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私はよく「子どもを待ってあげて下さい」ということを言っています。でも、待つためには信じる必要があるのです。信じることが出来ないから待てないのですから。でも一般的に、人が何かを信じるためには何か「根拠」が必要になります。これは宗教でも同じで、神を信じるためには「聖書」という根拠が、仏を信じるためには「お経」(仏典)という根拠が必要になります。でも、「幼い子どもの成長を信じる根拠」などどこにも存在していません。だから、お母さんは子どもの成長に不安を感じ、「自分がちゃんと仕付けないと」と頑張ってしまうのでしょう。また、待てなくなってしまうのもそのためでしょう。でも、待つために根拠が必要になるのは大人の話です。実際、幼い子ども達は何にも根拠がないのに「お母さん」を信じているのですから。幼い子ども達は、本能的に「お母さんは私を守ってくれる」「私を愛してくれる」ということを100%信じているのです。そしてそれはお母さん自身も感じているはずです。だからそれを利用して子どもをコントロールしようとしたりする人もいるのです。ではどうして、幼い子ども達は何の根拠もないのにお母さんを信じることが出来るのでしょうか。大人は何かを信じる時には根拠を求めるのでしょうか。これは大人と子どもとでは「世界とのつながり方」が違うからなのです。大人は意識と知識で世界とつながっています。だから、何かを信じるためには意識や知識を納得させるだけの根拠が必要になるのです。でも、幼い子ども達は、命の働きや、感覚や、からだで世界とつながっています。そして、命の働きや、感覚や、からだの働きには「疑う」という機能がないのです。ファンタジーが生まれてくるのもそのためです。お風呂に入って「あーあったかい」と感じている時に、「これは本当に温かいのだろうか?」などと疑う人はいませんよね。「百聞は一見にしかず」ということわざもありますが、情報を聞くだけでは信じることが出来なくても、実際に見てしまえば信じるのです。そして子ども達が、人を信頼し、人と人のつながりに身を任せることが出来るようになるのは、子ども達が、この命の働きや、感覚や、からだで世界とつながっている間だけなんです。モラルの基本が育つのもこの頃です。(7歳前後)でも、大人達がこの時期の子どもに知的な勉強を押しつけてしまうと、「信じる能力」が育つ前に「疑う能力」が目覚めてしまうのです。なぜなら、一般的に「知的な学び」は、部分を全体から切り離すことで成り立っているからです。その結果、根拠がないと信じることが出来なくなってしまうのです。「信じる能力」が育つ前に「疑う能力」が目覚めてしまった子は、「自分」を信じることも出来なくなります。その結果自己肯定感も低くなります。よく「根拠がない自信が大切だ」と言われますが、根拠がなくても自信を持つことが出来るようになるためには「つながりを感じる能力」が必要になるのです。「支えられている」という感覚があるから自分に自信を持つことが出来るのです。
2024.06.03
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「命」というものは動的なものです。時間の流れの中に存在しているものであって、時間の流れから切り離して観察しようとしたら消えてしまうものです。私たちが生きている世界は全て「時間の流れの中」の中に存在しています。でも、知識の世界には「時間」は存在していません。時間の順に並べることは出来ますが、動きそのものを扱うことは出来ません。人間の意識は、動いているものを「動いている状態のまま」扱うことが出来ないからです。「コップ半分の水」という有名な話がありますよね。「コップ半分の水」を見て「まだ半分ある」と発想する人は「ポジティブ思考の人」で、「もう半分しかないと見る」人は「ネガティブ思考の人」だと説明するあれです。そして「ポジティブ思考」をするためのハウツー本もいっぱい出ています。でも実は、私にはこの「ポジティブ思考」と「ネイティブ思考」というもの自体がよく分からないのです。両者とも目の前の状況を勝手な思い込みで見ているだけですから。「ポジティブ思考」も「ネイティブ思考」も、目の前の現実をちゃんと見ていない思い込みに過ぎません。「ポジティブ思考」と「ネイティブ思考」は写真のネガとポジの関係のように正反対ですが、実際には、正反対であるが故に本質的には同じものなんです。そんな思い込みに囚われているから自由になれないのです。「自己肯定感が低い」とか「高い」とい考え方も同じです。「自己肯定感」などというものは勝手な思い込みに過ぎません。それは、自分の脳が勝手に創り出した妄想に過ぎないのです。本当に「今起きていること」を知ろうとするのなら、「時間の流れ」と「流動的に変化している周囲との関係性」の中でコップの中の水の意味を考えるしかないのです。時間を止めても、つながりを無視しても「本当のこと」は見えなくなってしまうのです。周囲の世界から隔離し、時間を静止した状態でコップの水の量を云々しても意味がないのです。それは現実的な思考ではありません。ゼロから増えてきて半分になったのか、満杯が減って半分になったのか。その水は自分でくんだのか、誰かが入れたのか。水道の水なのか、雨が溜まった水なのか。そういうことも含めて「コップ半分の水」の意味を考えないことには意味がないのです。大事なことは「ポジティブに考えるか」でも「ネガティブに考えるか」でもなく「正しく考える」ことなんです。その結果「もう半分しかない」という判断が正しいこともあるでしょう。でも、ポジティブ思考信仰に染まっている人は、そのように考える人を「ネガティブだ」と否定します。そして対応を誤ります。自己肯定感の話でも、大事にすべきなのは「自分が自由であるか、ないか」だけであって、「自己肯定感が高いか、低いか」ではないのです。そんなことどうだっていいのです。自己肯定感などという、脳が勝手に創り出した幻想に囚われているから身動きが取れなくなってしまうのです。目の前の子どもの状態を見て、「まだ○○も出来ない」「もう○○も出来るようになった」と考えるのも同じです。子どもの成長は時間の中で展開しているので、「コップ半分の水」の例えのように、今、目の前の状態だけを見て云々しても意味がないのです。子どもの時「悪ガキ」でもそのまま「悪い大人」になるわけではないのです。子どもの時「よい子」でも、そのまま「よい大人」になるわけではないのです。だから、子どもの「今の状態」だけで、一人の人間としての子どもを勝手に評価してはいけないのです。ちなみに、子どもの時「悪ガキ」でも、色々な大人と関わり、様々な体験をすることで精神的に自立することが出来れば、「素敵な大人」になることが出来る可能性が高いです。逆に、子どもの頃「よい子」でも、大人の指示に従ってばかりいて精神的な自立が出来なくなってしまったら、「困った大人」になる可能性が高いです。私たちは「流れている時間」の中に生きているのです。(物理学的には流れていないようですけど・・・)ですから、常に全てが動いているのです。目の前の石も、大地も、木々も、宇宙も、動き変化しているのです。相互の関係性もその動きの中で生まれています。それを時間から切り離して考えてみても、脳内遊びとしては楽しくても、現実的には意味がないのです。また、時間から切り離してしまうから関係性も見えなくなってしまうのです。学校で学んでいる知識も時間の流れから切り離されたものです。私たちの意識は静止しているものしか捉えることが出来ないように出来ているので、「ありのままの現実」を扱えないのです。でも、命の働きとダイレクトにつながっている心やからだは、動いているものをそのままの状態で捉え、扱うことが出来るのです。だから頭だけで考えずに、心やからだも使って考える必要があるのです。頭だけで考えてしまうから現実が見えなくなってしまうのです。AIは頭だけの存在ですから、現実を解析することは出来ても、現実を観ることは出来ないのです。
2024.06.02
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若者による「遊び半分の迷惑行為」が増えて来ました。遊び感覚で犯罪行為をする若者も多いです。遊び感覚でイジメや万引きをする子ども達もいます。先日、テレビを見ていたら、自分たちで騒ぎを起こして、自分たちで警察を呼んで、やって来た警察から逃げるのをゲームとして楽しむ若者のことをニュースで流していました。危険な行為や迷惑行為や犯罪行為を起こして、それを動画にとってSNSにアップする若者も多いです。全く意味不明です。スマホを見ながら歩いたり自転車に乗っている人も普通に見かけます。自転車で迷惑行為をする人、自動車で迷惑行為をする人のニュースも後を絶ちません。大人でもカスハラ行為をする人が増えて問題になっています。また、飲食店などに大量に予約を入れて武断でキャンセルする人もいるようです。これも遊びなんでしょうか。20年くらい前から「モンスター○○」と呼ばれる人たちが増えて来たことも若者達のこのような状態に関係しているのかも知れません。一般的にこのような状態は「モラルの低下」という言葉で表現されるのかも知れません。ではその「モラル」とは一体何なんでしょうか。「モラル」は明文化されていません。感覚的なものです。他者に期待することは出来ても強制することは出来ません。「社会を共有している仲間達に対する自発的な思いやり」のようなものです。ですから、「人と人のつながり」の中で育った子は、自然とモラルも育ちます。家族がつながり合い、共に助け合って生活しているのなら、子どもも自然と「家族内のモラル」を守るようになるでしょう。でも、家族もバラバラ、他の子や他の大人とのつながりも希薄な状態で育っている子に「モラル」を求めても無駄なんです。道徳教育は全く無意味です。でも困ったことに、現代社会ではそういう状態で育っている子が多いのです。若者達のモラルの低下はその結果に過ぎません。それはそういう社会や家族を作っている大人の問題なのですが、問題行動を起こして非難されるのは子ども達です。でも、そういう子ども達は、非難されても何で非難されているのか分からりません。
2024.06.01
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「今、ここを大切に生きる」とか「今を楽しむ」という考え方があります。私もそういうことを言っています。また子ども達はそういう生き方や考え方しか出来ません。そして、それが子ども達の育ちにおいては非常に重要なことでもあります。1才の時には1才の時にしか出来ないことを楽しみ、2才になったら2才の時にしか出来ないことを楽しみ、3才になったら・・・、5才になったら・・・・ということの繰り返しで、子どもは「今の自分の成長に必要なもの」を消化吸収し、バランス良く成長することが出来るのです。これは大人になっても同じです。今しか出来ないこと、ここでしか出来ないことを楽しむ生き方は人生を充実させてくれるでしょう。それは「自分の人生と肯定的に向き合い、自分の人生を楽しむ」と言うことでもあります。その「今を楽しむ」という考え方は、「自分に与えられたもの、自分が置かれた状況を肯定的に受け入れ楽しんでしまおう」という意味です。そして、それを実現するためには工夫と発見が必要になります。そして、幼い子ども達はそういう遊び方が得意です。ですから、どんな場でも、どんな状況でもジーッとしていません。そして楽しいことを探して遊ぼうとします。だから大人は困ってしまうのですけど・・・。また、自然の中で遊ぶことになれている子ども達もそういう遊び方をしています。遊具がなくても、ゲーム機がなくても、退屈することはありません。一日中遊び続けます。私が問題にしているのは、それと似ている表現の「今が良ければいい」という考え方です。ゲームに夢中になっている子はそういう感覚なんでしょう。「簡単にお金儲けがしたい」と闇バイトに手を出してしまう若者も同じでしょう。子育てでも自分が楽をするために子どもを放置してしまう人がいます。自分の価値観を子どもに押しつけている人も同じです。「嫌なこと」から逃げることで今を楽しもうとするのです。確かに逃避が必要な場合もありますが、ちょっと気にくわないことがあるとそこから逃げてしまうことを繰り返していたら、簡単に人生行き詰まってしまいます。でも今、そういう生き方をしている若者が増えて来たような気がします。「今を楽しむ」と「今が良ければいい」という二つの考え方は、一見、表現は似ているのですが、結果は正反対になってしまうのです。そして今では、多くの人が「与えられた今」を楽しもうとするのではなく、「楽しいこと」や「好きなこと」だけを求めて「今が良ければいい」という生き方をしようとしています。幼い時からそういう生き方をしてきたのでそういう生き方しか知らないのでしょう。子どもが生まれたら「子どもがいる生活」「子どもと共に生きる生活」を楽しめばいいのに、「子どもに私の自由を奪われたくない」と子どもを放置したり、「子どもという束縛」から逃げるために保育園などに子どもを預けてしまう人も多いみたいです。でも、それは「苦しみの先送り」に過ぎないのです。先送りにした苦しみは、そこに子どもの苦しみも加わって子どもが思春期を迎える頃に何倍にもふくれあがって返ってくるのです。そういう状態になってから「どうしたらいいのでしょうか?」と相談に来る人もいるのですが、そうなってから良い方に状態を変えるのは本当に困難なんです。(幼稚園などで呼ばれて講演をすると、幼稚園に行っている子のことではなく、思春期を迎えたお兄ちゃんやお姉ちゃんの相談を持ってくる人が多いのです。)だから、まだ子どもが幼いお母さん達にこういうことを伝えているのですが、でも、「今」しか見えていないお母さんにはそれが通じないのです。
2024.05.31
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仕事柄、色々な人の子育てを見ていて悲しくなることがよくあります。それは、ちょっとした我慢が出来ずに自分で自分の首を絞めるような子育てをしている人が非常に多いことです。「静かにしなさい」と怒鳴って子どもを余計に泣かせているような人や、「勉強しなさい」と勉強を押しつけることで子どもを勉強嫌いにしているような人や、「言うことを聞きなさい」と子どもの行動を管理することで「自分で判断できない子」を育てているような人はその典型です。現代人は、昔の人に比べて随分と短気です。じっくりと待つことが苦手です。また、「手間と時間がかかるようなこと」は「悪」で「手っ取り早くすぐに、簡単にできること」が善だという価値観に染まってしまっています。実際、その「手っ取り早くすぐに、簡単に」を実現するために、便利で簡単な様々な機械や、社会的インフラが作られてきました。そしてそれが「人間に幸せをもたらす社会の進歩」だと思い込んでいます。テレビのCMでも、一日中「手っ取り早く、すぐに、簡単に」を実現してくれるようなものを宣伝しています。そんな「簡単で便利な機械や社会」が、「待つことや、見守ることや、我慢や、相手に合わせることが苦手な大人と子ども」を大量に育ててしまったのでしょう。造形の現場でも、「すぐに出来るもの」ばかりやりたがる子が多いです。また、「簡単に出来るもの教えて」と聞いてきます。私は子どもからこの言葉を聞くのが悲しいです。教室を始めた30年くらい前には、「作ることを楽しむ子」や「何週間もかけてじっくりと取り組む子」もそれなりにいたのですが、最近、そういう子はかなり少ないです。多くの子が「今日持って帰りたい」と言います。そして大人も同じ状態です。というか大人がそういう状態だから子どももそうなってしまっているのですからそれは当然なんですが、問題は、自然の言葉に従うべき子育てにおいてまで「簡単と便利」を求める人が増えてしまったことなんです。「子どもの自然な成長」を見守ることが出来ずに、大人の期待に合わせて成長を急がせようとする人が非常に増えて来ました。でも、「命」は人工物ではなく「自然現象」なんです。妊娠も、出産も、子どもの成長も「自然現象」なんです。人の「心」や「からだ」は人間が作りだし、人間がコントロール出来る人工物ではないのです。どうやら現代人はそんな当たり前のことも忘れてしまったようです。そして、妊娠や、出産や、子どもの成長を、まるで機械のように人工的にコントロールしようとしています。心やからだの状態も「自然の理」に従わずに薬などでコントロールしようとしています。科学の進歩がその流れを支えています。そして、大部分の人がそのような流れに何の疑問も感じていません。それどころか、簡単で便利になったことを喜んでいます。問題は、その「ツケ」は遅れてやって来るということなんです。からだの調子が悪い時、サプリや薬で適当にごまかし続けていると、やがて取り返しの付かない状態になってしまいます。環境破壊に伴う異常気象も遅れてやって来ました。子どもが幼い時に子どもの傍にいて安心を与えていないと、子どもが思春期を迎える頃になって様々な問題が表面化してきます。それは、精神的に自立できない子どもの「苦しみの自己表現」なんですが、そのことで親も苦しみます。でも、多くの親が「自分がやったこと」「自分がやらなかったこと」を反省することなく、一方的に子どもを責めています。また、子育てにおいては原因と結果のタイムラグが大きいので、その因果関係に気付く人は多くありません。子どもが幼いうちは、お母さんが「簡単で便利な子育て」をしても目に見えるような問題は起きないのです。その結果が「困った問題」として表れ始めるのは子どもが思春期を迎える頃です。逆に、子どもが思春期を迎える頃に「安心と喜び」がやって来る人もいます。そういう人は子どもが幼い頃にのんびりと子どもの成長に寄り添い、「簡単・便利」に依存しなかった人だと思います。皆さんの所にはどちらがやって来ると思いますか?
