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(ウツボ)「陸奥爆沈」(新潮社)の著者吉村昭氏は、Q二等兵曹の嫌疑について述べている。(カモメ)前にも述べましたが、査問委員会の調べで、陸奥爆沈は人間の行為によるものだという疑いを深め、調査に入りました。(ウツボ)このQ二等兵曹についても、実は「戦艦陸奥」(サンケイ新聞社)のK二等兵曹、「海市のかなた」(中央公論新社)で述べられているF二等兵曹と同様の推論になっているんだね。(カモメ)だが、注目すべきは、著者の吉村昭氏は取材の最後に、このQ二等兵曹の実家を訪ねていることですね。(ウツボ)そうなんだ。Q二等兵曹の死体が発見されていないので、生存して戦後生き延びているのでは、という万が一のはかない期待があったようだが、現実的にはありえない話とは思うのだが。(カモメ)でも、吉村氏は自分を納得させるために、そうしたのでしょうね。Q二等兵曹は陸奥の火薬庫に発火させ、すぐにそこを飛び出し、海に飛び込み、泳いで逃げた事も可能性としてはあると、吉村氏は推理しています。(ウツボ)う~ん、そこのところを吉村昭氏は次のように記しているよね。「私は陸奥爆沈事件の調査のしめくくりとして、Q二等兵曹の故郷を訪ねてみようと思うようになった」(カモメ)続いて読んでみます。「もしもQ二等兵曹が生きているとしたら、年齢もすでに五十歳を越えている。故郷に帰っているとしたら、ひっそりと畑仕事でもしているかも知れない」と。(ウツボ)吉村氏が故郷を訪ねてみると、Qという人の白木の箱は昭和19年春に生家に戻っていた。現在は両親も死亡、肉親の一人が村にとどまっているだけだったというんだね。(カモメ)吉村氏は帰り際に、Q二等兵曹の故郷に何時までも佇んでいたそうですね。(ウツボ)これで陸奥爆沈の原因の推理は終わる訳ですが、以上のように陸奥爆沈の原因は、あらゆる面で推定のままで、確定はされていない。(カモメ)それが当時は戦時中であり、海軍の秘密主義と関係しており、また爆沈で全てが海の藻屑となり証拠が確定できないと言う事もあったのですね。だから、いまだに陸奥爆沈は永遠のミステリーとなっているんですね。(ウツボ)うん、だがね、永遠のミステリーと言ってしまえば、架空の話のように聞こえる。俺は自分なりの結論を出したいと思う。(カモメ)俺は一番気になるのが、人為説の二番目である辻野氏の温度計の接点を上げたことだと思いますね。(ウツボ)そうですか。俺は人為説の三番目の犯人説だね。M委員会の出した結論は、過去の多数の戦艦爆沈の解明されている原因が人為的なものだという事実を考慮しているんだよ。可能性が一番高い。(カモメ)でも、はっきりとは分からないですね。(ウツボ)いや、はっきりしているんだ。三番目の説が正しいかどうかは、確かに分からないが、戦艦陸奥は、爆沈したということは事実ですよね。原因がないのに爆沈はしない訳ですね。爆沈が事実なら、原因の存在も間違いなく事実ですよ。必ず原因はある。今まで列挙した原因の中のどれかであることは間違いない。これははっきりしている。(カモメ)そうですね。(ウツボ)とにかく陸奥は沈んだ。陸奥爆沈の影響は大きいのですね。陸奥がいなくなって、長門以下の第二戦隊の戦闘力を半減させ、戦艦そのものの使い方が作戦面で混乱を招くようになった訳だ。(カモメ)陸奥があれば戦艦群の組織的な使い方ができたのですね。太平洋戦争では当初日本の戦艦は12隻いた。陸奥爆沈の前の昭和17年11月13日、比叡が、15日、霧島が第三次ソロモン海戦で沈没しています。(ウツボ)そうだね。陸奥爆沈の翌年の昭和19年10月24日、大和の姉妹艦、武蔵がフィリピンのシブヤン海で壮烈な最期を遂げた。(カモメ)そして、10月25日、スリガオ海峡に突入した山城、扶桑は敵艦隊の集中砲火を浴び沈没した。11月21日、台湾沖を航行中の金剛が敵潜水艦の攻撃を受け沈没しました。(ウツボ)陸奥が爆沈してから1年半までにのうちに日本海軍の戦艦は6隻を失い残りの戦艦は4隻になっている。(カモメ)あとは昭和20年4月7日、沖縄特攻菊水作戦で大和が沈没。7月24日に日向が、28日に伊勢が呉港大空襲で沈没しました。(ウツボ)そして終戦の時、残っていたのは陸奥の姉妹艦、長門だけだった。その長門も昭和21年7月30日、ビキニ環礁で行われた原爆実験で標的にされた。(カモメ)そうですね。当時、同じく標的艦にされた米海軍の戦艦ネバダは原爆が爆発すると瞬時に沈んだが、長門は沈まなかったのですね。長門は実験から4日後にその姿を海中に消したということです。(ウツボ)陸奥は爆沈、長門は原爆の標的艦として沈没、日本帝国海軍において輝かしい栄光の歴史をもった、長門、陸奥の姉妹艦は、その最後はともに哀れだった。(カモメ)周防大島町では毎年6月8日に陸奥の慰霊祭を実施していますね。(ウツボ)「海市のかなた」(中央公論新社)によると、三好艦長の奥さん三好近江さんが中心となって組織した陸奥会は「軍艦陸奥五十年祭」のあった平成4年6月に解散した。(カモメ)ですが、三好近江さんと副艦長の奥さん大野靖子さんの遺族の家族を中心に多くの家族が伊保田の慰霊祭には参加していましたね。(ウツボ)そうですね。ところで、平成11年7月29日、テレビ東京の人気番組「開運!何でも鑑定団」に陸奥の舷窓が登場した。(カモメ)それはですね、「家人が昔、引き揚げ作業に携わっていた知人から譲り受けたものだ」と入手のいきさつを依頼人の女性が話していましたね。(ウツボ)うん。彼女の評価額は10万円だった。ところが鑑定団のつけた値段はその10倍の100万円だった。予想外の鑑定結果は舷窓の記念碑的な価値を評価したらしかった。(カモメ)昭和35年、新東宝で「謎の戦艦陸奥」という映画が制作されました。試写会に招かれた遺族は話の内容に唖然としたそうです。(ウツボ)それは、副長が将校倶楽部で知り合ったスパイのマダムと恋に落ち、スパイ一味の手によって陸奥に時限爆弾が仕掛けられるというストーリーであったからだね。(カモメ)ええ。遺族はとても承服できるものではなかった訳で、とりわけ戦艦陸奥の元副長夫人の大野靖子にしてみれば陸奥に名をかりた、とんでもない贋作だった。(ウツボ)出来すぎた軽いストーリーだったんだね。遺族は何度となく抗議し、全てフィクションであるという字幕を映画会社が入れることで決着した。だが大野靖子にしてみれば生涯許す事のできないものだった。(カモメ)「陸奥爆沈」(新潮社)によると、陸奥会主催の靖国神社で行われた陸奥慰霊祭で、三好艦長夫人、三好近江さんは、遺族の前でご主人のことを語ったことがあるそうです。(ウツボ)そこのところを読んでみる。「爆沈した前日、新たに扶桑艦長となられた鶴岡信道大佐が陸奥に親任の挨拶にこられ、その答礼として爆沈日に三好が扶桑に行ったそうです。鶴岡さんは三好に昼食を一緒にしようと引き止めたそうですが、三好は留守にもできぬからと陸奥にもどってあの事故にあったのです」(カモメ)続けます。「私は三好が事故にあってくれて、本当によかったと思います。もし留守中にあんな事故が起きたら三好も艦長として生きてはおられなかったでしょう。このように遺族の方々に親しくしていただけるのも、三好が事故当時陸奥にいてくれたからなのです」と淡々とした言葉で語ったと述べられています。(ウツボ)三好近江さんは平成3年12月4日早朝に自宅で永眠した。92歳だった。両手を胸に置き、眠るように息絶えていたという。(カモメ)三好近江さんのあと、陸奥会会長として五十年祭を努めた大野副長夫人の大野靖子さんは平成9年12月3日、クリスチャンになった彼女は89歳の天寿を終えました。(ウツボ)今はそれぞれ天国で三好艦長、大野副長と一緒だね。(「陸奥爆沈」は今回で終わりです。次回からは「シンガポール陥落」が始ります)
2007.07.20
