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(幻の授業風に)宮沢賢治に「野の師父」という詩があります。森信三先生は宮沢賢治のことを「明治以後 われらが民族に かくばかり 清(すが)しき生命 かつて生れしや」と歌に読まれました。「野の師父」この詩は長いのですが、読んでみましょう。野の師父倒れた稲や萱穂(かやほ)の間 白びかりする水をわたってこの雷と雲とのなかに 師父よあなたを訪ねて来ればあなたは縁に正しく座して 空と原とのけはひをきいてゐられます日日に日の出と日の入に 小山のやうに草を刈り冬も手織(ており)の麻を着て 七十年が過ぎ去ればあなたのせなは松より円(まる)く あなたの指はかじかまりあなたの額は雨や日や あらゆる辛苦の図式を刻みあなたの瞳は洞(ほら)よりうつろ この野とそらのあらゆる相(そう)はあなたのなかに複本をもち それらの変化の方向やその作物への影響は たとへば風のことばのやうにあなたののどにつぶやかれます しかもあなたのおももちの 今日は何たる明るさでせう 豊かな稔りを願へるままに 二千の施肥の設計を終へ その稲いまやみな穂を抽(ぬ)いて 花をも開くこの日ごろ四日つゞいた烈しい雨と 今朝からのこの雷雨のためにあちこち倒れもしましたが なほもし明日或(あるい)は明后(みょうご)日をさへ見ればみな起きあがり 恐らく所期の結果も得ますさうでなければ村々は 今年も暗い冬を再び迎へるのですこの雷と雨との音に 物を云ふことの甲斐なさにわたくしは黙して立つばかり 松や楊の林には 幾すじ雲の尾がなびき 幾層のつゝみの水は 灰いろをしてあふれてゐます しかもあなたのおももちの その不安ない明るさは一昨年の夏ひでりのそらを 見上げたあなたのけはひもなくわたしはいま自信に満ちて ふたゝび村をめぐらうとしていますわたくしが去らうとして 一瞬あなたの額の上に不定な雲がうかび出て ふたゝび明るく晴れるのはそれが何かを推せんとして 恐らく百の種類を数へ思ひを尽くしてつひに知り得ぬものではありますが師父よもしもやそのことが 口耳の学をわづかに修め鳥のごとくに軽佻な わたくしに関することでありますならば師父よあなたの目力をつくし あなたの聴力のかぎりをもってわたくしのまなこを正視し わたくしの呼吸をお聞き下さい古い白麻の洋服を着て やぶけた絹張の洋傘はもちながら尚わたくしは 諸仏菩薩の護念によってあなたが朝ごと誦せられる かの法華経の寿量の品を命をもって守らうとするものであります それでは師父よ何たる天鼓(てんこ)の轟(とどろ)きでせう 何たる光の浄化でせうわたくしは黙して あなたに別の礼をばします 不思議な魅力を持った詩です。賢治が野の師父を訪ねると、師父は縁側に正座して空と原の気配に耳をすましている。日の出と日の入に草を刈り、手織り麻を着て、年齢は70歳を過ぎている。背中はまるまり、指はまがり、額は皺が多い。瞳はうつろで野や空の変化と作物への影響をつぶやいている。しかも表情は明るい。 4日続いた激しい雨と今朝からの雷雨に豊かな実りを願って施肥を設計した賢治はいささか心配である。村を巡回する途中で一昨年の夏ひでりのときの師父の表情に比べて師父の不安のない明るい表情に賢治は尊敬の念でお辞儀して回村を続けます。 わたくしは、これから同じく尊敬の念で、何人かの遠州報徳の師父を皆さんに紹介したいと思います。遠州ではかつて盛んだった報徳運動についてほとんど耳にすることがなくなっています。 もう10年近い前の年の暮れに、浜松市におもむいて、報徳社について駅の案内所で聞いても誰もしりません。 またそこに置いてあったパンフレットに載っていた下石田の遠州報徳の発祥の地に建つ石碑を視察したいと、タクシーを呼んでもらったのですが、タクシーの運転手さんどころか会社の人も更にはその場所の近くで降りて、地元の人に聞いても誰も知らなかったのです。 それほど遠州報徳については、忘れ去られてはいます。 しかしながらおそらくはこの地方に残る正直や勤勉を重んじる気風や、日本の産業振興に貢献したこの地の実業家や技術者たちの系譜はこの報徳運動にさかのぼるのだろうとわたくしは考えているのですよ。 それでは、まずは、遠州報徳の祖ともいえる、安居院庄七先生からお話しましょう。 安居院、ここでは「あごいん」と読みますが、地方によって読み方が異なっています。森町史では「あぐい」とふりがなし、生まれ故郷の神奈川県秦野市でも「あぐい」と読んでいる。ところが朝日日本歴史人物事典では、「あごいん・しょうしち」としています。「安居」(と黒板に書く)とは、仏教の用語で、安居(あんご)と読んで、サンスクリット語のバルシカ(雨季)の訳です。インドでは4月15日から3ヶ月の雨季の間、洞窟や寺院にこもって修行しました。これを雨安居といいます。 その安居(あんご)をする寺院ですから、本来は「あんごいん」が正しい読みでしょうが、それが「あごいん」となり、さらに地方によって「あごい」、「あぐい」と読みようになったというところでしょうか。実に名前の読み方からしてよくわからない。それがこの安居院庄七先生その人の生涯にもいえるのです。「安居院義道伝」(昭和28年)を著した鷲山恭平先生も「幼年青年と壮年期に至るまで、何ら伝うる所を聞かぬ」としるされているほど経歴に不明なところが多いのです。 生れは、寛政元年、西暦1789年です。今から220年以上前ですね。今の神奈川県秦野市の蓑毛村の密正院の秀峰の次男として生れました。実家の密正院は、神奈川に大山という山があります。落語にも大山詣(もう)でという話がありますが、信仰のお山で大山道という参詣の道が整備されていたほどです。修験道(しゅげんどう)といって密教系のお寺ですね。そこの次男坊として生れました。 長男が後を継ぎますから、同じ秦野の曽屋村十日市場の安居院家に入婿します。 安居院家は磯屋という穀物商でした。妻を「ヒサ」という。 庄七は、米相場に手を出して、養家の財産を使い尽してしまいます。そこで二宮尊徳先生に無利息金を借りるため、桜町まで出かける。無利息金を借りて、その資金を再び米相場にかけてみようとしたのだといいます。米相場をやっていたことは、「福山先生一代記」の「安居院先生逸事」に「安居院先生がある日、三方が原を行かれたとき天を仰いで言われた。『ああ、あの雲がこのようだと、きっと米の価格は必ず上ろう。』一緒にお供していた者が『そうであれば私たちは〔米を〕買うべきでしょうか』と問うと『米相場ははげしい。おまえたちの手におえるものではない』と叱られた」 (p38,39) とあることからもうかがえます。庄七が米相場に手を出して、しかも失敗したことがあることは確かであるようです。 庄七が54歳の時、栃木県の桜町陣屋に尊徳先生を訪ね、しばらくの間下働きしたことは、陣屋日記で確認できます。確かに庄七が二宮先生に会いに来たことは歴史的な事実です。天保13年(1842)7月2日の陣屋日記には、「一、相州十日市場磯屋庄七と申す者田蔵相便り罷り越し候事」と記載されています。(全集第3巻p899) ここで田蔵というのは、小田原の中沼村の名主です。中沼村田蔵は、天保13年6月9日付けの「恐れながら書付を以て願い上げ奉り候事」(全集第6巻31)という尊徳先生の幕臣登用に当って引続き小田原仕法を続けてほしいという願書の74か村の3番目に中沼村筆頭として「名主格田蔵」とあるから、報徳仕法では結構有力者であったようです。(同p1142)庄七はそのつてを頼って桜町陣屋に二宮先生をたずねた。 庄七は二宮先生に面会を求めますが、公辺多忙との理由で拒絶されます。その頃二宮先生は老中水野越前守より江戸表へ出府するよう命を受け、その後、利根川分水路印旛沼掘割工事の検分を仰せ付けられ、後には幕府の役人に取り立てられ、御普請役格を拝命するという、実に大多忙の時だったのです。 せっかく郷土の方からはるばる尋ねて来た、まあ当分風呂番でもさせておけということで、陣屋の下働きをしながら、面会の機会を待ちましたが、結局二宮先生との正式の面会はならなかった、そして無利息金を借りることもできずに帰郷した。 天保13年7月26日の陣屋日記には、「一、二宮金次郎このたび御老中水野越前守様より御用これ有りのご沙汰(さた)に付き、江戸表へ出府、並びに豊田正作小路唯助両人とお屋敷より仰せ付けられ同道にて罷り出候(そろ)よう申し受け候には、明け八つ半時、伴忠治召し連れ候同道出立の者左の通り一、富田久助、小田原御領分曽比村広吉、竹松村幸内、栢山村増五郎、中沼村田蔵、同新兵衛市兵衛、西大井為八郎、浦賀啓三郎、紀州治郎右衛門、同伝右衛門、豊田村吉右衛門、十日市場磯屋庄七、酒匂新左衛門、大磯茂兵衛、随身面々一統御長屋に相詰居り候処、このたび同道出立外上屋敷飛脚一人同断の事」と庄七の名がありますから、この時期、およそ1ヶ月弱、庄七が長屋に詰めていたことは確実です。しかも富田高慶はそのことを記憶していないというほどのさほど目立たない下働きでしかなかった。この3年前、天保10年11月に、二宮尊徳先生は小田原領内曽比(そび)村・竹松村の2村に報徳仕法を行い、負債整理や荒地開墾など難村衰村の一村式仕法を行っていました。おそらくはそれを伝え聞いて、無利息金を借りに来たのでしょう。遠州系の伝記ではこの曽比・竹松村の2村の帳簿等の清書を手伝ったとしますが、確たる証拠はありません。二宮尊徳の高弟で「報徳記」という二宮先生の伝記を書いた富田高慶は、「安居院はもとは大山の御師だという。曽比・竹松の両村の仕法施行の頃、二宮先生が村民一同へご教誡されていたのを障子の外で立ち聞きした人物で、仕法書はその頃、筆記に頼っていたのを写して、その仕法に感動じて駿河遠州地方に説諭して回った」と伝えています。(「報徳史料 富田高慶先生との対話」)以前、静岡県周智郡森町で、読書会を開き、輪読したとき、急に稲光がして激しい雨が降り出したことがあった。やがて雨はやみ、さんさんと日差しがさしてきた。そのとき、森町の報徳の師父たちがこの地で、報徳の輪読を行うのを喜んでいるようなそんな不思議な感覚をもった。この雷と雲とのなかに師父よあなたを訪ねて来ればあなたは縁に正しく座して 空と原とのけはひをきいてゐられます師父よあなたの目力をつくし あなたの聴力のかぎりをもってわたくしのまなこを正視し わたくしの呼吸をお聞き下さいなおわたくしは 報徳の教えが世界に広まり かの鈴木藤三郎の「願文」を読みそして伝え真正の文明の実を見ることを願い、 後の世まで報徳の師父を伝えようとするものであります それでは報徳の師父たちよわたくしは黙して あなたに深い礼をばします
2022.09.24
クラウドファンディング「訳注・静岡県報徳社事蹟」出版(予定)の、5千円以上支援者へのリターンとしての一つ「遠州報徳の師父と鈴木藤三郎」を「遠州報徳の師父と鈴木藤三郎―報徳の師父第一集―」とした改訂版を作成中。 字が小さいとの、要望にある程度お答えするために、文字を大きくし、静岡県報徳社事蹟の補注を削除した。だいぶ読みやすくなったと思う。 さらに鈴木藤三郎資料集録 として(一)『国力増進の根本策』、(二)荒地開発主義の実行(三)二宮翁と余の欧米観(四)職務本位(五)報徳実践談(六)報徳文庫の由来を追加した。鈴木藤三郎の報徳に関する考えが藤三郎自身の言葉で理解できるであろう。 また講演会の中で、三河への報徳の普及について質問があったことを踏まえて、七 三遠農学社と松島授三郎八 三河国報徳社を追加した。新たに生まれ変わったといってもいいかも(^^)「遠州報徳の師父と鈴木藤三郎―報徳の師父第一集―」改訂版目次一 訳注「静岡県報徳社事蹟」(遠州地方)・・・ 2(一)二宮尊徳小伝 ・・・・・・・・ 4(二)報徳の起源 ・・・・・・・・ 12 (三)報徳の大意 ・・・・・・・・ 13(四)安居院庄七の伝 ・・・・・・・・ 15(五)静岡県における報徳の沿革 ・・・・・・ 24(六)遠江国報徳社 ・・・・・・・・ 25(七)報徳遠譲社 ・・・・・・・・ 34(八)報 本 社 ・・・・・・・・ 42二 遠州報徳七人衆 ・・・・・・・・ 47三 福山滝助翁 ・・・・・・・・ 51四 岡田無息軒翁一代記抄 ・・・・・・・・ 67五 森町の山中家報徳三兄弟 (一)新村里助 ・・・・・・・・ 87(二)小野江善六 ・・・・・・・・ 90(三)伊藤七郎平 ・・・・・・・・ 94六 鈴木藤三郎(一)鈴木藤三郎君立志画談 ・・・・・・・・ 106(二)米欧旅行帰国後の鈴木藤三郎 ・・・・ 125(以下追加)鈴木藤三郎資料集録(一)『国力増進の根本策』、(二)荒地開発主義の実行(三)二宮翁と余の欧米観(四)職務本位(五)報徳実践談(六)報徳文庫の由来七 三遠農学社と松島授三郎八 三河国報徳社「遠州報徳の師父と鈴木藤三郎」年譜 ・・・・ 143コラム 遠州報徳・師父の風景 安居院庄七(22 23)、荒井由蔵(31 32)、名倉太郎馬(33)、福山滝助(65 66)、岡田佐平治(86)、報徳三兄弟(93 103)、主要参考文献 『二宮尊徳全集』、『静岡県報徳社事蹟』、『報徳』(明治三五年創刊の大日本報徳社機関誌)、『日本報徳運動雑誌集成』、『図説森町史』、『報徳運動100年のあゆみ』、『山中家盛衰記』山中眞喜夫、『遠州報徳の夜明け』、『遠州報徳主義の成立』海野福寿、『安居院義道 報徳開拓者』鷲山恭平、『福山滝助翁』小田原市城内国民学校編、『福山先生一代記』金井利太郎、『岡田無息軒翁一代記』岡田良一郎、『小野江善六翁小伝』神村直三郎、『伊藤七郎平翁』鷲山恭平本資料集は平成28年12月17日袋井市で開催した「報徳講座」テキスト改定版です。文字を大きく、「事蹟」の注を削除し読みやすくし、鈴木藤三郎資料、三遠農学社等を追加しました。(令和4年12月)
2022.09.24
「鎌倉殿」悪妻のえ「ううっ!」泰時チラ見第36回「武士の鑑(かがみ)」北条泰時は、父義時の3人目の妻となった継室のえ(菊地凛子)の本性を義時に知らせようとするが、畠山事件でタイミングが悪すぎて「今はそれどころではない!」と一喝された。口を押さえ、おなかをさすりながら泰時をチラ見した。露骨すぎるアピールに、さすがの泰時も「はっ」と表情を変えた。ネットは、またも飛び出した悪妻コメディに爆笑。「のえは実際妊娠していても嘘に見えるのがいいね。」との声も。うそ くさく見させて、しかも 憎まれすぎない菊地凛子さんの難しい役どころ(悪妻コメディ)を しれっと 演じる図太さガッキーなど 男性が描く女性の理想像 との 対比の虚実あわせもつりく演じる名優宮沢 りえさんが、政子の前で 内心は 手先の蕾を切るシーンだけで演じるのと違ったおおざっぱな味わいが面白い。
2022.09.21
きつねダンスの”本物“が来た!日本ハムのホーム試合で、3回終了後にファイターズガールが踊って話題の「きつねダンス」の原曲「The Fox」を歌う、ノルウェーの兄弟芸人コンビ「Ylvis(イルビス)」が19日、札幌ドームに登場。ロッテ23回戦前に生歌唱した。この日は来場した2万人に「きつねみみサンバイザー」などがプレゼントされたこともあり、試合開始30分前の午後1時半には、スタンドの最上段まで観客が詰めかけた。その中でキツネの着ぐるみに身を包んだイルビスは、大歓声の中登場。「一緒に踊ってください」と呼び掛けた後、大勢のきつねガールを前に熱唱。観客はスマホを片手に撮影しながら一緒に踊り、ベンチ前では清宮幸太郎もダンス。札幌ドームは一体感に包まれていた。
2022.09.19
エンゼルス・大谷翔平が13勝目 7回8奪三振無失点 毎日新聞 2022/09/18米大リーグ・エンゼルスの大谷翔平選手は17日、アナハイムでのマリナーズ戦に「3番・投手兼指名打者」で出場し、7回を3安打8奪三振無失点と好投し、13勝目を挙げた。試合は2―1で勝った。 打っては一回に先制の適時二塁打を放ち、昨季のシーズン138安打に並んだ。💛7回まで0点で抑えて退いたら、8回の抑えのピッチャーがホームランを打たれ、0-1となり、ひやひや。よかった。おめでとう13勝目。 規定回数まで7回まで投げ切れば、あと2回で達成と、取らぬタヌキの胸算用。エンゼルス・大谷翔平が13勝目 7回8奪三振無失点規定投球回まであと「14」エンゼルス大谷翔平投手が「3番・投手」で先発出場し、投手として7回を投げ3安打無失点8奪三振の好投で、メジャーでの自己最多を更新する13勝目(8敗)を挙げた。初回からこの日最速となる101.1マイル(162.7キロ)を投げ込むとスライダー、スプリット、カットボール、ツーシームなど持ち球をフル活用。マリナーズ打線に二塁すら踏ませない好投だった。これで大谷は今季の投球回が148回となり、目標とする規定投球回「162」まで、あと14回と迫った。この試合では初回から球速、変化球の曲がり幅など威力十分。3回までに60球を要したものの、尻上がりにペースアップ。4回から7回までの4イニングを47球でまとめた。要所ではストレート以上に球速が出るツーシームに縦、横と変化を変えられるスライダー、急激に落下するスプリットなど自由自在。ポストシーズン進出争いを続けるマリナーズ打線を完全に手玉に取った。また打者としても大谷は1回の第1打席、1死一塁からレフトフェンスの最上部を直撃する先制のタイムリー二塁打。自ら「投手・大谷」を援護する一打を放っていた。試合後、大谷は「1点もやらないように最初から飛ばしていきました」と振り返った。この結果、大谷の今季の投球回は148回まで伸び、既に達成している規定打席と合わせた「規定打席&規定投球回」のクリアまで、あと14回に。残り3試合に先発登板が予定されており、毎試合5回弱を投げれば史上初の快挙達成となる。また今季の奪三振数は196個まで伸び、奪三振率11.92はメジャートップの数字。防御率2.43もア・リーグ5位にランクインするなど、メジャー挑戦以来、投手として最高のシーズンを送っていることを象徴するような結果がズラリと並ぶ。
