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(ウツボ)佐々木大尉は佐世保鎮守府附に発令されていたので、9号輸送艦を退艦した。昭和二十年三月一日、佐々木大尉は父島方面根拠地隊附を命ぜられ、特設駆潜艇「文丸」(三五九トン)の艇長に任命された。(カモメ)五月二十九日、八丈島輸送のため、「文丸」は横須賀港を出港しました。ところが、大島東方を南下中、P-51戦闘機六機と交戦、機銃掃射で艇は蜂の巣のようになったのですね。(ウツボ)そうだね。佐々木大尉も被弾して、両腕を止血し、右足を縛り、応急手当をして館山湾までたどり着いたが、その後意識不明になった。気がついたら館山海軍航空隊の病室だった。(カモメ)その後、佐々木大尉は横須賀海軍病院に移送されました。重傷のため、退院したのは五月二十五日でした。そして終戦を迎えたのです。(ウツボ)次に、水産講習所・遠洋漁業科四十六回生の高橋利治氏の手記も紹介してみる。高橋利治氏は遠洋漁業科(予備生徒)を卒業し、昭和十九年十月一日海軍少尉に任官した。(カモメ)昭和十九年十一月、駆逐艦「夕風」(基準排水量一二一五トン)乗り組みました。仕事は、航海長を補佐して、通信、信号、操舵、レーダー、ソーナー等を総括しました。かなり激務でした。(ウツボ)先任将校は海軍兵学校出身だった。呉に入港すると、先任将校と兵学校同期の駆逐艦乗り、潜水艦乗りがよく来艦し、士官室に集まってきた。(カモメ)彼らの会話はいつも真剣そのものでした。ところが、「新大型潜水艦を連ねて米国沿岸に上陸しよう。その時は予備士官出を入れない」という話を、高橋少尉は聞いたのです。(ウツボ)そうだね。そのとき、高橋少尉は「何だ、この野郎。制帽の徽章の抱き茗荷の中が桜であろうと何であろうと、国家存亡のとき全く同等に海軍を担っているのに」と思った。(カモメ)にがにがしく感じたのでしょうね。それでも、高橋少尉は柱島投錨中に、敵機、グラマンの空襲を受け、艦橋前の機銃群指揮官として必死に戦ったのです。(ウツボ)昭和二十年五月、高橋少尉は揚子江部隊の砲艦「二見」(基準排水量二〇五トン)乗組みを命ぜられた。(カモメ)上海方面根拠地隊司令部に着くと「二見」はすでに要塞砲として大砲を降ろし繋留してあり、高橋少尉は長官承命服務となったのです。(ウツボ)昭和二十年六月一日に海軍中尉に昇進した。高橋中尉は「何でもいいから艦に乗せてくれ」と頼んでいたら、第220号駆潜艇の艇長を命ぜられ、上海の江南造船所に着任した。(カモメ)岸壁に整列している乗組員を見渡せば、頭に包帯をぐるぐる巻きにした水兵や、包帯で靴もはけない下士官などが何人もいました。(ウツボ)話を聞くと、米軍機と交戦して沈没した僚艦二隻の乗組員で構成されていた。高橋中尉が着任挨拶をしていると、空襲警報が鳴り、ロッキードP-38の機影が見えた。(カモメ)高橋中尉は第220号駆潜艇に飛び乗り、指揮をとり、岸壁を離れ、「対空戦闘」の命令を出しました。一機が上流から突っ込んできて機銃掃射を行ってきました。その敵機が去った瞬間に反転して、下流に向けて舵をとったのです。(ウツボ)空襲警報が解除されたので、ヤレヤレと近くの岸壁に接岸した。一服していると、突然、倉庫の陰から爆音と機銃音が鳴り響いた。思わずその場で対空戦闘の指揮をとった。(カモメ)その後また空襲警報が鳴り、三度目の空襲があり、P-38が真正面から突っ込んできたのです。機銃掃射の波しぶきが艇に向かってまともに近づいてきました。(ウツボ)だが、川幅が狭く操艦が思うようにできなかったので、ついに被弾した。その瞬間、高橋艇長は首をすくめた。艦橋は金物類に当たって飛び散る音が、まるで何十発も一度に被弾したような賑やかさだった。だが、甲板上の機銃員などにも負傷者は出なかった。(カモメ)艦橋内は、あちこちめくりあがり、破片が飛び散り、中には天井を下から貫通しているものもありました。この戦闘で高橋中尉は戦闘中、艇長は何をしたらよいかを身をもって学んだのです。(ウツボ)そうだね。戦闘中はみな夢中で戦っているが、命は誰でも惜しい。だから、彼らを勇気付けることは、艇長が一番危険な目だったところに立ち、彼らの目を見ながら陣頭指揮をすることだと、高橋中尉は信じた。(カモメ)ある日、揚子江入口で、米軍哨戒機から執拗な機銃掃射を受け応戦しました。この戦闘で、米軍哨戒機のほうが被弾して着水したのです。(ウツボ)米軍の操縦士ら乗組員が救命ボートを浮かべ乗り移ろうとしているのを発見した。部下たちから接近して攻撃しようとの声が上がったが、高橋中尉は反対した。まず今は帰港すべきだと主張した。遠くに見覚えのある特務艦がいた。(カモメ)昭和二十年八月十五日、部下を後甲板に整列させ、高橋中尉自身は、自分自身に言い聞かせるように軍刀を抜いて立って、玉音放送を聴いたのです。よく聞き取れなかったが、どうやら戦争は終わったらしいと思いました。甲板から嗚咽が洩れました。(ウツボ)その後、桟橋付近にアメリカ軍のMPがうろうろし始めた。噂によると、あの哨戒機のことを調べているらしかった。(カモメ)あの特務艦の艦長が戦犯容疑で連行されたらしかった。例の救命ボートを攻撃したのだろうと高橋中尉は思いました。(ウツボ)高橋中尉は戦後、よく考え込んだ。「戦争で守ろうとしたものは、何であったのか」と思い煩ったのだ。(カモメ)守るべきものは、当時としては、一般的には日本帝国の天皇と国民、国土、それに固有の文化と財産ですね。高橋中尉はそれに疑問を感じたのでしょうか?(ウツボ)う~ん、これだけの記述なので、俺にもよく分からない。だが、守るべきものは、唯一、人の命ではなかったか、と感じたのだろうかね。とすると、日本人と同様に世界中の人間の命も含まれる。だが戦争では当然矛盾を生じる。そしてその解決は難しい。(カモメ)そうですね。でも、海軍予備生徒出身の青年士官は、海軍兵学校出身の青年士官に劣らず、全力を尽くして戦争に立ち向かったことは事実ですね。(ウツボ)そうだね。教育機関は違っても、裸になれば、ともに日本人の若者ですね。同じですね。祖国の危機を救うため、自らの命をかけて勇敢に戦闘に身を投じた。(今回で「海軍予備生徒」は終わりです。次回からは「三式戦『飛燕』空戦記録」が始まります)
2011.03.18
(ウツボ)佐々木航海長は至近弾を右に左にかわしながら敵駆逐艦の追跡を振り切った。「卯月」は遂にラバウルに帰投することができた。「天霧」と「卯月」は脱出できたが、他の三艦は帰らなかった。(カモメ)佐々木予備中尉は、乗組員はまさに指揮官にゆだねられていると思ったのですね。もし渡邊芳郎艦長(海兵六一)が最高指揮官であったら、「卯月」乗組員は全員戦死していましたね。(ウツボ)劣勢と見ればあくまで脱出して捲土重来を期すという、澤村成二司令(海兵四九)の「脱出せよ」の判断は正しいものと佐々木予備中尉は思った。(カモメ)後に澤村大佐は激戦を生き残り、山口県熊毛郡平生町の平生回天基地司令に就任し、終戦を迎えましたね。(ウツボ)そうだね。平生町は隣の町で、我々にも身近な人だね。澤村大佐については、本ブログの「42.人間魚雷回天(2) 短刀もそれぞれ重い意味を持って人間にのしかかってくる」に出てくる。(カモメ)その後、昭和十七年十二月二十五日、高速輸送船「南海丸」(八四一六トン・一七ノット)を駆逐艦「卯月」は単艦で護衛をしていました。(ウツボ)夜半、「南海丸」が敵潜水艦の雷撃を受け、「卯月」は対潜掃討に移った。そのとき、「南海丸」の船首が「卯月」前部左舷に衝突した。(カモメ)それで「卯月」はラバウルに帰着し特設工作艦「八海丸」(五一一四トン)に横付けして修理を行ったのです。(ウツボ)その修理中に敵機が来襲し、「卯月」の艦橋前部に爆弾が命中した。ところが、幸い不発弾だった。(カモメ)このように運のよい「卯月」でしたが、昭和十九年十二月十二日、駆逐艦「卯月」は米軍魚雷艇と交戦し沈没、渡邊艦長は戦死したのです。(ウツボ)その前の年の昭和十八年十一月一日、佐々木中尉は海軍大尉に昇進した。昭和十八年六月三十日に武官冠位が改正され予備中尉などの予備の冠称が廃止された。(カモメ)同時に予備士官のシンボル、コンパスマークもなくなり、予備士官の山型の袖章も正規士官と同一になったのですね。だから佐々木氏は佐々木予備大尉ではなく佐々木大尉となったのですね。(ウツボ)そうだね。佐々木大尉は駆逐艦「卯月」が沈没する前の昭和十九年二月、「卯月」に別れを告げた。運がよかった。(カモメ)本当に。駆逐艦「沖波」(基準排水量二〇七七トン)の航海長を命ぜられ、船団護衛の任務につくことになったのですね。(ウツボ)昭和十九年五月二十七日、マッカーサーがニューギニア西部のビアク島に上陸した。同島を守備する第二十八根拠地隊を増援するため、戦艦「大和」「武蔵」以下巡洋艦、駆逐艦が攻撃部隊となり、六月十日出撃した。(カモメ)航海長・佐々木大尉の駆逐艦「沖波」は、戦艦「大和」の前方一〇〇〇メートルに位置していました。「沖波」は航海中に敵潜水艦を発見、爆雷攻撃を加え、大量の重油が浮いたので、佐々木大尉は撃沈したと思ったのです。(ウツボ)だが、戦後の調べではこの時の敵潜水艦は、アメリカ海軍の「ハーダー」で、沈没はせず、被害を受けただけだった。(カモメ)「沖波」はその後、マリアナ海戦に参加し、内地に帰還しました。(ウツボ)その後「沖波」はレイテ方面の作戦に従事したが、昭和十九年十一月十三日のマニラ大空襲で「沖波」は沈没した。(カモメ)その後、佐々木大尉は南西方面艦隊長官から「9号輸送艦(基準排水量一五〇〇トン)に乗艦せよ」との命令を受けました。(ウツボ)9号輸送艦の航海長だろうと思って乗艦したら、宮田忠一中尉(遠洋漁業科四四回生)が航海長として着任していた。これは司令部の人事ミスだった。(カモメ)佐々木大尉のほうが先任なので、当然佐々木大尉が航海長に任命されなければならなかったのですね。(カモメ)そうだね。だが、佐々木大尉はそのまま9号輸送艦の士官として勤務した。赤木艦長は東京高等商船学校出身だった。(カモメ)9号輸送艦は昭和十九年十二月九日、セブ島で揚陸作業を行いました。作業を終え、出港の前に、第三十三特別根拠地隊の司令官・原田寛少将(海兵四一)以下参謀が多数来艦し、酒を飲みながら談笑しました。(ウツボ)その時、別れ際に、原田少将は「お前たちは良いなあ、マニラに帰れるから」と言った。その言葉の中に、セブ島海軍部隊の祖国日本に残してきた家族等への思いが感じられた。本音だったのだね。(カモメ)そうですね。原田少将はその後、昭和二十年九月、マニラで戦病死し、海軍中将に昇進しましたね。(ウツボ)9号輸送艦は出港し、マニラに向かったが、途中、敵機約二十機が来襲し、戦闘となった。だが、大きな被害もなく、十二月十三日マニラに帰投した。(カモメ)その後マニラは連日のように空襲され、昭和二十年一月五日の時点で、マニラ湾には佐々木大尉が乗り組んでいる9号輸送艦一隻のみとなったのです。(ウツボ)それで、南西方面艦隊司令部から「9号輸送艦はマニラを脱出して佐世保に向かえ」との命令が来た。9号輸送艦は多量の日本向け郵便物を積み込んだ後、出港した。(カモメ)敵大部隊の中を脱出して帰還できる確立は零に近かった。だが、敵の間隙を縫って、9号輸送艦は香港経由で十二月十六日、佐世保に入港しました。
2011.03.11