2024.05.30
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多くの人が勘違いしていることがあります。それは子どもを「未熟な存在」だと思い込んでいることです。成長を「未熟=>成熟」「不完全=>完全」へと捉える考え方も同じです。でも本当はその逆なんです。赤ちゃんは、世界中の言葉を話すことが出来る状態で生まれてきます。ただ、まだ「言葉」というものを知らないから話すことが出来ないだけなんです。歌を歌う能力を持っていても歌を知らなければ歌えないですよね。それと似たような状態です。だから、フランス語を話す親に育てられればフランス語を話せるようになり、日本語を話す親に育てられれば日本語を話すことが出来るようになるのです。それがどんなに難しい言葉であっても、その言葉によって育てられればその言葉を話せるようになるのです。それが赤ちゃんだけが持っている特殊な能力なんです。幼い子どもはゼロから「新しい言葉」を学んでいるのではなく、「必要がない言葉」を切り捨てて「自分が生まれた場所で生きていくために必要な言葉」だけを残しているのです。だから、「不要なもの」として「切り捨て」が終わってしまった大人が新しく外国語を学ぼうとしても、赤ちゃんが言葉を学ぶ時のようにすんなりとはいかないのです。また、いくら勉強しても母国語のように使えるようにはならないのです。それは彫刻を始める前の木や石の塊のような状態です。彫刻家は木や石の塊を彫って仏や、美女や、リンゴや花も創り出すことが出来ます。椅子やテーブルといった「役に立つもの」を創り出すことも出来ます。でも、その無限の可能性を持ったものをゴミにすることも出来ます。だから彫刻家は「自分が創っているのではなく、自分は予め存在していた〝それ〟を取り出しているだけなんだ」などというようなことをいうのです。そしてこれは子育てでも同じなんです。実際、産まれたばかりの赤ちゃんの脳には大人よりも多くのニューロン(神経細胞)が存在しているそうです。でも、成長と共に使われる回路は強化され、使われない回路は消えて行くのです。そして、一度失われてしまったニューロンは再生しません。だから、大人になってから外国語を学ぶのは難しいのです。(大人になってから新しい言葉を学ぶ時にはまだ残っているニューロンをうまく組み替えてそれに対応させるのです。)学習することでニューロンが新しく創られるのではなく、すでにあるニューロンとニューロンのつながり(シナプス)が強化されるだけなんです。そして、使われないニューロンやつながりは消えて行きます。その結果、意味のある活動や思考が出来るようになるのです。詳しくは赤ちゃんには、秘められた能力と「脳力」があるこのサイトの記事を読んでみて下さい。以下はその記事からの抜粋です。また、脳を構成している神経細胞(ニューロン)の数は、実は生まれたばかりの赤ちゃんが最も多く、成人の約1.5倍あり、成長とともにその数は減っていきます。また、神経細胞どうしをつないでネットワークを構成する「シナプス」の数も、生後7・8カ月ごろにピークとなり、あとは減少していくという調査結果が出ています。つまり脳の神経細胞もシナプスも、赤ちゃん期に過剰に作られ、成長の段階を追うごとに、機能的に必要ない部分が刈り込まれていくということです。「成長」とは「普遍的な状態で生まれてきた子が、自分が生まれてきた世界に合わせて個別化、特殊化していく」ということなんです。それはまた可能性が失われていく過程でもあります。だから「子どもは天才」などと言われながら、ほとんどの子が成長と共に凡人になっていくのです。これはものの考え方でも同じです。赤ちゃんは全ての可能性を考えることが出来るのです。行動においてもタブーがありません。何でもかんでも試してみようとします。虫を殺して遊んだりもします。でも、それは子どもが残虐だからではありません。「出来る事は何でも試してみようとする」のが子どもの本能だからです。そんな時、「ダメ」ばかり言って子どもの行動を制御していると、子どもの中の可能性はスゴイ勢いで消えて行きます。そして、後からその可能性を取り戻そうとしても一度消えてしまった可能性は元には戻りません。「なんでそんな残酷なことするの」とか「何でそんなかわいそうなことをするの」と言っていると、子どもは「自分は悪い子なんだ」と思い込むようになります。かといって、子どもがやっていることをただ見ているだけで何も言わなければ、刈り込みが行われないので、子どもは周囲に合わせることが出来なくなります。そして自分勝手な子に育っていきます。また子どもは周囲の大人達との関わり合いを通して「必要な能力」と「不要な能力」を振り分けています。普段から「君はどう思うの?」と問いかけられているような子においては、「自分の頭で考える能力」は「必要な能力」として残ります。でも、命令に従うだけの生活をしている子は自分の頭で考える能力を失っていきます。そして、一度失ってしまった能力を復活させるのは非常に困難です。幼い子どもは「自分の頭で考えることが出来る大人」と関わることで、自分の頭で考えることを「必要な能力」として残し強化することが出来るのです。「教えたから」出来るようになるのではなく「必要だから」出来るようになるのです。それは、幼い子どもが母国語を獲得する過程と同じです。
2024.05.29
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現代人は「物語」よりも「知識」の方が価値があると思い込んでいます。それは「知識」は試験や仕事など様々な分野で役に立つからなのでしょう。それに対して「物語」をいくらいっぱい知っていても試験や仕事などの現場では役に立ちません。ではなぜ「物語」は生まれ、大切なものとして連綿と受け継がれてきたのでしょうか。昔の人たちの「知識」は簡単に消えてしまったのに「物語」は消えなかったのです。不思議ではありませんか?私は、人類が物語に目覚めた現場には立ち会っていないのではっきりとしたことは言えないのですが、幸いに幼い子ども達がその過程を再現してくれているのでそれを推測することは出来ます。幼い子ども達が「物語」に興味を持ち始めるのは「心」と「社会性」が目覚める頃です。「なんで?」「どうして?」としつこく聞き始める頃です。この頃から子ども達は「物語」を求めるようになるのです。ここで大切なことは、子どもが心の目覚めと共に求めるのは「知識」ではなく「物語」の方だと言うことです。でも、多くの大人達が子ども達の「なんで?」「どうして?」に対して、「物語」ではなく「知識」で答えてしまっています。でも、「知識」は「つながり」から切り離されてしまっているので、子どもはその「意味」を理解することが出来ないのです。「意味」は「つながり」の中にしか存在していないからです。「つながり」の中に「意味」が生まれるのです。「つながり」から切り離された状態の「知識」には何の意味も含まれていないのです。「桃太郎は鬼ヶ島に鬼退治に行った」と聞かされても、「なんで?」「どうして?」は解消されないどころか増えるばかりです。そのため、知識をいっぱい覚えても、理解が出来ないのです。ちなみに「物語」から「時間」という次元を消すと因果関係が消え「知識」が生まれます。逆に、「知識」を因果関係でつなげ「時間の流れ」の中に配置してあげると「物語」が生まれます。「知識」は「部分」ですが「物語」はその「部分」に意味を与える「全体」なんです。幼い子どもは「部分」ではなく「全体」を知りたいのです。(シュタイナー教育はそのように構成されているようです。)幼い子どもは「なんでリンゴは木から落ちてくるの?」という問いの答えとして「重力があるからよ」と聞かされても理解することが出来ないのです。というか大人だって知識として知っているだけで理解出来ていないのですから。皆さんは「重力とは何か」とか「なんで重力が存在しているのか」ということについて説明できるのですか。「重力」は「私たちが生きている宇宙が展開している壮大な物語」の大切な構成要素の一部として生まれたのです。ですから「宇宙の物語」を理解するためには「重力」を理解する必要があるのです。元々、物理学はその「宇宙の物語」を解き明かすために生まれたのです。「知識」はその「物語」を生活の場で応用するために物語の中から切り取られたものです。「物語」が「海の中を泳いでいる魚」だとすると、「知識」はその魚を殺して切り取った「切り身」に過ぎないのです。ただ「魚」はそのままの状態では食べる事が出来ません。だから殺して、切り身にして食べやすくするのです。でも、「この切り身は元々生きた魚であって、川や海を自由に泳いでいたんだ」ということを忘れてはいけないのです。
2024.05.28
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周りにいっぱい食べ物があっても、ただ見ているだけでは「人の命の働きを支える栄養」にはなりません。「食べ物」が栄養になるためには、実際に口に入れ、咀嚼し、飲み込む必要があります。さらには、ただ口に入れ、咀嚼し、飲み込んだからといって、みんな同じように吸収されるわけではありません。美味しい、大好き、楽しいなどの肯定的な感覚や感情と共に食べたものは、まずい、嫌い、苦しいなどの否定的な感情と共に食べたものより、より効率的、肯定的に吸収されるのです。なぜなら、その方が副交感神経が優位になり消化機能が十分に働くようになるからです。そしてこれは、「からだの育ち」だけでなく「頭や心の育ち」でも同じなんです。「楽しく学んだこと」は、頭や心によって積極的に消化吸収されるため、「子どもの頭と心の育ち」を効率的に支えてくれるのです。また、楽しく学ぶことで「学ぶ意欲」も育ちます。すると、大人が押しつけなくても、子ども自身が自ら発見し、考え、学ぶようになるのです。でも、幼い時から勉強を押しつけられた子は勉強が嫌いになるだけです。多少の成績アップはあるかも知れませんが、勉強が嫌いになってしまった子は高学年で失速し始めます。そして、次第に親の脅しも効かなくなります。また、「嫌々学ばされたこと」は記憶として頭に留まるだけで、消化も吸収もされません。当然、「頭や心の育ち」を支えてはくれません。それは、食べ物を無理矢理口に入れることは出来ても、子ども自身に「食べたい」という意欲が目覚めなければ咀嚼することも、飲み込むことも出来ない状態と同じです。むしろ、無理矢理詰め込むことで「食べる事(学ぶ事)への嫌悪感」を育ててしまいます。学校では「知識」を学ばされています。「考え方を育てるための算数の学び」でさえ、「考え方の育ち」を阻害する「知識」として教えられています。歴史も「人間の物語」としてではなく、その物語から切り離された単なる「知識」として学ばされています。では、どういう状態で伝えるなら、子どもは喜んで学ぶようになるのかということです。そのためには、「伝えたいこと」を「現実から切り離された知識」としてではなく、「現実とつなががった物語」として伝える必要があるのです。「現実」は「知識」としてではなく「物語」として存在しているからです。子ども達が「物語」が大好きなのは、「物語」が「子どもの頭と心の育ち」を支える力を持っているからなんです。からだが肉を必要としている時には肉が食べたくなりますよね。水を必要としている時には水が飲みたくなりますよね。それと同じように、子どもは自分の頭と心の育ちに物語を必要としているから、物語を求めるのです。子ども達は「自分が生まれてきた世界」を物語として理解しようとしているのです。というか「理解する」という行為がそのまま「物語化すること」なんです。なぜなら人の心もまた物語で出来ているからです。これは大人でも同じです。人が何かを理解するためにはそのことを他の事象とつなげて物語化する必要があるのです。実際、子ども達に「1+1=2」を教える時、「最初お皿の上にお団子が一つありました。その後、太郎くんがもう一つ置きました。さて今、お皿の上には・・・」というような形で教えたりしますよね。それは「1+1=2」を時間軸の中で物語化することで理解しやすくなるからです。思考の中に「時間軸」を取り込むためには、物語化する必要があるのです。「物語」という形で学ぶから、一見バラバラに見えた全ての知識が時間軸の中でつながって来るのです。現実世界から切り離された「知識」には時間軸がないためバラバラなんです。だから、子どもには理解しにくいのです。「1+1は2になる」ということを学ぶのは、そのことを知ることで自分が生きている世界のことが理解しやすくなるからです。テストでいい点数を取るためためではありません。でも、ほとんどの日本の大人たちは、「テストでいい点数を取るための勉強」しか子どもに求めていません。「子どもの頭と心の育ちを支えるような学び」を子どもに与えようとしている人は少ないです。その結果、知識はいっぱい持っていても、その使い方を知らない大人ばかりが増えています。
2024.05.27
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現代人は「物語」の大切さを忘れてしまいました。そして、「物語」ではなく「知識」の方を大切にし、子どもにも「物語」ではなく「知識」を与えようとしています。まただから、みんな「自分らしさ」や「自己肯定感」を育てることが難しくなってしまっているのです。「命の大切さ」が分からなくなってしまったのも「物語」を失ってしまったからです。現代人が「命を大切にしよう」という場合の「命」は「資源としての命」に過ぎません。「生きていればいいこともあるよ」という言葉が意味している「命」もまた「資源としての命」です。わたしの理解では、この言葉の意味は「資源としての命を失わなければ、その資源をうまく活用することで生きていてよかったと感じることもできるよ」ということなのではないかと思えるからです。この考えでは「自分の命の価値」を「自分」という存在そのものではなく「自分の行為」に置き換えてしまっています。でも私は、「生きていれば・・・」ではなく、「生きていること」そのものが素晴らしいことだと思っています。そうでないとまだ何も出来ない赤ちゃんや、重度の障害を持った人たちの命には価値がないことになってしまうのです。実際、現代社会にはそう思い込んでいる人がいっぱいいます。そのような考え方の人は、子育てや教育にお金をかけることを「子どもへの投資」と表現します。「赤ちゃんの命」の価値が「投資対象としての価値」に置き換えられてしまっているのです。でも赤ちゃんの命が尊いのは、大きくなって色々なことが出来るようになるからではありません。「赤ちゃんの命」には、赤ちゃんを守ろうとする人たちに「新しい物語」を与え、赤ちゃんの周囲の人たちや社会を活性化させる働きがあるからなのです。医学が進歩して人が死ななくなったら、新しい物語を作り出す赤ちゃんは必要がなくなってしまいます。そして社会は停滞し活力を失いやがて人類は消えていくでしょう。私たちの命が大切なのは、「命」には「つながりを支える働き」があるからなんです。そして、「赤ちゃん」にはその「つながり」を活性化させる働きがあるのです。「命」とは、「つながりを創り出し、つながりを支える働き」そのものなんです。「命を大切にする社会」は「人と人のつながりを大切にする社会」でもあるのです。まただから、「命」があるところには「物語」が生まれるのです。「命」を語ると「物語」が生まれるのです。実際、多くの命とのつながりを実感できている人は「命の大切さ」を知っています。その「つながり」の中に「自分の命の物語」を感じることも出来ます。でも、物や機械にばかり囲まれ、「命のつながり」から切り離されている人は「自分の命には価値がない」と感じてしまうでしょう。
2024.05.26
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昔から言い伝えられてきたことわざの中には、昔の人が体験的に学んだ智恵が隠されています。子育てに関しても多くのことわざがありました。・かわいい子には旅をさせよ・獅子は我が子を千尋の谷に落とす・案ずるより生むがやすし・親はなくとも子は育つ・三つ子の魂百まで・親の心子知らず・子の心親知らず・寝る子は育つ・子どもは風の子・親の恩は子で送る・子はかすがい・親の甘茶が毒となる・老いては子に従え・負うた子に教えられ「かわいい子には旅をさせよ」という言葉は親へのメッセージですが、子ども本人に対しては「若い時の苦労は買ってもせよ」ということわざがあります。これらのことわざは、日本人が何百年という歴史の中で体験的に学んだ智恵です。現代人は「科学的な根拠がない」などと言うかも知れませんが、「無数の人たちが体験を通して気付いたこと」よりも「科学者が言うことの方が正しい」という証明は存在していません。そもそも科学者には現場や現実は扱えないのです。科学者が扱えるのは実験室の中の出来事や理論だけです。実際、「子育てを専門に研究している学者」が、自分自身の子育てでも立派な子育てが出来ているとは限りませんよね。学校の先生の子どもが成績優秀だとも限りませんよね。宗教家の子どもが善人だとも限りませんよね。私の周囲には、幼稚園や保育園や学校の先生といった「教育の専門家」がいっぱいいますが、そんな教育の専門家でもみんな子育てでは悩んでいます。科学の世界には、「曖昧で不安定な現実世界」を扱う方法として統計論とか確率論というような方法があります。これは「細かい理由はよく分からないけど、こういう条件の時にはこういう結果になる確率が高い」ということを明らかにする学問です。天気予報もこの方法を使っています。そして実は「ことわざ」と呼ばれるものも、天気予報で使われているものと同じ方法によって生まれきたのです。過去の無数の人たちが「自分自身の体験や経験を通して気付いたこと」を後世の人たちに伝えているうちに、多くの人の実感に裏付けされた言葉だけが「ことわざ」として残ったのです。でも、「ことわざを伝えるつながり」の喪失と共に、何百年と受け継がれてきた智恵も忘れられてしまいました。そして、そのことわざとは反対の子育てをする人が増えて来ました。昔の人は「かわいい子には旅をさせよ」と言いましたが、今では旅に出すどころか、狭い部屋の中に閉じ込めて広い世界から切り離して子育てをしている人がいっぱいいます。「親はなくとも子は育つ」というのは、家以外の場に「子どもの居場所」や「安心できる人と人のつながり」がある場合の話しです。「一人で放りっぱなしにしていても子どもはちゃんと育つ」という意味ではありません。「三つ子の魂百まで」を迷信として否定したがる人は多いです。でも、これもまた事実です。3才頃までに「人間としての基礎」が出来てしまうのですから。その基礎が出来ていないと、その先の年令になっても成長が不安定になってしまうのです。三歳頃までに多くの体験と共に言葉と出会えないまま育った子が、三歳を過ぎてから豊かな言葉を学ぶのは困難なんです。昔の人は「寝る子は育つ」と言いましたが、実際、心とからだが健康な子はよく寝ます。でも、夜遅くまでゲームなどの刺激が強い遊びをしている子は、ゲームを止めても脳の興奮が収まらないのでよく眠れなくなります。「親の恩は子で送る」これは「自分が親から恩を子どもに返していく」ということです。親から受けた憎しみや虐待を子どもに順送りをしている人も多いですが、その逆です。このような考え方が消えたので「親ガチャ」などという言葉が生まれたのでしょう。「子はかすがい」という言葉は、お母さんとお父さんが共に子どものことを考え、共に子育てをしている場合には有効ですが、家族がバラバラに生活している状態では、子どもは「かすがい」になりません。離婚などの際に奪い合いになることはありますけど。
2024.05.25
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最近の子は「考えること」を楽しめないようです。というか、「考える方法」自体を知らないようです。ですから、ちょっと考えれば分かるようなことでも平気でスルーしてしまいます。安易な気持ちで「闇バイト」に手を出してしまう子や、スマホを見ながら歩いたり自転車に乗っている子も同じ状態なのでしょう。ちょっと考えれば分かることなのに、それをしないで事故や事件に遭ってから「自分がやった事の意味」に気付くのです。でもそれでは手遅れなんです。造形などの場でも、ちょっと見ただけで難しそうだと手を出そうとしません。手を出してもすぐに行き詰まり、自分の頭で考えようとせず、やってみようともせず、〝出来ない〟〝わかんない〟〝先生やって〟などと言い出します。手順を教えてあげれば出来るのですが、考えようとしないのでその手順を自分で見つけ出すことが出来ないのです。また、うちの教室では組み立てるだけのキットではなく、素材そのものを与えているので、手順を教えても手順通りには出来ないことも多いです。竹で水鉄砲を作る場合は、水鉄砲に丁度いい太さ、形、長さの竹を選ぶ所から始めなければなりません。昔の子はみんなそれをやっていたわけです。でも、おもちゃ屋さんで売っている水鉄砲でしか遊んだことがない子にそんなこと分かりません。それはそれでしょうがないので、ある程度私が選んで与えます。そして、水鉄砲の仕組み、原理、作る時の注意点を教えます。でも、ほとんどの子がこれだけでは作り始めません。そして、「作り方教えて」と聞いてきます。多くの子が、仕組みや原理ではなく、手順を教えてもらいたがるのです。今、仕組みや原理には興味がない子が本当に多いのです。自分の頭で考えようとしていないから仕組みや原理には興味がないのでしょう。まただから、自分の頭で考えることが出来ないのです。それで、「いやだから、今説明したよね。(見本を見せて)こういう仕組みになっているんだから、同じように作ればいいんだよ」と言うのですが、すると見本と同じ長さ、同じ形で作ろうとするのです。これは子どもだけではありません。お母さん達もまた同じです。多くのお母さんが、子育てやしつけのハウツーばかり聞いてくるのです。でも、子どもは規格品ではありません。一人一人感覚も、心も、からだも、気質も違います。子どもはみんな「神様の特注品」なんです。だからこそ、「子どもに合わせた子育て」や「子どもに合わせた教育」が必要になるのです。子育てや教育においてはハウツーやマニュアルは役に立たないのです。でも、多くのお母さん達がその「役にも立たないハウツーやマニュアル」ばかりを求めています。「大人に合わせた子育て」や「大人に合わせた教育」を子どもに押しつけています。ただし、「子どもに合わせる」と言っても、子どもをお客さんにしたり、子どもの言いなりになるわけではありません、また、子ども自身もそんなこと求めていません。「子どもの要求」に合わせるのではなく、子どもの「命の働き」や「成長の状態」に合わせるのです。でもそれをするためには、子どもの「命の働き」や「成長の状態」に意識を向け、その場の状況や子どもの状態に合わせて、自分の感覚で感じ、自分の頭で考える必要があるのです。具体的には子どもをオモチャやテレビやスマホやゲーム機に任せるようなことをせず、子どもと一緒に、手や、感覚や、からだや、頭を使うようなアナログ的な生活を楽しむようにしていれば、自然と「子どもの命の働きや成長の状態」が見えてくるのです。などというようなことを言うと、「私は子どもの犠牲になりたくない」などと言う人がいますが、それは逆なんです。子どもと一緒にそのような生活を楽しむようにしていると、子どもは自分の感覚で感じ、自分の頭で考える能力が育って行くので子育てがどんどん楽に、そして楽しくなっていくのです。そして、子どもはやがて社会に出て自立して生きていくことが出来ます。でも、子どもをオモチャやテレビやスマホやゲーム機に任せ、ハウツーやマニュアルだけで育てていると子どもは「子どもは自分の感覚で感じ、自分の頭で考える能力」を育てることが出来なくなってしまうためいつまで経っても自立できず、時には色々な問題を起こし、いつまで経っても子どもから自由になることが出来なくなってしまうのです。そして今、そのような子育てを受けたであろう若者達が増えて来ています。
2024.05.24