2022.09.18
袋井市のTさんから『勧農報徳社史 愛野百年の歩み』の関係個所のコピーを送っていただいたので、補注として読みやすく直して差し込んでみる。「勧農社を結ぶ案文」を読むと、当時の戸倉吉十郎と藤四郎の決心書の心意気が伝わってくる。十五 勧農報徳社1 所在地 静岡県磐田郡笠西村愛野八十五番地2 沿革 従来俗にいわゆる子待庚申(ねまちこうしん)というものを廃し、明治十一年十月始めて勧農社を興し、規則を設け、以来報徳の事業を行っていたが、三十一年に至り規則を改正し、三十六年一月十四日勧農報徳社と改称し、同年八月二十九日法人の許可を得た。3 組織故二宮尊徳の遺教により報徳の事業を立てることを目的とする。社の附随事業として予備金・余力金・補助金を社員賞与、貸付金、損害補償金、勧業、恤救、社費等に支払う。その他の金円を農工商業資本のため、社員の申出により年賦貸付を行い、あるいは地所を購入し又は預金として利殖の道をはかった。4 事業毎月一回社員の常会を開き、予備金、余力金の積立を行い、毎年一回社員の総会を開いて、収支清算を報告し、講師を招いて、道徳上の講話を行う。なお五か年もしくは六か年ごとに精業善行等の者に賞与を行う。5 時局に対する施設としては御料地を借受けて植林の計画中である。6 社員数及び資産 社員数 百三十六名 資産金 千九百九十八円三十三銭八厘7 創設者は戸倉藤四郎、戸倉吉十郎の二人とする(履歴略す)8 現任理事社長 桑原太三郎である(履歴略す)1 『勧農報徳社史 愛野百年の歩み』五一頁 「結成の動機 明治初期のごとく農家の生活が困窮し物心共に疲弊の極に陥った世相においてこれを救済する道は報徳に在りとした。 嘉永三年(一八五一)高部村の高山藤左衛が家政改革を行ったことから始まったといわれ、石野村においては、桑野儀八、桑原太三郎等が熱心に唱導し、岡田佐平治、岡田呂一郎その他の勧めを得て明治十一年九月愛野村を一丸とした勧農社を結成することになった。 発起人代表としては戸倉吉十郎、戸倉藤四郎等である。戸倉吉十郎は戸倉惣兵衛の先代で、禰宜弥に居住し、代々庄屋であったが、明治十八年死亡した。 戸倉惣兵衛はその養子であるが、家は没落したため、菩提に四haの桑園を開墾して養蚕を経営し、袋井駅前で国開園として蚕種製造元を始め全国的に発展し、明治四十年蚕業取締所を設けた。戦後養蚕不振となり廃止して、建物は医療団へ売り渡し、その後これが袋井病院となり、また袋井市役所となったが、今は取り壊された。 また戸倉藤四郎は戸倉実太郎の先々代で戸倉吉十郎の分家二代目で酒造業を営み戸長を勤めた人で功績碑がある。2 勧農社を結ぶ案文(原文を読みやすくした) 同五三頁 社中繁栄を図り銘々富み盛んに、子孫長久安楽自在に至ることをねがうのは、誰人も同様の事にてはあれども、世間いずれも困窮疲弊の者多く、ことに近来富有の家も時と共に破産いたす者が少なくないように見え、実に恐るべき至りである。結局人々がその守るべき道を忘れ、勤めるべき業を怠って、小を積んで大と為すの法を知らず、日々その徳分の内を損じ、嘆かわしい次第と存じ、よって有志の者が協議の上、子待庚申(ねまちこうしん)の銘を廃し、この社を設け、丹精の余力で連成、各自が相応の積み金を始め、その趣旨である貧を賑(にぎ)わし、窮を救い、専ら善事を申し合わせ、農事を以て根本の業とし、情の者には褒賞を与えるなど、みな車中の善者をもって取扱い、共に共に安楽の域に至るべきの基本である。一同共にこの趣旨を守って丹精するべきこと。二宮先生の教えに物は「小を積んで大と為す」とは、今誠に一か年に金一円ずつ余業積立を行い五分利で貸付利倍にして百年積み立てれば二万七千九十一円となる。この安利で人を助け、つまりは一村の資本を得るに至るものである。善事も悪事もすべてこの道理である。よくよくわきまえ、共に入社の上、丹精いたしたく議定書を確定する。 明治十一年九月 発起人代表 戸倉吉十郎 戸倉藤四郎
2022.09.17
ジュニア第一位豚饅の油染むべい独楽の紐「よくまあこんな俳句を詠んだものだと密かに感心しております」2位のキスマイ横尾「丸善の 図書フェア 檸檬ケーキの香」3位の皆藤愛子「梨噛んで潤う 両耳の鼓膜」も 決勝進出 レベル高それぞれの独自の感性、発見を先生は評価。
2022.09.16
戦場のウクライナ兵に直接聞いた…“電光石火作戦”でロシア軍敗走 陰の主役は「中国製ドローン」だった【報道1930】9/14(水) ヘルソンの原野で作戦を実行中のウクライナ軍兵士「橋などのインフラを破壊したことで、敵の進軍や移動を制限することができました。ドニプロ川の右岸に敵の兵器や弾薬があり、敵はドニプロ川を補給路として利用していました。ウクライナ軍は、兵器や兵士のすべての補給路をコントロール下に置いたのです。右岸で敵が占領している領土を縮小し、攻撃することで領土を少しずつ解放しています」「見てください。ドローンを持った兵士です。私の後ろにいる兵士らは、1つのシフトで50回くらいドローンを飛ばします。ドローンは攻撃や砲撃を受けたり、ドローン妨害装置が使われることもあるので、手動で操作することが多いです。つまり、ナビゲーション、距離計や高度計を使わないで、カメラだけで操作している状態です。戦闘地では必要不可欠なスキルです」ドローンは「偵察用」「爆弾を落として戻ってくるタイプ」「自爆型」など何種類かを駆使して攻撃を行っていると明らかにした。そして、ドローンは消耗品なので質、量ともにもっと必要だと語る。「様々なドローンはありますが、その中に、100キロも飛べるドローンや高高度ドローンがあり、ドローン妨害装置の電波が届かないので有利なのですが、このようなプロフェショナルなドローンは、非常に数が少なく不足しています」
2022.09.14
報本社の所在地は周智郡森町です。創設者は新村里助、当初遠譲社に加入したが、岡田佐平治が遠江国報徳社を設立すると、これに加入。明治28年遠江国報徳社が無利息扱いを廃止したため、退新村里三郎は退社し報本社を設立した。
2022.09.14
1 「報徳の庭」第二七六回(平成四年(一九九二))十一月八日に杉山報徳社副社長片平貞明氏の「庵原村と報徳」の概要が掲載されている。 幕末から明治初めにかけて、庵原(いはら)では「報徳」の教えが広まった。嶺村は安居院庄七が、尾羽村は柴田順作に仕法を願い、安政三年二月に報徳社を設立した。庵原は安居院と柴田の「報徳」が接している所だった。 杉山報徳社は柴田順作から教えを受け明治九年十二月に設立されたが、その特徴の一つに「決心書」の作成がある。同署は毎年のように作成され、設立時のもの、翌年順作に差し出したもの、同二十年にまだ仕法が未熟であると誓いも新たに作成したものがある。杉山村では、この「決心書」作成を通して、村民の気持ちを一つにまとめていった。 片平信明は村の再建には青年の教育が重要だと考え、明治二年に青年夜学校を開校したが、就学率は低かった。十一年には「杉山青年報徳学舎」と改称発展させ、子弟教育の道を広げた。明治十三年永安社と助け合い組合を作り極貧者を助ける組合を作った。明治三十年代報徳社が報徳金を貸付け、みかん栽培を始めたことで、みかんが杉山村の特産となった。
2022.09.14
実朝失踪事件で、「私たちが見つけていないということは、執権殿も見つけていないということです。よいほうにとらえましょう」と大江がいうと政子が「あなたに言われると心が落ちつきます」にその場にドギマギとした ポワーンとした微妙な雰囲気が流れる。これはおそらくは、政子が実朝の和歌の師匠に最初に三善に頼んだときのように、大江と三善(文官)との信頼関係を示し、のちの承久の変の政子の最終決断が大江と三善の両名の意見をくんだことにある伏線なのだろう。政子「本当はあなたに和歌を教えてもらいたかった」三善「和歌で大事なのは韻律にございます。まずは五七の調」「タタタタタ タタタタタタタ タタタタタ」「こうした韻律に乗せ、花鳥風月を感じるままにお詠みになるのがよろしいかと」実衣「今のはお忘れ下さい」源仲章「和歌とは気の向くままに読むものではありません」「和歌に通じる者が国を動かします」これは万葉の調べ(気持ちを素直に調べにのせる)と 宮中の調べ(まつりごとの一環としての和歌)のの対比であろうか。実朝の歌に万葉ぶりが力強くあらわれるのは、政子と三善の影響?と三谷さんはいいかいのかな?万葉調とは何か?賀茂真淵は、万葉を「ますらおぶり」と評価し、古今和歌集の「たおやめぶり」と対比した。ますらおぶりとは「男性的でおおらかな格調の高い」だが、三善の「韻律に乗せ、花鳥風月を感じるままに」と源仲章の「和歌は国を治めるスキル」との対比の違いか。実朝の歌にも治世者として民を思う和歌の要素がある。建暦元年 七月 洪水天に漫はびこり 土民愁嘆せむことを思ひて一人本尊に向かいたてまつり いささか祈念を致して曰く時により 過ぐれば民の嘆きなり 八大竜王はちだいりゅうおう 雨やめたまへ
2022.09.13
先生にいただいた三冊のノート 臼木さん 中学2年の夏休みに入る前、体育の先生が突然クラス全員に「ノート」の提出を求めた。「3日中には全員職員室まで持ってこい!」臼木さんは動揺した。臼木さんの使用している「ノート」は。広告紙の裏を利用しとじこんでノートの代用品としているものだった。新聞専売所の二階での下宿生活は、一年近く続いていた。臼木さんだけ中学生であとは大学生以上がほとんどだった。長男の臼木さんは家への仕送りが必要だった。父は北海道の炭鉱で三度の倒産にあい、長年定職につけず、遠い友人をたよって一家で横浜に移住した。しかし仕事は臼木さんの給料が一家の貴重な収入だった。給料を送金したときの母の安堵した顔を思い浮かべることが一番の幸せだった。配送残りの広告紙を店主に断り、いつも50枚ほどわけてもらい、閉じてノートがわりとしていた。最終日、覚悟を決めて、職員室に友人がいないときを見定めて、入室した。先生は最終提出者がおまえだと告げた。頭を下げて、広告紙のノートを提出した。先生はあぜんとした表情をうかべた。正直に一切の事情をうちあけた。家庭生活、父の失業、相次ぐ転校、母への仕送り、新聞店での下宿・・・・話をしていると涙があふれだした。体中熱くなり嗚咽がとまらない。先生は一言も発せずに、うなずいて聞いてくれた。一週間後、「ノート」の返却で職員室を訪れた。先生は私をみすえて、「絶対に負けるな!あきらめるな!いいか!」といって、両手を肩において、何度もおさえつけた。返却された「ノート」には「整然としています」とあり、最後に先生の大きな字で「負けるな、諦めるな、絶対に!」と力強く二度書かれていた。広告紙の「ノート」は新品のバインダーに閉じられて、別に真新しいノートが三冊、先生から手渡された。(PHP「生きる」令和2年6月号 抜粋)
2022.09.10
心配しなさんな。報徳をやれば運命が変わる。〇松島授三郎は、若い頃に易者に見てもらったところ、あなたは33歳の頃には大難があって命はないと言われた。そこで何とか長生きをする道はないかと考えた末、報徳の先生の荒木由蔵に話すと、「そんなことは心配しなさんな、報徳をやれば、きっと長生きができる」と言われて、早速寿三郎と言う名を負い、報徳の道の研究を励んだ。その後、明治2年、松島が33歳の時、居村の羽鳥村の地籍で、天竜川の堤防が切れて大洪水となり、松島の家も被害をこうむり、幸い屋上に上っていて辛うじて命だけが助かった。それが先年易者の予言した年だった。そこで松島は大いに感じ、これは全く報徳のお陰であったと喜び、益々報徳のために心身を傾けるようになり、その年の秋、隣村石原村に仕法を行い、五十戸の住民は救われた。それ以来、報村の道に精進すると共に、地方を教化し、明治十二年伊平村に農学誠報社を組織したのが、三遠農学社の前身なのである。〇1 荒木由蔵の業績(「報徳に生きた人々」八木繁樹編著p17-20より)荒木由蔵は、文政8年(1825)駿河国庵原郡高部村大内(おおち)に生まれた。安政3年(1856)安居院庄七に報徳を学び、その年に全財産を投げ出して、大内村の田地の旱害(ひでり)防止のための用水工事と、隣村鳥坂村の水腐(みずくされ)防止のための排水工事を行い、両村のために潅水・排水工事を完成した。明治3年5月、静岡市龍爪山(りゅうそうざん)ふもとの平山(ひらやま)・長合(ながお)・北沼・足沢(そんざわ)の4か村が龍爪山を管理し、入会村として39村がまぐさ場として利用していたが、近年平山村など4か村が、開墾しまぐさ場が狭くなって困ると、裁判所に訴えた。裁判官藍原安次郎は現地を検分し、境界を定めて判決を下した。ところが4か村がなかなか実行しないため、29村は駿府徳川家達(いえさと)公に直訴しようと、河原に集った。それを知った荒木由蔵は、河原に駆けつけ「私が役所に出頭し必ず入会山の件は円満に解決するからしばらく待て」といって慰撫した。そして主だった者10人を引き連れて、静岡県知事公舎(徳川家達公御役所)にいって、10人を控えの間に待たせ、一人で時の大参事山岡鉄舟に会ってことの次第を説明した。すると、山岡鉄舟は「至極もっともである、4か村は山の口明けて引き渡すよう処置する」と言い渡した。代表の10人は歓喜し、そのお礼として39村全村民が報徳社に入社した。これが「駿河国西報徳社」である。山岡鉄舟と荒木由蔵との対話はこの時のことである。「報徳とはいかなることか」と山岡は聞いた。「報徳とはひとたび死ぬることでござる」と荒木は答えた。「わかった。それはよろしい」と山岡は膝をたたいて言った。 この後、荒木は徳川家達公から苗字帯刀を許され、静岡県報徳教師に任命された。2 報徳教師 荒木由蔵翁の事蹟安政3年(1856)、安居院先生が、駿河・遠州を旅し、斯道の教導をされた時、翁〔荒木由蔵〕も率先して同先生の門に入って日夜教諭を受け、大変感動し斯道に従事した。この時、荒木由蔵は29歳だった。今その顛末を記そう。翁の家は前々から不幸せが打ち続いて、当時父親は痰と咳の持病があった。また弟は7歳の時に痘瘡(とうそう)の病気にかかって癲癇(てんかん)の病気を引き出して、25歳まで19年間病気は治らなかった。このため両名のために心に苦しんだ。数年間看護し、その間医薬を怠らず、あるいは神仏に祈った。翁は祈祷のため荒神(こうじん)に17日間の断食を行い、また祖先へのいましめと心得て、先祖代々の墓石を磨き修繕し、施餓鬼供養などを行うなど難行苦行した。ことに祖先は慶長年中よりの墓所で、翁は同家12代に当たる。また5代前には、家政が一時中絶の姿となり、それから4代目の当主が翁(由蔵)であった。このように祖先の祈念も荒神の断食も、薬用や灸など手当ても効果がなく、3年に及んでも効果がなかった。〔弟に〕この病気が起こると始めは臥しているが、夜中になると、腹中から胸にかけてかたまりをつよくこみあげ、それから生気を失い、口から血を吐いて歯を食いしばり、手足は伸びて曲がらず、そのまま2,3日過ぎると、気が狂ったようなふるまいとなり、大酒を好んで近隣の酒店を走り回り、しまいには喧嘩口論となるような挙動だった。いろいろと手を尽くして家に連れ帰るのだが、月に2,3回このような病状となり、ほとほと方法も尽き果てて、一家亡滅に瀕していた。この時に、安居院(あごいん)先生が同家に来遊して報徳の道を教諭した。翁はその教えを聞いて、大いに悟るところがあった。これは神仏の罰ではない。祖先以来、自己の血統において蒔いておいた種が実って生長したものにほかならない。翁はそう気づくと、先祖伝来の丹精によって所有していた田畑山林、家屋敷があっても、このような不幸せが続いては、一日も安心ができない。たとえ財宝をなげうっても、安心立命を基にすべきだと、奮然自ら決心し、わが身を省みて天につかえ忠勤を行い、神霊に訴えてあつくお詫びを行い、家財をあげて天へ奉献しよう。しかしこの奉納の財宝を天はどこへも散ずることはできない。私の村の田は天水にたより、井戸や川の水で灌漑できている田はない。だからこの財宝によって水路を開き、耕田の用に供して村人の苦しみを除こうと欲し、〔荒木由蔵の家財をその水路〕工事費に散じ天恩に報いようと決意した。幸いなことに、隣村の村上郷の鳥坂村は、水は十分で耕田の余水を巴川へ流すほどだった。翁の大内(おうち)村はかんばつの時には巴川をせき止めて、水を田に灌漑していた。しかし区画の高低によって容易に行うことができなかった。そこで翁は安居院先生に相談した。