(カモメ)前回、俺は水産講習所予備生徒出身の予備士官が大尉まで昇進したことについてのみ話しましたが、大尉になってから戦死して少佐に特進した人もおられますね。(ウツボ)そうだね。少佐になった人もおられる訳だね。さて、昭和十五年十一月、佐々木予備少尉は第一遣支艦隊旗艦、砲艦「宇治」(基準排水量九九〇トン)艤装員、昭和十六年四月同乗り組みとなり、揚子江の警備についた。(カモメ)昭和十六年十月、砲艦「宇治」は南支に派遣され、香港島周辺の警備につきました。(ウツボ)昭和十六年十二月八日、「宇治」に機密電報が届き、佐々木予備少尉が解読した。文面は「帝國万歳」であった。艦長に届けると、「開戦」だった。(カモメ)日本陸軍の香港攻略部隊は第三十八師団で九龍半島に展開して作戦中でした。佐々木予備少尉は「宇治」から部下五名を連れて、陸軍の師団戦闘指揮所に派遣されました。(ウツボ)佐々木予備少尉らは九龍半島のホテルに入った。ところが、このホテルの四階の師団長が入る予定の部屋の大鏡を、佐々木予備少尉の部下の水兵が、不注意で破損させた。(カモメ)陸軍少佐の副官が、佐々木予備少尉のところへ「こやつが割ったんだ」とその水兵を連れて怒鳴り込んできました。だが、代わりの鏡は見つからず、師団長の入室が遅れ、副官の機嫌は極めて悪かったのです。(ウツボ)ところが、佐々木予備少尉がこのホテル一階の師団戦闘指揮所にいたとき、香港島の要塞から砲弾が飛んできて、この四階の師団長室を直撃し、無残な姿となり、ホテル内は濛々たる砂塵が立ち込めた。(カモメ)副官は「もういい」と言って、水兵にはなんのお咎めもなかった。だが、副官は「おかげで師団長が命拾いした」とは言わなかったのです。(ウツボ)昭和十七年三月、佐々木予備少尉は予備中尉に進級し、五月佐世保鎮守府附となり、施設艇「鷹島」(七二〇トン)乗り組みとなり、台湾まで船団護衛の任務についた。(カモメ)その後、昭和十七年七月、第八艦隊、第三〇駆逐隊所属の駆逐艦「卯月」(基準排水量一三一五トン)の航海長を命ぜられました。八月中旬、ラバウルの「卯月」に着任しました。(ウツボ)着任早々の八月二十四日、第二次ソロモン海戦が勃発した。南雲忠一中将(海兵三六・海大一八恩賜)率いる第三艦隊からガダルカナル島に分派された空母「龍驤」が敵艦載機の攻撃を受けて沈没した。(カモメ)駆逐艦「卯月」はガダルカナル島補給、攻撃の任務で物資を揚陸し、北上避退していましたが、スダイ島に不時着した空母「龍驤」搭乗員の救出を命ぜられ、カッターで収容しました。(ウツボ)ラバウルに向け航行中、米軍のB-17爆撃機六機が来襲、爆弾を投下した。両舷にものすごい真っ黒な水柱が林立し艦は黒波に覆われ、艦橋は黒い波が怒涛の如く流れ込み、乗員は床にたたきつけられた。(カモメ)「卯月」は一時航行不能になったが、ラバウルに帰還しました。この戦闘で戦死者が一名出ました。救助した「龍驤」のパイロット達が佐々木予備中尉に「私たちの爆弾がこれほどのものとは、全く思わなかった。もの凄いですね」と話したのです。(ウツボ)そのパイロットたちは、爆弾を投下したことは何回もあるが、自分たちが軍艦に乗り込んで飛行機の爆弾を受けた経験はなかった。それで体験してみると、実感として爆弾の威力のすごさが分かった訳だ。(カモメ)昭和十七年十一月六日、駆逐艦「卯月」はラバウルを出港、夜半、トロキナ湾に到着。敵商船隊の中を微速で前進しました。(ウツボ)湾奥深く潜入して、陸軍の兵隊を降ろし反転、再び敵商船隊の間をすり抜け、湾口から全速でラバウルに向かった。(カモメ)そのとき、入港に先立ち、艦隊司令部から「見事なり、司令、艦長来隊せよ」の信号が来たとのことです。(ウツボ)よほど嬉しかったのだろうね。上陸した陸軍部隊は折りたたみ舟艇で海岸にたどり着き、米軍司令部に突入、敵司令部を大混乱に陥れ全員戦死した。(カモメ)また、十一月二十四日には、ブーゲンビル島北端のブカ島に陸軍部隊九百名の緊急輸送を命ぜられ、駆逐艦三隻(天霧、夕霧、卯月)が輸送隊となり、駆逐艦二隻(巻波、大波)が警戒隊となって、ラバウルを出撃しました。(ウツボ)二十四日午後九時、ブカ湾内に入り、陸軍部隊を揚陸させて、負傷者等を乗せて午後十一時三十分出港した。だが、突如、敵駆逐艦五隻が現れ、砲戦、魚雷戦となった。(カモメ)「巻波」(航海長は遠洋漁業科三八回生・牧野六郎)から「我敵弾命中只今より敵陣に突入する」との電話があり、やがて轟沈とおぼしき大きな火柱が見えました。(ウツボ)輸送隊の各艦も戦闘に移ったが、ラバウルに避難する態勢となった。「卯月」の後甲板に敵弾が命中したが不発弾だった。日本海軍の得意とする夜戦も敵のレーダー射撃には及ばず、「卯月」は一時退避して体勢を立て直そうとした。(カモメ)そのとき、「卯月」艦長が、「もう駄目だ、反転突入する」と叫んだのです。だが、司令は「脱出せよ、航海長、もって行け」と佐々木予備中尉に命じました。
2011.03.04
(カモメ)海軍予備員制度で、昭和十四年、水産講習所遠洋漁業科出身者も高等商船学校に準じ海軍予備生徒に含まれるようになりましたね。(ウツボ)そうだね。昭和十二年度以降の水産講習所の漁撈科(四年間)終了後、遠洋漁業科(一年間)に入った学生は入学と同時に海軍予備生徒を命ぜられた。卒業生は即、予備少尉に任官した。(カモメ)太平洋戦争で戦った水産講習所の遠洋漁業科の海軍予備生徒は、昭和十四年五月六日に卒業した遠洋漁業科三十七回生から、昭和十九年九月二十五日に卒業した四十六回生までですね。(ウツボ)そう。そのうち昭和十八年十一月二十五日に卒業した四十四回生までは大部分が海軍大尉に昇進している。例えば四十四回生は昭和十九年一月十日に海軍少尉、同年九月十五日に海軍中尉、昭和二十年九月五日に海軍大尉(終戦後)に昇進している。これはもちろん、戦死していない人たちの話だがね。(カモメ)そうですね。戦死した人はその時点で一階級特進していますね。戦死せず、終戦まで生き残った人で、ちなみに昭和十八年五月七日に卒業した四十三回生は、同年六月二十八日に海軍少尉、十九年五月一日に海軍中尉、二十年三月一日に海軍大尉になっています。(ウツボ)また、昭和十四年五月六日に卒業した三十七回生は、同年五月三十日に海軍予備少尉、十六年六月二日に予備中尉、十八年六月一日に海軍大尉に昇進している。これは昇進の早い人で、遅い人は、十七年十一月十六日に海軍中尉、十九年四月一日に海軍大尉に昇進している。(カモメ)また、中には海軍少尉や、中尉で終戦を迎えた人もいますね。全員が海軍大尉には昇進していないのですね。(ウツボ)四十四回生までで、海軍大尉まで進んだ人は全体の九〇パーセント位で全員ではない。病気など、いろんな事情があったのだろう。(カモメ)水産講習所本科の漁撈科、製造科、養殖科の学生も在学中は予備生徒に命ぜられ、卒業後、少尉候補生となり、一定期間(一年間・後に短縮)の教育を受けて海軍予備少尉に任官しました。(ウツボ)遠洋漁業科卒業生についてみると、卒業後予備少尉に任官し、約一ヶ月間航海学校で初級士官教育を受けた後、大型軍艦(戦艦、巡洋艦、空母等)に配属され、艦務実習教育を受けた。(カモメ)そうですね。その後に特務艦、砲艦、防備隊等の後方部隊の艦船に航海士として配属される人が多かったですね。(ウツボ)だが、太平洋戦争開戦後は、駆逐艦、海防艦、駆潜艇、掃海艇、輸送艦、哨戒艇といった二〇〇〇トン以下の実戦部隊に配属された。(カモメ)水産講習所の養殖科第三七回卒業生の鈴木善幸元首相の揮毫書「鎮魂」が「水産講習所・海の防人」の巻頭に掲載されていますが、鈴木元首相は、その序文で水産講習所出身の予備士官について、次のように述べています(一部抜粋)。(ウツボ)読んでみよう。「これらの人々には制海、制空権のない広い海域の船団護衛等に、ソロモン群島ガダルカナル島、ニューギニア、レイテ島、沖縄等の航空戦、あるいは遠くビルマ方面の陸戦や太平洋各島々の守備などに、文字通り特攻苛烈な戦いを繰り広げ七十一名が悠久の大儀に殉じ、水漬く屍となった」。(カモメ)この「水産講習所・海の防人」には「第2章・戦没者の記録」の後に、「第3章・私の戦記」と題して、八十名以上の生還した水産講習所出身の予備生徒、予備士官が戦闘記録を投稿していますね。(ウツボ)そうだね、貴重な記録だね。その中で、予備生徒出身の海軍予備士官数名の戦闘記録を紹介する。最初は、遠洋漁業科三十八回生の佐々木幸康氏の戦闘記録だ。(カモメ)佐々木氏の戦闘記録は水産講習所出身の予備士官の戦争中の典型的な実態、状況が、よく分かる象徴的な記録ですね。(ウツボ)そうだね。佐々木氏は昭和十五年五月十七日水産講習所遠洋漁業科(海軍予備生徒)を卒業、五月二十八日海軍予備少尉に任官、昭和十七年三月十六日海軍予備中尉に昇進、昭和十八年十一月一日海軍大尉に昇進、戦闘を続け終戦を迎えた。(カモメ)佐々木氏は昭和十三年三月水産講習所漁撈科(四十回)を卒業し、四月遠洋漁業科に入学、十五年五月卒業しました。在学中は練習船「白鷹丸」で実習しました。卒業後五月にすぐ海軍予備少尉に任官したのです。(ウツボ)すぐに召集令状を受け、呉海兵団に入団、約一か月の初級士官教育を受けた後、重巡洋艦「那智」(基準排水量一三〇〇〇トン)に乗艦した。(カモメ)「那智」では航海士、通信士、砲術士等の勤務、停泊中は副直将校でした。航海にあっては予備士官がはるかに優位でしたが、砲術士の場合、皆目分からなかったのです。だが、三か月もすると、全ての様態が分かり、砲戦記録なども容易で、慣れと時間が全てを解決してくれました。(ウツボ)第一次士官室では、広尾彰候補生(海兵六八)とも過ごした。彼は無口で温厚誠実な印象だった。彼は開戦と同時に、特殊潜航艇でハワイ真珠湾に突入、戦死後二階級特進し、軍神広尾彰大尉になった。
2011.02.25
(ウツボ)志岐元海軍少佐は雄弁というか、そこらあたりに響き渡るような大声だった。そこで二藤氏は次に様に言った。(カモメ)読んでみます。「いや、その話は私も聞いています。私が知りたいのは、あの木幡が海軍に二十年もいて、下士官時代から搭乗発動機員をやり、特に飛行艇関係の勤務歴の長かった男が、プロペラの恐ろしさを知らなかったはずはない。しかも分隊長として、部下、練習生にその恐ろしさを毎日教え監督しているその当人が、どうしてそんなことになったのか。その理由が知りたいのですよ」(ウツボ)すると、志岐元少佐は「いやあ、それが分からんのです。・・・・・・あの頃、隊内の空気が乱れていて、手がつけられなくなっておって・・・」とためらいがちな低い声で答えた。(カモメ)二藤氏は『確か、練習生の造修実習の予定表を、木幡があなたに提出した。ところがあなたはそれを、ろくろく見もせず、いきなり木幡のほうへ放り投げたそうですね」と言ったのです。(ウツボ)すると志岐元少佐は「いや、そんなことはありません!」と、ものすごい大声で答えた。そして次の様に続けた。(カモメ)読んでみます。『だいいち、私は衛兵司令を兼務していて、そっちがもう手一杯だった。教務のほうは二人の分隊長に、全部任せっきりで、かまっちゃおれんかった。二人を信用して何でも自由にやらせていたんです」。(ウツボ)そのあと、志岐元少佐は話題を航空隊のストライキのことにそらし、長々としゃべった。(カモメ)志岐元少佐がしゃべり終えたあと、二藤氏は「木幡が死ななければならなかった理由、それを教えてもらいたいですね。直属の上官のあなたなら必ず知っている、いや、知らないはずはないと思いますがね」と、さらに追求しました。(ウツボ)これに対し志岐元少佐は「あなた、なぜ、そんなに、自殺自殺と決め付けるんですか。あれは事故死です! その証拠には横須賀から軍楽隊まで来て、立派な海軍葬をやったじゃありませんか! それが何よりの証拠、自殺ならそんなことはあり得ない」と答えた。(カモメ)二藤氏は「彼のような立場の人間がこんな行動をとるのは自殺以外にあり得ない。葬儀の件は、当時よくあることです。もし公に自殺と認めれば、まず貴方が真っ先に、つづいて副長、司令の責任問題になる。だから知っていることを今話してもらいたい」と声を張り上げました。(ウツボ)このとき、志岐元少佐の奥さんが入ってきた。奥さんのすすめで、座敷に上がっての話し合いになった。志岐元少佐はそのあと、戦後の自分の戦後の経歴を長々と話した。それは戦後の自分の苦労話だった。(カモメ)その後、当時の航空隊の話になりました。木幡事件の後、志岐少佐は副長に昇格したが、その時、総員集合の前で志岐少佐は紹介されたのです。(ウツボ)紹介が終わり、志岐少佐が副長室に戻ろうとしたとき、主計長である富田主計大尉が呼び止めた。富田主計大尉は、東京帝国大学出身で、志岐少佐より二年先輩だった。(カモメ)その富田主計大尉が「今から皆に、副長を紹介する」と言ったのです。志岐少佐が「主計長、私はたった今、全隊員に紹介されたばかりですよ」と抗議しました。(ウツボ)すると、富田主計大尉は「いや僕の紹介するのは、その副長じゃあない。ラバウル当時の鬼整備長だ。その志岐少佐だ。諸君よく覚えておけ!」と言ったという。(カモメ)志岐元少佐は、二藤氏にこの話をしたあと、「どうです、東大出の部隊の大幹部でもこのありさまです。なっちゃいない!実にひどいものだった・・・・・・。とにかく河和航空隊はこんな調子だから、泥棒、強盗の集団みたいなもので、不正外出、官品持ち出しなんぞは日常茶飯事で、しまいには人殺しもあった。私は、誰がなんと言おうと、鬼副長としてビシビシやってやろうと、固く決心しました」と言いました。(ウツボ)二藤氏は、失望して、志岐元少佐の玄関を出た。結局木幡大尉の自決の真相は彼の口からは聞けなかったのだ。その後も手紙のやり取りをしたが、決定的な話はなかった。(カモメ)木幡大尉の死の原因が志岐少佐にあると、推測できるような傍証はほかにもいろんな人から寄せられました。だが、直接的な決定的な話はなかったのですね。(ウツボ)そうだね。二藤氏は、志岐元少佐について、あるいは厳しくありすぎたのかもしれないと思った。(カモメ)彼は彼で、権力の末端につながる一人の小人間に過ぎなかったのかもしれないと思ったのですね。(ウツボ)そうだね。高等商船学校出身者の話はこれくらいにして、次に水産講習所出身の予備生徒の話に移ろう。(カモメ)分かりました。平成十四年十二月八日に初版が発行された「水産講習所・海の防人」(水産講習所海の防人刊行会・480頁)のサブタイトルは「太平洋戦争における水産講習所出身海軍士官の記録」となっていますね。(ウツボ)そうだね。この「水産講習所・海の防人」によると、農林省の水産講習所(後の東京水産大学・現在の東京海洋大学)からは、昭和十四年から昭和二十年の終戦までの六年間に、海軍予備生徒または海軍予備学生から海軍予備士官となった三百五名のうち、七十一名が戦死している。
