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(ウツボ)珊瑚海海戦で苦闘して勝利を得た第五航空戦隊司令官・原忠一少将は、東京に帰ってきたとき、海軍省の廊下で、事情を聞きたそうにする顔見知りの士官に会うと、「アメリカは強いですぞ」と自分の方から語りかけたそうだ。(カモメ)そのようですね。けれども、海軍省、連合艦隊は次のミッドウェー作戦必勝の自負を持っていた訳ですね。(ウツボ)空母も第一、第二航空戦隊の赤城、加賀、蒼龍、飛龍、の最強の四隻が出て行く。何も心配もないという雰囲気だった。(カモメ)原忠一少将と対米評価が正反対なのが軍鶏を思わせる源田実中佐でしたね。(ウツボ)源田中佐は南雲艦隊の航空参謀で、当時ときめく人物だった。とにかく源田サーカスとか気違い源田とか、いろいろ言われていた。(カモメ)戦闘機パイロット生え抜きの源田中佐は「それ行け」という時、親指と中指をいい音させて「ピチッ」と鳴らす癖があったそうです。(ウツボ)そうなんだ。ミッドウェー作戦の打ち合わせに上京するとき、「あんなもの赤ん坊の手をひねるのと同じ」大丈夫、鎧袖一触(がいしゅういっしょく)任せておいてくれと、上手に指をはじいて見せたというんだ。(カモメ)かなりの自信家ですよね。源田実は戦後航空自衛隊に入隊し空将にまで昇進し第三代の航空幕僚長になっていますね。(ウツボ)空将になっても自分でジェット戦闘機を操縦していたとか逸話も多い人だ。(カモメ)そのあとは参議院議員ですね。議員仲間からは閣下と呼ばれていた。(ウツボ)話を戻そう。珊瑚海海戦の後、第四艦隊幕僚の顔ぶれが大分変わった。(カモメ)そうですね。機関参謀井上武治少佐のあと山上実少佐が着任しました。山下少佐は東京を発つとき、上司、同僚から四艦隊の悪口をさんざん吹き込まれた。(ウツボ)そうだね。「貴様、とんでもない長官のところへ行くことになったな」そういって同情してくれるクラスメイトもあった。(カモメ)しかし実際に接してみると、井上中将の感じは噂と違っていた。矢野志加三参謀長はじめスタッフの雰囲気も、激戦を指導してきたあととは思えぬ落ち着いたものであったと記されています。(ウツボ)それで山下少佐は不思議に感じ、「東京でずいぶん評判が悪いが」と、離任する一期先輩の井上武治少佐に見解を質したのだね。(カモメ)そうですね。すると井上少佐は次のように答えたのですね。「そりゃ、実情を知らない人の批判だ。司令部の頭には常に燃料の問題がこびりついている上、機動戦はサッと行ってサッと引き揚げるもの。欲を出して同じことを二度やっちゃいかんというのが長官のお考えだから、あのような経過をたどるのも止むを得ないと思う」と。(ウツボ)井上少佐の答えを続けて読んでみる。「それに五航戦の北上にしてもどっちが先に決断したか分からない。自分が命令を出したと責任をすべて引っかぶって知らん顔をしておられる節があるし、井上さんが部下に冷たいなどと言うのも、事実と全然違う。人によってはあんな思いやりの深い長官はいないと言ってるよ。下の者の機嫌取りをされないだけのことじゃないだろうか」ときっぱり言ったのだね。(カモメ)四艦隊で直に井上中将と接した参謀の言だから重みがありますね。(ウツボ)それもあるでしょうが、やはり四艦隊には四艦隊の言い分がある訳だね。しかし井上長官という人は言い訳を一切しない人だから、部下が代弁した。(カモメ)「あの戦争~太平洋戦争全記録上」(産経新聞社編・集英社)によると、珊瑚海海戦について大本営は5月8日、「空母サラトガ、ヨークタウン、戦艦カリフォルニアを轟撃沈、英戦艦一、重巡一大破」とかなりオーバーな戦果を発表しました。(ウツボ)まさに大本営発表だね。空母は実際はサラトガの同型艦「レキシトン」だったけどね。(カモメ)珊瑚海海戦の空母についての結果は、米側、空母レキシントン沈没、ヨークタウン大破。日本側は小型空母祥鳳沈没、翔鶴大破でしたね。(ウツボ)この史上初の空母対空母決戦は、戦術的には日本の勝利であると世界の戦史家は評価している。だがこの戦いにより日本側はポートモレスビー攻略(MO攻略作戦)を断念、やがて、米軍のガダルカナルへの反撃につながっていったことから、戦略的には米軍の成功であると評されている。(カモメ)そうですね。なお、「図解雑学太平洋戦争」(ナツメ社)によると、珊瑚海海戦における日本軍の損害は、撃沈が空母祥鳳、中破が空母翔鶴、損失航空機が約100機、戦死約900名と記されています。(ウツボ)そうだね。一方米軍の損害は、撃沈が空母レキシントン、駆逐艦(シムス)1隻、タンカー(ネオショー)1隻、中破が空母ヨークタウン、損失航空機が約70機、戦死約540名と記されている。(カモメ)結果は、艦船は米軍が日本側より多く沈みましたが、損失航空機と戦死者は日本側の方が多かった訳ですね。(「珊瑚海海戦」は今回で終わりです。次回からは「永田軍務局長惨殺」が始まります。)
2007.12.14
(ウツボ)瀬戸内海柱島にいた大和の連合艦隊司令部は、原少将の「ワレ北上ス」の電報は受信できなかったが、井上長官のこの電報は受信した。(カモメ)そのため、井上長官が独断で独断で追撃を中止したとものと判断したのですね。(ウツボ)敵の空母が二隻ともやられ、敵艦載機の脅威もなくなったのに、その時点でなぜ追撃を中止したか不可解であった。(カモメ)そこで連合艦隊司令部は第四艦隊あてに「事情を報告せよ」と打電しました。(ウツボ)ところが、しばらくして、その報告の代わりに「ポートモレスビー攻略を無期延期する」という、ますます不可解な電報が届いたんだ。(カモメ)それを見た連合艦隊司令部の幕僚たちは、井上長官は空母祥鳳一隻の沈没だけで、戦意を失い、敗退思想に陥ったと、怒り狂ったと述べられています。(ウツボ)連合艦隊の宇垣参謀長は山本五十六長官の承認を得て、「コノ際極力残敵の殲滅に努ムベシ」の電令を発した。(カモメ)井上長官はこの命令に従い、重巡妙高・羽黒中心の五戦隊と五航戦に追撃を指令しました。しかし、米国艦隊はどこにも見当たらなかったのですね。