、美しい音楽を聴いても何も感じなくなります。「それを感じる心」が育っていないのですから。「部分」は見えても「全体」が見えなくなります。言葉を失うと「全体をつなぎ、支えている関係性」が見えなくなってしまうからです。想像し、創造する能力も消えます。自分の意志で行動することも出来なくなります。「何をしたらいいのか」をイメージできないからです。言葉の表現とつながったからだの動きや表現も出来なくなります。「緩める」という言葉を知らない子は、からだを緩めることが出来ません。「風」という言葉を知らない子は「風のように」動くことが出来ません。そして、感情や本能に支配されて生きるようになってしまうでしょう。まあ、人間が人間とともに生活している限り「言葉」が消えてしまうということはないでしょうが、でも、社会の変化とともに言葉も変化しているのは、誰もが認める事実です。そして、その言葉の変化に伴って意識や、思考や、心や、感覚や、からだの状態も変化しています。現代人と100年前、200年前の人は同じ日本人であっても、異なった日本語を使っていました。そのため、100年前、200年前の人と現代人とは意識も、思考も、心も、感覚も異なっています。ですから、「言葉の断絶」は「意識や、心や、感覚や、からだの状態の断絶」でもあるのです。それでもまあ、時代の変化とともに言葉が変化するのは古今東西起きていることですから、それ自体はなんの問題もないのですが、問題はその変化の方向性です。現代社会では、新しい機械が生まれ、社会の状態も、世界の状態も変化してきたので、それらの情報を扱うための言葉はどんどん増えてきています。昭和生まれの古い人間としては、テレビで偉い人が使っている横文字の新しい言葉が理解できません。また、古いものを大切にし、古いものから学ぼうとする意識が弱くなってしまったため、世代間のつながりも希薄になってしまいました。そして、世代ごとに「言葉の方言化」が起きています。若者は「若者語」を話し、おじさんは「おじさん語」を話しています。そしてお互いに言葉が通じません。それでも成り立っているのが現代社会です。でもそのため、若者達は過去や大人達から学ぶことが出来なくなりました。「我が輩は猫である」という言葉を聞いても「我が輩」も「である」も分からないでしょう。また、「社会の変化や時代を共有する言葉」は増えましたが、何千年と使われてきた「心や、感覚や、からだの状態を表す言葉」は急激に減ってしまいました。「他者を批評するような言葉」は残っていますが、「自分を表現する言葉」は減りました。子どもに「きみの考え、きみが感じたこと、きみが言いたいことを言ってごらん」と言っても言葉が通じません。またそれを表現する言葉も持っていません。お母さん達に同じ事を言っても同じような状態です。主観的な感想は返って来るのですが、それを、相手に伝わるような形で言葉化することが出来ないのです。相手の立場に立って考える能力もまた「言葉の学びによって育つ能力」だからです。それは例えば食レポで「味はどうですか」と聞かれて「美味しいです」としか答えられないのと同じです。「美味しいです」という感想を言っただけでは、味が相手に伝わらないのです。「自分らしく生きていいんだよ」と言っても、その「自分らしく」という言葉の意味が分からない人が多いです。「自分らしく生きていいんだよ」という言葉を、「自分の欲求のままに生きてもいいんだ」と理解してしまう若者も多いのではないでしょうか。「自分らしく生きる」ということは「自分を大切に生きる」ということです。それは、目先の欲求に振り回されて生きるのとは逆のことです。ちゃんと「自分」と向き合っていないと出来ないことです。でも、今では「自分を大切にする」という言葉の理解も昔とは変わってしまいました。「命」というものに対する価値観や感性が変わってしまったからなのでしょうか。人と人とのつながりが希薄になり、自分を表現したり、相手の表現を理解する必要がなくなって来たため、「言葉で相手に自分のことを伝える能力」や「相手の表現を理解する能力」が低下してしまったのです。そのため、「相手の気持ちを思いやる」という事が出来ない子どもや大人も増えてきました。最近の子は生活の中で「言葉」を求められません。言葉を学ぶ場も少ないです。言われたことだけをやっていれば生活が成り立ってしまうからです。でもそのような生活が言葉を希薄化させ、人の意識や、心や、感覚までも希薄にし、さらには人間関係や親子関係や人と人のつながりまで希薄にしているのです。
2023.09.11
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あなたがもし、「人間」について知りたいと思ったらどうしますか。その際、その方法を決めるのは「人間の何について知りたいのか」という目的です。「目的」が方法を決めてしまうからです。人間の「物理的な構造」を知りたい人は、人間を解剖してみようとするでしょう。解剖すれば、物理的な構造は分かります。でも、構造が分かっても、それだけでは「命とは何か」ということは分かりません。どうやって心臓が動き、どうやって腸が働いているのかも分かりません。そこで必要になるのが、観察という方法です。西洋医学では、人間のからだを解剖し、その構造を理解することで人間について知ろうとしました。だから、外科的な手術や整形的な技術は得意です。でも、「心を持ち、感じ、生きている人間そのもの」を扱うのは苦手です。解剖という方法では、「胃」や「腸」は扱えても「人間」は扱えないからです。それに対して、東洋医学では「観察」によって「人間」について知ろうとしました。観察といっても外側だけを見る客観的な観察ではなく、自分の感覚や、からだや、心と共鳴させながら中身を感じ取ろうとする観察です。客観的な観察では外側しか見えないからです。東洋の人は「人体の構造」についてではなく「生きているとはどういうことなのか」という「ありのままのところ」を知りたいと思ったからです。うちの子が昔行っていた鍼灸の先生は、脈診だけで朝何を食べたか、薬を飲んだかどうかまで分かりました。だから慢性的な病気を扱うのは得意です。また、「心とからだは一体のものだ」ということも知っています。心とからだの関係や、からだと食の関係や、人間と自然の関係も知っています。ただ、構造的なことに対する理解は乏しいので外科的な手術は苦手です。また、つながりや内側の働きを重視するので、無理矢理見かけだけを整えるようなやり方(対症療法)には否定的です。そのため、治療に時間がかかります。でも、現代人はせっかちですから、すぐに症状が消える西洋的な方法の方を好みます。そうして、本質的なところで問題が進行していきます。このような違いを生み出したのは多分宗教の違いなんだろうと思います。キリスト教においては、「人間」は「神様」が創ったものです。「命」は神様によって与えられたものです。そのため、人間は神様に依存する存在であって、神様と同等な存在ではありません。そして人々は「神様がどういう仕事をしたのか」を知るために、人体を解剖したり、宇宙を観察したりしたのです。結果としてそれが「科学」を作り出し、神様を否定することになってしまったのですから皮肉なことです。また、大人と子どもの関係も、神様の前では平等ですが、相互の関係においては大人の方が上です。一番上にいるのは神様ですが、その神様が作ったものには、神様との距離に応じて上下の順番があるのです。神様の次に偉いのが人間で、その下にいるのがその他の動物や草や木です。だから、上位にいる人間は下位にいる動物を殺してもいいのです。環境保護の思想が強まった現代社会では、意味もなく野生の動物を殺すことは否定されていますが、増えすぎて保護する必要がなくなれば平気で殺します。また、野生動物は勝手に殺しちゃいけないけど、牛や豚は飼っている人の権限で殺してもいいのです。この辺の感覚が日本人にはよく分からないところです。そもそも「保護する」という発想自体が、命の価値には上下があることの表れでもあります。それに対して東洋的な考え方では、部分と全体を分けません。自分と他者を分けません。命の価値に上下をつけません。人間も動物も本質的には同じ存在だと考えています。そのため「保護をする」という考え方よりも、「共存する」という考え方の方を好みます。また、人間と神様の間には上下関係がありますが、人間と仏様の間には上下関係はありません。大人と子どもの間にも上下関係はありません。みんな仲間なんです。そこにあるのは「先輩」(先を歩くもの)と「後輩」(後ろを歩くもの)の違いだけです。キリスト教では人間は永遠に神になることは出来ませんが、仏教では人間も努力すれば仏になることが出来るのです。そして、人間の本質は「仏」だと考えられています。今では、東洋でも西洋文明を取り入れることで、西洋的な思想や価値観も一般的になりましたが、でもまだまだ本質的なところでの違いは残っています。日本にも生き物を殺して生計を立てている人はいっぱいいますが、でも、その命を供養するための碑も立てています。そういう感性は残っているのです。「環境保護」という視点からではなく、「命を大切にしよう」という視点から生き物を守ろうとしている人もいます。そして、子育てにおいて必要なのは「分析を元とし、自他を分離する西洋的な感性や考え方」ではなく、「ありのままを肯定し、つながりを大切にし、共に生きようとする東洋的な考え方」の方なんです。大人は子どもの支配者ではなく、子どもの先輩なんです。不思議なことにシュタイナー教育にはその東洋的な感性が含まれているのです。
2023.09.10
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子どもはお散歩に出ると、探偵+冒険者+科学者になります。奇麗な小石が落ちていれば拾い、タンポポが咲いていれば摘み、坂道があれば登り、水溜まりがあれば入り、虫がいれば追いかけます。八百屋に入れば野菜や果物をいじくり回し観察し、スーパーに入れば、“あれなあに”、“これなあに”と聞きまくり、おかしな髪型のおばさんがいれば“あのおばさんの頭へん!”と大きな声で言い、腰の曲がったおばあさんを見れば、“どうしてあのおばあさんは腰が曲がっているの”と聞き、銭湯に行って背中に入れ墨をしている人を見れば“どうしてあのおじさん背中に絵を描いているの”と聞き(最近はそういう人は公衆浴場には入れませんが、私が子どもの頃は普通にいました)、障害を持っている人を見ると“どうしてあの人は大人なのにベビーカー(車いす)に乗っているの”と聞きます。子どもはこの世界に来てまだ日が浅いので、この世界に対して先入観も、知識も、常識もありません。そのため何を見ても珍しくて、この世界のことを知りたくてしょうがないのです。そんな時、“そんなことするんじゃありません”、“早く歩きなさい”、“そんなこと言ってはいけません”という対応ばかりしていると、子どもはこの世界に興味がなくなってきます。(もちろん、そうしなければならない場合もありますけど・・・。)能動的に動かなくなります。積極的に感覚を働かせなくなります。不思議を感じなくなります。そして、大人が買い与えてくれるお菓子や、おもちゃや、遊びにばかり興味を持つようになります。実際、そういう状態になってしまっている子どもがいっぱいいます。でもそれは、旅行に行って「外は怖いから」と言ってホテルから出ないようなものです。キャンプに行って、テントの外にはいっぱい自然や素敵な世界があるのに、テントの中に閉じこもってゲームで遊んでいるようなものです。テントの外では風が吹き、鳥が鳴き、川が流れ、木々の間に光が溢れています。不思議なもの、珍しいものに満ちています。危ないものもいっぱいありますが、危ないものとの出会いを通して、危ないものの意味や、そのものとの付き合い方を学ぶことも出来ます。でも、テントから外に出て行かない子はそういうものと出会う事が出来ません。また、様々な体験や、仲間や、言葉などとも出会う事が出来ません。確かに、テントの中にいたままでも、外の世界についての知識は学ぶことが出来ます。でも、実際の体験が乏しい子は、その知識を自分のものとして使うことが出来るようにはなりません。新しいものと出会う事が出来なければ、成長も出来ません。それでも、テントから外に出なければ安全だし、何にも困らないし、成長できていない自分の状態にも気づきません。でも、思春期が来たら、自分を守ってくれていたテントは消えて行くのです。これは子ども自身ではどうしようも出来ない成長に伴う自然現実なんです。その結果、突然、どうしたらいいのか分からない世界に放り出されてしまうのです。そして、自分が「何も知らない、何も出来ない、仲間もいないちっぽけな存在」だったことに気がつくのです。でも、よっぽどの幸運がない限り、そこから学び直すのはほとんど無理です。そのため、「自分」というさらに小さなテントの中に閉じこもるようになります。そして、人目を気にしながら、人に合わせながら、自分らしさを殺しながら生きるようになります。確かに、幼い子どもには「安心できる居場所としてのテント」は必要です。でも子ども達は、その居場所を起点にして少しずつ外に出て行き、自分の世界を広げようとするのです。それが「子どもの本能」だからです。でも、親や大人に「外に出て行くな」とか、「外の世界は危険だ」と言われ、簡単に楽しく遊ぶことが出来る刺激が強いオモチャを与えられ続けているとその本能も萎えてしまうのです。でも、子どもはいつまでも子どもでいられるわけではありません。また、いつまでも子どものままでは親も子どもも困ります。だから、子どもが幼いうちに子どもを積極的に外の世界に連れ出して、自然の素晴らしさ、人間の素晴らしさ、仲間と遊ぶ楽しさ、大人と関わる面白さを積極的に子どもに伝える必要があるのです。子どもを狭い世界の中に閉じ込めてはいけないのです。確かに、ネットを通して外の世界の情報を見たり聞いたりすることは出来ます。でも、自分自身の体験が乏しい子は、その情報の扱い方が分からないため、簡単に情報にだまされ、振り回されてしまうのです。(今、AIがそういう状態に陥っているようです。)そして、AIが進歩した社会では、そういう人は働く場所を失います。ようやく暑さも落ち着いてきました。少し、家事をさぼって、子どもを連れて外の世界と出会いに出かけてみませんか。自然の中だけでなく、美術館や博物館に行くのも楽しいです。ハイキングや山登りも素敵です。野原でボーッとするだけでもいいです。そうやって、子ども達に「自分が生まれてきた世界の素晴らしさ」を伝えてあげて下さい。お母さん自身も、「自分が生まれてきた世界の素晴らしさ」を子どもと一緒に再発見して下さい。
2023.09.09
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私たちが生きている世界を支配しているのは「人間」ではなく「自然」です。「人間」は「自然」の一部に過ぎません。そして、自然界には、その恒常性と調和を維持するために、「やじろべい」のようにその時々の変化に応じてバランスを取ろうとする働きがあります。「-」が強くなりすぎれば「+」とつながってバランスを取ろうとするのです。この原理で雷が生まれています。水が上から下へと流れるのも、海で生まれた水蒸気が下から上へと上がっていくのもバランスを取るためです。私たちの命はその働きによって支えられています。その変化が復元可能範囲を超えたら壊れますが、限度の範囲内なら人間が関与しなくても、自然は勝手にバランスを取って元に戻ろうとするのです。病気が治るのも、様々な自然現象もすべて、バランスを取ろうとする自然界の働きの結果です。春・夏・秋・冬の四季は太陽とその地域のバランスによって生まれています。潮の満ち引きは、月と地球のバランスによって生まれています。地震も、地球が地殻内部のバランスを保とうとする働きの結果です。地球温暖化と呼ばれる現象も、人間の活動に合わせて自然界がバランスを取ろうとしている働きの結果です。(実際には色々な説があるようですが・・・)ですから、マスコミが言っているように地球が暑く(熱く)なっている原因が人間の活動によるものなら、人間が何もしなくても、人類が滅亡するだけで数十年、数百年で元に戻ります。youtubeでそういう動画を見ることが出来ます。【人類絶滅後の世界】もし…突然、人間が地球から消えてしまったら人間が自然に対して不自然なことをしようとすると、自然はバランスを取ろうとして「人間がやろうとしていること」とは反対の行動を起こすのです。それが「災害」という形で表れることもあります。私たちが生きている世界を支配しているのは「人間」ではなく「自然」なんです。そして、「人間」もまた自然の一部です。だから、病気になっても、ケガをしても、治癒作用が起きるのです。まただから、人間は自然と対話しながら、自然の原理に即して考え、活動しなければいけないのです。そうでないと「こんなはずでは」ということになってしまうのです。そのバランスを維持するために必要なのが「多様性」です。人間が飛んだり跳ねたり走ったりしても倒れないのは、その骨や筋肉や神経系の複雑さとそれらの連携のおかげです。そしてそれが「多様性」の意味でもあるのです。私たちが生きている世界には、様々な動物や植物や菌類やウィルスがいますが、それらがうまく連携し合って自然界のバランスが崩れないように支えているのです。でも人間は、人間の都合に合わせてその多様性を破壊し続けています。そしてその影響が様々な所に出ています。自然の一部である人間にまで影響が及んでいます。そしてこれは子育てでも同じです。大人達が、自分たちの都合に合わせて自然な子どもの成長を支配、コントロールしようとすると、子どもはその育ちに歪みを生じさせることでバランスを取ろうとするのです。物や、お金や、ゲームや、親に依存するようになってしまうのも、子どもの自然な成長が歪んでしまった結果です。そんな時、依存症を解消するために、「一方的にゲームを取り上げる」などというように、「大人にとって都合の悪いところ」だけを直そうとすると、さらに他の部分に歪みが出てしまいます。「子どもたちをみんな良い子にしよう」というのも不自然な発想です。良い子もいれば悪い子もいるのが自然な状態なんです。そもそも、自然界には「よい子」「悪い子」の基準などありません。害獣とか、固有種とか外来種などという基準も人間の勝手な決めつけです。「問題児」と言われる子がそのグループを活性化させる働きをしていることもあります。以前、中国で「スズメはお米を食べる害鳥だから殺してしまえ」という運動があったそうです。そして、大量のスズメを駆除しました。でも、豊作にはならなかったそうです。なぜなら、スズメが食べてくれていた虫たちが大量発生してしまったからです。「ケンカを無くそう」というのも不自然な発想です。子どもにゲームを与えて一人で部屋の中で遊ばせようとするのも不自然な行為です。学ぶ楽しさを伝えることなく、勉強に追い立てるのも不自然な行為です。そして、子ども達を不自然な環境に置き、不自然なことを求めているから、叱ったり、叩いたり、脅したり、罰したりという行為が必要な状態になってしまうのです。不自然な生活環境、不自然な食事、不自然な人間関係、不自然な遊び環境の中で育っている子は、自分の成長を歪ませることでその不自然に合わせようとします。そして、これもまた自然現象なんです。子どもは叱らなければ言うことを聞かない」と思い込んでいる人は多いですが、そういう人は子どもに対して、「子どもの成長にとって不自然なこと」を要求しているのです。善も悪も元々同じものです。視点をどこに置くかで同じものが善になったり、悪になったりするのです。実際、戦争では双方が善を主張しています。だからどちらかを否定、排除しようとするのではなく、お互いにバランスを取って共存できる道を探る必要があるのです。子育てでは「子どもの大人化」を目指すのではなく、「子どもと大人の共存」を目指せばいいのです。そうすれば子どもは自分の力で、自然な形で大人化していくのです。