2011.02.18
(カモメ)それまで二藤氏は、木幡大尉はどこかの戦場で戦死したか玉砕したとばかり思っていたのです。だが、彼は昭和十九年八月、愛知県の河和航空隊で不可解きわまる最期をとげていました。(ウツボ)木幡大尉は、二藤氏の同年兵クラスで、いつもトップだった。海兵団入団当初から動作敏捷、品行方正、成績抜群で、その後もずっと誰よりも昇進が早かった。性格は明るくさっぱりしていた。(カモメ)そうですね。二藤氏は「彼ほどの実力と人望を備えた特務士官はいなかった」と述べていますね。(ウツボ)二藤氏は岡田元大尉に、木幡大尉の死の真相を聞いておきたかった。岡田元大尉は木幡大尉と同じ職場だった。岡田元大尉は次の様に言った。(カモメ)読んでみます。「正式には事故死として処理されたはずだから、私の口からは自殺とは断言できません。ただ、あの頃、志岐という少佐がわれわれの隊長で、この男が大変な人物でした。隊内の評判は悪かったし、木幡さんとはとくに気が合わないというか、ソリが合わないとでもいうか、ことごとく対立して、木幡さんもずいぶんと悩んでおられたようでした」。(ウツボ)木幡大尉が勤務していた愛知県の河和海軍航空隊は、昭和十七年、整備関係の教育部隊として新設された。普通科六分隊、高等科整備術練習生二個分隊のうち、高等科の一方の分隊長が岡田大尉で、もう一方の分隊長が木幡大尉だった。(カモメ)彼らの隊長が志岐少佐で、高等商船学校を出て、飛行機整備学生教程を終了して正規の士官となった人物でした。志岐少佐の兄は海軍兵学校出身の海軍少将ということでした。(ウツボ)当時、予備士官から「本ちゃん」と呼ばれた正規将校になる、転官制度があった。職業軍人になるということだね。それが志岐少佐だね。(カモメ)二藤氏は「木幡、お前も底意地の悪い上司に苦しめられたのか。しかし、なぜ死んでしまったのか。それほど無念だったのか」と、そのことばかりを考えるようになったのです。(ウツボ)二藤氏は、苦労して調査して、やっと木幡大尉の未亡人の現住所を突き止めた。そして夫人から、木幡大尉の死去した状況を聞くことができた。(カモメ)夫人は「やはり、志岐さんという方との間に何かあり、それが原因であんなことになったのでしょうか。主人は、お世辞のできない人でした。将校が、若い兵隊さんに自宅の掃除をさせたり、漬物石を運ばせたりする、そんな些細なことでも、自分では絶対にやろうとはしないし、そんなのを見ただけで憤慨してしまうのです。そんな一徹な性格が、上司の方ににらまれてしまったのでしょうか」と、二藤氏に語ったのです。(ウツボ)夫人は、木幡大尉の死の状況を目撃したという当時の分隊士から話を聞いていた。それによると、当日の朝、練習生の飛行艇の発動機試運転の教務があった。(カモメ)木幡中尉(当時)は、滑走台に立ち、この運転を見ていました。本部にいた分隊士が、「急用があるから至急、木幡中尉を本部に呼べ」という志岐隊長の命令で自転車を飛ばして呼びにいったのです。(ウツボ)一度呼びに行ったが木幡中尉は動こうとはしなかった。二度目でもまだ来ない。志岐隊長は大変な見幕だった。分隊士は三度自転車を飛ばした。(カモメ)あと二、三十メートルのところまで行ったとき、突然、木幡中尉が飛行艇に登ってゆくのが見えたのです。それで分隊士は自転車から降り、「分隊長!」と呼ぼうとしたとき、急に目の前が真っ赤になった。血があたり一面に飛び散ったのです。(ウツボ)海軍の死体検案書では、発生年月日は昭和十九年八月二十九日午前九時九分で、公務傷死となっていた。二藤氏は自殺に間違いないと思った。(カモメ)志岐元海軍少佐の現住所を苦労して調べ出した二藤氏は、昭和四十六年十月二十五日、志岐元少佐の自宅を訪ねました。(ウツボ)玄関のブザーを押し、「志岐さんのお宅ですね」と言うと、「そうです、志岐ですが」。図太いドラ声だった。二藤氏は玄関ドアを開けて家の中に入った。(カモメ)ドアは半開きにしておいたのですね。二藤氏は柔道の心得はあるが、万一の事態になったとき、外に避退するつもりだったのです。(ウツボ)奥から、長ら顔で、大きな目玉の、六十過ぎの男が出てきた。二藤氏が「ではあなたが志岐さんですね。実は、私は元海軍大尉の二藤という者です」とポケットから名刺を取り出して差し出した。(カモメ)長ら顔で大きな目玉の男が、けげんそうに二藤氏の顔を見つめました。志岐元海軍少佐でした。名刺には目もくれなかったのです。「で、どんな用件で?」と言いました。遠くからの来客に上がれとも言わず、玄関での話になった。二藤氏は次の様に話し始めたのです。(ウツボ)読んでみよう。「河和空のころ、あなたの直属の部下に分隊長をしていた木幡中尉がいましたね。彼は飛行艇の発動機運転の教務実習中、ペラに撥ねられて亡くなりましたね。木幡は私の同期です。その件について直属上司だったあなたが一番良く知っているはずなんで、どんな様子だったか教えていただけませんか」。二藤氏が一気に言うと、志岐元少佐は次の様に答えた。(カモメ)読んでみます。「あっ! あの件ですか。あれは、どうして死んだのか、いっこうに私にはわからないのですが、まあ、魔がさしたとでもいいますか。下に立って教員の教えるのを見ていたのが、急にフラフラット上に登って、そのまますーっと操縦席の上をとおって・・・・・・、ご存知のように、一五式飛行艇は、胴体の上で、二つの発動機が回っているのですが、あの飛行艇は運転中胴体の上はとおれないのです。ペラとペラのあいだがほんのこれっぽちしかない。そこへ入って行ってしまった。いやあ、驚きました!」
2011.02.11
(カモメ)一方米軍の機雷投下機はこの頃毎晩飛んできて、落下傘についた機雷を投下して行きました。一晩に四機も飛んできたこともありました。掃海処分が追いつかず、関門海峡の航路は閉ざされたも同然となったのですね。(ウツボ)そうだね。そのうちに掃海艇の一隻が、触雷した。その掃海艇は水柱に呑まれた。隈部艦長は直ちに救助作業を命じたが、感応機雷の衝撃は大きく、乗組員全員が死亡していた。(カモメ)また、感応機雷に触雷した艦船も多数におよび、一日に十九隻のときもあったのです。その度に、「第一五四号」は救助作業にあたりました。泳いでいる人、浮いている人を救い上げました。(ウツボ)それで、艦の士官室、通路、甲板は、負傷者と死体でいっぱいになった。内臓を強く突き上げられたのか、しきりに腹部を押さえて声が出ない人、口から血が流れている人、耳と鼻からも血が出ている人、片足がない人、腕を切断されている人などだった。(カモメ)感応機雷の威力は口では言い尽くせない悲惨な状態ですね。(ウツボ)機雷の怖さは想像以上だね。六月に入り、夜やってくる敵の機雷投下機に対して、日本軍も、次第に迎撃が上達してきた。ある夜、門司方面から、米軍のB29の機雷投下機が進入してきた。(カモメ)日本軍の探照灯がうまく敵機をとらえました。「第一五四号」の高角砲も照準をうまく合わせて撃ちまくりました。機銃も火を噴きました。(ウツボ)それで、遂に敵機、B29は火を吹いた。火を出しながら、そのB29は空中をうねって、右に左によたよたしながら、「第一五四号」の近くの海上に突っ込んで、沈んだ。(カモメ)翌朝、当直の見張り員が、近くに沈没座州していた「明天丸」のベンチレーターの中にうずくまっている米兵を発見しました。(ウツボ)濡れた服のままのこの米兵は、昨夜撃ち落した、B29の搭乗員と思われた。隈部艦長はこの米兵を連れてくるために、救助艇を出した。(カモメ)隈部艦長は学徒出身の砲術士を艇長にして出したのですね。砲術士は「敵を捕らえてやる」と意気込んで出かけました。だが、救助艇が近づくと、米兵は海中に飛び込み、救助艇に救いを求めたのです。それで砲術士は哀れに思って艇に引き上げました。(ウツボ)迷い子を案内するようにして帰ってきた砲術士の報告を聞いて、隈部艦長は、この砲術士を出してよかったと思った。(カモメ)あれほど機雷に苦しめられ、多くの犠牲者を見ていながらも、このような心を持った、この砲術士の青年を隈部艦長は、これが本当の日本人だと思ったのですね。(ウツボ)そうだね。だから、隈部艦長は、収容に向かわせた救助艇には武器を持たせなかった。(カモメ)艦に収容したこの米兵は、あどけなさの残っている若い搭乗員でした。冷たい海水で体が冷え、唇は紫色になっていました。(ウツボ)隈部艦長がこの米兵にウイスキーと乾パンを与えたところ、みな平らげてしまった。気分をほぐして尋問したところ、「テキサスの農家出身で、戦争が始まり入隊した」「サイパンから飛んできた」「自分は砲手である」などと話した。(カモメ)その後、憲兵がこの米兵の身柄を引き取りに来て、連れて行きました。隈部艦長はその後、この米兵が米国に帰ったかどうか分からなかったが、終戦前だったので、恐らく今頃はテキサスの農場で元気に働いているだろうと思い、そのことを願ったのです。(ウツボ)昭和二十年八月十五日、関門海峡南東の海上で、正午の重大放送を聴いた。隈部艦長は入れるだけ乗組員を艦橋に入れて玉音放送を聴かせた。(カモメ)よく聞き取れないので、艦橋の扉や窓を全部閉めさせたのです。これは天皇の戦を終わらせるための放送であったことが判りました。隈部艦長は、「この放送によりすべては判明した。戦争は終わったのだ」と思ったのです。(ウツボ)隈部艦長は、終戦後も復員局の要請で、海防艦「第一五四号」を掃海艇に改装し、帰郷していた乗組員を呼び戻し、配置に付け、機雷の掃海作業に従事、昭和二十一年六月に召集解除となった。最後まで日本のために尽くした人だ。(カモメ)そうですね。隈部五夫氏は平成三年五月に死去していますね。八十二歳でした。(ウツボ)次に高等商船学校(予備生徒)出身の予備士官から現役の正規将校になった元海軍少佐の話に移ろう。(カモメ)はい。「海軍特務士官の証言」(二藤忠・徳間書店)によると、著者の二藤忠氏は、特務士官出身の元海軍大尉ですね。(ウツボ)そうだね。特務士官は、下士官から選抜されて士官になった人だね。この本の序章で「ある大尉の死」と題して三十三ページに渡り、戦友、木幡大尉の死について二藤氏が真相を追究した記録を掲載している。(カモメ)木幡大尉も特務士官ですね。この本は、著者が特務士官であるためか、海軍三校である海軍兵学校、海軍機関学校、海軍経理学校出身のエリート士官に対する批判が多いですね。(ウツボ)さらに、この本の序章で、高等商船学校出身の予備士官から現役に転官した一人の海軍士官、少佐に対する批判と追求の記録を掲載している。(カモメ)戦後の昭和四十六年二月、著者の二藤氏は知人の岡田元大尉から次の言葉を聞いたのですね。 (ウツボ)読んでみよう。 「二藤さん、あなたはたしか木幡さんと同年兵でしょう。彼を覚えていますか? 木幡さんも気の毒な最期でしたねえ。あんな事故死・・・・・・、いや、あれは自殺です」。
2011.02.04
(ウツボ)横道にそれたが、隈部予備中尉の話に戻ろう。昭和十九年十二月二十日、隈部大尉は、横須賀鎮守府付の辞令を受けた。(カモメ)この時点で隈部氏はすでに大尉に昇進していました。しかも官制の改正があり、予備大尉の呼称も、「予備」がとれて、「隈部大尉」になっていたのです。(ウツボ)隈部大尉は、三年三ヶ月乗っていた掃海艇「第二号朝日丸」を離れて、横須賀に向けて汽車に乗った。(カモメ)横須賀鎮守府の人事部に行くと、「よく生きて帰ってきたな」「ご苦労さん、次の命があるまで休んでいなさい」と言われたので、熊本県菊池郡の故郷に帰ったのです。(ウツボ)昭和二十年の元旦は、両親や妻と子供と迎えることができた。一月八日、電報が届いた。「第一五四号海防艦艤装員長に補す」とあった。(カモメ)隈部大尉は、今度は生きて帰れないと思ったのです。海防艦であろうと、他の軍艦であろうと、この頃には、出港したら再び帰って来れない艦が多くなっていました。(ウツボ)当時は、次々と艦の数が少なくなっていく中で、海防艦だけが次々と建造され、海上に送り出されていた。(カモメ)そうですね。海防艦には甲、乙、丙、丁型があり、甲型艦と乙型艦の艦名は鳥の名が、丙型艦の艦名は奇数番号が、丁型艦の艦名は偶数番号が着けられていました。隈部大尉の「第一五四号海防艦」は丁型艦でした。(ウツボ)甲、乙、丙型艦の主機はディーゼルエンジンで二軸の推進機を備えていたが、丁型艦はタービンエンジンで一軸だった。(カモメ)第一五四号海防艦は基準排水量七四〇トン、全長六九・五メートル。蒸気タービン一基一軸の二五〇〇馬力で速力一七・五ノット。乗員百四十一名でした。(ウツボ)兵装は、四五口径十二センチ高角砲単装二基、二十五ミリ三連装機銃二基、対潜水艦用に水中聴音機、探信儀、三式爆雷投射機十二基を装備していた。(カモメ)軍艦には通常第一、第二士官室がありますが、この丁型海防艦には士官室は一つしかなかったのです。艦体は溶接が多く、甲板は平らで湾曲がなく、雨が降れば上甲板の雨水が部屋に落ちるので、バケツで受けて部屋中が濡れるのを防ぎました。(ウツボ)昭和二十年二月七日海防艦「第一五四号」は相生(兵庫県)の造船所で竣工した。