全387件 (387件中 201-250件目)
きのう、2月9日、ツイッターに投稿のシェアができなかった。「フォローできない」「Twitterくんさぁ……」 障害連発でTwitterユーザーから不満続出ツイッターやユーチューブなどで障害、復旧進むツイッター改革で、有料会員以外は見ることはできても投稿については遮断が始まったのかなと思ったが、夜には復旧したようだ。最近ツイッターはViewsが載っている。200Views近いものも出てきた。SNS上で、どういうもの、どういう載せ方が効果的なのかわかって面白い。人間はどうしても片寄ると「二宮先生語録」にある。片寄らないと人の心に訴えない、片寄ると実践を継続できない。「中庸」に「片寄る」という矛盾する生き方が 報徳 なのかもしれない。石川県の公立小松大学図書館に「八田與一と鳥居信平」を寄贈する。八田も鳥居も第四高等学校を経て東京帝国大学に進学した。そして台湾において活躍し現在でも現地の人々に敬愛されている。エンジニアとして「人に役立つ」現代の学生諸君の模範であろう 180Views育英大学図書館から「訳注静岡県報徳社事蹟」ほか3冊の寄贈のお礼状が届いた。育英健児にエールを送る┗(•ˇ_ˇ•)―→ 179Views大阪公立大図書館に「訳注静岡県報徳社事蹟」「遠州報徳の師父と鈴木藤三郎」とボーイズビーアンビシャス第1集第3集と「八田與一と鳥居信平」を寄贈する。大阪公立大は市立大と府立大が合併したもので、市立大図書館に「技師鳥居信平著述集」「BBA第5集」と鈴木藤三郎顕彰第1集が蔵書となっている。 188Views遠州報徳の師父1岡田佐平治 報徳参会講話より(大日本報徳学友会報第 20 回) 本年(明治9年)2月11日の常会の時に、誠を以て陰陽の働きを程よく制し、世のため国のため人のためと、家職を精勤いたしたいと説話しました。「程よい」ということは、世間一般に善としている事で、全ての物に程よくしたいものです。中道の「中」はまた竹の節(ふし)を程よいと言って、古人も竹を愛しました。竹の節は、根本が繁り、中程は延びて、末はまた繁く、締まっては延び、締まっては延び、太さ細さに随って、善き加減に生じたものです。一年の季節にも節分とか正月の節とか、竹の節という字を用います。人の世も日曜に休むとか、暮れにやり取りをしまうとか、節を立てるから、人の行いもだらしなくならないのです。陰にしまって陽にのびる。陰陽の理は、芥子(けし)一粒から宇宙まで同じです。 大先生(二宮尊徳)は「誠は天の道なり、これを誠にするは人の道とは、報徳の事なり。また誠の一つをもって貫くのじゃ」と言われました。誠とはうそがない事です。誠を離れて何事もなりたちません。しかし世の中は様々で、先後終始がわかりませんが、先生は「これ(誠)を道と為すなり、誠心を以て本となす、勤労を以て主となす、分度を立てるを以て体となす、推譲を以て用となす」と、これは分度を立てるという一句が道の本体です。これが人の世が盛んになる土台です。家政調べで家の分をわきまえるのです。10 俵の収入の家が 12 俵で暮らすのは2俵のうそで、誠ではありません。100 円の収入の者が 120 円で暮らすのは 20 円のうそで、うそが積もると退転します。誠を確かにしたいものです。10 俵の収入の者は8俵で暮らすが誠の至極だと大先生が分内の図でご教訓され、10 俵は5俵、100両は 50両で暮し、何でも半分で暮し、半分は譲るべしと言われました。また中道の分度に止まるとのご教訓ですが、この中とは、かたかたよらず、かたよらず、至極程よい事で、中は古人も難しとする所です。なぜならば一尺のまん中は中には相違ありませんが、物によって片寄って中になりますから中は容易に得がたいのです。 大先生のご理解にナスを作って5つもなったら、まず3つも取り、そして肥(こや)しをやらねばばならない。霜の降るまでなる、この理は間違いないぞと言われました。5つなったらきっと3つとれとは言われません、まず3つと言われました。3つ取るも2つ取るのもあり、その程を見て取る事ですから、きっといくつと決まった事はありません。朝と晩と違う、この中道のご理解はいきいきとして、古今未曾有で、誠に極妙です。このご理解に基づいて分度を立てると財宝が余り、身体は必ずよくなる。しかし身体さえよくなれば、よしとばかり決定しては心得違いとなります。積善がなければ災いが来ます。災いが来ると、大身代でも水の泡となる。積善は誠です。積善がなければ人に生まれた甲斐はない。積善の第一は譲りです。農家は作物の肥料、作工は素人の及ばない所へ念を入れ、家を手堅く作り、商家は正直に商売し、相互に譲り助け合う、それでよいようですが、病難・火難・水難そのほかの不慮の天災は逃れがたく、貧窮に陥る者も多いのです。貧窮は人事の大患です。貧に迫ると本性の人心をくらまして悪念を生じ悪事をかもし、有り難いという事を思わない。この大きな憂いを救う仕法を窮民撫育(ぶいく)といい、報徳善行の真先です。ですから報徳社を結んで、分度外に報徳善種金を積み立て、これを種として、社中は勿論国に貧窮のものがないようにする仕法です。貧窮の者が無くなればなんと愉快ではありませんか。当国報徳社中は次第に増えて盛んになり、昔からの皆さんもたんと見えます。社中が奮発したならば、どんな善行もできます。「報徳善種金は恐れ多くも、日月の世界を照らしたまうと同様」と大先生は言われました。「自他の宝」であり、実に大切です。
2023.02.10
家族ふれあい新聞第1010号より鏡の法則 その1 ☆ 『鏡の法則』を読んだことがありますか?もしなければ、有意義ですので、一読をオススメします。というメールを〇〇さんからいただいた。○こんな話だ。小学生の息子が学校でいじめに会い、仲間はずれにされている。母(A子)は、息子から聞きただそうとするが、息子は「ほおっておいてくれ」と心を開かない。夫が自分の先輩の経営コンサルタント(B氏)に相談したらというので藁にもすがる思いで電話した。するとB氏は話を聞いて本気で解決する気なら難しいことではありませんと意外なことを言うのだ。「はっきりしていることは、あなたが、誰か身近な人を責めているということです。」A子は思わぬ回答にとまどった。B氏は続けた。「現実に起きる出来事は、一つの『結果』です。『結果』には必ず『原因』があるのです。あなたの人生の現実は、あなたの心を映し出した鏡だと思ってもらうといい。人生という鏡のおかげで、私たちは自分の姿に気づき、自分を変えるきっかけを得ることができるのです。」「私の悩みは、私の何が映し出されているのですか?」「あなたに起きている結果は、『自分の大切なお子さんが、人から責められて困っている』ということです。考えられる原因は、あなたが『大切にすべき人を、責めてしまっている』ということです。」B氏はA子に夫との関係を聞いた。A子は夫を教養がないと軽蔑していた。B氏はその根本的な原因がA子が父親を許せないと思っていることにあるという。B氏は、父に対する『許せない』という思いを紙に書きなぐるように言った。A子は、父に対する思いを、思いつくまま書いた。口やかましい父で、夕食が説教の時間になることも多かった。書いているうち感情が高ぶり、涙が出た。B氏「お父様をゆるす覚悟はできましたか?紙の上の方に『父に感謝できること』というタイトルを書いて、お父様に対して感謝できることを紙に書き留めて下さい。次に、別の紙を用意して『父に謝りたいこと』ってタイトルを書いてください。実感がともなわなくてもOKです。形から入りますから。今からお父様に電話をかけて、感謝の言葉とあやまる言葉を伝えるのです。『父に感謝できること』と『父にあやまりたいこと』の2つの紙に書き留めたことを、読んで伝えるだけでOKです。」A子は電話をかけた。「私、今まで言わなかったんだけど、お父さんが頑張って働いてくれて、私も育ててもらったわけだし。『ありがたい』っていうか、感謝みたいなこと言ったことないと思うのよ。それで、一度ちゃんと言っておきたいなと思って、・・。それから私、心の中で、けっこうお父さんに反発してたし、それもあやまりたいなと思ったの。」受話器からは、父が嗚咽する声が聞こえた。父が泣く声を聞いたのは初めてだ。父は私のことを愛したかったんだ。親子らしい会話もしたかったんだ。父は寂しかったんだ。娘に愛が伝わらなかったことが、辛いことだったんだ。B氏「潜在意識の法則というのがありましてね、実は、人生で起こるどんな問題も、何か大切なことを気づかせてくれるために起こるんです。偶然起こるのではなくて、起こるべくして必然的に起こるんです。自分に解決できない問題は決して起こらない。起きる問題は、すべて自分が解決できるから起き、前向きで愛のある取り組みさえすれば、後で必ず『あの問題が起きてよかった。そのおかげで・・』と言えるような恩恵をもたらす。心の世界はつながっています。原因を解決すれば、結果は変わるしかないのです。」
2023.02.10
家族ふれあい新聞第1014号より「だんご汁」その1 木谷ポルソッタ通信特急『にちりん』は、大分駅のホームに滑り込んだ。今朝、田沢さんは東京を出た。新幹線、にちりんと乗り継いで、夕方、田沢さんは大分駅にやっと着いた。やっと……そんな感じだ。田沢さんは疲れていた。飛行機で飛べば二時間で大分空港に着く。改札口を出た。春近い大分、なんとなくなまめかしい雰囲気が漂ってた。(さて、どうしようか)今回は仕事の旅ではなかった。彼女を追っての旅だ。三月に入って仕事が忙しかった。マンションの部屋に戻らず仕事場で寝た。彼女からは何度も電話があった。会えなかった。仕事に追われていたこともあったが、もうひとつの理由があった。彼女とのつきあいは三年間になっていた。最近、なにかにつけてわずらしく思えてきた。(自由になりたい)そんなことを、田沢さんは考えるようになっていた。仕事を理由に、彼女からの誘いを知らずのうちに断っていた。ちょうどひと月、彼女と会わなかった。徹夜をした田沢さんは朝早く久しぶりにマンションの部屋に戻った。彼女からメールが入っていた。開いた。〈私、もうあなたに会うことはないでしょう。両親からお見合いの話がきました。あなたに相談したかったのに……あなたは会ってくれませんでした。三年間、長かったのかもしれません。でも、楽しかったわ。ありがとう。さようなら〉「さようなら」田沢さんは口に出して言ってみた。突然に寂しい気持ちが押し寄せた。三年間……そうだよな。三年間という時の流れの中で培ってきたふたりの気持……それは何だったのだろう。そして、それがどれほど大切なものであるか。そのことに気がつくと同時に、田沢さんは東京駅へ向かっていた。彼女の故郷は大分だった。まず大分へとにかく行こう。そして……田沢さんは大分へ来た。「さあ、これからだよな」田沢さんはぽつりとつぶやいた。時計の針は六時を過ぎていた。彼女の大分の実家の住所は知らない。電話番号も知らない。彼女の携帯に電話するがつながらない。電源を切っているのだろう。田沢さんは考えた。彼女の会社へ彼女の実家を問い合わせた。不審がられて断られた。さあ、どうするか。考えた。考えた末に、彼女の会社に彼女宛のFaxを送った。『君に話がある。見合いはするな。明日、大分へ行く。 君の言っていただんご汁屋で待っている。 本当に大切な話だ。明日、大分へ行く。(会社の方へ……彼女への連絡をお願いします)』会社の誰かが彼女に連絡してくれるだろう。連絡してくれなければ、それも運命だ。あきらめるしかないだろう。
2023.02.10
ゆずり葉昔、板東霊場巡礼で、水戸光圀公ゆかりの西山荘に寄ったら、黄門様の隠居所があった。家の前に木があり、「ゆずり葉」と標識が立っていた。「ゆずり葉」は厳しい冬の最中にも青々と葉を茂らせ、新しい葉が成長してくると、古い葉が新しい葉に「譲る」ように散るところから「譲葉」という名前が付けられたという。きっと黄門様も譲りの道を自戒するために庭に植えたのであろうか。「ゆずり葉」という素敵な詩がある。 ゆずり葉 河井 酔茗 子供たちよ これは譲り葉の木です。この譲り葉は 新しい葉が出来ると入り代ってふるい葉が落ちてしまうのです。こんなに厚い葉 こんなに大きい葉でも新しい葉が出来ると無造作に落ちる新しい葉にいのちを譲って――。子供たちよ お前たちは何を欲しがらないでも凡てのものがお前たちに譲られるのです。太陽の廻るかぎり 譲られるものは絶えません。(略)世のお父さん、お母さんたちは 何一つ持ってゆかない。みんなお前たちに譲ってゆくためにいのちあるもの、よいもの、美しいものを、一生懸命に造っています。今、お前たちは気が付かないけれどひとりでにいのちは延びる。鳥のようにうたい 花のように笑っている間に気が付いてきます。そしたら子供たちよ。もう一度ゆずり葉の木の下に立ってゆずり葉を見るときが来るでしょう。
2023.02.10
新城市立図書館から「訳注静岡県報徳社事蹟」が戻ってきた。報徳に縁のある南相馬市立図書館に寄贈しよう。相馬市立図書館にはすでに寄贈済みである。大切な本を廃棄することなく循環して寄贈する。報徳の無限循環の原理にかなっているであろう。寄贈した本を返却いただいた図書館に感謝します。南相馬市立図書館蔵書1 二宮先生語録 読み下し全ルビ原文・現代語訳 図書2 シナリオで読む 砂糖王鈴木藤三郎の報徳 図書3 八田與一と鳥居信平 台湾にダムをつくった日本人技師 図書4 報徳記を読む5 ボーイズ・ビー・アンビシャス 第3集 新渡戸稲造の留学談・帰雁の蘆 …6 報徳産業革命の人 報徳社徒鈴木藤三郎の一生 「二宮尊徳の会」鈴木藤三…
2023.02.09
四国学院図書館大学に「技師鳥居信平著述集」が蔵書となっている。資料で読む技師鳥居信平著述集 : 台湾の地下ダムの原点は徳島県農業技師時代にある出版 二宮尊徳の会 2021/4所蔵 旧図書館 289.1||TO67 一般状況 配架済沿革によると「四国学院は、プロテスタントに属する米国南部長老教会の宣教師、J. A. マカルピン、W. A.マキルエン、L. W. モーア(3M)と、日本人キリスト者によって、福音主義信仰にたつ高等教育機関として、「四国基督教学園」という名称で1949年10月20日に設立されました。四国学院は、キリスト教主義に基づく人格教育と学術研究を行い、神と人とに奉仕する人間の育成を目指しています。」とある。「八田與一と鳥居信平」も寄贈してみよう。神と人とに奉仕する人間の育成に役立てばいいな。令和4年2月吉日 四国学院大学付属図書館 様 「八田與一と鳥居信平―台湾にダムをつくった日本人技師―」増補版の寄贈について 「二宮尊徳の会」では、 「八田與一と鳥居信平―台湾にダムをつくった日本人技師―」増補版を刊行しましたので、謹んで貴図書館に寄贈いたします。 本集は台湾に利水ダムを建造した、八田與一と鳥居信平の寄稿文などを収集した資料集です。増補版において「徳島県農業技師鳥居信平」(p.58,59)及びコラム「近代農業土木の父 上野英三郎」(p.197)「二峰圳工事の概要(万隆農場)」(p.198)を収録しました。 八田與一は、石川県金沢市の出身で第四高等学校卒業後、東京大学工学部において広井勇博士に師事し、台湾総督府の技師として活躍し、台南に広大な農地(嘉南大圳)を出現させた八田ダム(烏山頭ダム)を築造し、現在でも台湾の人々に感謝されています。 また、鳥居信平は静岡県袋井市出身で、八田と同じく第四高等学校卒業後、東京大学農学部に入学、卒業後、徳島県技師として活躍した後、台湾製糖株式会社に水利技師として入社し、台湾南部の二峰圳(にほうしゅう)に地下ダムを設置し、荒蕪地を開拓しました。鳥居の環境にやさしい地下ダムは現在でも地元で感謝されています。 本書は、八田與一を広井勇博士の「紳士の工学」「人類のための工学」(札幌農学校精神)の系譜の中でとらえ、また鳥居信平を台湾製糖株式会社初代社長・鈴木藤三郎の「報徳の精神」を引き継ぐものとして、その人と業績を紹介いたしました。 貴図書館において蔵書としていただき、広く学生の皆様の閲覧に供していただければと存じます。 貴図書館のますますの発展を祈念します。 なお、貴館にて所蔵して頂けない場合は、本資料を他の公共図書館に寄贈いたしたく、本会メールアドレス(既刊の本の裏面に記載)にご連絡いただければ、返送用のスマートレターをお送りしいたしますので、誠にお手数ですがご返送いただきますようにお願い申し上げます。本を廃棄することなく、循環して活用したいという趣旨ですのでどうぞよろしくご協力くださるようにお願いします。二宮尊徳の会
2023.02.08
「足柄下郡郷土資料」(昭和12年3月25日発行)より 尋常3年の修身書に、相模のある村に佐太郎という善行者があったことが書いてありますが、その「ある村」というのは、神奈川県の足柄村の町田のことです。 佐太郎は二宮尊徳先生より少し前に生まれた人で、その先駆者といってよいでしょう。 佐太郎は享保13年の生まれで、先祖は石田三成の家臣であった島左近より出たと伝えられ、代々34石余の田地を相続して、村の組頭をつとめました。 父弥左衛門の時からその家は衰えました。佐太郎は42歳の時、父を失いましたが、家にはわずかに2石の田地を余すだけでした。 けれども佐太郎はせっせとつとめ励んで、間もなく家産を取り戻して11石余りにしました。 佐太郎の母は、いつも膝の痛みになやんで歩くことができず、家の内をはいまわり、いろりの傍らで火を焚いたり、孫などを遊ばせるのを仕事にしておりました。 佐太郎はいろりのところと、母の臥床(ふしど)にあたりにめぐり3尺もある柱を6本立てて、根は5尺ほど掘り入れ、また梁(はり)にも穴をうがってその柱をつらぬき、なおクサビや竹縄で、しっかりと結びつけました。「これはまた、どうした事じゃ」と村人が尋ねると、佐太郎は答えました。「母が若い時に大地震があったので、大変地震を怖がっております。それから大風や雷も嫌いです。なにしろ家の中をようやくはって歩くほどですから、母にけがをさせないようにしなければなりません。こうして柱をたくさん立てておいたなら、大地震があっても容易には家がうち倒れないでしょう。」 佐太郎は毎日畑に出かけても幾度となく家に帰って母の安否をたずね、夜も幾回となく眼を覚まして母の機嫌をうかがいました。 弟定七は小さい時病身でしたので、おとなになっても、母が心配して他所(よそ)へ出すのを好まないので、兄弟共に睦まじく家におりました。やがて定七に妻を迎えて裏に分家させ、母に安心させて、共に孝養をつくしました。 佐太郎は常に湯水を大切に使いました。手足を洗うのにも家の人はかわるがわる同じタライの湯水を使いました。「これはまたどうしたわけですか」と村人が尋ねると、「菩提寺の和尚さんが申されました。水はたくさんあるからといって、粗末にしては冥利(みょうり)にそむくと。私はその教えを守っているのです。」 同村の五右衛門が貧しくて父の葬式ができないと聞いて、佐太郎は、「親を見送ることは人間一代の大事である」と言って、金を貸してやりました。 佐太郎は、毎夜村内の若者や子どもらを集めて、いろはの手本を与えまたソロバンを教えました。 ある時村内に屋根が損じても修理しない者があったので、佐太郎はその人をはげまして、村中から少しずつワラをもらい、自分のも出して、修理させました。 火災にあったものがあると、自分の家の藪の竹をきって与えました。組頭の役をしていた時、村役人たちに勧めて、その給金を貯めて土橋の朽ちたのを石橋にかけかえさせました。 佐太郎は自ら7段余の田を一人で耕していました。他の家では年々豊凶の別があったが、佐太郎の田地のみは毎年よく実りました。たとえ他の畑であっても、急の雨で肥料などが流れようとするのを見ると、「私がたいまつをとぼすから早く土をかけなさい」と励まして手伝ってやりました。用水をひく頃にはあちこちと他人の田まで見回って、せきを作ったり、水をはずしたりしました。 村の若者が10人ほど、伊勢へ抜け参りをしたことがありました。佐太郎は若者達が金も持たずに出かけたのを聞いて、その家々から金を集め、後を追って、伊勢に行きましたが、なお宿賃が不足でしたので、帰ってから自分ひとりで償って返しました。 またある年、悪疫が流行して、村の丑右衛門、孫兵衛という2人がとりつかれました。誰も怖れてよりつきませんでしたが、佐太郎は少しも厭うことなく、親切に介護し、米と薬を与えて、これをたすけました。 このような徳行に村人は佐太郎を尊敬して「家にあっても佐太郎、畑にあっても佐太郎が手本じゃ」と言い合いました。安永7年にはついに領主より褒美として持ち高課役を生涯免除され、その母にも90歳の時、扶持米(ふちまい)を下されることになりました。これは佐太郎が52歳の時です。 佐太郎は天明5年名主にあげられ、村のためによくつとめて、享和元年75歳で亡くなりました。
2023.02.07
世界で一番人気の伝統料理は「日本のカレー」世界の伝統的な食事のレシピやレストランを紹介するウェブサイトTasteAtlasが公開した2022年の世界の伝統料理ランキング1位に輝いた料理は日本の「カレー」TasteAtlasは日本のカレーを「「カレーと呼ばれる日本式のカレーは、日本で最も人気のある料理の1つです。明治時代にイギリスから伝わり、日本で人気を博すようになりました。当時、カレーライスは富裕層だけが味わうことのできる高価な料理でした。インドカレーに比べると、小麦粉やルーを使うため、辛さは控えめで、甘く、濃厚です。日本では、カレーライス、カレーうどん、カレーパンの3種類に大別されます。最も人気なのは、やはりカレーライスで、福神漬けやネギを添えて食べるのが一般的です。今や、カレーは日本の国民食といってもいいほど人気な食べ物です」1位:日本のカレー2位:ブラジルのピカンニャ 3位:ポルトガルのアメイジョアス ア ブリャオ パト(アサリの酒蒸し)4位:中国のタンパオ5位:中国の餃子6位:タイのパネーンカレー7位:ペルーのセビーチェ8位:イランのゴルメサブズイ9位:トルコのジャー・ケバブ10位:ペルーのポジョ・ア・ラ・ブラサ(鶏の丸焼き)カレーの次に順位が高かった日本の料理は、21位の「豚骨ラーメン」。TasteAtlasは「その人気と特別さから、豚骨ラーメンはもはやラーメンの一種ではなくひとつの料理として見なすことができるだろう」中国では汁たっぷりの具を皮で包んで蒸した「湯包(タンバオ)」は4位に、中国発祥の焼き餃子「鍋貼(グオティエ)」は5位に
2023.02.06
伊藤有希 6年ぶりW杯通算6勝目!快挙だ日本女子史上初の表彰台独占!丸山が初表彰台の2位、沙羅が3位◇ノルディックスキーW杯ジャンプ女子個人第17戦(2023年2月5日 ドイツ・ビリンゲン ヒルサイズ=HS147メートル)伊藤有希(28=土屋ホーム)が6年ぶりとなるW杯通算6勝目を挙げた。1本目に137メートルの大ジャンプを完璧に飛ぶと2本目も134.5メートルを飛び歓喜の雄叫び。2016―17シーズンに札幌大会で初優勝してから一気に5勝を挙げて自己最高の総合2位に入って以来、6年ぶり6度目のW杯優勝となった。丸山希(24=北野建設)が2位、前日4日の第16戦で通算114回目の表彰台となる3位に入った高梨沙羅(26=クラレ)は2日連続となる3位で日本勢が女子史上初の表彰台独占。勢藤優花(北海道ハイテクAC)は10位だった。伊藤「とてもハッピーです。今日は難しい状況だったが、スタッフに整備をしてもらい、運もあった。みなさんにありがとうと伝えたい」6季ぶりの優勝に「長かったが、挑戦し続けた。ここに戻って来られてうれしい」丸山「(W杯本格参戦から)4年たったけど、ようやく立つことができた。初めての時が、沙羅さん、有希さん。ずーっと憧れの先輩と一緒に乗れたことは、すごいうれしいことだし、W杯史上(日本勢が表彰台)独占も初めてだと思うので、その場に自分が立てたことがすごくうれしいです」。「帰ってきたシーズンに立てるとは思っていなかったし、本当にいろんな人のおかげで、今日こうして飛べた。うれしい気持ちと感謝の気持ちでいっぱいです」高梨は伊藤の優勝が決まると、丸山と3人で歓喜の抱擁。丸山とともに、目頭をぬぐった。高梨「すごく嬉しいですね。日本人の独占が初めてと聞いたので嬉しいし、昨日までの状態を見て、誰が表彰台に立ってもおかしくないとずっと思っていた。実現してすごく嬉しい」「2本目はすごく攻めすぎたが、空中での姿勢の取り方をもっと練習を重ねないといけない。また次のジャンプ台にうつって、そこに合わせたい」「自分のジャンプは徐々にできあがっている。日本のチームの調子が上がるにつれて、自分のジャンプもできあがれば」
2023.02.06
