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下記文献の記載から、東北のキリシタン聖地とされる地域について記事にさせていただく。歴史を学ぶことの重要さをかみしめながら、今を生きる地域の姿を考えたい(構成と一部見出しは当ジャーナル)。高橋陽子氏は、下掲書巻末の執筆者紹介によると、仙台白百合女子大学カトリック研究所客員所員、専門は国語国文学。あとがき(加藤美紀による。同氏は、2023年度まで仙台白百合女子大学カトリック研究所長、2024年度から仙台白百合女子大学学長)によると、東北キリシタン研究会は高橋陽子氏と川上直哉氏(日本基督教団石巻栄光教会牧師、仙台白百合女子大学カトリック研究所客員所員)を中心に2016年立ち上げられた。また、髙橋氏は東北キリシタンを祖先に持つと思われる歴史愛好家として紹介されている。■高橋陽子「地域の人々の活動に生きる隠れキリシタン」 仙台白百合女子大学カトリック研究所編『東北キリシタン探訪』教友社、2024年 所収■同書に基づく記事シリーズ・今回 東北のキリシタン聖地-旧大津保村を中心に(その1 田束山)(2024年08月31日)・東北のキリシタン聖地-旧大津保村を中心に(その2 馬籠村)(2024年09月03日)・東北のキリシタン聖地-旧大津保村を中心に(その3 大籠地域)(2024年09月10日)・東北のキリシタン聖地-旧大津保村を中心に(その4 大柄沢洞窟)(2024年09月13日)■特に関連する過去の記事(他の関連する記事は後掲) 米川の戦後史 米川新聞、沼倉たまき、教会活動など(2024年08月16日) 海無沢の三経塚(2010年11月11日) カトリック米川教会(2010年11月9日)1 意気込みをもって探査された驚愕の史実 かつて『宮城県民新聞』が、昭和22年1月1日の第一号から昭和28年まで続き、同年12月から「県政だより」と名称を変更した現在に至る。創刊号には、「県政の基本を確立」の見出しがあり、戦後の立て直しに向かう姿勢が示される。 県史編纂のために宮城県史編纂室という部署を設けて昭和25年10月21日に、執筆分担が決定した記事が掲載されている。昭和26年1月には、年頭の顔合わせが開かれ、「調査に精進して」「光彩ある縣史を作りたい」という見出しで、集まった歴史・文化担当10人の意気込みが感じられる。 歴史担当者は各地域を分担して伝承や文書に関わる家や人を訪ね、次第に隠れキリシタンの存在が明らかになっていく。担当の中心だった只野淳氏の探査の結果が、昭和26年2月11日の地方紙・全国紙に「東北にキリシタン聖地」「長崎を凌いだ仙台藩の切支丹」「貴重なキリスト布教の発見」の見出しが語るように驚愕の史実として報道された。 聖地とされた大津保村は、1955年まで東磐井郡にあった村(一関市藤沢町大籠、室根村津谷川、藤沢町保呂羽にあたる)。藤原氏の時代から有力な金の産地で、大籠の地名は、秀衡が大きな籠に乗って当地に来たことにちなむとも伝えられる。現在も100を超える金山跡がある。古くは本吉郡に属した荘園だった。2 探査の基礎資料 遺跡探査の基礎資料は、村岡典嗣(つねつぐ、東北大学教授)の論文「仙臺以北に於ける吉利支丹遺跡-傳説と史實」(1928年)。村岡は元岩手県立博物館長菅野義之助氏から大津保村に切支丹の伝承・遺跡が多くあることを聞いて、探訪に出かけた。本吉郡狼河原から始まり、大籠、馬籠を訪問。出会った千早東山によって大籠の切支丹の十分な知識を得たと述べている。中でも「栽増坊物語抄録」(当地の歴史と伝説)には、切支丹について次のように記される。 千松大八郎、小八郎兄弟がこの地に来て、この地の旧家と共に製鉄に従事し仙台領の製鉄の根元となった。兄弟は切支丹で布教に努めたので信者が三万人にも増えた。その後、藩の禁教が厳しくなり刑死してしまった。 村岡は、この伝説が村社である神明神社の縁起「大籠明神由来記」とも重なる部分があり、大八郎が迫害を避けられず、デウス仏を埋めた場所に石の山神を置いて祀った話や、千松神社、大善神、千松屋敷跡、大八郎墓、首塚など物語に登場する遺跡を歩いて確認した。 その後、栗原郡高清水町に仙台藩重臣石母田大膳亮宗頼の家老土田甲平宅を訪ね、『石母田文書』に出会う。切支丹関係の文書が46通みつかり、伝承・遺跡と文書が一致した。3 馬籠地域とキリシタン 馬籠は調査隊が最初に入った地域。藤沢町保呂羽と隣合せの地域である。調査隊は市明院という寺で、田束山の縁起について書かれた文書の中に切支丹の記述をみつけた。〔おだずま注。この調査隊とは昭和26年の只野淳氏ほかの探査のことと思われるが、直近の髙橋氏ほかのチームのことかも知れない。〕3-1 田束山と満海上人 田束山は金が豊富な平泉藤原氏管轄の霊山だった。当時、七堂伽藍70余坊を有する山で多くの僧がいた。龍峯山(たつかねさん)とも表記し、竜神信仰(水の神)として本吉地方の信仰の山でもあった。 『志津川町史』では、834-847年(承和年中)に開創された。秀衡が観音堂を建て、山上には羽黒山清水寺(せいすいじ)、中腹には田束山寂光寺、北峰を幌羽山金峰寺と要所に大伽藍を築いた。清衡の四男本吉四郎高衡がこの山を掌ったとも伝えられる。奥州藤原氏が出羽三山信仰を強化して独自の勢力圏を図ろうとした様相が浮かぶ。弁慶の長刀一振りが寄進されたとも伝えられる。 藤原氏滅亡後、知行地を引き継いだ葛西清重もまた坊僧四十餘宇を建て、家臣の千葉刑部に寺社を掌らしめたと言われるが、葛西氏滅亡後荒廃した。 昭和46年発掘調査で経塚群が発見され、山上の経筒から約800年以前のものと推定され、平安後期には信仰の霊場であったことが確実に。1632年(寛永9)、田束山に僧坊が立ち並び仏教のメッカになっていたところに、寺が邪宗門改めを容赦なく行ったことで、キリシタンの仏閣への反感が爆発して寺院を焼き払った。田束山の大上坊にある大学院その他の房や入谷八幡社もその時焼き打ちにあったと伝えられる。 田束山から尾根続きに南西1キロほどの峰を満海山と呼び、山頂の塚が満海上人の入定の地と伝えられて「満海上人壇」という解説板が建てられている。 伝承では、満海上人は天正年間気仙沼松崎に生まれ、弥勒菩薩に深く帰依し、自ら即身仏になったと伝えられる。また別に、馬籠地区にキリシタンが増えて田束山の四八坊の僧侶は切支丹宗門に転じてしまい、天台宗の満海上人は転宗した僧との法問に敗れ、食を絶って入滅したとの伝承もある。さらに、田束山を預かっていた満海上人が修行から山に戻るとキリシタンの暴挙で霊山は壊滅状態になり、自分の力不足を悲観してせめてキリシタンの非道を後世に知らしめる意をもって入定した、など諸説ある。 しかし上人の没年が『気仙沼町史』では1567年(永禄10)になっており、キリシタン一揆は1632年(寛永9)である。没年と一揆の年号が『歌津町史』と『気仙沼市史』〔おだずま注、ママ〕では違う伝承で疑問が残るが、キリシタンが力を見せつけようとした伝承として残されている(「田束山中興満海上人伝、清水浜細浦、市明院誌」)。 