(ウツボ)「戦艦陸奥」(サンケイ新聞社)によると、通常、軍艦は敵艦の甲板を打ち抜いて内部で爆発する徹甲弾を搭載して海戦を行う。だが日本海軍はひそかに研究に着手し、昭和16年に三式弾を完成させた。これは対航空機用として開発されたんだね。(カモメ)そうですね。三式弾は直径2センチ、長さ10センチの焼夷弾を砲弾の中に1200個詰め込んでいるのですね。(ウツボ)うん。砲弾の先端に時限装置がついており、定められた時間に発火すると砲弾の前部がはずれ、1200個の焼夷弾がいっせいに飛び出すという仕組みになっている。(カモメ)砲弾は旋回しながら飛んでいるので、前部がはずれると放射状に焼夷弾をまきちらす訳です。(ウツボ)戦艦大和は46センチの主砲で三式弾を撃ったことがある。向かってくる敵機の編隊のやや上方に向けて発射した。(カモメ)編隊の上で爆発した三式弾はバラバラと花火のしだれ柳のように敵機に落ちかかり、1発の三式弾で5機を撃墜したといわれていますね。(ウツボ)敵の編隊のま正面に撃つ事もある。(カモメ)ソロモン群島の消耗戦が続いていた昭和17年10月、ガダルカナルのヘンダーソン基地に向けて戦艦金剛と榛名が三式弾を打ち込んだ記録も残っています。(ウツボ)そうだね。基地はまたたくまに火の海となり、ヘンダーソン飛行場にいた米軍機と施設を焼き尽くした。(カモメ)このような三式弾を戦艦陸奥も搭載していたのですね。三番、四番砲塔の砲弾440発のうち、100発がこの三式弾だったと言われています。(ウツボ)安全性は確認されていたが、しかし開発間もない新式砲弾であり、燃焼性も高いものだった。だから自然発火の可能性もあると推理された。 (カモメ)海軍は火薬の質的変化にともなう自然発火には最大限の神経を使っていましたね。 (ウツボ)そう。だが、前にも言ったが、諸外国や日本でも火薬庫の自然発火を起こした軍艦は多いのだね。(カモメ)この三式弾は、江田島の東岸にある中国火薬の屋形石分工場の構内に展示してありました。直径46センチの大和主砲用の三式弾ですね。(ウツボ)陸奥爆沈後、査問委員会はこの三式弾に注目し、嶋田繁太郎海軍大臣の命令により全ての軍艦からこの三式弾を陸揚げした。(カモメ)査問委員会の命令で三式弾の安全テストが連日行われました。高熱を加える、振動させる、圧力を上げる、考えられる全ての悪条件をテストした。しかし、三式弾が自然発火する可能性はないという結論に達した訳です。(ウツボ)8月になってM査問委員会から一通の報告書が出された。その報告書には「原因として人為的原因ではないという証拠が得られない」というものだった。(カモメ)つまり誰かが陸奥を爆発させたと言っているのですね。そこでいよいよ最後の「人為的原因」に目が向けられた。(ウツボ)第一番目に、ここで軍艦研究家の福井静夫氏の推理を紹介してみよう。彼は自然発火はないし、また、放火も実行は不可能だと結論している。(カモメ)そうですね。彼は、ただひとつ考えられるのは、次のようなものであると推理しています。陸奥は爆沈の1週間前、呉海軍工廠にドック入りしていたのですね。(ウツボ)うん。ドック入りの際は砲弾や火薬類は全部陸揚げされる。(カモメ)ですから、火薬類は厳重に保管されるけれども、この陸揚げ中に誰かが時限装置を取り付けた。それが1週間後に爆発するように。(ウツボ)爆発は正午過ぎに起った。丁度昼食の休憩時であり、監視の目は通常より少ない訳だ。(カモメ)つまり、時限爆弾は正午をねらって設置されたと福井氏は推理したのですね。(ウツボ)アメリカ軍のスパイが国民の、また海軍の象徴である戦艦陸奥を爆沈させた。(ウツボ)第二番目の推理を紹介しよう。これは人為的というより過失ともいえるものだが。査問委員会は呉の海軍病院に入院している180名の乗組員を含む生存者355名全員の面接調査を実施した。(カモメ)そのとき辻野という下士官が「第三砲塔の火薬庫の温度上昇が原因であろうかと思われます」と発言した。(ウツボ)だが、火薬庫内の温度上昇については充分な検討がされていたので委員会は辻野の意見に耳を傾ける委員は誰一人いなかった。査問委員会は10月に解散した。(カモメ)戦後辻野氏は「海市のかなた」(中央公論新社)の著者青山淳平氏に手紙を送っています。(ウツボ)そうだね。辻野氏が青山淳平氏に送った手紙によると、辻野氏は爆発の数日前、辻野氏の10分隊の電路班員が居住区で同僚どうしの話を偶然立ち聞きした。(カモメ)その話の内容は「弾火薬庫の当直の番兵から、三番砲塔の火薬庫の警報機が作動して鳴ったというので、関係長に措置を仰いだところ、少し温度計の接点を上げて置くように言われ、そのようにしたが、また二度目も同じ三番砲塔の火薬庫の警報機が鳴った」とあります。(ウツボ)続きをよんでみよう。「再度指示を仰いだところ、やかましいからもう少し鳴らない様にせえ、とのことで、二回も温度計の接点を上げたが、あんなに上げて大丈夫かなあ」というものだった。(カモメ)だが、結局、警報機が鳴って接点を2回上げたにせよ、そんなことで爆発する事はありえないという専門家の見解が発表されたのですね。(ウツボ)そうだね。さていよいよ第三番目として、「人為的原因」の最後の「犯人説」に移ろう。「戦艦陸奥」(サンケイ新聞社)によると、昭和45年7月23日、陸奥の四番砲塔が引き揚げられた。(カモメ)その時、砲塔の内部から人骨、鉄帽、長靴などに混じって、印鑑が出たのですね。(ウツボ)そうだ。印鑑は2つあった。1つはKという姓が刻まれていた。もう1つは同じ姓で名前までも刻んであった。(カモメ)Kは二等兵曹で三番砲塔の要員であったと記されています。(ウツボ)Kは陸奥爆沈の直前まで盗難事件の容疑者として内偵が進められていた人物だったんだ。(カモメ)Kが放火したとしたら、なぜ遺品の印鑑が出て来たのは四番砲塔なのか。(ウツボ)放火した後Kは四番砲塔にのがれたのか。それとも遺品だけが飛んで四番砲塔に入ったのか。ここは謎だ。(カモメ)四番砲塔には数体の遺骨があったが、それがKのものかどうか特定されていない訳です。(ウツボ)次に「海市のかなた」(中央公論新社)による「犯人説」の紹介をしよう。(カモメ)査問委員会では早い段階から素行に問題があったF二曹が火薬庫に放火し、自殺を図ったおそれがあると推定していたとありますね。(ウツボ)この人物について「高松宮日記」には6月11日に杉浦矩郎大佐(軍令部第二部第三課長)の話として次の記述がある。(カモメ)読んでみましょう。「原因として考えられる以外に、四塔弾庫の下士官が最近衛兵伍長勤務中、時計を盗った。丁度八日、衛兵司令と弾庫長、兵曹長等が呉軍法会議に赴いたので、本人はこれを知っていたと思える。日本海軍のこの種の事件は人為的のかかる理由多し。考慮して調べる要あり」と記されています。(ウツボ)高松宮は当時、杉浦大佐からこのような報告を受けていた事になる。分かりやすく言えば、時計を盗んだF二曹は、衛兵司令らが呉の軍法会議に赴く事を知った。(カモメ)F二曹は自分が疑われ、衛兵司令らが呉の軍法会議に盗難の報告とF二曹の逮捕の許可をもらいに行ったと察した。(ウツボ)故郷の父母や自分の将来を思い、悲観して、爆発さして、自殺したか、または証拠隠滅を図った。現在でも、テストがいやで、学校に放火する生徒がいる。(カモメ)そうですね。塩沢委員長は潜水夫に命じて沈んだ陸奥のFがいた兵員室を捜索させた。昼食を済ませ、みんな部屋で休んでいた時間帯の事故なんですね。(ウツボ)つまり、Fも同室の他の5人と昼寝中であれば、兵員室で遺体を発見できるはずだと。(カモメ)そうです。しかし同室の5人の遺体は見つかったが、Fの遺体だけは発見できなかった。(ウツボ)それでも査問委員会はFを犯人とする証拠はどこにもなかったので、断定はしなかった。(カモメ)しなかったというより、できなかった訳ですね。次に最後に、吉村昭氏の推理に移りましょう。
2007.07.13
(ウツボ)今まで、戦艦陸奥はどういう戦艦だったかについて語ってきたけど、いよいよ、ここらで陸奥爆沈の原因について掘り下げていこうよ。(カモメ)そうですね。けれども、陸奥爆沈が海軍の特異な事件と一般的にとられている訳ですが、同様な事件について紹介したほうが良いと思います。(ウツボ)うん。そのほうが、これから話す陸奥爆沈の原因がすんなり受け入れてもらえると思う。「陸奥爆沈」(新潮社)によると、陸奥以外にも日本帝国海軍には、爆沈した例が多々ある。(カモメ)そうですね。まず戦艦三笠(15140トン)ですね。明治38年9月11日午前零時30分、佐世保軍港で、小爆発による火災発生後、大爆発して爆沈しました。(ウツボ)爆沈直前、日本海海戦に勝利をおさめ、三笠艦内には浮き浮きした空気があふれていたんだ。(カモメ)東郷大将以下、高級士官、司令部員は上京し、残った水兵たちは開放気分だった。(ウツボ)そう。その中の数名の兵が深夜上官の眼の届かない火薬庫に酒を持ち込んで密かに宴をひらいた。その時ローソクが倒れ、火薬に引火した。兵たちは慌てて消そうとしたが小爆発が起ったのだ。たちまち大火災となり火薬庫に引火して大爆発を起した。(カモメ)明治41年4月30日午前4時9分、台湾の馬公で一等巡洋艦松島(4280トン)が爆沈。(ウツボ)大正元年10月3日午後6時40分、神戸沖で、再び戦艦三笠が火薬庫の火災を起した。(カモメ)大正元年11月18日午後6時50分、清水港で、装甲巡洋艦日進(7750トン)の火薬庫が小爆発を起した。(ウツボ)この原因は一乗組員の放火によるものだった。上官に対する恨みから火薬庫に時限爆弾を仕掛け、上陸して、港近くの山の上から爆発の起るのを見守っていた。