会津若松市会津図書館から『訳注静岡県報徳社事蹟』寄贈のお礼状が届いた。意外なことに報徳運動は会津でも盛んだったということを初めて知った。・会津の報徳運動は、明治の初め大沼郡西川村大登の渡部禎三が衰微甚だしい地域の開発をいかにしようかと心を痛めていた。明治10年代岡田良一郎が、農商会報に報徳の方法をもって、時世を救済し、人民の生活を安定する方法を発表し渡辺はこれを読んで渡部禎三は初めて報徳の一端を知った。 相馬中村に二宮尊親を訪ね、数日滞在しその教えを受けた。更に箱根湯本に福住正兄を訪ね、報徳結社による一村の更生方法を学び、更に遠州掛川に岡田良一郎を訪ねて、新時代に即応すべき報徳による村づくりと、郷土更生の方策を学んで帰村した。これにより馬場庄平、渡部良碵、馬場幸十、馬場順蔵等同志に語らい、近隣・近郷の村人たちに道を説きまわって、ついに同志30数名をもって、明治13年8月に大登報徳社を結成した。これが会津の報徳運動の初まりである。佐々井信太郎略伝「会津の報徳運動と佐々井信太郎先生」262頁~概略 福島 斎藤 輝雄会津の報徳運動の歴史は、明治の初めに大沼郡西川村大登の渡部禎三氏が衰微甚だしい地域の開発をいかにしようかと心を痛め、その具体的方法を模索していた。明治10年代に岡田良一郎氏が、農商会報に報徳の方法をもって、時世を救済し、人民の生活を安定する方法を発表された。これを読んで渡部禎三氏は初めて報徳の一端を知った。そして衰貧救済の方法はこれ以外にないと決心し、先進地の視察と先師の指導を受けるべく、まず相馬中村に二宮尊親氏を訪ね、数日滞在してその教えを受けた。更に箱根湯本に福住正兄氏を訪ね、報徳結社による一村の更生方法を学び、更に遠州掛川に岡田良一郎氏を訪ねて、新時代に即応すべき報徳による村づくりと、郷土更生の方策を学んで、感激と確信を得て帰村した。これにより馬場庄平氏、渡部良碵氏、馬場幸十氏、馬場順蔵氏等同志に語らい、近隣・近郷の村人たちに道を説きまわって、ついに同志30数名をもって、明治13年8月に大登報徳社を結成した。これが会津の報徳運動の初まりである。報徳主義思想は全会津に及び、明治27年8月に会津報徳社連合会を結成した。会津報徳社創立者で初代社長は矢部善兵衛氏は、まだ東京一橋大学在学中、思想的煩悶に陥り、これを解決する手段方法を報徳に求めて、昭和4年、佐々井信太郎氏の「二宮尊徳研究」を見つけた。この時の喜びを「砂漠でオアシスを見つけた感があった。しかも社会問題研究叢書第4編とあり、社会問題で悩んでいた自分にとって嬉しくてたまらなかった」と日記に書いている。矢部は掛川の先生宛に手紙を出したところ、佐々井先生から用紙10枚くらいの懇切な返書をいただいた。昭和5年矢部は大学を卒業し、掛川に佐々井先生を訪ねた。先生は図書館にこもって「二宮尊徳全集」の編纂に全力を傾注しておられている時である。矢部は先生にあって「明鏡止水というか、私のあらゆる質問に対し、私のあらゆる内容が先生の胸中の明鏡に映じ、反射的に報徳の指導精神よりする根本的な指導が行われた。夜話や報徳記において二宮先生が教化された様が、今眼前に展開してくる感があった。私はスッカリ感に打たれ、報徳によってこそ日本は救い得る。皇国精神の権限は即ち報徳生活である。更に来るべき世界文化は報徳文化であるとの確信を得ることができた」と日記に書きとめた。矢部氏は、自家の商店経営を報徳様式に改革することから始めた。この改革にあたって、掛川へ何十回も往復して、家計内容、経営全般について報告し指導を受けた。昭和8年2月には、掛川本社の長期講習を受講し、矢部氏は佐々井先生の指導のもと、国民生活更生運動、経済更生運動へと発展させていった。それは上高額報徳社の結社、会津報徳振興会の創設へと展開された。昭和10年10月13日には会津報徳振興会が創設されたが、昭和12年の北支事変、太平洋戦争へと拡大し、自然と報徳も停滞した。終戦後、矢部善兵衛氏を中心に会津報徳振興会の同志が、ただちに佐々井先生の指導を受け、国民生活更生と食糧対策に東奔西走した。昭和22年3月13日から3月22日まで報徳指導者講習会を開催し、会津報徳振興会を改組し、会津報徳社が誕生した。ところが矢部社長が公職追放となり、後任者渡部英一氏もやがて思想的煩悶に陥り、会津報徳社の活動は昭和35年以降一時停滞する。昭和41年「会津村造り再検討幹部研修会」を昭和41年1月31日~2月4日の5日間、大倉精神文化研究所で開催した。同年2月15日には、会津報徳社の再建総会が各方部代表39名参加し、会津坂下町役場大会議室で挙行された。更に同年8月27日28日佐々井先生を招き、「会津町造り報徳講習会」を会津柳津町公民館で開催した。佐々井先生93歳であった。明治維新で徳川家に殉じて塗炭の苦しみを味わった会津の人びとは政治学問で多くの逸材を生み出した。会津の報徳運動が虚しく朽ちる事なく再生する事を願う
2023.02.04
二宮先生語録巻の二【201】~【205】 【201】《訳》孔子が弟子の問に答える場合、一を問うと、一を答えるだけで、とても言葉を惜しんでいるようじゃ。つまり孔子の言葉が深い浅いかは、問う者の精粗にある。私もまた善く問う者が無ければ、理を尽すことはできない。お前たちの問いはたとえば一本の髪の毛で大きなつり鐘を撞くようなものじゃ。どうしてつり鐘の本当の音を発することができよう。孔子は言った。「これをいかん、これをいかんと言わない者は、吾れこれをいかんもするなきのみ」と。もっともなことじゃ。【二〇二】孔こう子し仁じんを人ひとに許ゆるすや。其その徳とく大だい小せう有ありと雖いへども、而しかも各おの々おの之これを全まつたふせば則すなはち仁じんと為なす。之これを盌わん碟ちやう杯はい琖せん(碗・皿・杯)を盤ばん上じやうに列れつ置ちし以もつて雨う水みゐを受うくるに譬たとふ。盌わん碟ちやう杯はい琖せん、大だい小せう有ありと雖いへども、而しかも雨う水すゐ全まつたく其その器うつわに満みつれば、則すなはち仁じんと為なす。若もし夫それ大たい器きと雖いへども、而しかも全まったく満みたざれば則すなはち仁じんに非あらざるなり。《訳》孔子が仁であると人を評価する場合は、その徳に大小があっても各々これを全うしているならば仁としている。これを茶椀や皿やおちょこをお盆の上に並べて雨水を受けるのに譬えよう。茶椀や皿やおちょこに大小があっても、雨水が全くその器を満たすならば、仁となす。もしそれが大きな器でも、全く満たなければ仁ではないのじゃ。【二〇三】聖せい人じん天てん下かを治おさめる。猶なほ雑ざつ劇げきのごとくなり。其その劇げき場ぢやう御おん道みちに当あたれば、則すなはち或あるひは撤てつし或あるひは構かまへす。其その筵むしろを張はり之これを搭のする。敢あへて東とう西ざいに拘かゝはらず、俄が然ぜん笛てき鼓こを奏そうす。其その煩はん劇げき太はな甚はだし。聖せい人じん国こく家かを治おさむる、其その業げふは則すなはち異ことにして、而しかして其その意いは則すなはち同おなじ。仁じん義ぎ礼れい智ちの筵むしろを張はり、以もつて天てん下かを治おさめんと欲ほつす。其その煩はん劇げきも亦また甚はなはだし。《訳》聖人が天下を治めるのは、たとえば芝居のようなものじゃ。芝居小屋が将軍や大名などの道筋にあたればあるいは撤収し、あるいは構築する。ムシロを張って小屋を組み立てること、あえて東西の方位にこだわらない。たちまち笛を吹き太鼓をならしその忙しいこと、はなはだしい。聖人が国家を治めることもその事業は異なるようでその意(こころ)は同じじゃ。【二〇四】程てい子し孔こう孟もうを比ひするに冰ひやう玉ぎよく(氷と玉石)を以もつてす。至し当たうと謂いふべし。孔こう子し衛えい霊れいに対こたへ、孟もう子し梁りやう恵けいに対こたへる語ごを以もつて、之これを比ひ較かくせば、則すなはち冰ひやう玉ぎよく判はん然ぜんなり。《訳》程子が孔子と孟子を比較するに氷と玉(ぎょく)をもってした。至当というべきじゃ。孔子が衛霊公に答えたことと、孟子が梁恵王に答えた言葉でこれを比較すれば、氷か玉かは判然としている。【二〇五】古こ語ごに曰いはく。天てん子し、民たみの父ふ母ぼと作なり、以もつて天てん下かの王わうと為なると。是これ其その意いは則すなはち是ぜにして、其その言げんは則すなはち非ひなり。何なんとなれば則すなはち父ふ母ぼは子この称しやうする所ところ、安いずくんぞ自みずから父ふ母ぼと称しやうするを得えん。然しからば則すなはち庶しよ民みんを子ことし以もつて天てん下かの王わうと為なると謂いつて可かなり。老ろう翁おうと雖いへども而しかも子こ無なければ、則すなはち父ふ母ぼと称しやうするを得えず。少せう壮さうと雖いへども而しかも子こ有あらば、則すなはち父ふ母ぼと称しやうすべし。空くう言げんには則すなはち窒ちつ礙がい無なしと雖いへども、而しかも事じ物ぶつに接せつするに至いたれば、則すなはち窒ふさがる。我わが日につ本ぽん国こく号ごうの如ごときも、亦また異い称しやうなり。彼かれ既すでに之これを称しやうし、然しかる後のち、我われ之これを称しやうするは則すなはち可かなり。彼かれ未いまだ之これを称しやうせず、我われ自みずから之これを称しやうするは、則すなはち不ふ可かなり。《訳》古語(書経洪範)にいう。「天子は、民の父母となり、もって天下の王となる」と。これはその意味はよいが、その言いぶりはよくない。なぜかといえば父母は子が称する所じゃ。どうして自ら父母と称することができよう。そうであれば「庶民を子とし、もって天下の王となる」と言えばよかろう。年老いた翁であっても子が無ければ、父母と称することはできない。年若い青年であっても子が有れば、父母と称してもよい。そらごとであればどちらでもさしつかえないが、実際の事物に接するにあたっては差し支える。我が「日本」という国号も、また異称である。外国の人々が既に「日本」と称し、その後に私たちが称すればよろしい。外国の人々がいまだこれを称さないで、私たちが自らこれを称するのは、よくない。
2023.02.03
二宮先生語録巻の二【206】~【210】【二〇六】上じやう古こ法はふ無なし。何なんとなれば、鴻こう荒くわうの世よ、生せい民みん唯た々ゞ食しよくを求もとむるのみ。何なんの法はふか之これ有あらん。中ちう古こ田でん野や闢ひらけ、人じん民みん殖しよくし、然しかる後のち神しん聖せい法はふを設まうけ、以もつて天てん下かを治おさむ。法はふは譬たとへば橋きやう梁りやう舟しゆう船せんの如ごとくなり。今いまにして孔こう子し釈しやく子しを見みる。猶なほ水すゐ源げんの如ごとくなり。然しかりと雖いへども、其その鴻くわう荒こうを去さる幾いく千せん歳さい。下か流りうより橋きやう梁りやうを望のぞむも、亦また猶なほ水すゐ源げんのごとくなり。然しかりと雖いへども、其その橋きやう梁りやうに上あがれば、則すなはち水すゐ源げん遥はるかに深しん山ざん幽ゆう谷こくに在あり。而しかして涓けん々けんたる細さい流りうなり。何なんの橋きやう梁りやうか之これ用もちひん。何なんの舟しゆう船せんか之これ用もちひん。多た少せうの細さい流りう会かい同どうし、而しかる後のち、江かう河がと為なる。則すなはち橋きやう梁りやう無なかるべからざるなり。舟しゆう船せん無なかるべからざるなり。孔こう子し釈しやく子しは橋きやう梁りやう以い下かを説とく者ものなり。釈しやく子し王わう家けに生うまる。故ゆゑに王わう家けの富とみを譲ゆづる。若もし上じやう古こに生うまれば、則すなはち先まづ田でん野やを墾ひらき、以もつて米べい粟ぞくを殖しよくし、然しかる後のち始はじめて施せ心しんを生しやうずべきなり。孔こう子し法はふ制せい完くわん備びの後のちに生うまる。故ゆゑに曰いはく。人ひと有あれば、此これ土ど有あり。土ど有あれば、此これ財ざい有ありと。是これ人ひとを得えて田でん野やを墾ひらき、田でん野やを墾ひらきて、米べい粟ぞくを殖しよくするを言いふ。若もし太たい古こに泝さかのぼり之これを説とかば曰いはく。則すなはち応まさに土ど有あて人ひと有あり。人ひと有あて田た有あり。田た有あて粟ぞく有ありと言いふべきなり。然しからば則すなはち孔こう釈しやく専もつぱら橋きやう梁りやう以下いかを説といて、水すゐ源げんに及およばざるなり。《訳》上古には法は無かった。なぜかといえば原始時代には、生民はただ食を求むるだけだった。何の法が有ろうか。中古になって田野が開け、人民は増え、その後に神や聖人が法を設け、天下を治めた。法はたとえば橋や船のようなものじゃ。今日から孔子や釈子を見ると水源のように見えるけれども、その原始時代を去ること幾千歳後のことである。下流から橋を望むと、また水源のように見える。しかしながら、その橋に上れば、水源は遥かに深山幽谷にある。そして僅かな細い流れじゃ。どうして橋を用いよう。どうして船を用いよう。いくらかの細い流れが一緒になり、その後に、大きな川となる。橋が無いわけにはいかない。船が無いわけにはいかない。孔子や釈迦は橋から下を説く者じゃ。釈迦は王家に生まれて王家の富を譲る。もし上古に生れていれば、まず田野を開いて、穀物を増やし、その後に始めて施こす心を生じたであろう。孔子も法制が完備した後に生まれた。だから言うのじゃ。「人有れば、これ土有り。土有れば、これ財有り」と。これは人を得て田野を開墾し、田野を開墾して、穀物を増殖することを言う。もし太古にさかのぼってこれを説くならばこう言うべきだ。「まさに土有りて人有り。人有りて田有り。田有りて粟有り」と言うべきじゃ。そうであれば孔子や釈迦は専ら橋から下を説いて、水源に及んでいないのである。【207】《訳》太宰春台が孝経に序して言う。「天下父母無きの人有る無し」と。これもまた下流を知って水源を知らないものじゃ。しらみは人の身に生じ、何の父母か有ろうか。人類もまた同じで、天祖の始めに何の父母が有ろう。私はだから言う。「父母の根元は天地の令命に在り。身体の根元は父母の生育に在り」と。そうであっても、必ずしも太宰氏が悪いというわけにはいかない。孔子であっても同じじゃ。おおよそ中古から論を立てて、上古に及んでいない。枝葉を説いて根本に及んでいないのじゃ。【208】《訳》「井戸をうがって飲み、田を耕して食べる。皇帝の力が何が関係あろう」これが堯の堯たるゆえんである。地上の草木はことごとく花を開いて実を結ぶ。これが天の天たるゆえんである。もし一人の民を愛したり、一本の草を生長させるのであれば、これは小さな恵みであって大きな仁ではない。国家を治める者はそのことを思わなくてはならない。【209】《訳》孔子は言った。「言とがめ寡(すくな)く、行悔い寡ければ、禄その中に在り」と。私は以前一人の腐れ儒者をなじって言ったことがある。「私が今この言葉を行えば、必ず実際に禄を受けることができるか。」と。またこうも言った。「『学ぶや禄その中に在り』と言う。あなたは金持ちの家に行って教えるが、貧乏な私の家に来て教えることはない。そうであれば『禄有りて学その中に在り』と言うべきではないか。腐れ儒者は答えないで去った。ああ腐れ儒者はたとえばアブやハエのように、食物が有れば来る。そもそも儒教や仏教の二道が皇国に来たのも、また金穀が豊穣であるからではないか。もし急迫した不毛の地であれば、必ずしも来たわけではあるまい。たとえ来たとしても、またたとえば芙蓉の花を石の上に植えるように、どうして行われることがあろうか。ああ、私の沃野の富は、これを耕せば百穀が増殖する。そうであれば大地の尊いこと、どうしてこれに加えるものが有ろうか。これを廃して荒蕪と称し、特に儒教や仏教を尊いとなすのは、本末を知らないというべきじゃ。【210】《訳》老子は言った。「道の道とすべきは、常の道にあらず。名の名とすべきは、常の名にあらず。」と。これは、天地自然、万古不易ということじゃ。舜と禹は人道を務めて、溝渠(こうきょ)をうがってこれを原野にそそぎ、開墾して田となし、五穀を栽培した。老子はこれを見て言った。溝の溝とすべきは、常の溝にあらず。田の田とすべきは、常の田にあらず。洪水がたちまち起これば、堤防を破壊して下へと水は走る。これが常の溝である。耕したり草を取ったりすることを少しでも怠れば、すぐに原野に帰する。これが常の田であると。そもそも人道は自然のものではない。だから溝は埋まり田が荒れることを常とするのが、老子の道である。舜と禹はそうではない。田んぼは荒れたままにしておくのを憂えて、溝渠はその埋没することを憂慮して、一生懸命勤労して、これを修め、これを補う、これが舜と禹の道である。老子と舜・禹と、その道に違いが有る理由を知っておかなければならない。
2023.02.02
静岡県森町のMさんから藤枝市図書館図書館から寄贈の礼状届きましたと連絡があった。また浜松市の6つの図書館で「訳注静岡県報徳社事蹟」が郷土図書として蔵書となっている。しかも東図書館のは「貸出中」である。この本が郷里の人に受け入れられて嬉しい⟵(๑¯◡¯๑)1 中央 5110934279 151/4/K2 調査支援室 郷土資料 貸出不可 在庫 ×2 南 5410273097 157.2// 郷土資料 郷土資料 在庫 ○3 東 5710353235 157.2// 郷土資料 郷土資料 貸出中 ×4 南陽 5910250421 157.2// 郷土資料 郷土資料 在庫 ○5 引佐 6710701308 S157/ジ/ 郷土資料 郷土資料 在庫 ○6 三ヶ日 6810907995 S157// 郷土資料 郷土資料 在庫 ○
2023.02.02
コロナ後遺症の謎を解く鍵? スパイクタンパク質が引き金の「毛細血管を詰まらせる微小血栓」1/31(火)新型コロナウイルス感染症から回復した後も、多くの人が悩まされるコロナ後遺症(罹患後症状)。その仕組みを解明する研究が2年以上にわたって行われてきたなかで提唱された仮説の一つに「微小血栓」がある。微小血栓ができて毛細血管がふさがれると、血液や酸素の流れに影響が生じ、様々な症状につながるという説だ。新型コロナ後遺症と微小血栓が関連している可能性を最初に指摘したのは、南アフリカ、ステレンボッシュ大学の生理学者イセレシア・プレトリウス氏のチームだった。その後、氏らが2021年8月に学術誌「Bioscience Reports」に発表した研究で、新型コロナウイルスのスパイクタンパク質が微小血栓の形成を誘発することと、こうした微小血栓は、人体に備わった血栓を溶かす仕組みでは壊れにくいことが示された。 この研究に基づき、新型コロナ後遺症に苦しむ人の微小血栓を調べる試みが米国で行われている。自らも後遺症の患者である研究者たちが行う共同研究「Patient-Led Research Collaborative」の設立に携わったリサ・マコーケル氏も、2021年の研究について知ったときは興奮を覚えた。 マコーケル氏は、新型コロナのパンデミック(世界的大流行)が始まって間もない2020年3月に感染し、軽い症状が出た。しかし、その後数カ月にわたり、激しい息切れ、極度の疲労、ブレインフォグ(頭の中に霧がかかったようにぼんやりした状態)に悩まされた。同年8月には症状が改善し始めたが、フィットネスのクラスに参加した翌日、心拍数が急上昇して呼吸が苦しくなり、救急治療室に駆け込んだ。「かなり基礎体力が落ちました。コロナ以前はハーフマラソンを完走できたので、劇的な低下です」 当時28歳だったマコーケル氏はやがて、自分の症状が一時的ではないことを認識するようになる。2021年末には、「体位性頻脈症候群(POTS)」と診断された。立ち上がるときに呼吸の乱れや動悸、めまいが起きる病気で、複数の新型コロナ後遺症患者での症例が記録されている。POTSには治療法がなく、水分や塩分の摂取量を増やして対処する患者もいる。診断から1年が経過した今も、マコーケル氏の症状は運動後の倦怠感と、それによる症状の悪化に悩まされている。一般的な血液検査などを受けても、正常という結果しか出なかったことだ。そこで2022年11月、米国カリフォルニア州からニューヨーク州に飛び、新型コロナ後遺症からの回復について研究している米マウントサイナイ・ヘルスシステムのデビッド・プトリーノ氏を訪ね、血液サンプルを採取して微小血栓を探してもらった。プトリーノ氏は「まだ初期段階で、数十人しか検査できていません」と言うが、微小血栓はマコーケル氏を含む全員から見つかっている。 マコーケル氏は、顕微鏡画像で微小血栓を表す蛍光グリーンの塊を見たとき、初めて病気の証拠が得られたと感じ、安堵の涙を流したという。「PCR検査を受けられなかったことに始まり、ここ数年はずっと、悪いところはないと言われ続けてきたのです」 ただし、微小血栓仮説は妥当と思われるとしながらも、新型コロナ後遺症の謎を解くピースの1つにすぎないと考える専門家もいる。だが、そういった専門家も、微小血栓が後遺症の症状に与える影響や、血栓を取り除くことで症状を改善できるかどうかについて、今後の研究で明らかになることを期待している。 動脈や静脈をふさぐ血栓とは異なり、毛細血管でできる微小血栓は、フィブリノゲンという水に溶けるタンパク質が、炎症を起こす分子と反応するとできる。人の体は通常、こうした血栓を血管からの出血を止めるために活用しており、それゆえ血栓を溶かす機能もある。 プレトリウス氏らは10年以上にわたって微小血栓について研究し、2型糖尿病、慢性疲労症候群、アルツハイマー病、パーキンソン病などの患者の微小血栓を観察してきた。そして、2021年8月に医学誌「Cardiovascular Diabetology」に発表した予備研究では、急性の新型コロナ患者や、6カ月以上にわたって症状が出ている新型コロナ後遺症患者の血液に、相当量の微小血栓ができていることがわかった。しかも、簡単に分解される糖尿病などの微小血栓とは違い、新型コロナの微小血栓は簡単には壊れない。 こうした壊れにくい微小血栓を詳しく調べたところ、大量の炎症分子と、血栓を壊れにくくする「α2-アンチプラスミン」というタンパク質が含まれていることがわかった。体中の毛細血管が微小血栓でふさがれてしまえば、臓器や組織への酸素や栄養の供給が妨げられ、疲労、筋肉痛、ブレインフォグといった新型コロナ後遺症の症状につながる可能性がある。プトリーノ氏は、「太い血管をふさぐことはないので、命にかかわることはありませんが、臓器の機能には大きな影響を与えます」と説明する。 プレトリウス氏らは、新型コロナウイルスのスパイクタンパク質が原因で微小血栓ができると考えている。新型コロナ後遺症の患者は、スパイクタンパク質が1年後も血液中に残っている場合がある。 冒頭で紹介した2021年の研究で、氏らのチームが健康な血液にスパイクタンパク質を加えてみたところ、微小血栓の形成が誘発された。また、スパイクタンパク質が存在すると、血栓が自然に除去される「線維素(フィブリン)溶解」の働きを受けにくくなることもわかった。「スパイクタンパク質が健全なフィブリノゲンと結合するせいで、(微小血栓が)より大きく丈夫な構造になるのではないかと考えています」とプレトリウス氏は話す。 このような微小血栓が長期にわたって存在すると、誤って健康な組織を攻撃する「自己抗体」というタンパク質が作られ、体を衰弱させる不調を引き起こす可能性がある。プレトリウス氏が特に心配しているのは、このような患者たちだ。 微小血栓を見つけるには、一般的な病理検査室にはあまり備わっていない蛍光顕微鏡を使う必要がある。「医者に診てもらうだけでは、微小血栓があるかどうかはわかりません」。米非営利団体「ポリバイオ研究財団」の微生物学者で、共同研究「コロナ後遺症研究イニチアティブ」の設立にも携わったエイミー・プロアル氏はそう話す。 ただし、この手法について、検査の性能を示す「感度と特異度」は未知数だ。「500人の新型コロナ後遺症患者がいたとして、この検査では100%が陽性になるのでしょうか、それとも20%でしょうか。また、他の病気で似た現象が起きているとすれば、この手法はどれだけ新型コロナに特異的なのでしょうか」と、米ワイルコーネル医科大学の血液学者ジェフリー・ローレンス氏は疑問を投げかける。プトリーノ氏やプレトリウス氏の研究には関与していないローレンス氏は、発表された微小血栓の研究は少数の新型コロナ後遺症患者しか扱っていないので、調査対象を広げて複数の研究室で再現する必要があると指摘している。プトリーノ氏は、米エール大学の免疫学者である岩崎明子氏と協力して、数百人の新型コロナ後遺症患者を調査する計画を立てている。また、プレトリウス氏はワクチンに由来するスパイクタンパク質についても同様の研究を行っている。 今のところ、プトリーノ氏らの研究からは、微小血栓の数と認知機能の低下の程度に関連性があることがわかっている。チームは、微小血栓を客観的に測定する方法についても開発を進めているが、プトリーノ氏は「まだ初期の初期といった段階です」と話す。 米ユタ大学の血液学者ヤザン・アブー・イスマイル氏は、これらの微小血栓の研究には参加していないが、新型コロナ後遺症と微小血栓に関連があるとする説はもっともだと考えている。氏は、微小血栓ができた新型コロナ後遺症患者の毛細血管や臓器の中で何が起きているのかを記述した研究を期待するとしたうえで、「微小血栓によって毛細血管がふさがるという仮説は立てられますが、実際に詰まっているのかどうかはわかりません」と述べている。 研究が続く一方で、新型コロナ後遺症の症状に悩む患者は治療法を求めている。 プレトリウス氏のチームが査読前論文を投稿するサーバ「Research Square」に2021年12月に公開した研究論文では、24人の新型コロナ後遺症患者に、血液をサラサラにする抗凝固薬の「アピキサバン」と、血小板の働きを抑える2種類の薬を1カ月間併用したところ、微小血栓自体の減少や、微小血栓があると起こる血小板の活性化の軽減がみられたという。 この研究は、被験者や治療後の結果の測定を増やすよう見直しが進められているが、プトリーノ氏は「抗凝固薬や抗血小板薬の効果を示す臨床試験が必要です」と述べている。また、毛細血管にできた血栓の治療には、大きな血栓の治療に使うものとは異なる抗凝固薬を使うべきかどうかも検討したいと考えている。 一方、マコーケル氏は、「セラペプターゼ」や「ナットウキナーゼ」*など、市販の酵素サプリメントを自ら試している。これらには血栓を解消する効果があるとされているが、米食品医薬品局(FDA)は承認していない。 こういったサプリメントや医薬品の適応外使用に頼る患者がいる中、マコーケル氏を含め、多くの新型コロナ後遺症患者は、これらの効果を検証する臨床試験が行われていないことに憤りを覚えている。マコーケル氏自身は副作用を経験していないが、同じサプリメントを飲んで吐き気や嘔吐があった人もいると聞いたという。プレトリウス氏のチームは、サプリメントの効果についても研究したいとしているが、当面は患者の自己責任で試すしかない。*新型コロナウイルス感染症と血栓症に関して(2021.8.30)新型コロナウイルスと血栓症およびナットウキナーゼとの関係性に関して、客観的な情報のみを掲載させていただくこととしました。新型コロナウイルス感染症では、発熱や咳等の呼吸器症状が最も頻繁に現れますが、血管に炎症を起こし血栓症を発症することもあります。特に重症者では血栓症(深部静脈血栓症、肺血栓塞栓症、脳梗塞、心筋梗塞等の動静脈血栓症)を発症する頻度が高く、全身症状を悪化させる原因となっています。これまで得られているナットウキナーゼ関連の知見を以下の通り紹介させて頂きます。1.新型コロナウイルスの感染阻害効果 東京農工大学の研究で、納豆抽出液中のタンパク質分解酵素がウイルスの受容体結合領域(スパイク)を分解し、その結果として新型コロナウイルスの培養細胞への感染を阻害することが確認されています。Oba. M. et al., 2021. Biochemical and Biophysical Research Communications Vol 570, 21-252.免疫機能改善効果 ナットウキナーゼ4,000FUを単回摂取することで、人体の持つ免疫機能の指標でもあるNK細胞(ナチュラルキラー細胞)の活性を高めることが確認されています。Kurosawa. Y. et al., 2019. Japanese Pharmacology & Therapeutics 47(9), 1463-14693血栓予防効果.ナットウキナーゼ2,000FUを単回摂取することで、線溶系を亢進、凝固系を抑制することが確認されています。Kurosawa. Y. et al., 2015. Scientific Report 5: 11601.4.血栓予防効果 イタリアの専門家達が、COVID-19に起因する合併症の予防に役立ちうる健康食品・栄養補助食品についてまとめており、ナットウキナーゼがその一つとして紹介されています。また、その際、3.の論文が引用されております。'' Nutraceutical approach to preventing coronavirus disease 2019 and related complications'' frotiers in Immunology. Retrieved from https://www.frontiersin.org/articles/10.3389/fimmu.2021.582556/full