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私は、自宅では自由に色々なものを作る造形教室をやっています。「自由」ですから、「作りたいもの」を決めるのは子ども自身です。そして、その参考になるような色々なお手本や本をいっぱい揃えています。教室を始めた30年くらい前にはそれでうまく行っていました。「ここは自由に創れるから楽しい」と言ってくれる子どももいました。でもいつのまにか、その自由をもてあましてしまう子ども達が増えて来ました。「自由に創っていいんだよ」と言っても、「わかんない」と言うのです。そして「なに、作ったらいいの?」と聞いてきます。そのくせ、色々なお手本を見せたり提案をしてもことごとく却下します。そして「たいくつだー」と言いながらブラブラしていたり、友だちとおしゃべりをしています。でも、そういう子ども達でもアニメやゲームの話になると盛り上がります。最近、そういう子が多いのです。そのような状態の子が増えるのは9才、10才頃からです。1,2年生の子は素直にこちらの提案を受け入れてくれます。でも、9才、10才頃から自分で決めたがるようになるのです。それ自体は成長に伴う自然な変化なんですが、最近の子は自分で決めたくても決められない子が多いのです。こちらの提案に対して「それは嫌だ」とは言うのですが「じゃあ何がやりたいの?」と聞いても「わかんない」という答えしか返ってこないのです。9才、10才頃から子ども達は「社会」というものに意識を向け始めます。少しずつ「自分の将来」のことも考え始めます。それまでの「夢」は単に想像するだけのものでしたが、この頃から「将来の目標」が「夢」になっていくのです。そして、「アンパンマンになりたい」などという非現実的な夢はいつのまにか消えて行きます。そんな時、「やりたいこと」を見つけられた子は子は、生き生きとしています。でも、それを見つけられない子は無気力になっていきます。9才頃までは楽しければそれだけで満たされていました。でも、9才を過ぎる頃から楽しいだけでは満たされなくなっていくのです。達成感や充実感が欲しくなるのです。まただから、現実の世界の中でそれを見つけることが出来ない子はゲームにのめり込んでいくのです。ゲームの中で達成感や充実感を得ようとするのです。そして、ますます「現実の世界」への興味を失っていきます。ゲームしか「やりたいこと」がなくなってしまった子は、「動くもの」には意識を向けることが出来ても「動かないもの」に意識を向けることが困難なようです。そういう子は、見て感じたり、見て理解する能力も低いです。本来はその頃から社会的な活動や、大人の世界や、大人の仕事に意識が向いていって、「自分の将来につながるような目標探し」が始まるのですが、家庭や学校に閉じ込められてしまっている現代の子ども達には、社会的な活動や、大人の世界や、大人の仕事と出会う機会がありません。それでも、本をいっぱい読んでいるような子は、本の中で社会的な活動や、大人の世界や、大人の仕事と出会う事が出来ますが、最近の子は幼い時から文字は読めても、本を読むことを楽しむことが出来ません。だから、その時期の子ども達を家庭や、学校や、テレビや、スマホや、ゲームの中に閉じ込めてはいけないのです。「9才の危機」を迎えた子ども達を生き生きとさせるためには、色々な所につれて行き、色々な大人や世界と出会わせ、色々な体験をさせてあげる必要があるのです。
2024.05.23
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最近の子ども達は、テレビやネットで情報を得、ゲームやおもちゃや公園で遊び、運動は学校の体育や「○○クラブ」で行い、知識は学校や塾で学んでいます。それはつまり、「最近の子ども達は〝大人によって作られた世界〟の中だけで生きている」ということでもあります。そしてそれは、ゲームの中の仮想世界と基本的には同じです。私たちは毎日、魚や肉や野菜を食べて生きています。それらはお店で買ってきます。ですから、子ども達はお店に並んでいる「お魚」や「お肉」や「野菜」しか知りません。「そこから先の世界」を知らないのです。時々、「子どもの中には、魚が切り身の状態で泳いでいると思っている子もいる」ということを聞きますが、これは事実です。実際、保育園の先生からも聞きました。また、以前、幼稚園ぐらいの子に「牛さんのオッパイを飲んだことがある子」と聞いたとき、数人が「そんな汚いものは飲んだことがない」と答えました。それで、「じゃあ、牛乳を飲んだことがある子」と聞くと、その子達も「飲んだことがある」と答えました。多くの子が、「牛さんのオッパイ=牛乳」ということを知らないのです。「お金」も同じです。子どもにとって「お金」は、お母さん、お父さんから貰うものです。ですから、「ちょうだい」といえば無尽蔵に出てくると思っています。子どもは、お母さんやお父さんがどのような苦労をしてお金を稼いでいるのか知らないのです。私たちの世界が便利になればなるほど、社会や生活は「人工的な作りもの」になり、自然とのつながり、生命とのつながり、現実とのつながりを失っていきます。そして、私たちの命や心やからだを支えてくれている「本当のこと」が分からなくなっていきます。海が死ねば食卓に魚がのらなくなります。自然が死ねば野菜は育たなくなり、肉も食卓にのらなくなります。牛や豚や鶏は人工的に飼育されていても、彼らが食べているものは自然からの恵みだからです。自動販売機にジュースを補充する人がいなくなれば、お金を入れてもジュースは出てこなくなります。お父さんの仕事がなくなれば、いくら「お小遣いちょうだい」とせがんでも、お小遣いはもらえなくなります。でも、人工的に管理された狭い世界の中だけで育ち、生活している子ども達にはその「私たちの命や生活を支えてくれている外の世界」のことが分かりません。大人になっても分かりません。知識では知っていても、その知識が体験とつながっていないので感覚的に分からないのです。ですから、「働かないとお金をもらえない」ということを知っていても、楽な仕事ばかりを探したり、ちょっと現実とぶち当たると、すぐに逃げてしまいます。子どもがアリを殺したり、お花を摘むと「かわいそう」とか「残酷」といいますが、平気で牛や豚の肉を食べ、お花屋さんでお花を買ってきます。大きなつながりの中で物事を見ることが出来なくなり、「目先の理想論」だけを振りかざすようになります。山や野原や田んぼを切り崩し、埋め立て、公園を作り、「命を大切にしましょう」という看板を立てます。いつもは「命を大切にしましょう」といっている立場の人が、「これは外来種だから駆除しましょう」と言います。「人間による、人間に管理された、人間の価値観に基づく世界」ではそれは正しいことなのかも知れませんが、そのような世界は、「その人間の世界を支えている自然の世界」との整合性がありません。それは木の上で、木の恵みによって生活している生き物が、好き勝手に木を食い荒らしているような状態です。それではやがて木が枯れてしまいます。木が枯れたとき、その恵みによって生活していた生き物たちも死にます。また、学校では「勉強しろ勉強しろ」といいますが、「何のために勉強するのか」は教えてくれません。多分、先生も知らないのでしょう。学校を出て、社会体験がないまますぐに先生になった人が大部分だからです。現代人にとっての「勉強の価値」は、家庭と学校という閉鎖された世界の中にしか存在していないのです。子どもが、「子どもの時にしか学ぶことが出来ないことや出来ないこと」を犠牲にしてまで毎日やらされ、学ばされていることなのに、やがて子どもが出て行かなければならない「外の世界」とのつながりがないのです。このように、価値観的にも閉鎖された世界の中で暮らしている子ども達は、自分がその価値観に適合できないと感じたとき、自分の居場所を失います。その価値観に違和感を感じた子も居場所を失います。そして「自分はダメな子だ」と、自分を否定し始めます。それでも大人は、そのような子どもに「この世界にはこの価値観しかないのだ、この価値観を受け入れないと生きて行くことが出来ないのだ」とさらにその価値観を押し付けます。それで子どもはますます、身動きが取れなくなります。でも、本当の世界はもっと広く、豊かで、人間はもっと自由なのです。大人の人達は是非、知識ではなく体験を通して、そのことを子ども達に伝えて欲しいのです。「成績のための勉強」ではなく、「人生を豊かに生きるための勉強」と出会わせてあげて下さい。
2024.05.22
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皆さんは、子育てや、子どもの教育に関して「生活の場での当たり前のことを体験させ、学ばせること」と「ピアノや英語のような特別なことを体験させ、学ばせること」とではどちらが価値があると思いますか。一般的には、日常生活でも学べる「当たり前」のことを体験し、学ばさせるために高いお金を払ったりしませんよね。日常生活では学ぶことが出来ない「特別なこと」を教えてくれるから高いお金を払ってまで我が子を通わせるのですよね。「群れ遊びの場」を作り、子ども達に自由に遊ぶ体験をさせても、ただ遊ばせるだけで、そこで何らかの特別な指導をしたり、特別な何かを教えたりしなければ、それだけで高額のお金をとることは難しいですよね。実際、そのような活動をしているプレイパークは無料ですから。自分たちが住んでいる地域で「子ども達が遊べる場を作る」といったような活動をしている人たちの多くもボランティアで活動しています。その逆に、子どもの生活には全く必要のないピアノや、英語や、お勉強といった「特別なこと」を教えている人は、ちゃんとした金額の謝礼をもらうことが出来ます。幼稚園でも、最近は子どもが減ってきているので英語教育や早期教育など“特別なこと”を看板にして生徒を集めているところもいっぱいあります。では、どっちが子どもの心とからだの育ちにとっては必要なことだと思いますか。どうも、現代では子どもの成長に必要な「当たり前のこと」より、子どもの成長には必要がない、時には子どもの成長を阻害するような「特別なこと」の方が価値が高いようです。でも、9才頃までの子どもの成長にとって必要なのは、身近な生活の場で体験し、学ぶことが出来るような「普通の事」ばかりなんです。本来、それ以上のことは必要がないのです。でも今、その「普通」を学ぶことが出来ずに「特別なこと」ばかりを学ばされている子が多いのです。もっとも、現代人は簡単便利だけを求めて日常生活を大切にしてはいませんけど。家族がみんな音楽が好きで楽器にも慣れ親しんでいるのなら、その家族の文化として、子どもにもピアノや楽器を習わせることは自然なことだと思います。でも、親は興味がないのに子どもにだけ楽器を学ばせるのは、子どもの成長にとって必要がないことです。英語も同じです。親が英語が好きだったり、英語を必要とするような生活をしているのなら、英語はその家族の文化の一部ですから、子どもにも英語を学ばせるのは自然なことです。でも、親自身は興味がないのに、子どもにだけ幼いうちから英語を学ばせるのは無駄なことです。もっと必要な学びがいっぱいあるはずです。子どもに何かを学ばせたいのなら、まずはお母さんが、子どもと一緒に楽しめることを「遊び」として教えてあげればいいのです。お母さんが歌が好きなら、子どもと一緒に歌えばいいのです。ダンスが好きなら一緒に踊ればいいのです。山が好きなら一緒に山に登ればいいのです。お料理が好きなら子どもと一緒に作ればいいのです。お金を払って専門家の所に通わせるのは、子ども自身が「もっと学びたい」と言い出してからでいいのです。大切なことは、日常生活の中で〝好き〟を育ててあげることなんです。自分は無趣味だから子どもにはいっぱい趣味を与えてあげたい・・という発想は止めた方がいいです。嫌いにさせてしまうだけかも知れませんから。「自分は勉強が出来なかったから」と、子どもを勉強に追い立てても勉強嫌いの子が育つだけです。もし、我が子を「勉強が出来る子」に育てたいのなら、お母さんも子どもと一緒に学びながら、発見する楽しさ、学ぶ楽しさ、考える楽しさを伝えてあげて下さい。
2024.05.21
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世の中が簡単で便利になり、仕事も遊びも機械があれば一人でも出来てしまうようになりました。子どもも大人も、家の外に出なくても、仲間がいなくても、誰かと直接会って話したり、一緒に行動したりしなくても困らなくなりました。情報のやりとりだけなら、メールやラインのような「文字によるコミュニケーション」だけで充分です。動画を見せ合ってコミュニケーションを取ることも出来ます。そしてそのような状態に問題を感じている人は多くないように思えます。特に、子どもや若者はそれがもう当たり前の日常になってしまっています。今の若者達は、スマホや様々な便利な機械がない生活を想像できないでしょう。でもその結果、「人と人のつながり」がますます薄れ、「生きることに対する不安」を感じる人も増えて来ました。「自由」を感じる人も減ってきました。状況的には自由なんですが、その自由を実感出来ない人が増えて来たのです。遊具しかない公園に連れて行かれて「自由に遊んでいいよ」と言われても、一緒に遊ぶ仲間がいなければ楽しくもないし、自由を実感することも出来ませんよね。そんな感じです。現代人は、他者からの束縛はないのに不自由なんです。また強い不安も感じています。人は、危険がないから安心を感じるのではありません。危険があっても、「つながり」に支えられているのなら安心を感じる事が出来るのです。なぜなら、「不安」は外側に実在するものではなく、自分の心が創り出しているものだからです。そのため、いくら「簡単で便利で安全な生活」と「自由」を与えられても、心が「つながり」によって支えられていなければ「不安」は勝手に生まれてきてしまうのです。また、「つながり」を失った社会では別の問題も発生しています。それは、「言葉が通じなくなってしまう」という問題です。極端なことを言えば、「太郎くんは太郎語を話し、花子さんは花子語を話している」といったような状態です。聖書の中に書かれている「バベルの塔」のような出来事が、今実際に起きているのです。なぜなら、言葉は「体験を共有するためのもの」として生まれ、伝えられてきた道具だからです。個人の体験をみんなで共有するために言葉が生まれたのです。ですから、体験が共有されなくなってしまった社会では言葉は必要がなくなって消えてしまうのです。大工さんが使っている言葉は大工仕事の現場で、作業や体験したことや情報を共有するために生まれたものです。森の中で暮らしている人たちと、町の中で暮らしている人たちとでは言葉が違います。森の中で暮らしている人にとっての「木」は、大地から生え、春・夏・秋・冬と変化する木です。でも、都会の人にとっての「木」は、椅子や家などの材料として加工された木です。同じ意味で「木」という言葉が通じるのは、同じ状態の「木」を見て体験したことがあるもの同士です。同じ意味で「死」という言葉が通じるのは、何らかの形で「死」を見たり体験したもの同士です。「夕日」を見たことがない人に、自分が見た「夕日」の話をしても通じないのです。情報としては通じても、実感が通じないのです。今時の子ども達はアニメやゲームやyoutubeで言葉を学んでいます。そのため、異なったアニメやゲームで遊び、異なったyoutubeを見て育っている子とでは言葉が違うのです。そのため子ども同士でも言葉が通じません。「幼児期に森の中で遊び、生き物たちと関わりながら育った子」と「部屋の中でおもちゃやゲームや機械ばかりに囲まれて育った子」とでは言葉が違うのです。そして、言葉の違いは感覚や、心や、思考や、価値観の違いとしても表れます。「部屋の中で、一人でおもちゃやゲームに囲まれて育った子」にとっては、「イジメ」もゲームの一つですが、「森の中で仲間と一緒に育った子」にとっては「イジメ」はゲームではないのです。教室の子ども達と話していても、話が通じないことがしょっちゅうあります。でも、子どもは「なんで先生は僕が言っていることが分からないのか」ということが分かりません。他の言葉を知らないのですから。
2024.05.20
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最近のネット記事を読んでいると「辛いんです、この辛さを分かって下さい」という文章をよく見かけます。子育てに苦しんでいる人でも、性差別や、人種差別に苦しんでいる人でも、貧困やイジメに苦しんでいる人でも、人とつながれないで苦しんでいる人でも同じです。でも、はっきり言います。どんなに辛さや苦しさを訴えても、その辛さや苦しさは当事者にしか分かりません。「どう辛いのか」「どう苦しいのか」を説明したとしても、全く異なった立場にいる人に当事者が感じていることをそのまま伝えることは不可能なんです。どんなにまずい料理を食べて「このまずさを分かって下さい」と、その料理を食べたことがない人に訴えてもムリですよね。その逆も同じです。どんなに美味しい料理を食べて「このおいしさを分かって下さい」と言っても、実際に食べないことには分からないのです。食べたとしても味覚は人それぞれですから、分かるかどうかは不明です。ある人にとっては「まずい」ものでも、それを「美味しい」と感じる人だっているかも知れないのですから。人に見られることを嫌がる人もいれば、人に見られて喜ぶ人もいるのです。ホームレスになって苦しんでいる人もいれば、望んでホームレスになる人もいるのです。ただ、苦しい時には「苦しい」と、辛い時には「辛い」と声を上げることは非常に大切です。黙って一人で我慢しているだけではもっと辛く苦しくなってしまうし、そのような人を抱えている社会もおかしくなってしまいますから。私が問題視しているのは「辛いんです、分かって下さい。」と、一方的にその問題を相手に丸投げしてしまう人です。そのような人は、責任や解決方法も相手に丸投げしてしまいます。でもそれは、自分の人生を他者に預けてしまうのと同じ事なんです。でもその一方で、「自分が苦しかったから」と同じような問題で苦しんでいる人を手助けする活動を始める人もいます。「受け取る側」から「与える側」になることが出来る人です。そのような人は「苦しみ」が消えていなくても、苦しみに押しつぶされずにそれを背負って自分の人生を歩いて行くことが出来るでしょう。大事なのは「苦しみ」を取り去ることではなく、その苦しみを抱えたままでも前に進むことなんです。前に進み続けていればやがて状況は変わるのです。でも、「苦しいんです助けて下さい」とその場から動こうとしなければ、状況はいつまで経っても変わりません。私は「幸せを求めているだけの人」は幸せになることが出来ないと考えています。そのような人は「ないもの探し」ばかりしているのですから。それに、「幸せになりたい」という発想自体が「自分は不幸だ」という前提から始まっています。でも、「ないもの」ではなく「すでに持っているものに気付き、感謝し、喜ぶことが出来る人は幸せな人です。そのような人は「与える人」になることが出来ます。天国と地獄の違いを言い表した昔話があります。ある人が地獄と天国の見学に行きました。案内役の霊が「あそこが地獄だよ」と指し示した方を見ると、テーブルの上にはごちそうが並んでいます。それで、「これが地獄?」って思ったのですが、近寄ってみるとみんな怒鳴り、怒り、苦しんでいます。それはみんなが長い箸を持っているのですが、箸が長すぎて食べ物を自分の口に運ぶことが出来ないからです。それで食べ物はいっぱいあるのにみんなが飢えて苦しんでいるのです。次に、天国に行きました。天国でもやはり同じようにごちそうが並び、みんなが長い箸を持っています。でも、みんな嬉しそうです。どうしてなのかとよく見ると、地獄ではみんな箸で取ったものを自分の口に運ぼうとしているのに、天国では隣の人や前の人の口に運んでいるのです。そうやってお互いに食べさせ合っているので、長い箸でもみんなお腹いっぱい食べることが出来ているのです。昔の人は天国と地獄の違いをこのように言い表したのですが、私もその通りだと思います。でも、今の日本の状況はこのいずれでもありません。昔の人はこんな時代が来るなんて思いもよらなかったのでしょう。今の日本では、自分で箸を持つことさえしないで、(赤ちゃんのように)ただ口を開けて待っているだけの人がいっぱいいるのです。「お腹が空いた 苦しいよ」と言いながら、誰かが口に食べ物を運んでくれるのを待っているのですが、みんながその状態なのでいくら待っても食べ物をもらえません。それで、「みんな薄情だ」「弱者に優しくない社会だ」「誰も私を助けてくれない」と嘆き悲しんでいるのです。時々、天国にいるような人が来て食べ物を口に運んでくれるのですが、「それはやだ」、「肉をもっとくれ」、「味付けがまずい」、「なんでもっと早く取ってくれないんだ」と言うばかりで、自分は相手の口に食べ物を運ぼうとはしません。時には「あんたじゃだめだ」とその相手を追い出して、文句を言いながら別の人を待つこともあります。それで、その善良な人も諦めてしまうのですが、でも、口を開けているだけの人は、「私には食べる権利があり、これは正当な要求」だと言うばかりで、自分には何の問題もないと思っています。天国のように、お互いに食べさせ合えばいいのですが、自分が食べさせても、相手が自分に食べさせてくれるかどうかを疑っているので、「損をしたくない」と、自分からは動かないのです。また、「飢えているのは自分だけだ」と思い込んでいる人もいっぱいいます。そして、自分は食べないでも他の人のために一生懸命に食べ物を運んでくれる善良な人を待ち続けているのです。また、「あなたのことを信用できない」、「人を受け入れるのが怖い」と言って、そのような人に対してさえ口を開けない人もいっぱいいます。それでいながら飢えに苦しんでいるのです。そのような人が少数のうちは善良な人にも対処できたのですが、現代ではあまりにもそのような人が増えてしまったので、みんなが飢えている社会になってしまっているのです。これは、昔の人も想定しなかった新しい形の地獄です。「依存地獄」とでもいうのでしょうか。この「依存地獄」から脱却するためには、「自分がして欲しいこと」を積極的に他の人にしてあげることです。それだけです。そうすれば巡り巡ってそれが自分の所に帰ってくるのです。よしんば帰ってこなくても誰かが喜んでいるのですから、それでいいのです。
2024.05.19
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最近強く感じている大きな問題があります。それは最近、人と人の間からどんどん「対話」が消えてしまっていることです。家庭でも、学校でも、社会でも、政治でも、対話の重要性は無視されています。遊びの場でも対話は消えました。群れて遊ばなければ対話は必要がないのですから。タブレット学習では対話は成り立ちません。政治家も「勝つか負けるかの論争」はしても、「より良い未来を築くための対話」はしません。そのため、「自分とは異なった意見の人とは話したくない」と対話を拒否する人がどんどん増えて来ています。「自分の考え」と異なったことを言われると「自分」が否定されたように感じてしまう人もいます。自分に向けられた言葉でなくても、「自分の考えとは異なった意見」を聞くだけで嫌悪感を感じてしまう人も多いようです。芸能人などが「自分の考えとは異なった意見」を言うと、SNSなどでバッシングを始めるような人もそのような状態なのでしょう。子育ての場でも、子どもに指示や命令を出すお母さんは多いですが、子どもの言葉に耳を傾け、子どもとの対話を大切にしている人は少ないです。「引きこもり」と呼ばれる状態の人も対話を避けます。自己肯定感が低い人も対話を避けます。そして、相手に対しては「そのままの自分」を受け入れてくれることだけを望んでいます。LGBTや不登校や障害の問題でも、「自分たちはこんなに苦しいんだ」と自己主張はしますが、そういう問題を抱えていない人達の言葉は拒否します。また、そういう問題を抱えていない人達もまた、LGBTや不登校や障害の問題を抱えている人達の言葉を拒否します。そしてお互いに、「自分の方が正しい」と主張し、自分の価値観や考え方を一方的に相手に押しつけようとしています。「子育てをしている人」は「子育てをしていない人」の言葉に耳を傾けず、「子育てをしていない人」は「子育てをしている人」の言葉に耳を傾けません。それが「子持ち様」論争につながっているのでしょう。そこにあるのは断絶と対立だけです。みんな「自己主張」はするのですが、他の人の「自己主張」には耳を傾けないのです。みんながバラバラに自己主張していて主張が違うもの同士の勢力争いになってしまっているのです。「それぞれ考え方や価値観は違うけど、お互いの意見を尊重し、話し合いながらなんとか一緒にやって行こう」と考える人が減り、「同じ考え方や価値観の人たちだけとつながって生きていたい」と考える人たちが増えて来たのです。そういう人は自分とは異なった意見の人の話を聞くだけでも、自分が否定されているように感じて苦しくなってしまうようです。それは、社会や家庭の中から「ダイレクトな人と人のつながり」が消え、ネットなどを使って自分が好きな人とだけつながることが出来るようになったからなのでしょうか。現代社会では家族もバラバラです。お母さんもお父さんも子どもも、みんな自分を守ることに精一杯です。そういう状態で暮らしていたら対話を楽しむことなど出来ないでしょう。でも、対話が消えた社会は成長することが出来ません。対話を避ける人は成長することが出来ません。対話がない家庭で育った子は、当然、対話が出来ない大人に育ちます。またそれは勉強にも影響が出ます。対話能力は理解力とつながっているからです。表現能力にも影響が出ます。