(カモメ)その時、爆発したが、消火措置が適切で被害は少なく大事には至らなかったのですね。(ウツボ)そうだね。犯人は、その後強盗殺人を犯して逮捕され、その時、火薬庫放火についても自白したんだ。(カモメ)その装甲巡洋艦日進の乗組員だった犯人は銃殺刑に処せられましたね。(ウツボ)大正6年1月14日午後3時15分、横須賀軍港で巡洋戦艦筑波(13750トン)が爆沈している。(カモメ)大正7年7月12日午後3時51分、徳山湾で戦艦河内(20800トン)が爆沈しました。(ウツボ)そうだね。帝国海軍の爆沈の歴史上、この戦艦河内爆沈に続いて、昭和18年6月8日、戦艦陸奥が爆沈したんだ。(カモメ)外国の戦艦にも爆沈した例が多数あります。アメリカの戦艦メイン爆沈。イギリスの装甲巡洋艦ナタール(13500トン)、戦艦バンガード〈20900トン)、戦艦ブルワーク(15000トン)が爆沈。(ウツボ)フランスでは戦艦イエナ(12500トン)、戦艦リベルテ(14600トン)が爆沈している。(カモメ)イタリアの戦艦レオナルドダビンチ〈22000トン)、戦艦ぺネディットプリン〈13400トン)が爆沈。(ウツボ)ロシヤの戦艦イムペラツイッサマリヤ〈24000トン)が爆沈。(カモメ)ブラジルの海防艦アクイダバン〈5000トン)が爆沈しています。〈ウツボ)それら外国の爆沈事件も乗組員の放火あるいは過失によって起ったものがかなりあると言われているんだね。(カモメ)乗組員の中に不満を持っている者が犯人という例も多数ありますね。(ウツボ)それは現代でも、例えが少し違うが、銀行の職員が使い込みをしたり、企業の社員がデータを持ち出したりしている。(カモメ)自衛隊の高官がロシアに軍事機密を漏らしたこともありましたね。(ウツボ)いろいろある。以上のことを前提に戦艦陸奥爆沈の原因について話していこうか。〈カモメ)そうですね。陸奥爆発事故直後に査問委員会が編成され、事故原因の調査が行われましたね。(ウツボ)その査問委員会での検討の結果、自然発火とは考えにくく、人為的な爆発である可能性が高いとの結論に達した。(カモメ)この説を採る場合にも、行為者や動機などの詳細は不明とされましたが、真相は未だに明確になっていないのが、公式の記録です。(ウツボ)公式には、そうだね。だがいろんな説があるので、それを紹介していこう。(カモメ)謎めいた陸奥の最期は、幾つかのフィクションの題材にもなりました。 (ウツボ)陸奥爆発の原因は、スパイの破壊工作説、三式砲弾の暴発説、乗員の自殺説などが挙げられている訳だ。(カモメ)先ほども例を出しましたが、旧海軍では、乗員による爆発沈没事故が度々発生していますが、軍の暗部を隠蔽するため、いまなお原因不明の事故とされています。(ウツボ)そう。陸奥爆沈時の直接の最高責任者である第一艦隊司令長官であった清水光美中将は責任をとらされる形で予備役に編入されているんだね。(カモメ)とにかく、海軍は、陸奥爆沈に関して、全てを隠蔽して、その事実の大部分を公表しなかった。戦後の調査もほとんど行われていません。(ウツボ)では陸奥爆沈の原因追及の具体的事実に入っていこうか。(カモメ)「戦艦陸奥」(サンケイ新聞社)によると、陸奥爆沈の原因についての原因調査のため、海軍省内部に査問委員会が設置されました。(ウツボ)その委員会は、正式には「M査問委員会」と呼ばれたんだ。(カモメ)そうですね。M査問委員会の委員長は塩沢幸一海軍大将で、他に8名の委員が造艦、火薬、弾丸、化学兵器の専門家の中から選ばれました。(ウツボ)M査問委員会は極秘の軍機委員会だった。M委員会は五ヶ月にわたって徹底した調査を行った。(カモメ)最初に疑われたのは敵潜水艦による魚雷攻撃または機雷による爆発でした。(ウツボ)そこで、M委員会は陸奥の生存者から報告書を提出させた。この生存者の報告書から様々な貴重な資料が得られた。(カモメ)多くの者は後部にある三番砲塔または四番砲塔付近から異様な煙が噴出するのを認めたと報告しています。それによって、三番砲塔または四番砲塔直下にある弾火薬庫が爆発し、艦が裂けたと一応推定できた訳です。(ウツボ)その生存者達の報告の結果、潜水艦による雷撃の疑いをうすめた。潜水艦が攻撃すれば必ず魚雷の航跡が海面を走るが、それを目にしたも者はひとりもいなかったのだね。(カモメ)調査報告書によると、魚雷の場合の水柱を見たものや、爆発の前の魚雷がぶつかる衝撃音も聞いたものは誰一人いなかった訳です。(ウツボ)また、艦腹の鉄板は外部へめくれているものが大半だったので艦体の破裂状況は、内部から外部に向かって起きたと結論された。(カモメ)以上のことから、敵潜水艦による魚雷攻撃か機雷による爆発という説は消滅したのですね。(ウツボ)次に、先ほども紹介したけど、三番砲塔が吹き飛んでいることから、艦橋後部の三番砲塔付近が爆発したと推定された。そのあたりで艦体は切断されていたしね。(カモメ)陸奥の主砲は8門あり、二連装の砲塔を4つ装備していました。艦橋の前に2つ、艦橋の後に2つだ。艦首に近い順から一番砲塔、二番砲塔、三番砲塔、四番砲塔と呼ばれています。(ウツボ)次に、M査問委員会の陸奥爆沈の原因追求は、自然発火説に移った訳だ。(カモメ)軍艦の火薬類は大きく分けて二つあります。一つは砲弾であり、もう1つはこの砲弾を発射するための装薬ですね。〈ウツボ)陸奥の主砲弾は直径40センチで、重さ約1トン。これを発射するためには、かんに詰めた装薬4個を使う。(カモメ)三番、四番両砲塔には、440発の砲弾が納められていました。装薬の数は約1700個でした。(ウツボ)そうだね。砲弾は主砲の直下に格納されている。また、装薬はその下の区画にある。(カモメ)装薬は1トン砲弾を秒速800メートルで打ち出す強力な火薬だから、これが爆発すればひとたまりもありませんね。(ウツボ)そうだね。だが、だからこそ、装薬については以前から様々な安全実験が行われている訳だ。(カモメ)自然発火の可能性はあまりないと。〈ウツボ)その可能性はゼロに近いという結論が出た。また、万が一、仮に1個のかんが発火しても、隣接のかんの誘爆を招く可能性も構造上、ゼロだった。(カモメ)つぎは弾薬ですね。通常、弾薬は全て信管が抜かれていますね。(ウツボ)そう。だから装薬よりもさらに安全度が高い訳だね。このようなことから弾薬と装薬の自然発火説も消えた。(カモメ)そこでM査問委員会の前に立ちはだかったのが、「三式弾」なんですね。
2007.07.06
(ウツボ)「戦艦「大和」主砲指揮所に地獄を見た~戦艦陸奥ミッドウェー海戦従軍記」(光人社)によると、艇の最後尾の舵取りの側の席、つまり艇指揮の席が一番偉い人の座る席と指定されているんだね。(カモメ)そうですね。それでそのパイロットは、艇内を見回して一番先任の士官の偉い人を案内してそこに座らせた。するとその後、その人よりもっと偉い人が駆逐艦から降りてきた。そこでそのパイロットはやむなく、最後尾の一人の席にギリギリ二人で座ってもらうことにした。(ウツボ)あとから階級の上の偉い人がやって来たら、そうするしかないね。(カモメ)ところがその人たちよりももっと偉い人が降りてきた。(ウツボ)そのパイロットは困ってしまっただろう。(カモメ)それで、結局、先に座った人を元の席に逆戻りさせた。そのたびに多くに人が立ったり座ったりして艇がグラグラ揺れて、著者の佐々木氏たちは危なくて仕方がなかったということです。(ウツボ)空母赤城は第一機動部隊と第一航空戦隊の旗艦なので、偉い幕僚や司令部の将校が沢山載っていた。(カモメ)そうですね。それで駆逐艦の艦長や司令クラスでは艇内ではカイを持たねばならなかったので大変、事が面倒だったということです。(ウツボ)ところが、彼ら士官が漕ぐカイは、ぎこちないことおびただしかったとある。彼らも一生懸命やろうとしているのだが、力の入れ方が違っていたということだ。(カモメ)とにかく陸奥は赤城の乗組員を収容して内地に向かいました。上甲板は千人以上の赤城の乗組員で一杯だった。赤城の定員は1630名で司令部員が60名くらい乗っていた。(ウツボ)戦死者は220名くらいだった。赤城の助かった人が全員陸奥に乗ったとすると1500人位が乗ったことになる。陸奥の定員は1120名くらいだから、倍以上に増えたわけだ。(カモメ)著者の佐々木氏たち陸奥の乗組員が眺めていると、赤城の人事係と思われる人が便箋と鉛筆で生存者の名簿作りを始めたという。「あれは駆逐艦にのり移ったはずだ」「あの人は赤城の砲塔から出てきませんでした。おそらく駄目でしょう」「いや私とボートで一緒だった」など。(ウツボ)同じ食卓で食事をした戦友が今生きているかどうか確かめ合っているのだね。