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【緒方尚行(おがた・なおゆき)大尉5】(カモメ)緒方尚行は、大正五年生まれ。鹿児島県枕崎出身。昭和十五年六月、第八一期下士官操縦学生卒業。昭和十七年十二月陸軍航空士官学校(少尉候補第二三期)入校。昭和十八年八月陸軍航空士官学校卒業、少尉。(ウツボ)昭和十九年三月、緒方少尉は、飛行第五九戦隊(福岡県芦屋飛行場)第一中隊配属。四月二十四日から五月十日まで、明野陸軍飛行学校で、<川崎・三式戦「飛燕」液冷単座戦闘機>への伝習教育を受けた。(カモメ)その後、原隊復帰し、北九州の要地(小倉・八幡地区)の防空任務、錬成に従事しました。(ウツボ)六月十五日以降の、中国大陸からの<ボーイングB-29「スーパーフォートレス」(超空の要塞)四発大型爆撃機>による北九州来襲に対して、緒方中尉は、毎回の迎撃戦に出撃、直上攻撃法により、<ボーイングB-29「スーパーフォートレス」(超空の要塞)四発大型爆撃機>を三機撃墜した。(カモメ)十一月、緒方中尉は済州島派遣隊に参加しました。北九州爆撃後、帰路についた<ボーイングB-29「スーパーフォートレス」(超空の要塞)四発大型爆撃機>に対する迎撃戦に従事したのですね。(ウツボ)そうだね。昭和二十年三月、沖縄航空戦(天号作戦)の発動により、飛行第五九戦隊は第一次攻撃集団に編入された。四月一日鹿児島県の知覧飛行場に前進した。(カモメ)四月二日、緒方中尉は特攻機を援護して喜界島に進出、制空戦に参加しましたが、空襲で愛機を失いました。(ウツボ)四月二十七日、喜界島制空戦に参加した飛行第五九戦隊の操縦員、井上早志大尉(第三中隊長)、浅野彌宣壽彦少尉、沖中健一少尉、生田憲政曹長、今政浩軍曹は、輸送機で知覧に帰還する途中撃墜され、全員戦死した。(カモメ)輸送機に乗った第五九戦隊の優秀な操縦員五名を一気に失ったのですね。四月二十九日緒方中尉も輸送部隊の重爆に便乗しましたが、無事芦屋飛行場に帰還しました。(ウツボ)芦屋で緒方中尉は、戦死した井上早志大尉の後任として、第三中隊長に任命され、引き続き、防空任務に従事した。(カモメ)五月十四日の南九州迎撃戦では、緒方中尉は編隊を率いて知覧飛行場を発進、桜島上空で、<グラマンF6F「ヘルキャット」艦上戦闘機>と<ヴォ―トF4U「コルセア」艦上戦闘機>の編隊約三〇機と空戦に入りました。(ウツボ)この空戦で緒方編隊は三機を撃墜した。そのうち一機は緒方中尉が撃墜。これにより、鹿屋空襲を未然に防いだ。(カモメ)緒方中尉は、陸軍武功章(乙)を授与され、六月大尉に進級しました。(ウツボ)その後、飛行第五九戦隊は芦屋飛行場に後退、<川崎「五式戦」単座戦闘機>への機種改編、伝習教育を受けた。(カモメ)その後、北九州要地防空、阪神地区防空任務に従事したが、本土決戦に備え兵力温存につとめたため、空戦の機会は少なく、七月には蓆田飛行場に移動しました。(ウツボ)昭和二十年八月十四日、緒方大尉は、<川崎「五式戦」単座戦闘機一型>で出撃、芦屋上空の空戦で<ノースアメリカンP51「マスタング」単座戦闘機>一機を撃墜した。(カモメ)緒方大尉は、自身の撃墜数を五機とし、翌日終戦を迎えました。(ウツボ)緒方大尉は、大戦末期の、飛行第五九戦隊を代表する、撃墜王だった。(カモメ)以上で、日本帝国陸軍を代表する撃墜王たちの空戦記録は終わりですね。(ウツボ)そうだね。次回からは、「海軍撃墜王列伝」で、日本帝国海軍を代表する撃墜王を紹介していく。
2018.11.16
【根岸延次(ねぎし・のぶじ)曹長・6機】(ウツボ)根岸延次は大正十三年一月生まれ。埼玉県出身。実家は農家。昭和十四年十月東京陸軍航空学校(第四期生)入校。(カモメ)昭和十七年七月宇都宮陸軍飛行学校(少年飛行兵第九期生)卒業、飛行第二四四戦隊(東京・調布飛行場)第一中隊配属。(ウツボ)昭和十八年末、新編成された飛行第一八戦隊に配属。装備機は<川崎・三式戦「飛燕」液冷単座戦闘機>。引き続き、調布飛行場で、夜間戦闘訓練に専念した。(カモメ)昭和十九年三月、飛行第五三戦隊配属。飛行第五三戦隊は日本本土への<ボーイングB-29「スーパーフォートレス」(超空の要塞)四発大型爆撃機>の侵攻に備えて編成され部隊でした。(ウツボ)根岸軍曹は、同戦隊の装備機<川崎・二式複戦「屠龍」丁型双発複座重戦闘機>による夜間戦闘隊編制要員に選抜された。(カモメ)夜間戦闘隊編制要員として根岸軍曹は、対爆撃機戦闘訓練、夜間飛行訓練に従事しました。八月松戸飛行場に移動。(ウツボ)昭和二十年二月、根岸軍曹は航空審査部に出張、<三菱・百式司令部偵察機三型・複座・双発>の未習飛行と高高度戦闘伝習教育を受け、帰隊した。(カモメ)三月十日夜、根岸延次軍曹は、<川崎・二式複戦「屠龍」丁型双発複座重戦闘機>で迎撃に出撃しました。初めての迎撃戦だったのです。(ウツボ)三五〇〇メートルの低空で来襲し、地上の照空灯で照らし出された<ボーイングB-29「スーパーフォートレス」(超空の要塞)四発大型爆撃機>に対して、後ろから下に潜り込み、衝突寸前まで肉薄、上向き砲(二〇ミリ機関砲二門)で敵機の爆弾倉を攻撃した。(カモメ)その結果、根岸軍曹は、二機撃墜の戦果を上げたのです。その後も、迎撃戦に出撃、戦果を上げ続け、飛行第五三戦隊では最多撃墜者となりましたね。(ウツボ)そうだね。七月九日、根岸軍曹の<ボーイングB-29「スーパーフォートレス」(超空の要塞)四発大型爆撃機>六機撃墜、七機撃破の戦功に対して、表彰状と武功徽章(乙)が、東部軍司令官・田中静壱大将から授与された。(カモメ)その際、根岸軍曹は、田中大将から「みだりに死に急ぐことなく、一日でも長生きして、ご奉公せよ」と激励を受け、田中大将自ら根岸軍曹の左胸に武功徽章を佩(は)け、その武勲を称えたのです。(ウツボ)根岸軍曹に対する表彰状は、次の通り。(カモメ)表彰状 陸軍軍曹 根岸延次(ウツボ)「右ハ昭和十九年十一月以降本年五月ニ至ル間マリアナ基地ヨリスル米空軍ノ帝都来襲ニ方リ毎戦出動シ果敢ナル攻撃ヲ遂行シB-ニ九、六機ヲ撃墜七機ヲ撃破スルノ赫々タル戦果ヲ挙ゲ是実に烈々タル闘魂ノ下卓抜ナル戦闘技倆ヲ遺憾ナク発揮シ克グ皇都守護ノ大任ヲ完遂セルモノト謂フベク真ニ空中勤務者ノ儀表タリ」。(カモメ)昭和二十年七月九日 従三位 第一二三四五部隊長陸軍大将勲一等田中静壱 功三級(ウツボ)翌日付で根岸軍曹は曹長に特別進級した。
2018.11.09
(ウツボ)昭和二十年三月十三日の大阪大空襲では、鷲見忠夫曹長は、夜間迎撃に反復出撃し、大火災の大阪市街地上空に低空で侵入する<ボーイングB-29「スーパーフォートレス」(超空の要塞)四発大型爆撃機)>に対して、探照灯が捕捉した敵機に単機で迎撃を行った。(カモメ)この日の迎撃で、鷲見曹長は大型爆撃機四機撃墜、三機撃破という大戦果を上げたのです。その後天候不良になり、帰途についたのですが、燃料切れで落下傘降下。その際に尾翼で肩を打って負傷、三か月入院しました。(ウツボ)鷲見曹長のこの勇戦に対し、第一一飛行師団長・北島熊男中将の上申により、第一五方面軍司令官・川辺正三大将から、三月二十一日付で個人感状が、六月二十一日付で生存者としては異例の陸軍武功徽章(甲)が授与された。(カモメ)負傷回復後も、迎撃戦に復帰、出撃を続けました。八月十五日の終戦までの鷲見准尉の総撃墜数は<ボーイングB-29「スーパーフォートレス」(超空の要塞)四発大型爆撃機)>五機、撃破四機、<ノースアメリカンP51「マスタング」単座戦闘機>一機の計六機。(ウツボ)累計飛行時間は二〇九〇時間。昭和六十年七月二十四日死去。享年六十九歳。【吉田好雄(よしだ・よしお)大尉・6機】(カモメ)吉田好雄は、大正十年生まれ。広島県広島市出身。昭和十四年十一月陸軍航空士官学校入校。昭和十七年三月陸軍航空士官学校(五五期)卒業、少尉。(ウツボ)明野陸軍飛行学校(乙種学生・戦技教育)卒業後、十月飛行第七〇戦隊配属(満州国杏樹)。装備機は<中島・二式戦「鍾馗」単座戦闘機>。(カモメ)昭和十九年二月、帝都防空の為、松戸飛行場(千葉県)に移動。七月南満州防空の為、鞍山へ移動。十一月飛行第七〇戦隊は帝都防空の為内地帰還、柏飛行場(千葉県)に展開、<ボーイングB-29「スーパーフォートレス」(超空の要塞)四発大型爆撃機>迎撃戦に従事。(ウツボ)昭和二十年二月、吉田好雄中尉は第三中隊長に任命された。以後、吉田中尉は三月~五月に<ボーイングB-29「スーパーフォートレス」(超空の要塞)四発大型爆撃機>を六機撃墜、大尉に昇進。(カモメ)八月十日、第一二方面軍司令官・田中静壱大将から、表彰状と陸軍武功徽章(乙)が吉田大尉に授与されました。八月十五日、吉田大尉は終戦を迎えました。<空戦記録>(ウツボ)昭和十九年九月八日、南満州防空のため、鞍山に展開していた飛行第七〇戦隊に対し、アメリカ陸軍航空軍・第二〇空軍の<ボーイングB-29「スーパーフォートレス」(超空の要塞)四発大型爆撃機>一〇八機が来襲した。(カモメ)この時、吉田中尉は、<中島・二式戦「鍾馗」二型丙単座戦闘機>で出撃、<ボーイングB-29「スーパーフォートレス」(超空の要塞)四発大型爆撃機>を一機不確実撃墜し、初戦果を上げました。(ウツボ)昭和二十年三月十日、柏飛行場から<中島・二式戦「鍾馗」二型丙単座戦闘機>で迎撃戦に出撃した、吉田中尉は、<ボーイングB-29「スーパーフォートレス」(超空の要塞)四発大型爆撃機>を一機撃墜した。(カモメ)その後、四月十三日と四月十五日に<ボーイングB-29「スーパーフォートレス」(超空の要塞)四発大型爆撃機>を一機ずつ撃墜しました。五月二十四日には二機、五月二十五日に一機撃墜したのですね。(ウツボ)そうだね。吉田大尉の確実撃墜数は合計六機となった。四〇ミリ自動噴進砲による攻撃が重爆に対して威力を発揮した。(カモメ)昭和二十年六月、飛行第七〇戦隊は<中島・四式戦「疾風」単座戦闘機>に機種改編を開始しましたが、同機による実戦参加はなかったのです。(ウツボ)その後、飛行第七〇戦隊は、実験中のロケット局地戦闘機「秋水」の装備を予定し、吉田大尉も同機の操縦者に予定されていたが、「秋水」は配備される前に終戦となった。(カモメ)吉田大尉の最終撃墜数は、<ボーイングB-29「スーパーフォートレス」(超空の要塞)四発大型爆撃機>六機撃墜、不確実撃墜一機。飛行第七〇戦隊では、第二位の撃墜王。過酷の空中戦を生き延びて終戦を迎えました。
2018.11.02
(ウツボ)終戦後、小林照彦少佐は、昭和二十年十一月一日に復員して東京の自宅に帰った。昭和二十一年四月明治大学法学部(二部)入学。八月佐賀板紙株式会社入社。昭和二十五年明治大学卒業。(カモメ)昭和二十九年九月佐賀板紙株式会社退社。航空自衛隊入隊、三等空佐。三十四歳でした。航空自衛隊幹部学校卒業。(ウツボ)昭和三十年十一月米国留学・F86戦闘機操縦課程。帰国後、第一飛行団第一飛行隊長(浜松基地)。(カモメ)昭和三十二年六月四日、搭乗のT-33ジェット練習機が離陸直後に墜落し殉職。二等空佐に特進。享年三十六歳。飛行時間は二〇〇〇時間でした。(ウツボ)六月四日の事故は次のようなものだった。(カモメ)浜松基地で、離陸直後に起きた事故でした。T-33ジェット練習機の後方席に小林照彦三佐、前方席に天野裕三佐が登場し離陸したのです。(ウツボ)射撃訓練のため、標的にする吹き流しをつけた曳的機だった。離陸一分後に、エンジンが故障した。高度は三十三メートルだった。(カモメ)小林三佐は、天野三佐を先に脱出させ、市街地に機を墜落させないように、最後まで操縦して墜落、殉職したのですね。(ウツボ)そうだね。パイロットの処置としては、最大限の努力がなされ、技術的にも最善の措置がとられた操縦の結果であるとの評価がなされている。(カモメ)先に脱出した天野三佐も、脱出高度が低すぎたため、パラシュートが開かず殉職しました。小林三佐と天野三佐はともに二佐に特別進級しました。(ウツボ)「ひこうぐも―撃墜王小林照彦少佐の航跡」(光人社NF文庫・平成17年)の著者、小林千恵子氏(小林照彦少佐夫人)は「あとがき」で、次の様に述べている(一部抜粋)。(カモメ)いまや、まさに躍進を続ける航空界の華々しさの蔭には、幾多の尊い犠牲が数多くあります。(ウツボ)その一つ一つは原因も、経過も違いますが、結果だけはただ一つ、厳粛な死という現実となって存在するのです。(カモメ)けれども生命の無ということは精神の無とは異なっていることを、十数年経った今も、強く感じております。(ウツボ)亡き人々から受け継がれたものが、いつどこで開花するかはわかりません。或いは目立たぬ間に、日常の無事の中で開花は始まっているかも知れません。(カモメ)思い出は、時に楽しく、時に苦しく私を過去へ引き戻してくれました。【鷲見忠夫(すみ・ただお)准尉・6機】(ウツボ)鷲見忠夫は、大正五年四月生まれ。岐阜県郡上郡八幡町(現・郡上市)出身。昭和十二年二等兵として陸軍に召集され、第二次上海事変・軟禁攻略戦に参加。中支戦線に駐留中、実兄の鷲見信義二等飛行兵曹(操練二七期)の戦死を知り、自分も飛行兵を志願した。(カモメ)昭和十六年一月熊谷陸軍飛行学校入校。八月熊谷陸軍飛行学校(第八六期下士官操縦学生課程・戦闘機操縦)卒業、飛行第一四四戦隊(調布飛行場)第二中隊配属。(ウツボ)昭和十七年四月飛行第一四四戦隊は飛行第二四四戦隊に改称。昭和十八年六月から十二月にかけ、装備機を<中島「九七式戦」低翼単葉戦闘機>から、<川崎・三式戦「飛燕」液冷単座戦闘機>に機種改変、伝習教育が実施された。(カモメ)昭和十九年十一月マリアナ諸島から<ボーイングB-29「スーパーフォートレス」(超空の要塞)四発大型爆撃機)>が来襲するようになると、鷲見曹長は迎撃戦に出撃。(ウツボ)十二月三日、昼間の迎撃戦で、鷲見曹長は<ボーイングB-29「スーパーフォートレス」(超空の要塞)四発大型爆撃機)>を一機撃墜、初戦果を上げた。(カモメ)その直後、鷲見曹長は、中部地区防空担当の飛行第五六戦隊へ転属。十二月二十二日の中京地区迎撃戦で、鷲見曹長は、編隊戦で<ボーイングB-29「スーパーフォートレス」(超空の要塞)四発大型爆撃機)>一機撃墜、一機撃破しました。
2018.10.26
(ウツボ)小林照彦大尉は、戦闘機学生教育終了後、明野陸軍飛行学校、佐野陸軍飛行学校、林陸軍飛行場で教官を歴任。(カモメ)昭和十九年十一月末、小林大尉は、帝都防空戦闘機隊である飛行第二四四戦隊長(東京都下調布)。帝国陸軍史上最年少(二十四歳)の飛行戦隊長でした。(ウツボ)当初は、<川崎・三式戦「飛燕」液冷単座戦闘機>で、昭和二十年五月以降は<川崎「五式戦」単座戦闘機>に搭乗して、終戦まで本土防空戦を戦った。(カモメ)昭和十九年十二月三日、小林大尉は、<ボーイングB-29「スーパーフォートレス」(超空の要塞)四発大型爆撃機)>編隊の最先頭機に正面攻撃を敢行したが、エンジンに被弾し撃墜されました。(ウツボ)直ちに予備機に乗り換えて、小林大尉は出撃したが、敵機を捕捉できなかった。(カモメ)十二月二十二日、<川崎・三式戦「飛燕」液冷単座戦闘機>で出撃した小林大尉は、渥美半島上空で<ボーイングB-29「スーパーフォートレス」(超空の要塞)四発大型爆撃機)>一機を撃破、浜松に帰還しました。(ウツボ)昭和二十年一月九日、<ボーイングB-29「スーパーフォートレス」(超空の要塞)四発大型爆撃機)>三機を捕捉、館山西方で一機を撃破。さらに他の八機を攻撃中、銚子上空で被弾、干潟に不時着した。(カモメ)一月二十三日、岡崎上空高度九五〇〇mで<ボーイングB-29「スーパーフォートレス」(超空の要塞)四発大型爆撃機)>編隊に真上攻撃と側面攻撃を行い、二機を撃破しました。(ウツボ)一月二十七日、小林大尉は、<川崎・三式戦「飛燕」液冷単座戦闘機>で<ボーイングB-29「スーパーフォートレス」(超空の要塞)四発大型爆撃機)>一機を、体当たりで撃墜し、落下傘降下をして生還した。小林大尉は軽傷だった。(カモメ)二月十日、東部軍司令官・藤江直輔大将から、一月二十七日の戦功に対して、小林大尉に表彰状と武功徽章乙が授与されました。(ウツボ)二月十六日、敵艦載機による関東空襲では、小林大尉はのべ五回出撃し、<川崎・三式戦「飛燕」液冷単座戦闘機>三機を率いて、舘林上空で、戦闘機と爆撃機の連合編隊五〇機と交戦、二機を撃墜した。(カモメ)二月十九日にも、<ボーイングB-29「スーパーフォートレス」(超空の要塞)四発大型爆撃機)>一機撃墜、一機撃破の戦果をあげました。(ウツボ)四月十二日、<ボーイングB-29「スーパーフォートレス」(超空の要塞)四発大型爆撃機)>の編隊に<川崎・三式戦「飛燕」液冷単座戦闘機>で単機のまま突入、護衛の<グラマンF6F「ヘルキャット」艦上戦闘機>に攻撃され被弾、山梨県大月市付近に落下傘降下して生還したが、右脚を負傷した。村民に救助された。(カモメ)その後も、立川上空で<ボーイングB-29「スーパーフォートレス」(超空の要塞)四発大型爆撃機)>一機を撃墜しました。(ウツボ)五月十五日、飛行第二四四戦隊は、第一総軍司令官・杉山元元帥から部隊感状を授与された。六月小林大尉も、少佐に昇進した。(カモメ)同時に飛行第二四四戦隊は、<川崎「五式戦」単座戦闘機>に機種改変、沖縄作戦参加のため、鹿児島県の知覧飛行場に進出、防空任務、特攻機援護任務などに従事。(ウツボ)七月、滋賀県ハ日市飛行場に移駐、阪神・中京地区の防空任務に当たった。飛行第二四四戦隊は本土決戦に備えて、航空兵力温存策に移行、出撃禁止命令が出された。(カモメ)七月二十五日、中部地区空襲の報により、小林少佐は、戦闘教練の名目で、飛行第二四四戦隊を率いて独断で出撃、八日市上空で敵艦載機を一二機撃墜したのですね。艦載機は<グラマンF6F「ヘルキャット」艦上戦闘機>でした。(ウツボ)そうだね。この軍紀違反に対し、厳しい叱責が加えられたが、天皇陛下の御嘉賞のお言葉が伝えられ、独断出撃は不問に付された。戦隊は、八月十五日、八日市飛行場で終戦を迎えた。(カモメ)小林照彦少佐の撃墜機数は六機。そのうち一機は、体当たりして撃墜した、<ボーイングB-29「スーパーフォートレス」(超空の要塞)四発大型爆撃機)>。
2018.10.19
(カモメ)そこで、森本中隊は同高度のまま敵編隊に突進、寺西大隊長の編隊は敵の進路を遮断するように右へ急上昇旋回を開始しました。また、加藤中隊長の編隊は左へ急上昇旋回を始めました。(ウツボ)低高度の不利な状態から空戦に入った福山中尉編隊二機は、敵機の集中攻撃を受ける結果になった(カモメ)だが、東洋のインメルマンを自称する福山米助中尉は、苦戦の中で、巧みに攻撃に移り、たちまち、続けざまに<ポリカルポフ「I-15」複葉戦闘機>三機を撃墜したのですね。(ウツボ)そうだね。マックス・インメルマンは、第一次世界大戦初期のドイツの撃墜王。戦闘機パイロットとして初めてプール・ル・メリット勲章を授与された。(カモメ)この勲章は、ブルーの色彩で、マックス・インメルマンが受賞したことから、“ブルーマックス”と呼ばれるようになりました。「ブルーマックス」という映画もありましたね。(ウツボ)そうだね。ビデオで観たことがあるが、よくできていたね。インメルマンは、一九一六年(大正五年)六月十八日戦死した。インメルマンの撃墜数は一五機~一七機だった。(カモメ)敵機三機を撃墜した直後、福山中尉機に上空から被弾した敵機が火と煙を吹きながら落下してきました。福山中尉は右旋回で危うくこれを避けました。(ウツボ)その時、別の敵機が福山中尉機を射撃してきた。その炸裂弾が福山中尉の左足関節部を粉砕し、他の一弾は右腕上膊部(じょうはくぶ=肩から肘までの部分)を貫通した。(カモメ)福山中尉は一時意識不明になり、機体は墜落状態になりましたが、途中目を覚ました福山中尉は気丈に、残された左腕と右足で機体を水平に戻したのですね。(ウツボ)そうだね。そこから操縦桿にハンカチを結び口にくわえて、左手と右足で操縦し、出血による睡魔と闘いながら、福山中尉は一五〇キロ飛んで、兗州飛行場に着陸することができた。だが、着陸と同時に意識不明となった。(カモメ)福山米助中尉は兗州野戦病院に運ばれ、で左脚、右腕を切断しましたが、出血多量のため病状が悪化して遂に四月十五日、戦死しました。享年三十四歳。(ウツボ)死後に航空兵団司令官から個人感状が授与された。福山米助中尉の公認撃墜機数七機。死後大尉に進級。(カモメ)少尉候補者出身の福山中尉は、死の直前病院で加藤建夫大尉に遺言を残しました。その内容は「少尉候補者に対する取り扱い全般に対して、考え方を改めてもらいたい」という趣旨だったのですね。(ウツボ)そうだね。加藤大尉は、福山中尉の言わんとするところは良く分かっていた。少尉候補者出身者に対する不公平な扱いの事実をよく理解していた加藤大尉は、「よくよく考えなければならない問題だ」と部下の将校達に語った。(カモメ)福山中尉は、自分だけでなく、残された少尉候補者たちのことを思うと、心残りだったのでしょうね。(ウツボ)少尉候補者は、優秀な人材を多く輩出しているだけに、その思いが強かったのだろうね。【小林照彦(こばやし・てるひこ)少佐・6機】(カモメ)小林照彦は、大正九年十一月十七日生まれ。東京出身。国士舘中学校を経て陸軍士官学校入校。昭和十五年二月陸軍士官学校(五三期)卒業。砲兵少尉。(カモメ)砲兵科から航空兵科に転科し、昭和十六年五月鉾田陸軍飛行学校入校、軽爆戦技教育・乙種学生課程修了。中国、嫩江(のんこう)の飛行第四五戦隊(軽爆部隊)配属。(ウツボ)昭和十六年十二月太平洋戦争開戦、飛行第四五戦隊は香港爆撃に参加、小林少尉も初陣を飾った。(カモメ)昭和十七年一月機種改変のため、内地に帰還。鉾田陸軍飛行学校(甲種学生)入校。(ウツボ)鉾田陸軍飛行学校卒業後、昭和十八年五月飛行第六六戦隊(満州)配属、北部満州で国境警備、急降下爆撃訓練に従事。(カモメ)昭和十八年十一月、戦闘機操縦者への転換教育の為、明野陸軍飛行学校亀山分校で戦闘機学生として訓練教育を受ける。十二月大尉。
2018.10.12
(ウツボ)以後、飛行第五〇戦隊は、飛行第六四戦隊と共に、ラングーンが陥落しビルマ航空戦が事実上終了する五月まで、空戦や地上攻撃で活躍した。(カモメ)昭和二十年四月、仏印、ナトラン上空で三月に戦死した戦隊長・藤井辰二郎少佐の代わりに、河本幸喜少佐が、“電光戦闘隊”飛行第五〇戦隊の第六代戦隊長に任命されました。(ウツボ)六月十日付けで、ビルマ方面航空戦での抜群の戦功に対し、河本少佐に表彰状と陸軍武功徽章(乙)が、第五飛行師団長・服部武士中将より授与された。(カモメ)六月二十六日、飛行第五〇戦隊は、本土決戦準備のため、台湾への移動を命ぜられました。(ウツボ)七月三日、台湾の台中飛行場へ移駐した飛行第五〇戦隊は、第八飛行師団の指揮下に入った。(カモメ)その後、河本少佐率いる“電光戦闘隊”飛行第五〇戦隊は、嘉義飛行場に移動。八月十五日、同地で終戦を迎えました。(ウツボ)河本幸喜戦隊長ら戦隊員は昭和二十一年二月に復員した。河本少佐の総撃墜数は八機。【福山米助(ふくやま・よねすけ)中尉・7機】(カモメ)福山米助は明治三十七年生まれ。和歌山県出身。大正十五年、陸軍に入隊。昭和四年五月、所沢飛行学校卒業、飛行第三連隊配属。(ウツボ)飛行第五連隊転属後、昭和九年一月には八丈島まで往復し、戦闘機の海上初飛行を行った。四月、京城・立川間の往復飛行に成功。六月には福山米助は立川・台湾間の往復飛行に成功した。(カモメ)昭和九年末、陸軍士官学校入校。昭和十年、陸軍士官学校卒業、少尉。昭和十二年支那事変勃発で福山少尉は飛行第二大隊に配属。(ウツボ)飛行第二大隊(第一中隊・第二中隊)の大隊長は、寺西多美弥(てらにし・たみや)少佐(陸士三六・初代飛行第六四戦隊長・中佐・第一四飛行団長・戦死・大佐)だった。第二大隊の装備機は<川崎「九五式戦」複葉戦闘機>。(カモメ)寺西少佐は、大正十一年、陸軍士官学校在校中に「陸軍士官学校校歌」を作詞しています。陸軍戸山学校軍楽隊が作曲し、同年に制定されました。(ウツボ)第二大隊の第一中隊長は、後に飛行第六四戦隊長として活躍する、加藤建夫(かとう・たてお)大尉(北海道・陸士三七・陸大専科・所沢陸軍飛行学校二三期操縦学生卒・所沢陸軍飛行学校教官・明野陸軍飛行学校教官・飛行第五連隊中隊長・飛行第二大隊第一中隊長・陸軍大学校専科卒業・陸軍航空本部員・少佐・飛行第六四戦隊長・中佐・ベンガル湾上空で自爆戦死・二階級特進少将・従四位・勲三等・功二級)だった。(カモメ)飛行第二大隊は後に、昭和十三年八月一日、彰徳飛行場(中国の安徽省)において、独立飛行第九中隊と合同して、三個中隊編成の飛行第六四戦隊(加藤隼戦闘隊)が誕生しましたね。(ウツボ)そうだね。昭和十三年三月八日、支那事変において第二大隊の福山米助中尉は、西安攻撃で、<ポリカルポフ「I-15」複葉戦闘機>を撃墜、初戦果を挙げた。(カモメ)昭和十三年四月九日、第二次帰徳攻撃が行われ、第二大隊は出撃したが、敵機と交戦できなかったのです。(ウツボ)四月十日、再び第二大隊一五機は、兗州(えんしゅう)飛行場(山東省西南部)を離陸、帰徳攻撃に出撃した。装備機は<川崎「九五式戦」複葉戦闘機>。(カモメ)福山中尉は、森本重一大尉(陸士四一・大尉・立川陸軍航空技術研究所所員・第二飛行大隊第二中隊長・中佐・飛行第七七戦隊長)率いる第二中隊の第三編隊長(列機は下方曹長)として出撃しました。(ウツボ)第二大隊の攻撃隊は帰徳飛行場に侵入したが、敵機は見えなかったので、徐州方面に向かった。その時、敵の大編隊約三〇機を発見した。(カモメ)攻撃隊は、高度を上げ始めました。上空から敵編隊の後ろに回り、奇襲をかけようと意図したのですね。(ウツボ)そうだね。ところが、福山中尉の編隊二機は、低高度のまま、下方より敵編隊に突撃していった。そのため、上空からの奇襲は駄目になった。
2018.10.05
