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(カモメ)「回想の将軍・提督」(潮書房)の中で岩田正孝氏(元陸軍中佐・井田正孝氏)は、阿南陸相が義弟竹下中佐に口述した遺言の中の「米内を切れ」という言葉について述べていますね。(ウツボ)そもそも、阿南陸相と米内海相は互いに信頼しあっていた。(カモメ)昭和20年8月9日まではね。だが阿南は二回の米内海相の裏切りで苦汁を飲んだ。(ウツボ)そう、苦い思いをした。第一回目は8月9日の論戦で終戦条件として四条件を主張する海相案(国体護持・武装解除・軍事補償占領・戦犯裁判の制限)と、一条件に絞るべしとする東郷外相案とが対立して決しかねた時だ。(カモメ)その時、海相がいつのまにか外相案についたため、阿南陸相を苦境に陥れた。(ウツボ)そういうことだね。第二回目はバーンズ回答に対する議論。陸相は国体護持の確証だけは万難を拝してもとりつけたい一心だった。その為には陸海一致の態勢を絶対必要とした。(カモメ)だから阿南陸相は「バーンズ回答」に対して国体護持の再照会を主張したのですね。(ウツボ)だが、これも海相の裏切りにより、国体護持確信の望みを絶たれた。国体護持の重責を放棄して和平の安きについた米内海相の日和見的態度を痛憤した陸相の絶叫だった。(カモメ)終戦当時「バーンズ回答」をもって国体護持が出来ると判断した重臣閣僚達は大変な誤算を犯したとも言えるかも知れないですね。。(ウツボ)うん。当時アメリカ国務次官であったグルー氏は「日本を降伏させるのは至極簡単である、それは国体護持を約束しさえすれば良い」と言っていた。(カモメ)敵国人でありながら米国の指導者は日本人の気質をよく理解していたのですね。(ウツボ)米国は当時から情報収集を重要視していた。当時は日本側はこれを確認できなかったが、阿南の主張は理があったということだね。だから阿南陸相の怒りは私憤ではなく公憤であったと言える。(カモメ) 「日本のいちばん長い日」(角川文庫)によると、自刃した後、阿南陸相の遺体は陸相官邸に安置された。米内海相は秘書官と車で陸相官邸に向かった。車中同乗の麻生秘書官に米内海相は「惜しい人だったなあ」と言って大きな溜息をつき、深い沈黙に沈みこんだ。陸相官邸で、米内は阿南陸相の遺体の前に座し、なにも喋らなかった。それはずい分長い時間であった。(ウツボ)「開戦の原因」(サンケイ新聞社)は、太平洋戦争の終戦直後GHQ(日本占領軍連合軍最高司令部)が日本軍の戦争指導の立場にあった陸海軍軍人に証言を求めた記録だ。(カモメ)そうですね。米国国防省・国立公文書館の極秘文書による証言記録ですね。(ウツボ)それによると、昭和20年11月17日、米内光政は連合軍の質問に答えて、陸海軍の意見の対立は、昭和20年6月6日と22日の最高戦争指導会議で持ち上がった。しかし、それが決定的に割れてしまったのは8月上旬のことである、と証言している。(カモメ)8月9日の論戦でしょうね。さらに「激流の孤舟」提督・米内光政の生涯(講談社)には次のように記してありますね。8月14日の閣議の席で、終戦の詔書の「戦勢日ニ非ニシテ」という言葉を、「これでは前線の将兵に負けているように受け取られる」と言って阿南陸相が修正を要求した。(ウツボ)それは、帝国陸軍将兵を代表している阿南陸相にとっては、陸軍の名誉にかかわるものだと、当然思ったからだ。〈カモメ)屈辱でもあった。だが米内は、「実際に負けているじゃないか」とぴしりと言った。しかし、阿南は粘り抜いて、とうとう「戦勢必ズシモ好転セズ」と訂正させてしまった。その時の米内のぴしりと言った言葉が阿南の心に沈殿していた。(ウツボ)その後、阿南陸相は他の閣僚と共に詔書に署名し、鈴木総理に挨拶。夜11時半、三宅坂の陸相官邸に帰り、夜半過ぎ、割腹自殺を遂げた。その直前に「米内を斬れ」と竹下中佐に言った。竹下中佐はこれを軽く受け流すことに決めたんだ。そうしないと、竹下は実際に米内海軍大臣を斬り殺さなければならなくなる。(カモメ)それが真実でしょうね。阿南の墓碑は昭和28年、多摩墓地に建立された。墓碑の左側には「大君の深き恵に浴びし身は言ひ遺す片言もなし」の辞世の歌を刻んだ天然石の歌碑がありますね。(ウツボ)この歌は阿南が昭和17年7月1日、満州第二方面軍司令官として対ソ作戦の準備をしていた頃、戦死を覚悟して作ったものだね。(カモメ)右側には令息、惟晟少尉の墓がありますね。惟晟少尉は陸士56期で中支戦線で21歳で戦死しています。(ウツボ)戦死の知らせを聞いた、当時第二方面軍司令官であった阿南中将は「今にして、乃木閣下が、日露戦争で愛児二人を戦死させた気持ちが分かる。いや総ての戦死者の親の気持ちが分かる」としみじみと語ったという。(カモメ)阿南は昭和20年4月、鈴木内閣の陸軍大臣になってから今までの太い佩刀を、細身の佩刀に変えた。それは戦死した惟晟少尉の軍刀だった。自刃した時の切腹刀も惟晟少尉のものであったと言われています。(ウツボ)惟晟少尉と一緒に旅立つ。それが親としての阿南のせめてもの慰めだった。(「阿南陸軍大臣の自刃」は今回で終わりました。次回からは「戦艦大和の沈没」です