鳥坂村の名主粟田久左衛門、大内村の荒木常衛門も安居院先生の門下であったことから、この3名で発起し、安政3年12月から水路工事に従事して、田の区画整備、用水の高低を測量して、鳥坂村の田は1尺2寸低くて、流水の利用ができないことから、ここの耕地の間には土手を築き、両村の境まで、4尺以上9尺まで掘り下げて長さ90間の埋樋を設置するなどして、悪水はすべて巴川へ流し、ついに安政4年3月に竣工した。その工事の距離はおよそ300間だった。この工事費は翁の家財を傾け、同村のために旱害を除き、耕田に灌漑を開発した当時においては未曾有の事業だった。その間、翁は朝は未明に出て、夜は夜半に至るまで、人夫を使い、帳簿を整理して、埋樋の大工、耕地開発の人足などの使用に心を尽くした。この事業に従事して以来100日余り、一日も休まず精励して、ついに家族の病気も忘れるほどだった。すると不思議なことに、父の持病も全快し、実弟の癲癇(てんかん)も次第に平癒して、一家の喜びはこの上なかった。これは安居院先生の教えに従った善行の結果で、その余慶の功徳によらなければ、この幸福は得られなかったであろう。また往古からの旱田も水の流通を得て、村だけではなく、近郷までその流水はいきわたった。これによって村民始め隣村の人々もこの工事を歓喜した。また当時翁がこの事業を奮起した決意書ともいうべき遺書がある。これは両村における用水の書と題して、自ら記述したものである。 鳥坂村 大内村 用水の書 (略) このたび、幸いにさる辰〔安政3年(1856)〕相模国大山麓安居院庄七先生に2,3年前から〔来訪を〕お願いしていたところ、このたび来ていただいた。「報徳善道の心がけが第一である。それ水は方円の器に随い、人は善悪の友によると申すことは誠である。井水が上にあっても人情に義がなければ下がうるおうことはできない。また悪水の愁いがあっても水が腐れることを免れることはできない。人情を考えてみると私欲だけでこのようなことをわきまえない。村のため、人のためなどと少しも思わない。これが土俗の常情である。このたび鳥坂村・大内村相互に自分〔の望み〕を達しようと思うならば、まず他人〔の望み〕を達せしめよとの古語にしたがって、平等に相続させたく思う。旱害のある土地の原因は用水である。水腐れの土地では悪水を除き、両村が誠に自由で末世に至るまで幸福で村のためと思われるところを成就すべきである。 なおまた我ら〔荒木由蔵〕の宿世の因縁を報ずるために、心に滞りなく心意を配り、その祖先を尋ねてみると、慶長年中に生じ、これまでの年数およそ300年となる。この代々の内に中絶したのが、2,3度ある。これは何の理由であろうか。今またこの時を考えるに、家内不幸せで、病難に種々の事故がある。以前中絶したときと同様である。誠に天命は逃れがたい。まず譬えると水は逆にはいかない。これは皆自分が蒔いたことで、今その報いがきているのだ(1)。 二宮大先生が出生され、報徳の教えを立てられた。私たちがその理をうかがうに、まずその身を知らないで難渋困窮するために、家内が和合しないで止むことが無い時は、種々の迷いとなる。親は慈悲の心がなく、子は孝行の心がなく、妻は貞の心なく、兄は愛の心なく弟は敬の心なく、いずれも真がない泥海である。まず家を治めるのは、亭主の心一つである。富貴であれば富貴のところが天命である。この富貴に随って譲り施すのが亭主の道である。困窮であれば困窮のところが天命である。この困窮に随って勤めるのが亭主の心一つである。困窮の道を行えば、困窮の憂いを免れる(2)。もし免れ難いときは、財宝衣類諸道具まで売払い、この財宝をもって他を恵むよりほかにない。もと蒔いておいた種の実りであるから、今改めるのに遠慮する事はない。改めて元を知るということが、一に帰るということである。この一をもって勤めるときは、少しもけがれることがなく、また元のように富貴にいたる。これを道と申す。二宮先生の御歌にあるように 梅の木は根も梅なれば種も梅 枝も葉も梅花も実も梅と詠じられた。この御歌を考えてみると、天地神明の大恩を知らず、その昔から万物の霊である人間である。天地に何ひとつ恩を返さないでいられようか。もとより私たちにまで恩沢を下される〔有難さは〕言葉では述べ難い。これを知らないで私欲・身勝手の人情で天道の正理をあだに暮らし、始終助かっている大恩を思わず、種々の悪行がわざわいを招いてしまう。その罪を復さず、なおまた自分の不運と名付け、何ほど厚い神明のおん匙(さじ)加減を下されても、一心にもとづく事と夢にも知らない。我意悪行だけで千里をひびかして、我意を張って罪に罪を重ね、足ることを思わないようになり、家の中は蜂の巣のようで、中に実はないのに隠しとげようと望んで、田を質入し高利の借金をして世渡りし、なおまた嘘に嘘をいって、借りた元金を返済しようとは少しも思わない。うわべは利口に言い並べても、天命はこれを隠すことはできない。 道元禅師の歌のとおり 水鳥の行くもかえるも跡たえて されども道はたがわざりけりと詠じてお示しくだされたのは、これみな富貴貧賤、善悪邪正とも実にこのようなものか、みな心の行うところである。思い切って往生浄土の本業を乱さず、天命に基いて一心一念を変化して自由自在の平等を心がけ、清く正浄潔白の道を渡るときには、人として読書算用などに至るまで愚かであっても、神明の憐みを蒙ることは疑いない。この故に子孫長久、富貴繁盛し、悪事が来ることなく、行うところ大小と限らず成就しないことがない」と誠に有難い言葉に、申すももったいないことである。(3) 遠江国山名郡下久野村の仕法明治4年(1871)、荒木由蔵は、静岡藩庁遠州中泉郡政役所の重役藤沼牧夫の依頼により、山名郡彦島村、松袋井村、高部村、下久野村、堀越村等、現在の袋井市の諸村に報徳の仕法を実践し成功させた。下久野村復興仕法の次第は次のとおりである。 遠江国山名郡下久野村の仕法(「報徳に生きた人びと」八木繁樹編著p20-22) 下久野村は現在の袋井市にあり、明治4年(1871)当時は静岡藩主徳川家達直轄の村で中泉代官が管理していた。年々不作が続き、年貢も2,3年滞っていた。本年は特に不作で、食糧の貸下げと稲作の調査(検見)を願い出て郡政役所から下久野村に役人が出張してきた。ところが調査の役人が来ると田圃の稲は刈り取られていた。役人は村のおもだった者を役所に召喚して取り調べた上で、手錠入獄に処した。 その時、隣村木原村(現袋井市木原)に鈴木藤作という安居院庄七門下の者がいて、「この上は荒木由蔵先生にお願いする以外にない」と下久野村の村民を説得し、了承された。藤作が駿河の大内村に訪ねて懇願したところ、荒木は「報徳の勤行(おつとめ)は容易なものではない。お前はもう一度村に帰って、報徳の御要旨はどのようなことがあっても、必ず実行して違背しないという誓約書に村民全員が署名連判させ、それを郡政所にも届けなさい」と命じた。藤作は村に帰って、一同にこの旨を話して、契約の連判状を作って郡政役所にも届け出た上で、再び荒木に懇願した。 荒木はすぐに来村し、一同を集めて「村の概要は藤作から聞いた。この村は年貢が2、3年未納となっている。これはもってのほかだ。この未納を全部上納した上で、報徳の勤行に励むことが斯道(報徳)の本旨である。」と言った。村民は驚き「そんなことできるはずがない」と騒ぎ出した。荒木は「今、説明を始めたところだ。説明が終るまで黙って聞け」と叱った。そして「報徳の大道は、(1)往古神代のご丹精に立ち帰り、(2)神明のご恩徳を報謝する道である。(3)末世永続の方法に至るまで勤行し、村民共に苦しみ、その後に楽しみを共にする道である。だから年貢の2,3年の未納はこの際に残らず上納しろ。家屋諸道具一切を売り払い、河原に掘立小屋を造ってそこに移住せよ。どうだ、一同、これを承服するか」と説いた。 村民は騒然としたが、ほかに名案もなく、結局荒木由蔵の言うとおりすることとし、連判状に調印した。荒木はこれを携えて郡政事務所におもむいて、重役藤沼牧夫に面会を求め、これまでの経過を報告し、未納分の年貢は全部上納すると上申した。藤沼は「しばらく待ってくれ」と奥へ引込み、3時間あまり待たせた上で、「今すぐに家財を処分して未納分を上納しなくてもよい。人民も困窮しているだろうから食糧百俵と金二百両を下げ渡す。また手錠入牢者は直ちに放免とする。村民によく報徳の道理を教示し、一日も早く下久野村が再起できるよう指導願いたい」と回答した。荒木はこの旨村に帰って伝えたところ、村民一同狂喜し涙を流し感動し、報徳の教義を全村挙げて実践することを誓った。数年後に再興仕法は成功し完了した。(4) 遠江国山名郡下久野村の仕法彦島村は田原村の役場があったところで昭和31年に袋井市に合併した。土地が低いために毎年洪水の被害を受け、明治5年(1872)ごろ借金が2千円以上あり、村民は生活に困窮していた。静岡藩庁遠州中泉郡役所の藤沼牧夫は荒木由蔵に報徳仕法による救済を依頼した。荒木は、村民一同を集めて報徳の原理を教示し、各自本業に精出すことはもちろん、余業として「縄索(なわない)日課法」により、借財返済、暮し方取り直し仕法が急務であることを諭した。また、報徳の勤労・分度・推譲が大切なことを教えた。そして村内27戸のうち、重立った者7人を指名し、各自の家政を改革し、各人の分度に応じてその所有する田地を区分して推譲させて「報徳田」と名付けた。報徳田は共同で耕作し、その浮徳米(ふとくまい)は、村の負債の償還にあてた。一方余業に精を出させ、困窮した村民の救助に尽したため、村民一同感服し、奮起した。名倉太郎馬(なぐらたろうま)は率先して、50アールを推譲し、その浮徳米が5ヵ年で29俵半になった(1)ほか、名倉久次郎1ヘクタール(47俵)、鈴木彦左衛門30アール(17俵半)、鈴木彦五郎30アール(17俵半)、村田彦平30アール(14俵半)、名倉藤次郎10アール(4俵)、名倉伝五郎10アール(3俵)、村田吉六10アール(2俵)など、明治5年(1872)から同9年(1873)までの5ヶ年間で合計122俵を推譲した。また村民一同縄索余業(なわないよなべ)に精を出した結果、明治11年(1878)5月には2千余円の借金を全部償還しただけでなく、700余万円の黒字を残している。(5) 荒木由蔵口授遺書 荒木由蔵の口伝えを筆記した遺書が(「報徳」第44編、明治30年8月)に載っている。現代語訳して載録する。荒木由蔵口授遺書ある日藤右衛門が20里余りを遠いとしないで、わざわざ〔荒木由蔵〕翁の家を訪ねてきた。座るとすぐに、その理由を翁に語った。「このところ田圃に虫害の災いが起こり、農民は久しく困っています。農民のためにこの災いを除きたいと望んでいます。先生何かよい方法はありませんか。」翁は答えた。「どうしてただ虫害だけであろうか。天地の間で窮まらない理があろうか。私はあなたのために不肖を顧みないで語って聞かせよう。あなたはこれを記録しなさい。」私はもとより愚かで文筆の才能がなく、恥ずかしいが、厳命なのでやむなくすぐに筆をとってこの小冊子を作る。由蔵先生口授 杉蹇山人識焉稲虫退散記けだし世界を物の種と見ると、日月開けてから天地人三才〔三つの働き〕は頭と体と足の三つである。この三つは元一つであって、人間が生ずるように、世界はもと一円で無である。変化なくして種となり、種となるときは種があるという。それによって豆は豆となり、粟は粟となる。豆・粟一粒が生育すると、豆・粟が現われ、これを目に見て豆・粟があるという。人もこのようにもと母親の胎内に宿ったときは、父親の世話になることが多い。父はもと師〔先人〕の教えをもって世を渡る。だから子は生まれながらほぼ父親の性質をうける。たとえば広野に一本の木があるという。木は地から息をして生育し、人は口から息をして生育する。木は自ら親の性質を備え、地味によって肥えたり瘠せたりもする。このように人もまた、親の性質に準じて生まれながら各々同じでないのは、木が地味にしたがって肥えたり瘠せたりするようなものだ。恐れなければならない。このように金石草木、虫魚鳥獣、もと一つであって、四海は兄弟である。ここに過ちのあるのが人間である。人はすでに万物の霊というものを天から賦与されているが、常に煩悩の縄に縛られて自分の霊を見ることができない。だからよくよく考えて、天地万物の霊であるか、この霊威を発して見るときには、何一つ不足なく天と同体であって自由自在である。しかし本心を色欲の二つに奪われて、八方の悪気をもって世を渡るから、薄氷をふむよりも危ないのだ。故にまず報徳人は、その悪気を払い天命に基き、山の響きを考え、鐘の音を察し、少しの間も心をここに置かないことがない。万物の霊と行くことを同じにするときは、暗夜に燭をとるようである。さらに血縁や善悪ともに無心であって、おのずからその身に感応する。これを天地の明白ともいうべきであろうか。さて、人は生まれながらにして、これを知るものではない。日々幾度となく我が身を省みて、ただ自然に止まるにある。自然に止まって自己の敬が厚ければ、おのずから世に有り難きことはどれほどか量り知られない。これは全く君主の恩沢である。今私は父母がなければ生育することができない。父母もまた食がなければ命を保つことができない。だから食は命を保つ元である。尊ぶべき至りである。ここに獅子身中の虫は我を破るということがある。この時にあたって薬でその冷気を免れることを思って、五味の味を試みて、それで作物等の病気を救うことが大切である。人が病気で死ぬということはどういうわけか。常に寒暖の不順にあって、ついに虫を生ずるためである。これは全く困気の二つにあるという。稲虫もまたこのようなものだ。どうして異なることがあろうか。 国語曰民生於三事之如一父生之師教之君生之 非父不生非食不長非教不知〔国語に曰く、民は三に於いて生ず。之につかへるに一の如し。父之を生じ、師は之教へ君之を生ず。父非ずんば生ぜず、食非ずんば長ぜず、教非ずんば知らず。〕
2022.09.10
「このところ、悪夢をよく見る。目がさめてから、安心して。本当はもっと悲惨な運命を送るはずだったのに、こうして、そこそこに幸せに過ごしているのは、家内のお蔭かなと思う。」「うちの亭主にもそう言ってほしい、そう教えてあげて」「これは気づきであって。教えることはできない!」サウンド・オブ・ミュージックに マリアが大佐から求愛されたとき「こんなに幸せなのは、小さいころ何かいいことをしていたからに違いない と歌う」(きっと 報徳の精神 によって 運命が変わったのかもしれないともひそかに思う)Something GoodPerhaps I had a wicked childhoodPerhaps I had a miserable youthBut somewhere in my wicked, miserable pastThere must have been a moment of truthFor here you are, standing there, loving meWhether or not you shouldSo somewhere in my youth or childhoodI must have done something goodSomething GoodNothing comes from nothingNothing ever couldSo somewhere in my youth or childhoodI must have done something goodサムシンググッド(何か良いこと)たぶん、私はイケナイ子供だったおそらく私は惨めな青年期を過ごしたのだろうしかし、私のイケナイ、惨めな過去のどこかに真実の瞬間があったに違いないあなたがここに立っていて、私を愛してくれるからそうすべきなのかどうかだから、私の青春時代や子供時代のどこかで何か良いことをしたに違いない何もないところからは何も生まれない何も生まれないだから、若い頃か子供の頃、どこかで何か良いことをしたに違いない
2022.09.09
英エリザベス女王死去 96歳 在位70年9/9(金)英王室は8日、女王エリザベス2世が死去したと発表した。96歳だった。女王死去を受け、長男チャールズ皇太子(73)が新国王として即位する。1952年から70年間に及んだ在任期間は、君主としてはフランスのルイ14世(在位1643~1715年)の72年と110日に次ぎ、史上2番目の長さだった。今年6月には在位70年を祝う式典が開かれたが、最近は健康不安も伝えられていた。 1926年4月21日、ヨーク公(後の国王ジョージ6世)の長女としてロンドンに生まれた。本名エリザベス・アレクサンドラ・メアリー・ウィンザー。妹はマーガレット王女。47年にギリシャ王室の血を引くフィリップ・マウントバッテン大尉(エディンバラ公)と結婚。父の病死に伴い、52年2月6日に25歳で即位した。53年6月2日にウェストミンスター寺院で戴冠式を行った。長男チャールズ皇太子、長女アン王女、次男アンドルー王子、三男エドワード王子の3男1女をもうけた。 「英国の顔」としての外遊は約100カ国、260回超。71年の昭和天皇訪英の返礼として75年に訪日した。旧植民地諸国を中心とした緩やかな連合体・英連邦(コモンウェルス)の元首も務めた。国民から敬愛され、居城バッキンガム宮殿やウィンザー城は観光名所として人気を集めた。一方、チャールズ皇太子と離婚したダイアナ元妃が97年に交通事故死した際、数日間弔意を示さなかったことで一時は批判も浴びたが、以後はパブを訪れる姿を見せるなど「国民に近い王室」の発信に努めた。 新型コロナウイルス感染拡大直後の2020年4月には、「私たちが団結し、強い意志を持ち続ければ、病を必ず克服できる」と国民を励ますテレビ演説を行い、英国内で約2400万人が視聴。危機の際に国民をまとめる存在感を世界に示した。
