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(カモメ)サイパンに帰った山辺大尉は唐島部隊長に報告しました。この潜水艦奇襲部隊は、佐世保鎮守府一〇一特別陸戦隊と命名され、通称「S特部隊」、作戦を「S特作戦」と呼称した訳です。(ウツボ)そうだね。隊長に山辺大尉が任命された。中隊編成で四個小隊より成っていた。一個小隊は四個分隊で、一個分隊は十名だった。(カモメ)内地から艦政本部の技術士官がサイパンに派遣されて、時限式爆弾、焼夷弾の実験が開始されたのですね。(ウツボ)そうだが、ところが、この時限爆弾や焼夷弾はお粗末なものであったので、山辺大尉は再び、東京へ飛んで軍令部にもっと優秀な兵器があるはずでしょう」と要求したんだ。(カモメ)これに対し軍令部の部員は「俺は嘘は言っていないよ。本当のところ日本の国力ではこれがせいいっぱいなんだ。君の隊にはこれまで、どんな要求でも入れて、他には比べものにならないほどの優秀な兵器をやっているつもりだ」と涙を流しながら語ったということです。(ウツボ)消耗に消耗を続け、今では貧乏海軍になってしまっていたんだね。口の悪いパイロットが山辺大尉に言ったことがあった。「世界の三大不要物は、ピラミッドと万里の長城、それに戦艦大和だ」と。(カモメ)山辺大尉は「大艦巨砲主義の迷夢醒めやらず、英国海軍型紳士教育で鍛えられた頭を、もっと効率の国、アメリカ型に切り替えない限り、議論しても無駄だろうと思った」と記されていますね。(ウツボ)山辺大尉はトラック島の連合艦隊旗艦「武蔵」の連合艦隊司令部にS特部隊編成の挨拶に行った。そのとき古賀峯一連合艦隊司令長官が山辺大尉に自ら揮毫して色紙をくれた。(カモメ)そのあと、山辺大尉のS特部隊は、ラバウルの南東方面艦隊司令部の作戦指揮下に入りましたね。(ウツボ)うん。それで、昭和19年2月下旬、ラバウルを基地として作戦を展開することになったんだ。S特部隊はサイパンの残りの落下傘部隊と別れを告げラバウルとトラック島に分散移動した。(カモメ)ところが昭和19年6月15日、突如として米軍はサイパン島に上陸を開始した訳です。(ウツボ)トラック島の山辺大尉以下百二十名のS特部隊の隊員はあっけにとられた。(カモメ)同時に、山辺大尉はそのとき愕然としたそうですね。サイパンにはまだ帰国していない邦人の婦女子が多数いたから。(ウツボ)サイパンの落下傘部隊の部隊長・唐島中佐以下六百五十名は米軍上陸の第一夜に、敵上陸点に強襲を決行した。その結果、三十人くらいを除いて全滅した。(カモメ)そうですね。生き残った三十人もサイパン島が陥落したときには、捕虜数人を除いて全員戦死していたそうです。(ウツボ)トラック島のS特部隊にもサイパン逆上陸の命令が下った。輸送用の潜水艦が夏島港に入港し、百二十名の隊員の出撃準備も整った。(カモメ)だが敵艦隊撃滅のため、サイパン島に展開した味方潜水艦が七隻とも撃沈されたため、サイパン島逆上陸は中止されました。そしてそのまま終戦となったのですね。(ウツボ)一方、「堀内海軍大佐の生涯」(光和堂)によると、初代落下傘部隊部隊長堀内中佐はメナド降下作戦後、昭和18年1月台湾東港海軍予備学生教育主任・高砂族教育主任となって台湾に赴任。同年12月重巡高雄副長、昭和19年5月海軍大佐に昇進した。(カモメ)そうですね。昭和20年3月海軍兵学校教官兼監事。同年7月呉鎮守府第十一特別陸戦隊司令。同年8月15日終戦で復員しました。(ウツボ)ところが昭和22年1月B級戦犯容疑で巣鴨プリズンに収容された。昭和23年1月北スラウェシのメナドで軍事裁判が開かれオランダ軍により起訴されたんだ。 (カモメ)メナド降下作戦後、約一年間、堀内中佐は占領したインドネシアで司令として現地で職務についていました。(ウツボ)堀内中佐は現地人に慕われていた。温厚な占領政策を行い、現地人とも日本人同様に親しく付き合った。(カモメ)容疑はメナド降下作戦および占領期間中起きた部下のオランダ兵に対するトラブル、事件に対するものであったのですが、明らかにオランダ軍の報復裁判の様相でした。(ウツボ)それはね、メナド降下作戦のときの守備のオランダ軍の隊長の中佐が自ら裁判長となって裁判を行なったからだ。(カモメ)昭和23年5月12日死刑の判決。9月25日メナドで銃殺刑に処せられました。堀内大佐は四十七才でした。(ウツボ)だが、真実は日本人にも当然伝わり、堀内大佐は昭和44年11月の叙勲で正五位三等旭日中綬章を受けている。(カモメ)遺族の無念さも少しは和らいだでしょう。(ウツボ)そうだとよいが。深い悲しみは、癒されることはないと思うね。敗戦国の悲哀だね。(「海軍空挺作戦」は今回で終わりです。次回からは「アッツ島玉砕」が始まります)。
2008.05.02
(ウツボ)セレベス島メナドに降下した堀内部隊はセレベス島ミナハサ地方のロンボーケン、トンパソなどの掃蕩戦を行なって多数の捕虜を得た。(カモメ)昭和17年4月下旬セレベス島から転進、小スンダ列島の作戦に参加して、5月、全列島のロンボク、スンバ、スンバワ、フロレスの各島に上陸し占領しましたね。(ウツボ)そうだね。チモール島クーパンに降下した福見部隊はチモール島周辺の作戦に参加し5月、バンダ海の北方のアンボイナ島に転進、ケイ、アル、タニンバル各諸島に上陸し、占領した。(カモメ)昭和17年末、両部隊は内地に帰還して、整備、訓練の上、本来の任務に従事するため再編することとなりました。(ウツボ)福見部隊長は、日華事変、上海戦以来、今回の南方作戦に至るまでの過労と現地での医療設備不備のため、海軍病院で戦病死したんだ。(カモメ)せっかく内地に帰れたのに。さぞ残念だったでしょうね。一方、堀内部隊長は昭和18年1月15日、台湾東港海軍予備学生教育主任・高砂族教育主任となって台湾に赴任しました。(ウツボ)そのあとを受けて、部隊長として唐島辰男少佐(海兵六十五期)が着任した。(カモメ)昭和18年3月両部隊を合併して、新たに落下傘部隊を編成し、横須賀鎮守府第一特別陸戦隊となりました。(ウツボ)そうだね。部隊約千五百名が神奈川県久里浜の仮兵舎に勢ぞろいした。降下訓練は千葉県木更津海軍航空基地で行なった。(カモメ)以前の訓練時には事故が続出しましたが従来の一式落下傘に改良が加えられて、内嚢式の一式落下傘特型が藤倉航空工業会社で開発され装備されたのです。(ウツボ)そうだね。だからこの一式落下傘特型では不開傘事故による犠牲者は一名も出なかった。