意外な戦史を語る~  カモメとウツボのメクルメク戦史対談

意外な戦史を語る~ カモメとウツボのメクルメク戦史対談

2010.11.12
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カテゴリ: 海軍予備生徒
(カモメ)ところで、海軍予備員の中には、海軍予備学生と海軍予備生徒がありますね。

(ウツボ)海軍予備学生というのは、旧制高等学校、旧制専門学校、大学の卒業生から試験により選抜され、採用される。海軍予備学生の身分は少尉候補者で、一定期間の教育を受けた後に、海軍予備少尉に任命される。

(カモメ)これに対し、海軍予備生徒は、海軍生徒三校である海軍兵学校・海軍機関学校・海軍経理学校の生徒に準ずるものですね。対象は東京高等商船学校(明治十五年官立)と神戸高等商船学校(大正九年官立)の生徒で、入学と同時に海軍予備生徒を命ぜられ、海軍兵籍に編入されました。卒業後、すぐに海軍予備少尉に任命される。

(ウツボ)昭和十二年には農林省・水産講習所(後の東京水産大学・現在の東京海洋大学)遠洋漁業科の生徒も海軍予備生徒になった。さらに戦争の拡大に伴い、旧制高等学校の生徒に対しても選抜試験を行い、合格者を海軍予備生徒とした。

(カモメ)太平洋戦争中の、昭和十八年四月、清水高等商船学校が創立されました。戦時中であり、入校生徒数は大量で、昭和十八年度が約六百名、昭和十九年度と昭和二十年度がそれぞれ千八百名でした。

(ウツボ)さらに昭和二十年四月には学制が改正され、東京、神戸、清水の三高等商船学校が清水に統合され、校名が「高等商船学校」となり終戦まで続いた。

(カモメ)その後、戦後の昭和二十四年、東京商船大学、神戸商船大学が設置されましたね。

(ウツボ)そうだね。今回は海軍予備生徒について話を進めていく。主に、東京高等商船学校と神戸高等商船学校の生徒、それに水産講習所の生徒について掘り下げていく。

(カモメ)予備生徒は、高等商船学校や水産講習所の制服の襟に予備生徒のマークである錨の中央にコンパスの襟章を着けていました。

(ウツボ)帽章はやはり錨にコンパス、肩章は海軍兵学校の肩章と同じ形だが、マークはやはり錨にコンパスだった。

(カモメ)この錨の中央にコンパスのマークは予備員徽章で、俗に「金平糖(こんぺいとう)」と呼ばれていました。

(ウツボ)海軍予備少尉など予備士官の帽章は桜花章の代わりにコンパスマークを着けた。制服は正規士官と同じであったが、袖章は山形になっており、正規士官と区別されていた。

(カモメ)だが、昭和十八年六月三十日、武官官階が改正され、予備士官の名称が「海軍予備大尉」の予備がとれて、正規士官と同じ「海軍大尉」となり、同時に帽章も正規の海軍士官と同じ桜花章に、袖章も正規士官と同じになったのですね。

(ウツボ)そうだね、区別がなくなった。海軍予備生徒は、在学中は砲術などの軍事教育を六ヶ月受け、卒業と同時に海軍予備少尉に任命され、さらに一ヶ月間、砲術学校や海兵団で士官教育を受けた。

(カモメ)海軍予備生徒の官階は、下士官の上、准士官(兵曹長)の下と格付けされていました。つまり下士官からは敬礼されるので、答礼すればいいが、准士官以上に対しては、こちらから敬礼しなければならなかったのです。

(ウツボ)では、ここらで東京高等商船学校航海科の予備生徒出身の体験記に移ろう。「海軍予備士官」(坂元正信・成山堂書店)によると、著者の坂元氏は、明治四十四年一月生まれ。昭和八年東京高等商船学校航海科を卒業した。

(カモメ)海軍予備生徒でもある高等商船学校の修学年限は、航海科、機関科とも五年六ヶ月でした。内容は、座学が三ヵ年、海軍砲術学校が六ヶ月、帆船実習(航海科)・工場実習(機関科)が一ヵ年、汽船実習が一ヵ年というものだったのですね。

(ウツボ)そうだね。坂元氏は、卒業後まもなく、海軍に召集された。海軍予備少尉としての初級士官教育で、乗艦は連合艦隊の一万トン級巡洋艦「高雄」。配置は高角砲の砲術士だった。六ヶ月間の召集が終わり、復員した後、日本郵船に入社、航海士として勤務した。

(カモメ)そして昭和十五年頃、坂元氏は高速優秀貨物船「長良丸」の二等航海士として地中海航路に従事していましたが、昭和十六年一月、海軍予備中尉として再び海軍に召集されたのです。

(ウツボ)今度は教育ではなく、本番の充員召集で、乗艦は水雷艇「雁」で、配置は砲術長だった。

(カモメ)水雷艇「雁」は、鴻(おおとり)型水雷艇の同型艦で、公試排水量九六〇トン、全長八八・五メートル。タービン二基二軸一九〇〇〇馬力で速力三〇・五ノット。乗員百二十九名でした。

(ウツボ)兵装は、十二センチ単装砲三門、二十五ミリ機銃一挺、十一ミリ機銃一挺、五十三センチ三連装魚雷発射管一基を装備していた。

(カモメ)水雷艇「雁」は、日支事変中は中支沿岸の封鎖作戦に従事しました。太平洋戦争開戦後は、香港攻略、マレー攻略、ビルマ攻略、アンダマン諸島占領作戦に従事しました。

(ウツボ)昭和十八年頃、坂元大尉は水雷艇「雁」の先任将校だった。ビルマのラングーンで、「雁」は米軍の大型爆撃機B-24九機から集中攻撃を受けた。

(カモメ)B-24は高高度から水平爆撃を行った。「雁」の高角砲は射程ギリギリでした。河川港にいたので、回避運動はできないし、迎え撃つ味方機もいなかったのです。

(ウツボ)対空射撃を指揮している砲術長は坂元大尉の後輩、田中尚吾大尉(東京高等商船学校航海科第一一〇期)だったが、いつもの勇ましい男とは違って渋い顔をしていた。

(カモメ)高角砲の射程スレスレで、射撃効果がサッパリだったのですね。夢中で撃ったものの、こうなると、空を仰いで念仏でも唱えるよりほかに手はなかったのです。

(ウツボ)そのうち、サッと爆弾の雨が降ってきた。至近弾はあったが、幸運にも命中弾は一発もなかった。だが、一斉に弾着する瞬間、高さ十メートルの水柱が本艦の周囲に数十本も林立し、周囲全体は黄土色の河水の壁になっていた。

(カモメ)爆風で甲板に叩きつけられた坂元大尉は目から火花が出て、何がなんだかわからなくなったのです。痛い腰を押さえて立ち上がり、目にしたものは、蜂の巣のようになった百五十箇所に及ぶ船体の破孔と甲板上に倒れている多数の死傷者でした。

(ウツボ)坂元大尉は艦長の健在を確かめると、「第一応急かかれっ」と号令した。艦内のあちこちから乗組員が飛び出してきて作業にとりかかった。船体損傷に対する応急措置と、死傷者の収容だった。

(カモメ)敵の去った後、艦橋で応急作業を指揮する坂元大尉は、敵に対する憎悪の念と、こちらの弾丸が届かない無力感、目の






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最終更新日  2015.08.03 13:39:16


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