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(カモメ)藤村義一少佐は昭和十八年十一月中佐。昭和十九年六月在フランス大使館附武官補佐官、十月在ドイツ大使館附武官補佐官を兼務。昭和二十年三月連合軍侵攻によるベルリンの戦いを前にして、スイスへ移駐。スイス公使館海軍顧問・西原市郎大佐の補佐官に就任。(ウツボ)昭和二十年五月頃から、藤村中佐は、アメリカの情報機関(OSS)のヨーロッパ責任者であるアレン。ウェルシュ・ダレスを相手に対米和平・終戦工作を行う。(カモメ)昭和二十一年三月予備役。昭和二十三年四月商社「ジュピターコーポレーション」を創業、社長に就任。後に防衛産業にも参入。(ウツボ)スイス公使館の藤村中佐が戦争末期に和平工作を行ったことは、昭和二十六年、雑誌「文藝春秋」に「痛恨!ダレス第一電」と題した手記を発表したことにより世に知られることになった。(カモメ)スイスの藤村中佐がダレスとの和平工作を昭和二十年五月八日に、東京の海軍省に最初の電報を打った。以後も何回も海軍省に対して、説得する電報を打ったが、海軍省は「この件は公使などと連携して現地で善処されたい」と、乗る気はなかったのです。(ウツボ)これにより、藤村中佐の提案は「幻の平和工作」に終わったが、戦後、注目され、出版物やテレビ放送などで、取り上げられた。【甲種三八期首席・山口史郎中佐(海兵五六)】(カモメ)次は、甲種三八期首席・山口史郎(やまぐち・しろう)中佐ですね。海軍大学校甲種三八期は昭和十五年四月二十四日入学、昭和十七年十二月一日~昭和十八年六月二日卒業。卒業者数二十七名。鈴木英中佐、島田航一中佐、藤森康男中佐、大谷藤之助中佐、岡本功中佐などがいます。(ウツボ)山口史郎は、広島一中から、海軍兵学校に入校。昭和三年三月十六日海軍兵学校(五六期)を卒業。昭和十一年二月六日戦艦「榛名」第六分隊長(大尉)。(カモメ)昭和十五年四月海軍大学校(甲種学生)入学。昭和十七年十二月一日~昭和十八年六月二日海軍大学校(三八期)を首席で卒業。昭和二十年軍令部部員(中佐)。【甲種三九期首席・吉岡忠一中佐(海兵五七)】(ウツボ)次は、甲種三九期首席・吉岡忠一(よしおか・ただかず)中佐だ。海軍大学校甲種三九期は昭和十八年七月一日入学、昭和十九年三月四日卒業。卒業者数二十五名。久住忠男中佐、小野田寛治郎大佐、宮本鷹雄中佐、山本繁一中佐、石黒進中佐、井筒紋四郎中佐、畑野健二中佐、鳥巣建之助中佐、千早正隆中佐などがいる。(カモメ)吉岡忠一中佐は明治四十一年五月十四日生まれ。静岡県浜松市出身。後に吉岡保貞海軍機関中将の養子になりました。(ウツボ)吉岡忠一中佐の兄は、大杉守一(おおすぎ・もりかず)海軍中将(静岡・海兵四一・海大二五・第三戦隊参謀・大佐・東京通信隊司令・戦艦「金剛」艦長・青島警備隊司令・海軍兵学校教頭・少将・第一〇戦隊司令官・第二三特別根拠地隊司令官・中将・捕虜虐待事件で刑死)だ。(カモメ)吉岡忠一は、大正十五年四月九日海軍兵学校に入校。昭和四年三月二十七日海軍兵学校(五七期・恩賜)を卒業。昭和十六年九月第一航空艦隊航空乙参謀、十二月真珠湾攻撃に参加。(ウツボ)真珠湾攻撃で第二次攻撃を行わなかった理由について、「丸」一九九五年二月号で吉岡忠一元海軍中佐は次のように述べている。(カモメ)読んでみます。「敵空母の位置が不明であることに対して、味方の位置は敵に知られていた。しかも、その日の攻撃は時間的に不可能で、再攻撃は翌日でなければできなかった。こうした状況で第二次攻撃を実施すれば、ミッドウェー海戦のような悲劇が起きていたかもしれない」。(ウツボ)昭和十七年六月ミッドウェー海戦に参加。開戦当日、索敵計画は吉岡少佐が立案したが、敵機動部隊の発見が遅れ、敗北の一因となった。(カモメ)戦後吉岡は「当時作戦中に敵艦隊が出現することはほとんど考えていなかった。そのため索敵は厳重にすることは分っていたが、索敵には艦攻を使用しなければならなかったが、攻撃兵力が減るので、惜しくて使わなかった。状況判断は甘かった。もっと密度の濃い索敵をすべきだった」と述べています。(ウツボ)昭和十七年七月十四日第三艦隊参謀、ミッドウェー海戦の戦闘詳報を作成。十一月十五日横須賀航空隊飛行隊長。(カモメ)吉岡少佐は、昭和十八年七月海軍大学校(甲種学生)入学。昭和十九年三月海軍大学校(三九期)を首席で卒業、第二六航空戦隊首席参謀、七月第一航空艦隊参謀を兼務、十月中佐。昭和二十年一月横須賀鎮守府附、八月十五日ルソン島で捕虜として終戦を迎えました。(ウツボ)戦後、昭和二十六年二月、吉岡は兵庫県神戸市で、吉岡商会(工具・鋼材の販売)を創業した。吉岡商会は昭和三十一年八月に吉岡興業株式会社となり発展した。平成十二年死去。享年九十二歳。(カモメ)海軍大学校は、三九期を最後に、その後は新たに学生を募集せず、昭和二十年五月以降は海軍大学校としての機能を失ったのです。終戦後、海軍大学校は廃止され、建物は国立予防衛生研究所として使用されました。(ウツボ)なお、海軍大学校の旧蔵書のうち約八千冊が、広島県呉市にある海上保安大学校の図書館に「旧海軍大学校図書」として保存されている。(今回で「海軍大学校首席列伝」は終わりです。次回からは「陸軍大将異聞」が始まります)
2015.10.23
(ウツボ)豊田隈雄大尉は、昭和九年十一月海軍大学校(甲種学生)入学。昭和十一年十一月海軍大学校(三四期)を首席で卒業。昭和十五年十一月在ドイツ大使館附海軍武官補佐官。昭和二十年八月十五日終戦時大佐、十二月帰国、予備役編入、復員庁第二復員局に勤務。昭和二十二年三月第二復員局調査部長。(カモメ)戦後、豊田隈雄は、(財)日独協会常務理事。晩年は高松宮宣仁親王・大佐の「高松宮日記」の出版事業に従事しました。平成七年二月二十三日死去。享年九十三歳でした。(ウツボ)日中戦争当時、豊田隈雄少佐は、台湾から中攻による渡洋爆撃を考案した。さらに自ら搭乗して指揮し、金鵄勲章を拝受した。戦場では勇猛果敢な航空参謀、武官補佐官としては誠実、有能な外交官だった。(カモメ)戦後第二復員局に勤務し、極東軍事裁判の対策に従事し、BC級戦犯問題では多数の資料収集を行いました。現在これらの資料は国立公文書館に保存されており、閲覧できます。【甲種三五期首席・松本作次大佐(海兵五三)】(ウツボ)次は、甲種三五期首席・松本作次(まつもと・さくじ)大佐だ。海軍大学校甲種三五期は昭和十年十月三十一日入学、昭和十二年七月二十八日卒業。卒業者数三十名。有泉龍之介大佐、源田実大佐、庵原貢大佐、華頂博信大佐、福地誠夫大佐などがいる。(カモメ)松本作次は石川県出身。石川県立小松中学校から海軍兵学校に入校。大正十四年七月海軍兵学校(五三期)卒業。昭和十年十月海軍大学校(甲種学生)入学。昭和十二年七月海軍大学校(三五期)を首席で卒業(大尉)。(ウツボ)昭和十四年四月在ドイツ大使館附武官補佐官(少佐)。昭和十五年七月十日駆逐艦「子日」艦長。大本営参謀。昭和二十年七月十日戦死。【甲種三六期首席・室井捨治中佐(海兵五四)】(カモメ)次は、甲種三六期首席・室井捨治(むろい・すてじ)大佐ですね。海軍大学校甲種三六期は昭和十一年十二月一日入学、昭和十三年九月十五日卒業。卒業者数二十四名。内藤雄大佐、立花止大佐、清水洋大佐、淵田美津雄大佐、大石宗次中佐、中山貞義中佐などがいますね。(ウツボ)室井捨治は石川県出身。大正十二年四月一日海軍兵学校入校。大正十五年三月二十七日海軍兵学校(五四期)卒業。昭和十一年十二月海軍大学校(甲種学生)入学。昭和十三年九月海軍大学校(三六期)を首席で卒業(大尉)。(カモメ)昭和十四年九月二十日在~昭和十五年十二月二十六日ドイツ大使館附武官補佐官(少佐)。その後連合艦隊航空乙参謀に就任。昭和十八年四月十八日戦死。(ウツボ)昭和十八年四月七日から十五日にかけて行われた「い」号作戦は、一応の成功を収めて終わり、連合艦隊司令長官・山本五十六大将のラバウル滞在の日程も、終わりに近づいてきた。(カモメ)山本司令長官は日程の最後に、ガダルカナル戦線に最も近いショートランド島方面の基地を日帰りで視察することになったのですね。(ウツボ)そうだね。四月十八日午前六時五分、山本五十六司令長官と宇垣参謀長ら司令部幕僚は、第二十六航空戦隊第七〇五航空隊所属の一式陸攻二機に分乗しラバウルを出発した。(カモメ)六機の護衛戦闘機に守られながら一番機と二番機の一式陸攻二機は飛行しましたが、午前七時三十分、ブーゲンビル島上空で、米軍のP38戦闘機十六機に攻撃され、二機とも撃墜されました。一番機は、山本司令長官をはじめ全員戦死したのですね。(ウツボ)二番機は、宇垣参謀長、連合艦隊主計長・北村元治少将(海経五期)、主操・林浩二等飛行兵曹の三人が生還したが、その外は全員戦死した。(カモメ)この二番機に搭乗して戦死したのが、連合艦隊航空乙参謀・室井捨治少佐でした。室井少佐は戦死後中佐に特別進級しました。【甲種三七期首席・藤村義一中佐(海兵五五)】(ウツボ)次は、甲種三七期首席・藤村義一(ふじむら・よしかず)中佐だ。戦後、義郎(よしろう)と改名。海軍大学校甲種三七期は昭和十三年十二月十五日入学、昭和十五年四月二十四日卒業。卒業者数三十名。橋本逸夫大佐、岡田貞外茂大佐、杉江一三中佐、中島親孝中佐、三上作夫中佐などがいる。(カモメ)藤村義一は明治四十年二月二十四日生まれ。大阪府出身。実業家・藤村義正の長男。堺中学校から、大正十三年四月海軍兵学校入校。昭和二年三月二十八日海軍兵学校(五五期)を卒業。昭和三年十月少尉。海軍砲術学校高等科卒業。昭和九年七月駆逐艦「長月」砲術長。(ウツボ)砲術学校専攻科学生。駆逐艦「綾波」砲術長。砲術学校教官。駆逐艦「白雲」砲術長、施設艦「厳島」砲術長を歴任。昭和十四年十一月少佐。昭和十三年十二月海軍大学校(甲種学生)入学。昭和十五年四月海軍大学校(三七期)を首席で卒業、五月ドイツに駐在、マクデブルク大学に留学、十一月在ドイツ大使館附武官補佐官。
2015.10.16
【甲種三三期首席・樋端久利雄大佐(海兵五一)】(カモメ)次は、甲種三三期首席・樋端久利雄(といばた・くりお)大佐ですね。海軍大学校甲種三三期は昭和八年十二月一日入学、昭和十年十一月二十六日卒業。卒業者数二十四名。渓口泰磨大佐、榎尾義男大佐、三代辰吉(一就)大佐、井浦祥二郎大佐などがいます。(ウツボ)樋端久利雄は明治三十六年八月一日生まれ。香川県白鳥本町出身。農業・樋端荒吉の三男。香川県立大川中学校から、大正九年八月二十六日海軍兵学校入校。大正十二年七月十四日海軍兵学校(五一期)を首席で卒業。(カモメ)海軍兵学校では、樋端生徒は、前後数クラスの中でも抜群の成績で、将来を嘱望された大秀才でしたね。だが、不思議なことに、人柄は、天才的ではなく、鋭敏さも感じられず、体力も優れてはいなかったということです。(ウツボ)そうだね。一風変わった人物で、彼が思考に集中している時は、口元が締まらず、ぼんやりしているように見えたという。当時の写真も見たが、秀才的な洗練された風貌ではないし、スポーツ選手のような感じでもない。ところが、全校生徒が参加した弥山登山競技では一位になった。(カモメ)海軍兵学校卒業後、少尉候補生として練習艦「磐手」乗組。大正十二年十二月少尉、戦艦「長門」乗組。大正十五年九月第一五期飛行学生、横須賀航空隊附。その後、水上機母艦「能登呂」乗組、霞ヶ浦教官を歴任。(ウツボ)昭和四年在フランス大使館附武官補佐官。軍令部附国際連盟代表随員として、ジュネーヴ軍縮会議に同行。昭和七年横須賀航空隊分隊長。樋端大尉の考案した九二式爆撃照準器が採用される。(カモメ)昭和十年十一月海軍大学校(三三期)を首席で卒業。海軍大学校在校中から、樋端少佐は空母の飛行機は集団として独立させて作戦に使用し攻撃力を発揮させるべきであると主張していたのですね。(ウツボ)そうだね。当時海軍大学校教官だった小沢治三郎(おざわ・じざぶろう)大佐(宮崎・海兵三七・海大一九・水雷学校教官・砲術学校教官・航海学校教官・欧米出張・大佐・第四駆逐隊司令・海軍大学校教官・陸軍大学校教官・戦艦「榛名」艦長・少将・海軍大学校教官・連合艦隊参謀長・水雷学校校長・第一航空戦隊司令官・第三戦隊司令官・中将・海軍大学校校長・南遣艦隊司令長官・第三艦隊司令長官・第一機動艦隊司令洋館・軍令部次長・連合艦隊司令長官・海上護衛隊司令長官)は次のように述べている。(カモメ)読んでみます。「俺に航空戦術を教えてくれたのは、山岡三子夫、樋端久利雄、木田達彦だ」。樋端少佐は、当時から航空戦略の構想に優れたものがあったのですね。(ウツボ)海軍大学校卒業後、軍令部第一部第一課部員、支那方面艦隊兼第三艦隊参謀。兼中支那派遣軍参謀。誤爆によるパネー号事件が起きる。(カモメ)重慶爆撃では、敵が迎撃するのに対して、敵戦闘機の燃料が途切れるまで待って爆撃を開始するという「樋端ターン戦法」で、戦果を上げ、新聞でも取り上げられました。(ウツボ)樋端少佐は、昭和十三年十二月連合艦隊参謀に補された。当時の連合艦隊司令長官は吉田善吾(よしだ・ぜんご)中将(佐賀・海兵三二・十二番・海大一三・教育局第二課長・大佐・軍務局第一課長・戦艦「陸奥」艦長・少将・連合艦隊参謀長・軍務局長・中将・練習艦隊司令官・第二艦隊司令長官・連合艦隊司令長官・海軍大臣・大将・支那方面艦隊司令長官・海軍大学校校長・横須賀鎮守府司令長官)だった。(カモメ)部下の作成した書類を細かく訂正することで知られた連合艦隊の吉田善吾司令長官も、樋端少佐の作成したものを訂正することはほとんどなかったということです。(ウツボ)昭和十四年中佐に進級、第一五海軍航空隊飛行長。昭和十五年十一月海軍省軍務局第一課A局員。昭和十七年十一月連合艦隊甲航空参謀。(カモメ)昭和十八年四月十八日、樋端中佐は、連合艦隊司令長官・山本五十六大将の一式陸攻での前線視察に随行し、ブーゲンビル島上空で、アメリカ陸軍航空隊P-38戦闘機に撃墜され、山本長官とともに戦死、海軍大佐に特別進級しました。享年三十九歳でした。(ウツボ)樋端中佐の戦死の報を聞いた若手将校たちは「長官の代わりはいるが、樋端中佐の代わりの人材はいない。日本海海戦の秋山真之参謀に匹敵する逸材を失った損失はあまりに大きい」との声が上がった。(カモメ)また、真珠湾攻撃で航空参謀だった源田実(海兵五二・海大三五次席・大佐・戦後航空幕僚長・参議院議員)は、樋端大佐について、戦後、次の様に言っていました。(ウツボ)読んでみよう。「樋端大佐に全海軍の作戦を預けて存分にその明快極まる脳味噌を働かせてもらいたかった。この人がもっと永く生き残り、もっと働ける立場にあったならば、太平洋戦争の様相はもっと変わっていたかもしれない」。【甲種三四期首席・豊田隈雄大佐(海兵五一)】(カモメ)次は、甲種三四期首席・豊田隈雄(とよだ・くまお)大佐ですね。海軍大学校甲種三四期は昭和九年十一月一日入学、昭和十一年十一月二十六日卒業。卒業者数三十名。大井篤大佐、山田盛重大佐、実松譲大佐、高松宮宣仁親王・大佐、内田成志大佐、堤正之少佐などがいますね。(ウツボ)豊田隈雄は明治三十四年十二月十三日生まれ。大分県杵築市出身。旧制大分県立宇佐中学校から、大正九年八月二十六日海軍兵学校入校。大正十二年七月十四日海軍兵学校(五一期・八十四番)を卒業、少尉候補生、練習艦「浅間」乗組、遠洋航海。(カモメ)大正十三年十二月少尉。大正十五年十二月中尉。昭和二年三月霞ヶ浦海軍航空隊飛行学校偵察科第五期学生、十一月同飛行学校優等卒業、十二月空母「鳳翔」乗組。昭和三年十二月大尉。昭和四年十二月霞ヶ浦海軍航空隊飛行教官。
2015.10.09
(ウツボ)神重徳少佐は、昭和八年十二月ドイツ駐在。昭和十年四月在ドイツ国大使館附武官補佐官。昭和十一年三月軍務局第一課、十二月中佐。昭和十二年十一月大本営海軍報道部部員。昭和十四年五月第五艦隊参謀、十一月軍令部第一課第一部・大本営参謀。(カモメ)昭和十六年十月大佐。昭和十七年七月第八艦隊参謀。昭和十八年六月二等巡洋艦「多摩」艦長、十二月教育局第一課長。昭和十九年五月教育局第一課長・第二課長・第三課長、七月連合艦隊参謀。昭和二十年六月神大佐は、第一〇航空艦隊参謀長、九月十五日飛行機事故で殉職、少将に進級。享年四十五歳。(ウツボ)「連合艦隊のリーダーたち」(阿川弘之編著・プレジデント社)によると、神重徳の実家は「神焼酎」製造元で、長男でありながら、家業を継がず、海軍へ進んだ。薩摩海軍の直系だね。(カモメ)海軍大学校を卒業後、大使館附武官補佐官補として、神重徳少佐はドイツに駐在し、昭和十年十二月十一日に帰国するまで約二年間をドイツで過ごしました。(ウツボ)神少佐はミュンヘンやベルリンで、熱っぽくヒトラー礼賛を語った。また、自ら三十五ミリカメラを回して、ヒトラーの閲兵ぶりを撮影した。神少佐は熱烈なナチス心酔派となって日本に帰って来たのだね。(カモメ)そうですね。ヒトラーの第三帝国に魅せられましたね帰国後、海軍省軍務局出仕、大本営報道部員、第五艦隊参謀を歴任して、昭和十四年十一月、神中佐は、軍令部第一部第一課、つまり作戦課の先任参謀として中央に戻って来たのですね。(ウツボ)そうだね。神参謀が独特の存在が海軍部内で注目されて来るのはこの頃からだった。昭和十二年から十五年にかけて、日独伊三国同盟締結の可否をめぐって、陸海軍の相克は激しさを増してきた。(カモメ)当時の海軍首脳部は反対の立場をとっていましたが、海軍部内には強力な賛成論者のグループがいました。米内光政、山本五十六、井上成美の海軍首脳トリオが中央から去った後は、賛成の強硬派グループが突き上げて来たのですね。(ウツボ)神参謀も井上軍務局長に、しばしば議論を挑んだが、井上軍務局長には勝つことが出来なかったと言われている。だが、昭和十五年九月二十七日には日独伊三国同盟は締結され、昭和十六年十二月、日本は太平洋戦争に突入した。太平洋戦争開戦の直前に神重徳は大佐に昇進した。(カモメ)太平洋戦争開戦後、第一次ソロモン海戦で、第八艦隊参謀として、夜襲作戦を立案、見事に敵艦隊を壊滅させたのですね。(ウツボ)それで、神大佐は「作戦の神様」と呼ばれ、太平洋戦争中、海軍部内で知られるところとなり、注目された。(カモメ)戦争末期、神大佐は、海軍省教育局課長時代に、教育局長・高木惣吉少将の下で東條英機首相暗殺計画の実行グループでした。だが、サイパン陥落で東條内閣が総辞職したため暗殺計画は中止されました。(ウツボ)さらに、戦艦大和を旗艦とする第二艦隊の沖縄水上特攻作戦を主張、強引に連合艦隊司令長官豊田副武大将から決裁をもらい、作戦を実行した。(カモメ)終戦後の昭和二十年九月十五日、搭乗していた航空機が津軽海峡に不時着、神大佐の指示で、他の搭乗者は全員脱出し米軍の駆逐艦に救助されたが、神大佐だけは脱出せず、飛行機に残ったまま手を振って沈んでいったのですね。(ウツボ)この事件について、神大佐の息子の神重隆氏は、「丸エキストラ戦史と旅26・参謀の功罪」(潮書房)に寄稿しており、「父は、自殺ではなく、疲労による水死と思う」と述べ、その根拠も述べている。(カモメ)けれども、神大佐の太平洋戦争中の軍歴から考慮すると、依然として自殺説も消えませんでした。【甲種三二期首席・鹿岡円平少将(海兵四九)】(ウツボ)次は、甲種三二期首席・鹿岡円平(かのおか・えんぺい)少将だ。海軍大学校甲種三二期は昭和七年十二月一日入学、昭和九年七月十九日卒業。卒業者数二十一名。山本祐二少将、大前敏一大佐、扇一登大佐、佐薙毅大佐、柴勝男大佐、吉田英三大佐などがいる。(カモメ)鹿岡円平は明治三十四年四月十一日生まれ。福岡県出身。医師・鹿岡貫治の四男。旧制石川中学校から、大正十年七月十六日海軍兵学校(四九・皇族二名を除いた席次は五席)卒業。大正十一年五月少尉。大正十二年三月水雷学校普通科学生(首席で卒業)、七月砲術学校普通科学生、十二月巡洋戦艦「榛名」乗組。(ウツボ)大正十三年四月装甲巡洋艦「八雲」乗組、十二月中尉。大正十四年十二月第二七号駆逐艦航海長・分隊長。大正十五年十二月大尉、水雷学校高等科学生。昭和二年十二月一等巡洋艦「加古」分隊長。昭和四年五月米国駐在(イェール大学留学)。(カモメ)昭和六年七月一等駆逐艦「夕霧」航海長、十二月一等巡洋艦「羽黒」分隊長。昭和七年十二月少佐、海軍大学校甲種学生。昭和九年七月海軍大学校(三二期)を首席で卒業、十一月軍令部第一部第二課。(ウツボ)昭和十年三月砲艦「嵯峨」艦長、十一月軍令部第一部第二課。昭和十二年十二月中佐。昭和十三年九月第二根拠地隊参謀。昭和十四年十一月軍務局第一課。昭和十六年十月東條英機首相秘書官。昭和十七年十一月大佐。(カモメ)昭和十九年八月一等巡洋艦「那智」艦長、十一月五日マニラ湾で米空母「レキシントン」の艦載機による空襲で「那智」は撃沈され、艦長・鹿岡大佐は戦死した。戦死後少将に特別進級。享年四十三歳。功四級。(ウツボ)鹿岡大佐の戦死の報告を受けた東條英機は、家で飼っていた犬に「那智」と名付けて、鹿岡大佐を偲んだと言われている。
2015.10.02
【甲種三〇期首席・山本親雄少将(海兵四六)】(ウツボ)次は、甲種三〇期首席・山本親雄(やまもと・ちかお)少将だ。海軍大学校甲種三〇期は昭和五年十二月一日入学、昭和七年十一月二十六日卒業。卒業者数二十一名。久邇宮朝融王中将、城英一郎少将、大石保少将、宮崎俊男大佐、藤井茂大佐、長沢浩大佐、加世田哲彦中佐などがいる。(カモメ)山本親雄は明治二十九年十月十三日生まれ。愛媛県松山市出身。漢学者・山本伴重の養嗣子。愛媛県立松山中学校から、大正四年九月四日海軍兵学校四六期に百三十一名中首席で入校。大正七年十一月二十一日海軍兵学校(四六・三席)卒業。大正八年八月少尉。(ウツボ)大正九年十二月水雷学校普通科学生。大正十年五月砲術学校普通科学生、十二月中尉。大正十一年三月横須賀航空術学生、十一月霞ヶ浦空航空術学生、十二月霞ヶ浦空教官。大正十二年十二月霞ヶ浦空分隊長心得・教官。(カモメ)大正十三年十二月大尉、在米国大使館附武官補佐官(航空関係担当)。昭和二年五月軍令部出仕、七月霞ヶ浦空教官、十一月霞ヶ浦空分隊長・教官。昭和三年十月空母「赤城」分隊長。昭和四年十一月霞ヶ浦空飛行長・教官、少佐。昭和五年十二月海軍大学校甲種学生。昭和七年十一月海軍大学校(三〇期)を首席で卒業、横須賀鎮守府附。(ウツボ)昭和八年一月連合艦隊司令部、三月海軍省人事局第一課。昭和九年十一月中佐。昭和十年十一月第一航空戦隊参謀。昭和十一年十一月軍令部第一部第一課。昭和十四年十一月大佐。昭和十五年十一月水上機母艦「千歳」艦長。(カモメ)昭和十六年九月航空本部総務部第一課長。昭和十七年十一月航空本部総務部第一課長・第二課長。昭和十八年一軍令部月軍令部第一部第一課長、四月軍令部第一部第一課長・第二課長。昭和十九年十月少将。昭和二十年一月第一一航空戦隊司令官、二月第五航空艦隊司令部、連合艦隊司令部附、三月第一〇航空艦隊参謀長、五月第七二航空戦隊司令官。(ウツボ)戦後、山本親雄少将は、中華民国(台湾)・蒋介石総統に招聘され、中華民国軍事顧問団(白団=旧日本軍将校を中心とする軍事顧問団)の副団長を務めた。(カモメ)ちなみに、団長は、富田直亮(とみた・なおすけ)陸軍少将(熊本・陸士三二・陸大三九・東京外国語学校・米国留学・参謀本部部員・朝鮮軍参謀・少佐・陸軍省軍務課国内班長・第一軍高級参謀・大佐・陸大教官・少将・第二三軍参謀長・戦後台湾政府軍事顧問団<白団>団長・台湾陸軍上将<陸軍大将>)でしたね。(ウツボ)山本親雄少将は、昭和五十五年十一月四日死去。享年八十四歳。著書・翻訳書は、「大本営海軍部―回想の大東亜戦争」(白金書房)、「栄光のバトル・オブ・ブリテン」(エドワード・ビショップ・山本親雄訳)、「スピットファイヤー」(ジョン・ベダー・山本親雄訳)などがある。(カモメ)大正十三年十二月山本親男大尉は、在米国大使館附武官補佐官(航空関係担当)になり、駐米武官の山本五十六大佐に仕えました。(ウツボ)山本親雄大尉は、武官事務所で、山本五十六大佐に「軍人は政治にかかわらずというのが御勅諭の精神ですから、自分は政治のことには、あんまり関心を払わないことにします。新聞も政治面はあまり読みません」と言った。(カモメ)すると山本五十六大佐は「ばか者。政治にかかわらずというのは、知らんでいいということじゃない。そんな心掛けでどうするか」と叱りつけたということです。(ウツボ)なお、山本親雄少将は戦後、「実に今度の戦争で一番予想に反したのは、我が潜水艦の不振な戦績であった」と述べている。【甲種三一期首席・神重徳少将(海兵四八)】(カモメ)次は、甲種三一期首席・神重徳(かみ・しげのり)少将ですね。海軍大学校甲種三一期は昭和六年十二月一日入学、昭和八年五月二十日卒業。卒業者数二十四名。三和義勇少将、細谷資芳少将、渡名喜守定大佐などがいます。(ウツボ)神重徳は明治三十三年一月二十三日生まれ。鹿児島県出水市出身。神焼酎製造経営者である神惣士の長男。大正六年旧制鹿児島県立川内中学校から海軍兵学校を受験したが、不合格となり、同年十月の第四八期補欠募集で百六十六名中二十九番の成績で合格した。(カモメ)大正九年七月十六日海軍兵学校(四八期・十番)卒業。大正十年六月少尉。大正十一年七月砲術学校普通科学生、十二月水雷学校普通科学生。大正十二年三月装甲巡洋艦「八雲」乗組、十二月中尉。大正十三年四月一等駆逐艦「矢風」航海長心得、十二月戦艦「山城」分隊長。(ウツボ)大正十四年十二月大尉、砲術学校高等科学生。大正十五年十二月戦艦「伊勢」分隊長。昭和二年十二月戦艦「扶桑」分隊長。昭和三年十二月海軍兵学校教官。(カモメ)昭和五年十二月巡洋戦艦「霧島」分隊長。昭和六年十月軍令部第一班第二課、十二月少佐、海軍大学校甲種学生。昭和八年五月海軍大学校(三一期)を首席で卒業、巡洋戦艦「霧島」副砲長。