2023.02.01
二宮先生語録巻の二【181】~【185】💛「二宮先生語録」巻の二の最後181「先生が門弟に言われた。「私がつねづね説くところの道理は、多くは古人がいまだ発したことがないところである。おまえたちは日光神領の祭田など僅かな開墾に従事するよりは、むしろ私の説を記録して、後世に伝えなさい。」 これこそが斎藤高行が「二宮先生語録」が漢文で著し、福住正兄が平易な言葉で「二宮翁夜話」を著して世に広めたところにほかならない。 実に二宮先生自身から「私の説くところを記録して世に伝え、永世に遺しなさい」と命令されたのである。これは実に私たち日本人に言われた言葉でもある。「私がいつも説いている道理の多くは、昔の偉人がいまだかつて発したことがないところである。おまえたち(後世の日本人よ)は私の説を記録して、世界に伝えなさい。」 このブログの「二宮先生語録」も実にこの言葉を受けて、延々とつたない読み下し文と現代語訳をあえて掲載する次第である。【一八一】門弟子に謂て曰く。我が日夕説く所の理、多くは是れ古人未だ発せざる所なり。小子日光廟祭田、僅僅たる開蕪に従事せんよりや、寧ろ我が説を記し以て之を後世に伝へよ。《訳》尊徳先生が門弟に言われた。「私がつねづね説くところの道理は、多くは古人がいまだ発したことがないところである。おまえたちは日光神領の祭田など僅かな開墾に従事するよりは、むしろ私の説を記録して、後世に伝えなさい。」二宮先生語録巻3【一八二】書に曰く、人心惟れ危く、道心惟れ微。惟れ精、惟れ一。允に其の中を執る。四海困窮せば、天禄永く終んと。至れる哉、言也。之を一村一家に譬れば、則ち自家の便利を計る者、人心なり。是の心常に生じて止まず。是れを之危しと謂ふ。己を倹し人に推す者、道心也。是の心偶々生ずるも亦之を厭忌す。是れを之微と謂ふ。故に我が分を精察し、田禄百石を有つ者、専一に之を守り、其の半を以て家事を経理し、其の半を譲り以て之を人に推す。苟くも此の如くんば、則ち一家一村必ず安泰。若し夫れ各々自家の便利を逞くし、日に奢侈怠惰に流れば、則ち挙村月に窮し、段田の産粟四苞を出す者、減じ三苞と為り、三苞又減じ二苞と為り、終に荒蕪に帰し、一村一家の田禄永く絶え、必ず無人の墟と為らん。豈戒懼せざるべけんや。又之を草莱と白田とに譬ふ。人心は草莱の如し。草莱は自然也。故に之を墾き白田と為すと雖も、然も蔓草日に生じて荒れんと欲す。是れ危殆に非ずや。道心は白田の如し。白田は人作也。故に力耕すれば則ち白田と為り、力耕せざれば則ち草莱に帰す。是れ微妙にあらずや。則ち草莱に帰する者天道にして、力耕する者人道也。夫れ人道は半ば天に順ひ半ば天に逆ふ。何となれば則ち草莱の天に逆ふて、以て墾闢し、春生の天に順て、以て播種し、夏長の天に逆ふて、以て耘鋤し、秋殺の天に順ふて、以て刈穫す。忠言耳に逆ふも、亦自然也。厳冬溝渠を修む。乃ち衆を戒め寒を冐し勤動すべしと。則ち逆ひ、衆を労らひ火を焚き休息すべしと。則ち服す。来歳必用の溝渠為りと雖も、然も寒苦を厭ひ勤動を疾む者。自然の情也。故に令すと雖も而も行はれず。是れ天道人道異なるを以ての故なり。是に於て或は自然の情に順ひ、之を労ふに酒食を以てし、或は自然の情に逆ひ、之を勉しむるに勤動を以てせば、則ち令せずして行はるべし。《訳》書経に「人心惟(こ)れ危うく、道心惟れ微(かす)かなり。惟れ精、惟れ一。允(まこと)にその中を執る。四海困窮せば、天禄永く終らん」という。至言である。これを一村一家に譬えよう。自分の家の便利を計るのは人の心だ。この心は常に生じて止まない。これを「危うい」という。自分から倹約し、人に推譲するのは道心だ。この心はたまに生ずるがまた嫌になる。これを「微か」という。だから自分の分度を精察し、田の収穫が百石ある者は心を専一にこれを守って、その半ばで自分の家を経営し、その半ばを譲って人に推し譲る。このようであれば、一家一村必ず安泰じゃ。もし各々自分の家の便利だけをたくましくし、日に贅沢や怠惰に流れるなら、村ごとに日に窮して、田畑の収穫が四俵あった者が三俵となり、三俵が二俵となり、ついに荒れ果てて、一村一家の田の収穫も永く絶えて、必ず廃墟となろう。どうして戒め恐れないでいられようか。またこれを草原と畑とに譬えよう。人心は草原のようじゃ。草原は自然で、これを開墾し畑とする。しかも草は日に生じて荒れようとする。これは危ないことではないか。道心は畑のようなものだ。畑は人が作ったもので。、耕作に力を尽くせば畑となり、耕作に力を尽くさなければ草原となる。まさに「微妙」ではないか。草原に帰するのは天道であって、耕作に力を尽くすのは人道である。人道は半ばは天理にしたがい、半ばは天理に逆らう。なぜかというと草原の天理に逆らって開墾し、春に生長する天理に従って種を蒔き、夏に草が伸びる天理に逆らって、草を刈り取り、秋に実を結ぶ天理に従って収穫する。忠言は耳に逆らうのが自然じゃ。厳冬に溝が修理するのに、衆を戒めて寒をおかして勤労すべきだといえば逆らう。衆をいたわって焚き火をたいて休息せよといえば服する。来年の必要になる溝であっても寒苦を厭い、勤労を嫌がるのが自然の情じゃ。だから命令しても行われない。これは天道と人道と異なるためだ。ここにおいてあるいは自然の情にしたがって酒や食事でこれをいたわり、あるいは自然の情に逆らって勤労すべしと努力させる。これを命令しなくても行われるというのだ。【一八三】伝に曰く。誠なれば則ち明か。明なれば則ち誠。又曰く。至誠息む無しと。之を索を綯ふに譬ふ。一房を綯て以て銭に易へ、則ち四銭を得、四銭を投ずれば、則ち一房を得。之を誠なれば則ち明か。明なれば則ち誠と謂ふ。索を以て銭に易へ、銭を以て索を易ふ。万世息む無し。之を至誠息む無しと謂ふ。又之を米粟を量るに譬ふ。之を量るに升斗を以てすれば、則ち幾回之を量るも亦必ず差はず。之を至誠と謂ふ。又之を珠玉に譬ふ。上下四方より之を見て、瑕無き者至誠なり。一方より之を見て、瑕無き者、至誠に非るなり。《訳》中庸の伝に「誠なればすなわち明らかなり。明らかなればすなわち誠なり」とある。また「至誠やむことなし。」とある。これを縄を綯(な)うのに譬えよう。一房綯って金にかえれば四文になり、四文を払えば一房を得る。これを「誠なればすなわち明らかなり。明らかなればすなわち誠なり」というのじゃ。縄を金にかえ、金を縄にかえる、いつの世もやむことがない。これを「至誠やむことなし。」という。またこれを米を量るのに譬えよう。これを量るのに枡を使えば、何回量っても必ず違わない。これを「至誠やむことなし。」という。また珠玉に譬えよう。上下四方から見て瑕(きず)のないものが至誠だ。一方だけから見て瑕のないものは至誠ではない。【一八四】孔子曰く。無為にして治る者、其れ舜也か。夫れ何を為すや。己を恭ふし正く南面するのみと。何を無為と謂ふ。専ら天職を治て、他を顧みざるなり。何を己を恭ふし正く南面すと謂ふ。天子は天徳を拝し、以て上帝に事ふ。故に南面す。百官は天子の命令を奉じ、以て天民を治む。故に北面なり。天子天職を治め、百官職役を奉じ、農夫農耕を営み、工商工商を為し、轎夫馬夫其の業を務め、挙皆専ら力を己れの職に尽す。此れを之無為にして治むと謂ふなり。叔世は則ち然らず。人君臣職を兼ね、人臣君位を僭し、士商を兼ね、農士を学び、治工木工を兼ね、米商酒商を学び、菽腐家褐腐家を兼ぬ。是れ皆己を恭ふし正く南面するに非るなり。伝に曰く。君子其の位に素して行ふ。其の外を願はず。患難に素し、患難に行ふ。君子入て自得せざる無しと。是れ己を恭ふし正く南面するの語と相対す。菽腐家は則ち菽腐を製するを楽み、轎夫馬夫各々其の業を楽む。是れ患難に素し患難に行ふなり。然るに菽腐家家業を以て益無しと為し、褐腐家を欲す。是れ心志定まらざるなり。心志定らざれば、則ち心身相離る。故に家業を以て患難と為し、以て之を易んと欲す。是れ惑ひの甚しきなり。菽腐家にして其の業を営む者、則ち天命にして、患難に安んずる者、則ち天理なり。天理を弁へ天命に随ひ、心を安んじ業を務む。是れを之己を恭ふし正く南面すと謂ふなり。孔子曰く、巍巍たり。舜禹の天下を有つや、而して与らずと。与らずと己を恭すると相対す。与らざる者、我が有と為さざるなり。我が有と為さざる者、己を恭するなり。舜禹天下を有て、我が有と為さず。是れ巍巍と称する所以なり。夫れ一人勤て、一人食す。是れ禽獣の道なり。一人稼穡を務て、以て八口を養ふ者、人の道なり。一人勤て八口を養ひ、有余を推し以て之を人に及ぼす。舜禹之与らざる。其れ斯に在り。与つて我が有と為す。故に足らず。与らずして我が有と為さず。故に余り有り。余り有る之を富と謂ひ、足らざる之を貧と謂ふ。《訳》孔子は言った。無為にして治まる者は舜か。何を為したか。己を恭しくして正しく南面するのみと。無為とは何か、専ら天から授かった職務を治め他を顧みることがないことをいう。己を恭しくして正しく南面するとは何か、天子は天の徳を拝して天に仕える。これを南面するという。もろもろの役人は天子の命令を奉じ、天の民を治める。だから北面するという。天子は天職を治め、もろもろの役人は職務を奉じる。農家は耕作に励み、工人や商人は工務や商務を務め、車引きや馬引きはその業務を務める。皆それぞれに専ら自分の職務に力を尽くす。これを無為にして治まるという。時代が下って衰えた時代はそうではない。人君は臣の職を兼ね、人臣は君の位をおかし、武士は商人を兼ね、農家は武士をまね、鍛冶屋は大工を兼ね、米穀商人は酒造家をまね、豆腐屋はコンニャク屋を兼ねる。これはみな己を恭しくし正しく南面するのではない。中庸に言う。君子はその位に素して行う。その外(ほか)を願わず。艱難に素しては艱難を行う。君子は入るとして自得せざる無しと。これが己を恭しくして正しく南面するという言葉に相対する。豆腐屋は豆腐を作ることを楽しみ、車引きや馬引きはそれぞれの業を楽しむ。これが艱難に素しては艱難を行うということじゃ。そうであるのに豆腐屋が自分の家業を利益がないと思い、コンニャク屋をやろうと思う。これは心志が定まらないからだ。心志が定まらなければ心身が離れる。だから家業を艱難と思い、これを変えようと欲する。これは惑いの甚だしいものだ。豆腐屋がその家業を営むのは天命であって艱難に安んずるのが天理である。天理をわきまえれば天命に随い、心を安んじて家業を務める。これを己を恭しく正しく南面するという。孔子は言った。「巍巍(ぎぎ)たり、舜と禹が天下をたもつことは。そして天下を与(あずか)らないことは」と。与らないとは己を恭しくするという言葉と相対する。与らないとは、自分のものとしないということだ。自分のものにしないということは己を恭しくするということじゃ。舜と禹は天下をたもって、しかも自分のものとしなかった。これが巍巍と賞賛するのだ。一人勤めて一人食する、これは鳥やけものの道だ。一人農業に勤めて八人を養うのが人の道だ。一人勤めて八人を養い、有余を譲って人に及ぼす。舜と禹が与らずというのはここに存するのだ。与って自分のものとする、だから不足が生ずる。与らないで自分のものとしない、だから有り余るのじゃ。余りあることを富という。足らないのを貧という。【一八五】孔子曰く。工其の事を善せんと欲する。必ず先づ其の器を利す。是の邦に居るなり。其の大夫の賢者に事へ、其の士の仁者を友とすと。之を剃工と蕘子とに譬ふ。剃工蕘子其の業に就く。必ず先づ剃刀を磨き、刈刀を磨ぐ。是れ必然の理なり。且つ夫れ剃工の剃刀を磨ぐや、必ず先づ越砥を用ゆ。此れを之其の大夫の賢者に事へ、其の士の仁者を友とすと謂ふなり。《訳》孔子は言った。工(たくみ)その事を善くせんと欲する、必ず先ずその器を利にす。この邦に居るや、その大夫の賢なる者につかえ、その士の仁なる者を友とす(論語、衛霊公篇)と。これを床屋や柴刈りに譬えよう。床屋や柴刈りがその仕事につく時、必ずまずカミソリを研ぎ、ナタを研ぐ。これは必然の理だ。さらに床屋がカミソリを研ぐ時、必ずまず砥石を用いる。これを家老が賢者につかえ、立派な人物が仁者を友とするという。
2023.01.30
💛デーツ(乾燥なつめ)を買うつもりで、間違えて乾燥いちじくを買ってしまった。栄養素と効能が気になる。食べ過ぎない程度に摂取する分には効能が大きそう(^^)乾燥イチジクの効能乾燥イチジクは体内の活性酵素を取り除いてくれる、ポリフェノールを多く含みます。ポリフェノールはアンチエイジングという効能もあります。またビタミンB1やB2も多く含まれており、疲労回復に働いてくてれます。いちじくにもペクチンが多く含まれています。整腸作用があるので、腸の活動を整え、下痢や便秘の予防効果もあります。水溶性食物繊維なので、主に便秘の解消に良いですよ。また、ペクチンには血中の悪玉コレステロールを下げる働きがあるので、心筋梗塞苦や動脈硬化の予防にも利用されています。いちじくの実をもぎった時に、牛乳のような白い汁がでてきます。この汁のことをフィシンといいます。いちじくにはフィシンというたんぱく質の分解酵素は入っていて、胃腸の働きをサポートしてくれます。胃腸の消化を助けてくれます。乾燥いちじくは、100g中、約11gも食物繊維が含まれています。All You Need to Know About Figsイチジクとその葉には栄養が詰まっており、様々な健康効果が期待できます。健康的な消化を促進し、心臓病のリスクを減らし、血糖値を管理するのに役立つと考えられています。ドライいちじくは、果実を乾燥させることで糖分が濃縮されるため、糖度が高く、カロリーが高い。また、イチジクには少量ながら様々な栄養素が含まれていますが、特に銅とビタミンB6が豊富に含まれています。銅は、代謝やエネルギー生産、血球、結合組織、神経伝達物質の形成など、いくつかの身体的プロセスに関与する重要なミネラルです。ビタミンB6は、体内で食事性タンパク質を分解し、新たなタンパク質を作り出すのに必要な重要なビタミンです。また、脳の健康にも重要な役割を果たします。イチジクは、消化器系と心臓の健康を促進し、血糖値の管理を助ける可能性があるなど、多くの効果が期待されています。イチジクには食物繊維が含まれており、便を柔らかくしてかさを増やし、便秘を改善し、プレバイオティクス、つまり腸内に生息する健康なバクテリアの餌として機能することにより、消化器系の健康を促進することが期待できます。動物実験では、イチジク果実のエキスやペーストは、消化管内の食物の移動を速め、便秘を解消し、潰瘍性大腸炎などの消化器系疾患の症状を改善する効果がありました.便秘を伴う過敏性腸症候群(IBS-C)の150人を対象にした研究では、1日2回、約4個(45グラム)のドライイチジクを摂取した人は、対照群と比較して、痛み、膨満感、便秘などの症状が大幅に軽減したことが分かりました。さらに、80人を対象とした同様の研究では、毎日約10オンス(300グラム)のイチジク果実ペーストを8週間補給したところ、対照群と比較して便秘が有意に減少したことがわかりました。イチジクは、血圧と血中脂肪のレベルを改善し、血管の健康を改善し、心臓病のリスクを減少させる可能性があります。ある研究では、イチジクエキスが、血圧が正常なラットだけでなく、血圧が上昇しているラットでも血圧を低下させることがわかりました.1998年に1型糖尿病患者10人を対象に行われたある日付の研究では、朝食にイチジク葉のお茶を飲むことで、インスリンの必要量が減少した可能性があることがわかりました。イチジクの葉のお茶を飲んだ1カ月間で、インスリンの投与量が約12%減少したのですより新しい研究では、イチジク果実エキスを大量に含む飲料は、イチジク果実エキスを含まない飲料よりもグリセミック指数(GI)が低く、これらの飲料は血糖値に対してより好ましい影響を与えることがわかりましたしかし、イチジクの果実、特にドライイチジクは糖分が多く、短期的には血糖値を上昇させる可能性があります。血糖値の管理が難しい場合は、ドライイチジクの摂取を制限した方が良いでしょう。
2023.01.29
家族ふれあい新聞第695号より思考が人生を創る(五)(神渡良平講演録より) 私は、毎朝散歩に出るのが趣味です。 朝4時半に起きて散歩に出て、1時間半ぐらい田んぼの中を歩いて家に帰って来ます。冬場は全く星空です。 今は4時半というとやっと明るくなってきたかなという感じですね。いつも散歩している時、不思議な夫婦に出会うんです。ご主人が80歳、奥様が72歳。こんな星がまたたいている時間によく散歩しているなと思っていました。なんだろう、このご夫婦は。それでこの夫婦はいつも水筒を持って歩いている。ある時一緒になってその水筒のお茶を頂いて、話をしたんです。そうしたらその72歳の奥様は4年ぐらい前はヨチヨチ歩きだったんです、おそらく病み上がりなんだろうなと思うような歩き方でした。 その奥様は、実は脳梗塞で倒れて病院に入って、10ヶ月間意識不明だったんだそうです。それでご主人がその意識不明の奥様の意識を呼び覚ます為に、手足をさするんです。寝たままですと、当然筋肉が衰えていきますし、関節が固まってしまうし、背中には褥瘡(じょくそう・床ずれ)ができますから、褥瘡ができないように2時間おきに体位を変え、そして寝ている奥さんの手足を動かし足を曲げたりしてリハビリをやって、体を刺激する事によって魂を呼び覚まそうとして努力なさるんです。2ヶ月経っても3ヶ月経っても、4ヶ月経っても一向に反応しない、昏々と眠り続けているわけです。それでもご主人は一所懸命に続けるのです。10ヶ月間、彼は奥様の手足を伸ばしたり曲げたりやり続けるんです。 10ヶ月めに「う~ん」と奥さんが唸るんですよ「やった~っ!」って、それで彼女が意識を回復するんです、それが丁度10ヶ月ぐらい。それから更に8ヶ月間病院にいたんですが、全部で1年6ヶ月の病院生活でした。 最後の頃、奥様はベッドから降りる事はできたけれど、歩けない。廊下の手すりを伝い歩きする状態だった、2mしか歩けなかった。その奥さんが退院してから、ご主人が励まして「とにかく、歩こう」といって歩き始めた。今日は3m歩けた、今日は5mも歩けたといって喜んでいた。段々時間が長くなって、今日は30分頑張れた、今日は45分歩けたというふうに励ましていかれた。私はね、ご主人の話を聞いて凄いなと思ったのは―。 単にリハビリだったら人間は辛いです。こんなに努力したのに成果があがらないと思ってしまう。そこで、奥さんを動機付けした。娘さんが結婚してロス・アンジェルスにいる、そのご主人が、ロス・アンジェルスの郊外にイスズの工場に勤めている。「おいお前、ロス・アンジェルスに孫の顔を見に行かないか」と言うんです。奥さんとしてみれば、これは元気になって、歩けるようになってアメリカまで行きたいと思うじゃないですか。そういう動機付けをなさる。それで、1年経ち2年経ちというふうになっていく。 今では毎朝2時間半歩いている。何で早朝歩くんですかと言ったら、最初は日が昇ってから歩いていた。でも、段々夜明け前の輝きに魅せられるようになった。人間、宇宙の霊気を授かるのは夜明け前だという事に気が付いて、それで朝の早朝の散歩をするようになったとおっしゃっていました。今は、そのロス・アンジェルスにも旅行に行ったし、北海道にも温泉旅行に行ってらっしゃる。昔4年ほど前はヨチヨチ歩きだったものが、今はスタスタ歩けるようになった。奥さんがおっしゃってました。「歩くという事は、脳を活性化させます。当時、私はすっかり感情を失っていました。顔は能面みたいになり、喜怒哀楽の感情が全然無かったんです。でも、毎日歩いているうちにもう一度自分の中に、この表情が甦ってきてこんなふうになりました」とおっしゃっていました。
2023.01.29
三國隆志先生はアメリカ文学の中で特にユダヤ文学を研究され、ハシディズムにも造詣が深かった。イギリスにも留学されていた。先生の学問のあとを継ぐ人はいるのであろうか?わずかなりとも先生の業績を資料集にまとめたいとも思ったが遺族の方と連絡も絶えて了解いただくこともなく、残念なことに先生の高徳を慕う方も少なくなるばかりである。あるとき「私の名前はあなたの著述の中で残るかもしれないね」と冗談ぽく言われたことがある。そしてたまにこうしてブログにも三國先生のお名前を記す。バアル・シェム・トブ と ハシディズムの瞑想方法(『ユダヤ教の霊性』)ポーランド南部のポドリア地方の小都市メジブズで、ラビ・イスラエル・ベン・エリエゼル、通称「バアル・シェム・トブ」(1700頃ー1760年)がユダヤ教の復興運動、ハシディズム(敬虔主義)運動を始めた。バアル・シェムとは、護符師(病気などの場合にお守り札を書く)のことで、彼が書くお守り札は効能があるというので「バアル・シェム・トブ(良い護符師)」と呼ばれたのです。彼はポーランドとトルコの国境に近いポドリア地方の小村オコピに生れました。幼くして親を失い苦労して生育しましたが、その前半生の詳しい事は不明です。彼は愛をもって人々を励まし、感動をもって礼拝に臨むこと、神の身近さに感じながら日々の生活を祝い、敬虔(ハシッド)に生きることを教えた。そこで彼の運動はハシディズム(敬虔主義)と呼ばれた。ハシディズムの信仰の基礎は「全地は神の栄光に満つ」です。「神は世界中どこにでも存在する。それゆえに『神不在の場所はどこもない』」と彼らは考えた。バアル・シェム・トブは言う。「もしどこに行くとしても神が一緒にいるのであれば、人は常に喜ぶべきである。彼は、自分を守るために、シェヒナー(神の臨在)が自分とともにあると思うべきである。全面的な信仰をもってそう信じるべきである。もし彼が創造主を見上げれば、神はほむべきかな、神は彼を見守る。 創造主は自身が欲することは何事もなすことができる。もし神が欲するならば、全世界を一瞬のうちに滅ぼし、次の一瞬でそれを創造することもできる。 世界の中に存在するすべての善も刑罰も神に根ざしている。なぜならば、万物の中に神の聖なる流出と生命力があるからだ。だから、われわれは神以外の何者にも頼ってはならないし、恐れてはならない。」バアル・シェム・トブの最初の賛同者は、彼の義兄、ラビ・アブラハム・ゲルションでした。ベルションは、ポーランド南西部の商業都市ブロディのユダヤ教法廷の主席判事で、クロイスというユダヤ教神秘思想求道会の会員でした。後にクトブに移住し、クトブのラビ・アブラハム・ゲルションと呼ばれた。またコソブのラビ・ナフマンがバアル・シェム・トブの運動に加わったことも、ハシディズムの宣揚の助けとなった。彼もクロノスの会員でした。ラビ・ヤコブ・ヨセフは最初にバアル・シェム・トブの弟子になった人物です。彼は1780年に『トルドット・ヤコブ・ヨセフ』を出版しました。これがハシディズムの教えを網羅した最初の本です。バアル・シェム・トブが後継者に指名したのは、ラビ・ドブ・ベエルでした。彼は通称「大説教者」(マギッド・ハガドール)と呼ばれた。彼はユダヤ教神秘主義(カバラー)の研究家で、苦行のしすぎで神経衰弱になり、その治療でバール・トブ・シェブの助けを借りたことがハシディズムの出会いになった。彼はバアル・シェム・トブの死後、ハシディズムを教団化しました。ドブ・ベエルもバアル・シェム・トブも著作を残していません。語録を通して彼らの説教は伝わっています。バアル・シェム・トブはアブラハム・ゲルションへの手紙で、自分の魂が天に昇った幻について説明しています。それは西暦1746年9月(ユダヤ教の新年)の出来事でした。「私がそこ(メシアの天の宮殿)に滞在している間に学んだことは、三つの呪文と三つの聖なる御名である。それは学ぶことも識別することも容易であった。私が平静に戻ったとき、私はそれらを使えば、私の時代の人々も私と同じ霊的段階と水準に達することができるのだと悟った。つまり、人々は、今在るがままの状態で、私と同じように魂を高めることができるし、学び、また理解することができるということである。しかし、私がそれを明らかにすることは許可されなかった。そしてわたしはあなたのためにそれをあなたの教えることを特別に求めたけれども、許されなかった。私はここに誓ってそれを証明する。」その頃、バアル・シェム・トムはコソブの神秘家ラビ・ナフマンと出会い、意気投合します。その会話の中でラビ・ナフマンの実践を承認する形で自分だけの秘密の一部を明かした。それは、神の名「YHVH(ヘブライ文字יהוה)」を終始思い浮かべるということでした。ナフマン『イスラエルよ、きみは人々の思いが分かると言われているが、それは本当かね?』バアル『ええ、そうだよ』ナフマン『わたしが今何を考えているか、きみは分かるかね?』バアル『あなたの考えが固定していないので、分からない。思いが一点から他の点にと迷い、移り変わり続けている。もしあなたが一つの事に思いを集中するならばわたしにはそれが分かるだろう』ラビ・ナフマンが思いを固定するとバアル・シェム・トブは言った。『神の名יהוה(YHVH)があなたの思念の中にある。』ナフマン『きみはどっちみちそれがわかったはずだ。わたしがいつもこれを念じ続けているのだから。聖書に書かれているとおり、『わたしはわが主(יהוה)をわたしの前に常に置く』のだ。わたしがすべての思いを取り去って一つに集中する時はいつも、神の名יהוהがわたしの目の前にある。』バアル『だが他にもいくつか聖なる御名がある。あなたはどれでも好きな名に思念を凝らすことができたでしょう。』ナフマンがバアルが言うとおりだと認め、二人はトーラーの奥義について議論を交わした。ヘブライ語聖書では、神の名は「יהוה」の4文字が記される。ヘブライ語は右から左へ子音文字だけで綴る。ユダヤ教ではこの名をみだりに発音することを禁止する。この4文字をユダヤ教徒は「アドナイ(われらの主)」と読む。日本語訳聖書では、この4文字を「エホバ」とか「ヤハウェ」と訳し、最近では「主」と訳する。ハシディズムの人々が特に重視する聖書の一句は、詩篇16編8節の「わたしは יהוה をわたしの前に常に置く」(シャヴィーティ・יהוה・レネグディ・タミッド)です。原文の意図は、わたしは常に神と正面から向き合って生きているということです。しかし、ハシディズムの人々は、文字通り、יהוהの4文字を目の前に置くという意味に解釈したのです。ラビ・ナフマンの瞑想法は、4文字を思考するよりも、文字像を思い浮かべるものでした。ラビ・ヤコブ・ヨセフは「トルドット・ヤコブ・ヨセフ」で報告しています。「わたしは יהוה をわたしの前に常に置く」の一句について、わたしは、わが師ラビ・ナフマンから、これを理解することは難しくないと聞いている。神の名の文字が心に見えなければ、いつでも、心の中で御名を正確に映像化しなければならない。そうすれば祝福さるべき御方、神は常に神の思いの中におられるようになるであろう。」バアル・シェム・トムは彼自身の瞑想法を漏らしませんでしたが、ナフマンの方法を承認し、激励しました。「あなたは、神の御名を一体化すべく強く念を凝らせ。(略)そしてあなたは自分を聖名の文字に合体されるようにせよ写真の点線が「わたしは יהוה をわたしの前に常に置く」にあたる。
