全7008件 (7008件中 101-150件目)
子どもにただ「自由にしていいよ」と好き勝手にさせても「自由を生きる能力」は育ちません。それにそんなこと許してくれるのは親か一部の大人だけです。そのため「自由を与えられて育った子」は自分を保護してくれる大人から離れた時点で、不自由になります。そして、「自分の力で不自由を克服して自由を得る能力」も育たないので、自立すべき年齢になっても自立が出来ずに身動きが取れなくなってしまいます。でも、「自由」ではなく「安心」を与えられて育った子は不自由な状態でも何とか工夫して自由を得ようとします。新しいことにチャレンジしたりもします。「失敗しても大丈夫」という安心があるからです。「安心」を与えられている子にとっては、「安心」は何かにチャレンジする時のエネルギー源になるのです。ですからそのエネルギー源がない「与えられた自由」に慣れてしまった子は、チャレンジしないのです。チャレンジする必要がないからなのでしょう。でも、「自由」を与えるのは簡単ですが、「安心」を与えるのは難しいのです。「安心」は人それぞれだからです。気質の影響も大きいです。人がいるところで安心を感じる人もいれば、一人の方が安心を感じる人もいます。都会の中や機械や物に囲まれていると安心を感じる人もいれば、自然の中で安心を感じる人もいます。顔を見て向き合って安心する人もいれば、肌を触れ合うことで安心する人もいます。静かで薄暗い所にいると安心を感じる人もいれば、にぎやかで明るいところにいるときに安心を感じる人もいます。これは子どもでも同じです。そのため、子どもに「安心」を与えようと思うのなら、その子の「その子らしさ」を知る必要があります。そして、その子らしさに合わせてあげると、その子は安心を感じるのです。自由に行動するようになるのはその結果に過ぎません。また、「自分のリズム」が崩されると人は不安を感じます。生活のリズムがくるっても、お母さんや先生に追い立てられてもリズムが狂い不安が生じます。強い刺激に満たされた生活をしていると、生命のリズムが崩れ不安を感じます。お母さんがイライラしていても子どもは不安を感じます。お母さんの心とからだに余裕がない時にも子どもは不安を感じます。子どもの安心育てにおいては、生活の場で「リズムを整える」というのは非常に重要なことなんです。それがまた、子どもが自由に生きることが出来る能力を自分の力で身に着けるためにも必要なことでもあるのです。ダメなことをした時には「ダメ」としっかり言う必要があります。安心に満たされている子は「ダメ」と言われたぐらいでは不自由になりません。抜け道を探すだけです。だだし、「ダメ」と伝えるときには、何がダメなのかをちゃんと伝え、必要以上に怖がらせないことです。でも、多くのお母さんが子どもを怖がらせることで言うことを聞かそうとしています。でも、そんなことをしていたら安心も失われ、自由に生きる能力も育たなくなってしまうのです。
2024.07.23
コメント(0)
私はいつも、子どもの育ちにとって「自由」がどれだけ大切なことであるかを書いています。そして、同じように「自由であること」の大切さを訴えている人もいっぱいいます。でも実は、子どもの育ちにおいては「自由」よりも大切なことがあるのです。それは「安心」です。「自由」はあっても「安心」がなければ、子どもは「自分の育ちや学びにつながるような活動」が出来ないからです。子どもにとっては「安心」こそがエネルギー源なんです。時々、子どもの言いなりになっているお母さんや、子どもの好き勝手にやらせているお母さんがいますが、そういう子どもは誰からも束縛されないのですから自由といえば自由ですよね。じゃあ、そういう子どもが生き生きと、ノビノビと、素敵に育っているのかというとそんなことはないのです。また子ども自身も自由ではなく不安を感じています。自分を支えてくれるものがないのですから。みなさんは、無人島に連れて行かれて「何をやってもいいよ、あなたは自由だよ」と言われたら喜びますか。自由に行動できますか。最初は喜ぶ人もいるかもしれませんが、次第に不安を感じてしまうのではないでしょうか。「自由」は「自分の力で得るもの」であって、「与えられるもの」ではないのです。「与えられた自由」は「自分にとっての自由」ではないのです。それは、「糸が切れた風船」「重力がない宇宙空間に放り出された宇宙飛行士」と同じような状態です。そこにあるのは「自由」ではなく「不安」です。子どものときのからだは軽かったですが、大人になるにしたがって重くなってきます。太めの人はなおさらです。重力のせいで自由に動けないし、すぐに疲れます。だから、人類は空を飛ぶことにあこがれを感じ、空を飛ぶことが出来る機械を発明して、重力から自由になることを願ったのです。不自由があったからこそ、自由を求め自由を得ることが出来たのです。生まれつき手足が自由な人は、手足が自由なことは当たり前なのでそのことに自由を感じたりはしません。でも、病気やけがで手が不自由になってみると、手が自由であることのありがたさが分かります。そして「もっと大切に使おう」と思うかも知れません。道具を使うときにも「不自由」と出会います。だから練習して自由に道具が使えるようになりたいと思って努力するのです。大人が子どもに「自由」を与えることはできないのです。本人が努力して、自分の力で手に入れるしかないのです。ですから、子どもに「自由な人間」に育って欲しいと願うならば、子どもが自分自身の努力で乗り越えることが出来る程度の不自由と、一緒に不自由を乗り越えようとする仲間と、失敗を許し見守る大人たちが必要になるのです。あと、子どもの憧れになるような年上の子や大人も必要です。自由に竹馬に乗っている子にあこがれるから、竹馬という不自由に挑戦しようとするのですから。このように、「自由」は大人に与えられなくても自分の努力で手に入れることが出来るのです。でも、「安心」はそういうわけにはいかないのです。思春期を過ぎた大人は、自分で自分の意識を操作して、自分の力で「安心」を得ることも出来ますが、思春期前の子どもたちの安心は100%周囲の大人や仲間に依存しているからです。自分ではどうしようもできないのです。そして、安心があるから自由を手に入れようと頑張ることも出来るのです。不安が強い子は自分の心を守ることばかり考えてしまうので、自由を求めて努力するということも出来ないのです。子どもにはまず安心を与えてあげてください。安心があれば、子どもは自分の力で自由を手に入れようとし始めますから。「不自由」は、子どもが自分の力で「自由」を求めるようになるためのきっかけなんです。だから、子どもを自由にさせるだけでは自由に生きることが出来る人には育たないのです。むしろ「不安が強い人」に育ってしまうかも知れません。ちなみに今の日本には「自由」はあっても「安心」がありません。だから、束縛はされていないのにみんな不自由になってしまっているのです。そして、自ら「束縛してくれる対象」(依存対象)を求めています。
2024.07.22
コメント(0)
昨日は「お母さんたちつながってください」と書きましたが、だからといってそう簡単につながれるわけではありません。つながりたいと思っているお母さんがいっぱいいても、誰かが「つながろうよ」と呼び掛けても、それだけではつながれないのです。「つながり」が生まれるためには「つながりを支えるもの」が必要だからです。それは言葉であったり、思想であったり、宗教であったり、場所であったり、歌や踊りであったり、遊びであったりします。私はお母さんたちに様々な遊びを伝えています。そして、「ここで学んだ遊びを子どもの友達や地域の子どもたちと共有して下さい」と言っています。「遊び」を共有しようとすると、「遊び」が「つながりを支えるもの」になり、「つながり」が生まれるからです。そして、その「つながりを支えるもの」の質と内容が、その「つながり」(グループ)の質を決めてしまいます。だから「つながり」を作りたいと思うのなら、何を「つながりを支えるもの」にするのかを慎重に考えた方がいいです。そしてそれは「自分自身がすでに大切にしているもの」である必要があります。また、みんなにそれをちゃんと説明できる必要もあります。「つながり」を立ち上げるだけなら簡単なんです。「楽しそうなイベント」を企画すれば「楽しいこと」を求めている子どもやお母さんたちが集まるからです。また、みんなで一緒に大騒ぎする楽しさもあります。でも、ただ「楽しいこと」だけをもとめて集まっただけで「つながりを支えるもの」が明確化も共有もされていないグループは、盛り上がりが収まると同時に消えていきます。また、集まった人の多くが「お客さん感覚」です。いくらいっぱい人が集まっても、「お客さん感覚」の人が多ければその会は長続きしないのです。主催する人がただただ疲弊してしまうだけです。また、初代の人たちが頑張っても、それを後輩に受け渡すことが出来なければ、その会は継続しません。湘南近辺には何十年と続いている遊びのグループや共同保育のグループがありますが、そういうグループでは、「この会で大切にしていること(つながりを支えるもの)」が共有されているだけでなく、世代を超えて受け継がれているのでしょう。それだけ、会の目的が明確化されているということでもあります。「つながり」を作るためには、呼びかける人がまず、自分の生き方や自分の考えを整える必要があるのです。そして、その「つながりの目的」を明確にすることです。そして、色々な形でいっぱい発信することです。呼びかける人が具体的な方法を知らなくても大丈夫です。「つながりの目的」がはっきりしていて、それを発信しているのなら、方法を知っている人とつながることが出来るからです。自分が何でもかんでも一人でやる必要も、また出来る必要もないのです。出来ないところは出来る人とつながり、任せてしまえばいいのです。
2024.07.21
コメント(0)
子どもとお母さんを「人と人のつながり」から切り離してはいけないのです。これは絶対にです。子どもとお母さんを「人と人のつながり」から切り離すようなことをしている社会は絶対に衰退してしまうのです。それは、古来から現代にいたるまで、人間の社会は「人と人のつながり」によって支えられてきたからです。「つながり」が失われた社会は、その有機性と多様性と一体性を失い、人々が幸せに生きることが出来る社会形態を維持することが出来なくなってしまうのです。AIだって「つながり」の中で機能しているのです。AIの高度な能力は「つながり」によって支えられているのです。人間と違うのはその「つながり」が「情報のつながり」だということに過ぎません。人は「一人では生きることが出来ない動物」なんです。でも、便利な機械と豊かなインフラが普及することで、多くの人が、「他の人とつながらなくても一人でも生きていくことが出来る」というような錯覚を持ち始めています。確かに、今の時代、人間としての常識と、一人前の能力や知識を身に着けた大人なら一人でも生きていくことが出来ます。だからそのような錯覚を感じてしまうのかも知れませんが、「つながり」が失われた社会では、それ以前の問題として、その「人間としての常識と、一人前の能力や知識を身に着けた大人」が育たなくなってしまうのです。今、子どもと子どもが切り離されています。子どもと大人が切り離されています。子どもと社会が切り離されています。子どもと自然が切り離されています。子どもと、言葉や、文化や、伝統が切り離されています。子どもの頭と心とからだが切り離されています。お母さんたちにおいても同じです。お母さんとお母さんが切り離されています。お母さんと社会が切り離されています。お母さんと生活が切り離されています。お母さんと子どもが切り離されています。「世話をする」という縦のつながりは残っていても、「人間と人間としてのつながり」という横のつながりは消えてしまいました。そして、子どもにとって他の子は「仲間」ではなく「競争相手」になってしまいました。お母さんにとっても、ほかのお母さんが「仲間」ではなく「競争相手」になってしまいました。子育てに関わっていない大人たちは、子どもやお母さんたちに批判的で厳しい目を向けています。子どもの「子どもらしい行動」を「お母さんのしつけがなっていないからだ」などと一方的に決めつけ、子どもとお母さんを追い詰めています。その結果、子どももお母さんも人目を気にしながら、自分らしさを押し殺しながら、小さくなって、ビクビクしながら生きています。こういう状態では、「自立して幸せに生きることが出来る子ども」を育てることが出来るわけがないのです。「みんなが幸せに生きることが出来る社会」は維持できないのです。この状態から抜け出るためには、この問題に気づき、子育てや生活を変えたいと思ったお母さんが有機的につながり、「子どもらしい子ども」や「人間らしい子育て」を批判、非難する周囲の人たちから子どもや自分たちを守っていくしかないのです。
2024.07.20
コメント(2)
ネットで、現代の子ども事情、子育て事情に関する衝撃的な(私にとっては)記事をよみました。それは、AERAdot.の「友達の家に遊びに行けない」小学生が急増中 都会に住む親が「行っちゃダメ」と禁止する理由とはというものです。記事の中で 2019年、厚生労働省は小学校3年生を対象に「放課後に過ごす場所」を調査し、約2万4000人から回答を得た。その結果、「放課後に友達の家に行く」は01年度に生まれた子は50・6%だったが、10年度に生まれた子では29・1%に減少したという。ということも書かれていました。先日、「体験格差」について書きましたが、そのタイトルの本の中では「体験格差」が「経済格差」とつながっているということが書かれていました。経済的に余裕のある家の子は旅行にも、習い事にも、ディズニーランドにも、色々な体験イベントにも参加できます。でも、経済的な余裕がない家の子は、そういう体験をする機会が少ないというのです。そしてその「体験格差」が「学力格差」にも影響が出てしまっているのです。また、経済的な問題はお母さんやお父さんの時間的な余裕だけでなく、精神的な余裕も奪ってしまいます。だから、待つことも、話し相手になってあげることも難しいでしょう。そういうことも子どもの学力格差に大きな影響を与えてしまいます。子どもを習い事に通わせるために一生懸命に仕事をして、子どもと共に過ごす時間的、精神的余裕を失っている人も多いみたいです。でも、戦後やそれ以前の日本では、一部の特別な人を除いて、お母さんやお父さんが子どものために時間を割くことが出来ないのは普通の家庭の普通の状況だったのです。多くの人が生きて生活していくだけで精一杯で、子どもを習い事に通わせるなどという精神的、経済的な余裕などなかったのです。今は、経済的な余裕がなくても、いっぱい子どもに習い事をさせている家も多いですが、私が子どものころ(昭和20年代、30年代)は、習い事をしていても一つか二つぐらいでした。何にも習い事をしていない子もいっぱいいました。じゃあ、そういう子どもたちは放課後どうやって時間を過ごしていたのかということです。「体験を奪われた状態で育っていたのか」ということです。でも、実際にはその逆でした。習い事に行かなくても、旅行に行かなくても、様々なイベントに参加しなくても、今の子どもたちよりもはるかに豊かでいっぱいの体験を、自然や、町の中や、友だちの家などでいっぱいしていたのです。本来、「子どもの成長に必要な体験」にお金は必要がないのです。今の子どもたちが得ることが出来るのは「お金で買うことが出来る体験」ばかりです。でも、本当に子どもの自立や心とからだの成長を支えてくれる体験はお金では買うことが出来ないのです。お金で買うことが出来るのは「受動的に受け取る体験」ばかりです。でも、子どもの自立や心とからだの成長を支えてくれるのは「子ども自身の能動的な意思に基づく体験」なんです。そしてそのような能動的な体験をするためには「自由な時間」と、「自由な遊び場」と、「遊びを共有する仲間」たちが必要なんです。子どもの成長を支える体験を得るために必要なのは「お金」ではなく「自由」なんです。「自由」を取り上げてしまったから「お金で買うことが出来る体験」を与えようとしているのでしょうが、そのような体験は、子どもを「お客さん」にしてしまうだけなんです。「学校から帰ったあと友達の家で遊ぶ」というのも「お金では買うことが出来ない体験」を子どもに与えてくれます。自分の家とは違う家の様子、家のルール、友達のお母さんとの出会いは、子どもの成長に大きな影響を与える貴重な体験なんです。お母さんにとっても、我が子以外の子どもの姿に触れることが出来る貴重な体験です。色々な子どもと触れ合うことで我が子のことを客観的に見ることも出来るようになるでしょう。でも、最近のお母さんはそのような肯定的な面には目を向けず、「何かあったらどうしよう」「家の中の実態を知られてしまうのは困る」などと否定的なことばかり考えビクビクしているのではないでしょうか。自分自身が人と人のつながりが薄い状態の中で育った最近のお母さんは、必要以上に「他人の目」を気にしているように見えるのです。そして、その裏返しなのでしょうが、ほかのお母さんの子育てにもシビアです。だから助け合うことも出来ません。でもそのことで子育てが苦しくなってしまったり、子どもの成長が阻害されてしまっているのです。社会全体がこんなにも豊かになる前の昔の日本では、お母さんたちは日常的に助け合って子育てをしていました。子ども達も助け合って遊んでいました。助け合わなければ子育ても出来ないし、遊ぶことも出来なかったからです。でも、経済発展を遂げ中途半端に余裕が出来てしまった現代人は、助け合わなくても子育てが出来るようになりました。子ども達も仲間がいなくても遊ぶことが出来るようになりました。また、「子育て」を「プライベートなこと」と考える価値観も広がりました。プライベートなことだから他の人には見せないし、知られたくないし、ほかの人の子育てとも関わりたくないのでしょう。でも、子育てや子どもの育ちをプライベートなことにしてしまったら、子どもは社会との関わり方が分からなくなってしまうのです。社会に出て自立することが出来なくなってしまうのです。子育てや遊びを、子どもをつながりから切り離す「プライベートなこと」にしてはいけないのです。
2024.07.19
コメント(2)
<告知です>東京の足立区と神奈川の二宮で「気質の勉強会」を始めます。詳細はブログの本文の後に書いておきました。足立区の講座<二宮の講座>ご興味のある方はお問い合わせ下さい。*************私は「親子遊び」の指導もしているので、「子どもとの遊び方が分からないので、遊び方を教えて下さい。」と聞いてくる人が多いです。公民館やお母さん達のグループなどから「親子遊び」のワークを依頼される時にも、「どういう遊びをするのですか?」とよく聞かれます。そのような人は「遊び」を「方法」として考えているのでしょう。でも、遊びには決まった形がないので答えようがないのです。それで、「歌ったり、動いたり、手をつないだり、からだで遊んだり、ピョンピョン、ゴロゴロ、コチョコチョやって遊びます」というように答えるのですが、これではよく分かりませんよね。実は、それがどんなことであっても、楽しめれば全部「遊び」なんです。親子でその楽しさが共有出来ればそれだけで立派な「親子遊び」なんです。ただ目を見つめ合って笑い合うだけでも「親子遊び」なんです。歩くことを楽しむことが出来るなら、それは「歩き遊び」です。雲を見て楽しむことが出来るのなら、それは「雲見遊び」です。宮沢賢治によるとカエルはこの遊びが好きなようです。呼吸を楽しむことが出来るのなら、それは「呼吸遊び」です。からだを動かすことを楽しむことが出来るのなら、それは「からだ遊び」です。お掃除を楽しむことが出来るのなら、それは「お掃除遊び」です。子育てを楽しむことが出来るのなら、それは「子育て遊び」です。生きることを楽しむことが出来るのなら、人生そのものが「遊び」になります。勉強や仕事だって、楽しむことが出来るのならそれは「遊び」です。そういう楽しさを親子で共有出来るのならそれが親子遊びです。そして、自分たちで発見した「楽しい遊び」は進化します。「楽しさ」を維持するために、その日の状況、天気、子どもの成長、その時の興味に合わせて遊びが進化するのです。そして、幼い頃にお母さんや仲間と一緒にそういう「進化する遊び」で遊んだ子は、自分一人でも自分で感じ、考え、工夫し、行動して遊ぶことが出来るようになります。「遊び」は「文化」ですから、最初は誰かから受け継ぐ必要があるのです。「暇つぶし的な遊び」や、大騒ぎするだけの「発散的な遊び」は受け継がなくても出来ますが、そのような遊びは進化しません。進化しないのですぐに飽きてしまいます。また、「暇つぶし的な遊び」しか出来ない子は刺激に飢えているので、ちょっとした刺激に虜になってしまいます。でも今、「能動的に感じ、考え、行動する事によって楽しむ」ことが苦手な子どもが増えて来ました。大人も楽しむのが下手です。そういう状態の子を森の中に連れて行ってもすぐに退屈してしまいます。造形しても楽しくありません。みんなと一緒にいても楽しくありません。「楽しい」を発見することが出来ないからです。当然、勉強も、生きることも楽しくないでしょう。そして、「楽しい」を見つけることが出来ない子は、「生きている意味」を見つけ出すことにも苦労するでしょう。「人はなぜ生きるのか」という問いに答えはありません。生まれてきてしまったから生きるのです。その時、生きることが楽しければ、生きることを楽しみながら積極的に生きることが出来るでしょう。苦しいことがあってもその苦しみから学び成長する事も出来るでしょう。そしてそれが「生きる意味」になっていくでしょう。でも、生きることが楽しくなければ人生は苦しみばかりです。仕事も楽しくありません。人間関係も楽しくありません。そのような人は、死ぬのが怖いから生き続けるだけです。そのため、お酒やゲームといった、「苦しみを忘れさせてくれる逃避先」を求めます。その「楽しみを発見する能力」の種は、共鳴という形を通して親から子へと受け継がれます。お母さんが楽しい事を発見するのが上手なら、子どももその才能を受け継ぐのです。ただし、その「種」が成長するためには「退屈な時間」と、「自由に行動できる多様な空間」と、「楽しいを共有する仲間」が必要になります。多くのお母さんが子どもを退屈にさせることを恐れていますが、子どもの心とからだの成長にとって「退屈」は非常に大切なんです。ただし、自由に行動することも、声を出すことも、走り回ることも許されない狭い部屋の中の退屈ではありません。そのような場での退屈は、子どもを無気力にさせてしまいます。子どもは、自由を奪われた状況では、テレビを見ていても、ゲームをやっていても、心は満たされないのです。だから簡単にスマホやゲームに依存してしまうのです。子どもの成長に必要な退屈は、自由に感じ、考え、行動することが許されるような場での退屈です。****************<足立区の講座の詳細>やってみることにしました、気質講座✨✨夏休みなので、皆さんお忙しいかと思いますが😅、お待ちしております🍀🍀シェア歓迎です。ご興味ありそうなお友達にぜひお伝え下さい🙇気質、とは、生まれ持った人の4つの要素です。シュタイナー教育の考え方の1つです。黄色で春のイメージの多血気質赤で夏のイメージの胆汁気質青で秋のイメージの憂鬱気質緑で冬のイメージの粘液気質篠先生は、茅ヶ崎に住んでいらっしゃるので、足立区に来てくださるのは、大変貴重な機会なんです。素敵なおじいちゃん?仙人?なので、この機会にぜひ!いつも、からだ、からだ、からだが大事、と思っているのですが、今回は、気質、です😁😁私は、自分の気質に納得がいって受け入れられた時、本当に自分が愛おしく、人生が楽しくなりました⭐ちなみに、私は何気質が強いと思いますか?😁😁実は、気質講座は、広めたい、内緒にしておきたい、広めたい!の間で揺れ動くという根っからの篠先生ファンの私。内緒にしておきたいのは、こんなに面白いことは独り占めして習いたい、と思っちゃうからです。でも、一人では学べないのが気質なので、皆さんのお力をお借りしたいです。⭐⭐⭐【自分と向き合う気質講座】篠先生の気質講座をはじめます。連続講座を予定していますが、まずはその1回目。気質を学ぶことは、自分を知ること。自分を知ると自分と仲良くなれます。無理せず、楽しく、豊かに生きていくための知恵が詰まった講座です!講師:篠秀夫先生親子あそび研究家◯日時:8/8(木) 13:30-15:30◯場所:北千住駅から徒歩15分の場所※お申込時に詳細お伝えします◯参加費:お一人2500円(先生への講師料+会場費)◯持ち物:動きやすい格好、筆記用具、飲み物◯お申し込み:お名前お住まい(例 足立区谷中)この講座に興味を持ったきっかけを、添えて、和田まで。ライン、コメント、メッセージに直接、もしくは、wada.lab2021@gmail.com へ。**************<二宮の講座の詳細>【大人の気質講座】生まれつきの自分らしさを知ろう茅ヶ崎を中心に、造形教室や自然遊び、幼児教室などを主宰している篠先生の気質講座を、二宮町で初開催してもらいます!「気質」とは、生まれつきの持っている自分らしさ。自分と他者の気質を学ぶことで、生きやすくなる手助けになればと考えています。あなたが否定しているのは、あなたがあなたらしく生きるために必要な自分らしさの一部かも知れません。今回は、シュタイナーの気質をベースとした基礎を学ぶ3回講座。3回通して参加が望ましいですが、単発参加もOKです。<日程/場所>■第一回 9/11(水) →町民センター和室■第二回10/4(金) →ラディアンミーティングルーム2■第三回 11/8(金)→未定<時間>全日:10時~12時<内容>気質を知る座学と身体をつかったワーク<定員>15~20人<対象>老若男女どなたでも<参加費>参加費:お一人2500円(先生への講師料+会場費雑費)<持ち物>筆記用具、飲み物※動きやすい格好で来てください。<申込>こちらの申込フォームにてお願いします。※先着順。定員に達し次第締め切ります。https://forms.gle/Epsgayx5zXWa82Mf7【プロフィール】篠秀夫(しのひでお)湘南茅ヶ崎を中心に、子どものための造形教室や親子で遊ぶ幼児教室などを主催。シュタイナー教育に基づく価値観を大切にし「子育て」「セルフケア」「気質」のワークショップや勉強会などを開催。楽天ブログ「森へ行こう」では、生命、子育て、感覚、気質などをキーワードに発信しつづけています。森へ行こう(心とからだと子育てと) – 楽天ブログ~~~~~~~◎自分ってこんな性格で…と、誰しも自身のことを自分なりにとらえていると思います。同じように、うちの旦那は、子どもは、、さらには親や上司などのことも、それぞれに知ったり、分かったりしていると思います。しかし、社会的な性格だけでなく、その人の持つ本来の気質を知ることで、自分自身と相手をより理解することができます。無駄なイライラや、落ち込みなども、減るかもしれません^_^全国のあちこちで講演会を開いている篠先生ですが、二宮町では初めての講座です。この機会に、みんなで、基本を学んでいきましょう。