2022.09.09
新型コロナワクチン、米では年1回の接種推奨の流れに=保健当局者9/7(水) 数の米保健当局者は6日、米国では今後、新型コロナウイルスワクチンは年1回の定期接種が推奨されることになるとの見解を示した。国民はこの秋か冬にオミクロン株対応のワクチンをインフルエンザワクチンとともに接種することができるようになり、その方式が毎年の恒例として定着する公算が大きいという。ホワイトハウスの新型コロナ対策チームのアシシュ・ジャー調整官は記者団に「大多数の国民にとって、年1回の新型コロナワクチン接種が年間を通じて重症化をかなりの程度防いでくれる段階を迎えつつある。これは重要な節目だ」と語った。バイデン大統領は声明で、大半の国民は「毎年秋に新型コロナワクチンを1回接種することになる」と述べた。米疾病対策センター(CDC)のロシェル・ワレンスキー所長は、1日当たり入院患者数の7日間平均が14%減って4500人になるほど状況が落ち着いてきてもなお、年1回の接種によって何千人もの命を救えると強調。秋口に最新のワクチンを接種すれば、最大で10万人の入院と9000人の死亡を防ぎ、数十億ドルの医療費を節約できるとの見方を示した。一方、米国立アレルギー感染症研究所のアンソニー・ファウチ所長は、従来と劇的に性質が違う変異株が登場しない限り、年1回のワクチン接種で大半の人々を十分に守れるはずだが、一部重症化リスクの高いグループはもっと接種の頻度を高める必要があるのではないかと指摘した。
2022.09.08
「鎌倉殿」義時後妻のえ、高笑いにネット戦慄 菊地凛子には納得の声9/4(日)ネットでは、のえの裏の顔に驚きの声が起こるが、このくらいの裏は普通じゃないの?という気がしなくもない。「きのこ大好きなんです」と言っておきながら、女子会では「きのこ大嫌い」と本音を語る。結局、きのこテストは、「きらい」と正直に言う女性のほうが裏表なくよく義時に尽くし支えてくれる。しかしなぜ三谷さんはこれほどきのこを繰り返し繰り返す、女性のテストに蒸し返すのか?なにかトラウマでも・・・と思われなくもないが、一部ネットでうわさされているように、義時の毒キノコによる中毒死を演出するための伏線じゃないかという気がしてくる。それまでは、殺伐とした斬り合い殺し合いだったのが、北条正範から京の毒殺文化が、「鎌倉殿」の世界に持ち込まれてくるような・・・「きのこ、持って行きな、わたし嫌いだから。どうぞどうぞ」「御所の女房はもうおしまい。小四郎殿に嫁ぐって事は、鎌倉殿とも縁者ってこと」「伊賀の方」とも呼ばれる義時の後妻は、義時他界後に、北条政子との権力闘争があったとも伝わる。悪女説もあり「義時を毒殺」の疑惑まである。おそらくは政子は、のえの挙動に不信を覚え、義時死去後、自分の子を執権にとりたててもらうと三浦にとりなしする先の先をよんで、伊賀の方を追放するのである、きっと。しかし、芸能界でも、地元では女子会のドンで芸能界ではお嬢様を見事に演じ分けるキャラクターも結構いるようだ。そういう図太い神経を持っていなければ生き残れないということかもしれない。・、藤原定家の『明月記』によると、義時の死に関して、実雅の兄で承久の乱の京方首謀者の一人として逃亡していた尊長が、義時の死の3年後に捕らえられて六波羅探題で尋問を受けた際に、苦痛に耐えかねて「義時の妻が義時に飲ませた薬で早く自分を殺せ」と叫んで、武士たちを驚かせている。あるいは、政子はのえの京に由来する毒薬を使った証拠を政子に握られ、追放され、自ら服毒して死ぬというシナリオなのかも。。。と想像はふくらむ。
2022.09.06
福山滝助(「報徳」第15号明26年5月20日p.27をベースに注釈した。) 福山滝助は、 本名は里見多喜蔵である。文化十四年(一八一七)四月二十八日に相模国小田原駅(神奈川県小田原市)古新宿に生まれた。 次男だった。身体は大きく、性質は温厚・勤勉だった。家は代々菓子業を営んでいた。滝助もまた家業を承継して、後に福山氏を継ぐに及んで菓子業を営んだ。隣家の旅宿浜田屋から出て藩の重臣山本源太兵衛の用人となっていた高木治左衛門という人があり、報徳の大意に通じていて、時々実家に帰ってくる。滝助はある日、これを待ち受けて「報徳の仕法」のことを尋ねた。治左衛門は、尊徳の経歴や桜町・小田原の仕法について説明したのち、「そなたはまだ大変若いから、もしこの教えに従って勤めて怠らなければ、一代のうちには土蔵四棟ぐらいは建てられるだろう。けれどもそれを全部土蔵にはしないで、その半分で土蔵二棟を作り、あと半分は身代の外として推し譲るがよい。これが、いわゆる虚空蔵というもので、そなたの家の『越中控え』となるのだ。この控えがあるかぎり、そなたの家は子々孫々、万代不朽に続くだろう。」と教えた。滝助はすっかり感心して、これでやろうと決心した。時に天保十三年(一八四二)である。天保十四年四月に小嶋忠次郎、竹本幸右衛門、原七郎などがともに二宮先生に小田原町民の救護を求めた。先生は百六十金を貸すとともに民業恢復の方法を授けた。忠次郎などはこれに服して社団を設けた。名づけて報徳社という。嘉永元年(一八四八)になって報徳社の社運が衰退して二宮先生からお借りした金もなくなろうとし、わずか八銭四厘となった。滝助はこの挽回をはかろうと決断し、それをよく立て直した。小田原報徳社の今日あるのは、滝助の力が大きいといえる。これより先、安居院庄七が遠州において報徳の伝道者となって各地を巡って報徳の教を説いた。不幸にしてなくなりその後を継ぐ者がなかった。報徳の有志は報徳の指導者を派遣するよう福住正兄などに相談した。福住は滝助を推薦した。滝助は再三辞したが、ついにこれを承諾して、遠州に入って岡田父子に面会した。しかし佐平治らの所見の相違を示した。佐平治の理想とする所は領主の命によって行う難村復旧の仕法にあった。しかし滝助が小田原で行っていたのは同士が集って行う永安仕法にあった。佐平治の望む所は干渉助長の仕法にあり、滝助の応じる所は自治共済の仕法にあった。佐平治は掛川侯の大庄屋を勤め、たとえば病気に対する処方を求めるもので、滝助のは健康のためにする養生のようだった。だから同じく報徳と称しても、その主義方法は相反し融和しなかった。滝助は佐平治と会話し、その翌朝辞して秋葉山へ向った。佐平治は遠路訪れた志を了とし、途中森町を過ぎるからと、同地の報徳者山中里助を訪れたらと紹介書を渡した。滝助は佐平治の紹介で周智郡森町の山中氏に行って旅装を解いた。山中氏は今の新村氏の旧姓である。時に慶応元年(一八六五)四月だった。里助はまずその行おうとする仕法がどのようなものかを問うた。滝助はここに七日間滞在し、無利息貸付の雛形六十か年分を作成し、里助に示したところ感動し、すぐにこの仕法を森町報徳社に授ける事を願った。滝助は、今回は秋葉山への参詣が主な目的だからと他日を約して秋葉山に向い、里助もまた送って秋葉山に至った。こうして滝助は秋葉山に参詣し、ほどなく小田原へ帰ったが、この月のある日、里助との約束を思い再び森町に来て、森町報徳社のために無利息貸付の仕法を組んで授けた。この時、森町報徳社の同志は新旧合せて八名で、社員の日課縄索は一月分三銭五厘だった。初め安居院が遠江に来たときは、専ら報徳の道を伝え教義を説いた。仕法を組立てて一定の、目的を定めて行う事は稀だった。だから安居院在世の時、教えを受けたのは五十四町村に及んだが、滝助が遠江を一巡した時、社として存在したのは、わずかに森町、天神町、浜松町、気賀町、都田村の五か社に過ぎなかった。社員も極めて少数で、森町は八名、天神町は七名だった。滝助が各社を巡回するときは、懇切周到を極めて、一社の仕法に数十日を要し、また一人の家政に数日を費やした事があった。滝助は一生懸命に勤めたため、報徳の機運は回復に向い、新たに仕法を願い出るものも生じた。明治二年引佐郡(いなさぐん)刑部(おさかべ)社の創立と明治五年豊田郡山田社の創設は東西における二つの大社であった。滝助が慶応三年に始めて遠江に来て五年を過ぎ、明治四年となると社数は増加して九か社となった。そこでこの年八月に各社を総括する本社を設けようと、本社秋期の会を気賀町鈴木徳右衛門方に開き、社名を遠譲社と称した。本社には世話人重世話人を置いて、その参会(総会)を毎年春秋二期に定めた。滝助の組織作りは大きな特徴があった。自分だけでなく各社の役員も、旅費から紙・筆まで一切の経費を自弁とし、社の金を使わせなかった。遠譲本社も春秋二回、各社持ち回りで参会を開いて、万事をそこで処理する『移動本山』だった。しかし帳簿の作成は厳しく指導し、誰でも読めるよう楷書で書かせ、責任者から責任者へ、確実に継承させた。あるとき、滝助からこの自費自弁主義を聞いた富田高慶は「それだ!遠州に御仕法が盛んに行われるわけが、これでわかった」と激賞したという。この自費自弁主義は、尊徳直々の訓戒から出ている。小田原報徳社創設の頃、世話人の竹本屋幸右衛門が滝助を連れて帳簿を持って尊徳の指導を受けに行った。尊徳は帳簿に「金二分入用」とあるのを「これは何の入用か」と聞いた。「世話人の入用です。」と幸右衛門が答えると、落雷のような叱責がくだった。「これは恐れ多くも彰道院様(小田原先君)の仰せ出された御仕法だぞ。お前たちの身分でその世話を勤める。もったいないことではないか。そのために、お前たちの家の五軒や十軒、つぶれたところで構わんではないか。」幸右衛門は返す言葉もなく黙っていたが、この時の痛烈な教訓が若い滝助の中に根をおろし、遠州三河の地に花開いたのだった。 七十歳を超えても馬車をつかわず粗衣粗食で書籍簿冊をになって百有余の分社を巡って一巡が終れば、また巡りほとんど環の端がないようだった。その間も小田原報徳社を春秋二回をみた。また毎年必ず野州(日光)に行き先師の墓参りした。あるとき品川子爵が農商務大輔(たいふ)の時、滝助を東京に招いて道を聞いたことがあった。滝助は諄々として応答し益する所が少なくなかったという。「富田高慶報徳秘録」の「報徳史料富田高慶先生との対話」に「福山瀧助一日品川大輔の邸を訪う。大輔懇侍して福山に「汝の信ずる二宮先師の道、如何の意味有る事か話されたし。二宮先生は拙者もひそかにその徳行を聞き景慕にたえず、『何』にかその方の授受せられたる話を以て聞せられよ」福山「かたじけなくも、ただいまの御一言恐懼に堪えず。愚老なんぞ故先生の大道を知らん。ただ先師の高徳至恩有難く信じおることを、そのままこの道を信ずる者へ話すまでなり」とある。その後、品川が明治十三年十一月相馬に富田に会いにきた時、品川は富田に「質直誠心天下に立って恥ずるなき者はそれ福山の類か。衆人信を置くはことわりなり」と賞賛したという。明治十八年病を得て、その後数回再発したが、支社の巡察は止めなかった。病が重くなると故郷の温泉で体を養った。後に遠州に入り、明治二十五年十一月に三河に入って八名郡(やなぐん)山吉田村にいた。ついに天命をまっとうし明治二十六年四月十六日に山吉田村村字吉田青龍山満光寺でなくなった。享年七十七歳。滝助は自分で用いるものには極めて薄かった。粗末な食に甘んじ衣は粗服をまとい、寒中に足袋をはかなかった。ある社員の母が丹精こめた衣服を差し上げると滝助は立派過ぎると用いなかった。またある社員が先生の紋を付けた綿入をすすめたが、滝助は立派過ぎると用いなかった。逝去の後、社員が先生の遺物を点検すると書物の外は小田原町海蔵寺の血脈と臍の緒と衣服数点だけだった。しかも衣服には一つのあわせ物もなくみな単衣(ひとえ)だった。その平素の様が想像できるであろう。
2022.09.06
報徳参会説話 故岡田無息軒翁(大日本報徳学友会報第二十回二頁)本年(明治9年)2月11日常会の節に、誠を以て陰陽の働きを程よく制し、世のため国のため人のためと、家職を精勤いたしたいものと説話に及びました。この「程よい」ということは、世間一般に善としている事で、すべての物に程よくしたいものです。中道の中の意味は、また竹の節(ふし)を程よいと言って、古人も竹を愛しました。竹のふしは、根本が繁り、中程は延びて、末はまた繁く、締まっては延び、締まっては延び、太さ細さに随って、善き加減に生じたものです。一年の季節にも、節分とか正月の節とか、竹の節という字を用います。人の世もこのとおりです。日曜に休むとか、暮れに遣り取りをしまうとか、節を立てるから、人の行いもしまりがなくだらしなくならないので、節なしという事は必ずないのです。陰にしまって陽にのびる。陰陽の理というものは、芥子(けし)一粒より、宇宙までも同じ訳で、至って広い事ですから、学校へ入って幼年より修行いたしたならば、その理を極めることもありましょうが、差し当り急務とするところは、人の世の立ち行く道の、ご相談が肝要です。大先生(二宮尊徳)のご教諭に「誠は天の道なり、これを誠にするは人の道とは、報徳の事なり。また誠の一つをもって貫くのじゃ」と仰せられました。誠と申すことは、うそがない事です。誠を離れては、何事もなりたちません。しかしながら世の中はさまざまで、いずれが先、いずれが後と、先後終始がわかりませんが、先生は「これ(誠)を道と為すなり、誠心を以て本となす、勤労を以て主となす、分度を立てるを以て体となす、推譲を以て用となす」と、この御文は分度を立つると申す一句が道の本体で至極大事です。これがすなわち人の世の盛んになる土台です。正業いかんというに、家政調べを以て、家の分をわきまえるです。十俵徳の家、十二俵にて暮らすのは、二俵のうそで、誠ではありません。百円徳のものが、百二十円で暮らすのは、二十円のうそ、そのうそが積もると分散が退転します。この所へ誠をしかと用いたいものでございます。古人は、徳満と名付けた、まん丸い水を入れる器をつくって、水をいっぱい入れると、その器はくつがえります、水が八分ではちゃんとしています。満ちればくつがえるというたとえの教訓です。この理は古今から申す事で、珍しいことではありません。そうであれば十俵徳のものは、八俵で暮らすが誠の至極の場合だと、大先生が分内の図をもってご教訓なされ、十俵徳は五俵、百両は五十両にて暮し、何でも半分にて暮し、半分は譲るべしと仰せられました。また中道の分度に止まるとのご教訓ですが、この中と申すことは、かたかたよらず、かたよらず、至極程よい事で、中は古人も難(かた)しとする所です。なぜなれば、一尺のまん中は、これは中には相違ありません。物によってかたよりて中になりまから、中には容易に得がたいのです。大先生ご理解には、ナスを作って五つもなったら、まず三つも取り、そして肥しをやらなければならない。霜の降るまでなる、この理は間違いないぞと仰せられました。五つなったら、きっと三つとれとはおっしゃいません、まず三つと仰せられました。三つ取るのも二つ取るのもあり、その程を見て取る事ことですから、きっといくつと決まった事はありません。朝と晩とは違う、この中道のご理解はいきいきとしていて、古今未曾有であり、誠に極妙です。このご理解に基づいて分度を立てると財宝が余り、身体は必ずよくなるです・しかし身体さえよくなれば、よしとばかり決定しては、心得違いとなります。積善がなければわざわいが来ます。災害が来ると、何ほどの大身代でも水の泡となるです。積善は誠です。ですから積善がなければ、人に生まれた甲斐はないです。積善の第一は譲りです。農家は作物の肥料、作工は素人(しろうと)の及ばない所へ念を入れ、家を手がたく作って、商家は正直にあきないし、世界の融通をよく付けて、相互に譲り助け合う、それにてよいようですが、病難・火難・水難そのほかの不慮の天災はのがれがたく、貧窮に陥るものも多いです。この貧窮は人事の大患です。貧にせまると、本性の人心をくらまして、悪念を生じ、悪事をかもし、五倫の道を守らないようになり、この上もない皇国に生れて、有り難いという事を思わない、恐るべき事ではありませんか。この大きな憂いを救う仕法を窮民撫育(ぶいく)と申して、報徳善行の真先(まっさき)です。ですから報徳社を結んで、分度外に報徳善種金を積み立てて、これを種として、社中はもちろん、国に貧窮のものがないように致す仕法です。ことわざに棒ほど願えば針ほど叶うと申します。往々貧窮の者が無くなれば、なんと愉快ではありませんか。当国報徳社中はおいおい増えて、大変に盛んになり、昔からの皆さんも、たんと見えます。この社中が奮発したならば、どのような善行もできるわけですから、愛国のご教則にちゃんとあい叶い、めでたい事この上なしです。ですから、「報徳善種金は恐れ多くも、日月の世界を照らしたまうと同様」の意味であると、大先生は仰せおかれました。「自他の宝」であり、実に大切なものです。
2022.09.04