二月中旬、艦長・隈部大尉の指揮する「第一五四号」は佐伯湾の新造海防艦の訓練に参加した。(カモメ)訓練は、呂号潜水艦を相手に、実戦さながらの訓練でした。訓練も終わって、呉に入港しました。(ウツボ)四月四日早朝、上陸員出迎えのほかの艦の内火艇が、「第一五四号」近くで爆発沈没した。爆発音に部屋を飛び出して、隈部艦長が見たときには、水柱は崩れて、内火艇の姿は消えていた。(カモメ)米軍機が投下した感応機雷でした。艦船の接近によって起爆装置が発動する新兵器です。船が近づけば爆発するので、不安を与える心理効果も大きく、威力は大きかったのですね。(ウツボ)「第一五四号」は命令で、門司港に向け、呉を出港することになった。当時は敵機の攻撃で海防艦が撃沈されたり、関門海峡で触雷し沈んだりしていた。(カモメ)隈部艦長は門司港まで五隻の海防艦が行動を共にすることになったので、司令の現役大佐が乗艦している甲型艦「能美」に挨拶に行きました。(ウツボ)すると、「能美」の艦長は、隈部艦長と同じ会社に勤務していた予備士官だった。その艦長は「君は新しい艦長だから知るまいが、海に出たら直ちに戦闘だから気をつけろよ」と親切に言ってくれた。(カモメ)五隻の編隊は呉を出港し瀬戸内海を航海したが、無事関門海峡に入り門司港に入港しました。そのあと、早速、呉から行動を共にした海防艦は「第一五四号」以外全艦、外洋へ出撃しました。(ウツボ)四月十四日、彼らは一隻だけを残して他は沈没したという知らせが入った。だが、「第一五四号」だけは、何日も岸壁に横付けしたまま、何の命令も来なかった。(カモメ)その後、第七艦隊司令長官から隈部艦長は命令を受け取ったのです。関門海峡東部掃海部隊指揮官として発令し、「部崎灯台の南東一五〇〇メートルの地点に投錨し、敵飛行機及び機雷の監視並びに掃海部隊を指揮し、投下機雷の掃海を実施せよ」という内容でした。(ウツボ)四月十九日、「第一五四号」は指定の地点に投錨し任務を開始した。数日後に掃海艇四隻が隈部艦長の指揮下に入った。(カモメ)毎日毎日、隈部艦長は掃海隊を指揮して、掃海作業を行い、機雷を処分していきました。その頃関門海峡の上空を、毎日のように敵機がゆうゆうと北上して行きました。これを迎え撃つ我が飛行機は一機もなかったのです。隈部艦長は、くやしい思いをしました。(ウツボ)ある日、天気が良く、初夏の雲一つない空を、B29が、「第一五四号」の隈部艦長の頭上を北に向かって悠々と飛んでいくのが見えた。(カモメ)一万メートル以上の高高度を飛んでいるので、海防艦の十二センチ高角砲では届かないことを承知していたが、隈部艦長は悔しくて、とうとう我慢できなくなったのです。(ウツボ)B29を追って、照準を合せていた砲員は、今か今かと待っていた。隈部艦長は、ついに砲術長に発射を命じた。高角砲は火を噴き、弾は飛んで行ったが、B29は変針もせず、何もなかったように飛行を続けた。(カモメ)すぐ近くに錨泊していた防空駆逐艦から、「貴艦の測距いくばくなりや」と信号を送ってきました。誰が見ても海防艦の十二センチ砲の砲撃可能な高度ではなかったのです。(ウツボ)その防空駆逐艦には司令が乗り、艦長は中佐だったが、隈部艦長は失礼だと思ったが、返信はしなかった。撃っても弾は届かないことは分かっていたが、一発撃ってやりたかったのだ。
2011.01.28
(ウツボ)召集令状に、汽車は一等または二等となっていた。隈部予備中尉は東京から一等寝台車に乗った。大阪、神戸から、知った顔がたくさん乗り込んできた。(カモメ)彼らは高等商船学校出身の予備士官たちで、ほとんど隈部予備中尉と知り合いだったのですね。(ウツボ)そうだね。当時、一斉に予備士官が召集されたからね。(カモメ)一等車の最後部には展望車が連結してありました。快適な豪華な車両で、いつの間にか隈部予備中尉ら予備士官で一杯になりました。二等に乗っていた予備士官達も乗り移ってきました。(ウツボ)こうなると、展望車の貴族的な静かさは打ち破られ、ワイワイ、ガヤガヤと予備士官の集会所のような賑やかさとなった。(カモメ)ところが、折あしく、車内に一人の主計少将が乗っていました。彼は黙ってこれら応召者のこの車両に似合わない動きを見ていました。(ウツボ)「後に、この少将が呉鎮守府の主計長であることを知った」と隈部予備中尉は記しているが、当時の呉鎮守府主計長は高橋四郎主計中将で少将ではない。だが、後の十月十五日に、吉村武雄主計少将が呉鎮守府主計長に着任しているので、吉村少将のことを言っているのかもしれないね。(カモメ)そうですね。その少将はこの若い応召士官の傍若無人振りを見て、憤慨していたのでしょう。「この若い者はもともと二等の客だ。身の程もわきまえず、展望車に乗り込んで騒いでいる」。少将は、ぐっとこらえて、見ているようでした。(ウツボ)黙っていても、その少将の顔つきや態度で分かるからね。あとで隈部予備中尉は、海軍士官は一等車で旅行しても良いと書いてあるが、実際に一等車に乗るのは将官だけであることを知った。(カモメ)呉海兵団で身体検査や訓話等を受けていた隈部予備中尉は、昭和十六年九月二十日、「補第二号朝日丸掃海艇長」の辞令を受け取りました。(ウツボ)第二号とは海軍に徴用されたほかの「朝日丸」があったので、識別するために着けられた。(カモメ)「第二号朝日丸」は広島県因島の造船所に入っていました。もともと二八三トンの小型貨物船で、海上トラックと呼ばれていた船でしたね。(ウツボ)そうだね。その海上トラックを海軍は、因島の造船所で掃海艇に改造したのだ。優秀な高等商船学校出身の予備士官を、海軍はいきなり、このような小型船に乗せて使ったわけだ。(カモメ)そうですね。隈部予備中尉は、若くして大型商船の一等運転士でしたね。(ウツボ)一等運転士は、現在で言えば一等航海士で、軍艦では航海長に相当する。もっと大きな軍艦に乗せても、活躍するだろうけどね。帝国海軍の海軍兵学校出身者の温存主義を垣間見る感じだね。(カモメ)そうですね。「第二号朝日丸」は艇首に八センチ平射砲一門、機銃一挺を搭載し、艇尾に掃海台、爆雷投下台が設けられました。爆雷庫はその甲板の下に設置されていました。(ウツボ)貨物船時代の船倉は、兵員室と弾薬庫に改造され、恐ろしいことに、船底に穴を開けて、水中探信儀が取り付けられていた。(カモメ)「第二号朝日丸」は、第三十三掃海隊に属し、訓練を行いました。訓練終了後、昭和十六年十一月十二日、山口県下関市吉見の下関防備隊基地に入港したのですね。(ウツボ)そうだね。下関市吉見には、現在も海上自衛隊下関基地隊があり、第四十三掃海隊がいる。さて、昭和十六年十二月八日、真珠湾攻撃、太平洋戦争開戦となった。(カモメ)開戦後、「第二号朝日丸」は関門海峡で航路指示や哨戒任務に従事しました。(ウツボ)そして、昭和十八年十月五日、関釜連絡船「崑崙丸」(七九〇八トン)が関門海峡を目の前にして、響灘でアメリカ潜水艦「ワフー」の雷撃を受けて沈没した。(カモメ)船員・乗客六百五十名のうち五百四十四人が死亡しましたね。(ウツボ)このガトー級のアメリカ潜水艦「ワフー」(一五二六トン・水上)は、日本の商船や船舶を多数撃沈している、脅威の潜水艦だった。(カモメ)そうですね。隈部予備中尉の「第二号朝日丸」ら第三十三掃海隊と下関防備隊の全艇は沈没地点に急行して救助に当たったのです。亡くなった人が多数浮かんでいました。海面は実に悲惨な状況でした。(ウツボ)潜水艦「ワフー」の艦長はアナポリス海軍兵学校出身のモートン中佐(三十六歳)で、彼は優秀でアメリカ海軍では有名な軍人だった。パイロットで言えば撃墜王で、この「崑崙丸」を撃沈するまでに、昭和十八年一月から九ヶ月間ですでに十五隻の日本の艦船を撃沈していた。(カモメ)そうですね。そのほとんどは商船でしたね。十月五日に「崑崙丸」を撃沈した後も、十月六日と九日に、日本の商船を二隻撃沈しています。(ウツボ)そのあと十月十一日に、宗谷海峡を浮上突破しようとした「ワフー」は日本軍の陸上砲台から砲撃を受けた。それで、急速潜航した。(カモメ)だが、稚内から離陸し哨戒していた日本海軍の水上偵察機により、潜航中の「ワフー」は発見され、水上偵察機の報告で、駆潜艇など三隻が現場に急行したのです。(ウツボ)別の水上偵察機が、爆撃を実施した。さらに、かけつけた駆潜艇も五時間に渡り爆雷を六十発以上投下した。その結果、「ワフー」は撃沈され、モートン中佐と八十名の乗組員は、海の藻屑となった。(カモメ)モートン中佐の戦死はアメリカ海軍に大きな衝撃を与えました。以後、半年間位、アメリカ海軍は日本海に潜水艦を侵入させなかったのです。(ウツボ)一九九五年、モートン中佐の親族により潜水艦「ワフー」の捜索が開始され、二〇〇六年十月、宗谷海峡の水深六十五メートルの海底に横たわる潜水艦「ワフー」が確認された。(カモメ)二〇〇七年七月、アメリカ海軍は「ワフー」沈没現場海上で花輪献呈式を挙行しました。
2011.01.21
(ウツボ)すると、分校長は、やはり「勝たない。しかし、負けない」と言った。山本大尉が「勝たないというのは負けることでしょう。負けないというのは勝つことでしょう。勝たない、負けないなんてこと、あるものですか」と詰め寄った。(カモメ)だが、依然として分校長は「勝たない。しかし、負けない」を繰り返しました。とっさに山本大尉は分校長に飛びかかったのです。(ウツボ)大佐と大尉は、取っ組み合ったまま、畳の上をごろごろ転がった。そして縁先からいっしょに地面に落ちた。日頃、若僧めが、と思っていた大佐も、この頃敗戦の情報でも入っていたのか、大尉に飛びかかられても、反発する気力もなくなっていた。(カモメ)八月十五日正午、教官と職員一同が整列して終戦の放送を聴きました。九月一日付で山本大尉は召集解除になりました。(ウツボ)その後、山本大尉は故郷に帰り、海軍兵学校の三号生徒で終戦になった弟と再会した。そのとき、弟は持参した兵学校の数学の教科書を取り出し、「これは世界一の数学の教科書だ」と大真面目に言った。(カモメ)山本大尉が「世界一? そんなことがあるものか」と言うと、「いや世界一だ。教官がそう言っていたから間違いない」と答えたのです。(ウツボ)それで山本大尉はその教科書を仔細に見た。初歩的ではあるが、軍の学校らしく、確かにユニークなものだった。山本大尉は、東京高等商船学校時代に数学の参考書として使っていた本を取り出して、次の様に言った。(カモメ)読んでみます。「東京の商船学校では、数学も物理、化学もエンジンも、教科書は一冊もなく、全部ノートばかりなんだ。ただ、数学の教官が参考書としては、これが良いと言うので、大体みなこれを使っていたようだ」。(ウツボ)弟はその参考書をじっと見ていたが、一日か二日して、「こっちのほうがいいようだ」と、ようやく納得した。「世界一の教科書」という信念を植えつけるのは、兵学校教育の魔性だと山本大尉は思った。(カモメ)山本大尉は、戦後、大阪商船、航海訓練所「海王丸」機関長、海上保安大学校教授、第七管区海上保安本部次長、海上保安学校長、海技大学校長などを歴任、昭和五十七年に退官しました。(ウツボ)戦後、山本氏は、教育畑に奉職、シーマンを育ててきた教育者だ。大阪大学工学博士でもある。(カモメ)昭和五十九年、山本氏は、東京高等商船学校同期で親友だった、青木伸夫大尉の実家を訪ねました。(ウツボ)青木大尉は駆逐艦「初月」の機関士官だったが、山本大尉の乗っていた「秋月」と同じ、昭和十九年十月二十五日に「初月」は撃沈され、青木中尉(当時)は戦死した。(カモメ)青木大尉の実家は宮崎県高鍋町でした。山本氏は九十歳を過ぎた青木大尉の母親に案内されて墓参をしたのです。(ウツボ)青木大尉の墓の十メートル近くには小沢治三郎海軍中将の墓があった。母親は、青木大尉の思い出を語った。(カモメ)母親の話によると、青木大尉は高鍋に帰ってくると、「こんなもの、恥ずかしくて、下げて町なかを歩けない」と言って、海軍短剣を風呂敷に包んで、いつも戻ってきたというのです。(ウツボ)軍港やほかの町で、海軍士官が制服を着用しながら短剣をはずして歩くと問題になろうが、生まれ故郷の高鍋では、その心配もなかったのだろう。(カモメ)本職の海軍士官にとっては誇りであり、海軍軍人のシンボルであった短剣も、本来、軍人志望ではなく、商船の船乗りが志望であった青木大尉にとって、お飾りの短剣は、恥ずかしくて吊って歩けなかったということです。(ウツボ)これで、東京高等商船学校・機関科出身の山本平弥大尉の話は終えて、次に神戸高等商船学校航海科の海軍予備生徒について述べてみよう。(カモメ)はい。「機雷掃海戦」(隈部五夫・光人社NF文庫)によると、著者の隈部五夫氏は神戸高等商船学校航海科(海軍予備生徒)を昭和十年五月に卒業、海軍予備少尉に任官しました。(ウツボ)同年七月に隈部氏は大阪商船(株)入社、大連航路の定期客船の運転士(航海士)として勤務。昭和十四年八月、国策船会社として設立された東亜海運(株)に乗船中の船とともに移籍した。(カモメ)昭和十六年八月二十五日、隈部氏は「春日丸」一等運転士として勤務中に海軍から応召令状を受け取った。呉鎮守府に出頭することになった。