2023.09.08
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他者の痛みを感じることが出来ない子に「いじめをやめよう」とか「差別をやめよう」などと言っても無意味です。自然の美しさや、素晴らしさを感じたことがない子に「自然を大切にしよう」などと言っても無意味です。人に優しくされたことがない子に「他の人に優しくしよう」などと求めても無駄です。食べ物を作り育てる大変さを知らない子に、「食べ物を大切にしよう」と言っても、その言葉の意味を理解できません。いつも一人でいて、指示や命令ばかり与えられ、一人の人間として話しかけられたことも、問いかけられたことも、他の人に話を聞いてもらったこともない子に「ちゃんと話を聞きなさい」と言っても無理です。いつもお母さんに罵られている子に、「悪口を言ったらだめだよ」と言っても無意味です。またそういう育てられ方をしている子に、「差別はダメだよ」と教えても、その言葉の意味を理解することが出来ません。仲間や大人と、楽しくつながる体験がないまま育っている子に、道徳心について説明しても無意味です。日常的に、お母さんから自分の気持ちを無視されている子は、他の子の気持ちも無視します。お話しや物語を聞かないで育った子は、他の人の心を理解することが出来ません。勉強に追い立てられている子は、自分の意志で勉強するようにはなりません。いつも、逃げ道を探します。「良い子」を求められている子は、お母さんの前でだけ「良い子」になります。お母さんが「良いお母さん」を演じていると、お母さんを真似して、子どもも「良い子」を演じるようになります。ただし、お母さんの前でだけですけど。競争に追い立てられている子は、人を差別するようになります。いつも一人で遊んでいる子は、物事を他の人との関係性の中で見ることが出来なくなり、自己中になります。でも、自分ではそのことに気づきません。そういう人は、「相手の立場に立った優しさ」というものが理解できないため、「あんたのためなんだから」と「自分の気持ち」を相手に押しようとします。そしてそれが「優しさ」だと思っています。「つながり」から切り離された状態で育てられ、「つながり」の中で多様な体験とともに言葉を学ぶことが出来なかった子は、心の世界を育てることが出来ません。考える力も、感じる力も育ちません。当然「つながる力」も育ちません。子どもの状態を非難、否定し、怒ってばかりいるお母さんは多いですが、子どものその状態にもちゃんと意味と理由と原因があるのです。多くの子が、ただ子どもらしく、自分らしく行動しているだけなのに、それを非難、否定され、無理やり大人好みに矯正されています。でも、そういう子は自分でも自分を否定するようになります。子どもの問題行動や困った状態の多くは、お母さんや大人たちが作り出しているんです。それなのに、大人は子どもを非難否定し、子どもに責任転嫁をしています。そしてそれを矯正しようとしています。でも子どもは、大人がやっていることを疑うことが出来ません。本能的に、子どもは大人を信じているからです。子どもには大人を疑う能力がないのです。まただから、大人から学ぶことが出来るのです。結果には必ず原因があります。その原因について考えずに、結果だけを無理やり直そうとしても無理なんです。子どもの育ちに必要なのは、成長したい、学びたい、つながりたいという子どもの意思を支えてあげることだけなんです。そうやって、子どもを「子どもの人生」の主人公にしてあげるのです。大人があれこれ指示や命令を出して子どもの行動や成長をコントロールしようとすると、お母さんが「子どもの人生」の主人公になってしまい、子どもはお母さんの願いをかなえるための脇役になってしまうのです。その結果、子どもは自立できなくなり苦しみます。そして様々な問題が発生します。
2023.09.07
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「差別」は「あるもの」と「あるもの」を概念的に比較し、社会的価値観に従って優劣を決めることで生まれます。男女差別は、「男性」と「女性」を比較し、社会的価値観に従って優劣を決めることで生まれます。人種差別も、障害者差別も、美醜による差別も、貧富の差による差別も、身分による差別もみんな同じです。そして、「あるもの」と「あるもの」を比較、対立させるためには「あるもの」と「あるもの」をその特徴や社会的価値基準に従って「分ける」という作業が必要になります。男性と女性を分け、お金持ちと貧乏人を分け、国と国を分け、美人と不美人を分けることで「比較し対立させる」という作業が可能になります。そしてそこに優劣をつければ必然的に「差別」が生まれます。でも、自然界には「あるもの」と「あるもの」を分ける境界線など存在していません。国と国を分ける境界線は人間の頭の中にしか存在していません。新大陸に西洋の人たちが渡って、もともとそこに住んでいた人たちから土地を奪い「アメリカ」という国を作りましたが、もともとそこに住んでいた人たちは、大地も水も生き物もすべて聖なる存在からの借りものであって「自分たちのものである」という認識はありませんでした。もちろん「土地を分ける」とか「土地を所有する」という概念もありませんでした。そこに「土地は人間のものだ」とか、「土地を所有する」という概念を持った西洋の人たちがやってきて、もともとそこに住んでいた人たちに「この土地を売ります」という契約書にサインをさせ、奪ってしまったそうです。その時、自分たちが住んでいる土地が「自分たちのものである」ということなど考えたこともないネイティブの人たちには、「この土地を売ります」という契約書の意味が全く分からなかったそうです。でも、それに何か書くと白人が喜んでくれたので、何か書いたそうです。で、後日鉄砲を持った人たちがいっぱいやってきて「今日からここは俺たちの土地だ」と追い払われたそうです。自然や大地や人間を一体のものとして考え、生活していた人たちが、人間と自然を分け、「土地は人間のものだ」という価値観を持った人たちに追い出されてしまったのです。でも、土地が個人によって所有されることで、必然的にその広さや、土地の豊かさによって優劣が生じます。土地を持っていない人は「貧乏人」として扱われたでしょう。自然界にはいかなる境界も存在していません。生命と無生命の間の境界すら存在していません。境界が存在しているのは人間の頭の中だけです。しかも、自然から切り離された社会の中で生活している大人の頭の中だけです。自然との共鳴が強い感性を持った子どもが生きている世界にも境界など存在していません。人間と自然。人間と動物、自分と他者の間に境界を感じないのです。それが「ファンタジー」と呼ばれるものが生まれてくる世界でもあります。だから子どもは好き嫌いで分けることはあっても、頭の中の価値観に従って他者を分けることも、上下の感覚で他者を差別することもないのです。子どもたちは、肌の色も、障害も気にしません。もちろん、性別で差別することなどありません。時々、「何才になったらオチンチンが生えて来るの?」と聞いてくる女の子がいますが、幼い子にとって男女の差はその程度のものなんです。大人でも「自然と共に生きている人たち」は、人と自然を分けません。人と人を分けません。「私のもの」と「あなたのもの」を分けません。自然界にはそういうものを分ける基準がないからです。ただし、「生活を共有する私たち」と「生活を共有しないあなたたち」は分けます。その結果、様々な部族が生まれました。これは人間以外の動物たちもやっていることです。子どもたちも「俺たち」と「俺たち以外」は分けます。でもそれは「差別」ではありません。生物界ではオスとメス(男女)の違いすら明確ではありません。「性」を持たない単性生殖の生き物もいれば、都合に応じてオスとメスを切り替えてしまう生き物までいます。オスとメスという違いが生まれたのは遺伝子の多様性を維持するためです。だからお互いにお互いを必要としているのです。もちろんそこに優劣などありません。でも、産み育てるという行為が困難になるにつれ、その「産み育てる存在」を守る存在が必要になります。そうしないと自分たちの子孫を残せないからです。これは相互依存の関係なのですから、そこに上下はありません。でも、社会というものが生まれ、その社会でお金というものが価値を持つようになって来ると、外に出て「お金を稼いでくる人」が「お金を稼がない人」を馬鹿にするようになりました。実際、今でも自然とともに生き、お金に依存しない生活をしている人たちの社会では女性の地位が高いです。差別は、人々が自然から切り離されることで人工的に作り出されたものなんです。近代社会は競争原理によって支えられています。そして、その競争原理の根底にあるのが差別意識なんです。「差別される側」(負け組)から「差別する側」(勝ち組)になるためにみんな競争しているのですから。そういう視点を持たずに「差別をやめよう」などといっても無理に決まっているのです。人間が自然から切り離された生活をしている限り差別は消えないのです。でも、減らすことはできます。そのためには、子どもたちを競争に追い立てるようなことはやめるべきです。比較し、評価することをやめるべきです。「競争」よりも「助け合い」を伝えるべきです。子どもと子どもを分け、成績で子どもを比較し、勝ち組になるために競争させておいて「差別をやめよう」などと言うのは偽善です。下請けを差別しているような大手が広告で「差別をやめよう」などというCMを流しても、本気で聞く人などいないのです。
2023.09.06
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現代人はあまり自分の頭で考えなくなりました。そして、世間一般の価値観に合わせようとしたり、社会的な正解を探してそれに合わせて生きるようになりました。「みんなと一緒」ならば非難も否定もされないからです。自分の頭で考えたことには、当然「自分らしい個性」が反映されています。それは当然のことです。そしてそれを避けることはできません。でも最近は、その人の「自分らしい個性」と「世間一般の常識」とのずれを指摘し、非難する人が増えてきました。ネットで「自分の考え」を書いただけなのに、見ず知らずの人がそれを「差別発言だ」などと非難否定してくることもあります。また、「男の子は女の子に優しくしなければだめだぞ」などと言うと、それを「差別的発言」として問題視する人もいっぱいいます。「男の子は男らしく」「女の子は女らしく」という考え方に対しても同じです。でもこのように考えることは差別なんでしょうか。確かに、政府がこのようなことを言い、このような価値観を国民に押し付けたらそれは問題です。でも、個人がこのような価値観を持って、このような価値観で生きることまで否定されなければならないのでしょうか。これでは、戦争中の思想統制そのものです。一人一人が自分の価値観や自分の考えを持ち、それを発言することまで否定しようとするのは、人間から「心の自由」を奪う恐ろしいことです。それは、「自分の考え」を持っている人を差別する行為です。確かに「差別はいけない」というのは、社会的な一般論としては正しい考え方なのかもしれません。でも、「差別ってなあに」とか、「なんで差別はいけないの」というようなことが広く議論されないまま、マスコミや、世間や、社会や、政治家が「差別の基準」を勝手に決めつけ、「これに反したら差別だ」と国民に押し付けるのは、戦争中に政府のやり方に異論を唱える人を十羽ひとからげ的に「非国民」と呼んで否定したのと同じ行為です。問題の本質を考えずに、目の前の問題に対処するだけのようなおかしなやり方をしているから、色々なところでおかしな問題が起きているのです。小学校では、体育などの時に男女一緒に着替えをさせているところが多いようですが、「差別してはいけない」という意見に従えば一緒でも問題ないのでしょう。でも、異性に対して羞恥心を感じる子どもの心を大切に考えるのなら別のやり方が必要になるでしょう。そんな時「異性に対して羞恥心を感じること自体がおかしいのだ」などと言い出したら、人間らしさを捨てるしかなくなってしまいます。戦争中は「兵隊さんが可哀そう」とか「生きて帰ってきてね」などと当たり前のことを言っただけで非国民扱いされたのです。そういうことを考えないように思想統制されていたのです。そして、そういう教育を受けた子どもたちが真っ先に「愛国心」に染まりました。今も同じようなことが起きています。最近の小学生は「SDGs」という言葉も知っていて、私が「それどういう意味」と聞くと、教科書に書いてあるように説明もしてくれます。でも、自然の美しさ、自然のすばらしさ、自然とは何か、人間と自然とのつながり、などというようなことを、自分自身の感覚や体験を通して感じたこともない子に、「SDGs」や「環境保護」という言葉を教えても意味がないのです。それは、戦争中に「命の大切さ」を教えずに「愛国心」を教えようとした国のやり方と同じです。「優しさとは何か」という事がまだ分からない子に「優しくしなさい」と教えるのと同じ事です。子ども達を「命の世界」や、「人と人のつながり」や、「自然とのつながり」から切り離して、「SDGs」(持続可能な開発目標)を教えても意味がないのです。そういう教育を受けた子にとって「自然」は頭の中にしかないのです。「優しさ」が頭の中にしかない子は、「優しさ」について語ることは出来ても、優しさを伝えることは出来ません。「自然」が頭の中にしかない子は、「自然」について語ることは出来ても、自然を「共に生きるもの」として守ることは出来ません。「命の世界」や、「人と人のつながり」や、「自然とのつながり」を知らないまま育った子は、世間の常識とは異なったことを言ったりやったりしている人を、平気で差別するでしょう。でも、自分自身が差別していることには気づきません。
2023.09.05
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(いつも長いですが、今日は特に長いです。)現代人は「差別」に敏感です。そしてテレビなどでも「差別をやめよう」などとしょっちゅうメッセージを流しています。男女差別や人種差別などが有名なところですが、人は、「頭の良しあし」や、「見かけの美醜」などでも人を差別しています。また大人たちは、大人にとって「都合がよい子」と「悪い子」を差別しています。先生も「先生の言うことを聞く子」と「聞かない子」を差別しています。「先生の言うことを聞かない子」は「問題児」や「発達障害児」として扱われます。戦争中、国は「国の言うことを聞かない人」を「非国民」と呼んで差別しました。コロナ騒動下では、ワクチンを拒否する人たちは「陰謀論者」などと呼ばれました。マスクをしない人や、ワクチンを打たない人は差別されました。でも、「そういう差別は止めよう」という声は上がりませんでした。むしろ、マスコミはその差別を積極的に肯定しました。食べ物の好き嫌いもまた差別です。食べ物に対する差別です。洋服の好き嫌いもまた差別です。一般的にはそういうものは「差別」としては扱われませんが、差別を生み出している根幹は「好き嫌いの感情」に基づく「個人の価値観」や「社会の価値観」ですから、そこに本質的な違いはありません。ただ、食べ物や洋服は「差別反対」などと声を上げないので「差別」として認識されないだけです。かわいい動物は肯定され、守られますが、醜い生き物は否定され、駆除されます。そして「好き嫌い」の感情は永遠になくなりません。脳をいじって好き嫌いの感情を消したら、もうそれは「人間」ではありません。人間以外の生き物たちにも好き嫌いはあります。その好き嫌いに従って生きています。猫や犬にも好き嫌いはあります。動物に好かれやす人もいれば嫌われやすい人もいます。蚊にも好き嫌いがあるようです。そんな時、動物たちに「差別はよくないんだぞ」と言っても無意味です。その好き嫌いの基準は個人にもありますが、時代が作り出しているものもあります。現代社会における「差別はいけない」という価値基準も時代が創り出しているものです。ですから。そこに客観的な根拠などありません。そのため、人間の都合の良いように使われています。いまでは「人種差別は良くない」などと言われますが、奴隷制度が肯定されていた時代は、奴隷を牛や馬のように扱うのは差別ではありませんでした。また現代社会でも、「差別はいけない」と言いながら、差別している人を平気で差別します。「人殺しはよくない」と言いながら、人を殺した人は殺してもいい制度になっています。ネットで「外来種は殺していい?アメザリ踏みつぶす子ども 命の尊さどう伝える」という記事を読みました。テレビなどでも、「在来種」は「守るべき対象」で、「外来種」は「駆除する対象」として扱われています。外来種を駆除するのは「善」なんです。この場合の「駆除」は殺すことを意味しています。つまり、外来種だったら殺してもいいのです。それが「善」なんです。私には、これは、生き物をその出身によって差別する立派な差別だと思えるのですが、「生き物を出身によって差別するな」などと訴える人をテレビで見たことがありません。これは外国人差別とどう違うのでしょうか。ちなみに私たちが普通に食べているナスも、トウモロコシも、トマトも、元々は外国から来たものです。これらが差別されないのは、ただ日本人の生活に溶け込んでしまったからにすぎません。そこに人間の身勝手があります。自分たちの利益につながらないものは否定し、利益につながるものなら積極的に肯定するのです。これが差別の根本原理です。皮肉なことに、差別をなくそうとする意識がこの世界の多様性を否定し、人々の意識の中に差別を生み出しているのです。差別する人がいたっていいのです。「そういう人もいるよね」で済ませてしまえばいいのです。そういう人が嫌いならば近くに寄らなければいいのです。ただそれだけのことです。政治はそれでは困りますが、個人の生活ではそれでいいはずなんです。それなのに、みんなでよってたかって差別する人を否定、非難、差別しています。相手が芸能人のような有名人ならなおさらです。相手を否定非難することで、「自分は正しい人間なんだ」ということをアピールしようとしているのでしょう。でもこれも立派な差別ですよね。目くじらを立ててそういう人を否定し、排除しようとすることでまた別の差別が生まれてしまうのです。でも、差別する側が多数派に属しているときにはそれは「差別」として否定されません。ただそれだけのことです。幼い子ども達は肌の色が違っていても、障害を持っていても、そんなこと気にしないでみんな楽しく遊ぶことが出来ます。虫や草花とも仲良く遊んでいます。差別反対などと言う子どもはいません。そもそもそんな言葉知りません。差別という概念も理解できません。「差別反対」を叫ぶから「差別がない社会」が生まれるわけではないのです。本当に大切なことは、人間の価値観が作り出した基準に従って差別を否定することではなく「自然が創り出したありのままの多様性」を肯定することなんです。一見、「差別の否定」と「多様性の肯定」は似ているように見えますが、実際には正反対なんです。「差別」は人間が創り出したものですが、「多様性」は自然が創り出したものだからです。ちなみに、自然界では「男」(オス)と「女」(メス)の間に明確な境界はありません。都合に合わせてオスになったりメスになったりする生き物も、最初からオスとメスの区別がない生き物もいるのですから。「男・女を差別してはいけない」などといいますが、そもそも男性と女性の間に本質的な違いはないのです。でも、「男・女を差別してはいけない」と価値基準を固定することで、「男性」と「女性」を概念として固定化してしまっているのです。
