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私はいつも「子どもの成長には多様な体験が必要だ」ということを言っていますが、でも実際には、子どもが体験から学ぶ仕組みはなかなか複雑で、「ただやらせれば体験し、そこから学べる」というわけではないのです。映画などにもなっているような素晴らしい教育を実践している学校もありますが、だからといって、普通の学校に通っている子をいきなりそのような学校に連れて行っても、混乱するだけです。「森の幼稚園が素晴らしそうだから」といって、お勉強に熱心な幼稚園に通っていた子をいきなり森の幼稚園に通わせても、子どもは混乱するだけです。「頭と心とからだの中の受け皿」が育っていないからです。そこに子どもに何かを体験させたり、学ばせたりするときの難しさがあるのです。ジャンクフードばかり食べている子は、高級なお料理よりもジャンクフードの方が美味しく感じるのです。自然について、草花について、何も知らないか全く興味を持っていない子を、草花や自然がいっぱいの野原に連れて行っても、何も気付かず、何も発見せず、何も感じず、ただ退屈するだけです。そのため、そのような状態の子に、そのような体験をいくら与えても、子どもの成長にはつながりません。でも、(たとえば)「いわむらかずお」が描いた絵本「14ひきのシリーズ」を、毎晩お母さんと色々楽しいお話しをしながら読んでもらっている子は、野原に行ったら絵本に描かれている草花にすぐに気付くでしょう。絵本に脇役として登場している小さな虫たちにも気付くでしょう。<b>子どもは「心の中の世界」を「現実の世界」の中にも発見してワクワクするからです。そしてそれが「学び」につながるのです。</b>ただしこれは、「先に知識を与えておく」ということではないですからね。そこで必要なのは「知識」ではなく「物語」なんです。絵本の中で草花が描かれたページだけを切り取り、「14ひきの家族」の話をせずに、単なる知識として、その絵に描かれている草花の説明をしても、子どもはそれほど強く草花に興味を持たないでしょう。<b>その草花が「14ひきの家族の物語」や「絵本を読んでくれるお母さんと自分との楽しい記憶」とつながっているからこそ、その草花が「特別な存在」になっていくのです。そしてだからこそ、それを自然の中で発見すると嬉しくなるのです。</b>自然に関心がない子にドングリを見せても目で見える以上のものを感じることはないでしょう。でも、「ドングリと森の物語」や、「ドングリと森の生き物の物語」や、「森と川や海との物語」などを楽しく聞いたことがある子にとっては、小さなドングリは「目で見ることが出来る以上のもの」になるでしょう。自分でドングリを育てようとするかも知れません。<b>子どもだけでなく人がそのものに強く興味を持つのは、そのものが「自分の心の中の物語」と強くつながっているからなんです。</b><b>「もの」自体が人を引きつけるのではなく、「ものと自分のつながりの物語」が、そのものへの興味を生み出すのです。</b>ただし、この場合の「もの」は物質とは限りません。歌や踊りに対しても同じです。だから「もの」とひらがなで書いています。これは勉強でも同じです。歴史を楽しい物語として聞いて育った子は、その物語が学術的に正確なものでなくても「歴史」に興味を持つようになるでしょう。そして、9才を過ぎた頃から「本当はどうだったのか」と正確な知識を求め始めるでしょう。大人は子ども用の物語を「荒唐無稽なもの」「正確ではないもの」「あり得ないもの」としてあまり価値を感じませんが、子どもの好奇心を目覚めさせるために必要なのは「正確な知識」ではなく「ワクワクする物語」なんです。幼い子どもがまず知るべきことは「この世界の全てはつながり合っている」「自分と世界はつながっている」ということなんです。その事実を伝えるためには「物語」が必要になるのです。幼い子どもに与えなければいけないのは、「つながりから切り離された知識」ではなく、「全てのものが意味のつながりの中に存在している物語」の方なんです。その「意味」の部分が「客観的な事実」に置き換わればそれが科学になります。実は、荒唐無稽に見える「物語」と、客観的事実に基づく「科学」は兄弟なんです。「つながりを解き明かす」という点では物語も科学も同じなんです。それが分からず、つながりから切り離された科学の知識だけを覚えさせるから、子どもは科学への興味を失ってしまうのです。19世紀に活躍したSF作家、H・G・ウエルズやジュール・ヴェルヌの作品は、現代の科学から見たら馬鹿げた、あり得ないようなものばかりです。でも、彼らの作品を通して科学に興味を持った子は数知れないと思います。私自身もそうでしたから。どうか、幼い子どもには「知識」や「体験」を押しつけるのではなく、まず「物語」を与えてあげて下さい。その物語の中での体験が現実世界への興味を目覚めさせ、現実世界の中での体験から学ぶ力や、知識への興味を与えてくれるのですから。絵本だけでなく「昔話」もいっぱい聞かせてあげて下さい。14ひきのもちつき (14ひきのシリーズ) [ いわむら かずお ]14ひきのぴくにっく/いわむらかずお/子供/絵本【3000円以上送料無料】やまのぼり ばばばあちゃんのおはなし (ばばばあちゃんの絵本) [ さとうわきこ ]
2024.01.03
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現代の子どもたちは兄弟が少なかったり、群れて遊ぶ機会が少なかったり、群れていても基本的に同じような年令の仲間とだけ遊んでいるので、赤ちゃんや、小さな子どもと関わる機会はあまりありません。また、兄弟がいたり異年齢の子どもたちがいる状況でも、最近の子どもたちの遊びは個人的なものになっているので、「小さな子の面倒を見ながらみんなで遊ぶ」ということはありません。また「みんなで遊ぶ遊び」も知りません。その場に色々な年令の子がいても、結局同じような年令の子だけが集まって、自分たちだけで遊んでいます。しかも。2人以上ではなかなか遊べません。「小さな子も混ぜてあげて」と言っても嫌がります。嫌々混ぜてくれたとしても、小さな子にも自分たちと同じルールを押しつけます。平気で大人の価値観を押しつけるお母さんや大人達と同じ事をするのです。昔の子どもたちの群れでは、小さな子には「特別ルール」が適応されました。いわゆる「オミソ」というやつです。そして、同じルールで遊ぶことが出来るようになるまでの成長を待ったのです。でも、最近の子に「この子は小さいから特別ルールでお願いね」などと言うと「ずるーい」と言われます。逆に、小さくもないのに自分から「マイ・ルール」を主張する子もいます。「ぼくはこうやりたいんだからいいでしょ」と、勝手なことを言ってやろうとするのです。小さい子を特別扱いすると「ずるーい」というのに、自分には「特別扱い」を求めるのです。もちろん全部の子がそうだということではありませんが、そういう子が珍しくなくなってきたのも事実です。最近の子どもたちは、急かされるばかりで待ってもらえません。群れ遊びの場での仲間は待ってくれても、機械仕掛けのゲームは待ってくれません。お母さんも忙しいので、話も聞いてもらえません。大勢の仲間と群れて遊ぶ体験も、幼い子どもの世話をするという体験もないまま成長し、大人になっています。そして、結婚し、子育てをしています。そのせいか、現代社会では、自分の価値観を押しつけるような子育てをするお母さんが多いです。それは「待てない子育て」であり、「支配する子育て」でもあります。2,3才の子にも大人のルールを守るように求めます。「うちの子は、ちゃんとおイスに座って、ちゃんとご飯を食べないのです。どう、仕付けたらいいのでしょうか?」という質問を受けたことがあります。年齢を聞いたら3才でした。それで、「その年齢の子はそれが普通です」と答えました。でも、「子どもの普通」が分からない大人は、幼い子どもにも大人の価値観を理解するように求め、大人と同じように行動することを求めるのです。我が子に対してさえ、「まだ小さいんだから」という特別扱いはしないのです。でも、どんなに子どものことを思っていても、子どもの意思や成長リズムを否定した「待てない子育て」は、子どもの人間らしさの否定に他ならないのです。文明は「待たなくてもいい社会」を目指してきました。効率的、合理的に事を進め、時間を短縮することだけを求めてきました。そしてその価値観が、「子どもの遊び」や「人間の生き方」まで支配するようになってきたのです。「子育てのあり方」にも大きな影響を与えています。そして多くの人が、「効率の良い子育て」、「失敗のない子育て」、「結果の見える子育て」、「苦労が少ない子育て」を求めるようになってきました。そのため、子どもが生まれたら「子育て書」を頼りに子育てを始めます。子どもや人間についての知識や体験が乏しいのでマニュアルがないとどうしていいのか分からないからです。でも、「子育て書」を、子どもを理解するために読むのならいいのですが、「子育て書」に「子育ての方法」を求めてしまうと困った事になってしまうのです。子育て書に「○才になったら○○が出来るようになる」と書いてあれば、我が子にもそれと同じ成長を求めてしまいます。そして、その基準より遅れていると、悩み、苦しみ、「こんなにも頑張っているのにちゃんと成長してくれない子ども」に腹が立ち、追い立ててしまいます。逆に、その基準よりも早く成長していると喜び、「うちの子天才かしら、もっとちゃんと教育したらすごい子になるかも知れない」などと思い込み、子どもを追い立てます。でもしばらくすると、その勘違いに気付きます。
2024.01.02
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今日のブログは新年のご挨拶だけにさせて頂きます。今年やりたいのは「劇遊び」(即興劇)です。子どもと一緒のものだけでなく、大人だけのも企画します。以前から、親子での劇遊びや、大人の即興劇はやっていたのですが、去年の後半、改めてその力の素晴らしさに気付いたので今年はそれに力を入れていきたいと思っています。人生も、日常生活も脚本のない即興劇そのものです。そして、その即興劇で皆さんは全員主役です。主役ですから、皆さんが変われば話の流れも変わります。ハッピーエンドで終わるのか、バッドエンドで終わるのかを決めているのは、主役である皆さん自身なんです。即興劇ではそんな体験も出来てしまうのです。
2024.01.01
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いよいよ、12月31日ですね。今年は皆さんにとってどんな年でしたか。私は「忙しい年」でした。さて、来年はどうなるでしょうか。一年間ありがとうございました。そして来年も宜しくお願いします。良いお年をお迎え下さい。**********色々なお母さんから聞くのですが、最近の子は3人以上で遊ぶのが苦手なようです。AちゃんがBちゃんと遊んでいるところに、AちゃんともBちゃんとも仲がいいCちゃんから「Aちゃん、あそぼう」と誘いが来ても、「今、Bちゃんと遊んでいるから遊べない」と断ってしまうそうなのです。それでお母さんは「みんなで一緒に遊べばいいのに」と思うのですが、なぜかそれが出来ない子が多いようなのです。このような話を数人のお母さんから聞きました。二人だけで遊んでいるときには、「どちらかが相手に合わせる」という形で遊ぶことが出来ます。これは、お母さんが子どもと遊んでいるときも同じです。親子の場合でも、友だち同士の場合でも、二人だけで遊ぶ場合は力関係だけで遊びの形が決まってしまうので話し合いをする必要がありません。「強く主張しない方」が、「強く主張する方」に合わせていれば、遊びが成り立ってしまうのです。これが昨日書いた「支配者と家来」の関係です。でも、「三人」になると話が複雑になります。それはジャンケンと同じです。ジャンケンに「グー」と「パー」しかなければ、勝負は簡単に付くのです。でもそこに、「チョキ」が入ると急に問題が複雑になってしまうのです。「強い」「弱い」が一元的ではなくなってしまうからです。子ども達の遊びを見ていても、二人だけで遊んでいるうちは同じようなことの繰り返しになりますが、三人以上になると急に新しい展開になるのです。でも現代人は、子どもも大人も、「三人以上で一緒に遊ぶ(活動する)」ということが非常に苦手です。現代人の生活の中には、そういう学びをする場がないからです。幼稚園や学校でも、「大人の話を聞いて、大人の指示に従う訓練」ばかりをやっています。昔の子ども達は「群れ遊びの場」でそういう体験や学びをしていたのですが、現代の子ども達にはそのようなことを学ぶ場はありません。だからといって、子ども達を「昔のように遊ばせたい」と思って大勢集めてもすぐにバラバラになってしまってみんなで一緒に遊ぶことが出来ません。「大人によって集められた子ども達の群れ」と「自分の意志で自主的に遊びに参加している子ども達による群れ」は同じではないからです。最近のお母さん達もまた三人以上では遊べないので、「子どもに合わせる子育て」をしている人でも、子どもが複数いる場合は「どの子に合わせて遊ぶか」ということで悩みます。上の子に合わせれば、下の子がすねます。下の子に合わせれば上の子がすねます。そして、兄弟の仲が悪くなっていくので、兄弟トラブルも増え、それでも悩むことになります。みんなで一緒に遊べばそんな状態にはならないのですが、それが出来ない人が多いのです。「支配する子育て」をしているような人は、子どもが自分にまとわりついてこないようにあれこれ工夫します。簡単に物やゲーム機を与えたりもします。そして、アメとムチという方法を使って子どもを思い通りに動かそうとします。また、兄弟に格差を付けます。そして、兄弟同士で競わせたりします。これは親子の場合だけでなく、会社や国や様々なグループでも同じです。でもその結果、この場合でも兄弟の仲は悪くなります。じゃあどうしたらいいのかと言うことですが、この問題はそう簡単に解決しません。でも、何が必要なのかは分かります。それは、お母さんの精神的自立です。母さんが精神的に自立していないから子どもを支配したり、子どもに支配されたりしてしまうのです。でも、幼い頃から支配されて育って来た人にはそれが一番難しいのです。
2023.12.31
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昨日、「いのぐみ」さんから以下のようなコメントを頂きました。(改行は私が入れました)私は子育てしながら、公立の小学校で特別支援学級の支援員をしています。特別支援の教室だけでなく、学年の教室に行くこともあります。ダメと言わない育て方をされて、身につけなくてはいけないことを身につけていないんじゃないか、と思う子に出会うことが多いです。また、大人の勝手でダメと言われて、本当にダメなことが自分で判断できないのではないかと思うこともあります。言われなくてはいけないことを言われてないんじゃないかと思う子は多いです。子育ての場面で、親はもっと自由になっていいと言われることも多いですが、本当に自由ってなんだろうとか、子どもと一緒に自由になる方法はないかなとか、子どもを引き受けてるのは自分だという覚悟とか、必要なんじゃないかなと、思います。もちろん自分も含めて。本文の趣旨とずれているかもしれませんが、ブログをいつも読ませていただいてはげまされていて、日頃仕事で感じでいることを聞いていただきたく、コメントさせていただきました。「いのぐみ」さんのおっしゃる通り、今、「ダメを言わないお母さん」や、逆に、自分の都合で「ダメばかり言っているお母さん」がすごく多いです。その結果、子どもが困った状態になってしまって相談してくるのですが、でも、そのようなお母さんは「子どもの困った状態」の原因が自分のせいだとは気付いていません。そして、子どもの状態を変えるだけの「ハウツー的なしつけの方法」ばかりを聞いてきます。「ダメを言わないお母さん」は、子どもの召使いのような状態になってしまっています。その逆に、「ダメばかり言っているお母さん」は子どもを自分の家来のように扱っています。そして、子どもが自分の言うとおりに行動しないと口汚く罵ります。暴力的な方法で子どもを従わせようとする人もいます。この両者は一見正反対ですが、でも実はよく似ているのです。このような子育てをしているお母さん達は、両者とも自分一人では何も出来ません。そして、不安と依存心が強いです。また両者とも、子どもとの関係が「一方通行」です。お母さんが子どもの召使いのようになっている場合は、「子どもからお母さんへの一方通行」です。お母さんが子どもを家来のように扱っている場合は、「お母さんから子どもへの一方通行」です。いずれの場合も、「対話」がないのです。これは相手が大人の場合でも同じです。この「対話が出来ない」というのが、「一方通行の子育て」をしているお母さん達共通の特徴でもあります。情報をやりとりするだけの「会話」は出来ても、考えを聞いたり伝えたりする「対話」が出来ないのです。話し合って活動するグループワークのようなものをしても話し合いが出来ません。そのため、その中に一人でも自分の意見を強く主張する人がいると簡単にみんなが引きずられてしまいます。その時、「おかしい」と感じても、何も言えません。根本的な原因は同じなんですが、気質の違いが「支配するか」、「支配されるか」という違いを生み出しているのです。簡単に召使い状態になってしまうような人は、粘液質や憂鬱質が強いような気がします。逆に、支配者のようになりやすい人は胆汁質や多血質が強いような気がします。ただし、混合状態の人もいます。このような子育てをしているお母さん達は、自分の感覚で感じ、自分の頭で考え、自分の意志で判断し、行動するということも苦手です。自分の価値観や生き方も曖昧です。趣味や生きがいを持っていない人も多いです。まただから対話も出来ないのです。「自分の考え」というものをしっかりと持っていない人は「対話」が出来ないのです。そのような大人が増えてきた背景には、子どもの「遊び環境」の変化と、日本の「学校教育のあり方」が大きく関係しているような気がします。日本の学校では、先生と生徒の関係、学校と親との関係は一方通行です。生徒はイスに座って、ただ先生の言うことを聞いて覚え、指示通りに行動するだけです。親もまた、先生や学校の言うことに素直に従う事だけを求められています。「質問」は許されていても「自分の意見」を言うことは許されていません。また、「遊び環境の変化」として大きいのは、遊びの場から「仲間」が消えてしまったことです。そのため、子ども達が「仲間との関わり合いを通して学んでいたこと」が学べなくなってしまったのです。最近の子は三人以上で遊ぶのが苦手です。三人以上で遊ぼうとすると「対話」が必要になってしまうからです。<続きます>
2023.12.30
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私は「療育」の専門家ではありません。ただ、「遊び」や、「造形」や、「表現」という場で子ども達と関わる仕事をしているだけです。また、「気質」や「子育て」などの勉強会で、子育てに関するお母さん達の話を聞くこともよくあります。「しつけ」に関する質問もよく受けます。私が書いていることは、そういう体験を通して感じたこと、考えていることなので療育の専門家の意見とは異なったことを言っているかも知れませんが、その点は「参考程度」にお読み下さい。「療育」と「しつけ」は似ているような気がします。本来は両方とも「子どものためのもの」なのではないかと思うのですが、実際には「大人のためのもの」になってしまっているのではないでしょうか。それはつまり、それらが「子どもの行動や成長などで大人にとって困ること」を矯正するための手段になってしまっているのではないかということです。でも、その多くは成果を上げていないような気がします。お母さんがいくら叱っても、指示や命令を与えても、どんなに丁寧に説明しても、それが子どもにちゃんと伝わり、お母さんの期待通りに子どもが変わる、などということは滅多に起きません。それはすでに皆さんが実感しているはずです。ある程度は「アメとムチ」という方法で見かけだけは多少整える事が出来ますが、でも、「アメとムチ」という方法は、子どもの成長を支えるどころか逆に、成長を阻害してしまうので、子どもが思春期を迎えることになると「ちゃぶ台返し」が起きます。思春期が来て、お母さんが与える「アメ」を欲しがらなくなり、お母さんからの「ムチ」を怖がらなくなった時点で、元の木阿弥に戻ってしまうからです。ここで一番大切なことは、「お母さんや周囲が困っているかどうか」「お母さんや周囲が何を望んでいるのか」ではなく、「子ども自身がそれを望んでいるのかどうか?」「子ども自身がそのことで困っているのかどうか?」ということなんです。そのことをちゃんと確認して、そこからアプローチしなければ何も始まらないし、子どもは成長しないと思います。そしてだから、子どもを「つながり」から切り離してはいけないのです。なぜなら、子どもは「「つながり」の中でしか「自分自身の成長につながるような何か」を望まないからです。また、「自分の成長を阻害している何か」に気付くのも「つながり」の中でです。子どもが言葉を学び話し始めるのは、「言葉を教えてくれる人」がいるからではありません。大好きで、大切な人が「言葉」で話しかけてくれるからです。コマを回せるようになりたい、竹馬に乗れるようになりたいと望むのは、大好きなお兄ちゃんやお姉ちゃんがかっこよくコマを回し、竹馬に乗っているのを見ていたからです。しつけや教育が子どもの成長を支えるのではなく、あこがれが子どもの成長を支えてくれるのです。でもその「あこがれ」はつながりの中でしか生まれないのです。子どもが「勉強したい」思うようになるのは、学ぶことを楽しんでいる先生や親の姿にあこがれを感じたときです。最近の子はテレビやネットの中で「あこがれ」を見つけます。でも多くの場合、その「あこがれ」は虚像です。
2023.12.29
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西洋医学では、一つ一つの症状に対して一つ一つの方法を考えます。胃の具合が悪ければ、胃の状態を検査してその状態を改善するような治療を行います。目の具合が悪ければ、目の状態を検査してその状態が改善するような治療を行います。そしてこれは、その対象が腸でも心臓でも耳でも頭でも同じです。だから病院は様々な専門の科に分かれているのです。でも、それらの科は別々に情報を管理しているため、「検査を受けに来た人の全体」は分かりません。だから、○○科でもらった薬と△△科でもらった薬が同じだったり、一緒には飲まない方がいい薬をもらったりすることがあるのです。どうしてそういう事になっているのかというと、昔から西洋には「全体は部分に還元できて、全体は部分の集合体として説明できる。」という考え方があるからです。だから、「人間を解剖することで、人間のことについて知ることが出来る」と考えて、西洋医学が生まれたのです。また、私たちが生きている世界に対しても同じような手法で分解、分析し、科学が生まれました。でもそのような方法では「命」について知ることは出来ません。人間のからだをどんなに細かく解剖しても「仲間や、自然や、宇宙とつながって働いている命の仕組み」は分からないのです。実験室で分かるのは、そういうものから切り離された肉体や細胞の中に現れる生命現象だけです。そのため、そのような考え方を基本とした方法では「人間の成長」を支えることは出来ません。「壊れたところを治す治療」は出来ても、「命の働きの表れとしての成長」を支えることは出来ないのです。私が療育というものに対して懐疑的なのも、子どもを仲間や、自然や、宇宙から切り離した状態で治療しようとしているからです。確かにそういう方法でも、ある程度は「問題点の改善」は出来ると思います。でも、出来るのは「問題点の改善」だけのような気がするのです。「その子の人生のおける可能性の育ち」を支えることは出来ないような気がするのです。「子どもを群れから切り離す」という時点で私はそのような方法には懐疑的なんです。そうではなく、クラスや学校自体が「色々な子がいてもみんなでつながり合い、支え合い、楽しく学び生活できる場」になれば、「子どもを集団から切り離して行う療育」などというものは必要がなくなるのではないかと思っているのです。みんなが人間として成長するような場で、療育を必要とするような子も人間として成長していくことが出来るのです。すると、自然と問題行動は減っていくのです。「つながり」が状態を改善し、成長を支える働きをしてくれるのです。今は、その子がいると授業が進まない、他の子が乱される、みんなと一緒が出来ない、みんなと同じ事が出来ないなどという理由で療育を勧められています。私は、こういう発想自体に疑問を感じるのです。今、黒柳徹子をモデルにした「窓際のトットちゃん」という映画をやっていますが、今の時代だったら、トットちゃんは確実に療育行きです。そして、黒柳徹子は生まれなかったでしょう。