2024.07.18
コメント(0)
人はいつでも考えています。寝ている時にも考えています。夢はその表れです。幼い子どもだって、もっといえば赤ちゃんだって考えています。でも、その幼い子どもの思考は「受動的な反射」に基づくものであって、「能動的な意志」に基づくものではありません。そのため、自分の考えを自分でコントロールすることが出来ません。不安が強い人の思考も「反射」であって、「自分の意志」に基づくものではありません。それは「夢の中の思考」と同じものです。人は夢の中でも色々と考えていますが、自分で自分の思考をコントロールすることが出来ませんよね。それは、夢の中の思考もまた反射によるものだからです。ハイハイし始めた幼い子どもは自由に動き回りますが、その行動も「反射」です。色々な刺激に反応して動いているだけです。反射ですから、その行動に「理由」はあっても「目的」がありません。「夢の中の思考」にも「理由」はありますが「目的」はありません。そして、子どもの思考もこれと似ているのです。幼い子どもの思考には「理由」はあっても「目的」がないのです。でも、この「反射に基づく思考」では創造的な行為を行うことが出来ません。目的に応じて考えることも出来ません。学んだことを理解する時にも使えません。学んだことを理解するためには、「理解するための思考」が必要になるのですが、「理解しなければという理由」があっても、「理解したいという目的」がない子にはその思考が出来ないのです。子ども達にその「目的」を与えてくれるのが「遊び」です。「セミを捕りたい」という目的がある子は、「どうやったらセミを捕ることが出来るのか」を能動的に考えます。これは反射ではありません。ですから、試行錯誤を繰り返しながら色々な方法を自由に考えることも出来ます。でも、自分はセミが捕りたくないのに、先生から「セミを捕ってこい」という課題を出された子は、嫌々アミを持って出かけても「捕まえるための工夫」をすることが出来ません。そのため、運が良くなければ捕まえることが出来ません。子どもが能動的に考えるようになるためには、子ども自身の心の中に「考えるための目的」が必要になるのです。その多くは「あこがれ」から生まれます。セミ捕りが上手な子にあこがれて自分も色々なことを考え、色々と工夫し始めるのです。子どもは大人が凄いことをやってもあこがれませんが、自分と年令が近い子がやっている「凄いこと」にはあこがれるのです。そして「どうやったらその子に近づけるのか」を能動的に考え始めるのです。それは、コマ回しでも、竹馬でも同じです。それが、子どもの本能であり、「子どもの成長に必要な遊びの場」なんです。それに対して、「ゲーム」をプレイする時に必要な思考は反射的な思考です。だから3才ぐらいの幼児でも遊ぶことが出来るのです。サルでもスマホゲームで遊ぶ事が出来ます。また「○○ランド」のような場での遊びは「子どもの能動性」を必要としない「受動的な遊び」です。確かにそのような遊びは楽しいかも知れませんが、「能動的に感じ、考え、行動することを必要としないような遊び」は、子どもの「能動的な意志の育ち」や、「自分の頭で考える能力の育ち」を阻害してしまうのです。勉強も同じです。子どもに「大人になったら必要だから」という理由だけで、「子ども自身には意味も、目的も、楽しさも分からない勉強」を押しつけたら、「自分の頭で考えない勉強が嫌いなだけの子」が育ってしまうだけです。9才から10才頃までの子どもに必要なのは「遊びの場での学び」なんです。「遊びを通した学び」と言い換えることも出来ます。そのような場では「楽しい」とか「出来るようになりたい」ということが、自分の意志で考える動機になるのです。考えることが楽しくなければ子どもは考えないのです。そして子ども達は、その「遊びの場」で、「手を使って考える」「からだを使って考える」ということをやっています。「理解し創造するための思考」には「自分自身との対話」が必要になるのですが、体験も乏しく、言葉が未成熟で、まだしっかりとした自我が目覚めていない状態の子どもは、頭の中だけで自分自身と対話することが出来ないからです。だから、考えるためには「思いついたことを手やからだを使って実際にやってみる」という活動が必要になるのです。自分の考えを一回、頭の中から外に出してみるのです。そして、「他者となった自分の考え」と対話するのです。頭の中だけでこれが出来るようになるのは、このような体験をいっぱい繰り返して大きくなった子だけです。手を使っていっぱい絵を描いた子は、頭の中だけでも絵を描くことが出来るようになります。手を使っていっぱいソロバンを練習した子は、頭の中にソロバンをイメージすることが出来ます。そしてそれを使って、頭の中だけで計算することが出来るようになります。手を使っていっぱい工作をした子は、材料を見るだけで何が作れるかをイメージすることが出来るようになります。ナイフ使って何回もケガをしたことがある子は、「どういう使い方をするとケガするのか」ということをやってみなくても分かるようになります。そのように実際の体験を繰り返すことで、頭の中だけで「考える」ということが出来るようになるのです。そして、自分の考えに振り回されなくなるのです。それが「子どもは遊びを通して成長している」とか、「子どもは遊びを通して学んでいる」ということの意味でもあるのです。たしかに、いくらいっぱい遊んでも学校で教えているような「知識」は学べません。でも、遊びを通して、「自分の人生を豊かにし、自分の人生を自分らしく生きるために必要な智恵」は学ぶことが出来るのです。そして知識は後からでも学べますが、智恵は「能動的な遊びが楽しい時期」にしか学べないのです。
2024.07.17
コメント(0)
最近の子は道具を使うのが苦手です。それは「意識とつなげた状態で指や手を使う事が出来ない」ということでもあります。トンカチやノコギリといった「腕全体を使うような道具」も苦手ですが、裁縫の用の針や羊毛用のニードルといった「指先で使う道具」を扱うのも苦手です。輪ゴムをつなげるのもヒモを縛るのも苦手です。ハサミの使い方も下手です。コンパスや定規の使い方も下手です。そして、そのような活動を嫌がります。(下手でも好きなら問題ありません。上手下手の問題ではなくそのような行為を楽しめるか楽しめないのかということです。)生活の場から、そういうものを使う機会が消えてしまったのですから使えなくても当然といえば当然です。だから、子ども達のそのような状態を問題視している人も少ないです。ほとんどのお母さんは、我が子がナイフが使えなくても、竹とんぼが飛ばせなくても、靴のヒモが結べなくても気にしません。そもそも、子どものそのような状態を知りません。多くのお母さんが気にしているのは、学校の成績と周囲からの評判だけです。でも実は、道具が使えない、指や手が使えないというのは、子どもの成長から見たら非常に大きな問題なんです。なぜなら、腕や指に意識を向けることが苦手な子どもは考えることも苦手なことが多いからです。「使う必要がないのなら使えなくても問題はない」というのは「社会の都合」であって、「命やからだの都合」ではないのです。「命」とか「からだ」というものは、意識や心や肉体も含めて「システム」として機能しています。そして、成長するということはそのシステムとしてのつながりが維持された状態で、システムがさらに複雑化していくことです。心やからだ、知性や、思考力や、感性がバラバラに成長していくのではなく、全てがつながった状態のままで、相互に影響を与えながら一緒に成長していくのです。そのため、現代社会では必要がない能力だからといって、その能力の育ちを無視していたら、その遅れにつられて他の能力の育ちも遅れてしまうのです。ヘレンケラーのバラバラになった心の中が一つにつながったのは、水に触れた時の手や指の感触とサリバン先生がヘレンの手の中に書いた「ウォータ」という言葉がつながった時です。ちなみにヘレン・ケラーは見ることも聞くことも話すことも出来なかったので、手のひらに指で文字を書いて言葉を教えたそうです。(それようの文字があるそうです。)それが可能なのは指や手のひらの感覚の分解能が高いからです。指や手の感覚能力は目や耳の感覚能力に匹敵するのです。現代人でも「思考力」(考える能力)は大切だと思っています。だから、勉強などでも「もっと考えろ」と子どもに要求しています。パスカルという哲学者は「人間は考える葦である」ということを言いましたが、でもその「考える能力」は生まれつきのものではありません。生まれつきなのは、「様々な体験を通して考える能力を獲得する能力」であって、「考える能力」そのものではないのです。でも、多くの人がそのことを知りません。その「考える能力」を育てるために一番大切なのが、「見ること」と「聞くこと」と「指や手を使う活動」なんです。このセットが重要なんです。だから赤ちゃんは本能的に、自分の指を舐めたり、色々なものを叩いたり、破ったり、いじくり回したりするのです。お母さんやお父さんが大切にしているものにふれて壊して叱られたり、積み木を積んで遊んだりするのです。でも現代人は子ども達からそのような「困った活動」を取り上げてしまいました。でもそのことが、子ども達の「考える力の育ち」を阻害する結果になってしまったことには気付いていません。
2024.07.16
コメント(0)
現代人は、昔の人に比べて「道具」を使いません。道具とは、包丁、箒、チリトリ、洗濯板、スキやクワ、桶、柄杓、トンカチ、荷車などというような「人が手やからだを使って自分のからだの延長として使うもの」です。子どもたちが遊びの場で使っていたナイフや、様々な道具を使って自分たちで作った竹馬や、コマや、凧なども「道具」の一種です。「遊ぶための道具」です。これらの「道具」の特徴は、使う人の能力に合わせて便利になったり、全然役に立たなかったりするということです。下手な使い方をすると役に立たないどころか怪我をしてしまいます。現代人はそういう「道具」の代わりに「機械」を使います。「道具」と「機械」の違いがどこにあるのかというと、「道具の能力」は「それを使う人の能力」に依存しますが、「機械の能力」は「使う人の能力」ではなく「機械自体の能力」に依存するということです。それはつまり、同じ機械を使えばベテランがやっても初心者がやっても同じ結果を出せるということです。ベーゴマが回せるようになるためには練習が必要ですが、ベーブレードを回すために必要なのは説明書を読むことだけです。また、「道具」はからだの動きや能力を拡大してくれます。でも、拡大してくれるだけで代わりにやってくれるわけではありません。それに、拡大してくれるのでからだを正確に動かさないと被害も大きくなります。素手で殴るよりトンカチで殴った方が怪我はズーッと大きくなりますよね。熟練した人がよい道具を使えば、思い通りに作品を作ることができます。でも、初心者はどんなに良い道具を使っても思い通りに作品を作ることができません。逆に道具を壊してしまいます。先日、教室の子どもが数人、ナイフで木を削ってスプーンを作っていたのですが、ナイフなどほとんど使ったことがない子どもたちばかりですから、全然思い通りにいきません。まず、ナイフをコントロールするために必要な指や、手首や、腕の力がありません。また、指や、手首や、腕に意識を向けることができないのでナイフを思った通りにコントロールすることも出来ません。というかどうやって手を動かしたらいいのかすらわかりません。「木」と対話する能力もないので「木の目」や「木の特性」を読むことが出来ず、力もないのに、力ずくで何とかしようとしてしまいます。結果、やればやるほど「スプーン」から遠ざかっていきます。怪我もします。それでも諦めない子は上達していきますが、ほとんどの子は、思い通りにいかないということが分かった時点で「疲れた」と言って諦めてしまいます。それでも、普段から「からだを使った遊び」をいっぱいやっているような子はなかなか諦めません。普段の遊びを通して「自分のからだを使って木やナイフと対話するコツ」が分かっているからなのでしょう。対話が出来るから面白くなるのです。また上達もするのです。でも今、そういう子は多くありません。昔の子どもたちは生活の場でも、遊びの場でも、道具を使ったり、からだを使ったりすることで「からだの使い方」を学んでいました。そして、「からだの使い方」を学ぶ過程で「自分のからだ」や「自分が関わっている相手」と対話する能力も育っていたのです。「ナイフで木を削る」という遊びを通して「木と対話する能力」も育つのです。そしてその能力は、相手が木でなくても使うことが出来ます。木を相手にして学んだことが人間を相手にした場合でも使うことが出来るのです。自分のからだや木と対話できる子は、人とも対話できるのです。それはつまり、上手に道具を使いこなすことが出来る子は、人と対話する能力も高いということです。まあ、素質も影響しますからイコールということではありませんが、相関関係はあります。
2024.07.15
コメント(0)
昨日は、現代人は子どもとの対話も、自然との対話も、からだとの対話もせず、相手に一方的に自分の価値観や要求を押し付け、自分勝手なことばかり言ったりやったりしている。ということを書きました。ネットなどでも、ちょっと自分の意見と違うことを言う人がいると、対話を求めるのではなく、一方的に上から目線で攻撃する人がいっぱいいます。子どもと対話するためには、生活を共有し、言葉を共有し、体験を共有し、感覚を共有し、歌や踊りや物語を共有すれば対話が成り立ちます。でも実際には、これらのほとんどが失われてしまった状態で子育てや教育が行われています。現代社会には、衣食住の世話をし、大人の期待に応えるように子どもたちを追い立てているだけの子育てをしている人がいっぱいいます。現代の教育では知識を教え、覚えさせているだけで、それらを栄養にして子どもたちの心やからだを育てようとはしていないように見えます。「教育」という言葉は「教える」と「育てる」が組み合わさっていますが、現代の教育では、「教育」から「教える」ことだけが残り、「育てる」ということが消えてしまっているのです。自然と対話するためには自然と関わる必要があります。でもその関わり方は様々です。なんせ、人間自体が自然の一部そのものなんですから。まず、そのことに気付く必要があります。生・病・老・死の全てが自然現象なんです。出産や子どもの成長も自然現象です。自分の性別や顔やからだの状態も自然現象です。ただ、「生命」はその自然の働きに流されない存在として生まれてきました。だから、自然の働きに抵抗することが出来るのですが、だからといって自然を支配しようとしてはいけないのです。またそんなことは出来ません。「部分」に過ぎないものが、自分を含んだ「全体」を支配することは出来ないのです。空が晴れれば「自分の中の自然」が反応します。花を見ても「自分の中の自然」が反応します。子どもの笑顔を見ても「自分の中の自然」が反応します。美味しいものを食べても「自分の中の自然」が反応します。空の星を見ても「自分の中の自然」が反応します。朝日を見ても「自分の中の自然」が反応します。自然との対話を取り戻すためには、まず、その「自分の中の自然」に気付く必要があるのです。それが鈍くなっていると「自然との対話」は出来ないからです。「自分の中の自然」を感じることが出来ない人は、野原や森で遊んでも、野原や森にあるものを「物」としてしか見ることが出来ないのです。子どもの洋服についた泥は見ることが出来ても、子どもの笑顔を見ることが出来ません。「からだとの対話」を取り戻すために一番簡単なのは「道具」を使うことです。「自分の代わりに仕事をしてくれる機械」ではなく、ノコギリやトンカチのような「自分の手やからだの一部として使う道具」です。<続きます>
2024.07.14
コメント(2)
現代人は「自分のからだ」を道具のように扱っています。からだの声を聴くことも、からだと対話することもなく、頭の命令によってからだを一方的にコントロールしようとしています。その結果健康が失われたり、からだの具合が悪くなったりすると、薬や手術などで強制的に言うことを聞かそうとしています。どうしてもだめになった場合はその部分を人工物に変えたり、「他の人からのもらいもの」と交換したりします。それはまるで、「相手のことや周囲の人のことを考えずに、自分勝手に行動している子ども」のようです。「子どもを自由にさせておけば、自由に生きることが出来る大人になる」と信じて、そういう教育を行っている人を時々見かけます。じゃあ、そういう「野放し教育」を受けた子は実際に自立できるようになるのか」というと、現実はそう思い通りには行きません。なぜなら「野放し教育」を受けている子は、他者との間に幸せな関係を築いたり、他者から学ぶ能力を育てることが出来ないからです。他の人と対話する能力も育ちません。自分がやりたいことを自分勝手にやろうとする子が相手に対話を求めるわけがないからです。そういう状態の子は、相手が思い通りにならない時には、大きな声を出したり、暴れたり、怒ったりして力づくで自分の要求を通そうとするだけです。でも、そんな野放し状態が可能なのは、野放しを許してくれる親に守られている時だけです。それはつまり、野放し教育を受けた子は、親の期待とは逆に「自立できない大人」に育ってしまうということでもあります。そして実は、同じような関係が「人間」と「自然」の間にも、「頭」と「心とからだ」の間にもあるのです。人間は自然を相手に自分勝手に振舞ってきました。自然の声を聴こうともしませんでした。ビルを建てるのに山が邪魔なら、平気で山を崩してしまいます。そこに生きている生き物のことを無視して、森や林や野原をつぶして町や工場や農地を作ってしまいます。そんな「人間の自分勝手」を支えてくれたのが科学技術の進歩です。「人間にとって不都合な自然」は、科学が力ずくで抑え込んでくれたのです。でも、それも限界に近づき始めています。科学ではどうにもならないほど自然が歪み始めてしまったからです。「頭」と「心とからだ」の間にも同じようなことが起きています。現代人は、一方的に「頭の要求」を「心」や「からだ」に押し付けています。「心やからだの声」に耳を傾けようともしません。でもその結果、現代人の心やからだは非常に不安定になってしまっています。免疫力も低下しています。また、対話がないので「頭」が「心」や「からだ」から学ぶこともできません。「心が感じている世界の素晴らしさ」や、「からだが触れている世界の不思議」と出会うことも出来ません。その結果「自分勝手な頭」だけが暴走しています。でも、「心」や「からだ」が病めば「頭の働き」も狂いだすのです。もっとも、心やからだと対話することが出来ない人は頭の働きが狂っていてもそのことに気づきませんけどね。また、「心」や「からだ」と対話することが出来ない人は、「頭の世界」が閉ざされてしまっているので、意識が成長することもありません。もちろん、「心」も「からだ」も成長できません。そういう一方的な状態から抜け出し、意識や心やからだの成長を取り戻すためには「対話」が必要になるのです。「子どもとの対話」「自然との対話」「心やからだとの対話」です。相手を一方的にコントロールしようとする意識を捨てて相手の言葉に耳を傾けるのです。ときにそれは「声にならない言葉」かも知れません。でも、そんな「声にならない言葉」でも、耳を澄ませば聞こえてくるのです。人間にはそういう能力があるからです。現代人は忘れてしまっていますが、人間には目には見えないものを観、耳には聞こえない音を聴き、手では触れることが出来ないものに触れることが出来る能力があるのです。人間がまだ自然と共に生きていた頃は、人々はそのような能力をつかって自然と共存しながら生きていました。ちなみに、今でも7才頃までの幼い子ども達はそのような感覚世界に生きています。だから「訳の分からないこと」を言うのです。そしてだから、そのような世界を否定する大人は子どもと対話することが出来ないのです。自分の要求を通そうとするだけで、子どもや、自然や、からだと対話することが出来ない大人が支配する世界はやがて崩壊します。それは野放し状態で育った子が、成長と共に生きていくのが困難になってしまうのと同じです。
2024.07.13
コメント(0)
「自由に生きる」というのはどういうことなんでしょうか?「好き勝手に生きる」ということと同じなんでしょうか?そもそも「自由」って何でしょうか?「自由にしていいよ」と言われて、どうしていいのか分からず不自由になってしまう子がいっぱいいます。「お仕事」を与えられることで「自分の頭で考える必要」がなくなり、「自分の頭で考えるストレス」から解放される子もいます。それは「自由になった」ということなのでしょうか?子育てなどでも、「どっちにするのかは自分で決めて下さい」と言うと「先生が決めて下さい」というお母さんがいます。「子育てに正解はないんだよ」と言っているのに、「正解を教えて下さい」と言って来るお母さんもいます。目の前に選択肢がいっぱいあるのに、その選択肢を見ようとせず、不自由を嘆いている人がいっぱいいます。そういう人は「出来る事」は探さず、「出来ないこと」ばかりを探します。そのような人に「こういう選択肢もあるよ」と伝えても「でも・・・」という返事しか返ってきません。私は30才でそれまで勤めていた仕事を辞め、リュック一つで世界放浪の旅に出ました。そんなお気楽に生きている私を見て「しのは自由でいいよな」という友人がいました。「自分も絵の勉強でヨーロッパに行きたい」というのです。だから私は「行きたいんだったら行ったら」と言ったのですが、「でも・・・」という返事しか返ってきませんでした。それで、「お金がないの?」と聞くと「お金はある」と言うのです。「休みが取れないの?」と聞くと「休みが取れないこともない」と言います。「じゃあ行ったら」と言ったのですが、それでも「でも・・・」しか返って来ないのです。そういう人は何に束縛されているのでしょうか。「自由」を「善」と考える人もいれば、北朝鮮の金正恩のように「悪」と考える人もいます。そんな、自由を奪われた北朝鮮に住んでいる人たちは(一部の人を除いて)「自分たちは不自由だ」とは考えていないそうです。不自由を感じるのは自由を知った人だけだからです。光を知らない人は闇の中で暮らしていても、闇を知らないのです。だから、北朝鮮では韓国や欧米からの情報を徹底的に排除するのです。昔の日本にも、現代人が考えるような「自由」は存在していませんでした。それでも人々は、そのことに不自由を感じてはいませんでした。自由を奪われた生活をしている子ども達も、退屈を紛らわせるゲームや、ディズニーランドのような「楽しく遊ぶところ」があれば、自分の状態を不自由だとは感じません。でも、思春期が来て自分の人生を自分で選択しなければならない状況になった時、どうしていいのか分からなくなり、突然「身動きが取れない不自由」を感じ始めます。そんな時、「やりたいこと」を見つけることが出来れば、そこから「自由への道」はひらけるのですが、子どもの頃に家と学校を行き来するだけの生活をし、家ではゲーム、学校ではお勉強しかやってこなかった子は、「やりたいこと」を見つけることが困難です。また、ユーチューバーとかゲームクリエイターとか「やりたいこと」があっても、そのために努力することが出来ません。なぜなら、努力するために必要な「自分の意志」が育っていないからです。努力するということは、「自分の頭で考え、自分の感覚で感じ、自分の意志と責任で行動する」ということです。「努力」は自発的な行為なんです。ですから、「努力」を強制することは出来ないのです。強制してしまったらそれは「努力」ではなく、「強制から逃れるための行為」になってしまうのです。怖い人に追いかけられて必死に逃げている状態を「努力している」とは言いませんよね。だからこそ、「努力する能力」が育つためには自由が必要なんです。自由がない状況で育った子は「自分の頭で考え、自分の感覚で感じ、自分の意志と責任で行動する必要がありません。そのため能力「自分の頭で考え、自分の感覚で感じ、自分の意志と責任で行動する能力」が育たないのです。その結果、努力することも出来なくなってしまうのです。追い立てる人がいなくなったら止めてしまうような活動は「努力」ではないのです。「追い立てるような子育てや教育」は、子どもの「自由に生きる能力」の育ちだけでなく、「努力する能力」の育ちも阻害してしまうのです。そのような子は学校から出た後苦労するのです。