2023.09.04
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「頭を使う」と言うことは、「とりあえずやってみる」ということなのです。体験がないことをいくら考えても分かる訳がないのですから。幼い子ども達は常にそれを実践しています。そしてお母さんに叱られています。知識もあり、経験もある大人の場合は頭の中だけで考えることも可能です。でも、知識も経験もない子どもが頭の中だけで考えてもなんにも出て来るわけがないのです。これは子どもに限らず、大人でも同じです。結婚でも子育てでも就職でも趣味でも何でも、新しいことに挑戦する場合はとにかくまずやってみることです。うまく行かなければあれこれ試行錯誤するのです。とにかくやってみるのです。やってみないことには「知らないこと」や「新しいこと」と出会えないのですから。また、試行錯誤して「知らないこと」や「新しいこと」と出会えなければ、いつまで経っても、自分の考え方や感覚をバージョンアップすることが出来ません。そのため自分の頭で考えることも出来るようにはなりません。そして、悩みばかりが増えていきます。本来、「悩むこと」と「考えること」は全く別のことなのですが、その区別が付かない人が多いのです。悩んでばかりいる人に「もうちょっとちゃんと考えたら」と言うと、「私だっていっぱい考えているのよ」と怒りの声が返ってきます。勉強でも同じです。以前、うちの子が数学の問題を前にして「わからない」と繰り返していたので、「眺めているだけでは頭は働かないよ」と言いました。特に初心者の場合は、問題を図式化したり、絵に描いたりしてみたりして手を動かして考えないことには頭は働かないのです。頭の中だけで考えることが出来るのは上級者だけです。ソロバン上級者の驚異的な暗算能力も同じですよね。実際にソロバンの珠をはじいて計算しているうちに、やがて頭の中だけでも計算が出来るようになるのです。繰り返し繰り返しの練習で頭の中にソロバンが入ってしまうからです。将棋も同じですよね。そして、実は勉強でも同じなんです。子ども達の思考力は実際に手を使い、感覚を使い、からだを使って、あれこれ試行錯誤する過程で身についていくのです。子どもや初心者にとって「試行錯誤」は「思考」そのものなのです。試行錯誤が「発見」を促し、それが思考を目覚めさせるのです。様々な子どものイタズラもその試行錯誤の現れです。つまり、子どものイタズラは子どもの思考の現れなのです。ですから、子どもがイタズラをした場合は、ただ叱るだけでなくそのイタズラを通して子どもが何を発見して楽しんでいるのかを考えてみて下さい。そのことを理解することがまた、子どもの「困ったイタズラ」を減らすことにもなるのです。(ただし、延々と同じイタズラにこだわる時には、心のトラブルや発達障害の可能性があるので要注意です。一般的には発見の驚きが収まれば、そのイタズラは収まっていきます。)でも、今の子どもたちはこの試行錯誤が出来ないのです。試行錯誤を「発見」と考えずに「失敗」と考えてしまうからです。そして、なぜか失敗を非常に恐れるのです。幼い時から試行錯誤の楽しさを体験していないからなのでしょう。だから、眺めるだけで手を出さないのです。失敗したら嫌だからです。だからいつまで経っても上手にもならないし、考えることが出来るようにもならないのです。失敗によって思考停止してしまう人は、失敗を恐れるあまりどんどん自分の世界を狭めていってしまいます。この世界には「失敗」などないのです。ただ「発見」があるばかりです。そして、その発見を積み重ねることで「考える能力」が育つのです。ですから、失敗が評価を下げることにつながるような教育システムを行っている限り、子どもの思考力はどんどん低下して行くのです。でもそれが日本の教育システムです。また、親が、失敗に不寛容だと子どもは自分の頭で考えなくなります。
2023.09.03
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いつも通っている、家から駅やお店などへの道は見慣れていますよね。でも、その道しか知らないのではありませんか。そぐ側にある路地は入ったことがないのではありませんか。そんな時、少し遠回りだったとしてもいつもとは別の道を歩いてみませんか。小さな「旅」が始まるかも知れませんよ。ちょっと路地を入っただけで、「よく知っている」と思い込んでいた町が「見知らぬ町」へと変貌します。そこには、自分が知らない風景が広がっています。そして、新しい発見もあるかも知れません。遠くに行くだけが「旅」ではないのです。どんなに遠くに行っても、ガイドに連れ回されているだけだったり、観光地巡りをしているだけでは、「旅行」は出来ても「旅」は出来ないのです。私は「旅」と「旅行」は違うものだと考えています。昔から、旅をしている人を「旅人(たびびと)」と呼びます。でも、普通に旅行している人を「旅人」とは言いませんよね。「スナフキン」は「旅人」であって、「旅行者」ではないですよね。このニュアンスの違いがお分かり頂けるでしょうか。「旅行」には目的があります。でも、「旅」には目的がありません。そして、目的がないので自由です。自分の心や感覚と対話しながら心の赴くままに歩くのが「旅」なんです。でもそれ故に「自分」と出会うことが出来るのです。「人生」は「旅」に例えられますが、それは人生にも「固定された目的」がないからです。毎日新しいことに出会い、その出会いを楽しみ、その出会いの中に自分で意味を見いだしていくのが「人生という旅」なんです。でも、忙しい現代人は、「旅行」はしても、「旅」をしなくなりました。「忙」という字は「心を失う」と書くのですが、心を失った人には旅が出来ないのです。目的がないのでどうしたらいいのかが分からないのです。そして、「自分の人生」の生き方も分からなくなりました。でも、「いつもと違う道」を歩いたり「いつもと違うやり方」を試してみて、それを楽しむようにしていると少しずつ「旅」の感覚が分かってくると思います。「新しい自分」と出会えるかも知れません。そして、「新しい自分」と出会えれば、「新しい発見」もあります。「自分」が変われば、世界も変わります。子育てでも「いつもやっているやり方」がうまく行かないのなら、あれこれ色々なやり方を試してみて下さい。ただし、「楽しみながら」です。楽しもうとしていなければ「旅」にはならないし「新しい自分」とも出会えません。私は30才の頃に、リュック一つで一年近くヨーロッパやインドをウロウロしてきましたが、毎日毎日が新しいことの連続で、常に自分と向き合っていました。今日は何をするか、明日は何をするか、今日はどこに行くか、明日はどこに行くかということを毎日考え続けていました。新しい町や新しい国に入るたびに、人々の様子や町の様子を観察しました。アジアでは、小さなものを一つ買うだけで値段交渉が必要でした。その度に、「どうやってまけさせようか」と一生懸命に考えました。旅をしていると同じ毎日はやってきません。自分の頭で考え、自分の意志で行動しないと何も始まらないのです。それは緊張の連続ではありましたが、また、その緊張が楽しかったのです。また旅に出たいです。
2023.09.02
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お話や物語の中では自分が「自分以外のもの」になって色々と体験することが出来ます。「旅に出る」ということが「日常から離れ、非日常の世界に入って行く」というなら、これもまた立派な「旅」です。「心の旅」です。観光名所めぐりや、買い物や、美味しいものを食べることだけが目的の旅行よりも、ズ~っと「旅」です。そして人は、その「旅」で色々なものに出会い、色々なものを見て、色々なものを感じて、色々な体験をして、自分の「心の世界」を広げることが出来ます。ただし、その「心の旅」が出来るようになるためには、子どものころにいっぱいお話しを聞いたり、いっぱい物語を読む必要があります。心の中であれこれ空想するだけのことなら、お話しを聞いたり物語を読むことなく育った人でも出来ますが、そういう人は「他者の視点」に立つことが出来ないため、「自分」から外に出て「旅」をすることが出来ないのです。だから「新しい出会い」も生まれないのです。実は、「他者の視点に立つ」というのは、心の体験を通して学ぶ一つのスキルなんです。その体験を与えてくれるのが「お話し」であり「物語」なんです。「他者の視点によって表現された言葉の世界」との出会いが、子どもたちの「他者の視点に立つ能力」を育ててくれるのです。そのため、いくらいっぱいテレビやタブレットで「お話し」を見せても、「他者の視点に立つ能力」は育たないのです。古来から、「お話し」は見るものではなく「聞くもの」なんです。「物語」も同じです。文字が読めるようになったら自分で読んでもいいのですが、映像化されたものを見ても、「他者の視点に立つ体験」は出来ないのです。ドラえもんの体験はドラえもんの体験のままであって、自分の体験にはならないのです。なぜなら、「視覚の働き」が自分と他者を分離してしまうからです。それが「視覚」の長所であると同時に短所でもあるのです。そのため、いくらいっぱいテレビでお話しや物語を見せても、「他者の視点に立つ能力」は育たないのです。ではその違いはどういう所で表れるのかということです。特攻隊の生き残りだった父親からもよく聞かされましたが、戦争中、上官が理不尽な理由で新兵をいじめ、しごくのは当たり前だったそうです。それで自殺してしまった仲間も数人いたそうです。そのような上官は「俺も新兵の時にはしごかれた、だから今度は俺がお前らをしごく番だ」と、自分の行為を正当化していたようです。でもその一方で、「俺は新兵の時にしごかれて苦しい思いをした、だから俺はしごかない」という判断をすることが出来た上官もいたそうです。父親はそういう上官に恵まれたようです。それで、命が助かったのです。他者の視点に立てる人は、相手の立場に立って優しくすることが出来ます。でも、他者の視点に立てない人は、ただ自分勝手な思い込みを「あんたのためなんだから」と押し付けます。そして、そういう優しさしか思いつきません。相手のことを想っているのは確かでも、相手の立場や気持ちや感覚を無視しているのです。勝ち負けばかりにこだわり、相手の気持ちを考える事が出来ない子も同じ状態です。災害にあった人に救援物資を送る場合も、相手の立場に立つことが出来る人は「本当に相手が必要としているもの」を送ります。でも、相手の立場に立つことが出来ない人は「自分が送りたいもの」を送ります。そして送られた方は処分に困ります。そして実は、幼い頃からのお話しや物語の体験の有無がその違いを生み出しているのです。私はお母さん達から色々な話を聞いていますが、「虐待されて育ったから我が子も虐待してしまう」と言う人もいれば、「虐待されて育ったから、自分は絶対に虐待しない」とそれを貫くことが出来る人もいます。そういう人に共通しているのは「お話し好き」「本好き」だということです。単純な負の連鎖を食い止めることが出来るのは、子どもの頃からいっぱい本を読んで育った人に多いのです。(私の印象では、ということです。)また、子どもの頃にはあまり自然の中で遊んだ体験がないのに、大人になってから自然の中での活動が好きになった人の話を聞くと、子どもの頃から本の中では自然や仲間と出会い、色々な体験をしていた人が多いのです。「お母さんから聞いた桃太郎」と「テレビで見た桃太郎」は全く別物なんです。
2023.09.01
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「旅に出る」ということは「日常から離れ、非日常の世界に入って行く」ということでもあります。「非日常の世界」ですから、そこでは「いつものやり方」が通用しません。「新しい出会い」「新しい体験」に溢れています。電車や飛行機に乗って遠くに行くだけが旅ではありません。会社の出張のように、遠くに行ってもそこにあるのが「日常」だけなら、それは「場所を移動した」だけであって「旅」ではないのです。そして、それが「旅」の特徴ならば、意識を切り替えるだけで「旅」は日常生活の中でも簡単にできるのです。人生そのものが新しいことが連続して起きている「旅」そのものなんですから。昨日私がいた世界と、今日私がいる世界は別の世界です。天気も違えば、わずかでも季節も違います。自然界の状況も、人々の状況も、わが子の状況も刻々と変化しています。自分の年齢も1日分増えています。太陽系の中の地球の位置も、銀河系の中の太陽系の位置も違います。そして毎日毎日、確実に「旅のゴール」(自分の死)に近づいています。変わらないのは「頭の中に作り上げた世界」だけです。「実際の自分」や「実際の我が子」は日々変化しているのに、「頭の中の自分」や「頭の中の我が子」は記憶によって固定されたままなんです。だから、現実生活の中で辻褄が合わなくなってしまうのです。「昔のように飛べる」と思って飛び込んだ縄跳びで、最初のジャンプで「あ、無理!」と感じたことはありませんか。(実際、そう叫んだお母さんがいました)それに気付き、そういうことに意識を向けることができる人にとっては「人生」そのものが「旅」になります。ですから、日々の生活の中での出会いを楽しみ、別れを悲しみます。俳人の松尾芭蕉は「 おくのほそ道 」の中で「月日は百代の過客にして、行き交ふ年もまた旅人なり」と言いました。また、茶道でも「一期一会」を大切にします。空を見上げて「雲」を見てみてください。その「雲」は昨日の雲とは違う雲です。昨日どころか一分、一秒前の雲とも違う雲です。我が子を見てみてください。お母さんの頭の中では「昨日の我が子」も「今日の我が子」も同じかもしれませんが、それは「脳の中にいる我が子」であって、「目の前に現実にいる我が子」ではありません。そういう意識で子どもを、自分を、自然を、人間の社会を見てみてください。すべてのものが愛おしくなりますから。子どもたちにとっては毎日が新しい出会いに満ちた旅です。だから、明日は何が起きるんだろうとワクワクしながら生きています。でも、狭い部屋の中に閉じ込められ、モノや機械だけを与えられ、新しい出会いや新しい体験を奪われてしまった子は、旅を楽しむことが出来なくなってしまいます。自分の意志で旅を続ける意欲も萎えてしまいます。「人生という旅」に興味を失ってしまいます。それは、せっかく旅に出たのに、バスから外に出ることを禁じられ、旅行会社が手配した土産物屋や、レストランにしか行けない旅のようです。
2023.08.31
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現代人はどんどん「視野」が狭くなってしまっています。「全体」は見ずに、「部分」だけを見ようとしています。「時間の流れ」は見ずに、「マスコミによって切り取られた今」だけを見ています。「つながりの中の自分」のことは忘れ、「自分の欲望を満たすために必要なこと」ばかり考えています。関係性の中で物事を見ることをせずに、自分にとって関心のあることだけを見ています。マスコミや学校や偉い人が言うことをそのまま素直に信じてしまい、自分の頭で考えようとしていません。なぜその問題が起きてるのかを理解することをせず、ただ、目先の問題の解決法ばかりを求めています。自分の頭で考えようとしません。自分の感覚で感じようとしません。自分の意志と責任で行動しようとしません。もちろん、そうでない人もいっぱいいますが、社会全体の流れは確実にそのような方向に向かっていると思います。なぜなら、何十年にもわたって学校がそういう教育をして来たからです。明治維新以降、学校が富国強兵のために、「みんな一緒」、「みんな同じ」を目指す教育をして来たので、学校を出た人たちによって支えられている社会も、必然的に同じ価値観に支配されてしまったのです。また、第二次世界大戦の敗戦以降は経済復興のために同じ方法がとられました。ちょっと人間的な行為に走ってしまった芸能人を、みんなで寄ってたかって非難、否定、排除しようとする光景は異常です。たとえ有名人であっても、自分とは直接関係のない人の生き方を、非難、否定する権利は誰にもないはずなのに、なぜかみんな砂糖にたかる蟻のようにその「非難・否定祭り」に参加するのです。そしてテレビは、その騒動をあおっています。「アイドルには恋人がいてはいけない」などという不条理がそのまま肯定されています。「アイドル」は、「商品」であって「人間」ではないからです。でも、若い子は「自分を人間扱いしてくれない世界」にあこがれています。「みんな一緒」や「みんな同じ」を大切にしている社会では「自分らしい生き方」や「人間としての尊厳」は価値を持たないのです。でも、そのような価値観に支配された社会は見せかけだけで成り立っているので、時間とともに活力を失います。それが今の日本です。そのような社会で人々は、自分の独自性を生かして自分らしく生きようとするのではなく、似た者同士の群れの中で「競争に勝つ」ことだけを求めようとするようになっています。でも心の奥底ではみんな、その状態に満足していないように見えます。それが、自信のなさや、自己肯定感の低さにも表れています。また、「みんな一緒」や「みんな同じ」を強制される社会的価値観によって、多くのお母さんが、子育てや人間関係の中で苦しんでいます。もちろん、子どもたちも苦しんでいます。だからといって、「みんな一緒」や「みんな同じ」という価値観に束縛されずに自由に生きる能力も自信もありません。そもそも、自分がそういう状態であることに気付いていない人の方が多いかもしれません。そのような状態に気づき、「心の自由」を取り戻すためには「心の旅」に出ることをお勧めします。リアルな旅でもいいのですが「心の旅」の方が確実に一人になることが出来るし、自分と向き合うことが出来るからです。<続きます>
2023.08.30
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人間の最大の特徴は「自由」であることです。でも、「自由」が存在するためには「不自由」が必要になるのです。「善」が存在するためには「悪」が必要です。「光」が存在するためには「闇」が必要です。「下」が存在するためには「上」が必要です。「中」が存在するためには「外」が必要です。「自分」が存在するためには「他人」が必要です。そうですよね。だから「自由」だけを求めて「不自由」を嫌い遠ざけていたら、困ったことに「自由」も消えてしまうのです。問題は、その本人は「自由が失われたこと」に気付かないということです。何ら具体的な不自由があるわけではないからです。それは、「動きを邪魔するようなもの」が何もない広いところに連れていかれて、「自由に動いてもいいよ、何してもいいよ」と言われるようなものです。最初のうちは、「やったー」と思い、色々と動き回ったりするかもしれませんが、邪魔するものがないということは、「自分の能力」を上達させる機会も、使う機会も、ハラハラドキドキする機会も存在しないということです。自分の行為に意味も目的も持てないということです。そして、同じ事ばかりを繰り返すようになります。「自分という檻」に閉じ込められてしまうからです。そしてその檻には出口がありません。またそのため、成長も止まってしまいます。成長は「乗り越えるべきもの」が存在するからこそ必要になる現象だからです。「重力」があるから、それに逆らって立ち上がり、歩くという能力が育つのです。それが、本能的に「自由」を求める人間の特性なんです。言葉が分からないと一人ぼっちになってしまって寂しいから、子どもは言葉を覚え、ほかの人とコミュニケーションを取ろうとするのです。だから、大人は子どもに必要以上の自由を与えてはいけないのです。人間は何もできない未熟な状態で生まれてくるからこそ、自分の成長によって自由を手に入れようとするようになるのです。昔の子どもたちには、遊具など皆無のただの空き地や、路地裏や、野原や、山の中で遊んでいました。大人が作った遊具などなくても、そこにあるものをうまく使って遊びを作り出していました。木や、石や、木の実や、葉っぱも立派な遊び道具だったのです。水や風や光も遊び道具でした。「影ふみ」という遊びは光を使った遊びです。「影絵遊び」も光を使った遊びです。重力も、地面も、からだも、遊び道具です。路地裏も、さらには大人も遊び道具でした。「大人に隠れて悪いことをする」というスリルはワクワクします。「遊具」に慣れてしまった最近の子を、そういうものがない所に連れて行っても、遊びません。というか、遊べませんす。最近の子は、「子どもを遊ばせてくれるもの」が何もないところで遊ぶ能力が育っていないからです。大人たちは、安易に子どもに自由を与えることで、子どもが自分の力で自由を得る能力を育てる機会を奪ってしまったのです。子どもを「つながりという不自由」から切り離し、ゲームのように一人で自由に、簡単に遊べるおもちゃや遊具を与えるということはそういうことなんです。さらに大人たちは、自分の力では乗り越えることが出来ない壁で子どもたちを取り囲んでいます。そういう状態で育っている子どもたちが無力感を感じ、自己肯定感を育てることが出来ないのは当然のことです。