(カモメ)また、同じ部隊でも、落下傘兵とそうでない者の精神的な対立がありましたが、今後は主計隊、医務隊、運輸隊、工作隊も全員降下させることになったのです。(ウツボ)さらに、兵器も折りたたみ式のものが支給された。小銃は薬室のところで、はめ込み式になっていて、これを二つに容易に分離し、またはめ込むことができる。(カモメ)軽機関銃も、銃架の部分が二つに折りたためるようになって、銃身と銃架を分離すれば、小さく二つに分けられるようになったものですね。(ウツボ)そう。これらの兵器は降下するときに身につけることができたんだね。(カモメ)今までは小銃などの長いものは落下傘が開くときに紐がからまって事故につながるから別梱包で降下させていたのですから、今度は安心です。(ウツボ)昭和18年9月、落下傘部隊は唐島部隊長の指揮下九百名がマリアナ群島のサイパン島に進出した。(カモメ)南方では死闘を繰り返す激戦が続いたのですが、サイパン島では毎日のどかで平和な日が続いたということです。(ウツボ)サイパン島の中心地ガラパンには南洋支庁、南洋興発の社宅、邦人の住宅、商店、飲食店などがならび、まるで内地の町の風景のようだった。(カモメ)落下傘部隊の隊員たちはこの町で楽しく過ごし、町の邦人たちとも交流を続けました。(ウツボ)当時南雲忠一中将を長官とする中部太平洋方面艦隊司令部の話では、サイパンには敵は来ないという見方をしていた。(カモメ)そうですね。連合艦隊司令部も、北上中の米軍は次はラバウル、トラック島に矛先を向けるだろうと判断していた訳です。(ウツボ)だからサイパンに送られてきた大砲や対空砲はトラックやラバウルに運び去られた。(カモメ)サイパンの重砲の守りは皆無に近いものとなったのですね。(ウツボ)「海軍落下傘部隊」(朝日ソノラマ)の著者、山辺雅雄氏は当時二十六歳の大尉で、唐島部隊の第一中隊長だった。(カモメ)昭和18年の暮れ、戦局は緊迫しているのに、落下傘部隊には作戦命令がいつまでも出されなかったのです。(ウツボ)そこで山辺大尉が部隊を代表して、「早く戦わせてくれ」と東京の海軍軍令部に飛行機で派遣されたんだ。(カモメ)山辺大尉は東京の軍令部に着き陳情すると「当分の間お前の隊は作戦に使う当てが無い」と素っ気無い返事だったのです。(ウツボ)がっかりした山辺大尉は、それでも水交社に数日泊り込んで、軍令部に毎日交渉に出かけた。(カモメ)軍令部は「飛行機が無いので降下部隊を使うことが出来ない。また今の戦局では降下作戦も当てが無い」と内情を話したのですね。(ウツボ)山辺大尉は「この大事な戦局で敵の来ない平和な島に千人もの精鋭を遊ばせておくのは全くもったいないことです。一体何のために落下傘部隊を作ったんです。いっそのこと部隊を解散したらどうです」とねばった。(カモメ)すると軍令部は「まあ、まあ、そうあわてるな。部隊というものはそう簡単に作ったり、解散したりできない。天皇陛下の裁可がが要るのだ」と反論しました。(ウツボ)第二次世界大戦中に英国にはレンジャーおよびコマンド部隊という少数精鋭の奇襲部隊があった。(カモメ)だから、結局、この英国の部隊のような奇襲部隊を落下傘部隊から引き抜いて編成しようという話になった。(ウツボ)そう。具体的には、潜水艦で輸送し敵地に上陸して敵をかく乱する潜水艦奇襲部隊となったんだね、海軍落下傘部隊は。
2008.04.25
(ウツボ)重擲弾筒も射手が携行して降下した。小銃や補充弾等は梱包して別に降下させた。(カモメ)そうですね。小銃は短い騎兵銃だが、携行降下は本人の自由意志に任された。鉄カブトは縁なしのもの。靴は降下靴と称する特殊なものだった。ゴム裏の革製半長靴で紐で締める。(ウツボ)これらの装備から一人当たり二〇キロの重さのものを携行して降下した。(カモメ)全員同位置に降下してはメナドのように敵に包囲される危険があるので、まず第一中隊が降下して、4~5000メートル遅れて本体が逐次降下した訳です。(ウツボ)降下前に機上で落下傘兵と飛行機搭乗員はサイダーで乾杯して拳闘を祈った。(カモメ)そうですね。最初に第一中隊が飛び降りました。中隊長は「海軍落下傘部隊」(朝日ソノラマ)の著者である山辺雅男海軍中尉です。(ウツボ)山辺中尉は戦闘指揮の関係から五番目に降下したんだね。武装の重みで頭が下がったので、下の地面が良く見えたということだ。降下訓練のときと何も変わらなかった。(カモメ)ふわふわと身体が持ち上げられるような感じで、いつもより落下速度が遅い感じだった。途端にガクンと衝撃を感じて空中に支えられた。落下傘が開いたのだです。(ウツボ)ダ、ダ、ダ、ダと猛烈な機銃音が聞こえて、敵かと、山辺中尉は胸のポケットから手りゅう弾を取り出し、口で安全針を抜きかけた。だが、その音は味方零戦の敵地上に対する機銃掃射の音だったということだ。(カモメ)零戦は次から次へと急降下しながら周辺一体を味方すれすれで援護の機銃掃射していたのです。(ウツボ)つまり味方落下傘部隊が無事降下して、戦闘隊形を整えるまで、零戦は機銃掃射を繰り返し、敵に頭を上げさせないようにしたんだね。(カモメ)そうですね。白い落下傘に混じって、赤、黄、緑の落下傘の花が開いています。人間は白、兵器などの梱包物は白以外の落下傘です。まさに大空に咲く花で、一幅の豪華絵画でした。(ウツボ)降下した場所はクーパン飛行場の北東にある平坦な草原で、湿地帯だった。(カモメ)結果的にそこには敵はおらず、何の敵の抵抗も無く全員無事降下したのですね。(ウツボ)そうだね。だが、零戦の猛烈な機銃掃射の弾も、敵のいない湿地帯にただ撃ちこまれただけでだった。何らの効果も無い、全てもったいないすて弾だったのだ。(カモメ)福見部隊は装備を整えてクーパン飛行場に向けて前進を始めました。クーパン飛行場のマリ岬には、味方陸軍一個旅団と海軍陸戦隊が敵前上陸を敢行していました。(ウツボ)飛行場に向けて一キロ前進したとき、敵兵舎を発見した。重敵弾を数発撃ち込んでみた。ガーンと炸裂音が密林にこだました。だが敵はシーンと静まり返っている。(カモメ)ところがその頃、第一小隊長・長嶺少尉が伝令二名と敵兵舎に強行偵察をしていたのですが、敵十数名に囲まれていたのです。(ウツボ)長嶺少尉は股に被弾したので伝令二名に「俺にかまわずに、本体に知らせ」と伝令二名を帰した。短機関銃を敵に向けて掃射した伝令二名が飛び出したが一名が撃たれて、小林一水が中隊長の山辺中尉のところに戻ってきた。(カモメ)敵は密林に潜んでいのですた。