2006.08.04
(カモメ)阿南陸軍大臣の自刃の理由について「或る情報将校の記録」(中央公論事業出版)によると、著者の塚本大佐が終戦後に林三郎大佐から聞いた話を記しています。(ウツボ)林三郎大佐は終戦直前、阿南陸軍大臣の秘書官だね。(カモメ)そうです。林大佐は次のように話したという。「8月12日夜、阿南さんが三笠宮邸に参上したさい、『陸軍は満州事変以降、大御心にそわない行動ばかりしてきた』とのお叱りを受けた。その帰途、自動車の中で、『あんなに強いことを仰らなくとも』と、非常に沈痛な面持ちでつぶやいた。三笠宮のお言葉がよほどこたえたようであった。『大罪』という表現と、三笠宮のお叱りとは密接な関連があると思う」と。(ウツボ)そこのところは、「大東亜戦争収拾の真相」(芙蓉書房)にも同様に「阿南陸相は、三笠宮邸に伺候し、天皇にご翻意をお願いしていただきたいと宮に訴えた。このとき三笠宮は陸軍のやり方を強く叱責された模様であり、林三郎陸相秘書官の手記によれば『これはひどくこたえたようであった』ということである」と記してある。(カモメ)もう少しそのあたりをほりさげてみましょう。「自伝的日本海軍始末記・続編」(光人社)によると、昭和二十年八月十二日、午後三時から宮中に皇族が参集され、皇族会議が開かれた。(ウツボ)皇族会議に出席したのは、秩父宮は病気ご療養中だったが、梨本宮、高松宮、三笠宮、東久邇宮、賀陽宮、竹田宮らだね。(カモメ)そうですね。皇族の意見は色々出たが、その場で天皇陛下ご自身で説明され、宮様方の協力を求められた。天皇陛下に対して、皇族を代表して梨本宮が「私ども一同一致協力して陛下をお助け申し上げます」と言上された。(ウツボ)阿南陸相はその皇族会議の終わった夜、三笠宮を訪ねたんだね。「陸軍は大御心に沿わない行動ばかりしてきた」とお叱りを受けた。(カモメ)三笠宮は翌八月十三日、陸相を突き上げている軍務局の若手将校たちのところにも来られて、「陸軍の若い連中の態度はよろしくない。阿南はじめ皆の行動は聖旨に添わないじゃないか」と詰問された。(ウツボ)ところが陸軍省軍務局内務班長で、阿南陸相の義弟、竹下正彦中佐は「我々としては、たとえ現に皇位にある裕仁の意に背いても、歴代天皇の御遺訓に従うことこそ真の忠節と考えた」と後に大井篤海軍大佐に証言しているんだよ。(カモメ)ある意味で、2.26事件の時の獄中の主犯グループと同じ思想が出て来たわけですね。そこまで思想的には追い詰められていた。(ウツボ)ところで、阿南陸相の自決についてだが、最後に鈴木総理の見解を述べておこう。(カモメ)資料は鈴木総理の自叙伝ですか。(ウツボ)そう。鈴木総理は自叙伝の中で、次のように述懐している。「陸相は決して自己の主張する抗戦論が容れられなかったから自刃したという、そんな単純な心境ではなかったと思う。真に国を思う誠忠の人として、最後まで善処され、陸軍部内の心中を思い、自ら犠牲になられた人として、誠に余は尊敬を禁じ得ない立派な人だと考えているのである。もし彼にして偏狭な武弁であり、抗戦のみを主張する人ならば、簡単に席を蹴って辞表を出せば、余の内閣などはたいまち瓦解してしまうべきものであった」と。(カモメ)確かに阿南陸軍大臣が辞表を提出すれば内閣は総辞職だ。当時の状況では陸軍は次の大臣を出さない可能性があった。(ウツボ)うーん。恐らくね。だけど、阿南はそうしなかったし、当時の幕僚の計画はどうだったのか。阿南が押さえていたのだが、その展開は分からない。(カモメ)次に、もう一つ、阿南の言葉を取り上げて見ましょう。阿南は自刃する前に、義弟の竹下中佐に「米内を斬れ」と言っている。(ウツボ)「一死大罪を謝す」(新潮社)では竹下中佐の証言として「機密作戦日誌」の中で、「それほど意味の或る言葉とは思われません」「そのとき阿南はもうかなり酔っていましたし、「米内を斬れ」と言ったあと、すぐ他の話しに移ったことからも、深い考えから出た言葉でなかったことが分かります」と述べている。拍子抜けだね。(カモメ)そう。竹下中佐のこの見解も非常に平凡で当たり障りのないものだね。官僚的な答え方だ。前述の「歴代天皇の御遺訓に従うことこそ」とは打って変わって慎重な言い回しですね。(ウツボ)竹下中佐は戦後自衛隊に入り陸将(陸軍中将)まで昇進し、幹部学校(旧軍の陸軍大学校に相当)の校長で退職している。(カモメ)そうですね。なにか筋が一本入った人だった。不必要なことはしゃべらない、戦後は沈黙の将軍。さて「米内を斬れ」について、阿南の副官、林三郎氏も「単に口走っただけで、意味はなかったと思います」と戦後語っている。これだけではどうもね。次回でもう少しこのことについて話し合いましょうう。