田束山の登り口は、(1)樋ノ口地区から。行者の道と言われ、蜘蛛滝、穴滝など修行場。滝の裏に洞窟。登り口の観音堂には慈覚大師作といわれる不動明王。(2)払川ルート(3)小泉ルートの3つがあり、払川ルートは馬籠に通じる。このルートの登り口から国道346号を横切って北上すると、平泉に向かう。 田束山清水寺(せいすいじ)からキリシタン蜂起の際に下げてきたと伝えられる細浦の正音寺に四分五寸の金佛坐像(天竺国の佛工作と言われる)があったが東日本大震災の津波で流失した。 東北キリシタン研究会〔おだずま注、著者の高橋氏が所属しておられる〕が満海上人壇を訪れた。案内板の反対側の小山が壇で、側には送電塔。入滅の後一度も掘り起こしていない当時のままだそうだ。案内板には上人と共に経典なども埋められているとある。 (おだずま注、南三陸町観光協会のパンフレットから)以下は当ジャーナルのコメント。高橋氏の御著作では、田束山の登山ルートのうち、払川ルートは馬籠、平泉に通じるとある。あるサイトでは、登山ルートは、樋の口ルート(行者の滝)、払川・上沢ルート、小泉(気仙沼市本吉町)の3つがあり、徒歩で古来の修行の場や自然を堪能するなら樋の口ルートを、手軽に自動車なら後2者のルート、と案内される。払川ルートは、山頂から南下し満海山を経由して、払川ダムの上流の県道206号(地図アプリでは歌津字払川の地域)に通じるものを指すのだろう。入谷地区から田束山をめざす道が払川を経由していく。払川はかつて街道の交差する宿場として栄えたという。(払川 in 南三陸観光ポータルサイト)(なお、みちのく潮風トレイルは、入谷から払川を経由するルート。)なお、私の場合は、国道45号から歌津IC辺りで県道236号に入り、払川ダムの付近から右折して山に登る道を車で登った。地図アプリでは、この県道236号付近に歌津字上沢(かみさわ)の地域名が見える。「払川・上沢ルート」と称するのは、車で行ける登山道ができる前は、沿岸部から県道236号を通って払川集落までいって上ったからなのか。話を高橋氏著作に戻すが、同書掲載の地図(p167)では、「払川」が田束山の北に記されている。西に牛王野沢(ごおうのさわ)、北に馬籠、と記される。これだと確かに、「払川ルートは馬籠に通じる」、「払川登り口から国道346号を横切って北上すると、平泉に向かう」との記述(p169)とすんなりマッチする。しかし、払川集落からは、県道206号を北上してつづら折りを越えて馬籠(西郡街道、国道346号)に至るものの、かなり迂遠である。南山麓の払川集落とはべつに山の北側に「払川ルート」があったとは考えられないので、地図で山の北にプロットされた「払川」は、キリシタンの馬籠とその影響を受けた田束山僧坊の関係を重視するあまり、著者が誤解されたのではないかと推察する。■関連する過去の記事(田束山) 田束山(2023年05月30日)■関連する過去の記事(登米市関係) 米川の戦後史 米川新聞、沼倉たまき、教会活動など(2024年08月16日) 気仙沼線・BRTを体験する(2024年05月05日) 香林寺(登米市)(2024年05月02日) 組合立だった名取高校、岩ヶ崎高校、岩出山高校など(2024年03月21日)=組合立だった米谷工業高校 ついに見た!米川の水かぶり(2023年02月09日) ネフスキーと登米(2022年11月9日) 北上川の移流霧(2021年5月22日) 登米の警察資料館(2015年5月24日) 中江その通り(2015年5月1日) 船で脇谷閘門を通過する(2010年11月14日) 華足寺(2010年11月12日) 海無沢の三経塚(2010年11月11日) カトリック米川教会(2010年11月9日) 登米市と「はっと」(08年11月30日) 仙北郷土タイムス を読む(08年10月6日) 登米市出身の有名人と「まちナビ」(08年5月2日) 北上川改修の歴史と流路の変遷(08年2月17日) 北上川流域の「水山」(08年2月11日) 柳津と横山 名所も並ぶ(07年10月26日)
2024.08.31
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以前から気になっていたこと。栗原市内に栗原(くりばら)という地区名がある(正しくは栗原市栗駒栗原で、この後に(字表記を挟まず)小字名が続く。「栗駒栗原」が大字名)。旧栗駒町尾松地区の一部で、栗原(くりばら)簡易郵便局の名にもなっている(もっとも同郵便局の所在地は栗駒菱沼)。この地区名の経緯、また、改めて現在の市名である栗原の名の由来について、栗原郡教育會編『栗原郡誌』(大正7年初版、平成10年復刻、伊藤真正社発行)をみてみた。1 栗原の名の由来 栗原郡の「栗原」の由来については以下のように書かれている(上巻p8、なお当ジャーナルで旧字体を改めた部分有り)。------------二.栗原郡名の由来古への栗原郡は伊治城地の一部にして和名抄の所謂栗原四郷の地なりしを中世葛岡郡の一部、長岡郡の西一半及び新田郡の全部を合併し、更に近年は新田郡に属する佐沼南北の地を割きて之れを登米郡に又た鬼首村を割きて玉造郡に編入し以て今日に至れるものとす伊治及び栗原の名の始めて史に現はれたるは称徳天皇の神護景雲元年にして続日本紀に 神護景雲元年十月辛卯勅見陸奥所奏即伊治城作了自始至畢不満三旬朕甚嘉馬宜加酬賞式慰匪窮云々 同年十一月乙巳置陸奥國栗原郡本是伊治城也云々とあり、即はち栗原郡は伊治城作了後同城下の地に新たに建置せられたるものに係れり、而して伊治城は現今の富野村城生野に置かれ、同城下の地たる伊治村は古人の新田郡即はち現今の登米郡の西境より北は現今の若柳、西は富野村に達する間、迫川を以つて圍まれたる一帯の平野なりしが如く、(和名抄、郡郷の部に、栗原、清水、仲村、會津の四郷あり、會津はエヅにしてイジの転化せるもの、即はち古への伊治村乃至伊治郷なり)栗原郡は今の尾松村字栗原四辺の地にして後には今の栗原郡南部旧十九邑の地を栗原の荘と称し遂に現今の郡名として伝へられるるに至れり栗原の地名の起原に就きては伊治をコレハルと訓じたるより起れりとなすものと或は夷語より来れるもの等種々の異説あつて定かならず栗原郡旧地考云○ 今も栗原村とて二迫の内にあり 栗原寺の跡もかずかず残りて本堂屋敷、西の坊屋敷などその他彼是と屋敷名は残れり、これぞ古の栗原の里の本居にて四方八面皆此村なりけんを田所も開け戸口も多くなりて姉歯の里などや先づ出来そめけん云々○ 栗原郡と名つけられたるは必ず近きあたりに栗原といふ名たたる所有るに因りて栗原をもて名付けられつらん、元は今の栗原村をさすにやあらん、姉歯の松、栗原寺など今に絶えせぬ名高き所あればなり云々復軒雑纂云○ 留守文書元弘四年二月晦日のもとに陸奥二迫の栗原郷内外栗原並片子澤内云々など見えて当時尚ほ栗原郷の名を存せり云々○ 白河藩の廣瀬蒙齋が陸奥五十四郡考補遺には伊治は訓読「これはる」にて栗原と声近しといへり若しくは伊治城管下の地を郡に建てらるる時、伊治の音読なるに新たに訓を施し声の近きを以て栗原の字に作り新に郡に命名せられしものか云々------------下巻p261では(各地域の地誌の部分)、尾松村の経緯について次のように書かれている。