2023.01.29
新型コロナ5類移行 マスクは屋内外とも「個人の判断に委ねる」政府は26日、新型コロナウイルスの感染症法上の位置づけを現在の「新型インフルエンザ等感染症」から季節性インフルエンザと同等の「5類」にする移行日を、5月8日とする方針を固めた。また全額公費で負担している治療や入院にかかる医療費については、治療薬の無料提供を続けるなど一定の公費負担は残し、過度な患者負担が生じないようにする。医療機関への支援や補助は、3月初めごろまでに方針を決める。緩和する方針のマスク着用は屋内・屋外を問わず、個人の判断に委ねる。3月下旬から4月にかけて統一地方選が予定されていることに配慮した。コロナ感染者、31万4000人報告漏れか…65歳以上の高齢者が一部含まれず1/26(木) 厚生労働省は26日、昨年9月以降に発表した新型コロナウイルスの感染者数に、65歳以上の約31万4000人分の漏れがあった可能性があると発表した。20代、つえなしで歩けず 1年続くコロナ後遺症の恐ろしさ・滋賀県で暮らす女性は、保育士として充実した日々を送っていた。しかし、昨年2月中旬に新型コロナにかかった後、休職したままだ。 後遺症の症状が出たのは、10日間のホテル療養が明け、自宅に戻った翌日のことだった。朝、目が覚めると、これまでに経験したことのないような倦怠(けんたい)感と脱力感、手足の震えに襲われた。 女性はかかりつけの医師の元へ駆け込んだものの、「しばらく症状が残ることがあるので、様子を見ましょう」と告げられた。だが、症状は改善するどころか、息苦しさが加わり、悪化の一途をたどった。専門的な相談をできる医師もおらず不安が募った。しばらくすると歩くことも困難になり、外出時に車椅子を使わざるを得なくなった。生理不順もみられ、結婚したばかりなのに思い描いた新婚生活とはほど遠い。「料理や掃除など家のこともできず、今までできていたことができなくなり、とてもつらかった」療養期間が終わっても油断大敵? 遺伝学者がコロナ感染後に“ウイルス量”を解析すると…驚きの結果に1/26(木) 「(唾液を)採り続けて、(自宅の)冷蔵庫に放り込んでいた。要所要所で唾液のサンプルをとっていたので調べてやろうと思い、療養解除後、人がいない時間に研究室へ行って1人でPCR検査をした」「(7日目でも)Ct値が30前後あったので、『7日目でもまだこんなにあるんだ』と思ってびっくりした。結構長くいるものだなと。その後、1~2週間を超えてもまだ(ウイルスが)いた」「ウイルスがきれいに出なくなる人もいれば、結構長く出す人もいる。それがコロナの一番やっかいなところ」 川上教授はこうした調査結果も踏まえ、改めて「検査の重要性と、人に移さない行動を心がけてほしい」と訴える。「療養解除日にPCR検査をして、ウイルスが残っている人はもうちょっと療養する。残っていなかったら、普通に活動するのが理想的。それができない以上は、7日目ぐらいだとまだ(ウイルスが)残っていて、人に移す可能性もある。しっかりマスクをしたり、距離をとったりして、人と接触しない・人に移さないように行動することが大事」
2023.01.27
英雄達の選択で生糸産業に貢献した新井白石と上垣守国を採り上げていた。新井は生糸輸入での金銀流出を防ぐ為輸入制限を行った。新井白石は国外に流出した金銀の量を調査してその結果を宝永6年4月1日に将軍徳川家宣に提出した。それによれば60年間で金239万7600両・銀37万4200貫が国外に流出しており、100年間では日本で産出した金の4分の1、銀は4分の3が流出していたのだった。また、銅についても45年間で11億1449万8700斤に及んでいた。そこで、年間の貿易枠を定めた。清 - 年間30隻、取引額は銀6000貫オランダ - 年間2隻、取引額は銀3000貫のちに明治政府は、産業の近代化を「輸出振興」「輸入防遏(ぼうあつ)」という国家のスローガンを掲げた。鈴木藤三郎も、日本国の金銀が精製糖に輸入により海外に流出することを憂いて報徳の精神から砂糖の国産化を志したのであった。また上垣は『養蚕秘録』出版で技術を共有し世に広めた。・上垣守国は、1753年(宝暦3)に蔵垣で生まれた。 18歳の時に福島県へ行き、蚕種を研究、20歳の時から養蚕を但馬、丹波、丹後地方に広めた。 1802年(享和2)『養蚕秘録』(全3巻)を著した。『養蚕秘録』は、蚕の起源から種類、伝説、飼育法等を絵入りで解説したもので、フランス、イタリアなどでも翻訳された。本には「今年より蚕はじめぬ小百姓」という蕪村の句がのる。貧しい農民の生活向上を願ったのだ^_^
2023.01.26
「訳注静岡県報徳社事蹟」をカーリルで 静岡県内の公共図書館を横断検索すると7館で10冊見つかりました森町1件 訳注 静岡県報徳社事蹟 -報徳の師父第2集ー 森町立図書館 新 刊御殿場市1件 訳注 静岡県報徳社事蹟 本館 参考郷土袋井市1件 訳注 静岡県報徳社事蹟 4冊 袋井図書館 一般東壁1 /157/ヤ/2 114257538 帯出可 貸出可 浅羽図書館 南側書架3 /157.2/ホ/2 211216858 帯出可 貸出可 浅羽図書館 郷土資料 K/157.2/ホ/2 211216841 帯出可 貸出可 月見の里 0総記・1哲学浜松市1件 訳注 静岡県報徳社事蹟 報徳の師父 第2集 中央 5110934279 151/4/K2 調査支援室 郷土資掛川市1件 訳注静岡県報徳社事蹟 報徳の師父第二集 大須賀館 郷土 新掛川市沼津市1件 訳注 静岡県報徳社事蹟 報徳の師父第二集 本館 2階郷土 富士宮市1件 訳注 静岡県報徳社事蹟-報徳の師父第2集- 中央 [R新着]に在庫しています地元の方に手に取って読んでもらいたいものである。
2023.01.25
二宮尊徳の会・鈴木藤三郎顕彰会様新城図書館です。この度は、図書をご寄贈いただき、厚くお礼申し上げます。「遠州報徳の師父と鈴木藤三郎-報徳の師父第1集-」は郷土資料として、「八田與一と鳥居信平-台湾にダムをつくった日本人技師-」は一般書として、受け入れさせていただきます。なお、「訳注 静岡県報徳社事蹟」と「シナリオで読む 砂糖王鈴木藤三郎の報徳」につきましては、返本を希望させていただきたく存じます。ご寄贈いただきました図書は、市民の皆様に広く活用していただけるよう、大切に取り扱わせていただきます。どうぞよろしくお願いいたします。ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー 新城市教育委員会 生涯共育課 新城図書館💛2冊受け入れていただき、新城市の皆様に読んでいただくことができれば有難い。さっそく返本のレターパックを送ろう。静岡県内の公共図書館では、御殿場市立図書館、浜松市立図書館についで、富士宮市立図書館、袋井市立図書館が「遠州報徳の師父と鈴木藤三郎-報徳の師父第1集-」「訳注 静岡県報徳社事蹟」が蔵書となっている。
2023.01.23
二宮先生語録巻の二【121】~【125】貧富の本は利を計る遠近にある。【一二一】貧者は安逸の如く、富者は労苦に似たり。何となれば則ち貧者は余食無く余財無く、鶏犬の掠むる所と為るを憂へず。偷児の奪ふ所と為るを患へず。富者は大廈高廩有り、貨財宝器有り。失火を戒めざるを得ず。窃盗を防がざるを得ず。且つ夫れ飢歳に遇ふや、貧者の憂ふる所は則ち小。富者の憂ふる所は則ち大。譬へば小草風を受るに易く、喬木風を受るに難き如くなり。然るに世人天分の貧を悪て、而して不義の富を好む者、抑々何ぞや。《訳》貧者は気楽で富者は労苦に似る。なぜなら貧者は余分な食糧や財産がなく、鶏や犬にとられる心配がない。どろぼうに盗まれる心配もない。富者は大きい屋敷や倉があり。金や宝物があり、失火を気をつける必要がある。窃盗を防ぐ必要もある。その上飢饉のときは貧者の心配は小さく、富者の心配は大きい。たとえば小さい草は風当りが少なく、高い木は風当りが強いようなものじゃ。ところが世の人は天分の貧を嫌って不義の富を好むのはなぜか。【一二二】貧民食を求る有り。乃ち田家に入り、主人を見て曰く、我れ能く助耕せん。宜しく先づ一飯を給すべきなりと。主人必ず肯んぜず。若し曰く、今日天朗か。田を耕す尤も宜し。我れ不敏と雖も、請ふ助耕せんと。他を顧みず、力を竭し以て助耕せば、則ち主人必ず報ずるに酒飯を以てす。是れ自然の情にして、而して万事皆然るなり。己を舎てゝ人に従ひ、事を先にして獲るを後にす。天下服せざる者莫し。又轎を買ふ者有り。半途にして轎を下り、且つ酒銭を与へば、則ち轎夫感戴せざる者莫し。語に曰く、孝弟の至り、神明に通ず。思はずして得、為す無くして成ると。此れを之謂ふなり。《訳》貧しい民が食を求めるに農家の主人に「よく耕作を手伝いますから先に食事を与えて下さい」と言っても、主人は決して承知しない。もし「今日は天気がよく田を耕すのに最適です、役に立たないでしょうが手伝わせて下さい」と一心不乱に力を尽して手伝えば、主人は必ず酒や食事で報いよう。これが自然の情であり、万事皆このようだ。己を捨てて人に従い、事を先に得るを後にすれば天下に服しない者はいない。かごに乗るに中途でかごを降り、さらに心づけをはずめば、かごかきで有難く思わない者はいない。論語に「孝弟(親を敬い兄を敬する)の至りは神明に通ず」「思わずして得る」「為すなくして成る」というのはこのことを言うのだ。【一二三】腐夫有り。暑月竊に涼処を尋て惰る者、寒月必ず煖処を索て惰る。且つ人の傭と為るや、必ず多忙家を悪む。然れども其の之を悪むや、必ず多忙の家の傭ふ所と為る。是れ理の必然なり。設し酒家の傭と為り、而して其の多忙を苦むや、偶々山寺の閑暇を見、之が傭と為んと欲す。而して其の山寺に於るや、歳末多忙に及び、而る後之を傭ふ。至れば則ち甚だ多忙。又去て他に之く。去れば則ち去る毎に、益々多忙家の傭ふ所と為る。伝に曰く、艱難に素し、艱難に行ひ、君子入るとして自得せざる無しと。苟くも能く其の多忙を忍て自得せば、則ち必ず閑暇の時至る。《訳》性根の腐った男があり、暑い時節は涼しい所を求めて怠け、寒い時節には必ず暖かい所を求めて怠ける。人に雇われると、必ず多忙の家を嫌う。しかしそれを嫌っても、必ず多忙の家の雇うところとなる。これは理の必然だ。もし酒屋に雇われてその多忙を苦しんで、たまたま山寺がひまなのを見てこれに雇われようと欲する。そして山寺は歳末に多忙になって人を雇う。雇われれば多忙じゃ。また去って他に行く。去るごとにますます多忙の家の雇うところとなる。「中庸」の伝にいう。「艱難に素しては艱難を行う。君子は入るとして自得せざる無し」と。かりによくその多忙をしのんで自得するならば、必ずひまな時節が来よう。【一二四】貧農草を刈んと欲して鎌無きを憂へ、乃ち之を隣人に借る。是れ其の貧を免れざる所以なり。若し鎌無きを憂へば、則ち隣人の傭ふ所と為り、其の傭銭を得、以て鎌を買ふに如くは莫し。是れ一日の傭を以て、其の鎌我が有と為る。即ち是れ天祖開国の道なり。凡そ貧を免れ富を致すの術、此の理を拡充するに在るのみ。《訳》貧農が草を刈ろうとして鎌がないのを憂い、これを隣人に借りようとする。これが貧を免れない理由だ。もし鎌がないことを憂えるならば、隣人の(草刈りなどに)雇れて賃金を得て鎌を買うほうがよい。一日雇われてその鎌が自分のものとなる。これが天照大神が国を開かれた道だ。およそ貧を免れ富を致す方法は、この理を拡充するのみだ。【一二五】貧富の本は、利を計る遠近に在るのみ。利を計る遠き者、樹を種へ以て其の生長を楽しむ。況んや穀を種るに於ておや。故に富饒其の身を離れざるなり。利を計る近き者、穀を種る猶ほ遠しとす。況んや樹を種るに於てをや。只目前の利を競ひ、種ずして穫るを欲す。故に貧困其の身を離れざるなり。夫れ種ゑずして穫るを、豈其の理有んや。春種て秋穫る。此を万世不易の業と為す。而して歳歳之を務めば、則ち其の利尽る無し。仏経に所謂福寿海無量と是れなり。《訳》貧富の本は遠きを計ると近くを計るとにあるのみ。利を遠きに計る者は、木を植えてその成長を楽しむ。まして穀物の種を蒔くにおいておや。だから富裕が身を離れない。利を近くに計る者は穀物の種を蒔くことすらなお遠いとする。まして木を植えるのはなおさらだ。ただ目前の利を競って種まきせずに収穫しようと欲する。だから貧困がその身を離れない。種まきせずに収穫するという理があろうか。春に種をまいて秋に収穫する。これは万世変わらない業だ。そして年々これを務めれば、その利は尽きることがない。これを仏の経典に福寿海無量(ふくじゅかいむりょう)と説く。
2023.01.21
<森信三先生の言葉より> ○二宮尊徳の思想には大体4つの根本原理があります。それは 1 至誠 2 勤勉 3 分度 4 推譲 という4つです。そのうち第一の至誠というのは、人間の私心のない真心ということで、これは確かに尊徳の根本信念といってよいでしょう。次の勤勉ですが、これも説明せずとも、あの歩きながら薪をしょって本を読んでいる姿がよく象徴しているはずです。そこで尊徳の思想で最も特色のある点といえば、結局第3と第4ということになりましょうか。その第3の分度というのは今風の言葉でいえば「生活の基準」とか「標準」ということで、手っ取り早くいえば、一ヶ月をいったい、どれくらいでくらすかという問題です。その点を尊徳は極度に厳しく力説しているわけで、そのために一村の米の取れ高を、時には180年もさかのぼって調査したこともあるほどです。つまりこの村では年にどれだけとれるのが標準である。したがってそれから勘定して、年にどの程度の暮らしにしないと、結局赤字になってしまうぞーというわけです。ここで一つぜひ申しておかねばならぬと思うのは、尊徳という人の貧富感で、これが普通の考えと違っているのです。というのは、普通の人ですと、とかく収入の大小だけで貧富を決めてしまおうとする。つまり月収2万円(1958年今から50年前に書かれた本である)の人は貧、3万円の人はやや富み、5万10万と月収のあるのは富というふうに考えたがるわけです。皆さんもおそらくそうでしょう。ところが尊徳先生は一寸違うのです。というのは尊徳先生は収入と支出をつき比べてみて、そこに残りがあれば富であり、もし赤字となるなら、いかに収入が多かろうとも、それは結局貧だというわけです。ですから月収は5万円あっても、月々6万円も費う者は貧乏であり、それに反してたとえ月収は2万円でも、月々の暮らしを1万8千円でやってゆくなら、その人間は、富の部に入るー少なくとも貧ではないというわけです。ですからこれは。結果的現実で押さえる実に手堅い貧富観といってよいわけです。この尊徳の貧富観は、経済的真理の不動の鉄則の一面を語るもので、それは小にしては個人経済から、大にしては国家の歳入歳出についても当てはまると思うのです。尊徳先生の第4の原理たる推譲の原理ですが、この推譲の原理は、詳しくいうと、さらに自譲と他譲という二つに分かれるのです。そのうち自譲とは、一身一家のために譲るということであって、簡単に申せば、蓄積であり貯蓄ということなんです。尊徳という人は、実に面白い人でして、貧乏人というものは昨日のために今日働き、去年のために今年働くが、富める者は明日のために今日働き、来年のために今年働くーといっております。では昨年のために今年働くとは、いったい、どういうことかというに、去年の端境期に米が足りなくなって、つい地主に借りたものは、今年の秋の収穫からこれを返さねばならぬ。しかも利息までつけてーというわけです。ここが貧乏人は去年のために今年働くと、尊徳先生が言うゆえんです。そこで他譲の教えですが、それは尊徳先生によれば、人間は自分だけの暮らしを考えているのでは鳥やけだものと同じことで、人間が真に人間らしく生きるには、自分の暮らしの一部をつづめて、それを他人に推し及ぼすのでなければならないといっているのです。そしてこの場合注意してよいことは、尊徳はここで施すといわないで、譲るとか推し及ぼすとかいっている点で、ここに彼の立場の道徳宗教的な点があるわけです。つまり尊徳の考えとしては、財物というものは、もともと天下のものであって、誰一人これを絶対的に所有することのできるものではない、という思想がその根底に横たわっているわけです。ですから他人に施すといわないで、他にゆずるといっているのです。ところで尊徳の推譲の教えですが、尊徳は一応収入の4分の1を天引きせよ、そうしてそれを最初のうちは自譲、自分のために貯え、ついで余剰を他譲せよといっているのです。
2023.01.21
「男はつらいよ」の山田洋次監督 「ホームドラマをバカにしていた」と告白「男はつらいよ」シリーズなどで知られる日本映画の巨匠、山田洋次監督(86)が2日放送のTBS系「サワコの朝」で、松竹の大先輩で世界的な巨匠の小津安二郎監督作品に「なんだそんなもの」と猛反発していたことを打ち明けた。 「男はつらいよ」から近作の「家族はつらいよ」シリーズに至るまで「家族の物語を一貫してお作りになっていた」(司会の作家・阿川佐和子氏)山田監督だが「若い時はホームドラマなんてバカにしてました」と告白。 「僕は松竹の大船撮影所で育ったんだけども、なんたってそのマエストロが小津安二郎でしょ。家族の物語、娘が嫁に行くなんて、そんな話を延々と撮っててね。『なんだそんなもの』と思ってましたからね。あの頃、若い映画人はみんなそう思ってましたよ。非常に保守的な映画だと。やっぱりイタリアンネオリアリスモとかね、そういう映画じゃなきゃダメだ、あるいは黒澤明じゃなきゃダメだと思ってましたからね」と、小津監督に代表される松竹のホームドラマ重視の社風に反発していたという。 そんな山田監督だったが、監督昇進のため会社に提出する脚本を書いている時、先輩の監督から「君ね、どんな脚本を書いてもいいんだけど、根の所に家族関係をちゃんと置いとけよ。そうすると脚本が落ち着くんだよ」とアドバイスされた。 「それが非常に僕の中に残っていますね。イカリが岩をかむように落ち着くんだっていうね。映画の一番基本的なフレームっていうかな、骨格っていうかな、それが親子や家族、夫婦、兄弟ということで、ある基調があるということですね」と、今に至るまでホームドラマを作り続ける契機になったという。大泉洋 ドラマで“平成の寅さん”演じる…妹役は宮崎あおい、山田洋次氏が脚本俳優の大泉洋(45)が、TBS系主演ドラマ「あにいもうと」(6月25日、後8・00)で“平成の寅さん”を演じることが7日、分かった。都内で妹役の宮崎あおい(32)らと会見した。 映画「男はつらいよ」シリーズなどの監督で知られる山田洋次氏(86)が脚本を担当し、ドラマ「渡る世間は鬼ばかり」などを手がけてきた石井ふく子プロデューサー(91)と20作目、30年ぶりのタッグを結成。72年にも山田&石井コンビでドラマ化しており、当時は主人公を渥美清さんが演じていた。 室生犀星の短編小説を原作に東京・下町の兄妹をいとおしく描き、山田氏は「寅さんの原型」と説明。レジェンド2人に選ばれた大泉は「人生で初めて物まねしたのが寅さんで、4歳のころ。両親に『そうだろ、サクラ?』『おいちゃん、それを言ったらおしまいだよ』と言っていた。ここまで頑張ってきたご褒美のような役でした」と初の山田作品を満喫した。 妹役の宮崎は、トラック運転手を演じるため、大型運転免許を取得。4月のクランクイン前に1カ月間、教習所に通ったといい「撮影前から役が私の中で動き始めて、準備段階から楽しい時間でした」と振り返った。*「あにいもうと」は、室生犀星が1934年(昭和9年)に発表した短編小説。『文藝春秋』1934年(昭和9年)7月号にて発表、1935年(昭和10年)1月刊行の『神々のへど』所収。元々仲が良かったが、妹の妊娠を機に激しく対立する兄妹の複雑な愛情を描く。主人公の赤座もんは、室生犀星の養母・赤井ハツがモデルとなっている。室生犀星「朝を愛す」僕は朝を愛す日のひかり満ち亙(わた)る朝を愛す朝は気持が張り詰め感じが鋭く何物かを嗅(か)ぎ出す新しさに餓(う)ゑてゐる朝ほど濁らない自分を見ることがない朝は生まれ立てを遠くに感じさせる朝は素直(すなお)に物が感じられ頭はハッキリと無限に広がってゐる木立を透く冬の透明さに似てゐる昂奮さへも静かさを持って迫って来るのだ朝の間によい仕事をたぐりよせその仕事の精髄を摑(つか)み出す快適さを感じる自分は朝の机の前に坐り暫く静かさを身にかんじるため動かずじつとしてゐるじつとしてゐる間に朝のよい要素が自分を囲(かこ)ひ自然のよい作用が精神発露となる迄(まで)自分は動かず多くの玲瓏(れいろう)たるものに烈しく打たれてゐる
2023.01.21
二宮先生語録巻の二 【101】から【105】【一〇一】漁子の鰛魚(いわし)を網するや、其の始め綱を引く甚だ緩。独り漁長綱を巻く。敢て間断有る莫し。既に其の硾に及ぶや、漁長片板を揮へば、則ち衆漁子一心協力之を引く。甚だ急。其の魚を得るや、甚だ多し。嗟夫れ知愚老少と無く、一心漁長の指揮に従ふ者、何ぞや。之均しく其の魚を分つ故なり。堯舜の天下を治むるに、亦然り。民と其の利を同ふす。故に衆庶心を協せ、労を忘れ業を楽しみ、天下以て盛ん。叔世は則ち然らず。君為る者、唯に収租を懐ひ、民為る者、唯逋租を懐ふ。故に君民和せず。衆心一ならず。租税輸さず。国家以て衰ふ。譬へば漁長独り其の利を擅にし、衆心一ならず。衆力均しからず魚を得る能はざるなり。我が法は則ち其の理を窮め、天禄を弁じ、分度を立て、余財を推し、民と利を同ふし、善を賞し窮を恤れみ、各々其の所を得せしむ。故に土地日に闢け、田野月に修り、租税年に益し、国家以て治安んず。《訳》漁師がいわしを網でとるとき綱を始めに引くのはとても緩やかで、漁長が独り綱を巻いて間断はない。その錘(おもり)に及ぶと、漁長が合図に板をたたき、漁師が一心協力して綱を引く時はとても急で魚もとても多くとれるものじゃ。ああ、知者や愚者、老人年少者もなく一心に漁長の指揮に従うのはなぜか?均等にその魚を分けるからじゃ。堯舜が天下を治めたのもまた同じじゃ。人民とその利を同じくする。だから多くの民は心をあわせ苦労を忘れ生業を楽しみ、天下は盛んになったのじゃ。衰えた世はそうではない。君はただ租税を徴収することを思い、人民はただ租税を免れることを思う。だから君民は和することがない。多くの民心が一つにならず租税を納めず国家は衰える。たとえば漁長独りが利益をほしいままにして、衆の心が一つでなければ、衆の力がひとしくないため魚をとることができない。私の方法はその道理を窮めて天分をはかり、分度を立て、分度外の余財を推譲し、民と利を同じくし、善を賞して困窮者をあわれみ、おのおのその所を得させる。だから土地は日に開け、田畑は月に修まり、租税は年に増し、国家は治まるのじゃ。【一〇二】我が法は上より下に施す道なり。天下に於ては則ち天子将軍。一国に於ては則ち君大夫。一郡に於ては則ち郡長。一村に於ては則ち村正。一家に於ては則ち主人。之を馬夫馬を養ひ、圃人茄を培ふに譬ふ。馬夫痩馬を責め曰く。重きを負はゞ則ち豆食を与ふべしと。励声之を叱するも、亦何の益か之有ん。若し一短衣を典じ、黄豆を買ひ、以て之を食はゞ、則ち其の馬必ず重きを負ふ。其の痩瘁重きを負ふ能はざるの日、之に豆食を与ふ。甚だ無益に似たり。然れども一たび与えて未可なれば則ち再びし、再び与へて未可なれば三たびす。三たび与へば則ち馬力必ず復す。馬力已に復せば、則ち能く重きを負ふ。能く重きを負へば、則ち馬夫傭銭を得。以て父母妻子を養ふに足る。是れ他無し。前に一短衣を典じ以て豆食を与ふるに由るなり。圃人の茄を培ふも、亦然り。圃人茄圃に対し曰く。多く実を結ばゝ則ち糞培すべしと。百万之を責るも、亦何の益か之有ん。若し休息の間だも、能く勤て以て糞培せば、則ち其の実を結ぶや必ず多し。衰国の民に於るも、亦然り。怠惰を甘んじ、飲博を事とし、破屋補はず。風雨庇はず。飢寒免れず。田野月に蕪し、逋租年に積む者、貧民の常なり。此の時に当り、政教有りと雖も、亦之を如何ともする末し。独り国民分度を守り、以て余財を生じ、力農を賞し、窮乏を救ひ、破屋を補ひ、水利を通じ、荒蕪を墾し、以て常産を給し、専ら恵沢を布かば、則ち惰風以て興り、田野以て治り、衣食以て足り、各々逋欠を耻ぢ、先を争ひ租を輸すや必。《訳》私の法は上から下に施す道だ。天下においては天子将軍。一国においては君主家老。一郡においては郡長。一村においては村長。一家においては主人。これを馬引きが馬を養い、農民がなすを育てるのにたとえよう。馬引きがやせ馬をせめて言う。「重荷を負えば豆を与えよう」と。厳しく叱っても何の益があろう。もし一着のはんてんを質入れし、その代金で豆を買って馬に食べさせれば、馬は必ず重荷を負う。やせ衰えて重荷を負えない時に豆を食べさせるのはとても無益のように思える。しかしひとたび食べてもダメなら再び食べさせ、再び食べさせてダメならば三度与える。三度食べさせれば馬の力は必ず回復する。馬の力が回復すればよく重荷を負う。よく負えば馬引きは金銭を得て、父母妻子を養うことができる。これはほかでもない、最初に一着のはんてんを質入れして、豆を食べさせたからだ。農民がなすを育てるのも同じだ。農民がなすにいう。多く結べば肥料を与えようと。百回これをせめてもなんの益があろう。