2006.07.28
(カモメ) 戦後、「回想の将軍・提督」(潮書房)の中で岩田正孝氏(元陸軍中佐・井田正孝氏)が、阿南陸相自刃について述べている。(ウツボ)井田正孝氏は阿南大臣に日頃から目を掛けられていて、井田も阿南を尊敬していた。(カモメ)そうだね、それを述べておかないと、今から話すことが誤解されやすいということにもなる。井田中佐が陸相官邸を訪れたのは昭和20年8月15日午前4時頃だった。陸相の義弟の竹下中佐の案内で陸相と面会を許された。(ウツボ)その時陸相は上半身を裸にして、腹部に白布を巻き、抜身の刀をかたわらに置き、整然としていたんだね。(カモメ)そう、つまり切腹する直前に井田中佐が来たんだ。阿南陸相は井田中佐に「いま切腹してお詫びしようと思うが、君はどう思うか」と尋ねた。井田中佐が即座に「結構でございます」と答えた。(ウツボ)「結構でございます」か。結構にもいろいろあるが、この場合の結構は、身を刺す様な衝撃的な言葉として迫ってくる。(カモメ)だけど、それはもう当時は、高級軍人は皆、死ぬ覚悟をしていたんだ。だから陸相はわが意を得たりという風情で満面に笑みを浮かべて喜ばれ、井田中佐の手を握って「あとを頼むよ」と言われたんだ。(ウツボ)その時、井田中佐はすかさず「私も閣下のお供をいたします」と述べた。(カモメ)そうだ。その途端、陸相はいきなり井田中佐の頬に往復びんたを加え「馬鹿を言っちゃいかん、死ぬのは俺一人でよいのだ、お前達は生き残って日本の建て直しをやらねばならぬ、死んではならぬ、よいか、わかったか」と諭された。そのあと両手で、井田中佐を強く抱きかかえて号泣した。井田中佐も相擁して泣きに泣いた。(ウツボ)日本が負けるというくやしさも二人の根底にあった。(カモメ)「一死大罪を謝す」(新潮社)によると、実際には、阿南陸相は午前五時過ぎに切腹を始めて、臨終は午前七時十分だった。(ウツボ)それは陸軍省高級副官美山要蔵大佐のメモによるものだね。(カモメ)そうだね。そのメモによると、前田軍医少佐と、陸軍省衛生課長の出月三郎大佐が阿南の屍を清めた。(ウツボ)三十数年後、出月三郎氏は「阿南大将の割腹から絶命までの時間が長かったのは頚動脈が切れていなかったためです」と証言している。(カモメ)このカテゴリも終盤に近づいたので、ここらで阿南の自刃の理由について話そう。「日本のいちばん長い日」(角川文庫)によると、阿南自刃後、義弟の竹下中佐は、陸相官邸を出て、陸軍省に行き、若松次官以下に大臣自刃報告をした。〈ウツボ)その際、若松次官が「遺書に『一死大罪を謝し奉る』とあるそうであるが、その大罪は、何をさしているのであろうか。貴官はどう思うか」ときいた、とある。(カモメ)竹下中佐は次のように答えているんだね。「大罪について、私は特に大臣に質問はしませんでしたが、おそらくは、満州事変以後、国家を領導し、大東亜戦争に入り、ついに今日に事態におとしいれた過去および現在の陸軍の行為に関し、全陸軍を代表して、お詫び申し上げたのだろうと思います」と。(ウツボ)義弟で側近であった、竹下中佐の推察だから、当を得ていると思うが、一番常識的な説であるわけだ。(カモメ)次回では、もっと現実的な自刃の理由が述べられている資料について話そう。
2006.07.21
〈ウツボ)ところで宮城事件は昭和20年8月14日の夜12時に椎崎中佐、畑中少佐らが近衛師団を訪れ、師団長、森赳中将に決起を促したが果たせず師団長を殺害し、偽の師団命令を出し、第二連隊に出動命令を出し、宮城を占拠したんだね。(カモメ)概略はそうだね。殺害された森師団長について、その人柄を表す、話がある。「一死大罪を謝す」(新潮社)によると、有末精三の話として、8月14日の朝、参謀本部第二部長の有末精三中将の部屋に森中将が来た。(ウツボ)森と有末は士官学校時代からの友人だね。(カモメ)そうだ。その時森は有末に「お前、皇太子殿下に嘘を言ったな。勝つと申し上げたそうだが、負けたじゃないか」と言い、そのあと「死ね、とにかく早く死ね」と言った。