(ウツボ)引き返して先ほどの不時着機上空に来て低空で旋回して見ると、盛んに日の丸を振っている。やはり助かったのだ。機体から機上戦死者を引っ張り出していた。伊藤直之少尉は手を振りつつ別れ、近くのアキャブ飛行場に着陸した。(カモメ)重爆隊二番機・木村中尉機も被弾していましたが、辛うじてアキャブ飛行場に着陸していたのです。まさに奇跡の生還でした。(ウツボ)カラダン河口砂浜に無事不時着した大武准尉も救出され、飛行場で顔を合わせた。彼は熊谷陸軍飛行学校七五期で、伊藤少尉と同期生だった。(カモメ)伊藤少尉が「おゝお前だったのか、命だけ無事でよかったなあ」と言うと、「敵機を追い払ってくれたのは君だったのか、ありがとう、ありがとう」と言って、大武准尉は手を広げて来て、お互い抱き合って無事を喜んだのです。(ウツボ)敵機の攻撃で、六機の重爆は、自爆二機、不時着三機、編隊長機・岡森大尉機のみ基地へ帰還という、今までにない凄惨な結果となり、援護戦闘機隊としても、なんとしても申し訳ない、情けない結果となった。(カモメ)その後も、伊藤少尉は飛行第六四戦隊のエースとして、連合軍の優勢の中で連日連夜、大空の死闘を繰り広げました。(ウツボ)昭和十九年三月一日、伊藤直之少尉は中尉に進級した。三月十六日、インパール飛行場攻撃の空中戦で、伊藤直之中尉は右眼を負傷し失明した。(カモメ)その後伊藤直之中尉は、病院戦で内地に帰還、療養。回復後、飛行訓練を受け、朝鮮の第一九教育飛行隊の区隊長に就任し、操縦教育に当たりました。総撃墜数は八機。終戦時、大尉。(ウツボ)激戦を生き抜いた伊藤直之大尉は、終戦時三十一歳だったが、戦後建設業界に入り、管理職として、勤務した。【河本幸喜(かわもと・こうき)少佐・8機】(カモメ)河本幸喜は、大正八年三月生まれ。愛媛県出身。松山中学卒業後、昭和十二年十一月航空士官学校入校。昭和十四年九月陸軍航空士官学校(第五二期)卒業。十一月少尉。明野陸軍飛行学校(乙種学生・戦闘機戦技課程)卒業後、飛行第一三戦隊(兵庫県加古川)配属。(ウツボ)昭和十六年十二月明野陸軍飛行学校(甲種学生)入校。昭和十七年三月明野陸軍飛行学校(甲種学生)卒業、飛行第一三戦隊復帰。(カモメ)昭和十七年四月第一〇六教育飛行連隊(台湾・台中飛行場)に配属、飛行教官。昭和十八年五月明野陸軍飛行学校教官。十月飛行第五〇戦隊(ビルマ・ラングーン郊外のミンガラドン飛行場)配属。(ウツボ)十二月五日、カルカッタ攻撃で、河本大尉は戦隊長代理として、飛行第九八戦隊の重爆隊を援護して侵攻、無事帰還した。(カモメ)カルカッタ攻撃は、<中島・一式戦「隼」軽単座戦闘機二型>の航続距離ギリギリの航程で、河本大尉は戦隊長代理の重責と初陣の緊張を覚えました。(ウツボ)昭和十九年三月からは、インパール作戦、北部ビルマ侵攻作戦、インド・支那連絡空輸妨害、要地防空任務などに当たった。(カモメ)昭和十九年八月、仏印(フランス領インドシナ)のサイゴンに移駐、飛行第五〇戦隊は、<中島・四式戦「疾風」単座戦闘機>に機種改変を行いました。(ウツボ)十月ビルマ戦線に復帰、インパール撤退作戦援護に当たった。十二月河本幸喜大尉は少佐に進級。(カモメ)十二月三十一日、飛行第五〇戦隊は、飛行第六四戦隊とともに、ビルマから撤退する第一五師団(師団長・柴田夘一中将)を追尾するイギリス軍を中心とした連合軍機甲部隊に対する攻撃を行いました。(ウツボ)飛行第六四戦隊長・宮辺英夫少佐は、この戦いにおける、<中島・四式戦「疾風」単座戦闘機>の攻撃に対し、「掃射では二〇ミリ機関砲の威力が大いに発揮された。ビルマにおける初のお手柄である」と称賛している。(カモメ)昭和二十年一月九日、河本少佐ら飛行第五〇戦隊の<中島・四式戦「疾風」単座戦闘機>七機は、飛行第六四戦隊の<中島・一式戦「隼」軽単座戦闘機> 二八機の直掩を受け、ビルマ西海岸のアキャブ沖の連合軍艦船攻撃に出撃、敵艦戦に被害を与えました。
2018.09.28
(ウツボ)敵艦隊を求めて洋上を探すこと、出発以来二時間を経過したが、敵艦隊は見えなかった。その時、伊藤少尉は、海岸沿いにいる敵艦隊を発見した。(カモメ)伊藤少尉は、大きく翼を振り、僚機に知らせ、攻撃を下令しました。主力編隊と別れ、高度を下げて突進しました。ひたすら敵艦隊を注視、振り返る余裕もなかったのですね。(ウツボ)そうだね。機速はグングン出た。敵艦が大きく拡大した。高度一〇〇メートル、角度三〇度、「よし」、サッとタ弾を三隻の敵艦隊の中央めがけて投下し、海面スレスレに離脱した。(カモメ)「あ、残念」、艦隊の外側五〇メートルに、強風を受けてバラバラと落下、爆発したのです。千歳一隅の好機を逃し、伊藤少尉はがっかりしました。(ウツボ)見上げれば、重爆編隊が、伊藤少尉の直ぐ頭上に迫っていた。バラバラと爆弾が投下されると、敵艦三隻は、アッという間に直撃弾と大波により、デングリ返り、姿を消した。(カモメ)「ああ、やはり大型爆弾でなければ駄目だ!」。既にガソリンの残りは少ない。急いでアキャブへ行かねばならない。(ウツボ)我が主力重爆編隊はいかにと見上げれば、大変なことになっていた。三〇数機の敵機、<スーパーマリン「スピットファイヤー」単座戦闘機(イギリス製)>が、我が六機の重爆編隊に飛びかからんとしていた。(カモメ)僚機の木下准尉と多久和曹長はすでに急上昇し、援護に向かっていました。遅れてならじと、伊藤少尉も急上昇しました。だが、低空まで下りていたので、エンジン全開でもなかなか高度がとれなかったのです。(ウツボ)上空の重爆隊の援護戦闘機は六機に過ぎなかった。一刻も早くと心は焦った。伊藤少尉が急上昇中、重爆隊の第四番機・摺沢中尉機が、アッと思う間に爆発、バラバラになって眼前の会場に墜落、ドス黒い波紋を残し消え去った。(カモメ)続いて、第五番機・原田中尉機が火を吹きながら海上に突っ込んで行きました。残った四機の編隊はアキャブ方面に機首を下げ、敵の攻撃を振り切るように急降下、増速していました。(ウツボ)その重爆四機に対して、三〇数機の<スーパーマリン「スピットファイヤー」単座戦闘機(イギリス製)>が、交互に執拗な攻撃をかけていた。また、六番機が白いガソリンの尾を引きながら降下してきた。その後ろに敵機が一機ついていた。(カモメ)「突撃だ」、伊藤少尉は、照準眼鏡ピッタリで、機関銃の発射ボタンを押したが、プスンと言わず弾が出なかったのです。(ウツボ)「ちくしょう、体当たりだ!」と、伊藤少尉は全速で敵機に向かって突進した。だが、敵機は素早く遁走してしまった。(カモメ)伊藤少尉は、「残念!」と、歯噛みしてあたりを見回すと、またまたガソリンの白い尾を引いて、降下してくる重爆一機が目に入ったのです。大変なことになっていました。(ウツボ)重爆機が次から次に墜とされ、目前に凄惨な情景が展開された。伊藤少尉は、腸(はらわた)が、ちぎれそうになった。(カモメ)まだ火が出ていない一機がある。多分不時着するだろう。伊藤少尉はこの機の後上方につき援護しました。アキャブを目指しているらしく、どんどん高度が下がる。(ウツボ)突然また敵<スーパーマリン「スピットファイヤー」単座戦闘機(イギリス製)>が攻撃を仕掛けてきた。素早く反転して追い払った。(カモメ)再び伊藤少尉が引き返して来ると、重爆機はアキャブ、カラダン河口砂浜に無事不時着していましたが、その機に対して、別の敵機が息の根を止めようと地上攻撃をかけていました。(ウツボ)高度を利用して、伊藤少尉はこの敵機の攻撃に移った。今度は完全に捕捉し敵機との差はグングン迫った。低空五〇メートル、平地の一本の樹木スレスレに飛び回った。(カモメ)「ようし撃墜だ」と発射ボタンを押したが、弾丸が出なかった。再びボタンを押すが駄目だった。残念だが、出発以来三時間経っていました。
2018.09.21
(カモメ)到着後、伊藤少尉は、飛行第六四戦隊長・広瀬吉雄少佐に申告、戦隊付・黒江保彦大尉に挨拶、第一中隊長・高橋俊二中尉に申告、毛利中尉、法京中尉、西沢中尉など、中隊付将校に挨拶しました。(ウツボ)昭和十八年十月二十六日、十二時ごろ、突如情報が「アキャブ上空大型機二十数機通過」と知らせた。全機出動だ。(カモメ)高度四五〇〇メートルに達する頃、敵大編隊を捕捉しました。初めて見る<コンソリデーテッドB24「リベレーター」四発大型爆撃機(米国製)>の大編隊でした。(ウツボ)伊藤直之少尉は「よーし、今日こそやってやるゾ」と、<中島・一式戦「隼」軽単座戦闘機二型>で敵機に接近し、直上方より反転急降下、機銃も裂けんばかりに連射した。敵機の防御砲火も、ものすごい。(カモメ)サアッと防御砲火の下方へ離脱しました。味方の日本軍の地上からの高射砲の炸裂もまたものすごく、空は硝煙のにおいが立ち込めていました。(ウツボ)敵<コンソリデーテッドB24「リベレーター」四発大型爆撃機(米国製)>編隊は、ダイヤモンドの縦隊をくずさず、ラングーン埠頭の輸送船上空に達し、爆弾を投下した。(カモメ)「アッ、しまった。敵の侵入を許してしまった」と伊藤少尉が、第二撃をかけようとすると、敵爆撃機は左旋回をしたのですね。(ウツボ)そうだね。この時とばかりに前に出て、伊藤少尉は前面攻撃をかけた。敵爆撃機の側面銃座から弾が眼前に飛んでくる。ダァダァと連射し、伊藤少尉は離脱したが、敵爆撃機はびくともしなかった。(カモメ)敵爆撃機編隊は、縦隊隊形より逐次横広に移動し、横隊隊形となったのです。右端の<コンソリデーテッドB24「リベレーター」四発大型爆撃機(米国製)>がやや遅れていました。(ウツボ)「こいつをゆっくり御馳走になろう」と伊藤少尉は、今までの攻撃は中途半端だったと反省し、今度はゆっくり前進し、間合いを取り、反転、前下方攻撃をかけた。(カモメ)速度は全速、高度差二〇〇メートル、軸線を合わせ、ダァダァダァと連射した。弾丸は敵機の胴体に吸い込まれていきました。「畜生!体当たりだッ」、伊藤少尉は敵爆撃機の胴体めがけて突っ込んだのです。(ウツボ)伊藤機は敵爆撃機の腹の下をこするようにして抜け、尾部の偏流の中に放り出され、くるりと反転、ヒヤリとした。(カモメ)見れば、敵爆撃機は機首を下げ、一直線に落ちて行ったのです。「やった!」伊藤少尉は遂に撃墜したのだと思いました。落下傘が一つ、墜落する敵爆撃機から飛び出たが、開傘せず、そのままスーと落ちて行きました。(ウツボ)間もなく、敵爆撃機は水田の中に激突し、パッと炎上した。「とうとうやった!」伊藤少尉は嬉しさが込み上げてきた。高橋中尉、毛利中尉の敵討ちができたのだ。(カモメ)昭和十八年十二月三十日夕刻、敵艦三隻がビルマのラムレ島に砲撃を開始し、一部は上陸しました。飛行第六四戦隊に出動・攻撃命令が出ました。(ウツボ)十二月三十一日午前十一時、伊藤少尉の所属する第二次攻撃隊主力(第三中隊一部と第一中隊)は、レグ―より進発して来た重爆隊と空中集合、ミンガラドン飛行場を後に、西へ西へとベンガル湾洋上に向かった。(カモメ)重爆隊は飛行第一二戦隊(戦隊長・野本重男少佐)で、装備機は<三菱・九七式重爆撃機・双発>六機が参加しました。(ウツボ)伊藤少尉は、タ弾攻撃隊長として、木下准尉、多久和曹長を率いて出撃した。愛機の<中島・一式戦「隼」軽単座戦闘機二型>には、落下増槽タンクをはずし、タ弾二個を装備していた。(カモメ)タ弾は円筒形の弾体(コンテナ)に、三〇~四〇発の弾子(小さな爆弾)を内蔵した六〇キロ爆弾で、クラスター爆弾とも呼ばれていました。
2018.09.14
【小川誠(おがわ・まこと)少尉・9機】(ウツボ)小川誠は大正六年二月生まれ。静岡県出身。昭和十年四月飛行第七連隊入隊、整備兵。昭和十三年一月熊谷陸軍飛行学校入校。八月熊谷陸軍飛行学校・下士官操縦者第七二期卒業。明野陸軍飛行学校戦闘機戦技課程修了。(カモメ)昭和十六年八月飛行第七〇戦隊(満州・東京城)配属、杏樹に移駐し防空任務に従事。(ウツボ)昭和十八年五月小川誠曹長は明野陸軍飛行学校で<中島・二式戦「鍾馗」単座戦闘機>の伝習教育を受けた後、機種改変し杏樹に帰還。(カモメ)昭和十九年二月、「ホ号演習」発令により飛行第七〇戦隊は、山口県の小月飛行場、次に千葉県の松戸飛行場に移駐、帝都防空任務に当たりました。(ウツボ)昭和十九年十一月からは飛行第七〇戦隊は、千葉県の柏飛行場に展開し、<ボーイングB-29「スーパーフォートレス」(超空の要塞)四発大型爆撃機)>迎撃戦に当たった。小川誠准尉も活躍した。装備機は<中島・二式戦「鍾馗」単座戦闘機>。(カモメ)昭和二十年二月十日昼間の迎撃戦では、七機の<ボーイングB-29「スーパーフォートレス」(超空の要塞)四発大型爆撃機)>編隊の中央機の爆弾倉を、小川准尉は四〇ミリ自動噴進砲で射抜き大爆発を起こさせて、僚機ともども二機を撃墜しました。(ウツボ)また、三月十日夜間の帝都防空戦でも、<中島・二式戦「鍾馗」単座戦闘機二型丙>の四〇ミリ自動噴進砲で<ボーイングB-29「スーパーフォートレス」(超空の要塞)四発大型爆撃機)>一機を撃墜した。(カモメ)七月九日、小川准尉は表彰状と武功徽章(乙)が授与されました。また、同日付けをもって、陸軍少尉に特別進級しました。(ウツボ)授与したのは、第一二方面軍司令官・田中静壱(たなか・しずいち)中将(兵庫・陸士一九・陸大二八恩賜・参謀本部欧米課米班長・大佐・歩兵第二連隊長・米国大使館附駐在武官・第四師団参謀長・少将・歩兵第五旅団長・関東憲兵隊司令官・中将・憲兵司令官・第一三師団長・憲兵司令官・東部軍司令官・第一四軍司令官・大将・陸軍大学校長・第一二方面軍司令官兼東部軍管区司令官・拳銃自決・従三位・勲一等・功三級)だった。(カモメ)小川少尉は、終戦までに、<ボーイングB-29「スーパーフォートレス」(超空の要塞)四発大型爆撃機)>七機、<ノースアメリカンP51「マスタング」単座戦闘機>二機の合計九機を撃墜し、飛行第七〇戦隊中最高の戦果をあげました。小川誠少尉は、終戦まで生き残り、東京に在住しました。【伊藤直之(いとう・なおゆき)大尉・8機】(ウツボ)伊藤直之は大正三年十月十日生まれ。石川県金沢市出身。石川県立第一中学校卒業。歩兵第七連隊機関銃隊入営。豊橋陸軍教導学校卒業。独立守備第二九大隊転属。(カモメ)飛行第一一連隊転属。熊谷陸軍飛行学校(戦闘隊七五期)卒業。浜松陸軍飛行学校付。陸軍航空士官学校(少尉候補第二二期)卒業。明野陸軍飛行学校付。飛行第六四戦隊付。加古川第一〇一部隊付。朝鮮第一九教育飛行隊区隊長。終戦時陸軍大尉。戦後、建設業勤務、資材部長等歴任。(ウツボ)「栄光隼戦隊―飛行第六十四戦隊全史」(関口寛・他・今日の話題社・昭和60年)によると、伊藤直之少尉は、陸軍航空士官学校少尉候補第二二期学生の課程を修了した。(カモメ)昭和十七年十一月末、陸軍航空士官学校を卒業後、伊藤直之少尉は戦闘隊のメッカ明野陸軍飛行学校付を命ぜられ、空中指揮官としての技量向上、第一線補充要員として完璧を期すため、さらに研究演練を重ねました。(ウツボ)昭和十八年四月、伊藤少尉はビルマの飛行第六四戦隊付を命ぜられた。明野陸軍飛行学校を離陸した伊藤少尉、檜與平中尉ら四機は、那覇、台中、広東、海南島を経由して、インドシナ半島を横断、四月十日、ビルマのトング―基地の飛行第六四戦隊に着いた。
2018.09.07
(カモメ)昭和二十年四月十五日の夜、市川中尉は乗機<川崎「五式戦」単座戦闘機>で、<ボーイングB-29「スーパーフォートレス」(超空の要塞)四発大型爆撃機)>を二機撃墜、一機を撃破しました。(ウツボ)さらに、市川中尉は、全弾撃ち尽くしたため、乗機<川崎「五式戦」単座戦闘機>で体当たりし、<ボーイングB-29「スーパーフォートレス」(超空の要塞)四発大型爆撃機)>をもう一機撃墜した。(カモメ)この体当たりで、市川中尉は重傷を負いましたが、落下傘降下して、奇跡的に生還したのですね。(ウツボ)そうだね。昭和二十年六月、これまでの首都防空戦における抜群の戦功に対して、戦争中たった五名にしか授与されなかった、また生存者としては異例の陸軍武功徽章甲と個人感状が市川中尉に授与された。さらに大尉に特別進級した。(カモメ)終戦までに、市川大尉は、<ボーイングB-29「スーパーフォートレス」(超空の要塞)四発大型爆撃機)>を九機撃墜しました。(ウツボ)<ボーイングB-29「スーパーフォートレス」(超空の要塞)四発大型爆撃機)>に対して、市川大尉は最多撃墜記録保持者となり、“B-29撃墜王”となった。(カモメ)市川大尉は、さらに六機に損害を与え、<グラマンF6F「ヘルキャット」艦上戦闘機>一機を撃墜しました。総撃墜数は一〇機。(ウツボ)市川忠一大尉は、その後、沖縄戦にも参加した。滋賀県八日市飛行場で本土決戦に備えている時、昭和二十年八月十五日終戦を迎えた。(カモメ)戦後、市川忠一氏は、民間航空の操縦士として活躍しましたが、昭和二十九年、勤務中に事故で殉職しました。享年三十六歳。【坪根康祐(つぼね・こうすけ)准尉・10機】(ウツボ)坪根康祐は大正九年生まれ。福岡県出身。昭和十三年三月少年飛行兵(第五期)として熊谷陸軍飛行学校入校。昭和十四年七月熊谷陸軍飛行学校卒業、飛行第一三戦隊配属。(カモメ)昭和十六年三月軍曹に進級。太平洋戦争開戦直前に、坪根軍曹は、台湾の第一野戦補充飛行隊に転属、台中飛行場で錬成教育を受けまいsた。(ウツボ)昭和十七年四月、タイのチェンマイ飛行場の、飛行第六四戦隊第二中隊配属。五月五日、坪根軍曹は<中島・一式戦「隼」軽単座戦闘機>で、保山への爆撃機の護衛任務についた。(カモメ)空戦になり、坪根軍曹は、敵AVG(フライング・タイガーズ)第二飛行隊の<カーチスP-40「ウォーフォーク」戦闘機>と交戦し、燃料タンクに被弾、不時着したのです。初めての実戦でした。(ウツボ)初戦で、不運にも不時着した坪根軍曹だが、その後は、終戦まで飛行第六四戦隊に所属し、ビルマ、インド侵攻作戦、防空任務など様々な空戦に参加し、生き残った。(カモメ)昭和二十年六月十日、坪根曹長はその卓越した戦功に対して、カンボジアのプノンペンで、武功徽章(乙)を授与されました。(ウツボ)授与したのは、第五飛行団長・服部武士(はっとり・たけし)中将(福岡・陸士二七・陸大三八・台湾軍参謀・大佐・飛行第九八戦隊長・第三飛行師団参謀長・少将・陸軍航空技術研究所総務部長・南方航空輸送司令官・航空局第二部長・下志津陸軍飛行学校長・中将・第五飛行師団長・功三級)だった。(カモメ)坪根曹長と同時に、次の三人も武功徽章を授与されました。(ウツボ)飛行第五〇戦隊長・河本幸喜(かわもと・こうき)少佐(愛媛・陸航士五二期・飛行第一三戦隊・第一〇六教育飛行連隊付・明野陸軍飛行学校教官・飛行第五〇戦隊長・終戦時中佐・撃墜数8機)。(カモメ)飛行第五〇戦隊・大房養次郎(おおぶさ・ようじろう)准尉(宮城・野砲第二連隊・砲兵曹長・第二〇教育飛行連隊・熊谷陸軍飛行学校戦闘機班第八七期を首席で卒業・第一野戦補充飛行隊・飛行第五〇戦隊・終戦時准尉・撃墜数19機)。(ウツボ)飛行第六四戦隊長・宮辺英夫(みやべ・ひでお)少佐(熊本・陸航士五二期・飛行第五戦隊教官・明野陸軍飛行学校教官・陸軍航空士官学校教官・飛行第六四戦隊第二中隊長・飛行第六四戦隊飛行隊長・飛行第六四戦隊長・終戦時少佐・撃墜数12機)。(カモメ)坪根准尉は、中国、ビルマ、インド戦線で、一〇機以上を撃墜しました。仏印(フランス領インドシナ)のクラコールで終戦を迎えました。平成二年死去。享年七十歳。
2018.08.31
(カモメ)「これで俺も終わりか」。檜中尉は、寂しさが込み上げてきました。だが、その時、「なにくそっ!」と負けん気が頭をもたげてきたのです。(ウツボ)檜中尉は明楽少佐の未亡人からもらったマフラーを首から外して大腿部をしばった。その時、またも<ノースアメリカンP51「マスタング」単座戦闘機>の攻撃を受けた。かろうじて、射弾を回避した。(カモメ)だが、キリモミになって檜中尉機は落下したのです。意識がもうろうとしてきましたが、檜中尉は、気力をふりしぼって、姿勢をたてなおしました。(ウツボ)その後も、薄れていく意識と戦いながら、苦しさにふと、負けそうになりながらも、檜中尉は、味方基地までたどり着いた。そして、左足だけで着陸した。(カモメ)着陸後、檜中尉は直ちに右脚の切断手術を受けました。その後、内地送還に耐える体力がつくまで基地病院で療養したのですね。(ウツボ)そうだね。入院中のある日、飛行第六四戦隊長・広瀬吉雄少佐が檜中尉を見舞いに来た。その時、十二月三日、檜中尉は大尉に進級したことを告げられた。(カモメ)やがて、内地送還の日が来ました。檜大尉は赤十字の標識をつけた輸送機に乗せられ広瀬戦隊長らの見送りを受け、飛行場を飛び立ちました。(ウツボ)飛び立つと、隅野中尉、伊藤少尉、木下准尉の<中島・一式戦「隼」軽単座戦闘機二型>三機が、翼も触れ合わんばかりにピッタリ、輸送機に寄りそって、天蓋を開け、手を振って微笑を送ってくれた。(カモメ)檜大尉もそれに応えました。やがて彼らはくるりと反転して、別れて行きました。愛する部下たちの機影は次第に遠ざかって行きました。(ウツボ)檜大尉は、輸送機の操縦士、細萱曹長に「細萱、世話をかけるな」と、うしろから声をかけた。細萱総長は振り返ってニッコリ笑った。(カモメ)かつて、飛行第六四戦隊で、檜大尉と一緒に戦闘機操縦士だった彼は、負傷して、今は輸送機の操縦任務に就いていたのです。(ウツボ)檜與平大尉は内地送還後、陸軍病院でジュラルミン製の義足を着けて、操縦士に復帰した。昭和十九年十月明野教導飛行師団附教官。(カモメ)終戦時は、飛行第一一一戦隊大隊長。最終撃墜数は一二機。戦後、著作として「紅の翼」(東京ライフ社)、「つばさの決戦」(光人社)などがあります。【市川忠一(いちかっわ・ちゅういち)大尉・10機】(ウツボ)市川忠一は、大正七年生まれ。東京府狛江町出身。昭和十一年二月少年飛行兵(三期)として熊谷陸軍飛行学校入校。戦闘戦技訓練を受け、昭和十二年熊谷陸軍飛行学校卒業。昭和十三年三月、朝鮮、会寧の飛行第九戦隊に配属された。(カモメ)昭和十四年九月、市川忠一軍曹が所属する飛行第九戦隊は、ノモンハン事変参加の為、満州のハイラルに前進しました。(ウツボ)飛行第九戦隊が到着した時、ノモンハン戦は終結に近づいており、また、同戦隊の装備機が旧式の<川崎「九五式戦」複葉戦闘機>だったため、実戦には参加しなかった。(カモメ)ノモンハン事変停戦後、飛行第九戦隊は、朝鮮の会寧に復帰しました。昭和十四年十二月市川忠一軍曹は曹長に進級しました。(ウツボ)昭和十六年、市川曹長は、陸軍航空審査部戦闘隊に配属され、新型機の実用評価実験飛行に従事。(カモメ)昭和十七年十二月市川曹長は少尉候補者第二三期生として陸軍航空士官学校入校。昭和十八年八月陸軍航空士官学校卒業、少尉。(ウツボ)市川忠一少尉は、当時「空中勤務者の墓場」と呼ばれていたニューギニア、ウエワクの飛行第七八戦隊配属。装備機は<川崎・三式戦「飛燕」液冷単座戦闘機>。(カモメ)配属されてから、早々の空戦に参加した市川少尉は、被弾で乗機が発火、燃える機体からかろうじて脱出したが負傷。市川少尉は入院加療のため、内地送還となったのですね。(ウツボ)そうだね。昭和十八年十二月、回復した市川少尉は、首都防空部隊である飛行第二四四戦隊に配属された。(カモメ)昭和十九年十一月以降、市川少尉は、第三中隊編隊長として、マリアナ基地から来攻する<ボーイングB-29「スーパーフォートレス」(超空の要塞)四発大型爆撃機)>の迎撃戦に出撃を繰り返しました。(ウツボ)その後も首都防空戦闘で戦果を上げ、中尉に進級した。装備機は<川崎「五式戦」単座戦闘機>。
2018.08.24
(カモメ)「どこから攻撃するか」。檜中尉が敵爆撃機編隊の隙を狙っていたその時、弱冠十九歳の山本伍長(少年飛行兵)が前方から飛びかかって行ったのです。(ウツボ)「待てっ!」と檜中尉は一瞬思ったが、猛烈な敵機の火網が山本伍長機をとらえた。山本伍長機は火を噴き、機首を下げて突っ込んで行った。すると落下傘が開いた。山本伍長が燃える愛機から脱出したのだ。(カモメ)檜中尉は単機で、前上方から、敵爆撃機編隊にバリバリと攻撃をかけました。敵は編隊をくずして、五機の編隊がすこしずつ遅れ始めました。だが、その上方には、<ノースアメリカンP51「マスタング」単座戦闘機>四機が目を光らせていたのです。(ウツボ)檜中尉は、この<ノースアメリカンP51「マスタング」単座戦闘機>を先に蹴散らすことにし、高度をとり、後上方に位置した。(カモメ)敵機はまだ気づいていなかったのです。檜中尉は突進し、距離を詰めました。八〇メートルで射撃しました。機銃がドドドッと火を噴きました。たった一撃で敵機は、パアッと火を吐き、キリモミになって墜ちて行きました。(ウツボ)残りの<ノースアメリカンP51「マスタング」単座戦闘機>三機は、パッと左右に分かれて下方に散っていった。(カモメ)檜中尉は五機編隊で遅れている、最後尾の<コンソリデーテッドB24「リベレーター」四発大型爆撃機(米国製)>の前上方から一連射をかけ、くるりと反転すると、後下方からドドドッと機銃を発射しました。確かに敵機の左外側のエンジンに吸い込まれていったが、なかなか火を噴かなかったのです。(ウツボ)反撃も猛烈だったが、檜中尉は再び肉薄した。今度は左外側のエンジンが火を噴いた。檜中尉は自信をつけ、さらに攻撃を繰り返した。今度は敵機の左内側のエンジンが火を出し、ピタリと停止した。(カモメ)<コンソリデーテッドB24「リベレーター」四発大型爆撃機(米国製)>は、急激に平衡を失い、巨体がグラグラと揺れ傾きました。火と煙がもうもうと巨体を包みながら、急速に機首を下げ突っ込んで行きました。(ウツボ)「ああ、あの火の中で、敵の搭乗員たちは懸命に機を回復させようとしている!」。敵味方をのりこえて、一瞬、あわれさが心をよぎった。(カモメ)火炎に包まれながら、敵爆撃機は、激しく巨体をふるわせながら、海に突っ込み、大音響をと飛沫を上げ、海中に消えてしまいました。(ウツボ)前方には、必死で逃れようともがいている<コンソリデーテッドB24「リベレーター」四発大型爆撃機(米国製)>がもう一機いた。(カモメ)檜中尉はレバーをいっぱいに開いて追撃に移りました。たちまち敵爆撃機に追いつき、前方に駆け抜けると、くるりと反転して、真正面から攻撃に入ったのです。(ウツボ)味方は一機もいなかったが、恐怖はなかった。檜中尉が真正面から肉薄すると敵機の操縦士の顔が見えた。それがだんだん大きくなり、機銃を発射すると、激突寸前に翼をひるがえして上方に出た。敵機の左エンジンが一つだけ止まっていた。(カモメ)「しめたっ!」。檜中尉はほくそえんだのです。すぐに、最後のとどめをかけるために、後上方から突っ込もうと、体制を整えました。(ウツボ)その時、下方からガクンと突き上げられるような衝撃を受け、檜中尉はクラクラッと激しいめまいに襲われた。その瞬間、操縦桿がひかれたらしく、機は上昇の姿勢をとった。(カモメ)「あっ、P-51」。檜中尉が急旋回すると同時に、下から上へ、幻の如く突き抜けていく一機の<ノースアメリカンP51「マスタング」単座戦闘機>が見えたのです。(ウツボ)救援に駆けつけた第五三〇戦闘飛行隊の、ロバート・F・マールホレム少尉機だった。彼は後に五機撃墜のエースになる。(カモメ)「不覚だった」と檜中尉は思いましたが、すでに“後の祭り”だったのです。操縦桿を持つ手は動く。「手はやられていない。足だな」。目がかすみ、霧のようなものが、目の前に立ちふさがっています。(ウツボ)すると、見えた。ころがっている航空長靴、そして血。檜中尉は左手で右足をさすってみた。右の足首がなかった。ふわっと気が遠くなった。敵機の12.7ミリ機銃で吹き飛ばされたのだ。
2018.08.17