もし休息の間によく肥しをやることに勤めれば、必ず多く実を結ぶ。衰えた国の民におけるも同じだ。怠惰に甘んじ、飲食やばくちを事とし、家が壊れても補修しない。尼風に家をおおわず、飢えこごえることを免れない。田畑は月に荒れ、租税を年に積むものは貧民の常だ。この時に当って政治や教育があっても、またこれをどうすることもできない。ひとり君主が分度を守り、余財を生じて、農業に精出すものを表彰し、困窮者を救い壊れた家を補修し、水利を通じさせ、荒地を開墾し、専ら民を恵むならば、怠惰は改まり、田畑は治まり、人々は脱税を恥じて、必ず先を争って納税するようになろう。【一〇三】禍福吉凶は、一なり。猶ほ米に糠有り。肉に骨有るごとくなり。鮪鱠(マグロの刺身)を見、以て骨無しと為す者、小児の見なり。肉多き者必ず巨骨有り。其の肉食ふべく、其の骨食ふべからず。食ふべきを吉と為し、食ふべからざるを凶と為す。肉食を福と為し、骨鯁(骨がのどにつかえる)を禍と為す。米糠も亦然り。米食ふべく、糠食ふべからず。飯生を養ふを以て福と為すも、亦餲して生を害すれば、則ち禍と為す。蔬菜食ふべきを吉と為し、雑草食ふべからざるを以て凶と為す。天は則ち然らず。蔬菜耘培せざれば、則ち消亡する者、消亡に任せ、雑草耘培せずして、繁茂する者、則ち繁茂に任す。然れば則ち天何ぞ禍福吉凶有ん。禍福吉凶、畢竟人道の私なり。此の理を明弁せざれば、則ち以て我が道を行ふに足らざるなり。《訳》私の法は上から下に施す道じゃ。天下において天子将軍。一国において君主家老。一郡において郡長。一村において村長。一家において主人。これを馬引が馬を養い、農民が茄子を育てるのに譬えよう。馬引がやせ馬を責めて言う。重荷を負えば豆を与えようと。厳しく叱っても何の益があろう。もし一着のはんてんを質入れしその代金で豆を買い馬に食べさせれば、馬は必ず重荷を負う。痩せ衰えて重荷を負えない時に豆を食べさせるのはとても無益のように見える。しかし一たび与えてダメなら再び食べさせ、再び与えてダメならば三たび与える。三たび与えれば馬の力は必ず回復する。馬の力が回復すればよく重荷を負う。よく負えば馬引は銭を得て、父母妻子を養うことができる。これは他でもない。最初に一着のはんてんを質入れして豆を食べさせたからじゃ。農家が茄子を育てるのも同じじゃ。農家が茄子に言う。多く実を結べば肥料を与えようと。百回これを責めても何の益があろう。もし休息の間にでもよく糞培に勤めれば必ず多く実を結ぶ。衰えた国の民におけるも同じじゃ。怠惰に甘んじ、飲食やばくちを事とし、家が壊れても補修しない。雨風に家をおおわず、飢え凍えることを免れない。田畑は月に荒れ、租税を年に積む者は貧民の常じゃ。この時に当って政治や教育があってもこれをどうすることもできない。ひとり君主が分度を守り、余財を生じて、農業に精出す者を表彰し、困窮者を救い、壊れた家を補修し、水利を通じさせ、荒地を開墾し産業を振興し、専ら民を恵むならば、怠惰は改まり田畑は治まり、衣食は足り、人々は脱税を恥じて、必ず先を争って納税するようになろう。【一〇四】禽獣唯貪を知て譲を知らざれば、是を以て一日も安んずるを得ざるなり。鴻荒の世、人類も亦然り。神聖推譲を以て人道を立て、兆民以て安んず。嗚呼、人類の禽獣に異なる所以の者、貪と譲とのみ。若し夫れ貪惏饜く無き者、衣服を得れば則ち酒食を求め、酒食を得れば則ち声色を求む。声色を得れば則ち不老不死を求む。田禄十石を得れば則ち百石を求め、百石を得れば則ち千石を求む。千石を得れば則ち万石を求む。苟くも貪惏底止する所無くして推譲の道を知らざれば、則ち何を以て禽獣と別んや。《訳》禍福・吉凶は一つじゃ。米にぬかがあり、肉に骨があるようなものじゃ。料理したマグロを見て骨がないとするのは子供の考えじゃ。肉が多いものは必ず大きい骨がある。肉は食べられるが骨は食べられない。食べられるのを吉とし、食べられないのを凶とする。肉を食べるのを福とし、骨が喉につかえるのを禍とする。米とぬかも同じじゃ。米は食べられるが、ぬかは食べられない。ご飯は生命を養うから福とし、腐って生命を害すれば禍とする。野菜は食べられるのを吉とし、雑草は食べられないから凶とする。天はそうではない。野菜は草切培養しなければ消失するものは消失するにまかせ、雑草は耕し培養しないで繁茂するものは繁茂するに任せる。そうであれば天にはどうして禍福吉凶があろうか。禍福吉凶は結局人道の私なのじゃ。この理を明らかに理解できなければ、私の道を行うに足りない。【一〇五】太古の世、人道未だ明ならず。鳥獣と共に居り、日夕食を求め、争奪を以て、事と為し、一日も安んずるを得ざるなり。神聖之を憫み、便ち推譲の道を立て、教るに稼穡を以てす。五穀熟して衣食饒かに、人道以て明かに、万姓以て安んず。叔世の民情動もすれば太古に反り、季秋稲疇の実るを見れば、則ち以て之を穫んと欲し、孟夏麦隴の熟するを見れば、則ち以て之を穫んと欲す。嗚呼、自ら種ゑざる者、安んぞ之を穫るを得ん。若し之を穫らば、則ち鳥獣争奪の道なり。故に季秋稲を穫るを得ざれば則ち自ら種ゑざるの過を悟り、以て麦を種るべし。孟夏麦を穫るを得ざれば、則ち以て稲を種ゆべきなり。然らば則ち稲麦以て穫るを得。嗚呼、種て而る後之を穫る。是れ人倫推譲の道なり。衰国の君民、豈夫れ察せざるべけんや。《訳》鳥獣はただ貪ることを知って譲ることを知らないために一日も安んずることができない。太古の世、人類もそうであった。神聖が推譲により人道を立て、万民を安んじた。ああ、人類が鳥獣と異なるのは貪と譲とのみにある。もしあくなく貪る者は衣服を得れば酒食を求め、酒食が得られると声色(音楽と色欲)を求める。声色が得られると不老不死を求める。田を十石所有すれば百石を求め、百石を得れば千石を求める。千石を得れば万石を求める。貪欲が止まる所が無く、推譲の道を知らなければ、何によって鳥獣と分かつことができようか。
2023.01.20
韓国の月探査機、月の永久影に覆われた領域を撮影 - NASA探査機の感度200倍1/20(金)韓国航空宇宙研究院(KARI)などは2023年1月12日、月探査機「タヌリ」が撮影した、月の「シャックルトン」クレーターにある永久影に覆われた領域の画像を公開した。永久影には水(氷)が埋蔵されていると考えられており、どこにどれだけ眠っているかを探ることは、将来の有人月探査や月面基地の建設に役立つ。タヌリは従来の探査機の200倍もの感度をもつカメラを使い、隠された水の探索に挑む。中国が月で新種の鉱物を発見、「嫦娥石」と命名1/18(水)中国の研究者チームが、月探査機「嫦娥5号(Chang'e-5)」が採取した月面サンプルから新種の鉱物を発見しました。 この鉱物は、「嫦娥石(じょうがせき)」と名付けられ、人類が月で発見した6種類目の鉱物になります。この「嫦娥」とは、中国の神話上で月に住んでいるとされる仙女で、月探査機の名前にもなっています。「嫦娥5号」が採取したサンプルは、他国の月探査機によって取得されたものとかなり異なっていたため、その形成メカニズムを調べることで、月マグマの進化をめぐる研究に何らかの手がかりを与えられるとみられています。そのため、研究者から高い関心を集めました。 中国の研究者によると、嫦娥石に関するすべてのデータを集めるために、2回に分けてサンプルを採取しました。10万粒以上の月面の粒子サンプルをふるいにかけ、ついに嫦娥石が発見されました。最終的に取得した嫦娥石は大きさ4×7×10マイクロメートルの粒子で、ゴマ1粒の1/200から1/300程度しかない大きさだったということです。この発見により、中国は月で新種の鉱物を発見した世界3番目の国となりました。月探査「アルテミス計画」昨年12月11日は、1972年にNASAのアポロ17号が月面着陸してからちょうど50年にあたる。「(アポロ計画では)我々は不可能を可能にすることによって、不可能を成し遂げた」と、NASAのビル・ネルソン長官は述べた。「いま我々は再び同じことをしようとしている。ただ、その目的は違う。今回は、さらなる宇宙探索のための、生活や作業、創造を学ぶために月に戻る。この計画は、2030年代後半に人類が火星に行くための、そしてさらにその先へ行くため準備だ」
2023.01.20
💛お昼の弁当に 下ゆでのレンコンにターメリックをまぶしたものをお昼の弁当にいれている。最初は老人性乾癬対策にいろいろためした結果で、現在も続けているものの一つだ。レンコンで免疫力を上げよう!・レンコンにはビタミンCが豊富に含まれています。 ビタミンCは強い抗酸化作用を持つビタミンで、活性酸素のはたらきを抑える効果が期待できます。活性酸素には皮膚や粘膜を劣化させるはたらきがあるため、ビタミンCによって活性酸素のはたらきを抑えることで免疫力を保つ効果が期待できるのです。加えて、ビタミンCは免疫力を上げる以外に、ストレス耐性をつけたり、貧血の予防やコラーゲンの生成を促進するはたらきがあります。・レンコンには食物繊維も豊富に含まれています。食物繊維は第6の栄養素ともいわれており、主な効果は腸内環境を整え、免疫細胞を活性化させることです。免疫に関わる細胞の6割以上が腸に存在しているので、腸内環境を整えることは免疫力を高めるために非常に重要です。食物繊維の腸内環境を整える効果から、食物繊維の摂取は免疫力アップにつながるといわれています。さらに、食物繊維は便秘の解消だけでなく、血糖値上昇の抑制や血液中のコレステロール濃度の低下などさまざまな効果が期待できます。・カリウムはナトリウムを排出する効果があり、塩分の取りすぎなどを調整してくれることにより、高血圧の予防や改善の効果があります。カリウムが不足していると、食欲が落ちてしまったり、脱力感、不整脈などが起きてしまいます。免疫力を上げる救世主ウコン(ターメリック)の効果と活用法殺菌力も併せ持つ、ターメリックウィルスも生きています。抗生物質などを使ってウィルスを殺菌しようとすると、そのときは症状がなくなったように見えても、抗生物質に耐性を持つウィルスが新しく生まれてくるために、更に強い薬の開発が求められています。肝機能をサポートする効果だけではなく、クルクミンには、インフルエンザウィルスなどを無害化する研究結果も発表されています。そして、豊富に含まれる精油成分にも高い抗酸化力があり、ピロリ菌などを殺菌する効果も注目を集めています。今現在クルクミンを使って殺菌をしても、薬剤耐性のウィルスが生まれないことが証明されています。💛コロナの後遺症にもターメリックの殺菌作用が効くといいけれどもなあ??
2023.01.19
💛会津若松市立図書館と南会津町立図書館は「二宮尊徳の会」の出版物を多く所蔵していただいている。 特筆すべきは昨年出版板「技師鳥居信平著述集」が「貸し出し中」になっていることである。 「遠州報徳の師父と鈴木藤三郎」も書庫ではなく、「一般室公開」となっている。 会津地方は報徳運動が盛んな地区でもあったのである。 「訳注 静岡県報徳社事蹟」も寄贈しよう。きっと大切に、そして手にとってもらう人も出てくるかもしれない。会津の地の力で新生の報徳が生まれることを期待して。会津若松市立図書館1 資料で読む技師鳥居信平著述集 台湾の地下ダムの原点は徳島県技師時代にある 貸出中2 報徳記を読む 第5集 3 八田與一と鳥居信平 台湾にダムをつくった日本人技師 4 報徳記を読む 第4集 5 補注 鈴木藤三郎の『米欧旅行日記』 6 報徳記を読む 第3集 7 遠州報徳の師父と鈴木藤三郎 8 ボーイズ・ビー・アンビシャス 第1集 9 二宮金次郎の対話と手紙 第1 中学生からお年寄りまでよくわかる10 ボーイズ・ビー・アンビシャス 第5集 内村鑑三 神と共なる闘い11 ボーイズ・ビー・アンビシャス 第4集 札幌農学校教授・技師広井勇12 報徳記を読む 第1集 13 ボーイズ・ビー・アンビシャス 第3集 新渡戸稲造の留学談・帰雁の蘆 14 ボーイズ・ビー・アンビシャス 第3集 新渡戸稲造の留学談15 報徳記を読む 第2集16 砂糖王 鈴木藤三郎 氷砂糖製造法の発明 17 ボーイズ・ビー・アンビシャス 《クラーク精神》&札幌農学校の三人組18 ボーイズ・ビー・アンビシャス 米欧留学篇 19 報徳産業革命の人 報徳社徒鈴木藤三郎の一生 「二宮尊徳の会」20 二宮尊徳と日本近代産業の先駆者鈴木藤三郎佐々井信太郎略伝「会津の報徳運動と佐々井信太郎先生」262頁~概略 福島 斎藤 輝雄会津の報徳運動の歴史は、明治の初めに大沼郡西川村大登の渡部禎三氏が衰微甚だしい地域の開発をいかにしようかと心を痛め、その具体的方法を模索していた。明治10年代に岡田良一郎氏が、農商会報に報徳の方法をもって、時世を救済し、人民の生活を安定する方法を発表された。これを読んで渡部禎三氏は初めて報徳の一端を知った。そして衰貧救済の方法はこれ以外にないと決心し、先進地の視察と先師の指導を受けるべく、まず相馬中村に二宮尊親氏を訪ね、数日滞在してその教えを受けた。更に箱根湯本に福住正兄氏を訪ね、報徳結社による一村の更生方法を学び、更に遠州掛川に岡田良一郎氏を訪ねて、新時代に即応すべき報徳による村づくりと、郷土更生の方策を学んで、感激と確信を得て帰村した。これにより馬場庄平氏、渡部良碵氏、馬場幸十氏、馬場順蔵氏等同志に語らい、近隣・近郷の村人たちに道を説きまわって、ついに同志30数名をもって、明治13年8月に大登報徳社を結成した。これが会津の報徳運動の初まりである。報徳主義思想は全会津に及び、明治27年8月に会津報徳社連合会を結成した。会津報徳社創立者で初代社長は矢部善兵衛氏は、まだ東京一橋大学在学中、思想的煩悶に陥り、これを解決する手段方法を報徳に求めて、昭和4年、佐々井信太郎氏の「二宮尊徳研究」を見つけた。この時の喜びを「砂漠でオアシスを見つけた感があった。しかも社会問題研究叢書第4編とあり、社会問題で悩んでいた自分にとって嬉しくてたまらなかった」と日記に書いている。矢部は掛川の先生宛に手紙を出したところ、佐々井先生から用紙10枚くらいの懇切な返書をいただいた。昭和5年矢部は大学を卒業し、掛川に佐々井先生を訪ねた。先生は図書館にこもって「二宮尊徳全集」の編纂に全力を傾注しておられている時である。矢部は先生にあって「明鏡止水というか、私のあらゆる質問に対し、私のあらゆる内容が先生の胸中の明鏡に映じ、反射的に報徳の指導精神よりする根本的な指導が行われた。夜話や報徳記において二宮先生が教化された様が、今眼前に展開してくる感があった。私はスッカリ感に打たれ、報徳によってこそ日本は救い得る。皇国精神の権限は即ち報徳生活である。更に来るべき世界文化は報徳文化であるとの確信を得ることができた」と日記に書きとめた。矢部氏は、自家の商店経営を報徳様式に改革することから始めた。この改革にあたって、掛川へ何十回も往復して、家計内容、経営全般について報告し指導を受けた。昭和8年2月には、掛川本社の長期講習を受講し、矢部氏は佐々井先生の指導のもと、国民生活更生運動、経済更生運動へと発展させていった。それは上高額報徳社の結社、会津報徳振興会の創設へと展開された。昭和10年10月13日には会津報徳振興会が創設されたが、昭和12年の北支事変、太平洋戦争へと拡大し、自然と報徳も停滞した。終戦後、矢部善兵衛氏を中心に会津報徳振興会の同志が、ただちに佐々井先生の指導を受け、国民生活更生と食糧対策に東奔西走した。昭和22年3月13日から3月22日まで報徳指導者講習会を開催し、会津報徳振興会を改組し、会津報徳社が誕生した。ところが矢部社長が公職追放となり、後任者渡部英一氏もやがて思想的煩悶に陥り、会津報徳社の活動は昭和35年以降一時停滞する。昭和41年「会津村造り再検討幹部研修会」を昭和41年1月31日~2月4日の5日間、大倉精神文化研究所で開催した。同年2月15日には、会津報徳社の再建総会が各方部代表39名参加し、会津坂下町役場大会議室で挙行された。更に同年8月27日28日佐々井先生を招き、「会津町造り報徳講習会」を会津柳津町公民館で開催した。佐々井先生93歳であった。
2023.01.18
二宮先生語録【八六】東照公遺訓に曰く。日本全秩二千八百十九万石。その二千万石、之を有勲の侯伯に分封し、其の八百十九万石、天子を護り四夷を馭する為に之有すと。至れるかな、言や。公、撥乱反正の大勲労を以て、其の自ら取る所、天下三分の一に及ばず。亦天子を護り四夷を馭する為にして、敢て之を私有せず。凡そ人臣たる者、此の道を踏まば、則ち長く国家を保ち、以て傾覆の患を免るべきなり。《訳》徳川家康公の遺訓にいう、日本の総高二八一九万石、うち二千石を功績のある大名たちに分封し、その八一九万石で四方の敵を制御するために使うため保有すると。何と素晴らしい言葉だ。家康公は乱れた世を治める大功績があり、自ら取る所は、天下の三分の一に及ばない。それも天子を守り、四方の敵を制御するためであり、私有しない。およそ人臣たる者、この道を踏むならば一家を滅する憂いを免れるであろう。【八七】元和偃武後、僧遊行に天下を巡り、十念を衆生に授けしむ。允に逓送、夫馬各々一百を以てす。其の慮深し。荻生茂卿之を論じ、以て不可と為す。是れ其の深慮を察せざる者なり。当時乱離の余、其の治と否と未だ以て知るべからず。東照公蓋し遊行に称名以て十念を授け、而して其の受者の多少を観て、以て群情の向背を察するなり。其の天下を慮る至ると謂ふべし。我が助貸法の如きも、亦以て其の国の治否を知るに足る。無息金を借りて償還せざる。家産を得て、恩を知らざれば、則ち其の国人恒心無きや知るべし。《訳》元和時代の後、遊行上人に天下を巡らせ、十念の札(南無阿弥陀仏を十回唱え念仏札を授ける)を人々に授けさせ、宿場に馬各々百頭を置かせた。その思慮は深い。荻生徂徠(おぎゅう・そらい)は「政談」でこれをよくないと論じたが、その深慮を察しないものだ。当時は乱世が治まったばかりで治まっているかどうか分からなかった。家康公は遊行上人が十念の札を授けさせそれを受ける者の多少で大衆の気持が従うか背くかを察せられたのだ。その天下を思慮することの至れることよ。私の無利息金貸付法もまたその国が治まっているかを知ることができる。貸付金を借りて返さない、財産を得て恩を知らなければその国の道義心はないと知れる。【八八】下野の国為るや、戸口消耗、田野荒蕪、民其の生を聊んせず。是れ土地瘠薄の致す所なり。仮令一旦廃を挙げ衰を興し以て其の民を安んずるも、未だ永遠保存の道を見ざるなり。然らば則ち之を如何して可ならん。曰く、目今の租額を以て永則と為し、而して我が安民法を行はゞ、則ち其の民保存。庶幾くは復た衰廃の患無ん。是れ其の人を待て而る後行ふべきなり。《訳》下野の国(現在の栃木県)は戸数人口が減少し田畑は荒れて民は生計が安らかでなかった。これは土地が薄く、たとえ一度衰廃を復興してその民を安らかにしても、永遠に保つ方法を見つけられなかった。それではどうすればよいか。現在の租税額を永世に固定し私の安民法(分度を立て分度外の収入で繰り返し振興)を行うならば、民を保つことができ、再び衰廃する憂いを免れることができよう。これはその人(仁君賢相)を待って行うべきだ。【八九】野州素より荒蕪多し。県令竹垣氏越州の窮民を招募し以て之を墾闢し、新戸を置く。凡そ三百余越民深く浄土真宗の教へを信ず。而して野州其の仏宇無し。故に其の僧を招き、草庵を営ましめ、之を居き、以て民心を安んず。且つ之を諭し曰く。仏宇創建厳禁たり。我が在県の日、宜しく速かに創建すべし。我去らば、則ち復創建する能はざるなりと。其の民感動歔欷し、心を協せ力を勠はせ、新たに数寺を営す。嗚呼、厳禁を犯して以て窮民を恤れむ。其の意厚しと謂ふべけん。後、山内氏県令と為るに及び草庵猶ほ存す。主僧新たに仏宇を営す。山内氏愕然曰く。是れ厳禁を犯すなり。我が罪免るべからずと。命じて之を止む。屋宇未だ蓋かず。雨露に暴す数旬。主僧憂悶、心疾を発するに至る。嗚呼、一は民の為に官を忘れ、一は官の為に民を忘る。竹垣氏の若き、古循吏に恥ぢずと謂ふべし。《訳》下野は元々荒地が多かった。代官の竹垣直温氏は越州(新潟・石川)から困窮した民を招いて、開墾させて新しい家を置いた。およそ三百戸余りの越州の民は深く浄土真宗の教えを信じたが、下野には寺がなかった。そこでその僧を呼び寄せ、草庵を設けさせ、民心を安んじた。かつ諭して言うに、寺を新しく創建するのは厳禁されている。私が代官でいる間に速やかに創建するがよい。私が去れば創建できなくなろうと。その民は感動してすすり泣き、心をあわせ力をあわせ新たに数寺を設けた。ああ、厳禁をおかして困窮した民を憐れむ。その民を思う心のなんと厚いことか。後に山内氏が代官となり、草庵がまだり、僧は新たに寺を設立しようとした。山内氏は驚いて言った。これは厳禁の事だ、私の罪は免れない。命令して建築を止めさせた。屋根をまだ葺いてなく数十日雨露にさらされた。僧は憂悶し発狂してしまった。ああ、一人は民のために官を忘れ、一人は官のために民を忘れる。竹垣氏は昔の循吏(優れた官僚)に恥じない人物といえよう。【九〇】先君鵜沢氏に謂て曰く。汝不学を憂ふる莫れ。寡人博渉を務むと雖も、而かも其の要、貝原篤信大和俗訓、林道春貞観政要諺解に存す。汝此の二書を誦して可なりと。至言と謂ふべけん。《訳》小田原藩の先君が鵜沢氏に言った。「なんじは、不学を憂えることはない。私は広く通じることに努めたが、その要は貝原益軒の『大和俗訓』と林羅山の『貞観政要諺解』にある。なんじは、この二つの書を読めばよい、と。至言というべきである。富田高慶という人古橋源六郎「富田先生に会った時は、どんな人に会ったよりも、心が清らかになって、非常に勇気を増しました。それ以来あのくらいの人に会ったことはございません」「富田先生が、最後に私にいわれましたのは、『それを主張した者が、己れが功を取る気になるといかぬ。十分に骨を折って、功を人に譲る気ににならなければならぬ』と草鞋をはく時までもいわれました。」「先生が西郷隆盛に『あなたはどうして尊徳翁の事をお問いなさるか』というと『俺は若い折に、藤田東湖の所へしばしば行った時に、お前勤労ということを知っておらねばならぬ。勤労を知るには、二宮金次郎の所へ行って聴けと、たびたび言われたが、ツイよう聴かぬでしまった』というので話したら、大変感心して聴かれました。」*「斯民」 第3編第2号(明治41年5月7日) 「富田高慶翁と西郷南洲翁」 古橋源六郎 (読みやすくするため若干原文を直した) 私の父が民力を発達させるには、殖産にあるといって苦心してやりましたので、私もその志を継いでやりましたが、一体ならば金ができるに随って、民心がよくならなくてはならぬのに、かえって貧乏の時よりも悪くなりました。これでは仕方がない。「衣食足って礼節を知る」という古語があるが「衣食が足るほど、人心が悪くなる。どうしたらよかろうといって、親子して苦しみぬきました。 その結果これは二宮尊徳翁の報徳社を立てたらよかろう。それについては誰かを頼まなければならぬが、誰がよかろうかと彼がよかろうかと、いろいろ相談をしました。岡田良一郎さんは父と私も存じませぬので、湯本の福住正兄は父も私も懇意でありましたから、私が行ってその話をしたところが、それでは俺が行ってやろうということになって、あの人が来て報徳社を開くことになりました。 そうして段々やっているうちに、品川(子爵)さんが「報徳については、相馬に富田高慶という人がいるから、行って逢ったがよかろう。おれは農商務大輔の時に、行ってその人に会ったところが、実に体が縮んでしまって、農商務の大輔とはいえぬようになった。実に偉い人だ。マア行って来い。」といって再三勧められました。その折りに愛知県令の国貞廉平という人からも勧められて、仕方なくどんなものかと思って、行って会ってみましたが、会ってみまして、なるほどと実に敬服しました。富田先生は身体の弱い人で、始終寝ておられました。毎日1回ずつ話してくれましたが、その論理のシッカリとして明白なる、その秩序の立っていることなどは、実に敬服しました。そうして今日一段落を話すと、明日話す所をちょっと問題にしておかれる。それを押して聴こうとすると、すぐ立ってしまわれるので、誠に惜しいことだと思うと、翌日それを話してくれました。どうもその人に思考力を与えられるぐあいといい、話される順序の立っていることは、実に敬服しました。そうしていろいろ話を聴いているうちに、国もとにいろいろ用事ができたために、しきりに迎えが来たので、帰って参りましたが、なるほど品川さんが「之を仰げば愈々高く、之を鑚(き)れば愈々深し」といわれたとおりで、私も富田先生に会った時は、どんな人に会ったよりも、心が清らかになって、非常に勇気を増しました。それ以来あのくらいの人に会ったことはございませぬが、その割合に相馬の人がそう申しては悪いが、富田先生の値打ちを知らぬでしまっていると思います。 富田先生が「困窮した折は、事が能く成功するが、成功すると必ず壊れてしまうものであるから、そこを覚悟しておらなければならぬ」と話されましたが、そのとおりです。私の地方は山間でございますが、非常に苦しんで回復しました。教育を始めすべて順序を立てて、これでよいとなったら、バタバタ壊れてしまって、サッパリ今は形が無くなってしまっている。それを再び回復しかけて、少しずつ芽が出かかりましたが、どこのを聞いて見ましても、人物があって回復ができても、その志を継ぐ人がいないと、維持が困難です。私の地方などは、国貞県令の時分には、皆なが非常に賛成してくれて、回復が大いに楽でございましたが、一時は県庁が先へ立って打ち壊す。警察が打ち壊すということで、いかんとも仕方ありませんでした。それはまた今日では大いに楽になりましたが、私どもの親のやる時分には、非常に苦心して、サッパリ効が無かったのです。しかしながらやる気になってやればいかぬことはないと思います。私も愛知県の県農会へ副会長に出まして、何とか農家の発展を図らにゃいくまいといって、段々話しました。(略)そこで富田高慶先生が、最後に私にいわれましたのは、「それを主張した者が、己れが功を取る気になるといかぬ。十分に骨を折って、功を人に譲る気ににならなければならぬ」と草鞋(ワラジ)をはく時までもいわれましたが、その気でやっても、どうもこの凡夫のあさましさは、己れの骨を折ったことが知らずしらずの間、かえって敵を求めることになります。全く高慶先生の言われたとおりです。それで繰り返して申しますが、どうしても農村の基礎を堅くするには、二宮翁のいわゆる分度を定めて、それから人にやらせた方が一番根が堅くなると思う。とても空理空論では治まりませぬ。 