『訳注静岡県報徳社事蹟ー報徳の師父第1集-』出版に向けてクラウドファンディング準備中。昨年4月『技師鳥居信平著述集』を出版し、台湾と日本の大学と図書館及び静岡県、徳島県を中心に日本各地の公共図書館に寄贈した。◎安居院庄七 安居院庄七は、相模国大住郡の修験道(しゅげんどう)の家に生まれたが、二男のため同郡の曾屋村の一商家に婿となった。しかし、なかなかの才物であるため、じっと家を守っていることができず、米相場に手を出してすっかり家産を失ってしまった。今一度の勝負をと、訪ねたのが二宮尊徳のところであった。そのときまで、庄七は尊徳のことを、低い利子で金を貸す金貸しぐらいにしか考えていなかった。あるいは、その低利で人をごまかす大山師であると考えていたかもしれない。とにかく庄七は全く尊徳を偉大とも何とも考えていたのではない。庄七は、ごく普通な考え方で桜町まで低利の金を追っていった。ところが、てんで相手にはされなかった。面会もできない始末である。強いて追い返すわけにもいかないから、風呂番でもさせておけというようなわけで、とうとう彼は風呂番をおおせつけられて面会を待つような始末である。だが、その中に庄七の心は変わった。報徳という尊徳のやり方がわかるような気がしてきたのである。そして、ついに金を借りることをあきらめて、尊徳のやり方を一生懸命、勉強しはじめた。今後の生き方がわかったとみた彼は、やがて尊徳に会うこともせずに郷里に帰ってきた。いや、最後まで逢えなかったという方が本当かもしれない。尊徳との接触といえば、風呂焚きを通じて、板戸一枚の間を隔ててのみであった。声もかけられなかったという。だが、弟子たちを通じて、風呂の焚き方がよろしいとほめられたことだけは、彼に通じたかもしれない。しかし、庄七は郷里に帰って、報徳のやり方を試してみた。彼の商売は米屋であったので、元値で米を渡すことにしてみたのである。糠と空俵と小米が彼の手許に利益として残るという計算なのだ。「現金で元値限りに売る時は皆下げ銭で足はいとはじ」(鷲山恭平著「安居院義道」)、あるいは「安心なこの商売の味わひをしらねば急に取てかかれず」(同上)というような歌をつくっている。彼は、やっぱり成功したのであった。しかし、在来の方法により執着をみせる家族のものもなかったとはいえない。養子の身としては、十分に自分の方法を貫き通すことも難しかっただろう。庄七は、家を出ることを決心すると、ひょう然として家を後にしたのである。庄七が最初に訪れたのは、河内国肩交野郡(かたのぐん)の田口村に住んでいた杉沢作兵衛のところであった。作兵衛は、信心作兵衛ともいわれた人で、神について独特の心境を持っていた。伊勢・春日(かすが)・八幡の三社に大灯籠を献じたりしたが、これには皆、志を同じゆうする者をつのっての万人講の組織があった。庄七は、この作兵衛に従って万人講を諸国に広めて歩くことになるのである。ここでは、まだ庄七は報徳の使徒ではない。あくまでも万人講の広め手なのだ。しかし彼は、その仕事のために奈良から伊勢・伊賀に足をのばすと、自然にこの地方の農業が進歩しているのがわかった。才能の豊かな彼は、いつの間にか、豊富な農業知識をたくわえていたのである。駿河・遠江の地方にも関東と同じ問題があった。つまり、破産に貧した農村、働くことにも興味を失って遊惰な日を過ごす農民達、荒地や荒損、そうした現象が為すこともなく放り出されている。それは多くの人々に、回復の道もないものと思われていた。そこへ、万人講のことで安居院庄七らが訪れたのである。庄七は、二宮尊徳の仕法を語った。それが荒蕪地を開き、農民を教化する素晴らしさが、そこに農村の復興を企てる多くの庄屋たちの心を打った。庄屋という権力の末端に連なる職の故に、現実の百姓をみている彼らは、困り抜いていたのである。三河国長上郡下石田村の神谷(かみや)与平治が、万人講のこと以上に熱心に聞いたのが、尊徳のやり方であった。庄七は、十分にこれに答えるとともに、彼がこれまで得てきた農業の知識を農民達に語ってきかせた。そして実際にも、その農業技術を示したという。これは、大きな収穫であった。1847(弘化4)年、農民達で組織する下右田の報徳社ができたのである。農民達は、日掛・縄ない・草鞋つくり等に励むことになった。農業のいとまもいい加減にはしないという申合せであった。その申し合わせ条項のなかに、次の一章がある。すなわち「一、右追々積立候、窮民撫育金之義者、御報筋厳重に相守、其上困窮に相迫り候ものへは、連中、評議の上入札に致し無利息年賦に貸付金皆済の上一ヶ年礼金として相納め申すべく候事」(「安居院義道」)というのである。ここには、報徳金の積立、困窮人の救済、無利息年賦、一ヶ年の礼金、それを選び出す入札の方法まで、尊徳の方法と瓜二つのことが記されている。庄七の説いたものが間違いのない報徳仕法であったことはいうまでもない。安居院庄七の、経済から農業技術に至るまでの指導は、さらに人々の伝え聞くところとなり、1852(嘉永5)年には、掛川藩の大庄屋岡田佐平治が、しょう農村を救う最良の方法であると考えるようになったのである。ここにも、牛岡報徳社ができた。岡田は、いよいよ熱心になったものか、翌年には、庄七をつれて袋井の高山藤左衛門を訪れ、ここに仕法を行うようすすめて報徳のつどいのもとをつくった。こうして庄七は、駿河の大宮へ、また遠江の片瀬へ、森町へ、と次々に招かれて遠州一円から三河に及ぶ報徳の実行地をつくっていった。ところが、そうした報徳の仕法を行いながらも、庄七すらご本尊の尊徳に話を聞いたことがない。また尊徳の方も、自分の考えがどんどんのびているところを知らない。遠州の人々には、一度、直接に尊徳に尊徳に会いたいという希望がもえ始めていた。そうしたときに、遠州の報徳連中の一人が、尊徳から一度みなでくるようにと言伝(ことづて)を得たのだ。ここに、遠州の人々の大挙しての尊徳詣が始まるのである。安居院庄七もその一人であった。今度は、金を借りるためではなくして、尊敬する師に逢いにいくといく別の気持ちだ。しかし、風呂を焚いただけの接触で、師匠面してその教えを説いていることの面はゆさというものもあったであろう。彼ら一行7人は、1853(嘉永6)年の9月始め、尊徳のいる日光桜秀坊についた。世をあげての外交問題が燃えさかっていたときのことである。このとき尊徳の方は、病がわずかにいえて、日光で一番忙しいときであった。尊徳は一行のついたことは知っていたが、一行に会うことをしないのである。あるいは、できなかったということもない。しかし、もとはといえば尊徳が呼び寄せた一行なのだ、一行は、空しく9月の4日から13日まですごしている。その間、仕法帳の拝見だけだ。たまりかねた一行が、それでもそろそろ帰ろうといい出したとき、始めてほんの僅かばかり間、尊徳は会ってくれた。それだけのことなのだ。遠州一行は、とにかくご本尊におめにかかっただけが大きな土産であった。しかし、安居院庄七としては、それは大いに認められたことになったのである。今度は、風呂焚きがうまいというだけのほめ言葉が土産ではなくして、報徳安楽談、三新田の仕法書などが土産であった。安居院庄七の方法は、たしかに大きな成果をあげたので、その後もますます諸方に拡がっていった。そして駿河・遠江・三河の地に牢固たる進歩を築くに至った。しかし、尊徳のやり方と庄七のやり方にはかなりの差があったことをみとめなkればならない。それは、一つには尊徳の方法がつねに領主の背景を持ち、上からの教訓として行われたのに対し、庄七のは財産も権力も何もないところから組織していったということの差異からきているであろう。尊徳においては、百姓同士の団結ということはあまり大切なことではない。一様に治めるところの力があるからである。だが、庄七においては、その団結ということが最も大切なことであった。彼らが日光に出かけたとき、尊徳に示した「議定一札之事」というのがある。それによれば、最後の方に次のようなことが書いてある。一、 休日には一同申合、早朝より罷出、昼前迄村内の道造りいたし、昼後より相休申可事一、 毎月参会の定日を究置、連中家並小口より順々夜分参会いたし、耕作仕付方、並肥拵方、手入等は申すに及ばず、其外村為に相成候事を談合いたし、万事正直を申し合すべく候事というのである。ここには、農民の団結がどうしても必要となるようなことが書いてあった。それがなければできないことばかりである。こうしたようなことは、農民の間に子待庚申などという形で潜在的には存在していたのだ。それを目的意識的にするかどうかということであろう。つまり、経済と道徳の理論を与えて、一つの組織にすることであったのだ。 それから更に尊徳と庄七の違いというものがあれば、それは商品生産についての考え方である。尊徳は、またなかんずく高慶は、商品生産をそれほどに高く買わなかった。あくまでも、農作―つまり米・麦作一点張りである。しかし、庄七は製茶を教え、養蚕をすすめた。それがいかに時勢にあったものであったかは、いまの静岡県地方の製茶業というものをみてもよい。だが、それよりももっと重大なことは、彼が新しい農業技術の紹介者であったということだ。関西の進んだ技術、たとえば稲の正条植、苗代(いなしろ)の薄蒔き短冊田、麦の十分な手入れなどというものは、それは素晴らしい技術の上昇を示すものであるが、それらはすべて庄七によって紹介されたのである。荒蕪地を開いて生産規模を増大させることではなしに、これまでの農耕の技術を改良することで以て生産力を高めていったのである。ここに現れているのは、関東や東北と東海的な地域的な差というものであろうか、また尊徳と庄七の差異でもあるのだろう。しかし、東海地方では、あくまで稲の正条植が報徳植という名で呼ばれていたのである。 安居院庄七は、1863(文久3)年の8月、浜松の旅先で病死した。享年75歳であった。◎岡田佐平治の伝 岡田佐平治は遠江国佐野郡(現在掛川市)倉真村の人です。文化九年(一八一二年)七月生まれる。祖父の清弥の没後より一家は次第に贅沢に流れ、家は衰退した。佐平治は若くして家を継ぎ、祖業の回復を志した。家のきまりを改正し、農事に励んで、数年で家政は回復にむかい、一家が再び栄える基礎を開くにいたった。 家は代々里正(庄屋)だったが、父の清光の代に至って、これを辞した。以後数十年里正は数々交代して帳簿が乱れ、加えて古検地を経過すること久しく、阡陌(せんぱく:縦横の交差する道)乱れ、反別は符合せず、境界を争い、訴訟が絶えなかった。天保四年(一八三三年)佐平治は二十二歳の時これを改正しようと誓った。日夜非常に骨折って、まず境界を正し、村内の田畑の明細図を作り古検地と照合し、六年で完成した。以来帳簿をもって貢租の基礎とし、明治維新まで廃することがなかった。天保十年里正となり、無駄な経費は省き、河川や堤防を修理し、荒地を開拓し、住民の風俗は大いに改まった。 天保十一年(一八四〇年)掛川藩の地方用達となった。いわゆる大庄屋であり、上下の意を通じて、渋滞することをなくした。 佐平治は三十四年間倦まず怠らず務めたので上下は信頼した。 嘉永元年(一八四八年)佐平治が三十七歳のとき、報徳の教義を安居院庄七に聞いて、身を修め家をととのえる道でこれに超えるものはないと思った。子どもたちを率いて農事に励み、耕作や肥料の方法を精緻にし、稲を植えるのに縄規植え(田植縄を田の縦方向にわたし苗を真直ぐに、等間隔に植える)をし、麦を作るのに七踏七耘七糞の法を用い、勤勉と節倹を漏れなく尽くした。村民はその事業に感じて報徳社を結社してその教えに従った。そこで日掛け縄積の法を立て一戸ごとに一房あるいはわらじ一足を出させ、その積もった代金を毎年入札を行い、社員のうち農業に努めた者一名に金五両もしくは十両を無利息五か年賦で貸付けた。五年の末になって、年賦の一年分を元金のほかに出させた。これを報徳金と名付け、年々これを積んで貸付を行った。これを循環して止まないことにより、社中でその利益をこうむらない者はなかった。また社員勤業の約束を定め、五年を一期とし、地方用達の給料米六俵と庄屋の給料米五俵一斗四升を度外としてその積金に加えて、嘉永元年より同六年に至った。また別に金四十二両を善種金として出し、勤勉を助けまたその業の怠惰や廃業に陥りやすいことを憂いて同元年十二月より五年に至る間、毎朝早朝近隣の社員二十戸を寒暑や風雨を厭わず積縄を集めて回った。以来今日に至るまで怠ることがなかった。あるいは田を買って公有のものとした。その影響は四方に及ぶ。 嘉永六年八月同志者数名と二宮尊徳にまみえて親しくその教義を聞こうと欲し、相州蓑毛村(神奈川県秦野市)に行って、安居院庄七の家を訪問し一緒に出発した。当時、尊徳は幕府の命令で日光神領の復興事業にあたっていて、下野(栃木県)にいた。佐平治らは尊徳に面会し、数日口授を受け、大いに得るところがあった。佐平治が家の規則を改正する方法を尊徳に質問した時、尊徳は詳細に歳入歳出を質問し、尊徳が調製した相州大住郡片岡村(神奈川県平塚市)の大沢小才太の家則を示してこれに則らせた。佐平治はこれを写して帰り、親族と協議して、関係する掛川藩役人の監査もあおぎ数ヶ月で完成した。これを「雲仍遺範」と称する。嘉永六年から天保五年にさかのぼり二十年の豊凶を平均して中庸の分度を立てて年々米五十俵を官に上納し、六十年を継続してこれを掛川領内の困窮した民の救済と荒地開墾の資本として提供することを願い出た。領主の太田備中守はその志に感じこれを許可した。安政元年、佐平治が四十三歳の時です。また別に金百両を献金したいと願い出た。官(掛川藩)はこれを開墾救済の資金に加え、これを報徳金と称して永遠に伝えようとした。その後領主が上総柴山に移封するに及んで、佐平治の献言によって、金四百五十七両余りを新しい領地に分かち、その徳化に浴させた。その功績で帯刀を許され、五人分の給与米を給せられた。領主は領内に布達した。「岡田佐平治に難村立入ならびに荒地起き返しなどの取締りを命じた。存立の困難な難村で、荒地開墾の願いのある村々は佐平治を頼って申し出よ」。それ以来、報徳の方法を施し、資金を貸与し救済したものは佐野郡に印内村、増田村、栃沢村、飛鳥村、平野村、北西部に村上、西郷村がある。城東郡に桶田村がある。山名郡に不入斗村がある。豊田郡に篠原村などがある。その他数村の多数に及んで、佐平治の名前は遠近に伝わった。 また佐野郡領家村の困窮を救い、薄利十年賦返済の約束で百七両三分を貸付し、別に十四両三分を施した。 同郡細田・沢田の両村は土地が平らで灌漑用のため池を築くことができない。用水が欠乏するために頻繫に干ばつとなり百姓は困窮していた。佐平治は武蔵千住より井戸師招いて非地を画定して工事した。鉄の錐が八九丈地中に入ると、井戸水がほとばしり出た。村民は大いに喜んで、その水を神水と称した。それ以来井戸水の及ぶところは稲が熟し、干ばつの年でも飢餓を免れることができた。 豊田郡深見村は太田川にまたがり、堤防は破壊され、荒れた田が多く住民は生計に苦しみ、隣人と争った。領主の摂津候はこれを憂慮し、復興の方法を地方用達に命じ、佐平治がこれを担当した。住民に報徳の道をさとして、日掛け積縄の方法を教えて、公私の負債を償却させ、堤防を修築して、荒地を開墾し十年で一村はようやく昔のように復旧することができた。 安政二年掛川城の草の刈り取りの法を講じた。従来城の草刈りには領内の人民の労力を使い、千百四十人分の費用がかかり、銭九十九貫六百三十六文になる。その弊習、半人分の労力に当たらない。佐平治は人足の費用を見直し、銭七十六貫文とし、金銭を出すこととし、城西の村に受け負わせた。その銭は五十貫文、草は請負人の利益と定め、残りの銭二十六貫文(この金を四両とする)は年々積み立て、百分の五の利をもってした。官民共にその法に感嘆し無窮に伝えようとしたが、維新の廃藩と共にこの法も中止となった。 佐野郡幡鎌村は村高三百四十七石で、戸数はわずかに四十三戸、借金は三千百両、また山名郡中野村は村高五百九十三石で、戸数は九十二戸、そして借金は五千七百両の巨額にあがり、両村ともに水害・干ばつの害が毎年のように起こり、農力の衰退は極に達した。何度も救済を官に愁訴したが、維新の争乱に際し、領主も顧みるいとまがなかった。明治三年に両村ともに静岡藩の領するところとなり、佐平治に命じてこの救済策を立てさせた。佐平治五十九歳の時で二村の回復を最終の業としようと、借金の額を詳細にし、毎戸の生計の予算を立て、日掛け縄ないの法を立て、勧農の田を置き租税を免除し、別に私費を投じ、幡鎌村へ金四百三十二両余り、中野村へ金七百両余りを貸し付け、年賦返済させた。別に勧農の地の代金十五両を幡鎌村に、百十五両余りを中野村に出し譲田とした。官もまた貸与するところがあった。数年で人民の気風は一変し、生計は日に暮らしやすくなり、貢納も納期に遅れることなく、回復するに至った。この年藩庁より上下一具、ラシャ二反を賜り、翌年の正月にはまた白木綿二十反を賜ってその功績を賞せられた。明治九年朝廷は佐平治の従来の功績を評価され、三組の銀杯を賜った。 明治九年九月資産金貸付所御用係となる。いわゆる資産金貸付所は浜松県が創設し、諸種の献金などながくその功績を隠滅させないために設けたもので、報徳金もまたその基本財産の一つである。後年老年を理由に辞任した。 明治八年十二月同志とはかり浜松報徳社会議規則を定め、毎月十一日社を集め報徳の教えを講じ百穀草木培養種芸の事を研究し、また遠江国報徳会の社則を改正し創立費金六十九円余りを寄付した。 明治十一年三月病気で亡くなった。六十九歳。無息軒至誠とおくり名された。長子の良一郎が家をついだ。 佐平治は経書を掛川藩の儒学近藤某に学び、周易に非常に通じ、また兵書を海津某に受け、兼ねて弓術をよくし、ともにその奥義を究めた。