2015.09.25
(カモメ)昭和十八年九月、横山一郎大佐は、海軍省首席副官を命じられ、柳澤蔵之助(やなぎさわ・くらのすけ)大佐(長野・海兵四六・一七番・海大二九首席・国連海軍代表随員・ジュネーブ海軍軍縮会議全権随員・中佐・大本営海軍報道部員・中支那派遣軍参謀・大佐・特設輸送艦「浅香丸」艦長・海軍軍令部参謀・第二艦隊先任参謀・海軍省先任副官・連坊艦隊参謀・海軍乙事件で殉死・少将) と交代しました。(ウツボ)実は、連合艦隊首席参謀である高田利種(たかだ・としたね)大佐(鹿児島・海兵四六次席・海大二八次席・第二艦隊参謀・大佐・軍務局第一課長・連合艦隊参謀・横須賀航空隊副長・連合艦隊参謀副長・少将・軍務局次長・軍令部第二部長・終戦・軍務局次長)が腎臓病となった。(カモメ)そのため、急遽、横山大佐が連合艦隊首席参謀の後任にと話が出たのですが、横山大佐は艦隊参謀の経験が浅いという事で、首席副官の柳澤大佐が出ることになったのですね。(ウツボ)そうだね。だが、半年後の昭和十九年三月三十一日、海軍乙事件が起きて、古賀峯一連合艦隊司令長官と共に、柳澤大佐は殉職した。この巡りあわせを、重く受け止めた横山大佐は、運命というものを感じた。(カモメ)昭和二十年五月、軍令部出仕となった横山少将は、ある日、米内光政海軍大臣から「モスコーへ行け。使命は聞くな」と言われました。だが、待機しているうちに終戦となったのです。(ウツボ)終戦となって、昭和二十年八月十八日、マニラの連合国軍最高司令部から「降伏条件を遂行するため、必要な諸要求を受領するため」、横山少将はマニラ派遣軍使を命ぜられた。(カモメ)また、九月二日、ミズーリ―号艦上での降伏文書調印式にも出席を命ぜられました。ミズーリ―号艦上には、横山少将の米国時代の知人の米軍提督が何人かいました。そのうちの一人、ターナー大将と十年後にアメリカで再会した時、ターナー大将は横山に向かって「調印式の時、君がきまり悪かろうと思って、なるべく君の方を見ないようにした」と言いました。(ウツボ)終戦後、横山少将は五年間復員業務に携わった後、深く考えることがあって、求道生活に入り、昭和三十年九月キリスト教会で受洗した。母は終戦の一か月前に六十六歳で死去していた。(カモメ)キリスト教の道に入っても険しい試練が続きました。三人の娘がいましたが、上の二人は離婚し、長女は昭和三十七年病死しました。(ウツボ)やがて横山はキリスト教の探求の深まりとともに伝道の喜びを知り、海軍関係者では次の人々を導いた。(カモメ)原道男大佐(五一期)、大前敏一大佐(五〇期)、高間完中将(四一期)、沖野亦男大佐(四七期)、久重一郎少将(四〇期)、熱海光雄大尉(六七期)、中垣仙五郎主計少将(経七期)。(ウツボ)太平洋戦争を軍人として過ごした過酷な体験からくる煩悶、その後の思想の模索、さらに家族の悲運に遭遇した、横山一郎少将は、人間としての限界を悟り、キリスト教と向かい合うことで、心の安らぎを求めたのだろうね。【甲種二九期首席・柳澤蔵之助少将(海兵四六)】(カモメ)次は、甲種二九期首席・柳沢蔵之助(やなぎさわ・くらのすけ)少将ですね。海軍大学校甲種二九期は昭和四年十一月三十日入学、昭和六年十一月二十七日卒業。卒業者数二十名。中瀬泝少将、森下信衛少将、山本善雄少将、人見錚一郎少将、川井巌少将などがいますね。(ウツボ)柳澤蔵之助は明治三十一年二月二十日生まれ。長野県佐久市出身。明治四十四年四月旧制長野県野沢中学校入学。大正四年九月四日海軍兵学校入校。大正七年十一月二十一日海軍兵学校(四六・十六番)卒業。大正八年八月少尉、十二月水雷学校普通科学生。大正九年五月砲術学校普通科学生。(カモメ)大正十年四月装甲巡洋艦「出雲」乗組、十二月中尉。大正十一年三月海軍大学校選科学生。大正十七年七月給油艦「知床」分隊長心得。大正十三年十一月給油艦「佐多」分隊長、十二月大尉。大正十四年七月二等巡洋艦「多摩」分隊長、十二月通信学校高等科学生。(ウツボ)大正十五年十一月通信学校高等科学生卒業(首席)、十二月二等巡洋艦「那珂」通信長。昭和二年十二月装甲巡洋艦「出雲」分隊長。昭和四年二月第二水雷戦隊参謀、十一月海軍大学校甲種学生入学。昭和五年十二月少佐。昭和六年十一月海軍大学校(二九期)を首席で卒業、軍務局第一課第一班。(カモメ)昭和七年六月軍令部参謀(パリ出張)、九月国連海軍代表随員・ジュネーヴ会議全権随員。昭和九年九月軍令部出仕・海軍省出仕。昭和十年十一月中佐。昭和十一年二月海軍省副官。昭和十二年十一月大本営海軍報道部員、十二月第二航空戦隊参謀。(ウツボ)昭和十四年一月支那方面艦隊参謀・第三艦隊参謀、十一月大佐、十二月海軍省人事局第二課。昭和十五年四月特設巡洋艦「浅香丸特務艦長、六月大本営参謀。昭和十五年九月第二艦隊参謀。昭和十八年二月海軍省先任副官、十月連合艦隊参謀。(カモメ)柳澤大佐は、昭和十九年三月三十一日、古賀峯一連合艦隊司令長官と共に乗っていた二式大艇が低気圧に遭遇し墜落(海軍乙事件)して、殉職しました。海軍少将に特別進級。享年四十六歳。功三級。ドイツ鷲勲章一等功労十字章。
2015.09.18
(ウツボ)当時、軍令部第一部第一課長は富岡定俊大佐で、富岡大佐と、軍令部航空主務部員・三代辰吉(みよし・たつきち)中佐(茨城・海兵五一・海大三三・第四航空戦隊参謀・第二艦隊参謀・中佐・軍令部第一部作戦課航空主務部員・南東方面艦隊参謀・第七三二海軍航空隊司令・大佐・横須賀航空隊副長兼教頭)は連合艦隊のミッドウェー作戦に真っ向から反対していた。(カモメ)故・源田実氏(愛媛・海兵五二・一七番・第一九期飛行学生首席・海大三五次席・駐英国大使館附武官補佐官・中佐・第一航空艦隊甲航空参謀・空母「瑞鶴」飛行長・軍令部第一部作戦課航空部員(大本営参謀)・大佐・第三四三海軍航空隊司令・戦後航空自衛隊入隊・空幕装備部長・航空総隊司令・航空幕僚長・参議院議員)は、富岡定俊少将について次のように述べています。(ウツボ)読んでみよう。「私は軍令部在勤中随分指導を受けた。その中で、特に重要な事は『どんなことがあっても、目的を放棄しないことだ。諦めたが最後、絶対に成功することはない』ということである」。【甲種二八期首席・横山一郎少将(海兵四七)】(カモメ)次は、甲種二八期首席・横山一郎(よこやま・いちろう)少将ですね。海軍大学校甲種二八期は昭和三年十二月十日入学、昭和五年十一月二十八日卒業。卒業者数二十名。杉浦嘉十中将、島本久五郎少将、小島秀雄少将、朝倉豊次少将、岡田為次少将、高田利種少将、横井俊之少将、黛治夫大佐などがいますね。(ウツボ)横山一郎は明治三十三年三月一日生まれ。神奈川県横須賀市出身。父は横山傳海軍少佐。母は、とら。高知県立海南中学校から大正五年八月海軍兵学校に入校。大正八年十月海軍兵学校(四七・七席)卒業。大正九年八月少尉、十二月砲術学校普通科学生。大正十年五月水雷学校普通科学生、十二月三等駆逐艦「吹雪」乗組。(カモメ)大正十一年四月装甲巡洋艦「出雲」乗組、十二月中尉。大正十二年十二月戦艦「陸奥」分隊長心得。大正十三年十二月大尉。大正十四年十二月戦艦「山城」分隊長。大正十五年十二月第七号駆逐艦砲術長。(ウツボ)昭和三年五月横須賀鎮守府副官・参謀、十二月海軍大学校甲種学生。昭和五年十一月海軍大学校(二八期)を首席で卒業、十二月少佐、軍令部・海軍省軍務局第一課。昭和六年五月米国駐在(エール大学)。昭和七年五月在米国大使館附武官。(カモメ)昭和八年十一月軍令部出仕・軍務局第一課。昭和十年十一月中佐。昭和十一年十二月第五水雷戦隊参謀。昭和十二年十二月軍令部出仕・海軍省副官。昭和十四年十二月第二遣支艦隊参謀。昭和十五年九月在米国大使館附武官、十一月大佐。(ウツボ)昭和十七年八月軍令部出仕、十一月二等巡洋艦「球磨」艦長。昭和十八年十月海軍省副官。昭和十九年七月東京警備府司令。昭和二十年五月少将、軍令部出仕。(カモメ)昭和二十年十一月第二復員大臣官房連絡部長。昭和二十一年六月復員庁第二復員局連絡部長。昭和二十三年五月厚生省引揚援護庁復員局・第二復員局残務処理部連絡課長。平成五年七月二十八日死去。享年九十三歳。(ウツボ)著書は、「海へ帰る―海軍少将横山一郎回顧録」(横山一郎・原書房)、「大海のごとく―わが生涯の回想録」(横山一郎・日本クリスチャン・ペンクラブ出版部)がある。(カモメ)横山一郎の父、横山傳も海軍兵学校(二〇期・卒業成績十番)出身ですが、第三艦隊参謀として日露戦争に出征し、明治三十七年八月十日に戦死していますね。享年三十四歳。海軍少佐。従六位、勲四等、功四級。(ウツボ)「太平洋戦争海藻録」(岩崎剛二・光人社)によると、横山傳は海軍兵学校を卒業して間もなく、日清戦争が始まり、横山候補生は巡洋戦艦「比叡」に乗組み、黄海海戦で機砲を指揮して大殊勲をあげ、候補生としてはただ一人、賞を受けた。(カモメ)その後横山傳は海軍大学校乙種学生を卒業、海軍兵学校で水雷術の教官を務めましたが、その時の生徒に、山本五十六や古賀峯一などがいました。(ウツボ)横山傳は向学心が旺盛で、独学でフランス語、ロシア語を勉強した。日露戦争が始まり、第三艦隊参謀として、旗艦「日進」に乗組んでいたが、明治三十七年八月十日、黄海海戦で、戦闘指揮中、敵弾が命中し、上半身が吹き飛んで、後部の砲塔上に落下、壮烈な戦死を遂げた。(カモメ)横山一郎の父が戦死し、母・とらが未亡人になったのは二十六歳で、夫の実家、高知県下知村に移り、クリスチャンになったのです。この事は一郎にも大きな影響を与えました。(ウツボ)海軍大学校を首席で卒業した横山一郎は米国駐在となり、エール大学で学んだ。米国での二年間の駐在で、米国の実力を知り、横山は日本と米国は協調していかねばならぬと肝に銘じた。(カモメ)昭和十五年九月横山は在米国大使館附武官としてワシントンに赴任しましたが、すでに日独伊三国同盟は成立しており、前途は暗いものとなっていたのですね。(ウツボ)そうだね。翌年一月、野村大使がワシントンに着き、野村大使を補佐して、日米の和解に尽力したが、大勢を変えることはできなかった。日米開戦となり、横山は抑留生活を経て、昭和十七年八月、交換船で日本に帰国した。
2015.09.11
(カモメ)昭和十三年十一月富岡定俊中佐は大佐に昇進、十二月第二艦隊参謀。昭和十四年十一月海軍大学校教官。昭和十五年十月軍令部第一部第一課長・大本営参謀。昭和十八年一月二等巡洋艦「大淀」艦長、九月南東方面艦隊参謀副長、十一月少将。(ウツボ)昭和十九年四月南東方面艦隊参謀長、十二月軍令部第一部長・大本営参謀。昭和二十年九月、富岡定俊少将は戦艦ミズーリーで行われた降伏文書調印式に随員として出席、十二月第二復員大臣官房史実調査部長。(カモメ)昭和二十一年三月富岡定俊は海軍大学校の一隅に資料調査会(戦史調査・研究・後に財団法人)を設立、理事長に就任。昭和三十七年三月新日本協議会理事。昭和四十二年光電製作所会長。昭和四十五年十二月七日、横浜市の自宅で心筋梗塞のため死去。享年七十三歳。(ウツボ)著書は「開戦と終戦」(毎日新聞社)。関連書籍は「太平洋戦争と富岡定俊」(資料調査会編纂)がある。(カモメ)「海軍参謀」(吉田俊雄・文藝春秋)によると、富岡定俊海軍少将は、太平洋戦争開戦一年前から軍令部作戦課長で、昭和十八年一月巡洋艦「大淀」艦長に出るまで、二年三か月あまりを作戦の中枢に座り続けましたね。(ウツボ)そうだね。その後、南東方面艦隊参謀副長、参謀長としてラバウルに立て籠もること一年二ケ月、昭和十九年十一月に呼び戻されて、軍令部作戦部長となり、終戦までつとめた。(カモメ)太平洋戦争の最も重要な、「開戦と終戦」前後の作戦指導を担当した英才だったのですね。(ウツボ)英才というか、ちょうどその時期に、重要な局面をまかされたのだろうね。「別冊1億人の昭和史・江田島~日本海軍の軌跡」(毎日新聞社)によると、作富岡定俊少将は海軍四代の系譜だね。(カモメ)富岡定俊少将の祖父、富岡宗三郎は、佐久間象山の弟子で、江戸幕府の海防隊長となり、品川台場の建設を宰領しました。つまり富岡家の海軍一代ですね。(ウツボ)さらに富岡定俊少将の父は、富岡定恭(とみおか・さだやす)海軍中将(長野・海軍兵学校五期首席・海軍兵学校教授・英仏派遣・海軍大学校教官・通報艦「龍田」艦長・大佐・海軍兵学校教頭・戦艦「敷島」艦長・軍令部第一局長・少将・海軍兵学校校長・練習艦隊司令官・中将・男爵・旅順警備府司令長官・帝国在郷軍人会副会長)で、これが海軍二代目。(カモメ)海軍三代目が富岡定俊少将で、海軍四代目は、富岡定俊少将の長男、富岡定博で、昭和二十年九月、七五期生として海軍兵学校を卒業していますね。(ウツボ)そうだね。富岡定博は、昭和五十六年、坂田種苗株式会社広報部長当時、海軍四代の系譜について、次のように述べている。(カモメ)読んでみます。「僅かな期間の海軍生活で、四代目といわれるのは、赤面の至りであるが、兵学校生徒として過ごした栄光と誇りは、私の来し方、現在を通じてかけがえのない二年間であり、一生の基盤となっていることを間違いなく感ずるのは、やはり血統というものであろうか」。(ウツボ)「太平洋戦争と富岡定俊」(資料調査会編纂)によると、富岡定俊少将が中学四年生の頃、母・コフミが定俊を、芝山内に住む当時有名だった占い師の石竜子のところへ連れて行った。(カモメ)そのとき、石竜子は定俊の顔をじっと見て、「このお子は芸術家に向いているが、海軍軍人になる。特に先々は帷幕(機密のことを議する場所・参謀本部などを指す)の人になる」と言ったのですね。(ウツボ)元来、富岡定俊はあまり占いなどを信じない方だったが、自分の歩いてきた道を振り返ってみて、「なるほどなあ、よく言い当てたものだ」と、石竜子の予言に感心していたという。(カモメ)昭和四十三年二月、富岡定俊元海軍少将は、海上自衛隊幹部学校で学生に対し「戦争指導」の演題で講演を行った。その時、「第二段作戦と主将の立場」の項目でミッドウェー作戦について次のように述べているのです。(ウツボ)読んでみよう。「米豪間の連絡路のどこかへ穴をあけたら飛行機は来られぬ。米軍がパーと出てきても、こちらがフィジー・サモアを取って潜水艦を並べたら、とても取り返せないだろうと、パーク少将は言っていた。それなのにミッドウェーをやったので第二段作戦はつまずいた」(カモメ)「ミッドウェーは最後にやることになっていたのを山本(五十六)長官は最初にやろうとされた。これは考え方の違いであった。ミッドウェーをなぜねらったか、といえばこれは本土空襲への警戒のためであった。プリンシプル上の意見の違いであったが、結局山本長官の主張の通り上で解決された」(ウツボ)「ここで言いたいことがある。私は自分の主張が容れられなかったが一生懸命やった。しかし内心私は、山本長官は戦略を知らないと思った。あれは戦争を指導しているのではない、作戦が勝ちに乗じているのではないか、と当時私は考えた」(カモメ)「しかし相手は連合艦隊司令長官であり、自分の主張が容れられなければ辞職する、と脅迫された。これは多分連絡に来た黒島(亀人)先任参謀のつくりごとであろうけれども、真珠湾の時と同じであった。我々は同じように上に上げ、そしてあのような結果となった」。
2015.09.04
(カモメ)横井忠雄少尉は大正七年十二月中尉。大正八年十二月水雷学校普通科学生。大正九年五月砲術学校普通科学生、十二月戦艦「扶桑」分隊長心得。大正十年十月大尉、砲術学校高等科学生。大正十二年十二月一等駆逐艦「峰風」砲術長。大将十三年十二月砲術学校教官。(ウツボ)大正十四年十二月戦艦「長門」分隊長。大正十五年十二月海軍大学校(甲種学生)入校。昭和三年十二月海軍大学校(二六期)を首席で卒業。昭和二年十二月少佐。昭和三年十二月二等巡洋艦「名取」砲術長。昭和四年五月第三戦隊参謀、十一月海軍大学校教官。(カモメ)昭和七年十一月ドイツ駐在、十二月中佐。昭和八年十二月在ドイツ国大使館附武官補佐官。昭和九年六月在ドイツ国大使館附武官。昭和十一年七月軍令部出仕、十二月大佐、軍令部第一部戦争指導班長。(ウツボ)昭和十四年十一月水上機母艦「千代田」艦長。昭和十五年九月在ドイツ国大使館附武官。昭和十六年七月在ドイツ国大使館附武官・在フィンランド大使館附武官・艦本造船造兵監督長。昭和十七年十一月少将。昭和十九年三月横須賀鎮守府参謀長。(カモメ)横井忠雄少将は昭和二十年五月田辺海兵団長、六月第六特攻戦隊司令官・田辺海兵団長。昭和四十年九月十日死去。享年七十歳でした。(ウツボ)昭和十五年当時、横井忠雄大佐は、ドイツ駐在経験のある親独派として知られ、日独伊三国同盟賛成の急先鋒だった。だが、昭和十六年二度目のドイツ駐在武官当時、反ナチスとなった。(カモメ)そこで、ドイツの外相、リッペントロップは、大島浩(おおしま・ひろし)日本大使(岐阜・陸士一八恩賜・陸大二七・駐オーストリア公使館兼ハンガリー公使館附武官・大佐・駐ドイツ大使館附武官・少将・日独防共協定調印・中将・予備役・駐ドイツ大使・日独伊三国同盟・戦後A級戦犯として終身刑・出獄)を通じて、横井大佐の交代を求めたのですね。(ウツボ)そうだね。横井少将は大島浩大使とは仲が悪く、三国軍事同盟軍事委員として在独中の野村直邦(のむら・なおくに)中将(鹿児島・海兵三五・四三番・海大一八次席・ドイツ駐在武官補佐官・中佐・ジュネーヴ会議全権随員・大佐・潜水母艦「長鯨」艦長・在ドイツ日本大使館附海軍武官兼艦政本部造船造兵監督官・ロンドン軍縮会議全権・航空母艦「加賀」艦長・海軍潜水学校校長・少将・連合艦隊兼第一艦隊参謀長・在中華民国大使館附海軍武官・中将・第三遣支艦隊司令長官・呉鎮守府司令長官・大将・海軍大臣・横須賀鎮守府司令長官兼海上護衛隊司令長官)とも大喧嘩をしている。(カモメ)海軍反省会で、寺崎隆治元海軍大佐(海兵五〇・「最後の連合艦隊司令長官」著者)は、日独伊三国同盟問題で、次のように発言しています。(ウツボ)読んでみよう。「当局の空気は、昭和十五年、個人の名前を挙げるとあまり面白くないんですけども、宇垣(纒・海兵四〇・九席・海大二二・中将)あたりは一部長をやっている。その人はドイツで駐在をやって、ドイツのことはよく知っている」(カモメ)「それから、横井(忠雄・海兵四三・五席・海大二六首席・少将)君はどこにいたか知らんが、これもドイツで。ちょいちょい一部にやってきては、ドイツ、イタリーと組んどりゃ、もう大丈夫だよ、と盛んに宣伝して」(ウツボ)「だから、そういう空気の中で、日独伊三国同盟、表向きは海軍省あたりが反対したんですけども、やっぱり軍令部あたりが押したせいかどうか、この三国がソ連を防ぐとか、これが誰でもアメリカと戦してもいいというような考えでおります。気持ちだけ、そういうような気持になったらしいです」。(カモメ)海軍では、宇垣少将と同様に、横井大佐は当初は日独伊三国同盟推進者だったのですね。【甲種二七期首席・富岡定俊少将(海兵四五)】(ウツボ)次は、甲種二七期首席・富岡定俊(とみおか・さだとし)少将だ。海軍大学校甲種二七期は昭和二年十二月一日入学、昭和四年十一月二十七日卒業。卒業者数二十名。三好輝彦少将、鹿目善輔少将、野元為輝少将、吉村啓蔵少将、栗原悦蔵少将などがいる。(カモメ)富岡定俊は明治三十年三月八日生まれ。広島県出身。富岡定恭海軍中将の長男。母はコフミ。富岡定俊は明治四十二年四月私立高千穂中学入学。大正三年九月海軍兵学校入校。大正六年七月父の死去に伴い男爵を襲爵、十一月海軍兵学校(四五期・二一番)卒業。(ウツボ)大正七年八月少尉。大正八年五月戦艦「朝日」乗組、十二月水雷学校普通科学生。大正九年五月砲術学校普通科学生、十二月中尉、戦艦「周防」乗組。大正十一年十二月海軍大学校航海学生。大正十二年十二月大尉、一等駆逐艦「帆風」航海長。(カモメ)富岡定俊大尉は大正十三年十二月給油艦「尻矢」航海長。大正十五年十二月第二艦隊参謀。昭和二年五月二等駆逐艦「松」駆逐艦長、十二月海軍大学校甲種学生。昭和四年十一月海軍大学校(二七期)を首席で卒業。昭和四年十一月少佐、フランス駐在。(ウツボ)昭和五年二月国連海軍代表随員。昭和六年十二月ジュネ-ヴ会議全権随員。昭和七年十一月一等巡洋艦「衣笠」航海長。昭和八年五月軍令部参謀(一班一課)・昭和九年十一月中佐。昭和十年十一月第七戦隊参謀。昭和十一年十一月人事局第一課。
2015.08.28
(カモメ)同行者は、共にフランス駐在の、海軍兵学校(四八期)を次席で卒業した小野田捨次郎(おのだ・すてじろう)大尉(新潟・海兵四八次席・海大三一・海軍第一委員会・大佐・軍令部第一部長直属戦争指導担当・遣独伊使節団海軍代表・軍令部兼大本営参謀・重巡洋艦「高雄」艦長・重巡洋艦「妙高」艦長・第一〇方面艦隊参謀副長)でした。(ウツボ)前にも述べたけど、小野田大尉は海軍兵学校を優秀な成績(次席)で卒業したので、海軍大学校に入学する前に、海軍大学校を首席で卒業した高木惣吉少佐と同行して洋行できたのですね。(カモメ)そうですね。昭和五年六月、高木少佐は、フランス駐在から帰国して、海軍省副官兼大臣秘書官を命ぜられました。けれども、不愉快なことが多く、胃腸を悪くしていた上に、風邪気味にも関わらず、無理して勤務していたところ、高木少佐は喀血して二年の静養を医師に宣告されたのです。(ウツボ)海軍大学校の好成績とフランス駐在で、進級選抜グループはAクラス(一選抜)に昇り、中佐に進級直前になって肺炎で倒れ、休職となって、Bクラスに落とされ、進級が後回しになった。(カモメ)旧海軍では、いくら激務のために羅病しても、病気によっては公務羅病と認めなかったのですね。高木少佐もドサ回りからようやく赤煉瓦入りしたが、また急転して日蔭の役に戻る運命となったのです。(ウツボ)静養後、回復して、昭和八年四月横須賀鎮守府附となったが、窓際族で名簿の整理という子供だましの仕事だった。(カモメ)当時五・一五事件の軍法会議が横須賀鎮守府で裁判中でした。高木中佐は、「総理をはじめ側近の高官を襲撃したような連中は、みな死刑に処すべきだ」と声高に放言したのですね。(ウツボ)すると同期で部員の花田行武(はなだ・ゆきたけ)中佐(鹿児島・海兵四三・六席・財部彪大将副官・岡田啓介大将副官・練習艦隊副官・横須賀鎮守府人事部・中佐・アルゼンチン・ブラジル・チリ駐在武官・大佐・舞鶴鎮守府人事部第一課長・南西方面艦隊附・舞鶴警備府司令官・少将・南西方面海軍民政府総務局長・横須賀運輸部長)が高木中佐を廊下に呼び出して次のように言って、叱った。(カモメ)読んでみます。「キサマ俺の心臓を悪くしないでくれ。五・一五の同調者は五万といるゾ。それに部長はだれだと思っているのか」。(ウツボ)部長は、あの真崎甚三郎陸軍大将の弟、真崎勝次(まさき・かつじ)少将(佐賀・海兵三四・九十一番・在ソ連大使館附武官・大佐・大湊要港部参謀長・戦艦「山城」艦長・横須賀防備隊司令・少将・横須賀人事部長・横須賀警備戦隊司令官・大湊要港部司令官)だった。(カモメ)「山本五十六と米内光政・付・連合艦隊始末記」(高木惣吉・光人社)所収「開戦と西田幾多郎先生」によると、日華事変の戦場が南に広がり、米内内閣から近衛第二次内閣になって、仏印北部の進駐や日独伊三国の軍事同盟が成立したりしてから、連合国との紛争は激しくなるばかりでした。(ウツボ)昭和十六年になると、日米関係は嵐の前の緊張をくわえ、せっかく、近衛第三次内閣までつくって、最後の望みをかけた近衛・ルーズベルト会談もついにお流れとなって、交渉の妥結は、まず絶望ということになった。結局、近衛内閣もつぶれて東條内閣にかわり、戦争の気構えは急ピッチで濃くなっていった。(カモメ)ちょうどそのころ、高木惣吉大佐は鎌倉姥ヶ谷に西田幾多郎博士を訪ねました。西田博士の軍事問題、外交問題の核心に触れてくるその質問ぶりは、素人だからといって、ごまかせない真剣さがあり、むしろ、凄味に近いものがあって、高木大佐は体のひきしまる思いをさせられるのが毎度の例だったのです。(ウツボ)飾り気もなければ、お世辞も無い西田博士は、政治家でも軍人でも、随分手ひどく批評した。昭和の日本によい政治家も軍人もおらないというのが、その深い嘆きだった。(カモメ)「近衛という男はネ、自分では会いにこない、私に小言を言われるのがうるさいらしい。そのくせ荒木(貞夫大将)に手紙なんか持たしてよこすのだヨ」と笑いながら、「近衛も弱くてだめだ、まあ三条実美というぐらいのところかネ」と揶揄したのですね。(ウツボ)そうだね。しかし、そう責めながらも、西田博士は、近衛、木戸、原田諸氏のことを、陰でしみじみと案じては話した。近衛第二次内閣が日独同盟を結んだ時などは、ご機嫌はなはだ斜めで、その不満は非常なものだった。(カモメ)西田博士は、「私はドイツ語の教師をつとめ、ドイツ哲学のお世話になって今日になっている。だから学問的にはドイツにひいきしたい意識がはたらく。しかし、ナチスという野蛮人どもは文化に対する良識がない。ナチスになってから、ドイツの哲学はじめ学問はみなこわされた。こんな政治の国と手をにぎるなんてとんでもない」と、軍部や政府の処置を憤っていたのですね。(ウツボ)そうだね。それを、高木大佐は、酢を飲むような気持ちで聞いていたのだね。高木大佐は後に少将に進級して、井上成美海軍次官の指示で、終戦工作に従事した。良識派の海軍高官だった。【甲種二六期首席・横井忠雄少将(海兵四三)】(カモメ)次は、甲種二六期首席・横井忠雄(よこい・ただお)少将ですね。海軍大学校甲種二六期は大正十五年十二月一日入学、昭和三年十二月六日卒業。卒業者数二十二名。大西新蔵中将、山田定義中将、市岡寿中将、矢野英雄中将、中澤佑中将、有馬正文中将、早川幹夫中将、上阪香苗少将、松田千秋少将、黒島亀人少将、大野竹二少将、松本毅少将、西田正雄大佐などがいます。(ウツボ)横井忠雄は明治二十八年三月六日生まれ。大分県出身。旧制東京府立第四中学校から、大正元年九月九日海軍兵学校入校。大正四年十二月十六日海軍兵学校(四三期・五席)卒業。大正五年十二月少尉、戦艦「薩摩」乗組。