(カモメ)赤城の戦闘はわずか45分で終わり、そのあとは7時間も火災による爆弾・魚雷の誘爆との戦いで、艦内は混乱の極みに達していたのですね。(ウツボ)だから、人員の確認は極めて難しかった。陸奥の甲板では赤城の調査員が行方不明の人の仲間を呼び出しては聞いている。(カモメ)それも「お前が殺した」といわんばかりの聞き方だった。(ウツボ)ところが呼び出された人は不思議そうな顔をして「私と会ったときは元気だったのですが、それからどうかしたのですか?」と聞き返す。(カモメ)あちらこちらから呼び出されてきた人が口を揃えてそう言うのが不思議であったと記されている。死んだ事になっていた人が、ひょっこり現れたりした。(ウツボ)大和ができるまでは日本帝国海軍最大の軍艦だった陸奥でも2600人近くの人で一杯になった。(カモメ)だが赤城の乗組員は陸奥の大砲を撃ったり、航海当直をしたりはできないですね。(ウツボ)できないというか、人数が多ければよいというものでもないので、赤城の乗組員はお客さん扱いだった。(カモメ)それで軍艦には通常50人に1箇所位しか大便所は作られていないのですね。それが倍の100人に1つになったのだから、トイレに行くのが戦争みたいになったということです。(ウツボ)だが、「俺は陸奥の兵だ」と言えば、赤城の乗員は後回しになり、すぐにトイレに行けたという。(カモメ)赤城の乗員は艦内掃除などを積極的にやったらしいですね。著者の佐々木氏は便所掃除もみな赤城の乗員がやってくれたので助かったと述べています。(ウツボ)食器洗いもやってくれたという。だが赤城の乗員は便乗者としての悲しみを味わっていた。(カモメ)そうですね。こんなこともあったそうです。陸奥の水兵は航海中は用事があれば艦内はすべて駆け足だ。うろうろしている赤城の乗員の間を駆け足で通り抜けていく。そしてぶつかりそうになった時には、陸奥の水兵に赤城の士官が「どうもすみません」と頭を下げたりした。(ウツボ)士官が水兵に頭を下げるなんてことは帝国海軍では普通はないよ。(カモメ)撃沈された空母の乗組員は卑屈になっていたのだろうね。(ウツボ)現代サラリーマンでも営業成績が上がらない上司は、同じ様な態度をとる人もいるんじゃないかね。(カモメ)それはいますね。同じですね。ところで軍艦では「煙草盆出せ」と号令が出て煙草を吸う時以外は腰をおろす事は許されないのですね。そこで赤城の乗員達は昼は上甲板で一日中立ち話をしていたということです。(ウツボ)することがなけりゃ、そうするしか仕方がないだろうね。(カモメ)それで疲れたら居住区に入り休むのですが、そこは戦闘準備のため、窓は閉められ空気はよどみ、薄暗い電気と木の椅子しかないので大部分の人はそんなところへは行く気がしなかったということです。(ウツボ)敵潜水艦のいる海域に来ると「戦闘配置に着け」の号令が出る。すると、赤城の乗員は何もすることがないので、上甲板に整列していた。(カモメ)「陸奥の戦闘員で病気の人がいたら、教えて下さい。こちらから補充の人を送ります。つい最近まで陸奥に乗組んでいた人もおりますから」などと言ってきたが、それが陸奥乗組員にはありがた迷惑だったということです。(ウツボ)赤城の高級士官はさすがに指定の部屋が与えられたが、普通の士官は陸奥の水兵のハンモックの空いたところが指定されたという。(カモメ)そこでも興味深いのは、まず陸奥の水兵が就寝した後、赤城の士官の従兵が空いた所にハンモックを吊り、「今日はここです」と赤城の士官を案内して寝させていた。(ウツボ)気をつかっているね。赤城の士官はすべて階級章をはずしていたので、陸奥の乗組員が従兵に「あの人はどういう人だ」と聞いても笑って答えなかった。(カモメ)朝になると「総員起し分前」の号令がかかる前に赤城の士官や乗員が、陸奥の乗員を起さないようにそっと起きて出て行く。陸奥の乗員が起きた頃にはハンモックもきれいに片付けられていた。(ウツボ)赤城の乗員は陸奥の戦闘力が落ちないようずいぶんと気をつかっていたと記されている。(カモメ)6月14日午後5時、陸奥は瀬戸内海の柱島に投錨した。6月15日、赤城の負傷兵は白い病院船に移された。(ウツボ)6月17日、赤城のパイロット達が鹿屋の航空隊に転勤となって退艦していった。(カモメ)6月21日、赤城の乗組員が退艦した。普通は海上勤務のあとはしばらく陸上勤務になるのだが、赤城沈没を隠すため、彼rは5人10人と分かれて他の駆逐艦や軍艦に配属されたといわれています。(ウツボ)それは、建前として赤城は沈んでおらす、乗員だけに転勤命令が出て、各艦船に乗り移ったという形式をとったのだね。外出、外泊も許されなかったんだ。
2007.06.29
(ウツボ)ミッドウェイ作戦の時の陸奥乗組員、佐々木確治氏が記した「戦艦「大和」主砲指揮所に地獄を見た~戦艦陸奥ミッドウェー海戦従軍記」(光人社)があるが、これが非常に興味深い。(カモメ)俺も読みましたが、陸奥の貴重な記録ですね。ミッドウェイ作戦の戦艦陸奥航海記ともいうべきもので、航海中に起ったハプニングや出来事を、日記形式で、飾らずに赤裸々に記していますね。(ウツボ)そうだね。主要な所を抜粋して、交代で読んでいこうか。昭和17年5月27日、戦艦陸奥ではミッドウェイ作戦のため出撃に関する艦長訓示があった。(カモメ)5月28日、衣嚢を水線下の倉庫に格納する作業が行われた。戦艦陸奥の重心を下げるためだ。服や下着を入れた一人当たり30キロの袋を水線下の倉庫に入れ、防水装置の付いたふたをしめた。(カモメ)これは敵の攻撃を受けて、艦が浸水して傾いた時、いくらかでもその傾きが少なくなるようにするためだった、と記されています。(ウツボ)うん。軍艦は傾きがひどくなると大砲が撃てなくなる。反対側の区画に注水して平衡を保つ必要があるんだね。(カモメ)5月31日、海が荒れた。後をついてくる長門のみよしを飾る菊の御紋章が、時折波の中に隠れてしまう。陸奥も同型なので同じ様になっているだろう、と述べています。(ウツボ)ところが、陸奥がこんなにがぶっても、戦艦大和は平気であったとも。(カモメ)波を乗り越える性能が良いので、甲板に水は上がらない。大きな波が来ても菊の御紋章にも海水は届かない。〈ウツボ)見たところ大和は実に気持ちよさそうに進んでいる、と述べている。(カモメ)6月2日夜、「配置につけ」のブザーがなり、著者の佐々木氏は配置の二番砲塔に駆け込んだ。(ウツボ)砲塔の中の電球は灯火管制と、発砲時の衝撃による破損を考慮して、全てネオン電球に取り替えられていた。(カモメ)それはピンク色のぼおっとした月明かりくらいの明るさで、人のいる事は分かるが表情までは分からない。(ウツボ)砲塔の上には10メートルの測距儀があり、大きな望遠鏡があるので、測距員がけんめいに海を見張っていた。そのとき、大和からパッと赤白い光が写真のフラッシュのように光り、「パン」という音がして、照明弾みたいにあたりが明るくなり、大和のシルエットが暗闇に浮かんですぐに消えた、と記されている。(カモメ)陸奥の砲塔内の仲間が大和が撃ったぞ、20センチだ、副砲だ、と言った。「標的が見えるか」「何も見えません」「潜水艦に副砲を撃っても仕方がないのだがなあ」「なんで弾を撃つんだ」「いや砲戦側をかけたから撃ったんだろう」などと話し合っていた。(ウツボ)砲戦側とは撃つべき敵を明確に指定し、大砲を撃つため砲弾を込め、照準し、撃ち方始めの命令を待つ大事な命令だ。(カモメ)ひとたびこれを出すと引っ込みがつかないのですね。〈ウツボ)弾丸を大砲に込めれば、必ず撃たなければならない。撃たずに抜こうとすれば弾丸は砲身の中で爆発してしまう。だからこの命令を出せば必ず大砲を発射せねばならないのだ。(カモメ)どうやらこのとき大和は敵を確認しないで、この命令を出したようで、そのあげく敵のいないところに弾を撃ったらしい。実はそのとき発砲した副砲は15.5センチ砲だったんですね。(ウツボ)6月4日来るべき戦闘に備えて、大和、陸奥、長門のバルジに搭載してある重油を駆逐艦に移す作業が行われた。(カモメ)戦艦のバルジとは艦底の機関室や弾薬庫を守るため、外側に大きな空部屋をつくり、敵の魚雷があたってもそこだけが浸水し、大事なところが壊れないようにする為に艦の両側につくられた装置ですね。(ウツボ)陸奥は浸水したとき35000トンだったが、大改装を行い7000トンにも及ぶバルジが取りつけられ、42000トンにもなった。(カモメ)6月5日、著者が艦橋の当直をしていたとき伝令の報告が耳に入ってきた。「赤城、加賀、蒼龍、大火災!」と怒鳴るような声。艦長の「なに!」と聞き返す驚きの声。(ウツボ)帝国海軍はミッドウェイ海戦で、空母4隻を失った。(カモメ)6月7日、駆逐艦、嵐、野分が空母赤城の生き残りの兵隊をいっぱい乗せて陸奥に転乗させる為に近づいてきた。