(ウツボ)そのようなことから、第四艦隊司令長官井上中将にたいして、山本連合艦隊司令長官をはじめ幕僚、永野総長はじめ軍令部員多数、海軍省職員多数がぼろくそに批判したんだ。(カモメ)「井上成美」(新潮文庫)によると、宇垣纏参謀長の日誌に「第四艦隊は祥鳳一隻の損失により全く敗戦思想に陥れり」(戦藻録)と記しています。大和作戦室の電報綴りには「またも負けたか四艦隊」「頭がよすぎて戦が下手だ」「口ばかりの腰抜け」「バカヤロー」などの悪口が幾つも書き込まれていた。(ウツボ)噂が伝わり、江田島の海軍兵学校の生徒の間ですら「またも負けたか四艦隊」ちう言葉が、一種の節をつけて囁かれるようになった。(カモメ)当時の嶋田海軍大臣などは将官人物評のメモに「ウエーキ、珊瑚海、戦機見る眼なし。次官の望みなし。徳望なし。航本の実績上がらず。兵学校長、鎮長官か。大将はダメ」と酷評を書き残していますね。(ウツボ)みんなが頭にきていたらしいね。井上を引き立ててきた山本五十六でさえ、5月24日付けの親友堀悌吉への手紙で「井上はあまり戦はうまくない」と書いている位だから。(カモメ)後に岡田啓介大将が井上を海軍大臣に推薦したところ、伏見宮が「珊瑚海での井上は」と反対したという記録があります。(ウツボ)天皇も嶋田に「井上は学者だから、戦はあまりうまくない」というお言葉があったというんだ。(カモメ)井上中将も当時はまさに四面楚歌だったのですね。(ウツボ)しかし、これらの批判は、すべて表面的な現象だけを見てのもので、的確とは言えるものではなかったと言われている。(カモメ)土肥参謀は「井上さんは原忠一五航戦司令官の性格をよく知っていて、私が追撃命令書を提出したときは、原さんはもう北上を始めていると見ていたと思う」と述べていますね。(ウツボ)井上中将は説明も弁解もしなかった。ただ、珊瑚海海戦大捷の記事が新聞に出た後、自分の作戦覚書の中に「要スルニ本海戦ハ、将軍ハ失敗シ、兵ガ勝チタルモノナリ。将ノ失策ニ因リ部下ニ苦闘ヲ課シタルナリ。(中略)主将トシテ全ク祝勝気分ニナレズ」と数行記していたという。(カモメ)米軍は空母を中心にして、各艦が連携して空母を守るような輪形陣になっていたが、日本側は各艦の連携がほとんどとれていなかった。(ウツボ)そうだね。そのため日本の空母は自艦の対空砲と護衛戦闘機で防御するしかなかった。(カモメ)その護衛戦闘機も敵機が来襲した後に発進させたり、上空待機していた戦闘機が敵機を見落としたりした。(ウツボ)そうなんだ。現実は。だが帝国海軍はこの教訓を真剣に解決しようとはしなかったのだね。だからそのツケをミッドウェー海戦で払うことになるんだね。
2007.12.07
(カモメ)この時、翔鶴を護衛する日本の戦闘機は、翔鶴直衛隊と瑞鶴から飛び立った瑞鶴直衛隊が共に立ち向かいましたね。(ウツボ)そうですね。デバステーター雷撃機は旧式であったため、ほとんどがゼロ戦の餌食となった。そのため翔鶴に一発の命中魚雷を得ることができなかったんだ。(カモメ)しかし、その中に一機だけゼロ戦の網をかいくぐって翔鶴の左舷から肉薄するデバステーターがいました。旋廻を終わって射点につきつつ、その機首は正しく翔鶴の艦首前方五〇メートルに向いていました。(ウツボ)それはまさに好射点だった。翔鶴もやっと舵を戻したところなので、このままでは交わし切れない。一番近くにいたのは翔鶴の宮沢武男二飛曹の機だった。(カモメ)そうですね。宮沢は急いで高度をとりその雷撃機に二〇ミリ砲を発射し続けたが、あわてていて当たらない。ついに二〇ミリ弾が切れた。(ウツボ)再度上昇して七・七ミリに切り換えてこの雷撃機を撃墜する余裕があるかどうかだったんだね。恐らく間に合わない。(カモメ)それで次の瞬間、宮沢のゼロ戦はこのデバステーターに体当たりを敢行したのですね。魚雷を抱いたデバステーターにゼロ戦が激突し、もつれるように海面に大きなしぶきを上げた。(ウツボ)城島艦長も双眼鏡でこの体当たりを認め、深く感動して、後に乗組員全員にその功績を伝えた。(カモメ)「完本太平洋戦争(一)」(文藝文庫)に江間保大尉が「「九九艦爆戦記~珊瑚海海戦」と題して寄稿しています。(ウツボ)それによると、5月8日、レキシトンとヨークタウンを攻撃して江間機が敵空母から離れていると、前方から敵の艦上偵察兼爆撃機が一機近づいてきた。(カモメ)敵はただの一機でしかも戦闘機ではなかったので気は楽だった。そこで艦爆同士の一騎打ちが行われました。(ウツボ)巴戦となり、江間大尉は敵の顔の見えるところまで近づいていって、一撃を加えると、さっさと避退した。(カモメ)艦爆の目的は果たしていますからね。そのまま敵と反航になったまま、集合地点に向かった訳ですね。(ウツボ)そう。集合地点に行き、戦闘機や艦攻などと編隊を組んで帰っていると、今度は敵の戦闘機や艦爆などの攻撃隊が、やはり攻撃を終えて帰ってくるのにばったり出会った。(カモメ)戦闘機同士はそこでまた、空戦を始めました。しかし、江間大尉たち艦爆はその場を離脱しましたね。(ウツボ)艦爆はまともに敵戦闘機と空中戦を行なうと不利だからね。不利な戦いは無理してしない。(カモメ)この時点で米軍の空母二隻のうち、一隻は撃沈、もう一隻も中破の状態でした。(ウツボ)だから日本側は翔鶴が無傷だったのでさらに第二次攻撃隊を出して追撃すれば、残りのヨークタウンや護衛の戦艦、巡洋艦などを撃沈できた可能性があった訳だ。ところが、MO部隊五航戦は攻撃を中止したんだね。(カモメ)これについて「凡将山本五十六」(徳間書店)によると、珊瑚海海戦の総指揮官、第四艦隊司令長官・井上成美中将は、味方の攻撃機が敵空母二隻を撃沈したという報告を半信半疑で聴き、次の手を考えていた、と記されています。(ウツボ)作戦参謀兼務の航海参謀土肥一夫少佐は「総追撃」の命令書を作成し、先任参謀の川井巌大佐、参謀長の矢野志加三大佐のサインをもらって、井上司令長官に提出したんだ。(カモメ)そうですね。すると井上長官は左手の人差し指で命令書をたたきながら、「間に合うかい」と言った。土肥少佐は、井上長官がなぜそういうのか不審に思ったが、自信があったので「間に合います」と答えたということです。(ウツボ)井上長官は土肥少佐の顔を注視していたが「そうか」と言って自分もサインをした。ところが五分後に、「第五航空戦隊司令官より、ワレ北上ス」という暗号電報が届いた。(カモメ)それは、原忠一少将から南方にいる米国機動部隊の残存部隊から離れるという電報だったのです。(ウツボ)その時井上長官が「攻撃を止め中止せよ」と言った。まるで井上長官は全て分かっていたようであった。(カモメ)ただちに作戦中止電報が発信されました。