2024.07.12
コメント(0)
幼い子どもは自分の意志で、自由に生きようとしています。そこには大人の常識を越えた世界があり、その必死で生きている姿を見ていると「無限の可能性」を感じます。でも、大人達はその可能性を伸ばすどころか、「しつけ」や「教育」という名目で、必死になってその「可能性」をつぶそうとしています。狭い部屋の中に閉じこめられて、大人が与えたおもちゃだけで遊ばなければならない子どもたちがいっぱいいます。やることなすこと、大人の価値観で監視されている子どももいっぱいいます。外に出ても、「触ってはいけない」、「ケンカしてはいけない」、「ゴメンナサイと言いなさい」、「登ってはいけない」、「走ってはいけない」、「捕まえてはいけない」、「一人でどっかに行ってはいけない」などと、数え切れないほどの指示命令に束縛されています。そのような繰り返しを通して、やがて子どもたちは「能動的な行動への意志」「新しいことにチャレンジする意欲」「不思議を感じ、どうしてなのかを考える喜び」を失い、ただ暇つぶし的な遊びだけで遊ぶようになります。その一方で「他の人からの評価」を気にする感性は育ちます。おもちゃで遊ぶだけの時間、ゲームで遊ぶだけの時間、テレビやビデオを見るだけの時間はただの「暇つぶし」に過ぎません。なぜなら、子どもはその遊びを通して自分の成長に必要なことを何も学ぶことが出来ないからです。ストレス発散には役に立つでしょう。また、知識はいっぱい得ることが出来るかも知れません。でも、自分自身の体験とつながっていない知識は無意味です。試験やクイズの時以外、何の役にも立ちません。そのような遊びを通して子どもが学んでいるのは、子どもの成長には必要がないものばかりです。子どもは、自由が許される状態での仲間との関わり、自然との関わり、そして大人との関わりを通してその可能性を広げて行くのです。実際、仲間と関わり、自然と関わり、大人と関わりながら育った子は、一人の人間として、また一人前の社会人として生きていくことが出来ます。なぜなら、昔の子どもたちは、みんなそうだったのですから。一人の人間として、一人の社会人として生きていくために必要なことは全て、「仲間との関わり」「自然との関わり」「大人との関わり」を通して学ぶことが出来るのです。たとえそれが「幸福な関わり方」ではなかったとしても、そのようなものとの関わりが充分にあったならば、子どもは「生きる」ということを学ぶことが出来るのです。でも、そういうものが失われた生活をしている子は、どんなにたくさんの知識を知っていても、また学校の成績が良くても、大人になった時に「一人の人間として」自立することが困難になってしまうのです。そして、今そのような大人達がどんどん増えてきています。生きることに意味も喜びも感じることが出来ない若者も増えています。そのような若者は目先の快楽と仲間からの承認だけを求めて行動してしまいます。仲間から受ければ何でもやってしまうのです。そのように、能動的に生きる意志と意欲を失ってしまった人にとって、能動的に生きなければ生きていくことが出来ない現実の世界は、苦痛そのものなのです。古い話ですが、1997年に、『酒鬼薔薇事件』として有名な神戸連続児童殺傷事件が起きた時、多くの親が、我が子が「被害者になるかも知れない不安」ではなく、「加害者になるかも知れない不安」を感じたそうです。もしかしたら、お母さん達は無意識的にその犯罪の理由を知っているのかも知れません。最近の若者による理解不能な事件を見ても、その犯人の子ども時代は、凶暴でもなく、バカでもなく、貧しい家庭に育ったのでもなく、問題児でもなく、普通で、大人しく、むしろ成績優秀な子どもが多いように感じます。オーム真理教事件の時もそうでした。つまり、普通の子どもが大人になり、社会の中に出た時、そこに居場所がないことを感じ、突然「理解不能な事件」を起こすのです。事件を起こして早く社会からドロップアウトしたいだけなのですから、相手は誰でも構わないのす。ちなみに刑務所に入ると、子どもの時のように受け身だけで生活することが出来ます。つまり、能動的に生きる意志を失ってしまった人にとっては、刑務所の中の方が気が楽だということです。だから、出所してもすぐに犯罪を犯して、刑務所に戻ろうとする人がいっぱいいるのでしょう。
2024.07.11
コメント(0)
日本の学校教育は明治になってから始まったのですが、江戸時代までは「学校」ではなく「寺子屋」が子どもの教育を担っていました。その「寺子屋」は、子どもや個々の家庭や地域のニーズに合わせて子どもの教育をしていました。まただから、子どもや親が先生を選ぶこともできました。地域で先生を呼んできて寺子屋を開くようなこともあったようです。そんな寺子屋では、地域の異年齢の子どもたちが一緒に学んでいたのですが、一斉授業ではなく、先生が個々の子どもに対応しながらその子に必要なものを教えていました。また、子ども相手だけでなくさらに大きくなった人の学びの場としての私塾もありました。幕末、明治と活躍した多くの人たちを輩出した吉田松陰による「松下村塾」もそのような私塾の一つでした。その私塾も「押し付けられたもの」ではなく「自分で選ぶもの」でした。簡単に言ってしまうと、明治になるまでの日本には「寺子屋」とか「私塾」という名前の「フリースクール」しかなかったのです。そして、そのフリースクールを出た人たちが長い間日本を支え、明治維新や文明開化を成功させたのです。でも、明治になると「子どもや個々の家庭や地域のニーズに合わせた教育」ではなく、富国強兵を目的とする「国のニーズに合わせた教育」を行う場として「学校」が作られました。そんな学校で教えたのは、「日本の音楽」ではなく「西洋の音楽」でした。「日本人が大切にしてきた価値観」ではなく「欧米の人たちが大切にしている価値観」でした。「地域のこと」ではなく「国のこと」でした。これは今でも変わっていません。その結果、子どもたちの学びや意識が地域や生活から離れてしまい、子どもたちは「自分や地域のため」ではなく、「お国のため」、「お金儲けのため」、「出世のため」に学ぶようになりました。クラスメイトは「仲間」ではなく「競争相手」になりました。また、「欧米へのあこがれ」や「豊かさへのあこがれ」は大きく膨らみましたが、「家族や仲間の大切さ」や、「日本文化の素晴らしさや価値」を忘れてしまいました。その結果、多くの美術品が破棄されたり、外国に流失していきました。寺や仏像は壊されました。今でこそ偉そうに「これが日本の文化です」と言っていますが、それは、そういう動きに反対して必死になって日本の文化や美術品を守ろうとした人がいたからです。また、欧米の人の評価によって、日本の素晴らしさを見直す人もいました。欧米の国たちは自国の文化の上に文明を築いたのですが、日本は自国の文化を否定して文明を築いたのです。これは日本だけでなく韓国や中国も同じです。その結果、物質的豊かさは手に入れましたが、それと引き替えに、何百年と受け継がれてきた文化と精神的アイデンティティーを失ってしまったのです。でも今、そういう「お国のため」、「お金儲けのため」、「出世のため」ということを目的とした学校教育が成り立たなくなってしまっています。子ども達がそういうものに魅力を感じなくなってしまったからです。また学校も、「教育の目的」を子ども達が納得できるような形で提示することが出来ません。その結果、子ども達は「目的が分からない競争」に追い立てられているのです。そういう状況では「学校に行きたくない子」が増えても当然ですよね。私たちは今、明治維新以来の日本の教育の大きな転換点に立ち会っているのかも知れません。でも、この変革を進めるのは国ではなく、一人一人の意識です。「学校に行かないという選択をする子ども達」が大人の意識を変えてくれるのではないかと思います。そういう子ども達の声を聴いて教育が変わって行かなければ、日本はどんどん衰退していくと思います。
2024.07.10
コメント(0)
「子育て」には「大人のための子育て」と「子どものための子育て」があるような気がします。「教育」も同じです。その違いは、「子どもへの大人の期待」を叶えるためにするのが「大人のための子育て」で、大人の期待通りに育たなくても、子どもが自立して幸せに生きることが出来るように支えてあげるのが「子どものための子育て」です。そして、国が公費で運営している公立学校は「子どもへの大人の期待」を叶えるための場です。実際、学校では「国の期待」や「社会の期待」や、「社会的な成功を望む親の期待」を叶えるための授業をしています。ただ、そのような「大人のための子育て」をしている人も、大人のための子育てをしているとは自覚していません。だから、「今は苦しくても、結局それがあんたのためなんだから」と、嫌がる子どもを説得しようとしています。「大人のための子育て」をしている人は、自分たちがやっていることを子どもが肯定的に受け入れていないことを知っているので、「これがあんたのためなんだから」となんとか説得しようとするのです。「大人のための子育て」は「子どもが望む子育て」ではないので、どうしても「押しつける子育て(教育)」になってしまうのです。その結果、共感よりも説得や強制が多くなります。でも、「押しつける子育て」を受けた子は必然的に、自分の頭で考え、自分の感覚で感じ、自分の判断と意思で行動することが出来なくなります。そして、大人が与えてくれた正解に従って生きるようになり、「自分らしさ」とともに「自分の人生」を失います。そんな自分の状態に疑問を感じることなく一生を過ごせれば、それはそれでいいのですが、でも、思春期頃、もしくは中年にさしかかった頃に「自分の人生は空っぽだ」と気付いてしまことがあります。その時、「自分という存在」や「自分の人生」を肯定できなくなってしまうことが多いのです。高度経済成長の頃は世の中がキラキラしていたので、そのキラキラを手に入れさせようとする大人の期待と、キラキラを手に入れたいという子どもの期待が一致していました。だから、大人が与えてくれる子育てや教育を素直に受け入れていました。それが皆さんの親の世代です。「大人のための教育」では、子どもが自分の頭で考え、自分の感覚で感じ、自分の判断と意思で行動する能力は育たないのですが、みんなが同じ目標に向かって生きていた時代にはそのような能力は最初から必要がなかったのです。でも、そのキラキラは泡となってとうの昔に消えてしまいました。でも、キラキラは消えても、その頃に受けた子育てや教育の結果はいつまでもその人の中に残ります。それは、自分の頭で考え、自分の感覚で感じ、自分の判断と意思で行動する能力が育っていないという現実です。そのため、「大人のための教育」を受けた人は、時代や社会の状態が変わっても、学校や社会が与えてくれる正解を「正しい」と信じ、自分の子どもにも押しつけようとします。そして「これがあんたのためなんだから」と言います。人は「自分が受けた子育て」を、そのまま自分の子どもにも行おうとする傾向があるのです。そして、今、子育てをしている世代の人の多くは、このような子育てを受けてきたのではないでしょうか。でも、世の中は変わりました。みんなが「豊かさ」という一つの夢を追い求める時代は終わったのです。世の中から、「子どもがあこがれるキラキラ」は消えてしまったのです。今、そのキラキラはテレビの中にしかありません。でも、テレビの中の世界は意図的に演出された虚構の世界です。キラキラにあこがれて飛び込んでもその実態はドロドロかも知れません。今私たちが生きている世界では、自分が生きる目標や目的は自分で探すしかないのです。学校や大人が与えてくれる正解は、学校の外の世界では役に立たなくなってしまったのです。もちろん、自分の人生を生きる役にも立ちません。だからもし皆さんが自分の子どもの幸せを願うのなら、「大人のための子育て」ではなく「子どものための子育て」を与えてあげる必要があるのです。それは、「正解を教える子育て」ではなく、「子ども自身が自分の感覚で感じ、自分の頭で考え、自分の判断と意思で行動することが出来る能力」を育てる子育てです。でも、その方法に正解はありません。子どもは一人一人違うからです。能力も、好みも、感覚や感性も違います。だから、「子どもの育ちを支える子育て」をするためには、子どもの言葉に耳を傾け、子どもと対話し、子どもに「自由」と、「仲間」と、「遊びの場」を与え、大人達が自分の頭で考え、自分の感覚で感じ、自分の意志と責任で行動する必要があるのです。子どもの育ちに「お手本としての大人」や「人生の先輩としての大人」は必要ですが、「押しつけ、命令し、評価し、強制し、正解を教える大人」は必要がないのです。でも実際には、「押しつけ、命令し、評価し、強制し、正解を教える大人」はいっぱいいますが、「お手本としての大人」や「人生の先輩としての大人」は本当に少ないです。
2024.07.09
コメント(0)
しばらく前に、回転ずしの醤油の入れ物をペロペロやってネットにアップして騒ぎになった事件がありましたよね。それで警察に捕まったのですが、その時の彼の言い訳が「やってはいけないことだということを知らなかったんです」というものでした。でも、こういう「マナー」に属するようなことは、本来、知識として覚えることでも、教えることでもないのです。挨拶もまた同じです。知識として覚えていても使えないからです。そもそも、マナーは状況に応じて発生するものなので、その本質はマニュアル化することが出来ないのです。傘を脇に持って手を振りながら階段を登る行為が危険だということで問題になっていますが、これもまた同じです。幼い子どもや老人が歩いているような歩道を自転車で爆走したり、スマホを見ながら自転車に乗ったり歩いたりする人も同じです。バイトテロやカスハラをする人も同じです。そして今、そういう「みんなが迷惑するような行為を平気でする人」がすごく増えてきています。そういう人はみんな「教えてもらわなかったから」そういう行為をしているのでしょうか。じゃあ、知識として教えればそういう行為を止めるのでしょうか。そんなことはありませんよね。当たり前のようにこういう行為をしてしまう人たちに足らないのは、「知識」ではなく「想像力」なんです。「こういうことをしたらお店の人や周囲の人が困るだろうな」とか、「自分も困ったことになってしまうかも」という想像力です。崖の端っこに立って動画を撮ってアップしていたら落ちて死んでしまったという事件も起きましたが、こういう人に欠如しているのも想像力です。軽装で富士山に登って、頂上付近でにっちもさっちも行かなくなってしまう人に欠けているのも想像力です。そして今、「想像力」が欠如している人たちがどんどん増えてきています。想像力が欠如している人は自分中心的に考え、行動します。相手の立場に立って考えるためにの想像力が欠如してしまっているのですからそれは当然のことです。そして、想像力が欠如している人は簡単に洗脳されてしまいます。というか、洗脳に近いような子育てや教育を受けてきたから想像力が育たなかったのでしょう。マスクをし続けたらどういう影響があるか・・・。ワクチンを打ち続けたらどういう影響が出るか・・・。もちろんマスクをしないで起きることに対する想像力も、ワクチンを打たないことで起きることに対する想像力も必要です。その両方を想像した上で、自分の意志でどちらかを選ぶのならいいのですが、国が言っているから、医者が言っているから、周囲がみんなやっているからと言う理由だけで自分の行動を選択するような生き方をしていたら「自分の人生」を失うことになってしまうのです。自分の頭で考え、自分の感覚で感じ、自分の意志で判断して行動するためには「想像力」が必要なんです。「本に書かれているような知識」ではなく、「多様な体験をすることで育つ想像力」です。何回も木登りをしたことがある子は、木を見て登り方を想像することができます。危険も予測することが出来ます。でも、木登りをしたことがない子は自分が登っていることを空想することは出来ますが、空想は願望であって現実に即していません。そのため、空想しかしたことがない子が実際に木に登ってしまうと危険なことになります。空想の中の自分には重力による重さもないし、手は痛くないし、疲れることもないのですから。目の前にあるものを見て「上から見たらどう見えるか」「横から見たらどう見えるのか」を想像するために必要なのは空想力ではなく想像力です。平面図を見て立体を想像するために必要なものも想像力です。そして、空想は出来ても想像が出来ない子は、学んだことを覚えることは出来ても理解することが出来ないのです。「理解するためには想像力が必要だからです。これは国語、算数、理科、社会の全ての教科において同じです。「1 + 1=2」を覚えるのは簡単です。でも、これを理解するためには「色々な状況を頭の中に思い描いてシミュレーションしてみる想像力」が必要になるのです。そして、「多種多様な体験」があるから、その自由な想像が可能になるのです。いっぱい勉強させれば理解力がアップするのではなく、自由な状況の中で多種多様な体験をしたから、その体験を頭の中で自由に組み替えることが出来る想像力が育ち、想像力が育ったから理解することが出来るのです。そして、どうしてこんなにも想像力が欠如した子どもや、若者や、大人達が増えてきてしまったのかということですが、私は、それは子どもの「なんで? どうして?」や、「自由で多様な体験を大切にしない子育てや教育」、「子ども一人一人の子どもらしさやその子らしさを大切にしない子育てや教育」の結果なのではないかと思っています。学びの基盤となる想像力は体験によって育つのです。いくら知識をいっぱい詰め込んでも、体験が乏しければ想像力は育たないのです。そこ結果は思春期頃になって表れます。
2024.07.08
コメント(0)
人間は、何も知らない、何もできない状態で産まれてきます。出来るのは「成長すること」だけです。人間はその「成長する能力」を使って、生きていくために必要な他の能力を補うように出来ているのです。そのため、その「成長する能力」が充分に働かないと、生きていくのが困難になってしまうのです。その「成長する能力」が働くためには、成長に必要な栄養が必要です。肉体が成長するためには「物質的な栄養」が必要ですよね。それと同じように、心が成長するためには、「心を持った人との心ある関わり合い」が必要になるのです。「心の栄養」は「豊かな心を持った人」から受け継ぐしかないからです。映画などではAIに育てられた子の話がありますが、AIに育てられた子が人間らしさを身に着けることは不可能です。それは日本語しか存在しない環境で育てられた子が、日本語以外の言葉を話せるようになるわけがないのと同じです。感覚が成長するためには、「感覚の働きを大切にしている人との関わり合い」が必要になります。肉体的な機能としての五感の働きは生まれつきのものですが、その五感の働きが、心や、感情や、知性や、意識や、からだと良い関係で繋がるためには、「感覚の働きを大切にしている人との関わり合い」が必要になるのです。だから、日本人的な感覚を持った親に育てられれば「日本人的な感覚」が育ち、フランス人的な感覚を持った親に育てられれば「フランス人的な感覚」が育つのです。思考力が育つためには、思考を必要とする環境と、考えたり工夫したりすることを楽しむことが出来る人との関わり合いや、考えたことを実際にやってみることが許される自由な環境が必要になります。お母さんやお父さんがどんなに高い思考力を持っていても、子どもが「思考力を必要としない生活」をしているのなら子どもの思考力は育ちません。そして、いずれの能力の育ちにも「言葉の育ち」が必要になるのですが、子どもが言葉を学ぶためには「言葉を必要とする環境」と「言葉を知っている人との関わり合い」の二つが必要になります。このいずれが欠けても、子どもは言葉を学ぶことが出来なくなります。お母さんがいくら英語が得意でも、実際に生活の場でお母さんが英語を使っていないのなら、子どもはお母さんから英語を受け継ぐことはできません。まあ当然のことですよね。意識の働きが育つためには「言葉の学び」と「自分と向き合うような体験」が必要になります。子どもは教えてもらったから学ぶのではなく、必要だから学ぶのです。だから、一方通行の授業でいくらいっぱい色々なことを教えても、実際に「それを必要とするような体験」や「それを求める動機」がなければ、頭の中の知識としてとどまるだけで、子どもの知性や、心や、からだの成長を支える栄養にはならないのです。それは、「子どもの口の中に食べ物をいっぱい詰め込んでも、子ども自身がそれを喜び、咀嚼し、飲み込まないことには「子どもの成長を支える栄養」にはならないのと同じです。自分が望んでいないものを口に入れられても、子どもは大人が見ていないところでそれを吐き出してしまいます。「子どもの成長に必要なもの」をこのように考えていった時、今の子どもたちがいかに「ヤバイ」状況の中で生活しているのか」ということが分かるのではないでしょうか。最近の子は、家の中、テレビの中、ゲームの中、おもちゃの中、便利な機械が作り出す人工的な環境の中に閉じ込められて生活しています。そこには、機械との出会い、簡単便利との出会い、快楽との出会い、欲望との出会いはありますが、自然との出会い、人間との出会い、心との出会い、感覚との出会い、意識との出会い、言葉との出会い、成長する喜びとの出会い、自分の目標となるようなあこがれとの出会いはほとんどありません。機械に依存した「簡単で便利な生活」の中には、「楽しいもの」はいっぱいありますが、「子どもの成長に必要なもの」はないのです。
2024.07.07
コメント(0)
最近の子は遊びの場でも、生活の場でも、あまりからだを使うということがないので、「自分のからだのリアル」を知りません。そのため、テレビやネットなどに出てくる「すごいことをやっている人」を見て、「自分も簡単にできる」と思い込んでしまう子も多いです。ゲームの中では簡単に「すごいこと」が出来ますからね。リアルな世界でそんな「すごいこと」が出来るようになるためには、長い時間をかけた「すごい練習」が必要になるのですが、最近の子は、からだを使って色々なことにチャレンジした体験がないのでそういうことが分からないのです。だから「自分でもちょっと教えてもらえば簡単にできる」と思い込んでしまっているのです。「その過程でケガをしたり、苦しかったり、長い時間かかることがある」という想像も出来ません。私がコマを回していると、「僕も回したい」と言ってくる子はいっぱいいます。でも、教えようとして目の前でやって見せても、「何をどう見たらいいのか」ということ自体が分からない子が多いのです。「見てもわからない」というだけでなく、「見る」という行為自体に集中出来ない子がいっぱいいるのです。いつも受動的に見ているだけで、「能動的に見る」という機会が少ないからなのでしょうか。そういう子に、「やってみせるからちゃんと見ていて」と言っても、「私がやっていること」を見ようとしないのです。どっかに行ってしまう子も多いです。また、簡単に出来ると思っているので、ちょっとやって難しそうだと諦めてしまう子も多いです。そんな時に食らいついてくるのは普段から「からだを使った遊び」をしている子だけです。最近の子の「観察力」は悲惨な状態です。知恵の輪を渡しても、観察しようとせず、色々と試そうともせず、最初から「外し方を教えて」と聞いてきます。「椅子が作りたい」と言う子に、見本を見せて「これを参考にしてみて」と言っても、見本には見向きもしません。というか、「どう見たらいいのか」ということ自体が分からないようなのです。自分自身の体験が乏しい子は、人がやっていることをただ見ることは出来ても、想像力を働かせながら能動的に観察することが出来ないのです。「観察する」ということは、「ただ見ていること」と同じではないのです。そして、そのように観察力が低い子は、「人がやっていることを見て学ぶ」ということも出来ません。そのため、常に教えてもらいたがります。でも、観察力が育っていない子は、いくら丁寧に教えてもらっても、「教えてもらったこと」を理解することが出来ないのです。でも、観察することが得意な子は、教えなくても、他の人がやっているところを見て学ぶことが出来ます。だから、自分で自分を成長させることが出来ます。能動的に生きることも出来ます。観察力が高い子は、「人のこと」であっても「自分のこと」のように見て、感じて、理解することが出来るのです。また、「観察力」が弱い子は「想像力」も弱いです。そのため、「ナイフをこんな風に持ったらケガをする」ということを想像することも出来ません。自分には「楽しい遊び」であっても、相手には「苦しいイジメだ」ということを想像することも出来ません。視点の切り替えが出来ないからです。想像力も多様な体験によって育つのです。いっぱい木登りしたからまだ登ったことがない木を見ても「登り方」を想像することが出来るのです。それでは、どうして現代の子どもたちの観察力がそんなにも悲惨な状態になってしまっているのかということですが、それは、日ごろから観察を必要としない生活をしているからに他なりません。それは簡単な理由です。「包丁の使い方」を学びたいのなら、お母さんが包丁を使っているところをよく観察する必要があります。こういうことは「教えてもらったから出来るようになる」ということではありません。いくら丁寧に教えてもらっても、自分の意志と意識でしっかりと観察しないことには出来るようにならないのです。でもそのためには、子どもにテレビやゲームといった「受動的に遊べるもの」ではなく、能動的に観察し、考え、行動しないことには楽しくならない「退屈な時間」を与える必要があるのです。