上甲板は人でぎっしりだ。(ウツボ)陸奥から短艇が出され著者の佐々木氏も駆逐艦に収容に向かった。駆逐艦にカッターを横付けすると、空母赤城の乗員が駆逐艦から命綱を伝わって次々に降りてきた。そのとき駆逐艦から「カッターの側によってはいけない。艦が傾いたぞ、順番を待て!」と怒鳴る声がした。(カモメ)2000トンもある駆逐艦でも一時に沢山の人が片方に寄ったので傾いた。降りてきた赤城の乗員は目を赤くはらし、疲れ果てたという様子だった。〈ウツボ)敗残兵そのものという感じで我先に降りてきた。重傷を負った人が担がれて降りてきた。その後は無秩序にゾロゾロ降りてきた。(カモメ)軍紀の存在しない軍隊のようだったと記されています。(ウツボ)海が荒れているので、カッターは木の葉のように揺れるので、なかなか飛び降りることが出来ない人もいる。(カモメ)年老いた軍人は階級は上だが、体がきかないので、船乗りとして絶対にしてはいけないことを平気でする。〈ウツボ)彼らは船べりに靴で上がったり、カイの水かきを踏みつけたりした。(カモメ)カッターは2メートルあまりも揺れて上下しているのだから、船べりに靴で上がってすべって海に落ちたら、カッターと駆逐艦の間に挟まれて即死するのだ。カイはカッターの命で割れたりしたら、使い物にならなくなる。〈ウツボ)若く元気な水兵は我先に飛び降り、良い席に座ろうとする。弱い人の面倒も見ない。自分の事しか考えないみじめな敗残兵ぶりであった。(カモメ)著者の佐々木氏たちカッターの乗組員は口々に「そこだ、とびおりろ」「早く綱を離せ」「おりるな、ちょっと待て」などとどなって誘導した。〈ウツボ)りっぱな軍服を着た士官たちも黙々とその言葉に従っていた。(カモメ)その中で、新兵とパイロットだけは元気だった。パイロットは、すばらしかったという。ピョコンと小鳥のように飛び降りてきて、左右の顔を見ては「大丈夫か」と声をかけていた。(ウツボ)彼は同僚や上官の座席を次々に指定していった。艇内を飛び回って席を決めていってくれたという。ぼやっと立っている人には「すぐ姿勢を低くしろ、カッターがひっくりかえるぞ。水飲ます気か」などと言って、艇内を整理していった、などと記されている。
2007.06.22
(ウツボ)爆沈時の陸奥艦長の三好輝彦大佐(殉職後少将)は第26代の艦長だった。歴代の陸奥艦長はそうそうたる顔ぶれだ。5代が米内光政、8代が堀悌吉、9代が吉田善吾、22代は保科善四郎、などだ。(カモメ)「戦艦陸奥」(サンケイ新聞社)のまえがきで、陸奥22代艦長の保科善四郎は「陸奥はワシントン条約下の最後の軍艦であり、装備の充実には、全海軍が心血を注いだ」(昭和46年2月)と記しています。(ウツボ)周防大島町の陸奥記念館の近くの陸奥之碑の脇の表示板には陸奥は大正10年11月22日竣工とある。別の記録では大正10年10月24日完成とある。公式には10月24日が認められている。(カモメ)その理由はワシントン軍縮会議ですね。ワシントン軍縮会議が始ったのが、大正10年11月12日ですね。このとき、陸奥は横須賀海軍工廠で最後の工事を急いでいたのですが、軍縮条約交渉開始までに完成させねば、廃棄の運命になるのですね。(ウツボ)そう。当時日本帝国海軍は、世界最強の軍艦「長門」の2番艦(同型艦)として陸奥が必要だった。つまり世界最強「長門」「陸奥」のコンビが実現するか、「長門」だけのかたわの艦隊になるかの瀬戸際だった。(カモメ)完成は確かに10月24日だった。だが正式には完成して公式試運転が行われ艦長に引き渡されるのですね。(ウツボ)そうですね。だが、陸奥の場合は、主砲の発砲公試はまだだった。また、当時世界一の長さ10メートルの測距儀もできてなくて、搭載しないまま引渡しを行った。全力公試もまだだった。これについて「軍艦の完成の定義は一概に言えない」と軍艦研究家の福井静夫氏は述べている。(カモメ)ワシントン海軍軍縮条約で未完成艦は廃艦になることになりそのリストが作られ、その中には陸奥が含まれていた訳ですね。軍縮案のねらいは、明らかに陸奥の廃棄にあったのですね。(ウツボ)ワシントン海軍軍縮条約では、一般論としては、完成したものは残し、建造中のものは廃棄する、というものだった。日本側は陸奥は完成していると主張したが、英米は未完成艦であると主張した。 事実、陸奥は10月24日完成と言うことになっているが、実際には突貫工事をしたが間に合わずに一部未完成のまま海軍に引き渡されている。 (カモメ)最終的に日本側の主張に対し英米は陸奥の保有を認めることになりました。その代わりアメリカは廃棄が決まっていたコロラド級2隻の建造続行を、イギリスは2隻の新造(後のネルソン級)を認められました。(ウツボ)とにかく陸奥はワシントン軍縮条約に間に合って、廃棄の運命から逃れる事ができた。陸奥の常備排水量は33800トン。速力公表23ノット。主砲は16インチ砲8門。速力は公表23ノットだが、実際の速力は26.5ノットで、戦艦としては類例のない高速を誇った。(カモメ)陸奥は後に二年かけて大改装され、昭和11年9月に改装を終えました。機関や火薬庫周辺は厚い甲鉄板で覆われた。この特殊鋼鈑は砲弾を跳ね返す堅い鋼や、しなりや、振動に強い、弾力性の強い合金が組み合わせられた。それで40センチの砲を20000~28000メートルの距離から撃ち込まれても耐える事ができたと記されています。(ウツボ)主砲の仰角はこれまでの30度から43度になった。これにより着弾距離は40000メートルにもなった。カタパルトも増設され水上偵察機か3機搭載できるようになった。このような改装によって基準排水量は39090トンになった。公試状態排水量は43700トンにもなった。(カモメ)「戦艦陸奥」(サンケイ新聞社)によると、昭和14年秋、巡洋艦鳥海の艦長であった保科善四郎大佐は山本五十六連合艦隊司令長官に呼ばれました。山本長官は短く言ったそうです。「保科君、キミに陸奥をやってもらう。頼んだよ」。(ウツボ)当時陸奥の艦長は艦長の中の艦長といわれる輝けるポストだった。(カモメ)その時不動の保科大佐に山本長官は言葉を続けたそうです。「陸奥は沈まない。いや沈めてはならない。」と。(ウツボ)当時陸奥は長門とともに世界最強の軍艦であり、帝国海軍の象徴だった。後の大和、武蔵と同様のポジションと考えたら分かり易い。(カモメ)そうですね。とにかく陸奥の前半生は栄光の歴史に飾られていますね。当時少年達は「あっ陸奥だ」と叫び、「ぼくは陸奥に乗るんだ」と胸をときめかした。陸奥は日本の誇りであり、国民の恋人であったと述べられています。(ウツボ)さっきも言ったけど、陸奥は世界最強の日本帝国海軍の象徴だった。第一次世界大戦は大正3年~7年だったが、その直後、世界列強の間ですさまじい建艦競争が始ったんだ。長門は大正9年11月25日に呉海軍工廠で完成した。排水量34000トン、公表速力23ノット、主砲40センチ8門。ワシントン軍縮会議が始った大正10年当時、第一次世界大戦に参加した、どの戦艦よりも速力、主砲、その他全ての点で優れていた。(カモメ)そうですね。第一次大戦で世界最高を争ったイギリス、ドイツにもない、名実共に世界一の戦闘艦だったと言われています。(ウツボ)わずかにアメリカがダニエルス計画の第一艦として計画した戦艦メリーランドがあるだけだった。(カモメ)メリーランドは排水量32000トン、速力21ノット、主砲40センチ8門。メリーランドは既に完成していました。アメリカは軍縮案の中でメリーランドの存続を言い、日本の陸奥の廃棄を要求しました。(ウツボ)それほど世界は長門、陸奥を脅威に感じていた。陸奥は当時は世界から注目されていた強力な戦艦だった。(カモメ)陸奥が爆沈するまでに戦艦が出撃した大きな作戦や海戦が多数行われています。まず真珠湾攻撃(昭和16年12月8日)、緒戦の南方作戦、インド洋作戦、ミッドウェイ作戦(昭和17年6月5日~7日)、第二次ソロモン海戦(昭和17年8月24日)ガダルカナル砲撃、南太平洋海戦(昭和17年10月26日)、第三次ソロモン海戦(昭和17年11月12日~14日)などです。(ウツボ)これらの海戦は、全て戦艦が参加している。だが陸奥はどの海戦にも参加していない。途中までは行ったが、海戦には参加せず、途中で引き返している。真珠湾攻撃の時も、引き返した。(カモメ)ミッドウェイ作戦では日本海軍は一挙に「加賀」「蒼龍」「赤城」「飛龍」の大型空母四隻を失いました。昭和17年6月5日未明、南雲中将の率いる空母部隊はミッドウェイ島の北西240海里にいました。(ウツボ)だが大和、長門、陸奥はそれより、西方400海里にいんだた。そこで空母全滅の悲報を受けた大和は、6月6日、他の戦艦、陸奥など10隻とともに引き返した。(カモメ)その時陸奥は長門とともに空母の乗組員達の収容に当たり、病院船の役目をしましたね。(ウツボ)そのときのことを記録した「戦艦陸奥ミッドウェー海戦従軍記」というのが興味深いので、次回はそれを紹介しよう。