2023.12.28
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製品として出来上がった自動車が、乗っているうちに具合が悪くなったら修理が必要です。そしてその修理にはマニュアルがあります。正解が分かっているからです。でも、製作途中の自動車を無理矢理走らせてみてもちゃんと動きません。でもそれは故障ではありません。またその時必要なのは修理ではありません。それは故障ではないからです。それに、その車の車種が分からなければ修理の仕方も分かりません。正解が分からないからです。そして、子どもの成長においても似たようなことが言えるのです。成長過程にある子どもが不完全なのは当たり前です。色々な問題行動を起こすのも当たり前です。そこで必要になるのは「子どもの成長を支えること」であって、「機械を修理するような感覚で子どもの状態を変えようとする」ことではありません。そんなことをしたら一時的、見かけ的には〝ちゃんと〟することもあるかも知れませんが、「本来あるべき状態での成長」が歪んでしまうので、その子が潜在的に持っている可能性までそこで消えてしまうのです。でも、多くの大人達が、子どもが「困ったこと」をしたり、「大人の期待通り」に育っていないと、修理する感覚で叱ったり、指導したりします。その時よく使われるのが「ダメ」などの言葉に代表される「禁止用語」と、〝あれやれ〟、〝これやれ〟などの「指示や命令を出す言葉」です。そんなことやっちゃダメ。そんなこと言っちゃダメ。打っちゃダメ。投げちゃダメ。もっと静かにしなさい。ちゃんと片付けなさい。ちゃんと勉強しなさい。などの言葉です。でも、禁止や指示や命令をいくら繰り返しても、子どもの成長を支えることは出来ません。むしろ子どもの成長を阻害してしまいます。それでも、大人の権力が強いうちは、強く叱ったり、強く指導することで、子どもが一時的にならちゃんとすることがあります。だから大人は、「子どもがちゃんと成長するためには大人による禁止や命令が必要だ」と勘違いしてしまうのです。でも、「自主性や能動性を否定されて無理矢理作られたよい子」は、思春期の訪れと共に崩壊します。そして、虚無と、悲しさと、苦しさと、不安にさいなまれ、自分の人生を生き生きと自分らしく生きていくのが困難になります。問題行動が多くて発達障害が疑われるような子は「療育」を勧められます。「療育」とは「治療」と「教育」を組み合わせた言葉のようです。療育の場では子どもの状態に合わせた様々な支援が行われています。それはそれで有効なこともあるでしょう。でも私は、本来子どもの問題行動に対しては療育という方法は必要がないのではないかと思っています。療育を与えなくても、その子が安心できて生き生きとするような環境や状態を整えてあげれば、子どもは自分らしく成長して行くものです。その結果、破壊的、攻撃的な問題行動は減っていきます。仲間と一緒に自然の中で子どもを育てている人たちはそういう例をいっぱい知っていると思います。そして大人になってしまえば、周囲の人はそれをその人の個性として受け入れてくれるようになるでしょう。子どもの破壊的、攻撃的な行動を落ち着かせるために必要なのは大人による「療育」ではなく、「自然」や、「安心」や、「その子らしさを受け入れてくれる仲間」なんです。昔はそんな「自分も周囲の人もそれを障害としては認識していない潜在的な発達障害の人」がいっぱいいたのではないかと思います。というか、昔の人には「障害」という認識自体がなかったのではないかと思います。近代に入って、子どもの育ちに「正解」を決めたから「障害」も生まれたのです。葛飾北斎や、牧野富太郎や、南方熊楠なんて人たちが今の時代に生まれていたら、みんな「発達障害」として療育を押しつけられていたでしょう。そして、その才能が開花することなくただの「困った人として」人生を送ることになるでしょう。子ども達は「自然の働き」や「命の働き」に即して感じ、考え、行動し、成長しています。そのため、子ども達が、「社会の価値観だけに従って感じ、考え、行動している大人」の価値観と異なったことを言ったり、やったりするのは当たり前なんです。障害のある子はさらに個性的な行動をしますが、それも「問題行動」ではありません。障害の有無にかかわらず、周囲の大人達が、そんな「子どもらしさ」や「その子らしさ」を受け入れ、子どもが安心して自分らしく感じ、考え、行動する場を与えてあげれば、障害の有無に拘わらず、子どもは自分らしく成長し、落ち着いた状態に育っていくのです。その場合でも、発達障害は個性としては残るでしょうが、それが長所になるような生き方を選ぶことが出来れば問題はないのです。
2023.12.27
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最近の子ども達を見ていると、どうも冒険にはあまり興味がないようです。そのため、新しいことにチャレンジもしません。自由に造形などを作らせても、いつも同じものしか作ろうとしません。造形関係の面白い本がいっぱい置いてあっても見向きもしません。そして、知っていることや、すでに出来る事ばかりを繰り返そうとします。キャラクター関係の絵を描いたり、ぬいぐるみを作ったりはしますが、自分のアイデアで描いたり作ったりはしないのです。考えることも面倒くさいようです。知恵の輪を渡しても、あれこれやってみることなく、最初から「外し方」を聞いてきます。また、人と違うことをやる気もありません。「退屈だー、退屈だー」と言っている子に、「退屈だったらこの本を見てごらん」とか、「こういうものやこういうものも作れるよ」と言っても興味を示しません。最初は興味を持って初めても、予想外に複雑だったり、大変だったりすると、簡単に挫折します。そして、「何か他に、簡単にできるものはない?」などと聞いてきます。作ることを楽しめないので、「簡単に出来るもの」にしか手を出さないのです。「外国で行きたい国ある?」と聞いても、多くの子が「怖いから行きたくない」と言います。「ゲームの世界の中での冒険」は好きなようですが、「実際に自分の頭や、感覚や、からだを使ってやる冒険」には興味がないのです。そんな時、面白いのはちょっと発達障害(と呼ばれている状態)の傾向がある子ども達です。そういう子ども達は人の目を気にしません。やりたいことをやります。冒険やチャレンジにも積極的です。そしてそれは、自己表現や遊びの場では長所になります。でも、お母さんの言うことを聞かなければいけない場や、先生の言うことを聞かなければいけない場などではそれが短所になります。そして、叱られ、指導され、その状態を治すために療育を勧められます。そして、長所は短所として扱われ、短所として定着していきます。また、発達障害ではなくても、ちゃんと自分の頭で考えて作ったり行動できる子もいます。そういう子は学校でもちゃんとルールを守って行動する事が出来ます。(私が知っている範囲では)そういう子は家であまりテレビを見たり、ゲームをしていません。テレビやゲーム機自体がないという家庭もあります。それは親との関わりが多いということと、お母さんやお父さんにそれなりの教育信念があるということを意味しています。私の周りにはそういう子も多いですが、世間一般的には全くの少数派だと思います。また、ここに書いた「困った状態の子ども達」と似たような状態のお母さん達もすごく多いです。そういうお母さんは自分の頭で考えようとしません。(多分、お父さん達も似たような状態なんでしょうが、お父さんと関わり合うことが少ないのでよく分かりません。)私には、今の時代の流れがおかしな方向に進んでいるように思えるのです。私は、みんながもっと「発達障害と呼ばれている子の面白さや素晴らしさ」、「ゲームの害」、「人と人が関わり合うことの大切さ」などに意識を向けた方がいいのではないかと思っています。ちなみに、ゲームの害は「子どもの興味や関心を全て吸い取ってしまう」という点にあります。
2023.12.26
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クリスマス、おめでとうございます。クリスマスは「すでに与えられているものに気付き、喜び、感謝する日」です。プレゼントはその「感謝」を形にしたものです。人は、「すでに与えられているもの」に気付くだけで幸せを感じる事が出来るのです。子育ても楽になります。*************************昨日、「M1」を見ていたら「禁止用語」について扱っているコンビがいました。相方の一方は「ハゲ」で、その「ハゲ」をイジルことで笑いを取ろうとしているのですが、その「ハゲ」が「看護婦さんが」と言えば、「今は看護婦ではなく看護師と言うんだよ。看護婦と言ってはいけないんだよ、男性もいるんだから。このハゲ」と突っ込みます。「スチュワーデス」と言えば「スチュワーデスは言ってはいけない言葉なんだよ。このハゲ」と突っ込みます。で、その「ハゲ」は「看護婦もスチュワーデスもいけないのになんでハゲはいいんだ」と言い返すのですが、相方は「ハゲはいいんだ」と言い返してきます。これは、もっともな反論なのではないかと思うのですが、どうも世の中的にはそういうことになっているようです。世の中には様々な禁止用語があります。そして、どんどん増えてきています。その結果、一昔前だったら普通の会話が、今では禁止用語だらけになってしまって使えなくなってしまっています。ずっと昔から日本人が日常生活の中で使ってきた普通の言葉が、ある日突然、日本語から消されてしまうのです。でも、日本語は日本の歴史や、日本人の生活や、感覚や精神性と密接につながっています。単なる記号ではありません。だから、人々の意識や感覚が変わって自然と変わるのはいいのですが、「苦情を言う人たちがいるから」という理由だけで偉い人たちが勝手に、それまで使われてきた言葉を日本語から消してしまうのはやりすぎなんです。また、言語統制は思想統制でもあります。だから、戦争中は思想統制とセットにして言語統制も行われました。でも、言葉を消したからと言って実態が変わるわけではありません。問題はその実態の方であって、「言葉」ではないからです。「メ○○」という言葉を消しても、「目が見えない人」をバカにする人が減るわけではありません。また、相手をバカにするためでなく、相手の状態をわかりやすく伝えるためにそういう言葉を使うこともあります。また、「夢中になる」というような意味で使うこともあります。「ビ○○」という言葉を消しても、「足が悪い人」をバカにする人が減るわけではありません。それは、そういう言葉を聞くと嫌な気持ちがする人への配慮に過ぎません。戦争中は「退却」という言葉が否定され「転進」という言葉が使われました。「負けて逃げたんじゃない、向かう方向を変えただけだ」というごまかしです。「退却」という言葉を嫌う偉い人たちがいたのでしょう。そのようにして現実と向き合うことを避けてきたのです。その結果、あのような悲惨な結果になってしまいました。いくら言葉を消しても、言葉遊びだけして、ちゃんと現実と向き合わない限り、実態はますます悪化していくのです。その言葉で誰かをバカにする人がいるからと言って、言葉だけを禁止しても意味がないのです。冷静に考えれば、そんなこと誰だって分かることです。言葉を消すことでその問題を「なかったこと」にしようとしているだけなんです。でも言葉を消すことで実態が分かりにくくなってしまうため、見えないところでさらに状態は悪化して行くのです。「言葉」をなくすことを目的にするのではなく、「その言葉を悪意を持って使う人」がいないような社会を作っていけばいいのです。同じように、ナイフなどの武器の所持を禁止しても、人を殺す人は消えないのです。その気になれば、傘や花瓶といった身の回りにあるものでも人は殺せるのですから。魔法の力で武器をお花に変えても、武器が欲しい人はまた武器を作ります。でも、自分の意志でその武器を溶かして、楽器やお鍋を作るような人は人を殺そうなどとはしないでしょう。大切なのは「禁止すること」ではなく「新しい価値に目覚めること」なんです。「新しい価値」に目覚めることで禁止しなくても自然と消えて行くようになればいいのです。子どもの問題行動でも同じです。いくら「ダメ」を繰り返しても子どもの行動は変わりません。でも、より夢中になれることを見つけた子どもは、自然と問題行動が消えて行くのです。イジメの実態調査をしても、その実態を隠そうとする学校がいっぱいあるようです。ちゃんと調査もしません。調査しなければ、「知らなかったこと」や「なかったこと」に出来るからなのでしょう。政治家も「誤解を受けたなら謝ります」というだけで、本当の反省も反省に基づいた行動もしません。それが事実であっても、都合の悪いことはみんな「誤解」にしてしまうのです。お金の流れでも「本当のこと」は話しません。そして後からボロボロ出てきます。それでも、知りませんでした、覚えていません、秘書が・・・などと言い逃れをします。そして、次の選挙ではきれい事ばかり言い立てて立候補します。ただし、この「きれい事」が大好きなのは韓国も、中国も同じです。多分儒教の影響なのでしょう。
2023.12.25
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(これは10年くらい前にアップしたのと同じものです)今日はクリスマス・イブです。「クリスマスとは何の日か」といえば、宗教的には「イエス・キリストの誕生を祝う日」のことです。ただし、実際にはイエスがいつ生まれたのかは分かっていないので、「誕生日を祝う」のではなく、「誕生を祝う日」ということになります。じゃあどうしてこの時期が選ばれたのかというと、「冬至」に近いからからです。(なぜ22日ではないのかは私には分かりません)冬至は一年で最も「闇」が長い日です。その日を境に、「光」が増していきます。そのため、古来より冬至は「死と再生」を象徴する特別な日だったのです。キリスト教が生まれるずーっと以前から「死と再生を祝う特別な日」だったのです。日本でも冬至の日は「死に一番近い日」と言われており、その厄〔やく〕を払うために体を温め、無病息災を祈っていました。この慣わしは現在も続いています。その「死と再生」を象徴する日が、象徴的に「キリストの誕生日」として選ばれたのです。この「死」と「再生」という働きは生命の働きを支えている根本原理です。「死」があるから「生」があり、「生」があれば必ず「死」もあります。「死」と「生」は表裏一体のものなのです。全ての生物の細胞は毎日死んで、毎日生まれ変わっています。そうやって生物の生命を支えているのです。死と再生を繰り返すことで新陳代謝が生まれ、生命が維持されているのです。つまり、毎日死ぬ細胞があるから、生命は毎日新しく生まれ変わることが出来るのです。それと同時に、毎日のように大人が死ぬことで子どもが産まれてきます。大人が死ななくなったら、世界中に大人ばかりが溢れてしまい、子どもが生まれてくる余地がなくなってしまいます。よく、不老長寿を願う人がいますが、実際に人が死ななくなったら、世界は老人ばかりになり、子どもが産まれなくなり、人類は活力を失い、やがてミイラのような状態で生きることになるでしょう。それが幸せな社会であるとは思えません。もっともそれ以前に、人口が増えすぎて食料が枯渇してしまうと思いますけど。「死」は苦しくて、遠ざけたいことですが、時が来たら受け入れなければならないことでもあるのです。でも、現代人は「死」を恐れ、遠ざけようとするばかりで、「死を受け入れるための哲学」を持っていません。医学においては「死」は「敗北」を意味します。だから、生きているか死んでいるか分からないような状態でも管をいっぱい付けて、死なないようにします。その努力が無意味だとは思いませんが、でも、どこかで「神様に生命を返す限界」を肯定的に受け入れる必要もあるのではないでしょうか。「死」があるからこそ「生きていること」が大切なことになるのですから。生物界においては、生命というものは子どものためにあるものです。ですから多くの生き物が子どもを生んだ後、また子どもを生むことが出来なくなったら死を迎えます。自然界には「老人」は存在していないのです。ただ人類だけが、子どもを生むことが出来なくなった後も長く生きることが出来るようになりました。だから文化や文明が生まれた、という説もあります。「老人」という存在が子育てや、文化や、文明の発生と継続に大きな役割を果たしたのです。若い大人達は毎日の生活が忙しいので、子どもの相手をする時間も、子どもを見守る時間も、子どもに色々なことを教える時間もありません。そういうことは、一線を退いた老人達の仕事だったのです。つまり、「老人の発生」は同時に「教育者の発生」だったのです。年寄り達は食料をとることも、敵と戦うことも、何かを生産することも苦手です。だから、現代では年寄り達は「弱者」として保護されています。でも、年寄りが子どもや大人に様々なことを教える教育者として機能していた時代には、年寄り達は感謝され、尊敬されていたのです。そして実際、「人間を育てる」という面では老人達は若い大人に勝っていたのです。なぜなら老人達は、全体を俯瞰する目を持ち、子どもの成長に合わせて待つことが出来たからです。そして、自分たちの残り少ない生命を子どもたちに与えることが出来ました。それがまた老人にとっての希望でもあったのです。ですから、「サンタクロースという老人が、子どもたちにプレゼントを与える」という出来事には非常に象徴的な意味が含まれているのです。でも、今の老人達は社会にお世話をかけながら、自分のためだけに時間を過ごしています。それでも何らかの「生き甲斐」を持っている人はいいのですが、そうでない人はただ「余命」という貯金を切り崩して生きているばかりです。その先には希望がありません。だから待てないし、暴走するのです。また、クリスマスを象徴するものに「プレゼント」があります。子どもたちに「クリスマスって何の日」と聞くと「プレゼントをもらう日」と答えます。でも、これは間違いです。クリスマスは「プレゼントをもらう日」ではなく、「プレゼントをあげる日」なんです。「プレゼント」とはそういう意味です。クリスマスが「プレゼントをもらう日」なら、子どもは「もらうだけ」、大人は「あげるだけ」になってしまい、その関係性が一方的になってしまいます。それでは大人は損をするばかりです。だから、「サンタさん」からではなく、「お父さんからのプレゼント」にして子どもから「感謝という見返り」をもらおうとしてしまうのです。でも、サンタさんは一切の見返りを求めません。よく「いい子にだけプレゼントが来るんだよ」というようなことを言う人がいますが、サンタクロースはそんなことは言わないはずです。なぜなら、サンタクロースは、子どもたちを「よい子にするため」にではなく、「全ての子どもたちの幸せを願って」プレゼントを配っているからです。「よい子」にしたいのは親です。サンタクロースはただ幸せを願っているだけです。なぜならそれがイエス・キリストの願いでもあったからです。実際、「子どもをよい子にするためのプレゼント」なら、サンタクロースなどという匿名の人物ではなく親の名前で渡した方がずーっと効果的なはずです。「いい子にしていないとプレゼントをあげないよ」と脅すことも出来るでしょう。でも、何の見返りも求めないのが「サンタクロースのプレゼント」なんです。そして、実はこの「見返りを求めないプレゼント」の精神こそが、みんなが幸せに生きることが出来る社会を作るためには絶対に必要なのです。これは必ずしもキリスト教とは関係がありません。昔の人が地獄と天国の違いをうまく「お話」にしています。長い箸を持ってごちそうを自分が食べようとしているのが地獄で、同じ長い箸で前の人に食べさせてあげるのが天国だというのです。見返りを求めず、他の人にプレゼントするから、周り回って自分にもプレゼントが還ってくるのです。それが天国のシステムです。でも、みんながもらうことばかりを考えていては、結局誰もプレゼントをもらうことが出来なくなってしまうのです。それが地獄のシステムです。ですから、子どもたちがみんな、プレゼントをもらうことばかりを期待するようになり、プレゼントあげることをしなくなったらこのこの世界は不幸になるのです。どうか、皆さんもクリスマスを「プレゼントをもらう日」ではなく、「プレゼントをあげる日」にして下さい。子どもたちもまた、お友達にプレゼントをあげるよう、お母さんと一緒にプレゼント作りを楽しんでみて下さい。では、良いクリスマスイブをお過ごし下さい。メリー・クリスマス
2023.12.24
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世の中には「迷子になりやすい人」と「迷子になりにくい人」がいます。「全体の中での自分の位置」を確認するための地図や方位磁石を持たず、目先の興味や、その時の気分で行動している人は迷子になりやすいです。でも、地図や方位磁石を持っていて、常に「全体の中での自分の位置」を確認しながら行動している人は迷子になりにくいです。地図や方位磁石といったものではなくても、遠くの山や、太陽や、星の位置などといった「普遍的なもの」に意識を向けることが出来る人は迷子になりにくいです。実際、昔の船乗りや旅人はそのようなものを頼りに迷子にならないようにしていたのですから。そういうものに意識を向けていない人は迷子になりやすいのですが、でも、そのような人は迷子になっていてもは自分が迷子になっていることに気付きません。気付くためのきっかけを持っていないからです。そのことに気づくのは、どうしようも出来なくなってからです。興味に任せて色々歩いて夕方になり、「さて、そろそろ帰ろうか」と思ったときに、「あれ、ここはどこ?」「どうやって帰ったらいいの?」ということに気付きパニックになるのです。子どもはそうやって迷子になります。これは大人でも同じです。そんな迷子になりやすい人の特徴は、「動かないもの」や「普遍的なもの」ではなく、「自分が興味を感じたもの」だけを基準にして歩いているということです。赤い自動車が停まっている所を曲がって、美味しそうなパン屋さんの前を通って、面白そうな商店街を通って、ということは覚えているのですが、同じ道でも前に進んでいるときと、帰るときとでは違って見えるものです。そういう体験ありますでしょ。行きと帰りとでは光の加減が違います。行くときには見えていたものでも、帰りには見えなくなっているものもいっぱいあります。見ている方角が違えば違う景色が見えてしまうからです。また、夕方になると閉まってしまうお店も出てきます。人の流れも変わります。町の雰囲気も変わります。だから、自分が来た道を想い出せなくなってしまうのです。そして、現代人はもうすでに立派な「迷子」になってしまっています。でもまだそのことに気づいていません。どうしてそういうことが言えるのかというと、「子ども」や「自然」といった太古の昔から変化せず、人々が普通に共存して暮らしてきたものに対してすら違和感や嫌悪感を感じる人が増えてきたからです。「道」を伝えてくれていた様々な伝承や、人と人のつながりも消えました。現代人は「変化するもの」ばかりに興味を持っています。「変化しないもの」には興味がありません。そしてさらに変化を求めて色々な活動をしています。ゲームは変化することで子どもの興味を引きつけています。「変化することは進歩すること」だと思い込んでいます。そうして、「どっちに進んだらいいのか」ということは考えずに、ただ前に進むことだけに夢中になっています。そうやって、社会もどんどん変わってきました。価値観も、生き方も、感覚も、考え方もどんどん変わってきました。でもその結果、人々は「普遍的なものを感じる感性」を失い、迷子になりました。自分に自信がない、どう生きたらいいのか分からない、どう子どもを育てたらいいのか分からない、子どもとどう関わったらいいのか分からない、という状態の人がドンドン増えているのは、現代人が迷子になってしまっている証です。