それから私が富田先生に大いに敬服したのは、相馬藩のあれだけの改革に当って、藩から一粒も手当を受けられなかったということです。「どうしてあなたは生活していられましたか?」といったら、「イヤ二宮先生に金を借りて来て、開墾させて、その作得で食っていた。改革をする時分に、君主から金を貰うと、敵を求めるに依りていかぬ」といっておられました。それで段々昇って家老職まで進んだが、禄は辞して受けられなかったのです。それから禄を辞してから何もなくて食うことができぬようになったが、公債証書を貰った。それでようやく食えるようになったのです。「とにかく衰村を挽回して事をなさんとするには、功利の念を去ってかからぬと事ならぬ」ということを、非常にいわれたが、これは至言であると思います。 それから先生は戊辰の際にも、非常に大義名分を論じて、帰順論を主張された。ところがどうしても、奥羽の各藩が皆連合して、承知しないので、ひとり相馬藩が大義名分を唱えても持ちこたえぬというので許されない。「然らば私を奥羽各藩の会議にお遣わしください。私が論破してくる」と言われたが、どうしても許されない。そこでこうなった上は己れの生命が惜しいためにいうのではないによって、藩論に同意するといって、それから薩摩の官軍に当って、その先手を大分斬ったということです。「とてもこれは勝ったところがいかぬ、では中村城を枕にして打死にしても、役立たぬことであるから、帰順すればよい」というて、他藩の者に先立って帰順し、早速先鋒となって仙台を衝いた。その後、高慶先生が西郷南洲翁に初めて会った折に、南洲翁がしきりに尊徳翁の事績を問われた。そこで高慶先生が「あなたはどうして尊徳翁の事をお問いなさるか」というたら「俺は若い折に、藤田東湖の所へしばしば行った時に、お前勤労ということを知っておらねばならぬ。勤労を知るには、二宮金次郎の所へ行って聴けと、たびたび言われたが、ツイよう聴かぬでしまったが、どうか話してくれ」というので、南洲翁に話したら、大変感心して聴かれたそうであります。その後伊地知伯爵も、再三富田先生を訪(おとな)われた。それから南洲翁がこれは知っておらなければならぬといって、当時長野県の大参事をしておった伊集院某を始め、若い人が大勢官を辞して先生の所へ来たので、先生は誠心をもって尽くされたが、その連中は皆西南の戦争で死んでしまった。「それでこれきりで絶えてしまうかと思っておったら、宮内省から侍従が見えて、委細問われたによって、経歴を取り調べて差し出し、その後品川さんが巡視になった折にも。委細申上げて、遂にその事が上聞に達し、この上もない事になったが、いずれ秩序が立つに従って行われるが、今強いていっても行われない。二宮翁の遺書は倉庫に散乱しないように皆しまってあるので、いずれ時が来たら国家に用を為すであろうから、時の来るのを待つ外仕方がない」と。こういう話でございました。 それから私が高慶先生の所から帰って、品川さんにも申上げたら大層喜ばれました。またその後元田侍講にお目にかかった折にも、この事を話しましたら、大変喜ばれましたが、二宮翁について研究をして、これを一藩の政治に応用したのは、相馬の富田先生である。どうも民政については、富田先生に聴いた事は用に立つと思います。富田先生は聖堂で学問をされ、学問はあり才智があるので、幾度も各藩から抱えようといってきたが、「私は相馬の改革の為に来ているのであるから、多くの禄を下さるといっても、ご免を蒙る」といって断られた。 ある時、高慶先生が寒中に袷(あわせ)を着てふるえておったら、相馬の君主から使者をもって時服(君主から、毎年、春・秋(または夏・冬)臣下に賜った服)を賜った。そこで高慶先生が申されるには「二宮金次郎に頼んで、相当に人の艱難を救うことを心がけている。民どもが寒さに苦しんでおることは察せずして、私等に時服を賜るなどということは、余ほど重役の人が愚かなことを見せるのである。私はなぜこうしておるかといえば、自分はまだ袷が着ておるが、領分の人民はこの寒中に単衣(ひとえ)の上に蓑を着て凌いでおる。それにくらべると袷を着ておれな、この上もない幸福である。皆寒中に単衣の上に蓑を着て苦しんでやっておる。それで堪えうるかどうかを、自ら試しておるのである。それをご承知ならないような不明な重役達であっては、いかに富田が力を尽くしてもできませぬ。よろしく申上げてくれ」といって賜った服を返した。こんな話もあります。まだいろいろございますがこれだけにして置きます。(本編は特別講話会における古橋氏の談話を筆記したものなり)
2023.01.15
なぜ「コロナ後遺症」は長引くのか 持続感染で8日目以降もウイルス排出?専門家が指摘〈dot.〉1/15(日) 国立遺伝学研究所の川上浩一教授「よくなったと思ったら、コロナのウイルスが急激に増えたんです。かなりやっかいな印象です」11月15日に37・8度の熱を出し、抗原検査の結果、コロナ陽性だった。発熱後すぐに熱は下がったが、この日から自身でPCR検査を実施し、自らの感染状況を観察した。冒頭の発言は、自分の日々のPCR検査の結果を見てのものだ。 日本のPCR検査では、Ct値が40未満で陽性としている。Ct値は、ウイルスが多いほど、低い値が出る。 療養1日目(15日)のPCR検査では、18・31と低いCt値(ウイルスが多い値)が出た。その後、新型コロナウイルスの増殖・拡散を防ぐとされる飲み薬「ラゲブリオ」を服用すると、2日目には31・54までCt値が上昇。3日目には28・76、4日目には33・3とCt値は30前後で推移した。その後、8日目は36・15、9日目は37・68とCt値が40付近にまで上昇した。しかし、10日目は28・62、11日目は24・2、12日目は28・78と再びCt値が減少した。 ウイルスはこの後、増減を繰り返しながら、減少していったが、最終的にウイルスが検出されなくなったのは、30日目の12月14日だった川上教授「Ct値30以下では周りの人に感染させるリスクがあると見ています。12日目でもウイルスが多く、政府がコロナ陽性者の療養期間を7日間に短縮したのは失敗だったのではないでしょうか。抗原検査キットを無料で配布する自治体もありますが、PCRと比較して精度が低く、Ct値25以上の陽性者を見逃すことがよくあり、『陰性』の結果が出たとしても、注意が必要です」豊橋技術科学大の原田耕治准教授(理論生物学)「持続的な感染が新型コロナウイルスの特徴」普通の風邪ウイルスであれば、例えば上咽頭(じょういんとう、のどの上の部分)に感染した場合、たいていはそこにとどまり、いずれ免疫に駆逐される。しかし、新型コロナウイルスは感染力がとても強く、上咽頭にとどまることなく、肺やその他の臓器、血管など全身に感染を広げていくことができる。その結果、免疫がウイルスを叩くよりも速く別の感染先を見つけ感染が継続しまう。これが持続的にウイルスが感染する原因新型コロナはウイルスがなくなる完治状態は起こりにくく、体内にウイルスが残り続けるのが一般的原田准教授「ウイルスと免疫の攻防で、Ct値が上下している様子が見られます。ラゲブリオによって一時的にウイルス量が抑えられたにもかかわらず、投薬終了によるリバウンド(反動)で発病後10日目でもCt値が20台まで上昇し、かなりの量のウイルスを出していると考えられます。厚労省のアドバイザリーボードでも発病後7~10日でも二次感染を引き起こす十分な量のウイルスが排出されることが指摘されています。療養解除8日目以降も自身の免疫に負担をかけない生活と周りに感染させない対策が必要です」
2023.01.15
木星の衛星が新たに4つ見つかる 最多の衛星を持つ惑星の地位を奪還1/13(金)最も多くの衛星を持つ惑星は土星で土星の衛星の総数は83個。木星は80個。スコット・S・シェパード氏は、2022年12月20日と2023年1月5日に合計4個の木星の衛星発見を報告し、小惑星電子回報に掲載されました。これにより木星の衛星の総数は84個となり、土星を超えて最も多くの衛星を持つ惑星となりました。4つの衛星にはまだ正式な名前が無く、それぞれ報告順に「S/2018 J 2」「S/2011 J 3」「S/2016 J 3」「S/2021 J 1」という仮符号が付けられています。*木星には48個の命名された衛星があります。衛星の名前は、イオ、エウロパ、ガニメデ、カリスト、アマルテア、ヒマリア・・・。 実はこれらは、女性好きで知られる最高神ゼウス(ローマ神話ではユピテル)の一生に出てくる人物の名前です。現在使用している名前は、ガリレオとほぼ同時に衛星を発見した天文学者のシモン・マリウスによって選ばれました。マリウスは衛星をギリシャ神話の登場人物にちなんで名付けました。イオ質量: 0.015地球直径: 3660 km赤道周囲: 11,445.5 km軌道速度: 17.334 km/s表面温度: -183 °Cから-143 °Cまで見かけの等級: 5.02等級名前にちなんで: ゼウスの恋人、ヘラの巫女大神ユピテル(ゼウス)はイオという娘と一緒にいました。それに気づいた妃ユノ(ヘラ)がきたので、ユピテルはイオを白い牛に変身させます。牛になったイオは砂の上に足で「イオ」と書いて、父にわかってもらいました。ユピテルは、メルクリウス(ヘルメス)にイオを助けにいかせます。しかし、イオをみはっているアルゴスには、目が100あります。どんなに眠くなっても、最後の2つの目だけはあいています。メルクリウス(ヘルメス)は『シュリンクスの話』をしました。「むかし、シュリンクスという森のニンフがいました。彼女は、まるでアポロン神の妹、月の女神ディアナ(アルテミス)と同じくらい美しかったのです。ただ、ディアナの弓は黄金でできていましたが、シュリンクスの弓は動物の角でできていました。ある日、パン(ケンタウロス)は森でシュリンクスをみかけ、彼女を好きになります。パンとは、森や野原でヒツジやヤギをかっている半分が人間で、半分が動物の神です。神といっても、いたずら好きで、酒が好きで乱暴なところがあります。シュリンクスは、パンを好きにはなりません。それでも、パンはあきらめず、彼女を追いかけました。パンから逃げてきたシュリンクスは、とうとう川の岸まできて、これより先には進めなくなりました。彼女は大きな声で、なかまの森のニンフに「わたしを変身させて」と叫びました。パンがシュリンクスをつかまえたと思ったそのとき、彼女は葦になっていたのです。パンが「あ〜」とため息をすると、そのときの空気が葦の茎をふるわせ、かすかですがきれいな音色がしました。パンはその音にきづくと、数本の葦の茎の長さをかえた笛をつくりました。だから、この笛を「シュリンクス(葦笛)」と呼ぶようになったのです。メルクリウス(ヘルメス)神が『シュリンクスの話』をしていると、とうとうアルゴスの100の目がすべて閉じました。すかさず、メルクリウスはアルゴスの首をはね、イオを助けることができたのです。大神ユピテル(ゼウス)は妃ユノ(ヘラ)に「もうイオとはぜったいに会わない」と誓ったので、ユノはイオをもとの娘の姿にもどすのをゆるしました。アルゴスの100の目ですが、ユノは自分の愛鳥のクジャクの羽にとりつけたのです。」エウロパ:潜在的に居住可能な衛星質量: 0.008地球直径: 3122 km赤道周囲: 9807 km軌道速度: 13,743.36 m/s表面温度: -223 °Cから-148 °Cまで見かけの等級: 5.29等級**名前にちなんで:フェニキアの貴婦人、ゼウスの恋人テュロスという町に、エウロペという名の美しい王女がいました。ある日、エウロペは侍女たちと一緒に花を摘んでいました。エウロペを見たゼウスはその美しさに一目惚れしてしまいます。ゼウスはエウロペに近づくにはどうしたら良いか考えます。ゼウスは白い牡牛に姿を変えて、エウロペに近づくことにしました。山の牛を女たちの近くへ行かせ、白い牡牛もその中に混ざってエウロペに近づいていきます。白い牡牛はめずらしいので、女性たちにすぐに気に入られました。また、白い牡牛は素直でおとなしい態度だったので、エウロペも気を許して頭や背中を撫でていました。すっかり気を許したエウロペは、白い牡牛にまたがってみることにしました。その時でした。エウロペを乗せた白い牡牛は、ものすごい勢いで走り出します。エウロペはツノをつかんで落ちないように必死で、あっという間に連れ去られてしまいました。白い牡牛とエウロペは海を渡って、遠く離れたクレタ島に到着します。クレタ島に到着するとゼウスは本来の姿を現し、エウロペに愛を打ち明けました。ゼウスとエウロペは愛し合い、のちに三人の子供が生まれました。一方、エウロペの父・アゲノルは娘が連れ去られて大騒ぎします。アゲノルは三人の息子たちに「エウロペを連れて戻るまで帰国するな」と命じます。息子たちは結局エウロペを探し出すことができず、それぞれ他の場所に移り住んだのでした。・おうし座の由来と言われているギリシャ神話は「牡牛に姿を変えたゼウス」という説と「牡牛に変えられたイオ」の姿という説の二つがあります。・ヨーロッパの由来は、ギリシャ神話に登場するフェニキアの王女エウローペー(ラテン語:Europa)にあるという説が最も有力です。現在のヨーロッパを意味する地理的名称として「エウローペー」という言葉を用いた最初の人は、「歴史の父」ヘロドトスといわれています。
2023.01.15
二宮先生語録 巻二【八一】神言に曰く。我に知慧無し。忠孝を以て知慧となす。至れるかな、言や。夫れ、之を用いて善なれば、則ち知慧と為り、之を用いて悪なれば、則ち知慧に非ざるなり。忠孝は善の大なる者。不忠不孝は、悪の大なる者。其の大を推し、其の小を極め、悪を避け、善に従はゞ、則ち其の知慧為るや大。孟子、孝弟仁義を知るを以て知の実と為すも、亦此の意なり。《訳》神託に「我に知恵無し。忠孝を以て知恵となす」という言葉がある。まことに至れる言葉かな。それ、知は善に用いれば知恵となり、悪に用いれば知恵ではない。忠孝は善の大なるもので、不忠不孝は悪の大なるものじゃ。善を大きく、悪を小さくする。悪(奪い、怠り、偽るなど)を避け、善(業に励み、恩に報い、忠孝の道に用いる)に従うならば、知恵は大となる。孟子が「孝悌と仁義を知ることが知の実である」というのもこのことだ。【八二】相歌に曰く。高山より谷底を見れば瓜と茄と花盛(高い山から谷底見ればうりやなすびは花盛り)。是れ未だ何の世に在りて何人の作る所なるを知らざるなり。今の俚歌は、時移れば則ち廃る。独り此の相歌終古廃るべからず。何ぞや。其の意味深長なればなり。夫れ高山に登りて下瞰すれば、則ち谷底歴指すべきなり。天皇宸極に御し四海に臨むも、亦然り。上侯伯儀衛盛んにし、或は士大夫職を治め、或は農工商賈業を勤め、或は儒医巫ト、或は車夫舟師娼妓騙局、其の他昭代の徳沢に浴し、以て其の生を営む者、勝て算ふべからず。猶ほ瓜の衡蔓し以て花を開き、茄の直長し以て花を発くごときなり。天皇之を臨視し、以て其の情を察し、以て其の誠を推し、貧民の穀匣空しく、且つ糞舎無きに至るまで、深く之を憂労し、以て天下を安定す。是れ我が神州の皇道なり。嗚呼此の相歌俚俗の伝ふる所と雖も、豈天照大神の製する所に非ざるを知らん。然らざれば、則ち誰か能く伝えて廃れざらん。《訳》臼ひき歌にいう。「高い山から谷底見ればウリやナスが花盛り。」この歌はいずれの世に誰が作った歌かわからない。今のはやり歌は時が移れば廃れる。ひとりこの歌はいつまでも廃れないだろう。なぜならば、その意味が深いからじゃ。高い山に登って下を見れば、谷底が明瞭にわかる。天皇が紫宸殿におでましになり、四海に臨まれるのもまた同じじゃ。上は侯爵・伯爵から下は侍、庶民に至るまでおのおのその職業を治め勤めて国家を経営する。侯・伯は儀式を盛んにし、家老や侍が職を治め、農・工・商人が業を勤め儒者・医者・巫女(みこ)、かごかき・船頭・芸者・さぎやその他など、太平の世の恩沢に浴して、その生を営む者は挙げて数えきれない。瓜が蔓をはって花を開くようなものじゃ。天皇はこれを見られて民の情を察せられ、その誠をおして、貧民の米びつが空っぽで、便所もないことまで、深く憂えられて、天下を安定された。これが我が国の神州の皇道というものじゃ。ああ、この臼ひき歌は俗謡の伝えるところだが、どうして天照大神の作られたものでないといえようか。そうでなければ誰がよく伝えて廃れないであろうか。【八三】天祖天孫譲道を以て天下を治む。其の徳三皇五帝に過ぎて滅せざるなり。然りと雖も、我が邦、古昔書伝を没し、故に周孔の先鞭を着く所と為る。惜ひかな。《訳》天照大神天孫は譲道をもって天下を治められた。その徳は古代中国の三さん皇こう(伏ふつ羲ぎ・神農しんのう・黄帝こうてい)五ご帝てい(少しょう昊こう・顓せん頊ぎょく・嚳こく・堯ぎょう・舜しゅん)より過ぎ、滅することがない。しかし我が国は昔の帳面がないために、孔子に先んじられたのだ。惜しいかな。【八四】神史に所謂天孫日向の国に降臨すと、是れ我が邦開闢の始め。西辺先づ草を生ずるを言ふなり。日向は日に向ふなり。譬へば宅地の西辺日に向かう所、先づ草を生ずる如くなり。《訳》神代の歴史にいわゆる天孫が日向(ひゅうが)の国に降臨するという。これは我が国が開けた始めで、西のほとりにまず草を生ずることをいう。日向は日に向かう。たとえば宅地の西のひなたにまず草を生ずるようなもので日輪が天下って草が生じたのと同じだ。【八五】仏国に生ずる者、人類及び鳥獣虫魚草木皆是れ仏なり。神国に生ずる者、人類及び鳥獣虫魚草木皆是れ神なり。然らば則ち神国に生ずる者、死後皆神と為さば、西域の仏法を仮るに及ばざるなり。《訳》仏国に生ずる者、人類及び鳥獣・虫魚・草木皆これ仏である。神国に生ずる者は人類及び鳥獣・虫魚・草木皆これ神である。神の国に生ずる者を死後全て神となすならば西域の仏法をかるに及ばない。
2023.01.14
朝、ウォーキングに出ようと家を出たら、雨。傘を持って、北海道立、栃木県立、佐呂間町立図書館への寄贈の本をかかえてポストに投函。このところ晴れが続いて、葉物の生育が悪いとテレビで放映していた。農家にとっては恵みの雨。朝時雨 乾く大地や 葉も育つ先日、2023年1月12日のプレバトの冬麗戦の1位、2位はプレバト新人の女性。梅沢永世名人が「俳句の申し子」と絶賛していた森迫永依が初優勝。2位は本上まなみ。お題は「ラッキー」。森迫さんの俳句「初富士は青し ケサランパサラン来(く)」。 ケサランパサランとは、タンポポの綿毛やウサギの尻尾のような白くふわふわとした外見の、民間伝承上の謎の生物。森迫さんが涙を浮かべたのが印象的だった。森迫「私にとってのラッキーって何だろうって考えたら、真っ先にきたのはケサランパサランってもの。空中にたまに浮いてるんですけど、小さい頃から見つけると『あ、ラッキー』って思っていたんです。(そうした)ありがたいモノがあったら映えると思って」夏井先生「新年の感慨というものを、青という色に託した。初富士の空の青さ、雪の青白さ、新年の空気の青さ、色んな青のイメージの濃淡を前半に描いておいて、後ろに長いケサランパサランが出てくる。作品としてみた時、このケサランパサランと初富士を合わせる勇気。これはなかなかできない」
2023.01.14
💛スーパーにブロッコリースプラウトを買いに行ったら、隣にケールスプラウトがあった。効能が気になる。ケール スルフォラファン スプラウト機能性表示食品 ケール スルフォラファンスプラウト は、日本初のスプラウト(もやしを除く)の機能性表示食品です。 青汁の原料としても有名なスーパーフード、ケールを発芽さスルフォラファンスプラウトには、 スルフォラファングルコシノレート はもちろん、葉酸やビタミンCを豊富に含み、さらにその他のビタミン類・ミネラル類・食物繊維など、たくさんの栄養素を含んでいます。葉酸 54μg・葉酸はアルツハイマー病予防の検証結果が出ている。「アメリカでの疫学研究の結果では、葉酸の摂取量が高いほど、アルツハイマー病のリスクが低いという報告があります。 葉酸は、ビタミンB2とともに、新しい赤血球を正常に作り出すために必要。」スルフォラファングルコシノレート 12mgスルフォラファングルコシノレートを20mg/日摂取すると肌の乾燥が気になる方の肌の水分量を高める機能、スルフォラファングルコシノレートを24mg/日摂取すると、健康な中高年世代の方の健常域でやや高めの血中肝機能酵素(ALT)値を低下させる機能が報告されています。 肌のうるおいを保ちたい方、肝機能酵素(ALT)値が高めの方におすすめです。今度ケールスプラウトも買ってこようかな。
2023.01.13
二宮先生語録【七一】秋江に漁せんと欲する者、網を夏日に結ばざれば、則ち能はざるなり。春田に壅んと欲する者、落葉を冬日に筢ざれば、則ち能はざるなり。秋穫を得んと欲する者、耕耘を春夏に勤めざれば、則ち能はざるなり。伝に曰く、事予めすれば、則ち立つ。予めせざれば、則ち廃ると。是れ之を謂ふなり。《訳》秋の川に漁業しようと欲する者は網を夏の日に結ばなければできない。春の田に肥料を入れようと欲する者は落葉を冬の日にかいていなければできない。秋の実りを得ようと欲する者は、耕作・草取りを春夏に勤めなければできない。中庸の伝に言う。「事あらかじめすれば則ち立ち、あらかじめせざれば則ち廃す」と。これはこれをいうのだ。【七二】食を炊く。宜く少爨にすべし。多爨に宜らず。若し足らざれば、則ち復爨ぐべし。薪を焚く。宜く少運にすべし。多運に宜らず。若し足らざれば、則ち復運ぶべし。倉に米有り。廠に薪有らば、則ち以て憂る無し。是れ家を富すの道なり。而して国を富すの道も、亦此の理に過ぎず。夫れ竹木を伐り、荊棘を芟り、草萊を除ひ、山野を墾き、以て田畝と為し、耕耘収穫、撃簸礱舂、以て精米と為す。其の労為る幾許ぞ。此を以て彼に比せば、日に十たび之を炊くも、亦何ぞ以て労と為すに足らん。是を之思はず。炊爨の労を厭ひ、或は多爨以て饐餲せしむるに、歎ずるに勝ゆべけん。樵蘇の労も亦然り。豈止米薪ならんや。衣を製するの労も亦然り。新たに製せば則ち速に服する莫れ。凡そ国家を富すの道、其れ斯に在り。思はざるべけんや。《訳》飯を炊く時は少なめに炊くがよい。多く炊くのはよくない。もし足らなければまた炊くがよい。薪をたくのも少し運ぶがよい。多く運ぶのはよくない。もし足らなければまた運ぶがよい。倉に米があり、薪小屋に薪があれば心配ない。これが家を富ます道じゃ。国を富ますのもまたこの理に過ぎない。竹木を切り、いばらを刈り、草むらを払い、山野を開き、田畑とし、耕耘し収穫し、箕(み)で振い、臼でひいて、精米とする。その労苦はどれほどか。これを考えれば、日に十回炊くことをどうして労苦といえよう。これを思わず炊事の労をいとい、炊きすぎて腐敗させるのは嘆くべきことじゃ。(木を伐り草をかる苦労も同じ。)どうして米や薪ばかりであろうか。衣服を作る苦労も同じじゃ。新たに作ってもすぐに着用してはいけない。およそ国家を富ます道はここにある。考えなければいけない。【七三】家道を優にせんと欲する者、一衣を用るも亦道あり。其の新衣を製するや、必ず段匹を買ふ。其の之を買ふや、金有りと雖も、須く一旬を延緩すべし。既に段匹を買ふ。其の之を製するや又須く一旬を延緩すべし。既に衣を製す。其の之を服するや、又復須く一旬を延緩すべし。夫れ夭を悪み寿を好む者、人の情なり。今之を衣服に推し、愛惜以て三旬を存す。凡そ心を用る此の如んば、則ち家道優隆。豈道ふに足んや。《訳》家道をゆたかにしようとする者は、衣服を用いるにもまた道がある。その新しい衣服をつくるのに反物を買う。それを買うにあたってお金があっても、十日のばすがよい。既に衣服を作っても、これを着るにあたって、また十日延ばすがよい。早死にを嫌い、長生きを好むには人情だ。今これを衣服に推して愛惜をもって三十日着る。心をこのように用いれば、家道が繁盛することは言うまでもない。【七四】経書は道を載する者なり。其の之を書に筆する、猶ほ水始めて氷るごとくなり。朱子注脚を下す。猶ほ氷箸、垂下するごとく、益々堅凝解し易からざるなり。況んや細註の如き、嘔吐以て聖経を汗すに似る。難いかな其の蔽固の冷心を以て之を解するや、若し通明の温心を以てせば、則ち渙然氷釈、安んぞ注脚を之用ん。何ぞや、人倫日用当行の道なればなり。《訳》経書(四書五経)は道を載せるものだ。道を書物として筆記するのは水を氷とするようなものだ。朱子がそれに注釈をつける、これは氷柱(つらら)が垂れるようなもので、ますます堅くこおって解けにくい。まして細注のようなものはおう吐で聖経を汚すのに似る。かたくなな冷たい心で聖経を解するのは難しい。もし非常に明らかで温かい心でとかせば氷が解けるようにわかる。どうして注釈を用いる必要があろうか。人の道としてふだん用いる行いの道だからだ。【七五】書を読て躬に行はざる者、徒に人の問に応ずるのみ。故に多く読まざるを得ざるなり。苟くも身に行ふ、則ち一字一句と雖も、而も終身之を用い、尽す能はざる者有り。譬へば巨多の飯鐺を購ふ如し。其の飯を炊くや、一にして足る。其の他は則ち徒に人の求めに応ずるのみ。多しと雖も亦何の益ぞ。《訳》書を読んで身に行わない者は、いたずらに人の質問に応ずるのみだ。だから多く読まざるを得ない。いやしくも身に行うならば、一字一句といえども、終身これを用いて尽くすことがない。たとえば多く飯鍋を購入するようなものだ。その飯を炊く時は一つで足りる。その他は人の求めに応ずるだけだ。多くあっても何の益になろうか。二宮先生語録巻の3【214】余少小四書を読み、以てこれを儒者の行う所に徴し、甚だその齟齬を疑う。ひそかにおもえらく巻中必ず道にそむくの語有るなりと。もしそれ一字一句道にそむくの語有らば、則ちまさに天下の書籍を挙げ、以てその雑を削りその粋を存せんと欲す。すなわち錐を執り以てこれを読む。然るに終篇金科玉条、遂に一錐を下すあたわず。これにおいてこれを躬に行い、以てこれを徴する年有り。独り言忠信、行篤敬、蠻貊(ばんぱく)の邦(くに)といえども行わるの語に至り、蠻貊に行かざれば、則ちこれを行うを得ず。行わざれば則ち未だその差(たが)わざるを知るべからず。故に以て憾(うら)みと為すのみ。野州の廃邑を治るに及び、その民常産無くして、常心を失い、風俗頽廃、田野荒頓。貧困已に極まる。余夙夜苦心労力以てこれを治む。然るに東を治めれば則ち西敗れ、左を治むれば則ち右敗れ、またこのごとく何もする無し。ひそかにおもえらくこれ蠻貊なりと。すなわち言忠信、行篤敬に止まり、ついにこれを治むるを得。これにおいてますます聖語の差わざるを知る。この時に当たり、儒者仏者を論ずる無く、里正伍保に至るまで、周くこれを咨詢するも、また皆ともに議するに足らざるなり。独りこれを学庸論語に咨詢し、ついに以て功を奏するを得。