2015.08.21
(ウツボ)だが、後に福留は回想している。「あのときは、あまりにも損害が重大だったので、真相を秘匿したが、今から思うと、少し秘匿が過ぎたようだ」。(カモメ)昭和十九年三月三十日、三十一日連合艦隊拠点のパラオがアメリカ機動部隊の大空襲を受けたので、三月三十一日、連合艦隊司令長官・古賀峯一大将、参謀長・福留茂中将ら連合艦隊司令部一行は二式大艇(飛行艇)で、ミンダナオ島ダバオへ移動することにしたのですね。(ウツボ)ところが、移動の飛行中、低気圧に遭遇し、古賀長官の一番機は行方不明となり、福留中将の二番機はセブ島沖に不時着、搭乗していた福留中将ら九名は泳いでセブ島に上陸したが、敵側ゲリラの捕虜になった。(カモメ)この時、福留中将らが所持していた新乙号作戦計画書、暗号書など重要機密文書がゲリラに奪われたのです。その後、日本軍はゲリラと交渉して、福留中将らを解放させました。(ウツボ)帰還後、福留中将は、海軍次官・沢本頼雄中将から、事情聴取を受けたが、福留中将は徹底して重要機密文書紛失を否定した。また、ゲリラに捕縛されたことが捕虜になったかどうか問題にされたが、結局捕虜ではないと認定され、不問になった。福留中将は何らの処分も受けなかった。(カモメ)だが、実際は、これらの重要機密文書はゲリラからアメリカ軍に渡り、アメリカ陸軍情報部により翻訳され、その後の日本海軍の南方作戦に大きな影響を与えました。日本がそれを知ったのは終戦後ですね。(ウツボ)そうだね。それにもかかわらず、「日本海軍指揮官総覧」(新人物往来社)によると、福留中将は死ぬまで「機密書類は奪われていない」と主張したということだ。(カモメ)戦後、福留繁中将は戦犯容疑者としてチャンギー刑務所に収監され、重禁錮三年が宣告され(後に二年に減刑)昭和二十五年二月に帰国しました。(ウツボ)この時六十歳になっていた福留中将の生活は楽ではなかった。自宅は空襲で焼かれていた。福留中将は米軍の火薬庫のガードマンをして生活の糧を稼いだと言われている。【甲種二五期首席・高木惣吉少将(海兵四三)】(カモメ)次は、甲種二五期首席・高木惣吉(たかぎ・そうきち)少将ですね。海軍大学校甲種二五期は大正十四年十二月一日入学、昭和二年十一月二十五日卒業。卒業者数二十名。徳永栄中将、大杉守一中将、木暮軍二中将、高柳儀八中将、水戸寿中将、有馬馨中将、矢野志加三中将、伊藤安之助中将、高田俐中将、鍋島俊策少将、加来止男少将、石川信吾少将、橋本象造少将、柳本柳作少将などがいますね。(ウツボ)高木惣吉は明治二十六年八月九日生まれ。熊本県出身。家が貧しかったので、明治四十年三月高等小学校卒業後肥薩鉄道建設鉄道院事務職員。この間通信教育三年修了し渡米の志を抱いて上京。明治四十三年五月帝大教授の玄関番になり、夜間の東京物理学校一年間通い、旧制中学教育課程検定に合格した。(カモメ)大正元年九月海軍兵学校入校。大正四年海軍兵学校(四三期・二十七番)卒業。大正五年十二月少尉。大正六年十二月防護巡洋艦「千歳」乗組。大正七年九月防護巡洋艦「明石」乗組、十二月中尉。大正八年九月戦艦「安芸」乗組、十二月砲術学校普通科学生。大正九年五月水雷学校普通科学生、十二月舞鶴海兵団分隊長心得。(ウツボ)大正十年十二月大尉、海軍大学校航海学生(高等科)。大正十一年十二月一等駆逐艦「帆風」航海長兼分隊長。大正十二年十月潜水母艦「駒橋」航海長。大正十三年九月待命、十二月海防艦「満州」航海長。 (カモメ)大正十四年十二月海軍大学校甲種学生。昭和二年十一月海軍大学校卒業(二五期)を首席で卒業、十二月少佐、フランス駐在。昭和五年一月軍令部出仕。海軍省出仕、六月海軍省副官兼大臣秘書官。昭和七年三月軍令部出仕(喀血のため静養)。(ウツボ)昭和八年四月横須賀鎮守府附、十一月中佐、海軍大学校教官。昭和十一年六月軍務局局員。昭和十二年十月海軍省臨時調査課長、十二月大佐。昭和十四年四月海軍省調査課長。昭和十六年十二月兼ね南方政務部副長。(カモメ)昭和十七年八月舞鶴鎮守府参謀長。昭和十八年五月少将、九月軍令部出仕。昭和十九年三月教育局長、四月海軍大学校教頭、八月井上成美海軍次官から終戦工作の密命を受ける。九月軍令部出仕兼海軍大学校研究部員。(ウツボ)昭和二十年九月東久邇宮内閣の内閣副書記官長。戦後は、軍事評論家として太平洋戦争関連の軍事史を執筆。海上自衛隊幹部学校で戦史・戦略の特別講師も務める。昭和五十四年七月二十七日死去。享年八十五歳。(カモメ)著書は、「自伝的日本海軍始末記」(光人社)、「自伝的日本海軍始末記・続篇」(光人社)、「私観太平洋戦争」(光人社)、「太平洋海戦史」(岩波文庫)、「海軍大将米内光政覚書」(光人社)、「連合艦隊始末記」(文藝春秋新社)、「山本五十六と米内光政」(光人社)、「終戦覚書」(アテネ文庫)、「軍事基地」(アテネ文庫)、「高木惣吉日記」(毎日新聞社)、「太平洋戦争と陸海軍の抗争」(経済往来社)などがあります。(ウツボ)昭和二年十一月下旬、海軍大学校を首席で卒業した高木惣吉大尉は少佐に進級して、フランス駐在を命ぜられた。翌年の昭和三年一月中旬、高木少佐は、「榛名丸」でフランスのマルセイユに向かい、横浜港を出港した。
2015.08.14
(ウツボ)田結穣は、大正六年十月戦艦「山城」分隊長心得、十二月大尉、海軍大学校乙種学生。大正七年四月海軍大学校専修学生(優等で卒業)、十二月一等駆逐艦「浜風」乗組。大正八年四月在英国大使館附駐在武官補佐官補。(カモメ)田結穣は、大尉でしかも海軍大学校甲種学生入学前に、英国大使館附駐在武官補佐官補として英国駐在を命じられていますね。(ウツボ)そうだね、通常は、海軍大学校甲種学生を卒業してから、海外駐在となるのだが。これは、田結穣大尉が、海軍兵学校を次席という優秀な成績で卒業しているからだろうね。(カモメ)海軍兵学校を首席や次席で卒業すれば、それだけで海外駐在になることもあるのですね。(ウツボ)そうだね。「自伝的日本海軍始末記」(高木惣吉・光人社)によると、著者の高木惣吉少佐(当時)が海軍大学校(二五期)を首席で卒業し、フランス駐在を命じられたとき、海軍兵学校(四八期)を次席で卒業した小野田捨次郎大尉が一緒にフランス駐在になった。その送別会で誰かが「小野田大尉は海兵のトップだから、海大なんか行かなくても洋行できる。海兵の優等生は大したものだ」と言ったと、記してある。(カモメ)そうですね。兵学校では成績が振るわなかった高木少佐は、その言葉を聞いて、「全くその通りであった」と感想を述べていますね。(ウツボ)これは昭和二年十二月の話だけどね。(カモメ)田結穣大尉は、帰国後、大正十一年四月軽巡洋艦「矢矧」航海長兼分隊長。大正十二年十二月少佐、海軍大学校甲種学生。大正十四年十一月海軍大学校(二三期)を首席で卒業、十二月軍事参議官・竹下勇海軍大将附属副官兼海軍大臣次席秘書官。(ウツボ)昭和二年十二月中佐、第三戦隊司令部参謀。昭和三年十二月海軍省軍務局第一課。昭和六年十二月大佐、特務艦「襟裳」艦長。昭和七年十一月軽巡洋艦「天龍」艦長。昭和八年十一月軍令部第一部甲部員・戦争指導班長。昭和九年十一月海軍省副官。(カモメ)田結穣大佐は、昭和十一年十二月戦艦「日向」艦長。昭和十二年十二月少将、横須賀鎮守府参謀長。昭和十三年二月第五戦隊司令部参謀。昭和十四年一月在満州国日本大使館附駐在武官、十一月第六戦隊司令官。昭和十五年十一月海軍航海学校校長。(ウツボ)昭和十六年十月中将。昭和十七年三月支那方面艦隊参謀長。昭和十八年九月南遣艦隊司令長官。昭和二十年一月兼第一三航空艦隊司令長官、三月舞鶴鎮守府司令長官、七月兼第一護衛艦隊司令長官。八月終戦。(カモメ)昭和五十二年六月二十八日死去。享年八十七歳。正三位、勲一等、功三級。【甲種二四期首席・福留繁中将(海兵四〇)】(ウツボ)次は、甲種二四期首席・福留繁(ふくとめ・しげる)中将だ。海軍大学校甲種二四期は大正十三年十二月一日入学、大正十五年十一月二十五日卒業。卒業者数二十名。原忠一中将、山口多聞中将、山口儀三郎中将、寺岡謹平中将、中原義正中将、伊藤健三中将、草鹿龍之介中将、西尾英彦中将、原鼎三中将、緒方真記中将、橋本信太郎中将、小林謙五中将、河野千万城中将、金子繁治中将、小柳富治中将などがいる。(カモメ)福留繁は、明治二十四年二月一日生まれ。鳥取県出身。鳥取県立米子中学校から、明治四十二年九月海軍兵学校入校。明治四十五年七月海軍兵学校(四〇期八番)卒業。大正二年十二月少尉。大正三年九月戦艦「肥前」乗組。大正四年三月戦艦「鹿島」乗組、十二月中尉、砲術学校普通科学生。大正五年六月水雷学校普通科学生、十二月海防艦「満州」乗組。(ウツボ)大正六年十二月防護巡洋艦「千歳」乗組。大正七年七月第一艇隊附、十二月大尉、海軍大学校航海学生。大正八年十二月二等駆逐艦「桜」乗組。大正九年十二月防護巡洋艦「新高」航海長兼分隊長。大正十年十二月給油艦「神威」艤装員(米国出張)。大正十一年九月給油艦「神威」航海長。(カモメ)大正十三年一月第一艦隊参謀、十月海軍兵学校教官兼監事、十二月少佐、海軍大学校甲種学生。大正十五年十一月海軍大学校(二四期)を首席で卒業、十二月装甲巡洋艦「磐手」航海長兼分隊長。昭和三年一月軍令部参謀。(ウツボ)福留繁少佐は、昭和四年十一月中佐。昭和五年十二月人事局局員。昭和七年十二月欧米各国出張。昭和八年八月帰朝、九月連合艦隊司令部附、十一月大佐、連合艦隊参謀。昭和九年十一月軍令部第一部第一課長。昭和十三年四月支那方面艦隊参謀副長、十二月戦艦「長門」艦長。(カモメ)昭和十四年十一月少将、連合艦隊参謀長。昭和十六年四月軍令部第一部長。昭和十七年十一月中将。昭和十八年五月連合艦隊参謀長。昭和十九年三月三十一日海軍乙事件。(ウツボ)福留繁中将は、昭和十九年六月第二航空戦隊司令長官。昭和二十年一月第十三航空戦隊司令長官、二月第一〇方面艦隊司令長官、第一三航空戦隊司令長官、第一南遣艦隊司令長官。昭和二三年二月解員。昭和二十五年三月神戸上陸帰国。昭和四十六年二月六日死去。享年八十歳。正四位、勲一等、功三級。(カモメ)「海軍参謀」(吉田俊雄・文春文庫)によると、昭和十七年六月五日~七日に行われたミッドウェー海戦の味方の損害が甚大でした。この損害を国民にどの程度公表するかで、軍令部作戦課と海軍省報道部で議論になったのですね。(ウツボ)その時、軍令部作戦部長・福留繁少将は「あまりにも損害が重大だ。しかも作戦に失敗したと発表して、敵の勝利を裏付けてやるとは何事か」と発言した。(カモメ)国民に真相を知らせるよりも、「勝った勝った」と、いわゆるお祭り気分で沸き立たせていないと、国民は力を出してくれない。「とにかく国民の士気を低下させて、戦意を失わせてはならないのだ」と思ったのですね。
2015.08.07
【甲種二二期首席・岡新中将(海兵四〇)】(カモメ)次は、甲種二二期首席・岡新(おか・あらた)中将ですね。海軍大学校甲種二二期は大正十一年十二月一日入学、大正十三年十一月二十六日卒業。卒業者数二十一名。井上成美大将、山縣正郷大将、杉山六蔵中将、三川軍一中将、井上保雄中将、堀内茂礼中将、中村俊久中将、三輪茂義中将、下村勝美中将、阿部勝夫中将、宇垣纒中将、妹尾和之中将、藤田利三郎中将、代谷清志中将などがいますね。(ウツボ)岡新は、明治二十三年七月十六日生まれ。東京都出身。父は岡胤信、母は元。旧東京府立第一中学校から、明治四十三年九月十一日海軍兵学校入校。明治四十五年七月十七日海軍兵学校(四〇期)を首席で卒業。(カモメ)海軍兵学校四〇期の卒業席次は、首席が岡新(中将・大阪警備府司令長官)、次席が山口多門(中将・第二航空戦隊司令官)、三番が浜田邦雄(爆発事故で死去・大尉)、四番が多田武雄(中将・海軍次官)で、以上の四名が恩賜の短剣を拝受しました。ちなみに五番は倉永小三(大佐・特設工作艦「山彦丸」艦長)でした。(ウツボ)大正二年五月戦艦「河内」乗組、十二月少尉。大正三年二月海軍水雷学校附、十二月水雷学校普通科学生。大正四年五月砲術学校普通科学生、十二月中尉、水雷学校附。大正五年二月巡洋戦艦「榛名」乗組。(カモメ)大正六年十二月戦艦「伊勢」乗組。大正七年一月戦艦「日向」乗組、十二月大尉、砲術学校高等科学生(一八期)。大正八年十一月砲術学校高等科を首席で卒業、十二月戦艦「日向」分隊長。(ウツボ)大正十年十一月第三艦隊参謀兼副官。大正十一年十一月海軍大学校甲種学生。大正十三年十一月海軍大学校(二二期)を首席で卒業、十二月少佐、戦艦「日向」砲術長。大正十四年十二月在英国大使館附駐在武官補佐官補。(カモメ)昭和二年五月在英国大使館附駐在武官補佐官兼艦政本部造兵監督官。昭和三年八月海軍省次席副官、十二月中佐。昭和六年十二月ジュネーヴ海軍軍縮会議全権随員。昭和七年十一月在英国大使館附駐在武官兼艦政本部造兵監督官、十二月大佐。(ウツボ)昭和十年十一月軽巡洋艦「木曾」艦長。昭和十一年十一月内閣調査官。昭和十二年十月企画院調査官、十二月海防艦「出雲」艦長。昭和十三年九月第四艦隊参謀長、十一月少将。昭和十四年十一月横須賀鎮守府参謀長。(カモメ)昭和十五年十二月海軍省軍務局御用掛兼総力戦研究所主事。昭和十六年十月海軍省軍務局御用掛兼総力戦研究所長心得、十一月上海在勤海軍駐在武官。昭和十七年十一月中将。昭和十八年九月第三南遣艦隊司令長官。昭和十九年十一月大阪警備府司令長官。(ウツボ)昭和三十三年三月二十三日死去。享年六十七歳。正三位、勲一等・功三級。レジオンドヌール勲章オフィシエ(フランス)。(カモメ)終戦から一週間後の、昭和二十年八月二十二日、大阪警備府司令長官・岡新中将は、記者会見において、次のように述べています。(ウツボ)読んでみよう。「スピード、スピード、これからの歴史は、今までの何倍、何十倍のスピードで進む。起ちあがるのも、滅び去るのも、我々の考えも及ばないほど早い時代なんだ」(カモメ)「若い時のひらめきには、概して間違いはない。ひらめくことがあったら、それを深く深く、徹底的に掘り下げて考えてみろ。そして、一つの結論に達したら、影響力の及ぶ範囲でいいから、強く執拗に主張する勇気を持つこと。私には、その勇気がなかった」。【甲種二三期首席・田結穣中将(海兵三九)】(ウツボ)次は、甲種二三期首席・田結穣(たゆい・みのる)中将だ。海軍大学校甲種二三期は大正十二年十二月一日入学、大正十四年十一月二十五日卒業。卒業者数二十二名。高木武雄大将、松永次郎中将、阿部弘毅中将、角田覚治中将、宇垣完爾中将、佐藤源蔵中将、鈴木義尾中将、今村脩中将、岸福治中将、柴田弥一郎中将、保科善四郎中将、山崎重暉中将、澤田虎夫中将、近藤泰一郎中将などがいる。(カモメ)田結穣は、明治二十三年一月二十日生まれ。岐阜県出身。父は田結卯作、母はきわ。田結穣の長男・田結保は海軍兵学校(七一期・五八一名)を首席で卒業。重巡洋艦「筑摩」分隊長として、昭和十九年十月二十三日から二十五日にかけて行われたレイテ沖海戦で戦死しました。(ウツボ)田結穣は、旧制岐阜県立大垣中学校から、明治四十一年九月十四日海軍兵学校入校。明治四十四年七月十八日海軍兵学校(三九期)を次席で卒業。明治四十五年十二月少尉。(カモメ)大正二年五月装甲巡洋艦「吾妻」乗組、少尉候補生指導官附。大正三年四月練習艦隊遠洋航海(北米方面)出発、十二月帰着、九月巡洋戦艦「鞍馬」乗組、十二月中尉。大正四年十二月海軍砲術学校普通科学生。大正五年六月海軍水雷学校普通科学生。
2015.07.31
(カモメ)自決の理由ですが、昭和四年に、モスクワ大使館附駐在武官・小柳喜三郎対大佐は、武官事務所にタイピストを雇いました。その人物はソ連情報機関が送り込んだスパイだったのですね。(ウツボ)そのタイピストは武官事務所の機密書類を密かに盗んでいた。後にそれが発覚し、小柳大佐は責任を取って、大使館内の居室で、短刀で切腹、自決した。 【甲種二一期首席・岡敬純中将(海兵三九)】(カモメ)次は、甲種二一期首席・岡敬純(おか・たかずみ)中将ですね。海軍大学校甲種二一期は大正十年十二月一日入学、大正十二年十月十五日卒業。卒業者数二十五名。遠藤喜一大将、伊藤整一大将、園田慈中将、鮫島具重中将、原清中将、副島大助中将、小林仁中将、大野一郎中将、稲垣生起中将、奥信一中将、阿部嘉輔中将、金沢正夫中将、中島寅彦中将、若林清作中将、志摩清英中将、などがいますね。(ウツボ)岡敬純は、明治二十三年二月十一日生まれ。大阪市出身。養母はトミコ。当時海軍兵学校の予備校であった、東京の攻玉社を経て、明治四十一年九月十四日海軍兵学校入校。明治四十四年七月十八日海軍兵学校(三九期・五十二番)卒業。(カモメ)大正元年十二月少尉。大正三年一月巡洋戦艦「比叡」乗組、十二月中尉、水雷学校普通科学生。大正四年五月砲術学校普通科学生、十二月三等駆逐艦「浦波」乗組。大正五年四月第一潜水艇隊附。大正六年六月第二特務艇隊附。(ウツボ)大正六年十二月大尉、海軍大学校乙種学生。大正七年四月水雷学校高等科学生、十二月第一潜水艇隊艇長・水雷学校教官。大正八年十一月第一三潜水隊潜水艦長。大正九年十二月第一二潜水艦帳・潜水学校教官。(カモメ)大正十年十一月第二九潜水艦長心得、十二月海軍大学校甲種学生入学。大正十二年十月海軍大学校(二一期)を首席で卒業、十二月少佐、潜水学校教官。大正十三年五月フランス駐在。大正十四年七月軍令部参謀。大正十五年九月第一潜水戦隊司令部附、十二月呂六一潜水艦長。(ウツボ)昭和二年十一月軍令部参謀・海軍大学校教官。昭和三年十二月中佐。昭和六年十月軍令部出仕・国連派遣。昭和七年十月ジュネーヴ軍縮会議全権随員。昭和八年十一月大佐、国連海軍代表随員、十二月ジュネーヴ軍縮会議全権随員。(カモメ)昭和九年十一月海軍省臨時調査課長。昭和十一年十一月潜水母艦「迅鯨」艦長。昭和十三年一月軍務局第一課長。昭和十四年十月軍令部第三部長、十一月少将。昭和十五年十月海軍省軍務局長。昭和十七年十一月中将。(ウツボ)昭和十九年七月海軍次官、九月鎮海警備府司令長官。昭和二十年六月予備役。戦後A級戦犯に指定(第四次)され終身禁錮の判決で服役。昭和二十九年釈放。昭和四十八年十二月四日死去。享年八十三歳。生涯独身だった。従三位、勲二等、功四級。ドイツ鷲勲章一等功労十字章。(カモメ)昭和十五年十月に海軍省軍務局長に就任した岡敬純少将は、十一月、圧力をかけて来る陸軍に対応するため、軍務局を改編し、第二課に国防政策を担当させましたね。(ウツボ)そうだね。この時、岡少将が第二課長に任命したのが、岡少将が面倒を見ていた政治軍人、石川信吾(いしかわ・しんご)大佐(山口・海兵四二・海大二五・給油艦「知床」特務艦長・施設艦「厳島」艦長・大佐・横須賀軍需部総務課長・艦政本部出兼軍務局第二課長・南西方面艦隊参謀副長・少将・第二三航空隊司令官・海軍省総動員局総務部長・海軍省運輸本部長兼大本営海軍戦力補給部長・従四位・勲二等)だった。(カモメ)強硬な対英米開戦論者であり、ドイツナチスの信奉者である石川大佐を第二課長に就けることに、省内の多数の親英米派が大反対しましたが、親ドイツ派の岡少将はこの人事を強行しました。この後、岡・石川のコンビが海軍の政策を動かしていくのですね。(ウツボ)そうだね。全てではないが、中枢的に政策を動かすことはできた訳だ。重要なことは、昭和十五年十二月十二日、海軍省に「政策委員会」を設置した。これは陸軍の政治力に海軍も対応できるようにするためだった。(カモメ)「政策委員会」の委員長は軍務局長、常務幹事は、調査課長、軍務局第一、第二課長、軍令部第一部甲部員であり、この委員会は岡軍務局長と石川第二課長が中心になり、太平洋戦争開戦に到る過程、政策決定はほとんどこの「政策委員会」の下固めによって進んでいったのですね。(ウツボ)そうだね。このことは、「太平洋戦争への道」(朝日新聞社)第七巻「日米開戦」および別巻「資料編」に記してある。一般的には、大東亜戦争に至る過程は、海軍は陸軍に引きずられて遂に開戦したというのが通説であり、高木惣吉元海軍少将なども、戦後、この「政策委員会」に力はさほど無かったと評している。だが、「太平洋戦争への道」に記してあるのは、それを覆すものだった。(カモメ)半藤一利も、その著書で太平洋戦争を開戦に導いたのは石川信吾海軍少将と岡敬純海軍中将であると主張していますね。石川少将自身、戦時中、部下に「太平洋戦争は俺が始めたんだ」と言って驚かしていたそうですね。(ウツボ)昭和十九年七月十八日岡敬純中将は、沢本頼雄(さわもと・よりお)中将(山口・海兵三六次席・海軍砲術学校高等科・海大一七・軍務局第一課長・重巡「高雄」艦長・戦艦「日向」艦長・少将・艦政本部総務部長・中将・海軍大学校長・第二遣支艦隊司令長官・海軍次官・大将・呉鎮守府司令長官・戦後水交会会長)の後任として海軍次官に就任した。(カモメ)だが、東條内閣総辞職を受けて海軍大臣に就任した米内光政大将は、昭和十九年八月五日、「岡を一夜にして駆逐する」と言って井上成美中将を次官にしたのですね。(ウツボ)そうだね。米内大将により、岡中将は左遷され、鎮海警備府司令長官として中央から遠ざけられた。終戦になり、岡中将は東京裁判でA級戦犯に指定され、終身禁錮の判決を受け、服役した(昭和二十九年釈放)。(カモメ)戦後、法務省がA級戦犯から太平洋戦争について聴取した「聴取書綴り」によると、岡敬純元海軍中将は、大東亜共栄圏について、次の様に述べています。(ウツボ)読んでみよう。「戦後、日本の犠牲において大東亜共栄圏は独立し大東亜の目的の一端が達せられた、とのごとき説をなす人がおるが、これは全く自己満足に過ぎないと思う。独立した諸国で衷心から日本に感謝している国がおるかどうか疑問である」。
2015.07.24