2007.11.30
(カモメ)やがて萩原機から「ワレ探照灯を認む」と発信がありました。だが燃料が切れたのか「ワレ海面に着水セントス」「海面を照射サレタシ」と打電してきました。(ウツボ)そう。そこで艦長の城島高次少将は海面を照射させた。だが、萩原機を発見することはできなかったんだ。夜なので海面の着水に失敗し、激突したものと思われ、そのまま消息は不明となった。(カモメ)日米両軍とも錯誤の連続のうちに5月7日は暮れて、やがて8日の朝がやって来たのですね。海空戦史に残る決戦の日です。(ウツボ)午前六時二十分、原少将は七機の艦攻を索敵機として南西方向に向かわせた。(カモメ)フレッチャー少将もやや遅れて十八機を索敵に発進させました。(ウツボ)午後八時二十四分、索敵の菅野兼道飛曹長機が「ワレ、敵空母を発見。地点西南二三五マイル、敵は空母二、戦艦二、大巡二、駆逐艦六」と打電してきた。(カモメ)瑞鶴、翔鶴から六十九機の戦闘機、艦攻機、艦爆機が発艦しました。(ウツボ)同じ頃米空母レキシントンの索敵機も北方の日本空母二隻を発見、第十七機動部隊のレキシントン、ヨークタウンから七十三機が発艦した。(カモメ)海戦史上初の空母対空母の決戦の火蓋が切って落とされた訳です。(ウツボ)午前十一時五分、日本の攻撃隊はレキシントン、ヨークタウンの二隻の空母を発見、十一時十分、高橋少佐は「ト連送」(全軍突撃せよ)を打電した。(カモメ)レキシントンは排水量三万三千トンで当時サラトガと並んで世界一の空母でしたね。(ウツボ)そうだね。そのレキシントンの左舷に二本の魚雷が命中、続いて二五〇キロ爆弾二発が命中した。レキシントンは左に傾斜し、午後二時十分大爆発を起こして沈没した。(カモメ)そのときのことをレキシトンのシャーマン艦長は回想録「Combat Command」に次のように書き残しています。(ウツボ)読んでみよう。「それは見事な協同攻撃であった。私はブリッジで日本の爆撃機がありとあらゆる方向から急降下で襲いかかって来るのを見た。そして雷撃機が両舷艦首からほぼ同時にやって来た」。(カモメ)この攻撃で日本の雷撃機一機は魚雷投下寸前に撃墜されましたが、目前であったため、海面を目指す魚雷に装備されている浅深度雷撃用の木製安定ヒレがシャーマン艦長の双眼鏡に映ったのです。(ウツボ)その時シャーマン艦長は「これが水深十メートルの真珠湾で、ウエストバージニアなどを沈めた仕掛けか。これがあれば高速力近距離で高いところから発射しても、魚雷が深くもぐって艦底を通過するようなことは避けられるわけだ」と日本海軍に学ぶことが多いことを実物で知ったと記している。(カモメ)ところで、ヨークタウンは魚雷命中はなかったのです。だが、爆弾二発が命中し火災を生じました。ヨークタウンは真珠湾に帰還、修理を行いましたね。(ウツボ)日本側は、瑞鶴はスコールの下に入ったため攻撃を免れ無傷だったんだ。瑞鶴はその名のとおり、その後も実に運の良かった空母で、大型空母六隻のうちで一番長生きをした。(カモメ)一方、翔鶴は魚雷は全て回避しましたが、爆弾三発を受けて着艦不能になりました。けれども翔鶴は致命的な打撃は受けず、自力で航行できました。(ウツボ)翔鶴艦長城島少将は後に米軍の攻撃を「実に拙劣な雷撃であった」と回想している。米軍の艦長は日本の攻撃をほめていたのだがね。(カモメ)魚雷攻撃を行ったのはデバステーター雷撃機九機でしたが、デバステーターが旧式だったため、魚雷攻撃は失敗に終ったんですね。(ウツボ)デバステーターの攻撃についてはあとで話そう。爆弾三発を翔鶴に命中させたのはヨークタウンから飛び立ったドーントレス爆撃機二十四機だった。
2007.11.23
(ウツボ)同じ頃、高橋少佐機は翔鶴のつもりで空母レキシントンに接近していた。空母の艦橋ではシャーマン艦長が直接収容機の指揮をとっていたんだ。(カモメ)すでに半数を収容したところにグラマン戦闘機より少し大きめで型が違う機が接近しつつあったのですね。米側にとっては、おかしなことだったのですね。(ウツボ)そう、さらにレキシントンの見張り員が「あの機はあやしい。翼端に違う灯火をつけている」と報告した。日本の艦載機は着艦時に右翼端に緑、左翼端に赤の航空灯を着けるように決められているんだ。それを知っていた。(カモメ)そこでシャーマン艦長は砲撃を命じましたね。同時に高橋機もこの艦が翔鶴ではないと気付き、機を反転させた訳です。(ウツボ)高橋少佐が怪しいと感じたのは空母の着艦灯が着いていなかったからだ。日本の空母にパイロットが着艦するときには昼でも夜でも空母の左舷に出ている着艦灯を目安にして自分のパスを修正する方法をとっている。(カモメ)そうですね。ところがアメリカの空母は当時この着艦灯を装備していなかった。ベテランの整備員が艦尾左舷の台の上に立って昼は赤と白の手旗、夜は懐中電灯により「高い、高度を下げよ」「低い。高度を上げよ」などの合図を発し、正しいパスにのせる訳です。(ウツボ)だから整備員のカンが狂っていたら大変なんだ。だから米空母では出港したら帰港するまで艦内ではアルコール厳禁にしていた。(カモメ)日本の空母の着艦灯のメカニズムは確実であったから、パイロットは安心して着艦できましたね。(ウツボ)そう確実だね。だがアメリカはこの着艦灯方式を戦争終了まで知らなかった。日本のほうが進んでいたんだ。(カモメ)日米双方同時に錯覚に気がついた。高橋隊はあわてて敵空母レキシトン上空を飛びぬけたということです。(ウツボ)同じ頃空母ヨークタウンの艦橋ではフレッチャー提督が異様に数の多い飛行機が着艦を求めて接近してくるのに頭をかしげていたんだ。