2023.01.12
巨大地震続発確率、最大96% 南海トラフで3年以内 東北大など1/10(火)南海トラフの東西どちらかでマグニチュード8以上の巨大地震が発生した後、3年以内にもう片方でも巨大地震が続発する確率は4.3~96%だと、東北大や東京大、京都大の研究チームが10日、英科学誌サイエンティフィック・リポーツに発表した。世界の過去約110年の地震統計から、より短期間での続発確率を計算すると、1カ月以内で2.6~85%、1週間以内では2.1~77%という。 確率の幅が広いのは、1361年以降の続発例を6回中2回とみる見方と、4回とみる見方があるため。東北大災害科学国際研究所の福島洋准教授は「数字で示した方が、続発する可能性の高さや不確実性をイメージしてもらいやすいのではないか」と話している。 確実な続発例は1854年に約32時間の間隔で起きた安政の東海、南海地震と、1944年と46年に約2年間隔で起きた昭和の東南海、南海地震。1361年と1498年にも続発した可能性がある。 巨大地震が発生した場合、気象庁は続発に備えて「巨大地震警戒」の臨時情報を発表することにしており、津波が想定される沿岸地域の住民は1週間程度、事前避難が求められる。💛「数字で示した方が、続発する可能性の高さや不確実性をイメージしてもらいやすいのではないか」とあるが、あまりにも確率の幅が大きすぎて、ほとんど意味をなさないような・・・東海沖から九州沖の海底に延びる溝状の地形(トラフ)沿いで起きる南海トラフ巨大地震は、マグニチュード(M)8~9級が30年以内に70~80%の確率で起きるとされる。一方、研究チームは、過去の事例が少ないため、後発地震の発生確率は誤差の範囲が大きく「予測には不確実性が伴う」とした。💛自分が主人公の防災小説 が興味深く、意義がある。主人公は自分、巨大地震にどう対応? 未来の災害描く「防災小説」全国の学校に波及 生徒に当事者意識芽生える2023/01/09大地震が起きたことを想定し、自分を主人公にして物語を書く。四国の高知県土佐清水市の中学校で生まれた「防災小説」の取り組みが、全国の学校に広がりつつある。そのとき、どんな被害があり、自分はどう行動するのか。学び、想像して文章にすることで、若い世代の防災意識に変化が芽生え始めたという。教員や専門家はさらなる普及に期待する。 「中学校から見る街は、黒い津波と茶色いほこりに飲み込まれていた。体育館は避難所になって(中略)親とはぐれて泣く子どもの姿、若い人に押されてこけそうになる高齢者の姿があった」
2023.01.11
認知症の人を地域で支える~「気仙ボケ一座」が演劇で理解呼びかけ 岩手・大船渡市1/9(月)認知症への正しい知識を持ち、より良い地域づくりを考えるイベントが9日岩手県大船渡市で開かれました。来場者たちは認知症を分かりやすく伝えるコミカルな劇を通して理解を深めていました。「わがった。おめさんが人の財布取ってでがらにオレに騒がれたと思って探すふりして『あ、みっけたみっけた』、そんなことするの泥棒なもんだ。あー、やんたやんた、こりゃ」 ゆっくり考えると思い出すことのできる「普通」の物忘れと、認知症の物忘れの違いをコミカルに伝えるのは介護職に関わるメンバーを中心に気仙地区の人たちで作る「気仙ボケ一座」です。 徘徊する認知症の高齢者への正しい対応の仕方も紹介され、家族の認知症を隠さず、近所の人などの助けを借りながら地域全体で守ることが必要と伝えていました。 その後は認知症の人と接する機会の多い郵便局や商店などで働く人が登壇し、それぞれの立場で意見を交わしました。 スーパーマーケットの店長は、認知症や高齢になっても自分のペースで買い物ができるようサポートを行う「スローショッピング」の取り組みを紹介しました。 集まった人たちは互いに支えあう地域づくりの大切さを感じていました。💛気仙沼には、ケセン語版聖書がある。とても面白い。いろんな新しいしかも歴史に残る取り組みが生まれてくる。新約聖書のケセン語訳というのがある。気仙沼弁に新約聖書を岩手県の山浦牧師が訳されたものである。山浦牧師はある日「山上の垂訓」をケセン語訳で朗読した。最初はアレという反応、それが静かな感動に変わっていった、小山サクさんという老婦人が会の後で声をかけてきた。「はるつぐさん!」サクさんは山浦さんん両手をしっかり握りしめてこう言ったのである。「いがったよ! おら、こうして長年教会さ通(あり)ってね、イエスさまのことばもさまざま聞き申してきたどもね、今日ぐれア イエスさまの気持ちアわかったことアなかったよ!」ああ、小さい頃から慣れ親しんできたお国言葉というものは、そのくらい心にしみるもの、感情を揺り動かすものなのである。ちなみに山上の垂訓の一節はケセン語ではこうなる。 頼りなぐ、望みなぐ、心細い人ア幸せだ。 神様の懐に抱(だ)かれたのアその人達(ひたぢ)だ。 泣ぐ人ア幸せだ。 その人達(ひたぢ)ア慰めらイる。 ・・・・・・・・・・ 其方等(そなだアど)アこの世の塩だ。んだども、塩に塩気アなぐならば、何イ以てその塩さ塩味イ付けんによがんべさよ? 最早、はア、何(なん)の赤役(あがやぐ)にも立だねアで、外(そど)さ棄(な)げらイで、人に踏まれるばんだ。 其方等(そなだアど)アこの世の光だ。山の上にある町ア隠(かぐ)れるわげにア行がねア。 それに、灯火(あがり)イ点(つ)けで、枡の下置く者アねア。燭台の上さ置く。そうすろば、家ん中(なが)のものオ全部明(あが)ぐ照らすにいい。んだから、其方等(そなだアど)ア光イ、・・・ 皆(みんな)の前に輝がせ。そうすろば、其方等(そなだアど)ア立派な行(おごね)い見で、世の中の人ア、皆(みんな)、天のお父様(どっざま)オ崇めるようになっこった。
2023.01.09
神奈川は頼朝、兵庫は清盛、高知と長崎は龍馬 の人47都道府県民が自慢したい歴史上物は徳川家康 栃木県、東京都、静岡県織田信長 愛知県、岐阜県、坂本竜馬 高知県、長崎県外国人 北海道、島根県女性 秋田県文人 青森県、岩手県、宮崎県Who 尚巴志王(しょう はしおう)・・・尚巴志は南山に属する按司思紹の息子として生まれました。按司とは豪族という意味です。尚巴志は21歳で隠居した父の跡を継ぎ、按司となります。1406年には中山の王を攻撃し、父思紹を中山王にします。 その後、北山と元々、自分たちが所属していた南山を滅ぼし、沖縄本島を統一しました。翌年の1429年に明から冊封を受け、琉球王国という国号と尚の姓を明の皇帝から賜りました。
2023.01.08
「遠州報徳の師父と鈴木藤三郎」をすでに蔵書としていただいている東京都と神奈川県内の図書館は次のとおりである。東京都東京都立中央図書館江東区立図書館神奈川県内12館神奈川県立図書館- HIT 1 : GET 1葉山町立図書館- HIT 1 : GET 1厚木市立図書館- HIT 1 : GET 1大和市立図書館- HIT 1 : GET 1海老名市立図書館- HIT 1 : GET 1平塚市図書館- HIT 1 : GET 1藤沢市図書館- HIT 1 : GET 1秦野市立図書館- HIT 1 : GET 1伊勢原市立図書館- HIT 1 : GET 1二宮町図書館- HIT 1 : GET 1南足柄市立図書館- HIT 1 : GET 1小田原市立の図書館- HIT 1 : GET 1「訳注 静岡県報徳社事蹟」は静岡県内の全公共図書館と」「遠州報徳の師父と鈴木藤三郎」をすでに蔵書としていただいている大学図書館に寄贈しますとクラウドファンディングの告知ではしていたが、報徳にゆかりのある都道府県立、政令指定都市図書館ぐらいは、寄贈しようと東京都立中央図書館、神奈川県立図書館、横浜市中央図書館に寄贈した。
2023.01.07
二宮先生語録【四六】賢者の賢者為る所以の者、愚者有る故なり。人皆賢ならば則ち賢名無く、人皆愚ならば則ち愚名無し。賢愚本一体。故に賢有れば則ち愚無き能はず。愚有れば則ち賢無き能はず。賢の愚に於る、猶ほ斧の柄に於るごとくなり。斧の用を為す、柄有るを以てなり。賢の名を為す、愚有るを以てなり。人宜く賢愚一体の理を悟り、賢者愚を養ひ、愚者賢に従ふべし。孟子曰く、中や不中を養ひ、才や不才を養ふと。此れを之謂ふなり。《訳》賢者が賢者たる所以は愚者があるからだ。人が皆賢者であれば賢者の名はなく、人が皆愚者であるならば愚者の名称はない。賢と愚は、斧の柄と同じだ。斧が用をなすのは柄があるからだ。賢の名があるのは愚があるからだ。人はよく賢愚一体の理を悟って、賢者は愚者を養い、愚者は賢者に従うがよい。孟子は「中が不中を養い、才が不才を養う」と言った。これはこのことを言う。Q 先生(松下幸之助)はこれまで企業を育てられましたが、その過程で悲観したり絶望したりすることがありましたか?もしあったとすればどんな時に、どういう心構えで乗り越えましたか?A たくさんありました。坦々たる道は歩んでいない。これは例で話ししましょう。 50人ばかり人を使うようになった時に、私が中心になって若い人々を集めて仕事をしていたんですが、皆よく働いてくれた。しかし50人の中に一人悪いことをする者がある。品物をごまかすようなことをする者がある。私は神経質ですから非常に悩んだ。「わずか50人の人のうちに、そんな悪いことをする者がいたら困るな」と気になって夜も眠れない。 その人を辞めさせようかとも思って、迷い悩んだ。そのときにハッと気づいたことがあるんです。 いま日本に悪い人は何人あるかということです。法を犯した人は何人あるか。十万人が刑務所におるとします。すると刑法には触れないけれども軽罪で見逃された人がその3倍も5倍もあるだろう。そんな人は日本から追放しませんね。日本の国内にとどめていますね。こういうことにハッと気づいた。 天皇陛下の力をもってしても罪人を少なくすることはできない。あまり悪い者は隔離はするけれどもそれほどでない人はやはりお許しになっておられる。これが現実の日本の姿ですな。そんの中で自分は仕事をしている。いい人だけを使って仕事をやるというのは虫が良すぎると、私は思ったのです。だから自分はたくさん人を使っていくのであれば、その比率だけは引受けないといけない、とそういうふうに考えたんです。すると頭がスーと楽になったんです。今までは「あんなやつはかなわんな」と思っていたのを許す気になったわけです。・・・・・・ 大きな仕事をするのに、いい人ばかりもって仕事をするというのは虫がよすぎる。こういう解釈ができると楽になりましょう。私はこういう解釈をしたんです。そういうことから、その後は大胆に人を使うようになったのです。【四七】君子は君子を友とす。故に益々善に進む。小人は小人を友とす。故に益々悪に陥る。夫れ禽獣は猟夫を懼れ、小人は君子を畏る。畏るれば則ち近かず。近かざれば則ち之を如何ともする末し。小人にして君子を友とせば、則ち善に遷るべきなり。昔殷紂の不善、其の甚しきに至る者、他無し。小人を友とする故なり。三仁有りと雖も、下位に在り。故に之を如何する末し。もし三仁上に在り、紂之に友事せば、則ち豈其の甚きに至らんや。《訳》君子は君子を友とする。だからますます善に進む。小人は小人を友とする。だからますます悪に陥る。鳥獣は猟師をおそれ、小人は君子をおそれて近づかない。近づかなければこれをどうすることも出来ない。小人が君子を友とすれば善にうつることができる。昔、殷の紂王の不善が極端に至ったのはほかでもない。小人を友したからだ。殷には三人の賢者があったが、位が下であったためにどうにもできなかった。もし三人の賢者が位が上で、紂が友として交わるならば、あのようなひどいことにはならなかっただろう。【四八】人宜く自ら思ふべし。天何の故に我が身を生ず。君師と作す為か、臣民と作す為か、農工商賈と作す為か。邦家を治むる為か。邑里を理むる為か。抑々邦家を乱し邑里を擾す為か。宜く諸を我が心に問ひ、諸を吾が心に答ふべし。終日食はず、終夜寐ず以て思ふも、亦安んぞ能く之を答ふるを得ん。乃ち父母我を生むと曰ふの外、豈他言有んや。然らば則ち父母に孝事し、善く其の業を継ぐの外、豈亦他道有んや。《訳》人はよろしく自ら思うべきだ。天は何のために自分を生じさせたのか?君主とするためか?臣民とするためか?農民・工人・商人とするためか?国を治めるためか、村を興すためか、それとも国を乱し、村を騒がすためか?よろしくこれを自分の心に問い、これを自分の心に答えるがよい。一日中、食事せず眠らず考えても、どうしてよく答えることができよう。父母が自分を産んだというの外、他言があろうか。そうであれば父母に孝行を尽し、善くその事業を継ぐほかに道があろうか。☆12月29日付けの尊徳先生が弟の三郎左衛門に出した手紙がある。手紙の内容からして、弟が継いだ養子先の相続問題を心配されて、したためたものであろうか。そこに書かれた内容は切実で、尊徳先生が懇々と弟に教え諭す内容は心打たれるものがある。そしてここには、尊徳先生の思想の精髄がある。先生はこうおっしゃる。先祖を大切に、親を大事に養育することを根本に工夫しなさい。そのほか私欲から出たことは、必ず後になると破綻するものである。近所隣りの財宝を自分勝手に取り計らったときは、盗みとなる。天地間のものはみな持ち主がある。人は元を知らなければならない。ここで根本に返ってこう考えてみるがよい。一体自分の体は自分のものであろうか。自分のものであればいつなんで作ったか。いつ口を作ったか。いつ手をつくったか。いつ足をつくったか。いつ目をつくったか。いつ耳をつくったか。いつ鼻をつくったか。作った覚えがなければ、わがものではない。わが身すらわがものでない。天地の間にあるものは、みんな天地が造化しておいたものである。そして田畑、山林、家屋敷、それぞれの先祖が丹精して子孫に伝えようとしたものである。この元を知って、報徳に勤めるならば、直ちに我と天地と一体になって、心のままにならないことはない。「報徳文献選集」の現代語訳の手紙に少し手を入れてのせてみる。「幸いそちらへ行く便があったので、暮れから春にかけてのお祝いの言葉を申しつかわします。その後、家内相続や暮らし方はよく定まりましたか。うけたまっておきたいことです。もしまだ定まりかねていなかったら、早春のうちに相談においでなさい。暮らし方の道は、一軒一軒、一人ひとり、百段、千段、万段ですが、天地の間に命がある者で、衣食財宝暮らし方が無い者は一人もない。無いと思うのは自分の誤りです。そのことを早く考えられて、とりきめて、相談においでなさいませ。もし定まらないようならば、(小田原藩)江戸屋敷までお越しください。どうなりとも取り計らってさしあげましょう。早々以上追伸先祖代々の家名を相続して、親を大切に養育することを根本に工夫するほかはありません。そのほかはみな私欲から出て、後に必ず破れるものです。そのことをよくよく考えなさいませ。親や先祖を捨て置いて、自分の心のままに行ったことは、たとえば物を干すのに晴れているが雨が降っているかを計らないでやるようなもので、天地の間にいて、天地を恐れず、先祖の家にいて先祖を敬わず、み仏の念(おも)いを失うもので、みな持ち主のあることを知らないで、また父母から預かったこのからだをもって父母に不幸をし、自分の好みにまかせ、自分の心のままに任せて、寝起きし、飲み食いし、田畑や家屋敷を動かし、わが身をわが身と思い、わが家屋敷をわがものと思うから、天理仏意に背き、不孝となるものです。そのわけは、近所隣りの財宝を自分勝手に取り計らったときは、盗みになります。だいたい天地の間に有るものはみな、それぞれ持ち主があるのだから、よく持ち主を知りたまえ。持ち主を知って掛け合いたまえ。掛け合って意のままに行いたまえ。かえすがえすも意のままにしたがいたまえ、したがいたまえ。それ人はわが身の元を知りたまえ。わが身はわがものか。いよいよわがものであるならば、いずこの国から持参したもうたか。いつの頃、何をもって造りたもうたか。いつ口をつくって飲み食いし、味を知りたもうか。いつ手をつくって用をたし、業をしたもうか。いつ足をつくって歩き、諸国へ行き、帰りたもうか。いつ目をつくって世界万物を見たもうか。いつ耳をつくって人の善し悪し、あるいは泣き笑う声、音曲、さらに中国、インドのことまで聞き知りたもうか。いつ鼻をつくって息をはいたり吸ったり、さまざまの香りを知り分かちたもうか。作った覚えがあるか。無ければまったくわが身ではない。このようにわが身さえわがものでないならば、天地の間にあるもの、みんな天地が造化しておいたものであることを知らず、なお田畑、山林、家屋敷、めいめい先祖が丹精して子孫に伝えようとしたことだとも知らないで、生涯わが心のままに、自由自在だとするから、人と生まれて人であるかいもなく、心のままにはならないのです。右の元を知って、御恩礼を勤めれば、直ちに我と天地と一体になって、富貴万福心のままにならないことはない。 おのが身は 有無の都の渡し舟 行くも帰るも 風にまかせて12月29日【四九】千石の邑、百戸の民、之を均ふせば、則ち一戸十石、是れ天分なり。天分十石、各々之を倍し二十石と為さんと欲す、是れ猶ほ明年薪を伐り今年之を焚んと欲するごとく、決して為し難きの事なり。若し夫れ天分十石、各々之を節約し、以て其の五石を譲る、是れ猶ほ今年薪を伐り明年之を焚くごとく、甚だ為し易きの事なり。故に天分を弁じて、其の為し易きの事を為さば、則ち人足り戸富み、其の邑必ず盛ん。天分を弁ぜずして、其の為し難きの事を為さば、則ち人乏く戸貧く、其の邑必ず衰ふ。嗚呼、盛衰貧富の得失斯の如し。邑民何を苦て、易へ難きの天分を弁じ、以て為し易きの譲道を行はざるや。《訳》千石の村、百戸の民、これを等しくすれば、一戸当り十石、これが天分だ。各々この天分を二十石にするのは、翌年の薪をとって今年これをたこうとするようなもので実行し難い。もし天分十石を各々節約して五石ずつの暮しとし、五石譲ることは今年薪をとって翌年たくようなもので大変実行しやすい事だ。よって天分をわきまえて、その実行しやすい事をなせば、人は足り家は富み村は必ず盛んとなる。天分をわきまえずに、実行し難い事をなせば、人は乏しく家は貧しく村は必ず衰える。ああ、盛衰・貧富の得失はこのようだ。村人は何を苦しんで変え難い天分を論じるばかりで、実行しやすい譲道を行わないのであろうか。【五〇】天てん下かの物もの、水みずより平たいらかなる莫なし。今いま夫それ千石ごく百石こくの邑むら、均ひとしく之これを分わかてば、則すなわち一戸こ十石ごく、是これ則すなわち天てん分ぶん。猶なお水みずの平たいらなるごとくなり。而しかして其その十五石ごくを有もつ者ものを大だいと為なし富とみと為なす。是これ猶なお水すい上じょうに出いずるごとくなり。其その五石ごくを有もつ者ものを小しょうと為なし貧ひんと為なす。是これ猶なほ水すい中ちゅうに没ぼつするごとくなり。天分てんぶん十石ごくの邑むらに居おり、五石ごくを増まし以もって水すい上じょうを出いて楽たのしむ者もの、何なんぞや。五石ごくを減げんじ以もつて水すい中ちゅうに没ぼっして苦くるしむ者もの有ある故ゆえなり。大だい小しょう貧ひん富ぷ固もと同どう体たい。宜よろしく当まさに同どう体たいの理りを弁べんじ、富ふ者しゃ余よ財ざいを推おし貧ひん者じゃを恤あわれみ、貧ひん者じゃ余よ力りょくを勤つとめ其その恩おんに報むくゆべし。夫それ是この如ごとくんば、則すなわち大だい小しょう貧ひん富ぷ其その均きん平へいを得う。倶ともに水すい面めんに浮うかび、以もって其その生せいを楽たのしむ。是これ国こく家か治ち安あんの本もとなり。【五〇】天下の物、水より平なる莫し。今夫れ千石百石の邑、均く之を分てば、則ち一戸十石、是れ則ち天分。猶ほ水の平なるごとくなり。而して其の十五石を有つ者を大と為し富と為す。是れ猶ほ水上に出るごとくなり。其の五石を有つ者を小と為し貧と為す。是れ猶ほ水中に没するごとくなり。天分十石の邑に居り、五石を増し以て水上を出て楽む者、何ぞや。五石を減じ以て水中に没して苦む者有る故なり。大小貧富固と同体。宜く当に同体の理を弁じ、富者余財を推し貧者を恤み、貧者余力を勤め其の恩に報ゆべし。夫れ是の如んば、則ち大小貧富其の均平を得。倶に水面に浮び、以て其の生を楽む。是れ国家治安の本なり。《訳》天下に水より平らなものはない。今、千石の村に家が百戸あるとする。等しくこれをわければ一戸十石だ。これが天分で水が平らなようだ。その十五石持つ者を大とし富とする。これは水の上に出ているようなものだ。その五石持つ者を小とし貧とする。これは水中に没しているようなものだ。天分十石の村にあって五石を増して楽しむ者は何ゆえか。五石を減じて水中に没して苦しむ者がいるからだ。大小・貧富はもとより同体だ。まさに同体の理をわきまえて、富者は余財を譲って貧者を憐れみ、貧者は余力を勤めてその恩に報いるがよい。このようであるならば、大小・貧富の均平を得て、ともに水面に浮かび出てその生活を楽しむことができる。これが国家治安の本だ。
2023.01.04
ウクライナ軍、ロシア軍にさらなる大打撃与えたと主張 南部戦線で500人死傷か1/4(水)ウクライナ軍参謀本部によると、ヘルソン州の町チュラキウカ近くに対して行った昨年12月31日の攻撃で、ロシア軍の兵士500人前後が死傷したという。今月1日未明には東部ドネツク州マキイウカでロシアの徴収兵が滞在する訓練施設に攻撃があり、ロシア、ウクライナ両国の当局が攻撃を認めていた。ロシア国防省は2日、この攻撃で63人が死亡したと発表した。
2023.01.04
逆転の報徳 3冠へ王者仰星も撃破4強!95m独走T海老沢「つっちゃう」足ぷるぷる1/4(水)WTB海老沢琥珀(こはく)=3年=が自陣から95メートル独走トライ「立ってていいですか。座ったらつっちゃう」「ボールを取った瞬間、走り切らないといけないと。気持ちいいランでした」東京・千歳中出身。SO伊藤利江人(3年)と一緒に報徳学園に入学した。今は伊藤が母、弟と住む家に同居。“兄弟”のように過ごしてきた。 その伊藤も14-14の後半7分、勝ち越しトライの起点となるパス。さらに同13分には、自ら蹴ったパントを捕球し、最後はトライにつなげるなど司令塔として才能を発揮した。 注目を浴びてきた伊藤に、海老沢は「嫉妬はあった」と言う。それでも隣同士で取材を受け「とてもうれしい」とようやく肩を並べた喜びをかみしめた。5日の準決勝は天理(奈良)に決まった。練習試合では五分の戦績「天理より僕たちが強い」とキッパリ。
2023.01.04
ウクライナ人歴史学者セルヒー・プロヒー「この戦争の行き着くところはもはや明らかだ」1/3(火)ロシアの都市ニジニ・ノヴゴロドに生まれ、ウクライナで育ち、アメリカとウクライナの二重国籍を持つプロヒー著書『ヨーロッパの門 ウクライナの歴史』(未邦訳)は、紀元前5世紀のギリシャ人歴史家ヘロドトスによって初めて残された黒海北部の平原、山間、森林についての記述から、2014年のロシアによるクリミア併合とドンバス地方の一部占領に至るまでの長大な歴史を扱っている。2021年彼は『ヨーロッパの門』に前書きを加え、ロシアとの紛争が国際秩序に第二次世界大戦以来最大の危機をもたらしていると警告していた。*──例の前書きを書かれてから2年が経ち、時代があなたの正しさを証明したように思えます。予測しようとしたわけではありません。歴史家は予測というものがあまり得意ではないのです。私は普通の歴史家がするように、すでに起こっていた、あるいは眼前に迫っていた物事を記録しようとしました。我々がいままさに語り合っている戦争は2014年に始まっていたのであり、第二次世界大戦終結後のヨーロッパ史上では類を見ないものですが、不吉にも1930年代のヨーロッパの状況に近しいものがあります。第二次世界大戦以降、主要大国が他国の領土を分捕って自国の領域内に併合するなどということはありませんでしたから。──2月24日より前の時点で、ロシア軍の全面侵攻がありえるとお考えだったのでしょうか。戦争の規模の大きさには驚きましたが、ロシアのクリミア侵攻に始まる戦争の継続は意外なものではありませんでした。ここで争われていたのは、ロシアによるクリミアやウクライナ東部の支配ではなく、ウクライナ全域の支配と旧ソビエト圏の支配です。ロシアのこうした目標は、2014年には達成されませんでした。また、ロシアが経済的にも、政治的にも、あるいはイデオロギー的にも、戦争に取り組む準備をしていなかったというのも別の驚きでした。1939年のヒトラーにも言えることですが、ウクライナに対しても、自国に対しても、またヨーロッパの広域に対しても、これほどの自滅的作戦に乗り出す者が本当にいるとは驚きでした。──プーチンは現在、非常に難しい立場にあります。今後、彼にはどのような作戦が残されているとお考えでしょうか。この戦争の行き着くところはもはや明らかです。ロシアがクリミアとウクライナ南部を獲得するのか、すなわち両国の国境がどうなるかは、戦場で決まることになります。しかしより重大な問題、すなわちロシアとウクライナの将来は、すでに決まっています。ウクライナは独立国として存続し続け、他のどの国よりも北大西洋条約機構(NATO)への正式加入に近づくことになります。これはもう決まったことです。一方のロシアはいま非常に弱っており、ロシアとEUとの経済的な同盟や協力体制にも大きな変化が生じました。プーチン政権の適法性も、もはやロシアそのものにとってまったく意味のないものとなっています。政権が崩壊するかはまだ疑問ですが、この戦争の総合的な結果はすでに明白です。ロシアは負けたのです。──今回の戦争はウクライナの国家的アイデンティティを強固にしました。プーチンは彼が望んだのとは正反対の結果を得たことになります。プーチンの意図は「ロシアの領土」を統一する者として歴史を遡ることでしたが、プーチンによる犯罪的戦争はどんな政治家もなし得えぬほどに、21世紀のウクライナとロシアそれぞれのアイデンティティを分断しました。2014年、ウクライナ人たちは政治、民族、言語的立場において連帯しました。ウクライナの歴史上、この8年間はこうした新たなアイデンティティを作り出したという意味で非常に重要です。2014年にロシアが派兵した際、実質的に軍隊の存在しなかったウクライナは狼狽しました。今回の戦争を計画した者たちは、この2022年でも同じ状況を当てにしていたのです。この8年における大規模な転換を完全に見誤っていたわけですね。