2023.12.23
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現代人は「人間が創り出した人工的なもの」に取り囲まれて生活しているうちに、「命の働きや子どもの育ちにとって本当に大切なこと」が分からなくなってしまったようです。人間がまだ自然と共に生きていた時代は、人間は「思い通りにならないもの」と共存して生きていました。思い通りにならないからといってただ諦めるのではなく、そのものと丁度良い関係を築きながら生きてきたのです。時にはその「思い通りにならないもの」をうまく使って生活を豊かにするような工夫もしていました。それは寒さや暑さに対しても、雨や風に対しても、熊などの野生動物に対しても同じです。寒い土地で生活していた人は、様々な形でその寒さを利用しながら生きていました。「雪が多いから」とただ諦めるのではなく、もっと積極的に生活の中で雪を利用しようともしていました。これは、遊具に依存しない子どもの遊びでも同じです。広場があれば走り回って遊びます。広場がなくて崖しかない場合でも、「広場がないから走り回れない」と遊ぶことをやめるのではなく、今度は崖を使って遊び始めます。広場も崖もなくて海や川しかなければ、海や川を使って遊びます。商店街や住宅地に住んでいて広場も、崖も、海も川もない子は、自分が住んでいる町を使って遊んでいました。そして、そのような適応能力の高さが人間の、そして命の働きの特徴でもあるのです。でも、遊具がある公園で遊ぶことに慣れてしまった子は、そのような適応能力を失っていきます。ゲームでばかり遊んでいる子も適応能力を失っていきます。そして次第に、遊具がないと遊べない、ゲームがないと遊べない状態になっていきます。実際、今、そういう状態の子がいっぱいいます。そういう状態の子は感じることも、考えたり、理解したり、判断し自分の意志で行動する事も苦手です。自然の中に連れ出しても、何をしたらいいのか分からず「退屈だー、帰りたい、ゲームで遊びたい」などと言い続けます。ただし、子どもにそのような影響を与えるのは、遊具やゲームだけではありません。科学が作り出した便利な機械や、便利な生活も、子どもを同じような状態に変えてしまいます。そして、これは子どもだけの問題ではありません。大人にも同じような影響があるからです。科学という強大な力を手に入れた人間は、その相手や環境と共存するのではなく、自分の好みや都合に合わせて相手の方を変えようとし始めました。でも、どんな強力な科学力を使っても、変えることが出来るのは目の前の「部分」だけです。「全体」をコントロールすることは出来ません。そもそも、人間にはその「全体」が見えません。人間もまた自然の一部分に過ぎないからです。今現在起きている環境問題は、人間が「自然と共存する生き方」をやめ、「自然を支配する生き方」しか考えなくなってしまった結果です。茅ヶ崎の北部に、土地の山や自然を利用した里山公園があるのですが、その里山公園を作るときも最初の計画では、今ある山や自然を一度壊して、役所が作った設計図通りに山や自然に作り替えて「里山公園」を作る予定だったそうです。その計画を知った地元有志の人が、「それはおかしい」と声を上げ反対運動した結果、昔からあった自然をそのまま生かすような形で里山公園が作られたそうです。ということをその反対運動に関わった人から直接聞きました。問題は、同じようなことが子育てや教育の現場でも起きてしまっていることなんです。現代人は、自然のままの状態で産まれて、自然のプログラムに従って成長している子ども達と共存する方法を選ばずに、しつけや教育を通して、幼い子ども達を大人にとって都合の良い状態に作り替えようとしています。そして、それが可能だと思っています。でも、そのような試みはことごとく失敗しているのではないでしょうか。確かに、部分的、一時的には成功したかのように見えることもあるのですが、子どもが自分自身の主人公であることが出来なくなり、精神的に自立して生きることが困難になってしまうからです。そのような状態の人は常に不安を感じています。そして、何かや誰かに依存しようとします。
2023.12.22
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自然界は「美しいもの」に満ちています。観光地まで行かなくても、山や森に行かなくても、家の周りにも「美しいもの」がいっぱいあふれています。太陽の光に照らされて光る雲、道ばたの草花、街路樹の木漏れ日、風に揺れる木々や葉っぱ、夕焼け、朝早く日が昇る少し前の空、子どもの笑顔、この時期なら紅葉、地面に落ちた色とりどりの落ち葉などなど書き出したらきりがありません。そして私はいつも、そういうものを見て「美しいな」と感じるたびに「人はなぜ美を感じることが出来るのだろう?」「人間にとって美とは何なのだろう?」と考えてしまうのです。この「美」を感じる感性がなければ、文化も文明も生まれなかったでしょう。宗教や科学も生まれなかったでしょう。人々が平和を求めることも、真・善・美を求めることもなかったでしょう。「頭がいい」ことを人間の特徴として上げる人もいますが、人間以外の生き物だってみんな考える能力は持っています。じゃないと生きられないからです。カラスは小学校低学年程度の知能を持つといわれています。知能の形にも色々とありますから単純な比較は出来ませんが、論理的に考える能力においてはそのくらいの能力を持っているようです。「自分という意識」を持っているかどうかを「人間」と「他の生き物」を分ける基準として考える人もいますが、イヌや象やイルカなどは「自分という意識」を持っている可能性が高いと言われています。「言葉」は人間以外の生き物でも持っています。植物でさえ独自の「言葉」でコミュニケーションを取っているという説もあります。二足歩行することが出来る生き物はいっぱいいます。道具を使う生き物だっていっぱいいます。ですから、これらのいずれの能力も、「人間」と「人間以外の生き物」を分ける決定的な違いにはならないのです。でも私は、「美を感じ、美を求める感性」だけは人間固有のものなのではないかと思っています。「〝美〟を感じ、それを求めようとする欲求」こそが、人間を人間たらしめているのではないかということです。クモは美しい蜘蛛の巣を作りますが、クモ自身は美を求めてあのような巣を作っているわけではありません。効率よく餌をつかまえるためにあのようなデザインになってしまっているだけです。自然は美しいですが、意図的に美しくなるように作られているわけではありません。自然は「あるがまま」にあるだけです。「あるがまま」という自然原理が全ての存在をつなげ、調和させ、結果として一番無駄のない形を創り出しているのです。そして、人間はそこに「美」を感じます。それはいわゆる「機能美」と呼ばれるものです。蜘蛛の巣の美しいのも、イルカの流線型が美しいのも、蝶の羽が美しいのも機能美です。そして、西洋の人たちは、この「機能美」に強く反応しました。でも人は、「自然の働きそのもの」にも「美」を感じます。そこに「命の働き」を感じるからなのでしょうか。そして、「美を感じる感性」を生み出しているのも「命の働き」です。人は、自分の命の働きと響き合い、それを活性化させてくれるようなものにも「美」を感じるのです。「頑張っている人」を見て「美しい」と感じるのも、自分の中の「命の働き」が活性化されるからなのでしょう。人は、美しく咲いている花に美を感じるだけでなく、ありのまま生きている葉っぱだけの姿にも美を感じます。ただし、この「命の働きが生み出す美」を感じる能力には大きな個人差があるような気がします。生き生きと遊んでいる子ども達に「美」を感じる人もいますが、単に、「騒がしい」と感じるだけの人もいますから。日本人は世界的に見ても、「自然が創り出す美」を感じる感性が高いですがそれもまた、日本人が「命の働きが生み出す美」を感じる能力に優れているからなのでしょう。(現代人は大分低くなってしまっていますけど。)昔の日本人は「人工的な美」よりも「自然の働きを感じる美」の方を好んだようです。いずれにしても、そんな「自然」を美しいと感じるのは人間だけです。人間の中の「何か」が〝美〟と共鳴するのです。そして人が「美」だけでなく、「真」や「善」を求めるのも、そこに「美」を感じるからです。実は、「真・善・美」の三つは根底的なところでつながっているのです。
2023.12.21
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人は色々なことに対して、「先入観」で考えたり、行動したりしています。そして、その先入観に合っているならすぐに信じてしまいますが、先入観に合っていない時には、どんなに証拠を見せられてもなかなか信じないものです。面白いことに、大人であっても自分の先入観に合っているなら、どんなにおかしな事でも平気で信じてしまうのです。だから、簡単にデマに流されたり、詐欺に引っかかるのです。人はそれが「事実かどうか」を、自分の「先入観」に照らし合わせて判断しているのです。でも、その先入観が「事実であるかどうか」ということはなかなか疑わないものです。人間というものは本来的に非科学的な生き物なんです。大人達は「科学が言っている事は絶対に正しい」という先入観を持っています。だから簡単に科学的な言葉を使った、非科学的な嘘に引っかかってしまうのです。でも、実際には科学が言っている事も時代によってコロコロ変わっています。そしてその先入観は、その人が受けた教育や、それまでの人生体験によって作られています。ですから、人それぞれです。国や文化が違っても先入観は異なります。それはつまり、この世界にはそれだけいっぱい「事実」があるということです。人を騙す人ばかりの中で育った人は、人を見たらみんな「嘘つき」に見えるでしょう。でも、人を信じる人ばかりの中で育った人は、人の言うことは素直に信じるでしょう。この世界にはその先入観の数だけの「事実」が存在しているのです。人は先入観が作った世界を生きているのです。だから、イスラム教徒とキリスト教との対話が難しいのです。「子どもは嘘つきだ」「子どもは怠け者だ」という先入観を持っている人は、子どもの言葉や行為を信じません。そのような人に、「子どもは嘘つきなんかじゃないよ」「怠け者なんかじゃないよ」と納得させるのは困難です。どのように説得しても、その説得の言葉すら、先入観で解釈されてしまうからです。このように人は先入観の世界を生きているのですが、これは大人だけでなく、子どもも同じです。ただし、大人の場合はその人がこれまで受けてきた教育や人生体験によってその先入観が作られているので人それぞれですが、7才前の子どもの先入観を創り出しているのは「子どもの成長を支えている命の働き」なので、基本的に世界共通です。それは「大人の言うことは正しい」「お母さんやお父さんは自分を守ってくれる」というような先入観です。また、自分が生まれてきたこと、生きること、成長することを肯定するような先入観も持っています。そこには文化的な違いはありません。子どもたちは世界共通の世界に生きているのです。その先入観の世界には「嘘」というものは存在していません。裏も表も存在していません。子どもには「疑う能力」がないのですから。だから子どもはお母さんやお父さんの言うことをそのまま信じます。そして、だから簡単に「大人の嘘」に引っかかるのです。子どもに「あやしい人の言うことを信じないように」と言っても無駄なんです。確かに、子どもはしょっちゅう「現実とは異なること」を言いますが、でも子どもはそれを「嘘」だとは思っていません。逆に言うと、「うさぎさんとお話しした」というのは「心象的な事実」です。また、片づけをしていないのに、お母さんに「片づけたの?」と聞かれた時、「片づけたよ」と答えるのも「嘘」だとは思っていません。大人にとっては「悪い嘘」であっても、子どもには「嘘をついている」という認識はないのです。子どもはただ、そう言うとその場をうまくやり過ごせるということを体験的に知っているだけです。それはお母さんが、「後でお菓子を買って上げるから泣くんじゃない」とその場しのぎのことを言うのと同じです。だから、お母さんがその場しのぎ的なことばかり言っていると、子どももまた、同じような方法を使うようになります。でも、子どもはそれを「嘘」だと認識しているわけではありません。お母さんもいつも使っている方法だからです。だから、「嘘を言うんじゃありません」と言われても、キョトンとしてしまうのです。また、お母さんが冗談で「あんたは橋の下で拾ってきたんだ」とか、「いい子にしていないと嫌いになっちゃうよ」などと言うと、子どもはそれもそのまま信じます。「勉強しないと、学校に行かないと将来・・・」と脅かせばそのまま信じてしまいます。「歯を磨かないとそのうち・・・」という脅かしもそのまま信じてしまいます。疑うという能力を持っていない子どもには、それを「冗談」だと認識することができないのです。だから子どもにそういうことを言ってはいけないのです。また、虐待を受けている子は、お母さんではなく、自分の方が悪いと思い込んでいます。なぜなら、「どんなことがあってもお母さんは自分を守ってくれるはずだ」という先入観があるからです。だからこそ「大人が子どもに何を語るのか」ということが非常に重要になるのです。その時、「科学的な事実」だけを語ろうとする人がいますがそれは無意味です。科学的に見たり、考えたりすることが出来ない時期の子どもに、科学的なことを言っても子どもはその言葉を理解することが出来ません。ただ、大人の言葉をそのまま信じるだけです。ですから、それは「なぜ?」を考える科学の教育にはならないのです。サンタクロースを信じている子より、「そんなの嘘だ」と言う子の方が科学的であるなんて事は全くないのです。両方ともただ大人の言葉を信じているだけなのですから。それよりも、子どもたちには「この世界は素晴らしい」、「君の未来は明るい」、「人間は素晴らしい」、「全ての生命は仲間だ」ということを語って上げて欲しいのです。幼い頃にそのような言葉を聞かされて育った子どもは、そのような先入観を持って生きるようになります。そのような子どもと、「嘘を言うんじゃありません」と「人間は嘘をつく」という先入観を植え付けられた子どもとではどちらの子の方が幸せな人生を送ることが出来るでしょうか。「知らない人に近づいてはいけない」とか、「おかしな人が寄ってきたら逃げなさい」というようなことを聞いて育った子は、「人間は信じることが出来ない」という先入観を持つようになるでしょう。そして、7才までに体験を通して身につけた先入観は、一生その人の先入観として働き続けるのです。問題はもうすでにそのような否定的な先入観を持った大人ががいっぱいいると言うことです。そのような人は、子どもたちに肯定的な先入観を与えることが出来ません。
2023.12.20
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幼い子どもたちは大人を信じています。「大好きよ」と言われれば素直に信じます。「嫌いよ」とか「あんたはバカだ」などと言われても素直に信じます。幼い子どもに冗談は通じないのです。昔の親は冗談で「あんたは橋の下で拾ってきたんだ」などと言いましたが、そんなありえない話でも、大好きなお母さんの言葉なら信じてしまうのです。なぜなら、幼い子どもには「疑う」という能力がないからです。どうして「疑う」という能力がないのかというと、頭の中や心の中がまっさらだからです。全く日本語を知らない外国の人に、「日本では朝、ドドンパと挨拶するんだよ」と教えたら、そのまま信じてしまうでしょう。疑うための根拠を持っていないからです。皆さんも、なにも知らない外国に旅行に行ったら、まずガイドの言うことをそのまま信じますよね。そして実は、幼い子どもが大人の言うことを何でも信じてしまうのはそれと同じなんです。そして、ガイドを信じることで「安心」が生まれ、もっと色々と見てみたい、行ってみたい、やってみたいと思うのです。でも、ガイドがお客の気持ちを考えずに自分の都合だけでお客を振り回したら、お客はガイドのことが信じられなくなってしまうでしょう。そして、信じられないガイドに従って歩く旅は不安に満ちたものになってしまうでしょう。ちなみに、お母さんや子どもの周囲の大人は、子どもにとってその「ガイド」に相当します。また、そのような体験をした人は、「本当のこと」を言う人の言葉も信じなくなってしまうでしょう。人間は「過去の体験や過去に学んだこと」が、「新しいことが真実かどうかを判断する基準」になっているため、その過去に体験したり学んだりしたことを信じることが出来ない人は、新しいことが真実なのかどうかを判断することが出来なくなってしまうのです。一度だまされ傷ついた人は疑り深くなってしまうのです。善悪の区別も付かなくなります。人生という旅の最初に、困ったガイドに導かれて育った子は不安が強くなり、いつまで経っても一人で歩けるようにはならないでしょう。また、新しいガイドが来ても、最初は疑ってかかるでしょう。そのため、新しいガイドとの関係もうまく作れなくなってしまう可能性も高いです。そんな旅のガイドの一番大切な役割は「安心」を与えることです。様々な情報を与えるのも、「行ってみたい」、「やってみたい」などの好奇心を引き起こし、自分が導き手になってお客が安心してその旅に出かけられるようにするためです。ただ、知識を得るだけなら、ガイドブックを読めば分かるのですから。ガイドが安心を与えずに、「汚いよ」「サギや泥棒に気をつけて」などと不安に感じるようなことばかり言っていたら、旅行者は部屋やホテルから外に出なくなってしまうでしょう。実際には、色々と危険なこともあるでしょうが、そういうことは、対応の仕方も含めてその都度その都度、その場で教えてあげればいいのです。そしてこれは子育てでも同じなんです。お母さんは子どもにとって、人生という旅を始めるに際して最初に出会う人生ガイドなんです。そんな、人生最初のガイドの役割は、子どもに安心と希望を与えることです。知識を教えることではありません。知識は後からでも学ぶことが出来ますが、人生の最初に安心と希望を得ることが出来なかった子は、その先の旅に進むことが困難になってしまうからです。子どもは、その成長のステージが進むに従って新しいガイドが必要になります。その時、人生最初のガイドと良い関係を築けた子は、新しいガイドとも良い関係を築くことが出来ます。そして次のステップに進むことが出来ます。でも、・・・・・。
2023.12.19
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私たちはもっと「芸術」の持つ意味と、働きと、大切さについて気付くべきだと思います。現代人は「脳の能力」にばかり関心を持っていて、「脳の能力」が高ければ人間としても優秀だと思い込んでいます。そのため、子育てでも教育でも「脳の能力」を育てるようなことばかりをやっていて、「人間として」とか「人間らしさ」という視点が全く失われてしまっています。そして、高い「脳の能力」を持っていながら、その能力の使い方が分からず、ただ欲望を満たすためだけにその能力が使われてしまっています。だから、文明が暴走し、こんなにも自然が破壊されてしまっているのです。先日もテレビで、「老人にテレビゲームをやらせたら脳の機能がアップした」というニュースをやっていました。キャスターは「子どもの時にこのことを親に言いたかった」というようなことを言っていましたが、ここには大きな落とし穴があります。確かに、ゲームには脳の機能訓練的な機能があります。それは、今更ニュースで流さなくても、とっくの昔から様々な実験を通して分かっていることです。でも、すでに完成している大人の脳に対する影響と、今成長しつつある子どもの脳に対する影響は同じではありません。それは、エンジンのチューニングをするのと、エンジンそのものを作るのとは全く違う行為であるのと同じ事です。出来上がったエンジンをチューニングしたら性能がアップしたからと言って、まだ出来上がってもいないエンジンをチューニングしても性能はアップしないのです。アップしたとしても、それは「パーツの性能」であって、エンジンそのものの性能ではありません。ましてや、パートの性能にばかりこだわり、全体を育てることを忘れてしまったら意味がないのです。そしてゲームは、パーツの育ちには有効ですが、全体の育ちに対しては逆に否定的に働いてしまうのです。そのエンジンの育ち(全体の育ち)を支えているのが「能動的意志」の働きです。人間の成長においては、この「能動的意思」が様々な機能よりも先に目覚め、子どもの成長を促すようになっているのです。それは転んでも転んでも立ち上がって、またニコニコと歩き出す赤ちゃんを見ていれば分かります。人間の成長においては、「歩く」という能力よりも先に、「歩きたい」という気持ちが目覚める必要があるのです。この順序を大切にしないと、子どもは自分で自分の成長を支えることが出来なくなるのです。その能動的意思の目覚めを無視し、大人の都合によって調教や訓練のような働きかけによって機能訓練をしても、その効果は一時的です。長い目で見たら子どもの自立を妨げてしまうのです。「やる気」がなければ、大人が色々とあの手この手を使って子どもの脳の機能を高めても、思春期が近づくにつれ次第にその機能は失われて行きます。本人の意思とつながらない機能は萎えていくのです。逆に、「やる気」があれば、今は大した能力を持っていなくても、繰り返し努力することでその能力を高めることが出来るのです。テレビゲームなどで「脳の機能」を育てるような場合、「テレビやゲームの面白さ」といったものが本人の「やる気」を引き出しますが、でも、その「やる気」は本人の内側から出たものではなく、テレビやゲームに依存したものなので、能動性ではなくむしろ受動性や依存性を育てる結果になります。それは、ゲーム漬けの子にゲーム以外のことをやらせてみればすぐに証明できることです。ただ、その事実はあまり大きくマスコミが扱わないので、みんな知らないだけです。そして、ゲームをやるときにしか使えない能力なら、それがどんなに高度な能力でも「自立した一人の人間」として自分の人生を生きていくときには無意味なんです。じゃあどうやったらその「能動的な意思」を育てる事が出来るのかということですが、そこで「芸術」というものが意味を持ってくるのです。ただし、この「芸術」には自由意思に基づく様々な表現活動や造形活動も含みます。ですから「機械に依存しない遊び」も「芸術」です。逆に、自由意思に基づかないものは、それが絵画であろうと、歌であろうと、劇であろうと、それは私が「芸術」として扱っているものではありません。古来より、「芸術」には、「心の世界」と、「生命の世界」をつなぐ働きがありました。この「つなぐ」というのが「芸術」と呼ばれるものの一番大きな特徴であり、働きなのです。ですから、それは単なる表現活動とは違います。絵を描いても、歌を歌っても、その行為によって「心の世界」と「生命の世界」がつながらないのなら、それは芸術行為ではないのです。AIがどんなに素晴らしい絵を描いても、それは「作業」であって「芸術的な行為」ではないのです。どんなに歌が上手でもカラオケで歌う歌は芸術ではないのです。でも、それほど上手ではなくても、人の心に響く歌は芸術です。絵を描かなくても、歌を歌わなくても、雲の姿や、風の音や、鳥のさえずりや、野に咲く花々に心を動かすことが出来るなら、それは芸術行為なんです。子どもはお母さんとつながりたくて、言葉を話したり、歩いたりし始めます。それが子どもの成長を支える「能動的な意思」です。「芸術」を失った社会は「つながり」を失った世界です。