2024.07.06
コメント(0)
ネットの記事などを見ていると、今、子どもたちの「体験格差」が大きな問題になっているようです。以下は、今井悠介という人が書いた「体験格差」(講談社現代新書)という本の内容紹介です。(ちなみに、私自身はまだこの本を読んでいませんけど。)習い事や家族旅行は贅沢?子どもたちから何が奪われているのか?この社会で連鎖する「もうひとつの貧困」の実態とは?日本初の全国調査が明かす「体験ゼロ」の衝撃!【本書のおもな内容】●低所得家庭の子どもの約3人に1人が「体験ゼロ」●小4までは「学習」より「体験」●体験は贅沢品か? 必需品か?●「サッカーがしたい」「うちは無理だよね」●なぜ体験をあきらめなければいけないのか●人気の水泳と音楽で生じる格差●近所のお祭りにすら格差がある●障害児や外国ルーツを持つ家庭が直面する壁●子どもは親の苦しみを想像する●体験は想像力と選択肢の幅を広げるyahooニュースでもう少し詳しい説明を読むことが出来ます。「体験格差」大人になったらどんな影響がある? 全国調査が明らかにした“ヤバい実態”「体験格差」は親の「経済格差」ともつながっていますが、それ以上に親の「意識格差」ともつながっています。同じような経済状態でも「どういう体験を子どもに与えたい」と思うのかは、親の意識次第だからです。そして、その意識格差の背景には親自身の子ども時代の体験も影響しています。「親にしてもらって良かった」と思ったことを、自分の子どもにもやらせてあげたいと考える人は多いです。自分自身の価値観や生き方に合わせて子どもに色々な体験をさせたいと考える人もいます。また、子どもの望みに合わせて、色々なところに行ったり、色々なことをやらせる人もいます。高いお金をかけて家族でディズニーランドに行く人もいれば、もっと安い費用でキャンプや近くの自然の中で遊ぼうと考える人もいます。もちろん、「ディズニーランド」とキャンプや野山での自然体験とでは、その「体験の質」が全く違います。そして「体験の質」が違えば、子どもの成長や、心やからだに与える影響も全く違います。「キャンプなんか行きたくない」と言っている子を無理矢理キャンプに連れ出しても、キャンプが大好きな子と同じ体験は出来ないのです。そして、キャンプを楽しむためには、その土台として別の体験が必要になります。日常的に自然の中で遊ぶことが多い子は、自然の中でのキャンプも楽しめるでしょう。でも、部屋の中で人工物に囲まれ、ゲームばかりしている子が、不便なだけのキャンプを楽しむのは難しいかも知れません。家でお料理のお手伝いをするという体験は、お金はかからないし、色々な面で子どもの成長にも良い影響があります。私は子どもの成長にとって一番必要なのは、習い事や旅行のような「高いお金を必要とする体験」ではなく、「お金をかけずにできる日常的な生活体験」や、仲間や多くの大人たちと群れて遊んだり、目的を持って活動したりする「人間体験」や「社会体験」なのではないかと思っています。実際、社会的に素晴らしい活動をした人の伝記なんかを読んでも、「高いお金が必要な体験をさせてもらったから」というような話を読んだ記憶がありません。むしろ、「貧しくて苦労した」という話の方が多いです。また、子どもの成長には、「受け身で出来る体験」ではなく、「能動的に取り組み、工夫が必要になるような体験」が必要です。「受け身で出来る体験」はお金で買うことが出来ますが、「能動的に取り組み、工夫が必要になるような体験」はお金では買えません。だから、(もちろんある程度の経済的余裕は必要かもしれませんが)ただ単に「お金があれば色々な体験を子どもに与えることが出来る」というような単純な話ではないのです。あと、「経済的余裕」よりもさらに必要なのは親の「精神的余裕」の方です。(両者は無関係ではありませんが、イコールでもありません。)お母さんが、子どもがやろうとしていることを見守り、待つことが出来るだけで、子どもは多くの体験をすることが出来るのです。でも、子どもがやっていることを親の価値観で評価したり、待てずに急かしたら、いっぱい色々なことをやらせても、その体験は子どもの成長につながらないのです。私は、最近の子どもたちに不足しているは、「自然体験」と、「感覚体験」と、「言葉体験」と、「人間体験」と、「遊び体験」だと思っています。もっとも「遊び体験」の中に、これらの全ての体験を入れ込むことは可能です。
2024.07.05
コメント(4)
いま、走ることが苦手な子、すぐ転ぶ子が増えてきています。走らせると、「どこか身体に障害があるのではないか」というような不自然な走り方をしたり、老人のように何にもないところですぐ転んだりするのです。特に山や野原のような平地ではない場所ではすぐ転びます。わらべ歌などで、「花いちもんめ」のように、手をつないで後ろ向きに歩くことがあるのですが、後ろ向き歩きをすると転ぶ子も結構います。転んだとき、手が出なくて顔面が直接地面にぶつかり大けがをしてしまう子や、ボールが顔に向かって飛んできているのに避けることも目を閉じることも出来ず、眼球を傷つけてしまう子が増えてきた、という報告はかなり以前から出ています。姿勢も悪いです。呼吸も浅いです。すぐ疲れます。指や手を使って工夫することが苦手です。意識や感覚が散漫で一つの事に集中するのが苦手です。心も不安定です。それでいて「こだわり」が強く「ゆうずう」がききません。困ったことに、同じような状態のお母さんもいっぱいいます。(多分、お父さんもなんでしょう・・・)そういう状態の背景には「からだの育ち」の遅れが影響しているのです。それは「からだの智恵」が育っていないということでもあります。その「からだの智恵」は「鍛える」という発想に基づくスポーツでは育てることが出来ません。また、スポーツでは、そのスポーツに応じて、からだの使い方や、意識や感覚の使い方が固定されてしまっているので、スポーツで身につけたものは、スポーツ以外の場ではあまり役に立たないのです。それは、「学校で学んだ知識」が「学校以外の場」ではあまり役に立たないのと同じです。(それじゃあ困るのですけどね・・・)「学校以外の場」で役に立つのは「知識」よりも「智恵」です。そして、「智恵」が育っている子は生活の場や仕事でも、有効に「知識」を使うことも出来ます。でも「智恵」が育っていない子は、試験の時にしか「知識」を役立てることが出来ません。その「智恵」には「頭の智恵」と「からだの智恵」の二種類があります。ただし、この二つは別々のものではなく、連携して働いています。この二つの智恵が働いている人は「子育て」も「仕事」も楽しむ事が出来ます。それらの活動を通して多くを学ぶことも出来ます。でも、この智恵が働いていない人は「子育て」も「仕事」も単なる「お仕事」にしてしまいます。そのため何も学べません。楽しめません。そして、すぐに疲れます。でも、学校は知識を覚えさせることばかりに熱心で、智恵を育てようとはしていません。お母さん達もまた、「お母さんの言うことをよく聞くよい子」を育てようとするばかりで、「智恵」を育てようとはしていません。というか、もうすでに多くのお母さん達が「智恵」を失ってしまっています。だから、「子育て書」に依存しないと子育てが出来なくなってしまっているのです。昔の子ども達は「遊びの場や生活の場での体験」を通して知恵を育てていましたが、最近の子にはその両方ともありません。整地され管理された運動場を走る能力と、自然な状態の野山を走る能力は同じではありません。プールで泳ぐ能力と、海で泳ぎながら遊ぶ能力は同じではありません。そして、子どもの時に学ぶべきなのは、スポーツ的な「特殊化されたからだの使い方」ではなく、自由で応用が利く「遊びを通したからだの使い方」なんです。それが、私が言っている「からだの智恵」でもあります。でも今、「スポーツでからだを動かす場」はあっても、「遊びでからだを動かす場」がありません。公園で遊んでいると「うるさい」と叱られます。自由に遊べる広場や野山、そして一緒に遊んでくれる仲間も消えました。公園などでは木登りをしているだけでも叱られます。うちの子が小学生の頃、別のクラスの子がブランコから落ちてケガをして救急車で運ばれるという事故がありました。最初は、何かふざけていて落ちたのかと思ったのですが、そうではなく大きくこいでいるうちに、途中で怖くなって手を離してしまったらしいのです。今の子ども達は、遊びや生活の中で「しがみつく」という体験が少ないので、しがみつく力も、しがみつこうとする本能も弱いのです。親子遊びで、子どもを布に乗せて引っ張る遊びをするのですが、布の上にちょこんと座るだけでしがみつこうとしない子がいっぱいいます。(ベビーカーではしがみつく必要がありませんからね。)そのような状態で布を引っ張ると、後ろにコテンと倒れてしまうので、「布をつかんで」と言うのですが、なかなかその感覚が分からないようです。四つん這いになったお母さんやお父さんの背中に子どもをしがみつかせて、振り落とすような動きをする「ロディオ」という遊びがあるのですが、この時もただちょこんと乗るだけでしがみつけない子がいっぱいいます。手だけはしがみつけても、足まで使うことが出来る子は少ないです。そのため、すぐに落ちてしまいます。うちの子達も小さいときからこの遊びをやっていたのですが、うちの子達は四人とも、まるで「大リーグボール養成ギブス」のようにがっちりとしがみついて、どんなに暴れまくっても落ちませんでした。そのまま立って、ジャンプしても落ちないくらいでした。でも、我が子以外で、そのようなことが出来る子は少ないです。あと、「ランドセル」とか、「お猿の赤ちゃん」とか、しがみつく遊びは色々とあるのですが、今、しっかりとしがみつくことが出来る子は多くありません。また、鬼ごっこのようなことをしていると、前を向いて走らないため、正面衝突もよく起きます。細かいからだの使い方も苦手です。「こより」(分かりますか?)を撚ったり、羊毛を小さく丸めたり、針に糸を通したり、コマのヒモを巻くような作業も苦手です。からだ全体を使って、剣玉の球をひょいと上に上げるようなからだの使い方も苦手で、腕だけで剣玉を振り回してしまうので非常に危険です。竹とんぼを飛ばすのも、弓矢を飛ばすのも苦手です。「からだの智恵」が育っていないのです。そのため、カッターやノコギリのような刃物を使わせると非常に危険な使い方をします。それで、「正しい使い方」を教えるのですが、からだの智恵が育っていない子は、なんべん教えても「自分のやり方」を変えることが出来ません。また、そういうものでケガをしたことがないので、ケガに対する認識もありません。それでケガをしてしまう子も多いです。それでも、「からだの智恵」が育っている最中の3,4才頃の子なら、ケガをしてもまたやりたがるのですが、年長さんや小学生ぐらいになると、一度ケガをしてびっくりしてしまうと、「ぼく それ嫌い」といって、二度と手を出さなくなる子も結構います。また、自分がケガをするだけならいいのですが刃物の怖さを知らないので、平気で振り回したり、危ないことをしてしまう子もいます。この状態を変えるためには、日々の生活や遊びを変える必要があるのです。
2024.07.04
コメント(0)
昨日は「自分のからだに意識を向けて下さい」ということを書きました。「意識を向ける」ということは「感じようとする」ということでもあります。そして、「感じようとする」ことで、「そのもの」が存在しはじめるのです。「からだ」を感じようとするから「からだ」という存在が現れるのです。「自分」を感じようとするから「自分」が現れるのです。「からだ」が存在しているから「からだ」を感じる事が出来るのではなく、「からだ」を感じようとする意識の働きが「からだ」を生み出すのです。これは「からだ」や「自分」だけではありません。「木」でも、「石」でも、「光」でも、「愛」でも、「勇気」でも、「希望」でも、「神様」でも同じです。客観的な存在としての「肉体」は感じようとしなくても最初から存在しています。だから本人の気持ちとは関係なく医者が扱うことが出来ます。でも、「からだ」は「自分の意識」が創り出しているものなので、医者には扱うことが出来ないのです。「石」はそこいら中に落ちています。でも、「石が大好きな人にとっての石」と「石に関心がない人にとっての石」は同じではありません。だから、「物理的には同じ石」を見ていても、一人一人異なった「石」を見ているのです。その違いは、その「石」の絵を描いたり、その「石」について詩を書いたりすれば分かります。同じものを見ているのに、一人一人みんな違う絵を描き、詩を書きますから。私たちが生きているのは、「自分の意識と感覚が創りだした世界」なんです。「自然が大好きな子」を自然の中に連れ出せば、自然の中に色々と「素敵なもの」、「キラキラしたもの」、「面白いもの」をいっぱい発見するでしょう。でも、「自然が苦手な子」を自然の中に連れ出しても、「退屈なもの」「汚いもの」「面白くないもの」「気持ちが悪いもの」しか見えないのでしょう。「この世界は悪人ばかりだ」と言う人も、「この世は善人ばかりだ」と言う人もいますが、それは「その人にとっては」というだけの話です。そこに全ての人にとって客観的な事実なんてありません。悪人を探そうとすれば悪人ばかりになり、善人を探そうとすれば善人ばかりになるのです。神様を感じようとすれば、そこいら中に神様を感じることが出来ます。だから、子育てや教育では、単なる知識を教えるのではなく、子どもの不思議や、興味や関心をいっぱい増やしてあげた方がいいのです。自分が生まれてきた世界の「否定的な側面」ではなく「肯定的な側面」をいっぱい伝えてあげた方がいいのです。「勉強」を教えるのではなく「勉強の楽しさ」を教えてあげるべきなんです。「勉強の楽しさ」を伝えることが出来れば「勉強しなさい」などと子どもを追い立てなくても子どもは勉強するようになるのです。「優しいって嬉しい、気持ちがいい」ということを伝えることが出来れば「優しくしなさい」と怒鳴らなくても、優しい子に育つのです。「考えるって楽しい」ということを伝えることが出来れば、「考えなさい」などと言わなくても、自分の頭で考えるようになるのです。でも、「考える楽しさ」を知らない子に、いくら「考えなさい」と言っても無駄です。何を言われているのかすら理解出来ないでしょう。多くのお母さんや先生達が、子どもに勉強を押しつけることで「勉強が嫌いな子」を大量生産しています。そういう子は「試験のための勉強」しかしなくなります。問題は「勉強って楽しい」ということは、「勉強が楽しい人」にしか伝えられないということです。「この世界はすばらしい」ということは、「この世界はすばらしい」と感じている人にしか伝えることが出来ません。だから、子ども達を積極的に「自分の人生を生き生きと生きている素敵な大人」と出会わせてあげて欲しいのです。話が広がってしまいましたが、ゆっくり動くなどして自分の「からだ」に意識を向けてみて下さい。自分の姿勢や動きに意識を向けて下さい。深く感じることが出来るようになればなるほど自分のからだが豊かになりますから。
2024.07.03
コメント(0)
現代人は「からだとの対話」が苦手です。この場合の「からだ」とは、単なる「肉体」のことではありません。目を閉じた時にも感じることが出来る「自分という存在」そのものです。それは、「肉体」という「物理的存在」ではなく、「意識の働きとつながっている感覚の働きが創りだした肉体を超えた存在」です。ですから、「自分の肉体よりも大きなからだ」を感じることが出来る人もいれば、「肉体の中に埋もれてしまうような小さなからだ」しか感じることが出来ない人も居ます。その「小さなからだ」の人は、自分で「自分という存在」を感じるのが苦手です。「自分」がはっきりとしていないからです。そのため、不安や孤独を感じやすいです。それを「透明人間のような自分」と表現する人もいます。以前、「自分のからだを感じるワーク」で、床に寝て目を閉じてもらい、「自分のからだ」を感じてもらいました。「足の親指はありますか」「かかとはありますか」「ふくらはぎは・・・」と次々と聞いていったら、「右足がありません」とか「内臓がありません」などと言った人がいました。もちろん物理的には存在しているのですが、それが「自分」という意識とつながっていないので感じことが出来ないのです。「自分のからだ」なのに、「自分」から切り離されてしまっているのです。指を感じることが出来ない人は指を使うことが出来ません。肺を感じることが出来ない人は呼吸を感じることが出来ません。そして、「自分」という存在を感じることが出来ない人は「他者」という存在も感じることが出来ません。ちゃんと見えるし、ちゃんと声を聞くことも出来るのですが、リアルな「存在」として感じないのです。どうしてそういう状態の人が多くなってしまったのかというと、現代人の簡単で便利な道具や機械に囲まれた生活では「からだ」と対話する必要がないからです。ゲームのような仮想空間の中ではなおさらです。だから意識の中から「からだ」が消えてしまうのです。そんな、消えてしまった「からだ」を取り戻してみませんか。まず、からだを動かしても物にぶつからない程度の広い空間を見つけ、足を少し広げて自然体で立ちます。そして、目を閉じてゆっくりと色々からだを動かしてみて下さい。手を挙げたり、からだをねじったり、ポーズをしたり、色々な動きを試してみて下さい。ゆっくりと動きます。その時、自分のからだがどのように動いているのかを感じることが出来ますか。また、時々動きを止めてみて下さい。動きは感じることが出来ても、静止した時にからだを感じることは出来ますか。今、自分のからだがどのような状態になっているのか分かりますか。手や指、そして足や胴や腕や全身の状態が分かりますか。分かりにくかったらその部分をかすかに動かしてみて下さい。この静止状態での自分のからだとの対話は横に寝てやるともっとはっきり分かってきます。ちなみに発達障害の子の中には目を閉じると自分のからだの状態が確認出来なくなってしまう子もいるようです。普通の人は目を閉じてからだを動かしても、今自分のからだがどんな形、状態になっているのか分かるのですが、そういう子は実際に目で確認しないとそれが分からないそうです。それはつまり、自分のからだとの対話ができないということを意味しています。そして、発達障害でなくても自分のからだとの対話が出来ない人、からだの状態を感じ取ることが苦手な人は、同時に他者のからだを感じることもうまく出来ません。人間は相手と自分のからだを共鳴させることで他者のからだを感じているからです。そして、他者のからだを感じることが出来ない人は他者の感情を感じることもできません。人は他者のからだの状態を自分のからだで感じることで、そのからだの状態の背景にある感情を感じ取っているのです。悲しんでいる人を見ている時、自分のからだがその悲しんでいる人のからだと共鳴することでその人の悲しみを自分の悲しみとして受け取っているのです。そうでないとただ視覚で「ああ、あの人は悲しいんだ」という判断しか出来ません。そして、そういう子どもたちそして大人達が増えて来ています。自分のからだとの対話が苦手だと、自分と世界の境界線が曖昧になってしまい不安が強くなります。自分に害のあるものをからだで防御することが出来ないからです。特に、この場合は皮膚感覚が大きく影響しているようです。そういう人たちは意識的に自分と世界の境界線を確認しようとします。そして、からだを締め付けるような下着や洋服を着たり、リストカットを繰り返します。次から次へと様々なトラブルを起こすのもその延長かも知れません。トラブルを起こして、その時の周囲からの反応によって自分の存在を確認しようとしているのです。ちなみに自分のからだの感覚に過敏な人はからだの感覚に支配されているのであってそれは対話とは異なります。そういう人は他者のからだや感情には鈍感です。鈍感と過敏は根っこが同じなんです。
2024.07.02
コメント(0)
私たちは「私」という意識をもっています。でも、その「私」は非常に不安定です。心穏やかに過ごしているときの「私」もあれば、雷が落ち、暴風雨が吹き荒れる嵐のような「私」の時もあります。春のような温かくてウキウキするような「私」の時も、夏のように「さー、思いっきり遊ぶぞ!」というような「私」の時も、秋のように自分を見つめ、美しいものや優しいものに浸っていたい「私」の時も、冬のように春を待ちわびてマッタリと過ごしたい「私」の時もあります。会社にいる時の「私」と、家庭にいる時の「私」は違います。友達と遊んでいるときの「私」と、子育てをしているときの「私」も違います。朝の「私」、昼の「私」、夜の「私」も違います。食事前の「私」と、食事後の「私」も違います。子どもと一緒に居る時の「私」と、友だちと一緒に居る時の「私」も違います。失敗をする前の「私」と、失敗をしてしまった後の「私」も違います。立っているときの「私」と、座っているときの「私」も違います。上を向いているときの「私」と、下を向いているときの「私」も違います。その変化に合わせて、感じ方も、考え方も、意識や感情の状態まで違うのです。「私」はこんなにも変化しているのに、でも人はその「私」の変化に気付きません。そして、「私」は「いつも同じ私」だと思っています。それは、四六時中「目」を使ってものを見ているのに、その「目」自体を意識することが出来ないのと同じです。でも実は、その「私」には実体がないのです。「私」という意識はありますが、その「意識」の中身はからだの状態に応じて常に変化しているのです。でも人はその「中身」の変化には気付きません。上に書いたような「私」の変化は全て「私のからだの変化」の現れなんです。ですから、「私」を変えたいと思うのなら「私のからだ」を変えるしかないのです。本気で「自己肯定感が低い私」や、「いつも怒ってばかりいる自分」を変えたいと思うのなら、「からだ」を変えるのです。自分で自分を問い詰め、否定し、罵っても何も変わらないのです。まず、「嫌いな自分」の「からだ」をよく観察してみて下さい。姿勢はどうですか。肩や腰や胸は緊張で固まっていませんか。声はどうですか。歩き方はどうですか。目線はいつも近くを見ていますか、遠くを見ていますか。上の方を見ていますか、下の方を見ていますか。しっかり見ていますか。ボーッと見ているだけですか。とは言っても、その「自分観察」がちゃんと出来るようなら問題はないのです。自分を変えたいと思っている人ほど、自分のことを冷静に観察していないからです。そこにあるのは「思い込みの自分」と「こだわりの自分」だけです。じゃあ、どうしたらいいのかというと、いつもと違うことをしてみるのです。いつもと違う姿勢をしてみる。いつもと違う歩き方をしてみる。いつもと違う話し方をしてみる。いつもと違う怒り方をしてみる。いつもと違う道を歩いてみる。いつもと違う座り方をしてみる。などなどです。すると、「いつもの自分」を客観的に見る目が生まれます。「対比する自分」が生まれるからです。そうしたら「いつもの自分」を変える方法も探せるようになるのです。頭で考えるだけでは何にも解決しません。
2024.07.01
コメント(0)
昔の職人や芸事をやっていた人は、弟子を育てる時にいちいち教えたりしませんでした。ただ手本を見せ、ただそれを真似するように求めたのです。間違ったことをした時は叱りましたが、だからといって、弟子が「どこが悪いんですか?」と聞いても「自分で考えろ」と言うだけで丁寧に教えはしませんでした。(私の太極拳の先生はこういう教え方をしていました。)今こういう教え方をしたら、若者はすぐに辞めてしまうでしょうね。今これをやると「不親切だ」とか「イジワルをしている」と言われてしまうでしょけど、実は、世の中には「言葉で教えることが出来ること」と「言葉では教えることが出来ないこと」があるのです。そして、「本当に大切なこと」は言葉では教えることが出来ないのです。なぜなら、言葉で教えたことは「知識」として頭の中に留まるだけで、心や、感覚や、からだの中に落ちて行かないからです。当然、心や、感覚や、からだを育てる栄養にもなりません。また、知識として知っているだけでは師匠がやっていることを再現できません。テストでは知識として知っているだけで充分ですが、職人や芸事や武術などの世界ではどんなに多くのことを知っていても、自分のからだで実際に再現出来なければ意味がないのです。それに、感覚や、心や、からだの世界に属するものは、言葉では伝えることが出来ません。どんなに食レポが上手でも「実際の味」を伝えることは出来ませんよね。そして、実際の味が伝わらなければ再現も出来ないのです。感覚に属するものは感覚で受け取り、心に属するものは心で受け取り、からだに属するものはからだで受け取るしかないのです。頭で受け取ることが出来るのは頭に属するものだけです。そのため、「優しさとは何か」ということをいくらいっぱい知識として教えても、「優しい子」は育ちません。教科書で道徳を教えても全く意味がありません。「優しくしなさい」と怒鳴っても「優しくない子」が育つだけです。「イジメは良くない」ということをいくら教えても、「仲間と仲良く遊ぶ楽しさ」を知らない子は、他の子をいじめたり、他の子にいじめられたりしてしまうでしょう。そして、子どもの育ちに必要なものも「頭」ではなく「感覚」や、「心」や、「からだ」でしか学ぶことが出来ないのです。特に、思春期前の子ども達においては「感覚や、心や、からだでの体験を通した学び」が絶対的に必要になるのです。思春期前の子どもの知性は、頭ではなく感覚や、心や、からだの中に宿っているのです。でも、現代人は「感覚や、心や、からだでの体験を通した学び」は与えずに、「頭での学び」ばかりを子どもに与えています。そのため、今の子ども達は「感覚や、心や、からだで学ぶ能力」が非常に低くなってしまっているのです。でも、その「感覚や、心や、からだを通して学んだこと」が、思春期頃から始まる「頭での学び」に必要になるのです。なぜなら、「感覚や、心や、からだを通して学んだこと」が「頭で学んだ知識」を理解する時に必要になるからです。そもそも「感覚や、心や、からだを通して学んだこと」がなければ言葉を理解すること自体が出来ないのです。でも、理解出来なくても暗記することは出来ます。そして、暗記すればテストではそれなりにいい点数を取ることは出来ます。だから親も先生も理解よりも暗記を求めるのでしょう。でも、その「覚えたこと」は、学校という狭い世界の中でしか通用しません。