2024.05.18
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私は30年以上まえ、長女が5才、長男が3才の頃に自宅で子どものための造形教室を始めました。それは、「この時期の子どもには、色々なことをイメージし、そのイメージを手と頭とからだを使って形にする行為」が必要だと思ったからです。この時期の子ども達は、そのような活動を通して「意識やイメージや思考や感覚といった子どもの内側」と、「子どもが生きている現実世界」という外側がつながるようになるのです。またそのことで、「論理的に考える能力」や「自分自身の存在感」(自己肯定感)も育って行きます。その頃は、ゲーム機がどんどん普及する時期でもありましたが、あえて、時代の流れとは逆行するようなことを始めたわけです。最近の子ども達は自己肯定感が低いと言われますが、「自己肯定感」は「他者とのリアルなつながり」の中で育って行くものです。そのため、「リアルなつながり」から切り離された状態で育っている子は「自己肯定感」を育てようがないのです。そして、「色々なことをイメージし、そのイメージを手と頭とからだを使って形にする行為」を子ども達に体験させたいと思ったので、うちの教室ではその時々で「オススメ」という形で色々な提案はしましたが、実際に何を作るのかは子ども自身に決めさせました。造形関係の本もいっぱい揃えました。子どもを「お客さん」にしてしまったら意味がないからです。「お客さん」になってしまったら、選択するだけで能動的に感じ、考え、行動しなくなってしまいます。その結果、マニュアルに従った作業は出来ても、自分の頭で考え、イメージし、手やからだを使って創造することが出来なくなってしまうのです。ですから、うちの教室では決まったテーマを与えずに自由に感じ、考え、創ることを大切にしました。能動性を目覚めさせるためには「自由」が必要だからです。それで、「オススメ」を積極的に受け入れてくれて新しいことに挑戦しようとする子もいれば、自分のテーマが決まっていて、いつもそのテーマを追求している子もいました。教室を始めた当時は、かなり個性的な子ども達もいっぱいいました。作品もユニークでした。「ここは自由に創れるから楽しい」と言ってくれる子ども達もいました。でも今では、子どもに「オススメ」を提示しても、ちょっと面倒くさそうなテーマだとすぐに却下されてしまいます。そして「他になにか簡単に出来るものない?」と聞いてきます。最近は、「頭や手やからだも使わなくても簡単に出来るもの」ばかりをやりたがる子が多いのです。また、自分の頭で考えたり、見本を見て理解することをしようとせず、教えてもらうことばかり求めてくる子も多いです。そういう子はすぐに「次はどうするの?」と繰り返し聞いてきます。イスを作っているのに、足を一本切るたびに「次はどうするの?」と聞いてきたりします。見本が置いてあっても見本を見ません。見ても分からないようです。教室には暇つぶし用の知恵の輪も置いてあるのですが、全然試行錯誤せず、持った途端に「どうやって外すの」と聞いてくる子も多いです。それでいて、「木で自分が入れるような大きな家を作りたい」とか、「ラジコンが作りたい」とか、「折りたたみが出来る椅子が作りたい」などと、突拍子もないことを言うのです。ちなみに、「木で自分が入れるような大きな家を作りたい」と言う子には「大工さんに弟子入りしな」と言い、「ラジコンが作りたい」と言う子には「お店に行ってキットを買ってきな」と言い、「折りたたみが出来る椅子が作りたい」と言う子には「設計図を書いてみな」と言いました。特に、いつもゲームで遊んでいるような子にその傾向が強いです。現実と非現実の違いがよく分かっていないのでしょう。そういう子は、「頭や手やからだを使うような面倒くさいテーマ」には取り組みません。取り組んでもすぐに疲れてしまいます。20年以上前にやった作品展の写真です。
2024.05.17
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30年以上も前から、私は自宅で造形教室をやっていますが、最近の子どもたちを見ていると一面的なものの見方しか出来ない子が多いような気がします。考え方や感じ方が固定されてしまっているのです。幼い頃から「正解」を押しつけられて育っているからなのでしょうか。そういう子は、何かをする場合にも「自分のやり方」にばかりこだわります。「こうやってダメだったら、別のやり方でやってみよう」という「発想の転換」が出来ないのです。そのため「試行錯誤」が出来ません。最初に考えたやり方でやってうまく行かないと、別の方法を試すことなくすぐに諦めてしまうのです。そして大人もまた同じ状態です。そういう状態の子はうまく行っている時にはいいのですが、ちょっと「思い通りにならないこと」が起きると簡単に挫折してしまいます。でも、そのまま大人になってしまった子は、社会に出てからも仕事や人間関係で簡単に挫折してしまうのではないでしょうか。結婚しても、夫婦関係や子育てで簡単に行き詰まってしまうのではないでしょうか。子育てで行き詰まっている人の話を聞くと、考え方が固定されてしまっている人がほとんどだからです。「早くしなさい」と言っても、子どもが早くすることなどないのに、毎日「早くしなさい」を繰り返してばかりいる人はそのような状態の人です。私たちが生きている現実の世界には正解なんて存在しないのです。正解が存在するのは学校という狭い世界の中だけです。また、試行錯誤が出来ない子は、他の人の言葉も理解することが出来ません。自分の視点にばかりこだわって、他者の視点に立って相手の言葉を理解しようとすることが出来ないからです。自分の価値基準だけで相手の言葉も判断してしまうため、誤解も生まれます。またそのため、自分とは異なった価値観で生きている人たちは“おかしな人たち”ということになってしまいます。マスクやワクチンに対してもみんなと同じ意見を持っていない人、みんなと同じ行動をしない人は「陰謀論者」などと言われてしまいます。イジメの問題もこのことと関係しているのはないかと思います。自分の視点だけにこだわるような人は、自分とは異なる価値観の人を受けいれることが出来ないので話し合いを通して一緒に何か活動をするということもできません。そもそも「話し合う」ということ自体が出来ません。話し合いの基本は「相手の立場に立って相手の言葉に耳を傾ける」ということなんですが、それが出来ないのですから。そういう人は、自分の考えとは異なったことを言われただけで「否定された」と感じてしまうのです。またこれは、学力低下の問題ともつながっています。それは、「暗記科目は得意でも応用問題が苦手」という日本の子ども達の状態に表れています。「子ども達の科学離れ」の問題ともつながっています。多視点思考が出来ない子が科学に興味を持つことは期待できないからです。国際的に見たら、日本人の異常なほどの自殺の多さの背景にもそういう「単一思考しかできなくなってしまった日本人」の姿があるのではないでしょうか。行き詰まった時に迂回路を模索することが出来ずに、すぐに結論を出してしまうのです。また、それは国際舞台での日本の政治能力の低さの原因でもあるでしょう。多様な思考力、視点、感性はバランス感覚の基礎なんですが、日本人はそれが非常に弱いのです。危機管理能力の低さもそこから来ています。ちなみに本当のユーモアはそのバランス感覚から生まれます。ですから、ユーモア上手な人はバランス感覚にも優れています。でも、そういうユーモアが(文化としては)日本にありません。ちなみに「おやじギャグ」はユーモアとは別のものです。多様性を持たない文化、思考、制度は管理がしやすい反面非常にもろいのです。また、多様な視点、多様な考え方を持っていない人は簡単に洗脳されてしまいます。今の日本の状況から言えばマスメディアを操作すればアッという間に大部分の日本人を操作できてしまうでしょう。そして、実際操作されています。日本人はいっぱい選択肢があれば自由だとか、多様だとか考えているのかも知れませんがそれはいっぱいアトラクションがある遊園地と同じです。自由に見るもの、遊ぶものを選ぶことができるので自由だと感じますが、自分が遊園地という檻の中に閉じこめられていることには気付きません。その選択肢そのものを自由に創り出すことができる能力、そしてその状態こそが自由で、多様性が存在している状態なんです。そして、その能力がないと道を誤ります。だから、子育てや教育の現場では、「考える楽しさ」、「工夫する楽しさ」、「対話する楽しさ」、「みんなと協力して一緒に活動する楽しさ」を伝えてあげて欲しいのです。その楽しさを知った子は、色々な視点から物事を考えることが出来るようになるでしょう。また「生きる楽しさ」にも目覚めるでしょう。
2024.05.16
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心とからだの不自由をもたらす「支配」と「被支配」の関係は、「自分」と「他者」の間だけで起きるわけではありません。わかりやすい例としては、私たちは「常識」にも支配されています。疑うことも出来ない状態で支配されているからこその「常識」なんです。でも、その本人はそのことを知りません。対人関係で何かトラブルがあると「相手の方が非常識だから」と考えるだけです。でもその相手も、「自分の常識」に従っているだけなのかも知れません。「自分の常識」は「他人の非常識」であることも多いのですから。でも、「常識」に支配されているばかりでその「常識」を疑わないような人は科学者にはなることが出来ません。「なんでリンゴが落ちてくるのだろう?」という言葉に、「何言っているの。そんなの常識だろ」としか返せないような人は科学者には向いていないのです。詩人にも、アーティストにも、教育者にも向いていません。というか、自分の人生を「自分自身のもの」として生きることも困難でしょう。また、「大人の常識」に支配されている人は子育ても苦労します。「子どもの常識」と「大人の常識」は全く異なるのですが、「大人の常識」に支配されている人はそれが分からず、子どもに対しても「大人の常識」をそのまま押しつけようとするからです。でも、子どもには「大人の常識」は通用しないので、大人が伝えたいことが伝わりません。すると、子育てが「勝つか負けるか」の戦いになってしまいます。でも、この戦いは、子どもの心も、お母さんの心も傷つけます。どちらも悪くないのですが、「大人の常識」に支配されている人にはそれが分からないのです。また、人間は「感覚」や「思い込み」にも支配されています。ゴキブリを見るとギャーギャー言って逃げ惑う人も多いですが、本当は、逃げ回る必要があるのはゴキブリの方であって、人間は逃げ回る必要などないのです。「ゴキブリ」という言葉を聞いただけで嫌悪感を感じてしまうので「G」と略したり「茶色いあれ」と言い表したりする人もいますが、そのような人は「ゴキブリ」に感覚を支配されているのです。不潔だからといって、「電車のつり革」や、「道ばたに咲いている草や花」にすら触ることが出来ないような人も、「感覚」や「思い込み」に支配されています。「電車のつり革」も「道ばたに咲いている草や花」も、何にも攻撃して来るわけではないのに、恐れているのです。それどころか、幼い時からそういう雑菌と触れあうことで免疫力が育っていくのです。最近のテレビを見ていると、生活の回りのもの全てを除菌しないと、すぐにでも病気になってしまうように言い立てていますが、それは、不安を煽って支配しようとしているのです。商品を買わせるための支配です。でも、それに支配されて「除菌宗教」にはまってしまうと、子どもの免疫機能が育ちにくくなり、からだは弱くなります。様々なことに対して不安が強くなり、積極的に活動できなくなります。子どもの「子どもらしさ」を否定して回らなければならなくなります。この「不安を煽る」というのは、人を支配しようとする人がよく使う手です。「ミサイルが飛んでくるかも」と言い立てて不安を煽っている人もいます。そのくせ、役にも立たないような情報しか流しません。本当に危険ならば不安を煽るのではなく、もっと具体的に対処法を考え、伝えるべきです。原発に落ちた場合のことも真剣に考えるべきです。でも、それをしないということは単に不安を煽るのが目的としか思えません。お母さん達も、「勉強しないと・・・」とか「歯を磨かないと・・・」と言って子どもを脅していますよね。意識していないかも知れませんが、それは、子どもを支配しようとする行為に他なりません。ただし、「歯を磨かなくてもいい」ということを言いたいわけではありませんからね。「不安を煽って子どもを追い立てないようにして下さい」ということです。何かに支配されている人ほど、自分よりも下位の相手に対しては、この手を使おうとするのです。支配されている人ほど支配したがるのです。子どもには大人の常識は理解出来ませんから、お母さんがお母さんの常識で子どもを支配しようとしても子どもは言うことを聞きません。怒鳴っても、叩いても言うことを聞きません。反抗しているのではなく、出来ないのです。それで、「叩いても無駄だ」ということを知っている人は、不安を煽るようなことを言って、言うことを聞かせようとします。「力」や「威嚇」ではなく「不安」で支配しようとするのです。比較的、学歴が高い人ほどこの方法を使っているような気がします。でも、この手を使うと、子どもの心の中に「不安」が定着してしまい、大人になっても「不安」に支配されるようになります。そして、我が子に対しても同じ事を繰り返します。ちなみに「不安」と「心配」は違いますからね。私は心配性ではありますが、不安を感じたりはしません。色々心配だから「雨が降ったらどうしよう」などと色々なことを考え、色々なことを準備するのです。でも、不安に囚われているだけの人は、実際には何もしません。「心配」は人を考えることや行動に向かわせますが、「不安」は人の心やからだをただ固めてしまうだけです。不安から抜け出せない人は「何か」に支配されているのです。その「何か」に気付けば、不安も消えるのです。「幽霊の 正体見たり 枯れ尾花(ススキ)」の句の通りです。
2024.05.15
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「反○○」という活動は「○○」を前提にした活動であり、相手に勝った段階で終わります。そういう意味で、「反○○」は「対立する存在が存在している時にしか行わない特別な活動」という事になります。戦争の気配もない状態の時に「反戦活動」をする人は多くないと思います。原発を作ろうとする動きがない状態の時に「反原発」の活動をする人もいないでしょう。そういう点で「反○○」は常に「後手に回る活動」なのです。相手が仕掛けてきてからそれに反応して動いているのに過ぎないのですから。本当に、そのようなことを回避したいのなら、そのような気配が起きる前に、そのようなことにならないように活動しておくべきなのです。イジメが起きてから「イジメ撲滅」を訴えるのではなく、普段からクラスのみんなが仲良くなるように工夫しているのなら「イジメ撲滅」という活動は必要がないのです。自己肯定感が低くなってから自己肯定感を育てようとするのではなく、普段から自分を表現することを大切にするような活動を大切にしているのならば、「自己肯定感を育てなければ」などというような状態にはならないのです。子どもの育ちに必要な環境や、体験や、学びを与えもしないで、子どもの成長や行動に問題が起きてから「どうしたらいいんでしょうか」と相談に来られても、そう簡単に問題を解決することはできないのです。病気と戦って、病気を克服しても、日常生活を変えないことにはまた同じことを繰り返すことになります。「病気を克服する方法」と、「病気にならないからだを作るための方法」は同じではないからです。「ケンカに勝つ方法」を教えるよりも「仲良くなる方法」を教えてあげた方が子どもは幸せに生きることが出来るのです。本当に最強なのは、ケンカに強い人ではなく、みんなと仲良くなれる人の方なんです。それが出来なければ「勝った負けたのシーソーゲーム」を繰り返すだけになります。敵も増えます。「平和」は「戦い」で勝ち取るものではなく、日々の笑顔の中から生まれてくるものなんです。敵をやっつければ「安全」にはなりますが、「安全」と「平和」は異なるものです。また、「平和」を維持するためには、「想像力」や、「創造力」や、「工夫すること」や、「素直に自分を表現すること」や、「つながること」も必要になります。でも、一般的な日本の公教育はこの全てを否定しています。そして、子ども達の「欠点探し」ばかりを行い、大人の価値基準だけで評価し、「助け合い」ではなく「競争」に追い立て、子ども達を仲間から切り離し孤立させています。戦争を肯定するような教育をするから戦争が起きるのではなく、子どもの笑顔を否定し、子ども達を競争に追い立て、「想像力や、創造力や、工夫することや、素直に自分を表現し他者とつながる能力を育てるような教育」をしないから戦争が起きるのです。戦争反対を叫ばなければならないような状態になってからでは止められないのです。戦争反対を叫んで活動している人よりも、毎日子どもと笑顔で楽しく遊び暮らしている人の方が平和に貢献しているのです。
2024.05.14
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昨日は二宮(神奈川)で、イソップ物語の「ネズミの会議」を元にあれこれアレンジして遊びました。例の、「誰がネコの首に鈴をつけるのか」というお話しです。劇の前に、私が勝手にそこに至るまでの話を考えて参加者の皆さんに送っておきました。以下のような感じです。*********ある山の中に、ネズミの家族とその仲間達が村を作って暮らしていました。そこには人間もいないし、ネズミを襲う怖い動物もいなかったのでみんなは幸せに暮らしていました。でもある年、いつも以上に寒くてドングリや木の実も出来ませんでした。土の中にいたミミズはイノシシに掘り返され、食べられてしまいました。木の皮などはシカが食べてしまい、ネズミたちは食べるものがなくて飢えていました。そんな時、一匹の見慣れぬ旅人が近くを通りました。(もちろんネズミです)それで、家族のお父さんが「どこから来たんだい?」と話しかけました。旅人は「町からさ」と答えました。「町?」それってどんなとこ?「食べ物はいっぱいあるのか?」とお父さんは聞きました。すると旅人は「食べ物はいっぱいあるさ、道路にいっぱい置かれていることもあるさ。ただし、道路に出ているやつはカラスとの奪い合いになるので、なかなか取るのが難しいんだ。」と答えました。でも、人間の住まいの中にもいっぱいある。だから食べ放題だ。ただし、「ネコ」がいなければだけどな・・・。ネコってやつはやっかいだぜ。夜でも目が見えるし、鋭いキバとツメを持っていて、さらに大きくてすばしっこいのだからな。このネコに何匹仲間を食われてしまったことか・・・・。それで、一人ぼっちになってしまったので、もっと落ち着いて暮らせる場所を探して旅に出たのさ。この話を聞いたお父さんは、「ネコがいない家を探せばいいんじゃないか」と考え、家族や仲間達にも引っ越しを提案しました。そして、何匹か町に偵察に行かせ、ネコがいない家を探させました。そして、丁度いい家が見つかったのでみんなで引っ越しました。最初のうちは食べ放題、走り回り放題で極楽でした。でも、ネズミが家に住み着いてしまったことに気付いたその家の人は「ねずみ取り」をしかけました。でも、「ねずみ取り」のことも旅人に聞いていたので、中に入っている美味しそうなチーズに誘惑されながらもそれは無視しました。「ねずみ取りが効かない」ということに気付いた家主は、とうとうネコを飼うことにしました。そして、ネコとネズミの戦いが始まったのです。**********この後はみんなで考えました。その結果、子ども達の意見によって最後は「ネコとネズミと家の人がみんなで仲良く暮らす」という結論になって、結局、「だれ鈴問題」は起きませんでした。劇ではやらなかったのですが、その後の「どうやって共存したらいいのか」ということもみんなで考えました。この家の主人役を買って出てくれたお父さんが「パン作りが大好きなお父さん」というキャラ設定をしていたので、ネズミが「僕たちは美味しいチーズの作り方を知っているよ」ということでお父さんにレシピを教え、ネコは店の前で招き猫になり、みんなでお店をやることになりました。店の掃除はネズミがやります。残飯整理はお手のもんです。ネコもからだを使って色々なところを拭いて行きます。で、みんなで仲良く幸せに暮らしたとさ。チョキン、パチン、ストン。 話は終わり。**************途中、泥棒とねずみ男が盗みにやって来たのですが、ネコとネズミと家の人が協力してやっつけました。これが、みんなが助け合うきっかけになりました。「田舎のネズミと町(都会)のネズミ」とか、「ホームアローン」とか、「レミーのおいしいレストラン」とか、「ブレーメンの音楽隊」とか、色々な話しをぱくらせて頂きました。ねずみ男がやられるところネズミが集まって色々相談していますお母さんがモップでネズミと戦っているところネコがネズミを巣の中に追い詰めたところ家には最初からアントワネットというネコはいたのですが、ご覧の通り全く仕事をしないので、この家の娘が外で暮らしているネコを連れてきました。前回は「神様」でしたが、今回は「ねずみ男」でした。
2024.05.13