(ウツボ)今の我々の常識からは考えられない言葉だが、当時の状況としては、高級軍人は敗戦の責任を感じていて、皆死ぬことを考えていたんだね。(カモメ)そのあと森師団長は第一部長の宮崎周一中将の部屋にも行き、同じ様に「死ね」と言ったそうだ。森師団長の去った後、有末と宮崎はお互いに第三部長の磯矢中将も含めて「死ぬ時は三人一緒に死のう」と語り合った。(ウツボ)降伏となれば当時の状況から参謀本部の三人の部長が自決するのは当然という気持ちであったという訳だ。(カモメ)敗戦というものは軍人にそれほどの重圧があった。(ウツボ)三井侍従が御文庫に行き、天皇に宮城が占拠された事を伝えると、天皇は「クーデターか?」と言われた。そして、しばらく考えられて、「兵を庭へ集めるがよい。私が出て行ってじかに兵を諭そう。兵に私の心を言ってきかせよう」と言われた。そのうちに東部軍司令官の田中静壱大将が宮城に着き、近衛連隊の兵は宮城を出て行った。首謀者は自決した。(カモメ)この頃の阿南陸軍大臣の心境と対応した行動について話しておこう。「完本・太平洋戦争(4)」(文春文庫)によると、阿南は竹を割ったような真直ぐな性格であったから、謀略の意図から抗戦を主張したとは考えたくないが、抗戦幕僚を頭から押さえつけて、ポツダム宣言を無条件で受け入れる態度を執ったなら、阿南は生きてはいられなかった。殺されるのは彼自身介意しないとしても、そのあとはクーデターである。そうなれば陸軍は天皇の御意図に反する勢いをなすかもしれない。そこで陸相として頑張るだけ頑張った。 (ウツボ)そこだが、「最後の参謀総長・梅津美治郎」(芙蓉書房)の中で、阿南と陸士同期生で終戦まで親交があった鈴木内閣の国務大臣、安井藤治中将は昭和34年8月14日の阿南会の挨拶で次のように述べている。「それでも陸軍大臣としては、先ほどいうごとく、多数の軍隊を押さえていくために、尽くすべきところは、どこまでも尽くしたというその手を打たねばならぬ。そこに阿南大将の特に苦心したところがあったんじゃないかと思います」と。推察だが、同様な意見だね。 (カモメ)「回想の将軍・提督」(潮書房)の中で岩田正孝氏(元陸軍中佐・井田正孝氏)は「角田房子女史は、その著『一死大罪を謝す』のあとがきのなかでに、戦争終末期の阿南陸相の心境ばかりは不明というほかわないと、嘆いているが、私に言わせれば、角田という著者は何という愚かな人かなと思わずにはおられない。あまりにも簡単明瞭であるがゆえに、かえって見破れなかったのではあるまいか。大臣就任以来、とくに終戦時における陸相の心境は、国体護持の一念あるのみであった」と述べている。
2006.07.14
(カモメ)「或る情報将校の記録」(中央公論事業出版)によると8月10日午前2時半まで続いた第一回目の御前会議で「天皇の国家統治の大権を変更する要求を包含しおらざること」の了解の下に、ポツダム宣言受諾が決まった。(ウツボ))「或る情報将校の記録」の著者は塚本誠という陸士36期の元憲兵大佐だね。(カモメ)そう実力派の憲兵だよ。ところがポツダム宣言受諾が決まった当日。午後4時半発表の情報局総裁談、同時刻新聞社に配られた陸軍大臣訓示の二つが相反したものであった。(ウツボ)情報局総裁談はポツダム宣言受諾を前提に「国体の護持のためにあらゆる困難を克服していく」ものであり、陸軍大臣訓示は全国将兵に「徹底抗戦」を呼びかけるものであった、というものだね。(カモメ)そうだ。この陸軍大臣訓示については、当時東京憲兵隊司令部参謀であった塚本大佐によると、あの陸軍大臣訓示はソ連の対日参戦の際、全軍の動揺を防止する目的で、陸軍省軍事課の稲葉正夫中佐が起案したものだった、ということだ。(ウツボ)しかし、いくらなんでも、起案の内諾は阿南陸軍大臣から得ていたはずだね。(カモメ)内諾は得ていた。ところが、起案したものは大臣未決裁であったというんだ。なぜかというと、8月10日に政府が条件付でポツダム宣言受諾を決めたので、内閣情報局員の親泊朝省大佐が大臣未決裁のまま、慌てて突然発表した。(ウツボ)陸軍省記者会を通じて発表したんだね。 (カモメ)そう。そのあと憲兵参謀の大塚大佐は憲兵司令官の大城戸三治中将から「阿南大臣の最大の懸念は、大臣の意図に反する陸軍中央部少壮幕僚の越軌行動である。注意せよ」と指示を受けた。(ウツボ)この本によると、大塚は以前から満州事変以後、特に5・15事件後の陸士出身将校の中には平泉澄博士の皇国史観の共鳴者、つまり軍が先駆的に動くべきであるとの強い使命感の持ち主が多数いると見ていた。(カモメ)だから大臣の言う少壮幕僚は陸士45期以降の者達だと思い、大塚は見当を付けて、早速陸軍省に向かった。