2023.08.29
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人類は自由に考える能力を得た時点で、仲間からも自然からも切り離された存在になってしまいました。人類は「自由」と引き替えに「つながり」を失い、「孤独」という重荷を背負わなければならない宿命を負ったのです。その能力こそがアダムとイブが食べてしまったとされる「禁断の木の実」なのでしょう。そしてだからこそ、人間は常に「つながる努力」をする必要があるのです。人類が「心の自由」を得た時点で、「つながり」は「遺伝子によって与えられるもの」ではなく、自分たちの意思と努力で、育て、守り、伝えていかなければならないものになったのです。そうしないと、人間はすぐにバラバラになってしまう宿命を背負った生き物なのです。それでも、人類がまだ一人で生きるのが困難な時代には、みんなが支え合い、つながり合って生きていました。人類の能力は、一人で生きて行くのには適していなかったからです。助け合わないと生きて行くことが出来なかったのです。そして、支え合い、つながり合う努力をする過程で部族のつながりが生まれ、村が生まれ、社会が生まれ、国が生まれ、様々な知識や技術や文化が生まれ、そして受け継がれるようになりました。でも、社会が大きくなり、そのシステムが固定化してくると、相対的にその「つながり」の役割は小さくなりました。「人と人のつながり」によって支えられていた社会が、「つながり」ではなく、規則やシステムというものによって支えられるようになってきたからです。何百人、何千人、何万人という人たちが暮らす社会は「つながり」だけでは維持できないのです。さらに、「お金」が社会を支えるようになると、ますます「人と人の直接的つながり」は消え、人々は「お金」を介在してつながるようになりました。でもこのつながりは「お金」が消えると同時に消えてしまう儚いものです。「金の切れ目が縁の切れ目」ということわざの通りです。それでも、「地域社会」が活性化していた頃は、ほとんどの人々は人と人のつながりを大切にして生きてきました。お金さえあれば、「つながり」から外れても生きて行くことは出来ますが、「つながり」の中にいないと、その土地に根ざした生活が出来なかったからです。でも、その地域も崩壊し、社会の中に便利な機械や、お店や、生活のシステムが整ってくると、「つながり」は面倒くさいだけの「無駄なもの」になりました。それでも、人は一人では寂しいので一緒にいようとはするのですが、一緒に何かをするだけでそこに「つながり」はありません。先日、うちの教室の生徒が「今日は教室に来るまでズーッと○○と遊んでいた」と言いました。「○○くん」もうちの教室の生徒です。それで、「二人で遊んでいるときは何をしているの」と聞きました。すると、当然のことにように「ゲーム」と答えました。それで、「ネットか何かで対戦して遊ぶの」と聞いたら、そうではなくバラバラのゲームをやっていたそうなのです。一つの部屋の中で、二人の男の子が別々のゲームをやっていて、それを「一緒に遊んでいた」と表現したのです。このような状態は子どもだけでなく、大人でも同じでしょう。よく、お母さんがお父さんに「たまには子どもと遊んであげてよ」と言うと、「じゃあ、一緒に買い物に行こう」と出かけるお父さんが多いそうですが、これもまた同じです。そしてそれは現代人の一般的な感覚なのだと思います。でも、そのような関わり方では子どもが育たないのです。人間の様々な能力は、「人と人の直接的なつながり」の中での様々な学びと体験を通して育つように出来ているからです。「つながり」が失われた状態の中で育っている子どもは、意識や意欲が閉ざされてしまうため、いつも同じ事ばかりして遊ぶようになります。そして、「外の世界とのつながり」を拒否して、「自分だけの世界の中で自由に生きる」ことを求めるようになります。でもその結果、学ぶ事への意欲が萎えます、つながりの中でしか育たない様々な可能性も消えてしまいます。子どもの成長には意識を広げるための多様な体験が必要なのです。そして、そのためには様々な形の「つながり」が必要なのです。「つながり」は「体験」を通してしか生まれないからです。だから、「子育て」はお母さんたちの「つながり作り」や「仲間作り」と並行して行う必要があるのです。そして、そのことでお母さんもまた育ち直しが出来るのです。
2023.08.28
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そして、対話ができる人は退屈しません。一人でいても、雲や草を見ているだけでも、オモチャやゲームがなくても退屈しません。それ故、待つことができます。また、自分の力で学ぶことができます。対話が発見を促すからです。「学ぶ」ということは、単に「暗記する」ことではありません。単に良い成績をとるためだけだったら暗記が一番手っ取り早いのですが、いくら山のように暗記しても、それが自分自身の成長につながっていないのなら全く無意味だし、無駄なことです。また、人生で色々なことを学ばなければならない大切な時期に、「暗記させるだけのお勉強」をさせるのは子どもに対する冒涜でもあります。でも、「子どもの成長」ではなく「子どもの成績」にしか興味がない大人たちは平気で子どもたちに「学び」ではなく「暗記」を強いています。大人たち自身が「学ぶとはどういうことなのか」とか「学ぶ喜び」ということが分からなくなってしまったのでしょう。でもその結果、肉体は成長しても、心や知性が成長できない子どもたちが増えています。そのまま大人になっている人もいっぱいいます。名探偵コナンの逆です。「見かけは大人、中身は子ども」なんです。そういう人は、自分の頭で考えることも、自分の感覚で感じ、自分の意志と責任で行動することができません。そして、常に人と自分を比較し人目を気にしています。何かを食べるときには、リスのようにただ食べ物を口に詰め込むだけではないですよね。まず、味わい咀嚼しますよね。それに相当するのが「対話」なんです。「1+1=2」を暗記するだけでは学びにはならないのです。「1+1=2」を味わい、咀嚼することでそれが学びになるのです。「どんぐりクラブ」という所がやっている算数の学び方がありますが、「どんぐりクラブ」では問題の文章を絵に描かせることで、問題と対話させているようです。絵を描いて問題と対話しているうちに何がどうなっているのかが自然と分かってくるのです。私は自宅では造形教室をやっていますが、造形の場でも同じです。対話能力がある子は、あれこれやってみます。そうやって対象と対話しているうちに「どうしたらいいのか」が自然と見えてくるのです。でも対話能力が乏しい子はただ頭の中だけで考えようとします。でも、それ以前に様々な体験を通して学んできた子なら頭の中だけでも考えることができるのですが、ただ暗記するような学びしかしてこなかった子は、何をどう考えたらいいのかということ自体が分からないのです。子どもたちは、手を動かし、体を動かしながら対象と対話することで、思考力を育てています。ですから、体験が乏しい子は思考力自体が育っていないので、「考えなさい」などと言われても、どうしたらいいのかわからないのです。そのため、対話能力がない子は最初から「やり方」を聞いてきます。そして、そのやり方にこだわります。そしてすぐに行き詰ります。大まかなやり方を教えても、その時に使う木も紙も、一つ一つ違います。また、子どもの能力も違います。A君はそのやり方で出来ても、B君もそれと同じやり方でできるかどうかは不明なんです。ノコギリやトンカチが上手な子と下手な子とでは、当然のことながら同じやり方はできないのです。だから自分の能力に合わせたやり方を、対象と対話しながら自分で発見していくしかないのです。あと、対話が苦手な子は応用も苦手です。「あのパーツがないからこれで代用しよう」という発想ができないのです。工作の本を読んで作るときに、本に書いてあるのとまったく同じ材料がないと作れないのです。また、本に「○○センチの棒」と書いてあったら、「○○センチの棒」にこだわります。そんなの「○○センチでなくて、こっちの方もそれに合わせればいいんだから何センチだって同じだよ」と言っても、本に書いてある通りに作ろうとするのです。でも、そういう子はほぼ必ず途中で挫折します。対話能力が育っていない子は、自分の頭で考え、自分の感覚で感じ、自分の意志と責任で行動する能力が育っていないので、すぐに、誰かや何かに依存しようとします。
2023.08.27
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「対話」は、問いかけることから始まります。自分を相手に分からせようとするのではなく、相手のことを知ろうとすることで対話が生まれるのです。ただ話し合うのは「会話」であって「対話」ではありません。また、「対話」の相手は必ずしも人間に限定されません。青い空を見て、空の青さに不思議を感じ、もっと知りたいと見えないものを観ようとする時に「青い空との対話」が始まるのです。相手に対する興味や、好奇心や、尊敬がないと対話は生まれないのです。芸術家と呼ばれる人たちは、色や光や音と対話することが出来ます。色や光や音を「言葉」として聞き取ることが出来るのです。整体の先生は、相手のからだに触れることで、相手のからだと対話することが出来ます。武道をやっている人も非言語的コミュニケーションが得意です。ガーデニングが得意な人は草や木と対話することが出来ます。料理人は素材との対話が出来ます。そしてこの能力があれば生まれたばっかりの赤ちゃんとだって対話することが出来ます。私は、私たちのこのような能力は自然との関わり合いを通して身に着けたものなのではないかと思っています。そして、日本人は特にこの能力に優れています。自然は常に変化しています。そして自然の状態は人間の生活に直結しています。日照りが続けば、野菜や草木が枯れてしまいます。害虫や病気が流行っても野菜や草木は枯れてしまいます。そして、生存の危機に見舞われます。また、船乗りは海や空と対話が出来ないと、獲物を取ることが出来ないどころか、命の危険に見舞われます。自然と共に生きていた人たちは、自然との対話を通してそういうちょっとした変化に気づき、身を守り、獲物を捕っていたのです。でも、現代人は社会の近代化と共に自然から離れてしまいました。そして感覚や感性ではなく「言葉」に依存したコミュニケーションを使うようになりました。その結果、日本人が民族的感性として持っていた「自然とやり取りする能力」も萎えてしまいました。幼い子どもと対話する能力も萎えてしまいました。それと同時に子育てが下手になりました。江戸末期に日本に来た欧米人が一様に驚いたのは、日本人の子育て上手なところでした。自然と関わるように子どもと関わっていたのでしょう。でも日本人は、昔から論理的に考えるのは得意ではありません。日本語自体が感覚的で非論理的な言葉だからです。それを補っていたのが言葉に寄らないコミュニケーション能力だったのですが。それも萎えてしまった今、人と人のつながり、人と自然とのつながりが希薄になってしまいました。青い空に問いかけてみて下さい。一輪の花に問いかけてみて下さい。道端に落ちている小石に問いかけてみて下さい。物言わぬ赤ちゃんに問いかけてみて下さい。そして心の奥底でその声を聴いてみて下さい。一生懸命に問いかけると、答えてくれますよ。
2023.08.26
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「話し合い」とは、何らかの問題解決のために意見を交換することです。結論を出す場合もありますが、結論が出なかったり、あえて結論を出さないこともあります。相互の関係づくりに役立ちます。「議論」とは言葉の論理を使ってどちらの考え方の方が正しいのかを決めるための戦いです。ただしこの「正しい」に客観性はありません。「議論に勝った方の意見が正しい考え方として認められる」というだけのことです。そのため、勝った方の意見が本当に正しいかどうかは不明です。裁判で冤罪が起きるのはそのためです。また議論では、言葉の論理に巧みな人の方が有利です。本当のことを言ってもそれを証明できなければ嘘だとして処理されることもあります。この「話し合い」とか「議論」は、仕事の現場などでもよく行われています。「話し合い」は学校でも使われています。「話し合い」では「自分の気持ち」や「自分の考え」をお互いに伝え合うだけで、勝ち負けは競いません。だから、子どもにもできるし、子どもたち同士の関係づくりにも役に立ちます。でも、思春期前の子どもたちにはまだ議論は出来ません。議論が可能になるのは客観的に物事を考えることが出来るようになる中学生ごろからです。ただし、これには個人差が大きくて、「言葉の論理」の学びや、「客観性の育ち」が遅れている子は、中学生になっても議論が出来ません。大人でも出来ない人がほとんどです。日本の学校ではこういう能力を育てるような教育をしていないからです。そのため、日本の政治家や商人は、外国の政治家や商人に簡単に言いくるめられます。インドでも、多くの日本人観光客が値段交渉が出来ずに、相手の言いなりのお金を払っています。ただし、議論は一種の戦いであるがゆえにユーモアが絶対的に必要になります。ユーモアを伴わない議論は対立ばかりを生み出し、時には悲惨な結果につながります。インドの値下げ交渉でもユーモアは絶対的に必要です。楽しく話を進めないとまけてくれませんから。私はインドでだいぶ鍛えられました。議論が苦手な日本人は、このユーモアも苦手です。ちなみに、この場合の「ユーモア」とは「おやじギャグ」のようなものではありません。「論理的な遊び」のようなものです。日本では、単なる勝ち負けを競うような言い合いを「議論」だと勘違いしている人も多いですが、そこに「言葉の論理」や「客観性」や「ユーモア」がなければ、それは「議論」ではなく「罵り合い」に過ぎません。あと、「話し合い」や「議論」のほかに「対話」というものがあります。日本人は議論は苦手ですが、対話は得意です。ただしこれは昔の日本人の話です。現代人は対話も苦手です。対話能力が育つような生活文化や生活環境が、社会の近代化と共に消えてしまったからです。職人の世界は「見て学ぶ世界」です。丁寧に教えてはくれません。言葉で説明もしてくれません。だからといって見ているだけでは学べません。そこで対話が必要になるのです。対話と言っても「言葉を使わない対話」です。話し合いや議論では、必ず「言葉」を使いますが、「対話」では必ずしも「言葉」を必要としないのです。目と目、表情と表情、しぐさとしぐさだけでも「対話」は出来るのです。草や木のような「人間ではない相手」とも、対話は出来ます。音や光とも対話が出来ます。産まれたばかりの赤ちゃんとも対話が出来ます。言葉を使って対話する時も、「相手が言った言葉」だけを相手にするのではなく、口に出される以前の「心の中の言葉」にも耳を澄ませる必要があります。そうでないと「対話」は出来ないのです。特に、言語能力が未熟な子どもと対話する時には、「心の中の言葉」にも耳を傾ける必要があります。でも、そういう対話が出来る人は少数です。そして実は、この世界には、そんな「対話」という方法でしか入ることが出来ない世界がいっぱいあるのです。
2023.08.25
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自分を変え、自分を成長させるためには「自分との対話」や「他者との対話」が絶対的に必要です。「他者との対話」がなければ、「新しい世界」や「自分自身」と出会えません。「自分との対話」がなければ、出会ったものを自分の内側に取り込むことが出来ません。「成長する」ということは「量」が増えることではなく「質」が変わっていくことです。10個しかなかった知識を100個にするようなことではなく、それまで理解できなかったことが理解できるようになることです。種や苗木がそのままの姿で大きくなってもそれは成長ではないのです。そして、「質」が変わるためには、自分とは異なった別の「質」との出会いが必要になるのです。そのために必要なのが「対話」なんです。人が自分の顔を見るためには「鏡」が必要ですよね。鏡のような「自分を映すもの」がなければ、人は、たとえ自分自身のことであっても分からないのです。寝ている間に、誰かがあなたの顔に絵を描いても、鏡を見たり、他の人の反応に触れなければ自分の顔に描かれた絵に気づくことは出来ないのです。よく人は「自分のことは自分が一番よく知っている」と言いますが、「自分が知っている自分」は「自分の頭の中だけに存在している自分」に過ぎません。「頭の中の自分を含む大きな自分」のことは知らいないのです。「自分の目」で直接「自分の目」を見ることが出来ないのと同じように、人は、「頭の中の自分を見ている自分」を直接見ることは出来ないのです。「自分が知っている自分」は、自分自身が自分の頭の中に創り上げた「自分の頭の中にしか存在しない空想上の自分」に過ぎないのです。でも、現代人は「現実世界を生きているリアルな自分」よりも、「自分の頭の中にしか存在しない空想上の自分」の方を大切にしています。そのため、他者との出会いや対話を避けようとします。また、現実世界とのかかわりを避け、空想の世界の中に閉じこもろうとします。他者と対話したり現実世界と関わったりすると、必然的に「リアルな自分」がさらけ出されてしまうからなのでしょうか。他の人と関わるときには、「地の自分」を隠すための仮面をかぶります。マスクもその仮面の一つです。そして、対話を必要としないような活動だけをしたり、自分と同じようなマスクをかぶった人たちとだけ関わろうとします。ちなみに、「リアルなからだ」を必要としていないゲームの世界の中では、「自分の頭の中にしか存在していない空想上の自分」を主人公にして色々な活動をすることが出来ます。ゲームの世界の中には「自分と対等な存在としての他者」は存在しないので、自分をさらけ出さなくても遊べるのです。でも、自分のからだを使ってリアルな世界で遊ぶためには「自分」をさらけ出す必要があります。その時、対話が出来ない子どもたちは、自分だけが主人公でいようとして様々なトラブルを引き起こすのです。そして、対話が出来ない子を見ていると、お母さんとの対話も出来ていません。それは、お母さんが自分の要求を子どもに伝えるだけで、子どもの言葉に耳を傾けていないからなのでしょう。