(カモメ)「よし!」。少し距離があったが、隅野中尉は機銃を発射しました。敵機は左に回避しようとしたが、その時、左の主翼がバサリと波につかったのです。あっという間に、敵機は海中に没し去りました。(ウツボ)中隊長・檜中尉は、部下の戦闘機を集め、編隊を組んで、飛行場に向かって降下していった。一機の損害もなかった。(カモメ)今回の空戦で闘った、米軍の戦闘機は、<ノースアメリカンP51「マスタング」単座戦闘機>であると判明しました。(ウツボ)檜中尉は、中国、ビルマ、インド方面で、最初に<ノースアメリカンP51「マスタング」単座戦闘機>を撃墜した日本軍の操縦士となった。(カモメ)なお、「世界最強撃墜王バイブル」(鈴木五郎・PHP研究所・2010年)によると、この日、二十五日の空戦について、次の様に記されています(要旨抜粋)。(ウツボ)「この日、敵機<ノースアメリカンP51「マスタング」単座戦闘機>編隊との空戦で、敵機を一機、檜中尉が追いつめ不時着させた」。 (カモメ)「その不時着機のパイロットは日本軍の捕虜となったが、彼は敵の第七飛行団長・ハミルトン大佐だった。敵将を生け捕った、檜中尉は、戦隊中を沸かせた」。(ウツボ)以上が「世界最強撃墜王バイブル」に掲載されていた記述だ。さて、それから二日後の、昭和十八年十一月二十七日、ビルマのインセンにある日本軍の兵器廠を狙う、<コンソリデーテッドB24「リベレーター」四発大型爆撃機(米国製)>と護衛の<ノースアメリカンP51「マスタング」単座戦闘機>、<ロッキードP38「ライトニング」双胴双発単座戦闘機>などの編隊一〇〇機がやって来た。(カモメ)檜中尉の中隊はこれを迎え撃ちました。連日の激闘を案じて黒江保彦大尉(鹿児島・陸航士五〇期・飛行第五九戦隊・陸軍航空士官学校教官・大尉・独立飛行第四七中隊・飛行第六四戦隊第三中隊長・陸軍航空審査部・少佐・防空戦闘・戦後航空自衛隊入隊・ジェット戦闘機パイロット・空将補・第六航空団司令・水死・撃墜数51機)がやって来ました。檜中尉は百万の味方を得た思いだったのです。(ウツボ)敵機一〇〇機に対して、味方は檜中隊の六機と黒江大尉の<中島・一式戦「隼」軽単座戦闘機二型>七機と、鈴木四郎少尉(福岡・大正七年八月十二日生まれ・戦死後中尉)の<中島・二式戦「鍾馗」単座戦闘機>一機の合計八機。(カモメ)檜中尉は十二月一日付けで大尉進級の内命を受けていました。檜中尉は、「あと三日して大尉の襟章を着けてから死のう。ポケットの中には大尉の襟章がある。大尉で死ねば少佐になる」というさもしい考えが心に浮かんだのです。(ウツボ)檜中尉は、昭和十八年二月二十五日戦死した第六代戦隊長・明楽武世少佐(陸士四七期)の未亡人から贈られた富士絹のマフラーを首に巻いた。未亡人の顔が眼前に浮かんだ。(カモメ)離陸後、高度七〇〇〇メートルに上昇すると、敵の戦爆連合、<コンソリデーテッドB24「リベレーター」四発大型爆撃機(米国製)>五〇機と、戦闘機群三〇機以上がラングーン上空に侵入してきたのですね。(ウツボ)そうだね。檜中隊と黒江大尉は、全機敵に突入した。檜中尉は敵爆撃機の編隊の上部に位置している一機の<ロッキードP38「ライトニング」双胴双発単座戦闘機>めがけて突進、攻撃した。すると、わずか一連射で敵機は火を噴き墜ちて行った。(カモメ)入り乱れた空戦で、敵編隊がラングーン郊外に達する頃には、約一〇機の敵戦闘機が火炎に包まれて、墜ちて行きました。(ウツボ)檜中尉が、部下の戦闘状況を見ると、鈴木四郎少尉の<中島・二式戦「鍾馗」単座戦闘機>が<ノースアメリカンP51「マスタング」単座戦闘機>を追ってきて機首を引き上げたところだった。(カモメ)だが鈴木少尉機の後ろには、別の敵機がくっつき射撃を始めたのです。樋口中尉は援けようとしましたが、間に合わなかった。鈴木少尉機はキリモミになって墜ちて行ったのです。(ウツボ)檜中尉は、敵戦闘機は隅野中尉達にまかせて、敵爆撃機<コンソリデーテッドB24「リベレーター」四発大型爆撃機(米国製)>の編隊に襲いかかった。
2018.08.10
(ウツボ)敵機の編隊長機に対して、檜中尉は浅い角度から後上方攻撃をかけた。敵機を照準眼鏡に、ピタリととらえ、三〇メートルまで肉薄した。(カモメ)米空軍のマークが、鮮やかに見えました。まず、座席付近に一連射を集中しました。ドドドドッ! 檜中尉機の機銃が火を噴いたのです。(ウツボ)だが、敵機はその空中戦性能に自信があるのか、あるいは、操作を忘れたのか、戦闘を開始しても大きな増槽を落とさなかった。(カモメ)一撃を受けた敵機は、いとも無造作に、ポンと急反転したのです。そしてその途中で、パラリと増槽を落としました。(ウツボ)見ると、白い敵機の腹部が、檜中尉の眼前にさらされていた。「馬鹿めっ!」と、檜中尉は一連射をたたきこんだ。(カモメ)その瞬間、敵機の翼の付根付近が、バラバラともげて分解し、そのまま敵機は地上めがけて垂直に突っ込んで行きました。(ウツボ)だが、檜中尉は戦果を確認するひまもなく、部下の戦闘に目をやった。後方を見ると、僚機の羽鳥軍曹機が、後方五〇メートル位でピタリと檜中尉の援護にあたっていた。(カモメ)木下准尉機は、檜中尉が攻撃を開始すると、敵の僚機がこれを援護しようとして、後方から檜中尉機を攻撃する姿勢に入ったのを見ました。(ウツボ)直ちに木下准尉機はこの敵機に機首を向けて攻撃を開始した。すると後方を振り返った敵機は、准尉機の近迫を知るや、垂直に急降下して、逃れようとした。(カモメ)木下准尉はすぐにレバーを全開にして、急迫しました。機体が空中分解するのではないかと思われるほどエンジンはうなり、たけっていました。この時点で、敵機はやっと増槽を落としたのですね。(ウツボ)そうだね。敵機は増速し、距離が広がって来た。だが、木下准尉はどこまでも追おうと決心した。約二〇〇キロばかり追って、バセイン上空に来ると、敵機は油断したのか、速度を落とし始めた。(カモメ)木下准尉は、その機を逸せず後上方に忍び寄り、近迫しました。敵機が、照準眼鏡いっぱいに入って来ました。五〇メートルになって、木下准尉はピタリと狙いを定めました。(ウツボ)反射的に後方を振り返ったが、他に敵機はいなかった。木下准尉は気を落ち着けて、翼の付根付近を狙って、機銃を発射した。ドドドッ! 火箭(かせん)は、敵機に吸い込まれていった。(カモメ)敵機は急激な反転をしました。だが、早くも翼の付根付近から真っ黒な煙が噴き出し、後方に長い尾となってたなびいていました。(ウツボ)敵機は、もはや再び水平飛行に戻ることはなかった。機首を突っ込み。河の合流点の中州に、真っ逆さまに墜ちて行った。そして一塊の火と化した。(カモメ)隅野中尉は地上五〇〇メートルで敵機の攻撃を回避しつつ、ちらりと振り返ると、味方中隊主力が戦闘に加入してくるのが分かったのです。(ウツボ)隅野中尉が、なおも敵機の攻撃をかわし続けていると、敵機も日本戦闘機の戦闘加入に気づき、攻撃を断念して回避運動に移った。(カモメ)「こうなると、こちらのものだ」。主客転倒で、隅野中尉機は直ちに反撃に転じました。逃げる敵機、追いかける隅野中尉機。敵機はみるみる超低空となり、ラングーン市街の民家の屋根スレスレに逃げていく。(ウツボ)隅野中尉は射撃するのだが、弾丸が敵機の尾部あたりで炸裂しているだけで、手ごたえがない。(カモメ)敵機の操縦士は機首をひねって時々後方を見ている。「この野郎!」。隅野中尉は怒りが込み上げてきました。(ウツボ)ラングーン市街をこえて、海面に出た。敵機はさらに高度を下げた。翼が波に洗われるほどの低さだ。粘り強く追いかけて来る隅野中尉機を見て、敵機の操縦士は混乱したのか、操作が怪しくなってきた。
2018.08.03
(カモメ)檜與平・元陸軍少佐の「まえがき」の続き。「それどころか、世界の戦史にも類のない九度の感状を受けた栄光の『加藤隼戦闘隊』で、一中隊長としてその一翼を担うことができ、さらには、“空の軍神”と仰がれた加藤建夫戦隊長から直接の指導を受けたことを無上の喜びとし、誇りにさえ感じているのである」(ウツボ)「いうまでもなく空中戦を何十度となくくりかえしていれば、だれでも、いつかは敵弾に見舞われるであろう。私も例外ではなかったが、幸運にも私のごとき未熟ものが、なぜか一命だけはとりとめて生き残った」(カモメ)「ときに、われながら、なぜに生き残ったかと疑問に思うこともあったが、それはひとえに『運が良かった』からにすぎない。もちろん、私は私なりに、先輩たちの教訓をひたすら実践することに努力したのは、いうまでもない」。(ウツボ)昭和十八年十一月下旬、飛行第六四戦隊(第七代戦隊長・広瀬吉雄少佐)の部隊主力は、大国のドンムアンに引き揚げ、檜與平中尉の中隊だけがビルマのミンガラトン飛行場に残った。(カモメ)十一月二十五日、中隊長・檜中尉をはじめ、戦闘待機所に待機している中隊全員の顔には、さすがに連夜の夜間戦闘の疲労の色が、ありありと浮かんでいました。(ウツボ)昼近く、敵機来襲の情報が入った。檜中尉は中隊の<中島・一式戦「隼」軽単座戦闘機二型>三機を指揮して上昇した。一時間ばかり上空の哨戒にあたったが、敵機は姿を現さなかった。(カモメ)この時、檜中尉の無線が故障したらしく、地上との連絡が切れたのです。檜中尉は、時計を見て、敵機は侵入して来ないものと判断して約六〇〇〇メートルの高度から一挙に高度を下げ、着陸コースに入りました。(ウツボ)着陸前には上空に気を配らなければならない。檜中尉は編隊解散の記号を送る前に、ほとんど無意識に後ろ上方をふり向いた。(カモメ)すると、高度四〇〇〇メートル付近に、今まで見たことのない単発の頭の尖った飛行機が七機、ロッテを組んで飛んでいるのを発見したのです。(ウツボ)「新戦闘機がここまで侵入して来るのは、航空母艦から飛び立つ以外にはない。それとも、味方機か、いや、そんなはずはない」と、檜中尉の頭脳は一瞬、くるくると回転した。(カモメ)だが、とにかく敵味方の分からぬ時は、接敵してみよ、というのが原則だ。檜中尉は解散の翼を、敵機発見の記号に代えて、たちまち急上昇に移りました。僚機もそれに続きました。(ウツボ)敵はすでに高位にいる。低位から戦闘するのは極めて不利だ。なんとかして同高度を取りたいと、檜中尉は頭脳を回転させた。(カモメ)同時に太陽を利用して敵の後方にもぐって、ぐんぐん上昇していったのです。そうして、彼我の高度差が約二〇〇メートル位に縮まった時、明らかに敵機であることが確認されました。(ウツボ)敵機との直線距離は五〇〇メートル。丁度その時、別の基地で新入りの少年飛行兵達を訓練させていた隅野中尉機が、単機で舞い上がって来て、低位からの攻撃を仕掛けたのが認められた。(カモメ)「あぶないっ! 隅野っ!」。檜中尉は機上で地団駄踏む思いだった。敵機の性能は優秀らしく、しかも高位にあるのだから、隅野機の苦戦は目に見えていたのです。(ウツボ)案の定、敵機は隅野機の後方に食らいついた。隅野機は必死に敵機をかわそうとしていた。だが、敵機は離れない。(カモメ)敵機の撃ち出す曳光弾が、不気味な光の束になって隅野機の後方に集中していきました。(ウツボ)「あぶないっ! 隅野っ!」。檜中尉の手は、汗でぐっしょり濡れていた。だが、どうすることもできなかった。みるみるうちに、隅野機と敵機はもつれあいながら、飛行場の上空に高度を下げていった。(カモメ)檜中尉は、不利な態勢であったが、一刻の猶予もできないので、隅野機の救援に向かうため、翼を急激に振りました。戦闘開始です。
2018.07.27
(カモメ)敵機の射弾を回避しながらのジグザグ蛇行で離陸した池沢軍曹は、最後尾の<ロッキードP38「ライトニング」双胴双発単座戦闘機>に前下方攻撃で突き上げたが、弾丸が出なかったのですね。(ウツボ)そうだね。一方、<ロッキードP38「ライトニング」双胴双発単座戦闘機>は高高度からの急降下で、操舵の自由が失われ、池沢軍曹機を撃墜できなかったのだね。(カモメ)十月二十日、空戦で、池沢軍曹が、<リパブリックP47「サンダーボルト」戦闘機>に一連射を浴びせ、黒煙を吹き出した敵機を超低空で追撃していました。(ウツボ)その時、池沢軍曹機の右翼の上を火焔が突き抜けた。「しまった、やられた」と、右旋回中、後ろを振り返ると、敵操縦士の顔がはっきり見えるほどの至近距離だった。(カモメ)池沢軍曹は、やり過ごして離脱できたのですが、あんなに至近距離で命中しなかったということは、敵機の機関砲の照準調整に狂いがあったのではないかと思いました。(ウツボ)運の良い、池沢軍曹は命を落とすことなく、終戦を迎えた。戦後、昭和二十九年航空自衛隊入隊。昭和五十年退官。【檜與平(ひのき・よへい)少佐・12機】(カモメ)大正八年十二月二十五日生まれ。徳島県三加茂町出身。宮本武蔵と真田幸村に憧れ、小学校より剣道を始めました。(ウツボ)昭和七年徳島県立旧制池田中学校修了。昭和十一年陸軍士官学校予科入校。昭和十三年航空兵を志願、一次試験は病気で不合格になるが、二次試験で合格。(カモメ)昭和十五年陸軍航空士官学校(五三期)卒業、少尉(二十一歳)、飛行第六四戦隊附。昭和十六年東江作戦参加。八月中尉(二十二歳)。十二月マレー航空撃滅戦に参加。装備機は<中島・一式戦「隼」軽単座戦闘機>。(ウツボ)昭和十七年シンガポール航空撃滅戦に参加。二月パレンバン航空撃滅戦及びパレンバン空挺作戦参加。ジャワ航空撃滅戦参加。三月ビルマ航空撃滅戦参加。中隊長(飛行隊長)教育を受けるため明野陸軍飛行学校入校。(カモメ)昭和十八年四月明野陸軍飛行学校卒業、飛行第六四戦隊復帰、中隊長。十一月インド洋上空戦で<中島・一式戦「隼」軽単座戦闘機>で空戦中、<ノースアメリカンP51「マスタング」単座戦闘機>により被弾、右脚下腿を切断。十二月三日大尉(二十四歳)。(ウツボ)昭和十九年明野教導飛行師団附教官。昭和二十年一月結婚。六月少佐(二十六歳)、第一教導飛行隊第二大隊長・飛行第一一一戦隊第二大隊長。八月十五日終戦。(カモメ)飛行第六四戦隊で、加藤建夫戦隊長を支えたエースパイロット。最終撃墜数は一二機。平成三年一月死去。享年七十三歳。(ウツボ)著書は、「紅の翼―ああ、ただ一機檜戦闘機隊」(東京ライフ社・1957年)、「つばさの決戦―かえらざる隼戦闘隊」(光人社NF文庫・1995年)、「隼戦闘隊長加藤建夫―誇り高き一軍人の生涯」(光人社・2006年)などがある。(カモメ)「つばさの決戦―かえらざる隼戦闘隊」(檜與平・光人社NF文庫・1995年)の「まえがき」で、檜與平・元陸軍少佐は、次の様に述べています(一部抜粋)。(ウツボ)「当時、私は力の限り戦った。戦って戦いぬいた。寸毫(すんごう)も戦列を離れて内地へ帰りたいと思ったこともなく、所詮は「死」を迎えるであろうが、そこに至るまでの道のりを、私はまっすぐに、何の躊躇もなく邁進しつづけた」(カモメ)「そして、ついにインド洋上の空中戦において、右脚を膝下十センチのところで切断するという重傷を負った。だが、私はそれでも屈しなかった。義足を装着して、ふたたび戦闘機に乗り、最後の最後まで戦った」(ウツボ)「この間に、数多くの戦友を失った。その悲しみは大きく、四季がめぐり夏が来て、あの蒼空に浮かぶ白雲を見ると、死んでいった彼らのことがよみがえって目頭を熱くするほどであるが、それにもかかわらず、私の心には、いささかの悔いも恨みもない」
2018.07.20
(ウツボ)投弾を終えて、攻撃隊が旋回上昇しながら編隊を組みつつあった時、池沢軍曹は、はるか右前方に、物量投下中の敵輸送機二機を発見した。上空には<ノースアメリカンP51「マスタング」戦闘機>四機が護衛していた。(カモメ)敵機の動きを警戒しながら、池沢軍曹は編隊から無断で離れました。池沢軍曹は敵輸送機に向かったのです。(ウツボ)近づいてみると、<ノースアメリカンP51「マスタング」戦闘機>ではなく、第二五戦闘機隊の<カーチスP-40「ウォーフォーク」戦闘機>三機だった。(カモメ)敵輸送機は、中国軍への物量投下にやって来ていた第二七兵員輸送飛行隊の<ダグラスC-47「スカイトレイン」双発輸送機>でした。(ウツボ)<ダグラスC-47「スカイトレイン」双発輸送機>二機は、日本戦闘機の接近に気づき、あわてて加速し、雲に逃げ込もうとした。(カモメ)だが、池沢軍曹は、<中島・一式戦「隼」軽単座戦闘機二型>で追撃して捕捉、一撃で命中弾を多数撃ち込んだのです。(ウツボ)<ダグラスC-47「スカイトレイン」双発輸送機>は墜落していき、丘に激突して真っ二つになった。乗員七名は全員が戦死した。もう一機は、急降下し、河床すれすれに逃走し、逃げ切った。(カモメ)第二五飛行戦闘隊の三機の<カーチスP-40「ウォーフォーク」戦闘機>は、<ダグラスC-47「スカイトレイン」双発輸送機>からの無線を聞き、急行しました。(ウツボ)五分後、彼らは南東に、日本の正行攻撃隊の編隊を発見した。だが、そこには、敵輸送機を撃墜した池沢軍曹はいなかった。単機で飛行していたのだ。(カモメ)味方輸送機を撃墜され、仇を取ろうと憤怒に燃えた<カーチスP-40「ウォーフォーク」戦闘機>は、三機対十二機の劣勢にもかかわらず、三回に渡って、正行攻撃隊に対して突進攻撃を行ったのです。(ウツボ)だが、正行攻撃隊<中島・一式戦「隼」軽単座戦闘機二型>の逆襲を受け、<カーチスP-40「ウォーフォーク」戦闘機>一機が被弾して、やっと、味方飛行場まで帰投したが、着陸に失敗し、パイロットは意識不明の重傷を負った。(カモメ)その後、正行攻撃隊はさらに、第八九戦闘飛行隊の<リパブリックP47「サンダーボルト」戦闘機>三機とも遭遇、敵機一機を撃墜しましたが、社家一雄准尉が撃墜され戦死しました。(ウツボ)帰還後、池沢軍曹は、勝手に編隊を離れたことで中隊長・中村三郎大尉からひどく叱られた。深追いで戦死した渡辺軍曹のことなどを引き合いに出して、中村大尉は池沢軍曹の行動を厳しく戒めた。(カモメ)池沢軍曹は戦後、「八月に戻って、垃孟に行くと敵の輸送機が来てんだよな。そんで編隊離れて(敵機を)落として帰って来ると中隊長に怒られて、二回目またやると今度は怒り方が半分になる訳け。三回目からは何も言わない。行くたびに(敵機を)落として来るから」と回想していますね。(ウツボ)そうだね。中村中隊長も、いくら怒っても編隊から離れる池沢軍曹に、半ば匙を投げ、また度々撃墜を果たすその腕前に、一目置いていたと言われている。(カモメ)なお、指揮官の中村大尉は、二度目の恵通橋攻撃も至近弾のみで失敗した後、飛行隊長・宮辺英夫大尉に「爆撃に失敗したら体当たりするつもりでしたが、いざとなると機体を引き上げてしまう。難しいものですね」と語っています。(ウツボ)なお、連合軍は、恵通橋の下流にも新たな渡河点を設けて車両を通し始めたため、橋への攻撃は自然に沙汰やみとなった。九月七日、日本軍の垃孟陣地の守備隊は全滅した。(カモメ)守備隊は、勇猛果敢に最後まで戦いました。中国軍の蒋介石総統が「垃孟陣地の日本軍の勇猛さを手本にせよ」と配下の軍に布告したと言われています。(ウツボ)「栄光隼戦隊―飛行第六十四戦隊全史」(関口寛・他・今日の話題社・昭和60年)によると、池沢軍曹が生き延びられた運の良さのエピソードが次の様に記してある。(カモメ)昭和十九年十月十八日、池沢軍曹は、ミンガラドン飛行場で遊撃戦を終え、着陸給油中、「ラングーン上空P38編隊」の情報で、一斉に離陸しました。(ウツボ)池沢軍曹は給油のため数分遅れてエンジン始動、滑走路に出たところ、<ロッキードP38「ライトニング」双胴双発単座戦闘機>の大編隊が飛行場に突っ込んできた。
2018.07.13
【池沢十四三(いけざわ・としみ)軍曹・12機】(カモメ)池沢十四三は昭和十六年、十五歳で陸軍入隊。その後少年飛行兵(一〇期)として戦闘機での訓練を受け、戦闘機操縦者となりました。飛行第六四戦隊(加藤隼戦闘隊)のエース。(ウツボ)昭和十九年夏、飛行第五〇戦隊は、<中島・一式戦「隼」軽単座戦闘機>から<中島・四式戦「疾風」単座戦闘機>に機種改編を行った。(カモメ)だが、飛行第六四戦隊(戦隊長・江藤豊喜少佐)は、<中島・四式戦「疾風」単座戦闘機>への機種改編を行わず、<中島・一式戦「隼」軽単座戦闘機>を使用し続けたのですね。(ウツボ)そうだね。機種改編が行われるというので、戦隊の操縦員達は、「四式戦が来る!」と期待していた。(カモメ)だが、戦隊長の江藤豊喜少佐(陸士四八・飛行第六四戦隊戦隊長・飛行第一一一戦隊大隊長・終戦時少佐・撃墜数12機)は<中島・一式戦「隼」軽単座戦闘機>3型で戦うと決定したのです。(ウツボ)その理由は、3型は旋回性能が優れ、小回りが利くので有利とのことだった。(カモメ)この機種改編について、戦後、池沢十四三軍曹は次の様に、述べています(要旨)。(ウツボ)「我が飛行第六四戦隊にも、四式戦への機種改編の話が来たのだが、江藤戦隊長が、一式戦「隼」で戦うと、断った。飛行第五〇戦隊は、四式戦に機種改編した。ビルマで、我々飛行第六四戦隊が、手強い相手に苦戦していると、(飛行第五〇戦隊の四式戦が)やって来て、ババ―ッとやって、引き上げる」(カモメ)「作戦で我々一式戦が四式戦と一緒に行くと、スピットファイヤーが上に来ると、逃げるのが速いのなんの、四式戦はパッと頭を突っ込んで、ダーと逃げてしまう。敵機に上から来られたらどうしようもないのだろう、旋回性能が悪いから」(ウツボ)「それで、残された我々一式戦が空戦をやっていると、彼等四式戦が戻って来て、ダーと機関砲を撃って、またサーと行ってしまう。私達も、四式戦に乗っていなかったから、助かっているようなものじゃないかな」。(カモメ)「捨身必殺・飛行第64戦隊と中村三郎大尉」(梅本弘・大日本絵画)によると、昭和十九年六月以降、飛行第六四戦隊は、中国とビルマの国境付近にある日本軍の垃孟(らもう)陣地に対する援護物資の空中投下を行っていました。(ウツボ)昭和十九年八月、垃孟陣地下方を流れるサルウィン河にかかっている恵通橋を、敵の進軍を食い止めるため、飛行第六四戦隊が急降下爆撃で破壊することになった。(カモメ)その選抜隊「正行攻撃隊」が<中島・一式戦「隼」軽単座戦闘機二型>十二機で編成されました。正行(まさつら)は、楠木正成の嫡男の名ですね。(ウツボ)そうだね。正行攻撃隊には指揮官として第一中隊長・中村三郎大尉(陸航士五四期・飛行第六四戦隊中隊長・戦死・撃墜数15機)も参加。八月一日に軍曹に進級したばかりの、池沢十四三軍曹(第一中隊)も選抜された。(カモメ)池沢軍曹は雨期にサイゴンで、飛行隊長・宮辺英夫大尉(熊本・陸航士五二期・飛行第五戦隊教官・明野陸軍飛行学校教官・陸軍航空士官学校教官・少佐・飛行第六四戦隊第九代戦隊長・撃墜数12機)のもとで戦闘訓練を行い、腕を上げていました。(ウツボ)池沢軍曹は、「今度、ビルマのメイクテーラ飛行場に帰ったら、編隊から無断で離れよう」と決意していた。(カモメ)飛行第六四戦隊では個人戦闘は禁じられ、「みな編隊から離れるな」と厳命されていたのですが、戦闘参加から半年で少年飛行兵一〇期生はすでに半分が戦死していたのです。(ウツボ)池沢軍曹は「自分もどうせ死ぬんだ。大した戦果もあげないで死ぬのは馬鹿くさい」と思ったのだね。(カモメ)八月十八日、正行攻撃隊は、五〇キロ爆弾二発を懸吊(けんちょう=かけつるす)し、深い峡谷に架かる細い吊り橋、恵通橋に向かいました。午前中の攻撃は失敗し、池沢軍曹の爆弾も命中しませんでした。(ウツボ)技術的に難しい急降下爆撃だった。正行攻撃隊はいったんメイミョウに戻り、午後再び爆装して恵通橋に向かった。(カモメ)だが、池沢軍曹の爆弾は、またもや命中せず、サルウィン河に水柱を上げただけに終わったのです。
2018.07.06
(ウツボ)基地まで戻れそうになかった。プロペラの回転も異常になり、いつ停止するかわからない状態になった。宮辺大尉は、不時着を決めた。(カモメ)安全な場所で、友軍と連絡をとりやすい場所に降りよう。眼下を見ると町の上空だったが、幸運なことに、前方に大きな牧場のような広場があったのです。(ウツボ)その広場に不時着を決めた宮辺大尉は、プロペラを停止して、滑空操縦に移った。油圧系統がやられたので脚が出ない。胴体着陸を決意した。(カモメ)ところが、低空になり近づいてみると、意外に凸凹の多い場所でした。だが、いまさら他の場所を探す余力はない。宮辺大尉は両足を踏ん張ったのです。(ウツボ)高度三〇〇、二〇〇、一〇〇……目前にぐんぐん迫ってくる大地に吸い込まれるようだった。ドッ、ドドド、ドー、激しい衝撃を受けて、一瞬気が遠くなった。(カモメ)あたりは、もうもうと砂塵に包まれ、何も見えませんでした。しばらくは、宮辺大尉は放心状態でした。頭が痛かった。不時着の衝撃で頭部をひどく打ったのです。(ウツボ)安全ベルトを外すと、宮辺大尉は天蓋を開き、機外に出た。ふと気が付くと、内地を出発する前に銀座で買ったドイツ製の航空眼鏡がみじんに砕けていた。(カモメ)愛機は片翼を立木にぶつけて、何とも無残な姿をさらしていました。太田の中島の工場でもらい受け、宮辺大尉とともにビルマまでともにした愛機でした。もう二度と大空を飛ぶことは無いだろう愛機の胴体に寄りかかって、名残を惜しんだのです。(ウツボ)ふと見ると、牛の大群が、ゆっくりと宮辺大尉の方に近づいて来ていた。彼らに踏みつけられたら大変だと思い、「おい、近寄るな!」と叫んだが、効果がなかった(カモメ)牛の群れはどんどん近づいてきました。宮辺大尉は、たまりかねて、拳銃をかまえると、二、三発、空に向けて威嚇射撃をしました。牛の群れは、退散しました。(ウツボ)しばらくすると、友軍のトラックがやって来た。運転台から曹長と兵隊がおりてきた。宮辺大尉は、ホッとして、救われた気持ちになった。(カモメ)「我々は糧食の買い物をした帰りに、空中戦を見ていたのです。大尉殿の機が不時着されたので、急いで駆けつけました」と曹長が言いました。(ウツボ)宮辺大尉を乗せたトラックがしばらく走り、トーンダンギーの町にさしかかった時、不意に屈強なビルマ人が一人、トラックの前方に立ちふさがった。(カモメ)運転していた曹長が、トラックを停めると、そのビルマ人は、しきりに手真似しながら話しかけてきました。曹長はビルマ語で応じていました。(ウツボ)曹長が宮辺大尉に「大尉殿、敵のパイロットがパラシュートで降りたのを捕まえたので、一緒に来てくれ、と言っています」と報告した。(カモメ)その男の案内で、目的地に着くと、四、五十人のビルマ人が取り囲んでいました。宮辺大尉たちが近づくと、彼らは歓声を上げて迎えました。(ウツボ)その向こうに、若いアメリカ軍のパイロットが、一人腰を下ろしていた。宮辺大尉が拳銃をかまえて近づくと、彼は「ノー・ガン、ノー・ガン」としきりに連発した。階級章を見せて、「サブ・ルテナント」と言った。少尉だった。(カモメ)その少尉は「君が我々を、撃墜したのか?」と言ったのです。さらに「我々を撃墜したのは、隼戦闘機だった。なかなかいい飛行機だ」などと話しかけてきました。(ウツボ)近くには、彼が乗っていて撃墜された爆撃機の残骸が白煙をあげてくすぶっていた。付近にはアメリカ兵の遺体が黒焦げになって散らばっていた。(カモメ)宮辺大尉らは、この捕虜の米兵をマグウエ飛行場に連れていき、引き渡しました。(ウツボ)ところで、偶然その飛行場に、飛行六四戦隊第三中隊の隈野五市中尉がいた。(カモメ)宮辺大尉は、この隈野中尉の<中島・一式戦「隼」軽単座戦闘機二型>で、自分が操縦し、隈野中尉を後ろの胴体に乗せ、トング―の北飛行場に帰還しました。(ウツボ)その後、宮辺大尉は、中隊を率いて、防空戦や航空撃滅戦を繰り返し、少佐に昇進。昭和二十年四月二十八日からは飛行第六四戦隊・第九代戦隊長(最後の戦隊長)になって戦った。(カモメ)昭和二十年四月には、宮辺少佐は、第五飛行師団長・服部武士中将より、武功徽章乙を授与され表彰されました。(ウツボ)昭和二十年八月十五日、仏印(フランス領インドシナ)南部のクラコールで終戦を迎えた。宮辺少佐の総撃墜数は一二機と記されている。
2018.06.29