2011.01.14
(カモメ)そこで山本中尉は再びラッタルを昇り始めたのです。今度は、どうやら昇れて甲板まで出ることができました。(ウツボ)中部甲板上はすべての構造物が爆風で飛び散り、森閑としていた。上甲板の機銃群も、すべて吹き飛んだのか、全く消えていた。目に付いたものはマグロのような遺体だった。(カモメ)機械室の上の甲板に大きな楕円形の穴が開いていました。ここに爆弾が落ちたのか?中で爆発したのだろうと思われる、爆発でできた大穴でした。(ウツボ)中をのぞいて見ると、黒い重油に覆われた海水がタービンケーシング上すれすれにただよっていた。遺体は一体も見えなかったが、おそらく誰一人生きてはいないだろう。(カモメ)機関長・柿田少佐、機関長附・金子中尉をはじめ、三十名近い全員が重油に覆われた黒い静寂の淵に沈んでいると思われました。(ウツボ)山本中尉は大穴に向かって、機関長と機関長附きの名前を何回も呼んだが、反応は無く、声は静寂の中に吸取られて行くだけだった。(カモメ)「八十名近い機関科は全滅したな」と山本中尉は思いました。「秋月」は昭和十九年十月二十五日午前八時五十六分、沈没しました。(ウツボ)山本中尉は駆逐艦「槇」に救助された。呉海軍病院に入院後、十一月二十二日、「自宅療養せよ」との命令で退院した。顔には火傷の痕が残った。焼け爛れて顔一面黒い痣のようになっていた。(カモメ)新潟県長岡市の自宅で療養した後、昭和二十年一月十日呉鎮守府に出頭すると、山本中尉は練習艦「八雲」乗組みを命ぜられ、教官に任命されたのです。(ウツボ)五千二百トンの巡洋艦「八雲」は練習艦隊の旗艦だった。江田島の錨地で乗艦した。航海長の少佐は東京高等商船学校の先輩、機械分隊長の大尉も神戸高等商船学校出身だった。(カモメ)山本中尉は機関長附兼機械分隊士の配置でした。海軍兵学校の生徒や予備生徒の教育にあたりました。(ウツボ)その後三月二十日付で、山本中尉は横須賀海軍砲術学校の教官に発令された。機械分隊長が山本中尉を自室に呼んだ。機械分隊長は、以前船会社に勤務中、アメリカやヨーロッパを何度か訪れていた。(カモメ)送別の意もあってか、一升瓶を取り出して飲ませてくれました。夜も深まった頃、「八雲」の舷窓から眺めると、海上遠く広島方面で空襲警報の気配がしていた。分隊長は、しみじみと次の様に言ったのです。(ウツボ)読んでみよう。「アメリカでは公園なんかで真っ昼間、男と女が抱き合っている。こんな乱れた国は、一撃加えれば、へなへなになると思っていたが、違うんだね。なかなかたいした国だ。日本は考え違いをしていたんだな」。(カモメ)いつの間にか一升瓶は空になり、二本目が半分になっていたが、二人とも酔いは全く回らなかったのです。(ウツボ)昭和二十年四月五日、山本中尉は横須賀海軍砲術学校長井分校に着任した。分校長は兵学校出身の中佐、その下に海軍機関学校出身の少佐、兵学校出身の大尉が一人、ほかに高等商船学校出身が四人、さらに特務士官出身の教官が多数いた。(カモメ)六月、山本中尉は大尉に昇進した。山本大尉は予備生徒を受け持ちました。予備生徒の一人が私信の規律違反で懲罰をくらった。授業を受けさせずに反省室に入れられたのです。(ウツボ)この時、分校長の中佐が山本大尉に「分隊から違反者が出るのは、担任教官が悪いからだ。教官も一緒に反省室に入れ」と命じた。山本大尉は一日中一緒に入った。(カモメ)予備生徒の違反者が出るたびに、教官会議で予備生徒の弁護をするのは、山本大尉ら高等商船学校出身の教官たちだったのです。(ウツボ)特務士官出身の教官の中には「こんなだらしない予備生徒を教育する必要はない。さっさと第一線に出したらいい」と言う者もいた。(カモメ)ある日の教官会議で、分校長が「軍隊には意見具申というものはない。部下が右を向きたいと思ったら、部下が右を向きたいと言う前に『右向け、右』をかけなければならない」などと述べたのです。(ウツボ)教官会議が終わった後、山本大尉は一人で分校長室に行った。そして言った「先ほど分校長は、軍隊には意見具申はないと言われましたが、私は軍隊にも意見具申はあると思います」と言った。(カモメ)分校長は鋭い眼で睨みながら「若いくせに、生意気だ!」と大声で怒鳴りました。山本大尉は、これでは話にならないと、室を出ました。(ウツボ)八月も近くなった頃、転勤者の送別会があった。会も終わりになって、会場には大佐に昇進した分校長と、山本大尉の二人だけが残った。二人ともかなり酔っていた。(カモメ)山本大尉は戦局の推移を分校長に質した。分校長は「勝たない。しかし、負けない」と言った。山本大尉は「勝たないが、負けないというのは、一体どういう意味ですか」と再び問うた。
2011.01.07
(カモメ)昭和十九年九月十日、瀬戸内海の岩国、柱島泊地で重巡「足柄」の内火艇から防空駆逐艦「秋月」の舷梯をかけ登って、山本中尉の転勤はいとも簡単に終わりました。(ウツボ)当時、「秋月」は同型艦「初月」、「若月」とともに第六十一駆逐隊を編成しており、旗艦は「初月」で司令は天野重隆大佐(海兵四七)だった。(カモメ)防空駆逐艦「秋月」は昭和十七年六月、舞鶴海軍工廠で竣工。当時の駆逐艦としては最も大きく、全長百三十四・二メートル、公試排水量は三四七〇トンで六万馬力でした。(ウツボ)主砲は、十センチ連装高角砲四基八門で、最大射高一万四千七百メートル、最大仰角九〇度、一門当たり発射速度は毎分十九発だった。(カモメ)また二十五ミリ機銃三連装五基、二十五ミリ機銃単装十三基、十三ミリ機銃単装四基、六十一センチ四連装魚雷発射管一基を装備していたのです。(ウツボ)兵装は重装備で新鋭の大型駆逐艦だね。艦長は緒方友兄中佐(海兵五〇)、機関長は柿田実徳少佐、砲術長は岡田一呂大尉(海兵六六)、航海長は坂本利秀大尉、水雷長は河原崎勇大尉(海兵六八)、軍医長は国見寿彦中尉だった。(カモメ)軍医の国見寿彦氏は戦後、「海軍軍医の太平洋戦争~防空駆逐艦秋月」を近代文芸社から発行していますね。(ウツボ)なお、坂本航海長は神戸高等商船学校航海科第二十九期。機関長附は山本中尉の三期先輩の東京高等商船学校機関科第百八期の金子正明中尉だった。(カモメ)山本中尉は機関科である第四分隊の分隊士に任命されました。後部機械室の分掌指揮は特務士官出身の摂津貞司少尉と森山政信兵曹長、第二罐室の分掌指揮は池田光隆兵曹長でした。(ウツボ)アメリカ軍のレイテ島侵攻を受けて、それを阻止するため昭和十九年十月十八日、「捷」一号作戦が発動された。日本海軍は残された軍艦のほぼ全部を投入した。(カモメ)そしてレイテ沖海戦が十月二十三日から二十五日にかけてフィリピン周辺海域で行われたのです。「秋月」はこのレイテ沖海戦に第六十一駆逐隊として出撃しました。(ウツボ)小沢治三郎中将率いる機動部隊が出撃、十月二十五日午前六時、「秋月」は機動部隊本隊第一群の空母二隻「瑞鶴」「瑞鳳」のうち、「瑞鶴」の直衛として二十ノットの速力で航行していた。(カモメ)午前八時十五分過ぎ、米軍機百八十機が機動部隊を襲ってきた。「対空戦闘」のブザーが「秋月」艦内に鳴り響き、戦いの幕は切って落とされた。(ウツボ)山本中尉は、特務下士官、伝令の三人で、指定位置の罐指揮所で配置についていた。艦底深い罐指揮所からもわが艦が誇る八門の主砲の毎分十九発の発射音が間断なく響き、機銃の音もけたたましく伝わってきた。至近弾の炸裂音が敵機の上空到達を想像させた。(カモメ)山本中尉は「艦底奥深く相手も見ずに戦い、ひたすら自分の生命の断たれる瞬間を待つほど、やるせなく、いらだたしいことはない」と述べています。(ウツボ)突如、大爆発の轟音が起こり、艦体が躍り上がって灯りが消えた。そのとたん、甲板からラッタル通路を走って、猛烈な爆風が指揮所に吹き込み、同時に圧力毎平方センチ三十キログラム、温度摂氏三百五十度の過熱蒸気が噴出し、たちまち罐室に充満した。(カモメ)その後、温度は百五十度~二百度に下がったが、あたりは地獄と化し、呼吸は困難だった。光のない暗黒の中で、空間にうごめくあらゆる生物を焼き殺さずにはおかなかったのです。(ウツボ)不思議なことに畳一枚の狭さに肩を触れ合って配置についていた、特務下士官と伝令の姿が消えていた。暗黒の空間で山本中尉は両手で探ったが、誰にも触れなかった。二人は爆発の衝撃でどこかに飛ばされたか、艦底に落下したのか、指揮所には山本中尉一人だった。(カモメ)山本中尉は、ラッタルを一段、二段と昇りかけました。だが熱気にむせんで落ちました。わずかでも息を吸えば、マッチ箱ごと火をつけて肺に投げ込まれ、体内に火災が発生したかのようだったのです。(ウツボ)そのとき、すでに山本中尉の顔や手、肘など露出部の皮膚はすべてはげ落ち、数百度の蒸気に赤膚がさらされていたが、熱さなど感じるどころか、ただもう肺の中が焼けただれる苦しみしかなかった。(カモメ)山本中尉は観念しました。死ぬなら、わが手でわが命を、と思って軍刀をさがしたのです。だが、どこかに吹き飛んでしまったのか、なかったのです。(ウツボ)山本中尉は体に巻きつけておいたバスタオルを、顔を二重、三重にぐるぐる巻きにして巻いた。すると、少し呼吸が楽になった。
2010.12.31
(カモメ)教頭は、この場の主役である山本氏を全く無視して、ただ計器の性能や特長を解説し、初めから終わりまで全員が船乗りである参会者にセールス活動をやってのけたのです。(ウツボ)この教頭は後に「利根」艦長になり、ビハール号事件の当事者となった黛治夫大佐だった。黛大佐は平成四年に死去している。九十三歳だった。(カモメ)黛大佐は、戦後の座談会などでも、山本五十六大将を批判している人ですね。(ウツボ)そうだね。兵学校で黛大佐と同期で、四七期首席の横山一郎少将なんかも、山本大将に批判的だね。山本大将の戦略的失敗を挙げている。(カモメ)ところで、昭和十九年三月頃、「足柄」乗組みの山本平弥少尉に人事調書が届いたのです。山本少尉は転勤希望欄に「駆逐艦」と書いて提出しました。(ウツボ)この頃、現役転官の勧奨が、海軍省から艦長を通してあった。だが、山本少尉は、いかに激しい戦場への出陣を希望しても、現役に転官する気はさらさらなかった。(カモメ)プロの軍人になるのと、激戦地希望とは別問題だったのです。山本少尉のクラスの間では、「どうせ死ぬんだから、現役で行こうや」という意見と、「船乗りになるために商船学校へ入ったんだ。軍人になるために入ったんじゃない。予備のまま死んでもいっこうにかまわん」との意見に、二つに分かれたのです。(ウツボ)山本少尉の意見は後者だった。当時は予備少尉や機関少尉の「予備」「機関」の呼称は取れて、海軍少尉に統一され、服装、階級章も現役の正規士官と全く同じになっていた。だが、実質はやはり予備に変わりは無かった。(カモメ)岩国の柱島泊地に錨を下ろしていた重巡洋艦「足柄」の山本中尉は昭和十九年九月十日付で、希望通り、防空駆逐艦「秋月」に転勤の内命を受けました。(ウツボ)この時点で山本氏は中尉に昇進していた。海軍機関学校の士官たちが、呉の水交社で山本中尉の送別会を開いてくれた。当日、水交社に着くと、神戸高等商船出身で一期先輩の佐藤忠次中尉が、「あのなあ、東大の偉い先生が出席してくれるそうだからな」と告げてくれた。(カモメ)山本中尉はどうして自分の送別会に東大の先生が出席するのだろうかと思ったのです。送別会では、山本中尉の右隣の椅子に小柄で上品な背広姿の紳士が座っていました。(ウツボ)一期先輩の佐藤中尉、井戸久雄中尉、それに山本中尉のほかは、機関長以下、十名あまりは全て海軍機関学校出身だった。(カモメ)司会者の機械分隊長の大尉が、山本中尉の隣の、東京大学の教授を簡単に紹介した。平泉澄(ひらいずみ・きよし)教授だった。平泉教授は軽く頭を下げただけで、無言でした。(ウツボ)山本中尉は、平泉教授の予備知識が無く、何の感動も湧かなかった。細い目は澄んでいて、おっとりした色白な顔からは、公家の末裔という印象だった。(カモメ)食事中、山本中尉と平泉教授の会話は、平泉教授みずから語ることは少なく、もっぱら聞き役でした。(ウツボ)山本中尉は「級友が次々に戦死していくなかで、『足柄』は比較的静穏な海域を担当しています。何かすまないような気がしますので、もっと激しい戦闘をやる駆逐艦を希望しました。それでこのたび『秋月』に転勤が決まりました」と言うと、平泉教授はうなずいていた。(カモメ)機関学校出身の機械分隊長が平泉教授を知っており、呼んだことが分かりました。「井上成美」(阿川弘之・新潮社)には、平泉教授と海軍との関係が記されていますね。(ウツボ)そうだね。海軍大学校では、教官・徳永栄大佐が国粋主義者で、平泉博士の学説に心酔していた。昭和七年から十一年までの甲種学生は皆、平泉教授の講義を聴講させられた。だが、昭和十二年頃、教授は海軍から絶縁された。(カモメ)一方、機関科将校の戦闘配置は艦底で、脱出生還が難しいためか、「従容として、死につけ」という伝統が、舞鶴の海軍機関学校には強かったのです。(ウツボ)そのためか、平泉教授は、海軍大学校、兵学校とも出入り禁止後も、海軍機関学校とは五年余り、暗黙裡に親密な関係が続いた。(カモメ)それで、昭和十年代半ばの海軍機関学校卒業生に、平泉教授の学風を慕うものが多かったのです。三国同盟締結ころを境に、海軍省中枢の空気が変わり、平泉博士と海軍のよりはもどりました。当時の教育局長は徳永栄少将でした。(ウツボ)「足柄」の機械分隊長の大尉は、昭和十年代半ばの機関学校卒業生だったので、平泉博士に心酔していたのだろう。