(カモメ)岩村清一は、明治四十三年十二月少尉。明治四十四年四月巡洋艦「宗谷」乗組。明治四十五年四月砲術学校普通科学生。大正元年八月水雷学校普通科学生、十二月中尉、三等駆逐艦「霞」乗組。大正二年四月装甲巡洋艦「浅間」乗組。大正四年三月一等駆逐艦「江風」乗組、九月一等戦艦「三笠」乗組、十二月大尉、装甲巡洋艦「磐手」分隊長。(ウツボ)大正五年十二月海軍大学校乙種学生。大正六年五月水雷学校高等科学生、十二月水雷学校高等科学生。大正七年三月三等駆逐艦「曙」乗組、五月第二特務艦隊司令部附、七月二等駆逐艦「桂」乗組、九月第二特務艦隊参謀。大正八年九月三等駆逐「潮」艦長。(カモメ)大正八年十二月海軍大学校甲種学生。大正十年十一月海軍大学校(一九期)を首席で卒業。大正十年十二月少佐、二等駆逐艦「樅」駆逐艦長。大正十一年五月海軍省副官。大正十三年四月英国駐在。大正十四年六月在英国大使館附武官補佐官、十二月中佐。(ウツボ)大正十五年十二月軍令部参謀。昭和三年十一月第一遣外艦隊参謀。昭和四年十一月ロンドン軍縮会議全権随員、大佐。昭和六年五月巡洋艦「矢矧」艦長、十二月二等巡洋艦「阿武隈」艦長。昭和七年十二月海軍省副官。昭和九年十一月戦艦「扶桑」艦長。(カモメ)昭和十年十一月少将、十二月第三艦隊参謀長。昭和十一年十一月横須賀鎮守府参謀長。昭和十二年十二月艦政本部総務部長。昭和十四年十月在中華民国大使館附武官、十一月中将。(ウツボ)昭和十五年十一月第二艦隊司令官。昭和十六年九月艦政本部長。昭和十八年四月第二南遣艦隊司令長官、九月軍令部出仕。昭和十九年三月予備役、六月安田保善社理事。(カモメ)昭和二十五年四月日本事務能率協会理事長。昭和四十五年二月九日死去。享年八十歳。従三位、勲一等瑞宝章、勲一等旭日大綬章。(ウツボ)岩村清一中将は、第一次世界大戦中でのヨーロッパ視察やロンドン軍縮会議全権随員の経験から、対英米戦争には反対していた。(カモメ)昭和十五年、海軍大臣・吉田善吾大将は航空本部長・井上成美中将に「艦政本部長を代えようと思うのだが、誰がよいだろうか」と相談を持ちかけたのですね。(ウツボ)そうだね。すると井上中将は「是非、岩村に。彼なら航空の重要性を理解するはずです」と、即座に岩村中将の名前を挙げた。岩村中将と井上中将は海軍兵学校の同期で、特に仲が良かった。また、井上中将も岩村中将も航空の重要さをいち早く認識していた。(カモメ)昭和八年、井上大佐が軍務局第一課長をしていた時に、軍令部が権限強化のために提起した「軍令部条令並に省部事務互渉規定改定案」に対して井上大佐が反対し孤軍奮闘していた時に、海軍省副官・岩村大佐は井上大佐の考えに全面的に賛成し、陰ながら応援しましたね。(ウツボ)そうだね。さて、岩村中将は艦政本部長に就任すると、すぐに一一〇号艦(戦艦大和・武蔵と同型艦)を空母に改造するための設計を急ぐよう、艦政本部第四部に指示した。(カモメ)また、岩村中将は「航空軍備はますます重要になる」と主張する井上中将に、「私の裁量が及ぶ範囲で、航空機の増産に可能な限り協力する」と約束をしたのです。(ウツボ)従来、航空本部は艦政本部より格下に見られていたが、航空本部長よりも格上の艦政本部長が協力を約束した。(カモメ)昭和十八年岩村清一中将は、第二南遣艦隊司令長官に就任しましたが、艦隊司令部が置かれたインドネシアのアンポンで一般兵士が現地住民に起こした事件により、解任され、昭和十九年三月予備役になったのです。(ウツボ)だが、三か月後には岩村清一中将は、日本四大財閥の一つ、安田保善社の理事に就任した。また、戦後は日本能率事務機社長に就任、軍人実業家として活躍した。さらに日本事務能率協会、実務用字協会を設立し、カナ文字タイプライターの普及に尽くした。(カモメ)著書は、「日本とイギリスの民主政治」(河出書房)、「日本生産性の基盤」(河出書房)、「第二次産業革命と国字問題」(一橋書房)、「生産性とこれからの実務用字」(日本生産性本部)がありますね。【甲種二〇期首席・小柳喜三郎大佐(海兵三六)】(ウツボ)次は、甲種二〇期首席・小柳喜三郎(こやなぎ・きさぶろう)大佐だ。海軍大学校甲種二〇期は大正九年十二月一日入学、大正十一年十一月二十五日卒業。卒業者数二十六名。広瀬正経中将、小池四郎中将、宍戸好信中将、中山道源中将、小松輝久中将、浮田秀彦中将、桑折英三郎中将、大川内傳七中将、松木益吉中将、鋤柄玉造中将、牧田覚三郎中将、戸塚道太郎中将、伍賀啓次郎中将、福田良三中将、岩下保太郎少将などがいる。(カモメ)小柳喜三郎は、佐賀県出身。明治四十一年十一月二十一日海軍兵学校(三六期・五席)卒業。海軍兵学校同期には、有栖川宮栽仁王、沢本頼雄大将、塚原二四二大将、南雲忠一大将、佐藤市郎中将などがいますね。(ウツボ)大正九年十二月海軍大学校入学。大正十一年十一月海軍大学校(二〇期)を首席で卒業。大正十二年十月五日軍令部第一班第一課。ソ連駐在。ソ連大使館附武官、大佐。小柳大佐は、昭和四年三月七日自決。
2015.07.17
(カモメ)癇癪持ちの佐藤市郎は、日常、家庭内で家族に対してはもちろんのこと、海軍の上司に対しても、しばしば癇癪玉を破裂させていたことは、「父、佐藤市郎が書き遺した軍縮会議秘録」にも、書かれていますね。(ウツボ)そうだね。側で見ていた海軍士官の同僚が「あんなことを言ったら、辞めさせられるだろうに、家族の多い自分には、とてもできないことだ」と言っていたそうだ。それはね、「天子様とお殿様の前のほかは、どこへ出ても誰にも負けない」という、母親譲りの高い気位を、佐藤市郎は持っていたと言われている。(カモメ)そうとは言え、佐藤市郎ほどの優秀な海軍士官が、旅順要港部司令官を最後に、予想よりもずっと早く、海軍から予備役に編入されたのは、何故でしょうか。(ウツボ)まず、「佐藤中将は、ロンドン会議の過労と心痛で健康をそこなったからだ」と海軍関係者は言っている。ロンドン会議が終わって帰国した佐藤市郎大佐は、帰国後三か月も経たぬ時、国際連盟のリットン調査団の日本海軍側随員として中国に派遣され、昭和六年四月に奉天で肺炎にかかり、二か月間入院した。(カモメ)帰国後も十月初めまで海軍の保養地の近くで休養しましたね。だが、勤務は休む事は無かったそうですね。(ウツボ)次に、佐藤市郎が尊敬していた有名な上司からの手紙には、佐藤市郎のことを「あまりの秀才は、世間から、うとまれるのではないかと、思われる」という趣旨が書かれていたそうだ。(カモメ)その上司は誰でしょうか。(ウツボ)それは記してないから不明だね。憶測で言う訳にもいかない。現実的な話をすると、ロンドン海軍軍縮会議(昭和五年一月~四月)は、批准されたが、海軍部内では条約派と艦隊派の対立構造が生まれ、政治では「統帥権干犯問題」までも引き起こした訳だ。(カモメ)この事が佐藤中将の出世に影響したという事ですか。(ウツボ)そうだね。ロンドン海軍軍縮会議の全権・若槻禮次郎元首相の著書「古風庵回顧録」(読売新聞社)によると、当時、ロンドン軍縮会議に賛成した海軍高官や全権随員の海軍士官について次のように記している。(カモメ)読んでみます。「又、軍縮会議の犠牲 初め海軍省内では、大部分のものがこの条約に反対だったと聞く。当時省内の要職にあった人たちは、条約に同意したという理由かどうか知らないが、後にみんな外に出され予備に回され海軍では用いられなかった。軍縮会議で働いたとかの理由で、海軍がその人たちを冷遇したと聞く私は、心中不愉快にたえなかった」。(ウツボ)ちなみに、佐藤市郎は、ジュネーブ海軍軍縮会議やロンドン海軍軍縮会議で多数の批判や、人物評を書き残しているが、ロンドン軍縮会議での人物評を抜粋して一部を紹介する。(カモメ)読んでみます。「話は寿府(ジュネーブ)当時の回顧に移り今次の随員編成に及ぶ 聞けば首席の左近司さん(左近司政三中将)は一再ならず次官(山梨勝之進中将)に大叱られに叱られる程のヘマをやっているのでみんな心配で堪らず誰かしっかりした者をと物色した結果山本さん(山本五十六少将)に白羽の矢が立った」(ウツボ)「なんでも堀さん(海軍省軍務局長・堀悌吉少将)が外に適任者もないので遠慮しながらクラス・メートの山本少将を推薦したらしく、山本さんの役は軍縮のことなど知らなくてよいから唯々強く頑張れと云うのだ相(そう)な」(カモメ)「豊田さん(豊田貞次郎大佐)が相変わらずコソコソしている 今度は問題の現状を知らず……実は日本海軍の現状を余り知らないのだから彼氏としては閑職をあてがわれたのだが持前の性質から余計な出しゃばりをしては山本さんに握潰されている」(ウツボ)「いい気持になって部屋に帰って子供達に絵葉書でも書こうとしていると榎本君(海軍書記官・榎本重治)がやって来続いて大毎(大阪毎日新聞)の森山が来る 四方山の話がはずむ 森山の話の一つ……太平洋航海中 記者連のイタズラ共が海軍の連中を忠臣蔵の役者に見立てた」(カモメ)「まず安保大将(男爵・安保清種大将)が大星由良之助はよかったが財部さん(全権・海軍大臣・財部彪大将)はかあい相に猪 雌か雄かと訊ねると雌は別にいるから雄には違いないが牙が折れている…三人一斉に哄笑する」。(ウツボ)かなり、辛辣な表現の人物評だが、的確なだけに、書かれたほうは、こたえるね。このような書き方は、佐藤中将の信条から来るものだが、恐らく性格も影響しているようだね。【甲種一九期首席・岩村清一中将(海兵三七)】(カモメ)次は、甲種一九期首席・岩村清一(いわむら・せいいち)中将ですね。海軍大学校甲種一九期は大正八年十二月一日入学、大正十年十一月三十日卒業。卒業者数二十九名。松崎伊織中将、宮田義一中将、近藤英次郎中将、堀江六郎中将、坂本伊久太中将、山本弘毅中将、戸苅隆始中将、草鹿任一中将、大熊政吉中将、小沢治三郎中将などがいますね。(ウツボ)岩村清一は、明治二十二年九月十四日生まれ。東京都出身。父・岩村定高(初代三重県令)、母・千代の息子だね。(カモメ)岩村清一の妻・美須代の兄は東京帝国大学教授・高木八尺(たかぎ・やさか・東京・東京帝国大学卒・法学博士・学習院高等科・東京大学法学部教授・東京大学法学部名誉教授・太平洋問題調査委員会常任理事・貴族院議員・日本学士院会員・文化功労者・従三位・勲一等)ですね。(ウツボ)明治二十二年九月東京府立第一中学校から海軍兵学校入校。明治四十二年十一月海軍兵学校(三七・八席)卒業。巡洋戦艦「伊吹」乗組。
2015.07.10
(カモメ)岸信介は、明治二十九年十一月十三日生まれ。岸良子と結婚し岸家を継ぐ。大正九年東京帝大法学部卒。農商務事務官、農商務参事官、商工省工務局長。満州国国務院総務庁次長、満州国財政部次長、国務院総務長官。昭和十四年商工次官。昭和十六年商工大臣。昭和三十年自由民主党初代幹事長。外務大臣。昭和三十二年~三十五年内閣総理大臣。皇學館大学総長。昭和六十二年八月七日死去。享年九十歳。正二位、勲一等旭日桐花大綬章、大勲位菊花大綬章。(ウツボ)佐藤栄作は、明治三十四年三月二十七日生まれ。大正十三年東京帝国大学法学部卒。鉄道省入省、二日市駅長、門司鉄道局運輸庶務掛長。昭和九年米国出張(鉄道研究)、鉄道省陸運監理官。昭和十六年鉄道省監督局長、監理局長、運輸通信省自動車局長。昭和十九年大阪鉄道局長。昭和二十二年運輸次官。昭和二十三年吉田内閣官房長官。昭和二十五年自由党幹事長。昭和二十六年郵政大臣兼電気通信大臣。その後建設大臣、大蔵大臣、通商産業大臣等を歴任。昭和三十九年~昭和四十七年内閣総理大臣。ノーベル平和賞受賞。昭和五十年六月三日脳卒中で死去。享年七十四歳。従一位、大勲位菊花大綬章、大勲位菊花章頸飾。(カモメ)岸信介の長女・洋子は、阿部晋太郎(通産大臣・外務大臣・自民党幹事長・死去)の妻。阿部晋太郎の次男は、現在の内閣総理大臣・安倍晋三ですね。(ウツボ)そうだね。安倍晋三の弟は、岸家の養子になった衆議院議員・岸信夫(参議院議員・外務副大臣・防衛大臣政務官)だね。(カモメ)佐藤市郎は、明治四十一年十一月二十一日海軍兵学校(三六期)を次席で卒業。在学中・卒業時合わせて成績はほぼ満点に近く(平均九七・五点)、海軍始まって以来の秀才と言われましたね。(ウツボ)そうだね。事実上、卒業成績順位は首席であったが、同期の有栖川宮栽仁王が首席とされており、次席にされた。(カモメ)明治四十三年一月少尉、三月装甲艦「鎮遠」乗組、七月砲術学校普通科学生、十二月水雷学校普通科学生。明治四十三年四月巡洋艦「宗谷」乗組。明治四十四年十二月中尉。明治四十五年四月戦艦「河内」乗組。(ウツボ)大正二年十二月海軍大学校乙種学生。大正三年五月海軍大学校専修学生、十二月大尉。大正四年十二月防護巡洋艦「対馬」航海長。大正五年十一月練習艦隊参謀。(カモメ)「父、佐藤市郎が書き遺した軍縮会議秘録」(佐藤信太郎編・文芸社)によると、大正五年のユトランド沖海戦(第一次大戦で英国艦隊とドイツ艦隊の大海戦)について英国の海軍関係月刊誌「NAVY」が記念号に戦術上の日本海軍の見解を依頼してきました。(ウツボ)佐藤市郎大尉は彼の見解を日本海軍の見解として寄稿を命じられた。英語で執筆した佐藤大尉の戦術見解は「NAVY」記念号に掲載された。(カモメ)佐藤市郎大尉は英語とフランス語に堪能で、大正六年練習艦隊参謀として北米西海岸方面に遠洋航海の時、練習艦隊司令官・鈴木貫太郎中将のテーブルスピーチの通訳を行い、現地の人々の大喝采を博したのです。(ウツボ)大正七年十二月海軍大学校(甲種学生)入学。大正九年十一月海軍大学校(甲種一八期)を首席で卒業。海軍大学校始まって以来の成績高得点で卒業。大正九年十二月少佐、フランス駐在。大正十二年六月二等巡洋艦「大井」航海長、十一月軍令部参謀。(カモメ)大正十三年十二月中佐。大正十五年十二月第二艦隊参謀。昭和二年四月ジュネーブ海軍軍縮会議全権随員、十一月連合艦隊参謀。昭和三年十二月大佐、二等巡洋艦「長良」艦長。昭和四年五月軍令部参謀、八月国連海軍代表、十一月ロンドン海軍軍縮会議全権随員。(ウツボ)昭和六年二月国際連盟支那調査問題(リットン調査団)海軍調査委員参与委員随員。昭和七年十一月教育局第一課長。昭和九年十一月少将、航空本部教育部長。(カモメ)昭和十一年四月呉鎮守府参謀長、十二月海軍大学校教頭。昭和十三年十一月中将、旅順要港部司令官。昭和十五年四月予備役。昭和十八年五月南西方面海軍民政府嘱託。(ウツボ)昭和三十三年四月十二日東京の病院において心筋梗塞で死去。享年六十九歳。著書に「海軍五十年史」(四〇五頁・鱒書房・一九四三年)がある。(カモメ)「父、佐藤市郎が書き遺した軍縮会議秘録」(佐藤信太郎編・文芸社)によると、この本は、佐藤市郎が全権随員として参加した「ジュネーブ海軍軍縮会議」と「ロンドン海軍軍縮会議」の回顧録で、会議の舞台裏(内幕)と、同行した上司や同僚の人物評・批判・が記されていますね。(ウツボ)そうだね。ある種の暴露本でもある。批判や不満が率直に記されているのは、両会議における海軍の上司や同僚の人物評や成績を報告するよう、佐藤市郎中佐は、海軍省から命じられていたからだ。(カモメ)「佐藤市郎」<佐藤多摩(夫人)・佐藤信太郎(長男)編>によると、佐藤市郎は「嘘」のない、正しく生きることが生活の第一信条だった。この信条を、海軍部内ではもちろん、日常生活でも通したということですね。(ウツボ)そうだね。少しでも曲ったことは絶対に許せない性格で、要領よくできない軍人だった。佐藤市郎の「清く正しく生きる」という理想に対して、現実の世の中は余にも醜く、志を得ることはできなかった。
2015.07.03
(カモメ)昭和二十年四月豊田は鈴木内閣の軍需大臣兼運輸通信大臣に就任、十月貴族院議員。戦後A級戦犯容疑で逮捕、東京裁判で不起訴。昭和三十三年ブラジルの鉄鋼開発合弁企業「日本ウジミナス」の会長に就任。昭和三十六年十一月二十一日腎臓ガンで死去。享年七十六歳。正三位、勲一等旭日桐花大綬章。(ウツボ)「太平洋戦争海藻録」(岩崎剛二・光人社)によると、豊田貞次郎は、山本五十六大将の兵学校一期下のクラスヘッドで、商工大臣、外務大臣、軍需大臣などを歴任したため、「軍人でありながら、豊田は政治好き」という批判の声も一部にあった。(カモメ)だが、豊田は、好んで大臣を引き受けたのではなかったのです。昭和十五年七月、第二次近衛内閣の組閣に当たって、商工大臣として入閣してほしいと近衛公から当時の海軍次官・豊田貞次郎中将に打診があったのですね。(ウツボ)そうだね。海軍大臣なら現役として勤められるが、商工大臣となると、現役を退かなければならない。豊田中将は海軍への愛着と、近衛公との信頼の板挟みになり悩んだ。結局、断ることができずに、予備役となって大臣に就任した。(カモメ)豊田の娘、真規子は、「この国家非常のときに、海軍を去らねばならぬとは……」という父の目に、涙を見たのです。(ウツボ)豊田と海軍大学校同期の沢本頼雄(さわもと・よりお)大将(山口・海兵三六・三席・海大一七・軍務局第一課長・一等巡洋艦「高雄」艦長・戦艦「日向」艦長・少将・海軍大学校教頭・艦政本部総務部長・第七戦隊司令官・中将・練習艦隊司令官・海軍大学校校長・第二遣支艦隊司令長官・海軍次官・航空本部長・大将・呉鎮守府司令長官・軍事参議官・正三位・勲一等)の回想によると、予備役になって商工大臣に就任した豊田大将は、当時海軍次官だった沢本中将に次のように言っていた。(カモメ)読んでみます。「自分は海軍をやめてから、ますます海軍が恋しくなり、現役を去ったことが寂しくてたまらず、用事もないのに、海軍省の門の前まで行ってうろついていたことも何度かあった。体重も一か月で一貫目も減ってしまい、そのかわり酒量ばかりが増えた」。(ウツボ)豊田の娘、真規子は、山本祐二(やまもと・ゆうじ)海軍少将(鹿児島・海兵五一次席・海大三二・重巡洋艦「青葉」水雷長・ドイツ大使館附武官補佐官・第二艦隊参謀・中佐・連合艦隊参謀・軍令部第一部作戦課部員・第三艦隊参謀・連合艦隊参謀・海軍乙事件・大佐・第二一駆逐隊司令・第二艦隊参謀(旗艦「大和」)・沖縄水上特攻で戦死・少将)に嫁いでいた。(カモメ)昭和三十六年十月初め、豊田貞次郎は腎臓ガンに冒され、病院に入院して、衰弱した体をベッドに横たえていました。その頃、ある週刊誌が、太平洋戦争中の何人かの軍人をとりあげ、「人物録」として記事にしたことがあったのですね。(ウツボ)そうだね。沖縄水上特攻で失った自分の夫、山本祐二海軍少将もとりあげられており、真規子は、その出版社から山本少将に関する原稿を見せられた。(カモメ)真規子は、その原稿を見て、「これで結構だ」と思ったが、念のため、入院中の父、豊田貞次郎にも見てもらおうと思い、その原稿を次男に持たせたのです。(ウツボ)これを読んだ豊田貞次郎は、すでに息切れのするかすれた声で、この孫を怒鳴りつけた。「馬鹿者ッ、この親不孝め! お前には海軍の精神がわからないのか!」。(カモメ)この記事原稿の中に、次の様な一文があった。「……山本大佐は家族のこと、特に二人の息子たちのことを気にしながら、片道の燃料しか持たない『大和』とともに死んでいった。さぞつらかったろう……」。(ウツボ)豊田貞次郎は、次のように言った。「いやしくも海軍の軍人が、そして豊田の婿ともあろう者が、死ぬときに妻や息子の事を考えるような女々しいことをするか! お前は自分の父親のことをそんな風に見ていたのか。本当の海軍魂を知らぬ奴が、こういう記事を書くのだ。これは死者への冒涜であり、日本海軍への冒涜だッ」。(カモメ)記事原稿のその部分は削除されました。それから間もなく、豊田貞次郎の意識がなくなり、十一月二十一日に息を引きとったのです。【甲種一八期首席・佐藤市郎中将(海兵三六)】(ウツボ)次は、甲種一八期首席・佐藤市郎(さとう・いちろう)中将だ。海軍大学校甲種一八期は大正七年十二月一日入学、大正九年十一月二十六日卒業。卒業者数二十九名。野村直邦大将、南雲忠一大将、塚原二四三大将、原敬四郎中将、平田昇中将、谷本馬太郎中将、星埜守一中将、細萱戊子郎中将、水戸春造中将、清水光美中将、島津忠重少将などがいる。(カモメ)佐藤市郎は、明治二十二年八月二十八日生まれ。山口県出身。父・佐藤秀助(酒造業)、母・茂世の長男(三男七女)。佐藤秀助の祖父・佐藤信寛は初代島根県知事。(ウツボ)佐藤秀助には三人の男子が生まれた。長男・市郎、次男・信介、三男・栄作だ。信介は岸家の婿養子となり、岸信介となった。長男・佐藤市郎は海軍中将、次男・岸信介と三男・佐藤栄作は共に内閣総理大臣になった。兄弟宰相だ、(カモメ)岸信介の口癖は「頭の良さからいうと、兄の市郎、私、弟の栄作の順だ。だが、政治力は、栄作、私、市郎と逆になる」でしたね。(ウツボ)そうだね。有名な話だね。
2015.06.26
(ウツボ)大正八年十二月横須賀鎮守府附・教育本部部員。大正九年五月軍務局局員、十二月中佐。大正十二年五月巡洋戦艦「金剛」副長、十一月在英国大使館附武官。大正十三年十二月大佐。(カモメ)昭和二年四月在英国大使館附武官・ジュネーブ会議全権随員、十一月二等巡洋艦「阿武隈」艦長。昭和三年十二月戦艦「山城」艦長。昭和四年十一月ロンドン軍縮会議全権随員。昭和五年十二月少将。(ウツボ)昭和六年十一月豊田少将は軍務局長に就任した。だが半年後には軍務局長を更迭された。当時の軍令部長伏見宮博恭王大将に対して失言をしたと言われている。「大臣になりたい」が口癖だった豊田少将はここで挫折した。(カモメ)昭和七年五月航空本部出仕、十一月広工廠長。豊田少将の専門の砲術とは関係のない、航空本部に回され、その後は、軍需工場である広工廠長(広島県)に追いやられました。誰もが、豊田少将は中央のエリート集団の出世階段から踏み外したと思ったのですね。(ウツボ)ところが、豊田少将は、広工廠において、全力で仕事に取り組んだ。広工廠は、航空機整備を主力とする特殊な軍事工場だった。当時航空機の重要性が高まりつつあったが、まだ、整備に必要な工具や部品は満足に調達されていなかった。(カモメ)豊田少将はこのような現状を認識させられ、その改善に取り組みました。豊田少将はここで、工業生産力の必要性を感じ取り、後に政治家、経営者として鉄鋼業の振興に務める原動力となったのです。(ウツボ)昭和九年五月艦政本部総務部長。昭和十年十一月中将。昭和十一年二月呉工廠長。昭和十二年十二月佐世保鎮守府司令長官。(カモメ)豊田中将は、佐世保鎮守府司令長官時代に、当時の海軍次官・山本五十六中将から時期次官候補として推薦されました。山本中将はその旨の手紙を豊田中将に送ったのですね。(ウツボ)そうだね。すると、豊田中将は山本中将に、「私が親補職(鎮守府司令長官)にあるからといって、(親補職ではない格下の)海軍次官に就任しないという考えはない」という趣旨の返書を山本中将に送った。(カモメ)山本中将は、この返書を読んで、唖然として、苦笑いをしました。この時の人事は、山本中将が留任となったため、豊田中将の海軍次官就任は実現しませんでしたが、以後、海軍次官の有力候補になったのです。(ウツボ)昭和十三年十一月航空本部長。昭和十四年八月兼艦政本部長。そして昭和十五年九月豊田中将は海軍次官兼航空本部長に就任した。(カモメ)当時の海軍大臣は及川古志郎(おいかわ・こしろう)海軍大将(岩手・海兵三一・海大一三・東宮武官・中佐・第一五駆逐隊司令・水雷学校教官・大佐・二等巡洋艦「多摩」艦長・軍令部第一班第一課長・海軍兵学校教頭・少将・軍令部第一班長・第一戦隊司令官・海軍兵学校校長・中将・第三艦隊司令長官・航空本部長・支那方面艦隊司令長官・大将・横須賀鎮守府司令長官・海軍大臣・海軍大学校校長・軍令部総長・正三位・勲一等・功一級)でした。(ウツボ)豊田中将は海軍次官になると、当時最大の懸案事項であった日独伊三国同盟の締結に向け、及川海軍大臣を補佐して積極的に推進した。念願の海軍次官だったので、水を得た魚のように動いた。(カモメ)時には海軍大臣以上に活動し、実績を積み上げました。時には、及川大臣を差し置いて、政務に関する案件を決裁したりしたので、「豊田大臣、及川次官」という皮肉った陰口もささやかれました。(ウツボ)豊田中将が海軍次官在任中、連合艦隊司令長官・山本五十六大将が、そろそろ連合艦隊司令長官を辞めたいと、及川大臣に書簡を送った。その中で「後任には、古賀峯一か嶋田繁太郎、若返りを図るなら、豊田副武か豊田貞次郎を推薦する」と書き送っている。(カモメ)昭和十六年三月近衛首相は、第二次近衛内閣の小林一三商工大臣の後任として、海軍次官・豊田貞次郎海軍中将を推したのですね。(ウツボ)そうだね。熟慮の上、海軍現役を退いて商工大臣になることを決意した豊田中将は、自らの大将進級を条件に海軍次官を依願退職するという前代未聞の辞表を及川海軍大臣に提出した。(カモメ)これは、周囲を唖然とさせました。及川大臣はこの辞表を受理せずに、豊田中将を大将に進級させた上で即日予備役に編入して決着させたのです。(ウツボ)この豊田中将の転出劇は、人の陰口が嫌いな古賀峯一でさえも「豊田さんは出世のために海軍を踏み台にした」と言わしめたほど、海軍省内の人々を落胆させた。(カモメ)昭和十六年四月大将、予備役、商工大臣、七月外務大臣兼拓殖大臣、十二月日本製鉄社長。(ウツボ)昭和十八年三月東條内閣から求められ内閣顧問に就任。軍需物資の陸海軍配分比率で陸海軍が激しく対立しており、打開策を求められた。だが、豊田の思惑通りにはいかなかった。
2015.06.19