(ウツボ)宮辺大尉は一瞬、逃げる敵編隊長機を追うか、それともまだこちらに気づかない他の機に攻撃を仕掛けるか、迷った。(カモメ)その時、中村三郎中尉の「隊長殿に深追いされては困ります」の一言が脳裏をかすめたのです。無意識に宮辺大尉の操縦桿を握る手が、急降下していた機を反転して急上昇させていました。(ウツボ)攻撃目標をほかに変えたが、すでに一機、二機、三機……敵機<ホーカー「ハリケーン」戦闘機(イギリス製)>はエンジン部から火をふいて、キリモミ状態で撃墜されていた。(カモメ)結局、無事に逃走したのは、宮辺大尉が狙った編隊長機と、あともう一機だけでした。その日の目的は達したものの、宮辺大尉にとっては、自分自身に腹が立つような不本意な初陣だったのです。(ウツボ)基地に戻って愛機から下りると、機付の整備兵たちが走り寄ってきて「中隊長殿、出撃ご苦労様でした」と声をかけ、どの顔にも、宮辺大尉の無事を喜ぶように、笑みが浮かんでいた。(カモメ)中隊長機付の彼らは、それまで二人の中隊長を転属初戦で失っていたのです。いくらベテランの中隊長でも、転属初戦となれば、「手柄をたてなければ」と気負い、ときには派手な行動に出る。それを考えて、「何とか無事に帰還してくれ」と神に祈っていたのかもしれないですね。(ウツボ)恐らくそうだったのだろうね。宮辺大尉と第二中隊はその後も出撃を繰り返した。(カモメ)四月初旬になり、黒江保彦大尉を長とし、チッタゴン方面の敵空軍基地攻撃のため出撃することになりました。総勢数十機からなる戦隊で、戦闘機のみによる攻撃作戦でした。(ウツボ)第二中隊からは、宮辺大尉と垣尾勝中尉、坪根康祐(つぼね・こうすけ)曹長(福岡・少年飛行兵五期・飛行第一三戦隊・第一野戦飛行補充隊・飛行第六四戦隊・武功徽章乙・撃墜数10機)の三名がこの作戦に出撃した。(カモメ)ところが、マグウエ東方にさしかかると、「敵機、九機飛来中!」。味方編隊中の一機が、モヤの中を東進する<コンソリデーテッドB24「リベレーター」四発大型爆撃機(米国製)>を発見しました。(ウツボ)敵編隊は、トング―基地のわが軍を爆撃しようとしていた。「おっ、絶好の獲物にありついたぞ!」と宮辺大尉らは、この予想もしない敵機群に、思わず胸をときめかせた。(カモメ)だが、まだトング―を離陸後わずか三〇分しか飛んでいないので、落下タンクには燃料がありあまっていたのです。(ウツボ)といって、落下タンクをつけたままでは、とても身軽な戦闘はできない。もったいないが、黒江隊長の指示で、全員一斉に落下タンクを捨てて、戦闘態勢に入った(カモメ)一方、敵機<コンソリデーテッドB24「リベレーター」四発大型爆撃機(米国製)>群も、予期しない日本の戦闘機群に、びっくりして、せっかく搭載していた爆弾を落とし始めると、一斉に反転して、西に進路を取り、遁走し始めたのです。(ウツボ)黒江編隊は直ちに編隊を解いて、遁走する敵機に攻撃を開始した。宮辺大尉は爆撃機への攻撃は初めての経験だったので、緊張感が高まった。(カモメ)攻撃基本を忠実に実行し、敵機の頭上から突っ込んで行きました。だが、実戦は訓練とはかなり違いました。機関砲のボタンを押す間もなく、敵機は最大速度でどんどん前方へ進み、直上からの攻撃チャンスはすぐに失われたのですね。(ウツボ)そうだね。こうなると、敵機の後方砲座から反撃される可能性が大になるのだが、宮辺大尉は、その時、爆撃機攻撃の恐ろしさにほとんど気づいていなかった。(カモメ)後上方攻撃は、つまり敵機の速度に合わせることだから、<コンソリデーテッドB24「リベレーター」四発大型爆撃機(米国製)>編隊の数十個のプロペラに搔きまわされた悪気流(プロペラ後流)に見舞われるのですね。(ウツボ)そうだね。このため宮辺大尉の愛機も乱気流の中でガクン、ガクンと激しく揺れだした。宮辺大尉は必死に操縦桿を握りなおして突進するが、容易に射程距離まで近づけなかった。(カモメ)宮辺大尉はあせって、なんとか、プロペラ後流の中を突進しました。やっと射程距離内に入ったことを確認して、発射ボタンを押したのです。(ウツボ)発射した機関銃砲弾は、ことごとく敵機に命中した。だが<コンソリデーテッドB24「リベレーター」四発大型爆撃機(米国製)>は少しも動ぜず、何事もなかったように、ゆうゆうと飛び去って行った。(カモメ)宮辺大尉は「何たることだ!」と思い、再び態勢を整えると、二度、三度と執拗に攻撃を繰り返しました。その時、突然、ガクンと衝撃が愛機に伝わったのです。(ウツボ)敵機の機関銃砲弾をエンジンに被弾したため、カバーが飛んだのだ。次の瞬間黒煙が周囲を包んだ。滑油圧がみるみるうちに下がりだし、たちまち計器の針がゼロを示した。(カモメ)「やられた!」と宮辺大尉は感じました。プロペラはかろうじて回っているが、速度は急激に落ちました。もう敵機を追うどころではなかった。火災が発生したら一巻の終わりなのです。
2018.06.22
(ウツボ)宮辺大尉(まだ実戦経験はなかった)は、各機ともさすがに実戦経験豊富とあって、その操縦はかなり熟練しているように思った。(カモメ)それに操縦者達も無意識のうちに、新しい中隊長の宮辺大尉に、その腕前を披露しようと、張り切っている様子が、急旋回や垂直上昇に見えたのです。(ウツボ)「うん、なかなかやるぞ!」と、宮辺大尉が機上から周囲の編隊機の飛行ぶりを見ていると、「あっ、何だ、あのザマは!」。(カモメ)緊張のせいか、中村中尉の編隊機が態勢をくずし、なかなか元の状態にもどらなかったのです。(ウツボ)宮辺大尉は業を煮やして、上昇しながらそれを追跡し、「おい、二番機、外にふくれておるぞ! 機首をもどせ」と、無線機に向かって大声で言った。(カモメ)訓練をすませて基地に戻ると、その二番機に乗っていた少年飛行兵出身の軍曹を呼び、「きさま、あんな操縦ぶりで、よく今日まで生命があったものだな。いいか、もっと操縦には慎重を期すことだな」と𠮟りつけました。(ウツボ)ところが、宮辺大尉が一服していると、中村中尉がやってきて、「隊長殿、さっきの訓練飛行のことで、ちょっと嫌味を申し上げますが、……」ときた。(カモメ)宮辺大尉が「何だ、何か文句でもあるのか?」と言うと、中村中尉は次のように答えたのです。(ウツボ)「はい。当分の間、実戦の折には、さっきのような深追いは、なさらないでください。隊長は第一撃を指向なさったら、あとの敵機は私たちが撃墜いたします。隊長は上空で指揮だけをとって頂きたいものです。もし隊長に万一のことでもあれば、部下たちが士気を失いかねませんから」。(カモメ)宮辺大尉は、内心では、「そんなことなどできるか!」と思ったが、中村中尉が、クドクド言うので、「うん、うん」と、ただ聞いていました。(ウツボ)空中戦とは編隊による戦闘だが、最終的にはやはり個人の戦いとなる。編隊の長である中隊長は、先頭に立って働かなければならない。(カモメ)中隊付きの援護編隊は、中隊長の戦闘が最も効果的に行われるようにするのが任務です。つまり、あるときは中隊長機の後方を守り、あるときは中隊長が目標とする敵機を逃さないように行動をとるのが、本来の姿なのですね。(ウツボ)そうだね。中村中尉が言うように、「第一撃を指向したら上空へ……」などとは、もってのほかだ。そのことは、当の中村中尉も百も承知のはずだし、それをあえて告げるのは、宮辺大尉が前任の中隊長の二の舞になりでもしたら……との危惧のためなのだろう。(カモメ)とくに「当分の間」と前置きしたのは、前任の関二郎中隊長が初陣のときに戦死していたためですね。宮辺大尉がただ、「うん、うん」と答えたのも、そんな中村中尉の気持ちがよくわかっていたからです。だが、宮辺大尉は、さりげなく、それを聞き流したのです。(ウツボ)着任したばかりの第二中隊長・宮辺大尉の飛行訓練は、中隊員の誰もが注目していた。中隊員たちは「こんど着任した中隊長の腕前は、どのくらいだろう?」と興味津々だった。(カモメ)宮辺大尉の操縦技術に対する彼らの感想は、間もなく、宮辺大尉の耳にも入ってきました。「今度の中隊長は頼もしいぞ!」。宮辺大尉は、今後の実戦でさらに彼らの評価を高めたい、と心に誓ったのです。(ウツボ)やがて、その初陣がやってきた。着任してから数日後だった。ビルマとインド国境近くのイギリス空軍基地の爆撃命令が発令され、黒江中隊と第二中隊が出撃することになった。(カモメ)第二中隊の<中島・一式戦「隼」軽単座戦闘機二型>は離陸し上空で編隊を整えると、第四飛行団の軽爆と合流し、もやの中を進航しました。(ウツボ)やがてアキャブを過ぎ、右にアラカン山脈、左にベンガル湾を望んで、マユ山系上空に到達した時、不意に前方の編隊機の黒江保彦大尉が、翼を左右に振り始めた。(カモメ)前方を注視すると、はるか前下方から、敵機<ホーカー「ハリケーン」戦闘機(イギリス製)>が二機、三機、五機と上がって来ました。宮辺大尉にとっては初めて見る敵機でした。(ウツボ)敵パイロットはどうやらまだ日本側の援護戦闘機に気づかないようだった。こうした場合は、敵戦闘機が味方の軽爆を攻撃する前に、こちらから攻撃をかけるのだ。(カモメ)宮辺大尉は、部下の編隊機に「敵機接近!」と告げ、黒江編隊に攻撃開始を伝えると、敵機<ホーカー「ハリケーン」戦闘機(イギリス製)>に向かって急降下し、攻撃態勢に入りました。(ウツボ)あと、五、六百メートルで射程距離に入ると思われた時、敵編隊長機も、やっと宮辺編隊に気づいて、大きく翼を振ったが、くるりと機首を反転させると、遁走し始めた。(カモメ)「クソッ!」。宮辺大尉には釣り竿のエサに食いつきかけた魚が、それと察して、身をひるがえしたように思われました。(ウツボ)宮辺大尉にとって敵の行動は意外だった。もし宮辺大尉が敵の立場だったら、まず、急旋回で敵弾を回避し、すぐさま反撃に移る。これが戦闘機乗りの定石なのだ。この定石を無視したのは、敵にさして闘志がなかったのだ。(カモメ)幸い、敵の他の戦闘機はまだ、こちらの編隊に気づいていなかったようで、その動きに変化を見せていなかった。
2018.06.15
(カモメ)七月十六日、「義足のエース」檜少佐と、江藤少佐に率いられた飛行第一一一戦隊の<川崎「五式戦」単座戦闘機>二四機は、三重県松阪市上空でアメリカ軍の戦闘機と空戦を行いました。(ウツボ)対戦のアメリカ軍は、アメリカ陸軍航空軍・第二一戦闘機群と第五〇六戦闘機群所属の<ノースアメリカンP51「マスタング」戦闘機>九六機だった。(カモメ)日本側の戦果は、敵機撃墜六機、不確実五機でした。損害は、被撃墜五機で、三名戦死、二名生還でした。この空戦は、多数の米軍機に各機が包囲され撃破される苦しい戦闘だったのですね。(ウツボ)そうだね。複数の資料によると、江藤豊喜少佐の撃墜数は一二機と記されている。【宮辺英夫(みやべ・ひでお)少佐・12機】(カモメ)宮辺英夫は大正八年一月生まれ。熊本県出身。昭和十一年熊本県立玉名中学校卒業。昭和十四年陸軍航空士官学校(五二期)卒業。明野陸軍飛行学校卒業後、飛行第五戦隊(立川)教官。その後、明野陸軍飛行学校・教官、陸軍航空士官学校・区隊長を歴任。(ウツボ)昭和十八年三月十五日飛行第六四戦隊・第二中隊長。昭和十九年四月飛行第六四戦隊・飛行隊長(少佐)。昭和二十年四月二十八日飛行第六四戦隊・第九代戦隊長(最後の戦隊長)。(カモメ)昭和二十年八月十五日仏印(フランス領インドシナ)南部のクラコールで終戦を迎える。昭和二十一年五月四日復員、広島県大竹港に帰る。(ウツボ)戦後、熊本県に帰り、凸版玉名紙工株式会社に勤務。その後、同社社長に就任。昭和五十三年十月死去。享年五十九歳。(カモメ)昭和十八年三月十五日、宮辺英夫大尉は、飛行第六四戦隊(ビルマ・トング―基地)に第二中隊長として着任しました。装備機は<中島・一式戦「隼」軽単座戦闘機二型>。(ウツボ)トング―基地に宮辺大尉が着陸すると、第二中隊長代理・中村三郎(なかむら・さぶろう)中尉(飛行第六四戦隊第二中隊長代理・大尉・第一中隊長・戦死・中佐・撃墜数15機)が「宮辺中隊長殿、お待ちしておりました」と、ホッとした様子で、出迎えた。(カモメ)中村三郎中尉がホッとしたのも、当然でした。宮辺大尉が着任する前の飛行第六四戦隊(加藤隼戦闘隊)は、主要指揮官を次々に失っていたのです。(ウツボ)昭和十七年五月二十二日に、後に軍神となった第四代戦隊長・加藤建夫(かとう・たてお)中佐(北海道・陸士三七・飛行第二大隊第一中隊長・陸大選科卒・陸軍航空本部員・少佐・飛行第六四戦隊長・中佐・戦死・少将・従四位・勲三等・功二級)が戦死。(カモメ)昭和十八年二月十二日、第五代戦隊長・八木正巳少佐(陸士三八)が戦死。二月十三日、第二中隊長・関二郎が戦死。二月二十五日、第六代戦隊長・明楽武世少佐(陸士四六)が戦死。(ウツボ)そのため、宮辺大尉が着任するときは、戦隊長は欠員で、元第三中隊長の黒江保彦大尉が戦隊長代理、第二中隊長代理は中村三郎中尉、第三中隊長代理を黒沢直中尉が務めているというありさまだった。(カモメ)着任の日の夕食後、宮辺大尉は中隊員を集めて着任の挨拶をしました。そのあと、中隊長代理・中村中尉から説明を聞いて、ベッドに入りました。(ウツボ)翌朝七時過ぎに目が覚めたので、宮辺大尉は将校集会所で食事をすることにした。食事をとっていると、中村中尉がやってきて、「中隊長殿、よくお休みになれましたか?」と聞いた。(カモメ)見ると、中村中尉が航空服だったので、「どうしたのか?」と、宮辺大尉が理由を尋ねると、「昨夜半に敵機が来襲し、中型爆弾を投下して退散したのです」と答えたのです。(ウツボ)宮辺大尉は「なにっ。どうして俺を起こさなかったのか」と問い詰めた。すると中村中尉は「起こしに参りましたが、あまりによく眠っておられたので……お疲れがひどいと思い、そのまま戻りました」と、さも恐縮したように答えた。(カモメ)その様子は宮辺大尉への思いやりが感じられたので、宮辺大尉はそれ以上追及しなかったのです。中村中尉があえて宮辺大尉を起こさなかったのは、次々と第二中隊長の戦死が続き、また指揮官を失っては中隊の士気に影響するとあって、新任の宮辺大尉を大切にしようとする心遣いだろうと思われたのですね。(ウツボ)そうだね。だが、宮辺大尉には、そうした中村中尉の考えが、少々不人情のように思えもした。(カモメ)朝食後、宮辺大尉は、兵の運転するサイドカーで第二中隊所属の北飛行場のピストに赴くと、第二中隊の空中勤務者たちが緊張した面持ちで整列していました。(ウツボ)宮辺大尉は「よし、本日よりこの中隊長宮辺大尉が、きさまらの指揮をとる。どうか今後も俺のあとについて、大いに頑張ってくれ!」などと訓示を行った。(カモメ)訓示後、ただちに打ち合わせ通り飛行訓練を実施しました。中村中尉を長とした三機が大空に、ついで宮辺大尉の編隊がそれに続いて飛び上がりました。
2018.06.08
(ウツボ)昭和十九年六月四日、伊藤中尉は五〇キロ爆弾二発を搭載し、ビアク島への夜間攻撃に出撃、目標に投弾後、地上掃射を続けたが、対空砲火を受けて被弾、海上に不時着水した。(カモメ)だが、すぐに救助されました。伊藤中尉は様々な空戦を経て歴戦のエースになるのです。(ウツボ)その後飛行第五戦隊は、メナド(インドネシアのスラウェシ島)を経由して、バゴロド飛行場(フィリピンのネグロス島)に移動した。その後、日本に帰国した。(カモメ)昭和十九年十二月、マリアナ諸島を基地にした、<ボーイングB-29「スーパーフォートレス」(超空の要塞)四発大型爆撃機)>が名古屋空襲を開始しました。伊藤中尉は、中京地区防空戦力の一員として、迎撃に向かいました。(ウツボ)昭和二十年一月伊藤中尉は第三中隊長を命ぜられ、中隊を指揮して、繰り返し爆撃に来襲する<ボーイングB-29「スーパーフォートレス」(超空の要塞)四発大型爆撃機)>の迎撃に上がり、次々に撃墜した。(カモメ)その後も<川崎「五式戦」単座戦闘機>に搭乗して、本土に来襲してくる<ボーイングB-29「スーパーフォートレス」(超空の要塞)四発大型爆撃機)>を迎撃しました。昭和二十年七月七日、伊藤大尉は、武功徽章を授与されました。(ウツボ)伊藤大尉は、八月十五日の終戦までに戦闘機隊を指揮して、九機の<ボーイングB-29「スーパーフォートレス」(超空の要塞)四発大型爆撃機)>を撃墜した。(カモメ)なお、伊藤大尉が撃墜した他の敵機も全て四発の重爆撃機でした。伊藤大尉の総撃墜数は一三機で、まさに重爆撃機の撃墜王だったのです。(ウツボ)戦後、伊藤藤太郎は、国際ライオンズクラブ会員になった。昭和五十八年五月十五日死去。享年六十七歳。著書に「激戦の空に生きて」(石人社・239ページ・1977年)がある。【白井長雄(しらい・ながお)大尉・13機】 (カモメ)白井長雄は兵庫県生まれ。昭和十六年七月陸軍士官学校(五五期)卒業。十一月操縦学生(八八期)。昭和十七年十一月飛行第二四四戦隊配属。(ウツボ)昭和十九年十月、白井中尉は飛行第二四四戦隊第三中隊長に任命され、終戦まで、第三中隊(みかずき隊)を指揮して、本土空襲に来襲する<ボーイングB-29「スーパーフォートレス」(超空の要塞)四発大型爆撃機)>の迎撃に明け暮れた。(カモメ)搭乗機は、<川崎・三式戦「飛燕」液冷単座戦闘機>と<川崎「五式戦」単座戦闘機>でした。最終階級は陸軍大尉。(ウツボ)白井大尉の撃墜数は、<ボーイングB-29「スーパーフォートレス」(超空の要塞)四発大型爆撃機)>一一機、<グラマンF6F「ヘルキャット」艦上戦闘機>二機の合計一三機。(カモメ)白井大尉は<ボーイングB-29「スーパーフォートレス」(超空の要塞)四発大型爆撃機)>の撃墜王ですね。(ウツボ)そうだね。だが、戦後、白井長雄氏は、戦友たちと一切接触せず、戦争については何も語らなかったという。昭和四十九年死去。【江藤豊喜(えとう・とよき)少佐・12機】(カモメ)江藤豊喜昭和十一年六月陸軍士官学校(四八期)卒。ノモンハン戦、日華事変に出征しました。(ウツボ)江藤豊喜少佐は、昭和十九年六月から昭和二十年四月まで、飛行第六四戦隊(加藤隼戦闘隊)の第八代戦隊長。四月二十五日、明野陸軍飛行学校教官に転任。(カモメ)昭和二十年一月九日、飛行第六四戦隊(装備機<中島・一式戦「隼」軽単座戦闘機>)は、飛行第五〇戦隊(装備機<中島・四式戦「疾風」単座戦闘機>)とともに、アキャブ沖の連合軍艦船の攻撃に出撃しました。(ウツボ)飛行第六四戦隊は、<ブリストル「ボーファイター」双発重爆撃機(イギリス製)>(第二七飛行隊)一機と<スーパーマリン「シーオッター」複葉・水陸両用飛行艇(イギリス製)>(第二九二飛行隊)一機を撃墜した。(カモメ)だが、江藤戦隊長の編隊が<スーパーマリン「スピットファイヤー」単座戦闘機(イギリス製)>に襲撃され、四機が撃墜されました。(カモメ)戦隊長・江藤少佐機はミエボン(現・ミャンマーのラカイン州)南方に不時着、江藤少佐は翌十日に帰還したが、他の三名は戦死しました。(ウツボ)昭和二十年七月、飛行第一一一戦隊の第一大隊長は江藤豊喜少佐、第二大隊長は檜與平(ひのき・よへい)少佐(徳島・陸士五三・飛行第六四戦隊・中尉・マレー航空撃滅戦・シンガポール航空撃滅戦・パレンバン航空撃滅戦・ジャワ航空撃滅戦・ビルマ航空撃滅戦・明野陸軍飛行学校学生・飛行第六四戦隊中隊長・空戦で被弾・右脚下腿切断・明野教導飛行師団教官・少佐・第一教導飛行隊第二大隊長・飛行第一一一戦隊第二大隊長)だった。
2018.06.01
(ウツボ)八月十八日、空戦で、小野崎中尉は、<ロッキードP38「ライトニング」双胴双発単座戦闘機>二〇機に取り囲まれた。(カモメ)小野崎少尉は、低空を木々の梢すれすれに飛び回り、その<中島・一式戦「隼」軽単座戦闘機>の卓越した運動性能と小野崎中尉の抜群の操縦技量で逃げ切ったのですね。(ウツボ)そうだね。その翌日、小野崎中尉は、アメーバ赤痢の病状が悪化したため、ラバウルに送還された。小野崎少尉の総撃墜数は一四機だった。【広畑富男(ひろはた・とみお)准尉■殉死・14機】(カモメ)広畑富男は大正六年生まれ。福島県出身。戦闘機操縦員になってから飛行第五九戦隊第二中隊所属。(ウツボ)太平洋戦争開戦前は、広畑軍曹は、飛行第五九戦隊に所属していた黒江保彦(くろえ・やすひこ)中尉(鹿児島・陸軍航空士官学校五〇期・飛行第五九戦隊・ノモンハン戦・陸軍航空士官学校教官・大尉・陸軍航空審査部・独立飛行第四七中隊・太平戦争開戦・飛行第六四戦隊中隊長・陸軍航空審査部・戦後航空自衛隊入隊・ジェット戦闘機パイロット・飛行隊指揮官・将補・第六航空団司令・水死)に空戦技術の指導を受けた。(カモメ)昭和十六年十二月太平洋海戦後は、マレー攻略戦、蘭印(オランダ領インド)作戦等の南方進攻作戦に参加。(ウツボ)昭和十八年ティモール島防空任務に就き、その後、ニューギニアに進出、ブーツ飛行場を基地として、出撃を繰り返した。激戦の中、生き残った広畑曹長は内地に帰還し、本土防空任務に就いた。(カモメ)昭和二十年、知覧基地(鹿児島)。四月二十二日乗機が故障して、落下傘降下したが、機体と衝突して殉職。(ウツボ)広畑准尉は、自分の愛機<中島・一式戦「隼」軽単座戦闘機二型>に羽ばたく鳥のマーキングを入れていた。総撃墜数は、推定で一四機とされている。【伊藤藤太郎(いとう・とうたろう)大尉・13機】(カモメ)大正五年生まれ。福井県出身。昭和十年歩兵第三六連隊入隊。昭和十四年四月熊谷陸軍飛行学校(下士官操縦第七九期生)入校。十二月熊谷陸軍飛行学校卒業、飛行第五戦隊配属。(ウツボ)昭和十七年三月から飛行第五戦隊は<中島「九七式戦」低翼単葉戦闘機>から<川崎・二式複戦「屠龍」双発複座重戦闘機>に機種改編を行った。南方進出までに完全な<川崎・二式複戦「屠龍」双発複座重戦闘機>部隊になった。(カモメ)昭和十七年六月伊藤曹長は、陸軍航空士官学校(第二二期少尉候補者)入校。十一月陸軍航空士官学校卒業。昭和十八年二月少尉。七月飛行第五戦隊とともにジャワ島(インドネシア)南部へ進出。(ウツボ)昭和十八年十一月二十四日、伊藤藤太郎少尉は<川崎・二式複戦「屠龍」双発複座重戦闘機>で哨戒飛行中、<コンソリデーテッドB24「リベレーター」四発大型爆撃機(米国製)>六機編隊(アメリカ第三八〇爆撃航空群)に遭遇した。(カモメ)伊東少尉は、敵編隊に突進しましたが、機関砲が故障してしまいました。仕方なく、後部の旋回機銃のみで交戦したのです。(ウツボ)昭和十九年一月十九日飛行第五戦隊は戦隊長・高田勝重少佐(陸士四五期・昭和十九年五月二十七日ニューギニア北西部のビアク島付近で戦死・中佐)と伊藤中尉の属する第一中隊一〇機は、バンダ海に臨むマルク諸島のアンボン島、リアン基地に展開していた。(カモメ)一月十九日アメリカ第三八〇爆撃航空群の<コンソリデーテッドB24「リベレーター」四発大型爆撃機(米国製)>編隊がリアン基地に爆撃に来襲しました。(ウツボ)これに迎撃に上がった飛行第五戦隊の第一中隊の<川崎・二式複戦「屠龍」双発複座重戦闘機>は、敵機と交戦し、<コンソリデーテッドB24「リベレーター」四発大型爆撃機(米国製)>七機を撃墜した。(カモメ)そのうち三機は伊藤少尉と後部同乗者・野崎政範軍曹が撃墜したのです。<川崎・二式複戦「屠龍」双発複座重戦闘機>装備の三七ミリ砲で次々に撃墜しました。(ウツボ)だが、伊藤中尉機も右翼エンジンに被弾したので、セラム島(インドネシア・モルッカ諸島)に不時着した。(カモメ)この功績により、伊藤少尉と野崎軍曹は、第三飛行団長・塚田理喜智(つかだ・りきち)少将(石川・陸士二八・陸大三六・北支那方面軍情報主任参謀・航空兵大佐・飛行第七連隊長・第一飛行集団参謀長・少将・第三飛行団長・第三航空軍参謀長・挺進練習部長・第一挺進集団長・中将・終戦)から賞詞を授与されました。
2018.05.25
【小野崎煕(おのざき・ひろし)大尉・14機】(カモメ)小野崎煕は大正六年生まれ。栃木県出身。昭和十一年二月熊谷陸軍飛行学校(少年飛行兵三期)入校。熊谷陸軍飛行学校卒業(恩賜・銀時計)後、明野陸軍飛行学校(戦闘機課程)卒業。(ウツボ)昭和十四年五月ノモンハン事件勃発。小野崎煕軍曹は飛行第五九戦隊(満州延吉・漢口飛行場)配属。装備機は<中島「九七式戦」低翼単葉戦闘機>。小野崎軍曹はノモンハン戦では出撃する機会はなかった。(カモメ)昭和十六年五月飛行第五九戦隊は内地に帰還し、東京の立川飛行場で、装備機を<中島・一式戦「隼」軽単座戦闘機>に改編。(ウツボ)昭和十六年十二月太平洋戦争開戦。小野崎軍曹は、飛行第五九戦隊(仏印駐屯)第一中隊の一員としてマレー進攻作戦、シンガポール攻略、パレンバン進攻作戦に参加。小野崎軍曹は連合軍の航空機を次々に撃墜、戦果を上げた。(カモメ)昭和十七年五月小野崎曹長は内地に帰還、陸軍航空士官学校(少尉候補生)入校。十一月陸軍航空士官学校卒業、少尉。飛行第五九戦隊(ジャワ島)に復帰。ティモール島周辺の防空任務を遂行、オーストラリア空軍と激戦を展開、戦果を上げました。(ウツボ)昭和十七年七月飛行第五九戦隊はニューギニアに進出、ブーツ飛行場に駐屯。アメリカ陸軍航空隊と死闘、戦果を上げる。(カモメ)昭和十八年八月十九日、小野崎中尉はアメーバ赤痢の病状が悪化しラバウルに送還されました。その後、帰国し、大刀洗陸軍飛行学校教官。昭和二十年八月十五日終戦を迎えたのです。(ウツボ)昭和十六年十二月、太平洋海戦後、飛行第五九戦隊は、仏印からシャム湾(タイランド湾)を越え、マレー半島の北島の外れにある、コタバル飛行場を機銃掃射した。(カモメ)昭和十六年十二月二十一日、小野崎軍曹は、クアラルンプール上空で初めて空中戦を経験しました。この空戦で小野崎軍曹は、<ブルースターF2A「バッファロー」艦上戦闘機>一機を撃墜しました。飛行第五九戦隊は合計四機の戦果を上げました。(ウツボ)昭和十七年一月に入っても、飛行第五九戦隊の<中島・一式戦「隼」軽単座戦闘機>は、マレーとシンガポール上空の敵機への攻撃を連日続けた。また、パレンバン油田上空に飛来するイギリス空軍とオランダ陸軍の戦闘機も襲撃した。(カモメ)昭和十七年二月六日、小野崎曹長は、第二一一飛行隊所属の<ブリストル「ブレニム」双発軽爆撃機(イギリス製)>一機を撃墜しました。その後、<ライアン・STM-2単葉練習機>も撃墜しました。(ウツボ)また、小野崎曹長は、二月のパレンバン空戦などジャワ上空戦で、連合軍の臨時第二三二飛行隊と第二五八飛行隊所属の<ホーカー「ハリケーン」戦闘機(イギリス製)>八機を撃墜、飛行第五九戦隊のトップエースになった。(カモメ)昭和十七年十一月陸軍航空士官学校卒業し飛行第五九戦隊(ジャワ島)に復帰した小野崎少尉はティモール島周辺の防空任務に就きました。(ウツボ)昭和十八年一月東ティモールの中心都市、ディリへの空襲のため飛来した<ノースアメリカンB25「ミッチェル」双発中型爆撃機>の編隊のうちの一機を撃墜した。(カモメ)昭和十八年六月二十日、日本軍の陸軍航空隊は、飛行第六一戦隊の<中島・一〇〇式「呑龍」重爆撃機>一八機と、飛行第七五戦隊の<川崎・九九式双発軽爆撃機>九機で、オーストラリアのダーウィンへの空爆を実施したのですね。(ウツボ)そうだね。この爆撃隊の護衛として、飛行第五九戦隊から戦隊長・福田武雄少佐以下、二二機の<中島・一式戦「隼」軽単座戦闘機>が出撃した。(カモメ)これを待ち受けていたのは、オーストラリア空軍第一戦闘航空団の<スーパーマリン「スピットファイヤー」単座戦闘機(イギリス製)>四六機でした。(ウツボ)激しい空中戦が行われたが、小野崎少尉は<スーパーマリン「スピットファイヤー」単座戦闘機(イギリス製)>二機を撃墜した。(カモメ)七月、飛行第五九戦隊は、日本陸軍が熱帯の環境の中で、増加する連合軍と苦闘しているニューギニアへの進出の命令を受けました。飛行第五九戦隊はニューギニア東部沿岸のブーツ飛行場を基地として作戦に従事しました。(ウツボ)昭和十八年八月十五日、飛行第五九戦隊は、連合軍の秘匿飛行場であったティリティリ(ファブア)を攻撃する日本軍爆撃編隊の護衛任務に就いた。(カモメ)翌八月十六日、護衛任務を終えて帰還中、小野崎中尉は、ティリティリ南方のマリリアン上空で、追跡してきた<ロッキードP38「ライトニング」双胴双発単座戦闘機>編隊と空戦になり、一機撃墜しました。
2018.05.18