2022.09.04
CC・サバシア エンゼルス・大谷翔平投手について「これまで見た最高の野球選手」と絶賛「これを言ったらみんな笑うけど、オレはこう言い続けている。これまでの人生で見た中でショウヘイ・オオタニが最高の野球選手だってね」「冗談だろうって。だって、オオタニはボールを900フィート(約274.3メートル)飛ばすことができて、マウンドでは99マイル(約159キロ)を投げる。他に出来る奴がいるかい? 他に誰かやってる奴がいるかい? メジャーリーグレベルで、それが出来るのは彼以外、誰もいない」大谷翔平に浴びた痛恨30号 一夜明けてもNY紙は悔やむ「ジャッジMVPに待ったがかかる」9/2(金) Aaron Judge’s historic night spoiled by Shohei Ohtani as Yankees fall to Angelsアーロン・ジャッジは月曜日の夜、ヤンキースで3人目となる通算50本塁打の大台に乗せ、その歴史を塗り替えた。しかし、AL MVPの主な挑戦者である大谷翔平は、この夜最大の爆発をした。大谷の5回目の2ランホームランが、エンゼルスタジアムでの4-3の勝利で、エンゼルスを永久に先制したのである。そのため、このような弊順嶄で恷兜の溺來を恬撹するためには、弊順嶄で恷兜の溺來を恬撹する必要があります。この試合は、5連勝していたヤンキースを3連敗に追い込んだが、今では遠い記憶の彼方にあるようだ。このような状況下において、私は、「良いも悪いも、個々の数字にとらわれることはない」とジャッジは語った。「でも、この敗戦にはちょっと腹が立っている。シーズンが終わってから、この気持ちについて話すよ" この記念すべき夜について何を思い出すかと聞かれたジャッジは、「アナハイムでやった4-3の敗戦を思い出すだろうね」と答えた。勝利でもう少し甘かったらよかったんだけどね "と。「ニューヨーク・ポスト」ブランドン・ロンドン氏「昨夜はショータイムが開演され、アーロン・ジャッジはMVP獲得に待ったをかけられました」「ヤンキースは2点を先制。コールに2点は十分で、エンゼルスを追い詰めたと思いました。しかし、ショータイムことオオタニが6回に爆弾を放ったんです」「ニューヨークポスト」「ヤンキースがショウヘイ・オオタニとエンゼルスに醜態を晒して負ける」「ワンスイングでショウヘイ・オオタニはヤンキースとゲリット・コールを負かした」Aaron Judge’s historic night spoiled by Shohei Ohtani as Yankees fall to Angels
2022.09.02
マネキンの坐骨 という発想、表現は誰も思いつかないまたデニムに坐骨を入れる とウィンドウで作業する人の動作が伝わってくる俳句の新古今和歌集のような技工的に高度なものをサラリと表現してみせる。👏
2022.09.02
マザー・テレサ 日々の言葉 より神の優しさの生きている表現でありなさいあなたのまなざしに神の優しさがあなたの表情に神の優しさがあなたの暖かいあいさつに神の優しさが表れますように私たちはみなほんの少しお役に立ちそして過ぎていく神の道具なのです思いやりの行為の表れ方はその行為そのものと同じように大切なことだと私は信じています</font> 私は自分の母のことを決して忘れません彼女は1日中たいへん忙しくしているのが常でしたでもいつも夕方になると大急ぎで父を迎える支度をするのですあのころは子どもたちにはわかりませんでしたですから私たちは母をからかって笑ったりしたものでしたけれど今思えば母の父に対する愛はなんとすばらしくこまやかな愛だったことでしょう何が起ころうと母はほほえみながら父を迎える準備をしていたのです今日私たちは時間がありませんお父さんもお母さんも忙しすぎます子どもたちが家に帰ってきてもそこには彼らを愛してほほえみかける人がいないのですですから私は共労者の方々にたいへん厳しいのですいつもこう言っています家族をまず優先してくださいもしあなたが家庭にいなければどうやってあなたの愛が人々に向かって育っていくのでしょうかカルカッタでミュージカルが上演された時その出演者たちに言いました「あなた方の働きと私たちの働きはお互いに補い合っているのです私たちがしていることはこの世界で以前にも増して必要になっているのですあなた方はあなた方の公演で人々に喜びを与え私たちは奉仕をすることで同じことをしているのですあなた方が歌ったり踊ったりする一方で私たちが体を洗ってあげたりしていることは全く同じことなのですあなた方は神からあなたがたへ贈られた愛で世界を満たしているのです</font> ホームレスであるということは住む家がないということだけではありませんそれは彼らがこれまでに経験しただれからも愛されない寂しさや拒絶といった耐えられないような孤独から来るのです私たちは彼らのところにいるでしょうか?私たちは彼らを知っているでしょうか?私たちは彼らを見ているでしょうか?私は私が触れるすべての人の中にキリストを見ていますなぜなら彼はこうおっしゃいました「私は飢えていた 私は渇いていた 私は裸だった 私は病気だった 私は苦しんでいた 私には家がなかった そしてあなたが 私の面倒を見てくれた」< カリガートの「死を待つ人の家」を訪れた人がこの家にみなぎっている『平和』を不思議に思ったようです私は単純にこう言いました「神がここにおられるのです」ここではカーストや宗派は問いません彼らが私と同じ信仰ではないということは問題ではありませんよ 「マザー・テレサの 愛 という仕事」113ページより カルカッタにある<死を待つ人の家>に、一人の無神論者がやってきたことがあります。私はその時のことを忘れられません。彼が来る少し前に、シスターたちが街の通りから一人の人を連れてきたのです。その人の体はウジで覆われていましたから、おそらく排水路の中で倒れていたところをひきあげられたのでしょう。一人のシスターが彼の世話をしておりました。もちろん彼女は、その時やってきた無神論者が自分を観察していることなど知りません。しかし、彼女がていねいに体を清めてあげ、微笑みをもって接していたことは、言うまでもありません。その無神論者はじっとその場に立って、シスターの様子を観察していました。そして私のところにやって来て、こう言いました。「私は神を認めていませんでした。認めないだけでなく、私の胸の中は神への憎悪でいっぱいでした。しかし今は、私の胸の中は神への愛であふれそうです。シスターのおこないの中に神の愛を見ることができたのです。その人を世話するシスターの手、その人を見つめるシスターの微笑み、その人に対する愛に満ちた優しさを通して、そこに神を見ました。今、私は神を信じられます」と。 どんな国であれ信仰のあるところでは私たちが働くのに困ったことは全くありません私たちはすべての人を神の子どもと考えていますみんな私たちの兄弟姉妹です私たちは深い尊敬をもって接します私たちの仕事はクリスチャンもノンクリスチャンも全く同じに彼らをいっそう勇気づけます心からあふれる愛の働きはどんなものであっても人々を神に近づけるものなのです</font> 「マザー・テレサの 愛 という仕事」82ページより 私たちは、すべての人を神の子として接します。皆、私たちの兄弟、姉妹として敬意を表します。私の持っている宝物を、すべて彼らに分け与えてあげたい・・・。そんな私たちの思いを彼らはよくわかっています。そしてそれを彼らに伝えることになんの躊躇もありません。しかし、私は信仰こそが神のくださった贈り物であるということも、彼らに伝えていかなくてはならないのです。クリスチャンであってもクリスチャンでなくても、愛をもって働くことが素晴らしいことなのだと伝え、勇気づけてあげることが私たちの仕事です。心からの愛情をもって働くことができるならば、それがどんな仕事であっても、神の心に近づくことはできます。 同書94カルカッタの新聞に、たくさんの人々が路上で死んでいるという記事が掲載されました。私はその地域の当局に出向き、私が始めようとしていることを伝えることにしました。「私に家を提供してください。そうすればあとはすべて私が引き受けます」彼らは私に、カーリー寺院の中にある部屋を二つ用意してくれました。そこは以前、巡礼者の共同寝室として使われていた部屋で、広さも十分でした。私はその申し出を喜んで受けました。そこは、まるで、ヒンズー教の礼拝堂のようでした。そして私たちはすぐに、死にかけている人や、病気の人たちを運び入れたのです。カーリー寺院の僧侶たちは、私たちがその部屋を使うことが気に入らないようでした。しかし、その後、彼らの中の一人が伝染病にかかってしまいました。私たちは一所懸命に彼を看病しました。それからというもの、僧侶たちは私たちを監視することをやめただけでなく、私たちの友人に、そして協力者になってくれたのです。ある朝、私が病人の体を洗っていると、カーリー寺院の僧侶が一人、病室に入ってきました。彼は私の前にひれ伏し、私の足に両手をのせて頭(こうべ)を深く垂れたのです。立ち上がってから、彼はこう言いました。「30年間、私は女神カーリーに仕えてきました。今、その母なる女神は、人間の姿を借りて私の前に立っておられます。母なる神をここで拝することができるなんて、私はなんて幸せなのでしょう」と。私の孤児院でお砂糖が全くなくなってしまったことがありましたすると小さな男の子がどこでどうしてなのかわかりませんがマザー・テレサのところのお砂糖がないと聞いたのでしょうその子はうちに帰って両親に言いました「ぼくはこれから3日間お砂糖はいらないよそのお砂糖をマザー・テレサにあげるんだ」3日後両親はその子を連れて私たちを訪ねてきました彼の手には小さなお砂糖のびんがありましたその子は私の名前すら発音できないほど小さな子でしたけれどその子は私に教えてくれたのです大切なのはどれだけたくさんあげるかではなくどれだけ愛をこめるかということを</font> 未来は私たちの手の中にあるのではありません私たちは未来に対してなんの力もありません私たちはただ今日という日に行動できるのです私たちの会憲にこうあります私たちは偉大な神が未来のご計画を立てられることを認めますなぜなら昨日はもう過ぎてしまい明日はまだ来ていないのですから私たちには人々が神を知り神を愛し神に奉仕するための今日という日しかないのですですから明日のことを心配するのはやめましょう マザー・テレサ日々の言葉より 愛の働きであっても仕事のための仕事にしてしまう危険性はいつでもありますだれのためにしているのかということを忘れてしまうとそれが落とし穴になるのです神とキリストへの尊敬と愛と献身によって私たちはできる限り美しくそれをすることができるのです喜ばしい奉仕の活動を通してのすばらしい経験はまだ経験していない人たちへと伝えていかなければなりませんそれは私たちの働きのとても大きなご褒美のひとつです 「マザー・テレサの 愛 と言う仕事」214ページより マザー・テレサという私の呼び名は、アビラの聖テレサに由来しているのか、ですって? いいえ、とんでもない。 私は自分のことを、あの大テレサにちなんで名乗ったことはなりません。 リジューの小テレサにちなんで、名乗っているだけなのです。 私たちの仕事は苦しみがなければ、きっと人助けのための社会事業ということになるのでしょう。 しかしそれでは、イエス・キリストのための仕事ではなくなってしまいます。 真の救済にはならなくなってしまいます。 イエスは、私たちがイエスが味わわれた生活、苦悩、孤独、死を共有することによって、私たちに救いの手を差し伸べてくださるのです。 イエスとともにいるからこそ、私たちを救ってくださったのです。 私たちもイエスと同じことをしなければなりません。 貧しい人々は、精神的な貧しさからだけでなく、あらゆる貧しさからも救われるべきなのです。 そしてその時に、私たちも、彼らと同じ貧しさを共有しなくてはなりません。 貧しい人々と一緒にいることで、私も彼らも救われるのです。 彼らの人生に神をもたらし、神のところに遣わすことで、彼らは完全に救われます。 私は時々、ひどく心細く感じることがあります。 心が空虚になり、自分自身が中身のない貝殻のように思え、私の中の支えを失ってしまいそうになるのです。 ヨーロッパや合衆国に出かけていくたびに、裕福であるはずのその国でひどく不幸な人々に出会い、心が痛くなるのです。 物質的に裕福であるがゆえに、家庭は崩壊し、子どもたちは親から見捨てられているといった現実を、何度も目の当たりにしているからです。 今、このような先進国の人々が取り組まなくてはならないのは、自分の血をわけた家族のために働き、離れかけている夫婦の心を結び、子どもたちが両親の愛をたくさん受けることのできる家庭をつくることです。 マザー・テレサ日々の言葉より 大海の一滴 <font style="font-size:28px;color:#000000;">私たちのしていることは大海の一滴にすぎないと感じていますけれどもしその一滴がなければ海はその一滴分確かに少ないということです私たちは数や量では考えませんいつもその時たったひとりの人を愛しているのです。どんな時でもいつもひとりのその人に集中してお世話をしているのです 「マザー・テレサの愛という仕事」56ページより 1948年に私はロレッタ修道院を離れました。それが私にとって初めての旅であったわけですが、ちょうどカルカッタの市街を歩いているときに、一人の司祭が私の方に向かってやってきました。そして彼は、カトリックの出版物のために寄付をお願いしたい、というのです。一瞬ためらいました。私は旅立つ時は5ルピーを持っていたのですが、途中で貧しい人に4ルピーを渡してしまったので、手元には1ルピーしか残っていなかったからです。しかし私はその1ルピーを彼に寄付させてもらいました。その日の午後のことです。先ほど出会った司祭が一通の封筒をもって、私を訪ねてきました。ある人物が、私が行おうとしていることを耳にしてぜひ援助したいということで、その封筒を司祭に預けられたのだそうです。封筒を開けてみると、そこには50ルピーが入っていました。 その時私は、神が私の仕事を祝福してくださっているのだと、実感しました。そしていかなることがあっても、私を見捨てられることはないだろう と改めて思ったのです。 マザー・テレサ日々の言葉より 聖母マリアは「お言葉どおり、この身に成りますように」という言葉によって「恵みでいっぱい」になったのです。 もしも神から離れていたのなら神のもとへ戻ることです神は私たちひとりひとりを限りない優しさと全く個別な愛で愛しておられるのです神の私への憧れは私の神への憧れよりもっと深いのですもしも私たちがほんとうに謙虚なら何が私たちを神から離してしまっているのかわかって取り除きたいと思うでしょうこの四旬節の時季にあなたが清い心を育みたいと思うのならばあなたの手をマリア様に差し出して柔和で謙虚にしてくださるようお願いしましょう アグネス・ゴンジャ・ボワジュのちのマザー・テレサは、セルビアで生まれた。彼女は12歳のときに、「神のものになるよう」神のお召しを得ていることを悟った。「レトニスの黒山の聖母マリアが私にそれを分からせてくださったのです。」とある。
2022.09.02
【速報】大谷翔平30号逆転3ラン! ヤ軍エース粉砕で2年連続の大台、米記者衝撃「ぶち込んだ」 | THE ANSWER (the-ans.jp)
2022.09.01
「鎌倉殿」悲劇フラグか 畠山殿=中川大志のNHK番組PR出演始まる 最年少24歳が武士の鑑好演8/31(水) 9月1日にNHKラジオ「らじるラボ」に出演すると告知。「中川大志さんは、9時台に出演します」公式ツイッターには「あ…(察し」のコメントも投稿されている。「鎌倉殿」次回 悪女りく、畠山殿に理不尽やりたい放題 武蔵役職も返上要求 ネット悲鳴「乱が来る」8/31(水) 公式HPに掲載された次回あらすじでは、北条の継母りくが、源実朝と後鳥羽上皇のいとことの婚姻が決まり喜ぶとある一方で、「北条時政から代々受け継ぐ惣検校職のお役目を返上するように求められた畠山重忠が、疑念を抱いて義時に相談」と紹介。 惣検校職は現場の最高責任者。 前回第33回では、鎌倉幕府初代執権となった時政が、妻りくが背後で糸を引き、やりたい放題に。 比企家を滅亡させたのに続き、りくの指図で戸惑いながらも武蔵守の座に就くために朝廷への根回しをはじめ、これが源頼家を通じて、武蔵国が本領の北条の娘婿で武士の鑑と称される畠山に伝わってしまった。時政「武蔵を独り占めしようなどとは考えておらん」畠山「ご無礼致しました」
2022.09.01