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皆さんは子どもの頃に見たビー玉のきらめきを覚えていますか。雨が降った後の水溜まりに映った空や雲に見とれていたことはありませんか。ドキドキしながらイタズラをしたことを覚えていますか。夜や闇が怖かったことを覚えていますか。私は子どもの時には全てが生き物のようだった気がします。森や木や水や石も、神社も山も生きているような気がしたのです。(実は今でもしています)これは理屈ではありません、感覚なのです。ですからいくら説得しても無駄です。“そんな馬鹿なことはないんだよ”と説得すればするほど子どもは自分を否定されたような気持ちになります。人間は自分の感覚を否定されると不安になるのです。あなたが美味しいと思って食べたのに、周囲のみんなに“えー、こんなの美味しいの”などと言われたら自分に自信をなくしますよね。実はこの子どもの感覚の仕組みは自分の内側で動いている感覚が相手に投影されてそれを相手からのものだと感じてしまう事から生まれています。つまり、子どもは自分の心を見ているということです。木や水はその時の鏡になっています。すると、子どもはその鏡を通してすーっとその世界の中に入っていくことが出来ます。それは自分の心の中の世界です。子どもはビー玉のきらめきから、自分の心の中の世界に入っていくのです。だからボーッとしてしまうのです。子どもが小石や小枝や水や土で遊んでいる時は、自分の心の中で遊んでいるのです。子どもたちが数人で遊んでいても同じです。心をつなげて同じ世界の中で遊んでいるのです。だから子どもの遊んでいる場は異次元空間なんです。子どもたちは絵本に描かれたケーキや果物にも手を出して食べる真似をして遊びますがその世界に大人は入ることが出来ません。大人でもそのイメージで遊ぶことは出来ますが、子どものようにからだ丸ごとで入り込むことは出来ないのです。それは、大人は夢を見ないと自分の心の中には入れませんが、子どもは簡単に自分の心の中に入ることが出来る能力を持っているということです。この世界をファンタジーの世界と呼びます。そして、このファンタジーの世界は大人の空想の世界とは違って、子どもにとってはリアルな世界なのです。子どもにとっての現実なんです。ですから、その外の世界にいる大人には泥のダンゴにしか見えなくても、その中の世界では美味しそうなお団子なんです。でも、そのドロ団子を食べたりはしないので安心してください。むしろ、ファンタジーで遊ぶことが出来ない赤ちゃんや障害を持った子などが食べてしまうのです。でも、ファンタジーの世界で遊んでいる子は食べたりはしないのです。なぜなら実際に食べてしまったら現実に引き戻されてしまうからです。そこで遊びが終わってしまうのです。お母さんは心配しますが、子どもはちゃんと分かっているのです。そして、子どもの育ちにとってはこの世界で充分に遊ぶことが非常に大切なことなんです。この世界でいっぱい遊ぶと「自分」と仲良くなることができるのです。またこの世界は夢の中の世界と同じで「自分」が色々と体験したことを整理、吸収する場でもあります。牛が食べたものを胃の中で反芻するのと似ています。そうして嫌なことがあっても納得していくことが出来るのです。ただ、この時に心の世界の中で迷子になってしまう子がいるのです。同じ所をクルクル回ってしまったり、同じ場所から離れることが出来なくなってしまう子もいます。すると、次第に外の世界への興味が薄くなっていってしまうのです。現実の世界の中に楽しいことがない子は特にこの世界から抜けられなくなってしまいます。また、自閉的な傾向を持った子どももこの世界に閉じこめられやすいのです。そんな時、物語がその迷子になった心を正しい道筋に引き戻してくれます。すると、子どもは心の世界の中で様々な冒険をして困難を乗り越え、人間として生きるための必要なアイテムをいっぱい手に入れて現実世界の旅を始めることが出来るのです。この心の世界の中での体験は砂漠を歩くらくだのこぶの様なものです。水がない世界でもコブの中に水を蓄えているので生きていくことが出来るのです。宇宙に行く時に酸素を持っていくのも同じです。生命が地上に上がることが出来るのもからだの中に海(体液)を持っているからです。それと同じようなことが心の世界でも起きているのです。子どもたちはそのファンタジーの世界で感じたことや体験したことを心の中に蓄えることで、無味乾燥した砂漠の世界でも生きていくことが出来るようになるのです。そのファンタジーの世界に守られていない子どもの心は丸裸です。だから心が傷つかないように感覚と意識を閉ざしてしまうのです。
2024.05.12
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大人が生きている世界と、7才までの子どもが生きている世界の一番大きな違いは、大人は「物が作りだした世界」に生きているのに対して、7才前の子どもは「感覚と心が作り出した世界」に生きていると言うことです。ただし、大人でも夢の中では「感覚と心が作り出した世界」に入ることが出来ます。また、麻薬などの薬物を使うことでも入ることが出来ます。「7才前の子どもは」と書きましたが、幼ければ幼いほどその度合いは強いです。また、7才を過ぎてもその世界から抜け出せないままの人もいます。そういう人は、現実と妄想の境界が明確ではないため社会的な活動が困難になると思います。ただし、同じ「感覚と心が作り出した世界」ではあっても、大人の場合と子どもの場合とではその性質が大きく異なります。それは、子どもと大人とでは「からだの状態」が大きく異なるからです。よく「心とからだはつながっている」という言い方をしますが、つながっているのではなく、最初からこの二つは一つのものなんです。それはボールなどのようなものの表と裏のような関係です。紙の裏表でも同じです。表を見ている時には裏は見えません。裏を見ている時には表は見えません。でも、この二つは同じものですよね。裏側に穴を空ければ表にも穴が空くのですから。ですから、「からだの状態」が異なれば「心の状態」も異なるのです。幼い子ども達のからだの中では、成長に伴う命の働きが非常に活発に働いています。表面から見ただけでは分かりませんが、ものすごい勢いでからだの作り替えが行われているのです。その活発な生命活動が子どもの感覚と心に働きかけて、子ども独特の感覚と心の世界を世界を創り上げているのです。私はそれが「ファンタジー」と呼ばれる世界なのではないかと解釈しています。子どもの感覚世界においては、その活発な生命活動によって、動かないものを見ても動いているように見えてしまったりするのです。グルグル回ってぱっと止まると、からだは止まっているのに周囲が動いているように感じますよね。それと似たような状態です。人は、自分の内側の動きを外側の動きとして感じることが出来るのです。大人はそれを錯覚として判断しますが、まだ客観的な視点を持っていない幼い子どもにはそれが出来ないのです。でも、子ども自身にとってはそれは「錯覚」ではなく「事実」なんです。又、幼い子ども達は成長と共に消えてしまう特別な感覚や感性を持っています。大人には見えないものが見えたりするのです。無意識下では大人にも見えているのですが、大人は意識というフィルターがその感覚を遮断してしまっているのです。<続きます>
2024.05.11
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全ての人間は、「子ども」という状態から自分の人生を始めます。そして、成長すると共に「大人」という状態になります。「子ども」は「大人」になるにつれてその成長が鈍化していきます。「精神的な成長」は本人の意識次第で生涯続くことも可能ですが、「肉体的な成長」(生物学的な成長)は大人になると止まります。そして、成長が止まった後は逆戻り(いわゆる老化)が始まります。それは成長と共に得た能力を失っていく過程でもあります。そして最後はまた、「産まれる前にいた世界」に還って行きます。このように、人間の人生は大きく三つの時期に分けることが出来ます。そして、社会を運営管理しているのは「大人」と「老人」だけです。子どもにはなんの権限もありません。発言権すらありません。でも、子ども時代にどういうものを食べ、どういうことを学び、どういう体験をしたのかということが、その子が大人になった時に「どういう大人になるのか」ということを決めてしまいます。そして、子ども時代に食べ、学び、体験したことの影響は老人になっても消えることはありません。それはまた、社会のあり方にも影響しています。社会を運営管理している全ての大人や老人も「子ども」という状態から人生を始めているのですから。「子ども時代にどういうものを食べ、どういうことを学び、どういう体験をしたのか」ということが、次世代の社会の質と形を決めてしまうのです。そして当然のことながら、「成長しつつある子ども」と「成長が止まってしまった人」、もしくは「成長の逆戻りが始まった人」とでは、必要な食べ物も、必要な学びも、必要な体験も、必要な環境も全く異なっているのです。だからこそ、子どもを育てている人、子どもと関わっている人は、「子どもの心とからだの成長を支えるためには何が必要なのか」ということをちゃんと学ぶ必要があるのです。そして、「政治」に関心を持つのと同じように「子どもの育ち」にも関心を持つべきなのです。「子どもを大切にする視点」を失ってしまった社会には未来がないのですから。でも実際には、多くの子ども達が「そのような学びには興味がない大人達」によって作られた社会で、大人の目を気にしながら、大人の指示や命令に従いながら、大人の価値観に合わせたしつけや教育を押しつけられています。だから学校に行きたくない子、行けなくなってしまう子、学校が楽しくない子がどんどん増えているのですが、社会を管理している大人達はその責任を「大人の指示に従わない子ども達」と、「その子ども達を守ろうとしている親たち」に押しつけています。でも子どもは、自分の成長を実感出来るような学びや体験がある場なら喜んで行くのです。私は、「みんなでつながり、みんなで協力して遊ぶ遊び」を大切にしているのですが、コロナ騒動以降、急激にそれが出来ない子ども達が増えました。そういう遊びの楽しさを知る時期の子ども達が、三年間に亘り「みんなでつながり、みんなで協力して遊ぶ遊び」を恐怖心と共に否定され続けてきたのですからそれは当然の結果なのでしょう。テレビも、マスコミも、政治家も、医者も、学校も、様々な禁止を押しつけることで「子どもの命」を守ろうとはしていたかも知れませんが、「子どもの成長や子どもの未来を守ろう」という視点は感じませんでした。「子どもがウィルスをまき散らしているんだ」という意見までありました。でも、成長が終わってしまっている大人にとっては「たった三年」ですが、成長しつつある子どもにとっては「一生消えることがない三年」だったのです。「13人に重軽傷、3人をなぶり殺し」にした事件、いじめ加害者は「遊んだだけ」と言ったという記事を読みました。このような意識の子ども達が増えたのも大人の責任です。
2024.05.10
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最初にちょっとお断りです。以前お知らせした6月1日の「からだのワーク」は、申込者が少ないため中止にさせて頂きます。私の「からだのワーク」は体操やヨガのような個々にやるものではありません。二人とか三人で組んだり、輪になったりして、感じるからだ、考えるからだ、統合されたからだ、感覚や心とつながったからだを体験し、からだの面白さに気付いてもらうことを目的にしています。そのため、参加者が少ないとワークが成り立たないのです。********************最近、「子ども」のことを考えない大人が増えて来ました。そのため、子ども達はどこに行っても「大人しく」つまり「大人のように振る舞うこと」を求められています。大きな声で笑い、思いっきりからだを動かし、仲間と遊び回る権利も、木に登ったり泥だらけになって遊ぶ権利も奪われています。周囲に人がいるような場所では「堂々と泣く権利」すら奪われています。赤ちゃんの場合は、周囲に人がいるような場で泣くと、子どもを泣かせたままにしている「お母さん」が非難されてしまいます。そして、子どもの「成長する権利」、「幸せになる権利」、「遊ぶ権利」は否定しているのに、一方的に大人の権利ばかりを子どもに押しつけています。憲法に書かれている「教育を受ける権利」の主体は「子ども」のはずなのに、実際にはなぜか親や国が主体になって「権利」ではなく「義務」として子どもに教育を押しつけています。でも子ども達はそれに異論を唱えるだけの言語能力を持っていないし、大人に対して意見を述べる権利も持っていません。政治家は「選挙権を持っている大人」の声には耳を傾けても、「選挙権を持っていない子ども」の声には耳を傾けません。聞き取りすらしません。「子どもの状態」がそのまま「日本の未来の状態」になってしまうのにです。最近、ネットのニュースなどを見ていてよく目にするのが「子持ち様」という言葉です。ご存じない方は「このニュース」をご覧になって下さい。「こちら」にもあります。というか「子持ち様」で検索するといっぱい出てきます。その背景には少子化があるようです。大人になっても結婚しない人が増えて来ています。結婚しても子どもを産まない(産めない)人も増えて来ています。子どもを産んでも、子どもや子育てに束縛されることを望まない人も増えて来ています。「子育て世帯」の割合 初めて20%を下回る 厚労省調査 | NHK「子育て世帯」が全世帯に占める割合は18.3%で、初めて全体の20%を下回りました。 一方、65歳以上の高齢者のみか、65歳以上と18歳未満の未婚の子どもだけで暮らしている「高齢者世帯」は、全世帯に占める割合が31.2%と、初めて30%を超え、少子高齢化が一層進んでいることが明らかになりました。子育てをしている人たちを非難する「子持ち様」という言葉が広がった背景には、こういう現実もあるようです。政治家も企業もマスコミも役所も、少数派の意見には耳を傾けません。その少数派が日本の未来に対して大きな影響を持っていても、政治家も企業もマスコミも役所も、「今現在大きな声を発する人たちの」方にしか目を向けません。未来のことなんか考えないようです。そのような声に対して、「子持ち様」を非難している人たちもやがて年を取ります。その時、その人たちが受け取る年金を納めているのは、今「子持ち様」と非難されている人の子どもたちだから、「子持ち様」を一方的に非難するのはおかしい。と言う人もいますが、これもまた大人の論理です。「子持ち様」を非難すれば、当然、その結果は、「子持ち様が育てている子ども達」に及びます。その結果、最初に書いたように、子どもの様々な権利が否定されます。その結果、子ども達は自分の心とからだの健全な成長に必要な環境や体験を得ることが困難になってしまっています。そして、大人の都合や価値観に束縛されて生きています。でもそのような状態で育った子ども達が大人になった時には、現代人よりも更に子どもを望まなくなるでしょう。子どもが嫌いな大人が増えるでしょう。子どもの未来に、子どもとの生活に希望を持てなくなるでしょう。今がもう2,30年前の子どもや子育ての結果なんですけど、さらにこの状態が加速するということです。日本には「100年後を見据えた政治をする政治家」はもう出て来ないのでしょうね。
2024.05.09
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人間の「人間らしさ」の原点は、すべて「子どもらしさ」の中に存在しています。それは、7才前の子どもが好む絵本やお話しを読んでみればすぐ分かります。私は、戦いや、損得や、イジワルや、競争を肯定するような絵本やお話しを知りません。あったとしても子どもはそういう絵本を好まないでしょう。子どもが好きな絵本やお話しには、夢や希望、楽しいこと、冒険やファンタジー、そして仲間とのつながり、様々な不思議と新しい発見がいっぱい描かれています。実際、子ども達も本能的にそのようなお話しを求めています。誰かをいじめたり、人や動物を殺し自然を破壊するようなお話しを喜んで聞くような子は滅多にいないのです。また、狭い部屋の中のような人工的な環境の中で、人工物だけを相手に遊んでいる子ども達はすぐにケンカをしたりトラブルを起こしたりしますが、自然の中で、仲間や自然を相手に遊んでいる異年齢の子ども達はあまりケンカをしません。むしろ助け合ったりします。なぜなら、子ども達は、大人が思っている以上に道徳的な感性を持っているからです。(これは実験で確認されています)だから、意地悪な子や大人を嫌うのです。そしてこれは、生まれつきのようです。「幸せ」を願うのが人間の本能なんです。皆さんの周りにいる「素敵な大人」を思い浮かべてみて下さい。「あの人素敵だな」と感じる人です。偉人や聖人でもいいです。そういう「素敵だな」と感じる大人達は、みんな「大人らしさ」だけでなく「子どもらしさ」も持っているのではないでしょうか。素敵な大人は、論理や、合理性や、損得や、利害だけで物事を考えずに、夢や希望を持ち、仲間を大切にし、「自分にとって大切なこと」を守ろうとする心を持っていますよね。そしてそれは子ども達が本能的に求めているものと同じなんです。だからこそ、子どもはそういう生き方をしている人の伝記を読んで大人にあこがれを感じるのです。違うのは、幼い子どもは「自分」という視点だけで考えたり感じたりするのに対して、素敵な大人は「みんな」(社会)という視点を持っていることです。そこにあるのは「視点の違い」だけであって、中味は同じです。子どもは、仲間や大人達との楽しくて幸せな関わり合いを通して「自分」から「自分たち」へと視点を進化させていくのです。それが「大人になる」ということでもあります。そんな時、子どもらしさを否定されて育った人は、大人を演じるようになるだけで大人を生きることが出来なくなってしまうのです。そのような人は、大人を演じてはいますが「自分たち」ではなく「自分」だけを大切にしています。
2024.05.08
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お母さんが「自分らしさ」を大切にせず目立つことを恐れていたら、「子どものための子育て」なんか出来ませんよ。人目を気にしてばかりいたら、子どもを監視、管理することで精一杯になってしまい、子どもの感覚や、気持ちや、才能に気付かなくなってしまうからです。また、人目を気にした子育てをしている人は、気付かないうちに子どもの「子どもらしさ」や「自分らしさ」を否定してしまっています。なぜなら、幼い子ども達は「文明が発達する以前の古代人」と同じような感覚や感性や衝動に従って生きているからです。その古代人が生きていた世界は、自然や、仲間や、ファンタジーに満たされた世界です。そのどれが欠けても、人類は人間らしさを獲得することは出来なかったのです。そしてそれは現代社会に産まれて来た子どもでも同じなんです。でもそれが、人類が「人間らしさ」を、そして、子どもが「自分らしさ」や「人間らしさ」を育てていくためには必要な世界なんです。子どもは、お母さんのお腹の中で35億年の生命の歴史を繰り返すように成長して産まれてきます。そして、産まれてきた後も人類の歴史を繰り返すように「古代人」の状態から自分の人生を始めるのです。その段階をすっ飛ばしていきなり「一人前の現代人」の状態にまで成長することは出来ないのです。子どもは現代社会の価値観に合わせた状態では産まれてこないからです。むしろ、現代人が大切にしている価値観や現代人の簡単で便利な生活は、子どもの成長には無意味であったり有害であったりするようなものが多いのです。実際、大人達は子どもの成長を阻害するような事ばかりを子どもに教えたり求めたりしています。また、子どもの成長を阻害するような環境で子どもを育てています。でも、7才から9才頃までに、自然や、仲間や、ファンタジーに満たされた世界を充分に体験することなく成長してしまったら、「自分らしさを大切にする素敵な大人」には育たないのです。基礎作りを大切にしなければ「しっかりとした家」は建ちませんよね。基礎は家が建った後では見えませんが、基礎をすっ飛ばしても見かけだけ素敵な家を建てても、風雨や地震などに見舞われたらあっという間に困った状態になってしまうのです。それは、子どもの育ちで言うと「学校を終え社会に出た途端に途方に暮れてしまう」というような状態です。子育てが始まった途端に「みんなと同じ」が出来なくなって途方に暮れてしまう人も多いです。そして今、そういう状態の大人が増えています。そのような状態の大人たちは不安が強いので、「自分らしさ」や「自分の子どものこと」よりも人目の方を大切にしてしまうのです。マスクにはその「人目」を防ぐ効果があります。でも、マスクをすることで「自分らしさ」も失われてしまうのです。でも、お母さんが人目を気にして「自分らしさ」を隠していたら、「自分らしく感じ、考え、行動しようとしている子どものための子育て」なんか出来ないのです。
2024.05.07
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こういう記事を読みました。うすうす感じていたことではありますが、結構ショックでした。マスク「今も着用したい」5割超 コロナ5類移行1年で意識調査実際、町中に出ると半数ぐらいの人がまだマスクをしています。中には花粉症や風邪を引いて仕方なくマスクをしている人もいるでしょうが、本当に信じられないくらいの人がいまだにマスクをしたままです。もう、お化粧や身だしなみの一部になってしまっているのでしょうか。ネットで見ると「マスクの有益性」を謳った記事ばかりが出てきます。「コロナ対策」や「感染症対策」としての有益性について書かれた記事が一番多いですが、「マスクをしていた方が安心できる」とか、「お化粧が楽」だとかいう意見も多いです。「コミュニケーションが楽になった」という意見もあります。「マスクは魔法のアイテム!?身を守る以外のさまざまなメリットとは」という記事には、安心感、距離感、仮面効果、美容効果、隠し効果などの様々なメリットが書かれています。日本人はもう、生命誕生以来、人類発生以来続いてきた「みんながマスクをしていなかった生活」に戻る気はないようです。「顔が見えない社会」の方がシャイな日本人の性格に合っていたということなのでしょうか。でも、人間は生命誕生以来、人類発生以来マスクなんかしてきませんでした。そのマスクなしの生活の中で進化し、社会を作り、子どもを育て、文化や文明を創造してきたのです。その結果、人の心やからだも、子どもの成長も、社会の形や文化や文明も、マスクなしの状態に合わせて進化、発展してきました。テレビだって、テレビに出てくる人がみんなマスクをしていたらテレビを見る気になりませんよね。テレビドラマに出てくる俳優や、歌を歌ったり、踊りを踊ったりしているアイドル達がマスクをしていたら盛り上がりませんよね。違和感を感じますよね。なぜなら、それが人間の自然な感覚だからです。「自分を表現しようとする人」は顔を隠さないのです。「顔を隠す」ということは「自分を隠す」という意味でもあるのです。また、マスクが発明される以前の人々がウィルスや菌に無防備だったわけではありません。ウィルスや菌と共存しながらも、それらから身を守るための「免疫力」という「自分を守るための働き」も得ることが出来たのです。確かに、マスクは「免疫力だけでは太刀打ちできない相手」には有効です。でも、一時的にならマスクも効果的に働くでしょうが、日常的につけ続けるとメリットよりもデメリットの方がおおきくなってしまうのです。なぜなら、人の心やからだも、社会も、文明や文化も、マスクがない状態に合わせて進化してきたからです。また、ウィルスや菌との出会いで育って来た免疫力も低下します。免疫力は生まれつき遺伝子に組み込まれたものではなく、生活の中で様々なウィルスや菌と出会うことで育って行く働きだからです。ウィルスや菌との出会いがないと免疫力は育たないのです。そのため、病気を防ぐためのマスク生活が「病気に罹りやすいからだ」を育ててしまうのです。また、ウィルスや菌を防ぐためのマスクが、皮肉なことに菌を培養しているという事実もあります。呼吸を浅くしているとか、綺麗な外気で肺を浄化できないとか、自分が出した二酸化炭素をまた自分で吸っているとか、色々な問題もあります。特に問題が大きいのが子どもの成長に対する影響です。まず、子どもの成長に必要な身体的な活動が困難になります。マスクをつけた状態では走り回るとすぐに苦しくなってしまうからです。また、対人関係にも大きな影響が表れます。顔が見えない相手と一緒に遊んでも楽しくないからです。「遊び相手はリアルな人間よりもアバターの方がいい」という子ども達も増えているのではないでしょうか。また疲れやすくなります。呼吸が浅くなることで息から入ってくる酸素の量が減るのと同時に、マスクが息を吸ったり吐いたりする時の抵抗として働くことも影響しているのでしょう。ちなみに、息から入ってくる酸素の量が減れば必然的に脳やからだに回る酸素も減ります。すると意識の状態もはっきりしなくなります。意識が外側ではなく、内側に回りやすくもなります。また、言葉の習得にも問題が起きます。子どもはお母さんの声だけでなく、口元の動きや顔全体の表情も見て言葉を学んでいるからです。「かなしい」という言葉と「悲しそうな表情」がセットになることで、子どもに「かなしいという言葉の意味」が伝わるのです。また、社会性や対人関係の育ちにもいい影響を与えません。マスクは「自分と他者の間の直接的なつながり」を分断するための道具です。だからこそ「感染症」に対して効果があるわけです。オンラインでのやり取りも「自分と他者の間の直接的なつながり」を分断してくれます。だから一気にオンラインでの授業が広まったのです。でも、ネットは「つなぐもの」であると同時に「分断するもの」でもあるのです。アルコール消毒もまた同じような働きをしています。自分の周囲にいるウィルスや菌を遮断することを身を守ろうとしているのです。でも、幼い子ども達は色々な人や物との出会いを通して、色々なことを学び吸収しているのです。それは「頭」だけでなく「からだ」も同じです。子どもの生活から「リアルな出会い」を断ったら、子どものからだは育たなくなってしまうのです。免疫力が育たなくなるのはその一部に過ぎません。『 健康ブログ~マスクの弊害を知り、子ども達を守ろう !』こういう記事もあります。