【甲種一六期首席・佐藤三郎中将(海兵三四)】(ウツボ)次は、甲種一六期首席・佐藤三郎(さとう・さぶろう)中将だ。海軍大学校甲種一六期は大正五年十二月一日入学、大正七年十一月二十六日卒業。卒業者数二十名。堀悌吉中将、井上肇二中将、菊野茂中将、片桐英吉中将、前田政一中将、小林宗之助中将、下村正助中将、小槇和輔少将、園田実少将などがいる。(カモメ)佐藤三郎は、明治十八年六月二十四日生まれ。福島県出身。旧二本松藩士・佐藤健蔵の三男。母はハル。(ウツボ)佐藤三郎の妻、錠(てい)は、横山正恭(よこやま・まさゆき)海軍機関少将(東京・海軍兵学寮本科卒・海軍少機関士・海軍大機関士・防護巡洋艦「高千穂」乗組・海軍機関学校部長・教官・フランス出張・巡洋艦「筑紫」機関長・海軍機関少監・機関工練習所長・防護巡洋艦「吉野」機関長・英国出張・海軍機関大監・機関術練習所長・旅順口鎮守府機関長・海軍機関少将・従四位・勲三等・功四級)の娘だね。(カモメ)また、百武源吾(ひゃくたけ・げんご)海軍大将(佐賀・海兵三〇首席・海大一一・海軍大学校兵学教官・大佐・装甲巡洋艦「春日」艦長・教育局第一課長・フランス出張・国連海軍代表・少将・海軍大学校教頭・軍令部第一班長・第五戦隊司令官・中将・軍令部次長・海軍大学校校長・練習艦隊司令官・第三艦隊司令長官・佐世保鎮守府司令長官・艦政本部長・横須賀鎮守府司令長官・大将・軍事参議官・高等技術会議議長・予備役・九州帝国大学総長・正三位・勲一等・功五級)は佐藤三郎の義兄にあたるのですね。(ウツボ)佐藤三郎は、明治三十九年海軍兵学校(三四次席)卒業、防護巡洋艦「松島」乗組。明治四十年十二月少尉。明治四十一年六月巡洋艦「阿蘇」乗組。明治四十二年八月砲術学校普通科学生、十月中尉、十二月水雷学校普通科学生。明治四十三年四月三等駆逐艦「朧」乗組。明治四十四年一月巡洋戦艦「鞍馬」乗組、十二月大尉、海軍大学校乙種学生。(カモメ)明治四十五年五月海軍大学校専修学生(航海術)、優等で卒業。大正元年十二月砲艦「隅田」乗組。大正三年三月巡洋艦「矢矧」分隊長、八月防護巡洋艦「秋津洲」航海長、十二月第三艦隊参謀。大正四年十二月練習艦隊参謀。(ウツボ)大正五年十二月海軍大学校入学。大正七年十一月海軍大学校(甲種一六期)を首席で卒業。大正六年十二月少佐、米国駐在。大正九年四月在米国大使館附武官補佐官。大正十年九月横須賀航空隊附、十二月中佐。(カモメ)大正十一年八月軍令部参謀(一班一課)。大正十四年一月米国出張、九月軍令部出仕、十一月霞ヶ浦航空隊附、十二月大佐。昭和二年十一月軍令部出仕・海軍省出仕、十二月海軍省軍務局第一課長。昭和四年八月軍令部出仕・英国出張、十一月ロンドン海軍軍縮会議全権随員。(ウツボ)昭和五年八月装甲巡洋艦「八雲」艦長。昭和六年十二月少将、霞ヶ浦航空隊司令。昭和八年十月海軍航空本部技術部長。昭和九年六月海軍航空本部技術部長・総務部長。昭和十年十一月第一航空戦隊司令官。昭和十一年十二月中将、海軍大学校校長。昭和十二年十二月軍令部出仕。昭和十三年八月十九日死去。享年五十三歳。正四位、勲二等。【甲種一七期首席・豊田貞次郎大将(海兵三三)】(カモメ)次は、甲種一七期首席・豊田貞次郎(とよだ・ていじろう)大将ですね。海軍大学校甲種一七期は大正六年十二月一日入学、大正八年十二月一日卒業。卒業者数二十四名。近藤信竹大将、高須四郎大将、沢本頼雄大将、新山良幸中将、和田秀輔中将、住山徳太郎中将、原五郎中将、野田清中将、降幡敏中将、高橋伊望中将、新見政一中将、熊岡譲中将、雪下勝美少将、三浦省三大佐などがいますね。(ウツボ)豊田貞次郎は、明治十八年八月七日生まれ。和歌山県出身。紀伊田辺藩士・豊田信太郎の次男。母はくら。(カモメ)豊田貞次郎の妻、満子は武田秀雄(たけだ・ひでお)海軍機関中将(高知・海軍兵学校機関科・海軍機関学校・海軍少機関士・海軍機関学校教授兼部長・海軍大機関士・フランス出張・留学・防護巡洋艦「厳島」乗組・商船学校機関術講師嘱託・海軍機関少監・軍務局機関課・海軍機関中監・フランス駐在・海軍機関大監・教育本部第二部長・艦政本部・練炭清造所長・機関大佐(改称)・機関少将・教育本部第三部長・機関中将・海軍機関学校校長・三菱造船会長・三菱電機会長・正四位・勲二等・功五級)の娘ですね。(ウツボ)豊田貞次郎は、天王寺中学校から東京外語学校英語科を経て海軍兵学校に入学。明治三十八年十一月海軍兵学校(三三期)を首席で卒業、防護巡洋艦「厳島」乗組。明治三十九年十二月少尉、防護巡洋艦「千歳」乗組。明治四十一年四月砲術学校普通科学生、七月水雷学校普通科学生、九月中尉。(カモメ)明治四十二年一月一等戦艦「敷島」乗組、十一月練習艦隊附。明治四十三年七月戦艦「薩摩」乗組、十二月大尉、海軍大学校乙種学生(優等で卒業)。明治四十四年五月砲術学校高等科学生(優等で卒業)、十二月英国駐在、オックスフォード大学に留学(二年半)。(ウツボ)大正三年十月軍令部出仕。大正四年二月巡洋戦艦「比叡」分隊長、十二月第四戦隊参謀。大正五年十二月少佐。大正六年四月第三特務艦隊参謀、大正六年十二月海軍大学校甲種学生。大正八年十二月海軍大学校(甲種一七期)を首席で卒業。(カモメ)豊田貞次郎は、海兵を首席、海大乙種を優等、砲校高等科を優等、海大甲種を首席で卒業した海軍の秀才ですね。
2015.06.12
(ウツボ)豊田元大将に面会した多田元少佐が、豊田元大将の近況について尋ねると、豊田元大将は次のように話した。(カモメ)読んでみます。「この家の裏に、ちょっとした畑地が続いているが、その隅に小屋を建て、鶏を十数羽飼っているのだ。年寄り一人の仕事だから大したことはできないが、けっこう退屈しのぎになるヨ。当節のことだから、栄養補給のために、卵をよく産む白色レグホンの雌ばかりにしているのだ」(ウツボ)「……鶏の世話をしながら、よく観察していると、鶏にもそれぞれ個性があってなかなか面白い。中に一羽ひとまわり大柄なのがいて、餌をやるときなど、いつもこやつが一人占めしようと、他のものをいじめるのだ」(カモメ)「どうも俺の性分として、こういう風に威張り散らす奴は容赦できない。癪にさわるから、いつもこやつを棒でたたいて懲らしめているのだ。こうゆう奴に限って、懲罰を受けると、大げさにわめきたてる。それが他にも伝わって、いつも小屋中が大騒ぎになる。こんな騒動のあった翌朝は、きっと卵を産む数が減るのだ」。(ウツボ)また豊田元大将は、「最後の帝国海軍」の中で次のようにも語っている。(カモメ)読んでみます。「自分の口から言うのはおかしいが、私は極めて頑固である一方、非常に涙もろい性格の持ち主のようだ。(中略)たまに芝居を観たり、小説を読んだりする場合、観たり読んだりしながら、私は実際よく涙を流す。どうも私の言動と、この涙もろさとは、ディスクレパンシイ(相違)があるようだが、どうしようもない」。(ウツボ)一方、「四人の連合艦隊司令長官」(吉田俊雄・文藝春秋)の中で、著者の吉田氏は、豊田副武大将について批判的な記述をしている(抜粋)。(カモメ)それによると、昭和二十年三月二十五日、不意に、敵大船団が、沖縄慶良間列島に入って来たのですね。沖縄に来るときはまず伊江島から入って来る、と判断していた日本軍は、裏をかかれて衝撃を受けました。(ウツボ)三月二十六日、豊田連合艦隊司令長官は「天一号作戦発動」を下令、前後して、第一遊撃部隊に「出撃準備を完了して内海西部に待機せよ」と命じた。(カモメ)第一遊撃部隊とは戦艦大和を旗艦とする第二艦隊(司令長官・伊藤整一中将・十隻)で、最後の連合艦隊のことですね。(ウツボ)修理を続けていた第二艦隊は突然出撃準備を命じられたので、修理を中止して、三月二十八日以後、豊後水道を出て、佐世保に行けと命じられた。(カモメ)「渾作戦といい、マリアナ沖海戦といい、台湾沖航空戦といい、捷号作戦といい、今度といい、豊田、草鹿指導部は、いったん決めたものをよくひっくり返して作戦部隊をあわてさせる。これも直観的作戦指導というのか」と吉田氏は批判しています。(ウツボ)大和部隊は、命令通り出港して、豊後水道を南下した。が、その前から敵機動部隊が南九州の空襲を始めた。すぐに佐世保行は見合わされ、四月三日、取りやめられた。(カモメ)大和部隊は宙ぶらりんになったのですね。中止した修理も終わらさねばならぬし、訓練もしたい。だが、どちらも、どれだけ時間の余裕があるかわからないから、手をつけられないのですね。(ウツボ)四月二日から第二艦隊の海上特攻命令を豊田司令長官が発令する五日までの三日間に何が起こったか、正確に述べるのは難しい。(カモメ)分っているのは、連合艦隊司令部参謀・神重徳(かみ・しげのり)大佐(鹿児島・海兵四八・十番・海大三一首席・ドイツ駐在・中佐・第五艦隊参謀・軍令部第一部第一課・大佐・第八艦隊参謀・軽巡洋艦「多摩」艦長・海軍省教育局第一課長・連合艦隊司令部参謀・海軍総隊司令部参謀・第一〇航空艦隊参謀長・航空事故で殉職・少将)が牽引車であったと言われていますね。(ウツボ)だが、神参謀の力だけでできることではない。最終的には、連合艦隊参謀長・草鹿龍之介(くさか・りゅうのすけ)中将(東京・海兵四一・十四番・海大二四・海軍大学校教官・大佐・航空本部総務部第一課長兼海軍技術会議議員・陸海軍航空本部協調委員会幹事・空母「鳳翔」艦長・軍令部第一部第一課長兼海軍技術会議議員・陸海共同作戦研究会委員・空母「赤城」艦長・少将・第四連合航空隊司令官・第一航空艦隊参謀長・第三艦隊参謀長・連合艦隊参謀長・第五航空艦隊司令長官・戦後化学肥料会社顧問)と、豊田司令長官の決裁が必要だからね。(カモメ)続いて軍令部総長、次長の承認が要りますね。海軍の参謀は、陸軍のそれと違って、あくまで指揮官のブレーンであり、部隊を指揮する権限は無いですよね。(ウツボ)そうだね。豊田司令長官が「ノー」といえば、どんな着想も、取り捨てられる。(カモメ)「戦艦が敵の上陸点に突入して射ちまくれば、必ず勝てる。上陸点までは、当事者に勇気があれば突破できる」と、サイパン奪回作戦、レイテ湾突入作戦で強力に繰り返し主張して来た神参謀独特の精神論的突入作戦に、豊田司令長官が「イエス」と言ったのですね。(ウツボ)そうだね。さらに、軍令部次長・小沢治三郎(おざわ・じさぶろう)中将(宮崎・海兵三七・四十五番・海大一九・海軍大学校教官・戦艦「榛名」艦長・少将・連合艦隊参謀長・海軍水雷学校校長・第一航空戦隊司令官・第二戦隊司令官・中将・海軍大学校校長・第三艦隊司令長官・第一機動艦隊司令長官・軍令部次長・連合艦隊司令長官)が、「連合艦隊司令長官がそうしたいという決意ならよかろう」と了解を与えた。(カモメ)それを軍令部総長・及川古志郎(おいかわ・こしろう)大将(新潟・海兵三一・七十六番・海大一三・軽巡洋艦「多摩」艦長・海軍兵学校教頭・少将・軍令部第一班長・第一航空戦隊司令官・海軍兵学校校長・中将・第三艦隊司令長官・航空本部長・大将・横須賀鎮守府司令長官・海軍大臣・海軍大学校校長・海上護衛隊司令長官・軍令部総長)が黙って聞いていたからこそ、第二艦隊特攻作戦は承認されたのですね。
2015.06.05
(ウツボ)昭和十九年五月豊田副武大将は連合艦隊司令長官として、旗艦の軽巡洋艦「大淀」(公試九九八〇トン・乗組員七三〇名)に座上した。(カモメ)当時、多田少佐は、連合艦隊司令部の航空乙参謀として、航空甲参謀・淵田美津雄(ふちだ・みつお)中佐(奈良・海兵五二・海大三六・空母「龍驤」飛行隊長・空母「赤城」飛行隊長・中佐・真珠湾攻撃航空部隊総指揮官・横須賀航空隊教官・海軍大学校教官・第一航空艦隊参謀・連合艦隊航空甲参謀・大佐・戦後キリスト教徒)を補佐していたのですね。(ウツボ)そうだね。多田少佐は、連合艦隊航空参謀として、豊田副武司令長官の下で、マリアナ沖海戦、レイテ沖海戦を戦った。(カモメ)戦後、昭和五十六年に吉田俊雄(よしだ・としお)元海軍中佐(福岡・海兵五九期・四十一位・海軍大学校選科・重巡洋艦「妙高」分隊長・軍令部三班八課・少佐・長野修身元帥副官・米内光政副官・島田繁太郎副官・中佐・戦後防衛庁事務官・小松製作所・海軍に関する著作多数・平成十八年死去)が、「四人の連合艦隊司令長官」(文藝春秋)を発刊しました。(ウツボ)多田氏は、この本をいち早く手に入れて、豊田副武司令長官の項を、むさぶるようにして反復熟読した。(カモメ)ところが、読後の感想は、豊田司令長官に対する、吉田氏の人物評論が、あまりも酷なので、悔しさでいっぱいになったのですね。(ウツボ)そうだね。吉田氏は多田氏の海軍兵学校一期上の先輩だった。年齢も、育った時代環境も、ほとんど変わらないのに、どうしてものの見方が、こうも違うものかと、不思議に思えた。(カモメ)あの評論は、吉田氏の主観か、あるいは他の人々からの証言を総合したもので、豊田司令長官の一面を描いたものかもしれないが、多田氏自身の長官像とは、似ても似つかぬものになっていたのですね。(ウツボ)そうだね。吉田氏は、あまりにも豊田司令長官をこき下ろし、酷評している。これは吉田氏の偽らざる実感だろうから、そういう見方もあるものかと、諦めるしかなかったが、親爺の陰口を叩かれたような気がして、読後数年間、釈然としないものがあった。(カモメ)ご遺族から贈られた「最後の帝国海軍・豊田副武記述」を読んだとき、私は多田氏は我が意を得たりと胸のすく思いがしたのですね。(ウツボ)この本には、提督が戦後再三辞退しながらも、ついに著者・柳澤健氏の「正しき歴史を残してほしい」という願望にほだされて、口述したもので、生い立ちの記から章を追うに従って提督の体験談とその折々の感想が淡々と記されている。(カモメ)この「最後の帝国海軍・豊田副武記述」という本は、昭和二十五年に出版された「最後の帝国海軍」(豊田副武著・柳澤健編・世界の日本社)を、提督の生誕百年を迎えるにあたり、ご遺族の國本隆氏が改めて発行したものですね。(ウツボ)「最後の帝国海軍・豊田副武記述」の「第一章・生い立ちの記」の中で、豊田大将は次のように述懐している。(カモメ)読んでみます。「元来私の趣味なり傾向なりは、文学にあるのではなく、むしろ理工科関係の方にあったようだ。ことに手先は子供の頃から器用な方で、今でも時折エンジニアになっておけばよかったと思ったりすることがある」(ウツボ)「サイエンスには非常に興味を持っており、今でもなお持ち続けておる。しかし、ただ海軍にはいるという事になると、エンジニアでは到底うだつがあがらない。海軍に行くならば、やはり兵学校の方が良いと考えて、機関学校の方は敬遠したわけだった」。(カモメ)昭和十二年十月下旬、第四艦隊司令長官として豊田中将は旗艦「足柄」に座上して、満州湾内に投錨碇泊して、中国沿岸の封鎖作戦を指揮していました。(ウツボ)当時、多田中尉は副直将校として艦橋で勤務中、豊田司令長官の話を聞くことが多かったのです。豊田長官は自ら理工科系の方が好きだと言っていたが、常々計数に対する関心を持っており、次のように多田中尉に語った。(カモメ)読んでみます。「我々日本人は、非科学的で、非合理的な憾みがある。明治以後、我が国は度量術の単位を合理化することが遅れて、随分損をしている。また、体温等には摂氏を使っていたのに、気温には華氏を用いて来た」(ウツボ)「メートル法に統一したのはごく最近の事である。土地の広さを坪で表す習慣は、いまだに尺貫法から脱却し切れていない」(カモメ)「小中学校の算術で、華氏を摂氏に、尺をメートルに換算する問題が出ていたりしたことは、不必要な勉強をしていた訳で、その時間にもっと数学の課程を進めていた方が良かったように思う」。(ウツボ)戦後、豊田元大将のB級戦犯の判決が無罪と決まって、巣鴨プリズンから帰宅して間もない頃、多田元少佐は、「ぜひお喜びの御挨拶を申し上げたい」と、豊田元大将の自宅を訪ねた。(カモメ)玄関で、夫人が出てきて「マアマア、よくいらしてくださいました。主人は貴方様がお出で下さる事を、まるで恋人をお迎えするかのように、朝からソワソワして待ちわびていましたのヨ」と懐かしげに迎えたのです。
2015.05.29
(ウツボ)大正四年十二月少佐。第一水雷戦隊参謀、軍令部参謀、軍務局局員、教育局局員を歴任。第一次世界大戦中に南アフリカのケープタウンに派遣され、その後英国駐在(航空術研究)。(カモメ)大正八年七月、航空部勤務、十一月臨時航空委員会委員、十二月中佐。(ウツボ)大関鷹麿少佐は、海軍航空関係機関を統括する組織として「海軍航空本部」の設置を提案していた。同様の意見を主張する将官(加藤寛治少将など)もいたが、海軍上層部は取り入れなかった。実際に航空本部が設置されたのは昭和二年だった。(カモメ)大正九年十二月陸海軍航空協定委員会委員、戦利航空機実験研究委員。(ウツボ)大関中佐は英国から航空技術の教師団招聘を強く主張した。これまでのフランス式航空からイギリス式航空への大転換を図ろうとしたのだね。(カモメ)大関中佐の主張により、海軍上層部は、大正十年センピル大佐を団長とするセンピル飛行団をイギリスから招聘した。その成果は大きく、技術面だけでなく、海軍航空戦の作戦思想をも飛躍的に発展させたのです。(ウツボ)大正十一年一月海軍艦政本部技術会議議員、十月航空術諸教範草案起草委員。大正十二年四月航空特別調査委員、六月海軍航空調査会委員。(カモメ)大関鷹麿中佐は、大正十二年十二月一日大佐に進級直後、病気になったのです。大正十三年二月臨時海軍航空会議議員、十二月二十五日予備役編入。大正十四年一月七日病死。享年四十一歳でした。【甲種一五期首席・豊田副武大将(海兵三三)】(ウツボ)次は、甲種一五期首席・豊田副武(とよだ・そえむ)少将だ。海軍大学校甲一五期は大正四年十二月十三日入学、大正六年十一月二十九日卒業。卒業者数二十名。古賀峯一元帥大将、小林省三郎中将、野辺田重興中将、浜田吉治郎中将、中村亀三郎中将、有地十五郎中将、日比野正治中将、山内豊中少将、寺本武治少将などがいる。(カモメ)豊田副武は明治十八年(一八八五年)五月二十二日生まれ。大分県出身。明治三十八年十一月海軍兵学校(三三期・二十六番)卒、二等巡洋艦「橋立」乗組。装甲巡洋艦「日進」乗組。明治三十九年十二月少尉。(ウツボ)明治四十一年七月海軍砲術学校普通科学生、九月中尉。明治四十二年一月海軍水雷学校普通科学生、四月第一四水雷艇隊附。明治四十三年十二月海軍大学校乙種学生。明治四十四年五月海軍砲術学校高等科第八期学生、十二月大尉、巡洋戦艦「鞍馬」分隊長。(カモメ)大正二年十二月海軍砲術学校教官兼副官。大正四年十二月海軍大学校甲種第一五期学生。大正六年四月少佐、十一月海軍大学校卒業(甲種一五・首席)、十二月海軍省出仕軍事参議官副官。(ウツボ)大正八年十二月在英国日本大使館附海軍駐在武官補佐官。大正十年十二月中佐。大正十一年十二月軽巡洋艦「球磨」副長。大正十二年六月海軍省軍務局員。大正十四年十二月大佐、海軍大学校教官。(カモメ)大正十五年十一月軽巡洋艦「由良」艦長。昭和二年十一月第七潜水隊司令。昭和三年十二月海軍省教育局第一課長。昭和五年十二月戦艦「日向」艦長。昭和六年十二月少将、軍令部参謀・第二班長。(ウツボ)昭和八年九月連合艦隊参謀長兼第一艦隊参謀長。昭和十年三月海軍省教育局長、十一月中将。昭和十二年十月第四艦隊司令官。昭和十三年十月勲一等瑞宝章、十一月第二艦隊司令長官。(カモメ)昭和十四年十月海軍省艦政本部長。昭和十六年九月大将、呉鎮守府司令長官。昭和十八年四月横須賀鎮守府司令長官。昭和十九年五月連合艦隊司令長官。昭和二十年四月兼海軍総隊司令長官、五月兼海上護衛隊司令長官、軍令部総長、十一月予備役。昭和三十二年九月二十二日死去。享年七十二歳。(ウツボ)著書は、「最後の帝国海軍」(豊田副武著・柳沢健編・世界の日本社)がある。関連書籍として、「五人の海軍大臣」(吉田俊雄・文藝春秋)、「五人の軍令部総長」(吉田俊雄・文藝春秋)、「証言録・海軍反省会」(戸高一成・PHP研究所)がある。(カモメ)「丸」別冊「回想の将軍・提督~幕僚の見た将帥の素顔」(潮書房)に「私の見た豊田副武提督の素顔」と題して、元連合艦隊参謀・多田篤次(ただ・とくじ)海軍少佐(京都・海兵六〇)が寄稿していますね。(ウツボ)そうだね。それによると、昭和十二年十月二十日、豊田副武中将は第四艦隊司令官として、旗艦である重巡洋艦「足柄」に将旗を掲げた。(カモメ)当時、多田篤次中尉は、「足柄」搭載の二座水上偵察機の飛行士でした。任務飛行につく前後には、艦橋や作戦室で、直接、豊田中将の謦咳に接するのが常だったので、多田中尉は、豊田中将から感銘深い薫陶を受けたのです。
2015.05.22
(ウツボ)溝部洋六は、明治十四年六月二十七日生まれ。大分県大分市中央町出身。溝部竹太郎の長男。大分県尋常中学校から、明治三十一年十二月海軍兵学校(二九期)入校。明治三十四年十二月十日海軍兵学校(二九期)を首席で卒業、少尉候補生、海防艦「比叡」乗組。(カモメ)兵学校時代は、二度に渡り品行善良章を受章しています。明治三十六年一月少尉、練習艦「厳島」に海兵三〇期の指導官として乗組み、遠洋航海、十一月戦艦「富士」乗組。(ウツボ)明治三十七年二月日露戦争参戦、旅順口の敵艦砲撃、七月中尉、八月黄海開戦に参戦、十月潜水母艦「韓崎」乗組。明治三十八年一月装甲巡洋艦「吾妻」分隊長心得。五月二十七日の日本海海戦では、全部砲塔を指揮、八月大尉、「吾妻」分隊長、十二月海軍砲術練習所学生。明治三十九年六月砲術練習所を首席で卒業、銀時計を賜る、戦艦「朝日」分隊長、戦艦「鹿島」分隊長、呉海兵団分隊長。(カモメ)明治四十一年四月防護巡洋艦「高千穂」砲術長兼分隊長、九月病気で休職、郷里に帰り別府温泉で療養。また、四国八十八か所を巡礼しました。(ウツボ)明治四十四年六月復職、装甲巡洋艦「出雲」分隊長。明治四十五年海防艦「沖島」分隊長兼佐世保海兵団分隊長、七月佐々木チヨと結婚。(カモメ)大正元年少佐、戦艦「薩摩」分隊長、佐世保鎮守府軍法会議判士長。大正二年十二月海軍大学校入学。大正四年十二月海軍大学校(甲種一三期)を首席で卒業、戦艦「比叡」砲術長。(ウツボ)海軍大学校を卒業してからは、溝部洋六少佐は、海国思想の啓発・普及家としての道を目指した。また、軍人には珍しく酒を飲まなかった。(カモメ)大正五年九月軍令部出仕、臨時海軍軍事調査会(委員長・山屋他人中将)。大正六年四月中佐、六月兵資調査委員会(委員長・栃内曽次郎中将)、十月アメリカ、イギリス、フランス、イタリアを軍事視察。(ウツボ)大正七年五月海軍大学校教官。大正八年十月海軍大演習青組審判官、戦艦「伊勢」で審判中に体調を崩す、十一月六日大佐、病死。享年三十八歳。(カモメ)溝部洋六大佐は、青年士官頃より、頭脳明晰、明敏、竹を割ったような性格で、日本帝国海軍の逸材として周囲から待望されていたのです。指導力もあり、後輩から人望もあり、教育者としても一流の人物でしたが、惜しくも病死したのですね。(ウツボ)そうだね。大分県竹田市の広瀬神社に納められている広瀬武夫中佐佩用の長剣が、軍神・広瀬中佐の精神を継承する人物に値するとして、溝部洋六に広瀬家から譲与された。だが、溝部の病死後、溝部家より広瀬神社に返納された。(カモメ)著書に、「海へ」(一九一四年・博文館)、「海国日本」(一九一九年・同文館)、「国防の本義」(一九一九年・大鐙館)があります。(ウツボ)論文に、「海上権力と国家の関係」(一九一七年・大日本国防議会会報)、「海上より見たる現欧州戦役」(一九一七年・地学雑誌)、「海軍拡張の急務」(一九一七年・亜細亜時論)、「商権と海上権力」(一九一九年・時事新報)がある。(カモメ)さらに作詞に、「ボートの歌」(沼田軍楽士作曲)、「軍艦薩摩軍歌」(沼田軍楽士作曲)、「日の本っ國」(瀬戸口藤吉軍楽長作曲)、「海軍執銃体操軍歌」(田中穂積軍楽長作曲)があります。【甲種一四期首席・大関鷹麿大佐(海兵三二)】(ウツボ)次は、甲種一四期首席・大関鷹麿(おおせき・たかまろ)大佐だ。海軍大学校甲種一四期は大正三年十二月一日入学、大正五年十一月二十八日卒業。卒業者数二十名。山本五十六元帥大将、湯地秀生中将、植村茂夫中将、藤吉中将、松下薫中将、和田信房中将、鈴木義一中将、河村儀一郎中将、阿武清中将、有馬寛中将、出光万兵衛中将などがいる。(カモメ)大関鷹麿は明治十六年(一八八三年)五月二十四日生まれ。東京出身。明治三十七年十一月十四日海軍兵学校(三二期・九席)卒、二等巡洋艦「橋立」乗組、装甲巡洋艦「日進」乗組。装甲巡洋艦「常盤」に少尉候補生で乗組み、日本海海戦に参戦した。明治三十八年八月少尉。(ウツボ)海軍兵学校の同期生に、山本五十六元帥大将、嶋田繁太郎大将、吉田善吾大将、堀悌吉中将などがいる。山本五十六元帥大将とは海軍大学校も同期。(カモメ)明治四十年九月中尉。明治四十二年十月大尉。海軍大学校乙種学生、海軍水雷学校高等科学生を首席で卒業。第二艇隊艇長、水雷学校教官。
2015.05.15
(ウツボ)大正四年四月独国駐在、八月英国駐在。英国駐在時に、第一次世界大戦に観戦武官として従軍。戦艦「ヴァンガード」に乗組んだが、ユトランド沖海戦の時は、病で病院船に乗っていた。開戦後、同艦の艦長などから聞き取り調査を行った。(カモメ)大正六年三月軍令部参謀、四月中佐、十月連合艦隊参謀。大正七年六月米国出張、九月軍令部参謀、連合艦隊参謀。(ウツボ)大正八年十一月第一艦隊参謀、十月連合艦隊参謀。大正九年十二月大佐、防護巡洋艦「新高」艦長。大正十年九月横須賀鎮守府附。大正十一年四月待命、八月海軍大学校教官兼軍令部参謀。(カモメ)大正十二年六月海軍大学校教官兼教頭。大正十三年十二月戦艦「日向」艦長。大正十四年十月東宮武官兼侍従武官、十二月少将。大正十五年十二月侍従武官。(ウツボ)昭和五年十二月中将。昭和六年十月練習艦隊司令官。昭和七年十二月舞鶴要港部司令官。昭和八年九月第三艦隊司令長官。昭和九年十一月佐世保鎮守府司令長官。昭和十一年三月予備役、十一月秩父宮別当。(カモメ)戦後は戦艦「三笠」の復興、東郷平八郎元帥の銅像併置を主張、建設委員長として尽力した。米沢海軍武官会会員。(ウツボ)昭和四十四年九月死去。享年八十八歳。従三位、功五級、勲一等旭日大綬章、勲一等瑞宝章。【甲種一二期首席・森田登少将(海兵三〇)】(カモメ)次は、甲種一二期首席・森田登(もりた・みのる)少将ですね。海軍大学校甲種一二期は大正元年十二月一日入学、大正三年五月二十七日卒業。卒業者数十六名。米内光政大将、加藤隆義大将、長谷川清大将、島祐吉中将、濱野英次郎中将、伊地知清弘中将、寺島健中将、松下元中将などがいますね。(ウツボ)森田登は、明治十五年十月八日生まれ。兵庫県姫路市出身。父は旧姫路藩士・栄、母はヌイ。明治三十二年海軍兵学校入校。明治三十五年十二月十四日海軍兵学校(三〇・六席)卒業、海軍少尉候補生、防護巡洋艦「橋立」乗組。明治三十六年九月一等戦艦「八島」乗組、十二月少尉。(カモメ)明治三十七年十二月「橋立」乗組。明治三十八年一月中尉、日本海海戦に参戦、六月駆逐艦「皐月」乗組、十二月一等戦艦「敷島」分隊長心得。明治三十九年六月砲術練習所学生、十二月装甲巡洋艦「磐手」分隊長心得。明治四十年九月大尉、「磐手」分隊長、十二月第一七艇隊艇長。(ウツボ)明治四十一年二月装甲巡洋艦「浅間」分隊長、九月第二艦隊参謀、十一月海軍大学校乙種学生。明治四十二年五月海軍砲術学校高等科学生(首席で卒業)、十二月旅順鎮守府参謀長兼副官。明治四十四年一月巡洋戦艦「鞍馬」分隊長として英国に回航、十二月第二艦隊参謀。(カモメ)大正元年十二月少佐、海軍大学校(甲種一二期)入学。大正三年五月(甲種一二期)を首席で卒業、巡洋戦艦「金剛」分隊長、八月軍令部出仕。大正四年一月海軍省出仕、三月軍務局第一課。(ウツボ)大正五年八月英国駐在。第一次世界大戦では、英国戦艦「アガメムノン」に乗組み観戦武官。大正六年十二月中佐。大正七年十一月軍令部参謀。大正九年九月ジュネーブ会議全権随員、国連海軍代表随員。大正十年十二月大佐。大正十一年五月巡洋艦「利根」艦長、十二月二等巡洋艦「名取」艦長。(カモメ)大正十二年十二月軍需局第三課長。大正十四年十二月軍需局第一課長、農商務字事務官・商工事務官を兼務。大正十五年十二月少将。昭和二年三月待命、四月予備役。その後フィリピンで偽名を用い医療器具販売を行っていた。(ウツボ)昭和十五年十月後備役。昭和十六年四月予備役。昭和十七年八月三十日死去。享年五十九歳。従四位、功四級、勲三等旭日中綬章、勲五等瑞宝章。【甲種一三期首席・溝部洋六大佐(海兵二九)】(カモメ)次は、甲種一三期首席・溝部洋六(みぞべ・ようろく)大佐ですね。海軍大学校甲種一三期は大正二年十二月一日入学、大正四年十二月十三日卒業。卒業者数十七名。及川古志郎大将、塩沢幸一大将、吉田善吾大将、嶋田繁太郎大将、松山茂中将、井上継松中将、中島権吉少将などがいますね。