「猛烈」な勢力 台風11号 予想される最大瞬間風速は75メートルに引き上げ 記録的な暴風となるおそれ台風、フィリピン近くに行ってから、またダブル台風となって、日本方面に引き返すような進路をとるみたい。台風11号は「非常に強い」から「猛烈」な勢力に発達し、西へ進んでいます。すでに今年一番の強さとなっていて、沖縄気象台は「住家の倒壊等のおそれがある」と警戒を呼びかけています。また新たに発生した熱帯低気圧が今後、台風12号になる見通しで「ダブル台風」への警戒が必要です。「藤原の効果」という言葉を聞いたことはありますか?「藤原の効果」は、昭和15年に第5代中央気象台長に就任した藤原咲平さんが提唱したもの。台風や熱帯低気圧の中心の距離が”1000km程度以内”の複数の台風が、相互作用を及ぼして複雑な動きを示す台風の相互作用(干渉)を「藤原効果」という。ダブル台風が発生するとどうなるのでしょう?結果からいうと、ふたつの台風の勢力が合体したり、大きさ×2になることはありません。台風は上空の風に吹き流されて移動し、北半球の台風は反時計回りの風の渦になります。ふたつの台風がある場合、大きく分けるとふたつのパターンがあるそうです。◆2つの台風が同じくらいの場合。この場合、一定の距離までは近づこうとするのですがそれ以上は近づくことは出来ず、お互いに影響し合う。◆2つの台風の勢力がまったく違う場合。この場合は、勢力の小さい方の台風が大きい方の台風に吸い寄せられ、吸収されることがある。💛ふむ、ダブル台風だからと、勢力が2倍になるということでもないということか。勉強になります。
2022.08.31
三善「和歌で大事なのは韻律にございます。まずは五七の調」「タタタタタ タタタタタタタ タタタタタ」「こうした韻律に乗せ、花鳥風月を感じるままにお詠みになるのがよろしいかと」源仲章「今のはお忘れ下さい」「和歌とは気の向くままに読むものではありません」💛「タタタタタ タタタタタタタ タタタタタ ・・・」 の おじさん に教わる実朝は楽しそう。これってひょっとして赤塚不二夫さんの「レレレのおじさん」がモデルかな?レレレのおじさん「おでかけですか?れれれのれ~」で有名なおじさん。レレレのおじさんは、どうしていつもほうきで道を掃いている?レレレのおじさんは、若い頃はスーツを着ていました。その柄(がら)は浴衣(ゆかた)と同じです。そして、ほうきも手にしていました。ほうきを使うのは、子供たちに「さあ、早く行きなさい!」という合図を送るのが目的でした。レレレのおじさんは、子だくさんです。五つ子が連続して5組誕生し、レレレのおじさんは、25人もの子供の父親です。子供たちが小さい頃、学校に行かせるにも、みんなを一緒に移動させるのが大変でした。そこで、レレレのおじさんは、ほうきで子供たちの後ろを掃(は)きました。すると、それが合図になり、子供たちはいっせいに移動しました。子供たちは、レレレのおじさんがほうきを手にすると、陽気にはしゃぎました。ほうきで掃(は)くと、みんなが同じ方向に進みました。それは、レレレのおじさんにとって、大変ながらも楽しい時間でした。やがて、子供たちは成人して、レレレのおじさんのもとを巣立って行きました。にぎやかな思い出は、悲しい過去に変わってしまいました。レレレのおじさんの妻は、夫より早く亡くなりました。レレレのおじさんは、寂しい一人暮らしをするようになりました。寂しさをまぎわらわそうとして、レレレのおじさんは、手慣れたほうきで地面を掃き、道行く人に声をかけるようになったのです。💛でも レレレのおじさんは お釈迦様の弟子シュリハンドクを思い出させる。シュリハンドクは、『 仏説阿弥陀経』に、お釈迦様の弟子たちの名の七番目に周利槃陀伽(しゅりはんだか)と出てくる人のこと。十大弟子の一人だが、この人は自分の名前も書けないいわゆるバカであった。だから、お釈迦様の教えを聞いても理解できず、すぐに忘れてしまう。でも、悟りを求める心は人一倍ある。わからなくてもお釈迦様の話を聞いているだけで幸せだった。シュリハンドクは兄に誘われてお釈迦様の弟子となった。兄は聡明だったが、シュリハンドクは一つの句さえも記憶できなかった。修行の作法や方法も覚える事ができない。何年も修行したが、シュリハンドクは自分に絶望し、教団を去ろうとする。しかし、お釈迦様は「 自らの愚を知る者は真の知恵者である」という言葉を発した。お釈迦様が彼に与えた修行は、掃除だった。一本の箒(ほうき)を与え、「 垢を流し、塵を除く」と唱えさせ、精舎(しょうじゃ)を掃除させた。彼は一心に掃除をした。何年もたったある日、シュリハンドクはお釈迦様に「 どうでしょうかきれいになったでしょうか?」と尋ねた。お釈迦様は「 まだだ。」と言われる。どれだけ隅から隅まできれいにしてもまだ駄目だといわれる。シュリハンドクはそれでも黙々と掃除を続けた。ある時、子どもたちが遊んでいてせっかくきれいに掃除をした所を汚してしまった。シュリハンドクは思わず箒を振り上げ怒鳴った。「 こら!どうして汚すんだ。」その瞬間、彼は本当に汚れている所に気がついた。それ以来、人の心も同じと悟り、ついに仏の教えを悟って、阿羅漢果(あらかんか)を得たとされる。お釈迦様はシュリハンドクが一生懸命に掃除をしている姿をいつも手を合わせて拝んだという。まことに これが レレレのおじさんの本当に意味するところに違いない!?
2022.08.30
山本 千尋(やまもと・ちひろ) ――第33回「修善寺」の台本を最初にお読みになった時の率直なご感想をお願いいたします。 「正直に言うと、この時が“来てしまった”と思ってしまう自分に対して“来た、待っていた”と言い聞かせる日々を過ごしていたように思います。トウの大きな見せ場であり、三谷さんからの愛ある課題でもあったので、ずっとこのシーンのことを考えていましたし、悩みました」 ――どのようなことを心掛けて演じられましたか? 「実は当初のリハーサルでは、まず後ろから善児を刺し、倒れ、もう死んでいるであろう善児にまた後ろから刀を刺す、感情を大きく出さない方向で行こうとなりました。ただ、やはり私の中では、ずっと殺したいと思っていた親の仇でありながらも、育ての親である善児に情というものもありました。だからこそ正面で向かい合いたい、顔を見たいと思ってしまいました。そうすることで、善児とトウという長くも悲しい時間の終わりに決着をつけられると。だから、梶原さんに正直に相談したんです。梶原さんに甘えさせていただき、本番ギリギリまで2人でのリハーサルをしました。いざ向き合うと、感情がグチャグチャになりました。でも、その表現できない想いについては、それはそれで良かったのかなと思うようにしています。大河の現場は本当に先の分からないことが多いので『これで良いのかな。あの時、こうすれば良かった』と考えてしまうことの連続です。そのことを梶原さんにポロっと言ってしまったことがあり、そうしたら梶原さんが『オレも“あの時、こうすれば良かった”と思うことだらけだよ!』とおっしゃっていて『初回からいる善児を演じている梶原さんというこんな凄い方でも、そう思うのか』と救われた気持ちになりました。撮影の裏では、2人とも雨でずぶ濡れになり、土でドロドロになりました。梶原さんなんて血だらけで(笑)。2人ともテンションがおかしくなっちゃって、子どものように笑っていました。スタッフさんもずぶ濡れで本当に大変なシーンだったと思うのですが、皆さまの作り上げてくださった空間が素晴らしい時間となり、梶原さんのオールアップを迎えました」 ――第33回の演出・末永創監督とは、どのようなお話をされましたか? 「末永さんからは、本当に大きな大きなヒントを頂きました。真田広之さん主演の映画『助太刀屋助六』(02年公開)をイメージしてほしいとアドバイスを頂き、ひょうきん者の主人公・助六とトウを重ねるのは難しかったですが、仇討ちのシーンの真田さんの演技は言葉が出なくなるほどの迫力ある表情で、沸々と溜まっていた鬱屈を放つその時が来た瞬間、人はこうなるんだと。悩んでいたものが何か一つスコンと抜けた瞬間でした。末永さんの助言がなければ、私はもっと育ての親である善児に情が強くなってしまっていたと思います。その場で善児を殺して、自分も死ぬほどだったかもしれません。これから生きていくトウに、静かに鞭を打ってくださったのは間違いなく末永さんです。末永さんの優しく心地良い話し方が、本番直前まで落ち着く空気をつくってくださったおかげで、いざ仇討ちのシーンとなった時、鬱屈を解き放つことができました。本当にありがたかったです」助太刀屋助六仇討ちの助太刀を生業とする若者・助六の姿を描くコメディタッチの時代劇。岡本喜八が監督映画『日本のいちばん長い日』、『肉弾』を製作した直後、亡くなった岡本の父への追悼の意も込めてシナリオが執筆され、岡本自ら「生田大作」のペンネームで執筆した漫画が『漫画読本』1969年4月号(文藝春秋刊)に発表された。このシナリオおよび漫画を基に、1969年にオムニバスドラマ『仇討ち』の一編としてテレビドラマ化、2002年に真田広之主演で映画化された。2005年2月19日に岡本が死去し、同映画化作品は岡本の遺作となった。「鎌倉殿の十三人」は敵討ちが大きなファクターとなっている。曽我兄弟から始まり、トウに至る。・善児は架空の人物。 活躍は主要キャスト級。初回放送で源頼朝と八重との子を川に沈めてから、出演する大部分で暗殺を実行。オープニングロールに「善児 梶原善」と出るだけでSNSでは「アサシン善児出る」、「また誰かが…」など恐怖に震える声が相次いだ。「僕はネットを見ない人なので気づきませんでしたが三谷幸喜さんから『人気出てきたよ』『トレンド入ったよ』と知らさせて非常にびっくりしています」40年近い俳優人生で「ここまで人を殺(あや)めたのは初めて」。「見るのとやるのとは違って、いざ自分がやるとあまり気分がいいものではない」「あんまり語りたくないなと。やっぱり人を殺すっていうのは、演技でもこたえる」「八重さんを逃がそうと頑張っていた江間次郎さんを殺(や)った時は心が痛んだ。あっさり殺りすぎてしまったし」 三谷氏からは出演前に「代表作にして」と言われた。「架空の人で、人を殺めているだけの役なのに」役名は善児。「最初、三谷さんがふざけているのかと思った」。実際に「代表作になっちゃっている。これまでで一番しゃべっていないのに、一番反響が大きい」。
2022.08.29
一部の人工甘味料はカロリーゼロでも血糖値を上げる可能性があると判明イスラエルのワイツマン科学研究所(WIS)*で行われた研究によれば、人工甘味料として使われているスクラロースとサッカリンには腸内細菌を変化させ、人間とマウスの血糖値を下げる能力「耐糖能」を損なう可能性があることが判明した、とのこと。これまで人工甘味料はカロリーがゼロかほとんどないため、甘くても血糖値には影響を与えないと考えられていましたが、少なくとも短期的には血糖値の上昇をもたらす可能性があるようです。今回、ワイツマン科学研究所の研究者たちは、健康かつ人工甘味料を摂取していない120人の成人ボランティアをグループにわけて、それぞれサッカリン・スクラロース・アスパルテーム・ステビアなどの人工甘味料をブドウ糖と一緒に2週間にわたり摂取してもらいました。(※実験では対称としてブドウ糖のみを摂取したグループも含まれています)結果、サッカリンとスクラロースを摂取した被験者たちのグループにおいて、血糖値を下げる能力「耐糖能」が低下していることが判明します。(※ブドウ糖のみを摂取したグループや他の人工甘味料を摂取したグループでは耐糖能の異常はみられませんでした)また被験者たちの腸内細菌叢を実験の前後で比較したところ、特に耐糖能に影響があったサッカリンとスクラロースを摂取したグループにおいて、腸内細菌の数や種類に大きな変動があったことが確認されました。この結果から研究者たちは、耐糖能障害の原因はサッカリンとスクラロースが腸内環境を変化させたことが原因の可能性があると考えました。サッカリンとスクラロースによって変化した腸内環境が、本当に耐糖能に影響を与えているかを確かめるには、サッカリンとスクラロースを摂取した被験者たちの糞便(腸内環境)を「無菌の腸」を持つ動物に移植して、変化があるかを調べなければなりません。そこで研究者たちは無菌マウスの腸に、血糖値が上昇した被験者たちの糞便を移植してみることにしました。結果、マウスたちの耐糖能が移植前と比べて低下し、血糖値を下げる能力が損なわれていることが判明します。研究者たちはこれらの結果から、サッカリンとスクラロースを摂取した人間やマウスの腸内細菌叢が変化し、耐糖能に異常を生じさせるている可能性があると結論しました。ただ今回の研究では主な実験期間が2週間と短いため、研究者たちは人工甘味料が長期的な健康状態に影響をあたえるかは、より大規模な研究が必要であると述べています。研究者たちは今後も人工甘味料が腸内環境と血糖値に与える影響を調べ、最終的にはどの腸内細菌が耐糖能の異常に関与しているかを特定していく、とのこと。最後に研究者たちは、今回の研究結果は「人工甘味料の摂取を中止することをすすめるものではない」「一番いいのは甘い水ではなくただの水を飲むことだ」と述べています。*ワイツマン科学研究所( Weizmann Institute of Science)は、イスラエルのレホヴォトにある研究および高等教育機関。自然科学系の大学院のみである点が他の一般の大学とは異なる(大学院大学)。ヴァイツマン科学研究所とも。世界的にも有名な総合研究センターであり、約2,500名の科学者、博士号取得後のフェロー、大学院生、スタッフが働いている💛一番いいのは「ただの水を飲むこと」だって(^^) 人工甘味料だからって飲みすぎないことかな。
2022.08.28
デジタル発展省が発足=トップはオードリー・タン氏―台湾シンガポールのリ・クワン首相が「ルック・イースト」と日本を見習えという時代があったが、現代は「Look Taiwan」の時代かもしれない。以前台湾を訪問した折に、町中の街灯がLEDになって、虫が寄ってこないとタクシーの運転手が言っていた。高雄の地下鉄は事故防止用の入り口の柵が設けられて、当時の日本の地下鉄に思いを致した。それから数十年の時を隔てて、日本の信号機や街灯がLEDとなり、事故防止用の地下鉄駅の入り口が標準になった。台湾は日本より行政組織の風通しがよく、特にデジタルてきな先端的なことが率先して実践されているようだ。日本でデジタル庁が発足しても、オードリー・タン氏のような指導者に十分な権限が与えられるのでなければ、『デジタル国家、知恵の国』にすることは難しいであろう。「Look Taiwan」デジタル発展省が発足=トップはオードリー・タン氏―台湾2022/08/28 07:10 台湾で発足したデジタル発展部(省)=27日、台北市(台湾行政院提供・時事)© 時事通信 提供 台湾で発足したデジタル発展部(省)=27日、台北市(台湾行政院提供・時事) 【台北時事】台湾の蔡英文総統は27日、デジタル経済の発展や情報セキュリティー強化を担う「デジタル発展部(省)」を発足させた。初代トップには、政務委員(無任所閣僚)として蔡政権のデジタル政策を推進してきた唐鳳(オードリー・タン)氏が就任した。 蔡氏は27日に行われた同省の発足式で「台湾を『デジタル国家、知恵の国』にすることは、政府・与党の最も重要な目標の一つだ」と述べた。デジタルトランスフォーメーション(DX)が将来の経済成長のカギになると見込む蔡氏は就任以来、同省の設立を目玉政策に据えてきた。 デジタル発展省は今後、政府の関連部門と協力し、情報、電気通信、インターネットなど主要分野を統合して官民のデジタル技術活用を推進。デジタル環境インフラを整備・強化し、企業のDX促進を支援する。 唐デジタル発展部長(デジタル発展相)は「全市民のためのデジタル強靱(きょうじん)性」が同省の核心的役割だと強調。社会のデジタル化に伴う情報流出やサイバー攻撃、偽情報といったリスクからの保護を重視する考えを示した。 台湾では軍事威嚇を強める中国からのサイバー攻撃や情報戦を仕掛けるフェイクニュースが大幅に増加しており、同省は安全保障面でも大きな役割を担う。唐氏は年内をめどに、省の傘下に情報セキュリティー機関を設置する方針だ。
2022.08.28
もの言わぬ従弟にサイダー渡す駅 本上まなみ本上まなみさんは、リュックのお題のときも1位。特待生見えてるなあ才能あり1位70点 ちびリュック 中身はおむつ 山笑う 娘が2歳くらいのころ、なんでも母の真似をしたがって、 私がリュックを背負うと娘もリュックを背負いたがる リュックにこどものおむつをいれて、一緒に歩いた山歩きを思い出して梅沢永世名人 私もこんな俳句作ろうとしたんですよ、げも 「ちびりゅっく」が出てこなかった。これは素晴らしい俳句ですね。2003年6月 第1週 本上まなみつゆくさで色水つくって遊んだよ 明け方の空の涙みたいな 鶯まなみ「鶯まなみ」とは、女優本上まなみが短歌を作るときの筆名である。 びいどろをぽっぴんぽっぴんふきました帰りまぎわのくろくもの下 今となりゃ《つかまされたか》とも思う大きいだけのへろへろかいめん 桜並木ももいろサンゴが手を振った様に見えたよメガネかけねば そういえばおふろあがりのうちの犬ソラマメのにおいに似てた 妹とケンカしてても庭にでてまめくじ見せれば勝ったも同然💛そうなんだ、プレバト1位は当然の実力と研鑽なのだ!