2007.06.14
(ウツボ)「戦艦陸奥」(サンケイ新聞社)によると、昭和28年8月16日、この日は陸奥が沈んで10年目にあたる日だった。この日は陸奥之碑がある旧東和町の松ヶ鼻沖で海上慰霊祭が行われていた。(カモメ)そうですね。式も終わろうとしていた頃、遺族達は誰もが目を見開いたと記されています。戦艦陸奥の象徴である菊の御紋章が引き揚げられてきたのですね。(ウツボ)そう、丁度その時引き揚げられた。元々菊の御紋章は金属ではなく、ケヤキの木に十六花弁を刻み、その上に金箔を張って作られていたんだ。引き揚げられた時は、金箔は剥げ落ち、木の素肌にカキガラが付着し、傷つき、色あせたものだった。けれども直径2メートルのそれは、艦首でサン然と輝いて威厳を保っていたと言われている。(カモメ)引き揚げられた菊の御紋章は最初は周防大島町の浄専寺に安置されましたね。(ウツボ)うん。遺族は払い下げて欲しいと国に頼んだが、陸奥は国有財産なので、中国財務局の係員が飛んできた。国で管理すべきという事で、中国財務局の局長室にデンと飾られた。(カモメ)ですが、結局、財務局でも持て余し、「どこか預かってくれる所はないか」と言い出したのですね。(ウツボ)そう。最初厚生省復員局に相談が持ちかけられたが、「当局はいずれはなくなる残務処理機関だから」と断った。結局、御紋章は文化財という判定で文化財保護院会を通じて、東京、上野の博物館行きで決着がついた。(カモメ)ところが博物館でも「異例の預かり物」であるので陳列するかどうか分からないという条件付で保管する事になった。そして以来17年間一度も展示されなかった。(ウツボ)それはね、「国立博物館資料2960」というラベルを貼られて、御紋章は一階倉庫でほこりをかぶって眠り続けたんだ。(カモメ)ところが陸奥の引き揚げが始った昭和45年夏頃から御紋章がにわかに脚光をあびだしたんですね。あちこちでぜひうちで引き取らせて欲しいとの声が上がった。(ウツボ)そうだね。遺族、靖国神社、地元の山口県、同名の青森県むつ市まで名乗りをあげた。中でも防衛庁が一番熱心だった。結局御紋章は昭和45年11月16日、江田島の海上自衛隊の教育参考館に移された。(カモメ)「菊の御紋章は安住の地を得たかのように、教育参考館のガラスケースの中に重々しく納まっている」と述べられています。(ウツボ)この金箔の剥げ落ちた木肌の御紋章は見る人によりにじみ出るような苦悩の表情を見せるそうだ。またあるときは誇らしげな胸を張るような表情も見せるということだ。(カモメ)陸奥の菊の御紋章の着いていた艦首は引き揚げられ、周防大島町の陸奥記念館の近くの丘の上に鎮座してありますね。俺も見ましたが、この部分に御紋章が着いていたのかと、思うほど意外と小さい。(ウツボ)それは艦首のほんの先端部分だけですからね、あそこに展示してあるのは。(カモメ)ところで、戦後、戦艦陸奥は昭和24年から一部引き揚げをしましたが、40メートルを超える海底作業は困難を極め、まもなく引き揚げは中止されたんですね。(ウツボ)そう第一回目は中止となったんだ。ところが昭和45年6月、遺族や生存者らの熱意が実り、深田サルベージによって引き揚げが再開された。(カモメ)昭和53年6月までの8年間の引き揚げ作業で、将兵の遺骨や遺品と共に、主砲など艦体の75パーセントが引き揚げられたのですね。(ウツボ)引き揚げ当初は1500tクレーンによって艦尾引き揚げを試みたが引き上げワイヤーが切断し断念された。(カモメ)その後、第4砲塔が引き揚げられ内部から数点の遺骨が回収されました。(ウツボ) それと、引揚げられた鉄材は、当然ながら戦前に精錬された鉄であるため、現在生産されている鉄と異なり製造の過程で混入する放射性物質を含んでいないんだ。(カモメ)そうですね。そのため、特に放射性物質の混入が望まれないガイガーカウンターの隔壁用などに、「陸奥鉄」として重宝されていますね。
2007.06.08
(カモメ)「陸奥爆沈」(新潮社)によると、この柱島は昔、流人の島だったということです。島抜けなどを企てて、捕えられた罪人は、生きたまま大きな壷をかぶせられて、土中に埋められたと記されています。(ウツボ)流人の島ですね。島の林から両足の骨が出てきて話題になった事も有った。その足には錆びた鎖がついていたことから、流人の足と判定されたんだ。(カモメ)とにかく陸奥の爆沈は軍事機密にされ一切公表されなかったですね。(ウツボ)うん。ところが、柱島に貝をとりにいった少年が波打ち際に横たわった水兵の死体を見て恐ろしくなって逃げ帰った。また島の南端で水兵がガソリンで死体を焼いているのを目撃した島民の話も伝わってきて、話がだんだん広がっていった。(カモメ)それで呉鎮守府から警備隊員が派遣され、島の住民を厳重に監視するようになった。(ウツボ)そうだね。例えば、島から岩国に通う定期船が岩国の桟橋に着くと、乗ってきた島民に男が近づいて「大きな軍艦が沈んだそうだね」と何気ない口調で声をかける。島民が「そうらしい」と答えると、その島民は憲兵隊に連行された。(カモメ)向かいの大島でも「軍艦が沈んだらしい」と口にした者は一人残らず憲兵隊に連れて行かれたと記述してあります。(ウツボ)「陸奥爆沈」(新潮社)によると、当時呉の海軍工廠の造船部員であった福井静夫元技術少佐が著者の吉村昭氏に語った話が掲載されているね。(カモメ)そうですね。それによると、陸奥爆沈は昭和18年6月8日だが、その翌日の9日か翌々日の10日に臨時に防諜演習が発令された。その告示が中国新聞に載ったとあります。(ウツボ)防諜演習では防諜のためと称して、郵便物の検閲が行われたんだ。一般人の手紙は葉書のみとして封書を一切禁じた。万が一封書があれば没収され開封された。(カモメ)それは、一般人の中には陸奥の爆沈に気付いている者がいるかもしれない。そうした者が爆沈の事実を手紙に書けば、それはたちまち日本全国に広がるからですね。(ウツボ)敵の防諜機関にも察知されることとなる。それを防ぐ方法として検閲を行った。(カモメ)爆沈の半月ほど前の5月23日と24日に呉市を中心とした地域で防空演習が実施されていたので、防空演習に続いて防諜演習が行われる事は自然なので、一般の人々も不思議には思わなかったんですね。(ウツボ)これは日本海軍が陸奥爆沈の事実を隠蔽することにいかに努力したかを示すものだね。(カモメ)当時の中国新聞には陸奥爆沈後10日たった新聞に「去る(六月)十一日から、特令あるまで実施されていた呉鎮守府の第二回防諜週間にあたり、呉市聯合防諜団長鈴木市長より各町内会防諜団長に対し、左の通り通諜を発す」とあります。(ウツボ)その通諜の内容はどのようなものだったのかね。(カモメ)はい。「一、流言蜚語に迷わされないこと、二、流言をなすものの本体を捕えること、三、諜者または挙動不審者の発見」とあります。(ウツボ)噂話をしたぐらいで捕えるとは穏やかではないね。(カモメ)さらに「その際は事件の内容、事件発生の日時場所、容疑者の住所氏名、不明の場合は人相、特徴、服装、所持品、また被告者の住所氏名、目撃者の住所、氏名などをただちに取締官憲に報告する事」と記してありますね。(ウツボ)まさに徹底した言論統制を行ったわけだね。(カモメ)そこまで陸奥爆沈を秘密にしなければならない背景ですが。(ウツボ)それはもう、いわゆる大本営発表の一環で、ミッドウェイの空母四隻が撃沈されたことも秘密にして発表しているのだから。その流れだね。(カモメ)日本も状況も悪くなっていた頃ですからね。陸奥が爆沈した昭和18年6月8日頃の日本の状況は、18年4月20日に東條内閣の改造を行っています。5月9日にはアメリカの潜水艦が北海道の幌別を砲撃しました。(ウツボ)さらに5月12日にアメリカ軍がアッツ島に上陸、5月29日に玉砕。つまり緊迫した厳いしい状況だった訳だ。後に7月29日には日本軍はキスカ島から撤退した。(カモメ)その頃、欧州では18年5月末に北アフリカ戦線のドイツ軍は連合軍に降伏しています。また7月25日にはイタリアのムッソリーニが逮捕され、パドリオ元帥が後任の首相に就任しています。(ウツボ)ドイツ、イタリアも敗戦の趣になり始めた頃だった。そのような時勢に、戦艦大和が就役するまでは日本海軍の象徴的戦艦であった陸奥の爆沈は日本国民の士気にかかわるものであった訳だね。勿論敵国に知られてはならないこともあっただろう。(カモメ)ところで、先ほども言いましたが、この前、周防大島町の伊保田にある陸奥記念館に行ってきました。