2024.06.30
コメント(0)
現代人は自分のからだを大切にしません。からだと対話することもしません。からだを通して学ぶことを大切にしません。からだの不思議を知りません。「からだ」という恩寵も「からだ」という喜びもを知りません。でも、学校でも家庭でも、「命を大切にしよう」とは言います。「命」を支えてくれている「からだ」は大切にしていないのに、「命を大切にしよう」とは言うのです。不思議なことです。そんな現代人の考える「命」は非常に抽象的で観念的です。「命を大切にしよう」と言いながらそこには全く具体性がありません。ですから、子どもに「命ってなあに?」とか、「命ってどうやって大切にするの?」とか、「命はなんで大切なの?」などと聞かれてもまともに答えることが出来ません。そもそも皆さんはご自分の命を大切になさっていますか。最近は、自己肯定感の低い人も多いですが、自分で自分を否定することは、自分の命を粗末にしていることにはなりませんか。 「命」は物と違って、触れることも、見ることも出来ません。金庫に入れておくことも出来ません。科学的にその存在を証明することも出来ません。それは「神様」と呼ばれるようなものと似ています。実際、「命は単なる化学現象に過ぎない」と主張する科学者もいます。そこにあるのは、「命」ではなく、「命のような現象」に過ぎないということです。竜巻は「命あるもの」のように動きますが、単なる物理現象であって「命あるもの」ではないですよね。AIを搭載したロボットは人間のように反応しますが、「命あるもの」ではありませんよね。それと同じです。じゃあ、「命」は本当に観念的なものなのかというとそれは違うのです。確かに、科学的にその存在を証明することは出来ませんが、からだの感覚を通して、リアルな感覚として感じることは出来るからです。それは「音楽」と似ています。私たちは当たり前に「音楽」が存在していることを知っています。でも、そんな身近な存在でも、科学はその存在を証明できないのです。なぜなら、「音楽」を科学的に観察することが出来ないからです。科学で観察できるのは「音」だけです。「音の変化」や「音の関係性」を観察することも出来ますが、そこに「音楽」はありません。「音楽」は人の心でしかその存在を確認することが出来ないものなのです。「命」も同じです。「命」は人の「からだの感覚」を通してしか確認出来ないものなのです。子どもを抱きしめたときに「子どもの命」を感じますよね。自分のからだに意識を向けることで、それと同じ感覚を、自分自身の命に対しても感じることが出来ます。でも、「自分のからだと対話する能力」を失ってしまった現代人は、「命を感じる能力」も失ってしまいました。そして、「命」の源である「からだ」を、「頭の道具」として使うようになりました。その結果、「心」と「からだ」が分離し、「心」と「からだ」が不安定になり、不安が強くなりました。じゃあ、どうやったらもう一度「からだの感覚」を取り戻し、「自分のからだや命」と対話することが出来るようになるのか、ということですが、困った事に「自分との対話の方法」は教えることが出来ないのです。ただ、教えることは出来ませんが自分で学ぶ方法はあります。その一つに、「ゆっくり動く」という方法があります。普通、人はいつも無意識にからだを動かしています。無意識に起き上がって、無意識に歩き、無意識に歯を磨き、無意識に話し、無意識に食事をしています。 そして、そのような無意識状態でからだを動かしているときには、「心とからだの対話」はありません。からだの内部だけで処理が自己完結してしまっているからです。だからこそ、考え事をしながらでも自転車に乗ることが出来るわけです。人間以外の動物たちはみなその状態です。でも、そのままでは「心とからだの対話」は出来ないので、その無意識状態からからだを解放してあげる必要があるのです。「ゆっくり」はそのための方法です。ちなみに「ゆっくり」は「ゆったり」とか「ゆるむ」という言葉と繋がっている言葉のようです。ですから、「ゆっくり動く」ということは、単に「スローモーションで動く」ということではありません。「心の余裕を持って動く」ということです。また、「からだ」を「頭の支配」から解放してあげないことには「ゆっくり」は出来ません。実は、「ゆっくり」を大切にするということは、「脳の中の世界」から出て、「自分のからだが置かれた現実の世界」に還ってくるということでもあるのです。それはまた、自分自身を受け入れることであり、目の前の子どもを受け入れることであり、自分が置かれている現実を肯定することなんです。「ゆっくり」はそこからしか始まらないのです。
2024.06.29
コメント(0)
子育ての目的は、子どもを「従順な子」に育てることではありません。そう考えている人は多いですが、そんな風に考えて子育てをしているのは人間だけです。他の動物たちにとっての「子育ての目的」は、我が子を「自立できるようにする」ことだけです。そうでないと種が滅びてしまうからです。みんなが「従順な子を育てること」を「子育ての目的」にしてそれが成功したら、AIがその従順な人間達の支配者になるでしょう。従順なだけの人間は誰かの指示に従うことは出来ますが、自分の頭で考え、自分の感覚で感じ、自分の意志と責任で行動する事が出来ないので、思考と、感覚と、判断を誰かに依存せざるおえないからです。AIはその役割をやってくれるかも知れませんが、AIには「人間の幸せ」を考える能力がないので、やがて人類は滅びてしまうでしょう。また、従順なだけの人が自分の人生に「生きがい」や「喜び」を感じるのは難しいと思います。そして愚痴ばかりを言い続けながらやがて人生を終えることになるでしょう。そして今の日本にはその「愚痴」が満ちあふれています。カスハラも、「子どもの声がうるさい」と文句を言う人もその表れです。皆さんは我が子にそういう「愚痴ばかりの人生」を送って欲しいのですか。そんなことないですよね。大部分のお母さんは「自分の人生を自分らしく幸せに生きることが出来る人」に育って欲しくて子育てをしているのではないかと思います。でも、多くの人が子どもの幸せを願っているはずなのに、実際にやっているのは、「子どもの気持ちを無視して、子どもに自分の願いや要求を押しつけるような子育て」ばかりです。そのようなお母さんでも、「子どもの自立」を願っているのでしょうが、その「自立」の中身は「経済的な自立」だけです。だから、子ども達を「勉強」に追い立てることが出来るのです。「精神的な自立」を願っていたら、子どもを支配しようなどとはしないはずですから。現代人にとって一番大切なのは「お金」です。現代社会においては「お金を稼げる人」が「偉い人」なんです。子ども達に「一番欲しいのは何」と聞いても、「お金」という答えが返ってきます。だから、お母さん達も、子どもを「お金を稼げる人」、「経済的に自立した人」に育てようとしているのでしょう。でもそのような価値観は、お金を稼いでいない「お母さん」という存在の価値を否定してしまいます。実際、「お母さんのやっていること」に自信も誇りも持てていないお母さんがいっぱいいます。子どもに「お金を稼ぐことが一番大切なんだ」と伝えることが、子どもに「お母さんという存在に価値はないんだ」ということを伝える結果になってしまっているのです。多くのお母さんが、自分の存在を自分で否定しているのです。お母さん自身も「お金を稼いでいない自分」に自信が持てません。国も「子どもが幼いうちから子どもを保育園に預けお金を稼げ」という圧力をかけています。実際、経済的に自立できていない「専業主婦」という自分の立場を卑下している人も多いです。お金を稼いでいない専業主婦をバカにする男性も多いです。でもそのように考える人は、「お母さん」が「お金には代えがたい大切なことをやっている」ということを知らないのです。「子どももお母さんも幸せになるような子育て」をするためには、お母さん自身がそのことに気づき、自分がやっていることや、自分の存在に誇りを持つことが出来るようになる必要があるのです。お母さん自身が精神的な自立を目指さないことには、子どもの精神的な自立を支えることは出来ないのです。
2024.06.28
コメント(0)
子どもが言うことを聞かないので悩んでいるお母さんがいっぱいいます。その背景には、「子どもがお母さんの言うことを聞くのは当たり前だ」という思い込みがあるのでしょう。また、子どもを仕付けるのは親の義務だ。だから、その仕付けのために親が子どもに色々と要求するのも親の義務だ。そしてその、子どものための要求に応えるのは子どもの義務だ。「あなたはまだ何も知らない、何も出来ない、そんなあなたがちゃんと成長するために色々と言っているんだから、あなたがお母さんの言うことを聞くのは当たり前だし、義務でもあるんだよ」ということなのでしょう。「お母さんの言うことを聞かない子はわがままで、自分勝手で、悪い子だ」と言う人もいます。まるで専制君主のような考え方ですね。でも、このような考え方をしているお母さんは普通にいっぱいいます。学校の先生も、同じような理由で同じようなことを子どもやお母さん達に求めています。「子どもやお母さんが先生の言うことを聞くのは当たり前で義務だ」と思い込んで、そのような意識で子どもや親に色々と言って来る先生もいます。奥さんにそのようなことを求めているご主人もいます。(その逆もあります)嫁にそのようなことを求めているお姑さんもいます。社員にそのようなことを求めている会社もあります。その結果過労死しても「それはその個人の問題に過ぎない」と切り捨ててしまいます。国民にそのようなことを求めている国家も多いです。日本でも、コロナの時はみんな言うことを聞かされました。「マスクをしない」、「ワクチンを打たない」、「アルコール消毒をしない」というだけで「反社会的な活動家」のような評価をされましたからね。マイナンバーカードでも、河野さんは「みんなのためなんだから言うことを聞け」という態度を崩しませんよね。そういう考え方をする人は「話し合い」に応じません。一方的に「あんたのためなんだから」と自分の要求を押しつけてきます。相手の言葉に耳を傾けません。プライドがあるのでしょうか。待ちません。相手を自分のペースに従わせようとします。いま、日本中がそういう状態になってしまっていますが、その中で一番弱い立場に居るのが子ども達です。だから子ども達は虫や小動物を殺してあそんだり、誰かターゲットを決めて「イジメ遊び」をしたり、万引きや麻薬などに手を出して「追い詰められた苦しさ」から逃れようとしています。するとそれはそれで、親や先生や社会から強く非難されます。そして、大人がよってたかって「子どもはこうあるべきだ」という「子どもが望まないこと」や「子どもの成長につながらないこと」を子どもに押しつけています。でも、子どもが大人の言うことを聞かないのは当たり前のことなんです。子どもは「大人の家来」として生まれてくるわけではないので、それは当然のことなんです。子どもは常に「今、自分に必要なこと」だけを求めています。それが動物としての、また、人間としての本能だからです。でも大人は、「今必要なこと」ではなく、子どもには理解出来ない「将来必要になること」や「社会的に必要なこと」ばかりを子どもに押しつけています。だから子どもは自分を守るために逃げるのです。幼い子ども達が今求めているのは「お母さんの傍にいることができる安心」と、「共に色々なものを見て、色々なことを感じて、一緒に笑い、遊んでくれ、色々なことを伝えてくれるお母さんや仲間達、そして周囲の大人達との関わり」なんです。その証拠に、お母さんの言うことからは逃げる子でも、こういうことからは逃げませんから。
2024.06.27
コメント(2)
多くのお母さんが「子どものために」と頑張っています。子どものために大好きだった趣味を諦めているお母さんはいっぱいいます。子どものために一人で色々と考えて頑張っています。子どものために色々と考えて子どもにしつけをしたり、勉強をさせたり、色々なところに連れ出したりしています。子どものために付き合いたくないママ友とも付き合っています。子どもの習い事のために仕事に出ている人もいます。子どものために夫婦でケンカをしたりもしています。子どもがケガをしないように、子どもが困らないように先回りして色々と考えたりやったりしています。でも肝心の子どもはその想いに応えてくれません。こんなにも子どものために我慢して頑張っているのに、なぜか子どもはお母さんから離れていきます。その一方で「子どもの犠牲になりたくない」と、衣食住を与えるという最低限のことしかしようとしないお母さんもいます。そのようなお母さんは「子どもの状態」や「やること」にあまり関心がありません。積極的に子どもと関わろうともしません。「子どものために」と色々と考えたりやったりもしません。買い物やレストランに連れて行っても、放し飼い状態です。子どもがみんなに迷惑をかけていても気にしません。そんなお母さんが大きく反応するのは、子どもが自分に迷惑がかかるようなことをした時だけです。そんな時、そのようなお母さんは「あんたのせいで」などと子どもを責めます。極端なところまで行くと「ネグレクト」という虐待になってしまいますが、そこまで行かなくても、そういう感じの子育てをしている人は多いのではないでしょうか。町中で時々見かけますから・・・。そして実は、一見この両者は正反対ですが、「一番大切なのは自分」という点では同じなんです。両者とも「子どもの気持ち」に耳を傾けません。子どもと対話しません。感覚や感情や体験を子どもと共有しようともしません。子どもと一緒にいる時間を楽しみません。子どもの心やからだの状態には関心がありません。子どもを待ちません。前者のお母さんが大切にしているのは「自分の不安を消すこと」と「周囲の人や先生から非難されないようにすること」です。「あの人はいいお母さんだ」と言ってもらうと安心するのです。後者のお母さんが大切にしているのは「自分の欲望を実現すること」です。ですから、両者とも「子どもと共に」という感覚がないのです。でも、子どもはその「共に」という感覚や体験を通して色々と学び成長しているのです。だから、子どもの成長を支えるためには、子どもの犠牲になるのでも、子どもを犠牲にするのでもない子育てが必要になるのです。でも、その「共に」が苦手なお母さんが多いのです。また、一人で何でも出来る簡単で便利な機械のおかげで「共に」が必要になる状況も減りました。買い物の行き帰りなどにゆっくりとお散歩をしていれば、「共に」を楽しむことが出来ますが、自転車や車に乗ってしまうと「共に」が出来なくなります。素材からゆっくりとお料理を作っていれば「共に」を楽しみながら子どもと一緒にお料理を作ることが出来ますが、レンチンでは「共に」が出来ません。ウーバーを使ったらなおさらです。森や野原なら子どもと一緒に遊ぶことが出来ますが、遊具のある公園は「子どものためのもの」ですから、大人は見ているだけになります。大人が子どもと一緒に遊具で遊んでいると文句が出るかも知れません。「子どものための」という施設は子どもと大人を切り離します。またそれを望む大人も多いです。先日行った児童館では、幼児対応の所には小学生が入れませんでした。だから、幼稚園児と小学生の兄弟で行くと別々に遊ばなくてはなりません。大人は入らないで下さい。大人は遊ばないで下さいという遊びの場も多いです。みんな「子どもは子どもだけ」「大人は大人だけ」「幼児は幼児だけ」「小学生は小学生だけ」「年寄りは年寄りだけ」「障害を持っている子は障害を持っている子だけ」と対象を分離して遊ばせようとしているのです。その方が効率もいいし、危険を避けることが出来るからなのでしょうか。でも、このような「子どもと子ども」を「子どもと大人を」「障害を持っている子と持っていない子」を「お母さんと子ども」を分離するような子育てや教育では子どもは育たないのです。
2024.06.26
コメント(0)
子育てにおいて大切なことは「一人で頑張ること」ではなく「子どもと一緒に、仲間と一緒に楽しむこと」です。お母さんが子どもや仲間との関わり合いを楽しんでいれば、「子育て」を特別に意識しなくても子どもは勝手に育ってしまうのです。でも、多くのお母さんが一人で子育てを頑張っています。目の前にいる子どもの顔も見ないし、心を感じようともしません。そして、自分の期待通りに子どもが育っているか、期待通りに行動しているのかということばかりを気にしています。でも、どんなにお母さんが頑張っても、子どもはマイペースです。お母さんの期待通りに頑張るなんてことはしません。その結果、お母さん一人が空回りすることになります。そしてそれが、お母さんのストレスと、苦しさと、孤独の種になっています。でも、そのストレスと、苦しさと、孤独を子どもにぶつけると、子どもの心やからだは固まってしまい動けなくなります。友だちとも良い関係を築けなくなります。お母さんの前でだけ「いい子」になる子もいますが、そういう状態の子は、「自分の育ちにつながるような学び」が出来なくなってしまうため思春期が来ても自立が困難になり、さらに苦しみが増えます。お母さん達は一体誰のために、何のために頑張っているのでしょうか?そう問われたら、多くのお母さんが「子どものため」と言うでしょう。でも、子どもの心に寄り添うことが出来ていないのなら、それは子どものためではなく、「自分のため」なのではないでしょうか。自分の不安を消すために頑張っているのではないでしょうか。子育ては頑張らなくていいのです。むしろ頑張ってはいけないのです。なぜなら、そうしないと子どもの心に寄り添うことが出来ないからです。頑張るのではなく、子どもと一緒の時間を楽しんで下さい。それだけで、特別なことをしなくても子どもは育って行くのです。子どもはお母さんに心を向けてもらうことで、お母さんから学ぼうとする気持ちが目覚めるからです。また、お母さんとつながることが出来る子は、時期が来れば周囲の仲間や大人ともつながることが出来るようになります。仲間や周囲の大人からも学ぶことが出来るようになります。子どもは、自分の話を聞いてくれる人の言葉に耳を澄まし、自分に心を向けてくれる人から学びたいと思うのです。逆に、押しつけてくる人の言葉には耳をふさぎ、そして逃げようとします。だから頑張れば頑張るほど逆効果になるのです。
2024.06.25
コメント(0)
現代人は「痛み」とか「苦しみ」とか「失敗」ということに対して否定的です。子ども達もそうで、最近の子はちょっと痛かったり、ちょっと苦しかったり、ちょっと失敗したりするとすぐに挫折します。ノコギリでちょっとケガをしただけで「怖いからもうノコギリは使いたくない」とか、ホットボンド(グルーガン)でちょっと火傷しただけで、「こわいからホットボンドは使いたくない」などと言い出す子は普通です。その結果、可能性や自由度が狭くなってしまうのですが、「挑戦するワクワク感」や「創造の自由」よりも、「痛みや、苦しみや、失敗することに対する恐れ」の方が強いので、ちょっとやってうまく行かないともう手を出さなくなります。そうして、どんどん「できないこと」が増えていきます。可能性を広げてあげようと思って色々な体験をさせているのですが、そのことで逆に可能性が狭くなってしまうという困ったことが起きてしまうのです。そんな時、昔の人だったら「根性で乗り切れ」的な発想をしたのでしょうが、今ではそれは通用しません。子どももそのような考えを受け入れません。ただ、幼児期に野山を駆けまわって遊んでいたような子はそんなことありません。ちょっとケガをしたくらいでは気にしません。野山を駆けまわっていた子にとってケガは日常だからなのでしょう。また、失敗もそれほど気にしません。(私の教室には両方のタイプの子がいます。)私の印象では、「痛みや、苦しみや、失敗に対する恐れ」は、人工的な環境の中で人工的な遊びばかりして育った子の方が強いような気がします。人工的に管理された環境や遊びでは「ケガをする可能性」や「子どもが飽きてしまう可能性」が低くなるように設計されているからなのかも知れません。それに対して、自然の中での自然を相手にした遊びには「危険」がいっぱいです。自然の中には「子どもを守るための安全装置」も、「簡単便利に遊ばせてくれる仕組み」も存在しません。現代人が恐れるバイ菌もウヨウヨいます。また、自然の中で遊べば必然的に汚れます。時には泥だらけになります。そういう場で遊べば、ケガをするのも、失敗するのも当たり前ですよね。でも、そんなこといちいち気にしていたら遊べません。まただから、そういう場で子どもを遊ばせたくないお母さんもいっぱいいるのでしょう。近所のお勉強系幼稚園の園庭は人工芝です。通りがかりに覗くと、みんな素敵な制服を着て遊具で遊んでいます。これなら安心だし汚れないですよね。それと、自然の中には「正解」が存在していません。「公園のブランコや滑り台の使い方」には正解がありますが、「ドロンコ遊びや木登りの仕方」に正解はないのです。「正解」がないのですから「失敗」も存在しません。だから色々と工夫して遊ぶことが出来るわけです。バイ菌はいっぱいいますが、野山で遊んで病気になった子の話は聞いたことがありません。うちの三番目はその辺に生えている草をしょっちゅ食べていましたが、一番元気です。(無理には勧めませんけど・・・)そして「私が知っている範囲では」という話になりますが、子育てを楽しむ事が出来ているお母さんには「自然の中で遊ぶことが好きな人」が多いような気がします。「子どもという自然」を肯定的に受け入れることが出来るからなのでしょうか。
2024.06.24
コメント(0)
人間にとって「痛み」はなかなかやっかいです。人間以外の生き物は基本的に「痛み」を感じないか、もしくは少ししか感じていないように見えます。以前、ネコを飼っていたのですが、ネコもあまり痛みを感じないようです。近所の野良猫とケンカして大けがをしたこともあったのですが、痛がっている様子はありませんでした。見てもらった病院の先生も「ネコは痛みに鈍い」ということをおっしゃっていました。昆虫なんか足をもがれても泣いたり騒いだりしません。苦しそうな仕草も見せません。ただ色々と不便になっただけです。人間ほど「痛み」に敏感で「痛み」を恐れる生き物はいないのではないかと思います。本当にちょっとした痛みでも人間は気にします。さらには、「からだの痛み」だけでなく「心の痛み」にも敏感です。そして、痛みを感じると意識がそのことに支配されて心とからだの自由が失われてしまいます。他のことに意識を向けたり、他のことを考えることが出来なくなってしまうのです。でもそんな人間でも何かに夢中になっている時には痛みを忘れることがあります。「夢中になって遊んで帰ってきて手や足を見たら気付かないうちにケガをしていた」なんてことはよくあることです。以前お話を聞いた日本画家の女性は、徹夜して夢中になって絵を描いていて、描き終わってほっとしたらなんか足が痛いことに気付いたそうです。そうして見てみたら、足に楊枝が刺さっていたそうです。気付いたらさらに痛くなったそうです。人間にとって「痛み」は、単に身体的なものではなく、精神的な要素も非常に強いのです。それはつまり、「心の状態」が「からだの痛みの状態」に非常に大きく影響しているということです。そしてそれは「心」に支配されている人間の特徴でもあります。人間においては、「心の働き」が「からだの痛み」を消したり、さらに強くしたりするのです。山登りが大好きで頂上を目指している人は、上っている途中で多少ケガをしてもちょっとのケガなら気にしません。人間は、意識が別のことに向いている時には、それほど痛みを感じないのです。でも、付き合いで嫌々登らされているような人は、ちょっとのケガでも痛くてしょうがないでしょう。ケガのことばかり考えてしまうでしょう。「ばい菌が入ったらどうしよう」「骨が折れていたらどうしよう」などと考えてしまうかも知れません。周囲の景色や足下の草花を愛でて楽しむなんて心の余裕もありません。その行為に、意味や目的を感じ、自分の意志で前向きに取り組んでいる時には、その過程で生じる痛みはあまり気にならないものです。痛みは感じていても痛みに支配されることがないのです。でも、仕方なく嫌々やらされているような時には、ちょっとのケガや痛みでも気になってしまうのです。そして簡単に痛みに支配されてしまいます。東京都知事選に立候補した小池百合子さんは、公約の一つとして「無痛分娩費用の助成制度の導入」をあげました。それだけ今、「無痛分娩」を望む人が多いということなんでしょうか。でも、私の周囲には「痛いことは痛いけど嫌な痛さではなかった」とか、「痛かったけどそれだけ赤ちゃんがいとおしくなった」とか、「痛みを経て赤ちゃんの顔を見た時の喜びが大きかった」という人もいます。痛みが引いた頃に「また産みたくなってきた」と言う人もいます。それは山登りに似ているのかも知れません。車やロープウェイで簡単に頂上まで行っても、長い時間をかけて苦労して登っても、「頂上に立っている」という結果は同じです。でも、「喜び」は同じではありません。想い出も全く異なったものになるでしょう。それは、「結果が良ければ良い」という生き方と、「過程を大切にしたい」という生き方の違いなのかも知れません。まあ、どちらを選ぶのかはその人の価値観や生き方の問題ですから私がとやかく言うことは出来ませんが、でも、その価値観や生き方はその後の子育てにも影響してくるでしょう。「無痛分娩」は可能でも「無痛子育て」は不可能だからです。「子育ての苦しみ」と前向きに向き合い、発想を切り替えて「子育てを楽しんでしまえ」という子育てをしているお母さんもいます。そのようなお母さんは子育てを通して色々なことを学び、色々なことを発見し、色々な仲間やつながりを得ようとしています。そういう活動をしていると「子育ての苦しみ」を和らげることが出来るからです。「痛み」を感じた時には、意識を他のことに向けると「痛み」に束縛されにくくなるのです。また、そのようなお母さんの生き方を通して子どもも色々なことを学び体験し、心とからだを育てることが出来ます。そして、「子育ての苦しみ」は少しずつ減って「子育ての喜び」が増えて来ます。その逆に、その「苦しみ」から逃げようとする子育てをしている人もいます。そのような人は、自分を守るために自分の周りにバリヤーを張っています。お互いにバリヤーを張った状態の仲間作りはしますが、バリヤーを外した仲間作りはしません。子どもとの間にもバリヤーを張っています。でも、バリヤー越しの子育てを受けている子はお母さんを通して「自分の成長につながるようなもの」を学ぶことが出来ません。お母さんに肯定されていないのですから、自己肯定感も育ちません。その結果成長が遅れたり、偏ったりしてしまいます。そして、そのことは子どもが思春期を迎える頃に、「お母さんを苦しめる原因」として大きくなってきます。「子育ての苦しみ」から逃げようとすればするほど、その苦しみはどんどん大きくなってしまうのです。