2022.08.26
【甲子園】仙台育英・岩崎生弥 「天国の祖父に『力貸してくれ』」試合を決めた満塁弾8/23(火)決勝で仙台育英(宮城)が下関国際(山口)に8―1で勝ち、東北勢が春夏通じて13度目の挑戦で初めて優勝を遂げた。4回に1点を先制すると、7回には5番・岩崎生弥一塁手(3年)の満塁弾などでリードを広げた。チームを率いる須江航監督(39)は東北6県の思いや、これまで決勝で散ってきた多くの方々の思いを胸に戦ったと感謝。春夏通じて100校目の優勝校となり、悲願の“白河の関越え”を達成した。 仙台育英の一塁側アルプスめがけて、堂々と右手を突き上げた。4―1で迎えた7回1死満塁、3ボール1ストライクとボールなら押し出しの場面で、岩崎が140キロの明らかに高い直球を強振。高々と舞い上がった打球は、左翼席で弾んだ。今大会チーム初本塁打は、東北勢初Vを決定づけ、決勝では史上4人目となる値千金のグランドスラム。ベンチ前で須江監督と抱擁を交わすと「甲子園という舞台で恩返しできてうれしかった」と白い歯を見せた。 2、3回戦ではともに代打で計4打点。“代打の切り札”が、高校の公式戦での初アーチを聖地で描いた。「打席に入る前、天国にいる祖父に『力を貸してくれ』と思った。打った瞬間、行けと思いました」とかみ締めた。 道のりは、平たんではなかった。昨年6月、逆流性食道炎などを患って約1か月もベッドの上で過ごした。「少し動いただけで気持ち悪くなる」。同7月、バットを振ってみたが、たった5回振っただけで「息が苦しくなった」。 中1時は12歳以下の日本代表に選出され、世界大会で優勝。同代表では、近江(滋賀)の山田陽翔らとチームメートだった。かつて一緒に戦った仲間が、今春のセンバツで活躍する場面を見て「負けられない」。強い決意を持って今年6月、全体練習に合流した。 だが宮城大会はメンバーから外れた。落ち込む岩崎を支えたのは仲間だった。同学年の選手から「絶対に甲子園に連れていく。あきらめずに練習しろ」と声をかけられ、指揮官には「腐らずに練習していこう」と励まされた。聖地でプレーする日を夢見て、黙々とバットを振り込んだ。 5試合で14打数5安打10打点。聖地で躍動した岩崎は試合後、何度もチームメートと抱き合った。「全員の支えがなかったら、この1本はなかった。日本一になろうと3年間やってきた。それがかなって幸せです」。柔和な笑みを浮かべながら、胸の金メダルを見つめていた。💛打席に入る前に、バットを天にかざして、天国にいるおじいちゃんに『力を貸してくれ』と祈った。 なんていい子なんだろうね(^^)
2022.08.24
<鎌倉殿の13人>善哉の前に現れたのは実体、それとも? 比企尼、公式から消える 生死不明のまま8/22(月) 第32回「災いの種」が8月21日に放送され、前週第31回「諦めの悪い男」で比企一族が滅ぼされた後、生死が不明だった比企尼が登場。善哉(後の公暁、長尾翼君)に「北条を許してはなりませぬ」と繰り返し伝える様子が描かれた。第32回では、三浦義村(山本耕史さん)の庇護(ひご)の下、母のつつじ(北香那さん)と共にとある寺で暮らす善哉。境内で一人遊んでいると、薄汚れた老婆が姿を現す。それは、比企尼の変わり果てた姿で、「あなたこそが次の鎌倉殿になるべきお方。北条を許してはなりませぬ」と言い聞かせるように伝えると、また姿を消した。終盤の衝撃展開に、SNSでは「比企尼!」「比企尼、生きてた~!」「比企のばあちゃん生きてたのか!」と視聴者は即反応。善哉に向けた言葉については「ひぇーおばばの呪いだ」「魔女のような不気味さ」「なんだこの夏の夜の悪夢」「最後身の毛がよだった」「ホラーだなもう」「北条を決して許すなという呪いがこびりつく。これが後の、暗殺事件の布石か」といった感想が次々と書き込まれた。💛三谷さんはシェークスピア劇の魔女や真夏の夜の夢を意識して、視聴者にダイレクトに伝わっている感じ。しかしまあ草笛さんが魔女?として登場とは。イメージと真逆の役を与えて、視聴者を驚かすのがお好きみたい。魔女たちは、マクベスに重大な予言をする。マクベスはその予言を信じないではいられなくなる。魔女は実在的な影響力を持つ存在として登場する。魔女たちがマクベスにかけた呪いは、現実的な重みを以て作用していく。魔女たちの迫力を、マクベスとともにいたバンクォが次のように言う。 BANQUO:なんだ こいつらは(What are these) ひねこびて むさくるしいなりをして(So wither'd and so wild in their attire,) この世のものとも思われぬがこうしてこの世に生きておる (That look not like the inhabitants o' the earth,) マクベスとバンクォに、魔女たちは運命の予言をする。マクベスはスコットランドの王となり、バンクォの子孫たちがその王位を引き継ぐだろう。マクベスはスコットランド王になる前にコーダーの領主になるであろうという予言が実現したので、予言がもしかしたら本当に実現するかもしれないと期待するようになる。一方、ハムレットの中の亡霊は殺されたデンマーク王の亡霊であり、息子のハムレットの前に出没して、自分が殺された怨念をつらつらと語る。ハムレットはその亡霊の言葉を信じて、父親の敵討ちに立ち上がる。実にハムレットの前に現れ、復讐をそそのかす亡霊と、マクベスの ひねこびて むさくるしいなりをして(So wither'd and so wild in their attire,)現れる魔女を合わせて、出現した比企尼が誕生したのかもしれない。 「マクベス」の魔女は5つの重要な予言をする。 マクベスはカウダーのセインになり、最終的にはスコットランドの王になる。 バンクォウの子供たちは王になる。 マクベスは「マクダフに注意」する必要がある。 マクベスは「生まれた女性」の誰からも害を受けることはない。 「グレートバーナムウッドからハイダンシナンまで」までマクベスを倒すことはできない。ところが視聴者の予想を超えて、マクベスは倒される。
2022.08.23
8/22(月) 徳島の山あいの町、日本のシリコンバレーになるか 起業家育成の高専が開校へ15歳から20歳が通う、起業家育成の学校「神山まるごと高専」(仮称)が来年4月にオープンするからだ。生徒はエンジニアリング、プログラミング、デザイン、マーケティングなどのビジネススキル、また資金調達などを学ぶ。男女は半数ずつ発案者は東京のITベンチャーSansanの寺田親弘社長。東京出身の寺田さんは、なぜ神山町を選んだのか? 「最初に聞いたストーリーは、徳島県神山町っていう田舎町がおもしろいと。2010年くらいだったんで、光ファイバーが古民家に張り巡らされていてネット関係が充実していると」大南さんには、「ちょっと働く場所の実験をしたい、僕らも何ができるのか分からないんですけれど、もしかしたらパソコン教えたりはできるかもしれません」と持ちかけた。しかし返ってきた答えは予想外のものだった。「彼は『そんなのはいらない』と。『SansanというITの会社の本業がこの田舎町でも成り立つと証明してくれたらそれでいいよ』と言われて、肩の力が抜けました。古民家を紹介され、じゃあそこでやってみようって始めたのがきっかけです」「直接的に仕掛けたつもりはないんですけれど、見ていておもしろいな」「ビジネスでは届かない社会課題に、自分なりにやるべきことはないかなと煮詰めていった時に、まぁ教育だなと、学校だな」「学校って言ったらエンジニアが足りない、テック人材が足りない、アントレプレナーシップをもっと教育の内側で教えられるべきなのに、そういうことが起きていない。高専がおもしろい。これを神山でやったら何か起きるんじゃないかな」「僕自身は起業家としてやっていますけれど、いわゆる大学までの教育の内側でそれに資するものを習った記憶がない」「優秀な子は起業する前提でやっていると思います。今時、いい会社入って、などとは、トップノッチ(最高レベルの人たち)はそんなこと考えていない」Can a sleepy Japanese town become Asia's Silicon Valley?
2022.08.22
新幹線乗車する駅で「検査」も…帰省前に“陰性確認”を 主要駅などに無料検査所が開設【大阪発】8/13(土)大阪府では、国から届いた20万人分の抗原検査キットの発送作業が進められた。発熱外来のひっ迫から、国はリスクの低い人が病院を受診しなくても検査ができる体制を整えるためにキットの無料配布を進めている。大阪府では、配布の対象を20代から40代で基礎疾患のない軽症者としている。大阪府では、無料の抗原検査キットを「薬局で受け取る」方式だ。府のホームページに掲載されている対象の薬局へ直接連絡する、完全予約制となる。・帰省前の陰性確認「お互いの安心のため」とといわれても、抗原検査キットが手に入らない「抗原検査キット」が入手できても、「陽性」実はすでにかかっていたというのも怖いねえ
2022.08.19
世界で最も知的な国ランキング…日本は2位!?テンミニッツTV6/29(水)2019年から100カ国以上の人々の知能を測定し、最も平均IQが高い国をランキング形式で発表しているWorldwide IQ Testの結果をもとに、世界で知的な国ランキングを紹介していきましょう。なお、Worldwide IQ TestはWiqtcom Inc.というフィンランドの企業が提供している国際的なテストで、オンラインで受けられるものになっています。トップ10の国 Worldwide IQ Testの結果では、下記のような結果となりました。順位とともに平均IQの数値を並べています。1位 台湾(113.47)2位 日本(112.65)3位 ハンガリー(111.54)4位 韓国(111.33)5位 イラン(110.97)6位 香港(110.87)7位 セルビア(110.70)8位 イタリア(110.57)9位 ベトナム(109.23)10位 フィンランド(108.99) Wiqtcom Inc.によると、台湾は113.47という驚異的な数値で1位になったものの、受験者数が少ないためデータにばらつきが出やすく、スコアが信頼できるかは疑問が残るとしています。一方で日本は受験者数が多いので、より正確なスコアが出ているといわれています。日本が2位にランクインした背景として2つの要素があるとしています。ひとつはエレクトロニクス、自動車製造、製薬などの分野で世界をリードする企業が数多く存在する技術力の高さ、もうひとつは優れた教育システムにより識字率が非常に高く、特に数学と科学の分野では常に世界トップクラスの成績を収めていることです。もしテストを受けてみたい方がいたらインターネットで簡単に受験できるので試してみてください。ただし、結果を受けとるのは有料になりますので、その点は注意が必要になります。<参考サイト>オンラインの知能テスト│Worldwide IQ Testhttps://www.worldwide-iq-test.com/ja💛以前、「日本はなぜ資本主義が自生のもののように成功したのか?」について、マクス・ウェーバーの「資本主義の精神」類似する報徳の精神が報徳運動によって特に静岡県・愛知県に育っていたのも要因の一つかもと、ある大学教授に言ったところ、「そんなことはない。江戸時代から寺子屋など識字率が高かったからだ」と即座に否定された。「識字率が非常に高い」というのは、日本の強み。「鎌倉の十三人」でも、上総介が手習いに励む場面は泣ける。
2022.08.17
パソコンが壊れて新しいのに買い換え、ブログもまた新たに始める。まずは「魔法の言葉」から。生涯使っても使いつくせない効用がある。しかし実践し続けている人は少ない。残念なことと思う。「ツキを呼ぶ魔法の言葉」五日市剛2012年5月14日(金)の逗子文化プラザで五日市先生の講演会があった。記録より。2時間弱の五日市さんの講演会にしては短いもので、主催者から「基本」について詳しくと頼まれたということで、イスラエルで出会ったおばあさんに「マジック ワード」を教わってから、身につけるまでのことを詳しく語られて面白かった。イスラエルでの一夜の教えの後、五日市さんは、車にひかれた時、また、ひったくりにあった時、『ありがとう』と言ってその効果を実体験した。道路を横断したとき、車に衝突したとき、『ありがとう』と言ったら、軽い打撲傷ですみ、しかも向うからきた別の自動車にあやうく引かれるところを免れたという。それでもまた「イヤなことがあったら『ありがとう』」というマジック・ワードの確信にはいたっていなかった。そして、今度はショルダーバックをひったくれた時、逃げていく犯人に『ありがとう』と大きな声で叫んだら、犯人がスッテンコロリンと転んで、バックを放り投げたまま、逃げていった出来事で、魔法の言葉を確信する。さらにダメ押しかのように、空港でなくした財布が戻ってきたとき「ありがとう」「感謝します」の魔法の言葉に涙を流して感動・感謝する。魔法の言葉は、イヤなことがあった時、すぐに言う言葉である。それは「悪いことが続いて起こる」という宇宙の法則の連鎖を断ち切り、逆によいことに変えてくれる。「すぐに言う」ために五日市さんは水性のマジックを買って、手やはてはパンツにまで『ありがとう』といたるときに書き込んで、手に書いた『ありがとう』が消えるたびに、書いて身につけたのだという。そのほかにも車のハンドルとかとにかく目にするところに「ありがとう」を書いて、イヤなことがあったら すぐ「ありがとう」 といえるようにしたという。」スターウォーズで「May the Force be with you.(フォースと共にあらんことを)」というが、わたくしにとっては「May the Magic Ward with me.(魔法の言葉と共にあらんことを)」である。多くの人が「魔法の言葉」が長続きしない(?)のは、おそらくはそれを「ツキを呼ぶ」と考えているからである。それは本当は「ツキを呼ぶ」ではなく「幸せをもたらす」「魔法の言葉」である。そしてそれは人の幸せを祈るときに本当の力を発するように思われる。逗子文化プラザの講演会で五日市先生は最後にこう言われた。「ありがとう は 人に言うと 感謝の言葉 となり自分に言うと 魔法の言葉と なります」
2022.08.16
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