(カモメ)また、中村三郎大尉は、第三航空軍司令官・木下敏(きのした・はやし)中将(和歌山・陸士二〇・陸大二九恩賜・陸軍航空本部部員・航空兵大佐・ジュネーヴ軍縮会議随員・飛行第五連隊長・飛行第七連隊長・航空本部第二課長・航空本部第一部長・少将・第二飛行団長・所沢陸軍飛行学校長・陸軍航空士官学校長・中将・第三飛行集団長・陸軍航空士官学校長・関東防衛軍司令官・第三航空軍司令官・南馬来軍司令官・終戦・第七方面軍司令官代理、南方軍総司令官代理・従三位・勲一等旭日大綬章)より個人感状を授けられました。(ウツボ)中村大尉の本当の功績は、個人感状に記されている実戦出動一五四回、撃墜二〇機、砲艦撃沈一隻という個人戦果ではなく、中隊の将兵をよく統率し、いたわり、士気を鼓舞したことだった。(カモメ)中村大尉のもとで戦った空中勤務者の総合戦果は撃墜・炎上八五機に達すると言われています。【升澤正利(ますざわ・まさとし)少尉・15機】(ウツボ)升澤正利は大正四年生まれ。宮城県出身。歩兵として陸軍に入営したが、戦闘機乗りに憧れて、熊谷陸軍飛行学校に入校、昭和十三年二月熊谷陸軍飛行学校卒業。明野陸軍飛行学校(戦闘機課程)卒業。(カモメ)昭和十四年五月十一日ノモンハン事件が勃発し、升澤軍曹は飛行第一戦隊(満州のハルピン駐在)の<中島「九七式戦」低翼単葉戦闘機>操縦者として出征しました。(ウツボ)六月二十七日、升澤軍曹は蒙古領内のタムスクブラク上空で、ソ連機初撃墜の戦果を上げた。その後も、出撃を繰り返し、ソ連空軍機と死闘を繰り広げた。(カモメ)升澤軍曹の空戦法は、最初に大胆に突っ込んで行き、敵を追い散らし、獲物を選んで狙い撃ちにする。危険を冒しても食いついたら離れない執拗な戦いぶりで、不敵な戦法でした。(ウツボ)そんな戦い方なので、愛機の機体もひどく被弾するのだが、升澤軍曹には当らなかった。升澤軍曹は、大酒飲みで泥酔して出撃したという伝説もあるが不思議に生き延びた。(カモメ)升澤軍曹は、ノモンハン戦では、九月十六日の停戦までに、ソ連機一二機を撃墜しました。(ウツボ)ノモンハン事件後、飛行第一戦隊は昭和十六年十一月まで、満州のハルピンを基地にしていた。十二月八日、太平洋戦争開戦の日、飛行第一戦隊はマレーへ南下する船団の護衛任務に就いた。(カモメ)その後、ビルマ(現・ミャンマー)、仏印(フランス領インドシナ)上空での作戦に参加し、昭和十八年一月ニューブリテン島のラバウルに進出しました。升澤准尉は、サラモア及びラエを基地として、ニューギニアで米軍と戦ったのです。(ウツボ)昭和十八年六月二十二日、升澤准尉はサラモア上空で<ベルP-39「エアラコブラ」単発戦闘機>一機を撃墜したが、升澤准尉自身も空中戦で負傷し重傷を負った。升澤准尉はラエに不時着し、後に病院戦で内地に送還された。(カモメ)昭和十九年三月、内地で療養中だった升澤准尉は、第三九教育飛行隊(横芝飛行場)に教官として配属されました。升澤准尉は、装備機の<満州飛行機・二式高等練習機>で練習生の訓練に当たりました。(ウツボ)<満州飛行機・二式高等練習機>は、<中島「九七式戦」低翼単葉戦闘機>を単座及び複座の高等練習機に転換した練習機。昭和十六年に試作一号機完成、昭和十七年一月<二式高等練習機>として正式採用になった。(カモメ)終戦まで生産は続けられ、総生産機数は三七一〇機。大戦末期には特攻機や、本土空襲のアメリカ機に対する迎撃にも使用されました。ただし武装は七・七ミリ機銃一挺だけでした。(ウツボ)升澤少尉が、教育した数十名の操縦者達は、やがて、神風特攻隊に配属されていった。(カモメ)昭和二十年二月十六日、アメリカ海軍の第五八機動部隊は房総半島と、東京地区の日本軍飛行場に対する大規模な戦闘機掃討作戦を実施しました。昭和十七年のドゥリットル空襲以来初めての空母艦載機による大規模な日本本土への攻撃でした。(ウツボ)関東地方に初めて来襲したアメリカ海軍の空母艦載機(第五八機動部隊)の迎撃に、第三九教育飛行隊(千葉県横芝飛行場)から教官、助教が一六機の<満州飛行機・二式高等練習機>で迎撃した。(カモメ)この迎撃の空戦で、第三九教育飛行隊は五名が戦死しましたが、升澤正利少尉が、<グラマンF6F「ヘルキャット」艦上戦闘機>一機を撃墜したのです。また助教・森脇伍長も一機撃墜しました。(ウツボ)升澤正利少尉は、過酷な空戦を日々を、生き延びて、昭和二十年八月十五日終戦を迎えた。終戦までに、升澤正利少尉が撃墜した敵機の数は一五機。
2018.05.11
(ウツボ)中村三郎大尉の空戦日記をベースに、隼戦闘機パイロットたちの証言、連合軍側の記録と二〇〇枚近い写真で構成されている戦記、「捨身必殺・飛行第64戦隊と中村三郎大尉」(梅本弘・大日本絵画・2010年・1800円+税)の中で、第一中隊で中村大尉の僚機だった池田昌弘軍曹は次のように述べている(要約)。(カモメ)「中隊長殿は、あの火の玉が怖くはないのですか?」と聞くと、中村中隊長は「俺も人の子よ。アイツはシンが疲れる。わしはワーッと叫びながら突っ込んで行ってる。少しは怖いのも楽になるぞ」と答えた。(ウツボ)「中隊長殿も怖いのだから、俺が怖いのも当たり前なんだな」と思い、変なところで自信をつけて戦闘をしてきた。(カモメ)「どんなことがあっても、俺から絶対に離れるな」と出撃の度ごとに口癖のように命じ注意をして飛んだ中隊長殿。なのに、とうとう私を残して散ってしまわれてしまいました。(ウツボ)以上が、池田軍曹の回想だが、中村大尉は、昭和十七年五月の初撃墜以来、数々の個人戦果を記録した。(カモメ)昭和十九年四月、第一中隊長・中村三郎大尉は、「そろそろ一一期を連れて行くぞ」と言いました。少年飛行兵一一期の池田昌弘伍長と山口陸守伍長は胸を躍らせました。(ウツボ)二人に、中村大尉は「長機から絶対に離れてはいかん。前よりも後ろの敵。後方索敵を忘れるな」噛んで含めるように実践の心得を教えた。(カモメ)四月十五日メイクテーラの飛行第六四戦隊に、インパール攻撃の命令が入りました。池田伍長は中村大尉の僚機として、山口伍長は社家准尉の僚機として、出撃したのですね。(ウツボ)そうだね。飛行第八戦隊の<川崎・九九式双発軽爆撃機>九機、それに、飛行第五〇戦隊と飛行第六四戦隊の<中島・一式戦「隼」軽単座戦闘機>約五〇機がインパールに向けて進攻した。(カモメ)インパール上空に達すると、<スーパーマリン「スピットファイヤー」単座戦闘機(イギリス製)>が襲ってきました。(ウツボ)中村大尉は、二機の<スーパーマリン「スピットファイヤー」単座戦闘機(イギリス製)>が下方の<中島・一式戦「隼」軽単座戦闘機>編隊の後方に迫っていくのを発見した。(カモメ)中村大尉は降下突進すると、敵機の二番機の後方につき、曳光弾を発射した。敵二番機は左反転して降下、敵一番機も左旋回して降下、逃走しました。(ウツボ)中村大尉は、僚機を気遣って、その日は深追いをしなかった。この日は両軍とも損害はなかった。(カモメ)無事メイクテーラに着陸後、中村大尉は、池田伍長に「どうだった池田。敵機を見たか?」と尋ねました。(ウツボ)池田伍長が「はい、<ノースアメリカンB25「ミッチェル」双発中型爆撃機>一機と<スーパーマリン「スピットファイヤー」単座戦闘機(イギリス製)>が二機いました」と元気よく答えた。(カモメ)すると「ばかっ、<スーパーマリン「スピットファイヤー」単座戦闘機(イギリス製)>は二〇機もいたじゃないか!」と、中村大尉の雷が落ちたのですね。(ウツボ)そうだね。実際に、この日迎撃に上がってきた<スーパーマリン「スピットファイヤー」単座戦闘機(イギリス製)>は、第一三六飛行隊一〇機、第八一飛行隊一二機で、中村大尉の目は確かだった。(カモメ)昭和十九年十月六日午後、メイクテーラ飛行場に前進して邀撃戦闘を行っていた飛行第六四戦隊は、マンダレーを南下中の<ノースアメリカンB25「ミッチェル」双発中型爆撃機>編隊の情報が入りました。最初に中村中隊長を始め三機が飛びたちました。(ウツボ)アメリカ軍の<ノースアメリカンB25「ミッチェル」双発中型爆撃機>編隊に、中村中隊長機ら三機が迎撃、攻撃を開始して、一分半後、一機の<ノースアメリカンB25「ミッチェル」双発中型爆撃機>が右エンジンから発火、急速に高度を失い、墜落した。中村大尉ら三機による共同撃墜だった。(カモメ)続いて、二機目の攻撃に移りました。中村大尉は、数回の反復攻撃の後、敵機に後上方から四五度の角度で突っ込んで行きました。その時、敵機の集中砲火を浴びて、中村大尉機は空中分解したのです。(ウツボ)中村大尉は空中に投げ出されたが、自動開傘索により落下傘が開いた。しかし、中村大尉は機銃弾で頭を撃ち抜かれており、すでに絶命していた。(カモメ)中村大尉は体中を真っ白な包帯に包まれ、真新しい飛行服を着て合掌した姿で棺に入っていました。ロウソクの炎に揺れる中村中隊長の遺体を囲んで、部下たちは皆泣いていました。(ウツボ)「捨身必殺」を信条にし、米軍の爆撃機<ノースアメリカンB25「ミッチェル」双発中型爆撃機>と刺し違えて戦死した、隼のエース、中村三郎大尉は、まだ二十四歳の若さだった。(カモメ)軍神、加藤建夫少将の再来と言われた中村三郎大尉は、死後、二階級特進し、陸軍中佐に進級したのですね。(ウツボ)そうだね。同戦隊で、戦死後二階級特進したのは、加藤建夫少将と中村三郎中佐の二人だけだった。
2018.05.04
(ウツボ)昭和十四年八月坂井菴大尉は飛行第六四戦隊とともにノモンハン戦線へ転進、連日出撃。九月一日第二中隊長。ノモンハン戦後、東満州の東京城に駐屯。(カモメ)昭和十六年七月明野陸軍飛行学校配属。昭和十八年三月少佐、陸軍航空審査部テストパイロット。<川崎・三式戦「飛燕」液冷単座戦闘機>の試験飛行担当。(ウツボ)昭和十九年末から臨時防空戦闘隊を指揮、<ボーイングB-29「スーパーフォートレス」(超空の要塞)四発大型爆撃機)>の本土空襲の迎撃戦に従事。その後<川崎「五式戦」単座戦闘機>のテスト主務者。昭和二十年二月十一日<川崎「五式戦」単座戦闘機>の初飛行を成功させる。(カモメ)昭和二十年八月十五日終戦。戦後は川崎航空機のテストパイロットとして、<川崎・KAL-1・陸上自衛隊連絡機>、<川崎・KAT-1・航空大学校練習機>、<ロッキード・T-33「シューティングスター」・航空自衛隊練習機>などの試験飛行を行った。(ウツボ)昭和十三年三月、坂井菴中尉は飛行第二大隊第二中隊附として北支戦線(日中戦争)に出征、三月十一日の西安攻撃で初陣を果たした。(カモメ)三月二十五日、第二大隊の<川崎「九五式戦」複葉戦闘機>一六機は、帰徳上空で、中国空軍の<ポリカルポフ「I-15」複葉戦闘機>と空戦、一九機を撃墜する大戦果を上げました。(ウツボ)第二編隊長・坂井中尉も<ポリカルポフ「I-15」複葉戦闘機>一機を撃墜、初の戦果を上げた。(カモメ)四月十日第二次帰徳空戦でも、坂井中尉は敵戦闘機三機撃墜。五月二十日蘭封空戦でさらに一機撃墜しました。(ウツボ)八月一日第二大隊は飛行第六四戦隊に改編。九月~十月武漢作戦に従事、坂井中尉の第二中隊は<中島「九七式戦」低翼単葉戦闘機>に機種を改編した。その後、飛行第六四戦隊は、占領直後の広東へ移駐、華南各地の作戦に従事した。(カモメ)昭和十四年八月坂井大尉は飛行第六四戦隊とともにノモンハン戦線に転戦、八月二十日から九月十五日の停戦まで、連日出撃しました。(ウツボ)九月一日、第二中隊長・安西秀一大尉(陸士四四期・所沢陸軍飛行学校四四期操縦学生・飛行第六四戦隊第二中隊長・戦死)が戦死。坂井大尉はそのあとを継いで第二中隊長に任命された。(カモメ)第二中隊はソ連戦闘機の大群を相手に、一日に四~六回の出撃を重ね、七回出撃したこともありました。坂井大尉機は五〇発も被弾しながら生還したこともあったのですね。(ウツボ)そうだね。坂井少佐は後に「一日に四回から六回も出撃せねばならず、疲労は極限に達し、着陸するのもやっと、ということも多かった。敵機は黒雲のように押し寄せ、我が方の損害はひどいものだった」と当時のことを回想している。(カモメ)ノモンハン戦後は、東満州の東京城に駐屯し、最新の英米式戦闘機戦術を取り入れた「坂井式」と呼ばれる猛訓練を実施しました。(ウツボ)この訓練で、後に撃墜王となる、檜与平(ひのき・よへい)少佐(徳島・陸軍航空士官学校五三期・飛行第六四戦隊・中尉・マレー・シンガポール・パレンバン・ジャワ・ビルマ航空戦に従事・明野陸軍飛行学校・中隊長・インド洋上空戦で被弾右脚下切断・明野教導飛行師団附教官・少佐・第一教導飛行隊第二大隊長・飛行第一一一戦隊第二大隊長・終戦・撃墜数一二機)らを育てた。(カモメ)昭和十九年末から米軍機による本土空襲が始まると、当時、陸軍航空審査部のテストパイロットだった坂井少佐は同審査部で編成された臨時防空戦闘機隊の指揮官に任命されました。この時、坂井少佐は、迎撃戦で<ボーイングB-29「スーパーフォートレス」(超空の要塞)四発大型爆撃機)>一機を撃墜したのです。(ウツボ)昭和二十年八月十五日の終戦までに、坂井少佐の操縦士としての経歴は十八年に及び、飛行時間は五〇〇〇時間、搭乗機種は五〇種。(カモメ)坂井少佐は、陸軍航空では最古参の現役の撃墜王の一人であり、操縦技術抜群であることから、教官や、テストパイロットとして陸軍戦闘機部隊の発展に対する功績は極めて大きいものがありました。戦後は川崎航空機のテストパイロットになり、戦後の日本航空機の発展にも寄与しました。(ウツボ)坂井少佐の撃墜数は、九機(公認記録)だが、一五機とする資料も存在している。【中村三郎(なかむら・さぶろう)中佐■戦死・15機】(カモメ)中村三郎は、大正九年三月十一日生まれ。滋賀県から朝鮮半島の大田に移住、精米業を営んでいた父・中村捨三、母・ふみの三男。少年時代は、背が低く、あだ名は「チビ」でした。(ウツボ)大田中学校から陸士予科、陸軍航空士官学校に入学。昭和十五年九月陸軍航空士官学校(五四期)卒業、戦闘機乗りになった。昭和十六年三月二十九日少尉。十月一日中尉、第一一三部隊(静岡県・浜松)着任。第一野戦補充飛行隊。十二月台湾に赴任。その後、飛行第六四戦隊付。(カモメ)飛行第六四戦隊(加藤隼戦闘隊)第一中隊長を務めていた中村三郎大尉の、空戦法は、ものすごい対空砲火の敵陣地攻撃、火の玉が集中して飛んでくるような敵大型爆撃機の防御砲火の中を、ひたすら突っ込んで行き、間近で敵を仕留める「捨身必殺」でした。
2018.04.27
(ウツボ)飛行第五九戦隊は、装備機は<中島・一式戦「隼」軽単座戦闘機二型>で、アメリカ軍の戦闘機や大型爆撃機の迎撃を繰り返した。(カモメ)だが、アメリカ軍は、最新鋭機、<ロッキードP38「ライトニング」双胴双発単座戦闘機>と<リパブリックP47「サンダーボルト」戦闘機>をニューギニア戦線に投入したのですね。(ウツボ)そうだね。さらに連合軍は、ラエ、サラモア侵攻のため、前進飛行場が必要となり、ラエから八〇キロ西にあるツイリツイリに飛行場(ファブア飛行場)の建設を開始した。(カモメ)昭和十八年八月十五日、この飛行場を発見した日本軍は、飛行第二〇八戦隊の<三菱・九七式双発重爆撃機>七機をもって襲撃させました。この襲撃作戦の護衛戦闘機は、飛行第五九戦隊と飛行第二四戦隊の戦闘機<中島・一式戦「隼」軽単座戦闘機二型>三六機でした。(ウツボ)ファブア飛行場に敵輸送機が、着陸中に、日本軍の爆撃機編隊は、攻撃を開始した。南郷大尉は、<ダグラスC-47「スカイトレイン」双発輸送機>一機を撃墜した。(カモメ)アメリカ軍はただちに反撃に移り、第四〇戦闘飛行隊と第四一戦闘飛行隊からなる<ベルP-39「エアラコブラ」単発戦闘機>の攻撃隊が、西ブーツ飛行場に向けて帰還中の飛行第二〇八戦隊を攻撃しました。(ウツボ)この空戦で、日本側は、<三菱・九七式双発重爆撃機>が撃墜された。護衛戦闘機隊は損失ゼロだった。(カモメ)翌日、再び、ファブア飛行場攻撃のため、飛行第二〇八戦隊の<三菱・九七式双発重爆撃機>三機と飛行第五九戦隊と飛行第二四戦隊の戦闘機<中島・一式戦「隼」軽単座戦闘機二型>三三機が出撃しました。(ウツボ)今度は、アメリカ軍第四三一戦闘飛行隊の<ロッキードP38「ライトニング」双胴双発単座戦闘機>と、第三四〇戦闘飛行隊の<リパブリックP47「サンダーボルト」戦闘機>が待ち受けていた。(カモメ)この空戦の結果、日本側は、敵戦闘機一九機撃墜と主張しています。損失は、<中島・一式戦「隼」軽単座戦闘機二型>三機でした。(ウツボ)その後は、日本側の損失が大きくなり、飛行第五九戦隊の戦力は、衰えていった。<ロッキードP38「ライトニング」双胴双発単座戦闘機>と<リパブリックP47「サンダーボルト」戦闘機>に対して、性能的には、<中島・一式戦「隼」軽単座戦闘機二型>では、歯が立たなかった。(カモメ)だが、南郷大尉は、疲弊した他の戦隊も率いて孤軍奮闘し、「ニューギニアは南郷でもつ」と言われたのですね。(ウツボ)そうだね。南方戦線の消耗戦の状況を把握しており、南郷大尉は「僕がいる限り、ラボールあたりで陸軍の航空を壊滅させることは無いよ」と語っていた。(カモメ)昭和十九年一月二十三日、南郷大尉は、ウェワク(ニューギニア北岸)上空で、<コンソリデーテッドB24「リベレーター」四発大型爆撃機(米国製)>の護衛戦闘機<ロッキードP38「ライトニング」双胴双発単座戦闘機>との空戦で撃墜され、戦死しました。(ウツボ)南郷大尉は二階級特進し、陸軍中佐。享年二十六歳。総撃墜数は一六機以上。二〇機ともいわれている。(カモメ)黒江保彦(くろえ・やすひこ)少佐(鹿児島・陸軍航空士官学校五〇期・陸軍航空士官学校教官・大尉・陸軍航空審査部・大尉・飛行第六四戦隊「加藤隼戦闘隊」第三中隊長・陸軍航空審査部・終戦・航空自衛隊入隊・ジェット戦闘機隊指揮官・航空幕僚監部防衛部運用課長・第六航空団司令・空将補・磯釣りで水死・撃墜数51機)は、故・南郷茂男中佐について、次のように回想しています(要約)。(ウツボ)「まさに快男子。竹を割ったような性格。明朗、括淡たる風格。豪勇にして、てらわず、ぶらず。これほど衆望を集め、上下同僚に愛された人物は、また稀有であった」。 【坂井菴(さかい・いおり)少佐・15機】(カモメ)坂井菴は、明治四十二年八月六日生まれ。岐阜県旧稲葉郡蘇原村(現・各務原市蘇原町)出身。民間パイロットを目指して、所沢陸軍飛行学校で操縦教育を受ける。(ウツボ)所沢陸軍飛行学校卒業後、昭和三年二月予備役下士官を志願して陸軍入隊、航空兵伍長。朝鮮半島の飛行第六連隊配属(平壌)。五月第三次山東出兵で中国へ出動。半年後、明野陸軍飛行学校(戦闘機)助教。(カモメ)昭和七年、陸軍士官学校入校(少尉候補者)。昭和八年末、陸軍士官学校入校(少尉候補者)卒業、少尉。飛行第六連隊復帰。(ウツボ)昭和十年四月明野陸軍飛行学校(甲種学生)入校。七月明野陸軍飛行学校(甲種学生)卒業。所沢陸軍飛行学校教官、明野陸軍飛行学校教官。(カモメ)昭和十三年三月飛行第二大隊第二中隊附、北支戦線(日中戦争)出征、中国空軍機と交戦、戦果を上げる。八月一日第二大隊は、飛行第六四戦隊に改編、武漢作戦に参加。
2018.04.20
(カモメ)昭和十九年末、失明後の治療は、空戦に耐えるほど回復していなかったが、下川曹長は、台湾とフィリピンに<中島・一式戦「隼」軽単座戦闘機>を輸送する任務を行いました。(ウツボ)昭和二十年三月十九日、アメリカ機動部隊の艦載機が、広島の呉の海軍基地を空襲した時、下川曹長は、山口県の小月基地から<中島・四式戦「疾風」単座戦闘機>に飛び乗り、他の九機の<中島・四式戦「疾風」単座戦闘機>とともに離陸し、迎撃に出撃、アメリカの艦載機一〇〇機を相手に空戦を行った。(カモメ)後に下川曹長は、この空戦を次のように回想しています(要約)。(ウツボ)広島上空六〇〇〇メートル、一〇機の<中島・四式戦「疾風」単座戦闘機>は下方の一〇〇機以上の敵機に向かって降下突進した。(カモメ)下川曹長は二機の<グラマンF6F「ヘルキャット」艦上戦闘機>を追い発砲しながら、空母CV-12「ホーネット」から発艦した第一七戦闘飛行隊の<グラマンF6F「ヘルキャット」艦上戦闘機>の群れの中に突っ込んで行きました。(ウツボ)激戦後、機動部隊の艦載機により友軍機は全て撃墜された。敵機一機を撃墜した下川曹長は、追いすがる<グラマンF6F「ヘルキャット」艦上戦闘機>から逃れるため、呉の外れにあった山脈を越えるため上昇した。(カモメ)その時、被弾した愛機は、燃え上がったのです。同時に下川曹長は脱出して落下傘降下をしました。落下傘は木に引っかかり、火傷していたが、下川曹長は生還したのですね。(ウツボ)そうだね。強運の人だ。昭和二十年七月二十八日、下川曹長は、三月十九日の功績と、数年に渡る顕著な戦歴に対して、賞詞を受けた。(カモメ)その後、下川曹長は、本土防衛のために、勇戦しました。そして特攻隊員を訓練中に、八月十五日終戦を迎えたのです。総撃墜数は一六機でした。【南郷茂男(なんごう・しげお)中佐■戦死・15機】(ウツボ)南郷茂男は大正六年二月二十六日生まれ。東京。学習院中等部を経て、昭和十年(十八歳)四月陸軍士官学校予科入校。昭和十二年(二十歳)十月陸軍航空士官学校(五一期)入校。昭和十四(二十二歳)年四月陸軍航空士官学校(分科戦闘機)卒業、陸軍航空兵少尉。明野陸軍飛行学校乙種学生(戦技教育)。(カモメ)南郷茂男の祖父は、南郷茂光(なんごう・しげみつ)主計大監<大佐相当官>(石川・加賀藩士・英国留学・大阪府外国事務局判事試補・海軍省経理部・主計大観・兼総務局副長・兼海軍卿副官・海軍将官会議書記・元老院議官・貴族院議員・従三位・旭日小綬章)。(ウツボ)南郷茂男の父は、南郷次郎(なんごう・じろう)海軍少将(東京・海兵二六・海大八・海軍兵学校教官・装甲巡洋艦「浅間」副長・中佐・東伏見宮依仁親王付武官・大佐・装甲巡洋艦「朝日」館長・軍令部副官・少将・佐世保防備隊司令・予備役・講道館第二代館長・英国ヴィクトリア第三等勲章・フランス共和国レジオンドヌール勲章オフィシェ等)。(カモメ)南郷茂男の長兄は南郷茂章(なんごう・もちふみ)海軍少佐(鹿児島・学習院高等科・海兵五五・大尉・横須賀海軍航空隊付・英国大使館付武官補佐官・横須賀海軍航空隊分隊長・大分海軍航空隊分隊長・木更津海軍航空隊分隊長・第一三航空隊分隊長・空母「蒼龍」分隊長・空母「蒼龍」飛行隊長・第一五航空隊飛行隊長・戦死・少佐・撃墜王・軍神・撃墜数八機)。(ウツボ)昭和十四年八月、南郷茂男少尉は飛行第三三戦隊付。昭和十五年(二十三歳)陸軍航空兵中尉、明野陸軍飛行学校甲種学生。昭和十六年(二十四歳)四月陸軍航空士官学校教官。(カモメ)昭和十六年十二月八日太平洋戦争開戦。昭和十七年(二十五歳)一月飛行第五九戦隊第二中隊長。三月大尉。(ウツボ)昭和十八年(二十六歳)六月ダーウィン攻撃に参加。七月飛行第五九戦隊は東部ニューギニアのブーツ基地に進出、飛行第五九戦隊飛行隊長。装備機<中島・一式戦「隼」軽単座戦闘機>。(カモメ)昭和十九年一月二十三日東部ニューギニアで戦死、陸軍中佐に二階級特進。享年二十六歳。(ウツボ)昭和十九年四月第四航空軍司令官・寺本熊一(てらもと・くまいち)中将(和歌山・陸士・二二・陸大三三・米国大使館付武官補佐官・航空兵中佐・航空本部員・航空兵大佐・飛行第八連隊長・留守航空兵団参謀長・少将・浜松陸軍飛行学校幹事・航空兵団参謀長・浜松飛行学校長・中将・第二飛行集団長・第二飛行師団長・第一航空軍司令官・第四航空軍司令官・陸軍航空本部長・自決・勲一等瑞宝章)から個人感状。(カモメ)昭和十六年十二月太平洋戦争開戦後、南郷茂男中尉は昭和十七年一月飛行第五九戦隊第二中隊長、陸軍大尉。(ウツボ)昭和十七年三月南郷大尉はインドネシアのジャワ島に展開していた飛行第五九戦隊に着任した。蘭印作戦(オランダ領インド攻略戦)に参加するためだった。(カモメ)昭和十八年七月、飛行第五九戦隊はニューギニアのブーツ基地に進出しました。この頃、中隊編成の代わりに飛行隊編成が行われ、南郷茂男大尉は飛行隊長に任命されました。時には戦隊長代理として部隊を率いていたのです。
2018.04.13
(ウツボ)昭和十四年五月、ノモンハン事件(昭和十四年五月~九月)が勃発した時、黒木軍曹の所属する飛行第三三戦隊は、中国の杏樹(大連市)に駐屯して錬成中だったが、<川崎「九五式戦」複葉戦闘機>の装備が遅れたために出動できなかった。(カモメ)ノモンハン航空戦も末期、八月二十六日初めて飛行第三三戦隊は出撃しました。黒木軍曹も第一中隊長・石川正(いしかわ・ただし)大尉(陸士四〇・飛行第三三戦隊中隊長・少佐・陸軍航空審査部・中佐・飛行第一一二戦隊長・撃墜数五機)の僚機として出撃。(ウツボ)九月五日、ハルハ河上空で、爆撃機護衛中のソ連軍戦闘機多数と空戦、黒木軍曹は初陣だったが、乱戦の中、ソ連戦闘機三機を撃墜した。だが、黒木軍曹自身も被弾して負傷した。ノモンハン戦での空戦はこの一回だけだった。(カモメ)太平洋戦争中の、昭和十八年十二月五日、陸海軍合同によるカルカッタ(インドの西ベンガル州の州都コルカタ)初攻撃では、黒木少尉はイギリス空軍戦闘機一機を撃墜ましたね。(ウツボ)そうだね。その後、奇襲されて、愛機<中島・一式戦「隼」軽単座戦闘機>の燃料タンクと脚に被弾した。ガソリンが噴出したので自爆を決意した。だが、発火しなかったので、帰還した。着陸時に脚が被弾していたので、機体は大破したが、生還できた。(カモメ)昭和二十年八月十五日、黒木中尉は、メダンで終戦を迎えました。黒木中尉の空戦生活は六年に及び、総撃墜数は一六機。飛行第三三戦隊を代表する撃墜王でした。【下川幸雄(しもかわ・ゆきお)曹長・16機】(ウツボ)下川幸雄は、福岡県出身。少年の頃から戦闘機乗りになるのが夢だった。昭和十三年四月東京陸軍航空学校に入校。昭和十四年四月少年飛行兵六期として、熊谷陸軍飛行学校入校。昭和十五年十月大刀洗陸軍飛行学校入校。(カモメ)昭和十六年三月大刀洗陸軍飛行学校卒業、戦闘機操縦者として台湾の台中に駐屯する飛行第50戦隊に配属。十月伍長。(ウツボ)十二月八日太平洋戦争開戦時には、<中島「九七式戦」低翼単葉戦闘機>でフィリピン攻略戦に参加。(カモメ)昭和十七年一月飛行第五〇戦隊は南ビルマに移駐。四月飛行第五〇戦隊は内地に帰り、装備機を<中島・一式戦「隼」軽単座戦闘機一型>に改編。その後ビルマ攻略戦に従事。六月シンガポール。九月ビルマのラングーン。(ウツボ)昭和十八年秋、被弾して片目を失明。内地に帰還、治療を受ける。その後操縦員に復帰。輸送業務の後本土防空迎撃戦に従事。(カモメ)昭和二十年三月広島上空で<グラマンF6F「ヘルキャット」艦上戦闘機>一機を撃墜するも、自分も被弾して火傷。その後も操縦員として活躍し、終戦を迎えました。(ウツボ)下川幸雄曹長は、飛行第五〇戦隊では、「度胸の下川」と呼ばれ、次の二人とともに、「少飛六期の三羽烏」の一人だった。(カモメ)穴吹智(あなぶき・さとる)曹長(香川・少年飛行兵六期・飛行第50戦隊・伍長・フィリピン攻略戦・ビルマ攻略戦・軍曹・「運の穴吹」「ビルマの桃太郎」・明野陸軍飛行学校助教・明野教導飛行師団教導飛行隊・本土防空戦・戦後警察予備隊入隊・明野の陸上自衛隊航空学校・ヘリ教官・陸上自衛隊東北方面ヘリコプター飛行隊長・二等陸佐・自衛隊退官・日本航空入社・撃墜数51)。(ウツボ)佐々木勇(ささき・いさむ)准尉(広島・少年飛行兵六期・飛行第50戦隊・伍長・フィリピン攻略戦・ビルマ攻略戦・軍曹・「腕の佐々木」・陸軍航空審査部テストパイロット・曹長・本土防空戦・准尉・戦後航空自衛隊入隊・三等空佐で退官・撃墜数38)。(カモメ)昭和十七年四月飛行第五〇戦隊は内地に帰り、装備機を<中島・一式戦「隼」軽単座戦闘機一型>に改編後、ビルマ戦線でイギリス空軍やアメリカ空軍と戦った。十二月下川伍長は軍曹に昇進。(ウツボ)昭和十七年十二月二十四日、下川軍曹は、<ブリストル「ブレニム」双発軽爆撃機(イギリス製)>を追跡中、大腿部を負傷した。機体も被弾し発火したので下川軍曹は落下傘降下をした。その後、下川軍曹は負傷の身で一週間も熱帯の密林を歩いて基地に生還した。(カモメ)下川軍曹は、敵機に肉薄しての攻撃を得意としたので、自らも負傷しました。だが、負傷しても、全快を待たずに復帰し出撃するという、剛腕なパイロットだったのです。(ウツボ)昭和十八年四月二十六日、ビルマのラシオ上空で、下川軍曹は、<カーチスP-40「ウォーフォーク」戦闘機>二機を撃墜。(カモメ)昭和十八年秋、下川軍曹は、<コンソリデーテッドB24「リベレーター」四発大型爆撃機(米国製)>を追撃して射撃中に、反撃され、片目を負傷したのですね。(ウツボ)そうだね。出血がひどく朦朧とする中、下川軍曹は、沈着に愛機を操縦し、基地に生還した。彼は内地に送還され入院、治療を受けたが片目を失明した。
2018.04.06