2024.06.23
コメント(0)
子どもを比較し、追いたてる人がいます。そのような人は、「ありのままの子ども」を受け入れることが出来ません。そしてそのような価値観の大人に育てられたり教育されている子ども達も、「ありのままの自分」を否定し、常に他者と自分自身を比較しながら生きることになります。そのように学習してしまうのです。そして、大人になり、親になり、今度は自分の子どもを他の子や、標準値や、理想と比較し、追い立てます。自分に対しても同じことをしています。そのような人は、常に比較し、追いたてていないと不安なんです。幼い頃に親から受け継いだ価値観は、本人が変えたいと思っても他の人の手助けがないと変えられないのです。でもそういう人に限って、他の人に助けを求めません。成長を続けていないと維持できない経済システム、人口が増え続けていないと維持できない政治システムはそのような人たちによって作られ、維持されて来ました。また、そのような社会がそのような価値観の子どもや大人を育ててきました。そのような社会を維持するためには、「立ち止まること、自分と向き合うことに不安を感じる人」が必要だからです。経済活動を活性化させるためには、常に比較し、競争しようとする人たちが必要なんです。ですから、そのような社会の価値観を善とする人たちは、子どもを比較し、追いたてることも善であって、非難されるようなことではないと思い込んでいます。だから原発は善であり、原発反対は悪なのです。そしてその結果、原発が、また社会全体が困った状態にになってしまっても、「原因不明」もしくは「不可抗力」で済まそうとするのです。それが現代日本の政治や経済の中枢にいる人たちの価値観なんです。ですから、この問題は個人の問題であると同時に、社会全体の問題でもあるのです。そのことに気付かないと個人の問題も、子育てや教育の問題も解決できません。どんな価値観に支配された社会に生まれてくる子ども達でも、生まれたばかりの時にはまだ「社会の価値観」に染まっていません。どんな国、どんな社会に生まれてくる子ども達でも、「現代人の感覚」ではなく「古代人の感覚」を持った状態で生まれてくるのです。何しろ古代人としての歴史は何十万年ですが、人類が文明を持ち始めた歴史は数千年程度なんですから。現代につながる「科学に支えられた便利な生活」なんか、たった100年、200年程度の歴史しかありません。そして、「古代の人たちと同じ感覚」を持ったまま生まれてくる子どもたちにはその「現代社会の感覚や考え方」は理解できません。その「古代人の感覚」で大切なのは、「助け合うこと」や「分かち合うこと」であって「比較し、競争すること」ではありませんでした。厳しい自然の中で生き延びるためには「助け合う仲間」が絶対的に必要だからです。そして、これは今でも自然と共に生きている人たちにとって共通する価値観です。実際、競争に明け暮れている日本人でも、大きな災害があると助け合いますよね。助け合わないことには自分も生き延びることが出来ないからです。古代の人が、仲間と助け合わずに競争に明け暮れていたら人類はとっくの昔に滅亡していたはずです。その古代人の感覚を持ったまま生まれてくる幼い子どもたちは、助け合ったり、分かち合っている時には天使のような笑顔を見せてくれます。でも、比較され、追いたてられている時には悲しそうな顔をします。でも大人達はそんな子ども達の「悲しそうな顔」を無視します。気付いてすらいないのかも知れません。でなければ子ども達を競争に追い立てることが出来ないはずだからです。でも、大人達がそんな子ども達の「悲しそうな顔」「苦しそうな顔」に気付かないと、やがて人類はどん詰まりに追い詰められてしまうでしょうね。そして全体が滅びれば、必然的に個も滅びます。
2024.06.22
コメント(0)
民主主義のいいところは、票を持っているものが声を上げればそれが政治に反映されることです。ただし、原則としては「一人一票」ですが、実際には、社会的に大きな影響力を持っている人は他の人の票まで支配することが出来ます。お金で票を買う人もいます。民主主義の悪いところは、「票を持っていないもの」や、「声を上げる事が出来ないもの達」の声は無視されてしまうことです。子どもや社会的弱者の声は、それを吸い取って、彼らの代わりに発信してくれる「票を持っている人」や「社会的な影響な影響力を持っている人」に代弁してもわないと政治に反映されません。人間でさえそういう状態ですから、人間とこの地球の自然を共有している虫や動物や草や木の声が政治に反映されることはほとんどありません。でも、直接、政治に対して影響力を持っていない子どもや、社会的な弱者や、虫や動物や草や木たちも私たちの同胞であり、運命共同体の一員です。だから彼らが滅びれば、人類全体が滅びてしまうのです。子どもの成長が歪めば社会全体が歪みます。子どもの成長が止まれば、社会全体の成長も止まります。子どもが元気を失えば、社会全体が元気を失います。子どもが不幸になれば、社会全体が不幸になります。ちょっとしたタイムラグはありますが、それは必然的な結果です。人間以外の虫や動物や草や木においても同じです。虫や動物や草や木が滅びれば、人類も滅びます。虫や動物や草や木が元気を失えば人類の元気も失われます。私たちの命はそれらの命に依存しているのですから。だからこそ民主主義の社会では、「声を上げることが出来る人たち」が、積極的に「声を発することが出来ないもの達の声」を吸い上げ、社会に発信していく必要があるのです。「子どもの声を代弁する大人」、「虫や動物や草や木の声を代弁する人間」が必要なんです。そこに必要なのは「共に」という感覚です。「かわいそう」とか「やってあげている」という上下の感覚ではありません。でも実際には、人間は「人間のこと」しか考えていません。大人は「大人のこと」しか考えていません。さらには「自分のこと」しか考えない大人も増えて来ました。「子どもからどうやって自分を守るのか」ということばかり考えている「お母さん」や「先生」もいます。そのような「大人に守ってもらえない子ども達」は、自分で自分を守るようになります。そして他者を排除したり、他者と対立したりするようになります。他者との間に上限関係(カースト)を作ろうとするようになります。イジメもそのような状況の中で起きます。そういう社会でも、「声を発することが出来ないもの達の声」を代弁しようとしている人もいますが、「票につながらない」「お金儲けにつながらない」「便利にならない」ようなことに耳を傾けてくれる人は多くありません。だからどんどん、社会や、子どもの成長や、心とからだや、命の状態や、自然が歪みはじめているのです。民主主義の社会は競争原理に支えられています。でもだからといって、競争原理だけでは民主主義は崩壊してしまうのです。最初のうちは勝ったり負けたりが起きますが、しばらくすると、強いものは常に勝ち、弱いものは常に負ける状態が固定してしまうからです。そして、「強いもの達のためだけの社会」が生まれます。実際、今そういう状態になってきていますよね。だからこそ、子どもの教育の場に、大人の価値観に基づいた競争原理を持ち込んではいけないのです。また、セルフコントロール能力や、声なきものの声を聴く能力を育てることも必要なんです。健全な民主主義を継続させるためには、教育を「大人の政治や経済の価値観」から切り離し、子どもに「子どもの感性に従って自由に感じ、考え、表現し、行動する場」を与え、「声を発することが出来ないもの達」の声に耳を傾けることを教えなければいけないのです。そのためには、先ず大人が子どもの声に耳を傾ける必要があります。自然の声に耳を傾けることが出来る感性を育てる必要もあります。
2024.06.21
コメント(0)
子どもに取って「お母さん」は「命の故郷」であり「心とからだの故郷」でもあります。子どもは幼いときはその故郷の中で暮らしますが、4,5才頃から故郷の外に出て外の世界を色々体験をするようになります。でも、悲しいとき、苦しいとき、お腹が減ったときなどは故郷に戻り心とからだのエネルギーチャージをします。そして、思春期が来ると子どもはその故郷から出て、外の世界に自分の居場所を探し始めます。一度出てしまったらもう故郷に戻ることはありませんが、故郷はいつまでも心の中に残って子どもの心を支えてくれます。ただし、実際の親子関係は、なかなかこんなに美しいストーリー通りには行きません。「故郷には苦しい想い出しかない」「故郷のことは想い出したくない」という人もいるでしょう。でも、子どもが本能的にお母さんに求めているのはこのようなストーリーだろうと思います。また、幼い子どもは100%お母さんのことを信頼しています。命を預けているのですからそれは当然のことです。また、例外なくお母さんのことが大好きです。だから子どもはお母さんにまとわりついてくるのです。でも、お母さんはそんなまとわりついてくる子どもを振り払おうとします。自分の時間を確保するためです。「子どものことが嫌い」というお母さんは多いですが、お母さんのことが嫌いな子どもはいません。子どものことを疑うお母さんは多いですが、お母さんのことを疑う子どもはいません。少なくとも幼児の間は・・・。だから「あんたはバカだ」と言われれば「私はバカなんだ」と信じます。「あんたは橋の下で拾ってきたんだ」と言われればそれも信じます。「あんたなんか嫌いよ」と言えば、それもそのまま信じます。そしてお母さんに好かれるために色々と我慢するようになります。いつも叱られている子は、「お母さんが僕を叱るのは僕が悪い子だからだ」と解釈してその苦しみを納得させようともします。「自分」を否定して「お母さん好みのよい子」になろうと努力します。でも、幼い子どもがお母さんの要求に応えることはなかなか難しいです。なぜなら、お母さん達が子どもに要求していることの多くは、子どもには理解出来ないし、やろうとしても出来ないことばかりだからです。そもそも、お母さんが使っている「大人の言葉」自体が理解出来ないのです。お母さん達は、子どもが理解出来ない言葉で、子どもには出来ないことを要求しているのです。だから出来るわけないのですが、でも出来ないとお母さんに叱られます。「早くしなさい」と言われても子どもはその意味が理解出来ません。また、幼い子どもには自分の意思で自分の行動をコントールする能力もありません。幼稚園が大好きな子は、早くしなさいなどと言われなくても、早くから起きて「もう行こう」とお母さんを急かすものです。でも、それほど好きではない子はダラダラと支度するでしょう。または、支度すらしないでしょう。で、お母さんが「早くしなさい」と急かすことになるのですが、基本的に、幼い子どもは自分の感情に従った動きしか出来ないので、お母さんの期待通りには動けません。子どもが嘘をついているように見えることもありますが、それは嘘ではありません。ただ、お母さんが満足する答えを言っているだけです。お母さんに嫌われたくないからです。また、多くのお母さんが「子どもには理解出来ない言葉」で子どもに色々要求しています。お母さんに「約束よ! 分かった?」と言われたら、分かってはいなくてもお母さんに嫌われたくないので子どもは「分かった」と答えます。そもそも幼い子どもには「分かった」という言葉の意味自体が分かりません。皆さんは説明できますか。ですから当然その約束は守られません。でも、お母さんは「約束したじゃない! 分かったって言ったじゃない、嘘つき!」と子どもを叱ります。でも、子どもは自分が何で叱られているのか分かりません。だから同じことを繰り返します。子育てをする時には「子どもに取ってお母さんはどういう存在なのか」ということを理解しておいた方がいいと思います。「お母さんにとって子どもはどういう存在なのか」ということは人それぞれですが、「子どもに取っての母さん」は、それほど個人差がないのです。なぜなら、子どもがお母さんに求めているのは「自分の心とからだの成長に必要なもの」だけだからです。そしてその「幼い子どもの心とからだの成長に必要なもの」は、地域や時代を超えて変わりません。まただから、「子どもがお母さんに求めているもの」も、地域や時代を超えて共通しているのです。「1万年前の子どもがお母さんに要求していたこと」と、「現代の子どもがお母さんに要求していること」は基本的に同じなんです。アフリカのサバンナやアマゾンのジャングルで生活している子ども達がお母さんに求めているものも、皆さんの子どもが皆さんに求めているものも基本的には同じです。「お母さんが子どもに望むもの」は時代と共に変化してきましたが、「子どもがお母さんに望むもの」は昔から少しも変わっていないのです。その中でも一番大切なのが「安心」です。幼い子どもにとってこの世界は「初めて見るもの」、「初めて体験するもの」ばかりです。そんな世界と能動的に関わっていくためには、「安心」に満たされる必要があるのです。また子どもは、自分が生まれてきた世界との橋渡しもお母さんに求めています。言葉を学ぶのもお母さんからです。感覚や感情や様々なものに対する価値観や、他の人との関わり方を学ぶのもお母さんからです。お母さんが虫を怖がれば、子どもは「虫は怖いものなんだ」ということを学習します。お母さんに拒否されている子は、他の子を拒否します。子どもはしつけなど求めていません。ただ、安心を求めているだけです。問題は、お母さんが不安を抱えていると、子どもはお母さんから安心を受け取れなくなってしまうということです。お母さんから十分な安心を受け取れない子は、お母さんから離れることが出来なくなります。
2024.06.20
コメント(0)
私は色々なところで子育てに関する質問を受けますが、その大部分は「しつけ」に関することであり、どこでもその内容は似たり寄ったりです。その内容をざっくりと書いてしまえば、「子どもを上手にコントロールするのにはどうしたらいいのでしょうか」というようなものばかりです。「何回言っても子どもが手を洗わないのですが、どうしたらいいのでしょうか」などというような質問は、しつけを効率的に行うための質問であって、「子どもの育て方」に関する質問ではありません。そして、そのようなお母さんに限って、「子育ての苦しみ」の多くが、「子どもが言うことを聞かない」事から来ていると思い込んでいます。そのようなお母さんに、「ご自身の子育てで大切にしていることは何ですか」とか、「どういう人間に育って欲しいですか」と聞いても、なかなか答えが返ってきません。みんな、今目の前にある「思い通りにならないこと」をどうやったら思い通りに出来るか、という事ばかりを考えていて、「子育てを通して今自分がやっていることの意味」を考えていないのです。「優しさを育てるにはどうしたらいいでしょうか」とか、「色々なものに興味を持ってもらうためにはどうしたらいいでしょうか」とか、「みんなと仲良く遊ぶためにはどうしたらいいでしょうか」とか、「どういうお話を聞かせたらいいのでしょうか」というような、「子どもの成長を支えるための相談」もあまりありません。多くの人が、「子どもの育て方=子どものしつけ方」だと思い込んでいるのです。だから「子育ての相談」を受けると、実際には「しつけの相談」ばかりになってしまうのです。その区別が付いていない人が多いのでしょう。だから、「子育て」に意味を見いだせず、単なる「苦しいだけの作業」になってしまっているのです。そして、子どもの心や、からだや、成長の状態には意識を向けずに、子どもの行動にばかり意識を向けてしまうのです。まただから待てないのです。「子どもを育てる」ということは「一人の人間を育てる」ということです。これから70年から80年に亘る「子どもの人生」の基礎を育てるということです。今、目の前にいる小さな子どもが「一生、背負っていかなければならないこと」を、育てるということです。実際、ご自身が子どもの頃に受けた子育ての記憶がいまだに残っていて、子育てに苦しんでいる人が山のようにいます。子どもの頃受けた苦しみが消えずに、そのまま一生苦しみ続ける人もいっぱいいます。それで、親を恨んでいる人もいっぱいいます。でも、それなのにそれと同じようなことを我が子にもしてしまっているのです。でもだからといって、そんなに深刻に考える必要もありません。人生の始まりを、明るく楽しいものにしてあげるだけで、子どもは自分の意思で成長していくように出来ているからです。それだけのことです。そしてそれは「しつけ」よりも大切なことです。子育てでは、「しつけよりも大切なこと」があるのです。「しつけ」は後からでもなんとかなります。親がしつけなくても、本人の自覚が生まれたり、集団生活するようになれば自然と、最低限のことは身につくものです。でも、子ども時代をつらく苦しいものにしてしまったら、子どもは一生苦しむのです。「子育て」を、「人生」や「一生」という視点で見直せば、少しは待てるようになるのではないでしょうか。「子ども」に対しても「自分」に対しても。今は「子育て」が苦しくても、その苦しさにしっかりと向き合って、前向きに取り組めば、「子育て」が終わった後の人生がより豊かなものになるのではないかと思いますよ。「子育て時代」は「親と子の信頼関係を築く時代」でもあるのです。そしてそれは「しつけ」よりも大切なことなんです。親との間に信頼関係を築けなかった子は、仲間とも、周囲の大人とも信頼関係を築けなくなってしまうからです。
2024.06.19
コメント(0)
子育てにおいては「待つ」ということが非常に大切です。子どもは待ってもらえることで安心を得、愛情を感じることができます。成長においても、待ってもらえる子は、自分のペースで、自分らしく成長することが出来ます。ただし、「待つ」と言っても、「タイマーを仕掛けてその時間テレビを見て過ごす」というような待ち方ではありません。スマホを見ながら待っているのとも違います。それは待っているのではなく、そのことを見ないように、感じないように、考えないようにして、時間をやり過ごしているだけです。また、「子どもの言いなりになる」ということでも「子どものワガママに付き合いなさい」ということでもありません。手も口も出さないですが、ちゃんと見て、ちゃんと感じて、子どもの心に寄り添いながら、信じて待つのです。大人から見たら「無駄なこと」、「意味がないこと」であっても、その時の子どもにとっては「意味があること」なんです。だから夢中になるのです。またそれが「子どもの成長につながる大切なこと」なのです。諦めずにいつまでも夢中になって虫探しをする子もいます。そんな時お母さんは、付き合うのに飽きて、「もうあきらめなさいよ」と言ってしまうかも知れません。でも子どもは、一生懸命に考えながら、一生懸命に感じながら、色々なことを発見しながら、試行錯誤しながら虫を探しているのです。というか、そのような「内的な活動」をしているからこそ探し続けることが出来るのです。問題は、そのような「内的な活動」は目では見ることが出来ないということです。お母さんの目に見えるのはいつまでも同じことや、無駄なことを繰り返し続けている我が子だけです。だから、その「内的な活動」を感じることが出来ないお母さんはイライラしてしまうのです。でも、「虫を探している時に子どもの心やからだの中で起きていること」を想像したり、感じたりすることが出来る人は待つことが出来るのです。ただ我慢して待つのではないのです。「待ってあげてください」と言っても「我慢」を求めているわけではないのです。私が言いたいのは、「子どもを見守りながら、子どもの心やからだの中で起きていることを感じようとして下さい」ということなんです。待てるのはその結果に過ぎません。子どもの「内的な活動」に付き合うためには、お母さんもまた「内的な活動」をする必要があるのです。すると、夢中になって何かやっている子どもを見ていると面白くなるのです。「子どもが今、夢中になれること」が、「子どもの今の成長に必要なこと」でもあるのです。子どもの「今の成長」に必要な活動だからこそ夢中になることが出来るのです。だから、私が言っている「待ってあげて下さい」は、「子どもに従う家来になりなさい」ということではないのです。お母さんの価値観や生き方に従って、ダメな時は「ダメ」でいいのです。特にゲームのような「麻薬性のある遊び」は、ある程度、子どもが自分で自分をコントロールできる年齢になるまで与えない方がいいでしょう。反応や反射だけで行動している時期の子どもにゲームを与えてしまうと、止められなくなってしまいますから。それを「待っていればいつかは止めるだろう」と放任してしまうと、子ども自身が苦しくなってしまいます。「止めたくても止められない状態」が中毒なんです。あと、「子どもがやっていること」を待てるようになるためには、お母さん自身の自己肯定感が必要になります。自分と向き合うことが出来ない人は待てないのです。待っていると自分と向き合わざるおえなくなってしまうからイライラしてくるのです。
2024.06.18
コメント(0)
昨日は「親子遊び」について書きましたが、実は今、その「親子遊び」が非常に必要な状態なんです。赤ちゃんは「何も知らない、何も出来ない状態」で生まれてきます。「人間らしさ」すら目覚めていません。だから、生まれた後から、お母さんや周囲の大人や仲間との関わり合いを通して、様々な知識や技術、さらには、言葉や、感じ方や、考え方や、自分の心やからだとの関わり方を学ぶ必要があるのです。それらをどのような形でどれだけ学んだのかと言うことが、その子の「人間らしさ」や、これから先の長い人生を生きていくための土台となっていくからです。でも、これらの学びは、テレビや、ネットや、スマホや、ゲームや、オモチャといった「物や機械を相手にした遊びや生活」では育てることが出来ません。そのような能力が育つためには、そのような能力を持った人との関わり合いが必要になるからです。それは「言葉の学び」と同じです。日本語を学ぶ場合は、日本語を話せる人と、日本語を必要とする状況で関わる必要がありますよね。そして、母国語の場合は特にそれが必要なんです。いくら一日中テレビや動画で日本語と触れ合わせていても、実際に日本語を話せる人と、日本語を必要とする状況で関わらないことには「母国語としての日本語」は伝わらないのです。そして、幼い時に生活に必要な母国語をちゃんと学ぶことが出来なかった子は、小学校に入っても学校での勉強に付いていくことが難しくなります。先生が言っている言葉が理解出来ないのですからそれは当然ですよね。それで子どもは、暗記でそれを乗り越えようとします。言葉が分からなければ理解は出来ませんが、理解出来なくても暗記は出来るからです。そして、小学校レベルの勉強なら暗記だけでなんとかなってしまうのです。でも、理解出来ていない知識は試験の時以外役に立ちません。子どもの成長にもつながりません。昔の子ども達は、お手伝いや、遊びや、地域での様々な大人との関わり合いを通して、そのような「人間として自立して生きていくために必要な言葉や、様々な知識や、技術や、感じ方や、考え方や、自分の心やからだとの関わり方」を学んでいたのです。でも、今ではその多くが失われてしまいました。だから、今では子どもの成長を守るためにはお母さんが子どもと関わるしかないのです。日常的に子どもの周囲にいるのは「お母さん」だけになってしまっているのですから。ただし、「色々なことを教える教師」としてではなく「色々なことを一緒に学ぶ仲間」としてです。幼い子どもの育ちに必要なのは「向き合って色々なことを教えようとする教師」ではなく、「同じ方向を向いて体験や感覚や感情を共有してくれる仲間」なんです。そして、お母さんが「仲間」として子どもに色々なことを伝え、子どもの成長を支えるための方法として「親子遊び」があるのです。だから、「親子遊びではただ子どもの相手をしていればいい」「子どもを喜ばせればいい」ということではないのです。遊園地に連れて行けば子どもは喜びます。でもそれは、子どもの成長を支える遊びではありません。テレビや、ゲームや、スマホなどは、子どもを「人と人との直接的なつながり」から遠ざけてしまいます。確かに、そういうものを与えてしまえば、子どもは喜ぶかも知れません。お母さんも楽になるかも知れません。「だからWin-Winでいいんじゃない」と考える人もいます。でも、そのような子育てを受けた子は精神的な自立が困難になってしまうため、子どもが思春期を迎える頃に、子どもの苦しみとしてその問題が明らかになってくるのです。でも、その頃になって気付いてもやり直しは出来ないのです。
