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一昔前にTVにも登場した有名?なマンション。住所は新田4丁目、RC5階建、2008年建築とのこと。TVではギリシャ建築風と紹介されていたが、さほど感じなかった。新田小学校のすぐそば(次の画像の奥が小学校、右手建物が神殿!)、東仙台駅が最寄り駅になるだろう。そして、もうひとつ。小鶴新田駅すぐ前にあるのが、パルテノン新田東だ。新田東二丁目、RC6階建、2005年建築、なのでこちらが先にできたようだ。■過去の記事リスト シリーズ仙台百景
2024.04.30
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かなり久々になりましたが、ロータリーを2つ追加いたします。新田東地区で南北に2か所。南のものは、新田東2丁目で、新田4丁目との境界をなす市道の中央に。その市道とは、R45から梅田川や仙石線をオーバーして小鶴城跡の高台の手前で直角に東に折れる幹線(両側は一昔前まで館町一丁目・二丁目)の東側を並走する狭い道路。画像の奥(南)には(この後)仙石線電車が走るのが見えました。南のロータリーから、その市道を北に300m行くと、もう一か所。新田東1丁目ですが、道の西側が新田3丁目になります。さて、これらは写真の通りで、本当はロータリー交差点(ラウンドアバウト)とは言えないでしょう。交差点とは位置がずれていて、交差点を直進や右左折する車はこの島を周回する訳ではありません。もっともこの島をUターンする車は見かけました。島には送電線の鉄塔が聳え立っています。おそらく、区画整理する際に鉄塔の足元を囲うように残して道路を敷設したのでしょう。■関連する過去の記事(仙台のロータリー交差点) 環状交差点がスタートだそうで(2014年9月1日) ラウンドアバウトは定着するか 仙台試論(2013年9月5日) 仙台のロータリー(その12)中山吉成(その2)(2011年1月11日) 仙台のロータリー(その11)中山吉成(その1)(2011年1月10日) 仙台のロータリー(その10)桜ヶ丘ロータリー(2011年1月9日) 仙台のロータリー(その9)葛岡墓園正門前(2011年1月2日) 仙台のロータリー(その8)名取市相互台東(桜坂)(2010年12月4日) 仙台のロータリー(その7)名取市相互台(2010年12月3日) 仙台のロータリー(その6)日本平(2010年12月2日) 仙台のロータリー(その5)ひより台(2010年11月27日) 仙台のロータリー(その4)東仙台5丁目(2010年11月26日) 仙台のロータリー(その3)永和台(2010年11月22日) 仙台のロータリー(続)(2010年11月22日) 仙台のロータリー交差点を考える(2010年11月21日)(向陽台ロータリー)■調査成果のマップです。
2024.04.29
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人口戦略会議の「自治体持続可能性レポート」が反響を呼んでいる。そこで、当ジャーナルで対策の考え方を整理してみた(情報源は主に下記、敬称略)。・人口戦略会議『人口ビジョン2100:安定的で、成長力のある「8000万人国家」へ』2024年1月・人口戦略シンポジウム(4月24日)における資料や発言など■今回のシリーズ・自治体持続可能性分析レポート(人口戦略会議)を考える(その1)全体(2024年04月26日)・自治体持続可能性分析レポート(人口戦略会議)を考える(その2)自治体ごとの結果(2024年04月26日)・今回 自治体持続可能性レポートと少子化対策・地域づくりを考える(2024年04月27日)■関連する過去の記事(令和5年人口推計(全国、地域別)についてのシリーズ)・地域別人口推計を考える(その1)(2024年01月31日)=地域別推計結果の概要・地域別人口推計を考える(その2)東北の市区町村(2024年02月14日)=個別の市区町村の結果・地域別人口推計を考える(その3)(2024年02月15日)=将来推計人口について・地域別人口推計を考える(その4)移動仮定と封鎖人口(2024年04月25日)1 問題の理解(1)比喩 高齢化は漕ぎ手がオールを置いて一般乗船客になる問題。少子化はボートの中の人間がどんどん減る問題(白川方明)。(2)3つの基本的課題(人口ビジョン2100)・国民の意識の共有(人口減少のスピード、超高齢化と地方消滅)・若者、特に女性の最重視(希望を持てる環境づくり、子供を持つリスクや負担の解消) ←未婚女性の非婚就業予想が急増、非正規社員は正社員より意欲低い、女性就労のL字カーブ(30歳以降非正規)etc・世代間の継承・連帯と「共同養育社会」(3)未婚女性と「非婚就業」予定の増加(永瀬伸子)・出生動向基本調査では、34歳以下未婚女性の希望ライフコースは、非婚就業コース(結婚・出産せずに仕事)が増加(12.2%←前回5.8%)、予想ライフコースは、非婚就業コースが3分の1に増加(33.3←21.0)。・下がった予想ライフコースは、再就職コース(子育て後に再就職)(22.7←31.9)と専業主婦コース(3.5←7.5)。いずれも希望コースでも低下している・非婚就業コースが上昇したのは、子供を持つと収入を失う、自由時間が無くなる、離婚リスクで女性が貧困に陥るから、簡単に子を持てない。また、結局女性が子育て責任をとらねばならない、教育費も不安などの声が聞かれている。このため、家事ケアのための無職の恐れがない未婚女性が増えているのだ。・なぜか。若年者の子育て不安を解消する政策がとられていない。(a)非正規が拡大したが、非正規の訓練機会や賃金格差縮小などの強い雇用ルールがない、(b)出産後3年で仕事に戻るなど、欧州で行われている雇用ルールを、(c)大学奨学金の軽減方策がない、(d)離婚の際に父親の養育費支払いが義務化されていない、(e)男性育児分担を奨励する政策がない、など。・非正規は有配偶女性ばかりでなく、若年男女や中高年シングルにも拡大。年収のカベ問題。・母親の多くが就くパートを改革する変化が最も重要。・不妊治療時期(40歳前後がピーク)を早められないか2 危機感が共有されない5つの理由と問題(白川)(1)明治の初めに戻るだけ →それで静止する展望がない(2)個人の価値観に立ち入る懸念? →社会全体(働き手、年金etc)の問題だ(3)経済的豊かさ求める時代終わった(文明論)→生活インフラや精神的豊かさの余裕なくなる(4)イノベーションや生産性向上で解決 →現実に見合う向上は限界(5)受け入れるしかないor手遅れ(諦観論)→深刻な帰結を認識しあらゆる手立て講じたか3 重要な3つの視点(白川)・国民間の対立図式(高齢者vs現役、子供いる人vsいない人etc)で論じないこと・政府の仕事と考えないこと。子育てに優しくない各種社会慣行の是正を(ゼロサムのように思われているが、社会的慣行の是正でプラスサムに転じる)・安定的な財源の必要4 政治の取り組み方・国家ビジョンを議論する場がない(人口ビジョン2100)・政治の本気度の問題・国会は政府との論戦なので同じ方向の議論しにくい・地方への投資を大胆にすべき(東京の議員が止めないこと、木原誠二)・1953年人口問題審議会設け、1997年報告書採択。審議会は2000年見直しで廃止。その間、子供は2人までとの抑制策さえあった(公団住宅サイズが関係との指摘、大島敦)。1.57ショックでも本気にならず(宮本太郎)・優等生スウェーデンも1930年代は保守派(女性は家庭に)とリベラルの対立で進まず。ミュルダールの貢献もありラウンドテーブルに。5 政治が取り組む際の2つの重要な視点(宮本)(1)合意と掘り下げ。2014レポートで地方に30万人の雇用と謳ったのになぜ実現できなかったのか。(2)若い世代の不安や怖れによりそう(←大学あげてやれるか、良い子育てできるかetc)6 取り組むべきこと=2つの人口戦略(人口ビジョン2100) 定常化戦略と強靭化戦略で、未来選択社会の実現を(1)定常化戦略・人口定常化には、人口置換水準TFR2.07の継続が条件・将来推計人口は、3ケース(高位・中位・低位)とも定常化せず、高齢化率高止まり・(独自試算により)めざすべきは、2060年にTFR2.07達成、2100年総人口8000万人のケース ←2040年頃TFR1.6,2050年頃1.8程度に上げる。 =高齢化率は、2054年ピーク36%のあと、30%に低下(2)強靭化戦略・人口が定常化しても効果発現に数十年。またその規模は小さくなる。