2015.05.08
【甲種一〇期首席・下村忠助中佐(海兵三〇)】(ウツボ)次は、甲種一〇期首席・下村忠助(しもむら・ちゅうすけ)中佐だ。海軍大学校甲種一〇期は明治四十三年十二月一日入学、明治四十五年五月二十二日卒業。卒業者数十名。高橋三吉大将、藤田尚徳大将、兼坂隆中将、左近司敬三中将、宇川済中将、大湊直太郎中将、八角三郎中将などがいる。(カモメ)下村忠助は、明治十四年十月八日生まれ。山形県米沢市出身。弟は下村正助(しもむら・しょうすけ)海軍中将(山形・海兵三五・二十九番・海大一六・在米国大使館附武官・軍令部第三部五課長・少将・第五水雷戦隊司令官・第一潜水戦隊司令官・第一〇戦隊司令官・第一四戦隊司令官・大湊要港部司令官・中将・予備役・正四位・勲二等旭日重光章・勲二等瑞宝章)。(ウツボ)下村忠助は幼くして母と死別し、父と共に北海道根室に移住。中学進学のため帰郷。明治三十二年十二月二十四日米沢中学から海軍兵学校に入校。明治三十五年十二月十四日海軍兵学校(三〇・八席)卒、少尉候補生、防護巡洋艦「松島」乗組、遠洋航海。帰国後装甲巡洋艦「常盤」乗組。(カモメ)明治三十六年十二月二十八日少尉。明治三十八年五月五月駆逐艦「東雲」に乗り組み日本海海戦に参戦。その後、装甲巡洋艦「常盤」、防護巡洋艦「浪速」、戦艦「周防」、戦艦「香取」の各分隊長心得。(ウツボ)明治四十年九月二十八日大尉、巡洋戦艦「生駒」分隊長。明治四十一年十一月練習艦隊参謀として遠洋航海に参加。海軍兵学校三六期の指導に当たる。三六期の少尉候補生には、後の南雲忠一大将、沢本頼雄大将、塚原二四三大将、佐藤市郎中将らがいた。(カモメ)横須賀鎮守府副官兼参謀を経て、明治四十三年十二月海軍兵学校同期生で最初に海軍大学校に入学。明治四十五年五月海軍大学校(甲種一〇期)を首席で卒業しました。その後海軍大学校選科学生。(ウツボ)大正元年十二月少佐、通報艦「淀」水雷長。その後軍令部参謀、海軍省副官兼海軍大臣秘書官(八代六郎大臣・加藤友三郎大臣)。(カモメ)大正四年九月八日英国駐在、観戦武官として英国海軍の巡洋艦「クイーン・メリー」に乗艦した。大正五年五月三十一日、第一次世界大戦中最大の海戦となったユトランド沖海戦で「クイーン・メリー」は撃沈され、下村少佐は戦死したのです。(ウツボ)ユトランド沖海戦は、ユトランド半島沖の北海で行われた、ドイツ海軍の大洋艦隊と、イギリス海軍の大艦隊が戦った大海戦だ。開戦後両国ともに勝利を主張した。(カモメ)けれども、この海戦で、ドイツ艦隊は、戦艦や巡洋艦、駆逐艦など十一隻が沈没、戦艦九隻が損傷を受け、二五五一名が戦死したのですね。(ウツボ)そうだね。イギリス艦隊は、戦艦や巡洋艦、駆逐艦など十四隻が沈没、戦艦七隻が損傷を受け、六〇九七名が戦死した。(カモメ)下村少佐は同日付けで海軍中佐に特進しました。葬儀は海軍葬として東京で営まれました。享年三十五歳。妻と一男一女が残りました。正六位、勲四等、功四級。【甲種一一期首席・今村信次郎中将(海兵三〇)】(ウツボ)次は、甲種一一期首席・今村信次郎(いまむら・のぶじろう)中将だ。海軍大学校甲種一一期は明治四十四年十二月一日入学、大正二年五月二十二日卒業。卒業者数十二名。百武源吾大将、荒城二郎中将、館明次郎少将、横尾敬義大佐などがいる。(カモメ)今村信次郎は、明治十三年十二月四日生まれ。山形県米沢市出身。旧米沢藩江戸家老同心(下士階級)で農業を営む今村滝次郎の次男。明治三十二年十二月二十四日米沢中学から海軍兵学校に入校。明治三十五年十二月十四日海軍兵学校(三〇・次席)卒、少尉候補生、防護巡洋艦「松島」乗組、遠洋航海。帰国後一等戦艦「敷島」乗組。(ウツボ)日露戦争では潜水母艦「韓崎」に乗組み、海兵三二期の指導に当たった。明治三十八年一月中尉、一等戦艦「三笠」に乗組み日本海海戦参戦、八月防護巡洋艦「須磨」分隊長心得、十二月戦艦「鹿島」回航委員(英国出張)。(カモメ)明治三十九年八月「鹿島」分隊長心得。明治四十年九月大尉、海軍砲術学校特修科学生(首席で卒業)。明治四十一年四月海軍砲術学校教官。(ウツボ)明治四十二年五月第一艦隊参謀。明治四十三年五月防護巡洋艦「笠置」分隊長、七月練習艦隊参謀。明治四十四年五月一等戦艦「富士」分隊長、海軍砲術学校教官、十二月海軍大学校(甲種一一期)入学。(カモメ)大正元年十二月少佐。大正二年五月海軍大学校(甲種一一期)を首席で卒業、元帥副官(伊東祐亨元帥大将)。大正三年一月海軍省副官兼大臣秘書官。
2015.05.01
(ウツボ)樺山可也大尉は、明治三十八年二月防護巡洋艦「和泉」砲術長として日露戦争に出征。明治三十九年十二月海軍兵学校砲術教官。明治四十一年九月少佐、十二月戦艦「石見」砲術長。明治四十二年五月海軍大学校(甲種八期)入学。明治四十三年十一月海軍大学校(甲種八期)を首席で卒業、十二月戦艦「肥前」砲術長。(カモメ)明治四十四年一月巡洋戦艦「鞍馬」砲術長、十二月軍令部参謀。明治四十五年五月兼教育本部部員、十二月陸軍大学校兵学教官。大正二年七月米国駐在、十二月中佐。大正四年六月戦艦「鹿島」副長、十二月第三艦隊参謀。(ウツボ)大正五年十二月軍令部第二班第四課長。大正六年十二月大佐。大正七年十二月戦艦「周防」艦長。大正八年十二月海軍大学校教官。大正九年十一月巡洋戦艦「生駒」艦長。大正十年十二月戦艦「長門」艦長。(カモメ)大正十一年十一月横須賀防備隊司令、十二月少将。大正十二年四月海軍砲術学校校長、十二月連合艦隊参謀長。大正十三年十二月呉鎮守府参謀長、軍令部出仕。大正十四年十一月待命、十二月予備役。(ウツボ)樺山可也少将は、昭和四年七月鹿児島市長に就任した。昭和四年に樺山市長は、当時の鹿児島市役所敷地内で、「持明院様(ジメサア)」の石像を発見し、化粧をした。(カモメ)これが、現在鹿児島美術館前庭にある「持明院様(ジメサア)」の石像の化粧直し(毎年十月五日)の始まりとなったのですね。(ウツボ)そうだね。持明院様は約四百年前の島津家第十八代当主、島津家久の正夫人だね。容姿には恵まれなかったが、心優しい人柄で、幸せな家庭を築いたとして、人々に慕われた。(カモメ)樺山可也市長は、現職中、昭和七年十月二十七日死去しました。享年五十五歳。従四位、功五級、勲三等旭日中綬章、勲二等瑞宝章。【甲種九期首席・安東昌喬中将(海兵二八)】(ウツボ)次は、甲種九期首席・安東昌喬(あんどう・まさたか)中将だ。海軍大学校甲種九期は明治四十二年十二月一日入学、明治四十四年五月二十二日卒業。卒業者数十三名。古川四郎中将、原敬二郎中将、立野徳治郎中将、漢那憲和少将などがいる。(カモメ)安東昌喬は、明治十三年五月二十八日生まれ。岐阜県出身。安東吉右衛門の五男。母・とく。札幌中学校から明治三十一年海軍兵学校入校。明治三十三年十二月十三日海軍兵学校(二八・四席)卒、少尉候補生、防護巡洋艦「橋立」乗組。明治三十五年一月少尉、装甲巡洋艦「浅間」乗組。(カモメ)明治三十六年九月中尉。明治三十七年三月、日露戦争に一五艇隊附として出征。明治三十八年一月大尉、装甲巡洋艦「常盤」分隊長として日本海海戦に参加、九月防護巡洋艦「音羽」砲術長、十二月砲術練習所学生。明治三十九年六月呉海兵団分隊長、八月巡洋戦艦「筑波」分隊長。(ウツボ)明治四十一年一月三等駆逐艦「卯月」駆逐艦長、四月装甲巡洋艦「日進」砲術長、十一月呉鎮守府参謀兼副官。明治四十二年十二月海軍大学校(甲種九期)入学。明治四十三年十二月少佐。明治四十四年五月海軍大学校(甲種九期)を首席で卒業、戦艦「周防」砲術長、七月英国駐在。(カモメ)大正三年一月戦艦「香取」砲術長、九月軍令部参謀兼海軍大学校教官。大正四年二月教育本部部員、十二月中佐。第一次世界大戦は大正七年十一月第二特務艦隊参謀として地中海に派遣される。大正八年十二月大佐。大正九年一月海軍大学校教官。大正十一年十二月巡洋戦艦「霧島」艦長。大正十二年十一月第二艦隊参謀長。(ウツボ)大正十三年十二月少将、軍令部第二班長。大正十四年十月霞ヶ浦航空隊司令、操縦技術を習得し陣頭指揮を執る。昭和二年十二月軍令部出仕・欧米各国出張。昭和三年十二月中将、第二代航空本部長。昭和五年海軍大学校大演習で審判長。昭和六年十二月予備役。(カモメ)安東中将は、大坂毎日新聞の紙上に昭和十年一月八日から十日まで、「太平洋を展望す・航空未来記」(上・中・下)を連載寄稿したのですね。(ウツボ)そうだね。(上)のタイトルは「横断定期航空路は南方コースが優る―北米よりハワイ経由本州へ」。(中)のタイトルは「現在の最優秀機も一気飛翔は出来ぬ―中継船や浮揚飛行場を要す」。(下)のタイトルは「やがて到来する太平洋快速航空時代―成層圏飛行も盛んに研究中」だね。(カモメ)内容も読みましたが、当時に、これだけの内容が書けるとは、先見の明がある人ですね。(ウツボ)先見の明もあるが、安東中将は世界の民間航空の知識が豊富にある人だね。当時は、日本だけでなく、世界中で急速に航空機が次から次に開発され、民間の定期航空路も太平洋を中心に競うように拡張されていたからね。(カモメ)安東昌喬中将は、昭和三十一年四月七日死去。享年七十五歳。正四位、功五級、勲二等瑞宝章、勲三等旭日中綬章。
2015.04.24
(カモメ)「少将で予備にされた方だが、禅学と山岡流の剣道の造詣が深くて、私達が学生時代に聞いて講義は、先生の独創的体系でなかなか興味深いものだった」(ウツボ)「着任後間もなくの事だったが、海軍を双肩に担うようなホープは誰だろう、と寺本さんに訊ねられたことがある」(カモメ)「私はいろいろな面を綜合して、結局米内中将ではないでしょうか、と答えたところ、寺内さんは『ホホウ、末次じゃないのかネェ』とやや意外そうな口ぶりであった」。(ウツボ)それほど、当時、末次中将は海軍での評価は高かったのだね。昭和九年三月末次中将は大将に昇任した。昭和九年十一月横須賀鎮守府司令長官。(カモメ)当時、横須賀鎮守府後任副官は、阿金一夫大尉(熊本・海兵五二・海大三六・大佐・軍令部部員)で、阿金大尉は、次の四代の横須賀鎮守府司令長官に仕えたのですね。(ウツボ)そうだね。まず、三十一代は、永野修身(ながの・おさみ)中将(高知・海兵二八次席・海大八・防護巡洋艦「平戸」艦長・米国駐在武官・ワシントン会議全権随員・少将・第一遣外司令官・練習艦隊司令官・中将・海軍兵学校校長・軍令部次長・ジュネーブ会議全権・横須賀鎮守府司令長官・大将・ロンドン会議全権・海軍大臣・連合艦隊司令長官・軍令部総長・元帥)。(カモメ)次は、三十二代・末次信正(すえつぐ・のぶまさ)中将(山口・海兵二七・五十番・海大七首席・防護巡洋艦「筑摩」艦長・軍令部作戦課長兼海軍大学校教官・ワシントン会議次席随員・軍令部作戦部長心得・少将・第一潜水戦隊司令官・教育局長・中将・軍令部次長・舞鶴要港部司令官・第二艦隊司令長官・連合艦隊司令長官・大将・横須賀鎮守府司令長官・予備役・内閣参議・内務大臣)。(ウツボ)次は、三十三代・米内光政(よない・みつまさ)中将(岩手・海兵二九・六十八番・海大一二・ポーランド駐在員監督・戦艦「扶桑」艦長・戦艦「陸奥」艦長・少将・第二艦隊参謀長・軍令部第三班長・第一遣外艦隊司令官・中将・鎮海要港部司令官・第三艦隊司令長官・佐世保鎮守府司令長官・第二艦隊司令長官・横須賀鎮守府司令長官・連合艦隊司令長官・海軍大臣・大将・首相・海軍大臣)。(カモメ)最後は、三十四代・百武源吾(ひゃくたけ・げんご)中将(佐賀・海兵三〇首席・海大一一・装甲巡洋艦「春日」艦長・教育局第一課長・フランス出張・国連海軍代表・少将・海軍大学校教頭・軍令部第一班長・第五戦隊司令官・中将・軍令部次長・海軍大学校校長・練習艦隊司令官・舞鶴要港部司令官・第三艦隊司令長官・佐世保鎮守府司令長官・艦政本部長・横須賀鎮守府司令長官・大将・高等技術会議議長・予備役・九州帝国大学総長)。(ウツボ)阿金一夫大尉は四代の司令長官を、後に回顧しているが、末次大将について次のように述べている。(カモメ)読んでみます。「まあ、一番やかましかったのが末次さんで、自動車の中で『お前、日令読んだか』と参謀長を怒鳴りつけたところも見ましたし、昔、第一潜水隊の司令官当時、艦長に白墨投げつけたのも見ています。何事もビシビシ自分でやらぬと気のすまぬ方でした」。(ウツボ)昭和十二年十月末次大将は予備役、十二月第一次近衛内閣の内務大臣。昭和十四年一月内閣参議。昭和十五年一月辞職。昭和十九年十二月二十九日死去。享年六十四歳。正三位、勲一等旭日大綬章、勲一等瑞宝章。(カモメ)末次信正大将の嗣子、末次信義(すえつぐ・しんぎ)は、昭和五年十一月十八日海軍兵学校(五八期)卒業。昭和十七年四月十三日少佐、駆逐艦「沖風」艦長、十一月七日駆逐艦「若葉」艦長。昭和十九年十二月第二艦隊水雷参謀。昭和二十年四月七日、戦艦「大和」を中心とした第二艦隊(伊藤整一司令長官)の沖縄へ水上特攻(菊水一号作戦)途中、坊ノ岬沖海戦で戦死。享年三十八歳。二階級特進で海軍大佐。(ウツボ)末次信正大将の著書は、「非常時局と国防問題」(朝日新聞社)、「国防の本義と軍縮問題」(軍人会館事業部)、「世界戦と日本」(平凡社)、「日本とナチス独逸」(アルス)、「日米危機とその見透し」(新経済情報社)など多数。【甲種八期首席・樺山可也少将(海兵二六)】(カモメ)次は、甲種八期首席・樺山可也(かばやま・かなり)少将ですね。海軍大学校甲種八期は明治四十二年五月二十五日入学、明治四十三年十一月二十九日卒業。卒業者数十二名。永野修身元帥大将、中村良三大将、南郷次郎少将、森電三少将、岸井孝一少将、江渡恭助大佐、一条実孝大佐などがいますね。(ウツボ)樺山可也は、明治十年十月十四日生まれ。鹿児島県出身。明治三十一年十二月十三日海軍兵学校(二六・十九番)卒、少尉候補生、装甲艦「比叡」乗組。明治三十三年一月少尉、装甲巡洋艦「浅間」乗組。(カモメ)明治三十四年十月中尉。明治三十五年一月三等駆逐艦「雷」乗組。明治三十六年八月コルベット「大和」航海長心得、九月大尉、「大和」航海長。
2015.04.17
(カモメ)英国駐在中、末次中佐は、従軍武官として、イギリス海軍の戦艦「アガメムノン」(一七八二〇トン)や巡洋戦艦「クイーン・メリー」(二六七七〇トン)に乗艦して、第一次世界大戦を体験したのです。この体験から「ユトランド沖海戦についての報告書」を提出していますね。(ウツボ)そうだね。また、末次中佐は英国駐在中に、「対米戦略論」を書きあげた。時代の流れによる戦艦の変貌と潜水艦作戦を重要視した戦略構想で、潜水艇によるパナマ運河とハワイの閉塞作戦や、西太平洋での迎撃など五段階の作戦を想定した。(カモメ)帰国後は、日本海軍の戦術面の革新を図りました。大正五年十二月海軍大学校教官。大正六年十二月第一艦隊参謀。大正七年九月連合艦隊参謀、十二月大佐、巡洋艦「筑摩」艦長。大正八年八月軍令部一班第一課長(作戦課長)兼海軍大学校教官。(ウツボ)大正十年九月ワシントン会議次席随員。大正十一年十二月軍令部作戦部長心得。末次大佐は少将のポストである作戦部長に大佐で補任された。(カモメ)末次大佐は、日本帝国海軍の作戦指導書である「海戦要務令」の作成に従事し、対米作戦の改善を進め、「対米作戦の完成者」と言われるほどの評価を得たのです。(ウツボ)大正十二年十二月少将、第一潜水戦隊司令官。末次少将は、潜水艦戦略の推進のため、自ら希望して第一潜水戦隊司令官に就任し、輪型陣突破などの潜水艦作戦の猛訓練を行った。(カモメ)潜水艦の性能向上にも力を入れ、長距離の航海を可能とする巡洋潜水艦の開発・建造が推進されました。これらの高性能の大型潜水艦により、対米戦略の優位性は向上し、末次少将の戦略家としての評価が高まったのですね。(ウツボ)そうだね。それで、少将で、大正十四年十二月海軍大学校教官に就任した。大正十五年七月海軍省教育局長。(カモメ)昭和二年十二月中将。昭和三年十二月軍令部次長。昭和五年十二月舞鶴鎮要港部司令官。昭和六年十二月第二艦隊司令長官。(ウツボ)昭和七年五月十五日、海軍の青年将校、陸軍士官学校生徒、民間人らによる五・一五事件が起き、犬養毅首相が暗殺された。(カモメ)「米内光政」(阿川弘之・新潮文庫)によると、当時、末次中将は、頭はシャープだし、独創性はあるし、同時になかなかの政治性があって、新時代の海軍を背負って立つ人と、高く評価されていたのですね。(ウツボ)そうだね。さらに、血の気の多い連中の人気を博しそうな革新論対米強硬論を唱え、一部青年将校の間に隠然たる勢力を持っていた。(カモメ)だが、当時、鎮海要港部司令官・米内光政(よない・みつまさ)中将(岩手・海兵二九・六十八番・海大一二・ポーランド駐在員監督・戦艦「扶桑」艦長・戦艦「陸奥」艦長・少将・第二艦隊参謀長・軍令部第三班長・第一遣外艦隊司令官・中将・鎮海要港部司令官・第三艦隊司令長官・佐世保鎮守府司令長官・第二艦隊司令長官・横須賀鎮守府司令長官・連合艦隊司令長官・海軍大臣・大将・首相・海軍大臣・従二位・勲一等・功一級)は、末次中将の「政治性」というものを、嫌って、認めていなかっのですね。(ウツボ)そうだね。五・一五事件後、第二艦隊司令長官・末次信正中将が鎮海に入港した時、酒の上で、鎮海要港部司令官・米内光政中将と末次中将が口論となった。(カモメ)海軍兵学校では、米内光政中将は末次中将の二期後輩ですね。(ウツボ)日頃おとなしい米内中将が、「五・一五事件の陰の張本人は君だ。ロンドン会議以来、若い者を炊きつけてああいうことを言わせたり、やらせたり、甚だけしからん」と二期先輩の末次中将の胸ぐらをつかんで詰め寄った。(カモメ)その時、末次中将は憤然としていたが、一言も言葉を返さなかったということです。以後、米内と末次は、会っても口もきかない犬猿の仲になったのです。(ウツボ)昭和八年十一月の海軍の定期異動で、末次中将は連合艦隊司令長官、米内中将は佐世保鎮守府司令長官に補された。(カモメ)当時、海軍大学校教官だった高木惣吉(たかぎ・そうきち)中佐(熊本・海兵四三・二十七番・海大二五首席・海軍大学校教官・海軍省官房調査課長・舞鶴鎮守府参謀長・少将・海軍省教育局長・終戦工作に従事・東久邇宮内閣副書記官長)は後に次のように回顧しています。(ウツボ)読んでみよう。「昭和八年私は大学校教官にされた。病気待命で一年休んで治ったところだった。その頃、大学に寺本武治(てらもと・たけじ・島根・海兵三三・三十五番・海大一五・軍令部参謀・欧米各国出張・教育局第一課・運送艦「青島」特務艦長・海軍大学校兵学教官・大佐・戦艦「山城」艦長・横須賀鎮守府附・少将・軍令部出仕・予備役・海軍大学校兵学教授嘱託・軍令部調査事務)という変わった教官がいた」
2015.04.10
(ウツボ)昭和三年一月小林中将は練習艦隊司令官に補された。昭和四年二月艦政本部長。このとき、条約派と艦隊派の対立に巻き込まれた。(カモメ)昭和五年一月から四月まで、ロンドン海軍軍縮会議が開かれました。最強の艦船を計画・建造する艦政本部長の立場からすると条約には反対しなければならないが、小林中将は条約反対を主張しなかったので、艦隊派から睨まれたのですね。(ウツボ)そうだね。昭和五年六月海軍次官になり財部彪海軍大臣を補佐した。昭和六年十二月連合艦隊司令長官に親補された。(カモメ)だが、条約派の小林中将は、連合艦隊司令長官として艦隊を統率するには、経験不足のため実力が十分に発揮できなかったと言われていますね。(ウツボ)そうだね。あるとき、小林司令長官は、海軍大学校校長を務めた遊撃作戦の研究家、中村良三(なかむら・りょうぞう)中将(青森・海兵二七首席・海大八・海軍大学校教官・海軍大学校教頭・装甲巡洋艦「春日」艦長・第二艦隊参謀長・少将・第一水雷戦隊司令官・軍令部第三班長・海軍大学校校長・中将・第二艦隊司令長官・呉鎮守府司令長官・大将・艦政本部長・内閣参議・功五級)を相手に図上演習を仕掛けたが、惨敗している。(カモメ)小林中将は、昭和七年三月勲一等瑞宝章。昭和八年三月大将、五月連合艦隊司令長官、十一月軍事参議官。昭和十一年三月待命、予備役、九月台湾総督。(ウツボ)台湾総督に就任した小林大将は、四年半の任期中に、南進基地化と台湾の皇民化の政策を積極的に推進した。(カモメ)南進基地化とは、台湾を東南アジア進出の基地とする構想ですね。(ウツボ)そうだね。皇民化とは、台湾人の日本化を強化するものだ。台湾人に日本式の姓名とするよう改めさせた。また、信仰についても、日本の神道を受け入れさせ、定期的な神社参拝を強要した。これは戦時体制に台湾人を組み込むためだった。(カモメ)昭和十九年八月小林大将は、勅選貴族院議員、十二月小磯國昭内閣国務大臣。昭和二十年十二月戦争犯罪容疑で拘束、釈放。昭和三十七年七月四日東京都世田谷区の自宅で死去。享年八十四歳。従二位、功五級、勲一等旭日大綬章、勲一等瑞宝章。(ウツボ)著書に「海軍大将小林躋造覚書」(伊藤隆・野村実編・山川出版社)がある。関連書籍として、「植民地帝国人物叢書10(台湾編10)小林躋造伝」(谷ヶ城秀吉編・ゆまに書房)がある。【甲種七期首席・末次信正大将(海兵二七)】(カモメ)次は、甲種七期首席・末次信正(すえつぐ・のぶまさ)大将ですね。海軍大学校甲種七期は明治四十一年四月二十日入学、明治四十二年十一月三十日卒業。卒業者数十三名。四竃孝輔中将、犬塚太郎中将、小倉嘉明中将、山本信次郎少将などがいます。(ウツボ)末次信正は、明治十三年六月三十日生まれ。山口県周南市出身。徳山藩士・末次操九郎の次男。母・タキ。父の勤務先が広島だったので、七歳まで広島で育ち、その後退職した父と共に郷里の徳山に帰る。(カモメ)広島県立第一中學校から海軍兵学校に入学。明治三十二年十二月十六日海軍兵学校(二七期・五十番)卒業、少尉候補生として装甲艦「比叡」乗組。明治三十三年十二月防護巡洋艦「松島」乗組。明治三十四年一月少尉、巡洋艦「済遠」乗組。(ウツボ)明治三十五年十月中尉。明治三十六年九月装甲艦「比叡」分隊長心得。明治三十七年七月大尉、砲艦「磐城」分隊長。明治三十八年十二月防護巡洋艦「高千穂」砲術長。明治三十九年九月海軍大学校乙種学生。(カモメ)明治四十年四月海軍砲術学校高等科学生、九月砲術学校教官。明治四十一年四月海軍大学校(甲種七期)入学。明治四十二年十月少佐、十一月海軍大学校(甲種七期)を首席で卒業、十二月戦艦「備前」砲術長。(ウツボ)明治四十三年十二月海軍砲術学校教官。教官時代、末次少佐は、軍艦の中心線上に一列に主砲を取り付けることによって、一斉射撃の効率を高めるという末次少佐の独創案を学生に教授した。(カモメ)砲術学校の他の教官や上司は、この末次少佐のアイデアを無視しましたが、当時、世界一流のイギリス海軍が、末次少佐と同様な思想で、戦艦「オライオン」(二二〇〇〇トン)を建造したことで、末次少佐の見識が認められたのです。(ウツボ)明治四十四年九月装甲巡洋艦「常盤」砲術長。明治四十五年六月軍令部参謀兼海軍大学校教官。大正三年九月英国駐在、十二月中佐。
2015.04.03