軍務局の軍事課へ入ったとたん、井田正孝中佐と視線が合った。(ウツボ)塚本は以前から井田中佐を知っていた。台湾の司令部で一緒だった。塚本を日本に呼び返したのは井田中佐だからね。(カモメ)井田中佐の案内で、塚本は応接室に通された。やがて見知らぬ佐官が二人、井田中佐の両脇に座った。井田中佐の紹介でその二人が、椎崎二郎中佐(45期)と畑中健二少佐(46期)であり共に軍務課員であると知った。(ウツボ)後の宮城事件のクーデターの首謀者の二人だよね。 (カモメ)そうだね。井田中佐はクーデター勃発後、鎮圧に努めるのだがね。しかし、その時、井田中佐は塚本大佐にこう言ったというんだ。「鈴木内閣はイタリア降伏時のパドリオ内閣と同じだ。陛下は今彼らの虜になっておられる」と。(ウツボ)イタリアの統領・ムッソリーニを失脚させたパドリオ元帥にたとえた。(カモメ)そして井田中佐は塚本の見解を求めたので塚本は「挙軍一体でなければならぬ。聖断が下ればそれに従わなければならぬ」と答えた。すると井田中佐は「聖断が下ればそれに従わなければならぬか」と聞き返したという。
2006.07.07
(ウツボ)昭和20年8月9日午後11時55分、皇居内の防空壕で第1回御前会議が開かれた。(カモメ)戦争を継続するかポツダム宣言を受諾して無条件降伏するかを決める重大なものだった。(ウツボ)「帝国陸軍の最後」(角川文庫)によると、東郷外相のポツダム宣言受諾案に対して鈴木首相、米内海相が賛同、阿南首相、梅津参謀総長、豊田軍令部総長が反対の意見を述べ、三対三となった。(カモメ)そのとき、平沼枢府議長が自説を遠慮したので、鈴木首相が天皇陛下の思召しを伺ったんだね。(ウツボ)平沼は自分の意見で重大事が決せられるのは責任があまりに重過ぎると、しりごみした。(カモメ)そう言われているが、だが、事前に鈴木総理の要請で、平沼にそうするようにと打ち合わせ済みだったとの話もある。だから平沼を出席させた。つまり最初から天皇に裁可を得るつもりだったのだ、鈴木総理は。シナリオをすでに作っていた訳だ。(ウツボ)鈴木総理の要請を受けて、天皇はこう言われたという。「陸海軍統帥部の計画は多くは実情に適せずかつ時機を失し、大東亜戦争はほとんど計画と違っている。げんに参謀総長の言と侍従武官の視察との間には大なる相違がある。参謀総長は本土決戦の準備がほとんどできているように報告しているが、九十九里浜の防備なぞは予定の十分の一もできていないそうではないか。また、決戦師団の装備は六月に完成すると報告を受けていたが、侍従武官査閲の結果ではこれもほとんどできていないという。これでどうして本土決戦を戦うことができるのか」と。(カモメ)天皇は、陸軍の、最近のやり方に信頼をしておられなかった。本土決戦は危ういものだと。(ウツボ)最近というか、そもそも、第二次大戦の発端というか、繋がっていった、と言った方がいいが、昭和6年の満州事変、12年の日華事変も陸軍の独断専行だった。事変の拡大を食い止めようとした一部軍人達は排除された。そのつけが、結局、昭和20年の御前会議にまで、陸軍にまわってきたという見方もできる。(カモメ)海軍が起こした戦争ではない。むしろ反対だった。だから海軍は戦争の終結を望んだ。米内海軍大臣は東郷外相のポツダム宣言受諾案に賛同した。(ウツボ)いや、海軍といっても十羽一からげとする訳にもいかないよ。海軍もいろいろいたからね。ドイツかぶれも多数いて日独伊三国防共協定推進派も多数いた。米内、山本、井上の対米国反戦トリオを軸としたグループと言った方がいい。(カモメ)それは確かにそうだ。山本五十六の真珠湾攻撃が開戦の象徴のようにとられているが、真珠湾攻撃は開戦が決まった後での作戦だからね。(ウツボ)そうだね。開戦が決まったら、海軍はまさに全滅するまで死力を尽くした。(カモメ)「自決」(自由アジア社)によると、第一回午前会議は8月10日午前2時半に終了した。阿南は午前10時頃陸軍省に行った。そこでは御前会議の内容が判っていて中佐、少佐の中堅将校達が、血眼になって戦争継続論を語り合っていた。(ウツボ)陸軍大臣が登庁したことを知った十四、五名の中、少佐が気負いだって大臣室になだれこんできたんだね。陸軍省勤務の少佐、中佐といえば大体三十代だろう。意気盛んな年代で、突っ走るからね、その年頃は。(カモメ)そうだね。彼らはかなり興奮していて、異口同音に「ポツダム宣言は断じて受諾すべきではありません」と阿南大臣に詰め寄った。(ウツボ)興奮した彼らには大臣も上官も眼中になかった訳だ。平時では少佐、中佐が、陸軍大将にそんな口の聞き方をするのは考えられないからね。