------------明治八年町村分合の際、上下稻屋敷を統一して稻屋敷村及び八幡、櫻田の二村を合して八幡村、菱沼、栗原を合して栗原村と称し、同九年宮城県の管轄に移り、同二十二年市町村制移行に際し、栗原、八幡、稻屋敷の三村を合して旧荘名を襲ぎ、尾松村と称するに至れり------------この後に、安永七年七月書上風土記における各村(稲屋敷、櫻田、八幡、栗原)の記載が紹介されている。いずれも、尾松荘(表記は、尾松荘、尾野松庄、小野松庄、などと異なるが)に属しているとされている。2 行政上の村の推移藩政時代は栗原郡は(本)栗原、一迫、二迫、三迫、佐沼の5区に分割し、このうち二迫には14か村。すなわち、姉歯、泉沢、稲屋敷、鶯沢、片子沢、栗原、桜田、城生野、梨崎、菱沼、文字、八幡、渡丸、富の各村である。 明治8年の統合では次のとおり。 ・富野村 ←富村+城生野村 ・八幡村 ←(合併)桜田村 ・栗原村 ←(合併)菱沼村 ・姉歯村 ←(合併)梨崎村明治22年町村制施行で栗原郡は22町村、かつての二迫地域を中心に記すと次の通り。 ・富野村(単独) ・尾松村 ←稲屋敷村+栗原村+八幡村 ・姫松村 ←王沢村+片子沢村+宝来村 ・沢辺村 ←沢辺村+姉歯村+大堤村小堤昭和の合併により以下となる。 ・築館町(昭和29年) ←築館町+玉沢村+富野村+宮沢村 ・金成町(昭和30年) ←金成村+沢辺村+津久毛村+萩野村 ・栗駒町(同上) ←岩ヶ崎町+栗駒村+尾松村+鳥矢崎村+文字村+姫松村(片子沢、宝来) ・一迫町(同上) ←一迫町+金田村+長崎村+姫松村(王沢)そして、平成17年に栗原市。現在の住所表記については下記記事を参照。■関連する過去の記事(市町村合併後の大字小字の表記) さらば富谷町...そして「字」も(2016年10月9日) 市町村合併と住所の表記(07年8月25日)3 (参考)大崎における「大崎」の場合 大崎市古川に大崎の地名があるが、名生館と大崎氏の歴史を踏まえて明治に大崎の村名を採用し、変遷を経て(東大崎村、西大崎村など)、いまでは合併新市も名称も同じで大変に複雑な構造になった。 大崎市古川大崎は、次のような経緯をもつ地域である。・明治8年 大崎村←名生村+伏見村・明治22年 大崎村←大崎村+新田村+清水村+下野目村+南沢村・明治29年 (分村)→東大崎村(大字大崎・新田・清水)、西大崎村(大字下野目・南沢)・昭和25年 古川市大崎・平成18年 大崎市古川大崎(↓画像 「大崎市古川大崎」の区域。なお、隣接して「古川清水」「古川新田(にいだ)」の区域がある。)(過去記事 大崎市の戦中地名(2024年03月20日) を参照下さい。)■関連する過去の記事(栗原の名の由来、古代の蝦夷の歴史など) 照明寺と伊治城跡(栗原市)(2024年08月25日) アテルイの里、田んぼアートの大谷翔平(奥州市)(2024年08月18日) 城館の歴史(その2 北東北の城館)(2021年9月25日) 覚べつ城を考える(2015年1月2日)(旧川崎村の河崎の柵) 日本の大合戦 東北は5つ(2012年3月4日) 多賀城の遺跡認識(下)(2011年11月19日) 多賀城の遺跡認識(上)(2011年11月18日) 近世までの東山道と中山古街道、七北田街道(2011年10月23日) 東北の「館」を考える(2011年9月25日) 栗原と伊治について(10年7月25日) 多賀城の基礎知識(後編)(06年8月8日) 多賀城の基礎知識(前編)(06年8月7日) 栗駒と蔵王の名前の由来(06年7月28日)■関連する過去の記事(荒瀬橋) 国道4号荒瀬橋の事故(09年1月14日)■関連する過去の記事(大崎市内の大崎地区について) 西古川駅(大崎市)(2024年06月22日) 名生館から西古川へ(大崎市古川大崎、古川斎下)(2024年06月19日) 名生館官衙遺跡、名生城跡(2024年06月18日) 東大崎駅、大崎神社(2024年06月14日) 合併と広域地名を再び考える(岩沼と名取)(2024年03月22日) 大崎市の戦中地名(2024年03月20日) 合併と広域地名(名取市、柴田町、本吉町、宮城町など)(2024年03月19日) 十二支と天地人(亘理町)(2024年03月12日) 亘理町を知る(地域区分、大字など)(2024年03月10日) 地名(市町村名)の付け方の類型論(2024年03月05日) 中世宮城の名族たち(その2)(2016年12月26日) 中世宮城の名族たち(その1)(2016年12月23日) 古代人の移民地名(玉造、加美、志田、色麻など)(2013年4月16日) 「西古川」小学校と「古川西」中学校(2013年1月27日) 東北の「館」を考える(2011年9月25日)(宮城の古代・中世の「館」) 葛西氏と大崎氏(10年9月22日) 丹取郡と名取(10年3月17日) 丹取郡の成立と大崎平野への移民(10年3月16日)
2024.08.27
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暑さ厳しい夏の日だったが、栗原市築館の照明寺と伊治城跡を訪れた。まずは、照明(しょうみょう)寺。道路沿いに白い説明板。------------伊治城跡と出土品 伊治城は、古代律令国家が、陸奥国の経営のために設置した城柵の一つである。『続日本紀』により、設置年が神護景雲元年(767)で あることが明らかな数少ない城柵の一つで、その所在地については、江戸時代の中頃から近年に至るまで多くの論考が行われ、その中で築館城生野地区が有力な擬定地であった。 昭和52年から54年まで宮城県多賀城跡調査研究所が、昭和62年からは築館町教育委員会(現 栗原市教育委員会)が、発掘調査を行った。これらの調査の成果により、築館城生野地区が伊治城跡であることが確定され、平成15年8月に政庁と内郭の区域が国指定史跡に指定された。 伊治城跡は、外郭・内郭・政庁の区域を土塁と大溝、築地塀で区画する三重構造であり、外郭は東西700メートル、南北900メートルで不正五角形を呈している。外郭は主に竪穴建物跡が検出される。 内郭は外郭の南東寄りにあり、築地塀で区画される。東西185メートル、南北245メートルで長方形を呈している。掘立柱建物が整然と配され、実務官衙域を構成している。 政庁は内郭の中央部にあり、築地塀で区画される。東西61メー トル、南北61メートルで方形を呈している。内部は北寄りに位置する正殿を中心に西脇殿や前殿、後殿が配され、三時期の変遷が確認されている。二時期目の建物は焼失しており、宝亀11年(780)に起きた、「伊治公呰麻呂の乱」によるものと推定されている。 照明寺の住職であった松森明心師が、大正時代から収集した瓦や土器、石器などの遺物は、「松森コレクション」として研究者により紹介され、伊治城跡が築館城生野地区にあったことがほぼ定説となった。 