かれはバックマスター艦長に聞いた「本艦の直衛機はあんなに数が多かったかね」と。(カモメ)そのとき見張り員が叫んだのですね。「接近してくる機はグラマン機にあらず、二座の艦爆なり」と。これはいかん、艦長は直ちに機銃指揮官に射撃を命じました。(ウツボ)一方江間大尉の方も編隊のまま空母に近寄ったところ側方に大きな艦が見えた。重巡の向こうに戦艦が走っている。しかも籠マストである。(カモメ)「いかん、籠マストはアメリカの、しかも戦艦だ!」と思ったそうです。「日本側には戦艦は来ていないぞ」。江間大尉の背中を冷たいものが走り、全身がカーと熱くなったということです。(ウツボ)江間大尉はすぐに反転して高度をとったが、二番機の稲垣富士夫一飛曹の機が撃墜された。江間大尉は風防をあけて「稲垣、しっかりしろ」と声に出したんだ。(カモメ)艦爆隊は空母を攻撃しようにも、二五〇キロ爆弾をすべて捨てており、攻撃は出来なかったのですね。それから一時間後の午後八時、艦爆隊はやっと日本の航空母艦にたどり着いた。(ウツボ)高橋少佐はすぐ艦橋に上がり、「敵は近いです。すぐそこにいます」と報告した。だが、艦長も原司令官もこの日の攻撃はあきらめたんだ。(カモメ)攻撃隊長の嶋崎少佐は操縦桿が故障し、不時着水し、駆逐艦に収容されたのです。(ウツボ)また翔鶴艦攻分隊長、萩原務大尉(63期)は偵察員で後部座席に乗っていたが、敵空母の近くでグラマンの急襲を受け被弾した。(カモメ)機がふらつくのを見て操縦の高橋弘一飛曹に「どうした高橋」と怒鳴ったが返事がなかったんです。(ウツボ)パイロットが返事をしないのでは、そぞかし、冷や汗が出たことだろうね。パイロットがだめなら、このままでは機は錐揉みに入って海中に突っ込んでしまうのだから。(カモメ)萩原大尉は偵察席を出て機の胴体の上を這って操縦席の後ろに出たのです。するとパイロットの高橋兵曹は血を吐いて絶命していたのですね。「許せよ高橋」萩原大尉は謝りながら高橋の体を抱き上げると機外に投げ出したということです。(ウツボ)操縦桿を握った萩原大尉は後ろの電信員に「操縦員戦死、萩原大尉操縦す」と打電させた。(カモメ)艦攻は三人乗っていましたからね。(ウツボ)萩原大尉は偵察員でパイロットではないが飛行学生のとき七ヶ月前後操縦訓練を受けて、その後操縦、偵察に分かれるので操縦も一通りできる訳だ。しかし何年も操縦はやっていなかった。(カモメ)だが萩原大尉は立派に操縦して空母の近くまで戻ってきました。翔鶴では探照灯を照射して、萩原機が空母の位置が分かりやすいようにしたのです。
2007.11.16
(ウツボ)当時若い新米士官であった著者の豊田氏はその時はKの話を信用したというんだ。(カモメ)だけど、だいたい彼はほらふきで、どこの花柳界の芸者も全部自分のインチ(馴染み女)であるような話し方をする人であったということです。(ウツボ)だが、著者は実戦の経験談だけは信用してよいと考えていたんだ。しかし、戦後、何人かの人の話を聞くとそれすら怪しくなってきたという。(カモメ)今回、拳銃暴発事件の真相は明らかになりました。しかし豊田氏は、Kのことを悪く言う気がないと述べています。繰り返される殺戮と破壊の中で、恐怖を感じ異常になる人がいても不思議ではないと。(ウツボ)さらに、鉄と血の嵐に歪められてゆく方が、ヒューマニスティックな神経のあり方なのかも知れない、とさえ記しているね。(カモメ)戦場で異常になることもあると、言っている訳ですね。(ウツボ)逆に言えば、正常な精神を保つのは難しいということだね。だから、ぷつんと切れてしまう人も出てくる。さて戦況の話に戻りましょうか。(カモメ)そうですね。MO攻略部隊は米空母部隊の位置を発見しましたね。(ウツボ)だが、それはMO機動部隊の二隻の空母から飛び立った攻撃隊が向かった位置とは大きく離れていたんだね。(カモメ)この時点でMO機動部隊の司令部では米機動部隊は二手に分かれているものと判断していたんですね。(ウツボ)そう。一方、米軍の方も、索索敵機の「空母二隻発見」の報に、5月7日午前九時半、九十三機より成る攻撃隊を発進させ、北西に向かわせたんだ。(カモメ)そして午後十一時十分、米攻撃隊は日本軍の艦船部隊を発見しました。だが、それはMO機動部隊ではなく、MO攻略部隊の主力だった訳です。(ウツボ)米軍も誤認をした。その中には、一万トンの小型空母「翔鳳」がいたんだね。不運なこの空母は魚雷七本、爆弾十三発を受けて、十一時三十五分沈没した。(カモメ)そのとき米軍の被害はたった四機でした。この「翔鳳」は日本で初めて撃沈された空母となりました。(ウツボ)そうだね。それで、第四艦隊司令長官・井上中将はMO攻略部隊が敵に発見されたと考え、北上退避を命じたんだ。(カモメ)珊瑚海海戦の緒戦は、日米お互いに、索敵機の誤報による錯誤の攻撃の応酬だった訳ですね。(ウツボ)結局、午後零時半、日本軍の攻撃隊は母艦上空に帰投し、艦攻は魚雷を捨てて着艦した。別のところにいた敵空母主力を発見できなかったのだ。(カモメ)しかし、この時、米空母主力の位置は判明していたので、第五航空戦隊司令官・原忠一少将は今度こそ痛撃を与えようと考えた訳です。(ウツボ)うん。しかし魚雷、爆弾を積み替えると、敵上空に達するのは夕刻になる。だが、原少将は重野航空参謀と協議して夕刻の薄暮攻撃を決心した。(カモメ)第五航空戦隊は編成が新しく、パイロットの練度が上達していないので、帰艦が夜になると、着艦が心配だったのです。(ウツボ)だが、原忠一少将はこの日のうちに決着をつけたかったんだ。(カモメ)そうですね。それで空母瑞鶴と翔鶴からそれぞれ艦攻九機、艦爆六機の合計三十機が午後四時過ぎ飛び立ちました。指揮官は今度も嶋崎重和少佐でした。(ウツボ)ところが、この時、米軍のフレッチャー少将はまだ日本の第五航空戦隊の位置をつかんでいなかったんだ。(カモメ)嶋崎少佐の攻撃隊は西へ進みまし。だが航空母艦を発見する前に米軍のグラマン戦闘機隊にとらえられたのですね。(ウツボ)空母には必ず護衛の戦闘機が上空を飛び回って警戒している。(カモメ)艦攻隊は重い魚雷を搭載しているので動きがにぶいのですね。