第一中隊は密林めがけて突撃しました。だが敵はすでに逃げた後で、兵舎も誰もいなかったのです。(ウツボ)その後、突然左前方の山腹の密林から機銃弾が飛んできた。兵力不明の敵と福見部隊は数十メートルの距離をへだてて密林をはさみ大銃撃戦となったんだ。(カモメ)そのときフロートをつけた味方零式水上機が敵陣に向かって機銃掃射を始めました。山辺中尉はメナドで味方輸送機を間違えて撃墜した水上機が罪滅ぼしに援助してくれるのかと思ったそうです。(ウツボ)そうだね。その水上機から通信筒が落とされた。拾って開けてみると「空の神兵の拳闘を祈る」と書いてあったそうだ。(カモメ)その後福見部隊は敵のクーパン飛行場から撤退する敵と遭遇し大激戦の末、次から次に退却してくる敵を迂回しクーパン飛行場にたどりつき、占領のため突進したが、飛行場はすでに敵が撤退した後でした。(ウツボ)なお、マリ岬に上陸、迂回して、敵の退路遮断に向かった陸軍の一個中隊は、第二次降下部隊が降下して翌日、クーパン街道沿いの丘に陣地を構築して、適主力の退却をはばもうとした。(カモメ)ですが、窮鼠猫をかむで、必死になって逃げようとする敵の戦車、重砲などの猛攻を受け、たまたま谷間に水を求めに行った兵一、二名を残し、中隊長以下、全員戦死したそうです。(ウツボ)逃げるのに敵も必死だから意外な結果になった。日本軍は飛行場占領後、飛行場からかなり離れたところに対空見張所を作った。この見張り所に福見部隊の高野先任下士が部下数名と向かった。〔ウツボ)そう。だが山地にかかったところで、突然現地人の襲撃を受けた。高野先任下士は立ち向かってきた現地人をとっさに日本刀でなぎ払ったところ、みごとに首に命中して首が宙に飛んだということだ。(カモメ)びっくりしたあとの連中は、クモの子を散らすように逃げてしまったのですね。ところが、この事件後高野先任下士は現地人から英雄のように尊敬されることになったということです。
2008.04.18
(カモメ)昭和17年11月5日、堀内中佐は落下傘部隊長としての戦功で、昭和天皇に拝謁しました。(ウツボ)佐官の身分で天皇に単独拝謁という例はそれまであまり見られなかった。(カモメ)拝謁したとき堀内中佐は落下傘部隊成功のおおもとである自ら改革した海軍体操をご進講しました。また皇太子の前で実地に逆立ちをしてご覧にいれたということです。(ウツボ)後に昭和20年3月に海軍大佐で海軍兵学校教官兼監事であったとき、78期の生徒たちに「皇太子殿下の前で裸になり、逆立ちしてお見せしたら、面白いと言ってたいへんお笑いになったよ。長い皇室の歴史の中で殿下に足の裏をお見せしたのは俺ぐらいだろう」と愉快そうに話したそうだ。(カモメ)その後堀内中佐は昭和18年12月重巡「高雄」副長、19年3月海軍体操改正の功で海軍大臣表彰を受けました。19年5月1日には海軍大佐に昇進していますね。(ウツボ)そうだね、海軍大学校を出ていないので、四十三歳だったら早い昇進だね。昭和20年3月には海軍兵学校教官兼監事、7月25日には呉鎮守府特別陸戦隊司令に補された。(カモメ)「海軍落下傘部隊」(朝日ソノラマ)によると、昭和17年1月中旬、横3特の落下傘部隊は部隊長の福見幸一少佐に率いられ、浅間丸に乗船して占領直後のボルネオ西部、タラカン島に進出しました。(ウツボ)港にはには味方の水死体がハチ切れそうに膨れ上がって、後片付けも終らないまま、いたるところに漂流していた。(カモメ)これは、敵が海岸砲台に白旗を掲げて降伏の意思を示してきたので、味方掃海艇が砲撃をやめてこれに接近した途端、敵の砲台から発砲され、無念の涙を飲んで沈んでいったのです。(ウツボ)敵も卑怯なことをしたんだね。市街は硝煙の匂いも生々しく、郊外には敵が退却のときに爆破した油田の黒煙が上がっていた。(カモメ)ここで福見部隊はオランダ軍の発行した面白いポスターを発見しました。(ウツボ)そうだね。そのポスターは三枚一組の紙芝居方式で画が描かれていたということだ。(カモメ)一枚目は日本軍落下傘部隊の降下を赤ん坊を背負ったインドネシア婦人が眺めている画。(ウツボ)二枚目はそれをオランダ軍司令部にその婦人が連絡しているところ。(カモメ)三枚目はオランダ軍戦車隊が日本軍落下傘部隊を包囲攻撃している光景を描いた画でした。(ウツボ)第二次大戦でドイツ軍落下傘部隊にいためつけられたんだね。オランダ軍は。(カモメ)そうですね。それで、その苦い体験から日本軍落下傘部隊の降下に、あらかじめ備えた用意周到な準備をしていたことが、このポスターから推察できますね。(ウツボ)当初福見部隊が落下傘降下を予定していたパリクパパンは1月24日破竹の勢いの日本軍の上陸部隊が占領したので中止になったんだ。(カモメ)福見部隊はセレベス島ケンダリーに進出しました。ここでオーストラリアの前進基地、チモール島クーパン飛行場に降下占領の命令が出された訳です。(ウツボ)堀内部隊のメナド降下戦闘は多大な犠牲を払った。その前車の轍を踏まないように慎重な作戦準備を行なったんだね。(カモメ)チモール島には約3000人のオランダ、オーストラリアの連合軍が守備をしていました。(ウツボ)クーパン飛行場にはメナド作戦の戦訓に鑑み、飛行場への直接降下は避けたんだ。(カモメ)それでクーパン飛行場の北東約四キロの草原地帯に降下が決定されました。第一次降下部隊は約四百五十名、第二次は二百五十名。敵前上陸部隊は二個小隊と医務、主計、運輸、工作の各隊。強行着陸部隊は医務隊の一部。(ウツボ)搭乗飛行機は、九六陸攻は十二名、一式陸攻は十八名が乗りこんだ。(カモメ)昭和17年2月20日、福見部隊を乗せた三十数機の輸送機はケンダリー飛行場を離陸しました。(ウツボ)零戦隊が輸送隊の周囲を護衛でつきそって飛んだ。機上では空挺隊員たちはポケットからキャラメルを出して頬張りながら仲間と冗談を言い合っていた。(カモメ)落下傘兵の服にはポケットが多数着いています。ズボンのポケットには防腐剤を入れた四食分の握り飯と一日分の携行食糧。セロハンの水筒に入れた飲料水数個と、最悪の場合を考慮して鰹節、身欠きニシン、塩。(ウツボ)携帯用小型救急嚢の中には包帯、三角巾、ヨードチンキ、ウイスキー小瓶がぎっしりと収納されている。(カモメ)上衣の両側の胸ポケットには士官、兵ともブローニング式拳銃または九九式小型拳銃、手りゅう弾数発を収めていました。(ウツボ)またズボンの取り出しやすい箇所にジャックナイフ一本と穴を掘る小エンビ鍬を携行していた。(カモメ)そうですね。メインの兵器は、この時には折りたたみ式が間に合わず、軽機銃は分解して一部の兵が胸部に携行して降下しました。