このため、社会経済システムの質的な強靭化と多様性に富んだ成長力ある社会をめざす・労働生産性の伸びは内閣府ベースラインを想定・定常化戦略により2050-2100年の平均成長率は0.9ポイント上昇・さらに、強靭化戦略(生産性向上)で2020年代以降1ポイント引き上げ・2つの戦略で成長率プラスを継続・一人当たりGDPは2101年に2.5倍程度(3)未来選択社会 未来として選択しうる望ましい社会の姿 =幸福度(例、一人あたり可処分所得)が世界最高水準、個人と社会の選択が両立、多様なライフスタイル、世代間の継承と連帯7 定常化戦略の論点(人口ビジョン2100)(1)若年世代の所得向上と雇用改善(最重要) 正規化、労働法制、年功序列カーブ、男女格差、中小企業対策(生産性向上と価格転嫁)、地方企業の魅力向上(2)共働き・共育ての実現 L字カーブ問題、育児給付制度、社会保険被扶養者問題、長時間労働、同調性意識排除(3)多様なライフサイクルが選択できる社会づくり ライフイベントの集中する20代30代(人生のラッシュアワー)で多様な選択を可能に。制度や社会規範の見直し。また、高齢者就労の促進(4)プレコンセプションケア 晩婚化晩産化のなか、若い男女の選択を支えるため、健康管理やライフプラン設計の意識を高める(5)安心な出産と子どもの健やかな成長の確保 妊娠、出産、育児の一貫した伴走型相談支援と経済的支援。地域全体で支える体制、正常分娩の保険適用、虐待対策、一人親(特に母子)家庭の支援(6)子育て支援の「総合的な制度」と財源 子ども一人当たり家族関係支出をスウェーデンなみに引き上げ。また、2030年代初頭までに予算倍増(加速化プラン)(7)住まい、通勤、教育費など(特に東京圏) 住宅費高騰と通勤長時間で若い男女の可処分所得が低水準。さらに教育費(塾も)→東京集中の是正は不可避8 強靭化戦略の論点(人口ビジョン2100)・戦略の本質は、生産性上昇率の更なる引き上げ・人への投資の強化。(1)人材育成のオープン化、(2)教育費用個人負担の軽減(公費支援)、(3)教育の質的向上、(4)企業等での能力資質向上、(5)子育て世代が子育てや学びに使える「可処分時間」の増加、(6)教育分野の規制改革と分権・ローカルインクルージョンとグローバルチャレンジ9 永定住外国人政策(人口ビジョン2100)・(移民の語はともかく)既に日本は労働移民(労働目的の永定住)は年間33万人、世界第5位・アジアからの人口移動は年間590万人。湾岸諸国、次いでOECD諸国(230万人)うち日本が48万人と最多。依然、日本への就労希望は強い・しかしながら、永定住外国人の総合的戦略はいまだ策定されず・人口定常化のための補充移民政策は(年間75万人入超が必要)、非現実的で、また社会の安定性にも危惧・永定住外国人政策の視点は、高度・専門的人材を基本とする。非高技能は、慎重に検討10 人口戦略の進め方(人口ビジョン2100)・EBPMの政策立案プロセス・内閣に推進本部を設置(司令塔)、また政策研究部門を設置・国会での超党派の合意形成(プログラム法)・民間(ESG項目としての認識)と地域の主導的取組。若年女性の東京集中の是正のための戦略会議11 欧州の出生動向(金子隆一)・2010年代以降、出生動向に新たな変動。大まかには二極化・これまで出生率高かった北欧や仏で一斉に低下(仏1.80 瑞1.53など)・一方、90年代の経済体制転換以降低迷した東欧で反騰(羅1.81 チェコ1.82など)・南欧諸国も低迷している・独は家族政策の充実。2016年1.6に飛躍的上昇するも、2020年急降下・フランスについて。年次TFRは1993年最低値1.66まで低下したが、世代TFRでは概ね2.0を下まわらず推移している(年次TFRはその年の各世代の出生行動の強さ。日本の丙午の例では、その年出産控えた(TFR1.58)が、結局生涯で2.0を下回った世代はなかった。世代TFRは50歳にならないと測定できないので、例えば30歳の世代の世代TFRは20年後でないとわからない。)・晩産化になる場合に、年次TFRにテンポ効果(先走って低下)が出る。フランスはこれであり、平均出生年齢の増減とテンポ効果の存在が一致する。生涯を通じては安定的に実質的出生力が保たれている・スウェーデンについて。年次TFRは変動幅が大きいが、フランス同様、テンポ効果を含んでおり世代TFRは安定的に観測されている。12 地域づくりとの関係(人口戦略シンポジウムでの発言)・住み続けられる地域であること、保育料無償化はインパクトあった、女性が(短大が消え)県外に出るのをどう戻ってもらうか(平井伸治)・寛容性ランキングで富山県43位。女性に選ばれない地域でなくすること(田中幹夫)13 社会減対策と自然減対策の関係(当ジャーナル整理)(1)自治体持続可能性レポート(4月24日)の示唆・前回記事 自治体持続可能性分析レポート(人口戦略会議)を考える(その2)自治体ごとの結果(2024年04月26日)・同レポートは移動仮定と封鎖人口の各将来推計を比較しながら、市区町村ごとに自然減対策と社会減対策の必要度を示唆する・両者の関係について。各自治体の対策は社会減対策に重点が置かれすぎているきらいがあるが、(東京圏への流出防止はともかく)若年人口の奪い合い(ゼロサムゲーム)は出生率向上に結び付かず日本全体の人口減少を変える効果がない(同上分析レポート)。(2)東北地域のデータと評価(当ジャーナル)・令和5年推計(地域別)で、封鎖人口推計を自然増減とし、「推計人口(移動仮定)-封鎖人口」を社会増減として、データを確認すると(若年女性人口ではなく全人口)、下記の通り■(図)当ジャーナル作成・人口推計では、(東北の場合)人口減に占める自然減のシェアが非常に高い。・人口減の主因は自然減。流出(社会減)を止めても人口減少は止まらない(小池司朗)・しかし、(社会減対策はたしかにゼロサムの側面は強いが)集中のデメリットを抱える東京圏からの移動促進は、国全体でもメリットになる(3)考え方・基本的には実効性ある自然減対策(出生率向上)を根気強く続けるべき・併せて、(特に地方レベルでは)社会減対策が即効性を持ち、また、地域づくりの総力を高めることに繋がる ← (例)移住者の視点による地域資源の見直し、高齢者の巻き込み・高度成長期は東京も出生率高かったが、「東京生まれ東京育ち」が増え一流の大学を出る(結婚こだわらない)価値観の定着化につながっているのでないか。いかに価値観を変えるか(小池)・地方のことが知られていない。情報発信が重要(小池)
2024.04.27
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■今回のシリーズ(予定含む。4月26日時点)・自治体持続可能性分析レポート(人口戦略会議)を考える(その1)全体(2024年04月26日)・今回 自治体持続可能性分析レポート(人口戦略会議)を考える(その2)自治体ごとの結果(2024年04月26日)・自治体持続可能性レポートと少子化対策・地域づくりを考える(2024年04月27日)前回は分析の考え方と全体の結果を記した。今回は東北を中心に個別の結果を記したい。1 結果の概要 移動仮定推計と封鎖仮定推計の比較をした今回分析では、両者をクロスさせて新たに9つの分類を設定した。・自立持続可能性自治体(A) 65 =移動仮定、封鎖人口ともに若年女性人口の減が小さい。減少率20%未満であれば、100年後も若年女性が5割近く残存する。・ブラックホール型自治体(B) 25 =移動仮定の減少率は小さい(50%未満)が封鎖人口の減少率が大きい(50%以上)。人口増を他地域からの流入に依存し、自らの出生率が小さい。・消滅可能性自治体(C) 744 =移動仮定の減少率が50%以上の自治体。前回と同様。・その他の自治体(D) 895 =A,B,C以外のもの。ほとんどで若年女性人口は減る。このうち東北の自治体を見ると、(D)消滅可能性自治体の割合が他ブロックに比べて最も高い。・(A)自立持続可能性 全国 65 → 東北 1・(B)ブラックホール 全国 25 → 東北 ゼロ・(C)消滅可能性 全国 744 → 東北 165(その割合4分の3は突出)・(D)その他 全国895 → 東北49他ブロックでは、北海道を除き(D)が半数以上だが、東北は4分の1しかない。(A)自立持続可能性は、東北は大衡村のみ(移動仮定の若年女性人口減少率15.2%である)。関東8、中部12,近畿7,中四国3,九州が34と多い(沖縄が顕著)。具体的には、関東だとつくばみらい市(+4.1%)、流山市(+2.4%)、八丈町(-19.5%)など。