2024.06.17
コメント(0)
昨日は「お母さんはスゴイ」と書きましたが、でも、そのすごさを実感出来ている人はあまりいません。子育てに喜びを感じている人もいますが、子育てに苦しみを感じている人もいっぱいいます。実際、「子どもの育て方が分からない」、「しつけ方が分からない」、「遊び方が分からない」、「関わり方が分からない」、「一緒にいると苦しい」などなど、子育てに自信も喜びも感じることが出来ていない人がいっぱいいます。時にはその苦しみのあまり、悲しい事件を起こしてしまう人もいます。経済的に困っていないに「一緒にいるのが苦しい」という理由で、まだ生まれて間もない赤ちゃんを、保育園んどに預けてしまう人もいます。そのような人に「お母さんは凄いんだよ」などと言っても、反感を買うだけだろうと思います。私はその苦しみを喜びに変えるための方法として「親子遊び」というものを提案しています。「子育ての苦しみ」や「子ども」を遠ざけているだけでは「苦しみ」は消えないからです。消えないどころか、さらに膨れあがってしまいます。「苦しみの先送り」は苦しみを増加させるだけなんです。その「親子遊び」には特別な知識や技術は必要ありません。素人でも誰でも簡単にできることばかりです。その基本原理は「一緒に」だけです。どんなことで、お母さんと一緒にやれば子どもにとっては「楽しい遊び」になるのです。幼稚園や保育園の先生達など子どもと関わるプロの人たちは難しいワザをいっぱい知っています。それは、一人で大勢の子どもたちを楽しませる必要があるからです。でも、幼稚園の先生などはその「一緒」はやってくれません。幼稚園の先生が相手にしているのは「みんな」であって、「○○ちゃん」ではないからです。「一緒に」はお母さんにしか出来ないのです。お手伝いだって、お片付けだって、お母さんと一緒なら楽しい遊びになるのです。私が提唱している親子遊びでは、お母さんが子どもに「遊び」を提供するのではなく、子どもと一緒に「遊び」を探し、子どもと一緒に「遊び」を創り出すのです。その際、遊びを導いてくれるのは「子ども」です。遊びのきっかけは、子どもが教えてくれるのです。だから、お母さんが「遊び」について知らなくても大丈夫なんです。お母さんの役割はその子どもが発見した遊びを膨らませ、形にするだけです。もっともその膨らませ方にはちょっとした技術が必要になりますけどね。でもそれも、お母さんが「子どもとの一緒」を楽しもうとしているのならそんなに難しいことではありません。そして、お母さんが「子どもとの一緒」を楽しめるようになれば、しつけの問題は自然と解消してしまうのです。最後にちょっと宣伝です。親子遊びを伝える場として、私が茅ヶ崎でやっている教室「ポランの広場」の生徒を募集しています。見学だけでもお友達を誘っておいで下さい。お問い合わせは「こちら」まで。チラシは「ここ」で見ることが出来ます。
2024.06.16
コメント(0)
現代人は「お金を稼ぐことが一番大切なこと」だと思い込んでいます。お金があれば夢や希望を叶えることが出来ます。お金があれば「自由」さえも手に入れることが出来ます。お金があれば人を支配することも出来ます。だからお金を稼ぐことに熱心です。本来、国民の幸せを願って政治をするべき政治家もお金儲けに熱心です。政治家個人もまた政党もです。そして、国民にも「もっと働け、もっと儲けろ」というような圧力をかけています。テレビもまたそれを後押ししています。学校の勉強も、子どもが将来お金を稼げるようになるためのものです。子どもの成長を支えるためではなく、生き残り競争に勝つために子どもを勉強に追い立てているのです。本来、「お金を稼げるようになる」というのは「学び」の副産物であって、子どもの成長を支えるべき教育の場でそれを目的にしてはいけないはずなのですが、現代人は学ぶことの本来の意味や目的が分からなくなってしまっているのです。その結果、お金を稼がない専業主婦や、子どもと一緒に生活しながら一生懸命に子どもの成長を支えようとしているお母さん達の社会的地位が非常に低くなってしまっています。お母さん自身もそんな自分の状態を否定的に捉え、子どもがまだ「お母さん」を必要としている時期なのに、「子どもの成長」よりも「お金」や「自己満足」のために仕事に出ている人や、出ようとしている人がいっぱいいます。また国もそれを後押ししています。現代社会では「人間を育てる行為」よりも、「お金を稼ぐ行為」の方が価値があるのです。その結果、「子どもの育ちを支えるための場」も、「子どもの育ちを支えようとする大人」もどんどん減ってきています。でも、そのことに問題を感じている人は多くありません。でも、社会が「お母さん」を大切にしなくなり、お母さん達が「お母さんであること」を止めたら、社会は崩壊してしまうのです。人類は未来を失ってしまうのです。実際、今どんどん人間関係や社会の状態がおかしくなって来ています。子ども達の状態もおかしくなって来ています。「善悪の判断が出来ない若者」や、「精神的に自立できない若者」や、「人の気持ちが理解出来ない若者」も増えて来ているような気がします。子どもに「生命」を与えたのも、「言葉」を伝えたのも、「人間らしさ」を伝えたのもみんな「お母さん」なんです。人類はそのつながりに支えられて何十万年も生き延びてきたのです。歩き方や、感じ方や、自分を表現する方法の基本を伝えたのも「お母さん」です。これのどこが大したことがないのですか。イクメンパパもいますが、それでもまだまだ「オレが稼いできて、養ってやっているんだ」と威張り、子育てを手伝おうとはしないお父さんもいっぱいいます。また、そんなイクメンパパにも出来ないことがあります。それは、子どもに「安心」や「精神的な支え」を与えることです。子どもは本能的に、お父さんではなくお母さんに「安心」や「精神的な支え」を求めるのです。特に、「人間らしさ」が育っている7才頃まではその傾向が強いです。これは「大人の都合」ではなく、大人や社会の価値観とは無関係な「子どもの都合」なんですからどうしようも出来ないのです。大人が子どもに合わせるしかないのです。以前、本のタイトルは忘れましたが、「女性は妊娠・出産・子育てを通して賢くなる」という内容の本を読んだとき、「女性は子育てをしているとバカになると考えている人がいっぱいいる」というようなことが書いてありました。著者は、それは全くの間違いで、むしろその逆に、女性は妊娠・出産・子育て賢くなっていると書いていました。実は、女性は妊娠・出産・子育てを通して、それ以前とは、「脳の使い方」が変わるらしいのです。簡単に言うと、右脳と左脳の結合が高まり、より総合的、複合的、相対的に物事を見ることが出来るようになるのです。そのため、それ以前には「当たり前」であったことが「当たり前」ではなくなります。「分かっていた」と思っていたことが、実は「分かったつもりになっていただけだ」ということに気付き始めます。想像と現実の違いが分かり始めます。自分の頭で考え、自分の感覚で感じ始めます。心や、感覚や、からだの使い方もそれまでとは全く変わってしまいます。そうでないと目の前の子どもに対応出来ないからです。それまでは、「見かけ」を繕って建前だけで生きていることが出来ましたが、子育てをしていると自分の本当の姿と向き合わさる終えなくなります。見栄や体裁を繕っている余裕などなくなります。流行を追い求めることも困難になります。また、「自分自身の育ち」と向き合ったり、それまで考えたこともなかったような、「生命のこと」、「食べ物のこと」、「平和のこと」、「自然のこと」、「未来のこと」などを考え始めます。だから苦しいのですが、人間や社会が「人間にとって本当に大切なこと」を忘れないためには、「子どもという人間の原点」に向き合う必要があるのです。その最前線で頑張っているのが「お母さん」です。
2024.06.15
コメント(0)
随分前から、「言葉を理解するのが困難な子」が増えてきました。一人でテレビを見て、一人でゲームをして、一人でおもちゃで遊んで、お母さんやお父さんからは「ああしなさい」「こうしなさい」という指示命令ばかり受け、学校でも自分の考えを言わせてもらえず、ただ静かに聞いて覚えるだけの生活しか送っていなければ、必然的に、「他者とコミュニケーションする能力」は育ちませんよね。それでも本をいっぱい読んでいるのなら、本を読むことで「コミュニケーションするための言葉」を学ぶことが出来るのですが、残念なことに最近の子は本も読みません。少し昔の子は「マンガ」は読みましたが、最近の子は「マンガ」ではなく「アニメ」ばかりを見ています。ちなみに、「マンガ」は能動的に読まないと理解出来ませんが、「アニメ」は受動的に見ているだけで楽しむことが出来ます。そのため、さらに言葉を学ぶ機会が減ってしまっています。そして、今ではそれが一般的な状態になってしまっています。(英語のアニメを見て英語を覚えるのは難しいですが、英語で書かれたマンガを読んで英語を覚えるのは比較的楽だと思います。)そういう生活をしているためか、最近の子ども達は「自分の言いたいこと」は(テレビのように)一方的に話すのですが、肝心の、その「言いたいこと」がよく分からないのです。相手に理解できる言葉で話すことが出来ないからです。でも、そのような状態の子は、「通じていない」ということも理解できまないようです。「通じていない」ということが理解できているのなら、「通じる言葉」を工夫しようとするのでしょうが、「通じていない」ことも理解できていないので、「相手が無視している」という受け取り方をしてしまうのです。昔、群れて遊んでいた子どもたちはその群れの中で「相手に通じる言葉」を学ぶことが出来ましたが、一人で遊んでいるだけの子にはその学びの場がありません。子ども同士の群れがなくても、親子や家族の対話がいっぱいあれば大丈夫なんですが、最近ではそれも難しい家族が普通になってきてしまっています。言葉が育っていない子どもたちは、気持ちが伝わらなかったり、思い通りにならないことがあるとイライラします。待つことも出来ません。自分の言いたいことは一方的に話しますが、人の言葉には耳を傾けません。「自分との対話」も出来ません。そのため、「それはどういう意味なの」「君は何を言いたいの」と聞いても答えることが出来ません。意味もない知識は山のように持っていますが、その知識の使い方を知りません。みんな、ゲームやテレビといった「現実世界とはつながっていない世界」からの受け売りだからです。教科書で学んだ知識も同じです。テレビやゲームや学校で学んだ「宇宙」という言葉と、満天の星空を見上げて学んだ「宇宙」という言葉は同じではないのです。最近の子は、そんな「空っぽの言葉」ばかりを学んでいるので、自分の心を支えるための「自分の言葉」が育たなくなってしまっているのです。でも、「子どもの心」は「言葉の成長」の成長と共に育つようになっているのです。「心育て」をするためには「言葉育て」をするしかないのです。昨日書いた「感覚育て」もまた「言葉育て」とセットにしないと進みません。「温かい」という感覚は「温かい」という言葉とセットにすることで、その感覚が自分の中に定着して行くからです。そして、その過程で心も育って行くのです。でも、最近の子は「知識としての言葉」はいっぱい持っているのですが、「自分の体験とつながった自分の言葉」を持っていないので、「自分が感じたことや考えたこと」を人に伝えることが出来ないのです。「なんでみんな自分の事を分かってくれないの!」と思っている子は多いと思いますが、だからといって、他の人に伝わるように話すことが出来ないのです。幼い子はそれで「かんしゃく」を起こすのですが、大人になってもそのままの状態の人が多いのです。そのような状態の人は、自分の感覚や、思考を支えてくれる「自分の言葉」を持っていないのです。そしてそれは、「自分の心」を持っていないということでもあるのです。「受動的に周囲に反応するだけの心」は持っているのですが、「能動的に感じ、考え、行動しようとする心」を持っていないのです。「自分の思考や心を支えてくれる自分の言葉」は、学校の授業などでは学ぶことが出来ません。「言葉」は「言葉を持っている人」から受け継ぐしかないのです。だから子ども達を「自分の言葉を持っている人」と出会わせてあげて欲しいのです。そうすれば、お母さんやお父さんが「自分の言葉」を持っていなくても、子どもは「自分の言葉」を育てることが出来るのです。
2024.06.14
コメント(0)
あと、人の心は「感覚の働き」と密接につながっています。美味しいものを食べると嬉しくなります。心がウキウキします。でも、まずいものを食べると、気分が下がります。イライラしている時でも海や野山に行って自然に触れると心が落ち着きます。子ども達も、狭い部屋の中にいる時はケンカばかりしているのに、家から出て外の風に吹かれたり、森や野原に行くとあまりケンカをしなくなります。美しいものを見ていると心が落ち着きます。かわいいものを見ているとハッピーになります。大好きな人に触れられれば心もからだも緩みますが、大嫌いな人に触れられれば、心もからだも固まります。こういうことは皆さん普通に体験していることだと思いますが、このようなことが起きるのも、「感覚」がちゃんと働いてくれているからなのです。人間だけでなく全ての生き物は「感覚の働き」を通して「自分が生きている世界」とつながっています。生物の内側と外側の境界にあって、中と外のやりとりを行っているのが「感覚の働き」なんです。また、自分の「心」と「からだ」をつないでいるのも感覚の働きです。からだが辛い時には心も辛くなります。心が軽い時にはからだも軽くなります。目を閉じていても動けるのは、「からだの動き」を感覚の働きが心や意識に届けてくれているからです。だから「からだ育て」をする場合にも、「心育て」をする場合にも「感覚の働き」に意識を向けるべきなんです。というか、「心」と「からだ」を別々に育てることは出来ないのです。怒鳴り声ばかり聞いて育った子の感性は鈍くなります。心を守るために感覚を閉ざす癖が付いてしまうからです。でも、感覚を閉ざすことで心が傷つくことを避けることは出来ますが、「心が育つために必要なもの」も入らなくなってしまうため、「心の育ち」も遅れることになります。優しい声を聴いて育った子は、色々なことに興味を示すようになります。心が開くからです。水や風や鳥などの「自然の音」に触れながら育てば豊かな感受性が育つでしょう。日本人の感受性の豊かさは、日本の自然の豊かさとつながっています。機械の音ばかり聞いて育っていれば、心もからだも固くなるでしょう。ビルのような直線ばかりを見て育てば、自然を感じる能力が鈍くなるでしょう。幼い時から「良いもの」をいっぱい見せていると、「良いもの」と「悪いもの」との区別が付くようになります。逆に「悪いもの」ばかり見て育てばその区別が付かなくなります。人間に対しても同じです。実は「感覚を育てること」は「心を育てること」と直結しているのです。ちなみに、モンテッソーリ教育もシュタイナー教育も「感覚育て」を非常に大切にしています。ただ、その感覚の対象が大きく異なります。そのため、「心の育ち」にも違いがあるような気がします。これはあくまでも私個人の印象なんですが、モンテッソーリ教育では「理性的な心」が育つような気がします。シュタイナー教育では「人間的な心」が育つような気がします。
2024.06.13
コメント(0)
では、どのようにしたら、形も実体もない「心」というものを育てることが出来るのでしょうか。寝ているだけで、一見何も出来ないように見える赤ちゃんにも「心」はあります。だから驚いたり、怖がったり、喜んだりするのです。プリミティブな形ですが、数の認識や、善悪の認識も出来るそうです。また赤ちゃんは、「快・不快」に敏感です。自分の安心につながるようなことは喜びますが、それを阻害するようなことは嫌います。そんな赤ちゃんは、五感の働きをフル活動させて、自分が生まれてきた世界のことを知り、その世界に適応しようとしています。そして、「自分の心とからだの状態に肯定的に働きかけてくれるもの」を好み、「否定的に働きかけてくるもの」を嫌います。そして、周囲の状況に合わせて自分の心とからだの状態を調整していきます。何か不安や不快を感じた時、赤ちゃんは泣くことで周囲にいる大人にそのことを訴え、その不安や不快を取り除いてもらおうとします。そして、周囲にいる大人達がそのことに気づき、適正な対応をして安心と快を与えようとしていると、赤ちゃんは自分の周囲にいる大人を信じるようになります。周囲にいる大人とつながることに喜びを感じるようにもなります。でもそれを「正当な要求」ではなく「わがまま」と断定して、泣いても泣いても周囲の大人がそれを無視していると、赤ちゃんは次第に大人に助けを求めなくなります。諦めてしまうからです。「諦める」というのは、悲しみや苦しみで心が壊れることを防ぐための命の智恵なんです。問題は、そういう子育てを受けている赤ちゃんは、まだ人生が始まったばかりなのに「諦め」を学習してしまうということなんです。それは「無気力」という状態につながってしまう可能性があります。また、お母さんとの間に信頼関係を築くことも困難になります。学習にも影響してきます。そのことに気づかない人は、赤ちゃんが諦めて泣かなくなると喜びます。だから意図的にそのような子育てをしている人もいます。赤ちゃんがお母さんに助けを求めなくなったら楽だからです。若い頃、何らかの保育に参加したとき、一人の「泣いた子ども」を私が抱いたら、ベテランの保育者から「子どもを抱かないで下さい。他の子も抱いてもらえる思って泣き出しますから」と言われました。この人は「諦めることや我慢することを覚えさせる保育」をしているのでしょう。諦めることや我慢することを覚えさせる保育をしている保育園もあります。でも、そのような子育てや保育をしていると「無力感」や「否定的な感情」ばかりが育ってしまう可能性が高いのです。そんな「諦めることや我慢することを覚えさせる保育」を受けた子は、大人に対する信頼感も育ちません。それは学習にも影響するでしょう。成長してからの友人関係や、夫婦関係や、親子関係にも影響するでしょう。でも、諦めさせなくても、赤ちゃんは心とからだが満たされれば泣き止むのです。泣き止まない場合もありますが、その時でも、大人がちゃんと向き合っていれば少なくとも否定的な感情は育たないのです。赤ちゃんのからだはものすごい勢いで育っています。そして「からだの育ち」と同時に「心」もすごい勢いで育っています。でも「からだの育ち」を気にする人は多いですが、「心の育ち」を気にする人は多くありません。目には見えないからなのでしょうか。お母さん自身が自分の心で感じようとしない限り「子どもの心の状態」を知ることは出来ないのです。「心」は「心」でしか見えないのです。だから、子どもの心を育てたいのなら、お母さん自身が「自分の心」とちゃんと向き合う必要があるのです。「自分の心」を否定している人は「子どもの心」も否定してしまうのです。だから「心を否定するような子育て」を受けた人は、自分自身もまた「心を否定する子育て」をしてしまう可能性が高くなるのです。
2024.06.12
コメント(0)
現代人は、あまり「心」について語りません。「様々な能力を育てる」ことをウリにしている幼児教育はいっぱいありますが、「心を育てる」ことをウリにしている幼児教育はあまりありません。幼稚園でも「心育て」を全面に出している所は聞いたことがないし、あったとしても、そんなところは胡散臭くてみんな警戒してしまうでしょう。スポーツが好きな人は「スポーツで心を育てる」などというようなことを言いますが、実際にはそのスポーツで心を壊してしまう人もいっぱいます。「心ある人」が子どもにスポーツを教えれば、「子どもの心育て」に役に立つのかも知れませんが、「心ない人」が、スポーツの指導をしたら「子どもの心の育ち」が阻害されてしまのです。実際、運動部内でのイジメや、暴力行為や、麻薬などの話しは珍しくありません。平気で「根性を育てる(鍛える)」などという人は、「心」について考えた事なんてないのでしょう。つまり、スポーツ活動そのものが「子どもの心」を育てているのではなく、スポーツの指導を通して「指導者の心」が子どもに伝わっているだけのことなんです。そしてこれは「子どもの学び」全てにおいて言えることです。算数の学びを通して、「子どもの心」を育てることが出来る人もいます。歴史や科学の学びを通して「子どもの心」を育てることが出来る人もいます。「宗教」を持ち出さなくても、「道徳」を持ち出さなくても、「心」について語らなくても、「心育て」は出来るのです。ただし、それが可能になるためには、先生が「心」についてよく理解している必要があります。逆に「心」のことなんか考えたこともない人が「心育てを目的とした道徳教育」などをすれば、「子どもの心」を育てるどころか逆に「子どもの心の育ち」を阻害してしまうでしょう。シュタイナー教育ではこのような考え方を大切にしていますが、他ではあまり聞いたことがありません。下の子や弱い子に対して暴力的な行為をする子に対して「優しくしなさい」と怒鳴っているお母さんはいっぱいいますが、このようなお母さんは「優しくしなさいと怒鳴れば子どもは優しくなる」と思い込んでいるのでしょうか。人間はみんな「心」を持っていて、「心は大切なものだ」ということを知っているはずなのに、なぜか表だって「心」について語ったり、考えたりしようとしないのです。子育ての相談でも、「言うことを聞かない」、「勉強をしない」、「ゲームを止めない」などの子どもの行動のコントロールの仕方ばかり聞いてきます。そして、「子どもの行動」の背景にある「子どもの心」には目を向けません。でも、アメとムチを使って子どもの行動をコントロール出来るようになっても、子どもの心が育っていなければ、子どもが思春期を迎える頃に子どももお母さんも困ったことになってしまうのです。それは「自立できない」という形で表れます。また、「子どもの心」は「お母さんの心」との触れ合いで育ちます。「心育て」など意識しなくても、子どもはお母さんとの関わり合いを通して、自然と「お母さんの心」を吸収して「自分の心」を育てているのです。それは「言葉の学び」と同じです。実は、「言葉が育つ時期」と「心が育つ時期」は一緒なんです。というか、「言葉育て」は「心育て」でもあるのです。でも、そんな大切な時期に「シネ」「コロスゾ」といいった殺伐とした言葉ばかり学んでいる子ども達がいっぱいいます。そのような状態に「まだ意味が分かっていないのだからいいんじゃないですか」と言う人もいますが、子どもにだって「シネ」「コロスゾ」という言葉と「大好きだよ」「仲良くしようね」という言葉の違いぐらい分かります。そんな「心ある人」との関わり合いを通して「子どもの心」が育つはずの時期に、心を持たないスマホやテレビやゲーム機とばかり関わっていたら「心」が育つわけがないのです。現代人は「心」について考えません。心について語りません。その大きなきっかけになったのが「オーム真理教事件」です。あの事件で人々の「心」に対する扱い方が全く変わってしまいました。公民館などで講座を主催する時でも「子どもの心を育てる」などというようなタイトルは使えなくなりました。私も「タイトルを変えてくれ」と言われたことがあります。あの強烈な事件で、「心について考える=宗教の話」という先入観が定着してしまったのです。そして、みんな「心育て」ではなく「能力育て」の話ばかりするようになりました。でも、「オーム真理教事件で主導的だったのは勉強が出来る高学歴の人が多かった」という事には、目を向けません。
2024.06.11
コメント(0)