2008.04.11
(ウツボ)アンゴラン上空で、昭和17年1月11日午前九時五十二分、高度百五十メートルで、指揮官の堀内中佐が真っ先に飛び降りた。日本初の落下傘部隊実戦降下であった。(カモメ)多数の落下傘の花が開きました。だが、状況は一変しました。待ち構えていたように椰子の葉かげのトーチカから一斉にオランダ軍の機銃射撃が始まったのです。予想よりも多数の敵がいたのです。(ウツボ)敵の機銃はヒュルヒュルと落下傘を射抜いていった。人間よりも落下傘を撃ち破いて落とした方が早いと思ったのだろう。(カモメ)ところが日本の落下傘は縫い合わせ部分が多くきめ細やかに作られていたので射抜かれてもしぼまなかったのです。(ウツボ)だが地上に着くまでに撃たれて落下傘を真っ赤な血に染めた隊員も出た。さらに着地したところが飛行場なので遮蔽物がなく、自分の鉄兜が唯一の遮蔽物だった。(カモメ)トーチカのすごい機銃掃射で着地した兵の多くはなぎたおされました。オランダ軍の機関銃音はトタン屋根を小雨がたたくような軽い音だったということです。(ウツボ)堀内隊長ら部隊本部は敵の三基も五基もあるトーチカの眼前三十メートルに着地したんだね。(カモメ)そうですね。堀内部隊長と副官の染谷秀雄大尉は伏せるしかなかったのです。隊員たちはジャックナイフで地面を掘り頭だけ隠すのが精一杯でした。(ウツボ)とにかく白昼の降下だったため、機銃掃射により被害が続出した。騎兵銃、短機関銃など肝心の武器は百メートル以上離れて落下したので、多くの降下員はピストルと手りゅう弾だけで戦闘を行なった。(カモメ)そうですね。短機関銃や騎兵銃などはまとめて別の落下傘で落としているので、手元にはブローニング拳銃と手りゅう弾しかなかったのです。(ウツボ)堀内部隊長は「動くな、やられた者はうっちゃっとけ」と叫んだ。どの隊員にも敵弾がヒュンヒュン飛んできて、動きがとれなかった。(カモメ)その上、弾丸と有刺鉄線をはりめぐらしたバリケードに前進をはばまれていました。(ウツボ)その時、気丈な染谷副官がトーチカめがけて立ち上がった。その瞬間敵の機銃の弾が染谷副官の体を貫いた。鉄兜にも銃弾の穴があいた。(カモメ)敵の機銃は膝をねらった。膝を撃ちぬかれて体がコマの様にクルクル回転しながらつんのめり倒れていったということです。(ウツボ)小隊長など指揮官が多数戦死した。(カモメ)そうですね。オランダ軍は日本軍の指揮官を集中的に狙ったと言われています。(ウツボ)あちこちに蜂の巣のように射抜かれた落下傘が鮮血で染まっていた。敵の装甲車もやってきた。(カモメ)隊員たちは次々に落下してきました。第六編隊の落下傘兵がトーチカ群の真上と背後に落下してから、敵は崩れだしたのです。(ウツボ)それと同時に堀内部隊はトーチカめがけて突撃を開始した。武器の梱包を解き完全武装で突撃した。(カモメ)堀内部隊は正午前にはアンゴラン飛行場を確保しました。直ちに北東に向けて進撃しました。(ウツボ)トンダナ湖畔のカカス村に至り、夕方までに飛行場から四キロのカカス水上機基地を占領したんだ。(カモメ)落下傘部隊に呼応してケマとメナドに上陸した陸戦隊の第一中隊長・佐久間武(海兵66期)によると、ケマ街道をメナド市に向かって進撃していたところ、敵の巨大戦車二台が出現しました。(ウツボ)初めて遭遇した巨大戦車に肝をつぶした。見慣れていたのは豆のように小さい味方の戦車だったから。(カモメ)巨大戦車は激しく撃ってきました。味方も豆戦車と機銃掃射で応戦したのです。すると、すぐに敵戦車は沈黙しました。(ウツボ)調べてみるとその巨大戦車は大きな軍用トラックに鉄のカバーを掛けた物だった。中にいた敵兵十人は全員死亡していた。(カモメ)さらに進むとトーチカ六基から盛んに撃ってきました。トーチカを包囲して、突進し、トーチカの真上にのぼり、銃眼孔から火炎放射器を発射して六基とも占拠しました。(ウツボ)トーチカの中にいたのは全てインドネシア兵で、全員戦死していた。驚いたことに、逃げ出せないように足が鎖でつながれていた。(カモメ)このことから、オランダのインドネシア統治が圧制であり、脅かしの政治であったことが分かった訳です。(ウツボ)落下傘部隊が降下した飛行場には先の尖った無数の竹槍が空を向いて地上に突き出ていた。日本軍の降下を予知していたんだ。(カモメ)堀内部隊の幹部の半数が降下直後に戦死しています。(ウツボ)敵は幹部を狙い撃ちしたんだね。(カモメ)堀内部隊の電撃作戦は苦戦でしたが、成功して、オランダ軍は壊滅しました。(ウツボ)陸軍の空挺部隊がスマトラ島のパレンバンに落下傘降下を行なったのは、海軍のメナド空挺作戦から約一ヵ月後の2月14日だった。(カモメ)堀内中佐は、昭和18年1月まで、ランゴアン、ジャワ島の各地の司令を務めています。(ウツボ)当時セレベス島全域で三万五千人のオランダ軍がいたが日本陸軍の上陸で壊滅した。
2008.04.04
(ウツボ)そのスカルノも軍事クーデターにより1966年に大統領職をスハルトに奪われ軟禁状態にあったが、1970年6月21日、ジャカルタで死去した。(カモメ)このスカルノ大統領の第三夫人がデヴィ・スカルノで今はタレントとして活躍しているデヴィ夫人ですね。(ウツボ)本名は根本七保子(ねもと・なおこ)だね。彼女は赤坂の高級クラブ「コバカバーナ」のホステスだったが、1959年、東日貿易の秘書としてスカルノ大統領に送り込まれた。(カモメ)この裏には児玉誉士夫が動いて児玉は巨額の謝礼を得たといわれていますね。(ウツボ)さて本論に戻ろう。「海軍落下傘部隊」(朝日ソノラマ)のによると、昭和16年11月26日日本海軍落下傘部隊を乗せた新田丸が深夜の東京湾をコッソリ出港した。(カモメ)12月1日台湾高雄港に入港。12月8日真珠湾攻撃。台湾での訓練を終えて落下傘部隊の堀内部隊が12月下旬高雄港から加茂川に乗船してミンダナオ島のダバオへ進出しました。(ウツボ)「堀内海軍大佐の生涯」(光和堂)によると、昭和17年1月11日午前六時、作戦命令が下された。(カモメ)そうですね。作戦命令はメナドのランゴアン飛行場に落下傘降下し同飛行場及びカカス水上飛行基地を占領確保するというものでした。(ウツボ)そのとき堀内部隊に伝えられた情報はランゴアン飛行場には約五十名の敵正規兵が、カカスには約百名の敵がいるとのことだった。