東京特別区の大半は、移動仮定の減少率はさほど大きくない(新宿区で-6.6%)が、封鎖人口での減少率が大きく(新宿区で-68.2%)、(B)ブラックホールに分類される。2 東北の自治体について(1)宮城県内(35自治体)・概要 (A)自立持続可能性が大衡村。(C)消滅可能性19、(D)その他15である。・自然減対策と社会減対策の視点を得るための「9分類」に当てはめると、下の表となる。封鎖人口減少率20未満同20-50未満同50以上移動仮定減少率20未満(A)自立持続可能性大衡村(D)-1名取市(B)-1同20-50未満(D)-2富谷市(D)-3仙台市、塩竈市、多賀城市、岩沼市、東松島市、大崎市、大河原町、柴田町、亘理町、山元町、利府町、大和町、美里町(B)-2同50以上=消滅可能性(C)-1(C)-2石巻市、気仙沼市、白石市、角田市、登米市、栗原市、蔵王町、七ケ宿町、村田町、丸森町、松島町、七ヶ浜町、大郷町、色麻町、加美町、涌谷町、女川町、南三陸町(C)-3川崎町 川崎町が(C)消滅可能性自治体の中でも、最も厳しい評価の区分となった。(C)は全国で744だが、そのうち(C)-3は全国で23しかない。東北でも、外ヶ浜町と川崎町だけ(他では、南牧村、銚子市、都留市など)。 また、(D)その他の中では、名取市と富谷市が分かれた。移動仮定の若年女性人口減が少ないが、封鎖人口でみると減少が大きい(→自然減対策が必要)区分(D)-1に名取市が該当し、移動仮定で減少は比較的多いが封鎖人口では実はあまり減らない(→社会減対策が必要)区分(D)-2に富谷市。他の13は、自然減も社会減も対策すべき区分(D)-3だ。 なお、(D)-1は全国で176あるが、東北では名取市のみである。(D)-2は全国に260あり、東北では12ある。消滅可能性に該当する自治体の前回からの動きは下記の通り。・前回消滅可能性から今回脱却 4 →大衡、塩竈、山元、美里・今回新たに該当 ナシ・前回も今回も該当で、若年女性人口減少率が改善 5 →気仙沼、角田、栗原、村田、松島・同上で、若年女性人口減少率が悪化 14 →石巻、白石、登米、蔵王、七ケ宿、川崎、丸森、七ヶ浜、大郷、色麻、加美、涌谷、女川、南三陸(2)青森県(40)・(C)消滅可能性が35、(D)その他5である。・(C)のうちでも厳しい(C)-3は、外ヶ浜町のみ。封鎖人口での減が比較的小さい(C)-1には、東北町、東通村、三戸町、田子町。他の30が(C)-2だ。 なお、(C)-1は全国で176あり、東北ではほかに、平泉町、岩泉町、田野畑村、野田村、最上町、真室川町、大蔵村、鮭川村、小国町、遊佐町、只見町、西会津町、矢祭町。秋田県と宮城県にない。・(D)のうち、(D)-1はなく、(D)-2に4町村、(D)-3は1のみ。(3)秋田県(25)・(C)消滅可能性が14、(D)その他は秋田市のみである。・(C)の14はすべて、(C)-2に区分される。(4)山形県(35)・(C)消滅可能性が28、(D)その他が7である。・(C)の28のうち、(C)-1区分が6あり、他は(C)-2だ。■関連する過去の記事(令和5年人口推計(全国、地域別)についてのシリーズ)・地域別人口推計を考える(その1)(2024年01月31日)=地域別推計結果の概要・地域別人口推計を考える(その2)東北の市区町村(2024年02月14日)=個別の市区町村の結果・地域別人口推計を考える(その3)(2024年02月15日)=将来推計人口について・地域別人口推計を考える(その4)移動仮定と封鎖人口(2024年04月25日)(上記その4は、人口戦略会議が4月24日に公表した自治体持続可能性分析レポートが封鎖人口推計と移動仮定推計を比較する手法を用いているため、その説明のために、地域別推計のしくみを整理したものです。)
2024.04.26
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人口戦略会議が4月24日に、令和6年・地方自治体「持続可能性」分析レポートを公表。2014年の増田レポート(消滅可能性都市)から10年が経ち、今回は昨年12月の地域別将来推計人口(令和5年推計)に基づいた分析である。以下にその概要とポイントを記す。■今回のシリーズ・今回 自治体持続可能性分析レポート(人口戦略会議)を考える(その1)全体(2024年04月26日)・自治体持続可能性分析レポート(人口戦略会議)を考える(その2)自治体ごとの結果(2024年04月26日)・自治体持続可能性レポートと少子化対策・地域づくりを考える(2024年04月27日)■北海道総合調査研究会サイトに、令和6年・地方自治体「持続可能性」分析レポート資料が収めされている。1 分析の考え方(1)基本的考え方 2014年分析を基本的に踏襲。すなわち、若年(20-39歳)女性人口が減少→出生数低下→総人口減少で地域消滅、と推測。2020年から2050年までの30年間で若年女性人口が50%以上減少する自治体を「消滅可能性自治体」とする。(2)封鎖人口仮定推計の活用 今回はこれに加えて、(社会減対策に重点が置かれすぎたきらいがあるがゼロサムゲームに過ぎず、)各自治体が(出生増で)人口減少を回避するための対策の視点も検討した。 このため、昨年12月公表の日本の地域別将来推計人口(令和5年推計)" >地域別将来推計人口における封鎖人口を仮定した推計を活用する。(封鎖人口仮定については、下記過去記事(その4)を参照ください。) すなわち、移動仮定の推計(推計結果の本論)と封鎖人口仮定(出生と死亡だけが人口変動要因)の推計とを比較して、封鎖人口の若年女性人口が急減する地域は、自然減対策(出生率向上)が重要な課題になる。逆に、移動仮定推計で(封鎖人口仮定での減少に比較して更に)急減する地域では社会減対策が重要となる。2 分析の結果・消滅可能性自治体 =移動仮定の若年女性人口の減少率が(2020→2050年)50%以上の自治体・今回の結果は、744自治体(※711)。・前回896であり、今回脱却したのが239自治体、新たに該当が99自治体(※67)。・前回も今回も消滅可能性該当は(おだずま注;896-239=657と思われる)のうち、若年女性人口減少率が改善したのが362で、悪化が283自治体(おだずま注;同数値が12か)。(※は前回対象としない福島県下自治体を除いた数値。なお、今回は浜通り13市町は一個として推計。)3 新たな分類の設定 移動仮定推計と封鎖仮定推計の比較をした今回分析では、両者をクロスさせて新たに9つの分類を設定した。・自立持続可能性自治体(A)65 =移動仮定、封鎖人口ともに若年女性人口の減が小さい。減少率20%未満であれば、100年後も若年女性が5割近く残存する。・ブラックホール型自治体(B)25 =移動仮定の減少率は小さい(50%未満)が封鎖人口の減少率が大きい(50%以上)。人口増を他地域からの流入に依存し、自らの出生率が小さい。・消滅可能性自治体(C)744 =移動仮定の減少率が50%以上の自治体。前回と同様。・その他の自治体(D)895 =A,B,C以外のもの。ほとんどで若年女性人口は減る。■関連する過去の記事(令和5年人口推計(全国、地域別)についてのシリーズ)・地域別人口推計を考える(その1)(2024年01月31日)=地域別推計結果の概要・地域別人口推計を考える(その2)東北の市区町村(2024年02月14日)=個別の市区町村の結果・地域別人口推計を考える(その3)(2024年02月15日)=将来推計人口について・地域別人口推計を考える(その4)移動仮定と封鎖人口(2024年04月25日)(上記その4は、人口戦略会議が4月24日に公表した自治体持続可能性分析レポートが封鎖人口推計と移動仮定推計を比較する手法を用いているため、その説明のために、地域別推計のしくみを整理したものです。)
2024.04.26