2023.08.24
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亡くなった志村けんが、「カラス なぜなくの カラスの勝手でしょ」と歌って、子どもたちの間で流行りましたが、この「自分がやりたいようにやって何が悪い」という意味の歌詞が、大人や社会に支配、管理され、遊びと、自由と、仲間を失ってしまった子どもたちの心に響いたのでしょうか。ちなみに、この替え歌が生まれたのは1980年代の初めの頃だそうです。1980年代の初めといえば、もう40年以上も前のことですが、でも、今の子どもたちの心の中にも「自分がやりたいようにやって何が悪い」という想いは強くあります。うちの造形教室でも、自分勝手にトンチンカンなやり方をしてうまく行っていな子に、「こうやったらいいよ」と教えようとすると、「自分がやりたいようにやってもいいじゃん」というような反応が返ってくることがあります。でも当然、自分勝手なやり方ではうまく行きません。それで諦めます。それを繰り返すのです。だから、全然進歩しません。そのうち、何にも手を出さなくなります。それでも、「たいくつだー」とは言うのです。言う通りにやらないから出来ないのに、「先生の教え方が悪いからだ」と言われたこともあります。またこういう子は、他の子のやり方にも興味を示しません。隣の子はちゃんとできていても、そのやり方を見ようとはしないのです。見るに見かねて私がやってあげても、私のやり方を見ようとしないで、私に任せて自分は他のことをやって遊んでいます。「本に書いてあるよ」と言っても、本を見ようとしません。あくまでも「自分のやり方(思い込み)」にこだわるのです。そして、そのような生き方をしている大人も増えてきました。そのような意識で子育てをしている人も増えてきました。そのような生き方をしている人は積極的に他者とつながろうとしません。「他者とつながることによって生まれるわずらわしさ」を知っているからです。職場などでも、役割によるつながりは引き受けても、職場以外の場でのプライベートなつながりは求めません。趣味や興味が共通する少数の仲間とのつながりは大切にしますが、「自分とは異なる考え方、感じ方をする人」とのつながりは拒否します。また、「自分とは異なる考え方、感じ方をする人」に興味もありません。他者の視点、他者の感じ方にも興味がありません。そして、「自分の考え方や感じ方」だけを大切にします。ネットで情報を集めるときも、自分にとって都合がいい情報しか受け入れません。また、そのような人は、自分とは異なる変え方や、感じ方や、行動をする相手に対して平気で非難、否定するようなことを言います。そして常に「自分だけが正しい」というようなことを言います。ネットなどで、自分とは異なる考え方や感じ方の人を見つけると、誹謗中傷などを書き込み相手の考え方や感じ方を否定しようとします。でも、話し合おうとはしません。話し合いは拒否するのです。だから匿名で言いたいことだけを言うのです。そのような人は「自分」という砦の中に閉じこもって「自分」を守ろうとしているのでしょう。でもだから成長することも、変わることも出来ないのです。問題はこういう感覚で子育てをする人が増えてきてしまったことです。そういう人は子どもの言葉にも、周囲の人の言葉にも耳を傾けません。周囲の人が見るに見かねて助言をしてくれても、それを非難中傷と受け取り、怒りで返します。子どもを自分の想い通りに育てようとします。そして、子どもがお母さんの期待に応えることが出来ないと罵ります。打ったり否定したりします。また、仲間と助け合って子育てをしようともしません。自分とは異なる子育てをしている人を見ると、自分のやり方が否定され、自分が非難されているように感じてしまうからかも知れません。その結果、ドンドン苦しくなっていきます。でも、助けを求めることも出来ません。わが子にそういう大人になって欲しくないのなら、子どもを「子どもと子どものつながり」、「子どもと大人のつながり」、「自然や、言葉や、文化とのつながり」の中で育ててあげてください。お母さんも、仲間とのつながりの中で子育てをしてください。からす なぜなくのからすは 山にかわいい 七つの子があるからよ かわい かわいとからすは なくのかわい かわいとなくんだよ「子どもとのつながり」を失ったカラスは、勝手になくのでしょうね。
2023.08.23
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世の中には子どものことで悩んでいる人や、自分のことで悩んでいる人が山のようにいます。また、パートナーや知り合いのことで悩んでいる人もいっぱいいます。それで、多くの人がその問題を解決する方法を探しています。でも、いくら熱心に「問題を解決する方法」を探しても見つかりません。また、見つかったように感じてその方法を試しても、多くの場合、思い通りの結果にはなりません。なぜなら、「今、目の前にある問題」は、「それまでの目に見えない原因の積み重ねの結果」だからです。今の状態に至るまでには長い時間がかかっているのです。その時間を無視して、いきなり結果だけを変えようとしても変えられるわけがないのです。「頭が痛い」とき、痛み止めを飲むのは一つの解決方法です。でも、痛み止めを飲んでも「なぜ頭痛が発生しているのか」という原因を放置したままなら、状態はさらに悪化していくでしょう。そしてやがて、痛み止めでは対処できない状態にまでなってしまうかも知れません。心の病やからだ全体の病にまでつながってしまう可能性もあります。でもそんな時は、安易に解決方法に頼らずに、「なぜそういう問題が起きているのか」ということをちゃんと理解しようとすることで、特別な対処などしなくてもその理解の進みに合わせて問題は自然と解決していくのです。なぜなら、ちゃんと理解しようと意識することで、その人の思考の働きや、感覚の働きや、行動が統合化され、相手にも影響を与えていくからです。頭で考えた方法論だけで問題を解決しようとしているからいつまでたっても問題が解決しないのです。それどころか状態が悪化してしまうのです。これは子育ての問題でも、自分自身の生き方の問題でも、夫婦の問題でも、社会の問題でも同じです。「仏教」は、お釈迦様がこの世界の実相や、命や、苦しみの意味を理解しようとした思索の軌跡をまとめ、みんなにも伝えようとしたことで生まれました。お釈迦様が説いたのは、「○○を信じなさい」というものではなく、「正しく理解しなさい」ということを伝えようとしたものなんです。「仏教」という宗教を伝えようとしたのではないのです。お釈迦さまの教えを伝える過程で「仏教」という宗教になったのです。「子どもがゲームばかりやって勉強しない」という問題に悩んでいる人はいっぱいいます。でも、急に子どもがそのような状態になったわけではないですよね。今の状態は、そこに至るまでの色々な原因が積み重なった結果ですよね。長い時間をかけてその状態が作られたのですよね。その「色々な原因」に対する理解がないまま、「結果としての今の状態」だけをいきなり変えようとしても無理に決まっているのです。もし今の状態を変えたいのなら、生活の中に新しい要素を取り入れて子どもの意識や感覚や思考や行動が少しずつ変わっていくのをじっくりと待つ以外にないのです。今の状態に至るまでに長い時間がかかっているのなら、それが変わるための時間はもっと長くかかるのです。それに、子どものこのような状態を問題視しているのはお母さんだけです。子ども自身は悩んでいません。自分の状態を「問題」だとは感じていません。「問題」が存在しているのはお母さんの心の中だけなんです。だから、お母さんが子どもの状態を「問題だ」と考え、直そうとした時点で子どものと対立が発生してしまうのです。そして、子どもは「自分」を守ろうとしてさらにかたくなになってしまいます。そして、親子の関係がこじれます。親子の関係がこじれれば、さらに問題の解決が困難になります。例えばですが、子どもがゲーム漬けになってしまっていてこれを変えたい時には、子どもに「ゲームをやめなさい」と言うのではなく、お母さん自身も子どもと一緒にゲームをしてしまうという方法もあります。子どもと一緒にゲームをすることで、子どもがゲームに何を求めているのかが理解できるかもしれません。子どもとの会話も増えるでしょう。親子の関係も変わるでしょう。そうしたら、自然と子どもも変わっていくかも知れません。周囲の状況が変われば子どもも変わるのです。子どもだけを変えようとするから子どもが変わらないのです。
2023.08.22
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今日の話は少し面倒くさいです。宇宙とか永遠というような面倒くさい話が好きな方はお読みください。全ての存在や、すべての事象は100%「全体」とつながり、全体との関係性の中で存在し、全体との関係性の中で発生しています。「私という存在」も、宇宙発生以来の時間の流れと、宇宙全体を支えている関係性によって支えられています。極端な言い方をしてしまえば、宇宙が生まれなければ私も生まれなかったし、こういうブログを書くこともなかったということです。もう少し具体的に言えば、皆さんのからだを構成している物質の多くは、地球以外の星の中で創られ、星が最期を迎え爆発する時に宇宙にバラまかれたものです。そういうものが集まって地球が創られ、私たちはそれを直接取り入れている植物や生き物を「食べ物」として取り入れることでからだの中に取り入れ生きているのです。皆さんの命を支えている「血」の中で重要な働きをしている「鉄」も、太陽よりも大きな星の中で創られたものです。(このような話にご興味のある方はこちらのホームページ「鉄の起源(宇宙の創造から生物の進化まで)をご覧になってみて下さい。)こういう話は皆さんの生活には関係ありませんが、皆さんの存在には関係しています。そしてそれは皆さんの生き方にも関係しています。こういう「つながり」を忘れてしまい、「人間だけは特別だ」と思い込んでしまったから環境が破壊され、不自然な形で心とからだを病む人が増えてしまったのです。本来、老化も病気もこういう流れの中で起きている自然現象なんです。だから原則としてはそれを阻止するのではなくうまく乗り切ればいいのです。波を阻止するのではなく波乗りのようにその波をうまく使って楽しんでしまえばいいのです。それを阻止したり、管理しようとするから波に巻き込まれたりして被害が大きくなってしまうのです。自然の一部として存在している人間が、自然を相手にして勝てるわけがないのです。子どもの成長に対しても同じです。子どもの成長も自然現象なんですから。科学の力によって老化や病気を全て防いだら人類の進化は止まります。文化や文明の進化も止まります。子どもは生まれなくなります。人口が減らないのに子どもが生まれたら困るからです。(老人たちのための臓器移植用に、工場で子どもを生産するようにはなるかも知れませんが・・・)そして、人間の人間らしさは消え、機械と一体化して生きることになるでしょう。でも、その時点でもう「人類」は滅亡しているのです。それは「子どもを守るため」と子どもを狭い部屋の中に閉じ込めるのと同じ発想です。そんなことをしたら子どもの成長は止まってしまいます。そして成長が止まれば内部崩壊が始まります。「私という存在」は、自然の働きによって生みだされている風や波と同じ「自然現象」に過ぎないのです。「私」を「かけがえのない存在」として認識しているのは「私の意識」だけです。脳の神経細胞が作り出している意識の中以外には「私」という存在は存在していないのです。問題はその「意識の中の私」なんです。これは「私」が実際に存在している現実世界から切り離されています。「意識」という働きを支えている脳も神経細胞も、からだも全てダイレクトに外の世界とつながっているのですが、「私」という意識だけが外の世界から切り離されているのです。それは、コンピューターが創り出す仮想空間の中の世界と似ています。コンピューターの配線は現実世界とつながっていますが、コンピューターが作り出す世界は現実世界とつながっていないですよね。人間の「意識」というのは、コンピューターが創り出した仮想空間のようなものなんです。だからもともと現実世界とは別のものなんですが、人間は意識が作り出した世界を現実世界の中でも実現しようとしてきたのです。だから文明や科学が進歩してきたのですが、でも、それが行き過ぎた結果自然が破壊され、自然の一部として存在している人間にも困った影響が出てしまっているのです。さらに人間は、遺伝子操作や人間の機械化によってとうとう人間までも作り変えようとし始めました。ケガがすぐ直ったり恐怖を感じない兵隊を遺伝子操作で作ろうとしている研究もあるそうです。また、目の色、身長、知能、スタイルをオーダーして遺伝子を改変し、望み通りの容姿、知能を持った子どもを生ませようとする研究もあるようです。(これはもう、ある程度は可能なようです。)今まではSFの中だけの話だったのですが、いまでは、その実現に向けて科学者たちが実際に研究しているのです。これを、「さらに人類を発展させるよい話」として受け取る人もいますが、私には「人類の自滅につながる恐ろしい話」にしか思えません。どうしてそういうことを考える人が出てくるのかというと、現代社会が目先のことばかりにとらわれていて「時間に即して物事を考える」ということが大切にされていないからです。これは政治システムとも関係しています。時間の流れを大切にしない人は、因果のつながりや、他者や自然との関係性も大切にしません。「つながり」や「関係性」は時間の流れの中で生まれるものだからです。そして、そのような人は何でも自分の思い通りにしようとします。思い通りにならないと力づくで何とかしようとします。そして相手が壊れます。また、時間を大切にしない人には空間も存在しません。そのような人に存在しているのは「私」という意識の中だけに存在している、他者から切り離された「今という時間」と「ここという空間」だけです。子どもたちも「今」「ここ」を大切にしていますが、子どもたちの「今」と「ここ」は、「つながりあった時間」と「つながりあった空間」が交差する点としての「今」「ここ」であって、大人が生きている、「つながりから切り離された今、ここ」ではありません。「つながりあった時間」と「つながりあった空間」が交差する点としての「今」「ここ」は自由に動くことが出来ます。縦糸と横糸が動けば、交差する点も動きますよね。でも、つながりから切り離された「今」「ここ」は意識の中に固定されているので動きません。
2023.08.21
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Yahooニュースに、発達障害の傾向持つ「グレーゾーン」児童が増加、診断名つかず…悩み抱える保護者たちという記事が出ていました。そんなことは、仕事を通して毎日、大勢の子どもとかかわっている人たちが大分以前から感じている「当たり前のこと」です。でも医者と呼ばれる人たちはそうは考えないようで、この記事に出てくる医者も 相談は年々増えており、同大の子どものこころ専門医・鈴木雄一医師(44)は、発達障害の認知が進んだことに加え、コロナ禍によって家で過ごす時間が増え、見過ごされてきた障害に気付きやすくなったことが背景にあると説明する。などと、おかしなことを言っています。つまり、「現象自体が増えたのではなく検査数が増えたから、結果、そう判断される子が増えたように見えているだけだ」「増えているように見えるのは錯覚だ」ということを言いたいのでしょう。(この論理は色々なところでよく使われています。それだけ「変化」を認めたくない人がいっぱいいると言うことなのでしょう。)でも、最初にも言ったように、これは、日々子どもたちと接している人たちが感じている事実とは大きく異なります。特に、何十年と長い間子どもと関わってきた人ほど、子どもの変化を強く感じています。私も感じています。それに、この医者の言うことが事実なら学級崩壊が増えている事実を説明できません。学校に行けない子、行かない子、行かせたくない親が増えている事実を説明できません。それに、学級崩壊が起きていなくても、一クラスの人数を少なくして、補助の先生も入れなければ子どもを落ち着かせることが出来ない、授業をすることができないのならそれは異常な状態なんです。それは、子ども自身が自分の意思で長い時間ジーッとしていることが出来ないということを意味しているからです。最近の子しか知らない人は、「子どもってそういうもんでしょ」と思うのかも知れませんが、それは、今の日本では、「そういう状態の子」が「当たり前」になってしまっているからに過ぎません。違う時代の子や、他の国の子のことを知らないからです。今の日本の子どもの状態は、子ども本来の状態ではないのです。それが「普通」になってしまっているから分からないのですが、それが「普通」になってしまっているという事自体が異常なんです。最近の子は、ゲームや動画などの視覚的な刺激があればジーッとしていられるのですが、視覚的な刺激がない状態ではジーッとしていることが出来ません。強い視覚的な刺激は脳を麻痺させます。そして感覚の働きや思考力を停止させ、意志と意欲を奪い、受動的にさせます。それが毎日だと子どもの成長にも困った影響が表れます。また、からだを使った遊び、群れてあそぶ遊び、作ってあそぶ遊び、チャレンジしてあそぶ遊び、仲間との対話、大人との対話を失ってしまった今の日本の子どもたちは、子どもらしい能動性、意欲、思考、感覚、創造性、想像性が萎えてしまっています。そして色々なことに対して受動的になってしまっています。失敗を非常に恐れます。人目や人の評価を気にします。人と違うことを恐れるので「自分の意見」を言いません。そして、自分で自分の心を自制しコントロールする能力が育っていないので、ちょっとしたきっかけでパニックになります。そしてこれは子ども本来の状態ではないのです。このような状態の子どもたちでは、私たちの祖先が築き上げてきたものを受け継ぎ、発展させることが出来ないからです。最近の子は消費することは出来ても、創造し、伝承することが出来ないのです。もちろん、そうでない子もいっぱいいることは知っています。でも、そういう状態の子が多数派になってしまっているのは事実なのではないでしょうか。だから、付和雷同的に他の子に合わせる事なく、自分の頭で考え、自分の感覚で感じ、自分の意思で能動的に行動しようとする子ほど、学校の中で違和感を感じて、学校に行くのが辛くなってしまうのです。学校は、学校に適応できない子、学校に来ない子を問題児扱いしますが、本当にそうなのでしょうか。
2023.08.19