昭和45年から引き揚げられた戦艦陸奥の記念品や遺品が多数展示されていますね。山本五十六元帥の書も2点ありました。(ウツボ)山本五十六については、面白い話がある。「陸奥爆沈」(新潮社)によると、著者の吉村昭氏が取材のためある艦政本部員に会ったとき、その人は「陸奥爆沈後柱島に急行した折、事故現場で山本五十六連合艦隊司令長官に会った」と言ったというんだ。(カモメ)そんなはずは絶対にありませんよね。陸奥爆沈は昭和18年6月8日であり、山本五十六大将は二ヶ月近く前の4月18日にヴィンで戦死していますからね。(ウツボ)そうなんだ。第一艦隊司令長官の清水光美中将を勘違いして山本五十六と思い込んだのかもしれないが。取材を重ねていくうち、このような人の記憶違いと思い込みは沢山あったと吉村氏は述べているんだね。(カモメ)記憶違いと言うのは恐ろしいですね。ところで陸奥記念館に引き揚げられて展示されている品は、椰子の木で作った菓子器、硯、万年筆、腕時計、大工道具セット、軍刀、海軍短剣、南部式自動拳銃陸式、14年型拳銃、拳銃ケース、ランチ皿、洋皿、ナイフ、フォーク、アルミ弁当箱、礼装、礼帽、陸奥の模型などなど、あげればきりがありません。(ウツボ)だが陸奥の艦首についている菊の御紋章はこの記念館には無かったでしょう。(カモメ)そうですね、あれはありませんでしたね。御紋章はエピソードがいろいろありますね。(ウツボ)菊の御紋章は巡洋艦と戦艦には着いていた。陸軍の三八式歩兵銃にも着いていた。天皇家の御紋章ですね。(カモメ)駆逐艦、潜水艦は補助艦扱いなので菊の御紋章はついていなかったですね。(ウツボ)開戦時約80隻が着けていたが、現在残っているのは、「陸奥」と靖国神社の「迅鯨」、千葉県の香取神社の「香取」の三つだ。(カモメ)「香取」はワシントン軍縮条約で廃艦になった軍艦ですね。(ウツボ)そうだね。次回では陸奥の御紋章について、深く掘り下げてみましょう。
2007.06.01
(カモメ)爆発時、戦艦陸奥の三好艦長は戦艦扶桑から帰って艦尾に近い艦長公室で一人で昼食中だったのですね。(ウツボ)そう。当時の戦艦の艦長は一人で食事をするのだね。現代の海上自衛隊の護衛艦の艦長は士官室で艦の幹部と一緒に食事をとっているけどね。(カモメ)恐らく幹部同士のコミュニケーションを図っているのでしょうね。意思疎通は大切な事ですよね。(ウツボ)それは大切でしょうね。今は戦前の帝国軍人のように「上官の命令は天皇陛下の命令と同じである」とはいかないのだから。(カモメ)特に護衛艦などの戦闘システムはチームワークが重要なってくるのでしょうね。(ウツボ)うん。それもすばやい対応が必要だからね。ところで陸奥の艦長公室は四番砲塔の左舷後方にあった。四番砲塔いうのは、艦首から数えて四番目にある砲塔だね。(カモメ)陸奥の砲塔は艦橋の前に2基、後ろに2基設置してあった。つまり四番砲塔は最後部の砲塔ですね。(ウツボ)艦尾部は爆沈後もしばらく海面上に浮いていた訳だ。(カモメ)そうですね浮いていましたね。だけど艦尾部はやがて14時間後の6月9日午前2時頃、海中に沈んだということです。そのとき三好艦長は艦長公室にいた。(ウツボ)後日、遺体が引き揚げられて検視の結果、三好艦長は爆発の際の異常な高圧とガスで即死していたことが分かった。(カモメ)水も少ししか飲んでいなかったということです。驚くべきことは、陸奥乗組員の死亡者の大部分は水死ではなく三好艦長と同じ爆発による即死状態だったと記されています。(ウツボ)「海市のかなた」(中央公論新社)によると、三好艦長の遺体は第一艦隊司令長官・清水光美中将の命令で、沈没から9日たった6月17日引き揚げられ、荼毘にふされた。(カモメ)その時、遺体はきれいで後頭部に爆発の衝撃によると思われる打撲が認められただけだったと記されていますね。(ウツボ)どう。また、「戦艦陸奥」(サンケイ新聞社)によると、三好艦長の遺体はとくに潜水夫を入れて収容したとある。これは陸奥の最高責任者に対する儀礼でもあったと記されている。(カモメ)「陸奥爆沈」(新潮社)によると、もっと具体的に三好艦長の遺体引き揚げについて記されています。〈ウツボ)そうだね。重複するが、6月17日に、第一艦隊司令長官清水光美中将から陸奥艦長三好輝彦大佐の遺体を捜索して引き揚げよとの命令が出された。(カモメ)三好艦長を引き揚げたのは、呉海軍工廠の潜水室責任者福永金治郎工長ですね。(ウツボ)そうだね。艦長室は四番砲塔の左舷後方にあって、そこに到達するにはほとんど不可能に近い作業であったらしい。だが福永工長は部下の浜田潜水員とともに艦長室への潜入を行った。(カモメ)その時の記憶を福永工長は「陸奥爆沈」(新潮社)の著者の吉村昭氏に話していますね。(ウツボ)そこを読んでみよう。福永工長の話だ。「まず浜田が行った。私はその後に続いた。艦長室の入り口にたどりついて、部屋の中を見た。浜田が机にうつ伏せになっている人の体を抱いていた。それが艦長さんだった。昼食後休息をとっていたのか、上衣の襟のホックだけがはずれていた。服装は、乱れていなかった。立派な死に顔だ、と思った。浜田が艦長さんの体を抱いたまま浮上していった」と。(カモメ)三好艦長が引き揚げられた時刻は陸奥生存者の中村乾一大尉が記録した日記によると午後4時45分となっています。艦長の遺体は戦艦扶桑に運ばれ、同艦の軍医長によって検視された。(ウツボ)検視の後、三好艦長の遺体は柱島に近い無人島の続(つづき)島で荼毘にふされたんだ。このとき清水長官と三好艦長の友人である扶桑艦長・鶴岡大佐も立ち会った。(カモメ)そのとき、清水長官は無言の艦長の遺体に問うた。「おい、三好。どうしたんだ。いったい陸奥はなぜ爆発したんだ。三好、答えてくれ」と。(ウツボ)「海市のかなた」(中央公論新社)によると、戦艦陸奥の三好輝彦艦長は明治26年2月生まれで、大分県の竹田市出身だ。(カモメ)三好輝彦は三男で、長男は陸軍中将で退役後は竹田市長も勤めていますね。(ウツボ)三好艦長は海軍兵学校を卒業後、艦船乗組み、水雷学校、海軍大学校を卒業している。海軍大学校の教官もしている。(カモメ)そして大正11年、我妻近江と結婚しています。近江の父親は陸軍軍人で日露戦争で出征しています。(ウツボ)近江の母親の礒谷美の弟は関東軍で有名な磯谷廉介陸軍中将だね。両家とも軍人の家系だった。(カモメ)近江はお茶ノ水高等女子師範学校を卒業し厚木高等女学校で数学と物理の教師をしていたのですね。(ウツボ)そうなんだ。女性で数学と物理の先生というのは珍しかった、当時は。(カモメ)軍人の家系だから、そのような理数系の能力を授かったのかもしれないですね。(ウツボ)うん。そういうこともあるかも知れないね。軍人は数学と物理をものするからね。まあ、全ての軍人が理数系という訳でもないだろうが。(カモメ)現代の防衛大学校には文科系の学部もありますしね。(ウツボ)防衛大の文科系は入試倍率も高いし、偏差値もかなり高いね。さて大正11年に三好輝彦と結婚した時近江は22歳だった。海軍大尉の三好は29歳で、このとき28潜水艦に乗組んでいたんだ。(カモメ)見合い結婚で、三好大尉の結婚相手の条件は「何よりも頭の良い人」だったと記されています。(ウツボ)頭の良い人か。近江はお茶ノ水高等女子師範学校卒だからそれは合格したでしょうね。(カモメ)見合いして美人で頭の良い近江を一目で気に入り、日を置かず近江に手紙を書き送ったといわれています。(ウツボ)すごいものだね。毎日ラブレターを出した訳だ。この時が三好艦長の青春だったのですね。そして思った人とめでたく結婚できたのだね。(カモメ)本当にそうですね。青春でしたね。妻の近江は結婚後も教師を続けたが、大正13年3月に退職しています。三好輝彦は潜水艦乗りだったが、後に「由良」艦長、「妙高」艦長を経て、昭和18年3月、戦艦陸奥の艦長に任命されています。(ウツボ)そこのところは、輝彦は「潜水艦乗りの俺が大きい戦艦の艦長になるとは」と大喜びしていた、と記されている。(カモメ)ところで、陸奥爆沈当日、土浦の海軍航空隊から、甲種飛行予科練習生113人が、艦務実習のため陸奥に派遣されてきていたのですね。(ウツボ)うん。爆沈当日の午前11時頃、陸奥に到着したのだ。そして昼食をとり、その直後爆発した。助かったのは13人だけで、残り100人は死ぬ為に陸奥に来たようなものだった。(カモメ)練習生は当初、到着してすぐに甲板に整列して課業を開始する予定だったのですよ。(ウツボ)甲板にいたらかなり助かっていただろうね。(カモメ)ところが三好艦長の思いやりで、先に上手いものでも食わしてやれ、とのことで、全員艦内の食堂に降りていった。そして昼食をとった。そのとき爆発が起った訳です。〈ウツボ)運が悪かった。(カモメ)爆発当時の乗組員は1472人でした。そして死亡者と行方不明者は1121人でした。生存者350人は長門に収容されました。(ウツボ)陸奥爆沈後、多数の死体が海岸に流れ着いた。それらの死体は続島で荼毘にふされた。(カモメ)岩国市の柱島に近接している無人島が続島ですね。(ウツボ)そうだね。死体処理には陸奥の乗組員があたった。きのうまでの同僚に油を浴びせ、焼けと命じられたのだ。(カモメ)むごいことだと、思いますね。何も同僚にやらせなくても。(ウツボ)陸奥爆沈を秘密にしておかなければならなかったんだね。秘密保持の為に陸奥の生き残った乗組員を作業に使ったんだね。