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昨年12月に公表された地域別人口推計(令和5年推計)について何度か書き記してきた。前回(その3)では全国推計のしくみを記したが、今回は地域別推計の方法についてポイントを記す。なぜならば、人口戦略会議が4月24日に公表した自治体持続可能性分析レポート(それについての記事は下記)が封鎖人口推計と移動仮定推計を比較する手法を用いているため、その前提として地域別推計のしくみを整理するもの。■令和5年人口推計(全国、地域別)についてのシリーズ・地域別人口推計を考える(その1)(2024年01月31日)=地域別推計結果の概要・地域別人口推計を考える(その2)東北の市区町村(2024年02月14日)=個別の市区町村の結果・地域別人口推計を考える(その3)(2024年02月15日)=将来推計人口について・今回 地域別人口推計を考える(その4)移動仮定と封鎖人口(2024年04月25日)■自治体持続可能性分析レポートについての記事・自治体持続可能性分析レポート(人口戦略会議)を考える(その1)全体(2024年04月26日)・自治体持続可能性分析レポート(人口戦略会議)を考える(その2)自治体ごとの結果(2024年04月26日)・自治体持続可能性レポートと少子化対策・地域づくりを考える(2024年04月27日)1 全国推計との関係 将来推計人口(全国値、令和5年推計、2023年4月公表)のしくみと評価は、前回(その3)記事のとおり。地域別推計は、この全国推計のうち、出生中位・死亡中位による男女・年齢別推計人口と一致する。2 地域別人口推計(令和5年推計、2023年12月公表)のしくみ・社人研サイト 日本の地域別将来推計人口(令和5年推計) 5歳以上はコーホート要因法により推計(ある年の男女・年齢別人口を基準として人口動態等の仮定値=生残率と移動率=をあてはめて推計)。0-4歳人口は、これに加えて出生率及び出生性比に関する仮定が必要。 以下、具体的に。(1)基準人口 令和2年(2020年)国勢調査による。(2)将来の生残率 全国推計から得られる全国の男女・年齢別生残率を利用。ただし、地域差については次のように対処。 まず、(a)55-59歳→60-64歳以下の年齢は、地域差は極めて小さいため都道府県別に将来の生残率を仮定した(日本版死亡データベースの都道府県別生命表を用いて都道府県別に男女・年齢別生残率を計算し、次いで全国に対する相対的較差(比)を計算し、2045-2050年の全国値との相対的較差が、2015-2020年における相対的較差の2分の1になるよう直線的に減少させた)。 (b)60-64歳→65-69歳以上については、同じ都道府県内の市区町村間でも生残率の差が大きいため、都道府県と含まれる市区町村の較差を利用して生残率の仮定値を設定した(厚生労働省の市区町村別生命表から市区町村別に男女・年齢別生残率を計算し、次いで日本版死亡データベースを用いて所属する都道府県の男女・年齢別生残率を計算。これら生残率の相対的較差を2045-2050年の期間まで一定と仮定して、(a)と同方法で設定した都道府県別の生残率を用いて市区町村別の生残率を設定)。 ただし、2020年以降の死亡状況と地域差が大きく変化したため、2020-2025年の生残率については、人口動態統計個票データを二次利用して得た死亡数を反映して、2020年から2022年までの死亡の地域差を設定した。(3)将来の移動率 将来の人口移動は、転出数と転入数に分けて推計。(a)転出数は、地域別人口に占める域外への転出数の割合=転出率=を仮定し、(b)転入数は全地域の転入数(全国推計による人口から各地域に生残する人口の合計値を引いた値)に占める地域別の転入数のシェア=配分率=を仮定して推計。転出率と配分率を総称して移動率という。 地域別にみた男女・年齢別移動傾向は一時的要因で大きく変化する。そこで、(a)男女・年齢別転出率は、2005-2010年、2010-2015年、2015-2020年の3期間の地域ごとの平均値を、2045-2050年まで一定として仮定値を設定。(b)配分率は、上記3期間の平均値をベースに、対象地域の人口規模の変化や転入元地域の人口分布変化を考慮して、2045-2050年までの仮定値を設定。 なお、上記3期間の移動率が大きく変動した地域は、突発的変化の期間を除外して算出するなどした。また、新型コロナの影響については、2020-2025年に限定して国勢調査以降の変化を加味。(4)将来の子ども女性比 0-4歳人口の20-44歳人口に対する比である。市区町村別の子ども女性比の全国の同指標に対する相対的較差を用いて仮定値を設定する。具体的には、2005年、2010年、2015年、2020年の4時点における市区町村別の相対的較差(比)を算出し、原則としてその趨勢を直線的に延長して2025年の市区町村別の較差を設定し、その後2050年までは一定と仮定した。これを、全国推計による2025-2050年の男女・5歳階級別人口による将来の子ども女性比に乗じて得た市区町村別の子ども女性比を仮定値とした。 ただし、4時点の相対的較差の変化が直線的かどうかを市区町村ごとに検討し、直線的推移の場合はその趨勢を2025年まで延長し、そうでない場合は直近の地域差の動向を投影した。具体的には下記。・1時点の較差のみが極端な値の場合は、当該時点を除外して直線的趨勢を延長・2010-2020年の較差が明瞭に低下した場合は、当該3時点又は直近2時点の較差の趨勢を投影・2015年、2020年の2時点の較差がほとんど変化ない場合は、2020年の較差が2025年まで継続するとして将来に投影(5)将来の0-4歳性比 全国推計による2025年以降各年次の施肥を一律に適用。3 封鎖人口推計について 地域別推計では、参考として、「封鎖人口を仮定した」男女・年齢階級別推計が示されている。これは、地域間の人口移動をゼロとした(出生と死亡の要因のみによる)推計である。 なお、この各地域の合計値は、全国推計で示されている「条件付き推計」の一環としての封鎖人口推計(出生中位・死亡中位)と一致する。全国推計の場合の封鎖人口推計は、国際移動だけをゼロにしたものになるが、地域別推計における封鎖人口推計は、国内の地域間の移動(各地域の移動を足し合わせると全体でゼロになる)もないと仮定した推計である。 ちなみに、封鎖人口を仮定した推計はどのように相違するか。・宮城県の場合(県単位) 移動を仮定した地域別推計では、 (2020年)2,301,996人→(2050年)1,829,565人 指数(2020年対比)79.5 封鎖人口仮定では、 (2020年)2,301,996人→(2050年)1,792,773人 指数(2020年対比)77.9・丸森町 移動を仮定した地域別推計 12,262 → 4,974 指数40.6 封鎖人口仮定 12,262 → 6,995 指数57.0・秋田県(県単位) 移動を仮定した地域別推計 959,502 → 560,429 指数58.4 封鎖人口仮定 959,502 → 613,338 指数63.9・東京都(都単位) 移動を仮定した地域別推計 14,047,594 → 14,399,144 指数102.5 封鎖人口仮定 14,047,594 → 11,541,143 指数82.2東京は、地域間移動がなければ将来人口が減ることになる。秋田は、いずれにしても人口は減るが、地域間移動がなければ減りは少ない。丸森町も同様だが、宮城県全体では移動を仮定した方が人口減は緩和されている。
2024.04.25
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昨日(19日)のニュースには驚いた。大崎市民病院の歯科医師が、診察室内で歯科衛生士の首を絞めて、殺人未遂と傷害の疑いで逮捕されたというのだ。捜査段階なので罪状を決めつけて論ずるべきではないが、衝撃である。ところで、河北新報の紙面(20日朝刊)では「大崎市民病院医師を逮捕」の見出しで、これは問題がある。法制度(医師法、歯科医師法)の上でも一般の認識でも、医師と歯科医師は別個独立の職種であり、歯科医師は医師に含まれないだろう。記事本文では正しく歯科医師とあるが、見出しがこうなるのは河北新報の編集担当者の無知か不注意か。目くじら立てるほどではないかも知れないが、医師たちは無用に印象悪くされたと思うかも。何より、読者に事実を伝える報道の役割としては明らかに失格だ。当たり前だが、他のメディアでは歯科医師や歯科医の語で見出しを付けている。今日見ると河北新報オンラインでは見出しは「歯科医師を殺人未遂容疑で逮捕」とされている。
2024.04.20