(カモメ)だが「歴史群像36」(Gakken)によると、オランダ軍は四百名の守備隊をランゴアン飛行場に配備していましたが、彼らは落下傘部隊に関するパンフレットを配布し、落下傘部隊の来襲を予測していた訳です。(ウツボ)あるていど予想していたんだね。飛行場の要所トーチカを八箇所構築し、三百余りのバリケードと無数の竹杭を立てて防衛を固め、両翼に装甲車二台、機関銃八丁を据えていた。(カモメ)隣接の水上機基地のあるカカスには兵力百五十名、装甲車一台、速射砲一門を配備していたのです。(ウツボ)「堀内海軍大佐の生涯」(光和堂)によると、堀内部隊(横1特)の1月11日の第一次降下隊は334人、12日の第二次降下隊は173人だった。(カモメ)堀内部隊の空挺作戦に対応して、輸送船団と護衛艦艇で佐世保の陸戦隊がメナド市東側ケマ港と西側のメナド港に上陸し、空と陸から挟み撃ちにする作戦でした。(ウツボ)1月11日午前六時半、第一次降下隊が二十八機に分乗してダバオを離陸した。(カモメ)セレベス島が迫ってきたとき、第四編隊の五番機が機銃を撃ちはじめました。鷹のような敵機が機銃を撃ちながら五番機の右側をかすめ、上方へ旋廻し、また襲ってきた。敵味方の激しい機銃音が耳をつんざいたのです。(ウツボ)そのときパイロットが「見方機だ。同士討ちだ」と」叫んだ。よく見ると敵と思われた戦闘機はフロートを付けた日本海軍の水上機だった。(カモメ)しかしその時は五番機は黒煙をはいて燃えながら落ちていったのです。中から二、三人飛び出しましたが、落下傘が開かずに海に落下していきました。海上千メートルのところで五番機は爆発しました。(ウツボ)爆発と同時に落下傘が五つ開いたが燃えており、火の傘となり焼け落ちていった。見方の駆逐艦が救援に向かったが、五番機に乗っていた空挺隊員十二名は全員死亡した。(カモメ)見方の水上機が空挺部隊の輸送機を敵と勘違いして撃墜したのです。(ウツボ)実はこの水上機は直前に敵機の攻撃を受け交戦中だった。交戦中に雲の中に入り、雲を抜け出たところに空挺部隊の五番機がおり、これを敵機と錯覚して銃撃したというんだ。(カモメ)この水上機のパイロットは自殺を図りましたが、上司からこの失敗を戦功で取り戻すようさとされ、思いとどまったといわれていますね。(ウツボ)しかし、メナド降下作戦の詳細は後で述べますけど、とにかく激戦だった。(カモメ)なにしろ降下したランゴアン飛行場には多数のトーチカが待ち構えていたのですからね。(ウツボ)つまりさきほども触れたけど、オランダ軍は日本軍の落下傘降下を予想していた。だから落下傘部隊の犠牲者が多数出た。降りるまでに下から機関銃で狙い撃ちされて、着地した落下傘があちこちで花のように血で染まっていたという。(カモメ)1つの落下傘に90発以上の弾の穴があいていたものもあったそうです。(ウツボ)トーチカの前やトーチカの上に降りた人もいた。堀内中佐もトーチカの眼前三十メートルに着地した。下は飛行場だから平地で隠れるところも無い。(カモメ)銃身の短い騎兵銃や短機関銃は別梱包で落下させているので手元になく、ピストルと手りゅう弾だけで戦ったのですね。空挺兵は全員ピストルは持っていました。(ウツボ)ピストルはブローニング式または九九式小型拳銃だった。それでも、最後には全部のオランダ軍トーチカと周辺部隊を殲滅させた。オランダ軍も多数の死者を出した。(カモメ)それではメナド降下作戦の詳細に入りましょう。
2008.03.28
(カモメ)前にも話しましたが、「歴史群像36」(Gakken)の中の「スマトラ空挺作戦」にも、「日本が太平洋戦争を始めた動機は石油資源の確保であった、と言っても過言ではない」と記してあります。(ウツボ)それはね、昭和15年当時約190万バレルの国内生産量しかない日本は大半を輸入に頼るしかなかったんだ。(カモメ)そうですね。昭和15年当時、日本の石油輸入量は3716万バレル。その八割はアメリカに依存していました。(ウツボ)ところが、昭和15年1月26日、日米通商航海条約が失効した。日米関係の急速な悪化にともない、アメリカからの石油輸入量が大きく制限されていったんだね。(カモメ)そうすると、日本は石油をアメリカ以外から確保しなければならなくなりました。そこで目をつけたのが蘭印ですね。(ウツボ)そうですね。蘭印とはオランダ領東インドのことだ。現在のインドネシアだ。1602年オランダはこの南洋の地に東インド会社を設立した。(カモメ)ここを足場にオランダは極東方面に進出し台湾を植民地化したのですね。そして鎖国した日本との交易権を欧州で唯一獲得しました。(ウツボ)その後オランダは三度の英蘭戦争やナポレオンによる本国占領などで衰退したが、蘭印の領有は存続させていた。(カモメ)それで、蘭印から石油が産出されたのは、1883年ですね。スマトラで初めて発見されました。(ウツボ)それ以来東南アジア最大の産油地帯となった。(カモメ)昭和15年当時蘭印の総石油産出量は6510万バレルです。内訳はスマトラ島4000万バレル、ボルネオ島1900万バレル、ジャワ島610万バレル。(ウツボ)当時日本は総輸入量の一割の約370万バレルを蘭印から輸入していた。蘭印は日本にとってまさに宝の島だった。(カモメ)昭和15年5月10日、ドイツ軍がオランダに侵入、わずか三日で占領しました。オランダ政府はイギリスに亡命。本国を失った蘭印は宙に浮く格好となった訳です。(ウツボ)日本政府は5月15日第四艦隊(司令長官・片桐英吉中将)にパラオ方面へ進出命令を出し、第四艦隊は出撃したんだ。(カモメ)第四艦隊は南洋諸島の防備が名目でしたが、蘭印進出を想定していました。(ウツボ)そうなんだ。だが、第四艦隊は防備に従事するだけで、日本政府はそれ以上の作戦命令を出さなかった。(カモメ)蘭印に手を出すことにより英米と開戦になることを想定し、慎重になっていたのですね。(ウツボ)そう。当時、英国と米国との摩擦に神経を尖らせていた。だが、戦史上この判断は失敗だった。イギリスは対ドイツ戦で手一杯で、蘭印のために日本と戦争する余裕は全く無かった。(カモメ)チャーチルはこのときなぜ日本が蘭印に兵力を送り込まなかったか理解に苦しんだと言われています。(ウツボ)この時期、アメリカもイギリスの危機を無視することが出来ず、最大限の援助を決したばかりで、太平洋方面で日本が軍事行動に出てもそれに介入しない方針だった。(カモメ)つまり当時は米英両国とも蘭印のために日本と戦争をする気はなかったと言われています。