2010.12.24
(ウツボ)すると山本少尉の目の前で機関工作科の鍛冶専門の下士官がたちまち二本作り上げた。それに運用科員が手ごろなロープを結び、えさをつけて海に放り込んだ。(カモメ)見ている間に鱶が食らい付いたのです。「引け」の号令で十五人ほどの屈強な水兵たちが力いっぱい引くと、水中で大暴れした鱶も次第に弱って甲板上に次々に引き上げられました。(ウツボ)何匹目かに大物が釣れたとき、鱶釣りを指揮していた下士官が「司令官に見ていただこう」と言って司令部に伝令を飛ばした。(カモメ)やがて司令官・左近允尚正少将は真っ白な半袖上衣の軍装で後甲板に現れました。山本少尉は釣針製作の責任者なので「針が折れないか、曲がらないか」などと思案しながらその場に立ち会っていました。(ウツボ)左近允少将は鹿児島出身にしては色白でノーブルな感じだった。左近允少将は靴先でかすかに鱶に触り、無言のまま二、三分して司令部に帰って行った。副官も従兵もつれず、ただ一人だった。(カモメ)静かな人柄だったのでしょうか。司令官だったら、普通は水兵達に「おお、でっかいのを上げたな」位の声がけはするものでしょう。(ウツボ)そうだね。何か思案中で、鱶どころじゃなかったのかもしれないが、声をかけてやれば、鱶を釣った水兵たちも嬉しかっただろうがね。(カモメ)この鱶釣りの二ヵ月後、昭和十九年二月二十五日、重巡「足柄」は第十六戦隊を出て、第二十一戦隊に編入されたのですね。(ウツボ)この編制替え直後、昭和十九年三月に起きたビハール号事件で左近允少将は窮地に立たされることになった。(カモメ)そうですね。左近允少将が指揮する第十六戦隊はインド洋作戦に従事していました。昭和十九年三月九日、重巡洋艦「利根」がイギリス商船「ビハール号」(七〇〇〇トン)を発見したのです。(ウツボ)停船命令に荷従わなかったので、艦長・黛治夫大佐(海兵四七・海大二八)は砲撃を命じ「ビハール号」を撃沈、船員八十名を「利根」に収容した。(カモメ)戦隊司令部から「捕虜は処分せよ」と命令を受けたが、黛艦長はこれに従わず、三月十五日、バタビア港に入ったのです。(ウツボ)そこで捕虜の女性とインド人十五名を降ろし、残り六十五名を乗せて再び出港。三月十八日、黛艦長は残りの捕虜六十五名を処分(殺害)した。(カモメ)この「ビハール号事件」で、左近允中将(昭和十九年十月中将に昇進)と黛大佐は、戦後、戦犯に指定されたのですね。(ウツボ)そうだね。香港で軍事裁判にかけられ、左近允中将は絞首刑、黛大佐は重労働七年の刑が言い渡された。(カモメ)左近允中将は、昭和二十三年一月二十一日に処刑されました。なお、左近允中将の次男、左近允尚敏氏は海軍兵学校七十二期で、戦時中は、重巡「熊野」の航海士として戦いました。(ウツボ)左近允尚敏氏は、戦後海上自衛隊に入り、第四護衛隊司令、練習艦隊司令官、防衛大学校訓練部長、統合幕僚学校長などを歴任して海将で退職している。(カモメ)山本平弥氏の話に戻りますが、戦後、東京、神戸両高等商船学校の同窓会である海洋会が、山本平弥氏の学位授与祝賀会を開いてくれることになりました。(ウツボ)その日が近づいたある日、漁業会社を経営している水産講習所出身の社長から電話があった。彼は、横須賀海軍砲術学校予備生徒時代の半年間、山本氏と級友だった。(カモメ)社長の電話の内容は「実は我々が予備生徒時代の砲術学校の教頭が、出席したいと言っているのだが、いいだろうか」というものでした。山本氏は「教頭が出席してくれるとは恐縮するな。いいよ」と答えたが、複雑な気持ちだったのです。(ウツボ)社長は教頭が刑期を終えて帰国後、その教頭の世話をしているようだった。山本氏の学位授与祝賀会当日、教頭は社長とともに来場した。山本氏は「わざわざご出席くださってありがとうございます」と挨拶した。(カモメ)司会者の指名で、山本氏の職場の上司、恩師、学会関係者、先輩、同僚、教え子らが次々に祝辞を述べました。(ウツボ)彼らは、社交辞令とはいえ、まずはお祝いの言葉を述べ、それから次にエピソードを話した。やがて、司会者は教頭を指名した。(カモメ)壇上に立ったその教頭は「私は海軍にいましたが、今は水産会社で船の計器の研究をしています。私が考案した計器は・・・・・・」。(ウツボ)教頭はみずから考案し特許でも取ったのか、その計器の説明、宣伝に始終して壇上を降りた。その間五分間余りだった。山本氏はあっけにとられた。
2010.12.17
(ウツボ)山本氏が二年の海軍生活中、もっとも長い十ヵ月半を過ごしたのが重巡「足柄」だった。「足柄」に山本少尉は昭和十八年十一月六日から昭和十九年八月まで乗組んだ。(カモメ)重巡「足柄」は昭和十七年三月十日、新たに編成された第二南遣艦隊旗艦になったのですね。昭和十八年九月二十日には第十六戦隊旗艦となりました。そして昭和十九年二月二十五日、第二十一戦隊に編入されました。(ウツボ)さらに昭和二十年二月五日、重巡「足柄」は第五戦隊に編入された。その後昭和二十年六月八日、スマトラとバンカ島との間のバンカ海峡でイギリス潜水艦トレンテャントの雷撃で撃沈された。(カモメ)重巡「足柄」の作戦行動のできた期間は進水後十五年七ヶ月。重巡「足柄」は日本の重巡洋艦の中では最も長命だったのです。(ウツボ)重巡は一万トン型巡洋艦のことだが、どの艦も何回も改造されており「足柄」も第二次改造後は基準排水量が一三〇〇〇トンになった。(カモメ)この「足柄」に山本少尉は機関士官として着任したのですね。機関科関係分隊は十分隊が主機械分隊、十一分隊は罐分隊、十二分隊は電気分隊、十三分隊は工作分隊となっていました。(ウツボ)山本少尉が着任した昭和十八年十一月当時、機関長は葛西清一中佐(海機三六首席)、その下に大尉の各分隊長がいた。十一分隊長が特務士官出身であるほかは機関長以下分隊長はみな海軍機関学校出身だった。(カモメ)一般的に機関科では分隊長の下に機関学校出身の若い中、少尉が分隊士として配置され、さらに特務士官出身の技術に精通している練達の少尉や兵曹長が掌機長、掌罐長、掌電気長、掌工作長として配置されていました。(ウツボ)だが、少壮機関科士官の消耗がはなはだしかったためか、山本少尉の着任当時「足柄」には機関学校出身の中、少尉や候補生が一名もいなかった。(カモメ)その空席を埋めるために、山本少尉より一期先輩の神戸高等商船学校第三十八期首席の佐藤忠次少尉が十分隊士兼機関長附となっていたのです。(ウツボ)着任した山本少尉は機械の十分隊士兼機関長附、井戸少尉が罐の十一分隊士に配置された。山本少尉は機関長附というダブル配置だったが先輩の佐藤少尉から教育を受ける予定だった。(カモメ)機関長の葛西中佐はドイツ駐在武官から帰国後海軍省に二年九ヶ月勤務、その後「足柄」に着任しました。(ウツボ)兵学校、機関学校、経理学校出身の中尉、少尉が食事をしたり休憩したりする室を第一次士官次室(ガンルーム)と呼び、その次室の長をケプガンと呼ぶ。(カモメ)重巡「足柄」のケプガンは海軍兵学校七十期の恩賜の短剣組でハンモックナンバー三の中尉で好青年でした。(ウツボ)そうだね。当時ハンモックナンバーの一と二はすでに戦死していたので、事実上クラスヘッドだった。(カモメ)当時、ガンルームのメンバーはケプガン(海兵七十期)、軍医中尉(東大)、佐藤少尉(神戸高等商船)、兵学校七十一期の少尉が五、六名、それに山本少尉(東京高等商船)と井戸少尉(神戸高等商船)の合計十名くらいでした。(ウツボ)その一ヵ月後、兵学校七十二期が五、六名、このクラスと同期になる機関学校卒二名、経理学校卒一名の候補生が乗艦して来てガンルームはにぎやかになった。(カモメ)当時、「足柄」の艦長は阪匡身(ばん・まさみ)大佐(海兵四二)でした。阪大佐の父、阪正臣は宮内省御歌所の宮廷歌人で家族女学校教授等を歴任していました。(ウツボ)阪大佐は後に昭和十九年二月に戦艦「扶桑」艦長、十月十五日に海軍少将に昇進、十月二十五日のスリガオ海峡夜戦で敵魚雷艇の攻撃で「扶桑」沈没、艦と運命を共にして戦死した。戦死後海軍中将に特別昇進している。(カモメ)阪大佐は風采の上がらない小柄な艦長でしたが、やんちゃ坊という感じのなかにもおおらかさがありました。(ウツボ)第十六戦隊司令部も重巡「足柄」艦内にあったが、山本少尉は時折、参謀とすれ違う程度で関係なかった。(カモメ)司令官の左近允尚正(さこんじょう・なおまさ)少将(海兵四〇)の姿も時々、上甲板で望見する程度だったのですね。(ウツボ)そうだね。この左近允尚正少将の悲劇的なエピソードに触れておこう。重巡「足柄」で、ある休日の午後、水兵たちが鱶(ふか)釣りを行った。(カモメ)えさは主計科から鮭の頭や肉の脂身などを用意してもらったのですね。釣り針は艦内には鱶釣り用の針はないから、機関の工作科に製作を依頼してきました。山本少尉が釣針製作の責任者となったのです。
2010.12.10
(カモメ)海軍機関学校出身者にはわがままな者もいたそうですね。山本少尉の初任士官教育の隣では、大尉クラスの高等科学生の教育も行われていました。(ウツボ)この高等科学生は海軍機関学校出身で、ほとんどが前線帰りで気が荒かった。(カモメ)ある日、初任教育を受けていた山本少尉ら東京高等商船学校出身のクラスの予備士官が入浴中のところへ、機関学校出身の高等科学生が一人、入ってきました。(ウツボ)湯加減がぬるく、熱くしたいのだが、彼は入校間もないので探しあぐねていた。すると、突然、山本少尉と級友たちを見て「短剣吊った木偶の坊(でくのぼう)!」と怒鳴りつけた。(カモメ)ところで、海軍工機学校で初任士官教育を受けている東京高等商船学校出身者と神戸高等商船学校出身者の、合わせて七十名近くの学生にはハンモックナンバー(成績序列)がつけられていたのですね。(ウツボ)山本少尉は第三位だったね。一ヶ月の教育期間があと十日ほどになったとき、各自の配属艦が発表された。山本少尉は重巡洋艦「足柄」だった。(カモメ)配属艦が決まったクラス全員は海軍大臣と海軍軍令部総長に対する伺候のため上京しました。(ウツボ)赤煉瓦の海軍省の一階の広間に一同が整列した。二階から嶋田繁太郎海軍大臣が下りてきて、壇上に立って一同の伺候を受けた。三分程度の訓示を賜ったが、山本少尉は何の感動も受けなかった。内容も全く覚えていなかった。(カモメ)嶋田海軍大臣と入れ替わりに、三階の軍令部から永野修身軍令部総長が下りてきて壇上に立ちました。大柄な嶋田大将よりさらに一回り大きかった。(ウツボ)容貌魁偉のその目は伺候者たちの頭上を越えた、ある高さの一点を見据えたままで、永野総長は一言も発しなかった。沈黙の数秒が過ぎ、伺候者たちの敬礼を受けると、永野総長の大きな顔は消えた。その目は、やがて半数は戦死する伺候者たちに一瞥も与えることは無かった。(カモメ)山本氏は、「伺候とは『高貴の人に参上してごきげん伺いをすること』とある。死に行く集団のほうから、ごきげん伺いに来たのであるから、永野式でよかったのである」と皮肉的に記しています。(ウツボ)重巡洋艦以上の大型艦には、級友が二名づつ配属された艦が多い。重巡「足柄」に配属されたのは、山本少尉と神戸高等商船学校機関科第三十九期のクラスヘッド、井戸久雄少尉の二名だった。(カモメ)井戸少尉は明るく朗らかな性格で、頭の回転が速く、身長も山本少尉とほとんど同じで、それぞれのクラスではチビ二、三人の中の一人に入っていました。山本少尉とはウマが合ったのです。(ウツボ)重巡洋艦「足柄」は公試排水量一四七四三トンで、第二南遣艦隊の旗艦だった。山本少尉と井戸少尉は「足柄」のいるシンガポールへ向かうことになった。(カモメ)二人は飛行機で沖縄、台北、海南島、サイゴンを経由して数日かけてシンガポールに着きました。ホテルに入ると、前日にシンガポールに着いていた予備士官の仲間達が、昨夜、「新世界」「大世界」などダンスホールや酒場に行ったのであろう、「今晩、キャバレーに連れて行ってやる」と言ったのです。(ウツボ)山本少尉は「まず第十根拠地隊司令部に出頭しなけりゃならんよ」と答えた。すると井戸少尉が「いいじゃないか、明日の朝で」と言った。(カモメ)井戸少尉と押し問答の末、彼らが井戸少尉に加勢したので、その夜、キャバレーに行くことにしたのです。(ウツボ)七、八名の第二種軍装の海軍少尉が、キャバレーに繰り出した。山本少尉は南国のエキゾチックな雰囲気に接し、開放感を大いに味わった。(カモメ)翌日、昭和十八年十一月三日の朝、ホテルから、第十根拠地隊司令部に出頭しました。二人は「『足柄』乗組を命ぜられた山本少尉と井戸少尉であります」と、出てきた大尉に申告したのです。(ウツボ)すると大尉は「なにっ『足柄』? 『足柄』は、さっきリンガへ出港したばかりだ、いつ着いたんだ」と言う。「昨日、着きました」と答えると「なんで昨日連絡せんのだ」と言った。(カモメ)「足柄」は三十分くらい前に出港したということで、大尉は「昨日出頭したら、間に合っていたのに。後発航期で軍法会議にかけることだってできるんだぞ。そこに立っておれ!」とすごい剣幕で奥に消えました。(ウツボ)山本少尉は井戸少尉に「それ見ろ、昨日連絡すればよかったんだ」と言うと、井戸少尉は「すまん、すまん、全くすまん」と平謝りに謝った。(カモメ)しばらくして大尉は戻ってきて、「軽巡洋艦が二、三日してリンガに行くから、それまで乗っておれ。艦長にお預けだ」と言いました。軍法会議にはかけられずに済んだのです。(ウツボ)二人の乗った第十六戦隊所属の軽巡がリンガに着いた。重巡洋艦「足柄」は泊地に君臨するかのように威容をゆったりと浮かべていた。(カモメ)二人は軽巡の内火艇に送ってもらって、十一月六日、横須賀から約十日ぶりに『足柄』に着任したのです。