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4月18日の新聞記事であった。縄文人と弥生人の二重構造モデルに疑問を投げかける内容で、縄文、関西、東北の3系統に分けられる可能性が高い、とする。■理化学研究所プレスリリース 全ゲノム解析で明らかになる日本人の遺伝的起源と特徴以下に、要点をまとめる。・全国7地域の医療機関に登録された3,256人の日本人の全ゲノム情報を分析。・まず、コモンバリアントに基づいて従来の主成分分析を実施。以前の研究と同様に、沖縄と本土クラスターの二重構造が再現された。・次いで、レアバリアントを使用した次元削減分析で、前例のない遺伝構造が明らかになった。・具体的には、本土の領域間のより明確な分離と、本土クラスターから沖縄クラスターのより明確な区別が観察される。また、東北の人々が細長いエリアにクラスタリングされる。・さらに、ADMIXTURE分析の結果、日本人口は、3つの祖先の混合によって最もよくモデル化できることを示唆する。すなわち、K1(沖縄)成分は、本土サブグループで安定した割合、K2(東北)成分とK3(関西)成分は西から東北に徐々に変化する。・以前の研究により、日本人が縄文人及び東アジア(EA、主に漢民族)の祖先をもつことが示唆されている。最近の古代ゲノム分析から、北東アジア(NEA)の祖先の影響も指摘される。この背景のもと、縄文、EA、NEAの現代及び古代の遺伝データを今回データと共に分析した。・縄文の祖先比率は、沖縄がもっと高く(28.5%)、次いで東北(18.9)、関西は最も低い(13.4)と推定。これは縄文人と沖縄の人々に遺伝的親和性を示す以前の研究と一致。また、関西地方は漢民族と遺伝的親和性が高いことが明らかになった。・また、関西人と黄河又はその上流地域の中新石器時代および後新石器時代古代中国集団との間に顕著に密接な関係が見受けられた。対照的に、東北地方の個体は縄文人との遺伝的親和性が顕著に高く、また、沖縄の宮古島の古代日本人ゲノムや古代韓国人(三国時代)とも高い遺伝的親和性が示された。・最新の確率的手法IBDmixを使用し、現生人類の近縁で絶滅したネアンデルタール人やデニソワ人由来の遺伝子配列が検出された。・本研究は、日本人の起源に関する重要な洞察を提供する。従来の二重構造モデル(縄文時代の狩猟採集民と大陸からの弥生時代の稲作移民の混血)に対して、最近出土した人骨のゲノム研究による三重構造モデル(縄文人の祖先集団、北東アジアに起源を持ち弥生時代に日本に渡った集団、東アジアに起源を持ち古墳時代に日本に渡った集団の3集団の混血)が提唱された。しかし、先行研究では古人骨全ゲノムのサンプル数が制限されていたところ、大規模な現代日本人ゲノム情報に基づいた今回の研究により、三重モデルの裏付けになる可能性がある。・さらに、初めて日本人の遺伝的構造に対する東北地方人の祖先の影響の重要性が強調された。居住していた蝦夷(エミシ)の起源を調べる必要がある。報道は分かりやすさを求めるが(これで決着?)、あくまで数理上の解析であり、三重モデルをよく説明できそうだということだろう。人類学的視点、古い地形や古気象学など様々な観点から研究の深化が求められると考えるが、今回の成果が支持しそうな仮説的な3系統とは、次のようになろう。1.縄文系 沖縄に多い2.関西系 関西に多い。古代中国黄河付近の漢民族と親和3.東北系 東北に多い。縄文人や古代韓国人とも親和。由来が不詳(蝦夷?)■関連する過去の記事・東北の縄文人の特徴(2016年4月7日)・東北縄文人はどこから来たか(08年11月23日)・ミトコンドリアDNAと日本人の起源(07年11月4日)・縄文人と弥生人(07年6月5日)その他、下記のフリーページの記事リストに関連する記事あると思います。・東北とは何か・歴史に見る東北・東北の民俗・言語・文化・出版・思想・科学
2024.04.19
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もう1年ほど前のことになるが、仙台駅から「ひたち」で出かけた。終着の品川駅が表示されることに、新鮮さを感じながら乗車した。さらに数年前のことだが、仙台駅で「女川」の文字が灯ったときの熱い感動を、思い出したのだった。
2024.04.18
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利府町の黄金山神社。桜が満開でした。藤田地区公民館の夫婦桜はこの手前(撮ればよかった..)。訪問日 2024年04月14日
2024.04.15
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(前回記事旭山(石巻市北村)を訪れる(その1 桜と眺望)(2024年04月14日)に続いています。)山頂に、朝日山計仙麻神社がある。旭山神社ともいい、かつては深谷一宮旭山宝竜大権現とも称されていた。延喜式神名帳にも名を残し、古くから河南地区の産土神として信仰を集めている。創祀の年代は不明で、大同年間(806-810)坂上田村麻呂が陸奥侵攻に際し、戦勝を祈願、戦勝後千束の田を寄進したことが社伝にみられる。本殿は昭和11年改築。祭神 倉稲魂命 豊玉姫命例祭 4月下旬(下記の宮城の旅サイトから。)参道をのぼる途中、左右にもみどころがあった。坂道の下の方から取り上げていくが、まず、旭山観音堂だ。説明版を読んでみる。------------旭山観音堂旭山観音堂は亡学童や戦没者の冥福を祈らんため発願し 昭和13年建立したもので 文豪徳富蘇峯(ママ)定礎し御堂は東北大学小倉強教授の設計 平安時代の様式で三間二面単層四注造の本瓦葺回廊をめぐらし 前面は張り出し 背面の子持石とよく調和し 結構荘厳清水観音堂を髣髴せしめる 聖観音像は元帝展審査委員国方林三の作 国宝的傑作である 扁額「観自在」は蘇峯(ママ)の筆旭山御堂の中に拝みぬ 端厳微妙の聖観世音 土井晩翠------------参道から観音堂に分かれ行く箇所には、左に上記の説明版、右には愛知揆一書になる「旭山聖観音」の石碑がある。小径を進んでいくと、しばらくして断崖にせり出すように建立された観音堂が現れる。すぐ上には奇岩が聳え立っている。説明版に言う子持石だろう。堂宇の周りを歩いてみた。次に、聖観音の入口から参道を少しだけ登ったところに、桃太郎神社の入口がある。左に分け入って歩くと、すぐに開けた場に出て、小さな祠と大きな石碑がある。碑には、「日本一桃太郎神社 内閣総理大臣 岸信介 書」とある。お社には、なぜか猫たちが大集合。立派な碑の裏側を読んでみる。次のように刻まれていると思うが、判読しかねる部分もあり、自信がない。------------桃太郎 ここに生まれて ふるさとの なほ新しく 栄ゆる 旭山昭和三十二年四月二十八日 斎藤 荘次郎 謹------------桃太郎神社から参道に戻りさらに登ると、右手に「旭山不動尊」と石柱がある。右側面には、「日本大学総長勲一等医学博士鈴木勝書」とある。左側面には「昭和五十一年四月二十八日 日本大学理□ 医学博士 □野一 建立」と(読み間違い容赦下さい)。さて、石碑の辺りから脇に立ち入ると、下り道の石段があり、降りていく。石は整形に切られており、最近整備された道のようだ。不動明王様は、東日本大震災の後、今は北村の高福寺に移されているのだそうだ(下記サイト)。なお、上の画像でお堂前の高台に至る手前から、下の沢に降りる階段がある。湧き水の場所に降りるためだろうか。・宮城の旅 旭山・石巻市サイト 県立自然公園旭山訪問日 2024年4月14日■今回訪問の記事・旭山(石巻市北村)を訪れる(その1 桜と眺望)(2024年04月14日)・旭山(石巻市北村)を訪れる(その2 神社、観音堂など)(2024年04月14日)
2024.04.14
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夏のような暖かさで、桜もほころびた県立自然公園旭山。のぼってみました。大鳥居のわきの広場になぜかヤギさん。さて、山頂にのぼる急な坂道。下の画像からさらに進んでいくと、地元の方々だろうか清掃活動をしておられた。山頂にあるやや新しめの説明版。読んでみる。------------県立自然公園 朝日山 旭山は標高174m、山頂からの眺望はすばらしく、春は桜の名所として広く親しまれている。 大正の初期、豊富な芝が生えるこの山野を名所にすべく、私財を投じ、整備に傾注したのが斎藤荘次郎氏である。 昭和8年、皇族東久邇宮殿下が登臨なされるなど由緒ある公園である。昭和10年旭山観音堂が建立され、昭和15年12月16日、県立自然公園として旭山が松島に次いで2番目に指定された。 現在は、地元の愛護団体等が清掃活動などを行い、大事に守り続けている。平成27年9月 宮城県 観光課------------桜が青空のもと、見事に咲いている。眺望がまた、すばらしい。最初のは、南郷・木間塚方面か。前谷地・和渕の方向だろうか。以下は石巻市街地を望んでいる。拡大した画像を続けるが、日本製紙工場のさきに浮かぶのは、田代島だろうか。・宮城の旅 旭山・石巻市サイト 県立自然公園旭山訪問日 2024年4月14日■今回訪問の記事・旭山(石巻市北村)を訪れる(その1 桜と眺望)(2024年04月14日)・旭山(石巻市北村)を訪れる(その2 神社、観音堂など)(2024年04月14日)