(カモメ)若松大尉は、日本軍戦闘機パイロットには珍しい「一撃離脱戦法」を得意としていました。その上、<中島・四式戦「疾風」単座戦闘機>という高速機を得て、ますます戦果を上げていったのです。(ウツボ)手強い敵機を次々に撃墜していた若松大尉は、遂に敵の中華民国政府から賞金を懸けられた。また、若松大尉の中隊長機の尾翼は赤色で塗装されたおり、敵からは「赤鼻のエース」として恐れられた。(カモメ)また強敵<ノースアメリカンP51「マスタング」戦闘機>を次々に撃墜したことから、「マスタングキラー」の異名もとったのですね。(ウツボ)そうだね。だが、この後、フィリピンの捷一号作戦発動で、中国戦線には搭乗員も戦闘機も補充が来なくなった。昭和十九年十一月中旬には、飛行第八五戦隊は<中島・四式戦「疾風」単座戦闘機>一〇機、<中島・二式戦「鍾馗」単座戦闘機二甲型>一七機となった。(カモメ)昭和十九年十二月初旬、第五航空群は総数一五〇機で、アメリカ・中国連合空軍約八〇〇機と対戦しなければならなくなったのです。(ウツボ)十二月十八日正午、<ボーイングB-29「スーパーフォートレス」(超空の要塞)四発大型爆撃機)>約九〇機の大編隊が漢口爆撃を開始した。(カモメ)これを迎撃した飛行第二五戦隊、飛行第四八戦隊、飛行第八五戦隊は、<ボーイングB-29「スーパーフォートレス」(超空の要塞)四発大型爆撃機)>二機を撃墜、一一機を撃破しました。(ウツボ)この日、さらに、<コンソリデーテッドB24「リベレーター」四発大型爆撃機(米国製)>、<ノースアメリカンB25「ミッチェル」双発中型爆撃機>、<ノースアメリカンP51「マスタング」戦闘機>など七〇機が五派に分かれて来襲し、飛行場の<中島・四式戦「疾風」単座戦闘機>と<中島・二式戦「鍾馗」単座戦闘機二甲型>を破壊した。(カモメ)日本側は、残った戦闘機で、二度、三度と燃料・弾薬を補給しながら離着陸を繰り返し、迎撃に向かったのですが、その数はだんだん少なくなっていったのです。(ウツボ)一回目の迎撃で<ノースアメリカンP51「マスタング」戦闘機>二機を撃墜した若松少佐(少し前に進級)は、いったん着陸して、補給を行い、二回目の迎撃に向かうため離陸した。(カモメ)ところが離陸上昇中、<ノースアメリカンP51「マスタング」戦闘機>十数機に上方から攻撃されたのですね。離陸の最も不安定な時に、若松少佐機は被弾し、燃料タンクから白い尾を引いたかとおもうと、次の瞬間、炎の塊となって墜落、若松少佐は戦死しました。享年三十三歳。(ウツボ)戦死後中佐に特別進級。公認撃墜数一八機。撃墜したのは全て戦闘機で、そのうち八機は<ノースアメリカンP51「マスタング」戦闘機>だった。(カモメ)この迎撃戦で、第一中隊の撃墜王、柴田力男准尉(少年飛行兵三機・少尉・撃墜数27機)も戦死し、飛行第八五戦隊の可動機は、わずか三機となったのです。 【黒木為義(くろき・ためよし)中尉・16機】(ウツボ)黒木為義は大正七年九月十七日生まれ。宮崎県出身。昭和十一年(十八歳)二月陸軍少年飛行兵(三期)として熊谷陸軍飛行学校入校。十一月熊谷陸軍飛行学校卒業後、明野陸軍飛行学校で戦闘機の操縦教育課程。(カモメ)昭和十三年(二十歳)三月満州の海浪に駐屯している飛行第一六連隊配属。九月飛行第一六連隊を母体に新編された、飛行第三三戦隊に転属。(ウツボ)昭和十四年(二十一歳)八月二十七日、ノモンハン戦で、飛行第三三戦隊は満蒙国境へ前進。九月五日黒木軍曹は出撃し初戦果で三機撃墜。九月十五日の停戦後、九月末駐屯地の杏樹へ帰還。(カモメ)昭和十七年(二十四歳)九月飛行第三三戦隊は南支に派遣されたが、黒木曹長は内地に帰還し陸軍航空士官学校に入校。(ウツボ)昭和十八年(二十五歳)八月陸軍航空士官学校卒業、少尉。原隊である飛行第三三戦隊(武昌)に復帰。九月飛行第三三戦隊は九月ハノイ地区に移動して防空戦に従事。その後中国戦線を去り、スマトラのパレンバンの防空任務を終え、十一月ビルマに転戦。(カモメ)昭和十九年(二十六歳)二月飛行第三三戦隊はニューギニア戦線へ転進。黒木少尉はブーツ、ホーランジアを中心とした航空戦で戦果をあげました。六月飛行第三三戦隊は再建され南スマトラのゲルンバン基地で錬成訓練。(ウツボ)十月二十六日飛行第三三戦隊は捷一号作戦に参加、フィリピンへ転進したが、黒木少尉は病気入院で残留、留守隊で錬成に当たった。(カモメ)昭和二十年(二十七歳)春、黒木少尉は中尉に進級、特別攻撃隊「七生翔顕隊」に所属。八月十五日、メダン(インドネシアのスマトラ島東北部の都市)で終戦。
2018.03.30
(カモメ)加藤機を撃墜した、<ブリストル「ブレニム」双発軽爆撃機(イギリス製・乗員三名)>はほとんど無傷(被弾二箇所のみ)でインドに帰還した。(カモメ)機長・ハガード准尉ら三名の乗員は、ベンガル方面軍空軍司令官・スティーブンソン少将から、アキャブで爆撃任務を達成し、日本軍戦闘機四機と交戦、日本軍戦闘機隊指揮官・加藤中佐を撃墜した功績に対し、乗員三名に祝電が送られたのですね。(ウツボ)そうだね。日本側では、五月三十日、南方総軍司令官・寺内寿一大将から故加藤隊長に個人感状が授与された。また帝国陸軍史上初の二階級特進(陸軍中佐➡少将)が行われた。さらに功二級金鵄勲章が授与された。(カモメ)戦死の発表は二か月後の、七月二十二日でした。陸軍省は、正式に「軍神加藤少将戦死」と国民に発表し、「軍神」と認定したのです。報道も、「空の軍神」「軍神加藤少将」「加藤隼戦闘隊長」として、伝説的英雄としてとりあげました。(ウツボ)昭和十九年には「加藤隼戦闘隊」として映画化され、劇中歌でもある軍歌「加藤隼戦闘隊」とともに大ヒットした。(カモメ)加藤隊長の死後も、飛行第六四戦隊の戦隊長は九代目まで交代しましたが、部隊名は「加藤隼戦闘隊」のままだったのです。(ウツボ)加藤隊長の撃墜機数は一八機以上とされている。 【若松幸禧(わかまつ・ゆきよし)中佐・■戦死・18機】(カモメ)若松幸禧は、明治四十四年生まれ。鹿児島県薩摩郡高江出身。昭和五年(十九歳)飛行第三連隊へ志願兵として入隊。昭和七年(二十一歳)六月第四一期戦闘機専修操縦学生課程修了。その後、所沢陸軍飛行学校、熊谷陸軍飛行学校の助教として勤務。(ウツボ)昭和十三年(二十七歳)第一八期少尉候補者となり、陸軍航空士官学校入校。卒業後少尉。昭和十四年(二十八歳)九月飛行第六四戦隊第一中隊附。数日後にノモンハン戦は停戦。十二月中尉、飛行第六四戦隊南中国方面に移駐。(ウツボ)昭和十五年(二十九歳)末中隊長教育を受けるため陸軍明野飛行学校(甲種課程)入校。昭和十六年(三十歳)四月陸軍明野飛行学校(甲種課程)卒業、飛行第八五戦隊附。昭和十七年(三十一歳)八月大尉、飛行第八五戦隊第二中隊長。(カモメ)昭和十八年(三十二歳)六月若松大尉の第二中隊は広東に先行移駐。装備機は<中島・二式戦「鍾馗」単座戦闘機二甲型>。以後、広東、香港の防空戦闘、奥地進攻作戦に従事。(ウツボ)昭和十九年(三十三歳)九月飛行第八五戦隊は<中島・四式戦「疾風」単座戦闘機一型甲>に機種改編。また、内地帰還する飛行第二二戦隊から<中島・四式戦「疾風」単座戦闘機>九機を譲り受けた。内地からも補充。以後、在中国のアメリカ空軍第二三戦闘航空群所属の各戦闘機隊と死闘を繰り広げた。(カモメ)昭和十九年十二月十八日少し前に進級した若松少佐は、<ボーイングB-29「スーパーフォートレス」(超空の要塞)四発大型爆撃機)>九〇機による漢口大空襲の迎撃戦で戦死しました。戦死後中佐。享年三十三歳。公認撃墜数は一八機。(ウツボ)昭和十八年六月、飛行第八五戦隊第二中隊(中隊長・若松幸禧大尉)は広東に先行移駐した。装備機は<中島・二式戦「鍾馗」単座戦闘機二甲型>。(カモメ)七月二十四日、中国中南部の衡陽(こうよう)進攻作戦における桂林上空の空戦で、若松大尉は、アメリカ空軍第二三戦闘航空群・第七四戦闘飛行隊所属の<カーチスP-40「ウォーフォーク」戦闘機>二機を撃墜しました。以後も<中島・二式戦「鍾馗」単座戦闘機二甲型>で死闘を繰り広げました。(ウツボ)八月二十日、飛行第八五戦隊は桂林に進攻、第二中隊は、<カーチスP-40「ウォーフォーク」戦闘機>二機を撃墜、不確実一機の戦果をあげた。(カモメ)昭和十九年九月二十二日、飛行第八五戦隊は新鋭機、<中島・四式戦「疾風」単座戦闘機>に一部機種改編しました。若松大尉は、この<中島・四式戦「疾風」単座戦闘機>を「スピード、上昇力、旋回性、航続距離、全てにおいて、<中島・二式戦「鍾馗」単座戦闘機二甲型>よりいい。無線機もすっかり改良されている」などと高い評価をしました。(ウツボ)十月四日、若松大尉率いる第二中隊は、<中島・四式戦「疾風」単座戦闘機>四機、<中島・二式戦「鍾馗」単座戦闘機二甲型>四機で、哨戒任務に就き、中国東部の悟州(ごしゅう)から西に向かう遡エ船団の護衛を行っていた。(カモメ)すると、アメリカ空軍第二三戦闘航空群・第七六戦闘飛行隊所属の<カーチスP-40「ウォーフォーク」戦闘機>と、アメリカが誇る高性能の<ノースアメリカンP51「マスタング」戦闘機>からなるアメリカ戦闘機隊三二機が襲ってきたのですね。(ウツボ)そうだね。だが、空戦が終わると、第二中隊は、<ノースアメリカンP51「マスタング」戦闘機>五機撃墜、二機撃破していた。若松大尉も二機撃墜した。第二中隊に損害はなかった。
2018.03.23
(カモメ)昭和十一年(三十三歳)四月陸軍通信学校(将校学生)。十二月立川飛行連隊中隊長。昭和十二年(三十四歳)七月支那事変で北支に出征、各地で戦闘に参加。昭和十三年(三十五歳)三月北支那方面軍司令官・寺内寿一大将より感状授与。四月航空兵団司令官・徳川好敏中将より感状授与。六月陸軍大学校(選科学生)入校。七月航空兵少佐。(ウツボ)昭和十四年(三十六歳)三月陸軍大学校(選科学生)卒業、陸軍航空総監部兼陸軍航空本部部員。七月寺内寿一大将随員としてドイツ・イタリア訪問。昭和十五年(三十七歳)九月兵科制撤廃により陸軍少佐。昭和十六年(三十八歳)四月飛行第六四戦隊長(広東)。南支那方面軍司令官・後宮淳中将より感状授与。八月<中島・一式戦「隼」軽単座戦闘機>に機種改編。(カモメ)昭和十六年十二月八日太平洋戦争開戦後、飛行第六四戦隊はマレー、スマトラ、ジャワの航空作戦に参加。南方面軍司令官・寺内寿一大将より感状授与。(ウツボ)昭和十七年二月南方面軍司令官・寺内寿一大将より感状授与、陸軍中佐。三月から飛行第六四戦隊はビルマ航空戦に参加、連合軍空軍と死闘を繰り広げた。五月二十二日、アキャブ飛行場での迎撃戦で、自爆し戦死。同日付けで陸軍少将に特別進級。享年三十八歳。従四位。(カモメ)昭和十三年三月二十五日、日中戦争に参戦していた飛行第二大隊の<川崎「九五式戦」複葉戦闘機>一六機は、帰徳上空で二〇機以上の中国空軍機<ポリカルポフ「I-15」複葉戦闘機>と交戦しました。(ウツボ)この空戦で、第二大隊は、川原幸助中尉(陸士四七・大尉)を失ったが、中国空軍機を一九機撃墜した。第一中隊長・加藤建夫大尉自身も、中国空軍機<ポリカルポフ「I-15」複葉戦闘機>四機を撃墜した。(カモメ)四月、第二大隊は、<中島「九七式戦」低翼単葉戦闘機>に機種改編されました。四月十日、加藤隊長率いる第一中隊は、八機の<ポリカルポフ「I-15」複葉戦闘機>と空戦を行い、加藤隊長自身、三機撃墜したのですね。(ウツボ)そうだね。加藤大尉の第一中隊は、四月、五月の約二か月で、中国空軍機三九機を撃墜した。中隊の損失は三機だった。(カモメ)一か月余りで九機を撃墜した第一中隊長・加藤大尉は、その後、五月に陸軍大学校(選科)入学を命ぜられたのです。(ウツボ)昭和十六年八月末、飛行第六四戦隊は新鋭の<中島・一式戦「隼」軽単座戦闘機>に機種改編され、戦隊長・加藤建夫少佐が率いる「加藤隼戦闘隊」が誕生した。(カモメ)昭和十六年十二月八日、太平洋戦争開戦後、加藤隼戦闘隊は、マレーなど各地の航空撃滅戦で連合軍を圧倒、加藤隊長自身も<中島・一式戦「隼」軽単座戦闘機>に搭乗し、指揮、戦闘を行いました。(ウツボ)昭和十七年二月十四日、オランダ領インド(インドネシア)のパレンバン大油田に対する奇襲空挺作戦の護衛を行った加藤隼戦闘隊は、イギリス空軍の<ホーカー「ハリケーン」戦闘機>や<スーパーマリン「スピットファイヤー」単座戦闘機>と対戦、<ホーカー「ハリケーン」戦闘機>二機を撃墜、二機を燃料切れで不時着させた。(カモメ)この空戦で加藤隊長自身も<ホーカー「ハリケーン」戦闘機>一機を撃墜しました。二月十九日加藤隊長は中佐に昇進しました。(ウツボ)昭和十七年三月二十一日から、加藤隼戦闘隊はビルマ戦線に転戦、イギリス空軍やアメリカ陸軍航空隊(フライング・タイガーなど)と航空撃滅戦を行い、戦果を上げた。(カモメ)昭和十七年五月二十二日、加藤隼戦闘隊が臨時に駐屯していた、ビルマ沿岸のアキャブ(現・ミャンマー西部のミットウエ)飛行場に、インドのダムダムから出撃したイギリス空軍第六〇飛行隊所属の三機編隊の<ブリストル「ブレニム」双発軽爆撃機(イギリス製・乗員三名)>のうちの一機(機長・ハガード准尉)が来襲し爆撃を行ったのですね。(ウツボ)そうだね。加藤隊長以下五機が離陸し追撃、最初に安田義人(やすだ・よしと)曹長(島根・八一期操縦学生・飛行第六四戦隊・准尉・撃墜30機)と大谷益造大尉(中隊長・昭和十七年末に戦死)が攻撃を行った。(カモメ)だが、敵機の後上方銃座(マクラッキー曹長)の射撃が正確で、二機は被弾し帰還したのです。この後、加藤隊長が近接降下攻撃を繰り返し、敵機に損傷を与えたが、加藤隊長が最後の攻撃で引き起こした時、機体(燃料タンク)に被弾し、右翼が発火しました。(ウツボ)加藤隊長機が被弾した地点は、アキャブ西北方九〇キロ、アレサンヨウ(現・ミャンマーのアレサンヨウ)西方一〇キロのベンガル湾上空だった。アキャブに帰還は無理でも、アレサンヨウに不時着は可能だったが、そこは敵地だった。(カモメ)けれども加藤隊長は、僚機の近藤曹長と伊藤曹長に、目をやり、翼をゆっくり振ると、機体を左に反転し、背面飛行になって、高度二〇〇メートルから火を噴きながら突入し壮烈な自爆を遂げたのです。享年三十八歳。(ウツボ)加藤隊長は、日頃から、「戦地に不時着して、捕虜になるな。敵地で自分が無傷で自爆するのは難しい。超低空で反転操作をせよ」と言っていたが、それを、身をもって実行した。
2018.03.16
(ウツボ)昭和二十年六月、本土決戦の為、飛行第五〇戦隊に対して台湾への移駐命令が出た。移駐の前、六月十日、大房曹長はビルマ方面での戦功に対して、表彰された。(カモメ)大房曹長は、第五師団長・服部武士(はっとり・たけし)中将(福岡・陸士二七・陸大三八・台湾軍参謀・大佐・飛行第九八戦隊長・第三飛行師団参謀長・少将・陸軍航空技術研究所総務部長・南方航空輸送司令官・航空局第二部長・下志津教導飛行師団長・中将・第五飛行師団長・功三級)から、表彰状と、陸軍武功徽章(乙)を授与されました。(ウツボ)昭和二十年八月十五日、大房准尉は、台湾南部の嘉義(かぎ)市で終戦を迎えた。大房准尉は、ビルマ航空戦において、出撃回数二五六回、不時着四回、撃墜数一九機、不確実撃破二一機の記録を残した。(カモメ)大房准尉の撃墜機は、<コンソリデーテッドB24「リベレーター」四発大型爆撃機(米国製)>、<ボーイングB-29「スーパーフォートレス」(超空の要塞)四発大型爆撃機)>のほか、<ノースアメリカンP51「マスタング」戦闘機>五機、<ホーカー「ハリケーン」戦闘機(英国)>四機、<リパブリックP47「サンダーボルト」戦闘機>二機、<スーパーマリン・「スピットファイヤー」戦闘機(英国)>一機など。(ウツボ)大房准尉の乗機は、<中島・一式戦「隼」軽単座戦闘機二型>と<中島・四式戦「疾風」単座戦闘機一型甲>で、方向舵には、彼の故郷を指す「陸奥」が白字で書かれていた。【山口文一(やまぐち・ぶんいち)准尉・19機】(カモメ)山口文一は大正七年二月一日生まれ。宮崎県出身。昭和十一年(十八歳)現役兵として入営した後、戦闘機操縦者を志望。昭和十五年(二十二歳)六月第八一期操縦学生課程修了。第一〇一教育航空戦隊で延長教育。(ウツボ)昭和十七年(二十四歳)三月飛行第一一戦隊第一中隊配属。四月一日新編の教導飛行第二〇四戦隊(満州)配属、錬成訓練。装備機は<中島「九七式戦」低翼単葉戦闘機>から<中島・一式戦「隼」軽単座戦闘機>に機種改編。(カモメ)昭和十八年(二十五歳)八月、山口文一曹長は准尉に昇進。十月飛行第二〇四戦隊はビルマの民ガラトン飛行場に移駐。ラングーン防空、各地進攻作戦に従事。山口准尉は戦果を上げる。(ウツボ)昭和十九年(二十六歳)八月飛行第二〇四戦隊はタイに後退後、十月マニラに転進。マニラ防空、船団護衛に従事。レイテ決戦に参加し同戦隊は戦力の大部分を失う。十二月同戦隊は内地に帰還、水戸で<中島・一式戦「隼」軽単座戦闘機三型>に機種改編、操縦者補充。(カモメ)昭和二十年(二十七歳)三月飛行第二〇四戦隊は朝鮮、上海経由で台湾に進出。第八飛行師団の指揮下に入り沖縄航空戦に参加後、八月十五日終戦。山口准尉は、平成四年に死去。享年七十四歳。(ウツボ)昭和十八年十二月二十二日、昆明(こんめい)進攻作戦に参加するため、飛行第二〇四戦隊はミンガラドン飛行場から離陸した。(カモメ)この空戦で、山口文一准尉は、アメリカ陸軍航空隊の<カーチスP-40「ウォーフォーク」戦闘機>を一機撃墜し、初戦果を上げました。その後、アキャブ、昆明、インパールへの各進攻作戦に参加しました。(ウツボ)昭和十九年二月二十九日のラングーン夜間迎撃戦では、山口准尉は、滝口広中尉とともに照空灯(サーチライト)に照らされた<コンソリデーテッドB24「リベレーター」四発大型爆撃機(米国製)>を反復攻撃、協同で四機を撃墜した(不確実撃墜二機)。(カモメ)<コンソリデーテッドB24「リベレーター」四発大型爆撃機(米国製)>の夜間における撃墜は至難の業とされていたので、山口准尉は有名になり、エースパイロットとして知られるようになったのですね。(ウツボ)そうだね。この功績に対し、山口准尉と滝口中尉に、第五師団長・田副登(たぞえ・のぼる)中将(熊本・陸士二六・陸大三六・陸大教官・陸軍航空部員・航空兵大佐・航空本部第一課長・飛行第一〇戦隊長・少将・陸軍航空技術研究所ハルピン支所長・第八飛行師団長・第一航空軍参謀長・中将・第五飛行師団長・航空本部総務部長・航空総軍参謀長)から賞詞が授与された。(カモメ)山口准尉は飛行第二〇四戦隊の創設から終戦まで生き残った唯一の操縦者で、総撃墜数は一九機(うち六機は大型爆撃機)でした。【加藤建夫(かとう・たてお)少将・■戦死・18機】(ウツボ)加藤建夫は明治三十六年九月二十八日生まれ。北海道川上郡東旭川村出身。父・加藤鉄藏は陸軍曹長、奉天会戦で戦死。兄・加藤農夫也は陸軍士官学校を二番の恩賜で卒業したが、砲兵少尉時代にインフルエンザで病死。(カモメ)大正七年(十五歳)九月加藤建夫は川上中学から仙台陸軍幼年学校入校。大正十年(十八歳)三月陸軍士官学校予科入校。大正十四年(二十二歳)七月陸軍士官学校(三七期)卒業、見習士官、歩兵第二五連隊付。十月歩兵少尉、航空兵少尉に転科。飛行第六連隊付(平壌)。(ウツボ)大正十五年(二十三歳)六月所沢陸軍飛行学校(操縦学生二三期)入校。昭和二年(二十四歳)五月所沢陸軍飛行学校卒業。昭和三年(二十五歳)三月所沢陸軍飛行学校教官。十月航空兵中尉。昭和五年(二十七歳)三月陸軍士官学校区隊長。昭和七年(二十九歳)八月所沢陸軍飛行学校教官。昭和八年(三十歳)九月航空兵大尉。
2018.03.09
(ウツボ)戦後は警察予備隊から航空自衛隊に入隊し、F-86F操縦課程のアメリカ留学第一期生となる。その後、要職を歴任し、第十代航空幕僚長に就任した。(カモメ)昭和四十六年七月三十日に、全日空の旅客機(ボーイング727)と航空自衛隊の戦闘機(F-86F)が衝突し旅客機の乗員・乗客全員が死亡するという事件が起きました。(ウツボ)この事件の責任を取って、七月一日に就任したばかりの航空幕僚長・上田泰弘(うえだ・やすひろ)空将(熊本・陸士49期・陸大五八期・第五一航空団参謀・少佐・終戦・警察予備隊・二等保安正・航空自衛隊に転官・二等空佐・一等空佐・空幕人事教育部人事課補任班長・西部航空指令所防衛部長・空幕人事教育部人事課長・一等陸佐・第三一普通科連隊長・一等空佐・中部航空方面隊司令部付・航空自衛隊第三術科学校長・第三航空団司令兼小牧基地司令・空幕人事教育部長・北部航空方面隊司令官・航空幕僚副長・第九代航空幕僚長・辞職・勲三等旭日中綬章・死去・正四位)は、八月九日辞任した。(カモメ)この上田空将のあとを受けて、七月に就任したばかりの石川貫之航空幕僚副長が、先任順を飛び越えて、第十代航空幕僚長に就任したのですね。(ウツボ)そうだね。石川貫之空将が航空幕僚長時代の航空幕僚副長は白川元春(しらかわ・もとはる)空将(東京府・陸航士五一期・陸大五八・飛行第九〇戦隊中隊長・第二飛行師団参謀・鉾田教導飛行師団司令部付・少佐・第二飛行師団参謀・南方軍参謀・終戦・航空自衛隊入隊・三佐・二佐・一佐・空幕人事教育部人事課長・空幕防衛部防衛課長・西部航空方面隊司令部幕僚長・空将補・中部航空警戒管制団司令・航空総隊司令部幕僚長・空幕人事教育部長・空将・西部航空方面隊司令官・統合幕僚会議事務局長兼統合幕僚学校長・航空幕僚副長・第十一代航空幕僚長・勲二等瑞宝章・正四位)だった。(カモメ)陸軍航空士官学校で一期後輩の白川幕僚副長は、石川航空幕僚長を、よく補佐し、二人の名コンビで、航空自衛隊の指揮・運営に当たりました。 (ウツボ)石川空将の飛行時間は旧陸軍、航空自衛隊を通じて、五〇〇〇時間。【大房養次郎(おおふさ・ようしろう)准尉・19機】(カモメ)大房養次郎は大正七年三月三十一日生まれ。宮城県出身。昭和十三年(二十歳)野砲兵第二連隊入営。ノモンハン事件へ砲兵曹長として出征。航空部隊の活躍を見て、戦闘機パイロットになることを決意、航空兵へ転科。(ウツボ)昭和十五年(二十二歳)十一月第二〇教育飛行連隊配属。昭和十七年五月熊谷陸軍飛行学校戦闘機班(八七期)を首席で卒業、航空総監賞を授与された。第二〇教育飛行連隊へ復帰、戦闘機戦技訓練を受ける。十月第一野戦補充飛行隊で錬成訓練を受ける。(カモメ)昭和十八年(二十五歳)一月ビルマ戦線の飛行第五〇戦隊第一中隊に配属、メイクテーラー基地(現・ミャンマー)に着任。装備機<中島・一式戦「隼」軽単座戦闘機>。進攻作戦に従事、撃墜王となったのです。(ウツボ)昭和二十年(二十七歳)四月飛行第五〇戦隊はフランス領インドシナのサイゴン、次にプノンペンに移駐。六月本土決戦のため台湾に移駐命令。七月広東経由で台湾の台中、次に嘉義に移駐して、八月終戦を迎えた。戦後大房准尉は、樋口に改姓して、郷里の宮城県に居住。(カモメ)昭和十四年五月、ノモンハン戦が勃発し、大房養次郎砲兵曹長は、地上部隊として戦ったが、日本の地上部隊は恐るべき大損害を被り敗退したのですね。(ウツボ)そうだね。一方、航空部隊はソ連空軍に対して、大勝利を発表した。当時二十一歳の大房曹長は、この結果を見て、戦闘機パイロットコースに進んだ。(カモメ)戦闘機パイロットの訓練を終了した大房曹長は、昭和十八年一月ビルマ戦線の飛行第五〇戦隊に着任、爆撃機護衛、空中戦、対地攻撃、艦船攻撃などを行い、戦果を上げました。(ウツボ)昭和十八年十一月二十四日、ミートナー上空でアメリカ第七爆撃航空軍の<コンソリデーテッドB24「リベレーター」四発大型爆撃機>大編隊に攻撃を行い、一機を撃墜した。だが、大房曹長機も同機からの防御砲火で炎上した。大房曹長は落下傘降下をしたが、火傷を負い、四十一日間の入院、治療を受けた。(カモメ)退院後、大房曹長は、インパール作戦などの進攻作戦、迎撃戦などで戦果を上げ、不時着を四回経験するも、同戦隊の撃墜王になりました。(ウツボ)昭和十九年十一月二十七日、戦闘機受領でタイのドンムアン飛行場にいた大房曹長は、<ボーイングB-29「スーパーフォートレス」(超空の要塞)四発大型爆撃機)>四二機編隊のバンコク空襲の報告を聞くと、単機で離陸し迎撃、敵大編隊に突っ込み、一機を撃墜した。この殊勲により、大房曹長に師団長賞詞が授与された。(カモメ)昭和二十年一月九日、アキャブ(現・ミャンマー西部の都市ミットウエ)に上陸してきた英国軍の、海軍艦船への攻撃を行いました、熾烈な攻撃で大房曹長は英国巡洋艦一隻を撃沈したのです。
2018.03.01
【吉山文治(よしやま・ぶんじ)曹長・戦死・20機】(カモメ)吉山文治は大正五年生まれ。鹿児島県出身。鹿児島県立商船学校中退。少年航空兵(一期)卒業、飛行第一一戦隊。昭和十四年五月ノモンハン戦で一機初撃墜、以後九十回以上出撃し多数のソ連機を撃墜。九月十五日戦死。享年二十三歳。(ウツボ)昭和十四年五月二十八日、六〇機以上のソ連機、<ポリカルポフ「I-15」複葉戦闘機>と<ポリカルポフ「I-16」単葉戦闘機>が、国境のハルハ河を越え、満州領に侵入してきた。(カモメ)ハルピンの飛行第一一戦隊は、これを迎撃しました。第一中隊所属の吉山文治曹長は、<中島「九七式戦」低翼単葉戦闘機>で出撃、格闘戦で、<ポリカルポフ「I-15」複葉戦闘機>を一機撃墜しました。初撃墜となったのですね。(ウツボ)そうだね。この時の、飛行第一一戦隊の戦果は四二機撃墜、味方の損害は一機のみだった。それも、操縦士の光富貞喜中尉(下士四六期・少候一七期)は落下傘降下し、長谷川智在少尉(下士三六)機によって救出された。(カモメ)六月二十七日、東京の参謀本部からは攻撃禁止命令が出ていましたが、陸軍航空部隊は、ハルハ河を越えて越境出撃を行ったのです。関東軍はソ連軍航空基地の先制攻撃を企図したのです。(ウツボ)吉山曹長は、この日の戦闘で、ソ連機<ポリカルポフ「I-16」単葉戦闘機>三機、<ポリカルポフ「I-15」複葉戦闘機>一機の合計四機撃墜した。(カモメ)攻撃終了後、帰還中に、吉山曹長はボイル湖の東側に着陸して、草原に不時着していた鈴木栄作曹長(少年航空兵)を救出しました。(ウツボ)七月二十五日、吉山曹長はソ連戦闘機を三機撃墜した。その後、敵戦線の背後に着陸して、落下傘降下した第四中隊の鹿島真太郎曹長を救出した。(カモメ)これにより、吉山曹長の人望は高まり、撃墜記録も上げ続けました。彼は、しばしば第一中隊長・島田健二大尉(陸士四五・ノモンハン戦で戦死・少佐・撃墜数四〇機)の二番機をつとめました。(ウツボ)八月二十日、激しい空中戦で、吉山曹長は、敵ソ連機を射撃で破損させ、不時着させた。すると、吉山曹長は、敵不時着機のそばに着陸し、ソ連の操縦士を拳銃で射殺した。(カモメ)吉山曹長はこの記念に、敵の拳銃と腕時計を持って帰還したのですね。(ウツボ)そうだね。それは写真で残っている。(カモメ)九月十五日、吉山曹長は、ボイル湖東方のソ連航空基地を空襲するために出撃した小型爆撃機の護衛に当たりました。だが、彼は未帰還となり、戦死が認定されたのです。この日の翌日の、九月十六日、ノモンハン事変の停戦が発効しました。(ウツボ)ノモンハン事変のわずか四か月にも満たない間に、吉山文治曹長は最低でも二〇機以上(~二五機)を撃墜するという驚異的な記録を樹立した。【石川貫之(いしかわ・かんし)少佐・19機】(カモメ)石川貫之は大正六年二月七日生まれ。朝鮮の京城府(現・ソウル市)で生まれる。果樹園経営の石川琢次の次男。大分中学卒業後、陸軍士官学校入校。(ウツボ)昭和十三年六月陸軍士官学校航空分校(昭和十三年十二月から陸軍航空士官学校)五〇期卒、陸軍航空兵少尉(二十一歳)、飛行第一六戦隊付。十月浜松陸軍飛行学校乙種学生終了。十二月陸軍航空兵中尉(二十一歳)。(カモメ)昭和十六年三月陸軍大尉(二十四歳)、飛行第一六戦隊中隊長。昭和十八年三月鉾田陸軍飛行学校教官。昭和十九年三月陸軍少佐(二十七歳)、明野陸軍飛行学校付。八月飛行第二四六戦隊長。昭和二十年八月終戦・復員。十一月予備役。(ウツボ)昭和二十七年七月警察予備隊入隊(三等警察正・三十五歳)。昭和二十九年七月航空自衛隊転官(二等空佐・三十七歳)。昭和三十一年二月航空団第一飛行隊長。昭和三十四年二月一等空佐(四十二歳)。昭和三十八年三月第四航空団副司令。昭和四十年三月第二航空団司令。(カモメ)昭和四十一年一月空将補(四十九歳)。昭和四十二年七月航空幕僚監部防衛部副部長。昭和四十四年一月航空幕僚監部監察官。七月西部航空方面隊司令官。昭和四十五年十二月飛行教育集団司令官。(ウツボ)昭和四十六年七月航空幕僚副長、空将(五十四歳)。八月第十代航空幕僚長。昭和四十八年七月退官。富士重工業顧問。平成三年十一月勲二等瑞宝章受章。平成六年七月十一日死去。享年七十七歳。正四位。著書に、「自衛隊戦わば―防衛出動」(オリエント書房・1976年)がある。(カモメ)昭和十四年八月ノモンハン戦で、石川貫之中尉は<三菱・九七式軽爆撃機>で出撃、ソ連の<ポリカルポフ「I-16」単葉戦闘機>によって撃墜され、草原に不時着しました。その後、間一髪のところで、友軍機に救助されたのです。(ウツボ)昭和十八年夏、飛行分科を軽爆から戦闘に転科、陸軍明野飛行学校・北伊勢分教所で訓練を受けた。昭和十九年八月飛行第二四六戦隊長。装備機は<中島・二式戦「鍾馗」単座戦闘機>。(カモメ)昭和二十年四月飛行第二四六戦隊は装備機を<中島・四式戦「疾風」単座戦闘機>に改編し、本土防空戦で活躍しました。石川少佐は撃墜王となりました。