2023.12.18
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人は「芸術的行為」の中で、自分がどれだけ自由であるのか、それとも自由ではないのか、ということを確認することが出来ます。子ども達の前に20kgの粘土の固まりをドンと置いて「自由に遊んでいいよ」と言ったとき、「やったー」といって、喜んで何かを始める子と、「何を作ったらいいのか分からない」と言って、何も出来ない子がいます。画用紙を渡して、「自由に描いてもいいよ」と言ったときも、それを喜ぶ子と、どうしていいのか分からない子がいます。大人でも、一週間の休暇を与えられて喜ぶ人もいれば、退屈してしまう人もいます。人は、いつも「自由になりたい」と願っているのに、実際に自由を与えられたらどうしていいのか分からず、不安になってしまうのです。そのため、無意識的に自分から束縛を求め、指示命令を与えてくれる人や場を求めています。指示や命令に従うことで自分の頭で考え、自分の感覚で感じる必要もなくなり、居場所を得ることもできるので、安心するからなのでしょう。不思議なことに、それなのに「自由になりたい」と言うのです。もしかしたらそれは「ストレスからの自由」という意味なのかも知れません。現代人が求めている「自由」とは、本当の意味で「自分自身が自由になること」ではなく、単に「ストレスがなくなること」だけなのかも知れません。でもそれを「自由」と言えるのかどうか・・・・。子育て真っ最中のお母さん達も同じです。「忙しい忙しい」、「自由になりたい」とは言いますが、「じゃあ自由になって何をしたいの」と聞いても、答えが返ってきません。多分、本質的には指示や命令を与えてくれる生活がしたいのでしょう。ただ、もっと簡単な指示が欲しいだけなんでしょう。「子育て」では誰も指示や命令を与えてくれません。教科書もマニュアルもありません。何時に起きて、何時に食事をして、何を食べ、どこに行くのかということは自分で決めることが出来ます。お母さん達は「やらなくてはならないことがいっぱいあるから忙しい」と言いますが、実際には「どれをやって、どれをやらない」ということも自分で決めることが出来ます。「片付けが忙しい」と言う人もいれば、「片付けは適当にやっています」と言う人もいます。「あれもしなければ これもしなければ」と言いますが、実際には「どうしてもしなければならないこと」はそれほど多くはないはずです。でも、会社に勤めているときには「やらなければならないこと」は上から与えられるので、自分の判断で「やーめた」ということは出来ません。食事の時間も決まっています。そう考えると、本当は「子育て」は非常に自由な活動のはずなんです。お母さん達は「自由になりたい」と言いますが、本当は、もうすでに自由なんです。でも、その「自由」とどう向き合ったらいいのか分からないから、不自由になってしまっているのです。本当の意味の「自由」とは、「何もしなくてもいい」という状態のことではなく、「やるべきこと」を、自分の心と頭で考えて、自分の心と感覚で感じ、自分の意志と責任で行うことが出来ることなんです。それが出来る人は、「やるべきこと」がいっぱいあっても自由なんです。「自由」とは「与えられるもの」ではなく「自分で創り出すもの」なんです。禅宗ではその状態を「随所作主」と言います。「自分が自分の主人になる」というような意味です。子どもとの遊びでも同じです。「自由」を使いこなせれば、子どもと一緒の時間は非常に楽しいものになるのに、「自由」の使い方が分からないので、ただ耐えるしかなくなってしまうのです。それは苦しいです。実際、「子育てが苦しい」「子どもと一緒の時間が苦しい」と言っている人もいっぱいいますが、同じような状況なのに、「子育てが楽しい」、「子どもと一緒の時間が楽しい」と言っている人もいっぱいいます。それは真っ白い画用紙を与えたとき、「嬉しい」と言う子と、「何を描いたらいいのか分からないから苦痛だ」と言う子の違いと同じです。この違いを生み出しているのが、「その人の心や、感覚や、意識や、からだが、どれだけ自由なのか」ということなのです。そして、子ども達のその「自由」を育てるために必要なのが「芸術的な活動」なんです。ただし、この「芸術的な活動」というのは、絵を描いたり、踊ったりというような「芸術的な行為」をすることだけではありません。歩くことでも、お料理することでも、遊ぶことでも、勉強でも、仕事でも、創造的、芸術的に行うということです。どんなことでも、「正解」を決めなければ、創造的、芸術的に取り組むことができるのです。小さな子ども達は常に創造的、芸術的に遊んでいます。子どもの遊びには「正解」がないからです。だから、大人の目には意味不明なことばかりをやっていますが、楽しいのです。「子育て」にも正解はありません。だから、芸術的に取り組むことが出来る人には「楽しい活動」になりますが、それが出来ない人には「苦しい作業」になってしまうのです。そのようなとき、「どうやったら子育てが楽しくなるか」とか、「どうやったら子どもと一緒の時間が楽しくなるか」ということを考え、工夫し、実践するのが「芸術的な子育て」につながっていくのです。そして、そのような意識を持つことで、自分自身が自由になっていくのです。
2023.12.17
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五感の働きとしての「感覚」は、基本的に「生まれつき」です。でも、「味わう」という感覚の働きは、育ちの過程で育つものです。なぜなら、この「味わう」という感覚の働きは「心の働き」と密接につながっているからです。ですから「心」を持たないAIは、「味の分析」は出来ても「味わう」ということが出来ません。最近のAIは絵を描いたり、小説を書いたり、音楽を作ったりすることが出来ます。歌わそうと思えば歌うことも出来るでしょう。100%音符通りに。でも、創作は出来てもそれを味わうことは出来ないのです。音楽を聴いたり、絵を見たりして涙を流すなんてことは100%ありません。そして芸術は、「それを深く味わうことが出来る人」がいたから、生まれ、発展してきたのです。「創作する人」がいたから発展したのではないのです。お料理も、作る人がいたから発展したのではなく、それを味わうことが出来る人がいたから発展してきたのです。日本人の舌が日本料理を作り出したのです。料理人はその舌に応えただけです。AIが人間のように絵を描いたり、何かを作ったりするとみんなは驚き感心しますが、でも、AIにはこの「味わう」という能力がありません。そのため、「文化の模倣」は出来ても、新しい文化を創造することは出来ないのです。文明においても同じです。文明も、文明が創り出したものを喜び、面白がり、その便利さを感じることが出来る人がいたから発展してきたのです。これは子どもの遊びでも同じです。ただ石を投げて遊んでいるような場合でも、しばらくすると同じ行為の繰り返しだけでは飽きてきます。そして、何か的(まと)になるものを探して投げたり、より遠くに投げようとしたり、水切りをしたりなどと、新しい投げ方を工夫し始めます。仲間がいると、これが遊びになっていきます。飽きる能力があるからこそ、遊びが発展していくのです。そして、この「飽きる」というのも人間だけが持っている「味わう能力」の表れなんです。味わっているからこそ、同じ刺激が続くと飽きるのです。まただから、新しい工夫をし始めるのです。そうやって文化や文明が発展してきたのです。これはAIにはない能力です。でもだからAIは道具として便利なんです。単純な作業の繰り返しを延々とやらせても、飽きないのですから。人間でもある種の障害を持った子は飽きる事が出来ません。そのため、常に単純な作業を延々と繰り返す事が出来ます。そのような子は「味わう」という能力において問題を抱えているのでしょう。味わう事が出来ないからいつまでも同じ事を繰り返すことが出来るのです。でも、いくら同じ事を繰り返しても発見も発展もありません。ただただ同じ事を繰り返すのです。そのため、そのような障害を持っている子は成長も遅れてしまうのです。基本的に幼い子どもはみんな飽きっぽいです。だから、常に新しいものを求めています。大人は「もっと落ち着いて一つの事に取り組め」と言いますが、この「飽きる」という能力があるからこそ、子どもは新しいものを求めて自分の可能性を広げ成長していくのです。これもまた「味わう能力」の表れなんです。人間の「人間としての能力」の素晴らしさは、「創る能力」の方ではなく、「味わう能力」の方にあるのです。そしてその「味わう能力」は、それを味わうことが出来る人との共感によって育つのです。お母さんと子どもが一緒に食事をしている時に、「美味しいね」と子どもと顔を見合わせることで、子どもの「味わう能力」が育って行くのです。そんなさりげないことが、子どもの成長欲求の育ちにまで影響してしまうのです。子どもが食べているときにお母さんが別の仕事をしていたり、無言で食べていたりすると、子どもは「味わう能力」を育てることができなくなってしまうのです。そしてそれは学習意欲にまで影響してきます。でも多くのお母さんがそのことに気づきません。
2023.12.16
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多くの人が「そっくりに描かれた絵」を「上手な絵」だと評します。そして、そっくりに描くことが出来ないと「下手だ」と言います。これは子どもでも大人でも同じです。「そっくり」に描く場合には実物という「正解」があります。その「正解」に近ければ「上手」で、正解から遠ければ「下手」なんです。どうも、現代社会では多くの人が、誰かに与えられた「正解」を基準にしないと、物事の価値を判断できなくなってしまっているようです。そういう人は自分自身の価値観や判断基準を持っていないのでしょう。そういう判断をする人たちにとっては、お母さんの言う「正解」を守れば「よい子」で、先生の言う「正解」を守れば「良い生徒」で、政治家の言う「正解」を守れば「良い国民」ということになるのでしょう。その正解に囚われずに、自分の頭で考え、自分の感覚で感じ、自分の意志で判断し行動する子は「困った子」「困った生徒」「困った国民」になってしまうのです。だから、大人が与える正解を無視して、子どもらしく感じ、子どもらしく考え、子どもらしく行動する子は「困った子」として扱われてしまうのです。また、自分の頭で考え、自分の感覚で感じ、自分の意志で判断した結果「学校には行かない」という判断をすると、その判断の中身の是非を問うことなく、学校は「学校が与える正解」と異なった判断をする子どもや親を「困った生徒」や「困った親」として扱います。「正解」にこだわる親もまた、「学校に行かない我が子」を責めたりします。そのような親は、子どもから「どうして学校に行かなければいけないの」と聞かれても、自分の言葉で答えることができません。ただ「学校は行かなければならないところだから」と「正解」を繰り返すだけです。こういうことと、絵を描くことや様々な芸術活動とは一見関係がないように思えますが、実は密接に関係しているのです。なぜなら、芸術的な活動において大切になるのは、「正解」に囚われずに自分の頭で考え、自分の感覚で感じ、自分の意志で判断し行動する事だからです。これが出来ないと芸術的な活動は出来ないのです。そしてそこに「芸術」の持つ大切な意味があるのです。まただから、子ども達に様々な芸術的な体験を与えるべきなんです。戦争中、権力者によって真っ先に弾圧されたのは自分の感覚でものを言い、自分の感覚で行動する芸術家達です。これは、西洋でも東洋でも同じです。戦争をしようとしている人たちは影響力が強い芸術家達に自由に発言されたら困るので、「言うことを聞かないと命が危険になるぞ」と脅かし、政府の言う「正解」を肯定するような絵を描かせ、歌を作らせたのです。それは今やっている「ブギウギ」という朝ドラの中でも描かれています。でも、正解に合わせて絵を描いても、正解に合わせて歌を作っても、正解に合わせて劇を演じても、楽しくなんかありません。さらに、「自分の想い」を入れ込もうとすると正解とのずれを指摘され、叱られ、矯正させられ、政府のプロパガンダを広めるために利用されます。これは戦争中だけの話ではありません。今でも子ども達は、同じ扱いを家庭の中や、学校で受けています。その繰り返しで子ども達は、自分の頭で考え、自分の感覚で感じ、自分の意志で判断する能力を育てることが出来ないばかりでなく、元々持っていた能力まで失ってしまっています。その結果、幼いときには楽しかった絵を描くことも嫌いになっていきます。絵の描き方が分からなくなります。「自分らしさ」を否定し「上手」に拘るようになります。そして、正解を与えてくれる人に依存するようになります。芸術的な活動の豊かさは、その芸術を支える社会の人たちがどれだけ幸せに生きているのかということのバロメーターでもあるのです。芸術を失ってしまった社会は活力も失ってしまうのです。
2023.12.15
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これもまた「心の育ち」と関係しているのですが、最近、「絵」が描けない子どもたちが増えています。増えてきたというより、描けない子の方が圧倒的に多いです。学校の授業では嫌々でも描きますが、嫌々ですから、当然のことながら家では描きません。確かに「イタズラ描き」や「イラストのような絵」や「マンガ」を描く子はそれなりにいます。でも、そういうものは私が言っているところの「絵」ではありません。普通の幼稚園などの絵の発表を見ると、みんな同じような絵ばかりが並んでいますが、あれもまた「絵」ではありません。お母さん達も、ワークなどで「次回は絵を描きます」と言うと、多くの人が「えー、嫌だ・・・」的な反応をします。そんなワークで写実的に描ける人がいるとみんな「上手だ 上手だ」と言って褒めます。友人が園長を務めていた保育園で、友人が定年になり園長を退いた後、新しく来た園長がそれまでの「絵の先生」を辞めさせてしまったそうです。理由を聞いたところ「褒めるばかりで描き方を指導しないから」という事だったそうです。どうも日本人は「絵」というものが分からない民族になってしまったようです。それはつまり日本人が、「心の世界を楽しむことが出来ない民族」になってしまったからなのかも知れません。それと共に、絵や歌などでも(技術的な)上手下手ばかりを気にするようになりました。プレバトというテレビの番組では、「絵」の上手下手を競わせています。でも本来、「絵」には上手も下手もないのです。あの番組では「絵」そのものではなく「対象を写し取る技術」を競っているだけです。だから、「優劣」を決めることが出来るのです。でも、「絵」の価値が「どれだけ対象を上手に写し取っているのか」ということだけで決まってしまうのなら、ピカソやルソーの絵には価値がないことになってしまうのです。棟方志功や、セザンヌや、モネの絵にも価値がないことになってしまいます。実際、あの番組にはピカソやセザンヌのような絵を描く人は登場しません。確かに「上手な絵」は売れるかも知れません。「子どもの絵」は売れないかも知れません。ですから、社会的な価値においてはそこに上下があります。でも「絵の値段」は「絵そのものとしての価値」とは別のものです。また、上手を競うだけの絵をいくらいっぱい描かせても「子どもの心」は育ちませんが、自分が感じたことや考えたことを素直に表現する絵を描く行為には「子どもの心」を育てる力があるのです。なぜなら、絵を描くことを通して自分の感覚や心と対話するからです。「絵」は本来「自分の心の表現」なんです。心の中にあるものを「視覚的な形」に表現するのが絵なのです。心から出たものだからこそ、人の心に感銘を与えるのです。そしてそれは、「絵」だけでなく、「歌」も、「踊りも」、「物語」も、およそ芸術と呼ばれるようなものはみんな同じです。芸術と呼ばれるものは全て「心の表現」なんです。ですから、ただそっくりに描けた絵より、その子らしく描けた絵の方が「絵」としては上質なのです。その「絵」がどんなにグチャグチャになっていても、その子らしい世界が表現されているのなら、それは立派な「絵」なんです。でも大人達は、その「子どもの絵」の価値を認めません。自分らしさの表現としても歌や踊りも認めません、そして、技術を教え、上手下手を競わせようとします。幼稚園でも学校でも、上手に描いて、上手に歌って、上手に踊るような指導はしても、自分らしく描き、自分らしく歌い、自分らしく踊るような指導はしません。そういうことの価値も教えません。むしろ、自分らしく描き、自分らしく歌い、自分らしく踊ると、「正解はそうじゃない」と指導されてしまいます。感想文でも、本当に自分が感じたことを感じたままに書いてしまうと指導されてしまいます。それは、常に人目を気にしていて「ありのままの自分の心」を表現しようとしない日本人の感性の表れなのかも知れません。日本の教育現場では常に「正解」が提示されるのです。そのため「自分の心を表現するような活動」はさせないのです。そして、そういう教育を受けて育ったお母さん達も、子どもの活動を上手下手だけで評価します。でも、そんなことをしていたら子どもの心は育たないのです。そして心が育たないまま大人になったら、他の人が困るようなことを平気でするような大人になります。そういう人に注意しても、「自分の心と対話する能力」自体が育っていないので、自分の問題点に気付くことはありません。
2023.12.14
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心というものは、見ることも、触れることも出来ません。そのため、「心の育ち」が大切なことだとは分かっていても、その育て方が分かりません。子どもの心がどうなっているのか分からないので、ちゃんと育っているのかどうかの確認も出来ません。そして、目に見える行動や、耳で聞くことが出来る言葉だけを通して子どもの心の状態を確認し、目に見える行動や、耳で聞くことが出来る言葉をコントロールすることで、子どもの心を育てようとしています。「優しくしなさい」と怒鳴れば、優しくなると思い込んでいます。「人に優しくしなさい」と教えれば、人に優しく出来る子に育つと思い込んでいます。だから、道徳教育なるものが存在しているのでしょう。確かに、目に見える行動や、耳で聞くことが出来る言葉は「子どもの心」から出たものではありますが、でも、「出て来たもの」にあれこれ言っても、その本体の心は変わらないし、育てることも出来ないのです。それは、水道の蛇口から出て来た水にあれこれ言っても、肝心の水源の状態が変わらなければ、水質が変わらないのと同じです。浄水器をつければ、最初のうちはなんとかなりますが、やがてフィルターが詰まります。汚れを発生している原因がそのままだからです。この場合の「浄水器」とは、「しつけ」のような直接的な方法のことです。でも、浄水器ならフィルターが詰まったら交換することもできますが、子どもは成長と共に親の言うことを聞かなくなります。それが自然な成長でもあるのですが、その時点で「結果を調整するだけのしつけ」は効果を失ってしまうのです。そして、思春期の訪れと共に、ために貯めた「困ったもの」が一気に吐き出されてしまいます。だから大元の水源をキレイにするしかないのですが、水源は目に見えないところに存在しているし手も届きません。じゃあどうしたらいいのかと言うことですが、そんなに難しく考える必要はないのです。ただ毎日の生活を共にしながら、言葉や、感覚や、考え方や、生活のあれこれを伝えていれば、子どもの心は、必要なことを必要なときに吸収しながら勝手に育って行くのです。そういう生活を大切にしてれば水源は澱まないのです。「優しさ」も、毎日の生活を通して色々な言葉を伝えたり、色々なお話を聞かせたり、「丁寧」を伝えれば勝手に育って行くのです。「優しくしろ」と怒鳴っているだけでは、優しくない子が育ってしまうのです。実は「生活を伝えること」は「心を伝えること」でもあるのです。でも今、その生活が消えてしまっている家庭がいっぱいあるのです。
2023.12.13
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人間の「人間らしさ」のほぼ全てが、人間だけが持っている「心の自由」によって生まれて来ました。歌や踊りや言葉やその他様々な文化も、都市や機械などを作り出す文明も「心の自由」が創り出したものです。ですから、人間が「心の自由」を失えば即座に文化は消え、文明は「人々を幸せにするためのもの」ではなく「個人の欲望を満たすためのもの」になってしまうでしょう。そしてそれは個人レベルでも、国家レベルでも「戦い」を引き起こします。その結果、人間は、自分たちが作り出した文明の力によって滅んでいくでしょう。でも今、社会全体でその「心の自由」が失われ始めています。それと同時に「人間らしさ」を大切にする人も減ってきました。子育ての相談でも、「どうやって子どもに言うことを聞かせたらいいのでしょうか」というようなことを聞いてくる人は多いですが、「子どもの人間らしさをどう育てたらいいのでしょうか」と聞いてくる人はあまりいません。現代社会では、多くの大人達が、子ども達を「自分にとって都合の良い状態」に育てることばかりに熱心なようです。子育ての勉強会で、お母さん達に「お子さんの短所と長所を教えて下さい」と聞くと、「短所」は山のように出てきます。でもその大部分が、子どもの「子どもらしさ」に起因するものばかりです。ご飯をちゃんと食べない、言うことを聞かない、ちゃんと片付けない、ゲームの時間を守らない、勉強しないなどなど、でも、こういうようなことは子どもの成長にとっては普通の事なんです。これが子どもにとっては自然な状態なんです。それはつまり、多くのお母さん達が「子ども達の子どもらしい状態を肯定することができない」ということでもあります。どうしてそういうことになってしまっているのかというと、私たちが暮らしている社会自体が、大人の価値観によって大人のためだけに作られているからです。子どもの子どもらしさや心の自由を肯定するような子育てをしていたら、周囲から白い目で見られてしまうのです。時々、子どもの立場に立って、子どもの視点を大切にして、子どもの「子どもらしさ」を守ろうとしているお母さんもいますが、同じ価値観の仲間とつながって身を守らないことには、現代社会でそのような子育てを実践することは非常に困難です。実際、お母さん達が子どもの長所としてあげるのは「お手伝いをする」「下の子の面倒をよく見る」「ちゃんとお片付けをする」などなど、お母さんにとって都合の良いことばかりです。子どもが「子どもらしさ」を発揮するとそれは短所になり、「子どもらしさ」を押さえて、お母さんの言うことをよく聞いていると長所になるのです。学校の先生も同じ感覚です。また、多くのお母さん達が子ども達を自分の理想に合わせて育てるために、幼いうちから文字や勉強を教えたり、英会話を学ばせたり、様々な習い事に通わせています。こういう状態では「心の自由」は価値をもちません。子どもの「心の自由」を育てようなどとも思いません。そんなことしたら、大人が大切にしている価値観や生活が壊れてしまうからです。でも、「心の自由を育てる機会を失った子ども達」は、自分の感覚で感じ、自分の頭で考え、自分の意志と判断で行動する能力を身につけることが出来なくなります。それは、子どもの「親から離れて自立して、幸せに生きる能力が育たない」と言うことを意味しています。ではなんで、人々が「心の自由」に価値を感じなくなり、「競争に勝つこと」と「物質的な豊かさ」ばかりを求めるようになってしまったのかということです。私はその原因を、現代人が「見ることが出来ないもの」に意識を向け、「聞くことが出来ない音」に耳を澄ますことをしなくなってしまったからなのではないかと思っています。なぜなら、そういうものは科学では扱えないからです。現代人にとっては、科学的なエビデンスがないものには価値がないのでしょう。逆に、科学的なエビデンスがあることなら正しいのです。でも、科学では人の心も、幸せも扱うことが出来ません。