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(昨日からの続きです)「群れ」を維持しているのは「共有」と「話し合い」です。象やイルカや猿も群れを作りますが、彼らは「共有」だけでつながっています。生活の共有、ルールの共有、安全と食料の共有などです。人間の群れにおいても「共有」は大事です。「言葉」も共有されることで存在しています。様々な生活習慣や、感じ方や、考え方も、共有されることで存在しています。「お金の価値」も「お金の価値」をみんなで共有することで生まれています。子どもの群れは「遊び」を共有することで成り立っています。さらに人間は話し合うことで、共通の想い、共通の目的を持つことが出来ます。また、「三人寄れば文殊の知恵」のことわざ通り、新しい発想を得たり、新しい変化にも対応することができます。話し合いがなければ「一人の体験」は「一人の体験」のままですが、話し合うことで「一人の体験」を「みんなの体験」にまで広げることが出来るのです。そしてそれが、人間の意識や、知能や、心の成長を支え、「話し合う」ということが出来ない象やイルカや猿とは異なった進化を人間にもたらしたのです。ただ問題は、現代社会では、「共有」という部分は「お金の価値の共有」や、様々な価値やインフラの共有などという形で現代社会でも残っていますが、「話し合う」という文化が消えかかってしまっていることです。話し合わないことには「共通の想い」も「共通の目的」も持つことが出来ません。新しい考え方、新しい価値観とも出会えません。他者の視点も出会えないし、お互いに理解し合うことも出来ません。それはまた「自分」とも出会えないと言うことを意味しています。人が自分のことを知るためには、他の人と出会い、話し合う必要があるからです。「他の人の考え方を知るためには本を読めばいいのでは」と考える人もいるかも知れませんが、対話の体験がないまま、本で他の人の考え方を読んでも、相手の言葉を自己流に解釈してしまうだけなので、自分の世界は広がらないのです。「自分の世界」を広げるためには「自分の世界の外の世界」と直接出会う必要があるのです。そしてそれは、生身の相手との対話でしか可能にならないのです。花と対話するためには「リアルな花」と向き合う必要があるのです。見るだけでなく、触れ、匂いを嗅ぎ、直接その存在感を感じることでしか対話は生まれないのです。これは人間と対話するときでも同じです。Zoomなどで画面越しで対話するのと、手を伸ばせば触れることが出来る状態で対話するのとではまったく異なった働きを人間にもたらすのです。そのような対話をすることなく、いくら自分で自分のことを考えても、本を読んでも「自分のこと」は分からないし、「自分の外の世界」と出会うことも出来ないのです。いくら知識をいっぱい覚えても、リアルな相手との対話がなければ「量の変化」はあっても「質の変化」が起きないのです。質の変化が起きないので、群れの体験がないまま大きくなった子は「子どもがそのまま大きくなったような大人」に成長します。それはつまり、「大人としての知性や、分別や、人間性を備えた大人」には成長しないと言うことです。そしてそういう人は、必要以上に「人の目」を気にします。そして自分もまた他の人を見かけだけで評価しようとします。「話し合いを通して他の人の中身と出会う体験」がないまま育ってしまっているので、見かけだででしか人を判断できなくなってしまうのです。
2023.08.19
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昨日も書いた通り、人は一人では生きていくことが出来ません。これが「人間」という動物の特性でもあります。だから古来から人間は群れて暮らしてきたのです。そして群れて暮らしてきたから文化が生まれ、村が生まれ、都市が生まれ、国が生まれ、文明が生まれたのです。言葉も、知識も、感覚や思考も、様々な技術も、人間らしさと呼ばれるものも、「群れ」があったからこそ生まれ、伝えられ、進化、成長してきたのです。「群れる」ということこそが、人間を人間たらしめた一番大きな要因なんです。でも、現代社会ではその群れは抽象的、間接的なものになってしまいました。直接目を見て、直接肌を触れ合い、直接一緒に行動し、直接声で話しかけ、お互いに顔を見合わせて笑い合い、一緒に歌い、一緒に踊るようなつながりによって支えられた群れは消えました。今でも、そういうことはやっていますがそれは「群れのつながり」の中ではなく、「個と個のつながり」の中でだけです。便利な機械が生まれ、便利なインフラが整備されることで、「群れ」に依存しなくても、安全や食料を得ることが出来るようになりました。また、群れによる助けがなくてもお金さえあれば日々の生活には困らなくなりました。その結果、日々の生活を支えてくれていた群れは消えました。でも、ここで問題が起きてしまっているのです。群れが消えてもお金さえあれば大人の生活は困りませんが、群れが消えてしまった状態では子どもが育たないからです。人類の成長や進化が「群れ」の中で生まれ、成長したように、子どもの成長にもまた「群れ」が必要なのです。子どもの成長は進化の繰り返しでもあるからです。たしかに、衣食住の世話をし、安全を見守り、色々な教室に通わせ、幼いころからお勉強をさせれば「個」としての能力は高くなるかもしれません。(ただし、その優位は思春期頃には崩れますけど・・・)でも、確実に言えることはそのような子育てで育てることが出来るのは「(中途半端な)AI的な能力」だけであって、「人間的な能力」は育てることが出来ないということです。その「人間的な能力」とは何かというと、「つなげ、統合する能力」です。科学は「分析する能力」には優れていますが、この「つなげ、統合する能力」は人間しか持っていないのです。だから科学はデータを出すことは出来ても、その意味を解釈することが出来ないのです。またそれは、仲間を作り、群れを作り、みんなで支え合うつながりを作り出す能力でもあります。幼いころから群れとのつながりから切り離され、物や機械を相手に遊び、生活し、育って来た子でも、ネットを介してならつながることが出来ますが、でも、「ネットを介してのつながり」では安心も幸せも得ることが出来ません。「ネットの世界」は「夢や蜃気楼の世界」と同じで、あっという間に消えてしまう可能性があることをみんな知っているからです。また、つながりの体験がない状態で育ち、大人になった人は子育てでも苦労します。子どもとどう関わったらいいのかが分からないからです。だから子育てやしつけも、お金を出して専門家に任せようとします。そして今、そういうお母さんやお父さんが増えてきています。
2023.08.18
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世の中には、人生を「勝ち負けを競うレース」と認識している人がいっぱいいます。そのような人は、子どもが小さい時から色々と学ばせ、色々なことを他の子よりも早くスタートさせれば、最後までそのリードを保って「人生レース」を勝ち抜けると思っているのでしょう。確かに、早くスタートを切れば(少なくとも)レースの序盤では(10才頃まで)優位に立つことが出来ます。でも、10才を過ぎたころから色々と失速し始めます。そして「こんなはずでは・・・」という状態になります。それでも子どもは自分のプライドのため、親を失望させないため、親に叱られないために必死になって頑張ります。そして、自己肯定感を失い孤独になっていきます。このような子育てをしている人は根本的なところで勘違いしているのです。そもそも「人生」は勝ち負けを競うレースではありません。勝ち負けを判断する基準もありません。どんな生き方、人生であっても、自分自身が満足すればいいのです。実は、人生は「レース」というよりも「アート」に近いのです。「アート」の世界に勝ち負けはありません。ただ「喜び」があれば「アート」は成立するのです。「遊び」も同じです。そして、子育てもまた「アート」です。「喜びがない子育て」は、単なる作業や労働に過ぎません。そして、そういう「喜びのない子育て」を受けた子は「喜びのない人生」を歩むことになるでしょう。だからこそ、子どもたちには競争に勝つことよりも、仲間とつながり、みんなで喜びを分かち合うような体験をさせてあげて欲しいのです。遊ぶことだけでなく、学ぶことにも、みんなとつながることにも喜びを感じるように支えてあげて欲しいのです。人生は勝ち負けを競うレースでもないし、個人競技でもありません。それは単なる思い込みです。実際、どんなに高い能力を持っていても周囲の人の協力がなければ何もできないのですから。逆に、その人自身の能力はそれほど高くなくても、色々な人とつながり合うことが出来る人はみんなの能力を集めて大きなことが出来るのです。人生を幸せに生きるために必要なのは競争に勝つ能力ではなく、みんなと仲良くする能力なんです。人と人をつなげる能力を持った人はみんなから大切にされます。そして、その能力がある人は子育ても楽しむことが出来ます。
2023.08.17
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全ての事象は相互作用によって起きています。それはつまり、この世の中は相手との関係性によって動き変化しているので、自分の要求を一方的に相手に押し付けても、思い通りの結果にはならないということでもあります。擬人化した言い方をすれば、「いくら強く働きかけても、相手の同意がなければ何も出来ないし、何も起きない」ということでもあります。握手しようとして手を出しても、相手が手を出さなければ握手は成り立たないのです。これは、相手が人間でなくても同じです。水を掴もうとしても掴めません。でも、氷なら掴めます。だから、対話を通して相手の状態を知り、その相手の状態に合わせる必要があるのです。ちなみに、「対話」というと「言葉での対話」しか思いつかない人も多いですが、言葉を話すことが出来ない相手とも対話することは出来ますからね。産まれたばかりの赤ちゃんとだって対話できるのです。もっと言えば、石や木とでも対話が出来るのです。卵をお椀の縁に当てて割るような場合も、「卵を割る」という行為に関係しているお椀と、卵と、自分の手の状態をよく知り、その三者がちゃんと対話しないことには卵は上手に割れないのです。割れたとしてもグチャグチャになってしまう可能性が高いです。いくら自分の腕の使い方だけを学んでも、腕の使い方をマニュアル化しても、自分の行為に関係してくる相手のことをちゃんと理解し、相手の状態に合わせなければ想定外の結果にしかならないのです。そもそも、人は「自分の手」でさえ、自分の思い通りにはコントロール出来ません。自分の手を自分の思い通りに動かせるようになるためには、「自分の手」との対話が必要になるからです。不器用な人は「自分の手との対話」が苦手なんです。でも人はそのことに気づきません。そしてうまく行かないと相手のせいにします。子どもに「早くしなさい」と言って早くしないと、それは「言うことを聞かない子ども」のせいにしてしまいます。子どもの状態を無視してお母さんの要求を一方的に押し付けても、子どもが動けるわけがないのに、お母さんたちは「無理な要求をしている自分」ではなく「無理な要求に応えない子ども」に責任を転嫁しているのです。皆さんは利き手でない方の手でも、利き手と同じように字を書くことが出来ますか。多分出来ませんよね。自分の手なのに自分の思い通りにはならないのです。ましてや子どもは自分とは違う意識、感覚、思考、意志、知識を持った「自分とは別の人間」です。そういう相手を思い通りに動かそうとしても無理に決まっているのです。それが出来る相手は自分の意思を持っていないロボットだけです。皆さんは自分の子どもをロボット化したいのですか。子どもをよく観察もせず、子どもと対話もせず、子どもの言葉にも耳を傾けず、一方的に自分の想い通りに子どもを動かし、成長させようとしている人はそんな「当たり前のこと」が分かっていないのです。そういうやり方で子育てをしていても、子どもは自分の成長本能に従ってそれなりには育ちますが、自分らしさや、自分の才能や、周囲との人との人間関係を作る能力も育てることが出来なくなってしまう可能性が高いです。ただ、問題は「他者との対話」が苦手な人は、「自分との対話」も苦手だということです。だから、自分が抱える問題点を認識できないのです。そういう状態の人は、「自分の感覚との対話」をレッスンすれば、「自分との対話能力」も高まるのですが、そもそもその必要性を感じないので、そういうレッスンは受けません。発達障害の子もこの対話能力に問題を抱えています。だから、様々な遊びを通して「自分の感覚との対話」を促せば状態は落ち着いていくと思います。でも、昔はそのような遊びもいっぱいありましたが、今では「子どもの感覚の育ちを支えるような遊び」の多くは消えてしまいました。それが子どもたちの対話能力の低下ともつながっているのです。私は、それも発達障害の子の増加と関係しているような気がします。言葉だけ覚えても対話は出来ないのです。
2023.08.16
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「病は気から」という言葉があります。気持ちが張っていたり、楽しいことに満たされているときには病気もしないし、からだも軽いし、自由に動くことが出来るのに、その張りが崩れたり、悲しいことや苦しいことや不安に満たされている時には、ちょっとしたきっかけで簡単に体調も崩れます。病気にもかかりやすくなります。心の病にも入りやすくなります。日常的に能動的に感じ、考え、行動している人は比較的元気だし、あまり病気もしません。でも、指示がないと動けないような人は簡単に心とからだの調子を崩します。人は、細菌やウィルスがあるから病気になるのではありません。その人のからだが、その細菌やウイルスの働きに感応し、その働きに巻き込まれてしまうから病気になるのです。だから、同じものを食べたのに食中毒を起こす人と、全然何ともない人がいるのです。同じような薄着でもなんともない人もいれば、すぐに風邪をひいてしまう人もいます。同じ音や匂いがある環境で生活していてもなんともない人もいれば、すぐに体調を崩してしまう人もいます。そういう場合「鈍いから」という言い方もしますが、「鈍さ」は「強さ」でもあるのです。コロナでも、同じ環境にいても「すぐコロナにかかる人」と「かからない人」がいます。マスクをしなくてもワクチンを打たなくてもコロナにかからない人もいれば、マスクをしていてもワクチンを打っていてもコロナにかかる人もいます。一緒に暮らしている家族でも、簡単にかかる人もいればなかなかかからない人もいます。大抵、みんなの世話をしている「お母さん」は、家族みんなが病気になっても「私が倒れたら・・・」と気が張っているのでそう簡単には病気になりません。でも、みんなの病気が収まってきた頃に病気になります。連れ合いを亡くすなど悲しいことがあると病気になりやすくなります。こういう体験的事実を通して「病は気から」という言葉が生まれたのだろうと思います。もちろんそれは程度問題です。その「毒」の強さがあるレベルを越えたらどんなに元気な人でもみんなやられてしまうでしょう。私が言いたいのは「ちょっとの量の毒でもすぐに反応してしまう人もいれば、ある程度までなら耐えられる人もいる」という話です。病気は「病気の原因」と「その原因に反応するからだ」の両方がそろわないことには起きないのです。菌やウィルスがあるだけでは病気にならないのです。花粉が飛んでいてもからだが反応しなければ花粉症は起きないのです。逆にどんなに身近にあるものでもからだが反応してしまったら病気になるのです。太陽の光にも過剰反応してしまい、屋外に出ることが出来ない人もいます。身近にいる蚊に過剰に反応してしまうからだの人もいます。でも、現代人はその原因を取り除くことばかりに夢中になっています。生活の周りから病気の原因になるようなものを取り除こうと除菌生活にいそしんでいる人も多いです。テレビもそのようなような生活を扇動しています。確かに、今、その病気で苦しんでいる人にとってはその原因を取り除くことは非常に大切なことだとは思います。でも、今はまだ健康なのに、病気にならないようにと先回りしすぎると、余計に病気にかかりやすいからだになってしまうのです。最近は「清潔は善だ」という新興宗教にはまっている人がいっぱいいます。そういう大人が増えたことで、泥んこに触らせてもらえない子、自然の中で遊ばせてもらえない子も増えてきました。ちょっと泥んこがついただけで「手を洗いなさい」と言われる子もいっぱいいます。ドングリを拾っていて、傍にいたお父さんに「そんな汚いもの拾うんじゃない」と叱られている子どもを見たこともあります。でも、そういう生活を繰り返していると、子ども自身も汚れることを極端に嫌うようになってしまうのです。家の外の世界や自然に対する恐怖心や不安も強くなります。自然の中で遊ぶことが出来ない子どもも出てきます。でも、「受け皿としてのからだ」を強くする方に意識を向けずに、原因を取り除くことばかりに夢中になっていると、どんどんからだが弱くなって行くのです。すると、さらにちょっとしたことで病気になるようになってしまうのです。するとさらに原因探しと原因の排除が始まり、悪循環が進行していき、どんどん心とからだが弱くなっていきます。どうして、日常的に能動的に感じ、考え、行動しているような人は心とからだの調子を崩しにくいのかというと、能動的に動こうとする意志の働きによって頭と、心と、からだが統合されているからなんです。そのことで生命システムが活性化するので、多少の損傷があってもすぐに再生するのです。だから、別に病気になるような原因がなくても、悲しいことや苦しいことがなくても、いつも、頭と心とからだを別々に使っているような人は、心とからだの調子を崩しやすいのです。実際、子どもの声を聞いているだけで苦しくなる人もいっぱいいます。
2023.08.15
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12日、13日と山北町にある「ペガススの家」という所で大勢の親子と遊んできました。私は、「冒険クラブ」という屋外で遊ぶ活動を20年近くやっていますが、これはその仲間達と一緒に遊ぶ夏合宿のようなものです。合宿は毎回テーマが決まっていて、今回は「劇遊び」と「音遊び」と「お化け屋敷作り」でした。自分の興味に合わせてどこかのグループに参加して、同時進行的に活動して、最後にみんなに発表するという形でやりました。「劇遊び」は宮沢賢治の「注文の多い料理店」をやりました。私は導入だけやってあとはお母さんと子ども達に任せました。私の活動に参加しているお母さん達はそういうのに慣れているので。ただ、「注文の多い料理店」を原作通りには出来ないので、主人公を「兵隊さん」から、その兵隊さんを食べようとしている「山ネコ」に変えました。そして、原作では兵隊さんは生き延びるのですが、この劇ではネコに食べられてしまいます。どうやって兵隊さんをだまし、食べてしまうのかも、お母さんと子ども達で考えました。短時間でぶっつけ本番だったのにも関わらず、すごく素敵な劇が出来て楽しめました。冒険クラブのお母さんや子ども達はすごいです。腹を空かせた山猫たちが集まって会議をしています鳥を捕まえようとしても逃げられてしまいます。それで、時々やってくる人間をだまして食べる事にしました。で、あれこれ知恵を絞って色々な工夫をしました。壁の向こうに山猫たちが隠れています。「扉」の工夫も面白かったです。この看板には「この おりょうりを おたべください」と書いてあります。この時点ではまだお料理はありませんが、新聞紙などを使って美味しそうなお料理を作ってこのイスの上に並べました。で、兵隊さん達がお料理を食べている隙に襲うのです。で、襲われて食べられてしまいました。めでたしめでたし。(これは山猫の気持ちです)私は、こんな風に自分たちで工夫して自由に展開できる劇遊びが大好きです。あと好きなのが「音遊び」です。これは、普段、音の活動をしているお母さんにリーダーになってもらいました。このときは「色」を「音で表現してみよう」というテーマでやっていました。普段はやんちゃな子ども達が、真剣に他の人が出す音に耳を傾けて一緒に音空間を作ろうとしていたのが印象的でした。ちなみに「音に耳を澄ます」と言うことは、「心に耳を澄ます」ということにもつながります。それは「聞く力」の原点です。で、これが迷路+お化け屋敷です。みんなの工夫があれこれ見られます。あとは定番のこんな遊びもやりました。お猿のような子ども達です。柱を登っている途中の子もいます。右側の薄暗いところにも数人潜んでいます。分かりますか。
2023.08.14