この時点で日本は最大のチャンスを逃したのですね。(ウツボ)もっと極端な拡大解釈をすると、日本が第一段作戦で真珠湾攻撃を行なわずに、南方作戦だけだったら、対米開戦は延期か、行なわれなかった。その可能性もあるんだ。(カモメ)確かに真珠湾攻撃が対米開戦の決定的なものでしたからね。(ウツボ)まあ、戦史で仮定の話を出すときりが無いから、あまり意味はないのだがね。(カモメ)空挺作戦の話に戻りましょう。「歴史群像36」(Gakken)によると、昭和16年9月20日、横須賀鎮守府に日本で始めての空挺部隊編成が発令され、館山に最初の空挺部隊が創設されました。(ウツボ)そうだね。その部隊名は横須賀鎮守府第1特別陸戦隊で、略称は横1特。隊長は四十一歳の堀内豊秋中佐。(カモメ)落下傘を装着しての初降下訓練は9月26日に開始されました。だが、誤って海上に降下したり、落下傘が開かずに墜事故が多発し、一挙に二十人もの犠牲者を出しました。(ウツボ)訓練は秘密に行なわれていたため、犠牲者は飛行機事故による殉職とされた。(カモメ)それでも11月16日、軍令部立会いのもとに降下演習を実施、全員が無事着地を果たしました。(ウツボ)11月20日、横3特部隊が創設され、横1特750人、横3特750人の部隊に分かれた。(カモメ)横3特の部隊長は福見幸一少佐が任命されましたね。(ウツボ)蘭印攻略戦は昭和17年1月11日のメナド侵攻作戦によって開始された。(カモメ)日本軍としての最初の落下傘部隊による空挺作戦は海軍空挺部隊の横1特が行ないました。(ウツボ)1月11日、横1特は蘭印セレベス島のメナド近くのランゴアン飛行場に降下した。目的はランゴアン飛行場を制圧し日本海軍の航空基地にすることだった。(カモメ)蘭印は、ジャワ、スマトラ、ボルネオ、セレベス(現スラウェシ島)などの主島を中心に北緯6度から南緯11度まで赤道をはさんで広がりその総面積は日本の三倍もあります。(ウツボ)メナドについて話しておこう。現在はインドネシア共和国北スラウェシ州メナド市となっている。スラウェシ島(旧セレベス島)の最北端にある。(カモメ)周辺の海岸は広大な珊瑚礁があり、世界中のダイバーが集まるダイビングスポットですね。(ウツボ)インドネシア共和国は人口2.19億人だから日本の約2倍弱だ。首都はジャカルタで約870万人。約九割がイスラム教だ。(カモメ)戦前はオランダが約40年に渡って植民地にしていましたが、日本軍がスマトラ、メナドなどに上陸してオランダ軍を制圧して占領しました。終戦の年、1945年にインドネシアは独立しましたね。(ウツボ)そうだね、独立した。それで、終戦以前に、スカルノはインドネシア独立のために日本軍に協力した。終戦後、オランダは再びインドネシアを植民地にしようとしたが、1945年8月17日、スカルノとハッタの二人は「インドネシアの独立宣言」を行なった。(カモメ)これに対してオランダは軍を派遣してインドネシア独立戦争が始まりました。(ウツボ)しかし1949年12月のハーグ協定によりインドネシアはオランダから主権委譲を受け独立国家としての第一歩を踏み出した。(カモメ)そのようないきさつから、スカルノが大統領に就任、長期に渡り指導者として君臨しましたね。
2008.03.21
(カモメ)「落下傘隊長・堀内海軍大佐の生涯」(光和堂)によると、日米関係が風雲急を告げていた時局に、経済封鎖に追い詰められていく日本にとって、オランダ領東インド(インドネシア)の石油資源の確保が最大の課題でした。(ウツボ)だからメナドに落下傘部隊を降下させて、石油を確保する、戦略だった。(カモメ)そうですね。それで空挺部隊を編成しました。当時、海軍落下傘部隊の訓練施設は横須賀の久里浜に近くにあった。(ウツボ)海軍落下傘部隊の初代隊長、訓練で堀内豊秋海軍中佐は「猫がえりをやろう」と隊員たちに言ったと記されている。(カモメ)猫は高いところから飛び降り、下が平地でなくても四本足でぴたりと着地する。降下を成功させるために。それを見習おうと提案した訳です。(ウツボ)無風状態で落下傘で着地すると、この本では、少なくとも2.5メートルの高さから飛び降りるほどのショックを受けると記されている。(カモメ)だから骨折を防ぐため、どんなに地形の形が悪い場所であっても背中を打たずに、両手両足をそろえて安全な着地をする。これが「猫がえり」ですね。(ウツボ)そうだね。この堀内中佐はデンマーク体操を採用し海軍で教えた人だ。(カモメ)一方、陸軍はスウェーデン式体操を取り入れ、陸軍戸山学校で教えていましたね。(ウツボ)海軍では横須賀の砲術学校が体操の研究機関であり、そこから若手の教官が戸山学校に派遣されて習っていた。だが、このスウェーデン式体操はカカシのようにしゃちほこばっていた。(カモメ)だから、そのぎくしゃくした動きは海軍には不評だったのです。(ウツボ)デンマーク体操は玉川学園(東京)の創立者小原国芳が目を着けた。(カモメ)そうですね。彼は昭和4年に学園教諭の斉藤由理男を一年間デンマークのオレロップ体操高等学校に留学させましたね。(ウツボ)そう。それで帰国した小原が昭和6年に全国主要都市四十数ヶ所でデンマーク体操の実演と講習会を行なったんだ。(カモメ)昭和6年の秋、海軍兵学校の体操教官であった堀内大尉は兵学校から出張を命じられ、岡山市で開かれたこの講習会に参加したのですね。(ウツボ)そうなんだ。これが出会いだった。このあと堀内大尉は知人に「暗夜に光明を見た思いだった。体操にも生命があると悟ったよ」と語っているんだ。(カモメ)岡山の講習を終えて江田島に帰った堀内大尉は、気がおかしくなったのではないかと言われるほどデンマーク体操に熱中しましたね。(ウツボ)夜中でも布団を積んで宙返りをしたり、ドタンバタンをやったり、隣近所の教官たちを驚かせた。(カモメ)また当時堀内大尉は百メートルを十秒台で走ったと言われています。堀内が兵学校の敷地内を走っていると、生徒たちが「おい、見ろよ、タコだぞ、まるでタコ坊主じゃないか」と言い合っていた。(ウツボ)堀内大尉は当時三十歳だったが、頭がつるりと禿げ上がっていた。(カモメ)もともと堀内は海軍兵学校五十期として卒業後、パイロットの適性を認められて、大正14年9月霞ヶ浦海軍航空隊の飛行学生に採用されたのです。(ウツボ)そう飛行機乗りが出発だった。そのときの霞ヶ浦海軍航空隊の司令は小松直幹少将(海兵25期)、副長は山本五十六大佐(海兵32期)だった。