(ウツボ)小林躋造の妹、澄子の夫は、新見政一(にいみ・まさいち)海軍中将(広島県広島市・海兵三六・十四番・海大一七・四席・在英国日本大使館附駐在武官補佐官・オックスフォードで法律を学ぶ・中佐・軽巡洋艦「球磨」副長・海軍大学校兵学教官兼陸軍大学校兵学教官・大佐・軽巡洋艦「大井」艦長・重巡洋艦「摩耶」艦長・海軍大学校教官・少将・呉鎮守府参謀長・第二艦隊参謀長・秩父宮雍仁親王夫妻英国国王ジョージ六世戴冠式参列渡英随行・海軍省教育局長・中将・海軍兵学校校長・第二遣支艦隊司令長官・勲一等瑞宝章・舞鶴鎮守府司令長官・戦後海上自衛隊幹部学校特別講師・著書に「第二次世界大戦戦争指導史」)だね。(カモメ)また、小林躋造の叔父は、同郷の加藤友三郎(かとう・ともさぶろう)元帥(広島県広島市・海兵七次席・海大甲号一・軍務局軍事課長・軍務局第一課長・第二課長・第二艦隊参謀長・少将・連合艦隊参謀長・軍務局長・海軍次官・中将・呉鎮守府司令長官・第一艦隊司令長官・海軍大臣・大将・男爵・ワシントン会議全権・首相・元帥・子爵・正二位・大勲位)ですね。(ウツボ)小林躋造は、明治三十一年十二月十三日海軍兵学校(二六・三席)卒、少尉候補生、砲艦「比叡」乗組。明治三十三年一月少尉、八月戦艦「初瀬」回航委員(英国出張)。(カモメ)明治三十四年五月横須賀鎮守府附軍法会議判事、八月砲艦「金剛」乗組、九月呉鎮守府附き軍法会議判事、十月中尉。明治三十五年五月艦隊附軍法会議判事、九月横須賀鎮守府附軍法会議判事、十二月二等巡洋艦「浪速」砲術長心得兼分隊長心得。(ウツボ)明治三十六年九月大尉、二等巡洋艦「浪速」砲術長兼分隊長。明治三十八年一月第三艦隊参謀、六月第四艦隊参謀。明治三十九年一月防護巡洋艦「厳島」砲術長。明治四十一年九月少佐。明治四十二年五月海軍大学校(甲種六期)を首席で卒業、戦艦「石見」砲術長、十二月軍務局局員。(カモメ)明治四十三年三月海軍省副官・大臣秘書官・軍事参議官副官(山本権兵衛大将附)。明治四十四年七月英国駐在(武官補佐官)。大正二年一月米国駐在(武官補佐官)、十二月中佐、装甲巡洋艦「磐手」副長。大正三年十一月教育本部出仕・海軍大学校教官。大正四年十月技術本部副官。(ウツボ)大正六年四月大佐、巡洋艦「平戸」艦長、十二月海軍省副官。大正九年四月在英国大使館附武官兼造船造兵監督長。(カモメ)海軍武官として英国滞在中、小林躋造大佐は、スコットランドの貴族で、英国軍事航空の権威、ウイリアム・フォーブス・センピル大佐と知り合った。日本海軍航空の発展・教育のため、小林大佐はセンピル大佐に日本に来てほしいと依頼したのですね。(ウツボ)そうだね。センピル大佐は、これに応じて、英国空軍の教育団二十九名(センピル教育団)を率いて来日し、大正十年八月から十八か月間、英国から持ち込んだ一〇〇機の新型航空機を使って、霞ヶ浦海軍航空隊で日本の飛行士に雷撃法や爆撃法の教育訓練を実施した。(カモメ)大正十一年十一月、センピル大佐は教育の任務を終了し、教育団員を連れて帰国しましたが、勲三等旭日章が授与されたのですね。この時、日本で、霞ヶ浦海軍航空隊が正式に開隊されたのですね。(ウツボ)そうだね。なお、大正十二年に日英同盟が破棄された後も、センピル大佐は、ロンドンの日本大使館や日本の外務省と連絡を取り続け、英国空軍の機密情報を流して報酬を得ていた。(カモメ)このことから、英国軍事情報部から日本のスパイとして追及され、大正十五年、センピル大佐は公務秘密法に違反したことを認めました。(ウツボ)だが、センピル大佐の父親が国王ジョージ五世の侍従武官であったため、訴追されなかった。(カモメ)小林躋造大佐は大正十一年六月少将に昇進し、十二月第三戦隊司令官に任ぜられました。その翌年、大正十二年十二月には軍務局長の要職に就任しました。(ウツボ)小林躋造少将は財部彪(たからべ・たけし)海軍大臣(宮崎・海兵一五首席・海大丙号・巡洋艦「宗谷」艦長・一等戦艦「富士」艦長・第一艦隊参謀長・少将・海軍次官・中将・第三艦隊司令官・舞鶴鎮守府司令長官・大将・横須賀鎮守府司令長官・海軍大臣・ロンドン会議全権・功三級)の下で軍務局長を務めた。(カモメ)その次の村上格一(むらかみ・かくいち)海軍大臣(佐賀・海兵一一次席・装甲巡洋艦「吾妻」艦長・教育本部第一部長・少将・教育本部第一部長・艦本第一部長・中将・呉工廠長・艦政本部長・第三艦隊長官・教育本部長・大将・呉鎮守府司令長官・海軍大臣・従二位・功三級)の下でも軍務局長を務めたのですね。(ウツボ)その後、小林躋造少将は大正十五年十二月中将に進級。昭和二年四月ジュネーブ会議で斎藤実全権の主席随員となるが、小林中将は条約締結を望む条約派だった。(カモメ)だが、次席随員の原敢次郎(はら・かんじろう)少将(岩手・海兵二八・六番・海大九・装甲巡洋艦「出雲」艦長・教育局第一課長・戦艦「陸奥」艦長・連合艦隊参謀長・少将・軍令部第一班長・第五戦隊司令官・中将・鎮海要港部司令官・予備役・東亜研究所理事)は、会議の決裂を望む艦隊派だったのです。結局条約会議は決裂しましした。
2015.03.27
【甲種五期首席・清河純一中将(海兵二六)】(カモメ)次は、甲種五期首席・清河純一(きよかわ・じゅんいち)中将ですね。海軍大学校甲種五期は明治三十九年一月二十五日入学、明治四十年十二月十八日卒業。卒業者数十六名。大角岑生大将、山本英輔大将、山梨勝之進大将、藤原英三郎中将、内田虎三郎中将、松村菊勇中将、飯田延太郎中将などがいますね。(ウツボ)清河純一は、明治十一年一月七日生まれ。鹿児島県出身。清河公廉の長男。明治三十一年十二月十三日海軍兵学校(二六・十番)卒、少尉候補生、装甲艦「比叡」乗組。明治三十三年一月少尉。明治三十四年五月一等戦艦「三笠」乗組・回航委員(英国出張)、十月中尉。(カモメ)明治三十五年十二月呉海兵団分隊長心得。明治三十六年七月大尉、装甲巡洋艦「浅間」分隊長。明治三十七年八月第一艦隊参謀。(ウツボ)明治三十八年六月連合艦隊参謀。日露戦争の日本海海戦では、東郷平八郎司令長官のもとで、大尉参謀として活躍した。(カモメ)明治三十九年十二月海軍大学校(甲種五期)入学。明治四十年十二月海軍大学校(甲種五期)を首席で卒業、皇族附武官(伏見宮博恭王附)。(ウツボ)明治四十一年一月英国出張(伏見宮博恭王附)、九月少佐。明治四十三年十二月防護巡洋艦「音羽」副長。明治四十四年一月皇族附武官(東伏見宮依仁親王附)、十二月横須賀予備艦隊参謀・東伏見宮依仁親王附。(カモメ)大正二年二月横須賀予備艦隊中佐参謀心得、八月軍令部参謀・教育本部部員・陸軍大学校兵学教官、十二月中佐。大正三年五月海軍大学校教官、八月第二艦隊参謀、十二月海軍大学校教官。(ウツボ)大正六年十二月大佐、軍令部第一課長。大正七年十二月兼海軍大学校教官。大正八年八月軍令部参謀。大正九年四月欧米各国出張、九月軍令部参謀、国連海軍代表随員。大正十年十一月ワシントン軍縮会議随員。(カモメ)大正十一年十二月少将。大正十二年五月国連海軍代表。大正十四年六月軍令部参謀、九月海軍大学校教官。大正十五年十二月中将、第五戦隊司令官。(ウツボ)昭和二年十二月鎮海要港部司令官。昭和四年十一月舞鶴要港部司令官。昭和五年十二月軍令部出仕。昭和六年三月待命、予備役。昭和十年三月一日死去。享年五十七歳。正四位、功四級、勲二等瑞宝章、勲三等旭日中綬章。(カモメ)清河純一中将の長女は三菱財閥三代目総帥・岩崎久弥(いわさき・ひさや・高知・三菱商業学校・慶應義塾普通部卒・ペンシルバニア大学に留学・三菱社副社長・三菱合資会社社長)の三男・岩崎恒弥(元東京海上火災保険常務)と結婚しましたね。(ウツボ)そうだね。なお、NHKドラマ「坂の上の雲」では、日本海海戦、第一艦隊参謀・清河純一大尉役を、小林高鹿(こばやし・たかしか・東京・学習院大学中退・クリオネ所属の俳優)が演じている。(カモメ)大正七年、秋山真之中将は虫垂炎が悪化して腹膜炎を併発し、二月四日、死去しました。六月十五日、芝の青松寺で秋山真之中将の追悼会が開かれたのですね。(ウツボ)そうだね。その席で兄の秋山好古陸軍大将は「弟真之には、兄として誇るべきものは何もありません。しかし、唯一つ、私から皆様に申し上げておきたいのは、真之はたとえ秒分の片時でも『お国のため』という観念を捨てなかった。四六時中この観念を頭から離さなかったということです。この事だけははっきりと兄として言いうることです」と語った。(カモメ)そこにいた、当時軍令部参謀・清河純一大佐は、後に「秋山さんの追悼会の席上で、秋山好古大将が、『ただ真之が終始一貫お国を中心に考えていたことだけは確かであります』と述べられたとき、全くその通り、その一語万事を尽くす。兄よく弟を知ると思った」と感想を述べています。(ウツボ)清河大佐をはじめ、当時の新進幕僚たちは、秋山真之中将が日本海海戦の功績だけでなく、その後も、国を思う信念を生涯貫いたことを、分っていた。【甲種六期首席・小林躋造大将(海兵二六)】(カモメ)次は、甲種六期首席・小林躋造(こばやし・せいぞう)大将ですね。海軍大学校甲種六期は明治四十年四月五日入学、明治四十二年五月二十五日卒業。卒業者数十二名。吉川安平中将、松下東治郎中将、田尻雄二中将、白根熊三中将、鳥巣玉樹中将、小松直幹中将、小牧自然少将などがいます。(ウツボ)小林躋造は、明治十年十月一日生まれ。広島県広島市出身。広島藩浅野家家臣・早川亀太郎の三男。十歳の時、母方の小林晴之助の養嗣子になった。(カモメ)小林躋造の弟は、早川幹夫(はやかわ・みきお)海軍中将(広島県広島市・海兵四四・三十七番・海大二六・水上機母艦「能登呂」艦長・大佐・二八駆逐隊司令・水雷学校教頭・一等巡洋艦「鳥海」艦長・戦艦「山城」艦長・戦艦「長門」艦長・少将・第二水雷戦隊司令官・戦死・中将)ですね。
2015.03.20
(ウツボ)斎藤七五郎は、明治三年十二月十二日(一八七〇年一月十三日)生まれ。宮城県仙台市出身。父・斎藤七兵衛、母・シナ。明治二十六年十二月十九日海軍兵学校(二〇・三席)卒業、少尉候補生、装甲艦「金剛」乗組。明治二十八年三月少尉、装甲艦「扶桑」分隊士。(カモメ)明治二十九年三月砲術練習生学生、十一月一等戦艦「富士」回航委員(英国出張)、「富士」乗組。明治三十年十二月中尉。明治三十一年五月砲艦「大島」乗組、十月大尉、潜水母艦「豊橋」分隊長、十一月「豊橋」水雷長。(ウツボ)明治三十二年十月装甲艦「金剛」砲術長。明治三十三年八月砲艦「鳥海」航海長、十二月装甲巡洋艦「千代田」航海長。明治三十四年十月呉鎮守府副官。明治三十五年七月海軍大学校(将校科甲種四期学生)入学。(カモメ)日露戦争により明治三十六年十二月海軍大学校を退学し、第三艦隊参謀。明治三十七年一月第一艦隊参謀として、日露戦争に出征。第一回旅順港閉塞作戦に「仁川丸」、第二回閉塞作戦に「弥彦丸」の各指揮官として参加しました。(ウツボ)明治三十七年三月海軍兵学校砲術教官・兼監事・大本営附、七月少佐。明治三十八年十二月海軍大学校復学。明治三十九年七月海軍大学校(将校科甲種四期学生)を首席で卒業、第一艦隊参謀、十月練習艦隊参謀。(カモメ)明治四十年八月装甲巡洋艦「出雲」航海長。明治四十一年四月軍令部参謀、兼陸軍大学校兵学教官、中佐。明治四十二年二月軍令部参謀・兼海軍大学校教官・兼参謀本部部員・兼陸軍大学校兵学教官。(カモメ)明治四十三年二月米国駐在。明治四十四年三月英国駐在、十二月一等戦艦「敷島」副長。大正元年十二月海軍大学校教官・兼陸軍大学校兵学教官。大正二年十二月大佐。大正三年五月人事局局員・兼海軍大学校教官。(ウツボ)大正五年四月人事局第一課長・兼第二課長、八月装甲巡洋艦「八雲」艦長。大正六年十二月第三艦隊参謀長。大正七年十二月少将、呉鎮守府参謀長。大正九年十二月軍令部参謀(第一班長)・兼海軍大学校教官。(カモメ)大正十一年十二月中将、第五戦隊司令官。大正十二年六月練習艦隊司令官。大正十三年四月軍令部次長。大正十五年七月二十三日現職で死去。享年五十八歳。正四位、功四級、勲一等瑞宝章、勲二等旭日重光章。(ウツボ)斎藤七五郎中将と秋山真之中将(海兵一七首席)は、仲が良かったと言われている。(カモメ)斎藤七五郎大尉が海軍大学校(将校科甲種四期学生のとき、秋山真之少佐(海兵一七首席)が海軍大学校戦術教官でした。学生は四名だけで、斎藤大尉は秋山少佐が初めて教えた学生であり、以後二人は親交を深めたのですね。(ウツボ)そうだね。大正元年十二月、斎藤中佐と秋山大佐はともに海軍大学校教官で、大正二年十二月に斎藤中佐は大佐に、秋山大佐は少将に進級している。(カモメ)斎藤七五郎は南方熊楠とも親交がありました。南方熊楠は慶応三年四月十五日(一八六七年五月十八日)生まれ。和歌山県出身の博物学者、生物学者、民俗学者ですね。(ウツボ)そうだね。明治二十九年十一月、斎藤少尉が一等戦艦「富士」回航委員で英国に出張した時、南方熊楠が「富士」の乗組員を大英博物館へ案内した。その時以来交友があった。大正九年にも斎藤七五郎少将は南方熊楠を訪ねている。南方熊楠の手紙の中にも斎藤七五郎の事が出ている。(カモメ)仙台市荒町の荒町市民センターの前には、同町出身の斎藤七五郎中将の顕彰碑があります。また同町には、「斎藤七五郎記念 元気広場」という広場もあります。この広場は、斎藤中将の遺言と、家族、友人の協力で、仙台市に寄付された広場ですね。(ウツボ)それはね、斎藤中将は「余の今日あるは 即ち 母校の賜なり 乃って 生家・邸宅の一切を仙台市に寄付し 聊か子弟の教育ヽ社会薫化の 一端に資せんと欲す 幸いにして 之の利用を得れば 即ち 余の望 足れり 」との遺言を残しているのだね。(カモメ)斎藤家は代々麹屋を営み、間口六間 奥行き二十五間の屋敷でした。江戸時代末期齋藤七兵衛、シナ夫婦の間では六人目の子供まで早逝し七人目の七五郎からは元気に育ったのです。(ウツボ)しかし生家は時代の変遷にともない、商売を縮小せざるを得なくなった。そんな中 七五郎は刻苦勉励して海軍兵学校に入ったのだね。(カモメ)そして中将まで昇進した斎藤七五郎は練習艦隊司令官として兵学校を出た少尉候補生の訓練をやりながら、東南諸国から南国の島々を訪問し、遠くニュージーランドまでの遠洋航海をしました。(ウツボ)その途中、斎藤司令官は、母校の荒町小学校に沢山の珍しい物を贈った。その殆どは今もなお、荒町市民センター記念室に保管されている。
2015.03.13
(カモメ)高木七太郎大尉は、明治二十九年五月防護巡洋艦「須磨」砲術長。明治三十年十月装甲艦「鎮遠」砲術用長。明治三十一年四月砲術練習所教官、十二月防護巡洋艦「松島」砲術長。明治三十二年三月海大学校(将校科甲種二期)入学、九月少佐。明治三十四年五月海軍大学校(首席)卒業、常備艦隊参謀。(ウツボ)明治三十五年三月装甲巡洋艦「浅間」砲術長。明治三十六年二月防護巡洋艦「須磨」副長、十月海軍大学校教官、十二月軍令部参謀。明治三十八年一月中佐。明治三十九年十二月一等戦艦「敷島」副長。(カモメ)明治四十一年十二月防護巡洋艦「和泉」艦長。明治四十二年七月防護巡洋艦「対馬」艦長、十月大佐、十二月第二艦隊参謀長。明治四十四年一月装甲巡洋艦「常盤」艦長。明治四十五年四月戦艦「周防」艦長。大正二年九月巡洋戦艦「比叡」艦長。(ウツボ)大正四年十二月高木七太郎大佐は少将に進級、第三艦隊参謀長。大正五年四月第二水雷戦隊司令官、十二月待命。(カモメ)大正六年十二月予備役。大正十四年四月後備役。昭和五年四月退役。昭和八年十一月六日死去。享年六十四歳。従四位、功四級、勲二等瑞宝章、勲三等旭日中綬章。【将校科甲種三期首席・塚本善五郎少佐(海兵一七)】(ウツボ)次は、将校科甲種三期首席・塚本善五郎(つかもと・ぜんごろう)少佐だ。海軍大学校将校科甲種三期は明治三十三年五月二十日入学、義和団の乱により明治三十三年六月十九日退学。同年十二月十三日復学。明治三十五年七月八日卒業。卒業者数八名。谷口尚真大将、百武三郎大将、田所広海中将、殖田謙吉少佐などがいる。(カモメ)塚本善五郎は、明治二年(一八六九)生まれ。東京出身。明治二十三年七月十七日海軍兵学校(一七・六番)卒業。明治二十五年五月少尉。(ウツボ)塚本少尉と、秋山真之(あきやま・さねゆき)少尉(愛媛・海兵一七首席・米国駐在・少佐・海大教官・常備艦隊参謀・中佐・連合艦隊参謀・海大教官・「秋津洲」艦長・大佐・「橋立」艦長・「出雲」艦長・第一艦隊参謀長・少将・軍務局長・第二水雷戦隊司令官・中将・待命・死去)は兵学校の同期生で、ライバルだった。(カモメ)明治二十七年七月日清戦争に巡洋艦「高雄」航海士として出征。明治三十年甲種作業答案として作成した「遠征艦隊編成方」が成績優秀と認められたのです。明治三十三年海軍大学校将校科乙種二期を優等で卒業。明治三十五年七月海軍大学校(将校科甲種三期)を首席で卒業(少佐)。(ウツボ)塚本少佐は、明治三十七年二月日露戦争に第一艦隊第一戦隊先任参謀として戦艦「初瀬」に乗り組み出征。五月十五日旅順港外閉鎖に従事中の戦艦「初瀬」がロシア海軍の敷設した機雷に触雷、「初瀬」は沈没した。このとき、塚本少佐ら四百九十六名が戦死した。享年三十五歳。正六位・勲四等・功四級。(カモメ)塚本善五郎少佐の葬儀に出席した連合艦隊司令長官・東郷平八郎中将は、塚本善五郎少佐の遺児、塚本文子(四歳)を抱き上げたという話が残っています。また、秋山真之参謀は、文子にピアノを練習するように薦めたといわれています。(ウツボ)塚本文子は後に芥川龍之介(あくたがわ・りゅうのすけ・東京帝国大学文科大学英文科入学・在学中「羅生門」「鼻」を発表・東京帝国大学文科大学英文学科卒(次席)・海軍機関学校英語教官・作家活動・大阪毎日新聞社・文化学院講師・自殺)の妻となるのだね。(カモメ)そうですね。塚本文子は父の善五郎が戦死後、母の実家の山本家で過ごしました。このとき、塚本文子の母の末弟、山本喜誉司を通じて芥川龍之介と知り合ったのですね。当時、文子は七歳、芥川は十五歳でしたね。(ウツボ)そうだね。芥川龍之介が塚本少佐の遺児、文子に送った恋文は有名だね。大正五年頃から結婚する大正八年までラブレターを出している。(カモメ)山本喜誉司は優秀な人物で、東京帝大農学部卒で三菱合資会社からブラジルに派遣されました。ブラジルで東山農場を開設。戦後ブラジル日系人社会である日系コロニアルをまとめて、コロニアル天皇と呼ばれたのですね。(ウツボ)そうだね。その山本喜誉司の東京府立第三中学校以来の親友が芥川龍之介だった。(カモメ)塚本文子は、山本喜誉司を通して、芥川龍之介と知り合い、跡見女学校在学中に十八歳で結婚しました。芥川は二十七歳でした。(ウツボ)二人の間にできた子供で、長男は、俳優・芥川比呂志、三男は作曲家・芥川也寸志でともに有名人だ。次男の芥川多加志は太平洋戦争で戦死した。【将校科甲種四期首席・斎藤七五郎中将(海兵二〇)】(カモメ)次は、将校科甲種四期首席・斎藤七五郎(さいとう・しちごろう)中将ですね。海軍大学校将校科甲種四期は明治三十五年七月十七日入学、日露戦争により明治三十六年十二月二十八日退学。明治三十八年十二月二十日復学。明治三十九年七月六日卒業。卒業者数四名。吉田清風中将、下村延太郎中将、飯田久恒中将がいますね。
2015.03.06
(カモメ)作戦参謀・秋山真之中佐がついに北上と決断し、参謀長・加藤友三郎(かとう・ともさぶろう)少将(広島・海兵七次席・海大甲号・海大教官・大佐・軍務局軍事課長・第一課長・第二艦隊参謀長・少将・連合艦隊参謀長・軍務局長・海軍次官・中将・呉鎮守府司令長官・第一艦隊長官・海軍大臣・大将・男爵・ワシントン会議全権・首相・元帥・子爵・正二位・大勲位)も同意したのです。(ウツボ)だが、この津軽海峡説に断固として反対して対馬海峡説を主張したのが、第二艦隊参謀長・藤井鮫一(ふじい・こういち)大佐(岡山・海兵七・七席・「鳥海」艦長・大佐・「秋津洲」艦長・ドイツ公使館附武官・軍務局第二課長・軍令部第二局長・第二艦隊参謀長・少将・第一艦隊参謀長・第一艦隊司令官・中将・軍令部次長・佐世保鎮守府司令長官・第一艦隊司令長官・横須賀鎮守府司令長官・大将・功二級)だった。(カモメ)五月二十五日午前、「三笠」艦上で最後の作戦会議が開かれました。ほとんどの参謀は津軽海峡通過説でしたが、藤井大佐一人が「絶対に対馬にやって来る」と主張したのです。そして、その根拠を論じたのですね。(ウツボ)そうだね。その根拠を論じた内容を、藤井鮫一は最晩年に、かつての部下であった松村龍雄中将(当時「三笠」副長)に語った。(カモメ)後に発刊された「海軍大将藤井鮫一事跡」という本に、松村中将は「藤井海軍大将逸事」と題して、この本に寄稿していますが、当時の藤井大佐が対馬説を主張したことと、その根拠が記してあるのですね。(ウツボ)「藤井大将を偲ぶ 没後60周年記念誌」(海軍大将藤井鮫一没後60周年記念誌刊行会・1986年・120ページ)にも同様に松村中将の寄稿があり、藤井大佐の主張が次のように掲載されている(要約)。(カモメ)読んでみます。「バルチック艦隊がいまだ出現しないからといって、単に迂路を回航しているゆえと解するのは、根拠不確実であるのみならず、全くの想像に過ぎない。回航せずとも、漂泊その他の手段により、時日を遷延する方法はいくらでもある」(ウツボ)「また、台湾付近で、少なくとも中立国船舶に出会わないはずはない。これら船舶から、なんらかのあるべき通信のないのは、すでに日本の南方洋上を迂回しているに違いないという説も、責任ある我が仮装巡洋艦をその海域に配してあるのに通信がないというのならともかく、無責任の中立国船舶を根拠にして談ずるのは頗る危険である」(カモメ)「要するに、すべて根拠不十分な理由により、最要最重なる艦隊の進路を定めるのは、小官には断然同意できないのである」。(ウツボ)この藤井大佐の対馬通過説により、会議は結論を出さないことになり、様子を見ることになった。そして、五月二十六日軍令部から電報があり、その内容から、対馬海峡へバルチック艦隊が来ることが決定的になった。(カモメ)松村龍雄中佐は、日露戦争終戦後、明治三十八年九月佐世保鎮守府附。明治三十九年五月英国駐在武官を拝命し、九月に大佐に昇進しました。(ウツボ)明治四十一年十一月第二艦隊参謀長。明治四十二年二月海軍大学校教官、六月海軍大学校教頭。明治四十四年五月「安芸」艦長。(カモメ)大正元年十二月松村大佐は少将に昇進し、教育本部第一部長。大正三年九月第一艦隊司令官、十月第二南遣支隊司令官、十二月臨時南洋群島防備隊司令官、第一次世界大戦出征。(ウツボ)松村少将は大正四年八月第一艦隊司令官、十二月練習艦隊司令官。大正五年九月第一水雷戦隊司令官、十二月中将、馬公要塞司令官。大正七年十二月旅順要港部司令官。大正十年八月待命。大正十一年四月予備役。昭和三年二月後備役。(カモメ)松村中将は昭和七年七月十八日死去。享年六十四歳。正四位、功四級、勲一等瑞宝章、勲二等旭日重光章。【将校科甲種二期首席・高木七太郎少将(海兵一五)】(ウツボ)次は、将校科甲種二期首席・高木七太郎(たかぎ・しちたろう)少将だね。海軍大学校将校科甲種二期は明治三十二年三月二日入学、義和団の乱により明治三十三年六月十九日退学。同年十二月十三日復学。明治三十四年五月二十四日卒業。卒業者数七名。岡田啓介大将、小栗孝三郎大将、中野直枝中将、森越太郎中将、堀内三郎中将、吉岡範策中将などがいる。(カモメ)高木七太郎は、明治二年(一八六九)四月五日生まれ。京都市出身。父・高木文平、継母・美根。明治二十二年四月二十日海軍兵学校(一五・三十五番)卒業、少尉候補生、装甲艦「比叡」乗組。明治二十三年十二月少尉、砲艦「天城」分隊士。(ウツボ)明治二十五年十二月海大丙号学生。明治二十六年十二月コルベット「海門」分隊士。明治二十七年三月砲術練習所分隊士、十月対馬水雷隊攻撃部附、十二月大尉、旅順口根海兵団分隊長。
2015.02.27
(カモメ)この日本海海戦(明治三十八年五月二十七日~二十八日)では、東郷平八郎司令官の率いる連合艦隊の迎撃作戦により、バルチック艦隊を破り、日本側の大勝利となりました。(ウツボ)日本海海戦後、予想に敗れた森山中佐が、御馳走の約束を守るために、松井中佐が乗艦している第一戦隊旗艦の装甲巡洋艦「日進」に「松井参謀健在ナリヤ」と信号を送った。だが、その返事の信号は「戦死セリ」と送られて来た。(カモメ)森山中佐は後に、この時のことを回顧して、「こんなわけで、一番偉い参謀が戦死して、分からず屋の自分が生き残った」と述べています。(ウツボ)日本海海戦では、五月二十七日、バルチック艦隊からものすごい砲撃を受け、連合艦隊旗艦「三笠」に次いで、第一戦隊旗艦の装甲巡洋艦「日進」にも多数の砲弾が命中した。(カモメ)この砲撃で、第一戦隊司令官・三須宗太郎(みす・そうたろう)中将(滋賀・海軍兵学寮・海兵五・「金剛」副長・海軍兵学校教官・海軍大学校教官・海軍大臣官房人事課長・大佐・「須磨」艦長・「朝日」艦長・少将・海軍省人事局長・日露戦争に第二戦隊司令官・第一戦隊司令官として出征・海軍教育本部長・旅順口鎮守府司令長官・軍令部次長・男爵・舞鶴鎮守府司令長官・大将)と、「日進」の航海長が負傷したのです。(ウツボ)さらに同艦に乗艦していた高野五十六(たかの・いそろく)少尉候補生(後の山本五十六元帥)も左手の人差指と中指を欠損し、右大腿部に重傷を負った。(カモメ)そして、「日進」の艦橋で戦闘配置についていた松井中佐は近くに受けた砲弾で、両足を折り、艦橋の下に吹き飛ばされて戦死したのです。享年三十六歳でした。妻と七歳と四歳の男子が残されました。正六位、勲三等、功三級。【将校科甲種一期首席・松村龍雄中将(海兵一四)】(ウツボ)次は、将校科甲種一期首席・松村龍雄(まつむら・たつお)中将だ。海軍大学校将校科甲種一期は明治三十一年四月二十九日入学、明治三十一年十二月十九日卒業。卒業者数五名。鈴木貫太郎大将、竹下勇大将、中島市太郎少将などがいる。(カモメ)松村龍雄は、慶応四年二月三日(一八六八年二月二十五日)生まれ。佐賀県佐賀郡田代村出身。松村安種海軍少佐の長男です。(ウツボ)松村龍雄の弟は、松村菊勇(まつむら・きくお)海軍中将(佐賀・海兵二三次席・海大甲種五期・フランス駐在・海大教官・「笠置」艦長心得・大佐・フランス駐在武官・「比叡」艦長・少将・教育本部第一部長・第五戦隊司令官・鎮海要港部司令官・中将・予備役・功四級・石川島造船社長)だね。(カモメ)松村龍雄は、明治二十年七月二十五日海軍兵学校(一四期・三席)卒、「筑波」乗組。明治二十一年八月「高千穂」乗組。(ウツボ)明治二十二年六月少尉、「日進」分隊士。明治二十三年七月「比叡」航海士。明治二十四年七月海軍大学校丙号学生。(カモメ)明治二十五年十二月大尉、「干珠」航海長。明治二十七年三月海軍大学校学生、六月運送船監督。明治二十八年二月西海艦隊参謀、十二月「比叡」航海長。(ウツボ)明治二十九年四月海軍大学校学生。明治三十年十二月軍令部第三局局員。明治三十一年四月海軍大学校(甲種一期)入学、六月少佐。明治三十一年十二月海軍大学校(将校科甲種一期・首席)卒業、常備艦隊参謀。(カモメ)明治三十二年十二月侍従武官。明治三十五年十月中佐。明治三十六年七月「吾妻」副長。日露戦争出征。明治三十八年一月「三笠」副長。松村中佐は、日本海海戦は「三笠」副長として参戦しました。(ウツボ)日露戦争では、ロシアのバルチック艦隊が日本に向かった。明治三十八年五月十九日頃、バルチック艦隊は対馬海峡と津軽海峡のどちらから来るか、不明だった。(カモメ)「日本海軍の興亡」(半藤一利・PHP文庫)によると、五月二十三日、東郷平八郎大将率いる連合艦隊司令部に東京の軍令部から情報が入ったのです。五月十九日にノルウエー船がフィリピン付近の海上でバルチック艦隊の洋上臨検を受けたというものでした。(ウツボ)しかも、「ロシア海軍士官の話によれば、台湾東方を経て対馬海峡に向け出発と謂えりという」ノルウエー船の船長の証言が伝えられた。(カモメ)この電報をめぐって連合艦隊司令部内に、ついに大激論が巻き起こったのです。ロシア士官がそのような重大な計画を洩らすはずは無い。対馬と言って、実は津軽へ向かうのだ。津軽海峡を通るための戦術だという者。いや対馬海峡に敵艦隊は来ると頑張る者。(ウツボ)連合艦隊旗艦「三笠」の作戦室は、大議論で大いに揺れていた。だが、東郷長官と参謀たちの判断は、次第に津軽海峡通過説に傾いていった。