2018.02.23
【岩橋譲三(いわはし・じょうぞう)中佐・戦死・21機】(ウツボ)岩橋譲三は、明治四十五年和歌山県生まれ。昭和八年陸軍士官学校(四五期)卒業、少尉(二十二歳)。所沢飛行学校学生、明けの飛行学校学生。(カモメ)昭和十四年五月~九月のノモンハン事件では、大尉(二十八歳)で、飛行第一一戦隊第四中隊長。その後、明けの飛行学校教官、飛行実験部テストパイロット。(ウツボ)昭和十九年三月五日飛行第二二戦隊隊長(少佐)。九月二十一日中国の西安上空で戦死。享年三十三歳。(カモメ)昭和十四年四月ノモンハン事件勃発当時、岩橋譲三大尉は、満州ハルピンを基地とする精鋭の飛行第一一戦隊第四中隊長でした。装備機は<中島「九七式戦」低翼単葉戦闘機>。(ウツボ)初戦には参加できなかったが、同年六月に起きた戦闘の第二段階には参加した。六月二十四日、<中島「九七式戦」低翼単葉戦闘機>で、敵戦闘機二機を撃墜したのが初の戦果だった。(カモメ)岩橋大尉は、優れた操縦者だけでなく、統率力ある名指揮官であり、第四中隊は、九月の停戦まで一〇〇機を撃墜したのですね。(ウツボ)そうだね。岩橋大尉自身はノモンハン戦で、二〇機を撃墜して、撃墜王となり、功四級金鵄勲章を授与された。だが、彼は報道関係者を避ける性格で、取材も拒否したので、彼の撃墜王としての記録は報道されず、国民も知らなかった。(カモメ)帰国後、岩橋大尉は三重県度会郡北浜村の明野陸軍飛行学校の教官になり、飛行実験部のテストパイロットになりました。(ウツボ)昭和十八年三月、陸軍の技師たちが期待をかけて作った、日本軍機の中でも随一の性能を誇る、中島のキ84(四式戦・疾風)の試作一号機が完成した。(カモメ)四月に、審査主任・岩橋譲三少佐が初めて、その試作機を操縦し、試験飛行を行ったのです。着陸後、岩橋譲三少佐は、「これは、いける」と笑いました。その言葉を聞いた設計者や開発スタッフは感激して涙を流したと言われています。(ウツボ)昭和十九年三月五日、岩橋少佐は、東京多摩地域の福生において、<中島・四式戦「疾風」単座戦闘機>で初めて編成された、飛行第二二戦隊(三個中隊)の戦隊長に任命された。(カモメ)訓練期間終了後、飛行第二二戦隊は中国に進出することが決まりました。八月に入り、岩橋少佐は、航空審査部長・今川一策(いまがわ・かずさく)少将(陸士二八・陸軍航空本部技術部飛行班長・中佐・飛行第五九戦隊長・大佐・第一三飛行団長・陸軍航空審査部飛行実験部長・独立第一五飛行団長・少将・明野教導飛行師団長)に呼ばれたのです。(ウツボ)今川少将は、岩橋少佐に次のように言った。(カモメ)読んでみます。「フィリピンでひと暴れして欲しいところだが、第五航空軍の強い要望で、中国に行ってもらう。だが、その期間は一か月だけと言っておいた。君のような優秀なテストパイロットを戦場で失うのは、国家の大損失である。死んではならんぞ。くれぐれも自重してくれよ」。(ウツボ)八月二十四日、岩橋少佐は、三個中隊三十機の<中島・四式戦「疾風」単座戦闘機>を率いて、中国の漢口基地に飛んだ。(カモメ)漢口基地に到着した岩橋少佐は、中国航空戦線を統括する第五航空軍(司令官・下山琢磨中将)の参謀長・橋本秀信少将に呼び出されました。(ウツボ)橋本少将は、緊迫する中国航空戦の戦況を説明し、戦隊長・岩橋譲三少佐に飛行第二二戦隊の現状を報告させた。これは、異例なことで、当時、いかに岩橋戦隊が期待されていたかを、象徴するものだった。(カモメ)戦場到着から四日後、飛行第二二戦隊は初陣を迎え、岩橋少佐は、米陸軍第二三戦闘航空群所属の<カーチスP-40「ウォーフォーク」戦闘機>一機を撃墜しました。(ウツボ)岩橋少佐の飛行第二二戦隊は、連日のように、出撃を繰り返し、さすがの岩橋少佐も第五航空軍司令部に対し、「あまりにも出動回数が多すぎ、満足な攻撃及び整備が出来なくなっている。搭乗員の疲労も限界にきている」と報告している。(カモメ)九月に入ると、岩橋少佐は、中国奥地の連合国軍基地から日本本土に爆撃に向かう<ボーイングB-29「スーパーフォートレス」(超空の要塞)四発大型爆撃機)>への迎撃を開始したのです。(ウツボ)昭和十九年九月二十日、中央から「飛行第二二戦隊は、九月末までに内地に帰還して<捷号>作戦にそなえるよう」と内命が出た。同時に第五航空軍から西安飛行場の攻撃を命ぜられた。(カモメ)その翌日、九月二十一日、岩橋少佐は、熟慮の末、飛行第二二戦隊から三機の選抜し、自ら選抜隊を率いて四機で西安飛行場攻撃を行うため、離陸しました。ところが、そのうち部下の二機が離陸中に、エンジン不調と離陸に失敗し、結局二機で西安飛行場に向かったのです。(ウツボ)西安飛行場に到着すると、岩橋少佐は、僚機とともに肉薄して機銃掃射を浴びせ、多数の敵戦闘機を破壊した。だが、さらなる攻撃中に、岩橋機は敵の地上砲火に被弾した。(カモメ)帰還が不可能と判断した岩橋少佐は、離陸中の敵機、<ノースアメリカンP51「マスタング」戦闘機>を認めました。(ウツボ)岩橋少佐はこの離陸中の敵機に体当たりして自爆した。岩橋少佐は戦死後、中佐に特別進級した。享年三十三歳。
2018.02.16
(ウツボ)長谷川少尉は列機とともに、退避したが、多数の敵機が追撃してきた。長谷川少尉は、急旋回を何度も行い、逃れたが、その最中に、追尾中の敵二機が接触し墜落した。一発も射撃せずに、長谷川少尉は二機を撃墜した。(カモメ)また、ある時は、戦闘を終え、帰投している、<ポリカルポフ「I-16」単葉戦闘機>の編隊20機を発見、長谷川少尉は、単機で敵編隊の最後尾に忍び寄り、攻撃して瞬時に二機を撃墜しました。(ウツボ)太平洋戦争では、昭和十七年十二月三十一日、ラエ沖で、<中島・一式戦「隼」軽単座戦闘機>で空戦中、<ロッキードP38「ライトニング」双胴双発単座戦闘機>の攻撃で被弾し、ガスマタに不時着した。だが、数日後に帰還し、武運の強いところを見せた。(カモメ)その後、長谷川中尉は、昭和十八年七月第四航空群司令部に転属、さらに航空輸送部に配属され、大尉に進級。八月十五日終戦を迎え、激戦を生き延びたのです。長谷川大尉は、太平洋戦争中に、三機撃墜しています。 【木村定光(きむら・さだみつ)中尉・戦死・22機】(ウツボ)木村定光は大正四年八月十九日生まれ。千葉県松戸市出身。昭和十二年(二十二歳)六月熊谷陸軍飛行学校入校。昭和十三年(二十三歳)二月熊谷陸軍飛行学校(第六七期下士官操縦学生)卒業、熊谷陸軍飛行学校新田分校(助教)配属。(カモメ)昭和十七年(二十七歳)飛行第四戦隊(山口県小月飛行場)転属、<川崎・二式複戦「屠龍」双発複座重戦闘機>で、本土防空戦の大型機攻撃訓練を受ける。(ウツボ)昭和十九年(二十九歳)六月十五日、木村定光准尉は<ボーイングB-29「スーパーフォートレス」(超空の要塞)四発大型爆撃機)>を二機撃墜、三機を撃破、激賞された。(カモメ)昭和二十年(三十歳)三月二十七日木村定光准尉は<ボーイングB-29「スーパーフォートレス」(超空の要塞)四発大型爆撃機)>を五機撃墜、二機撃破し、武功章が授与されました。五月八日少尉に特進。七月十四日戦死、中尉に特進。享年三十歳。(ウツボ)昭和十九年六月十五日の夜、<ボーイングB-29「スーパーフォートレス」(超空の要塞)四発大型爆撃機)>が初めて日本本土を空襲した時、防空戦のため、木村定光准尉は、<川崎・二式複戦「屠龍」双発複座重戦闘機>で、山口県の小月基地を離陸した。(カモメ)この防空戦で木村准尉は、<ボーイングB-29「スーパーフォートレス」(超空の要塞)四発大型爆撃機)>を二機撃墜、三機を撃破しました。(ウツボ)当時の、総理大臣兼陸軍大臣兼参謀総長は東條英機(とうじょう・ひでき)大将(岩手・陸士一七・陸大二七・整備局動員課長・歩兵大佐・歩兵第一連隊長・参謀本部編制動員課長・少将・軍事調査委員長・軍事調査部長・陸軍士官学校幹事・歩兵第二四旅団長・第一二師団長・関東憲兵隊司令官・中将・関東軍参謀長・陸軍次官・兼航空本部長・陸軍大臣・大将・総理大臣兼陸軍大臣・兼軍需大臣・兼参謀総長・予備役・終戦・A級戦犯で刑死)。(カモメ)西部軍司令官は下村定(しもむら・さだむ)中将(高知・陸士二〇・陸大二八首席・国連軍縮準備委員会幹事・砲兵大佐・ジュネーブ軍縮会議全権随員・野戦重砲第一連隊長・関東軍第一課長・陸軍大学校研究部主事・少将・参謀本部第四部長・参謀本部第一部長・東京湾要塞司令官・中将・陸軍砲工学校校長・陸軍大学校長・第一三軍司令官・西部軍司令官・北支那方面軍司令官・大将・終戦・陸軍大臣兼教育総監・戦後参議院議員・交通事故死)。(ウツボ)西部軍参謀長は芳仲和太郎(よしなか・わたろう)少将(愛媛・陸士二七・陸大三七・参謀本部欧米課長・砲兵大佐・第一四師団参謀長・少将・西部軍参謀長・中将・第一六方面軍参謀長・第八六師団長)。(カモメ)木村准尉は、東條英機参謀総長から軍刀を授与されました。また、西部軍司令官・下村定中将から個人感状が授けられたのですね。(ウツボ)そうだね。その伝達式では、芳仲参謀長が「武運に恵まれ折角の武勲をたてた木村准尉は、この功に驕らず、更に技能を錬磨して敵機再来の暁にそなえてもらいたい」と訓示した。(カモメ)さらに昭和二十年三月二十七日には、木村准尉は<ボーイングB-29「スーパーフォートレス」(超空の要塞)四発大型爆撃機)>を五機撃墜、二機撃破し、飛行第四戦隊の最多撃墜者となったのです。(ウツボ)当時の第一六方面軍司令官は横山勇(よこやま・いさむ)中将(千葉・陸士二一・陸大二七・資源局企画部第二課長・歩兵大佐・整備局動員課長・歩兵第二連隊長・第六師団参謀長・少将・資源局企画部長・企画院総務部長・企画院第一部長・中将・第一師団長・第四軍司令官・第一一軍司令官・西部軍司令官・第一六方面軍司令官兼西部軍管区司令官)。(カモメ)こうした木村准尉の戦功に対して、第一六方面軍司令官・横山勇中将から、個人感状並びに武功章が授与され、五月八日付で陸軍少尉に特別進級しました。(ウツボ)その後も迎撃戦を続けた木村少尉は、七月十四日の夜間攻撃に出撃した。関門海峡に単機ごと機雷投下に侵入する<ボーイングB-29「スーパーフォートレス」(超空の要塞)四発大型爆撃機)>を攻撃、一機を撃破した。(カモメ)だがその直後、午後十一時五十八分、「木村撃墜自爆する」の無電を最後に、木村少尉は未帰還となり、戦死と認定されたのですね。(ウツボ)そうだね。戦後、<ボーイングB-29「スーパーフォートレス」(超空の要塞)四発大型爆撃機)>撃墜王として知られる樫出勇大尉(新潟・少年飛行兵第一期・曹長・陸軍航空士官学校・武功章・大尉・撃墜数33機)は、木村定光少尉を次の様に回想している。(カモメ)読んでみます。「木村准尉は技量抜群で、B29を二二機撃墜の記録を持っていた。当時はまだ、木村少尉は三十歳だったと思う」。
2018.02.09
(ウツボ)その時、上昇旋回している梶並伍長の鼻先に、二機の敵機が急降下してきた。背中を見せるな、梶並伍長は瞬間、後方を見た。敵機はいない。(カモメ)敵機に正対した梶並伍長は、そのまま敵二機にしゃにむに突っ込んで行きました。こちらは上昇姿勢、敵は降下姿勢、速度はプラスとマイナスですごい差です。(ウツボ)敵機は猛烈に突っ込んできた。しかし、ここで背中を見せたら自殺行為だ。梶並伍長は機関砲のボタンに指をかけて、辛抱強く敵の撃ってくるのを待った。(カモメ)敵機は<リパブリックP47B「サンダーボルト」戦闘機>でした。一機は土色に近い色で、もう一機はジュラルミンの素肌を見せていました。(ウツボ)<リパブリックP47B「サンダーボルト」戦闘機>は、全長一一・〇〇メートル、全幅一二・四〇メートル、乗員一名、最大速度六九七キロ、巡航速度五六三キロ、航続距離一六五七キロ、実用上昇限度一二八〇〇メートル、武装一二・七ミリ機関銃×八門、爆弾九〇八キロ、ロケット弾(一二・七センチ)×一〇、生産機数一五六六〇機。(カモメ)敵機の<リパブリックP47B「サンダーボルト」戦闘機>は、二機あわせると一六門の一二・七ミリ機関砲を持っている。こちらは、一二・七ミリ機関砲二門、七・七ミリ機関銃二門だけですね。(ウツボ)そうだね。距離二〇〇メートル位で、ほとんど同時に射撃を始めた。梶並伍長は思わず首をひっこめた。なんとその砲火のものすごいこと。一六門の敵の機関砲から撃ち出される火は、愛機を瞬時に焼き尽くしてしまいかねないほどだった。(カモメ)このたまげた梶並伍長の心境は、経験しないと想像もつかない。梶並伍長も発射ボタンを押したまま、猛然と真正面から敵機にぶつかって行ったのです。(ウツボ)このままの姿勢でお互い進めば、衝突よりほかはない。だが、梶並伍長は日ごろ教えられた通り、衝突を覚悟で突っ込んで行った。(カモメ)あわや衝突かと思った瞬間、梶並伍長は目をつむった。気がついた時は、敵機は眼前になく、広い青空がすっと広がっていたのです。高度は一〇〇〇メートル上がって、高度計は六五〇〇メートルを指していました。(ウツボ)梶並伍長は、優位な高度だった。周りを見回すと、周りに敵機はいなかった。下方を見ると、一五〇〇メートル位下で乱戦の真っ最中だった。(カモメ)その時、左斜め下方に、一機の<川崎・三式戦「飛燕」液冷単座戦闘機>が、四機の<カーチスP-40「ウォーフォーク」戦闘機>に追いかけられているのを発見したのです。(ウツボ)よく見れば、井上中尉機だ。梶並伍長は注意深く、後上方から単縦陣最後尾の敵機に急降下攻撃をかけた。完全に奇襲は成功した。(カモメ)距離一〇〇メートル位で、梶並伍長は、一二・七ミリ機関砲二門を発射しました。敵機は井上中尉機を追いかけるのに必死で、気づかない。(ウツボ)第一連射で、最後尾の敵機は火の玉となって落ちて行った。梶並伍長は、下方に抜けて、再び上昇した。敵は最後尾機が落とされたのを知らない。(カモメ)敵編隊に二度目の奇襲をかけました。後上方から回り込んで、第二撃をかけたのです。この二機目も七、八〇発目に大爆発を起こして、空中に飛び散ってしまったのです。(ウツボ)これに前方の敵二機は気づき、井上中尉機の追尾を辞め、急反転降下で遁走した。井上中尉は、梶並伍長に敬礼して感謝を示してくれた。(カモメ)この日、梶並伍長は、もう一機、<リパブリックP47「サンダーボルト」戦闘機>を撃墜しました。さらに、白煙を引いている<ロッキードP38「ライトニング」双胴双発単座戦闘機>に接近、それに気づいた敵搭乗員が落下傘降下をしたのです。これも撃墜と認められ、一日で、合計四機撃墜を記録しました。【長谷川智在(はせがわ・ともあり)大尉・22機】(ウツボ)明治四十年生まれ。岐阜県岐阜市出身。生家は井野家で、姓名は井野智在だが、後に、長谷川家の養子となり、長谷川智在となる。大正十四年(十八歳)現役兵として飛行第一連隊入隊、航空兵軍曹。(カモメ)井野智在軍曹は、昭和六年(二十四歳)四月所沢陸軍飛行学校(第三六期操縦学生)卒業。航空兵曹長。昭和十年(二十八歳)飛行第一一大隊(ハルピン)配属。昭和十二年(三十歳)二月航空兵准尉。(ウツボ)昭和十三年(三十一歳)十二月少尉、予備役編入、即日再招集。昭和十四年(三十二歳)五月ノモンハン事件では第一一大隊第一中隊で参戦。九月十九日の停戦までに一九機撃墜。(カモメ)昭和十六年(三十四歳)十二月中尉に進級、飛行第一一戦隊情報主任。マレー、ビルマ戦戦線で戦う。昭和十七年(三十五歳)十二月ラバウルに進出。(ウツボ)昭和十八年(三十六歳)七月第四航空軍司令部勤務。その後航空輸送部に転属、大尉に進級。昭和二十年(三十八歳)八月十五日終戦。(カモメ)昭和十四年五月二十八日、ノモンハン事件で、ソ連機と空戦中、光富貞喜中尉(下士四六期・少候一七期)が被弾し落下傘降下しました。(ウツボ)これを見た長谷川少尉は、<中島「九七式戦」低翼単葉戦闘機>で敵中の草原に強行着陸して、光富中尉を、自機に乗せ、救出した。(カモメ)また、ノモンハン事件では、長谷川少尉は、列機二機を率いて偵察飛行中、ソ連の<ポリカルポフ「I-16」単葉戦闘機>三〇機の大編隊と遭遇した。
2018.02.02
(ウツボ)梶並伍長は上昇しながら、ふと松井曹長の存在を忘れていたことに気づき、あわてて旋回しながら探した。しかし、探すまでもなく、松井曹長はちゃんと梶並伍長の後方二〇メートル位に編隊を組み、大きく口を開けて笑っていた。(カモメ)梶並伍長と顔が合うと、すっと前進して来て、やや前方に出て、「よくやった」と、手まねでほめました。松井曹長と梶並伍長は意気揚々と基地へ引き上げたのですね。(ウツボ)そうだね。基地では、朝出撃した部隊はほとんど帰還しており、奇襲に成功、相当の戦果を上げていた。追尾攻撃もなかった。井上編隊も一機を撃墜していた。梶並伍長にとって、今日の初撃墜は、永遠に忘れることのできぬ一齣だった。(カモメ)昭和十八年九月二十五日、ウェワク基地の飛行第六八戦隊に着任以来、梶並進伍長は、出撃を繰り返しました。(ウツボ)そんな、晴天のある日、飛行第六八戦隊、七八戦隊、三三戦隊の四八機が警戒態勢を取るため飛び上がった。(カモメ)その日は第六八戦隊長・木村清少佐も出撃しました。木村少佐は、梶並伍長に「今日あたり来るぞ。機数は少ないが頑張ってくれ。いや絶対やってくれ」と声をかけました。(ウツボ)情報が入ってきた。「敵機は小型約四〇〇機、爆撃機はいない。位置につけ」。搭乗員はみんなトラックで運ばれ、愛機の前で飛び降りると、早駆けで機上の人となり、次々に離陸して行った。(カモメ)離陸後六分、梶並伍長など<川崎・三式戦「飛燕」液冷単座戦闘機>八機は、ウェワク山脈上空六〇〇〇メートルに勢ぞろいしました。梶並伍長は井上小隊で、松井曹長の二番機でした。(ウツボ)雲一つない空で、敵機四〇〇機に対して、こちらは四八機、約十分の一である。今日は、梶並伍長が着任して初めての大空戦になるのだ。(カモメ)梶並伍長は「こうなったら、皮を切らして肉を切れ、肉を切らして骨を切れだ。今日は、捨て身でいくのだ」と決意したのです。(ウツボ)午前十時、東の空にチカチカと輝くものが認められた。見る間に、無数の黒点と変わり、だんだん大きくなってきた。梶並伍長らと同高度に約、七、八十機が突っ込んでくる。こちらは八機だ。十対一である。(カモメ)梶並伍長は、無我夢中で松井曹長についていきました。敵も味方も発見が同時だったので、お互い高度の優位を得ようと上昇しつつ接近しました。(ウツボ)同高度で戦闘開始。八十機対八機の空戦の渦は、次第に広がって行った。松井曹長と梶並伍長の第二分隊は、井上小隊長に必死について行った。(カモメ)金魚の糞の如く、敵味方並んでくるくると旋回しています。敵もなかなか攻撃に移りません。梶並伍長は恐怖と興奮で、身体中がワナワナと震えが止まらなかったのです。誰もが、生に対する執着と死の恐ろしさを感じているのです。(ウツボ)梶並伍長は「えい、ままよ、人間は一生に一度は死ぬ。生命を捨ててかかれば、何事かならざらんだ。よし、俺の腕だめしをやってやる」と腹を決めると、だんだん落ち着いてきた。(カモメ)突然、左後上方から梶並伍長ら第二分隊の鼻づらに、雨の如く、火の矢が降ってきました。(ウツボ)余りの突然のことに、ぶったまげたが、瞬間、梶並伍長は、操縦桿を、腹につけよとばかり引っ張り、踏棒を力まかせに蹴飛ばした。(カモメ)松井曹長が翼横から白煙をすっと引きながら、左急旋回をやって敵の射撃を回避しているのが見えました。梶並伍長ら第二分隊は第一分隊を見失っていたのですね。(ウツボ)そうだね。敵はこちらを旋回でさそっておいて、その間に他の一編隊が高度を取り、より優勢な位置から、最後尾の第二分隊に攻撃をかけてきたのだ。(カモメ)敵の第一撃破回避しましたが、この不意の敵の奇襲で、たちまち今までの沈黙も破れ、不均衡な大空中戦は火ぶたを切っておとされたのです。(ウツボ)敵機はほとんど、<カーチスP-40「ウォーフォーク」単座戦闘機>だが、先ほど、上方より攻撃を仕掛けてきた一編隊四機は<リパブリックP47「サンダーボルト」戦闘機>らしく、ずんぐりしていた。(カモメ)梶並伍長は松井曹長にしっかりついていきました。突然、後方から再び敵四機の攻撃を受けました。梶並伍長は、必死で後方をチラッ、チラッと警戒しながら、敵が射程に入ってくるのを辛抱強く待ったのです。(ウツボ)その時、松井曹長を確認すべき前方に目をやった。すると前方より敵数機が接近してきた。その途端、後方から梶並伍長機の左翼を火の束がかすめたので、左急旋回で回避した。(カモメ)この時、梶並伍長は松井曹長を見失ったのです。この南海の大空に、大空中戦の最中に、ただ一機で戦わなければなりませんでした。(ウツボ)射弾を回避した梶並伍長は、無謀ではあるが、高度を取るべく、充分に速度を付けて右旋回で上昇しつつ周りを見まわした。(カモメ)あちらこちらで、白煙を引きながら、大空戦の真っ最中でした。見えるのは敵ばかりだったのです。
2018.01.26
(カモメ)その瞬間、敵機に発見されてしまったのです。敵機四機は全機落下タンクを投下し、反転を開始しました。井上編隊は、直ちに追尾攻撃に移りました。(ウツボ)反転を開始した敵機編隊は、山手と海上へと二手に分かれた。瞬間、井上中尉の第一分隊は山手へ、松井曹長の第二分隊は海上の敵機を追尾する。(カモメ)早く敵機をやっつけなければ、戻って来る味方の帰還機を、いつ、どこで喰われるかもわからない。梶並伍長は、松井曹長に必死にくっついていきました。(ウツボ)敵機がいくら反転して逃げても、井上編隊は最初から高度差を利用しての有利な追い込みで、<川崎・三式戦「飛燕」液冷単座戦闘機>の方が優秀で、計器速度五五〇キロ……五八〇キロ、次第に二機の<カーチスP-40「ウォーフォーク」単座戦闘機>がクローズアップされてきた。(カモメ)あと数秒で、二対二の空戦が始まるのだ。周囲に目を配りながら、梶並伍長はレバーをしゃにむに押して松井曹長機に追いついていきました。(ウツボ)敵機との距離六〇〇メートル、降下姿勢に移った<カーチスP-40「ウォーフォーク」単座戦闘機>は、まっすぐ海面めざして降下していく。(カモメ)高度一二〇〇メートル、敵機は回目念すれすれまで降下して遁走するつもりだ。<川崎・三式戦「飛燕」液冷単座戦闘機>は好調だ。ついに敵機との距離三〇〇メートル。(ウツボ)こうなれば、松井曹長にとっては、赤子の手をねじるようなものだった。途端に、敵機は左急旋回を行なった。すかさず、松井曹長は左小回りをして、ますます距離を縮めた。(カモメ)<川崎・三式戦「飛燕」液冷単座戦闘機>の方が、旋回性能、速度ともに優秀なのだ。ますます距離を縮めて、二〇〇メートルまで近づいたのですね。(ウツボ)そうだね。少し茶味がかったグリーンの機体が、ハッキリ照準器の中に入ってきた。松井曹長はまだ撃たない。とことんまで近づくつもりと思われる。(カモメ)距離一五〇メートル…一〇〇メートル、一直線の追尾攻撃だ。八〇メートル、ここで敵機は右旋回降下に移った。敵機も必死だ。海面上まで逃げるつもりだ。(ウツボ)その時、松井曹長機から白煙の尾を引いて弾丸が発射された。一連射、二連射。二連射が終わらないうちに、後尾の敵機が、パッパッと、白煙を噴き出した。(カモメ)その白煙がたちまち黒煙に変わり、ついに真っ赤な火のかたまりとなって、すぐ下の海に、白波の波紋を残して消え去ったのです。ほとんど瞬間のできごとでした。(ウツボ)空戦とは、かくも華々しく、また瞬間に生命の勝負をするのかと思うと、梶並伍長は、何とも言えない、本当に、何とも言えない気持ちが胸中をかすめ去った。(カモメ)あと一機残っている。この敵機も必死だ。海面スレスレまで下がっている。もう立体戦はできない。水平面の戦いだけだ。まかり間違えば、追う者も海へ突っ込む羽目になる。(ウツボ)速度計は六〇〇キロを指しているが、梶並伍長の機体はびくともしない。梶並伍長は先程から撃ちたくて、撃ちたくてたまらなかった。だが松井曹長との約束で、じっと我慢して松井曹長機の三〇メートル後にくっついていた。(カモメ)敵機<カーチスP-40「ウォーフォーク」単座戦闘機>は、右に左に蛇行して逃げている。梶並伍長は、「そろそろ、ハンサの沖あたりだ。早く始末しなければ」と、思いました。(ウツボ)松井曹長は、敵機との距離五〇メートル位を、編隊飛行のように楽に追っかけている。遂に三〇メートル位になった。(カモメ)もう敵機は、目の前いっぱいに覆い被さっている。こうなれば実に哀れなものである。梶並伍長は、「他人ごとではない。私もよくよく肝に銘じてこの敵機の二の舞をふまぬよう注意すべきだ」と思ったのです。(ウツボ)その時、前方の松井曹長機が、梶並伍長の目の前を急上昇した。梶並伍長もつい、それについて行きかけたが、「ああそうだ」と、松井曹長の言葉を思い出した。(カモメ)約束通り、松井曹長は、梶並伍長に初陣の手柄を立てさせるべく、バトンを渡してくれたのだ。梶並伍長は、途端にポッと、上がってしまって、何が何だか分からなくなり、瞬間、敵機を見失ったのです。(ウツボ)あの目の前の大きな敵機を見失うのだから、梶並伍長は、よほど上がっていた。だが、すぐに前方に発見し、全速で追尾した。(カモメ)すぐに追いつくことができた。冷静になった梶並伍長は、今度は「よし、こい」と、猛烈な闘志が湧いてきました。(ウツボ)距離五〇メートル、ほとんど直接照準で、操縦桿のボタンもレバーのボタンも一緒に押した。一三ミリと、七・七ミリがダダダダ……、バリバリ……何とも言えない衝撃を与える。(カモメ)もうボタンは押しっぱなしだった。敵機は左急旋回を行ないました。梶並伍長も追いかける。ボタンは押したままだったのです。曳光弾は確かに当たっているのに、なかなか反応がなかった。(ウツボ)何百発撃ったであろうか、急に敵機は、まっ赤な火を噴き、大爆発を起こした。梶並伍長は危うく、その中に突っ込み、共倒れするところだったが、右上昇旋回で避けた。(カモメ)上昇しながら、梶並伍長は海面を眺めた。ところどころ、油が流れ、ゆらゆらと炎が見られた。これが、梶並伍長の初めての撃墜だったのです。
2018.01.19