これらの遺物は、「伊治城跡出土遺物」として、築館町有形文化財 (現栗原市有形文化財)に指定され、栗原市築館出土文化財管理セン ターで保管されている。 また、外郭南東部の竪穴建物跡からは、発射台と発射装置を持った弓の一種である『弩』の発射装置である「機」が出土した。我が国で初めての発見であり、律令軍制や古代兵器の実態を解明する上で大変貴重であることから、宮城県有形文化財に指定された。 令和六年六月 栗原市教育委員会------------次は、伊治城跡だ。国道4号からちょっとだけ入った場所。------------伊治城跡 奈良時代後半の宮城県北部は、中央政府が積極的に進めていた征夷政策(蝦夷を治める政策)に対し蝦夷の抵抗が高まり非常に不安定な地域であった。伊治城は、このような情勢の中で、栗原郡を中心とした宮城県北部における征夷政策の拠点にするため神護景雲元年(767)に設置されたものである。続日本紀や日本後紀には、延暦15年(796)までの伊治城に係わる記事が見られ、なかでも「伊治公呰麻呂の乱」は当時の政府を震憾させる事件として著名である。これは、この地域の大領であった伊治公呰麻呂が宝亀11年(780)に按察使紀広純と牡鹿郡の大領道嶋大楯を伊治城で殺害し、さらに多賀城を攻撃し放火するというもので、このことはそれ以後の律令政府と蝦夷の長期にわたる戦争の発端となった。 伊治城跡の発掘調査は昭和52年度から断続的に行われ、城生野大堀の台地北端では外郭北辺の区画施設である大溝と土塁が、唐崎・地蔵堂地区では伊治城の中枢である「政庁」や官衙ブロック(役所の実務を行なう場所)が検出されている。政庁は、東西約55m、南北約60mの広がりをもち、築地塀に囲まれた内部には、正殿・脇殿・後殿・前殿・南門などの建物が配されている。また、調査では呰麻呂の乱によると考えられる火災の跡も確認されている。 栗原市教育委員会------------なお、最後の「栗原市」はシール貼付なので、この説明看板は築館町時代(平成17年まで)の設置なのだろう。■関連する過去の記事 アテルイの里、田んぼアートの大谷翔平(奥州市)(2024年08月18日) 城館の歴史(その2 北東北の城館)(2021年9月25日) 覚べつ城を考える(2015年1月2日)(旧川崎村の河崎の柵) 日本の大合戦 東北は5つ(2012年3月4日) 多賀城の遺跡認識(下)(2011年11月19日) 多賀城の遺跡認識(上)(2011年11月18日) 近世までの東山道と中山古街道、七北田街道(2011年10月23日) 東北の「館」を考える(2011年9月25日) 栗原と伊治について(10年7月25日) 多賀城の基礎知識(後編)(06年8月8日) 多賀城の基礎知識(前編)(06年8月7日) 栗駒と蔵王の名前の由来(06年7月28日)
2024.08.25
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何度も通っていたはずの平田橋を、足を止めてじっくり眺めたのは初めてのこと。松原街道が梅田川を渡るところが、平田橋。平田五郎が狐に出会ったのは、神谷川ともいわれるが、或いはこの辺りだったか...こんな標識が欄干に取り付けられている。道知るべ石から平田橋を渡る手前(原町三丁目側)にあった。松原町内会の名前がイキですね。橋を渡ってすぐにあった看板。三丁目も五丁目も、単位町内会は同じ原町松原町なのだろうか。■今回探訪のシリーズ記事・平田神社(宮城野区原町二丁目)(2024年08月22日) ・原町苦竹の道知るべ石(宮城野区原町三丁目)(2024年08月23日)・今回 平田橋(宮城野区原町三丁目・五丁目)(2024年08月24日)■関連する過去の記事 延慶の碑(平田五郎)の新しい説明板(利府町)(2024年08月17日) 利府町の埋蔵文化財(2022年5月7日)=板碑、延慶の碑について 平田五郎の力試し石のあった神谷川と平田橋を探して(2015年3月28日) 平田五郎と力試し石 画像です(2015年2月27日) 平田五郎と力試し石(2015年2月23日)■関連する過去の記事(付近の地域) 清水沼のこと(10年9月8日)■関連する過去の記事(松原街道の関連) 比丘尼坂(2023年09月05日) 大須賀森(鶴ヶ谷カトリック墓地)(2023年09月04日) 御立場町(2023年09月02日) 小鶴城跡(2023年09月01日) 南口新設 変わるか岩切駅周辺(2016年2月14日) 七北田川の自転車道、中野小学校、日和山(2015年11月22日) 今日の七北田川(2015年9月13日) 仙台のアイヌ語地名(2013年4月18日) 燕沢の地名を考える(再論)(2013年4月14日) 四野山観音堂(2013年4月2日) 多湖の浦と田子(2012年11月8日) 茨田踏切(2011年12月31日) 仙台のロータリー(その4)東仙台5丁目(2010年11月26日) 七北田川の自転車道を楽しむ(10年5月3日) 岩切城そして仙台市北東部の古城を学ぶ(07年9月4日) 松原街道(07年8月18日) 漂泊の旅 岩切「おくのほそ道」(06年11月4日) 燕沢の名前(06年3月17日) 芭蕉が感激した「おくのほそ道」岩切・多賀城(06年1月25日) 岩切の寺社をめぐる(06年1月3日) 彩雲?でしょうか(シリーズ仙台百景 34)(2011年5月3日) 富士宮やきそば(シリーズ仙台百景 31)(2010年10月17日) 一時停止だ!三時はお茶だ!(シリーズ仙台百景 24)(07年8月20日) 仙台百景画像散歩(その3 東仙台案内踏切)(06年3月22日) 仙台ミステリー?風景(06年3月4日)
2024.08.24
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■今回探訪のシリーズ記事・平田神社(宮城野区原町二丁目)(2024年08月22日) ・今回 原町苦竹の道知るべ石(宮城野区原町三丁目)(2024年08月23日)・平田橋(宮城野区原町三丁目・五丁目)(2024年08月24日)コンビニの壁面の案内図を拡大してみました。■関連する過去の記事 延慶の碑(平田五郎)の新しい説明板(利府町)(2024年08月17日) 利府町の埋蔵文化財(2022年5月7日)=板碑、延慶の碑について 平田五郎の力試し石のあった神谷川と平田橋を探して(2015年3月28日) 平田五郎と力試し石 画像です(2015年2月27日) 平田五郎と力試し石(2015年2月23日)■関連する過去の記事(付近の地域) 清水沼のこと(10年9月8日)■関連する過去の記事(松原街道の関連) 比丘尼坂(2023年09月05日) 大須賀森(鶴ヶ谷カトリック墓地)(2023年09月04日) 御立場町(2023年09月02日) 小鶴城跡(2023年09月01日) 南口新設 変わるか岩切駅周辺(2016年2月14日) 七北田川の自転車道、中野小学校、日和山(2015年11月22日) 今日の七北田川(2015年9月13日) 仙台のアイヌ語地名(2013年4月18日) 燕沢の地名を考える(再論)(2013年4月14日) 四野山観音堂(2013年4月2日) 多湖の浦と田子(2012年11月8日) 茨田踏切(2011年12月31日) 仙台のロータリー(その4)東仙台5丁目(2010年11月26日) 七北田川の自転車道を楽しむ(10年5月3日) 岩切城そして仙台市北東部の古城を学ぶ(07年9月4日) 松原街道(07年8月18日) 漂泊の旅 岩切「おくのほそ道」(06年11月4日) 燕沢の名前(06年3月17日) 芭蕉が感激した「おくのほそ道」岩切・多賀城(06年1月25日) 岩切の寺社をめぐる(06年1月3日) 彩雲?でしょうか(シリーズ仙台百景 34)(2011年5月3日) 富士宮やきそば(シリーズ仙台百景 31)(2010年10月17日) 一時停止だ!三時はお茶だ!(シリーズ仙台百景 24)(07年8月20日) 仙台百景画像散歩(その3 東仙台案内踏切)(06年3月22日) 仙台ミステリー?風景(06年3月4日)