2015.02.20
(ウツボ)山屋他人大将は、大正九年五月連合艦隊司令長官、八月横須賀鎮守府司令長官。大正十一年七月軍事参議官、十二月待命。大正十二年三月予備役。昭和六年三月後予備役。昭和十一年三月退役。昭和十五年九月十日死去。享年七十四歳。正三位、功四級、勲一等。(カモメ)山屋他人海軍大将の葬儀委員長は同郷の米内光正(よない・みつまさ)海軍大将(岩手県盛岡市・海兵二九・海大一二・「陸奥」艦長・少将・軍令部第三班長・第一遣外艦隊司令官・中将・第三艦隊司令長官・横須賀鎮守府司令長官・連合艦隊司令長官・大将・海軍大臣・首相・海軍大臣)が務めたのですね。(ウツボ)そうだね。岩手県盛岡市にある盛岡八幡宮の表参道大鳥居のそばに、山屋他人海軍大将の書による「盛岡鎮守」の碑が建立されている。【将校科三期首席・松井健吉中佐(海兵一五)】(カモメ)次は、将校科三期首席・松井健吉(まつい・けんきち)中佐ですね。海軍大学校将校科三期は明治三十年三月三十日入学、明治三十一年五月二日卒業。卒業者数八名。竹下勇大将、山中柴吉中将、中野直枝中将、鈴木貫太郎大将、広瀬顕一少佐などがいます。(ウツボ)松井健吉は、明治二年(一八六九年)生まれ。石川県金沢市出身。明治十四年、海軍予備学校に入校し、その後、十五歳で同郷の海軍将校・瓜生外吉(うりゅう・そときち・石川・海軍兵学寮・米国アナポリス海軍兵学校卒・海軍大臣伝令使・砲艦「赤城」艦長・海軍大佐・フランス公使館附・「秋津州」艦長・「扶桑」艦長・少将・軍令部第一局長・常備艦隊司令官・第四戦隊司令官・日露戦争・佐世保鎮守府長官・男爵・大将・貴族院議員)を頼って上京、教えを受けた。(カモメ)明治二十二年四月二十日海軍兵学校(十五期)卒業。同期生に岡田啓介大将、財部彪大将、小栗孝三郎大将、広瀬武夫中佐などがいます。明治二十七年七月に開戦した日清戦争には中尉として出征しました。(ウツボ)明治三十年三月海軍大学校将校科三期を首席で卒業。「出雲」回航委員、明治三十二年に任務を果たし帰国後「出雲」砲術長。明治三十五年三月常備艦隊参謀。「敷島」砲術長。軍令部第一局員。(カモメ)松井健吉少佐は、明治三十六年十月第二艦隊第二戦隊参謀となり日露戦争出征。当時、松井少佐は次の士官たちと共に、対露早期開戦派であり、湖月会(こげつかい)の会員だったのです。(ウツボ)秋山真之少佐(あきやま・さねゆき)少佐(愛媛・海兵一七首席・米国駐在武官・少佐・海大戦術教官・常備艦隊第一艦隊参謀・旗艦「三笠」に乗艦・日露戦争で迎撃作戦を立案勝利に導く・中佐・海大戦術教官・「秋津州」艦長・大佐・巡洋艦「出雲」艦長・第一艦隊参謀長・軍令部第一班長・少将・海軍軍令部・第二水雷戦隊司令官・中将・従四位・勲二等)。(カモメ)八代六郎(やしろ・ろくろう)大佐(愛知・海兵八・海大選科・大佐・「浅間」艦長として日露戦争出征・ドイツ大使館附武官・少将・練習艦隊司令官。第二艦隊司令官・中将・海軍大学校校長・舞鶴鎮守府司令長官・海軍大臣・第二艦隊司令長官・佐世保鎮守府司令長官・大将・枢密院顧問・男爵・従二位)。(ウツボ)湖月会は、日露戦争の開戦を推進した、外務省、陸軍、海軍の少壮有志により結成されたグループだね。(カモメ)明治三十七年二月四日の御前会議で、日本帝国はロシアとの断交と開戦を決め、二月六日にロシアに対して国交断交を通知しました。同日、佐世保から連合艦隊は出撃し、旅順と仁川のロシア艦艇撃滅に向かったのですね。(ウツボ)そうだね。仁川のロシア艦艇攻撃には、瓜生外吉少将の指揮する第四戦隊が出撃した。第四戦隊は輸送船に乗った陸軍の仁川上陸部隊(約二二〇〇名)の護衛、上陸援護も行った。(カモメ)この時、松井少佐が参謀を務める、第二戦隊から、装甲巡洋艦「浅間」などが、増援部隊として第四戦隊に、派遣されたのですね。(ウツボ)瓜生司令官率いる第四戦隊は、仁川上陸作戦や仁川沖海戦でロシア艦隊を殲滅し勝利したが、松井少佐は、かつての恩人である瓜生少将に作戦的に援護したと言われている。(カモメ)明治三十八年一月、松井少佐は中佐に昇進し、連合艦隊の戦艦部隊を構成する第一艦隊第一戦隊の先任参謀に任命され、第一戦隊旗艦の装甲巡洋艦「日進」に乗艦しました。「日進」艦上では、松井中佐はよく弓道の練習をしていたということです。(ウツボ)日本海海戦の前、ロシアから派遣されて迫りくるバルチック艦隊の針路予想が、日本の幕僚の間で、対馬沖と津軽海峡に分れ、論議されたが、松井中佐は強硬に対馬沖を主張した。(カモメ)このとき、対馬沖を主張する松井中佐と、津軽海峡を主張する第二艦隊第四戦隊参謀・森山慶三郎(もりやま・けいざぶろう)中佐(佐賀・海兵一七・四席・常備艦隊参謀・第二艦隊参謀として日露戦争出征・軍令部参謀・フランス大使館附武官・「春日」艦長・海軍省副官・「出雲」艦長・遣米枝隊司令官として第一次大戦に出征・少将・第二戦隊司令官・軍令部第三班長・第一戦隊司令官・中将・大湊要港ブ司令官・呉工廠長・退役後大日本国粋会会長)との間で激しい論戦が行われたのですね。(ウツボ)そうだね。議論は果てしなく行われたが、両人とも譲らなかった。とうとう松井中佐が「議論をしても果てがないから、それでは賭けることにしようではないか」と提案した。(カモメ)すると森山中佐が、「分りました。それではバルチック艦隊が津軽海峡から来たら、あなたが御馳走してください。対馬沖にきたら私が御馳走します」と言ったのです。(ウツボ)だが、ロシアのバルチック艦隊は、松井中佐の予想通り、対馬沖に来襲し、大海戦となった。
2015.02.13
(カモメ)伊藤乙二郎は、明治十九年十二月海軍兵学校(一三首席)卒業。明治二十年二月海軍少尉候補生、十月「扶桑」乗組。明治二十一年四月海軍少尉、「扶桑」分隊士。明治二十二年五月「大和」航海士、十月「海門」航海長心得。明治二十三年三月「海門」航海士、七月横須賀鎮守府海兵団分隊士、九月海軍大学校丙種学生。(ウツボ)明治二十四年二月「扶桑」分隊長心得、八月「鳥海」航海長心得、十二月大尉、「鳥海」航海長。明治二十六年十月「武蔵」航海長。明治二十七年三月海軍大学校将校科入学、六月「比叡」艤装委員、「比叡」航海長として日清戦争出征。明治二十九年六月海軍大学校将校科再入学。(カモメ)明治三十年十二月少佐、海軍大学校(将校科一期首席)卒業、海軍大学校選科学生。明治三十二年一月軍務局軍事課課僚兼臨時建築部部員。「国際海事公法」(エル・アラン仏訳)を翻訳し海軍大学校より発刊。(ウツボ)明治三十三年一月軍務局課員、八月常備艦隊副官、九月中佐、「常盤」航海長。明治三十四年八月「笠置」副長。明治三十五年五月ドイツ国駐在武官。明治三十七年七月「台中丸」乗組。(カモメ)明治三十八年一月大佐、軍務局局員。明治三十九年二月俘虜取調委員長、四月勲三等旭日中綬章、功四級金鵄勲章。明治四十年十二月「浅間」艦長。明治四十一年五月ドイツ国大使館附武官。(ウツボ)明治四十四年十二月少将、水路部長。明治四十五年四月佐世保鎮守府参謀長。大正二年十二月佐世保工廠長。大正四年四月従四位、十一月勲二等瑞宝章、勲二等旭日重光章。十二月中将。大正五年十二月技術本部長。大正九年六月正四位、十月将官会議議員、十一月勲一等旭日大綬章、待命、十二月予備役、従三位。昭和六年六月退役。(カモメ)神戸製鋼所社長、海防議会理事長を歴任。昭和十六年三月二十七日死去。享年七十四歳。従三位、勲一等、功四級。【将校科二期首席・山屋他人大将(海兵一二)】(ウツボ)次は、将校科二期首席・山屋他人(やまや・たにん)大将だね。海軍大学校将校科二期は明治二十九年四月六日入学、明治三十年十二月十五日卒業。卒業者数五名。藤田定市中将などがいる。(カモメ)山屋他人は、慶応二年三月四日(一八六六年四月十八日)生まれ。岩手県盛岡市出身。父・山屋勝寿(盛岡藩士)、母・ヤスの長男。(ウツボ)「他人」という名前は、「一度捨てた子供を他人に拾ってもらうと丈夫に育つ」という、いわれから父の勝寿が「捨てたり拾ったりするのは面倒だから、最初から名前を他人にすれば良いだろう」と命名したと言われている。(カモメ)山屋他人は、上京し、攻玉社(こうぎょくしゃ・海軍兵学校の予備校)に入りました。ここで江頭安太郎と知り合ったのですね。(ウツボ)そうだね。江頭安太郎中将の三男・江頭豊(チッソ社長)の妻は、山屋他人海軍大将の五女、山屋寿々子だね。この夫婦の長女が江頭優美子で、小和田恆と結婚し、長女の小和田雅子(現・皇太子妃)が誕生した。従って皇太子徳仁親王妃雅子様は、山屋他人大将の曾孫にあたる。(カモメ)山屋他人は、明治十九年十二月海軍兵学校(一二・五席)卒業、海軍少尉候補生。「扶桑」乗組。明治二十一年一月海軍少尉、「扶桑」分隊士、二月「浪速」分隊士、四月「筑紫」分隊士。明治二十二年五月「石川」分隊長心得、九月「迅鯨」乗組(水雷術練習)。明治二十三年十一月「扶桑」分隊長心得。(ウツボ)明治二十四年四月「厳島」分隊士、大尉。明治二十六年二月「大和」航海長。明治二十七年二月水雷術練習所教官兼分隊長。明治二十九年四月海軍大学校(将校科二期)入学。明治三十年十二月少佐、海軍大学校卒業(首席)、砲術練習所学生。(カモメ)明治三十一年十二月海軍大学校教官。明治三十二年九月中佐。明治三十三年六月佐世保海兵団副長。明治三十四年九月海軍大学校教官兼副官。明治三十五年七月常備艦隊参謀。明治三十六年十月「秋津州」艦長。(ウツボ)明治三十七年二月八日日露戦争開戦。明治三十八年一月大佐、「笠置」艦長、五月二十七日から二十八日にかけて、日本海海戦が行われた。(カモメ)当時、連合艦隊作戦参謀・秋山真之(あきやま・さねゆき)中佐(愛媛県・海兵一七首席・海軍大学校教官・中佐・第一艦隊参謀・連合艦隊作戦参謀・日本海海戦でT字戦法を利用した作戦を立案・海軍大学校教官・「秋津州」艦長・大佐・「音羽」艦長・「出雲」艦長・第一艦隊参謀長・軍令部第一班長・少将・欧米各国出張・第二水雷戦隊司令官・中将)が日本海海戦で立案したT字戦法の元となる戦法は山屋他人中佐が発案したのですね。(ウツボ)山屋中佐が海軍大学校教官当時だね。俗に言われている、敵艦隊の進行方向をさえぎるように艦隊を配置するT字戦法の原案ともいえる円戦法を発案したのが山屋中佐だ。円戦法は基本的にはT字戦法と同じだが、敵艦と一定の距離を保つようにするため、直線の単縦陣ではなく円を描く。つまり敵艦隊の周りを回りながら敵艦隊の先頭に集中攻撃を行う。(カモメ)この円戦法を改良して、秋山中佐が作り上げたものが、T字戦法なのですね。(ウツボ)そうだね。(カモメ)山屋他人は、明治三十八年六月第四艦隊参謀長、十二月第二艦隊参謀長。明治四十年一月「千歳」艦長、十二月軍令部参謀兼海軍大学校教官。明治四十一年十月東宮御用掛。(ウツボ)明治四十二年十二月少将、教育本部第一部長兼第二部長。明治四十四年九月兼海軍大学校校長、十二月舞鶴予備艦隊司令官。明治四十五年四月人事局長。(カモメ)大正二年十二月中将、海軍大学校校長。大正三年八月第一艦隊司令官、十月第一南遣支隊司令官。大正四年二月第三戦隊司令官、八月待命、九月将官会議議員、十二月軍令部次長。大正七年六月第二艦隊司令長官。大正八年十一月大将、十二月第一艦隊司令長官。
2015.02.06
(カモメ)そこで、今から見ていくのは、首席が公表されている、「甲号学生五期」(明治二十六年卒)と「将校科学生一期~三期」(明治三十年卒~三十一年卒)、及び「将校科甲種学生一期~四期」(明治三十一年卒~三十九年卒)と、「甲種学生五期~三十九期」(明治四十年卒~昭和十九年卒)ですね。(ウツボ)具体的に見ていく前に、海軍大学校の卒業成績首席者がどこまで昇進したかということを見てみよう。首席が公表されている期だけなので、厳密な調査結果とはならないが、一応、列挙してみる。首席者四十三名の分類された最終階級の数は次の通り。(カモメ)元帥はいません。大将五名、中将十四名、少将十二名、大佐五名、中佐六名、少佐一名ですね。(ウツボ)もちろん、この結果は昭和二十年の終戦の時点での昇進結果だから、もしその後も戦争が続いていたら、少将は中将に、大佐は少将にというように昇進し続けた。【甲号五期首席・江頭安太郎中将(海兵一二)】(カモメ)最初は、甲号五期首席・江頭安太郎(えがしら・やすたろう)中将ですね。海軍大学校甲号五期は明治二十五年十二月二十一日入学、明治二十六年十二月十九日卒業。卒業者数九名。黒井悌次郎大将、和田賢助中将、林三子雄大佐、志摩清直大尉、などがいます。(ウツボ)江頭安太郎は、元治二年二月十二日(一八六五年三月九日)生まれ。佐賀県出身。父・江頭嘉蔵(佐賀中学校の小使)・母・キノの次男。江頭安太郎は、佐賀中学から上京し、攻玉社(こうぎょくしゃ・海軍兵学校の予備校)に入った。(カモメ)攻玉社では、後に親族となる山屋他人(やまや・たにん・岩手県・海兵一二・海大将校科二期首席・巡洋艦「秋津州」艦長・大佐・巡洋艦「笠置」艦長・第二艦隊参謀長・少将・海軍大学校長・海軍省人事局長・中将・第一艦隊司令官・軍令部次長・大将・第一艦隊司令長官・連合艦隊司令長官・横須賀鎮守府司令長官・皇太子徳仁親王妃雅子様は曾孫にあたる)と知り合いました。(ウツボ)明治十九年十二月海軍兵学校(一二・首席)卒、海軍少尉候補生、「浪速」乗組、「筑波」乗組。明治二十一年一月海軍少尉、「武蔵」分隊長心得、海軍兵学校運用術教官心得。明治二十二年八月海軍大学校丙号学生。明治二十三年二月「浪速」分隊長心得。明治二十四年七月「八重山」分隊長心得。(カモメ)明治二十四年十二月大尉、「比叡」分隊長。明治二十五年五月海軍兵学校水雷術教官兼監事。十二月海軍大学校甲号学生(五期)。明治二十六年海軍大学校(首席)卒業、水雷術練習所学生。明治二十七年六月「住ノ江丸」乗組(運送船監督)。七月「品川丸」乗組(工作船監督)。十二月「金剛」航海長。日清戦争に同艦航海長として出征。(ウツボ)明治二十八年三月海軍省軍務局第一課僚。明治三十年四月軍務局軍事課課僚。六月巡洋艦「高砂」回航委員(イギリス出張)。十二月少佐(三十二歳)、「高砂」水雷長。(カモメ)明治三十一年九月海軍省大臣官房人事課課僚。十月兼軍務局軍事課課僚。明治三十二年三月海軍大学校選科学生、九月中佐。明治三十三年六月軍務局課員兼海軍大学校教官。明治三十四年十月装甲巡洋艦「出雲」副長。(ウツボ)明治三十五年六月装甲巡洋艦「八雲」副長。明治三十六年四月待命。九月大佐(三十八歳)、海軍教育本部第一部長。明治三十七年一月兼軍令部副官、兼軍令部参謀(第三班長)。明治三十八年八月免教育本部第一部長。十二月免軍令部副官、軍令部参謀(第四班長)。(カモメ)明治三十九年四月勲三等旭日中綬章、功三級金鵄勲章。明治四十年十二月巡洋戦艦「生駒」艦長、呉工廠艤装委員。(ウツボ)明治四十一年八月少将(四十三歳)、旅順鎮守府参謀長。明治四十二年十二月佐世保鎮守府参謀長。明治四十四年三月人事局長。明治四十五年四月軍務局長。(カモメ)大正二年一月七日中将(四十七歳)、一月十日待命、一月二十二日従四位、勲二等瑞宝章、一月二十三日死去。享年四十七歳。従四位、勲二等、功三級。(ウツボ)現在の皇太子徳仁親王妃雅子様は、江頭安太郎中将の曾孫にあたる。江頭安太郎中将の三男・江頭豊(チッソ社長)の長女が江頭優美子だ。ちなみに、江頭豊の妻は、山屋他人海軍大将の五女、山屋寿々子だね。(カモメ)江頭優美子が小和田恆(おわだ・ひさし・新潟県・東大教養学部卒・ケンブリッジ大学大学院で法学士・外務省入省・国際連合局政治課長・条約局条約課長・福田赳夫首相秘書官・条約局長・外務大臣官房長・外務事務次官・国連大使)と結婚、長女の小和田雅子(現・皇太子妃)が誕生したのですね。(ウツボ)そうだね。小和田家は新潟県の村上藩の下級武士だった。小和田恆の父、小和田毅夫(おわだ・たけお)は高校の校長で市の教育委員長を務めた。小和田恆の母、小和田静の生家、田村家は代々商家だった。(カモメ)ちなみに、江頭安太郎中将の長男は江頭隆(中央大学経済科を首席で卒業・三井銀行・遠山偕成顧問)でですね。江頭隆の長男は江頭淳夫(えがしら・あつお・慶應義塾大学文学部卒・プリンストン大学・東京工業大学教授・慶應義塾大学教授・文学博士)ですね。みな優秀ですね。(ウツボ)特に、江頭淳夫は「江藤淳(えとう・じゅん)」のペンネームで、活躍した有名な文芸評論家だね。著書も多数ある。新潮社文学賞、菊池寛賞、野間文芸賞、日本芸術院賞等を受賞している。【将校科一期首席・伊藤乙次郎中将(海兵一三)】(カモメ)次は、将校科一期首席・伊藤乙次郎中将(いとう・おとじろう)中将ですね。海軍大学校将校科一期は明治二十七年三月一日~六月六日入学、明治二十九年四月六日~明治三十年十二月十五日卒業。卒業者数五名。上泉徳弥中将、松村龍雄中将などがいますね。(ウツボ)伊藤乙二郎は、慶応二年十月二十六日(一八六六年十二月二日)生まれ。愛知県出身。父・伊藤久敬、母・ソノの息子。伊藤乙二郎は、愛知一中から上京し、攻玉社(こうぎょくしゃ・海軍兵学校の予備校)に入った。
2015.01.30
(カモメ)明けまして、おめでとうございます。今年もよろしくおねがい致します。(ウツボ)おめでとうございます。こちらこそ、よろしくね。カモメさんは、新婚早々の新年で、クマノミさんと、人生最高の正月を迎えられたのでしょうね。(カモメ)いえいえ、今年の正月は、俺の実家に行ったり、クマノミの実家に行ったり、結構忙しくて、アットいう間に過ぎました。ウツボ先生は、正月に、ヒラメの家に行かれたそうですね。ヒラメが言っていましたよ。(ウツボ)そうですか、……ヒラメが、何と言っていたか知らないが、……俺は今、少し落ちこんでいるのです。……それはともかく、実は、ヒラメのお父さんに招待されたのですよ。(カモメ)ヒラメの祖父は海軍士官で駆逐艦乗組みだったので、そのことですね。(ウツボ)ヒラメのお父さんは、旧海軍のことにあまり関心がなくて、自分の父親が海軍士官だったことについて聞きもしなかったし、父親も戦争のことはあまり話さなかったらしい。それで、父親の死後、父親の昔の海軍時代のことが妙に気になって来て、それで少しは海軍に詳しい俺に話を聞きたいと招待されたのだよ。(カモメ)そうですか。具体的にはどのような内容でしたか。(ウツボ)ヒラメの祖父が乗組んでいて、撃沈された駆逐艦のことが一つ。もう一つは、ヒラメの祖父は海軍中尉だったが、海軍兵学校出身ではなく予備学生出身だったので、そのことだね。(カモメ)…ところで、どうしてウツボ先生は、落ち込んでおられるのですか?(ウツボ)まあ、聞いてくれよ。カモメさんは、親戚だからよく知っているだろうが、……行ってみたら、ヒラメの家は旧家で、和風の大豪邸だったよ。(カモメ)そういえば、そうですね。(ウツボ)そういえば、……だって?…カモメさんの実家もさぞかし大豪邸なんだろうね。……だが、アパートで独り暮らしの俺には、考えさせられたよ。一体全体、日本の資本主義国家体制における勝ち組と負け組の格差は、……どれだけ大きいのか!!……とね。(カモメ)ウツボ先生、少し、大袈裟すぎますよ。(ウツボ)いやいや……、大豪邸の門の前に立った時、俺はそれを実感させられて、柄にもなく落ち込んでしまった。それに加えて、ヒラメの家のおせち料理は、ものすごく豪華な大饗宴で……、俺は、ますます恐縮して、料理ものどを通らなかった。(カモメ)のどを通らなかった?……いつものウツボ先生とは違うじゃないですか?(ウツボ)いやいや、……それで、俺は、もう、口数も少なく、サイレント・ネイビーになってしまって、……酒だけは大いに頂いたのだが。そしたら、間が持てなくなったのか、ヒラメのお母さんが、笑いながら「酔い覚ましに、近くの神社にお参りしない?」と、さそってくれたので、俺も「じゃあ、おみくじでも引きますか」と、幼稚なことを言って、みんなで神社にお参りして、俺は、そのままサヨナラしたという訳だ。(カモメ)ヒラメも、いたのでしょう?(ウツボ)ヒラメのお嬢様も、いるには、いらっしゃったけどね…、「ウツボ先生、どうして、今日はそんなに神妙なんですかぁ~」「借りて来た猫みたいですよぉ~、」「酔っ払って、猫になっちゃって、サイレント・キャット、可愛い!」などと、酔った俺をからかってばかりで。しまいには、お母さんに叱られていたよ。俺といえば、ひたすら、ニヤニヤと、顔で笑ったり、心で泣いたり…。(カモメ)ヒラメも少し、調子に乗りすぎです。俺が、今度、言ってやります!(ウツボ)いやいや、やめてよ、そうじゃないんだ、……そうじゃないんだ……もうやめよう!…本題に入りましょう。(カモメ)ウツボ先生、元気を出してくださいよ。気にするほどのことじゃありませんよ。(ウツボ)……まあ、とにかく、本題をやりましょう。今までは陸軍大学校の首席を論じてきましたが、今回からは海軍大学校を首席で卒業した軍人の経歴とエピソードを見ていくのだね。(カモメ)そうですね。「海軍大学教育」(実松譲・光人社)によると、海軍大学校は、明治二十一年七月十四日、東京・築地の旧海軍兵学校生徒館に開校したのですね。(ウツボ)明治二十一年十一月十五日、甲号学生十名、乙号学生七名、丙号学生六名が入校、十一月二十六日から授業を開始した。(カモメ)これに先立ち、明治十九年、当時の海軍大臣・西郷従道(さいごう・じゅうどう/つぐみち)中将(薩摩藩士・西郷隆盛の弟・精忠組・明治維新・太政官・陸軍少将・陸軍中将・西南戦争・陸軍卿代行・近衛都督・参議・陸軍卿・農商務卿兼開拓使長官・伯爵・海軍大臣・内務大臣・枢密顧問官・海軍大将・侯爵・元帥・享年五十九歳・従一位・大勲位・功二級)は、海軍大学校の創設を指示したのですね。(ウツボ)そうだね。明治二十年、西郷海相は欧米諸国を視察し、教育の調査・立案には学識のある者をその衝に当たらせる必要を感じた。(カモメ)そこで、西郷海相は、イギリスの海軍大臣と交渉して、英海軍のジョン・イングルス大佐を教官として日本に招聘することにしました。(ウツボ)イングルス大佐は、その期待にそむかなかった。彼は日本の海軍大学校創設に大きく貢献した。また、教官として数年間、学生に戦術を講義した。(カモメ)イングルス大佐は、戦術講義において、「単縦陣戦法」(艦隊を、旗艦を先頭として、縦一列に並ばせる陣形で、敵に対する一斉砲撃ができる)を、強調して、学生に教えたのですね。(ウツボ)そうだね。以後、日本海軍は、この「単縦陣戦法」を取り入れ、訓練に明け暮れた。その結果、日清戦争の黄海開戦や、日露戦争の日本海海戦などで、大勝利した。(カモメ)陸軍大学校にドイツのメッケル少佐が貢献したように、海軍大学校にはイギリスのイングルス大佐が大いに貢献したのですね。(ウツボ)貢献どころか、イングルス大佐の「単縦陣戦法」は、日本海軍の作戦の主要戦術となった。さて、具体的に、海軍大学校を首席で卒業した軍人の軍歴とエピソードを見ていくのだが、海軍大学校草創期の、「甲号学生一期~四期」(明治二十二年卒~二十五年卒)は、首席が公表されていないというか、分らないので、省略させてもらいます。
2015.01.23
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