たった十五分の間に合計八機の艦攻が撃墜されたということです。(ウツボ)艦攻は800キロの魚雷を装備しているので、敵のグラマン戦闘機に襲われたら、格好の標的となるんだね。魚雷を落とせば任務が達成できないから落とすに落とされない。(カモメ)艦攻は機銃も7.7ミリ機銃を一丁だけしか装備していませんから、空戦も不利ですね。 (ウツボ)逃げるだけだよ。空戦はしない。そこで残りの艦攻隊は攻撃をあきらめ、艦爆隊と別れ帰途についたんだ。(カモメ)米軍はレーダーで攻撃隊の来襲を察知していたのですね。(ウツボ)日本軍は夜襲で成功すると思っていた。だが、レーダーで米軍の空母は探知していたんだ。ただ当時のレーダーは初歩的なもので察知した攻撃機の高度や距離までは出すことはできなかったらしい。(カモメ)一方、高橋赫一少佐(翔鶴)と江間保大尉(瑞鶴)の率いる艦爆隊十二機は、さらに敵空母を探し求めていたが、午後六時過ぎ、敵戦闘機の攻撃を受けたので、爆弾を捨てて空戦に移りました。(ウツボ)空戦が終わり、高橋少佐は列機をまとめて帰路についた。(カモメ)そして午後七時ころ、彼は薄闇の中に二隻の空母を発見した。(ウツボ)高橋少佐は「ほう、五航戦の空母二隻が迎えに来てくれたのかな」と思ったという。(カモメ)ここのところは「空母瑞鶴の生涯」(集英社)に詳しく出ています。高橋機は半信半疑のうちに空母の上空に近づきオルジス信号灯で「着艦ヨロシキヤ?」の発光信号を送ったのですね。(ウツボ)そうだね。すると、ポカポカと空母の艦橋から応答の信号があった。それが、・-・(了解)のように見えたというんだ。
2007.11.09
(ウツボ)珊瑚海海戦に参加した空母レキシトン(36000トン)は当時世界七大空母の一隻だった。そのほかは赤城(日)、加賀(日)、フューリアス(英)、カレジアス(英)、グローリアス(英)、サラトガ(米)だったね。(カモメ)米海軍では当時、サラトガと並んで最大の空母でしたね。(ウツボ)それに比べて、ヨークタウン(19900トン)は米海軍最初の実用型艦隊空母でしたね。だが搭載機は80~90機とレキシトン型大型空母に匹敵しているんだ。(カモメ)「連合艦隊空母」(廣済堂出版)によると、日米両軍ともほぼ互角の戦力で珊瑚海へ向かった訳ですね。昭和17年5月6日、日米両軍の機動部隊は共に南北から珊瑚海に進入していったのですね。(ウツボ)しかも互いに二八〇キロの近距離に位置していたのに、両軍とも全く気がつかなかったんだ。(カモメ)「戦艦大和と艦隊戦史」(新人物往来社)によると、昭和17年5月7日午前五時三十二分、日本のMO機動部隊空母翔鶴から発進していた索敵機から「米空母一隻、駆逐艦三隻発見」と通報が入ったと記されています。(ウツボ)通報を受けて、直ちに第五航空戦隊では、空母瑞鶴と翔鶴からゼロ戦十八機、艦爆三十六機、艦攻二十四機の合計七十八機の攻撃隊が飛び立った。(カモメ)指揮官は艦攻隊の隊長、嶋崎重和少佐(瑞鶴)でした。(ウツボ)午前七時過ぎに空母瑞鶴と翔鶴から飛び立った攻撃隊は目的の敵艦上空に来た。ところが、敵艦は空母ではなく、給油艦ネオショーとその護衛に当たっていた駆逐艦シムスだったんだ。(カモメ)索敵機が給油艦を空母と見間違えたのですね。でも、プロの索敵パイロットが見間違えることもあるのですね。(ウツボ)そうだね。なぜ見違えるかというと、索敵機も必死なんだ。空母がいれば、当然警戒の戦闘機が三~五機は周囲を飛び回っている。それを気にしながら識別をするのだが、近くによると危険性が高くなる。それで遠くからやるから間違いが出てくるんだ。(カモメ)やはり戦闘機が怖いわけですね。結局、空母ではないと知った攻撃隊は艦爆三十六機でこの二艦を襲撃することにしました。(ウツボ)そう。敵を見逃すわけにはいかない。正午過ぎに駆逐艦シムスを撃沈したんだ。次に給油艦ネオショーを攻撃、爆弾を命中させた。だが、なかなかネオショーは沈まないんだね。爆弾が突き抜けて、爆発しない。だから火災が起きない。(カモメ)火災が起きれば、タンカーですから致命傷ですからね。(ウツボ)ところが、この時、瑞鶴から飛び立った艦爆の石塚重男二飛曹機は被弾して火災を起こした。石塚重男二飛曹は生還が難しいと思ったとたんに、ネオショーに体当たりしたんだ。それでネオショーが爆発、炎上しやっと沈没した。(カモメ)特攻隊のさきがけですね。ところで、「空母瑞鶴の生涯」(集英社)によると、このネオショー攻撃の直前、隊長の嶋崎重和少佐が操縦していると、突然後部座席の偵察員のKが突然弾に当たって激痛があり、出血が激しいので早急に引き返してくれと訴えてきたとあります。(ウツボ)このとき嶋崎少佐の率いる艦攻隊は雷撃を行わなかったんだ。攻撃は艦爆隊だけが行った。(カモメ)艦爆は二人乗りの九九式艦上爆撃機のことで、250キロ爆弾を装着して急降下爆撃をしますね。九四式、九六式艦爆もありますね。(ウツボ)九四式、九六式艦爆は複葉機で、満州事変位まで活躍したが、時代遅れになり、太平洋戦争では単葉・低翼の九九式艦爆が活躍した。脚は引き込み脚ではなく固定脚だった。九九式艦爆の後継機は彗星で、昭和18年後半のソロモン海戦から実戦に投入されている。(カモメ)艦攻は三人乗りの九七式艦上攻撃機のことで、800キロ魚雷を装着して敵艦船に雷撃を行う攻撃機のことですね。九六式艦攻も有りますね。(ウツボ)九六式艦攻は複葉機であまり活躍していない。生産機数も200機のみだ。一年後に開発された九七式艦攻が太平洋戦争で活躍したんだね。(カモメ)ところで、嶋崎隊長機の偵察員のKの話に戻りましょうか。(ウツボ)そうだね。江間大尉の艦爆隊が急降下に入ってネオショーへの攻撃を行っていたのだが、艦攻でも、嶋崎機は現場に踏みとどまっている必要があったんだね。総指揮官だったから。その時Kが被弾したと言った。(カモメ)やがて空母瑞鶴に帰還した嶋崎隊長が軍医長を呼んで、偵察員のKを医務室に連れて行き、左の大腿に入っている弾を抜き出してもらったんです。(ウツボ)そうだね。すると、抜き出した弾は、米軍が使う7.7ミリや13ミリの大きな弾ではなく、日本の14式拳銃の6ミリ弾だった。