(カモメ)堀内少尉は艦上機班としてパイロットの訓練を受けていました。ある日、他の飛行学生が試運転を始めた時、堀内少尉と福田少尉が両翼を押さえていた。操縦者がスロットルを全速回転にしたとき、突然飛行機が動き出した。(ウツボ)堀内少尉は車輪止めの位置を直そうと駆け寄った。ところが回転しているプロペラに肩が触れて骨が折れて昏倒した。(カモメ)入院して二ヶ月後に飛行場にでたところ、教官から「教程の遅れを取り戻すのは無理なので、次期飛行学生に編入させる」と告げられたのですね。すると堀内少尉は「次期編入になるのなら、飛行学生を辞めます」と憤然と去っていったと言われています。(ウツボ)いわば、留年だね。飛行学生にとっては、プライドの問題があるのだろう。しかし、一方、どうしてもパイロットになりたいのなら、一期遅れてもかじりついてその道を歩む考えもあるはずだが。堀内少尉はそれはしなかった。(カモメ)それは言えますね。その後堀内少尉は艦船乗り組みを経て、昭和2年12月大尉で海軍砲術学校高等科学生になっています。(ウツボ)その後、昭和5年12月海軍兵学校教官(体操)に補されている。昭和6年兵学校文官教官の娘と結婚。昭和9年に海軍砲術学校教官、海軍少佐に昇進している。(カモメ)その後軍艦の乗り組み(砲術長)を経て、昭和15年に再び海軍兵学校教官になりましたね。階級は海軍中佐ですね。(ウツボ)堀内中佐は昭和16年9月に横須賀鎮守府第一特別陸戦隊司令、そして落下傘部隊長になった。(カモメ)そして開戦後、昭和17年1月11日、日本軍初の空挺作戦を、落下傘部隊長として行ないました。(ウツボ)オランダ領東インド(インドネシア)の北セレベス(スラウェシ)の要衝、メナドに降下した。
2008.03.14
(ウツボ)入隊当初の基礎訓練が終ると、各自が折りたたんだ落下傘をダミー(降下用人形)に装着して、各自が飛行機から投下する投下開傘試験が行なわれた。(カモメ)投下開傘試験の翌日は初降下ですね。(ウツボ)そう。ダミーの降下で自分の落下傘が開くのを確認しているが、いざ自分が飛行機から飛び出したが最後、全てを託さなければならないのが自分の落下傘なのだからね。(カモメ)初降下の前夜、ある者は傘を抱いて寝た。落下傘にお神酒をあげた者もいたそうです。(ウツボ)「海軍落下傘部隊」(朝日ソノラマ)によると、初降下とはどういうものか、記してあるね。紹介しよう。初降下の日、輸送機に乗り込んで、めざす館山航空隊の飛行場に向かったとある。そこに降下するんだ。(カモメ)初降下は一機から一人ずつ降下するのですね。館山飛行場に近づくと、「ブー、ブー」と機内のブザーが長音を二回鳴らす。(ウツボ)それは降下コースに入ったので降下準備をせよという合図だ。この音を聴くと降下員は緊張するそうだ。(カモメ)飛行場上空にかかると、機外にグッと体を乗り出した降下員の耳元のブザーが一秒感覚に鳴り出します。「トン、トン、トン」これは用意の意味。誰もが体験する息詰まる一瞬です。(ウツボ)緊張しきった降下員に引き続き長音「ツー」が鳴り響く。降下せよの意味だ。黒い人間のかたまりが、放物線を描いて落ちていく。(カモメ)チラッと白片がなびく。吹流しの棒状をなして、主傘体が全部現れます。六十メートル落下、パッと大輪の花がみごとに開くのですね。空中で手足を動かしているのは、吊索(ちょうさく)のよじれをとっているのです。(ウツボ)「風に背を向けろ」「脚をしっかり合わせろ」地上の指導員がメガホンで大声を張り上げる。(カモメ)地上に着くと、落下傘兵は指揮官のところに行き「降下終了、異状ありません」と落下傘を小脇に抱えて嬉しそうに元気な声で報告するのですね。(ウツボ)だが落下傘が開かずに地上に激突死する犠牲者も多数出た。(カモメ)そうですね。また、昭和16年10月28日、訓練で輸送機が館山飛行場に向かって海の上を飛んでいるとき、搭乗員が誤ってブザーを「ブー、ブー」と押し、それを降下と取り違えた降下員が飛び出し、残ったものも次々に合計六名が海の上に飛び出し、海上に落下して犠牲者を出しました。(ウツボ)海に降下すると、落下傘は海の底に沈むので、落下傘から離れられずに一緒に海の底に沈んでしまったんだ。(カモメ)だから高度十メートルぐらいのときに落下傘バンドをはずして落下傘を切り離し、身軽になって海に飛び込まなければならないのですね。(ウツボ)そう、それが出来なかった。溺死したんだね。(カモメ)このように開戦までにすでに多数の落下傘兵が訓練中に事故で亡くなっていました。それほど日本軍の落下傘部隊は泥縄式に、急に編成されたのですね。(ウツボ)落下傘部隊を最初に実戦で使用したのはソ連ではなく、イタリアだった。イタリア空軍はエチオピア攻略戦で落下傘部隊を戦線に降下させ、成功した。これにより、攻略戦を勝利に導いた。(カモメ)ソ連が実戦で落下傘部隊を使用したのは1939年のフィンランド戦争が初めてですね。(ウツボ)そのときソ連は第一線陣地よりはるか奥地のフィンランド北方地区に降下させた。(カモメ)ところが、意外にも、この地方のフィンランド軍と住民は精悍であり、降下したソ連の落下傘部隊は取り囲まれ、彼らにより、一兵残らず全滅させられたのですね。(ウツボ)だから空挺作戦は成功すればめざましい戦果をあげるが、失敗すると、散々な目にあう。(カモメ)ドイツでは1935年、ベルリン警視庁が「第五列」と称する特別部隊をつくり、演習を行なっています。(ウツボ)そうだね。これがドイツ軍落下傘部隊のはじまりだった。この直後、ドイツ軍は最初の落下傘部隊をつくり次第に強化していった。そしてドイツは「ゲーリング連隊」と称する最強の落下傘部隊を創設した。(カモメ)この「ゲーリング連隊」はベルギー、オランダ両国にたいする電撃作戦で、ロッテルダム、アムステルダム、ハーグなどの重要拠点に奇襲降下し、成功しました。この作戦に世界は驚嘆した訳です。(ウツボ)確かにその時点ではドイツは成功した。だが、そのドイツも、1941年5月、エーゲ海に浮かぶクレタ島にエリートの空挺部隊だけでの占領を計画し、落下させたが、ギリシャからの敗残兵により再起不能の大損害を受けている。(カモメ)なんとか占領はしたものの、クレタ島は「空挺部隊の墓場」とまで言われたのですね。以後ドイツ軍は大規模な空挺作戦を実施することはなかったですね。(ウツボ)日本では最初に実戦として昭和17年1月11日、セレベス島メナドに、海軍落下傘部隊が降下、成功した。(カモメ)だがメナドはオランダ軍が落下傘部隊の奇襲を予想していたため、多数のトーチカが築かれており、下から機関銃で狙い撃ちされたため多数の犠牲者を出しています。(ウツボ)次に2月14日、スマトラ島パレンバンに陸軍落下傘部隊が降下、これも成功した。また、2月20日にはチモール島クーパンに海軍落下傘部隊が降下、成功している。(カモメ)海軍空挺作戦というと、主役は堀内豊秋海軍大佐ですね。優秀な人で、日本軍で初めて落下傘部隊隊長として作戦を指揮してメナドに降下、激戦の後、オランダ軍を制圧、作戦を成功させた人ですね。(ウツボ)陸軍にも落下傘部隊はあったが、堀内中佐(当時)の海軍落下傘部隊が最初に太平洋戦争の作戦に参加、初めてメナドに降下したんだね。