2010.12.03
(カモメ)「日の丸の旗の下では死ぬが、軍艦旗の下では死にたくない」。これは昭和五十六年一月十六日、NHKの教育テレビ番組で、浅井栄資元東京商船大学長が、旧東京高等商船学校の校風について語った中の一節ですね。(ウツボ)そうだね。商船は平時でも戦時でも船尾に日の丸の旗を掲げている。軍艦は艦尾に軍艦旗を掲げている。(カモメ)海軍は海軍予備員制度を楯にして、明治以来、昭和二十年の敗戦にいたるまで、「常に商船教育に干渉してきた」と述べています。(ウツボ)特に太平洋戦争中はひどく、戦後、商船教育関係者は当時を回顧して、「海軍が商船教育を捻じ曲げた」とも述べている。(カモメ)近代戦は補給、輸送なくして成り立たちません。「その補給、輸送を担う人たちに、『日の丸の旗の下では死ぬが、軍艦旗の下では死にたくない』と思わせるようでは、勝敗の帰趨ははじめから明らかだ」とも述べています。(ウツボ)戦時中の商船は、陸軍に徴用された船をA船、海軍に徴用された船をB船、船舶運営会所属の船をC船と区分されていた。C船はいうまでもなく、A船、B船も無防備に近いものだった。(カモメ)東京、神戸両高等商船学校の航海科、機関科卒業生のうち、二千七百名が海軍に召集された。そのうち、三分の一にあたる九百一名が戦死しました。(ウツボ)太平洋戦争の戦死者の割合は、陸軍二〇パーセント、海軍一六パーセントに対して、商船乗組員は四二パーセントだった。(カモメ)高等商船学校出身でクラス全員、あるいはそのほとんどが海軍に召集された昭和十五年から十八年にかけて卒業した人たちの戦死率は五〇パーセント前後で、前述しましたが、クラスによっては六〇パーセントに近い集団もありますね。(ウツボ)「これらの数字は軍が、特に海軍が、日の丸を掲げて輸送に従事していた無防備に等しい商船と、高等商船学校出身者で招集された予備士官を、戦時中如何に取り扱ったかを、冷厳に物語っている」とも述べている。(カモメ)明治、大正時代、軍人志望者は別にして、東京では「一高、一つ橋、越中島」という標語がありました。それは一高と、当時一つ橋にあった東京高等商業、それに深川越中島にあった商船学校の三校が難関だ、ということを意味していました。(ウツボ)そうだね。その高等商船学校の教育制度にもう少し突っ込んで触れておこう。海軍兵学校に入ると、その日から身分が海軍生徒となるように、高等商船学校に入ると、その日から海軍予備生徒となる。(カモメ)高等商船学校の入学から卒業までの修学期間はじつに五年六ヶ月ですね。(ウツボ)当時の学制一般は高等学校・専門学校が三年間、大学が三年間、計六年間が高等教育機関だから、高等商船学校を卒業するには、大学卒業と半年しか違わないほどの年月がかかった。(カモメ)だが、高等商船学校の、この五年六ヶ月は一本調子の学校教育ではなかったのですね。入学してからの最初の三年間はいわゆる席上課程(座学)で、他の学校と大差はありません。(ウツボ)問題はそのあとだ。席上課程を終えると、海軍砲術学校で六ヶ月の軍事術科教育を受ける。そのあとは、航海、機関に分かれて、航海科は学校の帆船で一年間、ついで船会社の汽船で一年間、計二ヵ年の遠洋航海で実習した後、卒業試験を受けて卒業する。(カモメ)機関科は六ヶ月の砲術学校のあと、海軍工廠で六ヶ月、民間造船所で六ヶ月、それぞれの機関実習をしたのち、船会社の汽船で一年間、遠洋航海実習をした上で卒業試験を受けます。(ウツボ)だが、入学から卒業までの五年六ヶ月は、戦局が厳しくなるにつれて次第に短縮された。また、実習と砲術学校への入校順序も入れ替わった。けれども砲術学校の教育機関六ヶ月は敗戦まで変わることは無かった。(カモメ)東京高等商船学校を卒業したばかりの山本平弥氏は、太平洋戦争の分岐点といわれたガダルカナルで日本軍が敗退し、戦局が傾き始めた昭和十八年九月十八日、「M形印」の入った一通の公用封書を受け取りました。(ウツボ)それが、いわゆる赤紙で、海軍応召礼状だった。海軍応召礼状の内容は次の通り。原文のままだ。(カモメ)読んでみます。<充員招集令状>現在地 新潟縣三島郡片貝村大字高梨 海軍少尉 山本平弥 右充員召集ヲ命ズ 左記ニ依リ参著スベシ 到着年月日時 昭和十八年九月二十五日午前八時 到着地(廳) 横須賀鎮守府 海軍大臣(ウツボ)明治時代から東京高等商船学校、神戸高等商船学校の在校生は予備生徒に任命され、卒業すると予備士官になった。太平洋戦争直前から水産講習所・遠洋漁業科の生徒も予備生徒に任命された。前述したが、この制度は明治の日本帝国海軍が英国から学んだ制度だ。(カモメ)予備士官は、これらの学校を卒業と同時に、予備少尉、予備機関少尉に任命され、船会社に就職し、航海生活をしていると、次第に予備中尉、予備大尉、予備少佐、予備中佐、予備大佐まで昇進していきます。(ウツボ)彼らは、いわゆる、学徒出陣の予備学生とは全く違う。在学中に、砲術をはじめ海軍士官教育を受けており、海軍士官の予備品的な役割を果たしていた。(カモメ)同時に航海術や機関術という高度な特殊技術は、軍艦でも商船でも共通の点が多い。船を動かすという点においては基本的には同じですね。だから高等商船学校や水産講習所の卒業生は即、初級航海士や機関士として仕事に従事できたのですね。(ウツボ)山本平弥少尉は、横須賀鎮守府で点呼を受けた後、横須賀海軍工機学校で一ヶ月の初任士官教育を受けた。東京高等商船学校出身者と、神戸高等商船学校出身者の、合わせて七十名近くいた。(カモメ)指導教官は海軍機関学校出身の堀江文彦大尉(海機四二)でした。山本少尉によると堀江大尉の印象を「ハンサムでノーブル、そのうえ男らしくて大変明るい方であった。だが、何かのとき殴られた級友もいたので、厳しい一面もあった」と好意的に記しています。(ウツボ)堀江文彦大尉は海軍機関学校四十二期出身で、戦後は海上自衛隊に入り、統合幕僚会議第四幕僚室長、幹部候補生学校長、舞鶴地方総監などを歴任、海将まで昇進している。
2010.11.26
(ウツボ)昭和十八年八月以降は、坂元正信大尉は第十四号駆潜艇長として小笠原諸島とサイパン島を中心とする中部太平洋方面の作戦に従事した。(カモメ)第十四号駆潜艇は第十三号型駆潜艇の同型艦で、公試排水量四五三トン、全長五一メートル。ディーゼル二基二軸の一九〇〇馬力で速力一六・五ノット、乗員百六十八名です。(ウツボ)兵装は、四〇口径三年式八糎(センチ)高角砲一基、二十五ミリ機銃三挺、十三ミリ機銃一挺、九四式爆雷投射機二基を装備していた。(カモメ)その後、昭和十九年十二月以降は、坂元大尉は第八十一号海防艦長として南支那海、東支那海、朝鮮海峡方面の作戦に従事しましたね。(ウツボ)そうだね。第八十一号海防艦は丙型海防艦の同型艦で、公試排水量七九七トン、全長六七・五メートル。ディーゼル二基二軸の一七〇〇馬力で速力一六ノット、乗員百三十六名。(カモメ)兵装は、四五口径十二センチ高角砲単装二基、二十五ミリ三連装機銃二基、三式爆雷投射機十二基を装備していました。(ウツボ)これらの任務は、主として対潜掃蕩と船団護衛だったが、坂元大尉が最も苦労したのは、敵機の来襲であり、これと戦った熾烈な対空戦闘だった。(カモメ)坂元氏は昭和二十一年一月に、海軍少佐として招集解除になりましたね。(ウツボ)戦後は、昭和二十二年四月に日本郵船の船長として海上勤務、本社勤務参与を経て、昭和四十一年一月日本郵船を退職した。(カモメ)その後、日本船員厚生協会理事長、日本船長協会副会長、日本船員厚生協会顧問、日本船長協会顧問を歴任しています。(ウツボ)次に東京高等商船学校・機関科の予備生徒の話に移ろう。「防空駆逐艦『秋月』爆沈す」(山本平弥・光人社NF文庫)によると、著者の山本平弥(やまもと・へいや)氏は、昭和十八年八月、東京高等商船学校・機関科を卒業した。(カモメ)卒業後、山本平弥氏は大阪商船(株)に入社しましたが、同年九月に海軍応召されたのですね。重巡洋艦「足柄」乗組みの後、防空駆逐艦「秋月」に乗組みました。(ウツボ)だが、昭和十九年九月に「秋月」が沈没、負傷し呉海軍病院に入院した。退院後、練習艦「八雲」乗組みを経て、横須賀海軍砲術学校教官。終戦時は海軍大尉。(カモメ)戦後、山本氏は大阪商船(株)に復帰、復員輸送業務に従事しました。その後昭和二十三年、航海訓練所の帆船「海王丸」に乗組みました。(ウツボ)昭和二十四年海上保安庁入庁。巡視船機関長を経て、海上保安大学校教授、第七管区海上保安本部次長、海上保安学校長、海技大学校長を歴任。(カモメ)山本氏は工学博士(大阪大学)ですね。(ウツボ)そうだね。山本氏の体験を語る前に、ここらでもう一度、高等商船学校の沿革を違った角度から見てみよう。(カモメ)はい。明治八年東京に設立された三菱商船学校は、明治十五年四月、官立の東京商船学校となりました。そして二年後の明治十七年、海軍予備員制度が制定され、志願者に限って、海軍兵学校で砲術の授業を受けさせるようになったのですね。(ウツボ)その後明治二十年、高等商船学校第七期生は強制的に砲術の練習をさせられ、海軍予備員となった。さらに明治十八年以降の入学者は、入学時に全員が海軍予備員にならなければならないという制度が確立された。(カモメ)大正九年には神戸にも高等商船学校が設立されて、東京と同様に予備員制度が適用されました。(ウツボ)太平洋戦争が始まるまでに、東京、神戸の両高等商船学校は、合わせて九千五百四名の卒業生を出したが、開戦後、そのうち二千七百名が赤紙により海軍に召集され、その三分の一に当たる約九百名が戦死した。(カモメ)ひとたび戦争が始まると、海軍兵学校や海軍機関学校を卒業した本職の軍人だけでは士官が不足し、また消耗も激しくなる。そこで商船の士官として会社勤めをしている予備士官の招集が行われたのですね。(ウツボ)そうだね。さらに高等商船学校を卒業すると同時に全員が海軍に応召されるようになった。だが、それでは商船のほうの士官が不足するので、再び、クラス全員ではなく、一部が応召されるようになった。(カモメ)ところが、山本氏の機関科第百十一期のクラスは、昭和十八年八月に東京高等商船学校卒業後、九月にクラス全員が海軍に応召されたのです。応召後一ヶ月の初任士官教育を経て、それぞれ配属艦に配置されました。(ウツボ)当時山本氏はクラスのうち「戦死者は四、五名くらいかな」と思っていた。ところが、戦争が終わってみると、一年十ヶ月の間に機関科クラス全員三十一名のうち十八名が戦死していた。(カモメ)死者の年齢は二十二歳から二十四歳だった。戦死時の階級は海軍少尉が三名(昭和十九年二月~六月に戦死)、海軍中尉が十名(昭和十九年八月~昭和二十年五月に戦死)、海軍大尉が五名(昭和二十年七月~八月に戦死)でした。(ウツボ)戦死後全員一階級進級して、中尉、大尉、少佐になった。(カモメ)この山本平弥氏のクラス、東京高等商船学校機関科第百十一期のクラスは、東京高等商船学校、神戸高等商船学校の航海科、機関科を通じて最高の戦死率、六〇パーセントになったのですね。(ウツボ)海軍兵学校でも、この機関科第百十一期より戦死率の高いクラスは四つしかない。(カモメ)山本五十六大将が戦死後、昭和十八年四月二十一日に連合艦隊司令長官に親補された古賀峯一大将が、旗艦、戦艦「武蔵」の艦上で、五月八日に行ったある会議の訓示の中で「すでに、わが海軍の兵力は対米で半量以下に低下し、勝算は三分も無い・・・」との趣旨の発言があります。(ウツボ)そうだね。この訓示の四ヵ月後に海軍に応召されたのが山本氏のクラスで、機関科第百十一期の卒業生だ。危篤状態に陥りかけた帝国海軍に身をまかす巡り合わせになった。これが最高戦死率の原因でもあった。
2010.11.19