──現在の紛争は、ソビエト連邦が混乱の内に崩壊したことの結果として説明できるのでしょうか?1990年代、西側諸国はウクライナに対し核兵器をロシアに譲渡するよう迫り、これがウクライナの独立と主権を保証しました。今回の戦争は、ウクライナから兵器を奪いながら、それに代わる侵攻を阻止する手段を何も与えなかったために、ヨーロッパの中心に防衛上の空白を作り出してしまったことの結果です。プーチンはどのロシア軍大将も思いつかないほどに、NATO拡大に多くの対抗策を講じています。フィンランドやスウェーデンを見てください。1990年代もいまも、ロシアに隣接する国々がロシアの侵攻から自らを守ろうとする試みが、NATOの勢力を拡大させているのです。*一方、神奈川大学の的場 昭弘教授の書かれた記事では「セルヒ-・プロヒは、『ヨーロッパの門 ウクライナの歴史』の中でウクライナ語によるウクライナ統一を強調している。一方で、ウクライナ政府がウクライナ語以外を認めない政策をとったことが、大きな反対運動を起こしたことについては、あまり言及されていない。この書物は西欧から見たウクライナに関するもっとも都合のよい歴史書」と批判的である。「西側の大手メディアは都合のいい情報しか流していない。」2022年2月24日のロシア軍による東部ウクライナ・ドンバス地域への侵攻からほぼ1年近くがたった。この戦争はどうなるのだろうか。西側の大手メディアは第2次世界大戦中と同じように、都合のいい情報しか流していない。もちろん、東側のメディアもその点では同じだ。(中略)戦争は兵器で勝つのではない。それを使える兵員がいないと武器は有効ではない。武器をATO(北大西洋条約機構)から手に入れ、「ロシア対ウクライナ」の戦争を「ロシア対NATO」にしたいというゼレンスキーの思惑はわかるが、そうすればヨーロッパ、とりわけ東ヨーロッパは戦場となる可能性が高い。東欧にとっては、それは避けたい。これは、この戦争をどう位置づけるかという問題にかかっているといえる。■戦争の原因を振り返る 少なくともこの戦争は、ソ連崩壊後独立した旧ソ連地域が、ロシアから完全に離れられるかどうかという問題に発端にあった。ソ連という国の中に組み込まれていた共和国は、経済、軍事、エネルギー、言語、教育、文化、さまざまな領域において、ロシアと密接な関係にあった。独立したからといって、そこから簡単に出ることはできない。 とりわけウクライナ東部の工場地帯は、ロシアの工業地帯と1つのコンビナートをなしていた。原料、エネルギー、生産、販売市場など密接に1つの地域をなしていたのだ。 この地域が2つの国に独立するからといって、ウクライナ側の工業地帯がロシアから独立できるわけではない。かつて旧東ドイツはソ連・東欧の工業基地であったが、ベルリンの壁崩壊以後、東欧社会と縁が切れたことで一気に衰退した。 東ドイツは当初、西ドイツとは別の国として独立するつもりであったが、それがこれにより不可能となり東西ドイツ統一になったことは、あまり知られていないが、事実である。(中略)■言語差別は少数民族を傷つける 言語問題も、大きな要因となっている。ソ連から分離したラトビアやエストニアでも、ロシア語を話す少数民族に対する言語差別が問題になっている。言語を統一することで国家を統一させることが、いかに少数民族を傷つけるかという問題は、世界中にある問題だ。義務教育から大学教育までどの言語を使うかで、排除された民族はあらゆる意味で市民権を失う。 ウクライナ出身でハーバード大学のウクライナ史研究家のセルヒ-・プロヒは、『ヨーロッパの門 ウクライナの歴史』(Serhii Plokhy,The Gates of Europe. A History of Ukraine,2015)の中でウクライナ語によるウクライナ統一を強調している。一方で、ウクライナ政府がウクライナ語以外を認めない政策をとったことが、大きな反対運動を起こしたことについては、あまり言及されていない。この書物は西欧から見たウクライナに関するもっとも都合のよい歴史書といえるかもしれない。 元スイス軍の職員で平和維持活動に従事した、ジャック・ボーの『オペレーションZ』(Jacques Baud,Operation Z,Max Milo,2022)は、この問題をウクライナ戦争のもっとも重要な要因だとして詳しく取り上げている。彼には、『フェイクニュースに支配される』(Gouverner par Fake News,2020)という書物もあり、西側の一方的な情報操作に極めて批判的だ。 とりわけこの書物では、中東戦争での情報作戦について書かれているが、すでに西欧社会自身が、プロパガンダの虜になっていることが暴かれている。 ボーによるとこうだ。少数言語に対する配慮のない旧ソ連邦の独立国の問題は、中国のウイグル問題と似ているという。とりわけウクライナ語がエリートと見なされる民族の言語として、下位言語と見なされるロシア語より優越しているという民族主義者の動きが、ウクライナ語のみの公的言語化を促進したという。 これらの集団はネオナチともいわれているが、彼らの攻撃のターゲットはロシア人だけではない。ウクライナ人よりも劣ると目されているユダヤ人も含めたさまざまな少数民族も攻撃に対象になっているのだ。 アゾフ軍団で有名になったアンドリー・ブリツキーは、「当面の、わが民族の歴史的使命は、生き残りをかけた最終的十字軍に白色人種を送り込むことだ」(前掲書54ページ)と述べたとも言われている。■ウクライナ語の公的言語化が火種に 2014年2月23日、ロシア語とウクライナ語を公的言語としていた法律が廃棄されたことが、決定的だったという。それがドンバスやクリミア地域での住民の抵抗運動を導いた。 この運動の支援に、さまざまな支援団体が参加したのだが、そこにセルビアの「ヨバン・セヴィッチ」グループなどのさまざまな右派グループがいる。そんなグループの存在が、「ネオナチはドンバス側である」という西側の批判につながっているともいう。 実際、東欧の国のいくつかの左右の集団が、ウクライナの少数民族弾圧に抵抗するために参加したことは確かである。ハンガリーの「聖ステファン」、ポーランド右派の「ファランジュ」、スペインの左派「カルロス・パロミーノ」、イスラエルの「アリヤ」などである。とりわけ抵抗運動は、南部地域に集中していた。 南部といえば、ロシア人だけでなく、ユダヤ人、トルコ系、チェチェン系などもいる地方である。この戦争に参加している非ロシア系義勇軍が、ロシア側にも多いのはこうした事情による。
2023.01.03
二宮先生語録【三六】善人能く悪人の非を見て、善人の非を見る能はず。他無し。善に僻すればなり。悪人、能く善人の非を見て、悪人の非を見る能はず。他無し。悪に僻すればなり。貧富奢倹勤惰の類、皆然らざる無きなり。我が道を行ふ者、知らざるべからず。訳 善人はよく悪人の非を見て、善人の非を見ることができない。ほかでもない。善に片寄るからである。悪人はよく善人の非を見て、悪人の非を見ることができない。貧富、ぜいたくと倹約、勤勉と怠惰などみなそうでないものはない。報徳の道を行う者は知っておかなくてはならない。【三七】数術は九九八十一に過ぎず。歩暦は表を立て、景を測り、以て節気を定るに過ぎず。仏道は色即是空、空即是色に過ぎず。儒道は己を脩めて百姓を安んずるに過ぎず。天道は四時錯行、万物生滅するに過ぎず。人道は衣食居を治むるに過ぎず。我が道は則ち分度を守り、余財を推し、荒を墾き民を救い、三才(天地人)の徳に報るに過ぎざるなり。訳 算術は九九八十一に過ぎない。暦学は目標を立て影を測って季節を定めるに過ぎない。仏道は、色即是空、空即是色に過ぎない。儒道は己を修めて百姓を安んずるに過ぎない。天道は四季が巡り万物を生滅するに過ぎない。人道は衣食住を治めるに過ぎない。私の道は分度を守って余財を推譲し、荒地を開墾し、民を救い、天と地と人の徳に報いるに過ぎない。【三八】天地の道、万物を生滅するに在り。或人曰く、天意唯生育。然れども万物数有り。数尽て滅す。故に滅は天意に非ざるなり。夫れ天地有て陰陽有り。陽は生育を為し、陰は粛殺を為す。陰陽流行万物生滅循環息まず。天地何ぞ生滅を為す。滅さざれば則ち復た生ずる能はざればなり。生滅の理之を氷に譬ふ。氷なる者、寒気に生じ、暖気に滅す。寒暖二気固より是れ天地陰陽流行の道なり。《訳》天地の道は万物を生滅することにある。ある人は言う。天意はただ生育にあるが、万物には寿命があり寿命が尽きれば滅びる。だから滅するのは天意ではないと。先生は言われた。天地があり、陰陽がある。陽は生育をなし、陰は枯らし滅ぼす。陰陽循環し万物は生滅し循環は止まない。天地はなぜ生滅をなすか。滅しなければ生ずる事ができないからだ。生滅の理を氷に譬えると氷は寒気に生じ暖気に滅する。寒暖二つの気は天地の陰陽運行の道じゃ。【三九】水火の日用に於る切と謂ふべし。然りと雖も火其の然るに任せば、則ち災と為る。之を節し之を制し、以て烹飪(煮炊き)の用を為すなり。水其の流るゝに任せば則ち害と為る。之を防じ之を堰し、以て灌漑の功を為す。然れども其の之を節し之を堰する者、其の性に反す。其の性に反せざれば、則ち其の功用を為す能はざるなり。人の行事に於るも亦然り。情欲の好む所に反し、以て其の悪む所を勤めば、則ち事必ず成る。情欲の悪む所を去り、以て其の好む所を為さば、則ち事必ず敗る。何となれば則ち其の悪む所の道心にして、其の好む所の者、人心なればなり。書に曰く、人心維れ危うく、道心維れ微と。何を人心と謂ふ。形体に発して、人欲に出ずる者、是なり。之を荒蕪に譬ふ。雑草を芟夷(刈り除く)し、墾き葘畝(開きたての田)と為す。然れば雑草日に生じ、将に復た蕪せんとす。豈危からやずや。何を道心と謂ふ。形体を離れて天理に出ずる者、是れなり。之を良田に譬ふ。深く耕し以て粟を種るも、亦耘耔(くさぎりつちかう)を務めざれば則ち荒蕪に帰す。豈に微かならずや。然らば則ち維れ危きの人心を治め、維れ微かなるの道心を拡むる。宜しく当に良農耕耘を務る。是れ我が之心田の荒蕪を墾闢するを先務と為す所以なり。我が道を行ふ者、宜しく人欲の火を制し、天理の水を灌ぎ、以て心田を治むべきなり。【四〇】王道を行へば則ち王者。安んぞ復た王名を求めん。覇道を行へば則ち覇者。安んぞ復た覇名を辞せん。富道を行へば則ち富者。安んぞ復た富名を好まん。貧道を行へば則ち貧者。安んぞ復た貧名を悪まん。此に一圃有。茄を種れば則ち茄圃。瓜を種れば則ち瓜圃。此にに一桶有り。水を盛れば則ち水桶。糞を盛れば則ち糞桶。此に一人有り。他財を借り以て優かに之を用ゆ。宛も富者に似る。是れ猶ほ茄を種ずして之を茄圃と謂ひ、水を盛らずして之を水桶と謂ふごとくなり。焉んぞ能く富名を得ん。苟も富名を得るを要せば、則宜しく富者の道を行うべきなり。我が之興国安民の道に於るも亦然り。其の実を行はば則ち其の名あり。其の実を行はざれば、徒に其の名を求む。何の興国か之有らん。何の安民か之有らん。二、三子其れ之を察せよ。訳 王道を行えば王者で王名を求める必要はない。覇道を行えば覇者で覇者の批評は免れない。富道を行えば富者で富者の評判は必要ない。貧道を行えば貧者で貧名を嫌ってどうしよう・ここに畑があるとしよう。なすを植えればなす畑、瓜を植えれば瓜畑だ。ここに桶があるとしよう、水を入れれば水桶、糞を入れれば糞桶だ。ここに人があるとしよう。借金して豊かに暮らせば富者に似るがこれはなすを植えずになす畑というようなもので、どうして富者の名が得られよう。私の興国安民の道も同じで、その実を行えばその名がある。実践せずに、その名を求め、どうして興国や安民があろうか。諸君はそこをよく考えなさい。
2023.01.03
二宮先生語録【三一】易に曰く。大極両儀を生ずと。凡そ天地間の事物、対偶せざる者無し。是れ自然の理なり。人、対偶の理を弁ぜず。奇偏を執り以て事を処す。故に百挙当を得ずして、事必ず誤る。若し対偶の理を弁じ、以て事を処せば、則ち百挙当を得て、功必ず成る。国家の盛衰貧富に於る人身の進退勤惰に於る、対偶循環又自然の理なり。国家の衰廃を挙んと欲する者、能く其の理を弁じ、以て其の変に応ぜば、則ち何を為して成らざらん。若し其の理を弁ぜざれば、其の変に遇ふ毎に徒に憂戚を為さば、則ち何の成す所有ん。我が道を行う者、深く察すべし。《訳》易経に「太極両儀を生ず」という。およそ天地間の事物で対偶(相対)しないものはない。これが自然の理だ。人はこの対偶の理を理解しない。一方に片寄って事にあたるために万事がうまくいかずに必ず誤る。もし対偶の理を理解して事にあたるならば、万事がうまくいって事は成就する。国家の盛衰貧富でも、人の進退や勤勉怠惰でも相対し循環するのが自然の理だ。国家の衰廃を挙げようと欲する者がよくその理を理解し、その変に応ずるならば、何をやっても成就できよう。もしその理を理解しなければ、事変にあうごとにただ憂い悲しんでいては何のなす所があろう。私の道を行う者は深く察しなければならない。【三二】隣里に赴く者、中路驟雨に遇はば、必ず走り帰りて蓑笠を用ひ、或は趨り人家に入り、以て雨歇むを待つ。然らざれば則ち沾湿の患を免れざるなり。我が道を行ふ者、或は事変に遇ふ。猶ほ寒暑・風雨有るごとく、又猶ほ春生秋殺有るごとく、順逆消長、必ず免るべからざる者なり。苟も事変に遇はば、則ち驟雨に遇ふの心を存し、以て徐に之を処し、必しも駭遽措を失する莫れ。然らざれば、其の功を全うする能はざるなり。《訳》隣村へ行く者が途中でにわか雨にあえば、必ず家に走って帰って蓑や笠を用いるか、人の家に走って雨が止むのを待つ。そうでなければびしょぬれとなる憂いを免れない。私の道を行う者が事変にあうのは寒さ暑さや風雨があり、春生じ秋枯れるように順逆や消長があることは免れることができない。事変にあったならば、にわか雨にあう心をもって、おもむろにこれを処理し、必ず驚きあわてて処置をしくじってはならない。そうでなければ仕法を成就することはできない。【三三】善ぜん人にんは猶なお鈍どん刀とう(切れ味の鈍い刀)のごとし。奸かん悪あく(悪賢い人)を御ぎょする(使いこなす)能あたわず。然しかれども賢けん主しゅ有あって之これを用もちいれば、即すなわち善ぜん政せい行おこなわれて、民たみ安あん息そくす。悪あく人にんは猶なお利り刃じん(よく切れる刀)のごとし。能よく奸かん悪あくを御ぎょす。庸よう主しゅ(凡庸な君主)之これを用もちいざれば、則すなわち其その国くにを制せいする能あたわず。然しかれども悪あく政せい行おこなわれて民たみ困こん苦くす。我わが興こう国こく安あん民みん法ほうの如ごとき、悪あく人にんを退しりぞけ、善ぜん人にんを挙あげざれば、則すなわち其その功こうを成なす能あたわざるなり。【三三】善人は猶ほ鈍刀のごとし。奸悪を御する能はず。然れども賢主有て之を用れば、即ち善政行はれて、民安息す。悪人は猶ほ利刃のごとし。能く奸悪を御す。庸主之を用ざれば、則ち其の国を制する能はず。然れども悪制行れて民困苦す。我が興国安民法の如き、悪人を退け、善人を挙げざれば、則ち其の功を成す能はざるなり。1『報徳秘稿』二〇一「廃を挙げ、亡国を興すには、その悪人を退けて善人を挙げずんば国を興すことあたわず。先生、上にあって理非を断明して、悪人が訴え出るとも、明断あるがゆえに、仙子(東沼村名主仙右衛門)・徳子(下物井村名主徳次)がごとき善柔の名主も勤めらるるなり。又曰く、善人といえども魂なければ用いるに足らず。」《訳》善人は鈍刀のようで、悪賢い人を使いこなすことができない。しかし賢君があってこれを用いるならば、善政が行われ、民は安らかに過ごせる。悪人はよく切れる刀のようで、凡庸な君主はこれを用いなければ国を治めることができない。しかし悪政が行われ民が困苦する。私の興国安民法は悪人を退け善人を挙用しなければ、その功を成就できない。【三四】或は草場を侵し、或は田畔を犯す。尚ほ詞訟を起す者、衰邑の常なり。我が法を施すや、闔邑(村全体)の故業を釐革(改革)するも、亦敢て怨言を出す者莫し。是れ我が道の大為る所以なり。且つ夫れ登年猶ほ除租を乞ふも、亦衰邑の常なり。我が法を施すや、水旱に遇ふも、亦敢て乞はず。況んや登年に於てをや。是れ他無し。仁術に感動し、且つ毎戸穫有り。乞はざるも亦足ればなり。管子曰く、倉廩実て礼節を知り、衣食足て栄辱を知ると。信なるかな。【三五】東とう海かい道どうを称しようし大たい路ぢと為なす者もの、何なんぞや。上かみ王おう侯こうより、下しも士し民みん及および瞽こ者しゃ(盲人)乞こ人じん(こじき)牛ぎゅう馬ばに至いたるまで、挙あげて皆みな通つう行こうすればなり。夫それ一ひと人り行おこなって、十人にん行おこなう能あたわざる者もの、大だい道どうに非あらざるなり。我わが日にっ課か綯なわ索ない(縄ない)法ほうの如ごときは、則すなわち児じ女じょ子しと雖いえども、而しかも行おこなう能あたわざる莫なし。豈あに大だい道どうに非あらずや【三五】東海道を称し、大路と為す者、何ぞや。上王侯より、下士民及び瞽者(盲人)乞人牛馬に至るまで、挙て皆通行すればなり。夫れ一人行て、十人行ふ能はざる者、大道に非るなり。我が日課綯索(縄ない)法の如きは、則ち児女子と雖も、而も行ふ能はざる莫し。豈に大道に非ずや。1『報徳秘稿』二七七「東海道を大道ということは、上諸侯より下座頭・ゴゼ・乞食・非人・牛馬に至るまで、差し支えなく通るをもってなり。一人行って十人行うことあたわざるものは大道にあらず。日掛け縄ないのごときは、女子供に至るまでできずということなし。」《訳》東海道を称して大道とするのはなぜか。上は諸侯から下はサムライ、庶民、盲人、乞食、牛馬にいたるまで皆通行するからだ。一人は行えるが、十人が行うことができないものは大道ではない。私の日課縄ないの方法は子供や女子でも行うことができないということがない。これこそ大道ではないか。
2023.01.03
二宮先生語録は二宮尊徳の高弟相馬藩出身の斎藤高行(たかゆき)氏が、尊徳に師事していた弘化二年から嘉永四年までの七年間に、折にふれて聞いた話をまとめたもので、それは尊徳の五九歳から六六歳のときに当たる。後に福山滝助が尊徳から聞きととった記録も整理した。二宮先生語録は聞き取ったそのままではなく、斎藤高行が漢文に組み替えて書いている。このため、現代では漢文をそのまま読みこなせる人が少なく、原文が読まれることは稀である。「全ルビ原文・源田語訳」は漢文を読み下し、読書会などで原文を輪読するために作成したものである。二宮先生語録【1】尊徳の進化論【2】人道は譲道【3】荒地開拓法【4】大なるかな推譲の道【5】人は勤めなければならない二宮先生語録【6】分を度し用を謹む【7】まず分度を立てる【8】分度を守る【9】国君が分度を失えば窮乏する【10】聖教の実は我が法に存す二宮先生語録【11】盛衰を均しく中を分度とす【12】まず脚下を定む脚下とは分度なり【13】報徳は春風【14】報徳を行えば必ず栄える。分度を立たなければ廃する【15】分を定め度を守るが報徳の本源なり二宮先生語録【16】入るを量って出るをなす【17】城の堀の水も最初は細い流れ【18】草を刈るにはまず鎌を研ぐ【19】豆腐を買うに財布から金を出す【20】貧富は分度を守ると失うにある二宮先生語録【21】報徳仕法が行われない理由【22】開拓仕法に勤めよ【23】天徳地徳人の働き【24】天地量って大父母【25】報徳は一粒丸
2023.01.03
1区大逃げ育英大新田颯1区で関東学生連合チーム(オープン参加)の新田颯(育英大4年)が大逃げを打ち、ファンを沸かせた。-レースの感想は「本当に最後ということで、悔いのないようにと思っていた。イメージしていたのは3パターン。最後で競い合うイメージと、ハイペースになったら抜くイメージ、そして自分が飛び出すイメージ。そのうちの1つがハマった」-逃げ切れる感じはあったか「後ろとは1分半と聞いていた。このまま持てばと思ったけれど、足が限界に来ていた。『頼む、来ないでくれ』と思って、できるだけ足を回してやっていたが、しかたない」-足に来たのはどのタイミングで「六郷橋を上って、残り3キロになったあたりから左足がつり始めた」-沿道の声援にも応えた「楽しかったので、余裕があるときは応えようと。全然知らない方からも声をかけていただいてうれしかった。力になりました」-自分の大学をアピールしようという思いは「もちろんありました。育英大学の宣伝がないので、ここでしっかり宣伝してやろうと」(*)-1区は自分の希望か「はい、希望しました」-箱根駅伝への憧れはいつから「正直、憧れとかはまったくなくて。自分自身、陸上をしようと思って始めたわけではないので、陸上をしていくうちに箱根駅伝という目標を掲げるようになった。大学に入って、せっかくなら箱根駅伝を目指そうということで、1年目から少しずつ段階を踏みながらやってきた」-走ってみて特別な思いは「特別な思いが芽生え始めたのは、関東学生連合の主将を任されてから。自分自身、無名でやってきた。そういった選手でも箱根を走れると、いろいろな子たちに伝えられたらいいなと思って走った」-陸上を始めたきっかけは「中学の時にハンドボールをしていて、中1の夏にハンドボールの体力づくりの一環で長距離をしようとしていた時に、ちょうど長距離の監督から声をかけていただいた。『朝練だけおいでよ』と言ってもらったことがきっかけ。陸上部に入ったのは高校から」-高校駅伝の活躍は「アンカーで区間3番とかで、そんなに目立った記憶はない。3000メートル障害で出場したインターハイでは思うような走りができず、大舞台で結果を残すことが課題だった」-大学では箱根常連校に行こうとは思わなかったか「そこまでスカウトも来ていなくて。唯一というか、2校くらいある中の育英大は高校の恩師の知り合いが総監督を務めていた。そこで声をかけていただいて。1から作るということに面白みを感じた。強化指定部というのがあり、その1発目の代が自分たち。他のところで経験を積むよりも、最初から経験を積める育英大の方が自分の成長になるかなと思った」-大学に入ってかなり伸びた「1万メートルのタイムを4分伸ばすことができた。育英大の育成力はすごいなと思った。他のメンバーもハーフで10分伸びたり。1万メートルで2、3分伸びた選手はざらにいる」-学校として箱根駅伝出場を目指している「来年の100回大会出場を目指してやっているのでそこに出てほしいけれど、なかなか難しいところでもある。僕としては、5年以内に出てほしい」-この後は陸上は続けない「はい。悔いはないです」-卒業後は「群馬トヨタで営業をしながら、休みの日は育英大のサポートをしたい。群馬トヨタは市民ランナーのマラソンに力を入れていて、そういったところのサポートや仕事を任させている。そこをメインにやる予定」-大学4年間を振り返ると「箱根駅伝は本当に雲のような存在だった。でも積み重ね、積み重ねてやっていくうちに、いつか目の前のものになって実際に今日、走ることができた。4年間充実した陸上生活だった。本当に人に恵まれていました。コーチや監督、チームのみんなに助けられた」*”箱根効果”で『育英大』のホームページがつながりにくく…1区で関東学生連合・新田颯が一時独走状態
2023.01.03
1/2(月) 【箱根駅伝】ヴィンセント史上初往路3区間区間新「いい思い出に」仲間とグータッチの日々に感謝東京国際大のヴィンセント・イエゴン(4年)が4区(20・9キロ、平塚~小田原)で8人抜きの爆走を見せ、2つの新記録を打ち立てた。1時間ジャストで走り切り、従来の区間記録を30秒も更新。さらに1年時の3区、2年時の2区に加え、往路のみの3区間で区間新を樹立したのは、史上初となった。「勇気持って走った」今季は右ふくらはぎ負傷で今季の出雲、全日本を欠場。この箱根に間に合うかが焦点だった。当日変更で補欠からルカ・ムセンビ(4年)と交代する形で登場すると「絶対エース」は無敵だった。トップの中大から2分44秒差の12番手でタスキを受けると、スタートからスピードを上げた。3・4キロ地点までに6人を抜き去り、6位へ浮上。5キロ付近では創価大の嶋津雄大(4年)をかわして7人抜き。10キロすぎで国学院大・藤本竜(4年)も飲み込み、同区間タイ記録となる8人のごぼう抜きとなった。ツイッター「衝撃どころじゃなくて破壊」「ワールドクラスの異次元のペース」「1人だけ2区のような追い抜き人数なんだよwww」
2023.01.03
中大・吉居大和が花の2区制す 「大学トップレベルの人たちと走れる幸せな時間だった」/箱根駅伝1/2(月) 第99回東京箱根間往復大学駅伝競走往路(2日、東京・大手町-神奈川・箱根町芦ノ湖駐車場=107・5キロ)中大は1位・駒大から30秒差の2位。各校のエースが集う花の2区(23・1キロ)で吉居大和(3年)が歴代6位のタイムとなる1時間6分22秒の快走で区間賞を獲得した。エースの顔がゆがむ。苦しい残り100メートル。中大・吉居大和(3年)は「戸塚の壁」と称されるラストの上り坂で、もう一段階ギアを上げた。大学トップに君臨する駒大・田沢廉、青学大・近藤幸太郎(ともに4年)を振り切り、トップでたすきリレー。運営管理車に乗った藤原正和監督(41)から「大和よくやったぞ! 区間賞だ」と祝福の声が飛ぶと、爽やかな笑顔で右拳を掲げた。「田沢さんと近藤さん、大学トップレベルの人たちと走れる幸せな時間だった。満喫したいなと。本当に楽しい時間だったので、簡単に離れるわけにはいかないなという気持ちでした」昨年1区で区間新記録を出した吉居大は、当日変更で各校のエースが集う花の2区を初出走。トップの明大と18秒差の4位でたすきを受けると、1キロ2分50秒のハイペースで押した。「区間新(1時間5分49秒)を狙おうと思った」。3・2キロすぎで首位に立つ好スタートを切ったが、13キロ付近から続く長い上り坂「権太坂」の手前で失速。12キロで田沢に抜き去られ、14キロで近藤につかまった。「苦しかった。これはまずいなと思った」。脚が止まりそうなとき、同じ愛知県のチームで走ったこともある先輩が力をくれた。「(近藤)幸太郎くんが『ついてこい』というジェスチャーをしてくれた」。必死に食らいついて粘り、区間2位の近藤と2秒差で戸塚中継所に飛び込んだ。中大勢では2003年の藤原監督以来20年ぶりとなる2区区間賞に輝いた。たすきをつなぐと、接戦を演じた好敵手と抱き合った。エースの快走で、歴代最多14度の総合優勝を誇るチームは、トップの駒大と30秒差の往路2位でフィニッシュした。〝世界への登竜門〟とされる2区で歴代6位の好タイムを出した3年生は「来年どの区間を走ることになっても、区間賞、それ以上を狙いたい」。2区区間賞をステップに次なる挑戦が始まる。
2023.01.03
全387件 (387件中 201-250件目)