2023.12.12
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昨日は、「からだで学ぶ」ことの大切さを書きましたが、からだを動かすためには「意志の働き」が必要になります。ですから、疲れたり、病気をしたり、眠かったり、失恋したりして、「意志の働き」が萎えてしまうと、からだを動かすことが億劫になります。からだだけでなく、能動的に感じ、考えることも困難になります。そして、そういう状態が長引けば、不安が強くなり自分を守ることばかり考えるようになります。そして、心とからだの状態が不安定になり、色々なことに保守的になり、自分に変化をもたらすようなものを排除しはじめます。知覚が過敏になったり、逆に鈍感になったりします。人間が能動的に、生き生きと生活し、前向きに生きていくためには「意志の働き」が絶対的に必要なんです。意志の働きが萎えてしまっている子に「からだを使った活動」をさせようとしても嫌がります。でも問題は、最近、その意志の働きが育たない状態で肉体だけが成長している子が多いのです。そういう子は「からだを使った活動」を避けようとします。(ただ発散するだけの活動ならしますけど)そのような状態の子は、自分の意思で感じることも、考えることも、行動することも困難です。そして、「反射」だけで感じ、考え、行動しようとします。じゃあ、どうしたら子どもの「意志の働き」を育てることが出来るのか、ということですが、これもまた、昨日書いた「からだを使った生活」や「からだを使った遊び」を通してなんです。ただし、「からだを使った活動」というと、現代人は「スポーツ」を思い浮かべるかもしれませんが、スポーツでは「意志の働き」を育てることは出来ません。なぜなら、「スポーツ」には「自由」がないからです。あったとしても「ルールの中での自由」「指導者によって与えられた自由」だけです。それは「塗り絵」のような自由です。子どもは下絵の線が描いてある絵に自由に色を塗ることが出来ます。だから楽しいのでしょうけども、「塗り絵」に慣れてしまった子は、ゼロから「自分の絵」を描くことが出来なくなります。そして、こういう「与えられた自由」では「意志の育ち」を支えることは出来ないのです。子どもの「意志の育ち」を促すために必要なのは、ただの「からだを使った活動」ではなく、「自分の意思で自由に感じ、考え、判断した結果としてのからだの活動」なんです。そしてそれこそが「遊び」なんです。子どもたちの感覚や、心や、頭や、からだ全体を使った自由な遊びが、子どもの「意志の働き」を育てているのです。でも、大人たちは大人にしか価値がないものを身につけさせるために、子どもたちから、そのような「子どもの育ちを支える自由な遊び」を取り上げてしまいました。
2023.12.11
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子どもを愛せない、子どもを信じることが出来ないと告白してくださる方はいっぱいいます。昔にもそのような人はいたのでしょうが、今の日本ではそのようなお母さん、お父さんがどんどん増えているような気がします。それがまた幼児虐待の急増ともつながっているのでしょう。でも、それが社会全体での傾向ならその原因は個人的なところにではなく、社会的なところにあると考えるのが正しい理解なのではないかと思います。その理解がないと個人を攻撃するだけで終わってしまいます。そして、状態はますます悪くなっていくでしょう。では、その社会的な原因とはどのようなものなのかということです。実はそれは非常に簡単なことなのです。それは現代人の生活の中から「からだで学ぶ」という生活スタイルが消えてしまったからなのです。現代人はからだで学ばないで知識で学びます。学ぶということはそういうことだと思いこんでいます。でも、人類の歴史を振り返ってみれば分かるように「学ぶ」ということは本来「からだで学ぶ」ということなのです。知識で学んでいたのは生活とは無関係な仕事をしていた一部の学者に過ぎません。つまり、現代人はみな役にも立たない学者の勉強をやらされているのです。どのようにして「からだで学ぶ」ことが子どもを愛すること、子育てとつながってくるのかということですが、皆さんの周りにいる人を思い起こしてみてください。その中には子育てを楽しんでいる人も何人かはいるはずです。そういう人達に共通することはありませんか。私が観察している範囲では・からだを使うこと、動かすことを億劫に感じない・人と関わることを楽しんでいる・面白そうなことがあるとすぐにやってみる・好奇心が旺盛・作ったり、行動することが好き・他人の評価を気にしない・理屈で判断しない・“何を知っているか”ではなく、“何が出来るのか”ということを大切にしている・すぐに結論を出さないで試行錯誤を楽しむことが出来る。まだまだあると思いますが、みなさんの周りの人はいかがでしょうか。実はこれらの全ての要素は、からだで学ぶ過程で身につけるものばかりなのです。そして、知識だけで学ぶ勉強では全てこの逆になります。ですから、子どもの時にからだで学ぶ体験をいっぱいしてきた人は親になっても子育てを楽しむことが出来ます。ただし、そのような体験は学校の外でないと体験することが出来ません。学校の価値観に縛られていたのではからだで学ぶことを楽しめないのです。ちなみに、子どもの成長を支えることが出来るような素敵な子育てをしている人は、ただ素直に、子どもとの生活を楽しんでいるだけなんです。育児書や子育て書に書いてある正解に合わせて「上手な子育て」を目指しているわけではないのです。子どもとの生活を楽しんでいると子どもは勝手に育ってしまうので上手な子育てをしているように見えてしまうだけなんです。でも、子育てを楽しめない人は頭で考えた「上手な子育て」を目指してしまうのです。子どもとの関わりを楽しむことなく、結果を真似ようとしてしまうのです。また、子どもにも“よい子”を真似させようとします。だから、子どもが育たなくなって困った問題が出てきてしまうのです。そして、子育てを楽しむためには「からだを使った生活」が必要になるのです。乗り物を使わないでも行けるところは歩いて行く。そうすれば、一緒に歩くことを楽しむ事が出来ます。お料理も、レトルトなどに依存せず、子どもと一緒に作るようにすれば「子どもと一緒」を楽しむことも出来ます。またその過程で、子どもは多くのことを学ぶことが出来ます。テレビやゲームに子育てを任せず、一緒に家事をして、一緒にお話をして、一緒に歌って、一緒に感じて、一緒に考えて、一緒に歩いて、その「一緒」を楽しむようにしていれば、子育ては楽しくなるし、子どもも安心に満たされてスクスクと育っていくのです。子育てと生活や家事を分けようとするから、子育てが忙しく、苦しくなってしまうのです。また、子どもの育ちが遅れてしまうのです。子どもがすくすくと育つのは、からだでの活動を通して「一緒」を楽しんだ結果に過ぎないのです。子ども達の群れ遊びも、「一緒」だから楽しいのです。「一緒」を大切にせず、「賢い子」や「よい子」を育てることを子育ての目標にしてしまうと、残念なことに、その逆の状態になってしまうことが多いのです。でも、幼い頃に「一緒」の体験がないまま育っている現代人は、その「一緒」が苦手なようです。子ども達も、生活の場で「一緒」の体験が少ない子は、群れて遊ぶことが苦手です。「一緒」を楽しめないからです。
2023.12.10
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私たちの日常を支配しているのは「意識の働き」ではなく「無意識の働き」です。意識は「目的」を与えてくれますが、実際にそれを実行するのは「無意識の働き」です。例えば、「手を上げよう」と意識すれば、手を上げることが出来ます。「歩こう」と意識すれば歩くことが出来ます。でも、「手の上げ方」や「歩き方」を管理しているのは「無意識の働き」です。そのため、特別に意識しない限り人はいつも同じように手を上げ、同じように歩きます。「この問題を解きなさい」と言われれば、考えようとするでしょう。そこまでは「意識の働き」です。でも、「どう考えるのか」ということを管理しているのは無意識の働きです。そのため、考え方自体に問題がある人はいつも同じ所をグルグル回るような思考しか出来なくなります。ですから、無意識の状態を変えようとしない限り、何をやっても、どんなに頑張っても、何も変わらないのです。「自分を変えたい」と色々とやっている人もいますが、そのやり方を管理している無意識の状態が変わらないのなら、どんなに色々なことをやっても「同じ事の繰り返し」にしかならないのです。逆に、そんなに色々なことをしなくても、無意識の状態の方を変えるようにしていくと、結果として「自分の状態」も変わっていくのです。その際、重要になるのが「からだ」という視点なんです。なぜなら、「からだの状態」が「無意識の状態」に大きく影響しているからです。適度にからだが緩み、姿勢が整っていれば、それだけで、そうでない時よりも、客観的に物事を見たり、考えることが出来るようになるものなんです。無意識からの束縛が緩むからです。でも、猫背状態でからだをガチガチに固めていると、無意識の働きの方が優位になってしまい、同じ事の繰り返ししか出来なくなってしまうのです。そういう状態では、どんなに悩んでも、どんなに色々なことをやっても、自分を変えることも、前に進むことも出来ません。何をやっても「同じ事の繰り返し」になってしまうからです。組織などでも、トップが色々と新しい案を出しても、実際にそれを実行する現場が変わっていなければ、結果は何も変わりませんよね。それと同じです。ちなみに、ゲームに夢中になっているときの子ども達は、無意識の働きに支配されてしまっています。「じっくり感じ、考え、判断する時間」を与えられていないからです。そのため、ゲームでばかり遊んでいると「意識の働き」が育たなくなってしまうのです。そしてそれは、自分の人生を自分の意志で生きる能力が育たなくなってしまうということを意味しています。からだの調子が悪いときには、心の状態も不安定になりますよね。逆に、からだの状態がいいときには、心も軽くなりますよね。感じたり、考えたりする能力も高まりますよね。普段自覚したことはないかも知れませんが、人は姿勢を変えるだけで感覚の状態や思考方法が変わってしまうのです。下ばかり向いているときと、遠くや上の方を見ている時とでは、感覚も、思考方法も異なっているのです。悩みに囚われて苦しいときには、一見、無関係に見えるかも知れませんが、姿勢を変えてみる、歩き方を変えてみる、生活リズムを変えてみる、食事を変えてみる、いつもはやらない運動をしてみるなどすると「からだの状態」が変わるので、問題解決の糸口が見つかるかも知れませんよ。
2023.12.09
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あと、その人の「心の状態」は、昨日書いた「意識の状態」ともう一つ「からだの状態」でほぼ決まってしまいます。「意識」は、ある程度なら自分の意志でコントロールすることが出来ます。「音に意識を向けて」と言われれば、その人の能力に応じて音に意識を向けることもできます。「姿勢をまっすぐにして」と言えば、自分の意識の働きを使ってまっすぐにすることもできます。でも、その意識の働きは、意識しているときしか働きません。「姿勢をまっすぐにしよう」と意識しているときは、まっすぐな状態を保てるのですが、他のことに意識を向けた途端に、その働きは消えてしまうのです。なぜなら、日常生活の場面では、人の働きの大部分は「意識」ではなく「無意識」が行っているからです。その人が、どう感じ、どう考え、どうからだを使うか、どういう姿勢で生活しているのか、ということの全てを管理しているのは「意識の働き」ではなく「無意識の働き」なんです。「意識の働き」が有効になるのは「いつもとは違ったこと」をやろうとする時だけです。ですから、「無意識」の働きによって支えられている「からだ」の方が、「まっすぐ」を受け入れていないのなら、意識の働きでからだをまっすぐにしても、別のことを意識し始めた途端に無意識の働きによって元に戻ってしまうのです。子ども達に「静かにしなさい」と言っても、静かにしているのは叱られた直後だけです。直後は「静かにしよう」と意識しているから、静かに出来るのですが、別のことを考えたり、別のことし始めたりすると途端に、無意識の働きが戻って元の状態になってしまうのです。ただ叱るだけでは、子どもの心が傷つくだけで何の意味もないのです。そんな時は、例えばですが、折り紙のようなものを渡せば(折り紙が好きな子なら)、静かにしなさい」などと言わなくても静かにすることができます。静かにさせるだけなら、ゲームやyoutubeを見せるのも有効です。でも、「折り紙」で静かにしている子は、自分の意識の働きによって、静かになっているのに対して、ゲームやyoutubeを与えてもらって静かにしている子は、ゲームやyoutubeの働きによって静かにしているだけなので、そういうものがないと静かにすることが出来なくなります。意識の働きを制御する能力も育たなくなってしまいます。それは、子どもを「集中力の欠如」という状態にしてしまいます。「集中力」が育たないと「セルフコントロール能力」も育たないので、「我慢」も出来なくなります。よくお母さん達はゲームに夢中になっている我が子を見て「すごい集中力が、あの集中力で勉強してくれたら」などと言いますが、それは大きな勘違いなんです。あれは自分の意志で集中しているのではなく、からだが何らかの危険を感じて、意識や目を離せなくなってしまっているだけなんです。「動いているもの」や「変化しているもの」に意識を奪われるのは、動物としての本能なんです。だから、赤ちゃんでも「動いているもの」や「変化しているもの」に対してはすぐに反応するのです。山の中を歩いていて熊に出会ったら、目や意識は目の前の熊に釘付けになってしまいますよね。他のことに意識を向けるなんてことできませんよね。実は、ゲームやyoutubeなどをやっている時も、「からだ」(無意識)はそれと同じような反応をしているのです。ゲームやyoutubeではケガをしませんが、何万年という体験の積み重ねによって出来あがっているからだ(無意識)の方は、そう反応してしまうのです。あれは集中しているのではなく「意識を束縛され、自分の意志で他のことに意識を向けることが出来なくなってしまっている状態」なんです。確かにそれもまた「集中力」ではあるのですが、自分の意志ではコントロールすることが出来ない「集中力」なので、ゲームのような「強い刺激があるもの」に対しては集中できても、授業や勉強などのように、退屈で刺激がないものに対しては集中できないのです。まただから「1時間だけよ」などと言ってもムダなんです。ゲームから意識を離すことが出来ない子が時間に意識を向けることが出来るわけないからです。そして、日常的に強い刺激にさらされている子ほど、本当の「集中力」は低下していきます。そういう状態の子に「もっと集中しろ」と言っても、「刺激がないものに集中する能力」が育っていないので無理なんです。
2023.12.08
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昨日は「昔の自分に戻ってみる」とか「自分の子どもの気持ちになってみる」などと言うことを書きましたが、多重的な視点で自分や世界を見ることで、自分や世界の見え方が変わってくるのです。ネイティブ・アメリカンの人は(全部の部族で、ということはないかも知れませんけど)、「鳥や獣の精霊になって人間に言葉を伝える」ということもやっていたみたいです。昔読んだ事なので記憶は曖昧ですが、車座になって、杖みたいなものを回します。そして、「空を飛ぶものの代表として来た」とか、「地を走るものの代表として来た」というように、「人間以外のもの達の声を代弁する者」として仲間達に言葉を伝えるのです。それは、ネイティブ・アメリカンの人たちが、自分たちを支えている自然の働きと対立した生き方をしないようにする知恵だったのでしょう。現代社会がこんなにも自然と対立し、自然を破壊してしまっているのは、「森の声」「鳥の声」「虫の声」「獣の声」「命の声」「からだの声」「子どもの声」に耳を傾けてこなかったからです。人間は、「自然の声」を無視し、自然を「資源」として搾取することで一時は繁栄を謳歌することが出来たのですが、その繁栄を支えている自然が崩れ始めたので、その繁栄にも陰りが出始めています。「自分だけ良ければいい」、「今だけよければいい」という考え方は、「悩みや苦しみの先送り」をしているようなものなんです。でも、先送りをしているだけですから、しばらくすると雪だるま式に増えた状態で戻って来てしまうのです。その時は、「おまけ」がついて、自分がため込んだ以上の量で戻ってきます。悩みや苦しみが発生した時点で、ちゃんとそのことに向き合い、ちゃんと対処していれば、その時だけの苦労で済んだのに、後回しにすることで雪だるま的に増えてしまい、いつまでも苦しむことになるのです。そして、一度ため込まれてしまった悩みや苦しみは、そう簡単には消えないのです。今、苦しいのは「今」であっても、その悩みや苦しみの原因は、「今」ではなく「過去」にあるのです。だから、「今」に囚われた意識のままでは解決できないのです。また、「今」だけに囚われたその場限りの対処法では、さらに未来に大きな問題を残してしまうのです。100年後、200年後の未来人の気持ちになって、現代人に言いたいことを考える。1万年前、10万年前の古代人の気持ちになって、現代人に言いたいことを考える。子どもの気持ちになって、大人に言いたいことを考える。こういう遊びをしていると、視野や意識が広がり、「今」「ここ」に囚われなくなるのです。そして、どうしたらいいのかが見えてくるのです。遊びの感覚で構わないのですから、鳥や、魚や、山や川や海になって人間に言いたいことを考えてみませんか。お子さんと一緒に「もしも、もしもだよ」という形で遊ぶことも出来ます。楽しいですよ。ちなみに、「言葉で聞くお話し」でも、そういう体験が出来ます。それが「言葉の力」です。でも、テレビなどの「映像で見るお話し」ではそういう体験は出来ません。
2023.12.07
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昨日は、悩みを抱えた人でも、自分の視点や見方を変えれば、それまで「悩みの種」だったものが、大したことないように思えてしまったりするのです。という所で終わりましたが、実は、これは簡単に確認することが出来るのです。ワークでもよくやるのですが、「自分以外の人」や「人間以外のもの」になったつもりで考えてみるのです。例えば、子どものことで悩んでいる人が、その子どもの気持ちになって「お母さん」(自分)宛てに手紙を書いてみたりすると、擬似的にですけど「子どもの視点の体験」が出来ます。すると、意識が拡張するため、悩みのとらえ方や子どもとの関わり方が変わったりするのです。また、「子どもだった頃の自分」に戻って、「今の自分」に手紙を書くことも出来ます。年老いて、「もうすぐ死ぬかも知れない状態の自分」という視点から「今の自分」に手紙を書くことも出来ます。皆さんを苦しめている悩みの大部分は、10年後には消えています。もしくは、悩みの質が変わっています。何かに失敗して苦しんでいても、たいていの場合、1年後、いや、一週間後には忘れてしまっているのです。実際、皆さんは一年前にどういうことで悩んでいたか想い出せますか。「ズーッと悩んできた」と思い込んでいるようなことでも、その悩みの質は変化しているはずです。「今」という時間に囚われているから、悩みや苦しみが永遠に続いているような錯覚に陥ってしまうのです。自分が子どもだった頃の写真や、お子さんが生まれたときからの写真を見返してみるだけで、子どもに対する意識が変わるのです。今、自分を苦しめている悩みとの向き合い方も変わるのです。「コップに半分入っている水」を見て、「もう半分しかない」と考える人はそのことで悩むでしょう。でも、「まだ半分ある」と考える人は希望を持つことが出来るでしょう。このような考え方は色々なところで聞きますよね。でも実際には、これだけでは不十分なんです。「増えてきて半分になったのか」「減ってきて半分になったのか」で、同じ「半分」でも意味が全く異なってきてしまうからです。「悩み」や「苦しみ」を「時間の流れ」の中で問い返して見ることで心が自由になり、その「悩み」や「苦しみ」の意味や、「悩み」や「苦しみ」との関わり方が見えてくるのです。人の悩みや苦しみの多くは、その人の意識が「今」「ここ」に束縛されてしまうことで生まれているのです。だから前に進めなくなってしまうのです。だから、皆さんの心が「今」「ここ」に囚われなくなれば、悩みや苦しみにも囚われなくなります。そして、「どうしたらいいのか」ということを客観的に考えることが出来るようになるのです。
2023.12.06
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子育て中の多くのお母さんが、子どものことで色々と悩んでいます。夫婦のことで悩んでいる人も多いです。その多くの人が、悩みの原因は子どもや、夫や、誰か他の人のせいだと思っています。でも、自分の悩みを作りだしているのは、「自分の心」です。自分の心の外に自分に害を与える「悩み」というものが存在しているわけではありません。きっかけは「子ども」であっても、悩みを作り出しているのは「自分の心」なんです。そのため、ある人には悩みの種であっても、別の心を持った人には、「別になんてことない」なんてことがよくあります。そういう人から見たら、皆さんがいくら悩んでいても、なんで悩んでいるのか理解できないでしょう。いくら丁寧に説明しても理解してもらえないでしょう。「こうだからこうなんです」と説明しても、そもそも、その思考の論理自体が、その人の心が作りだしたその人固有のものだからです。そんなすれ違いから、夫婦げんかに発展することもあるでしょう。一般的な傾向としてですが、女性の論理と男性の論理はかなり異なっているのです。そのため、女性にとっては大問題であっても、男性にとっては「何でそれが問題になるのかさっぱり分からない」などということがよくあるのです。夫婦げんかなどでは、それで男性が人格を疑われたりするのですが、多くの場合、これは思考方法の違いであって、人格の問題とは関係がないのです。このようなことが起きる背景には「気質」の違いが存在しています。気質が異なる人は異なる思考方法を持っているからです。だから、同じ状況を目の前にしているのに、反応の仕方が異なるのです。気質が違うと、どのようなことに対して、どのように悩むのかということが違うのです。男性と女性とでは悩むところが違いますが、それは一般的な傾向として、男性と女性とでは気質が違うからです。女性同士であっても、気質が異なれば悩みのポイントも、悩み方も異なってきます。憂鬱質の人にとっては大問題でも、胆汁質の人にとっては「なんてことない」なんてことはよくあります。と言うことは、悩みを抱えた人でも、自分の視点や見方を変えれば、それまで「悩みの種」だったものが、大したことないように思えてしまったりするのです。<続きます>
2023.12.05