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人間が成長するためには「学び」と、「工夫」と、「努力」が必要です。「学び」には「知識を通した学び」と「体験を通した学び」の二種類があります。そして幼い子ども達はまず「自分の力」で学ぼうとします。親が教えても、ああしろ、こうしろと指示や命令を出しても聞き入れません。叱っても叩いても子どもの内側には届きません。「自分で発見したこと」や「自分の成長に必要なこと」以外は、子どもの心とからだの内側に入っていかないように出来ているからです。子どもの生命はそういう風に出来ているのです。そしてこれは、皆さんが毎日体験している通りですですよね。この時、子ども達は、「体験」と「工夫」によって学んでいます。この「体験」には、ただ見たり聞いたりすることも含みます。自分はやらなくても、見たり聞いたりするだけで子どもは「自分の育ちに必要なこと」はちゃんと吸収するのです。うちの幼児教室でも、教室の時には何もしないのに家に帰ってからその遊びをしているという子が結構います。その場では見ているだけ、聞いているだけなんですが、それもまたちゃんとした「体験」なんです。だから、「うちの子は参加しないから興味がないんだ」とか、「見ているだけで参加しないんじゃ無意味だ」などと考えないで下さい。「見せてあげる」というのも「体験させる」のと同じ働きをするのです。子どもの「学び」はまず自分の内側から起きます。子ども達の好奇心はその現れです。ただ問題は、その「内側の学び」は大人には見えないということです。それに子どもは「自分の成長に必要なこと」だけを学び、「大人の都合に合わせたこと」は全く学ぼうとはしません。当然、「社会の変化」にも合わせません。社会がこんなにも近代化していても、子ども達は古代人だったときと同じように考え、感じ、学ぼうとします。なぜなら「自分の成長に必要なこと」は「大人の都合」ではなく、「遺伝子の都合」によって決まっているからです。そのため、子どもの「内側の働き」を信じることが出来なかったり、成長を急がせたい大人達は、知識や指示や命令で子どもを教育しようとします。その時、大人達は子ども達に「努力」を求めます。そして、「努力しないから成績が上がらないんだ」、「努力しないからうまくならないんだ」と子どもを責め、追い立てます。アメとムチを使って子どもをコントロールしようとすることもあります。これは勉強の場でも、スポーツの場でも同じです。そうして、成績が上がらないことや、上達しないことを子どものせいにします。でも、追い立てられてやるのは「努力」ではありません。自分の意志でやるのが「努力」なんです。そして、自分の意志でやった「努力」だからこそ、子どもの内側に働きかけ、子どもを成長させることが出来るのです。それに、子どもは大人ほど「勝つ」ということに対する執着がありません。そのため「勝つために努力する」という感覚がよく分からないのです。だから「努力しろ」と子どもを追い立てることになるのですが、追い立てなければやらないようなことは子どもの成長には必要がないことなんです。アメとムチによるコントロールは調教と同じです。いくら猿の芸が上達しても、猿が猿として成長したわけではありません。そもそも、子ども達は生理的に「努力」ということが出来ないのです。なぜなら、「努力」が可能になるためには「自我の成長」が必要だからです。自分の意志で「努力」が出来るようになるためには、自分の中に「自分を励まし、自分を鼓舞するもう一人の自分」が登場するまで待つしかないのです。そしてそれが出来るようになるのは中学生ぐらいからです。小学生くらいまでは「自分の成長に必要なこと」しか子どもは学ぶことが出来ないのです。ですから、「知識」も吸収することが出来ません。暗記することは出来ても吸収出来ないのです。「努力」を強制しないで下さい。努力を強制すると、子どもは自分の心や、感覚や、感性を自分自身で否定するようになってしまいます。
2023.08.13
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昔の子にとって学校は「仲間づくりの場」でもありました。授業は退屈でも、休み時間にはみんな生き生きとしていました。私も、もう60年以上も前のことなのに休み時間に仲間と群れて遊んでいたことを思い出します。その遊びは、学校から帰っても続きました。その子の家まで遊びに行ったり、外で待ち合せたりして夕方になるまで遊びました。幼いころは「わらべ歌」や様々な「伝承遊び」でも遊びましたが、3年生ごろからは大人に隠れて色々と、あれこれやって遊びました。花火をほぐして火薬遊びをしたり、線路にくぎを置いてつぶしてそれでナイフを作ったり、「落ちたら即病院行き」というようなところを渡って遊んだりもしました。ザリガニ釣り、カエル釣り、蛇の解剖などもしました。今だったら即「停止命令」が出てしまうでしょう。でも、そういう「遊び」を共有することで、同時に仲間づくりも出来ていたのです。また、仲間と目的を共有して遊ぶことで、仲間とのつながり方も学びました。子どもの育ちには他の人とのつながりや関わり合いが絶対的に必要なんです。それが人間が「人間」であり続けるために必要な条件なんです。そうでないと人間は「言葉」も学べないのですから。そのことに異論を唱える人はいないと思います。マトリックスのように「脳にダイレクトに情報を書き込めばいい」と言う人もいるかも知れませんが、でも、「脳」と「からだ」がつながっていなければ、脳内の情報は現実世界では無力なんです。でも、「遊び」が必要だからといっても、それだけの理由でつながって遊べるわけではありません。人と人がつながるためには、「つながりを支えるもの」が必要だからです。人と人がつながりあうためには「何か」を共有する必要があるのです。それは例えば「言葉」です。人は「言葉」を共有することでコミュニケーションが可能になります。また、「言葉」を共有することで教育も可能になります。宗教を共有することでつながっている人たちもいます。伝承された歌や踊りを共有することでつながっている人たちもいます。スポーツや手仕事などの趣味でつながっている人たちもいます。そして、子どもの場合はそれが「遊び」なんです。子どもは「遊び」を共有することでつながり合い、つながることで、色々なことを学んだり、自分の能力を育てたりしているのです。勉強を学ぶために必要な基礎の力も、仲間とのつながりの中で遊びながら育てているのです。みんなと協力し合いながら遊ぶことが出来る子は知的な能力も高いのです。でも、30年代、40年代の高度経済成長と共に、子どもを「お客さん」として扱う「新しい遊び」が次々と生まれました。テレビやディズニーランドはその筆頭です。そして、仲間がいなくても一人で楽しく遊ぶことが出来るような遊びが次々と作られ、売られ始めました。それと同時に、「子どもと子どもをつないでいた遊び」も消えました。「つなぐもの」としての「遊び」が消えると同時に、つながりによって支えられていた「群れ」も消えました。群れが消えることで何十年、何百年と群れの中で伝承されてきた遊びも消えました。だから、子どもの群れを再生するためには、まず、子どもと子どもをつなぐための「遊び」を再発見する必要があるのです。「遊び」を再発見しようとすることなく、ただ子どもだけを集めて「さあ遊べ」と言っても、子どもはつながれないし、遊べないのです。そしてこれは、子どもから「遊び」を奪った大人の責任でもあるのです。今のお母さんたちは、そのつながりが消えかかった最後のしっぽの頃に育っているので、自分はそんなに遊んでいなくても、なんとなくは群れ遊びの感覚が分かるのです。(分からない人も増えてきていますが・・・・。)だから、お母さん同士が「遊びを再生しよう」という思いを共有してつながり、大人同士が遊び、そこに子どもを巻き込むようにしていれば、今なら「子どものつながり」や「群れ」も再生できるはずなんです。もちろん、日本中の子どもの遊びが変わるわけではありませんが、少しでも「群れて遊ぶ楽しさ」を体験した子が増えれば、未来に種をつなげることは出来るのです。
2023.08.12
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ここのところ、私は「遊びの大切さ」を書いていますが、でも、いくら「遊びが大切だ」ということが分かってもそれだけで遊べるわけではありません。「子どもの育ちを支えるような遊び」には、「仲間」が必要だからです。またそれ故に、2歳ぐらいまでの幼い子どもなら一人でも遊びますが、3歳ごろから子どもは本能的に「一緒に遊ぶ仲間」を求め始めます。そしてそれは、社会性の目覚めや、外の広い世界への興味や好奇心とつながっています。子どもは3歳ごろから周囲の子や大人がやっていることに興味を持ち始めるのです。そしてその頃から家の中だけでは満足できなくなり、外に出ていきたがるようになります。家族以外の子や大人とも遊びたがるようになります。色々なことにチャレンジするようにもなります。でも、今の日本の状況ではそれがなかなか許されません。お母さん達の頭の中には「家の外は危険だ」という刷り込みもあります。だから出かけるとしても近くの公園ぐらいです。公園に行けば遊具があるので子どもはお母さんが相手をしなくても勝手に遊ぶことが出来ます。また、その場に来ている子と一緒にキャーキャーやっているだけで、子どもは一緒に遊んでいるような気にもなれます。また、子どもの頃に外で仲間と思いっきり遊んだことがないお母さんは、遊具のないところに行っても「遊具がないところでの遊び方」を知りません。そのため、子どもに遊びを教えることも、一緒に遊ぶことも出来ません。それに、外に出かけてしまうと「家事」が出来なくなってしまうので、そのイライラもあります。それで結局、家の中で遊ばせようとします。その方が安心だし、楽だし、家事も出来るからです。でも、それだけでは子どもは遊べません。退屈してしまいます。そして、お母さんにまとわりつき始めます。それでお母さんは、刺激的なおもちゃや、刺激的なスマホやゲーム機を与えます。そうすれば、それらのおもちゃや電子機器が子どもの相手になってくれて、子どもがお母さんにまとわりつかなくなるからです。子どもをお母さんから引き離したり、「外に出ていきたい」という欲求を抑えるためには、「日常生活の中にはないような強い刺激」が必要になるのです。それはつまり、「それだけ子どもは、仲間との関りや外で遊ぶことを求めている」ということでもあります。でもその結果、子どもは、刺激の強いおもちゃやゲームがないと遊べなくなります。自分の感覚で感じたり、自分の頭で考えたり、自分の意思で行動することも出来なくなります。そしてそれは、次第に学習や、対人関係におけるトラブルとして表れるようになってきます。そんな時、大人たちはその問題を解決するために、子どもに言葉で説得を試みます。でも,そういう子は「他の人の言葉を聞く能力」も、「自分の感じたことや考えたことを言葉で表現する能力」も育っていないので、その努力は実りません。そういう能力は「人と人との関わり合い」の中でしか育たないからです。仲間や他の人と関わらないで育っている子が、コミュニケーション能力を育てることが出来るわけがないのです。それでも9歳前ならまだ何とか手の打ちようもあるのですが、10歳を過ぎてしまうとそれがもうその子の「人格」として固定してしまうので、本人が自分の状態に問題を感じて、「何とかしたい」と思わない限り、そのままの状態が継続することになります。<続きます>
2023.08.11
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最初に告知を入れさせて頂きます。9月15日(金)から、月一で「ゆりかご」というZoom講座を始めます。2023年度の前半には「子育て一般」についてお話ししましたが、9月からの講座では「子どもの遊び」について色々と具体的にお伝えします。部屋の中の遊び、親子の遊び、からだを使った遊び、日常生活の中の遊び、自然の中での遊び、作って遊ぶ、お話で遊ぶ、など色々な遊びをご紹介したいと思っています。毎月第三金曜日10:00~11:30 2000円/回録画で後から見ることも出来ます。ご興味のある方は篠までお問い合わせ下さい。「こちら」です。メールには「ゆりかごについて」と書いて下さい。***************今、子ども達の体力や筋力の低下が指摘されていますが、低下しているのは体力や筋力だけではなく、本能的な運動感覚や運動神経もかなり低下しています。体力や筋力の低下は、学校での体力測定によって明らかになっています。だから公的に発表もされていますが、本能的な運動感覚や運動神経の低下の方は、保育園や幼稚園などでの遊びの場で、現場の先生達によって報告されているだけなので、あまり大きく発表されてはいません。いま、走ることが苦手な子、すぐ転ぶ子が増えてきています。走らせると、「どこか身体に障害があるのではないか」というような不自然な走り方をしたり、老人のように何にもないところですぐ転ぶのです。わらべ歌などで、「花いちもんめ」のように、手をつないで後ろ向きに歩くことがあるのですが、後ろ向き歩きをするとすぐに転ぶ子も結構います。転んだとき、手が出なくて顔面が直接地面にぶつかり大けがをしてしまう子や、ボールが顔に向かって飛んできているのに避けることも目を閉じることも出来ず、眼球を傷つけてしまう子が増えてきた、という報告はかなり以前から出ています。うちの子が小学生の頃、別のクラスの子がブランコから落ちてケガをして救急車で運ばれるという事故がありました。最初は、何かふざけていて落ちたのかと思ったのですが、そうではなく大きくこいでいるうちに、途中で怖くなって手を離してしまったらしいのです。今の子ども達は、遊びや生活の中で「しがみつく」という体験が少ないので、しがみつく力も、しがみつこうとする本能も弱いのです。親子遊びで、子どもを布に乗せて引っ張る遊びをするのですが、布の上にちょこんと座るだけでしがみつこうとしない子がいっぱいいます。(ベビーカーではしがみつく必要がありませんからね。)そのような状態で布を引っ張ると、後ろにコテンと倒れてしまうので、「布を持って」と言うのですが、なかなかその感覚が分からないようです。四つん這いになったお母さんやお父さんの背中に子どもをしがみつかせて、振り落とすような動きをする「ロディオ」という遊びがあるのですが、この時もただちょこんと乗るだけでしがみつけない子がいっぱいいます。手だけはしがみつけても、足まで使うことが出来る子は少ないです。そのため、すぐに落ちてしまいます。うちの子達も小さいときからこの遊びをやっていたのですが、うちの子達は四人とも、まるで「大リーグボール養成ギブス」のようにがっちりとしがみついて、どんなに暴れまくっても落ちませんでした。そのまま立って、ジャンプしても落ちないくらいでした。でも、我が子以外で、そのようなことが出来る子とは会ったことがありません。あと、「ランドセル」とか、「お猿の赤ちゃん」とか、しがみつく遊びは色々とあるのですが、今、しっかりとしがみつくことが出来る子は多くありません。また、鬼ごっこのようなことをしていると、前を向いて走らないため、正面衝突もよく起きます。細かい「からだの使い方」も苦手です。「こより」(分かりますか?)を撚ったり、羊毛を小さく丸めたり、針に糸を通したり、コマのヒモを巻くような作業も苦手です。からだ全体を使って、剣玉の球をひょいと上に上げるようなからだの使い方も苦手で、腕だけで剣玉を振り回してしまうので非常に危険です。竹とんぼを飛ばすのも、弓矢を飛ばすのも苦手です。からだの感覚が非常に鈍いのです。そのため、カッターやノコギリのような刃物を使わせると非常に危険な使い方をします。それで、「正しい使い方」を教えるのですが、からだの感覚が鈍い子は、なんべん教えても自己流でやろうとします。「相手や状況に合わせる」ということが出来ないのです。また、そういうものでケガをしたことがないので、ケガに対する認識もありません。そのため、簡単にケガもします。それでも、3,4才頃の子ならケガをしても、またやりたがるのですが、年長さんや小学生ぐらいになると、一度ケガをしてびっくりしてしまうと、「ぼく それ嫌い」といって、二度と手を出さなくなる子が結構います。また、自分がケガをするだけならいいのですが刃物の怖さを知らないので、平気で振り回したり、危ないことをしてしまう子もいます。日常的にからだを使った遊びをして来て、小さいときから色々と痛い目に遭ったり、ケガを体験して来た子の場合はこのようなことはないのですが、今の子ども達の多くは、ただ単に走り回るような遊びはしても、からだ全体を使うような遊びをすることもなく、基本的には安全に管理された場で、安全な遊びをしているだけなので、このような「危険に対応する能力」が育っていないのです。自転車に乗りながら平気でスマホをのぞき込んでいるような子も、左右を見ずに平気で道路に飛び出してくる子もそういう子だろうと思います。「危険」の体験がないので、「危険」という認識がないのです。うちの近くに、自動車道路とつながった細い路地があって、高校生達もよく自転車で通っているのですが、見ていると左右を見ないまま自動車道路に飛び出してくる子が非常に多いのです。ここに書いた能力は、「体力測定」という形では調べることが出来ませんが、自分の身を守り、他の人をケガさせないためには非常に大切な能力なんです。でも、今の子ども達はそのような能力が非常に低下しているのです。そのため、お母さんや大人達は、子どもの安全を考えて、さらに安全な状況の中に子どもを囲い込もうとしています。そして、それが「子どもを守る」ことだと思っています。その背景には、現代人の「危険」に対する強い不安と恐れがあるのでしょう。そのため、「危険に対処する能力」や、「危険を避ける能力」を身につけさせるのではなく、ただ単純に子どもから「危険」を遠ざけることだけを考えてしまうのです。でもそのことで、子ども達は更に「自分の身を守る能力」を育てる事が出来なくなり、危険な状態になってしまっているのです。だから更に、危険を遠ざけ・・・と悪循環になってしまっています。また、自分の身を守る能力が低い子は、他の子をケガさせる可能性も高くなります。何が「危ないこと」なのか分からないからです。それは、死につながるような「危険なイジメ」が「遊び」として行われていることともつながっています。ケンカをしたときでも平気で倒れた相手を蹴ったりしてしまいます。相手の痛みも、「その結果・・・」もイメージできないのです。そういう状態の子どもを育てることが、子どもを守っていることになるのでしょうか。現代人は「病気」に対しても同じように対応しています。病気に負けないからだを作るのではなく、ただ病気の原因を遠ざけようとするばかりです。そのため、ますます病気にかかりやすいからだになってしまっています。現代人は「大切にする」ということを「管理すること」と考え、「守る」ということを「危険を遠ざけること」と考えています。でもそのことが、生命の働きを弱めてしまっていることには気付いていません。このいずれの考えにも共通しているのが、「相手の立場に立って考える」とか、「将来自立して生きて行くために必要な子どもの成長を支える」という視点の欠如です。子どもを危険から守ってあげているだけは、子どもは自分で自分を守れなくなってしまうのです。そしてそれが、子どもの自立や、様々な能力の育ちや、自分らしい生き方を妨げることになってしまうのです。「子どもを檻に閉じ込めるような子育て」は、「自分の不安を消すための子育て」であって「子どものための子育て」ではないのです。
2023.08.10