(カモメ)ところで、海軍予備員の中には、海軍予備学生と海軍予備生徒がありますね。(ウツボ)海軍予備学生というのは、旧制高等学校、旧制専門学校、大学の卒業生から試験により選抜され、採用される。海軍予備学生の身分は少尉候補者で、一定期間の教育を受けた後に、海軍予備少尉に任命される。(カモメ)これに対し、海軍予備生徒は、海軍生徒三校である海軍兵学校・海軍機関学校・海軍経理学校の生徒に準ずるものですね。対象は東京高等商船学校(明治十五年官立)と神戸高等商船学校(大正九年官立)の生徒で、入学と同時に海軍予備生徒を命ぜられ、海軍兵籍に編入されました。卒業後、すぐに海軍予備少尉に任命される。(ウツボ)昭和十二年には農林省・水産講習所(後の東京水産大学・現在の東京海洋大学)遠洋漁業科の生徒も海軍予備生徒になった。さらに戦争の拡大に伴い、旧制高等学校の生徒に対しても選抜試験を行い、合格者を海軍予備生徒とした。(カモメ)太平洋戦争中の、昭和十八年四月、清水高等商船学校が創立されました。戦時中であり、入校生徒数は大量で、昭和十八年度が約六百名、昭和十九年度と昭和二十年度がそれぞれ千八百名でした。(ウツボ)さらに昭和二十年四月には学制が改正され、東京、神戸、清水の三高等商船学校が清水に統合され、校名が「高等商船学校」となり終戦まで続いた。(カモメ)その後、戦後の昭和二十四年、東京商船大学、神戸商船大学が設置されましたね。(ウツボ)そうだね。今回は海軍予備生徒について話を進めていく。主に、東京高等商船学校と神戸高等商船学校の生徒、それに水産講習所の生徒について掘り下げていく。(カモメ)予備生徒は、高等商船学校や水産講習所の制服の襟に予備生徒のマークである錨の中央にコンパスの襟章を着けていました。(ウツボ)帽章はやはり錨にコンパス、肩章は海軍兵学校の肩章と同じ形だが、マークはやはり錨にコンパスだった。(カモメ)この錨の中央にコンパスのマークは予備員徽章で、俗に「金平糖(こんぺいとう)」と呼ばれていました。(ウツボ)海軍予備少尉など予備士官の帽章は桜花章の代わりにコンパスマークを着けた。制服は正規士官と同じであったが、袖章は山形になっており、正規士官と区別されていた。(カモメ)だが、昭和十八年六月三十日、武官官階が改正され、予備士官の名称が「海軍予備大尉」の予備がとれて、正規士官と同じ「海軍大尉」となり、同時に帽章も正規の海軍士官と同じ桜花章に、袖章も正規士官と同じになったのですね。(ウツボ)そうだね、区別がなくなった。海軍予備生徒は、在学中は砲術などの軍事教育を六ヶ月受け、卒業と同時に海軍予備少尉に任命され、さらに一ヶ月間、砲術学校や海兵団で士官教育を受けた。(カモメ)海軍予備生徒の官階は、下士官の上、准士官(兵曹長)の下と格付けされていました。つまり下士官からは敬礼されるので、答礼すればいいが、准士官以上に対しては、こちらから敬礼しなければならなかったのです。(ウツボ)では、ここらで東京高等商船学校航海科の予備生徒出身の体験記に移ろう。「海軍予備士官」(坂元正信・成山堂書店)によると、著者の坂元氏は、明治四十四年一月生まれ。昭和八年東京高等商船学校航海科を卒業した。(カモメ)海軍予備生徒でもある高等商船学校の修学年限は、航海科、機関科とも五年六ヶ月でした。内容は、座学が三ヵ年、海軍砲術学校が六ヶ月、帆船実習(航海科)・工場実習(機関科)が一ヵ年、汽船実習が一ヵ年というものだったのですね。(ウツボ)そうだね。坂元氏は、卒業後まもなく、海軍に召集された。海軍予備少尉としての初級士官教育で、乗艦は連合艦隊の一万トン級巡洋艦「高雄」。配置は高角砲の砲術士だった。六ヶ月間の召集が終わり、復員した後、日本郵船に入社、航海士として勤務した。(カモメ)そして昭和十五年頃、坂元氏は高速優秀貨物船「長良丸」の二等航海士として地中海航路に従事していましたが、昭和十六年一月、海軍予備中尉として再び海軍に召集されたのです。(ウツボ)今度は教育ではなく、本番の充員召集で、乗艦は水雷艇「雁」で、配置は砲術長だった。(カモメ)水雷艇「雁」は、鴻(おおとり)型水雷艇の同型艦で、公試排水量九六〇トン、全長八八・五メートル。タービン二基二軸一九〇〇〇馬力で速力三〇・五ノット。乗員百二十九名でした。(ウツボ)兵装は、十二センチ単装砲三門、二十五ミリ機銃一挺、十一ミリ機銃一挺、五十三センチ三連装魚雷発射管一基を装備していた。(カモメ)水雷艇「雁」は、日支事変中は中支沿岸の封鎖作戦に従事しました。太平洋戦争開戦後は、香港攻略、マレー攻略、ビルマ攻略、アンダマン諸島占領作戦に従事しました。(ウツボ)昭和十八年頃、坂元大尉は水雷艇「雁」の先任将校だった。ビルマのラングーンで、「雁」は米軍の大型爆撃機B-24九機から集中攻撃を受けた。(カモメ)B-24は高高度から水平爆撃を行った。「雁」の高角砲は射程ギリギリでした。河川港にいたので、回避運動はできないし、迎え撃つ味方機もいなかったのです。(ウツボ)対空射撃を指揮している砲術長は坂元大尉の後輩、田中尚吾大尉(東京高等商船学校航海科第一一〇期)だったが、いつもの勇ましい男とは違って渋い顔をしていた。(カモメ)高角砲の射程スレスレで、射撃効果がサッパリだったのですね。夢中で撃ったものの、こうなると、空を仰いで念仏でも唱えるよりほかに手はなかったのです。(ウツボ)そのうち、サッと爆弾の雨が降ってきた。至近弾はあったが、幸運にも命中弾は一発もなかった。だが、一斉に弾着する瞬間、高さ十メートルの水柱が本艦の周囲に数十本も林立し、周囲全体は黄土色の河水の壁になっていた。(カモメ)爆風で甲板に叩きつけられた坂元大尉は目から火花が出て、何がなんだかわからなくなったのです。痛い腰を押さえて立ち上がり、目にしたものは、蜂の巣のようになった百五十箇所に及ぶ船体の破孔と甲板上に倒れている多数の死傷者でした。(ウツボ)坂元大尉は艦長の健在を確かめると、「第一応急かかれっ」と号令した。艦内のあちこちから乗組員が飛び出してきて作業にとりかかった。船体損傷に対する応急措置と、死傷者の収容だった。(カモメ)敵の去った後、艦橋で応急作業を指揮する坂元大尉は、敵に対する憎悪の念と、こちらの弾丸が届かない無力感、目の前で一瞬のうちに死んでいった兵を見る無常感が交錯したのです。
2010.11.12
(カモメ)少し前まで暑かったのに、急に涼しくなりましたね。(ウツボ)若いカモメさんは涼しいだろうけど、俺はもう寒いよ。(カモメ)ウツボ先生、最近、俺、やる気が出なくて…何か元気になる方法を教えてください。 (ウツボ)元気になる方法ですか? 申し訳ありませんが、俺に聞かれても。俺だって、毎日やる気満々で過ごしているわけでもないのだから。(カモメ)そうですか、……人生というのは、あまり面白くありませんね。(ウツボ)おいおい、どうしました、カモメさん。何かあったのですか?(カモメ)いえ、特にないのですが。ただ、仕事をしても、遊んでいても、あまり面白くないと。(ウツボ) そうですか。……そうそう、高杉晋作の辞世の句、カモメさんも知っているでしょう。「おもしろき こともなき世に おもしろく」。あの高杉晋作でさえも、このような句を詠んでいる。みな同じだよ。(カモメ)…みな同じ、といわれても。(ウツボ)カモメさんの夢はなんですか?(カモメ)夢ですか? 特にありませんが…。(ウツボ)若いのに、ちょっと、さびしいなあ。(カモメ)でも、本当にこれといってないのですよ。(ウツボ)夢は、俺は、大概はビジョンだと思います。とすると、将来こうありたいという自分の理想の姿でしょう。理想の姿といっても難しいことではなく単純でいい、メルヘンでいい。例えば500万円のフォルクスワーゲン・ゴルフに乗って山並みハイウェーをドライブする…それは、カモメさんもあるでしょう。…ところで、可愛いあの娘とはどうなりました?(カモメ)ええっ、またその話ですか…。それはまだ、進行中で。(ウツボ)だったら、早く発展させて、自分の夢じゃなく、二人の夢を持てば。可愛いあの娘と一緒になって、白いお家にブランコのある庭…車庫にはフォルクスワーゲン。(カモメ)でも、俺、白い家やブランコのある庭は、あまり好きじゃないのですが。(ウツボ)ふんふん、好きじゃない……だったら、犬小屋のある緑のお家はどうですか。(カモメ)犬小屋のある緑のお家ですか?(ウツボ)子犬といっしょに、あの娘と戯れて、きらめく夜空の下、緑のお家のベランダに並んで二人の夢を満天の星に願う。(カモメ)子犬といっしょに、あの娘と戯れる、ですか……?? あの娘といっしょに、子犬と戯れる、ではありませんか。…でも俺、少しやる気が出てきました。ありがとうございます。(ウツボ)そうですか、それはよかった。とにかく夢は描けばいっぱいあるはずですよ。やる気が出たところで、本題に入りましょうか。(カモメ)ハイ。海軍予備生徒の話ですね。海軍予備生徒は、高級船員を養成する、高等商船学校や水産講習所の生徒に、在学中に海軍の教育を受けさせ、卒業とほぼ同時に海軍予備士官にするというシステムですね。(ウツボ)そうだね。海軍兵学校の生徒に準じた制度ともいえるね。「海軍オフイサー軍制物語」(雨倉孝之・光人社)によると、海軍予備員制度の始まりは、明治十六年末、西郷隆盛の弟、西郷従道農商務卿が川村純義海軍卿へ次の様な公文書を送ったのが事の起こりだった。(カモメ)読んでみます。「英国のマネをして、商船学校の生徒に軍事のことも少々勉強させ、有事の際には予備士官として働かせたらいかがでござろう。それについては、幾許かの教育に要する経費を支出して下さらぬか」。(ウツボ)「海軍予備士官」(坂元正信・成山堂書店)によると、海軍では有事の際、現役軍人のみでは所要の人員を確保できないため、英国の例にならい明治十七年八月、官立東京商船学校の卒業生をすべて海軍の予備員にする海軍予備員制度が制定された。(カモメ)高級船員を養成する東京商船学校の生徒を予備士官養成の機関とした。東京商船学校は後に東京高等商船学校と改称され、戦後は東京商船大学となりました。(ウツボ)さらに現在は、東京商船大学は東京水産大学と統合され、東京海洋大学となっている。(カモメ)ちなみに神戸商船大学は、神戸大学に統合され、現在、神戸大学海事科学部となっていますね。(ウツボ)そうだね。その後海軍予備員制度も、階級制度ができ、予備員の任用、進級、召集など、もろもろの規則が規定されたのは、明治三十七年六月、日露戦争のときだった。(カモメ)その法令の名は「海軍予備員条例」で、日本海軍の予備員制度が確立されたのは、このときですね。兵科は海軍予備中佐から、下は海軍予備三等兵曹まで、機関科においては予備機関少監(後の予備機関少佐)から、予備三等機関兵曹まで。(ウツボ)後に大正八年六月には、さらに内容が整備されて「海軍予備員令」と改められ、機関科にも、兵科と同様に予備機関中佐が設けられた。(カモメ)この頃、イギリス海軍では、予備員が軍艦乗組みや、掃海艇、哨戒艇で活躍していました。だが、日本では、第一次世界大戦でも日露戦争でも、予備員制度はありましたが、予備員を戦争に出すことは全くなかったのですね。(ウツボ)大正九年には官立の神戸高等商船学校が開校され、在校生は東京高等商船学校と同様に予備生徒に任命された。(カモメ)昭和二年、海軍予備大佐と、海軍予備機関大佐の最高官位がつくられました。だが、実際には昭和二十年、日本海軍が滅亡するまで、大佐にまで昇進した予備員はいなかったのです。中佐はかなりいましたが。(ウツボ)中佐にまでは、履歴による抜擢で進級できたが、大佐になるには、予備員令第二十一条に「予備中佐又ハ予備機関中佐ハ特選ニヨリ之ヲ進級セシムルコトヲ得」とあり、これはかなり高いハードルだった。(カモメ)予備員制度の大きな特徴は、召集による海軍勤務がなくても、進級し階級が上がっていくということでした。もちろん進級には各階級での実役停年が必要なことは現役軍人と同じでした。(ウツボ)召集中の勤務日数が進級の大きな要因になったが、船舶職員としての商船勤務の日数が計算され、また、商船学校の教官や水先人(パイロット)として働いた日数なども勘定される仕組みになっていた。(カモメ)だから、戦前、欧州航路や北米航路などの大きな汽船の船長には、商船学校卒業以来、全然軍艦とは無縁だったのに、いつの間にか、海軍予備少佐、海軍予備大尉の肩章をもった人がたくさんいました。機関長も同じでした。(ウツボ)昭和三年の秋、小演習にはじめて海軍予備員に演習召集が下令された。このときは二人の予備一等下士官だった。(カモメ)昭和四年からは、予備士官、予備准士官にも招集礼状が発せられました。この頃はせいぜい五、六人から十数人位でした。(ウツボ)だが、彼らを招集して軍艦に乗せ、配置につけてみると、実に仕事がよくできた。それは、商船学校の航海、運用の技術も、機関も、商船と軍艦と違うとはいえ、船に変わりはないので共通点が多く、当然といえば当然だった。(カモメ)中には「兵学校出の士官以上によくできる」と艦長からほめられる予備士官もいました。海軍演習でも予備士官たちは優秀な成績だったのです。そのせいか、その後、予備士官への召集員数は年々増えてきました。(ウツボ)昭和九年、現役海軍士官の不足を補うため、召集中の海軍予備士官を現役海軍士官に任用する途が開かれた。
2010.11.05
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