(カモメ)下克上とまではいなかないが、終戦間近には、そういう雰囲気だった。ある中佐は陸相の前に進み出て「本職は一同を代表して大臣に進言します。もしポツダム宣言を阻止する事ができなかったら、大臣は責任者として切腹すべきです」と怒声するどく迫ったという。(ウツボ)本当に思い切ったことを言うもんだね。その中佐は井田中佐ではなくて、阿南の義弟の竹下中佐と言われているよね。他の本では竹下になっているからね。(カモメ)うん。「自決」には中佐の名前は出していないが、竹下に間違いない。その時、阿南陸相は「おれのような年配になると、切腹することは、さほどむずかしいことではないよ」と軽くあしらった。その中佐は、また何か言おうとしたが、その場にいた若松次官が叱ったので、発言をやめて、一同と共に引きあげたという。
2006.06.30
(カモメ)「帝国陸軍の最後・5」(角川文庫)によると、ポツダム宣言を受け、7月27日に開かれた閣議ではこれを公表するかどうか白熱した議論が起きた。(ウツボ)結局、梅津参謀総長、豊田軍令部総長、阿南陸相、米内海相の四人が、鈴木総理にポツダム宣言に断固反対の声明を出すように迫ったんだ。(カモメ)翌朝の新聞には鈴木首相の記者会見の言葉として「あの三国声明はカイロ会議の焼き直しであって、政府としてはなんら重大なる価値があるとは考えていない。ただ黙殺するだけである。われわれはあくまで戦争完遂に邁進するのみである」が掲載された。(ウツボ)「日本の三国宣言笑殺」「戦争完遂」の大見出しを掲げて掲載された。だが、その前に下村国務省や迫水書記官長らは新聞社に対し、「小さく扱うよう」を要望したが、新聞社は軍部の要求にしたがって大々的に扱ったんだね。(カモメ)この情報が伝わった時、「ようしッ」と、トルーマン大統領は艦長室で立ち上がった。ドイツからの帰途、巡洋艦オーガスタ号に乗って大西洋上にいたときだ。直ちに命令を発し、「8月3日以降のなるべく早い機会に原爆の第一弾を投下すべし」と電命したという。(ウツボ)ポツダム宣言の最後の第十三条で「これ以外に日本が選ぶ道は、迅速かつ完全なる破壊あるのみ」と結んでいたが、これが「言う事を聞かなければ原子爆弾だぞ」とは書いてなかったが、だけどそれが大きい含みになっていたことは疑う余地がなかったんだね。(カモメ)そして、そのような流れの後、遂に、8月6日午前8時15分、広島に原爆は投下された。(ウツボ)8月8日午後2時、終戦速行の主唱者である東郷外相は広島の被害とトルーマンの宣言から原子爆弾の出現を確認し、天皇陛下に所信を上奏した。そのとき、天皇陛下もまた、新兵器出現の上は、一日も早く戦争を終結する旨を明確に東郷に伝えられたという。(カモメ)ところが、遅れて参内した阿南陸相に対して天皇は強い語調で、「広島に落ちたのは原子爆弾と聞くが、これに対する陸軍側の考え方はどうか」と質された。阿南は、うすうすそれを知っていたが、継戦論をくじかれることを恐れて、言葉をにごし、後刻調査の上でと逃げをうつ場面もあったという。(ウツボ)その翌日原子爆弾の第二段が長崎市に落ち、ソ連の参戦もあり、日本は最後の状況に追い込まれた。(カモメ)「昭和陸軍秘史」(番町書房)によると、元陸上自衛隊幹部学校校長、防衛大学校教授の吉橋戒三氏の証言として昭和20年8月6日に広島に原爆が落とされた時、天皇陛下のご様子を記している。(ウツボ)吉橋戒三氏は当時大佐で侍従武官だね。(カモメ)そうですね。吉橋氏によると、当時、武官府から陛下への原爆の報告は「特殊爆弾」という表現で口頭で奏上された。陛下はほとんど一時間おきぐらいに広島の様子を尋ねられた。しかし、陛下は参謀総長などには、お聞きにならず、側近にばかり尋ねられたという。それは陛下が重大な決心をされる瀬戸際であったというんだ。
2006.06.23
(カモメ)阿南は昭和天皇の侍従武官を拝命している。(ウツボ)侍従武官の期間は四年間に渡っているね。(カモメ)そうだね。侍従武官としての勤務を終えた阿南は、昭和8年、近衛第二連隊長、幼年学校校長となり、昭和9年少将に昇進した。(ウツボ)そのあと昭和11年陸軍省兵務局長、12年人事局長、13年中将に昇進した。それから日華事変で、第百九師団長として最前線に赴く。阿南は陸軍大学校の試験に二回か三回落ちてようやく合格しているが、要職に就いている。(カモメ)そうだね。第百九師団長として転出するに当たり、天皇のお召しにより、二人だけで会食した。その時の感激を、同期で部下の旅団長だった山口三郎少将に漏らしている。(ウツボ)侍従武官の経験や天皇の事を他人に話すことは一切なかった阿南としては、唯一の例外として伝わっている。