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最初にちょっとお知らせです。以前告知した12月10日の「自分を知るワークショップ」は、申し込み人数が少なかったため中止にさせて頂きます。年末の忙しい時期だからかも知れません。春になったら再度企画します。******************私が最近特に強く感じているのは「話し合う」ということの大切さです。私は色々なところに「親子遊び」の指導などに行っていますが、私が私の知識や技術を一方的に伝えるよりも、みんなで話し合う場を作って、みんなで考えた方が、確実に楽しくなると、参加した子どもやお母さんの学びが深くなるのです。確かに、参加して下さる皆さんよりも、私の方が「遊び」に関する知識や技術は持っています。でも、一方的にそれを伝えようとしても伝わらないし、そもそも楽しくならないのです。それよりも、みんなで話し合って、「今みんながやりたいこと」や「考えていること」を共有して、みんなで遊びを考えた方が絶対に楽しくなるのです。なぜなら、話し合うことでみんなが「主人公」になることが出来るし、お互いの気持ちを理解したり、目的を共有しやすくなるからです。私の役割は「教え、指導すること」ではなく、話し合いを通して、これからやることのイメージを共有し、みんなが自分の意志で積極的に参加できるようにリードすることだけです。そして、遊びが始まってしまったら子ども達やお母さん達に任せてしまいます。先日、宮沢賢治の童話「注文の多い料理店」を基にして、大勢の親子と一緒に劇遊びをしたのですが、その時も、山猫の気持ちになって、「どうして、レストランまで作って兵隊をだまして食べようとしたのか」、「どうやったら、疑り深い兵隊をうまく食べる事が出来るのか」と言うことを子ども達に話し合わせてから大道具や小道具的なものを作って、劇遊びを始めました。普通の、幼稚園や学校などでやる演劇活動では、お話(脚本)の通りに話し、演じることが求められるのでしょうが、私がやっている「劇遊び」は、見せるためのものではなく、みんなで楽しむためのですから、上手に演じることよりも、みんなの気持ちが一つになることの方が大切なんです。みんなの気持ちが一つになって楽しめれば、原作とは異なった展開になっても「遊び」としては成功なんです。そしてこれは、普段の親子遊びの場でも、家族のつながりでも、世界平和でも同じだろうと思います。子どもに指導権を与えてしまって、子どもに振り回されているお母さんがいっぱいいます。でも、子どもはそういう状態を望んでいないので、「そうじゃないんだよ!」と、様々な無理難題を押しつけてきます。そして、ますます、子育てが辛く苦しくなっていきます。逆に、お母さんが指導権を握って、子どもを管理コントロールしようとしているお母さんもいます。でも、それが可能なのは、子どもが幼いうちだけです。子どもが成長し、自我が目覚め始めたらお母さんに反抗し始めるでしょう。そして、この場合も子育てが辛く苦しくなります。いずれの場合もお母さんと子どもの間に「話し合い」がないのです。だから、気持ちを共有出来ないし、つながることも出来ないのです。こういう状態にならないためには、子どもとよく話し合うようにすることです。その際、子どもに伝えたいことがあるのなら、まずお母さんが子どもの言葉に耳を傾けるようにする必要があります。これは子どもだけでなく大人も同じなんですが、人は自分の言葉に耳を傾けてくれる人の言葉に耳を傾けるようになるからです。皆さんは、自分の言葉を押しつけてくるだけで、こちらの言葉には耳を傾けてくれないような人の言葉を聞きたいと思いますか。そして、人は自分の考えや、気持ちや、意見を話すことで、能動的に取り組むことが出来るようになるのです。子どもは、話を聞いてあげるだけで能動的に動き出すのです。でも、多くの大人達が、子どもの言うことには耳を傾けず、一方的に子どもを従わせようとしています。だから、子ども達は能動的に動けなくなってしまっているのです。家庭でも学校でも。
2023.12.04
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「家族でつながって下さい」などと言われても、現代人はつながり方を知りません。便利な機械の登場によって、人と人がつながらなくても生きていくことが出来る社会になってしまったからです。便利な機械やオモチャがなかった昔の子ども達は一人では遊べませんでした。だから仲間を求め、「遊び」を共有することで仲間とつながろうとしました。でも、現代の子ども達は一人で遊ぶことが出来ます。また大人達は、一人で遊ばせようとしています。その方が安心だし、また手間がかからないからです。便利な機械や道具がなかった昔は、お母さん達もまた一人で家事をこなすことが出来なかったので、家族に「お手伝い」を求めたり、隣近所で助け合ったりしていました。そうやって「共有するもの」を持つことで、家族や、ご近所がつながり合っていたのです。でも、便利な道具や機械が登場することでお母さんは一人で家事をすることが出来るようになりました。でもその結果、家族同士のつながり、地域の人たちとのつながりも消えました。何かを得れば、その引き替えに何かを失うのです。問題は「そのことを自覚しているのか」ということと、「何を失ってしまったのか」ということです。でも人々は「新しく得たもの」にばかり気を取られて、「失ってしまったもの」のことは簡単に忘れてしまいます。いつも私は「人間性は、親や他の人との人間的な関わり合いを通してしか育ちません」と言っています。ではその「人間的な関わり合い」とはどのようなものなのか、ということです。そこで大切になるのが「共有する」ということなんです。言葉を共有する。喜びを共有する。食事を共有する。生活を共有する。物語を共有する。遊びを共有する。感覚を共有する。技術を共有する。文化を共有する。イメージを共有する。目的を共有する。などなどです。簡単に言うと、おいしいものを食べた時、顔を見合わせて「おいしいね」とニコッとする。一緒にお風呂に入ったとき「気持ちいいね」とニコッとする。そういう関わり合いを通して「人間性」というものが育っていく(伝わっていく)のです。この「共有する」というのは、機械相手には出来ないことです。また、指示や命令だけでつながっているような人間関係しかない場合も出来ません。「人間的な関わり合い」というものは、「伝えるもの」であって「教えるもの」ではないからです。そして、その「伝える」ということが「共有する」ということでもあるのです。親が子に「何か」を伝える時、そのことによって親と子が「何か」を共有することになるのです。お母さんが子どもに「お料理の作り方」を伝えれば、お母さんと子どもは「お料理の作り方」を共有することになります。それが「お母さんの味」でもあります。子どもは優しくされることでお母さんとの間に「優しさ」を共有することができます。だから「優しさ」を身に着けることができるのです。一日中「優しくしなさい」と怒鳴っても、決して「優しさ」は育たないのです。むしろ、「イライラ」を共有することで逆の結果になるでしょう。「言葉」は「言葉を伝え、共有してくれる人」がいるから子どもに伝わっていくのです。立派な教科書を使っていくら丁寧に教えても、「共有してくれる人」がいなければ、言葉は伝わらないのです。子どもは、一緒に食べているときに「おいしいね」と笑顔で微笑んでくれる人を通して、「おいしい」という感覚を共有し、「おいしい」という言葉の意味を理解するのです。そして、その過程で「人間らしさ」も伝わっていくのです。だから、子どもの「人間らしさ」を育てたいと思うのなら、お母さんが我が子に色々なことを伝えてあげて下さい。「教える」のではなく「伝える」のです。それは、一緒にやってみる、ちゃんと相手の顔を見て、相手の言葉に耳を傾け、相手の気持ちに寄り添わないことには出来ないことです。「何べん言ったら分かるの」というのは、「教えようとする行為」であって、「伝えようとする行為」ではありません。これは夫婦の間でも同じです。「お母さんは家事をするだけ、お父さんはお金を稼いでくるだけ」では、家族はつながり合えないないのです。結果、子どもの人間性を育てることが困難になってしまうのです。夫婦の間で、「子育て」を共有することが出来ていますか?
2023.12.03
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家族とつながれない子は友だちともつながれません。人と人がつながるためには「つながりを支えるもの」が必要になります。これは子どもでも大人でも同じです。そして、その「つながりを支えてくれるもの」を与えてくれるのが「家族」だからです。それは、言葉、遊び、感覚や感情、他者との関わり方などです。自分を表現したり、相手の表現を理解したり、相手の言葉に耳を傾ける能力も、家族との関わり合いの中で育ちます。そして、公園や保育園(幼稚園)などで、他の子と関わるようになった子は、それらの「家族との関わり合いで学んだこと」を使って、他の子とつながろうとします。家族との関わり合いを通して「日本語」を学んだ子は、初めて会う相手とも「日本語」で関わろうとしますよね。それと同じです。そして、そういうものを学ぶことが出来た子同士は、そういう「家族との関わり合いを通して学んだこと」を「つながりを支えてくれるもの」として使い、他の子とつながることが出来るのです。でも、その「つながりを支えてくれるもの」を育てることができなかった子は、他の子と良好な関係を築くことが出来ません。でも、「他の子とつながりたい」というのは子どもの本能なので、なんとかして他の子と関わろうとします。でも、その方法は自分勝手で一方的になってしまいます。それ以外の方法を知らないからです。そのため、ケンカなどが起きやすくなります。他の子をいじめたり、他の子にいじめられたりする可能性も高くなります。他の子が嫌がるようなことを言ったりやったりして、排除されたりすることもあります。でも、本人にはその理由が分かりません。だから「ぼくは何にもしていないのに・・・」などとお母さんや先生に訴えます。すると、子どもをそういう状態にしてしまっているお母さんも同じ感覚なので、一方的に相手の非を咎めます。教室でもそういう状態の子を時々見かけます。自分の方から先に、他の子が嫌がることを言ったりやったりしているのに、その子が怒って何らかの反撃をしてくると「ぼくは何にもしていないのに」と訴えてくるのです。脇で見ている私は、「いや、十分やっているだろ」と思うのですが、本人にはそれが分からないのです。でもこれとは逆の、家族とつながり、「つながりを支えてくれるもの」が育っている子の方が、異分子としていじめられることもあります。「つながりを支えてくれるもの」が育っていない子同士が、「いじめ」を共有することでつながろうとすることがあるからです。その場合、イジメの対象になるのは「イジメの仲間」に加われない子です。いじめられている子の親が、そういう状態に文句を言うと、いじめている子の親同士も結託して、文句を言っている親に圧力をかけようとします。こういう場合、大人達は「どちらの方が正しい」とジャッジしようとしますが、子どもが本当に望んでいるのはジャッジではないのです。ジャッジに拘るのは大人だけです。いじめている子も、いじめられている子も、本当に望んでいることは同じなんです。それはただ、「みんなと仲良く遊びたい」ということだけなんです。それが出来ないから「イジメ」という形で遊ぼうとしてしまうのです。仲良く遊ぶ能力が育っていないから、「いじめる子」と「いじめられる子」に分かれてしまうだけなんです。大人達は「イジメは良くない、やめなさい」と言います。でも、「みんなとつながる能力」が育っていない子は、それ以外の関わり方を知らないのです。そして、子ども達はその能力を家族との関わり合いの中で育てているのです。
2023.12.02
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教室で20キロの粘土の塊をドンと置いて「自由にしていいよ」と言うと、自由保育の保育園や幼稚園に通っている子どもたちは「やったー」と言って飛びつき、殴ったり、丸めたりなどしてグチャグチャ遊びを始めます。でも、しつけやお勉強に熱心な保育園や幼稚園に通っている子は戸惑い「何を作ったらいいの」と聞いてきます。それで「好きなものを作っていいんだよ」と言うと、お茶碗などちゃんとした形があって、それが何んだか一目で分かり、「意味があるもの」を作ろうとします。正解がないと行動出来なくなってしまっているのでしょう。全員が同じように反応するわけではありませんが、そういう傾向が強いように感じます。と、これだけ読むと自由保育の保育園や幼稚園に通っている子の方が自由にのびのびと育っているように思えますが、話はそう簡単ではありません。確かに自由にのびのびと育ってはいるのですが、自由保育出身の子は、いつまでもグチャグチャ状態から抜け出すことが出来ない子が多いからです。グチャグチャ状態から抜け出すためには、束縛を引き受ける必要があるのですが、それが出来ないのです。例えば、「イス」を作るとします。その際、「自由でいいところ」と「自由ではいけないところ」があります。イスが「イス」として成り立つためには、構造的に守らなければならないところがあります。「安全性」や「座り心地」は、座る人に合わせなければなりません。これは絶対です。これが「自由ではいけないところ」です。そして、その「自由ではいけないところ」は、大人から学ぶ必要があります。好き勝手に作っているだけでは、この部分の学びが抜けてしまうのです。でもそれだけでは「面白みがない規格品のようなイス」しか作ることが出来ません。小さい時から、大人の指示で動くような教育を受けて育った人は、規格品のような生き方をする大人になる可能性が高いような気がします。それに対して、大人から学ぶことなく、子どもたちだけ群れて遊んで育ったような子は、自由なデザインで面白いイスを作るかも知れません。でも、そのイスは、見ているだけなら面白いですが、座ると危険です。<b>子どもを自由にさせるだけの保育も、子どもを指示命令だけで管理する保育も、「子どもの育ちにとって必要なもの」が何か足らないのです。</b>子どもの育ちには「(仲間との)横のつながり」だけでなく、「(大人との)縦のつながり」も必要なんです。その二つのつながりがあるから、子どもは本当の意味で自由に自分の人生を生きることができるようになるのです。それは「織り物」と同じです。まずしっかりと大人との間に「縦糸」を張ります。そこに、仲間という横糸を絡めていきます。すると、「自分の模様」を織り出すことが出来るようになるのです。その最初の「縦糸」を張るのが「家族」というつながりなんです。「家族(Family)の崩壊」はこういう所にまで影響しているのです。
2023.12.01
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「家族」は「子どもの育ちを支える環境」の最小単位です。豊かな人間性を育てるためには「家族」だけでは十分ではありませんが、「家族」が崩壊したままだと子どもはその「人間らしさ」を育てることができないのです。ただし、この場合の「家族」は「お互いに信頼し、支え合っている仲間」のことです。血はつながっていなくても、「お互いに信頼し、支え合っている仲間」なら「擬似的な家族」として、子どもの育ちを支えることができます。逆に、血はつながっていても、同じ家の中で暮らしていても、信頼し、支え合うことなくバラバラに暮らしているのなら、それは「同居人」であって「家族」ではありません。私が言っているところの「家族」は日本語の「家族」よりも、英語の「Family」に近いです。「家族」をネットの辞書で調べると同じ家に住み生活を共にする、配偶者および血縁の人々。と書いてあります。(Oxford Languages)それに対して、「Family」は家族、一家、(一家の)子供たち、(血縁関係のある)一家、一族、一門、家柄、名門、(共通の特質によって関係づけられた民族などの)一群、(マフィアなどの)暴力団の一家と書いてあります。( Weblio辞書)英語の授業では「家族=Family」と習いますが、実際には、この二つは同じものではないのです。「家族」は「血のつながり」を大切にしていますが、「Family」の方は「血のつながり」よりも、「大切なものを共有している仲間」的な要素の方が強いのです。逆に言えば、だから、シングルのお母さんやお父さんでも(英語的な意味での)「家族」を作ることは出来るのです。そして、子どもの「人間らしさ」は「血のつながり」の中で育つのではなく、「大切なものを共有している仲間」(Family)の中で育つのです。いくら血がつながっていても、心がバラバラであったら、子どもの「人間らしさ」は育たないのです。でも、簡単で便利な機械の登場や、みんなが「自分の欲」を満たすことだけに夢中になることで、家族は同じ屋根の下に住んでいてもバラバラに生活するようになってしまいました。今、「家族同士で共有しているのは家と、お金と、ネット環境だけ」という家族も多いのではないでしょうか。「心のつながり」を支えるようなものを共有している家族がどんどん少なくなってきてしまっているような気がします。子ども達もゲーム機さえあれば、何時間でも一人で遊ぶことが出来るし、それ以外のことを求めてもいません。その結果、子どもの周囲から、「子どもが育つ環境」が消えてしまったのです。お父さんが「お金を稼ぐだけの人」になってしまって、「家族(Family)の一員」ではなくなってしまっている家族もいっぱいあります。お母さんも「簡単で便利な子育て」を求めて、我が子との間に「家族としてのつながり」を作ろうとしていない人も増えてきています。「出産も子育ても、楽で簡単な方が方がいい」と考える人たちが増えてきたのです。出産で痛い思いをするのも、子育てで自分だけ苦しむのも嫌なんです。でも、「家族」(Family)は「与えられるもの」ではなく、「自分の努力で育てるもの」なんです。みんながそういう意識を持ってお互いに支え合わないことには「家族」は成り立たないのです。ちなみに「出産」は、「お母さんによる一方的な作業」ではなく、「お母さんと子どもの共同作業」です。子育ても「お母さんと子どもの共同作業」です。だから、「子どもの言葉」にも耳を傾けないことには「子育て」は成り立たないのです。でも、そのことに気づかない人がいっぱいいます。
2023.11.30
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再度の告知です。申し込みが少ないため、この告知で申し込みがない場合は中止にします。12月10日(日) 10:00~15:00 「自分を知るワークショップ」 4000円/日会場: 茅ヶ崎市勤労市民会館(ポランの広場)で取ってあります。「気質」の考え方を手がかりに、一番身近でありながら、身近すぎてよく分かっていない「自分」について知るためのワークショップです。このワークのお問い合わせ、お申し込みは以下までお願いします。<篠>***********************人間は「自然の一部」として、生まれ、存在しています。この「自然」には「地球」だけでなく「宇宙」も含みます。ですから、その「自然」が存在しなければ、人間も存在できません。「自然」の状態が狂えば、人間の状態も狂います。「一部」なんですから、それは当然のことです。紙の上に描かれた絵は、紙の一部として存在しているため、紙を歪ませれば同じように歪みます。それは当然のことだし、それを逃れることは出来ません。それが「一部である」ということでもあります。人間はまた、「社会の一部」でもあります。ですから、社会が狂ったり歪んだりすれば、人間もまた狂ったり歪んだりします。でも、その狂いや歪みは自分の周囲の全てで同時に起きているので、自分が狂ったり歪んだりしていることを認識するのは不可能です。戦争になると、人々の意識は異常な状態になりますが、周囲の人たちもみんな同じ状態なので、自分の周囲だけを見ている限り、自分が異常な状態になったということを認識することは出来ません。それを認識するためには、人間社会の外の世界に目を向ける必要があります。自然の状態は人間社会ほど簡単に変化しないので、「変化しない自然」を基準にして「変化する人間の社会」の状態を観察することで、その狂いや歪みが見えてくるのです。例えば、「幼い子ども」は人間の社会の中でも最も自然に近い存在なので、ありのままの状態の「幼い子ども」を受け入れることが出来なくなってしまった社会は、狂ったり、歪んだりしているのです。でも大人達は、その狂いに気付かず、子どもの方を社会に合わせて矯正しようとしています。そして、その結果、「子どもの成長」も歪んでいき、「歪んだ社会」に適応できるようになります。でも、それは人間の「頭」の中だけの話です。心もからだも「自然」に属するものなので、社会が自然とのつながりを失い歪めば、「頭」は適応できても、心とからだは適応できずに歪むのです。それは「生命力の低下」という形で表れます。人間はまた「家族」の一部でもあります。この「家族」が人間の誕生や、成長や、存在を支えている最小単位です。家族がいれば子どもは成長することが出来ます。でも、家族がいなければ子どもは成長することが出来ません。家族が歪めば、子どもも歪みます。そして、「家族」も「社会」や「自然」の歪みから逃れることは出来ません。でも、家族の状態に一番大きな影響を与えている親が、「家族」や「社会」の外にある「自然」に意識を向け、自分たちの狂いや歪みに気付くことが出来れば、可能な範囲でその歪みを正すことも出来ます。ただしその場合、家族の歪みが矯正されると、周囲の社会との軋轢が生まれます。社会全体が歪んでいるときには、それに合わせて歪んでいる家族の方が「正常」だと認識されてしまうからです。社会の流れに乗らず、自然を基準にして歪みを矯正すると、周囲からは「変わった家族」として見られてしまうのです。でも、その方が子どもの状態は安定します。子どもの心やからだの状態も安定します。そして、「社会に束縛されない生き方をすることが出来る人間」に育って行くでしょう。
2023.11.29
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「人」を育てることが出来るのは「人」だけです。物や機械や道具で「人」を育てることは出来ません。テレビや、スマホや、ゲーム機に、「子どもの育ち」を支える力はありません。万能と思われている科学にも、「子どもの育ち」を支える力はありません。科学がその力を発揮するのは物質世界においてだけだからです。科学的な見方や方法は物質世界には有効でも、人の心には有効ではないのです。だから、こんなにも科学が進歩したのに、不安を抱え、自己肯定感が低く、生きる希望を失ってしまっている人たちがドンドン増えてきているのです。でも、科学が生み出したテレビや、スマホや、ゲーム機はそんな苦しみや不安を忘れさせてくれます。また、科学を使えば「不安を忘れさせてくれる薬」を作ることも出来ます。でもそれ故に、一度科学に依存するようになってしまうと、科学依存症になってしまうのです。そして「何でもかんでも科学が解決してくれる」と思い込むようになってしまいます。でもそれは幻想に過ぎません。依存症になると、自分が置かれた現実と向き合うことが出来なくなってしまうのです。それは薬物依存でも、お酒依存でも、買い物依存でも、ゲーム依存でも同じです。また、ゲームは目の前にある不安や寂しさを忘れさせてくれるため、一緒に遊ぶ仲間や、想いを共有出来る仲間がいなかったり、ゲーム以外の遊びを知らなかったり、自由に遊ぶ時間や空間を与えられていないような子は簡単にゲームに依存するようになります。家族同士のつながりが弱い場合も、子どもは簡単にゲームに依存するようになります。寂しいからです。繰り返しますが、科学には「子どもを育てる力」も、「人を幸せにする力」もないのです。なぜなら、科学は「人間の道具」に過ぎないからです。科学は「物質世界における人間の夢や願いを実現する道具」なんです。それは「魔法」と同じです。科学は道具に過ぎないのでそれ自体に善悪はありません。ですから、悪い心を持った人が「悪いこと」を願えば、それを効率よく実現する能力を持っています。爆弾一つで何十万人も殺せる時代なんですから。良い人が「良いこと」を願えば、それを実現する能力も持っています。作物を増やしたり、病気から人を救う能力も持っています。ですから、科学が人を幸せにするのか、不幸にするのかは、科学を使う人間次第なんです。だからこそ、今、「人間育てる教育」が必要になるのです。でも実際には、みんな科学が創り出した「簡単で便利な生活」に依存するばかりで、「人間」を育てることには関心がありません。子ども達に、テレビやゲーム機を与えておけば、お母さんは自分の時間を得ることが出来ます。便利ですよね。でもその結果、子どもは「人間として成長するために必要なこと」を学ぶことが出来なくなってしまうのです。「幸せに生きるために必要な能力」も育たなくなります。そういう人が増え、科学を自分の欲を満たすために使えば社会全体の不幸につながるでしょう。科学が進んだ時代だからこそ、その科学を正しく使うことが出来る人間を育てる教育をすべきなんです。そのためには、幼い子ども達を「科学に依存した生活」ではなく、「人間らしい環境」の中で、「人間らしい生活や遊び」の中で育てるべきなんです。科学に依存しない生活の中で、科学を「道具として使う能力」が育って行くのです。科学の便利さに触れ、その使い方を学ぶのは、9才を過ぎてからでいいのです。