2024.05.06
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人生は「旅」や「物語」に例えられます。そして、実際に、人の人生は物語として語られます。自分の過去を語る時も物語のように語ります。科学を語るようには語ることが出来ません。そして、人生が一つの「物語」だとすると、“よりよい生き方”というものは、“よりよい物語の紡ぎ方”ということになりませんか。人は誰でも幸せにつながる物語を夢見て生きているのですから。子どもと遊ぶのも、子どもに勉強をさせるのも、子どもを叱るのも、また自分が仕事をするのも、遊ぶのも、学ぶのもみな、未来に対して「より良い物語」を期待しているからなのでしょう。でも、どうも色々な人を見ているとその物語の紡ぎ方が下手な人と、上手な人がいるように感じるのです。物語の紡ぎ方が下手な人はすぐ魔女やオオカミの誘いに引っかかってしまいます。そして、自分の人生(物語)なのに魔女やオオカミが主人公になってしまって自分は脇役になって不幸な運命をたどることになります。昔話ではそこで王子様や狩人が現れて助けてくれてハッピーエンドになるのですが、現実の物語ではそんなうまい話は滅多にありません。ほとんどの場合が、オオカミに食い殺されるか、悪者に捕らえられるか、もしくは魔法使いに自分以外の生き物に変えられてそこで物語が終わってしまのです。また、王子様が自分を捜しに来てくれることを願ってただひたすら何にもしないで待っているだけの人もいます。でも、それでは話しが先に進みません。また、宝の壺がどこかに埋まっているのではないかとひたすら穴掘りだけして物語が終わってしまう人もいます。でも、いずれにしてもそれでは“めでたし めでたし”で終わる幸せな物語を紡ぐことは出来ません。じゃあ、物語を紡ぐのが下手な人と上手な人とでは何が違うのでしょうか。時々、“自分探し”をしている人がいます。「自分探し」をしている人は、実際に今「自分が生きている物語」を認めたくないのでしょう。そして、「これは私の物語ではない、私の本当の物語はきっとよそにあるはずだ」と思いこんでいるのでしょう。でも、だからといって人間は現実に今生きているたった一つの物語の中でしか生きることができないのです。今生きている物語がどんなに辛く、悲しくても、その延長にしか「自分の物語」は存在していないのです。それを受けいれずに他の物語を探すということは、主役が物語を進めることを放棄してしまうということに他なりません。舞台の上の主役がもう幕が上がっているのに、「私は何の役なの教えて」と聞いて回ったり、「私はこんな物語やりたくない」と舞台の上で何もしないでうずくまってしまうようなものです。でも、そうすると、悪い魔女やオオカミが勝手に主役になって話しを進めてしまうのです。あなたが主役を演じる気があろうとなかろうと、物語は時間の流れと同じで決して止まることがないからです。実は、“自分”は探すものではないのです。もうすでに物語が進行しているのに、主役が物語を探してウロウロしていたらいつまで経っても前に進むことが出来ません。そうではなく、主役であるあなたが前に進めば物語は自然につながっていくのです。そして、あなたの物語が紡がれていけば、結果として“自分”が現れてくるのです。自分探しをしている多くの人にとって自分を探している理由は“自分がやりたいことが見つからない”ということなのではないでしょうか。自分がやりたいことの中に自分が存在していると思っているのでしょう。でも、それがない。つまり、自分がない。だから探している・・・。これは多分、現代人特有の感覚だろうと思います。幼稚園の時には小学校のために備え、小学校の時には中学校のために備え、中学校の時には高校のために備え、高校の時には大学のために備え、大学の時には・・・・、あれ? 何のために備えていたんだっけ?自分は何をやりたくて一生懸命勉強して頑張っていたんだっけ?それで、今度はその目的を探して一生を費やす。つまらない物語ですよね。私は、子ども時代にしっかりと子どもであることを楽しんだ人が、大人になって大人であることを、そして自分の人生を楽しむことが出来るのだと思っています。でも今、子ども時代に子どもであることを楽しんでいる子どもはあまりいません。子どもが子どもらしく生きることが難しい世の中なんでしょう。また、自分探しをしている人には、子どもの子どもらしい姿が分かりません。どうか、子どもが子どもであることを認めてあげて下さい。そして、子どもが子どもであることを楽しめる毎日を過ごさせてあげて下さい。そして、その子どもの楽しさを共有して一緒に楽しんで下さい。子どもと共に今を生きることの楽しさ、素晴らしさを感じてみて下さい。そうすると、「自分探し」がいかに無駄なことであるのか分かると思います。
2024.05.05
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「自分らしさ」は、「自分」が、「自分が生きている世界や、社会や、周囲の人達とどういう形で繋がっているのか」ということの中に表れます。そこには「自分自身とのつながり方」も含まれます。「自分らしさ」というものが、世界とば別に存在しているわけではありません。「自分らしさ」は「関係性」の中に表れるのです。「他の人と会った時にどういう関わり方をするのか」というような時に表れるのです。ですから、他者と関わろうとしなければ、「自分らしさ」とも出会えません。それが一昨日書いた、「自分を表現しようとしなければ、自分らしさと出会えない」という言葉の意味でもあります。また、自分を表現したり、他者と関わることから逃げていたら、自分が望むような「自分らしさ」を育てることもできません。子どもの「自分らしさ」は、周囲の大人や、子どもや、自然や、さまざまなものたちとの関わり合いの中で育っていきます。ただし、同じような体験や環境を与えても、実際にそれとどのように関わるのかは、気質によっても大きく異なります。胆汁質の子は自然を破壊して遊ぼうとする傾向がありますが、憂鬱質の子は自然と友達になって遊ぼうとする傾向があります。そういう体験を通して、「自然との関わり方に対する自分らしさ」が育っていくのですが、自然との関わり合いを奪われて育った子は気質に関係なく、自然とモノとして扱うようになるのではないかと思います。「人間」に対しても同じです。それが「自分らしさ」になってしまうのです。
2024.05.04
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昨日は、「自分を表現すること」で「本当の自分」を知ることが出来る、ということを書きました。今日は、その前の段階で必要になることを書いてみます。それは「自分の感覚に気づく」ということです。なぜなら、その人の「その人らしさ」は「その人の感覚の働き」と不可分だからです。「花を見て何を感じるのか」「赤い色を見て何を感じるのか」「子どもの笑顔を見て何を感じるのか」「子どもの泣き声を聞いて何を感じるのか」「青い空、満天の星空を見て何を感じるのか」「歌っていて何を感じるのか」「歌をきいて何を感じるのか」「鳥の声を聞いて何を感じるのか」その人の「その人らしさ」は、その人の「感覚の働き」の中にあるのです。「自分の感覚の働き」に気づくことは、「本当の自分」に気づくことにもつながるのです。ただし、その「本当の自分」は固定されていません。「朝の自分」と「夜の自分」は異なっているのです。季節によっても「自分」は変わります。「春の自分」と「夏の自分」は同じではないのです。「子どもの時の自分」と「大人になってからの自分」も異なります。それは「子どもの時の感覚の状態」と「大人になってからの感覚の状態」が異なっていることでも分かります。是非、感覚の働きに意識を向けて暮らしてみて下さい。「本当の自分」を知る大きなヒントになると思いますよ。
2024.05.03
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今は旅先なので簡単にさせていただきます。日本人は「自分を表現する」ということが苦手です。もちろん、日本人にも色々な人がいますから、これは「一般論」としての話ですけど。でも確かにそういうことが言えると思います。そして「自分を表現すること」から逃げようとします。「自分」を大切にしません。傷つくことを恐れ、傷つかないように守ることは得意なんですけど、「本当の気持ち」や「本当の自分」には蓋をしているのです。そして、「本音」と「建前」を使い分けるのです。でも、そういう生活を繰り返しているうちに、次第に「本当の自分」のことを忘れてしまうのです。そして、自分でも「自分の気持ち」が分からなくなってしまうのです。自分はなんのために生きているのか、本当に自分がやりたいことはなんなのか、自分は何のために生まれて来たのか、そういうことを忘れてしまい、ただ毎日目先のことに追われて人生の迷子になってしまうのです。そして、ふと気づいた時には「人生の終わり」が見える年齢になってしまい、あとは虚しさを抱えたまま、惰性で生きるだけになってしまうのです。その惰性から抜け出すためには「本当の自分」や「本当の気持ち」に気づくことから始める必要があるのですが、そのためには、もっともっと「自分を表現すること」を大切にする必要があるのです。人は「自分を表現する活動」を通してしか「本当の自分」とは出会えないのですから。自分を表現しようとしない人は、「本当の自分」を知らないのです。それは「鏡」を見ない人は「自分の顔」を知らないのと同じです。「自分を表現する活動」が、「自分を写す鏡」になってくれるのです。
2024.05.02
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スポーツ活動の指導者達は、よく、「スポーツ活動を通して子どもの健全な心を育てる」などというようなことを言います。もしこれが事実なら、スポーツの指導者達はみんな人格者ばかりで、それをやっている子どもたちも心が育った子ばかりなのでしょう。時々ニュースになる運動部内のイジメや麻薬や暴力などの事件は「まぼろしー」なんでしょう。でもどうもそれは現実のようです。そもそも“心”の育ちには何が必要で、心はどのように育つものなのでしょうか。スポーツなどの活動にはその要素がちゃんと含まれていると言うことなのでしょうか。スポーツの指導者はその「心を育てるノウハウ」を知っていると言うことなのでしょうか。また、心がどのような状態になったら「育った」と判断できるのでしょうか。さらに、「心が育った子」と「心が育っていない子」とでは、何がどのように違うのでしょうか。指導者の言うことに素直に従う子が「心が育った子」で、指導者の言葉に従わなかったり、練習に付いていけない子は「心の育ちが後れている子」ということなのでしょうか。などなどと、色々な疑問が湧いてきてしまいます。でも、別に私はスポーツを目の敵にしているわけではありません。学校でも“心の教育”と称して同じようなことをしているわけですからこれは野球の指導者だけに対する疑問でもありません。同じような感覚で子どもを育てている人もいっぱいいます。「優しくしなさい!」などと怒鳴っているお母さんはそのようなタイプの人だと思います。みんな「心って何だろう」という根本的なところを議論せずに、「心」を押しつけているように感じるのです。「よいこと」や「よい行動」を押しつければ、「よい子に育つ」と思いこんでいるようなのです。学校でやっている道徳教育がその象徴です。“そんなことしちゃ ○○ちゃんがかわいそうでしょ”とか、“みんなともっと仲良くしなきゃだめでしょ”と子どもに言っているお母さんはいっぱいいます。でも、多くの場合それは無駄な努力です。実際、それが無駄な努力であることはお母さんご自身がよく知っていることだろうと思います。何回言っても子どもは同じ事を繰り返すからです。それでも、何か言っておかないと相手のお母さんに対してメンツが立たないとか、不安になるとか、そういうことなのでしょう。ちなみに、心は育てるものではありません。心は“自らの力”で育つものなんです。大人に出来ることは、その育ちに必要な出会いを与え、その育ちを見守り、その育ちを助けるように補助をするだけなんです。それは草や木の育ちと同じです。ですから、「良いこと」を押しつけても子どもの心が育つ栄養にはならないのです。リンゴの木の苗のそばで「早く大きくなれ」「早く美味しいリンゴを実らせろ」と怒鳴っても無駄ですよね。それと同じです。子どもは、自分の心の育ちを見守ってくれているお母さんの心を感じて自分の心を育てていきます。ですから、子育ての方法なんて知らなくてもOKなんです。いっぱい子育ての方法を知っていても、その方法にこだわっていて、「子どもの心」ときちんと向き合っていなければ子どもの心は淋しくなります。それは、心の成長にとって“栄養不足”ということになります。でも、方法なんか何にも知らなくても、子どもの心を感じてちゃんと向き合ってあげていれば、子どもは自分の力で自分の心を育てていくのです。心はそのように出来ているのです。つまり、子育て初心者の人でも何にも恐れることはないのです。子どもの心の育ちに知識や経験はあまり必要ないのです。最後に、子どもは話を聞いてくれる人の話に耳を傾けます。子どもから学ぼうとする人から学ぼうとします。自分を信頼してくれる人の言葉を受けいれます。なぜなら、大人がそのような態度で子どもと向き合うことで、大人と子どもの間に(心と心をつなげる)回路が作られるからです。
2024.05.01
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昔、まだ人々が自然と共に素朴な生活をしていた時代にはみんな自然と共に育っていました。近代化された現代社会では森の中で子育てをすることは特別なことなのかも知れませんが、昔はそれしかなかったわけです。じゃあ、そのような自然の中で育っていた時代の子どもたちはみんな素敵な大人になっていたのかというと、必ずしもそうとは言い切れません。歴史などを学んでも、また昔話などを読んでも、そこにはちゃんと善人もいれば悪人もいます。意地悪な人もいれば、優しい人もいます。子どもの周囲の環境や生活スタイルが変化してもそれは変わらないのです。じゃあ、何がそのような「よい人、悪い人」、「意地悪な人、優しい人」という違いを生みだしているのかということです。子どもたちの育ちには「自然体験」が必要です。自然体験はたくましさと智恵を育ててくれるでしょう。確かに、その点に関しては現代人より昔の人の方が優れていたと思います。そしてそれは、特に現代の子どもたちには必要なことです。でも、「人間性」の育ちには「自然体験」だけでなく「人間体験」が必要なのです。子ども達が素敵な大人になるためには、「自然体験」と「人間体験」の二つが必要なのです。それは人間が「自然的な要素」と「人間的な要素」の複合体だからです。ですから、どちらも欠かすことが出来ません。「自然体験」だけで「人間体験」が少なければただの野生児にしか育たないのです。でも、現代の子どもたちの「自然体験の不足」を訴える人は多くいますが、「人間体験の不足」を訴える人は多くいません。そもそも「人間体験」という概念自体がないでしょう。実はそれが現代の教育を考える時の一番大きな問題なのです。子どもたちに「自然体験」を与えることはそれほど難しくありません。キャンプなどでも簡単に体験できます。また、日常的に自然の中で遊ばせるようにすればいいだけのことです。(ただし、本当の「自然体験」は「人間体験」とセットになっています。)でも、「人間体験」を与えるのはそう簡単なことではありません。なぜなら、「自然体験」は「自然という他者」を体験させることなのに対して、「人間体験」は「人間の内側」つまり「心」を体験させることだからです。だから、ただ大勢の人間がいるところに連れてきても「人間体験」は出来ないのです。また、ただ「素敵な大人」と出会わせるだけでも「人間体験」は出来ません。「人間の内側」は外側からは見えないからです。もちろん、知識を覚えさせても何の役にも立ちません。では具体的には、その「人間体験」とはどのようなものかということです。例えば、「お話し」や「物語」を聞く時、子どもたちは「人間の内側」と触れあい、「人間体験」をすることが出来ます。絵を見たり描いたり、歌を聞いたり歌ったり、ごっこ遊びや劇遊びをする時にも「人間体験」をします。ただし、「上手下手」にこだわると、「人間体験」は出来なくなります。「内側」に入れなくなってしまうからです。「学ぶ」ということを通しても「人間体験」はできます。ただし、ただ知識を暗記するだけではダメです。体験から知識が生まれる過程を体験させてあげる必要があるのです。つまり、「学問」というものが生まれた最初の所に子どもたちを連れて行ってあげるのです。すると、子どもたちは「人間体験」をすることが出来ます。学問の始まりはもともと非常に人間的なものだからです。また、仲間や大人と「想い」を共有して活動する時にも「人間体験」は出来ます。「想いを共有する」ということが「内側の体験」でもあるからです。さらには、人々が守り伝えてきた伝統や芸能や手工芸などを伝えることも「人間体験」になります。簡単に言うと、人間の心やぬくもりを感じるものを体験させたり、伝えたりすることが「人間体験」になるのです。そしてそれは、「人から人へ」という手渡しでないと出来ないことです。手渡しで渡さないと「心」や「ぬくもり」は消えてしまって、ただの「情報」になってしまうからです。機械とばかり触れあっていたら「人間体験」は出来ないのです。
2024.04.30
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知らない町に連れて行かれて、地図も道しるべも与えられずに「自由に歩いていいよ」などと言われても、迷子になってしまうだけですよね。さらにその町のルールを知らなければ、身に覚えのないことで他の人から非難されたりしてしまう可能性が高いです。インドネシアでは子どもの頭に触れることは御法度だそうです。そのため、日本の感覚で「かわいいねー」などと子どもの頭をなでたら周囲から非難されてしまうのです。でも、そのことを知らない人は、自分の行為がみんなの迷惑になっていると気付かずに「みんなが自分をいじめようとしている」と感じてしまうでしょうね。そんな時はその理由を教えてくれる人が必要ですよね。子どもはこの世界にやってきたばかりです。この世界の地図も、ルールも、言葉も、常識も知りません。自分のことも知りません。自分もやがて大人になるということすらよく分かっていません。そういうことを教えようとしても、言葉自体が分からないのですから教えようがありません。「右に曲がってそこにある階段を上って・・」などと指示を出しても、「右」という言葉も「そこ」とか「階段」とか「あがる」という言葉の意味が分からなければ、せっかく指示を出してもそれを無視した行動を取るでしょう。でも、「言葉が通じていない」ということが分からない大人は、そんな子どもに対して「なんで言われたとおりに行動しないんだ」とか「反抗的だ」など罵るでしょうね。そういうやり方をしている大人がいっぱいいます。そのような人は、子どもに理解出来ない言葉で、理解出来ない指示を出しておきながら、それが出来ないと「なんで言うことを聞かないんだ」とか「悪い子だ」「反抗的だ」などと叱っています。でも、そういう指導を受けている子どもはいつまで経っても言葉や指示の意味を理解出来るようにはなりません。ただ大人の顔色を見て行動するようになるだけです。お母さんや周囲の顔色が道しるべになってしまうのです。でも、子どもはそんな状態は苦しいですから親や大人の目の届かないところに行きたがります。そしてそこで困ったことを始めます。自分が生きている世界の人たちが大切にしているルールを知らないのですから。そういう状態の子ども達にとって大切なのは「仲間の目」だけです。だから仲間から受けるのならなんだってやってしまうのです。幼い子どもには言葉で指示を出すのではなく、まずやってみせること、一緒にやってあげることが必要なんです。そして、一緒にやりながら言葉を伝えていきます。右に曲がった時に「右に曲がるね」と言うことを繰り返していれば、子どもはやがて「右」ということの意味が分かるようになります。「右」という言葉を知っていても、その言葉が子ども自身の体験とつながっていなければ、子どもはその言葉の意味が分かっていないのです。最近の子ども達は、そういう「空っぽの言葉」だけをいっぱい持っています。体験とつながらない知識もその「空っぽの言葉」と同じものです。そして、色々な体験をさせてあげることです。食べたことがない料理をいっぱい出されて、「どれでも食べていいよ」と言われても、選びようがないのです。自分で選ばせるのは、色々なことを体験し、自分に合っているかどうかを自分で判断出来るようになってからでいいのです。子どもの選択に従ってばかりいると後悔することになります。子どもは何年度、何十年後という単位で物事を考えることが出来ないからです。目先の判断しか出来ないのです。しかも、その判断基準は生理的な欲求だけです。そのため、栄養たっぶりのお料理とチョコレートが並べてあったら、多くの子はチョコレートの方を選んでしまうのです。子どもには自分の健康や成長のことなど考えられないからです。それでも、子どもの選択の方を尊重してあげたほうがいい場合もあります。でもそれは、その時その時で判断するしかありません。明確な判断基準があるわけではないからです。その時必要になるのは、「親自身が何を大切に生きているのか」ということです。それが判断の基準になってくれます。それがない人は子どもの顔色をうかがうようになってしまいます。
2024.04.29