2024.08.23
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いつか訪れたいと思っていましたが、念願かない、過日行ってみました。小学校のすぐ脇、昔は小高い場所で背後は清水沼が広がっていたのか、などど想像しながら拝観しました。延慶の碑から平田五郎の伝承をたどってきたのですが、平田氏とともに志田郡堤根から遷宮した神社ということもわかりました。この記事の最後に説明の内容(テキスト)を掲げています。■今回探訪のシリーズ記事・今回 平田神社(宮城野区原町二丁目)(2024年08月22日) ・原町苦竹の道知るべ石(宮城野区原町三丁目)(2024年08月23日)・平田橋(宮城野区原町三丁目・五丁目)(2024年08月24日)■関連する過去の記事 延慶の碑(平田五郎)の新しい説明板(利府町)(2024年08月17日) 利府町の埋蔵文化財(2022年5月7日)=板碑、延慶の碑について 平田五郎の力試し石のあった神谷川と平田橋を探して(2015年3月28日) 平田五郎と力試し石 画像です(2015年2月27日) 平田五郎と力試し石(2015年2月23日)■関連する過去の記事(付近の地域) 清水沼のこと(10年9月8日)■関連する過去の記事(松原街道の関連) 比丘尼坂(2023年09月05日) 大須賀森(鶴ヶ谷カトリック墓地)(2023年09月04日) 御立場町(2023年09月02日) 小鶴城跡(2023年09月01日) 南口新設 変わるか岩切駅周辺(2016年2月14日) 七北田川の自転車道、中野小学校、日和山(2015年11月22日) 今日の七北田川(2015年9月13日) 仙台のアイヌ語地名(2013年4月18日) 燕沢の地名を考える(再論)(2013年4月14日) 四野山観音堂(2013年4月2日) 多湖の浦と田子(2012年11月8日) 茨田踏切(2011年12月31日) 仙台のロータリー(その4)東仙台5丁目(2010年11月26日) 七北田川の自転車道を楽しむ(10年5月3日) 岩切城そして仙台市北東部の古城を学ぶ(07年9月4日) 松原街道(07年8月18日) 漂泊の旅 岩切「おくのほそ道」(06年11月4日) 燕沢の名前(06年3月17日) 芭蕉が感激した「おくのほそ道」岩切・多賀城(06年1月25日) 岩切の寺社をめぐる(06年1月3日) 彩雲?でしょうか(シリーズ仙台百景 34)(2011年5月3日) 富士宮やきそば(シリーズ仙台百景 31)(2010年10月17日) 一時停止だ!三時はお茶だ!(シリーズ仙台百景 24)(07年8月20日) 仙台百景画像散歩(その3 東仙台案内踏切)(06年3月22日) 仙台ミステリー?風景(06年3月4日)------------平田神社御由来当神社は今より四百年前、後陽成天皇の御代、 即ち慶長八年十月十四日に、藩祖伊達政宗公居城を岩出山より仙台に移すに当たり、仙台藩士平田五郎政高氏共に随い来たり、平田氏の先住地なる志田郡堤根村(現在の古川市堤根) より当時の苦竹村の現在地に遷宮せりとある。御祭神は豊受姫神にして五穀を御授け下されし神、即ち伊勢外宮に祭祀する豊受大神の御分霊にて五穀豊穣の守護神なり。 村民は信仰厚く、正保年間の頃より苦竹村の産土神として崇敬又厚く、遷宮者平田氏の姓を とり平田明神と稱されしも、明治四年国家の崇祀として公認され平田神社と改稱、現在に至る。 又、伝えらるる所によれば、平田五郎政高氏は神霊の御加護の下、不思議の神力を得て度々の合戦に抜群の功あり、勇名天下に轟いたという。 伊達政宗公当苦竹村通過の折は、必ず下馬の上参拝せしと記録されている。境内に秋葉山神社あり、御祭神は火産霊神に して、石碑に明治十一年寅年七月吉日刻とあり。平田神社祭儀 例大祭 四月第三日曜日 種籾祈願祭 二月二三日 新穀感謝祭 十一月二十三日神社境内総坪数 弐百五拾四坪拾弐合石碑 古峯神社・明治二十二年三月十三日 湯殿山・天保四年 慈眼山元亮撰書 原町中建立 蔵王山・弘化四丁末年四月八日 觀世音・嘉永二年三月八日 山神・嘉永三年三月十二日平成十五年一月吉日 平田神社総代会 遷宮四百年記念謹書------------
2024.08.22
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かなり前に、学校給食と「いただきます」の関係について論じたことがある。■関連する過去の記事 「いただきます」について(その2)(合掌と教育)(05年11月24日) 「いただきます」について(05年11月24日)ところで、どうして「いただきます」と言うのか。下記文献にはこう書いていた。■島村恭則編『現代民俗学入門:身近な風習の秘密を解き明かす』創元社、2024年 から(樽井由紀執筆部分。なお文中の=フリガナはおだずま付記)------------ものを受け取る場面や食事をはじめる際、わたしたちは「いただきます」と言う。この言葉は、頭部(人体の頂=いただき)より上で行われる動作と関わりがある。神聖な存在や目上の人から物を受け取る際、頭を垂れ、両手を差し出す姿が「おしいただく」である。------------奈良県では大晦日の夕方に、餅を頭上に「いただく」しぐさをしながら松明を回すフクマルコッコ(福丸よ来い)の行事がある。また、香川県高松市や徳島県由岐(現美波町)では、鮮魚を頭上で運搬する女性の行商人を「いただきさん」と呼ぶという。頭上運搬の多くは海村で見られ、物を頭に載せた行商人を、瀬戸内海では広くカベリ、徳島でイタダキ、伊予の松前でオタタと呼ぶ。山村では、京都の大原女が有名。同書に掲載された全国マップ(頭上運搬の分布)では、、東北で唯一、石巻市内(渡波あたりか)にドットが表示されている(なお新潟県で2か所。新潟市と上越市あたり)。出所は『民俗学辞典』東京堂出版、1951年、とある。そこで、先日になってやっと某公共施設でこの書籍の現物にあたってみることができた。