2024.04.14
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4月11日のニュースで、浪江町大堀地区で大堀相馬焼の登り窯に実に14年ぶりに火が入ったという報道があった。以下は、NHKの報道内容のポイントだ。------------・浪江町に伝わる国指定伝統的工芸品の大堀相馬焼の産地で、原発事故の影響で途絶えていた伝統的な登り窯による作品を焼く作業が、14年ぶりに行われた。・大堀相馬焼は、大堀地区に300年以上前から伝わる。繊細なひびの模様や馬をあしらった絵柄などが特徴。・避難先で活動するなどしている窯元の組合は、昨年、事故前の恒例行事登り窯まつりを来月3月に復活させることを決め、まつりで展示する作品を伝統的な登り窯で焼く作業を11日から始めた。・地震で壊れ昨年再建した窯に、11日朝6時に窯元2人が火を入れ、薪をくべた。・焼くのは地元の子などの作品約800点。13日昼まで7人の窯元とボランティアが交替で温度を調整する。・「休閑窯」の半谷秀辰さん(談話)。・大堀相馬焼協同組合理事長で「半谷窯」の半谷貞辰さん(談話)。------------このニュース映像をTVで見ていて、アッと声をあげそうになった。湯呑かカップが映し出されたのだが、深い青緑色の器の上半分には細かいひび割れのような模様が見え、濃く彩られた下半分は内外の二重構造で外側に小さな窓がいくつか開いている。これが、子どものころ家にあった記憶の中の湯吞みと一致したからだ。祖父が使っていたような気がする。なお、河北新報の記事(12日)もあり、ポイントは以下。------------・大堀相馬焼協同組合の半谷貞辰理事長が展示施設「陶芸の杜おおぼり」の登り窯に火を入れた。・窯の中には町内の児童や住民が作った品や、大堀相馬焼職人の作品を入れた。・焼いた作品は、5月3日-5日に同施設で開催される「大せとまつり」で展示する。・大堀相馬焼は300年を超える伝統を有する。・浪江町によると、大堀地区を中心に26軒の窯元があった。原発事故で全員避難。その後、県内外の避難先で12軒が再開。昨年3月の避難指示解除で1軒が大堀地区に帰還した。------------福島県には、国指定の伝統的工芸品が5品目ある。(福島県サイト)・会津塗・会津本郷焼・大堀相馬焼(昭和53年国指定、平成9年3月31日福島県伝統的工芸品指定)・奥会津編み組細工・奥会津昭和からむし織(会津郷からむし織)大堀(おおぼり)相馬焼は、相馬藩士半谷休閑(はんがいきゅうかん)の下僕の左馬(さま)によって創始されたという。佐馬が中村で陶器の学び方を学んで帰ると、さっそく井手村〔おだずま註;明治町村制で大堀、井手など8か村が合併して標葉郡大堀村が発足〕の美森(うつくしがもり)で土を発見し、小さな窯をつくり陶器制作に成功。主人の休閑がこの技術を村人に伝える。技術は近隣に広がり、相馬藩の特産物として保護育成され、江戸末期には窯元の数は100戸を超え、北海道から関東関西にまで販路が広がる。明治になり藩の援助がなくなると産地は次第に衰退。大堀相馬焼の特徴は、「青ひび」が器全体の地模様になっていること。青ひびは青磁釉によるもので、主原料となる砥山石は大堀焼産地ただ1カ所にのみ産出する原料だ。また、珍しい特徴として「二重焼」の構造があり、お湯が冷めにくく持ちやすい。・東北経済産業局サイト東北の伝統的工芸品・うつくしま電子事典 半谷休閑大堀地区は浪江町の山側の区域。双葉郡大堀村が昭和の合併で同郡浪江町と統合された。私は、大堀(浪江)は双葉郡なので、相馬中村藩領から外れているのではと一瞬思ったのだが、大堀も相馬藩領だった。明治に発足した双葉郡の名は、標葉と楢葉の2郡を統合したものだが、北部の旧標葉郡は藩政時代に相馬藩の領地である(南部の旧楢葉郡は磐城平藩)。ちなみに、相馬郡も明治の発足で、宇多郡(現相馬市、新地町)と行方郡(現南相馬市、飯舘村)が統合されたものだった。なお、旧宇多郡でも、今の新地町(駒ヶ嶺以北)は仙台藩領であった。福島県浜通りの歴史は、よく勉強しておきたい。浪江は磐城寄りのようにも感じるが、地図では茨城県境よりむしろ宮城県境に寄っている。
2024.04.13
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先日も、石ノ森章太郎の出身でないのに石巻市がなぜマンガッタンなのか?的な話を受けた。たしかに、石ノ森章太郎の生家は登米市石森だ。石巻市の北上川河口にある中洲の中瀬には昭和24年から映画館を営業している岡田劇場があり、石ノ森少年は高校時代通っていたという。そんな石巻に思い入れの深い同氏に、1995年に石巻市長が石巻の活性化の協力を依頼し、石ノ森氏が快諾。翌年、市は石巻マンガランド構想を打ち立てる。岡田劇場のあった中瀬には2001年石ノ森萬画館が建てられ、その中瀬には石ノ森氏によってマンガッタン島の愛称が付けられた。じつは、氏は昭和36年に23歳で70日間の世界旅行に出かけたが、アメリカにも3週間滞在しニューヨークのマンハッタン島にも行っている。長さ約20kmのマンハッタン島と、北上川河口の600メートルほどの中瀬とはサイズこそ違うが、細長く伸びた形はよく似ている。■参考 木村浩二監修『意外と知らない宮城県の歴史を読み解く!宮城「地理・地名・地図」の謎』実業之日本社、2014年
2024.04.11
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かなり前の記事で、三八、上十三、上北下北、東西南北中の津軽郡、十三湖などなど、方位や数字の組み合わせ地名が豊富な青森県は、抽象的幾何学的コンビネーション地名では絶対に世界一だ、と書いた。(青森県東部の地理概説(三八、上十三などの意味)(09年8月1日))東北の経済界を長らく牽引された黒田四郎さんの著作を読んでいたら、青森県の地名について書いておられた。以下に引用してみる(一部を算用数字に変換しました)。■出典 黒田四郎『東北見聞録:歩く・会う・語る・住む』八朔社、1997年(東北通商産業局「東北通産情報」の連載エッセイをもとにしたもの。ここで引用したものは、1988年4月号が初出。)------------ あるとき、青森県の市町村を調べていたら、名前の中に数字がある市町村が多いことに気がついた。数えてみると、下北半島の南の方から、三戸、五戸、六戸、七戸、八戸、十和田、十和田湖、百石、三沢、六ヶ所、と10個あり、津軽半島の方に五所川原と三厩と2個あって12個となる。12コといえば、「十二湖」という湖が青森県にあるのも面白い。 それに加えて市浦は昔は四浦といったという話がある。もしそうならば13個となる。13個といえば、不思議なことに青森県には、「十三湖」という湖もある。 青森県の市町村は67あるので、数字の入った市町村の占める割合は、20%になる。日本の各県のなかで、このように名前の中に数字がある市町村が13個もある県、そしてまたその割合が20%もある県は、ほかにないようである。 最近各県が日本一を競う風潮にあるようであるが、それならば青森県は、これを日本一と数えあげてはどうであろうか。 ところで、このことをかつて、青森に勤務したことのある同僚のTさんに話したところ、数字はデジタルであるから、「それならば、青森県は”デジタル県”ですね」という言葉が返ってきた。面白い発想であり、私はこれを頂戴することにした。------------おだずま編集長の発想と同じような、といっては大家に失礼かも知れないが、このような見方をされていたことに非常にうれしく感じた。共鳴しながら、時代を超えた「対話」のつもりで読んでいた。■関連する過去の記事 十三の読み方 再論(2015年5月26日) 十三(じゅうさん)湖と十三(とさ)湊、とさの語源(2013年7月14日) 「三八地方」を考える(再論)(2011年12月4日) 五能線の名の由来を考える(10年5月24日) 青森県東部の地理概説(三八、上十三などの意味)(09年8月1日) 南部の戸(へ)の地名(07年12月17日)
2024.04.10