「魂」などいうものをテーマにするとなんか怪しいオカルトか宗教の話のように思われてしまうかもしれません。実際、普通の子育てや教育の場で「魂」につて語られることは滅多にありませんよね。シュタイナー教育は別ですけど。でも、「魂」という視点を持たないと「人間の教育」は出来ないのです。実際、「魂」という視点を持たない現代の教育が目指しているのは、「AIのような能力を持った子どもたちを育てること」ですよね。また我が子にそのような能力を望んでいるお母さんたちもいっぱいいます。だから早期教育に熱心だったり、子どもを勉強に追い立てているのでしょう。幼いうちから、子どもをテレビやスマホやタブレットなどに預けてしまっている人が「魂」について考えているとは思えません。そんな現代人が憧れる能力を持ったAIは「魂」というものを持っていません。ですから、自分の感性で「真・善・美」を判断することができません。AIによる判断は100%データに基ずくものであって、自分自身の感性によるものではありません。だから、どんなに高度な能力を持ったAIでも、「人を殺す方法を教えて?」と聞けば、なんの躊躇もなく教えてくれます。相手が子どもであってもです。AIを搭載した戦闘ロボットは、何の躊躇もなく人を殺すでしょう。こういう場合、普通の人間は躊躇しますよね。なぜ躊躇するのですか?それは「私の中のもう一人の自分」が自分の思考や行動を見ているからではありませんか。普通の人は「罰せられるから犯罪を起こさない」のではないですよね。「人を苦しめるようなこと」をすると、「もう一人の自分」が苦しくなるから「犯罪」を起こさないのですよね。その「もう一人の自分」を持っているのは人間だけです。だから監視する人がいなくても自制することが出来るのです。人間以外の動物たちはただ本能のままに行動するだけです。だから、自分と自分が戦うことで心が病むことがないのです。自分で自分を責めて苦しんでいる人がいっぱいいますが、それも「もう一人の自分」がいるから可能なんですよね。皆さんも「意識の主体としての自分」の他に、「自分を見つめるもう一人の自分」を持っていますよね。それを感じることが出来ますよね。中にはその「もう一人の自分」の働きが弱い人もいるかもしれませんが、そのような人はこのような面倒くさいブログは読まないと思います。私は、その「もう一人の自分」を「魂」だと考えています。だから「魂」は当たり前の存在であって、怪しい存在でも、特別な存在でもないのです。話しがオカルト的になったり面倒くさくなるのは、その「魂」が「輪廻」や「霊的な世界」という考え方と繋がるときです。でもそれは検証不能のことなのでここでは扱いません。私は原則として、皆さんが自分でも検証できるようなことしか書かないようにしています。でも今、その「もう一人の自分」の育ちが未熟なまま育っていく子どもたちが多いような気がするのです。そのような状態の人は「匿名」なら好き勝手なことを言ったりやったりしてしまいます。それを止める「もう一人の自分」が目覚めていないからです。子育てや教育を「魂の育ち」という視点から見直してみませんか。そうでないと、人間も社会もどんどん「人間らしさ」を失ってしまうような気がします。というか今もうすでに現在進行形ですけど・・・。
2024.06.10
コメント(2)
人は「肉体」という形でこの世界に存在していますが、「肉体」として存在しているだけでは何も出来ません。それはただの「肉の塊」に過ぎないからです。その「肉の塊」がこの世界とつながり、この世界の中で生き生きと生き、この世界の中で幸せを得るために一番必要なのは「感覚の働き」です。それは全ての生き物において同じです。感覚の働きがなければ敵から逃げることも、食べ物を見つけることも、食べる事も、吸収することも、生殖することも出来ませんからね。その感覚の働きが全て消えた状態を「死」と言います。死んでも肉体は残りますが、もう何も出来ません。そして、その「感覚の働き」にも色々とあります。心を持たない生き物たちは「肉体を維持するための感覚」しか持っていません。原始的な生き物はその「からだの感覚」に従って生きています。それらの生き物の行動は全て反射です。でも、脳を持っているもう少し高等な生き物になると、「からだの感覚」以外の感覚も持っています。それは、他者との関係性を感じるための感覚能力です。特に群れを作る生き物たちは、この「他者との関係性を感じるための感覚能力」がなければ「群れ」を維持することが出来ません。いわゆる「五感」(聴覚、視覚、触覚、味覚、嗅覚)と呼ばれるものは、直接自分自身に伝わってきた感覚を感じるためのものですが、その「他者との関係性を感じるための感覚能力」は、肉体に備わった五感の働きとは別のものです。それは「心の感覚」とも呼べるものです。時間や空間を感じる能力も「心の感覚」です。ただし、その生き物たちの「心」は、「心の原点」ではあっても、私たち人間の「心」と同じものではありません。それは一般的に「本能」と呼ばれているものです。でも実は「本能」も「心」の一部なんです。私たち人間にも本能がありますよね。お腹が空いている時に美味しいものを見ればヨダレが出てそこから意識が離れなくなります。また、大好きな異性が近寄ってきたらドキドキします。その反応自体は本能なんですが、本能も「心」の一部なので私たちはその「本能の反応」を「心の反応」として感じるのです。本能が動けば「心」も動くのです。でも、「人間の心」は人間以外の動物たちの「心」とは少し異なっています。人間以外の動物たちの心を支配しているのは主に本能ですが、「人間の心」には本能以外の要素が含まれているからです。私はそれが「魂」と呼ばれるものなのではないかと思っています。その「魂の働き」が育っている人は、本能に振り回されません。でも、人間でも「魂の働き」が育っていない人は本能に振り回されやすいです。精神的な自立も困難になります。「真・善・美」と呼ばれるものを感じるのも「魂の働き」です。「本能」は「生存に必要なもの」ですが「魂」は「成長に必要なもの」なんです。動物たちは感覚と本能にだけ従って生きています。犬や猿やイルカなどは「心」を持っていると言われていますが、そんな彼らでも、基本的には本能に従って生きているだけで「心の成長」を求めません。「心の成長」を求めるのは「魂の働き」に目覚めた人間だけなんです。問題は、「からだの感覚」や「本能」はほぼ「生まれつき」ですが、「魂の働き」や「魂の感覚」は生まれつきではないということです。そのため、「魂の働き」や「魂の感覚」が育たないまま、肉体だけが成長してしまう人もいます。そのような人は本能に従って生きています。そして、利害損得ばかりを求め、心の成長を求めません。「真・善・美」などというものにも興味がありません。でも実は、人間はみんな「魂の働き」や「魂の感覚」といったものを持って生まれてきているのです。でも、生まれたばかりの時にはそれは深いところに眠ったままなんです。それはどういうことかというと、例えば、「性欲」と呼ばれるものは生まれたばかりの赤ちゃんのからだの中にも本能として組み込まれています。でも、思春期にならないと目覚めないですよね。それと似ています。ただ「性欲」の方は肉体の成長と共に自然に目覚めますが、「魂」の方は子どもの周囲にいる大人が目覚めさせてあげないと目覚めないのです。子どもの成長における「7才まで」という時期は、その眠った状態の魂の働きを目覚めさせる時期でもあるのです。だから、7才前の子どもには美しいものを見せ、美しい音を聴かせ、心に響く物語を聞かせ、人とつながる喜び、学ぶ喜びを伝え、「生まれた来たこと」と「自分の成長」を喜ぶ心を育ててあげる必要があるのです。そのような体験が子どもの「魂の働き」や「魂の感覚」を目覚めさせてくれるのです。この「魂の目覚め」があるから、子どもは思春期が来た時に自立して生きていくことが出来るようになるのです。
2024.06.09
コメント(0)
ネットで「子どもなのに骨や関節がおとろえる!?」(NHK NEWSWEB)という記事を読みました。これは私自身も実感していることです。その記事の中である小児科医の先生が(整形外科医 林承弘さん)「中高年の問題だと思われていた、足や腰(こし)などがおとろえてちょっとした動作で転んだり骨折しやすくなる。そういったものを『ロコモ』って言うんだけど、それが君みたいな子どもにもおこってきているんだよ」ということを言われています。今、子ども達の「からが」非常に困った状態になってしまっています。でも問題は「からだ」だけではありません。「からだの状態」はそのまま「心の状態」や「意識の状態」や「思考の状態」や「意志や気力の状態」と密接につながっているからです。実は、「若者らしい心」は「若者らしいからだ」が作りだし、「老人らしい心」は「老人らしいからだ」が作りだしているのです。「10才だから10才らしい心を持っている」ということではないのです。だから、「若者みたいなからだ」を維持できている人は実年齢は老人でも心は若者に近いのです。逆に、子どもであっても「老人のようなからだの子ども」は、老人のように感じ、考え、行動するのです。そのような状態の子は、新しいことに挑戦しようとしません。面倒くさいこと、疲れることにも挑戦しません。そしてすぐに、「面倒くさい」、「かったるい」、「疲れた」などと言います。最近の子は、ちょっとからだを動かしただけですぐに疲れてしまうのです。あきらめも早いです。そして、老人のように、自分の将来に希望を感じる事が出来ません。「大人になったら何がしたい?」と聞いても「普通のサラリーマン」と答える子が多いです。「普通のサラリーマン」がどういうものか知らないのに・・・。「大人になったらズーッとゲームばかりやっていたい」などと答える子もいます。テレビで華々しい活動をしている職業にあこがれる子は多いですが、「その職業に就くためにはどれだけ努力しなければいけないのか」ということは知りません。「考え続ける気力」も弱いでです。ちょっと考えて分からないと簡単に「ワカンナイ」と言います。ちゃんと見ようとせず、先入観だけで判断します。好奇心も低下しています。自然の中に連れて行っても、自然に興味を示しません。だからすぐに退屈します。機械の扱い方は上手ですが、機械の仕組みには興味がありません。2,30年前には壊れたラジカセなどを拾ってくると分解して遊ぶ子も多かったですが、今ではそういう子は皆無です。機械の中身には全く興味がないのです。また、分解も出来ません。心の働きや、意識や、思考や、意志や気力といったようなものは、年齢が上がれば勝手に「その年らしい状態」に育って行くわけではないのです。体験や学びがないと、年齢が上がって見かけは成長しても中身は成長しないのです。ちなみに、私が「からだ」とひらがな表記しているのは、その「中身」のことです。でも、見かけは成長しているので、中身が育っていないことに大人達が気付かないのです。また、気付くような場もありません。歩かない生活をしていたら、長い時間歩けなくなっていても気付かないですよね。考えなくてもいい生活をしていたら、考える能力が育っていなくても気付かないですよね。集中を必要とするような活動をしないのなら、集中力が育っていなくても気付かないですよね。その「からだ」つまり「中身」は、様々な「からだの活動」を通してしか育たないのです。集中力を育てたいのなら「集中を必要とするような活動」を「遊び」という形でいっぱい遊ぶ必要があるのです。体力や気力を育てたいのなら、体力や気力を必要とするような遊びをいっぱいやる必要があるのです。ただし、人に命令されてやるのではなく自分の意志でやる必要があります。だから「遊び」という形でやることが必要なんです。「木登り」や「コマ回し」といった遊びはかなりの集中力がないと出来ません。でも今その「面倒くさいからだの活動」を代わりにやってくれる便利な機械がいっぱいあります。そして、そういう「便利な機械」に慣れてしまった子ども達は、自分でやるよりも機械にやってもらう方を選びます。ヒモを巻くのが面倒くさいベーゴマよりも、機械が簡単に回してくれるベイブレードの方を好むのです。
2024.06.08
コメント(0)
人間の子どもは「何も知らない」「何も出来ない状態」で産まれてきます。でも、非常に高度な「見て学び、やって学ぶ能力」を持っているので、最初は何も知らない、何も出来ない状態でも大丈夫なんです。まただから、人間は自分が置かれた環境に適応して、多様な言語や、多様な技術や、多様な身体能力を身につけることが出来るのです。そのため、子ども達は周囲にいる人たちから貪欲に学ぼうとしています。大人が教えたから学ぶのではなく、自分の中で必要性を感じたから学ぶのです。言葉の学習でも、日常生活の中で言葉が使われていなかったり、積極的に子どもに話しかけていなければ、「お勉強」として言葉を教えても、子どもは「自分の言葉として使える言葉」を学ぶことは出来ないのです。「お勉強」という形で学ぶことが出来るのは「知識としての言葉」だけです。そして、学校で教えているのもこの「知識としての言葉」です。でも、「知識としての言葉」は、自分自身の思考のための道具としては使えないのです。また、他者との対話でも使えません。そして、「知的な学習」はその子の「言葉の能力」と密接につながっています。そのため、「未熟な言葉」しか持っていない子は「未熟な学び」しか出来ないのです。これはもう確認された事実なんです。学びの基礎となるのは言語能力――「3歳までの子育て」が大切なわけだから、子どもの知的な能力の育ちを支えたいのなら、幼いうちから「お勉強」をさせるのではなく、色々なことについて、色々な体験をしながら、いっぱい色々なお話をした方が効果的なんです。知識を覚えさせるよりも前に「言葉を使う能力」を育てる必要があるのです。(発話が遅いからといって知的な育ちが遅れているということではありません。自分からは話さなくても、こちらが言っていることが理解出来ているのなら大丈夫です。)小さい時はテレビに任せ、ちょっと大きくなったらyoutubeやゲームに任せていては、いくら塾に通わせて勉強させても「知的な育ち」は期待できないのです。そんな「子どもの学び」は「必要に応じて」が原則です。そしてその「子どもにとって必要なこと」は、子どもの成長に伴って変化していきます。赤ちゃんのうちはお母さんからいっぱい学ぼうとします。それが、「生存のためにお母さんを必要とする赤ちゃんという時期」に必要なことだからです。そして「お母さんから学んだこと」が、子どもの「人間としての基礎」になります。3才頃までに「お母さんから学んだ言葉」や「お母さんと一緒に体験した」ことが、子どもの思考や感性の土台になっていくのです。「三つ子の魂百まで」は迷信ではないのです。その次の段階として、社会性が育ち始め、仲間と群れて遊ぶようになってくると、子どもは仲間や年上の子から学ぼうとします。親ではなく、仲間や先輩がお手本になってくるのです。9才頃からは、仲間だけでなく大人や社会の影響を強く受けるようになってきます。ただし、大人や社会とのつながりがある子の場合ですけど。「伝記や物語などの本の中の人物」からも影響を受けるようになってきます。ただし、本を読むのが好きな子の場合ですけど。子どもの成長と共に「必要なもの」が変わってくるので、それに応じて子どもが積極的に学ぼうとする対象も変わってくるのです。でも、いつも一人で遊んでいて、仲間との関わりがない状態で育っている子は、当然のことながら仲間から学ぶことが出来ません。大人や社会とのつながりがなく本も読まない子は、大人や社会から学ぶことが出来ません。そして「お母さんから受け継いだもの」だけで生きていかなければならなくなります。でも、今、それすらもない子が増えて来ています。
2024.06.07
コメント(0)
昨日、車を運転しながらニュースを聞いていたら「すすきの」での猟奇的な事件の裁判のことが流れていました。そこで語られていたのは「歪んだ家族関係」と、犯行を起こした当事者の娘「田村瑠奈」の異常な支配欲です。YAHOOニュースの記事によると、その「田村瑠奈」は以下のように育てられたそうです。そもそも幼少期から両親は一人娘である瑠奈被告に対し、一切叱ることもなく溺愛し、成人してもすべて娘の言いなりとなっていた。でも、このような「溺愛する子育て」をしている人はいっぱいいますよね。「お母さんに命令し、王様や王女様のように振る舞っている子ども」も時々見かけます。でもそういう子に限って、お母さんがいない時にはビクビクしています。ニュースでは「田村瑠奈」の異常性ばかりが語られていましたが、でも私は、その異常性の中に「田村瑠奈の子どもの頃の寂しさ」を強く感じてしまいました。子どものルナちゃんは、寂しくて、寂しくて、どうしようもなかったのではないかと思ったのです。でも、お父さんもお母さんもその寂しさが分からなかったのでしょうね。「子どもの要求に従い、子どもの好きにさせていれば子どもも喜び、子どものためにもなる」と思い込んでいたのでしょうか。でも、そのような子育てをしているお母さんやお父さんは、子どもの目には「自分」というものを持たない「カオナシ」という妖怪と同じです。人格を持たない「子どもの言いなりになるナニーロボット」と同じと言ってもいいかも知れません。確かに子どもは、自分の欲望や要求が満たされれば一時的には喜びます。それを見た親は、子どもが荒れた時はまた子どもの欲望や要求を満たしてあげることで子どもの気持ちを静めようとします。でもそれは「本当に子どもが求めているもの」ではないのです。子どもが本当に求めているのは「お母さんやお父さんとの心が通った関わり合い」なんです。そのため、お母さんやお父さんがしっかりと「子ども」と向き合わずに、子どもの欲望や要求を満たしてあげることばかりに夢中になっていると、子どもはそんな勘違いしている親にいらつき、無理難題を要求したり、家庭内暴力を起こすことでなんとか自分の方に振り向かせようとするのです。買って欲しいと言って買ってもらったものでも平気で捨てたりもします。また、そのような子育てを受けていると、子どもは「心の成長に必要なもの」を得ることが出来なくなってしまので「心の成長」が止まってしまいます。幼い子どもの心のまま体だけが大きくなってしまうのです。子どもが本当に欲しいのは「物」でも「従属」でもないのです。ゲームなどでもありません。本当に欲しいものが満たされないから、その「代わり」を求めているのです。でも、「代わり」では心が満たされません。だから、どんどん欲望や要求がエスカレートしていってしまうのです。そして、子どもの頃には家族内で収まっていた「欲求不満による問題行動」は、子どもの成長と共に社会的な犯罪行為へと移行して行きます。万引きやイジメという形で表れる子もいます。SNSなどで「イイネ」をもらうために過激なことをしてしまう子もいます。自己肯定感が低くなり、自傷という形で自分に向けてしまう子もいます。「悪人」として産まれる子はこの世に一人もいないのです。親や周囲の人にちゃんと受け止めてもらえないから、他の人を困らせて喜ぶ悪人に育ってしまうのです。そんな子どもの要求は本当にシンプルです。難しいことなんか何にもありません。一緒にいてくれる。一緒に笑ってくれる。手をつないで歩いてくれる。ご飯を一緒に食べてくれる。ちゃんと目を見て、顔を見て話してくれる。色々なことを教えてくれる。話を聞いてくれる。待ってくれる。一緒にいる時間を楽しんでくれる。「子どもとして」ではなく「人間として」大切にしてくれる。間違ったことや危ないことをした時にはちゃんと叱ってくれる。お母さんの身勝手を押しつけるような叱り方は子どもも嫌いですが、子どもの安全や成長を守るために叱るのなら、その時は泣いたり暴れたりしてもそのことでお母さんを嫌いになることはないのです。むしろ信頼するようになるのです。いつもでなくてもいういのです。こういうことの大切さを知って、可能な範囲でこういうことを心がけていれば、子どもは心が満たされて自立できるように育って行くのです。
2024.06.06
コメント(0)
現代人の多くが「競争に勝たないと幸せになることが出来ない」と考えています。だから、多くの人が子どもの幸せを願って子どもを追い立てています。まただから、子育てなんかでも助け合うことが出来ません。なんせみんな競争相手ですからね。みんなで助け合って子育てすれば、子育ては楽に、楽しく、そして大人にとっても子どもにとっても「学びの場」になるのに、みんな一人で「子育て」を抱え込んで苦しんでいるのです。これは社会全体の価値観が「つながり」よりも「個」を重視するようになってきたからなのでしょうか。問題は、社会の方は「個」を重視するようになってきたのに、「個」を育てるような子育てや教育の方は少しも進歩してこなかったことです。(教えられる人がいないのですから・・・)だから、精神的な自立が確立されず「個を生きる能力」が育っていない子がいっぱい育ってしまっているのです。実際、こんなにも「自由」が許されている社会に生きているのに、「自由」を謳歌して幸せに生きる事が出来ている人は少ないのではないでしょうか。多くの人が、私の教室の子ども達と同じように、何をしたらいいのか分からず戸惑っています。だから「人目」を気にして「人目」に振り回されてしまうのでしょう。またそのような人は、「つながりから切り離された個」という状態に不安を感じているので常に「何か」や「誰か」に依存しようとしています。「競争」に参加することでつながろうとしている人もいっぱいいます。他の人を否定することでつながろうとする人もいます。有名人を否定することで有名人とつながることが出来たような錯覚を感じる人もいます、でももし、本当に「個」を大切にしているのなら、他人の評価に基づく競争などには参加しないはずです。他の人を否定することで自分の存在感を演出しようなどとはしないはずです。実は、子育てで一番大切なことは「競争に勝つ能力」を育てることではなく「子どもの自立」を支えてあげることなんです。そしてこれは人間だけでなく、子育てをする全ての生き物に共通した原則です。そうでないと種が絶滅してしまうのですから。それが子どもを育てる意味でもあるのです。「競争に勝つ能力」も「自立する能力」として必要なものは親が子に伝えますが、単に「勝つことだけを目的としたような能力」を育てるようなことはしません。そんなことをしているのは人間だけです。また、「自立して生きていく能力を育てる」ということは、「一人ぼっちで生きていく能力」を育てることではありません。人間の社会は「人と人のつながり」によって支えられています。そのような社会で自立して自由に生きて行くためには「他の人とつながる能力」が必要になるのです。水の中にいるのに水を嫌っていたら泳げずに溺れてしまうのです。「仲間と助け合う能力」が育っていない子は自立できないのです。でも現代社会では、多くの人が自立よりも競争に勝つことの方を重視しています。確かに、自然界では競争に勝つことも自立には必要なことではあります。でも、それ以上に大切なのは仲間と助け合う能力を育てることの方なんです。実際、どんなに高い能力を持った人でも自分一人では生きていくことが出来ないのです。競争に勝ってもみんなから無視されたら生きていけないのです。逆に、それほど高い能力を持っていなくても、仲間と助け合うことで偉大な仕事が出来てしまうこともあるのです。
2024.06.05
コメント(1)
現代人は疑り深いです。それは現代社会には人を騙そうとする人がいっぱいいるからなのでしょう。メールなどでも毎日怪しいメールが山のように届きます。そういうメールはフィルターが自動的にゴミ箱に振り分けてくれているので問題は起きていないのですが、ちょっとしたことでも疑り深くなってしまいます。買い物でもインチキサイトが山のようにあります。(特に中国系)現代社会ではすぐに人を信じるような人は、あっという間に身ぐるみをはがされてしまうのです。テレビの言うこと、国の言うこと、学校の言うこと、幼稚園の言うこと、医者の言うことも、まずは疑ってかかる必要があります。テレビや国が「あなたのために」何かを言うことは100%ありません。テレビはテレビのために、国は国のために存在しているのですから。学校や幼稚園や医者の先生の場合は先生次第です。あなたのために言ってくれる人もいますが、そうでない人もいます。そして実際にはそうでない人の方が多いです。でもこんな時代でも、疑うことを知らず他の人のことを100%信じようとする人たちもいます。それが幼い子ども達です。幼い子どもは100%お母さんを信じています。でも、子ども自身はそんなこと意識していません。幼い子どもは、“君はお母さんを信じているの?”と聞かれても答えられません。だって、それしか知らないのですから。それは、“死”というものを知らない人に、“死ぬのは怖くないですか”と聞くのと同じ事です。人が何かを“信じている”と言う時は、その反対の“信じていない”という可能性についても知っている時なのです。お母さん達が素直に子どもを信じることが難しいのはそれまでの人生で“信じることが出来ない”状況をいっぱい体験したからなのです。だから“証拠”が欲しいのです。信じて裏切られてしまうことが恐ろしいからです。「子どもに任せてみたら」と言われても、「任せてうまく行かなかったらどうするの!」と考えてしまう人は任せることが出来ないのです。でも、「信じる」と言うことは「任せる」ということでもあるのです。実際、幼い子どもは生命もからだも丸ごとお母さんに任せていますよね。神様を信じると言うことは“神様に任せる”ということです。それは観念的な理屈でも、信念や思想でもありません。そして、“子どもを信じる”ということもまた“子どもに任せる”ことなのです。ただし、“子どもに任せる”といっても、子どもの好き勝手にさせることではありません。子どもの内側で働いている命の働きや成長への欲求を信じるということです。お母さんは子どもの代わりに体験することは出来ません。子どもの代わりに学ぶことは出来ません。子どもの代わりに喜んだり、苦しんだりすることはできません。子どもの代わりに子どもの人生を生きることも出来ません。だから、そういうことは子どもに任せてしまうしかないのです。そして、子どもの選択した結果は素直に受け入れます。そして、子どもが喜んでいる時には一緒に喜び、子どもが苦しんでいる時には一緒に苦しむのです。“お母さんが言った通りにしないからケガをしたじゃない”などとは言わないのです。お母さんが注意することは大切です。でも、今ケガをして泣いているのなら子どもがその痛みや悲しみ耐えることが出来折るように共感して支えてあげて欲しいのです。その痛みや苦しみに耐えることは子どもにしかできないことだからです。だからお母さんに出来ることはその子どもを支えてあげることだけです。そのようにお母さんに支えてもらうことで、子どもはその痛みや苦しみを乗り越えることが出来るのです。その力を信じ、子どもに任せることが“子どもを信じる”ということなのです。
2024.06.04
コメント(0)
全7008件 (7008件中 101-150件目)