■柳田國男監修 民俗學辭典 財團法人民俗學研究所編 東京堂出版(なお、奥付には、「民俗学辞典 民俗学研究所編 東京堂出版」とある。昭和26年初版、昭和50年四八版、と表記されている。書籍はどなたかの寄附のようだった)すると、冒頭の写真集の中の1つのページに「第九図 頭上運搬」として、3枚の写真がある。沖縄本島糸満、奄美大島住用村、伊豆式根島だ。また、とじ込み式(袖折り)の地図に「頭上運搬の分布」として全国35カ所が示されている。東北では1 宮城縣牡鹿郡江島だけである。朱色のドットはちゃんと海中(小さな離島なので)に示されている。私が最近読んだ上掲書の方は、ドットが誤りだ。なお、新潟の2か所は次の通り説明されている。4 新潟縣三島郡出雲崎町5 新潟縣直江津市関係する記事(p29、p66、p305)を読んでみたが、今日伝承されているところの大部分は海村で女性がおこなうもの、などと説明されている。上掲書のとおりだ。■関連する過去の記事(江島) 足島の海鳥に危機(2017年1月9日) 江島列島 足島と笠貝島(2016年6月14日) 離島と水道(2016年3月17日) 善知鳥と女川江島(2015年3月13日) 宮城の離島を考える(10年5月13日) マリンパル女川(10年5月6日)■関連する過去の記事(新潟県出雲崎町) 東の妻入りと西の平入り(2022年5月14日)(新潟県出雲崎町)
2024.08.21
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東京駅丸の内南口そば、KITTEの2階3階に、インターメディアテク(東京大学総合研究博物館)があり、1922年アインシュタインが来日した際に乗ったと伝えられるエレベーターが展示されている。以前訪れたときは、同じ場所で存在感を放って展示されていたはずが、今回いってみるとフロアの周囲は企画展示(海の人類史)に占拠され、その片隅に佇んでいるようだった。説明書きには仙台の記載はない。■関連する過去の記事(アインシュタインと仙台・松島) 寺田知事の松島公園化(2016年1月23日) 扶桑第一の好風 松島を考える(10年2月21日) 松島の世界遺産断念を考える(10年2月18日) アインシュタインと仙台(その7)(07年5月27日) アインシュタインと仙台(その6)(06年8月31日) アインシュタインと仙台(その5)(06年1月15日) アインシュタインと仙台(その4)(06年1月4日) アインシュタインと仙台(その3)(05年12月18日) アインシュタインと仙台(その2)(05年12月17日) アインシュタインと仙台(05年12月14日)
2024.08.20
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奥州市の田んぼアートの大谷翔平を見てきました。物見やぐら(巣伏の戦い跡)に登って眺めます。やぐらの中には、新聞記事の紹介など。ニュースで気になっていた「ホ」の解説も。跡呂井田んぼアート実行委員会の方々の努力に頭が下がります。やぐらの足もとから水沢市街地方向を眺めます。やぐらに登る階段の手前に碑文。次のように書かれています(振り仮名を適宜カッコ表示。また、漢数字をアラビア数字に変更)。------------蝦夷(えみし)の群像「胆沢」は、『続日本紀』宝亀7(776)年「陸奥軍3千人を発し、胆沢の賊を伐(う)つ」と初めて登場する。その後、延暦21(802)年に胆沢城がつくられる平安時代初期にかけ古代東北史の歴史舞台となった。 この胆沢の歴史は、国家支配の拡大という歴史の流れにのみこまれていく蝦夷社会をうつしだす歴史でもあった。 宮城県栗原の蝦夷出身の郡司・伊治公呰麻呂(これはるのきみあざまろ)の乱(宝亀11年)で伊治城(これはるじょう)と陸奥国府多賀城が焼き落され、9年後の延暦8年には、紀古佐美(きのこさみ)の率いる朝廷軍をアテルイ(阿弖流為)とモレ(母禮)が「日上(ひかみ)の湊(みなと)」に敗る「巣伏(すぶせ)の戦い」がおこっている。 そして、延暦13年と20年の2度にわたる坂上田村麻呂とアテルイの「胆沢の戦い」の後、胆沢地方は古代国家の支配に組込まれた。 この延暦21年、アテルイをはじめ多くのエミシたちは、胆沢の肥沃な大地で平穏に暮らせることを願い坂上田村麻呂に降伏するが、アテルイとモレは、河内国椙山(すぎやま)(大阪市枚方市)で処刑された。 胆沢の未来を願ったアテルイとモレ。彼ら「蝦夷の群像」を千年の歴史のなかで見つめ続けてきた北上川とともに、彼らが願った胆沢の未来を、私たちは築いていかなければならない。胆沢の合戦(レリーフ)原画・中一弥(河北新報社 提供)------------■関連する過去の記事 大谷選手ゆかりの学校たち(奥州市)(2024年01月01日)■関連する過去の記事(アテルイ、東北のエミシなど) 城館の歴史(その2 北東北の城館)(2021年9月25日) 覚べつ城を考える(2015年1月2日)(旧川崎村の河崎の柵) 日本の大合戦 東北は5つ(2012年3月4日) 多賀城の遺跡認識(下)(2011年11月19日) 多賀城の遺跡認識(上)(2011年11月18日) 近世までの東山道と中山古街道、七北田街道(2011年10月23日) 東北の「館」を考える(2011年9月25日) 栗原と伊治について(10年7月25日) 多賀城の基礎知識(後編)(06年8月8日) 多賀城の基礎知識(前編)(06年8月7日)
2024.08.18
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利府街道(県道8号仙台松島線)を岩切から利府町に入って間もない辺りにある碑の説明板が、いつの間にか、新しくなっていました(以前の説明板の画像は末尾掲出の過去記事に)。過去に記事を書いた頃は、神谷沢の浜街道で神谷川に架かる土橋と三原良吉氏著作にあることから(末尾掲出の過去記事参照)、平田橋は神谷沢のこの碑の辺りだろうと思っていました。私が図書館で町史などを調べると、伝説の紹介はあっても橋の記載はなかったのでした(2015年3月現地探索?した過去記事あり)。しかし最近、利府町のボランティアサークルの方々(りふdeおは梨)が作った絵本『平田五郎』を手にしました。町のことを知り、足で調べて、子どもたちに読み聞かせる素晴らしい取組に敬服しますが、仙台市宮城野区原町の平田神社が関係するということです。たしかに、原町の松原街道(国道45号から利府街道ガス局交差点方面に出る旧道。坂下交差点を経由しない近道ルート)で梅田川を渡るのが、平田橋です。さて、新しい説明板の内容を、以下にテキスト文で示します(振り仮名は適宜当ジャーナルで括弧書き追記)。------------延慶の碑(えんきょうのひ)- Enkyou's monument -鎌倉時代、延慶3年(1310年)に建てられた石陣で、板碑(いたび)と呼ばれるものです。高さ約1.4m、幅約1.25mの砂岩の巨石に「大日如来」を意味する「ア」という梵字(古代インドのサンスクリット語)が彫られています。