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県道3号塩釜吉岡線の東を並行する小西川の土手沿いの小径に、立派な赤い鳥居がある。地図には天満宮とある。『宮城縣黑川郡誌(完)』(黑川郡敎育會、大正13年)には、村社天神社として、次の記載がある。村社天神社 鶴巢村太田字川原田に在り。祭神 菅原道眞由緒 勧請年月を詳にせず明治5年1月村社に列す境内に神明社あり幕柳八幡社外6社を合祀す其神社及び年月左の如し(1)幕柳字廣畑村社八幡神社 明治43年5月21日指令(祭神、由緒を略。以下、関場神明社以降を除き同様)(2)幕柳字砂子田無格社愛宕神社 明治43年5月31日指令(3)幕柳字石ノ澤無格社熊野神社 明治43年5月13日指令(4)幕柳字宇津野無格社神明社 明治43年5月13日指令(5)小鶴澤字堰塲村社神明社 明治42年11月17日指令祭神 天照皇太神由緒 不詳 明治5年1月 村社に列す(6)小鶴澤字上ノ澤無格社南龜稻荷神社 明治42年11月17日指令祭神 倉稻魂命由緒 不詳(7)山田字土井下村社神明社 明治42年10月2日指令祭神 天照皇太神由緒 不詳 明治5年1月村社に列す(一部新字体にしました。番号はオダズマ振付け)明治初年にこの天神社(天満宮)が村社とされ、明治後期の合祀政策により付近の7つの神社をまとめたという。(5)小鶴沢神明社と(7)山田神明社は、小字名が合致するので、今回の探訪で訪れた(下記記事)神社のことで間違いないだろう。(6)の小鶴沢字上ノ沢の稲荷神社とは、訪問した稲荷神社(下記記事)のことだろうか。現在の小字名で上の沢(かみのさわ)は、神明社の町道をはさんだ南側のあたりで場所が離れているので、違うような気がする。(1)から(4)は旧幕柳村の神社。今回の探訪では行かなかったが、(1)は県道3号沿いで地図に載っている。■関連する過去の記事(明治の神社統合) 神社の多い福島、少ない岩手(2014年2月9日)訪問日2024年4月4日午前■この日の訪問の記事 天満宮(大和町鶴巣太田)(2024年04月09日) 神明社(大和町鶴巣小鶴沢)(2024年04月08日) 稲荷神社(大和町鶴巣小鶴沢)(2024年04月07日) 神明社(大和町鶴巣山田)(2024年04月06日) コミュニティセンター山田(大和町鶴巣山田)(2024年04月05日) 黒川神社(大和町鶴巣北目大崎)(2024年04月04日)
2024.04.09
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県道3号塩釜吉岡線を利府しらかし台から北上して、大和町に入り丹勝ゴルフ場の信号で右折して大郷町に進む。この町道は何度も通っているが、路傍の小高い丘に鳥居がみえる。神明社だ。民家の裏庭を崖下に見下ろす位置にあるので、恐縮しながら幅の狭い石段を登り、杉林の中のお社に参詣させていただいた。前回記事の稲荷神社は、この付近からさらに別の町道に入ってすぐの位置にある。『宮城縣黑川郡誌(完)』(黑川郡敎育會、大正13年)には、村社天神社として、次の記載がある。村社天神社 鶴巢村太田字川原田に在り。祭神 菅原道眞由緒 勧請年月を詳にせず明治5年1月村社に列す境内に神明社あり幕柳八幡社外6社を合祀す其神社及び年月左の如し・幕柳字廣畑村社八幡神社 明治43年5月21日指令(祭神、由緒を略。以下、関場神明社以降を除き同様)・幕柳字砂子田無格社愛宕神社 明治43年5月31日指令・幕柳字石ノ澤無格社熊野神社 明治43年5月13日指令・幕柳字宇津野無格社神明社 明治43年5月13日指令・小鶴澤字堰塲村社神明社 明治42年11月17日指令祭神 天照皇太神由緒 不詳 明治5年1月 村社に列す・小鶴澤字上ノ澤無格社南龜稻荷神社 明治42年11月17日指令祭神 倉稻魂命由緒 不詳・山田字土井下村社神明社 明治42年10月2日指令祭神 天照皇太神由緒 不詳 明治5年1月村社に列す(一部新字体にしました)堰塲村社神明社が、今回訪問した社であろう。今の表記だと鶴巣小鶴沢字関場になる。また、最後の山田字土井下神明社は今回訪問した(下記記事参照下さい)県道3号沿いの神社で間違いないだろう。小鶴沢字上ノ沢の稲荷神社とは、訪問した稲荷神社(前回記事)だろうか。現在の小字名だと少しズレているが。訪問日2024年4月4日午前■この日の訪問の記事 天満宮(大和町鶴巣太田)(2024年04月09日) 神明社(大和町鶴巣小鶴沢)(2024年04月08日) 稲荷神社(大和町鶴巣小鶴沢)(2024年04月07日) 神明社(大和町鶴巣山田)(2024年04月06日) コミュニティセンター山田(大和町鶴巣山田)(2024年04月05日) 黒川神社(大和町鶴巣北目大崎)(2024年04月04日)
2024.04.08
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通ることのなかった町道に入ってみると、小さな神社の鳥居が。脇には土地改良事業の記念碑があり、子孫に美田を残したことが記されていた。訪問日2024年4月4日午前■この日の訪問の記事 天満宮(大和町鶴巣太田)(2024年04月09日) 神明社(大和町鶴巣小鶴沢)(2024年04月08日) 稲荷神社(大和町鶴巣小鶴沢)(2024年04月07日) 神明社(大和町鶴巣山田)(2024年04月06日) コミュニティセンター山田(大和町鶴巣山田)(2024年04月05日) 黒川神社(大和町鶴巣北目大崎)(2024年04月04日)
2024.04.07
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県道3号塩釜吉岡線を利府しらかし台から大和町に入って進んで、二つ目の信号のある交差点。西に分かれると富谷市大亀山方面。階段を登っていくと、高台に3坪ほどの建物。おそらく、お社を取り囲むように作ったようだ。なお、この交差点のちょっとだけ手前にコミュニティセンター山田がある(前回記事)。訪問日2024年4月4日午前■この日の訪問の記事 天満宮(大和町鶴巣太田)(2024年04月09日) 神明社(大和町鶴巣小鶴沢)(2024年04月08日) 稲荷神社(大和町鶴巣小鶴沢)(2024年04月07日) 神明社(大和町鶴巣山田)(2024年04月06日) コミュニティセンター山田(大和町鶴巣山田)(2024年04月05日) 黒川神社(大和町鶴巣北目大崎)(2024年04月04日)
2024.04.06
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何度も通っている県道(3号塩釜吉岡線)沿いにあるがさほど気に留めていなかった。はじめて車を停めて眺めてみた。建物の妻にデザインされたcYcは、コミュニティセンター山田の意味か。消防小屋が併置されていた。眼前を黒い小さな一羽がスーッと飛んで行った。よくみると、ツバメの巣があるのだった。ずいぶん久しぶりにツバメを見た気がする。大和町の例規集をネットでみたが、吉岡コミュニティセンター、南部コミュニティセンター(杜の丘)、吉田コミュニティセンターについてはそれぞれ条例等があるが、「コミュニティセンター山田」はないようだ。町立ではなく自治会の施設なのか。選挙の投票所にはなっているようだ。訪問日2024年4月4日午前■この日の訪問の記事 天満宮(大和町鶴巣太田)(2024年04月09日) 神明社(大和町鶴巣小鶴沢)(2024年04月08日) 稲荷神社(大和町鶴巣小鶴沢)(2024年04月07日) 神明社(大和町鶴巣山田)(2024年04月06日) コミュニティセンター山田(大和町鶴巣山田)(2024年04月05日) 黒川神社(大和町鶴巣北目大崎)(2024年04月04日)
2024.04.05