(カモメ)一方、嶋崎隊長の機体を調べた整備員から、「どこにも被弾のあとがない」との報告が入ったのです。(ウツボ)結局、この事件は偵察員Kの拳銃暴発事件として処理された。だが、拳銃は戦闘中でも、めったに暴発はしない。人為的だね。(カモメ)Kは真珠湾攻撃にも、インド洋作戦にも参加しています。なぜ敵の上空で拳銃を暴発させたのでしょうか。(ウツボ)自分の脚を撃てば戦場から引き返すことができると考えたのだろうかね。また、内地に帰れると思ったのかもしれない。(カモメ)「空母瑞鶴の生涯」(集英社)の著者、豊田穣によると、艦爆パイロットであった著者は、珊瑚海海戦から二ヵ月後の昭和17年7月、宮崎県富高の第一航空基地で着艦訓練を行っていた。(ウツボ)豊田穣氏は海軍兵学校出身の艦爆のパイロットだったが、昭和18年4月、イ号作戦中、ソロモン方面上空で戦闘中撃墜され、アメリカ軍の捕虜になった人だ。戦後は新聞記者等を経て戦記作家になった。(カモメ)「長良川」で第64回直木賞を受けていますね。平成6年に74歳で亡くなりましたね。(ウツボ)その当時、豊田氏のいる第一航空基地に着任してきたKが珊瑚海海戦の手柄話をした。それはレキシトンとヨークタウンをいかにして沈めたかという武勲談だった。(カモメ)ところが5月7日午前の攻撃で拳銃暴発で重症を負ったKが8日の攻撃に行ける訳がないのですね。(ウツボ)そうだね。当日の搭乗員名簿にも彼の名前はなかった。(カモメ)そのときKは、8日の空母攻撃で魚雷を命中させて避退する途中脚に被弾した話をしたと記されていますね。(ウツボ)そのKの話を読んでみよう。「血がブーツ(飛行靴)にたまりやがってな、どぶどぶと音がする位だったよ。しかし、おれは心配する操縦員の兵曹(ここでは兵曹になっていた)に、なあにこれ位大丈夫だ、着艦まで死にはせんぞ、と言って安心させてやったんだ。着艦したときには、出血多量で意識不明になっていたがな」。
2007.11.02
(ウツボ)珊瑚海海戦に参加した日本帝国海軍の空母翔鶴と瑞鶴について、どんな空母であったのか話しておこう。(カモメ)ええ、「連合艦隊空母」(廣済堂出版)によると、昭和11年12月末をもって、列強海軍を拘束していた軍縮条約が失効することになったのですね。(ウツボ)だから、それを見越して、日本海軍は、この年の6月、来年度から行われる第三期建造計画の大綱を立案したんだね。(カモメ)その大綱は、この建造計画は戦艦大和、武蔵をはじめとして、空母翔鶴、瑞鶴、など艦艇七十隻、総計三十二万トンを昭和12年から16年までに建造しようと言う大規模なものでした。(ウツボ)予算は八億六五〇万円という当時としては莫大なものであった。これは対米戦を意図して立案されたんだ。(カモメ)ところが、米国でも対日独戦を予想して第一次ヴィビンソン案が議会を通過していた訳です。(ウツボ)それは戦艦四隻、空母一、重巡一を含む百二十三隻、総計四十二万四千三百トンだった。この時点でトン数において日本を上回っていた。(カモメ)さらに、昭和13年には第二次ヴィンソン案が提出され、戦艦三、空母二、軽巡九など総計三十九万九千トンの建造が認められていた。(ウツボ)この時点だけでも、日本の二倍以上の建造を計画していた訳だ。こうして日本と米国は条約失効とともに活発な建艦活動を開始し、両国はますます緊張の度合いを強めていった訳だね。(カモメ)この日本の建造計画で、一号艦は大和、二号艦は武蔵、三号艦が空母翔鶴、四号艦が空母瑞鶴でしたね。(ウツボ)空母について述べると、日本海軍の新空母二隻は建造技術の粋を集め、とりわけ「蒼龍」「飛龍」の大成功から、「飛龍」の拡大改良型の大型空母とすることに決まった。(カモメ)それが珊瑚海海戦に参加した、翔鶴、瑞鶴ということですね。この二隻は「翔鶴型」と呼ばれましたね。(ウツボ)そうだね。翔鶴は昭和12年12月12日、横須賀工廠で起工され、瑞鶴は13年5月25日、神戸川崎重工業起工式をあげた。(カモメ)翔鶴は昭和16年8月8日に完成。瑞鶴は16年9月25日に完成しました。(ウツボ)完成した翔鶴型は、基準排水量25675トンだが、戦備状態に満載すると32105トンになった。タービン四基を搭載し、出力は戦艦大和をしのぐ十六万馬力であった。速力は34.2ノットも出た。(カモメ)弾薬庫は水平爆撃で800キロ爆弾に耐えられ、罐室部の舷側は450キロの航空魚雷に耐えられるように特殊鋼板により五層の外板を張り巡らしたと記されています。(ウツボ)こうして完成した翔鶴型はトン数では空母赤城型(満載排水量約34000トン)より少し小さいが、日本海軍の中で最大の馬力を持つ軍艦となり、当時名実共に世界で最高の性能を誇る空母だった。(カモメ)その後、昭和17年12月に米国で完成した空母エセックスが現れるまで、翔鶴型を凌駕する空母は世界のどこにもなかったということですから、当時の日本の建造技術はすごかったのですね。(ウツボ)そうだね。米国も負けてはいない。エセックス型は「ヨークタウン型」の拡大改良型で、基準排水量27100トン~29950トン、満載排水量は36500トン~38500トンだ。(カモメ)米国はこの空母を1942年から1946年まで23隻を建造しましたね。(ウツボ)だから、23隻の空母が相手ではもう日本も太刀打ちできなかったんだね。しかし当時はその情報は日本海軍には分からない。だから戦争を継続した。(カモメ)23隻のうち、15隻が第二次世界大戦に参加しました。ダメイジコントロールが完備しており、日本の特攻機にしばしば襲撃され、大火災を起こしたが、ついに一隻も撃沈されることがなかった空母でした。(ウツボ)このエセックス型空母に匹敵する翔鶴型が日本ではただの二隻しか建造することができなかったところに、太平洋戦争を有利に展開することができなかった要因の一つであったと言われている。(カモメ)ところが、太平洋戦争が開始された昭和16年12月8日までに日本海軍が保有していた空母は、鳳翔、赤城、加賀、蒼龍、飛龍、翔鶴、瑞鶴など十隻でした。(ウツボ)そうだね。一方米国はラングレー、レキシントン、サラトガ、レインジャー、エンタープライズ、ホーネット、ワスプなど九隻だった。(カモメ)空母では、開戦時、日本帝国海軍は米国海軍より優位に立っていたのですね。(ウツボ)その情報は日本帝国海軍はつかんでいた。だから勝算はあると見ていた。そのあと米国が怒涛のごとく空母を建造するなんてまさに想定外だった。