その下には「延慶三年二月二七日敬白」と刻まれています。板碑は、鎌倉時代に北関東地方に始まり、室町時代にかけて県内でも盛んに建てられました。梵字によって自分が信じる仏様を現し、それを敬うことにより、親や先祖のあの世での往生を願いました。この碑には、平田五郎という人にまつわる伝説があり、昔から「力試石(ちからだめしいし)」とも呼ばれています。The stone monument was built in the 3rd year of Enkyo (1310) during the Kamakura period, and is called an "Itabi".The Sanskrit character "A" (ancient Indian Sanskrit word), which means "Vairocana", is carved on a giant sandstone with a height of about 1.4m and a width of about 1.25m. There are words "February 27th, the 3rd year of Enkyo (1310)", "Sincerely" engraved in the lower part of it."Itabi" began in the Northern Kanto region during the Kamakura period, and was also actively buift throughout the prefecture until the Muromachi period.The Sanskrit characters represent the Buddha they believe in, and by respecting them, they wished their parents and ancestors to remain peacefully after their death.There is a legend about a man named Goro Hirata who use this monument to test his strength by lift it up, and that is the reason it has long been called the "Chikara Dameshi Ishi" (strength test stone).「延慶の碑」にまつわる力試し伝説江戸時代の初め、平田五郎という男がいました。五郎は伊達政宗に仕え二百石を拝領し、利府本郷(利府、館、大町の辺り)に住んでいました。ある日仕事から帰る途中、神谷沢にある神谷川の土橋で、きつねが落としていった玉を拾いました。その夜、五郎の前にきつねがあらわれ、「あの玉がないと仲間のところに戻れません。玉を返していただければ、そのかわりに怪力を身につけて差し上げます。」と懇願されました。五郎はきつねが可哀そうになり、玉を返してあげました。翌日、五郎は試しにこの延慶の碑を持ち上げると、まるでわら束を持ち上げるかのように軽々と持ち上げることができました。そのことがあってから、人々はこの碑を「力試石」と呼ぶようになりました。令和5年8月 利府町教育委員会------------■関連する過去の記事 利府町の埋蔵文化財(2022年5月7日)=板碑、延慶の碑について 平田五郎の力試し石のあった神谷川と平田橋を探して(2015年3月28日) 平田五郎と力試し石 画像です(2015年2月27日) 平田五郎と力試し石(2015年2月23日)
2024.08.17
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戦後、米川村議会議員を務め、「米川新聞」を15年間500回にわたり発行した女性がいた。キリシタンの歴史の再発見、集団洗礼とカトリック教会創立など、戦後の米川の地域社会の姿に思いをしながら、下記文献をもとに、記します。■佐藤和賀子「『米川新聞』からみえるキリシタンと地域社会」 仙台白百合女子大学カトリック研究所編『東北キリシタン探訪』教友社、2024年 所収(なお同書の他執筆者部分も適宜参考にしています。出典等は記事本文中に注記します。)■特に関連する過去の記事(他の関連する記事は後掲) 海無沢の三経塚(2010年11月11日) カトリック米川教会(2010年11月9日)■関連する記事 「東北のキリシタン聖地-旧大津保村を中心に」シリーズ・東北のキリシタン聖地-旧大津保村を中心に(その1 田束山)(2024年08月31日)・続編予定中1 町村合併 1889年(明治22)4月に、狼河原村と鱒淵村が合併して米川村になる。人口5800人ほど。農耕地は少なく、煙草、養蚕、製炭が主な産業だった。その後、1956年(昭和31)9月、米川村と錦織村が合併して日高村が誕生。人口8500人ほどであった。当時の県は人口1万人以上の広域合併を勧奨したため、一年も経たない1957年(昭和32)5月に、日高村と米谷町が合併して東和町となる。 日高村の合併が決議されたのは1954年(昭和29年)3月26日だが、直後の米川新聞114号(1954年4月1日)の「波紋」欄には、第一の念願たる米川の主体性確立には、今後の大籠部落との併合が是非必要である、とする読者の意見が掲載された。 大籠地区は米川に隣接しキリシタン遺跡がある点で共通する。1889年(明治22)、大籠村、津谷川村、保呂羽村が合併し、岩手県東磐井郡大津保村ができた。さらに、1955年(昭和30)に、大津保村の旧大籠村と旧保呂羽村は近隣町村とともに東磐井郡藤沢村になる(2011年一関市に)。 なお、大保津村は戦後、貴重なキリシタンの聖地として調査が行われた。(上掲書所収、高橋陽子「地域の人々の活動に生きる隠れキリシタン:東北のキリシタン聖地」から。当ジャーナルで別記事にしたい。)2 米川新聞 1951年(昭和26)1月15日に創刊、終刊は1965年(昭和40)2月21日である。その間、日高村誕生で新聞の名称も日高新聞に変更、東和町誕生の際は、北星新報に改称、その11か月後に再び米川新聞になる。 藁半紙(ほぼB4サイズ)ガリ版両面印刷の2ページ。発行部数は350前後、月3回発行で購読料15円(1953年当時)。編集に関わった同人メンバーは、議員の沼倉たまきを中心に、教員、郵便局員、役場職員、農民、主婦など多様。配達は小学生高学年や中学生が担当し(小さな同人)、報酬は不明だが年に一度バスで松島等へ遠足のご褒美があった。 特色は、沼倉の担当による詳細な議会報告が掲載されたこと。また、論説や「桑の実」(朝日の天声人語に相当)、農事放談、農事メモ、学校の行事予定や人事異動、「波紋」(読者投稿欄)、「ほそみち」(風刺のきいたエッセー)、時々小学生向けのクイズが出され景品に文房具をプレゼントしたようだ。出生、死亡、会葬御礼、火事見舞い、商店広告等も載った。 