2007.05.25
(カモメ)今回から陸奥爆沈の謎を追って、さ迷うわけですね。(ウツボ)謎を追うって、それほど大袈裟に考えないようにしょうよ。確かに陸奥爆沈の原因は不明とされていてミステリーですが、推定はされているので、我々も、それをたどっていくだけなんだから。(カモメ)だけど、資料や陸奥記念館に行ったり、図書館に行ったりして調べた結果、この陸奥爆沈は、かなりの広がりを見せますね。ふ~。(ウツボ)アハハ!最初から、ため息ですか。今日はどうしたんだい?(カモメ)陸奥の資料もどっさりあるし、最近会社の仕事も忙しくて、なかなか大変なんですよ。(ウツボ)そうですか、お疲れ様です。でも仕事が忙しいという事は、結構なことじゃないんですか?俺の分析では、忙しくて会社が繁盛すれば、社員も何か良い事が起るのでは。同じ仕事をするのでも何か良い事が起る期待感がある方がいいだろう。(カモメ)ウツボ先生、それは甘い分析です。忙しいのが短期間では、社員には良い事は何も起りません。一年中忙しいのが続くと、確かにウツボ先生の言われるように何かよい事が起こる可能性があります。だけど一年中忙しかったら、俺の身体はどうなりますか。良い事も起るが、悪い事も起る。(ウツボ)やれやれ、どう慰めたらいいものか。でも、忙しくても、とにかく働く場があることはありがたいことだろう。(カモメ)それはそうですね、失業したり、働きたくても働けない人もいますからね。(ウツボ)そうですよ。頑張って下さい。それでは本題に入りましょうか。(カモメ)ええ、戦艦陸奥の大爆発は、そもそも地元の俺達でさえ、陸奥爆沈のことは聞いていましたが、なぜ爆発したかという事については「火薬庫が爆発した」くらいしか知らなかったですね。(ウツボ)そうなんだ。俺も子供の頃から周防大島町伊保田に陸奥記念館があるのは知っていたし、今まで数回訪れた事もある。だが詳しい事は知らなかった。柳井周辺の知人に聞いても、陸奥記念館に行ったこともない人もいる位だよ。(カモメ)地元の人間というのは返って、無関心ですね。(ウツボ)戦艦陸奥が山口県岩国市の柱島沖合いで爆沈した日時さえ知っている人は少ない。(カモメ)戦艦陸奥が爆沈したのは第二次世界大戦中の昭和18年6月8日午後零時10分過ぎですね。爆沈地点は、柱島と周防大島町伊保田との中間地点の海上、柱島水道ですね。(ウツボ)そうですね。(カモメ)岩国市は我々のいる柳井市から車で1時間の距離ですね。(ウツボ)うん。周防大島町伊保田もここから同じくらいの距離ですね。車で50分くらいかな。周防大島町の玄関大島大橋から一番外れに当たる訳だ。(カモメ)柱島水道は柱島泊地、柱島錨地とも呼ばれ、日本帝国海軍のメッカでもあり、オアシスでもあった訳ですね。(ウツボ)南に屋代島(現周防大島)が横たわり、伊予灘の荒波をさえぎっている。周りは大小の島々が取り囲んでおり、おだやかな海面をつくっている。(カモメ)当時は、敵潜水艦の侵入も地形的にほとんど不可能だったですね。さらに海軍工廠のある呉軍港、燃料廠のある徳山にも半日で往復できるから、何かと乗組員にとっては便利な所だった。(ウツボ)それに加えて水深と広さが大艦隊の長期停泊を可能にしていた。艦隊の憩いの地、いや海だった。(カモメ)昭和18年6月8日の爆沈当時、柱島泊地には陸奥のほか、戦艦扶桑、巡洋艦最上、竜田、大淀、そして駆逐艦群が待機していましたね。(ウツボ)そう。ところで、当日、戦艦陸奥は旗艦ブイを戦艦長門に代わるため、移動することになっており、移動の準備に移っていたんだ。(カモメ)「戦艦陸奥」(サンケイ新聞社)によると、陸奥がこの地点にいたのは、ここに旗艦ブイがあったからだと記されています。(ウツボ)そう。旗艦ブイに係留している陸奥の長官公室は、この旗艦ブイを通じて呉鎮守府と有線電話がつながっていたのだね。(カモメ)そもそもこの時期、第一艦隊の旗艦は長門だったのですよね。(ウツボ)そうですね。陸奥は5月31日呉海軍工廠で入渠と整備補給を終え、柱島水道に帰着した。代わって戦艦長門がドックに入ったので、その期間中、陸奥が第一艦隊の旗艦の任に着いた。(カモメ)もう一度確認しますが、その日6月8日は、長門が柱島に帰ってきて、旗艦交代で、旗艦ブイに長門が係留する予定なので、陸奥は旗艦ブイを長門に譲り、離れる予定であったということですね。(ウツボ)そういうことですね。離れて少しの距離を移動するだけだった。そんなに大したことではなかった。(カモメ)この日は霧が立ち込めていましたね。戦艦長門は午前9時、呉軍港を出発、霧の中を戦艦陸奥と交代する為に旗艦ブイに向かっていた。旗艦ブイに到着は午後1時の予定だった。その時点では陸奥は他の場所に移動しているはずだった。(ウツボ)陸奥艦長の三好輝彦大佐は、その日、近くの戦艦扶桑に友人の鶴岡信道艦長を訪ねたんだね。(カモメ)そうですね。帰るとき鶴岡艦長はしきりに三好艦長に「昼食を食っていけ」とすすめたと言われています。だが三好艦長は「いやふね(艦)を動かす時間なので」と断って、陸奥に帰っていったそうです。(ウツボ)陸奥の移動は予定された作業なので特に艦長の在艦を必要とするようなものではなかったんだね。だが、三好艦長はせっかくの誘いを断って、陸奥に戻った。それが運命の分れ目となった。(カモメ)第一艦隊司令長官の清水光美中将は、陸奥爆沈の当日午前10時、呉軍港を長艦艇で出発、柱島水道に向かっていたのですね。(ウツボ)そうだよ。陸奥と交代して旗艦ブイに係留する長門に座乗するためだった。つまり陸奥の爆沈する地点に向かっていた事になる。(カモメ)正午頃、長門は旗艦ブイに近づきずつあった。陸奥まで約1.5キロの地点だった。視界は霧で1キロだった。長門も陸奥の爆沈する地点に向かっていた訳ですね。〈ウツボ)そう向かっていた。その時、長門の上甲板にいた田代一等兵曹は長門の前方に陸奥の艦影を見ていたと記されている。(カモメ)そしてその日の正午頃、三好輝彦艦長は陸奥の艦長室で一人で食事をとっていたのですね。〈ウツボ)そうだ。扶桑から帰っていたのだね。そして昭和18年6月8日午後零時十分過ぎ、惨事は濃い霧の中の柱島泊地で起った。光と、鋭い金属音と、裂けて吹っ飛ぶような振動と物凄い爆発音が起った。陸奥爆沈だ。(カモメ)柱島の住民達は窓ガラスが割れるほどの衝撃と爆発音を聞いて、一斉に不安げに海辺に出たそうです。だが海は深い霧に閉ざされていた。陸奥は爆発からわずか2分後には沈没しましたね、艦尾だけを残して。〈ウツボ)そう、すぐ沈んだ。その時長門の上甲板にいた田代一等兵曹は「突然、耳をつんざくような物凄い爆発音が長門の艦首方向で起った」と証言している。(カモメ)また「アッ陸奥だ、と誰かが叫んだ。巨艦陸奥の艦影が噴煙の中に消え、轟音とともに、火柱が天高く吹き上がった」とも。〈ウツボ)「鉄片が木の葉のように舞った」ともある。想像を絶した大爆発だった訳だ。「主砲が、砲塔ごと飛んで行った」とも証言している。(カモメ)すごいですね。500トンを越える主砲が、砲塔ごと飛んでいったとは。主砲の三番砲塔が本体からちぎれ飛んだのだから。〈ウツボ)一方、清水中将の乗った長艦艇は進行方向にすさまじい爆発音を聞いた。「ズシーンという、これまでに聞いた事のないような音でした」と上海事変以来の歴戦の勇士で、長官艇を指揮していた藤田兵曹長はそう証言しているんだ。(カモメ)清水長官は顔を青くしていたらしいですね。長官艇は陸奥に向かって突き進んだが、その海域にはどこにも陸奥はいなかった。〈ウツボ)そして、そこには陸奥の艦尾が10メートルばかり、さびしそうに浮いているのを見て、唖然としたと記されている。(カモメ)山本五十六連合艦隊司令長官が第22代艦長、保科善四郎大佐に「陸奥は沈ませてはならぬ」と厳命したという、栄光の巨艦の憐れな末路だったのですね〈ウツボ)そう。山本五十六連合艦隊司令長官の期待に反して、陸奥の約四万トンの巨体は三番砲塔付近で真っ二つに裂けたのだ。
2007.05.18
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