(カモメ)阿南は、それほど感激した。(ウツボ)天皇と二人だけの食事か。想像するだけで、身が震えるね。(カモメ)我々は日頃想像すらしない。ここらで阿南の自刃に関係するポツダム宣言について少し話しておこう。ベルリン郊外のポツダムで行われた「ポツダム会談」の結果、昭和20年7月26日、日本に対して13条から成る降伏勧告の宣言が発せられたが、これを「ポツダム宣言」というんだね。(ウツボ)別名「米、英、華三国宣言」とも言う。当時日本に対して中立であったソ連は入っていない。アメリカと、イギリスと中華民国の3カ国の共同宣言だ。後でソ連も慌てて介入してくるけどね。共同宣言といっても、中華民国代表の蒋介石とイギリス代表はポツダムにいなかったため、トルーマン大統領が代わりに署名した。(カモメ)ソ連が宣言の内容を知ったのは公表後だった。(ウツボ)だから、スターリンがカンカンに怒って、8月8日に対日宣戦布告をしてから宣言に加わった訳だ。 (カモメ)「帝国陸軍の最後・5」(角川文庫)によると、日本では識者の大多数(宮中、重臣、内閣参議、実業家や言論界の幹部ら)はこの三国のポツダム宣言をむしろ救いの綱として終戦を成就しようと願っていた。これに対して軍部は宣言を罵倒笑殺する態度を誇示した。 (ウツボ)だが、すったもんだの末、結局、8月9日の御前会議で「国体の護持」を条件に受諾を決め、8月10日「国体の護持」を条件とするポツダム宣言受諾を連合国に伝達した。(カモメ)翌日、アメリカ国務長官バーンズが起草した回答文が日本に返ってきた(バーンズ回答)。(ウツボ)その中の国体護持については「日本国天皇は占領軍司令官に従属する。(subject to)となっていた。(subject to)ついて「制限の下におかれる」とする外務省と、「隷属する」と解釈する軍部の間の対立があった。(カモメ)だが、国体がどうなるか曖昧なまま、14日の御前会議であらためて宣言受諾を決定した。
2006.06.16
(ウツボ)阿南惟幾は明治33年9月に広島地方幼年学校に入学した。それから12年後の明治45年9月に、乃木大将夫妻が殉死した。(カモメ)乃木が殉死した明治45年は、阿南は中尉で、中央幼年学校の生徒監だった。9月15日に幼年学校の全生徒に対して樋口教官が乃木大将殉死の講話を行った。その時、25才の阿南中尉はしばしば指で目頭を押さえながら聞き入っていたということだ。(ウツボ)阿南は乃木の心情を25歳の純粋な若さで捉えようとした。乃木の死に対する自己の悲しみの情があふれたのかもしれない。<カモメ)悲しみではなく、感動の涙と思う。阿南には、天皇の信義に乃木が命を持って応えたえたものと映った。それは阿南にとって、ゆるぎ無い確信だった。(ウツボ)断定はできないね。今、俺達は、乃木大将の殉死に対する阿南に心情を、主観的な推測で話しているわけだから。(カモメ)主観というけど、乃木大将の天皇に対する忠誠心はゆるぎ無いものだった。それは歴史上の客観的な評価だ。(ウツボ)評価というものは、その評価する人の立場から形成される主観で行われる。世間には色んな立場の人がいる。例えば、乃木大将が学習院の院長時代に学生として在学していた白樺派の志賀直哉らは、この乃木夫妻の殉死を「浅はかな下女の振る舞い」と決め付けた。そして嘲笑した。これも評価だ。(カモメ)志賀直哉は乃木大将の心情を、どれだけ理解していたのだろうか。(ウツボ)志賀直哉の主観だよ。まだあるのだが。朝日新聞の内情を暴露した元学芸部記者の暴露本「新聞を疑え」(講談社)によると、乃木大将殉死の知らせが朝日新聞に入った時、新聞社の活字の若い植字工が、「馬鹿だな」と大声で叫んだのをきっかけに、社会部記者からの乃木を非難する声が盛んに出た。主筆が「そういうことは、この際慎んだらどうです」とたしなめると、今度は主筆を偽善者と非難する声が上がったという。その時、社長の村山竜平が編集室に入ってきて、「乃木が死んだってのう。馬鹿な奴だなあ」と言った。ところが翌朝の新聞には「軍神乃木大将自殺す」と大見出しで扱われ、記事は尊敬を極めた美しい言葉で飾られていたという。(カモメ)それらの口走った言葉は、感情に駆られた言葉だよ。全く理性的なものではないね。(ウツボ)新聞社では明治天皇崩御の御大葬の記事をやっと組み上げて、みんなへとへとに疲れきっているところに、乃木自殺の記事が飛び込んできた。また紙面を作り変えなければならないようなことを仕出かしやがって、となった訳だ。特に植字工は、ほぼ全面的に活字を組み直さなければいけなくなった。(カモメ)今は組版は全部パソコンで行うから、かなりのレイアウト変更でも対応できるが、明治時代は、活字だったからね。