2007.10.26
(ウツボ)昭和17年5月7日~8日に行われた珊瑚海海戦。それに到るまでに、連合軍と日本帝国海軍は、昭和16年12月8日の開戦以来8つの海戦を行っているね。(カモメ)そうですね。真珠湾攻撃(昭和16年12月8日)、マレー沖海戦(12月10日)、ウェーキー島攻略戦(12月11日)、ジャワ沖海戦(昭和17年2月4日)、バリ島沖海戦(2月19日)、スラバヤ沖海戦(2月27日)、バタビア沖海戦(3月1日)、セイロン島沖海戦(4月5日~9日)ですね。(ウツボ)開戦以来、これらの海戦は日本帝国海軍が一方的勝利で勝ち進んできた海戦だ。(カモメ)そうですね。これらの海戦で日本帝国海軍の失った艦船は、ウェーキー島攻略戦で駆逐艦「如月」と「疾風」の二隻だけです。(ウツボ)いかに一方的勝利かということだね。それに対して真珠湾攻撃を含めた8つの海戦で連合軍側は23隻の、戦艦、巡洋艦、駆逐艦を日本帝国海軍に撃沈されている。(カモメ)「米軍が記録したガダルカナルの戦い」(草思社)によると、空母対空母の初対決という世界の先史に残る珊瑚海海戦は昭和17年5月7日早朝から火蓋を切ったのですね。(ウツボ)うん。だが、その前に、なぜ珊瑚海海戦が行われたか、それに至る、当時の日本海軍と米軍の作戦状況を話しておこう。(カモメ)そうですね。日米開戦当初から短期決戦を企図していた山本五十六連合艦隊司令長官は、初期の第一弾作戦で真珠湾攻撃に続くマレー沖、インド洋の各海戦で勝利を収めたのですね。(ウツボ)そうだね。それで、第二段作戦でも攻勢を維持し、米機動部隊を壊滅に追い込もうと考えていたんだ。(カモメ)大本営は昭和17年4月、第二段作戦を決定しました。(ウツボ)その第二段作戦の一つがオーストラリア領ニューギニア南部の一大軍事基地ポートモレスビー攻略であり、もう一つは六月に予定しているミッドウェー島攻略作戦だった。(カモメ)ポートモレスビー攻略の意図はオーストラリアとアメリカを遮断して、オーストラリアを孤立させることにあった訳ですね。さらにポートモレスビーを占領し、そこを基点としてオーストラリア北部を攻撃する作戦を立案していたのですね。(ウツボ)それはね、そういう作戦上のことがあるのはもっともなんだが、現地の日本海軍のゼロ戦パイロットたちは、悲鳴を上げていたんだ。撃墜しても撃墜しても、ポートモレスビー基地から敵戦闘機が次から次に増強されてやって来る。米豪英の連合軍の航空機が次から次に補給されていたんだ。(カモメ)それで最初は陸軍が陸路からポートモレスビー作戦を立案、攻略に踏み切りましたが、さすがにスタンレー山脈は越えられない。(ウツボ)そうだね。「図解雑学太平洋戦争」(ナツメ社)によると、ポートモレスビーの北方には4000メートル級の山々が連なるスタンレー山脈がそびえており、陸路からの攻略は困難であったと記されている。(カモメ)それで海路から陸軍の攻略部隊を輸送して上陸作戦を行うことが決定された。(ウツボ)「昭和日本史4太平洋戦争前期」(暁教育図書)によると、ポートモレスビーを海路から攻略する作戦は「MO作戦」と呼ばれたんだ。(カモメ)連合艦隊司令部の作戦命令により、MO作戦の総指揮官である第四艦隊司令長官・井上成美中将は、六戦隊(重巡四)と空母祥鳳を中心に、水雷戦隊、上陸部隊を乗せた輸送船団をもって編成しました。(ウツボ)そう。これが「MO攻略部隊」と呼ばれた。指揮官は第六戦隊司令官・五藤存知少将だね。(カモメ)だが総指揮官である井上中将は航空兵力の整備が不十分であるため、より強力な空母を増強するよう軍令部に要請しましたね。(ウツボ)慎重で思慮深い井上中将は、先を読んでいた。(カモメ)そこで軍令部は第五戦隊の重巡妙高、羽黒、および駆逐艦二隻に加え、南雲部隊から真珠湾攻撃で活躍した空母翔鶴(25675トン)と瑞鶴(25675トン)を中心とする第五航空戦隊(原忠一少将指揮)と駆逐艦四隻を増派することにしました。(ウツボ)この部隊を「MO機動部隊」と呼んだ。指揮官は第五戦隊司令官・高木武雄中将だね。(カモメ)ポートモレスビー攻略作戦は「MO攻略部隊」と「MO機動部隊」の二つの部隊で実施されたのですね。(ウツボ)ところが、ハワイのパールハーバーにあった米海軍情報部は、暗号解読で日本軍の「ポートモレスビー作戦計画」を知っていたんだ。もうこの時点で暗号は解読されていた。それで情報部は米太平洋艦隊司令長官ニミッツ提督に情報を転送したんだよ。(カモメ)米艦隊司令部は情報を検討した結果、日本海軍は5月初めにポートモレスビー攻略を実施するであろうと読みました。(ウツボ)それで、その作戦を阻止するために迎撃準備に入ったんだ。それが4月17日だね。(カモメ)ニミッツ提督は回想記で「そのときすぐ使用できる空母はF・J・フレッチャー少将のヨークタウン(19900トン)とオーブリー・W・フィッチ少将の空母レキシントン(36000トン)部隊だけであった」と述べています。(ウツボ)そうだね。珊瑚海方面にすぐに回せる空母はその二隻だけだった。だけどレキシトンは当時世界最強の空母だったから、ニミッツ提督は勝算はあったんだ。だから、その空母二隻を中心に第十七機動部隊を編成して珊瑚海に送り込もうと即座に決心したといわれている。(カモメ)「戦艦大和と艦隊戦史」(新人物往来社)によると、米軍は第十七機動部隊を編成し、5月1日、珊瑚海南東海上に集結し、日本海軍のMO部隊を待ち受けました。(ウツボ)そう、待ち受けていたんだ。指揮官はヨークタウンのF・J・フレッチャー少将が任命されたんだ。(カモメ)その陣容は空母二隻、重巡七隻(内オーストラリア艦二隻)、軽巡一隻(オーストラリア艦)、駆逐艦十一隻(内オーストラリア艦二隻)、給油艦二隻でした。(ウツボ)緊急にかき集めた艦隊だったんだね。それほどポートモレスビーは航空基地として連合軍にとって、作戦に重要なポイントだった。