(ウツボ)当日、午前四時ごろ、敵飛行場攻撃のため、進攻作戦第一次攻撃隊が、午前四時半ごろ、第二次攻撃隊が、離陸して出発して行った。(カモメ)梶並伍長ら飛行第六八戦隊(海岸側の飛行場)の残留組は、飛行第七八戦隊(山側の飛行場)と協力して、上空警戒に当たりました。(ウツボ)上空警戒は、飛行第六八戦隊八機、飛行第七八戦隊八機の合計一六機の<川崎・三式戦「飛燕」液冷単座戦闘機>が参加するが、各四機ずつ、交代で行う(カモメ)特に、進攻作戦の攻撃隊が、帰着の際の上空援護が重要任務でした。攻撃隊が帰還して着陸の時、追尾してきた敵機の攻撃を防ぎ、撃退するためだったのですね。(ウツボ)そうだね。第一回目の警戒編隊と交替した第二回目の警戒編隊四機は、第一小隊第一分隊・井上中尉機を編隊長に、僚機・藤本軍曹、第二分隊長・松井曹長、僚機・梶並伍長だった。(カモメ)警戒時間は二時間で、高度四〇〇〇メートル。ウェワク山脈と海の上を旋回しながら、警戒任務を続けたのです。目を皿のようにして。(ウツボ)午前八時四十分を過ぎた頃飛行場から、かすかに白煙が上がった。敵機の来襲を告げる合図だった。警戒編隊は、全機飛行場上空に引き返した。無線機が駄目なので、このようにして知らせていた。(カモメ)離陸前に、分隊長・松井曹長は、初出撃の梶並伍長に次のように、言っていました。(ウツボ)「多数の敵機の場合、どんなことがあっても弾は撃つな。そして絶対に私から離れるな。必ずお前を引っ張って守ってやる」(カモメ)「敵に弾を撃つことを、あせれば、初めての者は、他の敵機に後方からやられる。だから、必ず私から離れるな。しかし、私がやられた時は、他の編隊に加われ。絶対に単機はいかん」(ウツボ)「それから、少数機の場合は、何とかして、お前にも戦闘機乗りとして、早く撃墜の味を味わわせてやりたい。だからいつもの密集隊形でついて来い」(カモメ)「そして、私が敵機にくっついたら、離れず一緒に敵機を追うのだ。時機を見て、私は上に機をはずすから、お前は、すぐ入れ替わって、その敵機を追いかけろ、そして落とせ。もし失敗したら破門だ。あとは、私が守ってやる」。(ウツボ)この松井曹長の言葉を、敵機との遭遇を前にして、梶並伍長は思い出した。(カモメ)いよいよ敵機が来たのだ。松井曹長がニコッと笑って、右手を上げ、握りこぶしを振って、梶並伍長に頑張れと、励ましてくれました。梶並伍長も右手を上げて答えました。(ウツボ)編隊長・井上中尉は、山の上空を高度四〇〇〇メートル、速度三六〇キロで緩やかな旋回を続けている。太陽は水平線を高く離れ、南方特有の熱い光線を投げかけていた。(カモメ)突然、松井曹長が急激なバンクを繰り返し、梶並伍長に敵機来襲を告げると同時に、急速にスピードを増して、井上編隊に近づき、射撃をもって敵機来襲を伝えたのです。(ウツボ)まだ敵機の位置が確認できない梶並伍長は、完全にあがってしまっていた。「落ち着いて、落ち着いて」と自分に言い聞かした。(カモメ)梶並伍長は、松井曹長機を見つめました。すると、ポツン、ポツンと、豆粒のようなものを、その前方に発見しました。これが敵として、梶並伍長が見つけた最初だったのですね。(ウツボ)そうだね。井上編隊は右に迂回しつつ高度五〇〇〇メートルに上昇した。敵機はまだ気づいていない。だんだん近づき、だいぶはっきりと機影を認める位置まで来た。(カモメ)敵機との高度差は一五〇〇メートル。空には雲ひとつないので、奇襲攻撃は不可能だろう。いよいよ敵機をはっきり認めるところまで来たのです。(ウツボ)敵機は、<カーチスP-40「ウォーフォーク」単座戦闘機>四機だ。梶並伍長の初の空中戦は、四対四の互角戦闘だ。(カモメ)梶並伍長は、<カーチスP-40「ウォーフォーク」単座戦闘機>と分かり、「よし、こいつなら」と、若干自信が湧いてきました。(ウツボ)ちなみに、<カーチスP-40「ウォーフォーク」単座戦闘機>は、最大速度五六五キロ、航続距離一七四〇キロ、実用上昇限度一〇二七〇メートル、武装一二・七ミリ機関銃×六、二二五キロ爆弾×1。(カモメ)これに対し、<川崎・三式戦「飛燕」液冷単座戦闘機>(一型甲)は、最大速度五九〇キロ、航続距離一一〇〇キロ、実用上昇限度一一六〇〇メートル、武装一二・七ミリ機関砲×2、七・七ミリ機関銃×2、二五〇キロ爆弾×2。(ウツボ)敵機は、単縦陣に近い隊形で、基地上空に近づいてきた。井上編隊は、敵機編隊のほとんど後上方に位置した。(カモメ)いよいよ攻撃だ。梶並伍長の身体は、なんともいえぬ興奮でびっしょり汗ばんできました。手足も硬くなっている。敵機はまだ落下タンクを投下していない。気がついていないのだ。(ウツボ)他に敵機がいないのを確認して、いよいよ攻撃開始だ。井上中尉が左にねじこみ、梶並伍長らもそれに続いて斜め後上方攻撃をかけようとした。
2018.01.12
(ウツボ)次に後続の敵機四機が突っ込んできた。吉良曹長は、今度は、思い切って垂直降下で、一気に一〇〇〇メートル下まで突っ込んだ。敵機を振り離すのだ。エンジンは非常回転の三〇〇〇回転を超していた。(カモメ)浅い角度で引き起こし、敵機はいかにと、後上方を見ると、いくぶん距離は離れているが、まだ四機が追って来ていました。(ウツボ)海面は目の前に広がっている。「よし、どうせやられるなら、思いっきり、暴れてやれ!」と、吉良曹長はクソ度胸を決めた。吉良曹長は、思いっきり引っ張り、左上昇旋回を打って、軽く敵を振り切ったと、思ったら、駆潜艇の方に機首を向けていた。(カモメ)駆潜艇から撃ち上げてくる高角砲に、吉良曹長は、ともすれば、くじけようとする闘志を支えられ、一撃、二撃と、敵の攻撃を回避したのですね。(ウツボ)そうだね。そのうちに、敵四機は、上空へ高度をとりつつ上昇して行った。友軍の救援を警戒する行動だ。他の敵二機も攻撃を断念して離れて行った。(カモメ)「よし、今だ!」と、吉良曹長は元気が出てきて、残る敵二機を下へ引っ張り込んで、そのまま旋回戦闘に入りました。低空での<ロッキードP38「ライトニング」双胴双発単座戦闘機>とのまわり込み戦では自信があったのです。(ウツボ)四回くらい回ったと思われる頃、遂に敵機の後尾機が照準眼鏡に入った。この敵機に一連射を浴びせると、手ごたえがあった。(カモメ)敵機は一瞬、ガタガタと機体を震わすと、ストンと落ちた。まるで、糸の切れた奴凧みたいに、フラフラと、我が駆潜艇の前方海面に逆立ちして沈んで行ったのです。(ウツボ)他の敵機一機は、海面スレスレで、黒い煙を噴きながら、北部レイテの方へ遁走して行った。(カモメ)吉良曹長は、船団上空で、翼を振りつつ上昇、索敵しましたが、視界に敵影を認めず、セブの零戦の到着とともに、吉良曹長は基地に帰投しました。すでに中川編隊は着陸していました。(ウツボ)その日、船団は無事オルモックへ入泊、翌二日には揚陸を終わり、マニラに帰った。(カモメ)帰投後、吉良曹長は、飛行第二〇〇戦隊長・高橋武中佐(陸士三八期・操縦二八期・少佐・飛行第二四戦隊長・中佐・明野教導飛行師団・飛行第二〇〇戦隊長・ルソンで戦死)から呼ばれました。(ウツボ)行ってみると、第四航空軍司令官・富永恭次(とみなが・きょうじ)中将(長崎・陸士二五・陸大三五・ソ連駐在・歩兵大佐・参謀本部作戦課長・関東軍第二課長・近衛歩兵第二連隊長・少将・参謀本部第四部長・参謀本部第一部長・公主領陸軍戦車学校長・陸軍省人事局長・中将・陸軍次官・第四航空軍司令官・予備役・第一三九師団長)が来ていた。(カモメ)また、今日の戦闘を見ていた船団司令官からも、謝電が来ていたのですね。(ウツボ)そうだね。富永中将は、その場で、すらすらと「赫々たる武勲を賞し、特に准尉に進級せしむ」と書いて、即日吉良曹長を准尉に進級させた。また、清酒「白菊」を一本、吉良曹長に贈った。【梶並進(かじなみ・すすむ)軍曹・24機】(カモメ)大正十二年十月十七日生まれ。岡山県出身。梶並は旧姓で、現在の姓名は、小山進。(ウツボ)昭和十五年(十七歳)四月東京陸軍航空学校第三中隊へ第五期生として入校。昭和十六年(十八歳)四月少年飛行兵第一〇期生として熊谷陸軍飛行学校入校。(カモメ)昭和十七年(十九歳)十二月一日熊谷陸軍飛行学校卒業。操縦徽章を胸にして飛行第二四六戦隊(兵庫県加古川市)配属。装備機は<中島「九七式戦」低翼単葉戦闘機>。明野陸軍飛行学校で<川崎・三式戦「飛燕」液冷単座戦闘機>の訓練を受ける。(ウツボ)昭和十八年(二十歳)九月二十五日、梶並進伍長は、ニューギニア島北岸のウェワク基地の飛行第六八戦隊配属。装備機は<川崎・三式戦「飛燕」液冷単座戦闘機>。(カモメ)昭和十九年(二十一歳)二月、ニューギニアを離れ、三月教育第三〇飛行隊配属。五月第二錬成飛行隊配属(助教)。終戦を迎える。(ウツボ)戦後、昭和二十九年(三十一歳)から、瀬戸内航空パイロット。昭和四十年(四十二歳)から、民間航空教官として勤務。(カモメ)昭和十八年九月二十五日、梶並進伍長は、ニューギニア島北岸のウェワク基地の飛行第六八戦隊に着任しました。戦隊の装備機は<川崎・三式戦「飛燕」液冷単座戦闘機>。(ウツボ)当時の戦隊長は、木村清少佐(陸士四三・陸軍航空審査部・ニューギニアで戦死・中佐・撃墜数26機)だった。(カモメ)「あゝ飛燕戦闘隊」(小山進・光人社)によると、着任から、四、五日後、梶並進伍長は、飛行場上空及び周辺の警戒飛行に出動しました。生れてはじめての空戦への参加だったのです。
2018.01.05
(カモメ)ひねった瞬間、敵機が黒煙を吐き、すうっと、高度が下がったのです。列機の<ロッキードP38「ライトニング」双胴双発単座戦闘機>四機が、その下がっていく敵機を見守るようについて行きました。(ウツボ)だが、吉良曹長の機も黒煙を吐いていた。何とか消し止めようと操作しながら、ふと、墜ちていく敵機の方を見ると、それを守るようについて行った、敵四機も、友軍機に包囲され、追いつめられていた。(カモメ)それ以上見ている余裕はないので、吉良曹長は、ラエ飛行場に機首を向けました。ラエ飛行場に到着したのですが、脚が出ないのです。何とかしようと操作したが、駄目でした。(ウツボ)思い切って吉良曹長は胴体着陸を行なった。胴体着陸は成功した。吉良曹長の機体は、エンジンだけでも敵二〇ミリ砲が三発被弾していたが、運が良かった。(カモメ)後で吉良曹長は知ったのですが、先ほどの、追いつめられた敵四機も、友軍機が全機撃墜したのです。確認したことは、「うまくやると、<ロッキードP38「ライトニング」双胴双発単座戦闘機>は、墜とせる」ということですね。(ウツボ)そうだね。地上指揮所から、双眼鏡で見ていたのだろう。戦闘講評の時、「吉良のように」と、例に引き出されて、吉良曹長は褒められた。(カモメ)昭和十九年十一月一日、マニラから玉兵団を輸送して、レイテ増援が行われました。輸送船四隻と駆潜艇三隻からなる輸送船団でした。(ウツボ)「決戦戦闘機・疾風」(「丸」編集部編・潮書房光人社)所収「飛行二〇〇戦隊レイテ上空の苦闘」(吉良勝秋)によると、吉良勝秋曹長の所属する飛行第二〇〇戦隊は、この輸送船団の護衛を命じられた。(カモメ)すでにセブ島の海軍の零戦八機が船団の上空三〇〇〇メートルで直援していました。中川大尉を指揮官とする吉良曹長ら飛行第二〇〇〇戦隊の<中島・四式戦「疾風」単座戦闘機>八機は、上空七〇〇〇メートルでセブ島北端から船団の上空の制空任務に入ったのですね。(ウツボ)そうだね。だが、四十分後、吉良曹長機の酸素発生機が故障した。酸素なしでは七〇〇〇メートルの在空は二十分も無理なのだね。(カモメ)そこで、吉良曹長は中川大尉に報告し、単機四五〇〇メートルに高度を下げ、下方の零戦の後上方についたのです。間もなく、下方の零戦隊はセブ島へ引き上げて、吉良曹長機一機だけになってしまったのです。(ウツボ)上空は六〇〇〇メートル付近に高層雲が広がって、中川編隊との目視連絡ができない。仕方なく吉良曹長は単機で船団上空を飛んでいた。(カモメ)オルモック上空に来た時、下の駆潜艇からさかんに高角砲を射ち上げて来ました。変だなと思って、吉良曹長は、砲弾の炸裂するところを目で追ったのです。(ウツボ)すると、吉良曹長の下方五〇〇メートルのところを、<ロッキードP38「ライトニング」双胴双発単座戦闘機>が一機、後ろへ回り込みながら上昇していた。二〇〇メートル遅れてもう一機。(カモメ)見ない振りをして、吉良曹長は充分に速度をとりながらも、敵機を引きつけ、ころを見てグゥーンと宙返りを打ち、前の敵機の真上に占位したのです。(ウツボ)間髪を入れず、吉良曹長は後上方から突っ込んだ。理想的な攻撃だった。敵機は左にひねり始めたが、吉良曹長の近迫力の前には動作も鈍く、やがて吉良曹長の照準眼鏡からはみ出した。(カモメ)一〇〇メートル位から吉良曹長は四門の機関砲を浴びせました。二〇ミリ弾が敵機の翼の付根に当たっているのが手に取るように見えました。(ウツボ)やがて、敵機は白くガソリンの尾を曳き、グラッと一揺れすると、錐揉みに入り落ちて行った。(カモメ)「もう一機だ」と、吉良曹長は振り返って上空を見て驚きました。いつの間にか、<ロッキードP38「ライトニング」双胴双発単座戦闘機>八機が、吉良曹長を狙って、大きく円を描いていたのですね。(ウツボ)そうだね。高度は四〇〇〇メートルだった。<中島・一式戦「隼」軽単座戦闘機>ならともかく、この<中島・四式戦「疾風」単座戦闘機>で<ロッキードP38「ライトニング」双胴双発単座戦闘機>八機と交戦するには、少なくとも八〇〇〇メートル位の垂直上の自由な高度が必要だった。(カモメ)四〇〇〇メートル位では、すぐ低空に追いつめられ、動きがとれずに墜とされるのです。だが、吉良曹長は単機で自由でした。(ウツボ)敵は、四機、四機の連鎖機動で、いくぶん動作が鈍い。その敵の弱点をついて、敏速な意表外の機動のほか、自分を救う道はないと、吉良曹長は判断した。(カモメ)吉良曹長は、上空の中川大尉機に「敵機と交戦中、救援頼む」としきりにどなったのです。(ウツボ)まず、敵が第一撃をかけてきた。吉良曹長は急降下に移った。敵機はグングン突っ込んできた。相当の加速になって、グッと機首を水平にして垂直旋回を行う。(カモメ)吉良曹長は、両手でグッと操縦桿を引きました。頭がクラクラする。敵機の撃ちだした弾は、はるか外側にはずれ、敵機は高速のため、機首が上がらず、深い角度のまま、つんのめって、左後方へ四機とも突っ込んで行ったのです。
2017.12.29
(カモメ)五月二十三日、飛行第二四戦隊は、この敵地上部隊攻撃に出発し、銃撃を行ないました。空には敵機の姿はなかった。(ウツボ)敵地上部隊だけを相手に、しかもジャングルに慌ててかくれる敵兵では、手応えがなく、喰い足りなかった。戦闘機隊員は、敵戦闘機との格闘戦が一番やり甲斐があった。次は、敵爆撃機攻撃だった。(カモメ)当日は、大した手応えのないまま引き上げることになりました。帰途、吉良曹長の列機の若い搭乗員がマダンに不時着したのですね。(ウツボ)そうだね。そこは友軍の前線飛行場だった。無事に不時着したのを見届けて、ウェワクに帰ると、横山戦隊長が「せめて部品だけでも回収したい」という。(カモメ)<中島・一式戦「隼」軽単座戦闘機>は、できてからまだ二年経たない頃で、前線では貴重品扱いだったのです。それに不時着したのは新品機でした。(ウツボ)吉良曹長は、命令を受け、整備員を同乗し、一機でマダンに引き返すことになった。同乗といっても、楽々と乗っているわけではなく、単座戦闘機なので、同乗者は、胴体の中にしゃがみこみ、かなり窮屈な思いをしなければならなかった。(カモメ)マダン上空に到達した吉良曹長は、着陸姿勢をとり、滑走路に近づくと、赤い布板が拡げてあったのです。「敵機来襲」の信号でした。(ウツボ)同乗の整備員を降ろす暇はなく、吉良曹長は、そのまま脚を引き込み上昇に移った。十一時頃だった、太陽が高くまぶしかった。(カモメ)敵機を探すと、沖合の島の方向に、<コンソリデーテッドB24「リベレーター」四発大型爆撃機(米国製)>の三機編隊が突っ込んできていました。高度二〇〇〇メートルでした。(ウツボ)敵編隊の前方を制圧しながら、吉良曹長は更に上昇した。それから、三番機の直前方から突っ込んで、第一撃をかけた。だが、うまくいかなかった。(カモメ)さっと、反転離脱した吉良曹長は、再び三番機に突っ込みました。敵の三番機は、左内側エンジンからガソリンを白く吐くと、たちまち赤い炎となって、燃えだしたのです。海岸線の真上でした。(ウツボ)次に、敵の編隊長機を一撃し、続いて二番機を側方から胴体目がけて攻撃した。敵編隊は乱れた。三番機は火を吐きながら、遅れていた。(カモメ)吉良曹長は、くるりくるりと回りながら、敵編隊を六回攻撃しました。積乱雲があり、敵編隊は、それを抜けて逃れようとしていました。(ウツボ)今度は下から迫った吉良曹長だが、整備員を同乗させているので思うように速力が出なかった。それでも、一番機を側方から攻撃し、二番機を真正面から射撃して反転した。(カモメ)反転する吉良曹長の目に、燃えながら海に落ちていく、三番機が映りました。さらに、吉良曹長は二番機に前方攻撃をかけました。二番機の右側発動機が火をふきました。(ウツボ)編隊長機の姿はなかった。雲間に逃げ去ったのだろう。十回目の攻撃で、吉良曹長機の弾丸が無くなった。約一時間余りの攻撃だった。(カモメ)六月下旬、飛行第二四戦隊は、<中島・一式戦「隼」軽単座戦闘機>を三六機揃えて、ウェワクから、マダンの先のラエ飛行場に前進しました。敵との距離を詰め、制空時間を長くするためだったのですね。(ウツボ)そうだね。早速、戦場上空の制空を開始した。高度四〇〇〇メートルで哨戒していると、<ロッキードP38「ライトニング」双胴双発単座戦闘機>が二〇機、高度六〇〇〇メートルから突っ込んできた。(カモメ)旋回性は<中島・一式戦「隼」軽単座戦闘機>の方が優秀なので、軽く回避して、逆に追尾しようとしましたが、速度が違うので近寄れなかったのです。(ウツボ)飛行第二四戦隊の三六機は大きく旋回しながら、<ロッキードP38「ライトニング」双胴双発単座戦闘機>の攻撃を避け、この敵を何とか撃墜しようと、逐次高度を上げた。(カモメ)待ち構えていたら、下から敵編隊が上がってきた。吉良曹長は、「小癪な!」とばかり突っ込んで行きました。上から突っ込まれると、大抵の敵は、反転して逃げるのだが、その敵は違ったのです。(ウツボ)<ロッキードP38「ライトニング」双胴双発単座戦闘機>の敵編隊は、逃げずに、機首をこちらに向けたまま、上がってきた。(カモメ)敵味方、双方、撃ち合いになりました。正面攻撃でした。正面攻撃は、ひるんだ方が負けです。避けたり、反転したりすると、敵の照準器に機体を大きく暴露するので、必ずと言っていい位撃墜されるのです。(ウツボ)敵機の二〇ミリ砲四門から撃ち出す閃光が、激しく電光のようにきらめいた。吉良曹長は、エンジンを遮蔽物にして、撃ちに撃ちまくった。(カモメ)敵弾がエンジンに当たり、座席にも当たり、翼にも当たったのです。それが、ピリッ、ピリッと、伝わってきました。相打ちだ!…だが、それを避ければ、こちらが墜とされる。(ウツボ)時間にして、二秒か三秒の間だった。衝突寸前! ぐわっ、と音をたてて、両方とも機をひねった。翼が触れ合うほどだった。
2017.12.22
(カモメ)日本側は、爆撃の阻止に失敗、斉藤曹長も一機の<ツポレフSB双発軽爆撃機>を撃墜しましたが、敵戦闘機の群れに攻撃され、被弾、左足を負傷しました。斎藤曹長は離脱し、帰還して手当を受けました。(ウツボ)この日のソ連側記録は、撃墜八機、損害二機。日本側記録は、撃墜四四機、損害四機。また、七月二十四日のソ連側記録は、撃墜二八機、損害は戦闘機七機、<ツポレフSB双発軽爆撃機>五機。日本側記録は、撃墜四一機、損害三機。(カモメ)ノモンハン事件での斉藤曹長の撃墜記録は二五機で、トップエースとなったのですね。(ウツボ)そうだね。太平洋戦争が開戦すると、斉藤曹長は陸軍航空士官学校を卒業し、少尉に任官、飛行第七八戦隊に配属、ニューギニア戦線に投入された。(カモメ)ニューギニア航空戦で、斎藤正午少尉は、二〇ミリマウザー砲を搭載した<川崎・三式戦「飛燕」液冷単座戦闘機>で、<コンソリデーテッドB24「リベレーター」四発大型爆撃機(米国製)>一機を撃墜しました。そのほかにも、数機の戦果を上げていますが詳細は不明となっています。(ウツボ)ニューギニアは、日本軍の防衛戦略から外され、ニューギニアは孤立し、見捨てられた。飛行第七八戦隊も、戦力となる戦闘機の可動機は一機もなくなり、搭乗員を含む隊員全員が歩兵部隊にされ、地上戦に回された。(カモメ)飛行第七八戦隊の戦隊長以下将校は、ニューギニア島北岸のウェワクでの戦闘で全員戦死しました。将校以外の戦隊員も九十二パーセントが戦死したのですね。(ウツボ)そうだね。斉藤少尉も、昭和十九年七月二日、ニューギニア島北岸のホランジアで、米軍に対する地上戦で戦死した。【吉良勝秋(きら・かつあき)准尉・25機】(カモメ)吉良勝秋は、大正八年生まれ。熊本県出身。昭和十三年(十九歳)七月所沢陸軍飛行学校卒業。明野陸軍飛行学校(戦技教育)卒業、飛行第二四戦隊(満州・ハイラル)配属。(ウツボ)昭和十四年(二十歳)五月ノモンハン事件勃発。以後、九月十五日の停戦までに、吉良勝秋伍長は撃墜数九機を記録した。(カモメ)昭和十六年(二十二歳)十二月太平洋戦争開戦後、吉良勝昭曹長は、フィリピン攻略戦に参加後、再び満州のハイラル基地に戻った。その後、蘭印(オランダ領インドシナ)のパレンバン油田防空戦に参加。(ウツボ)昭和十七年(二十三歳)七月飛行第二四戦隊は、広東に進出。昭和十八年五月飛行第二四戦隊はニューギニアのウェワクに進出。装備機は<中島・一式戦「隼」軽単座戦闘機>。(カモメ)昭和十八年(二十四歳)十月飛行第二四戦隊はフィリピンのマニラに移動。(ウツボ)昭和十九年(二十五歳)十月吉良勝秋曹長は、内地の明野で編成中の飛行第二〇〇戦隊に転属。飛行第二〇〇戦隊はフィリピンのポーラッグ飛行場に進出した。装備機は<中島・四式戦「疾風」単座戦闘機(大東亜決戦機)>。(カモメ)<中島・四式戦「疾風」単座戦闘機(大東亜決戦機)>(一型甲・量産型)は、全長九・九二メートル、全幅一一・二四メートル、乗員一名、最高速度六五五キロ、航続距離一四〇〇キロ、武装二〇ミリ機関砲(翼内)×二門、一二・七ミリ機関砲(胴体)×二門、爆弾三〇~二五〇キロまたはタ弾×二、生産機数三五〇〇機。(ウツボ)十一月一日、船団護衛中の吉良曹長は<ロッキードP38「ライトニング」双胴双発単座戦闘機>一〇機と交戦、二機を撃墜し、船団護衛を果たし、第四航空軍司令官から賞詞を受けた。同時に准尉に特別進級した。(カモメ)昭和二十年(二十六歳)一月吉良准尉は飛行第二〇〇戦隊の生き残りとともに台湾に後退。(ウツボ)吉良准尉の最後の戦闘は、飛行第一〇三戦隊(知覧基地)の一員として<中島・四式戦「疾風」単座戦闘機>に乗り、沖縄戦を戦った。(カモメ)戦後、吉良勝明秋は、航空自衛隊に入隊、三等空佐で退官。(ウツボ)昭和十八年五月吉良勝秋曹長が所属する第九飛行団隷下の飛行第二四戦隊は、ニューギニアのウェワクに進出した。装備機は<中島・一式戦「隼」軽単座戦闘機>。(カモメ)当時の飛行第二四戦隊長は横山八男(よこやま・はちお)中佐(新潟・陸士三六・少佐・飛行第六四戦隊長・ノモンハン事件参戦・航空兵中佐・第二四戦隊長・ニューギニアで戦死・大佐・勲三等・功三級)でした。(ウツボ)「今日の話題・第二十五集~隼四式戦記」(吉良勝秋・土曜通信社・昭和三十年)によると、昭和十八年五月頃、敵の地上部隊は、モレスビーからワウ飛行場に向かって、ジャングルの中を大きな道路を作りながら、北上していた。
2017.12.15
【斎藤正午(さいとう・まさおき)中尉・戦死・26機】(カモメ)斎藤正午は、大正七年生まれ。青森県弘前市出身。朝陽小学校卒業後、昭和十年(十七歳)所沢陸軍飛行学校(少年飛行兵二期)入校。昭和十一年(十八歳)十一月明野陸軍飛行学校(戦闘機操縦教育)入校。(ウツボ)昭和十四年(二十一歳)五月十一日ノモンハン事件が勃発した時、斎藤正午曹長は、戦闘機搭乗員として飛行第二四戦隊(満州・ハイラル)に所属。(カモメ)ノモンハン事件では、斉藤曹長は、九月十五日の停戦まで、出動を続け、空戦で二五機を撃墜、トップエースになりました。(ウツボ)昭和十六年(二十三歳)十二月太平洋戦争開戦とともに、飛行第二四戦隊はフィリピンに移転。斎藤正午曹長は陸軍航空士官学校に入校。(カモメ)陸軍航空士官学校卒業後、斉藤少尉は、飛行第七八戦隊に配属され、ニューギニア戦線に投入されました。(ウツボ)昭和十九年七月二日、ニューギニア島北岸のホランジアで、斎藤正午少尉は、米軍に対する地上戦で戦死。中尉進級。享年二十六歳。(カモメ)昭和十四年、ノモンハン事件当時、斎藤正午曹長は飛行第二四戦隊の戦闘機搭乗員として<中島「九七式戦」低翼単葉戦闘機>を操縦して空戦に明け暮れました。(ウツボ)当時、飛行第二四戦隊の初代戦隊長は、松村黄次郎(まつむら・こうじろう)中佐(陸士三二)。松村中佐は、昭和十四年八月四日に撃墜されて負傷、後送された。(カモメ)松村中佐は、昭和十七年に「撃墜・ノモンハン空中実戦記」(397頁)という本を教学社から出版していますね。(ウツボ)そうだね。この本は、松村中佐の指揮する飛行第二四戦隊が、ノモンハン事件に参戦してから、松村中佐が負傷するまでが記されている。(カモメ)昭和十四年五月二十六日、斎藤正午曹長は、ボイル湖(現在のモンゴルと中国の国境にある淡水湖)の上空で、ソ連の<ポリカルポフ「I-15」複葉戦闘機>の編隊を発見しました。(ウツボ)斉藤曹長は、すかさず、この敵機の編隊に突入していき、二機を撃墜、初戦果を上げた。(カモメ)ノモンハン事件で最初の大規模の空戦は、六月二十二日に行われた。ソ連の戦闘機、<ポリカルポフ「I-16」単葉戦闘機>が五六機、<ポリカルポフ「I-15」複葉戦闘機>が四九機の合計一〇五機が二回にわたって、ハルハ河を越え満州領地に侵入したのです。(ウツボ)これに対する日本側の戦力は、飛行第二四戦隊の、<中島「九七式戦」低翼単葉戦闘機>一八機のみだった。(カモメ)この大空戦で、斉藤曹長は、三機を撃墜、一機を追い詰め、搭乗員を落下傘降下させたのです。さらに不時着したソ連戦闘機三機を機銃掃射で炎上させました。(ウツボ)やがて、戦いは混戦となり、多数の敵機の中、斉藤曹長は不利な状況に陥った。また、弾薬を撃ち尽くしてしまった。(カモメ)斉藤曹長は基地に帰還することにしましたが、八機の<ポリカルポフ「I-16」単葉戦闘機>に包囲されてしまったのです。(ウツボ)もはや逃れる術はないと悟った斉藤曹長は、敵機に体当たりすることを決断、敵機の一機に向かった。体当たりすると、斉藤曹長機の右翼が敵機の垂直尾翼の上部を切断した。(カモメ)これにより、敵機の搭乗員は乗機をコントロールすることができなくなり、墜ちて行きました。これが、四機目の撃墜記録となりました。この混乱に乗じて、斉藤曹長は窮地を脱出し、帰還できたのです。(ウツボ)七月二十一日、斉藤曹長は四機を撃墜、一機を不確実撃墜した。その後、斉藤曹長は、敵機に攻撃され窮地に陥っていた中隊長を認めた。(カモメ)弾丸を撃ち尽くしていた斉藤曹長は、中隊長を救うため、その敵機に体当たりしようと、突進した。これを見たその敵機は、斉藤曹長のその思いがけない突進に、驚き、逃走してしまったのです。(ウツボ)このことにより、斉藤曹長は「体当たり撃墜王」の異名でも呼ばれた。(カモメ)七月二十三日、ソ連空軍の、<ツポレフSB双発軽爆撃機(ソ連)>二三機と護衛戦闘機一二〇機以上がハルハ河を越えて、侵入、爆撃作戦を行いました。(ウツボ)<ツポレフSB双発軽爆撃機(ソ連)>は、全長一二・五七メートル、全幅二〇・三三メートル、乗員三名、最大速度四五〇キロ、航続距離二三〇〇キロ、実用上昇限度九三〇〇メートル、武装七・六二機関銃×四門(機首二・後部一・下部一)、爆弾一〇〇キロ×六または五〇キロ×六、翼下二五〇キロ×二、生産機数六九四五機。
2017.12.08
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