(ウツボ)全部一字一字拾っていくんだから、手間はかかった。もちろん記者も忙しいが、印刷前の最終工程は植字だからね。時間との闘いになる。そこで絶望的になり、いらついた植字工が最初にそういう言葉を口走ったという訳だ。 (カモメ)乃木の何たるかは、まるで無視されていて、単なる自分の仕事を忙しくする苛立たせるものに過ぎない訳だ。(ウツボ)それはそうだね。しかし、極端な例だったが、そのような立場がそのような評価を形成することが世間には多多ある。(カモメ)だが、天皇と乃木の関係は当時多くの人に知られていた。西南の役を乃木は少佐の連隊長で戦ったが、連隊旗を敵に奪われた。連隊旗は天皇から直接に授与されるものであったから、それを敵に奪われた乃木は自決して責任をとろうとした。だが、明治天皇は、それを許さず「私が生きている間は自ら死ぬ事を禁ずる」と命じ、乃木の命を救った。日露戦争での二百三高地攻略戦でも明治天皇は最後まで乃木を信頼し、攻略成功に心を砕かれた。この天皇の自分に向けられた心情を知っているからこそ、乃木は天皇に殉死したんだよ。阿南の話に戻るけど、そのような乃木大将と、明治天皇の関係は、阿南にとって羨ましいものであったと言われているんだ。
2006.06.09
(ウツボ)昭和20年8月15日早朝、陸軍大臣・阿南惟幾(あなみ・これちか)大将は「一死、大罪を謝す」との遺書を残して陸相官邸で自刃(じじん)した。(カモメ)一般的には、昭和天皇に無条件降伏に至らしめた陸軍大臣としての責任をお詫びして、自刃したといわれているが、遺書が少ないだけに、その理由が色々言われている。(ウツボ)遺書と言えば半紙2枚に書かれたものだけだった。1枚は昭和17年、支那戦線に出征の際に詠んだ皇室に対する自分の気持ちを現した和歌で、もう1枚には「一死以テ大罪ヲ謝シ奉ル」という有名な辞世だが、これが憶測を呼んだ。あとは義弟の竹下正彦中佐に口頭で、奥さんや関係者に託しているが、それらは短いものだ。(カモメ)阿南陸相の夫人、綾子は竹下中佐の実の姉だね。(ウツボ)「日本のいちばん長い日」(角川文庫)によると、阿南は竹下中佐に夫人と子供に対する遺書を口頭で託した。その時こう言った。「綾子には、信頼し、感謝していると伝えてくれ。よくつくしてくれた。惟敬(これたか)にはああいう性格だから過早に死んだりせぬよう、くれぐれも伝えてくれたまえ。惟正(これまさ)以下男の子が三人もいるから大丈夫、私も安心して死んでいける。惟晟(これあきら)は本当によいときに死んでくれたと思う。惟晟と一緒に逝くんだから、私も心強い」。(カモメ)惟晟少尉は陸士56期で中支戦線で昭和18年に21歳で戦死している。(ウツボ)阿南の自刃の理由についてはいろいろ言われているが、後でじっくり話すことにしよう。(カモメ)阿南と言えば乃木大将だから、まずはそのあたりから、話を進めよう。阿南は精神的な奥底に乃木希典の影響を受けていた。そもそも阿南が軍人になると一段と決心を固めたのは中学生のときに初めて当時の乃木希典中将に出会ってからだ。(ウツボ)厳密には、乃木に会う前にすでに阿南の幼年学校志望は決まってはいたのだがね。(カモメ)それはそうだが。何でも漠然とした気持ちで物事を進めている時、突然カルチャーショックを受けて、意識改革が行われる事は多多あることだよ。出会ったのは1900年(明治33年)、阿南の父が徳島県の書記官(副知事)をしていた頃だった。(ウツボ)それは日露戦争の前の話だね。当時乃木は第11師団長だったね。阿南は明治20年2月21日生まれだから、当時14歳位だった。(カモメ)そうだね。師団長の乃木希典中将が徳島県庁を訪れた際、阿南書記官の案内で、地元中学生の剣道試合を見学した。その時阿南惟幾という中学2年生が上級生を片っ端から破り見事優勝した。乃木中将は子供子供した外見の、その子のあまりの強さに感心した。さらに、その子が、阿南書記官の息子と知って声をかけ、陸軍幼年学校に入るという惟幾を励ました。(ウツボ)乃木大将は中学二年生の子供に、どのような言葉をかけたのだろうかね。(カモメ)記録に残っているんだ。「名将・愚将・大逆転の太平洋戦史」(講談社)によると、その時乃木はこう言ったという。「日本陸軍はこれからますます大きくなる。日本の国と日本国民の将来のためにも、君のような人材がぜひとも必要なのだ」と。(ウツボ)その通りになった訳だ。阿南は陸軍大臣にまでなり、終戦の局面で重要な職責を勤めた人だからね
2006.06.02
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