2023.11.28
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昨日は、科学は「人が生まれてくるのに意味なんかない、ただの自然現象だ」と考えています。と書きましたが、実は仏教でもこれは同じです。お釈迦様は「摩訶不思議なこと」は説きませんでした。お釈迦様自身は神や仏について話したりはしていないのです。でも、生まれてきてしまった以上、人は意味がなくても死が迎えに来るまでは生きなければなりません。そして、生きることは苦しいです。一番身近な苦しみは「人間関係」によって生まれます。病気もあります。老いる苦しみもあります。どんなに一生懸命に生きても、「死」は必ずやってきます。そういう「苦しみに満ちた世界」の中で、お釈迦様は「どうやったらその苦しみに支配されず、自分の意志と工夫で幸せに生きることが出来るのか」ということを説いたのです。科学も仏教も「人が生まれてくるのに意味なんかない、ただの自然現象だ」と考えている点では一緒なんです。ただ科学は、それを事実として提示するだけでどうしたらいいのかは教えてくれません。それどころか、それまで人々の心を支え、生き方を導いてくれた宗教や、神や仏を否定してしまいました。でも人の心は、科学が提示する「虚無」には耐えられないのです。なぜなら「心」というもの自体が有機的で、空想的で、非論理的で、非科学的なものだからです。これは知的な教養が高い大人でも同じです。だから人々は、その不安に耐えるために宗教に代わるものを求め始めました。様々な欲望を満たすことで幸せを得ようとするようになったのです。そして、競争が始まりました。そしてまだ、神様や仏様やサンタクロースが存在している世界に生きている子ども達を、無理矢理その世界から引きずり出してしまう大人も増えました。その結果、子ども達は信じるものを失い、虚無的で、強い不安と緊張の中で生きなければならなくなりました。そういう子は理屈ばっかり言って、創造的な思考をすることが苦手です。子ども達は大人が望んでいる「競争に勝つこと」よりも、「目的や夢を共有することが出来る仲間」が欲しいのです。それが成長の本能だからです。「サンタクロースなんかいない」というのは科学的には正しいことなんでしょう。でも、子どもが安心を得、自分の命や人生に対して希望を持つためには、心の中に「サンタクロース」のような「希望を与えてくれる存在」が必要なのです。子ども達はみんな、「自分という存在に意味と価値を与えてくれる物語」を求めているのです。その象徴が「サンタクロース」なんです。そもそも科学では「希望」というものを扱うことが出来ません。子どもにとってだけではありません。大人にとっても「論理を超えた希望」は、人が能動的に、幸せに生きていくためには絶対的に必要なものなんです。それを失った子ども達は、成長欲求も消えてしまうのです。科学の力では、「子どもの生きようとする力」や「成長したいという気持ち」を育てることができないのです。
2023.11.27
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「人はなぜ生まれてくるのか」「自分はなぜ生まれてきたのか」という問いは、多分、人類が「自分」という存在に気付いた何十万年も前から存在しているのでしょう。そして、人々はその意味や理由を考える過程で、様々な宗教や神話を創り出しました。キリスト教やイスラム教などの一神教では「人が生まれてくるのには意味がある」と考えます。それらの宗教では「人は神が創り出したものだ」と考えられていますが、全知全能の神が「無駄なこと」や「意味がないこと」をするわけがないからです。神の行為には必ず意味があるのです。そして、「キリスト教的神」を大切にするシュタイナー教育もこの立場に立って教育をしています。教育を通して、子ども一人一人が「自分が生まれてきた意味」を成就する手助けをしようとしているのです。だから「気質」という考え方も大事にしているのです。「気質」を知ることで「子どもがどういう役割を担って生まれてきたのか」ということが分かるからです。(「私はそう理解している」ということです。)この視点がない人には、シュタイナー教育は単なる「情操教育」や「芸術教育」にしか見えないでしょう。それに対して、科学は「人が生まれてくるのに意味なんかない、ただの自然現象だ」と考えています。そして、現代人の多くもそのように考えています。そんな科学的な感性に基づいた子育てや教育では、「子どもが生まれてきた意味」を考えることはありません。それよりも、「子どもが充実した人生を送ることが出来る能力」を育てることの方が大切にされます。意味はなくても、生まれてきてしまった以上、死ぬまでは生きなければならないからです。また、「どうせ生きなければならないのなら、幸せに生きる事が出来る能力を育ててあげたい」と願うのが親心でもあります。そして現代人は、「人が幸せに生きるためにはお金が必要だ」と考えています。だから、良い成績を取り、競争社会で生き抜く能力を育てようと、子どもを追い立てています。でも、「現代社会に産まれてくる子ども」も、「何万年も前に産まれていた子ども」と同じ感性を持って産まれてきます。それは「神や神話を素直に信じることが出来る感性」です。そして、「そういうものを信じていると安心する感性」です。子ども達は、7才ぐらいまではそういう心の世界に生きているのです。それが「ファンタジー」と呼ばれる世界です。そして「ファンタジーの世界」に生きている子ども達は、「サンタクロース」という摩訶不思議な存在に対しても何の疑問も感じません。でも、7才が近くなると「ファンタジーの世界」がぼやけてきます。そして、9才を過ぎる頃から、大人と同じ現代人的な感性が目覚め始めます。でも、それ以前の「ファンタジーの世界」に生きている子ども達には、大人が生きている世界が理解できません。競争に勝つことの意味とか、お金の価値も分かりません。社会的に成功するなどということには全く関心がありません。そもそも、そういうものの価値を支えている「社会」というものが理解できないのですから。そのため、そういうお母さんや大人達が「あんたのためよ」と押しつけてくることの意味も分かりません。だから「なんで勉強しなければいけないの?」とか「なんで学校に行かなければならないの?」などと、大人に聞くのです。でも、「自分が生まれてきた意味」を考えたことがない大人はその問いに答えることが出来ません。答えたとしても「社会の価値」を前提にした答えでは子どもは理解できません。そんな時、子どもは「自分が生まれてきた意味」とつながるような理由が知りたいのです。<続きます>
2023.11.26
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私は子育てに苦しんでいる人から相談を受けることが多いのですが、話を聞いているとそのような人ほど無趣味な人が多いです。「昔は○○をやっていたけど、今は忙しくて出来ません」と言う人もいます。いずれにしても、そのような人は生活の中心が「家事」と「子育て」だけになってしまっています。考えることも、「家事」と「子育て」のことばかりです。そして、毎日、家事と子育ての小さな事に一喜一憂しながら生活しています。そのため、世界が閉ざされ、心に自由がありません。また、その事ばかり考えていると、他の人には「どうでもいいような小さな事」が気になるようになります。そして、自分の容量以上のことを気にしたり考えるようになり、身動きが取れなくなります。また、考えれば考えるほど、その「小さな事」が「大事なこと」のように思えてきて、手放すことが出来なくなります。その結果、「本当に大切なこと」が見えなくなり、「どうでもいいこと」ばかりに一生懸命に取り組むようになります。「どうでもいいこと」に一生懸命になると、さらに「どうでもいいこと」が気になるようになります。俯瞰的な視点を失ってしまっている人は、一つ「気になること」を考え出すと、それに関連する「気になること」が雪だるま式に増えてしまうのです。そして、ますます「本当に大切なこと」が見えなくなります。「何のために頑張っているのか」ということも分からなくなります。それは、スマホを覗き込みながら電車のプラットホームや自然の中を歩いている人と似たような状態です。そのような人は、スマホの画面が気になってしょうがなくなり、すぐ前に川や崖があっても気付かなくなるのです。そして、川に落ちたり、崖から落ちたりしてから後悔するのです。「家事」や「子育て」だけに束縛されている人は、「自分がちゃんと出来ているか」ということばかりを気にしています。そして、常に「自分チェック」や「子どもチェック」をしています。スマホのラインやメールをチェックするのと同じです。それを止めることが出来ないのです。そして、家事がちゃんと出来ていなかったり、子どもが「良い子」に育っていないと自分を責めます。そして更に深入りしようとします。趣味や興味は、そんな悪循環にはまってしまっている人の心を、その狭い世界から、別の世界へと連れ出してくれるのです。そのことで、スマホの画面以外の世界にも気付くようになるのです。というようなことを言うと、「家事や子育てが忙しくて、趣味の活動をする時間などありません」という反応が返ってくることが多いです。でも世の中には、家事や子育てが忙しくてもちゃんと自分の趣味を楽しんでいる人もいっぱいるのです。そのような人は「家事の時間」や「子育ての時間」の他に「自分の時間」を作ろうとはしません。逆に、「家事の時間」や「子育ての時間」を「自分の時間」に変えてしまうのです。家事や子育ての中に「自分のやりたいこと」を潜り込ませてしまうのです。子育てに正解などないのですから、みんな「自分らしい子育て」をすればいいのです。子どもを自分の趣味の世界に巻き込んでもいいのです。だって、「あなたのお子さん」なんですから。子どももそれが嬉しいはずです。「一緒」を体験出来るからです。そしてそれもまた立派な「自己表現」なんです。
2023.11.25
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日本人は「みんな一緒」や「みんなと同じ」が大好きです。そして、他者と違うと不安を感じ、「他者と違う人」は排除しようとします。みんなと違う感覚を持ち、みんなと違う考え方や行動をする子は「問題児」として扱われます。「人より劣っている子」だけでなく、「特別な才能を持った子」も「問題児」として扱われます。子育てや教育などの場で「個性を大切にしよう」などということはよく言われます。でも、だからといって、積極的に「個性」を育てるような子育てや教育が行われているわけではありません。ただ、「個性を大切にしよう=違いを許容しよう」的な意味で使われているだけです。それは「差別をやめよう」的な感覚と同じです。日本人にとっての「個性」は「特別で大切なもの」ではなく、単なる「標準からのずれ」に過ぎないのです。そのため、「個性」を「長所」として考え、伸ばそうとする発想も、そのような教育システムもありません。むしろ、「個性的な子」は「普通の子」になるように指導されています。そもそも、「一斉教育」という方法自体が、「一人一人の違いを否定した教育法」なので、「個性的な子」を肯定していたら授業が成り立たなくなってしまうのです。「個性を大切に」などと言いながら、「その子らしさ」が表れた個性的な感想文や、個性的な絵を描くと標準に合わせるように指導されます。歌ったり、踊ったりする時も「みんな一緒」が求められます。そこに「自分らしさ」や「個性を大切にする」という発想はありません。そして「自分らしさ」が否定され続けることで、子どもは、「自分」に自信を無くしていきます。「自分」の存在価値を見失っていきます。そのまま大人になった人たちは「自分の本音」や「自分の考え」は言いません。というか、そういうことを考えないようになってしまうのです。そういう教育を受けて育った日本人の多くが、「人と違う自分」や「自分らしさ」を肯定できなくなってしまっています。子育てでも「自分らしい子育て」をすれば、「楽で楽しい子育て」が出来るのに、なぜかみんな「どこにも存在していない理想の子育て」を目指して子育てをしているのです。だから、子どももお母さんも苦しくなってしまうのです。だから「自分らしい子育てをすればいいんだよ」と言うのですが、みんな、その「自分らしい」がよく分からないと言うのです。自分の「自分らしさ」が分からないので、「自分らしさを大切にした子育て」も出来ないのです。そういう状態を変えるためには、自分を表現するような活動が必要になります。私の親子で遊ぶ幼児教室では、幼児よりもお母さんを解放してあげることの方を大切にしています。幼児の方はそのままでも大丈夫だからです。表現ワーク的な活動もよくやります。すると、お母さん達がドンドン変わっていくのです。ドンドン素敵になっていきます。みんなそんな「素敵」を内側に秘めているのに、それを否定し、自分を隠して生きているのです。そんな「もったいない生き方」やめませんか。たった一度きりの人生なんですから。
2023.11.24
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皆さんは、八百屋さんの全ての商品が不透明な袋に入れられていたら、自分が欲しい野菜や果物を買うことが出来ますか。出来ませんよね。野菜と果物の区別もつかないし、品物の良し悪しも判断できませんよね。袋に色々な色や柄があったら、中身ではなく袋を基準に選んでしまうかも知れませんね。実際、幼い子どもたちは「中身」ではなく「箱や袋に描かれたイラスト」でお菓子を選んだりしていまから。そして、「自分を表現しない人」はみんな同じような状態なんです。いくら「私を選んで」と期待しても、中身が分からない人を選ぶ人はいないのです。選んでくれる人がいたとしても、「私の中身」が気に入って選んでくれたのではなく、見かけや、社会的な地位といった「袋(仮面)」で選んでいるのですから、自分の中身を見せるような付き合い方は出来ないのです。また、「中身が分かったら嫌われてしまうかもしれない」という恐れもあるので、出来るだけ中身を見せないように付き合います。こういう付き合い方では「知り合い」は出来ても「仲間」は出来ないのです。でも、多くの日本人が、中身を見せないように「袋(仮面)を被った状態」で生活しています。マスク生活がさらにその状態を悪化させています。また、素顔を見せない状態では子育ても出来ません。だからといって、その状態に満足しているわけではありません。だからストレスや不安が強くなってしまうのです。子育ても苦しくなってしまうのです。また、自分でも「本当の自分」が分からなくなってしまいます。もし、本当にあなたが仲間を作りたいのなら、そのような状態から抜け出したいのなら、「自分を隠している袋(仮面)」を外し、言葉や行動を通して、他の人にも見える形で「自分」をちゃんと表現する必要があるのです。などということを言うと、「そんなことしたら、かろうじて今つながっている仲間が逃げてしまう」などと答える人がいます。でも、素顔を見て逃げていくような人は、最初から仲間ではないのです。それに、「見かけでつながっていた見せかけの仲間」はいなくなっても、あなたの素顔を見て、つながろうとしてくれる人が必ず現れるのです。そういう人も素顔で接してくれるでしょう。「袋(仮面)」をかぶったままの人の所に集まるのは、同じように「袋(仮面)」をかぶった人だけです。でも、勇気を出して自分の素顔を出せば、自分の素顔で付き合ってくれる仲間が表れるのです。本当に仲間を作りたいのなら、自分に噓をつくことは止めた方がいいです。*************12月10日(日) 10:00~15:00 「自分を知るワークショップ」 4000円/日「気質」の考え方を手がかりに、一番身近でありながら、身近すぎてよく分かっていない「自分」について知るためのワークショップです。このワークのお問い合わせ、お申し込みは以下までお願いします。<篠>
2023.11.23
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日本人は「仲間作り」が下手です。子どもだけでなく大人も下手です。「仲間が欲しい」と思っている人はいっぱいいるのですが、自分からは動こうとしないのです。そして、みんな、誰かが誘ってくれるのを待っているのです。でも、誰も誘ってくれません。みんな同じ気持ちだからです。公民館企画の「みんなで○○しよう」という行事があれば参加して、公民館が作ってくれた一時的な仲間と関わりを楽しむことはあっても、その仲間を自分の力で継続しようとする人もあまりいません。それは、公民館の人が言っていたことです。「公民館企画」なら参加するのに、「今度は自分たちで企画して」とお母さん達に活動を手渡そうとすると、みんな消えてしまうというのです。お客さんとして参加するのは楽しくても、主催側になって責任を負うことはしたくないのでしょう。「○○ランド」に行くような気楽な感覚で参加したいのでしょう。私は色々な活動をしていますが、あまりオープンにはしていません。それでよく、「先生の活動はどこで分かるのですか」と聞かれるのですが、以前、オープンにしてブログなどでも参加者を募集していたら「お客さん」がやたらに増えて困った状態になってしまったのです。長く一緒に活動している仲間は色々と手助けしてくれます。でも、「お客さん」は、家族や一緒に来た仲間とだけで固まって話し、活動をするだけです。その場にいる他の人と関わろうともしません。自己紹介も挨拶もなくただ参加費を払い、イベントを楽しんで、知らないうちに勝手に帰ってしまいます。そのような人は、面白そうなテーマの時は参加しても、あまり興味がないテーマの時は参加しません。「○○ランド」ならそれでもいいのですが、私の活動は「みんなでつながろう」という趣旨でやっているのですから、そういう「お客さん」が増えたら困るのです。でも実際には、そういう「お客さん感覚の人」の方が圧倒的に多いのです。それで、今では登録制にしています。でも、そういう「お客さん感覚の人」も「仲間」は欲しいのです。だから会に参加して、同じ活動をして、「仲間気分」を味わいに来るのでしょう。それは、ハロウィーンの時に渋谷に集まってくる若者達と同じ感覚です。でも、参加するだけで積極的に仲間を作ろうとはしません。今、そういう「受け身感覚で生きている人」が非常に多いのです。これは日本の子育てや教育の結果だと思います。お母さんや先生や大人達が、子どもから自由を奪い、指示や命令で動かそうとしていれば、子どもが受け身的な感覚で生きるようになるのは当然の結果です。「じゃあみんなそれで満足しているのか」というと、満足しているわけでもないのです。仲間は本音で付き合えます。共に笑い、共に泣き、共に子育てが出来ます。だから子育ても、人生も楽になります。でも人は、仲間ではない人の中では見栄と体裁と人目を気にします。そして常に、「我が子」と「他の子」、「自分」と「他のお母さん」を比較してしまいます。競争相手なんですから「共に子育て」なんて出来ません。そんな子育てや生き方が楽しいわけないのです。むしろ孤独で、不安で、苦しいでしょう。でも、どうやったらそういう状態から抜け出すことが出来るのかが分からないのです。
2023.11.22
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人間は一人では生きることが出来ない動物です。一人では子どもを育てることが出来ません。一人では、人間らしく成長することも出来ません。「マザー」というロボットによって育てられる子どもを描いたSF映画がありますが、実際にはあんなこと出来ません。人間は「自分を育ててくれる存在」が持っている以上の能力を身につけることは不可能だからです。無表情のロボットに育てられているのに、あんなにも表情豊かな子どもが育つわけがないのです。これは人間でも同じです。お母さんが無表情なら、子どもも無表情になるのです。お母さんが無言なら、子どもも無言になるのです。お母さんが感情的なら子どもも感情的になり、お母さんが人目を気にして生きているのなら、子どもも人目を気にするようになるのです。それが人間の特性であり、人間の能力でもあるのです。この能力があるから、子どもは、言葉や、感性や、知性や、文化を親から受け継ぐことが出来るのですから。ただ普通の人間の場合は、「マザー」に出てくる女の子のように完全に一人ぼっちではなく、深く関わらないにしても必ず周囲には他の人間がいます。だから、そういう人を見て学ぶことは可能です。テレビなどで英語を話す人を見て英語に興味を持つことも可能です。でも、英語を話すことが出来る人と実際に関わらない限り、自己流で中途半端な英語しか学ぶことが出来ないでしょう。これはどんな学びでも同じです。「俺は一人でも生きていける」「一人で生きている」などとかっこいいことを言う人もいますが、他の人からお金を貰い、そのお金で、他の人が作った食べ物を食べ、他の人が作った家に住み、他の人が作った機械に依存して生活しているのなら、一人で生きていることにはならないのです。それは勝手な思い込みに過ぎません。そういうことを言っている人だって、一人ぼっちで育ったわけではないはずです。そもそも、一人ぼっちで育ったのなら言葉も話せないはずです。「お金を稼ぐ能力」も育ちません。そして、現代社会では、お金を稼ぐ能力が育っていなければ一人で生きていくことは不可能です。でも、現代社会には、一人で子育てをしているお母さんがいっぱいいます。この場合の「一人で」は「心の世界」の話です。実際には多くの人に支えられているのですが、「心」が「一人ぼっちの世界」に閉じ込められてしまっているのです。当然、そういうお母さんに育てられている子も一人ぼっちです。物や機械はいっぱい与えられているのかも知れませんが、他の子や他の大人と関わることは出来ません。そのため、言葉や、知性や、コミュニケーション能力や、人間らしさを学ぶことが出来ないまま育つことになります。塾に通わせお勉強させても、暗記による勉強しか出来るようにならないので、中学生頃から急に勉強に付いていくことが困難になります。また当然、コミュニケーション能力も育ちません。他の人とつながり、支え合う関係を築く能力も育ちません。他者から学ぶ能力も育ちません。自分しかいない状態で育った子は自分勝手に行動するようになるでしょう。それは必然的な結果です。そういう子が増えたら社会は崩壊します。また、子ども自身も生きていくのが辛く苦しくなるでしょう。その苦しみから抜けるためには他の人とつながるしかないのですが、それが出来ないのですから。そして「子どもの苦しみ」は「親の苦しみ」としても返ってきます。だから、子どもを一人で育てようとしてはいけないのです。一人で頑張ってはいけないのです。まず外に出て下さい。そして、他の人に話しかけて下さい。「寒くなりましたね」だけでもいいのです。それだけで何かが変わっていくのです。子どもが泣いて「子どもを泣かすな」と言われたら、「どうしたら泣き止むのでしょうか?教えて下さい。」と聞いてみて下さい。それだけで相手との関係性が変わりますから。