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世の中には子どもを管理し、思い通りにしようとしているお母さんがいっぱいいます。でもその逆に、子どものいいなりになっているお母さんも結構います。そのようなお母さんは、食べるものも、着るものも、行くところも、習い事も、子どもが「これがいい」と言えばそれに従います。子どもを説得しようともしないし、戦うこともしません。お菓子が食べたいと言えば食べさせ、ゲームがやりたいと言えば自由にやらせます。そして、そのような自分の子育てについて、「子どもの自分で判断する力を育てるため」とか、「自由に生きる能力を育てるため」とか、「自主性を育てるため」などと説明しています。また、そのような人は積極的に子どもに色々と教えたり、関わろうともしません。他の子や周囲の人が困るようなことをしていてもただ見ているだけです。まるで子どもの従者のようです。そのようなお母さんの話を聞くと「どうしていいのか分からない」と言います。また、「自分に自信がないので何を教えたらいいのかも分からないし、叱ることも褒めることも出来ない」とか、「こんな自分に似て欲しくないので、自分の価値観を押しつけるようなことはしたくない」とも言います。そのようなお母さんは「子どもの世話」はしていても「子育て」をしていないのです。「自分で判断する力を育てるため」とか、「自由に生きる能力を育てるため」とか、「自主性を育てるため」などという説明は、そんな自分の子育てを肯定するためのものなんでしょう。じゃあ、そのような子育てを受けている子はちゃんと判断力や自主性が育っているのか、というとそんなことはありません。ただ、「自分勝手に行動する子」に育ってしまうだけです。そのような子は、他の子とつながることが出来ません。仲間作りも出来ません。人間関係のルールや社会のルールも分からないので色々な所で人とぶつかります。そして、やりたいことがあっても思い通りに行きません。叱られることもあるでしょう。でも、叱られても「なんで叱られているのか」が分かりません。それが「いけないこと」だということ自体を知らないのですから。youtubeなどに困った行為をして炎上する動画を上げている人もいますが、それが事件になってみんなから非難されると「悪いことだって知らなかったんです」という言い訳をする人もいます。そんな「自分勝手」を受け入れてくれるのは「お母さん」や「自分の家の中」だけです。その結果、家から出て行くことが出来なくなってしまう子どももいます。また、これとは正反対の「子どもを管理し、支配する子育て」を受けた子もまた似たような状態になります。そのような子育てを受けた子が学ぶことが出来るのは「お母さんルール」だけだからです。「何でも許されて育った子」と同じように、普通の人間関係のルールや社会のルールは学べないのです。じゃあ、どうしたらいいのでしょうか。<続きます>
2024.04.28
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現代人は知育教育が大好きです。そのため、幼いうちから知育おもちゃを与えたり、色々なことを教えたり、「○○教室」に通わせたりしています。「何十万円もする知育おもちゃを買って与えた」というお母さんもいます。(後悔していましたけど・・・)テレビも、NHKの教育的な番組なら良い効果があると信じて、ズーッと見せているお母さんもいます。コンピュータゲームも脳のトレーニングになると思い込んでいるお母さんもいます。自由に遊ばせることをせず、幼い時から文字や算数を教えている人もいます。昔よりも教育に熱心なお母さんが増えて来たような気もします。実際、今では小学校上がった時点で文字が書けるのが当たり前になっているようです。1年生になったばかりなのに「簡単な文字の読み書きなら出来る」という前提で授業を始める先生も多いみたいです。だからといって現代の子ども達の方が、泥だらけになって遊んでばかりいた昔の子ども達より賢くなったのかというと、決してそんなことはないような気がするのです。テストの成績に関しては分かりませんが、造形という場で30年近く子ども達と関わってきた私の体験から言えるのは、むしろどんどん子ども達の考える力や、能動性や、工夫力が失われてきているということです。好奇心も弱くなっています。知識はいっぱいあるのに「考えることや、学ぶことや、やってみることを楽しむことが出来ない子ども達」が増えているのです。文字を読むことは出来ても本を読むことを楽しめないのです。いろんな点において受け身的なんです。考えることを楽しむことが出来ない子は、造形活動を楽しむことが出来ません。そして、これは子ども達の科学離れとも関係しています。今、子ども達の科学離れを食い止めようとして、「楽しい実験」などを色々と体験させるような企画が色々なところで行われていますが、そんなことをしても「考える楽しさ」が伝わらなければ、科学離れは止まりません。もうすでに確立されている、「仮説実験授業」という「対話を使い、考えることを大切にした授業方法」もありますが、今、色々なところで行われているのはそれとは異なり、「考えること」を抜きにした、単なる「楽しいイベント」に過ぎません。また、考えることや、やってみることを楽しむことが出来ない子は、科学や造形を楽しむことが出来ないばかりか、大人になってからも「仕事を楽しむことが出来ない」「子育てを楽しむことが出来ない」ということになります。工夫したり、能動的に取り組むことを楽しむことが出来ないからです。そして、楽しむことが出来ない人の所には「喜び」も「自由」もやってきません。楽しむことが出来る子は、追い立てなくても、自分で色々なことに取り組みます。「学ぶ楽しさ」を知っている子は、「勉強しなさい」などと言わなくても勉強します。「作る楽しさ」を知っている子は、「作りなさい」などと言わなくても作ります。小学生頃までは、効率的に教え込まれた子の方が成績も、能力も高いかも知れませんが、「楽しさ」を知ることが出来なかった子は、「楽しさ」を知っている子に次第に抜かれていきます。実は、子育てや子どもの教育において、一番大切なことは、この「楽しむ能力」を育てることなのではないでしょうか。そしてその能力が子どもに、精神の自立と自由を与えてくれるのではないかと思います。
2024.04.27
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昔の子ども達は、家族や地域といった「大人の群れ」の中に生まれ、「大人の群れ」の中で育っていました。その「群れ」にはそれなりに色々な束縛がありました。「群れ」を維持するための束縛です。みんなが好き勝手にやっていたら「群れ」は維持できないのですから。「しつけ」はその「群れ」を維持するためのものでもありました。でも、現代社会のように簡単で便利な機械や道具やインフラがなかった時代には、「群れから離れる」ということは生活できなくなるということを意味していました。仕事も出来なくなるし、安全も確保出来なくなります。群れから離れた途端に社会的な地位も消えます。どんなに大きな会社の重役だった人でも、会社を辞めたら「ただの人」です。(そのことを自覚できなくて、「俺は昔・・」と威張るお年寄りも多いみたいですけど。)そのためみんな「群れを維持するための束縛」を受け入れていました。不自由さも感じてはいたでしょうが、「生きるとはそういうことだ」という諦めもあったでしょう。でも、社会の近代化と共に、その「群れ」の形が大きく変わってきました。現代社会でも、生きていくためには群れとのつながりは必要なんですが、昔のように「顔と顔を合わせるような直接的なつながり」がなくても、様々な電子機器を通して間接的につながるだけでも生きていけるようになったのです。今ではインターネットのような電気的な回線が人と人をつないでくれるようになりました。インターネットとつながっていれば、他の人と顔を合わせなくても生きていけるようになりました。欲しいものがあればネットで注文すれば届きます。時には注文したその日に届くこともあります。インターネットが使えれば、家にいたままでも仕事が出来ます。勉強も出来ます。遊ぶことも出来ます。その流れの中で、しつけの目的も「社会性を育てる」ことから「お母さんの言うことをよく聞くよい子を育てる」ことに変わりました。相手の顔を知らなくても、相手の声を聴いたことがなくても、相手に触れたことがなくても、顔を見合わせて一緒に笑ったことがなくても、仕事も遊びも出来るようになったのです。なんと便利な世の中になったのでしょうか。昔は、学校を休むと友だちが連絡帳を持ってきてくれましたが、今では、そういうシステムは必要ありません。そもそも、個人情報保護の観点から、学校が友だちの家の場所を教えてくれないそうです。連絡だけならスマホに送れば済んでしまうのですから。昔は、友だちと遊ぼうと思ったら友だちの家に行って「○○ちゃん、あそぼ~」と大きな声で呼びかける必要がありましたが、今ではそんなことしなくても、お互いに自分の家の中にいたままの状態で遊ぶことが出来ます。これなら交通事故や犯罪に巻き込まれる危険性も消えます。お母さんも、我が子の行動を監視、管理することが出来て安心することが出来ます。私たちは、なんと素敵な社会に生きているのでしょうか。テレビも、企業も、マスコミも、政治家もその素晴らしさを謳い、もっともっと簡単で便利で安全な生活が実現できるように人々を煽っています。マイナンバーカードなどのシステムもその一環です。河野さんもその素晴らしさばかりを強調しています、でもなぜか、そんなに素晴らしい社会の中で暮らしているのに、心を病む人たちが増えて来ました。自己肯定感が低い若者も増えて来ました。精神的に自立できない子ども、自分の頭で考え、自分の感覚で感じ、自分の意志で判断し行動する事が出来ない子どもも増えてきました。最近の子ども達は、群れによって束縛されていた昔の子ども達よりも遙かに自由になったはずなのに、なぜか、自由に生きることが出来ない子ども達が増えて来たのです。森や野原に連れて行って「自由に遊んでいいよ」と言っても何も出来ません。簡単で便利な機械に取り囲まれて生活している現代っ子には、「自由」はただ退屈なだけなようです。そのため束縛は嫌いますが自由を求めることもありません。そんな子ども達が求めているのは「自由」ではなく「退屈を紛らわせる刺激」だけのようです。そして、自ら「自分の自由」をその「退屈を紛らわせる刺激」に預けてしまっています。「ゲーム」はその象徴です。どうしてそういうことが起きてしまったのかというと、自分の頭で考え、自分の感覚で感じ、自分の意志で判断し行動する能力が育つためには「不自由」が必要だからなんです。社会性を育てるためには「群れとつながることから生まれる不自由」が必要になります。「考える力」を育てるためには、「考えなければ乗り越えることが出来ない不自由」が必要になります。「感じる力」が育つためには、「感じなければ乗り越えることが出来ない不自由」が必要になります。「行動する力」が育つためには、「行動しなければ乗り越えることが出来ない不自由」が必要になります。でも、不自由があるだけでは子ども達は不自由から逃げようとしてしまいます。そのため、その不自由を楽しむことを教えてくれる大人が必要になります。そんな「不自由を楽しむ大人」がいなかったから、子ども達は不自由を避けるようになってしまったのかも知れません。他の人とつながらなくてもいい、考えなくても、感じなくても、行動しなくてもいい生活をしていたら、子ども達は「自分の頭で考え、自分の感覚で感じ、自分の意志で判断し行動する能力」を育てることは出来ないのです。歩く必要がない生活をしていたら歩けなくなってしまうのです。でも、簡単で便利な機械やインフラの発明はそのような便利な生活を実現してしまいました。それを「素晴らしい」と感じる人もいますが、少なくとも子どもの育ちにはよい影響を与えていないようです。ちなみに、なんで子ども達はゲームに夢中になるのかというと、そこに「頑張れば乗り越えることが出来る不自由」があるからです。問題は「ゲームの中で得た能力」が有効なのはゲームの中だけに限られてしまうということです。もっとも、頑張ることが苦手になってしまっている最近の子ども達はその「ゲームの中の不自由」すらも、自分の努力で乗り越えようとせず、課金をして楽に乗り越えようとしてしまうようです。教室の子ども達の話を聞いていても、結構な数の子ども達が課金をしているようです。
2024.04.26
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「自分が自分のリーダーになる」ということは「自由になる」ということでもあります。自分の人生のハンドルを自分で握るということですから。「自由である」というのは単に「他者からの束縛がない」という状態ではないのです。自分の人生のハンドルを、ちゃんと自分の手で握っているかどうかなんです。誰かに従うのも、従わないのも自分の意志で行っているのなら自由です。極端なことを言うと、自分の意志で牢屋に入るのなら、牢屋の中にいても自由なんです。でも、誰からの束縛も受けていなくても、人目を気にして生きている人は不自由です。自分の中の不安や恐れに支配されている人も不自由です。何も知らない人、何も出来ない人も不自由です。ダンスを学んだことがない人に「自由に踊ってもいいよ」と言っても、自由には踊れないものです。本人は自由に踊っているつもりでも、しばらくすると同じ動きを繰り返すだけになってしまうのですから。それが「癖」というものなんですが、「癖」もまた人から自由を奪っている「檻」なんです。でも、癖に囚われている人は自分が不自由な状態であることに気付きません。癖は、見ることも触れることも出来ない空気みたいな存在だからです。自分勝手なことをやっている子も実は不自由なんです。それ以外の方法を知らないのですから。だから自由になるためには「学び」というものが必要になるのです。そして、子どもの育ちに必要なのも「競争に勝つための学び」ではなく「自由になるための学び」なんです。<明日に続きます>
2024.04.25
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禅宗に、「随所作主」(臨済録)という言葉があります。この言葉の意味については「今日の禅語」に以下のように説明されています。この語は臨済宗の開祖である臨済義玄禅師が修行者に対して諭された言葉で「随処に主となれば立処(りっしょ)皆真なり」の一句である。いつどこにあっても、如何なる場合でも何ものにも束縛されず、主体性をもって真実の自己として行動し、力の限り生きていくならば、何ごとにおいても、いつ如何なるところにおいても、真実を把握出来、いかなる外界の渦に巻き込まれたり、翻弄されるようなことは無い。そのとき、その場になりきって余念なければ、そのまま真実の妙境涯であり自在の働きが出来るというものである。簡単に言ってしまえば、「自分が自分のリーダーになりなさい」ということです。「従業員」や「家来」と呼ばれる人たちは、自分を雇っているご主人様の言葉や価値観に従って行動します。そこに主従関係がなくても、人目を気にしながら生きている人は、「人目」が「ご主人様」になっています。この場合の「ご主人様」は、「自分に対する自分の責任を放棄するための道具(逃げ道)」に過ぎません。ご主人様に従っていて失敗したとしても「人のせい」に出来るのですから。「子育て書」通りに子育てをして失敗しても、その失敗の原因を「子育て書」のせいに出来るのです。でもその結果は、自分と子ども自身が負うしかないのですけど・・・。常識に縛られている人は、「常識」が「ご主人様」になっています。子どもに振り回されている人は、「子ども」が「ご主人様」になっています。「パートナー」が「ご主人様」になっている人も、何らかの「宗教」や「主義」が「ご主人様」になっている人もいます。そのような「ご主人様」を持っている人は、自分の頭で考え、自分の感覚で感じ、自分の意志と責任で判断し行動する必要がありません。そのような責任を放棄することで、失敗した時に人から非難されることを避けようとしているのです。ですから、その「ご主人様」のことも大切には考えていません。「従う」ということと「大切にする」ということは次元が異なることだからです。大切にしているからこそ「NO(ノー)」と言うこともあるのです。子どもがオモチャやお菓子を欲しがったとき、「子どもがうるさいから」という理由で買ってあげてしまう人は、子どもを「ご主人様」にしている人です。幼稚園を選ぶときも、子どもに選ばせているお母さんが多いですが、そのようなお母さんも子どもを「ご主人様」にしています。でも、そのような人は「子どもを大切にしている」とは言いがたいでしょう。子どもを「ご主人様」に仕立てておくと楽だから、子どもの言うことの従っているに過ぎません。また、実際に入ってみたらその幼稚園が合わなくても、その責任をその幼稚園を選んだ子どものせいにすることも出来ます。「ご主人様」に従って生きている人は、自分の都合が悪くなると平気で「人のせい」にするのです。でも、「ご主人様」に従っただけの行為であっても、その行為の結果は「ご主人様」ではなく実行犯である「自分」に返って来てしまうのです。周囲の目を気にして子どもを苦しめても、苦しい子育てをしても、周囲の人はその結果を引き受けてはくれないのです。そのことだけはしっかりと覚えておいた方がいいです。
2024.04.24
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日本人は周囲を見て、周囲に合わせ、波風を立てずに和を大切にしながら行動するのが好きです。「それが日本人の美徳だ」と考えている人も多いです。その場合、あくまでも判断や行動の基準は「周囲」です。少なくとも「自分」ではありません。そして、これが出来ないと「自分勝手なやつ」とか「空気を読まないやつ」などと言われて、周囲から否定的に評価されてしまいます。そのため、日本の社会では「しっかりとした思想や、哲学や、方針や、ビジョンを育てるような子育てや教育は求められていません。また実際、家庭でも学校でもそういう能力を育てるような子育てや教育をしていません。日本の社会では、全体を統括するようなリーダーがいなくても、それぞれが現場の状況に合わせて対応していればなんとかなってしまうのです。また、強力なリーダーがいない方がなんとなくうまく行くのも日本の社会の特徴でもあります。そして、日本人はこの「なんとなく」という空気感が好きなようです。そのため、役所も学校も、現場の職員や先生がちゃんとしていれば、市長や校長がリーダーとしてちゃんとしていなくてもなんとかなっちゃうのです。それが日本のいいところであると同時に困ったところでもあります。昨今の政治の状況を見ていてもリーダーが誰なのか分かりません。国会で答弁に立っている議員を見ても、役人が書いた答弁書を読み上げているだけです。太平洋戦争の時も、その場の流れで明確なリーダー(責任者)がいないまま戦争が始まりました。でもそのため、一度戦争が始まってしまうとそれを止めることが出来る人がいませんでした。そして、流れでズルズルと戦争をし続け、被害がどんどん拡大してしまったのですが、それでも戦争を止めることが出来ませんでした。そういう権限を持ったリーダーが存在していなかったからです。結果、見るに見かねた一部の人たちがクーデター的に終戦に向けて動いたのです。明治維新の時と似ています。リーダーの明確な決断によって戦争が終わったのではないのです。日本の社会を動かしているのは「リーダー」ではなく「庶民の間に広がる空気や気分」なんです。そしてその空気や気分を作り出しているのがマスコミです。これは戦争中も同じでした。そのマスコミを動かしているのが「お金や権力が大好きな人たち」です。少なくとも子どもの幸せや成長を優先的に考えるような人たちではありません。ゲームを作っている人たちも同じです。だから子どもの幸せや成長を守ろうとするのなら、周囲の空気や気分に流されずに、自分の頭で考え、自分の感覚で感じ、自分の意志で判断し行動する必要があるのです。一人一人が自分の生活において、自分の人生において、自分の子育てにおいてリーダーになる必要があるのです。周囲の空気や気分に流されて子育てや教育をしていたら、自分の頭で考え、自分の感覚で感じ、自分の意志で判断し行動する能力が育たなくなり、子どもが自分の人生を「自分のもの」として生きることが出来なくなってしまうのです。昔はみんなで支え合って生きていたのでそれでも大丈夫だったのですが、これからの時代はその能力が育っていないと困ったことになってしまうのです。問題は、子育てや教育に関わる大人自身が、そのような能力を育てるような子育てや教育を受けていないと言うことです。だから周囲の空気や気分に流されてしまうのです。ちなみに、私が考える「リーダー」とは「指示や命令を出す人」でも「一番権力を持っている人」でもありません。私が考えるリーダーとは「みんなをやる気にすることが出来る人」です。
2024.04.23
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「楽しく生きよう」などと書くと、「楽(らく)をしよう」とか「楽しいことだけをして生きよう」ということだと思われるかも知れませんが、私が言いたいことはそういうことではありません。人には、同じ作業をしてもそれを「苦痛」だと感じる人と、「楽しい」と感じる人がいます。お料理が好きな人がいます。でも、お料理が嫌いな人もいます。私には信じられませんが、お掃除や片付けが好きな人もいます。そして当然、お掃除が嫌いな人もいます。からだを動かすのが好きな人もいます。でも、嫌いな人もいます。勉強が好きな人もいます。嫌いな人もいます。人と会うのが好きな人もいます。でも、人と会うのが嫌いな人もいます。そしてそれはどんなことにおいてもありえることです。さて、この違いはどこから出てくるのでしょうか。あなたが嫌いなことを思い浮かべてください。お掃除でも、お料理でも、お勉強でも、何でも構いません。否定的な側面しか思い浮かばないですよね。でも、お掃除が好きな人に「なぜ好きなんですか?」と聞けば肯定的な側面がいっぱい出てくるでしょうね。やっていること自体は同じでも、「どこに意識を向けてそのことをしているのか」という意識の違いが、そのことを好きにしたり、嫌いにしたりしているのです。それは、勉強でも同じです。勉強をすることが新しい発見につながったり、勉強することを自分の未来とつなげて考えることが出来るような子は勉強が好きです。一方、勉強が嫌いな子は、ただ覚えるだけのような勉強しかしていません。理解しようともしないし、学ぶことの意味を考えたりもしません。当然、そんな勉強をいくら繰り返しても分かるようにはなりません。そして、分からないから嫌いになるのです。学校の先生達もまた「分かる」よりも「覚える」ことの方を大切だと考えているような気がします。だから勉強嫌いの子どもを増えてしまうのでしょう。お料理が好きな人は、単に覚えたレシピ通りに作るのではなく、自分であれこれ工夫します。そして、工夫することで発見があります。だから楽しいのです。誰にでも嫌いなことや、苦手なことや、やりたくないことはあります。でも、どうしてもやらなければならないことなら、逃げるわけには行きません。そんな時は嫌々やるのではなく、その行為を通して何を学ぶことが出来るのかということを考えてみたり、色々と工夫をしてみると、嫌なことからも「大切な何か」を学ぶことが出来るかも知れません。その結果、「好き」にはならなくても「嫌い」ではなくなるかも知れません。あと面白いのは、それが好きな人の話を聞くと、そのことに興味がなかった人もそれが好きになることが多いということです。算数が大好きな先生の授業を受けていると、子どもも算数が好きになります。算数が嫌いな先生の算数の授業を受けていると、子どもは算数が嫌いになります。ネコが嫌いな人でもネコが好きな人の話を聞くと、少し見方が変わります。好きにはならなくても嫌いではなくなることもあるでしょう。お母さんがお料理が好きで楽しそうにお料理していると、子どももお料理に興味を持って、自分でもお料理を楽しむようになる可能性が高いです。お母さんが勉強が好きでいつも本を読んでいれば、子どもも勉強したり本を読むことを楽しむようになる可能性が高いです。「楽しい」や「好き」や「苦しい」や「嫌い」と言った感情や感覚は、近くにいる人に伝染するのです。皆さんはお子さんにどういう気持ちを伝えていると思いますか。お母さんが生きることを楽しめているのなら、お子さんにも「生きるって楽しい」ということが伝わっているでしょう。その逆ではないことを願いします。
2024.04.22
