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笠置シヅ子が信頼した男は大金を使い込んでいた… 朝ドラでは美化された絶頂期のマネージャー交代劇の真相 (msn.com)
からです。スズ子のモデルとなった笠置シヅ子の史実を様々な資料で読んでいくと、山下のモデルとなったマネージャー・ 山内義富 のとらえにくい人物像が浮かんでくる。
山内は、笠置と同じ大阪出身で、海外から来朝した音楽家の世話をしたり、その後コロムビアレコードに勤務したりしてきた経歴があり、笠置シヅ子は自伝『歌う自画像:私のブギウギ傳記』( 1948 年、北斗出版社)で次のよう記している。
「山内さんは癖の多い私を親身になって世話してくれ、単に仕事上のマネージャーにとどまらず、私の人生の参謀になっております。いいえ、もう私の兄さんか叔父さんみたいな関係かもしれません」
笠置シヅ子『歌う自画像:私のブギウギ傳記』( 1948 年、北斗出版社)
ドラマでは愛助が療養で帰阪する前、笠置と 2 人で箱根旅行に行くが、史実では愛助のモデル・吉本エイスケと笠置の箱根旅行にもマネージャーの山内がついて行っていた。また、笠置の妊娠がわかった際には、慎重に事を運ぶよう助言したり、手紙では要領を得ないからと、直接会って相談することを勧めたりもしていた。
年の瀬に名古屋に地方興行に行った際には、元日だけは一人でお雑煮を祝うのも寂しいだろうということで「今日だけは僕がエイスケさんの身替りを勤めましょう(原文ママ)」と山内が言い、笠置が「えらい薹 ( とう ) の立ったエイスケさんやな」と笑ったという記述もある。また、エイスケが亡くなったとき、吉本家からの見舞金を納めておいたほうが良いと勧め、「しかし今後、物質的援助は謝絶し、あくまで自立の覚悟で奮発すべきだ。ただ、お見舞金の封筒は吉本家との関係を証明するものだから大事にしまって置いた方がよい(原文ママ)」と進言したのも、山内だった。
笠置の自伝への寄稿「歌姫の構図(笠置シヅ子を語る)」の中で、演劇評論家・旗一兵は山内の存在についてこう記している。
「山内氏はエイスケ君の信望によって笠置君を預けられた人だがエイスケ君の死によって一層その関係は深められ、今は単なるマネージャーではない。血縁者に近い存在であり、笠置君に対する人生の保護者と忠告者を兼ねている。最初のうちはお互いにぴったりしたものがなかったかも知れないが、住宅事情からここ二、三年間同じ家に住んでいるのも二人の気脈を通じさせ、真ッ裸で取り組んだ歌手対庇護者の人間模様が捨小舟 ( すておぶね ) の母子の生活を温めている」
笠置シヅ子『歌う自画像:私のブギウギ傳記』( 1948 年、北斗出版社)
一緒に暮らしていた時期も含め、史実ではドラマ以上に近しい間柄であったことがわかる。しかし、笠置に「兄さんか叔父さんみたいな関係」と信頼されていた山内には、意外な“ 裏の顔 ”があった。
タナケンのモデル・エノケン(榎本健一)と「エノケン・ロッパ」と並び称されて人気を競った喜劇役者「ロッパ」こと古川ロッパ(古川緑波とも)は、笠置とも親しかったが、『古川ロッパ昭和日記』( 1987 年に晶文社より復刊)の「昭和二十五年五月十五日(月)」の日記中には、こんな記述が見られる。
「そこから、藤田(編集部註:脚本家、劇作家、映画プロデューサーの藤田潤一)と共に、数奇屋茶屋へ行く。今日は、メムバーの皆で飲まうぢゃないかと、約束したので。ところが呆れたのは、山内義富が数奇屋の奥で又やってゐるのだ。彼は、三日目の筈である。彼、笠置のマネージャーをクビになり( 二百五十万円、笠置の金をつかひ込みし由 )、雀の他何ものもなしの状態らしい」
ところで、笠置が羽鳥善一(草彅剛)のモデル・服部良一と 4
カ月のアメリカ公演
に旅立つのが、昭和 25
年 6
月。なんと山内は、笠置の渡米直前の大事な時期に笠置の金を使い込んで、マネージャーをクビになったわけだ。 250
万円という金額は、現在なら 5000
万円以上
に相当すると思われる。これは山内を家族のように思い、信頼していた笠置にとって、相当にショックなことだっただろう。
にもかかわらず、当の山内自身は、クビになった直後に少なくとも 3 日間も茶屋通いをしていた。その後も、ロッパの 6 月 21 日の日記にも登場。ロッパの家を早朝に訪れ、 7 月 8 、 9 日の 2 日間、スポーツセンターでの催しにエノケンと一緒に出てくれと依頼をし、その催しが無事行われたことが 7 月 8 日の日記からわかる。
つまり、山内は笠置のマネージャーをクビになり、そのことが周囲に知られている中で、笠置が渡米して不在の間に笠置の「女優業」のパートナー・エノケンやその仲間でありライバルのロッパと仕事を普通にしているわけだから、面の皮の厚さはなかなかのものだろう。
笠置の苦労を誰よりも間近で見続けて来た山内が、その金を使い込んだことを思うと、よけいにその人間性に疑問がわいてくるところではある。ドラマの中でずっとスズ子を支えると誓った山下が 急にマネージャーを辞める展開 になったのは、この史実を反映してのことだったのだろう。
シズ子のロスアンゼルス公演の手伝いをしたのが、
真言宗
僧侶の父親と一緒にアメリカに居住し、高野山米国別院(別名高野山ホール)でステージボーイなど裏方をしていた
ジャニー喜多川
であった。ジャニーはシズ子のステージを見てショービジネスに興味を持ち、ロスアンゼルス公演の後も、姉の
メリー喜多川
と服部・シズ子一行に同行し通訳を買って出て、この縁で服部とジャニーは交流を深めている [257]
。
この後、ジャニーは日本に帰国し、
GHQ
や
駐日アメリカ合衆国大使館
での通訳業務を経て、夢であったショービジネスの実現に着手するが、そのときに頼ったのが服部だった [258]
。ヱイ子と旧
ジャニーズ事務所
によれば、シズ子とジャニーは帰国後の進駐軍興行でも関わることがあって、ジャニーはシズ子のファンとなり、個人的な親交もあったという。
その縁もあって、後年に旧ジャニーズ事務所所属タレントが「東京ブギウギ」や「買物ブギー」などのシズ子の持ち歌をステージで披露する機会もあり [259]
、
KinKi Kids
の
デビュー
アルバム
「
A album
」には、
CD
デビュー前から歌っていた思い出深い曲として、シズ子の歌手生活晩年の曲である「たよりにしてまっせ」が収録されている [260]
[261]
。
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