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黒川神社を訪れた。「東方乃薬師 黒川神社 参拝のしおり」から------------【黒川神社御由緒】 当社の起源は多賀城の鎮守府将軍大野東人の流れをくむ黒川郡三ヶ内城主報恩寺可則(よしのり)が仁和年間(885-889)智証大使(ちしょうだいし)の作になる薬師の像を霊験あらたかな当所にお祀りしたことに始まると伝えられています。 この薬師像は、永承年間(1046-1053)源義家が東征に際し尊崇して「袖振薬師」と称しました。 安永年間の風土記(1774)によれば、この薬師像は「功徳山八聖寺」と言われ、黒川郡を領していた黒川晴氏が特に「東方の薬師」と称し崇敬されました。 明治元年になりますと、新政府によって神仏分離令が発せられ、同5年薬師堂は村社「黒川神社」となりました。 旧社殿は前出の風土記によれば三間四面の堂宇とあり、現在の社殿は明治11年に起工、同13年竣功されたもので、用材はすべて境内周辺の木材が充てられ、建設当時は本殿・幣殿は木羽葺、拝殿は茅葺屋根でした。 昭和3年、無格社・住吉神社が合祀されました。【御祭神と御神徳】 御祭神は薬師如来と通ずるところから「少彦名命」(すくなひこなのみこと)が祀られています。 命は『古事記』では神産巣日神(かみむすびのかみ)、『日本書紀』では高皇産霊神(たかみむすびのかみ)の子で、大国主命の国土経営に助力し、貢献されました。また、医療・医薬・温泉・禁厭(まじない)・酒造の道に優れた神でもあります。 薬師如来は衆生のあらゆる病気・災難を取り除く役割を担っていたとされ、氏子崇敬者は今もって「お薬師様」とも呼び、家内安全・病気平癒・無病息災・災難防除・商売繁盛・子育て・交通安全・学業成就等を祈願しています。【仁王尊】 仁王尊は仏法の守護神であり、寺門の左右に寺門神として仁王像が立てられることが多く「金剛力士像」と言われます。 向かって左の那羅延(ならえん)金剛は口を開いた「阿形」、向かって右の密迹(みつしゃく)金剛は口を閉じた「吽形」に表されます。《阿吽の呼吸》 3尺2寸の本尊に対して仁王尊は6尺8寸と大きく、昭和60年解体修理の際に「永享4年(1432)再興勧進」という胎内の記述が判明しました。 桧の寄木造りで、子どもがその股をくぐると「はしか」が早く治るという言い伝えがあり、無病息災を願う人に親しまれています。 現在の仁王堂(鞘堂)は昭和60年に建立されたもので、元は本殿に安置されていて明治15年4月より現在の位置に新築された記録があります。 また、仁王像後方に祀られております十二神将は1尺8寸でやはり智証大師の作と伝えられ、薬師如来の「十二の大願」を護持するための守護神です。------------黒川神社は明治以前は「薬師堂」として1200年もの歴史を持っているが、その間火災にも会わず奥の院に当初からの薬師如来が祀られている。明治になって神社になり、薬師如来と一致する少彦名神が御祭神として祀られることになった。(社報黒川神社第24号から)訪問日2024年4月4日午前■この日の訪問の記事 天満宮(大和町鶴巣太田)(2024年04月09日) 神明社(大和町鶴巣小鶴沢)(2024年04月08日) 稲荷神社(大和町鶴巣小鶴沢)(2024年04月07日) 神明社(大和町鶴巣山田)(2024年04月06日) コミュニティセンター山田(大和町鶴巣山田)(2024年04月05日) 黒川神社(大和町鶴巣北目大崎)(2024年04月04日)
2024.04.04
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岩切の入山から、住宅街の車道を県民の森中央公園に登っていく途中に、岩切城跡の説明版がある。------------史跡 岩切城跡 指定年月日 昭和57年8月23日 別名を高森山、鴻の館(こうのたて)とも伝えられる。仙台市岩切入山と利府町神谷沢にまたがり、急峻な地形を生かした典型的な中世時代の山城である。 平泉藤原氏の滅亡後、源頼朝は重臣伊沢将監家景(いさわしょうげんいえたて)を陸奥国の留守職(るすしき)に任じた。伊沢氏は留守姓を名乗り、岩切城を居城とする。七北田川の水運にも恵まれたこの地は、東北地方の政治、経済の中心地として大いに栄えた。貞和2年(1346)、足利尊氏は奥州管領(かんれい)として吉良貞家(きらさだいえ)、畠山国氏(くにうじ)を任命するが、足利家内部で兄尊氏と弟直義(ただよし)の対立が激化すると、両者も二派に分れて争うことになる。留守氏は畠山氏、宮城氏とともに尊氏側に加担したが、正平6年(1351)ここ岩切城での合戦に敗れ、岩切城は落城、留守氏は衰えた。 その後、留守氏は伊達氏と親族関係を結んで勢力を回復、藩政時代は水沢に1万6千石を領し、一門格に列せられた。なお、岩切城は元亀(げんき)年間、留守氏が居城を利府城に移すとともに廃城となっている。(航空写真があり、その説明)高森山を中心に、頂上や尾根を平に削り出して、数多くの平場を構えている。各平場は空堀で区画され、あるいは土橋で結ばれている。(書状の画像があり、その解説)岩切城の合戦に際し、野田盛綱(もりつな)が吉良方に属したことを示す文書(軍忠状)。留守氏が徹底的な打撃を受けたことが文中に見えている。(鬼柳文書)------------城跡に登る。仙台市中心部や、岩切、利府方面がよく望める。利府町神谷沢の東雲院の近くからも、城跡に登る道がある。畑の中を進む道はすぐに杉林に囲まれた坂道になる。史跡の区域に入ったからなのか石標がある。とうはつの森という看板がある。やがて、空が開けて平場に出る。シダレ桜が咲き始め。利府方面の新幹線の高架がよく見えた。ここにある説明板。高森山頂に近いはずだが、利府町域なのだろう。利府町教育委員会と記されている。読んでみる。------------岩切城跡(高森城跡) 仙台市岩切と利府町神谷沢にまたがり、自然地形を生かした典型的な中世の山城です。 平泉藤原氏の滅亡後、源頼朝は重臣伊沢将監家景を陸奥国留守職に任命しました。伊沢家は留守姓を名乗り、岩切城を居城としました。七北田川の水運にも恵まれたこの地は、東北地方の政治、経済の中心地として大いに栄えました。貞和2年(1346年)、足利尊氏は奥州管領として吉良貞家、畠山国氏を任命します。足利家内部で兄尊氏と弟直義の対立が激化すると、両者も二派に分かれて争うことになりました。留守氏は尊氏側に加担しましたが、正平6年(1351年)の観応の擾乱にてここ岩切城での合戦に敗れ、岩切城は落城、留守氏は衰えました。 その後、留守氏は伊達氏と親族関係を結んで勢力を回復し、藩政時代は水沢に1万6千石を領し、一門格に列せられました。なお、岩切城は元亀年間、留守氏が居城を利府城に移すとともに廃城となりました。平成21年12月 利府町教育委員会------------仙台市側の説明板に比較して、ですます体と若干の送り仮名の異同のほかには、「観応の擾乱」の語が入っている。去年よりはだいぶ遅れたが、仙台でも桜開花と報道された。早い遅いはあっても毎年毎年、花は咲く。何百年前の合戦に思いを馳せながら、陽気に包まれた散策だった。(4月2日午後)■関連する過去の記事(中世の岩切周辺) 中世宮城の名族たち(その2)(2016年12月26日) 中世宮城の名族たち(その1)(2016年12月23日) 中世の郡、保、荘と宮城郡の特殊性(その2)(2012年5月6日) 中世の郡、保、荘と宮城郡の特殊性(その1)(2012年5月6日) 東北の「館」を考える(2011年9月25日)(宮城の古代・中世の「館」) 中世の留守氏(10年9月21日) 国分氏と仙台平野の名族たち(09年8月9日) 岩切城そして仙台市北東部の古城を学ぶ(07年9月4日) 岩切の寺社をめぐる(06年1月3日)■関連する過去の記事(もう少し広く、岩切・燕沢・東仙台など) 比丘尼坂(2023年09月05日) 大須賀森(鶴ヶ谷カトリック墓地)(2023年09月04日) 御立場町(2023年09月02日) 小鶴城跡(2023年09月01日) 南口新設 変わるか岩切駅周辺(2016年2月14日) 七北田川の自転車道、中野小学校、日和山(2015年11月22日) 今日の七北田川(2015年9月13日) 仙台のアイヌ語地名(2013年4月18日) 燕沢の地名を考える(再論)(2013年4月14日) 四野山観音堂(2013年4月2日) 多湖の浦と田子(2012年11月8日) 茨田踏切(2011年12月31日) 仙台のロータリー(その4)東仙台5丁目(2010年11月26日) 七北田川の自転車道を楽しむ(10年5月3日) 岩切城そして仙台市北東部の古城を学ぶ(07年9月4日) 松原街道(07年8月18日) 漂泊の旅 岩切「おくのほそ道」(06年11月4日) 燕沢の名前(06年3月17日) 芭蕉が感激した「おくのほそ道」岩切・多賀城(06年1月25日) 岩切の寺社をめぐる(06年1月3日) 彩雲?でしょうか(シリーズ仙台百景 34)(2011年5月3日) 富士宮やきそば(シリーズ仙台百景 31)(2010年10月17日) 一時停止だ!三時はお茶だ!(シリーズ仙台百景 24)(07年8月20日) 仙台百景画像散歩(その3 東仙台案内踏切)(06年3月22日) 仙台ミステリー?風景(06年3月4日)
2024.04.02
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