2008.03.07
(カモメ)「海軍落下傘部隊」(朝日ソノラマ)のによると、落下傘の落下速度による着地の衝撃は大体1.5メートル~2メートルの台の上からから飛び降りたくらいのものと同じということです。(ウツボ)著者の山辺雅男氏は海軍兵学校66期で元海軍少佐。メナド空挺作戦に中隊長として参加している人だね。確かな話だね。(カモメ)そうですね。2メートルの高さから飛び降りる。その位なら、できそうですね。(ウツボ)子どもの頃、川の橋の欄干から下の砂地によく飛び降りて遊んでいたが、あれは3メートルはあった。(カモメ)3メートルですか。しかしそれは、子どもだから体重も少ないし、体も柔らかいから、けがもしなかったのでしょうが、大人だったらどうでしょうか。(ウツボ)そうだね。海水浴場の飛び込み台だって怖いと感じることがあったからね。(カモメ)ウツボ先生は落下傘で飛び降りたいと思いますか?(ウツボ)いやいや、俺は結構だ。普通の人はやってみようと思わないだろうね。カモメさんはどうですか。(カモメ)俺も軍用の落下傘はね、ちょっと。けれども、パラグライダーの大会が周防大島町で毎年ありますから、何回か見に行ったことがありますね。あれならやってみたい。(ウツボ)ああ、パラグライダーはスポーツですね。(カモメ)高い山の山頂から離陸して、大空を滑空して海のそばの広場に着地するのですが、すばらしいですね。(ウツボ)それは、慣れれば爽快だろうね。(カモメ)でも、俺がパラグライダーの大会を見学に行った時、多数の見学者の前で、ある選手が着地寸前で操作を誤り失速して一直線に落下しました。(ウツボ)ええっ、どのくらいの高さから?(カモメ)だいぶ前のことなのではっきり覚えていませんが、5メートルはあったと思いますね。すごかったですね、パラシュートがゆがんでしぼんで浮力が失われると同時にストーンと一直線に落下しましたから。(ウツボ)怪我はしたの。(カモメ)ええ。確か背中から落ちたと思います。すぐに救急車で運ばれていき、命は別状ないとのことでしたが、怪我をしたということでしたね。(ウツボ)重力の恐ろしさだね。(カモメ)足から着地すれば、よかったのでしょうが、失速ですから、本人もどうしようもなかったのですね。(ウツボ)あっという間だからね。(カモメ)「海軍落下傘部隊」(朝日ソノラマ)のによると、落下傘を最初に軍が取り入れて訓練を実施したのはソ連ですね。(ウツボ)そうだね。1929年(昭和4年)に武装兵団の集団落下を組織的に研究し、1936年(昭和13年)11月にモスクワ赤軍大演習でパラシュート部隊の大演習を行なった。これに、世界中が注目した。(カモメ)落下傘降下は当時ソ連では青年男女の間で、もっともポピュラーなスポーツだったということです。各地に落下傘学校があり、全国の公園やスタジアムなどに1000以上の落下傘塔があり、その上から飛び降りて楽しんだ。(ウツボ)そうだね。当時八十万人以上の青年男女が参加していたと記されている。(カモメ)ドイツ、フランス、イタリアはソ連の落下傘部隊に関心を持ち、相次いでその研究と訓練に取り掛かっていますね。(ウツボ)日本の陸海軍はこれよりずっと遅れ、昭和15年末にやっと落下傘部隊の研究に着手したんだ。(カモメ)もっとも民間の工場では早めに着目して研究開発を行なっていましたね。(ウツボ)そう、欧米数カ国の特許をとり注目を受けていた野中式パラシュート(発明者・野中肖人)の低空落下試験が、昭和11年11月21日、州崎飛行場で行なわれたんだ。(カモメ)そのとき来賓として英、米、トルコ、ソビエトなど各国の武官がにぎやかに列席して非常に賑わいをみせていたということです。(ウツボ)日本パラシュート製作所技術員・肥後清三が野中式パラシュートにより、世界で初めて最低空の三十メートルの高度から冒険落下を行なうというものだった。(カモメ)発明者、野中氏から観衆一同に紹介があり、サムソン複葉機で飛行場の東側から離陸しました。(ウツボ)肥後清三の実験前にロボットによる低空降下実験はすべて成功していたんだ。(カモメ)午後2時2分、肥後はアジア飛行学校格納庫上空三十五メートルから飛び降りました。(ウツボ)ところがパラシュートはどうしたものか、開かずに、肥後の体は、アッという間に、群がる自動車の前方に落下して、ドウッという地響きとともに地面に激突した。即死だった。(カモメ)お披露目の華やかな舞台は一転、悲壮な修羅場に変わりました。(ウツボ)このような失敗を積み重ねて落下傘の歴史は展開していったんだね。(カモメ)ここらで空挺作戦の特徴について述べたいと思います。軍事的に落下傘部隊の空挺作戦は成功すれば、驚くべき効果をあげるが、失敗だと全滅の恐れがある。それが落下傘を使った作戦の特徴ですね(ウツボ)だから落下傘部隊の隊員は、日本陸軍でも海軍でも最優秀で最強の兵士を採用している。現在の自衛隊でもそうだけど。装備も軍中央当局は出来るだけ空挺部隊に最優先で最新装備や武器を与えているんだ。(カモメ)「昭和戦争文学全集4太平洋開戦」(集英社)の中の「メナド降下作戦」によると、昭和16年9月、横須賀鎮守府の特別陸戦隊である海軍落下傘部隊は、全力で降下訓練を行なっていました。(ウツボ)当時落下傘は150個くらいしかなかった。だが航空本部などからの催促で藤倉航空工業では不眠不休で製作を続け、次々に部隊に落下傘を納入した。(カモメ)当時入隊当初の基礎訓練は、堀内中佐のデンマーク式落下傘体操二時間、ブランコおよび飛び出し訓練一時間、落下傘折りたたみ整備訓練三時間、同乗慣熟飛行一時間、航空機・落下傘に関する座学一時間という内容であったと記されています。
2008.02.29
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