2023.11.21
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最初に告知を入れさせてもらいます。会場は群馬です。12月7日に表現のワークをします。https://docs.google.com/forms/d/e/1FAIpQLSd6KLPGUXrIUQmSOiSuqxyjt0Bw8CXarWw65d_lAndjy1t6Dg/viewform**************昨日は、私は、「人間以前の状態」で生まれてくる子どもが、心や、知性や、からだの育ちにおいて「人間らしさ」を身につけるためには、育ちの過程で「自然」「仲間」「言葉」の三つの要素が絶対的に必要だと思っています。このどれが欠けても、子どもは「人間らしさ」を育てることが出来なくなってしまうのです。と書きましたが、だからといって、「こういうものをただ与えるだけで子どもがすくすくと育っていく」と言うことではありません。子どもを自然の中に連れ出すだけでは、自然を楽しみ、自然と関わって楽しく遊ぶようにはなりません。日常的に「自然」からかけ離れた生活している子どもを、いきなり自然の中に連れ出しても「怖い」「汚い」「つまんない」という反応しか返ってこないこともよくあります。いつも一人で遊んでいる子に「大勢の子ども達と関わる機会」を与えても、それだけで仲間作りが出来るわけでも、みんなと楽しく遊ぶことが出来るようになるわけでもありません。むしろ、ケンカやイジメが起きて「もうあんなとこ行きたくない」という結果になることも多いです。また、「言葉との出会い」を与えようとしても、言葉を必要としていない生活をしている限り、それは無理です。これは何の学びにおいても同じなのですが、本人が能動的に取り組まない限り、どんな体験をしてもその体験から「肯定的な学び」を得ることはできないのです。押しつけられた体験は「否定的な学び」を与えるだけです。でも、「知らないこと」に対して能動的に取り組もうとする子はいません。これは大人でも同じはずです。そのことを見たり聞いたりして、「面白そう」とか「楽しそう」と感じたから、初めてのことでも能動的に取り組もうとするのです。だから、子どもを自然の中に連れ出すためには、子どもの周囲に自然との関わり合いを楽しんでいる大人や子どもがいる必要があるのです。子どもの一番身近にいるのはお母さんです。ですから、お母さんが日常的に身の回りの自然に気づき、それを楽しんでいれば、自然と子どもも自然が好きになっていきます。うちは、家内も私も自然が大好きなので、しょっちゅう子ども達を自然の中に連れ出していました。知り合いの家族とも山に行ったり、キャンプに行ったりもしました。その結果、子ども達もみんな自然が好きになりました。仲間との関わり合いも同じです。私は子どもの育ちには仲間が必要だと言うことを知っていたので、子育てを「自分自身の仲間作り」とセットにして始めました。そういう様々な場で大人や仲間と関わっていれば、子どもは自然と様々な言葉を覚えていきます。うちでは毎年春になると、野草を摘んで食べていました。その結果、子ども達は野草の名前をいっぱい覚えました。あるとき、野草を摘んでいたら「何をしているの?」と知らないおばちゃんが話しかけてきたので、子どもが色々と説明したらそのおばちゃんは驚いていました。でも、私が相談を受ける多くのお母さんは、そういう活動が苦手です。お母さんは好きでもご主人が嫌がるので出来ない、という話も聞きます。でも、そういう活動の大切さは理解しているのです。だから与えたいのですが、出来ないのです。そんな時は、いっぱい自然や仲間が出てくる絵本を読んであげることをお勧めします。絵本では実体験は出来ませんが、色々な絵本を読んであげることで、自然や仲間に興味をもたせ、行ってみたい、やってみたい、見てみたいという能動的な意欲を育てることは出来るからです。また、子どもと一緒に野菜や草木を育てたりすることも、子どもが自然に興味を持つようになるきっかけになります。お散歩の時にも、道ばたの草花に目を向け摘んでみたり、匂いを嗅いだりして遊んでいれば、子どもも自然に対して興味を持つようになります。無理をしなくても、遠くに行かなくても、日常生活の中で出来る事はいっぱいあるのです。日常生活の中でそういう楽しさを体験していないのに嫌々自然の中に連れ出されている子は自然が嫌いになるばかりです。いわむらかずおさんの「14ひき」のシリーズはお勧めです。14ひきのあきまつり (14ひきのシリーズ) [ いわむら かずお ]14ひきのさむいふゆ (14ひきのシリーズ) [ いわむら かずお ]14ひきのもちつき (14ひきのシリーズ) [ いわむら かずお ]
2023.11.20
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私は、「人間以前の状態」で生まれてくる子どもが、心や、知性や、からだの育ちにおいて「人間らしさ」を身につけるためには、育ちの過程で「自然」「仲間」「言葉」の三つの要素が絶対的に必要だと思っています。このどれが欠けても、子どもは「人間らしさ」を育てることが出来なくなってしまうからです。このどれが欠けても子どもは「コミュニケーション能力」を育てることが出来なくなります。当然のことですが、「コミュニケーション能力」は「他者との直接的な関わり合い」によって育っていくものです。授業のような形で、親や先生が子どもに教えることは出来ません。授業のような形で、親や先生が子どもに教えることが出来るのは、生活の場では使えない「知識」だけです。でも、いくらいっぱい「他者」がいても、「他者と自由に関わることが出来る場」を与えられなかったり、「お互いに理解し合うための言葉」を知らなければ、コミュニケーション能力を育てるどころか弱肉強食の世界が生まれるだけです。まだ言葉が未熟な子ども達を大勢、オモチャがいっぱいある部屋の中に閉じ込めておけば、簡単にこの状態を確認することができます。また、子どもの育ちに必要な「他者」は、出来るだけ多様性に富んでいた方がいいです。性別や年令だけでなく、人種や能力も様々な子がいた方がいいです。「よい子」だけでなく「困った子」も必要です。また、「大人」との関わり合いは絶対的に必要です。「多様な他者」との「多様な関わり合い」が子どもの多様な能力と可能性を育ててくれるのです。そして、「多様な他者との多様な関わり合いの場」として、子どもの自由を受け止めてくれる「自然」が必要になります。遊具がいっぱいある公園で遊んでいても、子どもは他の子と関わりません。遊具が遊んでくれるからです。そういう場で伝えることが出来るのは「遊具を使うときのルール」だけです。でもそれは、子どもの「人間らしさの成長」とはあまり関係がありません。ゲームは子ども同士の直接的な関わり合いを阻害し、子どもの興味をゲームだけに固定してしまいます。私が、「幼いうちは出来るだけゲームを与えないようにして下さい」と言っているのは、ゲーム自体に害があるからではなく、ゲームが、子どもから「子どもの育ちに必要なものに対する興味や好奇心」を奪ってしまうからです。ゲームで遊ぶことでも様々な能力は育ちますが、その能力はゲームの中や、似たような状況の中でしか通用しません。それに、ゲームをやることで育つ能力は、子どもの「人間らしさの育ち」とは無関係です。「言葉」が育っていなければ、子どもは「知性や心の育ちにつながるようなこと」を学ぶことが出来なくなります。「他の人と助け合う関係」も築けなくなります。そして、周囲の人との意思疎通も出来ないため、人間関係において非常に困難なことになります。当然、学習も困難になります。でも、ゲームでの遊びに「言葉」は必要がありません。文字が読めればゲームで遊ぶことが出来ます。文字すら必要がないゲームもいっぱいあります。そのため、3才頃からゲームで遊んでいる子もいます。実際、「学び」や「行動」において問題を抱えている子の多くは、言葉の育ちにも問題を抱えています。そういう子は、言いたいことを一方的に言いまくることは出来るのですが、人の話を聞くことが出来ないのです。また、感情を吐き出すことは出来ても、「感じたこと」や「考えたこと」を、相手が分かる形で言葉化することも出来ません。そういう子ども達は指示や命令に従うことは出来ますが、自分たちの感覚で感じ、自分たちの頭で考え、自分たちで話し合って一緒に遊ぶことが出来ません。そのまま大きくなった子は、会社に入っても指示や命令に従う仕事しか出来ません。当然、責任ある仕事は任せてもらえません。でも今、「自然」「仲間」「言葉」の三つとも奪われた状態で生活している子がいっぱいいるのです。そして、子ども達を競争にばかり追い立てています。それは、「子ども自身の不幸」にも、「社会全体の不幸」にもつながる困った状態です。でも困ったことに、競争に勝つことばかりを考えて、その問題に気づいていない人があまりにも多いのです。
2023.11.19
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一見、人間は周囲にある自然から切り離されて存在しているように見えます。植物のように、周囲の自然と直接つながっているわけでもないし、人間以外の動物たちのように、直接自然に依存して生活しているわけでもないからです。また人間は、一人一人が「個」として別々の存在であると思い込んでいます。その「個」を「私」と呼びます。その「私」は唯一無二であり、世界にたった一人しかいません。その「私」を作りだしているのは「私の記憶とつながった私の意識」です。「記憶」や「意識」は他者と共有することが出来ません。だから、自分で「自分」を見たときには他者や自然から切り離されているように見えてしまうのです。でも、その意識の働きが創り出している「私」という存在は、脳が作りだした錯覚に過ぎません。最近流行のAIは、人間を模倣することで人間に近い思考をすることができますが、でもまだ「私」という意識には目覚めていないようです。でもそれも時間の問題だと考えられています。また、人はその意識の働きで自分や世界を見ているのですが、自分で自分の意識の状態を見ることは出来ません。それは「自分の目」で「自分の目」を見ることが出来ないのと同じ事です。そのため、意識の状態が歪んでも自分ではその歪みに気づきません。だから酔っ払いは、周囲の人の目には明らかに酔っているのに「俺は酔ってなんかいない」なんて事が言えるのです。麻薬をやっている人も同じです。でも、その「意識の働き」を支えているのは「命の働きとつながったからだの働き」です。そして、その「からだの働き」はダイレクトに自然や、自分が存在している周囲の環境の影響を受けています。「からだ」は自然の一部として創られてきたものですから。周囲の環境が変われば「からだの働き」も変わります。すると、意識の状態も変わります。町の雑踏の中にいる時と、静かな森の中にいるときとではからだの状態が全く違います。その結果、意識の状態も変わります。感覚の状態も、思考の状態も変わります。でも自分ではその変化に気づきません。昼間と夜とでは意識の状態が異なります。それは何らかの表現行為をしてみればすぐに分かります。同じ人が描いても、「昼間描く絵」と「夜描く絵」は同じにはならないのです。食べ物や、傍にいる人によっても「からだの状態」は大きく影響を受けます。それは、「意識の変化」として表れます。そして、ここからが重要なんですが、もう「からだ」が出来上がってしまった大人の、「環境の変化に対するからだの変化」は一時的ですが、今、そのからだが育っている最中の子どもの場合は、自分の周囲の環境の影響がからだの中にまで組み込まれてしまうのです。暑いところで育った子と寒いところで育った子とでは汗腺の数まで違ってしまうのですから。そしてこれは大人になってからでは変わらないのです。静かな環境で育っている子は、感覚の働きも、思考の働きも、からだの働きも「静かな環境」に合わせた状態で育って行きます。いつも自然と触れながら育っている子は、自然の中にいるときに一番落ち着くようなからだが育って行きます。仲間に囲まれて生活している子は、仲間がいると落ち着くようなからだが育って行きます。そしてそれが命の働きに一番即した育ち方でもあるのです。なぜなら、人間は何十万年もそういう環境で育ってきたからです。でもつい最近になって、人間はそれまで人間が暮らしていた環境とは全く異なる環境を人工的に作り上げました。それは命の働きとは無関係に創り出された環境です。そこには常に刺激があります。自然もなければ、仲間もいません。子どもの周囲にあるのは機械と物だけです。それは、子どもの育ちにとっては人類史上初めての環境です。そして、現代の子ども達はその「人類史上初めての環境」の中で育ち、それに適応したからだを育てています。いつも騒がしくて、刺激が多い環境で育っている子は、強い刺激に囲まれていないと落ち着かないからだが育って行きます。そのため、静かなところに行くと退屈してしまいます。自然から隔離された環境で育っている子は、自然に対して違和感や嫌悪感を感じるからだが育って行きます。そのような子は、虫やばい菌を過度に怖がります。そのような状態で育った人は、大人になって親になったとき、自然のままに行動する「子どもという自然」に対して違和感と嫌悪感を感じるようになります。機械だけを相手にして、いつも一人で遊んで育った子は、周囲に他の人がいると落ち着かないからだが育っていきます。そして、そのような不自然な環境で育った子の心とからだの状態は不自然になり、心も不安定になります。それに対して自然と共に育った子のからだは、自然の働きに支えられているので安定しています。そしてそれは、心の安定にもつながっています。
2023.11.18
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(今日は気質の話ではありません。)人間が人間になってから数十万年かかっていますが、人間が自然から隔離された環境の中で生活するようになったのはつい最近のことです。それまで、人間は自然の中に生まれ、自然や仲間との関わり合いの中で育っていたのです。(今でもそういう生活をしている人はいっぱいいます。)その基本的な状況は生命誕生以来35億年間変わっていません。ですから、自然から隔離された環境の中に生まれてくる現代の子も、昔の子と同じように、自然の中に生まれ、自然の中で育つ準備をして生まれてきます。たった数十年、数百年で、何億年かかって培われてきた成長システムが変わるわけないからです。特に7才前の子は、自然とのつながりが強いです。ですから、自然の中にいると落ち着きます。安心も感じ、生き生きとしてきます。心とからだの状態も安定して来ます。遊びの場などでそういう状態の子ども達を見ていると、いかに自然が子どもの育ちにとって大切なものなのかがよく分かります。大勢の子ども達を、オモチャを与えて部屋の中に入れておくと、ほぼ間違いなくオモチャの奪い合いが起きます。ケンカもすぐに起きます。大人は「仲良く遊びなさい」などと言いますが、いつまで経ってもみんなバラバラで仲良く遊び出したりはしません。オモチャなどの人工物は共有できないからです。でも、同じ子ども達を自然の中に連れ出すとケンカしなくなります。オモチャなどなくても、色々と遊びを発見して遊び始めます。崖を登るなどの目標を見つけると、みんなで一緒に遊び始めます。助け合いすら始まります。「部屋の中の子ども」しか見たことがない人は、子ども達のこういう状態を知らないのです。自然から切り離された「部屋の中の子ども」は退屈です。寂しいです。イライラしています。緊張や不安も強いです。そのため、そういうものを忘れさせてくれる刺激を求め、ゲームやスマホが手放せなくなります。そして、自然への興味や関心を失っていきます。自然を感じ、自然と共鳴する能力も低下します。すると、心とからだの状態が不安定になり、日常的に不安を感じやすくなります。人間も自然の一部なので、その命の働きは自然の働きと共鳴することで安定するように出来ているからです。(短いですが明日に続きます)
2023.11.17
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自分の気質を知りたいときには○自分はどういう状態の時が一番居心地が良いのか○自分はどういうことに興味があるのか○自分は他の人とどういう関係を望むのか○仕事でも、趣味でも、生き方でも、自分は何をしたいのか○自分はどういう人にあこがれるのか○自分はどういう生活を望んでいるのか○どういう絵や音楽が好きなのかなどということを考えて見るといいと思います。絵本などでも色々あります。皆さんが「意味不明」とか「くだらない」と感じる絵本もういっぱいあるでしょう。でも、そういう絵本でも、それを良しとして描いた人がいて、出版した会社があるのです。つまり、皆さんが価値を感じないようなことに対して価値を感じる人もいるということです。こういう場合、「そういう絵本を買うような人はセンスがないから」とか「教養が低いから」とか、「感性が鈍いから」などと、そういう絵本を肯定する人を否定するような判断をする人がいますが、そういう人から見たら皆さんが選ぶような絵本の方が意味不明なんです。このような違いの背景には気質の違いがあるのです。それは単に「リンゴが好きか、ミカンが好きか」「ピカソが好きか、ルーベンスが好きか」ということと同じレベルの違いに過ぎないのです。また、その人の気質は、「何が出来るか」ではなく「何がしたいのか」ということの方に表れます。「何が出来るのか」は育ちによる影響も大きいのであまり当てにならないのです。また育ちによって、本来の自分の気質とは違う状態になってしまっていることもあります。自分の気質に合わないことでも小さいときからやらされているとそれなりに出来るようにはなってしまうからです。でも、自分の気質を判断する時に大切なのは「出来るか出来ないか」ではなく、「その活動を楽しむことが出来ているのか」ということの方なんです。どんなに上手に出来ていても、自分の気質に合わないことは心から楽しむことが出来ないからです。それが「今の状態」で人を分類する一般的な性格分類と、「本来の自分」を見つけようとする気質の考え方との根本的な違いでもあります。また、ここに書いたことは全て「自分」と「自分の外の世界」との関係性を示しています。ですから、いくら「自分の心」と向き合っても、「自分と自分の外側の世界との関係性」に目を向けないことには、「自分の気質」は分かりません。「悩みが多くて苦しいから憂鬱質だ」と考える人は多いです。でも、「悩みや苦しみを消したい」を思っている時点で、その人は憂鬱質ではない可能性が高いのです。なぜなら、憂鬱質の人にとっては、「悩み」も「苦しみ」も大切なものだからです。消し去りたいと思うのような悩みや苦しみは「外側からやってきたもの」で、「内側から生まれたもの」ではありません。それに対して、憂鬱質の人の悩みや苦しみは、「外側」からではなく「内側」からやってくるのです。それは例えば「私はなぜ生まれてきたのだろう」と悩むようなものです。それに対して、「子どもが言うことを聞かなくて苦しんでいます」というような苦しみは外側からやってくる苦しみです。多血質の人は「楽しいだけの世界」でも全くOKですが、憂鬱質の人は「楽しいだけの世界」はあまり好きではないのです。粘液質の人は、ただジーッとしているだけでも楽しいのです。胆汁質の人は目標に向かって頑張っている自分が好きです。
2023.11.16
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「気」というのは生命の働きを支えているエネルギーのことです。そして、この「気」は自然の働きを支えるエネルギーでもあります。大気や水が循環し、地球がその恒常性を維持することが出来ているのも「気の働き」のおかげです。その自然の恒常性を支えている働きが、人のからだの中ではその人の「気」になるのです。ですから、死ねば「気」も消えます。病気になれば「気」が乱れます。「気」が狂うこともあります。疲れれば「気力」が萎えます。調子がいいと気分が良くなります。調子が悪いと元気がなくなったり気落ちしたりします。頑張るときには「気合い」を入れたりします。日本語には「気」という言葉を使った言い回しが非常に多いですが、それは日本人が「気」というものを感じやすい感性を持っているからなのではないかと思います。日本固有の宗教「神道」では「神気」を大切にします。キリスト教や仏教では教義を大切にしますが、神道で大切にしているのは「神が発する気」なんです。教義なんかいらないのです。そして、神気を感じる場所に祠を建て、神を祭ってきました。だから山や石がご神体になったりするのです。また、ほとんどの人が神道のことなど何も知らないのに、みんな神社に行くと頭を下げます。多くの日本人は教義よりも雰囲気の方を大切にするのです。だから、宗教を信じている外国の人と話が合わないのです。そして、「気」と「気」は共鳴するので、「気」を持つもの同士はお互いに作用し合っています。「気」を共鳴させることで、意識的に他者に働きかけることも出来ます。日本古来の武道ではその気の働きを効果的に使っていました。合気道という武道もその流れにあります。でも、「気」は「生命を支えているエネルギー」なので、「命」を持っていない物に働きかけることは出来ません。そのため機械に働きかけることも出来ません。計測も出来ません。スターウォーズでは、「フォース」という「気」に似たものを使って、物を動かしていますが、ああいうことは「気」には出来ません。あれは、テレキネス(念力)です。そんな「気」は「音」に似ています。気質を色で表したりもしますが、実は「音」の方が気質の実体に近いような気がするのです。その場合「気質」は、「その人が発している音や音楽の雰囲気」のようなものだと理解して下さい。「からだ」は、その「音」(気)を出す楽器のようなものです。ですから、「からだ」が変わると「気質」も変わるのです。また、生命エネルギーもまた「音」のようなものです。子どもは親からその「音」を受け継ぐのですが、からだが違うので親とは異なる音を奏でるのです。ギターの側で太鼓を鳴らせば、ギターも鳴り出しますが、ギターは太鼓の音ではなく、ギターの音しか奏でませんよね。それと同じです。それと同じようなことが、日常的に人と人の間でも起きているのです。その時重要になるのは「相手との関係性」であって、「個々の音」ではありません。「素敵な音」と「素敵な音」が出会ったからと言って、お互いに素敵な影響を受けるとは限らないと言うことです。それは、きれいな色ばかり使ってもきれいな絵が描けるわけではないのと同じです。ですから「私はどんな色(音)でしょうか」という質問には意味がないのです。自分の音がどんな音であろうと、その音を生かすような生き方をすればいいだけのことなんです。また、「相手の音」(気質)に耳を澄まそうとすると、「自分の音」と「相手の音」がうまく調和して素敵な音楽になります。その時必要なのは「合わせようとすること」ではなく、「ただ素直に耳を傾けること」です。あとは、自分のからだがなんとかしてくれます。そして実際、その人の気質は、その人が好きな音とつながっています。「類は友を呼ぶ」という言葉がありますが、人は自分が発している音と調和するような音を発している人に近寄っていくのです。それが「気が合う」ということです。楽器にも色々なものがありますが、どんな楽器が好きなのか、またどんな音色、旋律、リズムが好きなのかということも、その人の気質と関係しているのです。民族性の違いも音に現れています。気質のワークで「アフリカの太鼓」と「ネイティブアメリカンのドラム」を聞き比べることがありますが、同じ「太鼓」でも両者の音は全く異なっています。そこに、アフリカの人の気質と、ネイティブアメリカンの人の気質の違いがあるのです。ちなみに私は、「ネイティブアメリカンのドラム」の方が合っているようです。
2023.11.15
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