2007.10.19
(カモメ)今回から珊瑚海海戦ですね。戦争とは裏腹に、珊瑚海はオーストラリアの北に面したエメラルドグリーンの美しい海ですね。(ウツボ)エメラルドグリーン、まさに「青い珊瑚礁」だね。ブルック・シールズの映画を思い出すね。かなり古い映画ですが。(カモメ)俺には「青い珊瑚礁」と言えば松田聖子の曲ですね。この曲を聴くと思い出します。真夏の、虹ヶ浜を。(ウツボ)光市の虹ヶ浜だね。瀬戸内海でも有数の広く美しい海水浴場で、広島や大阪方面から夏には多数の観光客が押し寄せますね。松林やキャンプ場もあり、若い人には人気のリゾートだ。ところで、どうして「青い珊瑚礁」を聴くと思い出すの、虹ヶ浜を?(カモメ)いや、俺が今年の夏、虹ヶ浜に泳ぎに行ったとき、海の家から「青い珊瑚礁」の歌が流れていて。それでちょっとした思い出が。(ウツボ)何だね?話してみなさいよ。(カモメ)たいした話ではないですよ。それでもいいですか。(ウツボ)いいよ、いいよ、たいした話でなくても。俺、最近海に行っていないから。若い人の海の話、ぜひ聞かせてよ。(カモメ)虹ヶ浜で、泳ぎ疲れて、彼女と一緒に砂浜に並んで座っていたんです。そのとき海の家から松田聖子の「青い珊瑚礁」の歌が流れ出してきて、俺と彼女がお互い見つめ合って、ニコリと笑った。そういう話です。(ウツボ)見つめ合って、ニコリと笑った?俺、ごめんけど、今、このような席でのろけ話など聞きたくなくないから。(カモメ)何言ってるんですか、ぜひ聞かせてよと、今言ったばかりじゃないですか。続けます。彼女との、その前の晩の話から。(ウツボ)ちょっと待ってよ。その前の晩の話なんかは、なおさら聞きたくないよ。このコーナーにはふさわしくない。(カモメ)何を勘違いしておられるのです。ウツボ先生。彼女は、実は俺の友人、コノシロ君の奥さんなんですよ。(ウツボ)それなら、なおさら、話が良くないでしょうが。(カモメ)まあそう不機嫌にならずに聞いてくださいよ。俺、その前の晩に、コノシロ君の家に泊まったんです。二階から光の海が見える高台の家なので、時々行くんです。ところが、その夜、俺はコノシロ君の奥さんと大議論したんです。とうとうコノシロ君は、あきれて「そんな話興味ないから、わしもう寝るよ」と言って、先に寝ちゃいました。残った奥さんと深夜まで議論が続きました。(ウツボ)ふ~ん、それで、一体何の大議論をしたんだい?(カモメ)乃木希典です。コノシロ君の奥さんの祖父が元軍人で、乃木希典の研究家で信奉者だったんです。戦後、自分で乃木希典の伝記を英訳していたんですが、亡くなって。それで、彼女は祖父の乃木希典研究を引き継いで、今、英訳に取り組んでいるのです。(ウツボ)がんばり屋の奥さんじゃないですか。それで乃木将軍のどこが議論になったの。(カモメ)外国人に乃木将軍の生き方を、立派なものとして、また美しく伝えようとして、彼女はどうしても記述を美化してしまう。ところが俺は乃木希典を軍神とは思っていませんから。良くも悪しくもすべからく真実を記すべきだし、批判すべきところも取り入れるべきだと。それが対立して、奥さんと深夜まで論争を。(ウツボ)やれやれ、他人の家にご厄介になって、もっと楽しい話題はなかったのかね。(カモメ)ところが、論争に熱が入って最後に、彼女が負けて、悔し涙をぽろりと流したのです。その時、俺はハッとしたんです。その涙が祖父の涙のように見えたんです。その涙に祖父の遺志を感じたのです。俺は、困ってしまって、「すみません」と謝って、二階に上がって寝てしまいました。翌朝の食事のとき、少し三人ともぎこちなくて。それで泳ぎに行こうということになり、コノシロ君夫婦と三人で虹ヶ浜に出かけたという訳です。(ウツボ)三人で?夫婦に子供は、いないの。(カモメ)ええ、まだ。それで虹ヶ浜に出かけて、泳いだのです。ところが、コノシロ君は泳いでばかりで、泳ぎ疲れた俺と奥さんは並んで砂浜に座っていたんです。そのとき、俺は彼女に「夕べは言い過ぎました。ごめんなさい」ともう一度謝ったんです。すると彼女は「いえ、私も少し考え直してみます。ありがとう」と静かな声で言ったんです。でも彼女の表情は固く、俺の心もすごく重かったんです。(ウツボ)なるほど。(カモメ)俺と彼女は、ほかの海水浴客の喧騒をよそに、まさにサイレントネイビーを演じていました。そのとき海の家から「ああ、私の恋は南の風に、乗って走るわ、ああ、青い風切って、走れ、あの島へ」と松田聖子の軽快な「青い珊瑚礁」が流れ出してきたんです。すると彼女は「私ね、この歌大好き」と言ったんです。それで俺も「僕も大好きですよ」と答えたら、彼女は俺の方を向いてニコリと笑ったんです。その笑顔がすごくきれいで、俺も思わずニコリと。そのあと何だか気持ちがす~と軽くなり、乃木将軍についてお互いフランクな話ができて、俺も内心ほっとしたというお話です。(ウツボ)そうですか。虹ヶ浜でカモメさんは戦史の海を泳いだんだね。(カモメ)いえ、それほど大袈裟な話ではないのですが、ほろにがい夏の思い出です。かなり脱線しました。ここらで「珊瑚海海戦」に戻りましょうか。(ウツボ)そうだね。「珊瑚海海戦」始めますか。(カモメ)珊瑚海の地図上の位置は、ガダルカナル島があるソロモン諸島の南にあるソロモン海のさらに南にある海ですね。(ウツボ)つまりニューギニア東部とオーストラリアの北に位置する海ですね。珊瑚海のオーストラリア沿岸にはグレートバリア・リーフと呼ばれる世界最大の珊瑚礁がある。(カモメ)その珊瑚海で、太平洋戦争の緒戦、世界の戦史に残る、史上初めて、空母対空母の決戦が行われた訳ですね。しかも最強空母どうしの、大決戦ですね。(ウツボ)そうですね。それはね、ポートモレスビー基地争奪戦なんだ。日本軍にとって、第二段作戦上、シンガポールのように、どうしても陥落させねばならない連合軍の基地だった。一方連合軍にとっても、絶対に攻略されてはならない重要な拠点だった。
2007.10.12
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