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最初にちょっと「からだのワーク」の告知をさせて頂きます。6月1日(土)に茅ヶ崎で「からだのワーク」をします。JR茅ヶ崎駅の隣です。テーマは「緩める」と「感覚の働きに気付く」です。時間は10:00~15:00 (延びるかも知れません)参加費は 5000円です。当日で結構です。お問い合わせやお申し込みは「こちら」までお願いします。子どもの同伴は年令によります。****************昔、私がまだ鎌倉に住んでいた頃、夫婦でお茶を習っていました。宋編流というマイナーな流派ですが、家元が鎌倉に住んでいらっしゃるため鎌倉にはその派の先生はそれなりにいるようです。「免状はいりませんから」ということで全く個人的に、しかも子連れで教えて頂きました。生徒はうちの家族だけです。(あまりにもったいないので後から私たちの友人も誘いましたけど)子どもたちはお菓子を食べたりして勝手に遊んでいました。その時、私がよく言われたのが「引く手が汚い」ということでした。お茶をたててお客の前に置くところまではいいのです。その手を引いて来るときに雑になっていたようです。置く時はお椀を持っているし、それなりの見せ場なのでかなり意識を集中しています。でも、置いたとたん「ああ、おわった」と気を抜いてしまうのです。その途端に汚くなってしまっていたようです。でも、人はその気の抜けた時の状態を自分では意識することが出来ません。無意識状態になってしまうからです。ですから、そういうことは先生に指摘してもらわない限り分らないのです。そのために先生や師匠が必要なんです。「自分が分っている自分」は、「自分に向けて自分の意識が働いている時」だけです。そしてそれは本当に少ない時間だけです。それなのに、みんなその「自分が知っている自分」だけをつなぎ合わせて「これが自分だ」だと思い込んでいます。でも、「自分が知っている自分」なんて、「自分全体」の中では本当に小さな一部分にしかすぎないのです。一日のほとんどの時間は自分ではなく他者に意識が向いてしまっているからです。でも、他の人は自分が「意識的に動いている時」より「無意識的に動いている時」の方をよく見ています。だから子どもは、お母さんが言ったことはすぐに忘れても、お母さん自身でも気付いていないような「怒った時の表情や身振りや声」は忘れないで、すぐに真似をするのです。ですから、「自分」を変えるためには、自分の「本体」である、その「意識によってコントロールされていない時の自分」に気づいて、変えていく行く必要があるのです。そして、そのためには日常、無意識的に行っていることに意識を向け、意識化していく必要があるのです。「マインドフルネス」と呼ばれるエクササイズも同じようなものです。私が太極拳や茶道を勧めるのは、それらには無意識への気づきを促す働きがあるからです。様々な表現活動を勧めるのも同じです。茶道に興味がない人は「なんでお茶を飲むだけなのにあんな面倒くさいことをするのだ」と言いますが、そのような人は、「目に見える世界を支えているのは目に見えない世界だ」ということを知らない人です。そのような人は、自分の考え方や行動が無意識の働きに支配されているということに気付いていません。茶道の時に限らず、一般的に人間は、手を伸ばす、足を伸ばす、からだを伸ばすといったように、「伸ばす」という動きをする時には意識的に自分のからだの動きをコントロールしようとするのに対して、「引く」という動作に対しては無意識的です。なぜなら、「伸ばす」という動きは「他者と関わろうとする時に生まれる動き」なのに対して、「引く」という動きは、「他者との関わりを断って、自分を守る時に行う動き」だからです。だから伸ばすのは意識的であり、「引く」「縮める」「固める」のは無意識的なのです。人は不意に熱いものに触ってしまった時など“アチッ”と手を引きますが、手を伸ばす人はいないのです。これは人間だけでなく、他の生き物たちでも同じです。カメも、首を出す時はゆっくりと慎重に出しますが、ひっこめる時は瞬間的です。岩に張り付いている貝も、そのしがみつきを緩める時はゆっくりですが、固める時は瞬間的です。これは筋肉の仕組みとも関係しています。筋肉には「縮む」という能力しかないのです。「伸びる」という能力はないのです。伸ばすためには反対側の筋肉に引っ張ってもらうか、緊張をといてゆっくりと固まってしまった筋肉が緩むのを待つしかないのです。つまり、筋肉は無理に伸ばすか緩めないことには伸びないのです。でも、この「伸ばす」とか「緩める」ということがなかなか難しいのです。緩めようとして意識すると、その意識の働きによって逆に力が入ってしまったりするのです。考え事をしていてもからだは固まります。自分を守ろうとする時もからだは固まります。自分で自分を否定しているような人のからだはガチガチです。叱られた時の子どものからだは小さく固まってしまっています。また、不安や緊張やストレスが強い時などにもからだが縮こまってしまっています。でもそれは防御の態勢なので、そのような状態の時には能動的、創造的に動くことが出来ません。また、そのような状態の時、人は無意識に支配されてしまっています。だから考えることや行動がいつも同じことの繰り返しになってしまうのです。だから、本当の自分に気付き、自分を変えたいと思うのならからだを緩める必要があるのです。でも、それが難しいのです。そもそも、緩んでいる状態の体験がない人には「ゆるむ」ということがどういう状態なのか全然分らないからです。日常的に肩がパンパンに凝っている人は、自分が肩が凝っていることに気づきません。完全に弛緩した状態を「0」、極度に緊張した状態を「100」とすると、日常的に50くらいの程度の緊張状態で過ごしている人には「50」以下の状態が分らないのです。「30」レベルの人は「50」レベルの人の緊張が分ります。だから「もっと緩められますよ」と言うのですが、ずーっと「50」レベルで暮らしている人は自分のからだが緊張していることが全く分からないのです。だから先生からの指摘が必要になるのですが、防御が強い人はそれすらも「攻撃」と取ってしまい、さらにからだを固めます。ちなみにストレッチは部分的な筋肉を伸ばし、緩める効果はありますが、ストレッチが得意だからといって日常生活の中でからだを緩めることが出来るということではないのです。緊張は筋肉ではなく「心の働き」が作り出しているからです。ですから、筋肉が固くてストレッチが苦手な人でも緩めることは出来るのです。また、緩めようと意識していなくても楽しい時には自然と緩みます。美しいものを見ている時にも、大好きな人の傍にいる時も緩みます。そういう時の感覚を思い出してみて下さい。ちなみに、「緩める」ということと「弛緩させる」という事は違います。寝たり麻酔を打ったりすれば筋肉は弛緩します。でも、弛緩した状態では動けません。自由に動けるようになるために緩めるのです。楽しい時はからだが緩んでいるので自由に動けますよね。そういうことです。見晴らしがいい広いところにいる時にも、心やからだは緩みます。逆に緩まない人は広い空間に不安を感じます。
2024.04.21
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人間は群れて暮らす生き物です。ただ単に「大勢で暮らす」というだけでなく、年令や性別や障害の有無を超えてみんなで助け合って暮らす生き物です。そして、そのような多様な人たちが助け合って群れて暮らしてきたからこそ、技術や言葉や知識が蓄積され、様々な文化や文明も生まれ発展してきたのです。また、「人間性」と呼ばれるものも育って来たのです。いくら大きくて高機能な脳を持って生まれてきていても、仲間とのつながりのない状態で育てば、言葉も、知識も、技術も、文化も、知性も受け継ぐことは出来ないのです。当然、心も「人間性」も育ちません。それが「人間」という動物の特性でもあるのです。そして今時の子ども達の最大の問題は、その人間の「人間らしさの育ちを支えてくれる群れ」から切り離された状態で生活し、成長しているということなんです。確かに、現代社会に生きている子ども達も「人と人のつながり」の中で生きています。そうでないと衣食住も安全も得ることが出来ないからです。でも現代社会での「人と人のつながり」は「直接的」ではなく「間接的」です。直接会って話し合う事よりもLineやメールでやりとりすることが増えました。学校の授業でさえ、タブレットを通しての間接授業が増えました。会議や勉強会もZoomなどネット経由で行うことが増えました。子どもの遊びもオンラインでは仲間と遊んでいますが、実際に会って、実際の顔を見て、実際の声を聴いて、実際に触れあって遊ぶと言うことがなくなりました。何十万年と続いてきたであろう「子ども達が群れて遊ぶ姿」が町の中から消えてしまったのです。でも、肌と肌が触れあうような「直接的なつながり」でないと、子どもの育ちを支えることは出来ないのです。ダブレット経由では子育ては出来ないのです。監視カメラで子どもを見ることが出来ればお母さんは安心するかも知れませんが、子どもはカメラの映像では安心できないのです。ゲームの中でアバターを通して一緒に遊んでも、子どもの「人間としての育ち」に必要なものを得ることは出来ないのです。どうか子ども達を「群れ」の中に帰してあげて下さい。これは大人も同じです。子育てが苦しくなってしまうのは群れから切り離された状態で子育てをしているからなんです。私の活動に参加してくれる子ども達は大人がいなくても延々と群れて遊ぶことが出来ます。
2024.04.20
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最近の子ども達を見ていると、すぐに疲れます。造形などの場でも、疲れた、かったるい、面倒くさい、先生やってなどの言葉が飛び交っています。筋力も弱いです。腕や足の筋肉だけでなく、腹や胸の筋肉も弱いため風船を膨らますことが出来ない子どももいっぱいいます。からだを使った遊びをしていないので心肺機能が育っていないのでしょう。実際、いつもからだを使って遊んでいるような子は簡単に膨らませることが出来ます。体力もないのですぐに疲れたり、イライラしたり、刺激に過剰に反応したりします。子どもですから見かけは元気なんですが、持続力がないのです。何かを始めてもうまく行かないとすぐに諦めます。うまく行ってももっと上を目指すことはありません。すぐに飽きてしまうからです。大騒ぎして発散して遊ぶことは大好きですが、静かに集中して行うような遊びや作業が苦手です。意志の力も弱いです。意志の力を生み出しているのは「からだ」だからです。だから「からだ」が弱ると「気」も弱るのです。ちなみに、ゲームに夢中になっている子は「ゲームに取り込まれている」のであって、自分の意志で「ゲームに集中している」わけではないですからね。自分の意志でゲームに集中しているのなら、自分の意志でゲームを止めることも出来るはずです。でも、ほとんどの子が叱られないと止めることが出来ません。他者による圧力がないと止められないのは「中毒」であって「集中」ではないのです。それはお酒や、パチンコが止められなくなるのと同じ原理です。一日中パチンコをしている人を「集中力がある人だ」とは言いませんよね。こういうようなことは「心の問題」として扱われることが多いですが、実はこれは「からだの問題」なんです。そして現代人は「からだ」という視点を忘れてしまいました。子育てでも、多くのお母さんが子どもの「頭」にばかり働きかけて「からだ」に働きかけることはしません。「落ち着きがない子ども」にいくら叱ったりお説教をしても無駄なんです。「落ち着かない行動」は「落ち着かないからだ」の表れに過ぎないのですから。水の中が動けば水面も動きますよね。その時、水の中の動きはそのままで、水面だけ静かにしようとしても無理ですよね。それと同じです。でも成長の過程において、子ども時代には「頭の働き」は「からだの働き」と共に育つようになっているのです。「からだでの様々な体験」が「頭の機能」を育てているのです。発達障害の子の問題もかなりの部分で「からだの問題」なんです。からだの育ちに必要なものが満たされないことでからだの状態が狂ってきてしまっているから、子どもの成長が歪み、からそれが障害のような形で表れてしまっていることも多いのです。ですから、早期にそのことに気付いて「遊びを通してのからだ育て」をすれば、かなり状態を改善することが出来るのです。ただし、5才、7才、9才と年齢が上がるにつれて、その状態が固定化されて改善が困難になります。また、女の子よりも男の子の方が問題が大きいです。「男の子のからだの育ちに必要なもの」と「女の子のからだの育ちに必要なもの」が違うからです。そして現代人の「安全で、簡単で、便利な生活」では「男の子のからだの育ちに必要なもの」が満たされないのです。
2024.04.19
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毎年春になると「色」で色々と遊びます。中でも子どもたちが大好きなのが「色水遊び」です。今日も横浜で「色水遊び」で遊びます。色は、赤・青・黄の三色の食紅を使います。食紅なので間違って飲んでしまっても(お勧めはしませんが)そんなに慌てなくても済みます。ただし味はありません。食紅を2Lのペットボトルの空き容器に入れ、水で溶いて百均で売っている写真のような調味料入れに入れます。この活動を始めた最初の頃は、醤油差しみたいなものを使っていたのですが、子どもは醤油差しを傾けたまま戻さないので、一回で空になってしまいます。溢れても気にしません。この容器なら、モミモミしなければ、傾けたままでは液が出ないのでOKです。プラカップで色を作り、透明な傘袋に入れて写真のように縛っています。透明な傘袋はホームセンターで売っています。私は厚手の物をネットで買っていますけど。これをこのまま別の袋に入れても面白いですよ。赤青黄の三色を別々の袋に入れて、それを合体させ「虹色の色水」を作ることも出来ます。あと、色水ではなく、お花を摘んできてお水と一緒に入れるとキレイですよ。写真のものよりも空気を入れて丸くして縛った方がキレイですけど。お試しあれ。
2024.04.18
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(四月以降の講座の案内を2/26のブログにまとめました。ご興味のある方はご覧になって下さい。)Zoomでの気質や子育ての講座もあります。19日(金)からZoomの気質講座が始まるので、最後のお知らせです。************世の中には頑張るのが好きな人がいっぱいいます。そのような人は子どもや他の人にも「頑張ること」を求めます。確かに世の中には、頑張らないと出来ないことや、頑張らないと出会えない世界もありますが、その逆に、頑張ってしまうと出来ないことや、頑張ってしまうと出会えない世界もあるのです。その中でも、一番分かりやすくて、一番簡単な例は、“からだをゆるめる”ことです。こればかりは、頑張っていては永久にできません。からだをゆるめようと頑張れば頑張るほどからだに力が入ってしまいます。ということは、“からだがゆるんでいないとできないこと”も、頑張っていてはできないということです。特に、人間を相手にするような活動は難しくなります。頑張る人は心やからだを固くします。固くしないと頑張れないからです。すると、それに反応して相手もからだを固くします。すると、気持ちが通わなくなるのです。そうなってしまうと反発し合うか、一方的な関係しか作れません。(“固くならない頑張り方”も存在しますが、修行が必要です。武道ではそういう修行をします。)そして、その中には当然“子育て”や“自分育て”も含まれます。心やからだがゆるんでいないと、子どもを優しく抱くことが出来ません。子どもの話をゆっくりと聞くことが出来ません。優しい声で話しかけることも出来ません。子どもの心やからだの変化に気付きません。子どもを追い立ててしまいます。そして、子どもはそういうお母さんの傍にいる時は緊張するようになります。「自分育て」でも同じです。頑張る人は人に任せるということが苦手なので、自分一人で何とかしようとしてしまいます。でも、ずっとブログで書いてきたように、自分一人で頑張っても、自分で自分を持ち上げるようなものですから、絶対に自分を変えることが出来ません。自分を変えるためには、他の人(他の存在・他者)の手助けが必要なんです。そのためには、力を抜き、相手に任せるということがどうしても必要になるわけです。人は相手に任せた時に初めて相手からのメッセージを受け取ることができるからです。(それはからだのワークで実験してみるとすぐに分かります。赤ちゃんはお母さんに100%任せているからお母さんからのメッセージを受け取ることが出来るのです。)その相手とは、時にはお子さんかも知れません、ご主人かも知れません、また友人や仲間かも知れません、それとも草花や木々かも知れません。でも、ここで難しいのは“頑張るのが好きな人”は、“頑張らないで”というと、“はい、頑張らないように頑張ります”と、不思議な返事が返ってくることです。頑張るのが好きな人は、結果ばかりが気になって、どうも“楽しむ”ということを忘れてしまうのです。でも、そんな「頑張るのが好きな人」でも、子どもと楽しむ、自分の変化を楽しむというように「楽しむ」ということに気持ちを向けていると、次第に頑張らなくなります。というより、頑張る必要がなくなるからです。以下の絵本にはそんなメッセージが込められているような気がします。わたしとあそんで (世界傑作絵本シリーズ) [ マリー・ホール・エッツ ]
2024.04.17
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私は毎年、大勢の親子と山北(神奈川県足柄上郡)にある「ペガススの家」という所で遊びの合宿をしています。「ペガススの家」は、横浜にある「りんごの木」という幼稚園の園長でもある柴田愛子さんが書いた「ぼくはいかない」という絵本の舞台になった場所です。そこのキャッチフレーズが「何にもないけど、何でもある所」です。「何にもないけど、何でもある」とは何なのか?言葉の論理としては矛盾していますよね。般若心経の「色即是空 空即是色」のようなものです。でも、それこそが「創造と想像の世界」の実相なんです。楽しく遊ぶことが出来るのか、子育てを楽しむことが出来るのか、生きるということを楽しむことが出来るのか、勉強を楽しむことが出来るのか、仕事を楽しむことが出来るのか、家事を楽しむことが出来るのか、それとも何をしても喜びを感じることが出来ずに、ただただ苦しむだけなのか。その違いを生み出しているのが、「何にもないけど、何でもある」という視点なんです。この視点を持っていない人は、すぐに物や、人や、何かに依存しようとします。そしてすでにいっぱい持っているのに、常に「足らないもの」を探してグチを言います。子どもたちを自然の中に連れ出しても、すぐに、「つまんない」、「退屈だ」、「ゲームがしたい」、「ボールはないの」、「遊具はないの」と言うばかりで何も動き出さないか、ただ仲間と大騒ぎするだけの子がいますが、そのような子はこの「何にもないけど、何でもある世界」を体験しないまま育ってしまっているのだと思います。これは子育てでも同じで、「何にもないけど、何でもある」という視点を持っていない人は、子どもの「足らないところ探し」ばかりをします。「子どもが持っているもの」には目を向けす、「子どもに足らないところ」ばかりを探し出して、子どもを追い詰めています。そして、「片付けない」「手伝わない」「勉強しない」「約束を守らない」「時間を守らない」「宿題を出さない」などなどグチを言っています。それらは全てお母さんが子どもに期待しているものばかりです。お母さんが子どもに期待しているものの多くは大人の価値観に基づき、大人の社会で必要なものばかりです。それらは子どもの価値観や、子どもの育ちに必要なものではありません。でも子どもたちは、「自分たちの成長を支えるため必要な能力」はいっぱい持っています。また、「自分たちの成長に必要な活動」には能動的に関わろうとします。でも、そういうものが見えない人にとってはそんなもの無意味です。というかむしろ邪魔です。子どもが泥団子作りに夢中になっても単なる「無駄なこと」「困ったこと」にしか感じていない人もいっぱいいます。子どもは、自分の育ちに必要なものと満たそうとして夢中になっているから、お母さんの言うことを聞かず、お母さんの求めることに応えないのです。「子どもが持っているもの」に対して無関心な人にとっては子どもは空っぽです。「空っぽだから「色々なものを詰め込んで一人前にしなければ」と思い込んでしまうのでしょう。でも、お母さんが色々なものを詰め込む度に、子どもの中から居場所を失った「子どもの成長に必要なもの」が押し出されてしまうのです。そしてそれが続くと、やがて「子どもの成長に必要がないもの」で子どもの中が満たされてしまうのです。そして子どもは身動きが取れなくなります。自分の成長に必要な活動に対しても興味を感じなくなります。野原や自然の中に行ったら、「ここには○○も△△もない」と考えるのではなく、視点を切り替えて「○○も△△もある」と考えてみて下さい。そして「あるもの」を探して下さい。その結果見つけることが出来たものが全て遊びを生み出してくれます。(フリー素材です)(文中にある「ペガススの家」での合宿の時の写真です。真ん中にいるのが私の娘です。今二児の母です。)
2024.04.16
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「自然」はシビアでクールです。大人は子どもに忖度したり、手助けしたり、甘やかしたり、評価したり、追い立てたりしますが、「自然」はそこにあるだけで何もしません。子どもが木登りをしていてケガをしたり、崖登りをしていて転がり落ちても何にもしてくれません。困っていても助けてくれないし、失敗しても叱りません。でもそれ故に「自然」は子どもの考え方や行動の鏡として働いてくれます。下手な子が無理な登り方をすればケガをします。でも、何回も繰り返しチャレンジし、学び、上達をすればケガをしなくなります。そして、他の子から尊敬のまなざしで見られるようになります。これはトンカチやノコギリなどのアナログ的な「道具」を使う場合でもそれに近いです。良い道具は努力の手助けをしてくれますが、でも、使い方が下手な場合は逆に邪魔をします。ノコギリの使い方が下手な子は、いくら頑張っても疲れるだけで木は切れません。でも、繰り返しチャレンジし、色々感じ、色々考え、色々と工夫することで、ノコギリが作業の手助けをしてくれるようになります。コマや竹馬などのアナログ的な遊び道具でも同じです。それに対して、簡単で便利なデジタル的な機械はボタンを押すだけで代わりにやってくれたりします。ベイブレードも、セットしヒモ(?)を引くだけで回ります。マニュアルさえ覚えればアナログコマのようなヒモの巻き方やコマの回し方などを学ばなくてもいいのです。でも、アナログ的なコマの場合は、回し方をいくら口で説明しても、子ども自身が何回も繰り返して練習しないことには回りません。だから途中で止めてしまう子もいっぱいいます。でも、でも努力して回せた時の喜びはベイブレードの比ではありません。自然や、アナログ的な道具やオモチャは不便です。でも、不便だからこそ子どもの成長を支えてくれるのです。子どもはそのような対象と取り組むことで、感じること、考えること、工夫すること、やってみること、諦めなければ出来るようになる喜びを知ることが出来るのです。でも、簡単で便利なデジタル的な機械やオモチャに慣れてしまった子は、こういう不便な道具やオモチャを嫌がるのです。ちょっとやっただけでうまく行かないとすぐに諦めます。工夫したり努力したりして乗り越えようとはしないのです。そもそも、工夫の仕方も分かりません。「とりあえずやってみる」ということをしないからです。ノコギリで30分もかけて2cmぐらいしか切れない子に見本を見せるために「ちょっとだけだよ」と手助けをしてあげると、「先生やって」と言ってきます。私が「やだよ」というと、「じゃあ やめる」と言います。それと、最近の子はあまりにも基礎筋力、基礎体力がなさ過ぎます。日常的に筋肉や体力を使うような遊びをしていないからなのでしょうね。でも、基礎筋力や基礎体力の不足は精神的な不安定や、心の不安や、感覚の過敏につながりやすいのです。お正月にみんなでコマを回して遊びました。まずはお母さんが回せるようになるのが大切です。私のベーゴマと大山ごまです。大山ごまはこの四倍くらい持っています。ちょっと普通のコマとは違います。
2024.04.15
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