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多くの大人が、簡単に、何の躊躇もなく、子どもたちから「遊び」を奪ってしまっています。そして、「遊び」の代わりに「お勉強」や様々な「習い事」をやらせています。「まだ、親の言うことを素直に聞く幼いうちから色々なことを学ばせたら、きっと優秀な子になるのではないか」という浅はかな思い込みがあるのでしょう。でも、その「思い込み」は、「単なる思い込み」に過ぎないことは明らかですよね。今では、ほとんどの子が、幼いうちからお勉強や習い事を山のようにやらされているのに、実際の子どもたちの能力は向上するどころか、むしろ低下しているのですから。幼いころにお勉強や習い事をいっぱいやらされて育った皆さん自身の状態を見返してみてどう思いますか。今、自信と喜びをもって自由に生きることが出来ていますか。そういう「遊びが消えた世界」で生きている子どもたちの能力で特に低下しているのが、「自分の感覚で感じる能力」と、「自分の頭で考える能力」と、「コミュニケーション能力」と、「自分の心やからだと対話する能力」です。これらの能力が低下している子は、勉強の場でも「暗記」は出来ても「理解」することが出来ません。たとえばそれは、食べ物を口の中に入れることは出来ても、咀嚼と吸収が出来ない状態と同じです。リスのようにいっぱい口の中に溜めこんでいるだけなんです。でもだから、いくら勉強してもそれが「学び」につながらないのです。そして、「学び」がないから成長もないのです。さらには「暗記したこと」が「学び」の回路をふさいでしまうため「新しい学び」も出来なくなります。そういう状態の子が一番苦手なのが「自由」です。実際、そういう状態の子に自由に遊んだり、自由に工作をする機会を与えても、何をしたらいいのかが分からないため、途方にくれてしまいます。社会に出てからも困るでしょうね。確かに、幼いうちから勉強をやらされていれば最初のうちは成績もいいでしょう。でも、10歳を越えたころから急に勉強に付いていくのが困難になってしまう可能性が高いのです。この頃から勉強の質が「暗記」から「理解」へと変わるからです。「現実体験」が乏しい子は、「学んだこと」を「現実世界」とつなげることが出来ないため、この変化に対応できないのです。特に、応用問題や文章題が多く出るような授業には付いていけなくなります。応用問題や文章題に対応するためには、豊かな現実体験が必要になるからです。なぜ、現実世界の体験が応用問題や文章題を解くときの手助けになるのかというと、現実の世界には「正解」がないからです。「正解がない世界」をいっぱい体験し、「正解のない遊び」をいっぱい遊ぶことで、思考力や応用力が身に付き、その結果、応用問題や文章題にも対応できるようになるのです。(ただし、この能力は本人がやる気にならなければ発動しません。いっぱい遊んだから成績が良くなるなどという単純な話ではありません。そこはご了承ください。)また、この能力の育ちは「子育て」にも影響してきます。「子育て」は100%「正解がない応用問題」ですから。そのため、幼いうちからお勉強ばかりさせられていた子は子育てでも苦しむようになってしまうのです。(学校の成績には表れなくても、子育てや日々の生活の中で「子どもの頃にいっぱい遊んだ結果」が表れている人はいっぱいいます。)ちなみに「ゲーム」には「正解」があります。それは、プログラムを作った人が決めた「正解」です。でも、子どもたちの遊びの場では、その「正解」を話し合いで決めることが出来ます。遊びの場では、「正解」は「与えられるもの」ではなく、「みんなで話し合って作り出すもの」なんです。実は、現実世界を自由に生きるために必要な、自己肯定感も、コミュニケーション能力も、自己表現能力も、思考力も、工夫力も、仲間とつながる能力も、想像力も、身体能力も、子どもの頃の「正解のない世界での自由な遊び」によって育っているのです。だから子どもから「遊び」を奪うことは、子どもから「未来」を奪うことに等しいのです。いくら東大を出ても、「成績」と引き換えに「自分の人生を自分らしく生きる能力」を失ってしまったら意味がないのです。少なくとも私はそう思っています。
2023.08.09
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来年の4月から東京の墨田区の方で、「元気いっぱい」という親子で遊ぶ会を始めます。今、熱心なお母さんが中心になって仲間づくりと場づくりをしてくれています。以下は、そのメンバーの話し合い用のライングループに流した「私がやりたいこと」(一部変えてあります)です。私は子どもを守りたいと思っています。でも、私は直接子どもを守ることが出来ません。だから、子どもを守ってくれるお母さんを守りたいと思っています。わたしがいくら子どもを守ろうとしても、いつも傍にいるお母さんが子どもを守ることが出来なければ、なんの意味もないからです。そして、お母さんを守るためには、一人で頑張っているお母さんを、同じ思いのお母さんとつなげてあげる必要があります。一人では子どもも、自分も守れないからです。だからこの会では、無理に子どもを遊びに参加させなくてもいいですから、お母さんは思いっきり遊んでもらいたいと思っています。(もちろんお父さんも)お母さんが仲間とつながって思いっきり遊んでいれば、子どもも仲間とつながって思いっきり遊ぶようになるのです。私の中では「元気いっぱい」は「子どものための遊びの会」ではなく、「大人のための遊びの会」なんです。そしてそれが、「子どものため」になるのです。大人が生き生きとしていないのに、子どもだけ生き生きとするなんてことはあり得ないのですから。いま、元気のない大人がいっぱいいます。いつも疲れていて、ストレスをため込んでいて、孤独で、自己肯定感が低くて、人目を気にして、自分らしさを忘れ、毎日が生きるか死ぬかの生存競争を繰り返しているお母さんがいっぱいいます。一生懸命に生きてはいるのですが、自分がどこに向かっているのかを知りません。自分がやっていることが正しいのか、正しくないのかも知りません。そのため、死ぬほど頑張っているのに、「自分がやっていること」に価値も意味も達成感も感じることが出来ません。そのため、毎日がむなしいのです。このようなお母さんは子育てをしていても、ただただ毎日子どもの世話をしているだけで、自分がやっていることの意味や価値を知りません。考えようともしません。子どもに何を伝えたいのか、どういう人間に育って欲しいのかということも考えません。そして、ただ「他の人と同じようにやる」、「わが子を他の子と同じような状態にする」、「可能ならば他の子よりも優秀にしたい」ということだけを目的に子育てをしています。そして、自分自身の成長のために仲間と自由に自然の中などで遊びまわりたい本能を持っている子どもたちを、狭い部屋の中に閉じ込め、毎日「勉強しなさい」、「静かにしなさい」、「学校に行きなさい」、「ちゃんと片付けなさい」、「早くしなさい」などと義務ばかりを押し付けています。その結果、このようなお母さんの子育てを受けている子も、お母さんと同じ状態になっていきます。そのような子が唯一大人の支配を受けないのがゲームの世界です。ゲームがなかったら「子どもたちの反乱」が起きていたのでしょうが、ゲームがそれをうまく抑え込んでいるのです。これは学校でも同じで、先生は「ちゃんと勉強しろ」「もっと勉強しろ」と言いながら、「なんで勉強しなければいけないのか」「勉強するとどんないいことがあるのか」ということを教えてはくれません。本来「学ぶこと」は、一生をかける価値があるほど楽しいことなのに、「学ぶ楽しさ」ではなく「勉強する苦しさ」ばかりを教えています。いま、本当に「遊び」を、そして「心の自由」を取り戻さなければいけないのは子どもではなく大人なんです。「利害を超えたつながり」は遊びの場でしか生まれないのです。「心の自由」は遊びの中でしか育たないのです。
2023.08.08
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皆さんは「人間にしかできないこととは何だと思いますか?」と聞かれたらどう答えますか。人間には出来てAIや機械には出来ないことです。お母さんたちがやっている家事の大部分はAIや機械でもできます。というか、もう実際にかなりの部分を機械が代行していますよね。最近のAIは、普通の人よりも上手に絵を描いたり、物語を作ることまで出来てしまいます。工作だって得意です。声優や俳優やモデルまでも仕事を奪われる可能性を心配しています。AIにはリアルな舞台を演じることは出来ませんが、映像としてなら何でも出来てしまうのです。でもそんな万能なAIにも出来ないことがあります。AIは「大人がやっていること」の真似は出来ても、「子どもがやっていること」の真似は出来ないのです。大人がやっていることの多くは「頭の働きによって管理された行動」です。そしてこれこそがAIの得意分野なんです。というか、こういう「大人がやっていること」をより効率的に機械に代行させるためにAIのような機械を作り出したのです。でも、子どもがやっていることは「頭の働きによって管理された行動」ではありません。だから大人にしてみたら、子どもがやっていることは「意味不明」なんです。子どもたちは、自分の幸せと、成長と、喜びのために行動しています。その行動を導いているのは「命の働き」です。子どもたちは「頭の働き」ではなく「命の働き」に導かれて行動しているのです。だから「頭の働き」しか持っていないAIには子どもの真似は出来ないのです。まただから、「頭の働き」に支配されている大人も、子どもがやっていることを理解できないのです。もう少し具体的に言うと、それは感じ、考え、想像し、遊び、味わい、楽しむことです。AIは感じることが出来ません。センサーによって入力されたデータを処理し、そのデータと人間の反応の関係性を調べ「感じているかのように見せかける」ことは出来ますが、実際に感じることは出来ません。例えば、オナラの成分を分析して、AIロボットに「くさいくさい」と言わせることはできますが、AIロボットが実際にその匂いを感じているわけではありません。また、考えることも出来ません。AIは考えているのではなく0と1を使って演算しているだけです。AIの全ての能力は「演算」という処理によって生み出されているのです。そのため、人間は全体から部分へという方向で考えますが、AIは部分から全体へという方向でしか考える(演算する)ことが出来ないのです。まただから、AIは子どものように「なんで?」「どうして?」という疑問を持たないのです。また、様々な自然現象に対して「不思議」を感じないのです。ちなみに「不思議」や「違和感」といった感覚は、「全体を感じる感覚」から生まれてきます。だから、「なんか違和感を感じるんだけどうまく説明できない」ということがあるのです。でも、知識を積み上げるだけの勉強しかしてこなかった人は、この「全体を感じる感覚」が鈍いのです。またAIは、演算しているだけですから想像することが出来ません。想像能力がないから違和感を感じることもないのです。遊び、味わい、楽しむなんてことは当然出来ません。工作的に物を作ることは出来ても、ただ部分を積み上げながらアウトプットしているだけですから自分がやっている行為から学ぶことも、何か新しいことを発見することもありません。また、その行為を楽しむことも出来ません。子どもだったらみんなやっている「楽しむ」「味わう」「想像する」「遊ぶ」ということがAIには出来ないのです。そして。これこそが「人間にしかできないこと」なんです。そして、このような「人間にしかできないこと」を子ども時代にいっぱい体験して育った子だけがAIに支配されず、AIを道具として使うことが出来るようになるのです。「AI的な能力を身につけるだけの教育」しか受けてこなかった子は、AIにこき使われるようになるだけです。AI的な能力をいくら育ててもAIに敵うわけがないからです。
2023.08.07
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ここのところのAIの進化は驚くほどです。たった一年前とも大きな違いが生まれています。それで「AIに仕事を奪われる」と心配する人も増えてきています。簡単な言葉で説明するだけで、あっという間に写真のような人物や風景を創り出してくれます。そのレベルはもうアーティストレベルです。ある写真のコンクールで優勝した人が、「あれはAIで創ったもので写真ではないので賞は受け取れません」と申し出たほどです。「写真のようなもの」だけでなく、「セザンヌ風に」とか「モネ風に」と指示すれば、セザンヌやモネ描いたかのような「新しい絵」も出力してくれます。家事のようなことはお得意でしょう。もともと、今どきの家事は機械がやっているのですから。お料理もレシピを教え、材料を与えれば、レシピ通りに作ることが出来るでしょう。スポーツだってそれなりのボディーを作ってあげれば出来てしまうでしょう。スマホを見て、ゲームをするなどということは楽勝です。当然、子どもよりもAIの方がゲームは得意です。AIを持ち出すまでもありません、チンパンジーですらスマホを見てゲームで遊ぶことが出来るのですから。こんなことにAIを使うのは「AI様」に失礼です。昔のロボットは作業は出来ましたが創造は出来ませんでした。でも、最近のAIはその創造まで出来るようになってきたのです。映画の中では子どもの世話をするベビーシッターのようなAIロボットまで表れています。AIシッターは叱らないでしょう、罵らないでしょう、打たないでしょう、脅かさないでしょう。そしてちゃんと子どもの相手をしてくれるでしょう。子どもが求めればお話を語ってくれたり、歌を歌ったりもしてくれるでしょう。どうですか、皆さんはAIには出来ないような子育てが出来ていますか。もし、AIでも出来るようなことしかしていないのなら、皆さんの「人間としての価値」はどこにあるのでしょうか。「人間には命がある」というのなら、その「命」を見せてみてください。「命」がなければできないようなことをやって見せてください。でも最近、何でも出来るかに見えたそのAIの問題点も明らかになってきました。それは「命」を持っていないことが原因として生まれる問題です。AIは命を持っていないが故に直接この世界と関わることが出来ません。「人間が感じている世界」を感じることも、「人間が見ているもの」を見て、「人間が聞いているもの」を聞くことも出来ないのです。人間は「花」を見て「美しい」と感じることが出来ます。でも、AIに花を見せても花の情報をデータとして取り込むだけです。AIは人間が作った「花は美しい」という情報を基に花を「美しいもの」として扱うことはできますが、AI自体は花を見て「美しい」と感じることが出来ないのです。AIは秋になってもメランコリックな気分にはならないでしょう。私たちは、命の働きとダイレクトにつながっている自分の感覚を通してダイレクトに世界を体験しています。だから、情報が歪んでいるときには、その感覚に照らし合わせて「この情報、なんか変だ」と判断することが出来るのです。でもAIにとっては「情報」だけが世界の全てです。そのため、その情報の歪みを検知するための絶対的な基準が存在していないのです。そこで起きているのは、自己循環の繰り返しによる歪みの増幅です。今世界には人間が作った情報だけでなくAIが作った情報も大量に流れています。その結果、自分が作った情報を基に新しい情報を作り出すようになってきてしまっているのです。それは、伝言ゲームという遊びを延々と繰り返しているようなものです。自分で直接世界と触れていないAIにはこの伝言ゲームの間違いをチェックすることが出来ないのです。それで、AIが出力する情報が狂い始めているのです。そして実は人間でも同じようなことが起きています。自分自身で体験することなくお勉強という形で情報だけを集めて考え、判断しているような人たちも「自分の間違い」をチェックできないのです。そして実際、そういう人たちが政治家になって国を動かしています。だから生活実感とつながらないおかしな政策ばかりが発案されているのでしょう。では「人間にしかできないこと」とは一体なんなのでしょうか?<続きます>
2023.08.06
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いま、Netflixで「アンノウン」(洞窟に眠る新たな人類)というドキュメンタリーを見ています。洞窟から発見された、25万年以上前のものと思われる骨のかけら。その"新たな人類"について、そして人類とは何かについて探る科学者たちに迫る .というものです。その、アフリカで発見された「新たな人類」は「ホモ・ナレディ」と名付けられました。それまでの人類の系統にはなかった種です。洞窟の中で骨はいっぱい発見されたのですが、それが人類に属する種のものなのか、それとも人類に近い類人猿のものなのかは骨だけでは分かりません。脳の大きさもかなり小さかったようです。でも、発掘を続けていく過程で彼らが「人間しかやらないようなこと」をやった形跡を見つけます。それは、仲間を埋葬した跡です。死んだ仲間を、わざわざ洞窟の奥深くまで運んで埋葬しているのです。そのことで彼らが「死」を認識し、「死」に対して特別な感情を持っていたことが分かります。チンパンジーや象も仲間の死は悲しむようですが、埋葬まではしません。仲間と共に埋葬という儀式を行うのは人間だけなんです。それで発掘した人たちはホモ・ナレディも私たち人類の仲間なのではないかと考えます。ちなみにネアンデルタール人も、仲間の死体を埋葬していたようです。しかもその場から大量の花粉の化石が発見されました。つまり、ただ死体を埋めただけでなく大量の花を添えたのです。「死」というものを認識し、その「死」に対して特別な感情を抱き、仲間と共に特別な儀式を行うようになったことが、「人類が人間らしさに目覚めた証拠」として扱われているのです。プリミティブな「宗教」の目覚めです。「人類が人間らしさに目覚めた証拠」として扱われているものは他にもあります。それは石器や土器などの道具や、壁画などの絵画です。ただこれらは「遺跡」という形で残りますが、「遺跡」という形では残らない「人間らしさを表すもの」も、その頃に同時に生まれたのではないか思います。それは「言葉」や「歌」や「踊り」です。なぜなら壁画を描き、様々な道具を作る技術を生み出し、守り、次世代に伝承するためには、チンパンジーやイルカのようにただ一緒に暮らしているだけでは無理だからです。「もっと積極的に仲間同士がつながりあえるような何か」が必要になるのです。それは食べ物や安全といった「生存に必要なもの」だけではなく、「仲間同士の心のつながり」を強くするような何かです。ですから私は壁画を描き、道具を作り、それらの技術を子どもたちに伝えていた人たちは、「言葉のようなもの」を話し、「歌のようなもの」を歌い、「踊りのようなもの」を踊っていたのではないかと考えています。人類を「人間」として特徴づけているのはその「科学力」ではなく、「人と人のつながり」であり、その「人と人のつながり」を支えている言葉や、歌や、踊り、遊びや、生活などの文化をちゃんと守り、次世代に継承できているのかどうかということなんです。壁画や石器などの形として残っているものは、形としては残らない人々の生活の結果に過ぎません。「人間らしい生活」がなければ「人間らしさを証明するような遺跡」は残らないのです。そして、人間らしさも失われていくのです。私たちは何万年後の人たちに、「この頃の人たちは人間らしさを持っていた」ということを証明できるようなものを残せるでしょうか。
2023.08.05
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