3 沼倉たまきの生涯(1896-1990) 米川新聞の編集発行人であった。 1896年(明治29)米川村に江戸時代から続く医者である沼倉家に生まれる。父の精一郎で5代目と言われる。たまきの生まれる5年前の1891年(明治24)、沼倉家は石巻町の安田家から昌平(12歳)を養子に迎える。たまきは1914年(大正3)、宮城県女子師範学校を卒業し、翌年米川村小学校教員になる。1917年(大正6)には、朝鮮総督府に勤務していた義兄を頼り朝鮮にわたり日本人学校に勤務。義兄の勧めで1919年に婿養子縁組の結婚をするが、翌年に夫が亡くなり、3か月後に長男隆文が誕生。1941年(昭和16)朝鮮で一緒に暮らしていた母りんが亡くなり、2年後には隆文が結核で23歳で亡くなる。 終戦後、たまきは母、夫、息子の3つの位牌をもって帰郷し、1946年(昭和21)米川小学校に勤務。翌年には米川中学校に転勤し、在職のまま米川村議会議員に立候補して当選(1947年4月30日)。その後も日高村議会議員、東和町議会議員に連続当選し、1965年(昭和40)5月14日まで議員を続けた。 翌年の1966年(昭和41)に洗礼を受ける(洗礼名モニカ)。1985年(昭和60)に沼倉正見・満帆夫妻と養子縁組をしている。正見は米川出身の画家で、高校教員の満帆はたまきが朝鮮で小学校の教員をしていた時の教え子である。1990年(平成2)に94歳で亡くなる。4 沼倉たまきの議員活動と米川新聞 たまきが村議になって3年8月が過ぎた1951年(昭和26)1月15日に米川新聞が創刊される。発刊の辞には、明瞭な村を再建するためとある。 なお、創刊号の記事の冒頭は、「新校舎の行方?-行き悩む学校敷地問題-」で、懸案の中学校建築問題を論じているようだ(同書掲載の資料写真から当ジャーナル)。 1965年(昭和40)2月21日発行の第500号を最後に廃刊するが、同号には、「終戦5年という頃、米川にも正しい民主主義を育てようと同士が集まって新聞を発刊した。その功罪は読者の判断に委ねたい」とある。その3か月後の5月14日にたまきは18年間の議員生活を終える。 編集責任者は、221号までは沼倉たまき、222号から406号までは東北電力勤務の亀掛川貢一、以降は個人でなく米川新聞社となっている。5 キリスト教に関する記事 米川新聞に掲載されたキリスト教関係の記事は、内容から3つの時期に分けられる。(1)隠れキリシタンの遺跡や資料の発見が相次いだ時期 =1951年から1953年 8号(1951年3月25日)には「カトリック聖人 後藤寿庵の墓発見さる」。墓石の絵が掲載され、「一天齢延壽巷主」と読める文字がある。寿庵についての記事の要約はこうだ。------------ 後藤寿庵の前の名は岩淵又五郎で、葛西氏の家臣である兄が戦死、葛西が没落後、又五郎は諸国を放浪し長崎でキリスト教徒になった。京都の商人田中勝助と親交を結び、田中の推薦で伊達政宗の家臣になり、その時、後藤と改姓し、現在の岩手県水沢市福原の地に領地を与えられた。福原に堰(寿庵堰)を作り農業の発展につとめた。キリシタンの迫害が激しくなり、政宗は片倉小十郎に捕縛を命じるが、寿庵は逃れ、元和9年12月以来、行方は不明になったと伝えられている。------------ 元和9年(1623)の前年に長崎で元和の大殉教があった。51号(1952年6月21日)には、「訪う人繁き 寿庵師の墓」、53号(1952年7月11日)に「後藤寿庵墓参の名士」と続く。名士とは全日本観光事務局と宮城県観光課の関係者で、観光資源にする動きがあったようだ。 55号(1952年8月1日)では、同年7月16日岩手日報に掲載された記事(岩手県南部家の古文書によれば寿庵の系統をひく信者が84人いた)を紹介している。 しかし、59号(1952年9月11日)では、新しく寿庵の墓碑がつくられ、仙台と一関の教会が協賛で落成式を行ったとの記事が掲載されている。8号で墓と紹介された「一天齢延壽巷主」との関係はわからない。 米川新聞が報道(一天齢延壽巷主)してから40年後に、郷土史家の沼倉良之氏は『洞窟が待っていた仙北隠れキリシタン物語』(宝文堂、1991年)を著す。この中で、「一天齢延壽巷主」の墓は、1951年(昭和26)3月18日に旧米川村で発見されて後藤寿庵の墓と報道されたが、その墓は後に「狼河原村高人数御改帳」から後藤正八の墓であることが確認された、と記している。 60号(1952年9月21日)には、「聖地における荘厳ミサ」。新しく造られた寿庵の墓碑の前でミサが行わわれ、NHK全国放送予定である、と書かれている。また、同号には、じゅあん羊かん本舗の広告がある。 61号(1952年10月1日)では、宮城県史編纂委員の只野(淳)、小原(伸)、岩間(初郎)の三氏が米川綱木沢の小野寺藤右衛門宅を調査して、キリシタンに関する重要な古文書を発見した、とある。この文書には三経塚の由来等の記述があったようだ。 68号(1952年12月11日)では、「子安観音三体発見」の記事で、宝ノ沢で2体、毘沙門天の堂内で1体発見され、何れもマリアを観音様や地蔵様の形にしたと説明がある。 75号(1953年2月21日)では、沼倉良之氏が、小野寺家の巻物(「老聞並伝説記」。なお、沼倉良之『洞窟が待っていた..』では「伝説並老聞記」と記している)から三経塚について紹介している。------------ 鉱山盛りし処 東磐井郡保呂羽村千松大篭村より製鉄方お役人が来り 神仏の信仰を語り教え人々は皆尊び申候処 其後は伊達様の御役人参り 信者を集めて打ち首となす張付となす 手と足に釘を打つ ・・・・・・・死体と経文を埋候 鉱夫の人数は三ヶ所・・・・・・・一場所に四十人位・・・・・・・享保年間の事------------ 76号(1953年3月1日)には、「老聞並伝説記」から、隠れ籠の由来が紹介されている。------------ (旅人が)享保9年8月15日夜、磐井郡一関より黄海に行くために一夜の宿を願うにより 是を許したるも出発は何時とたずねしに 明朝五ッ刻と語りし時 門外に人の声するあり これは追手の役人なり この家に五〇位の男あらば差出すべしとの事 その中に裏門より出で山に登りて一夜を明かす ・・・・・・・かくれた所を隠れ籠と呼んでいる・・・・・・・旅人はついにつかまって磔になったという------------(2)教会活動が活発になった時期 =1954年から1960年頃 小林有方司教が米川村を訪問し、その後に集団洗礼や聖堂建設など教会活動が活発になった時期である。 小林司教は仙台教区長を退いた後に、1971年(昭和46)8月、第8代米川教会の主任司祭に就任した。1980年発行の『身も魂も 米川カトリック教会創立25周年記念誌』に「米川と私」と題したエッセーを寄せている。------------ 私が・・・・・・・仙台教区長に任ぜられたのは、昭和29年の春三月でした・・・・・・・(只野淳氏が)「宮城県北に、米川という不思議な村があります。350年前の殉教者の子孫の住む村落です。殉教の遺跡も数多くありますから一度行ってみませんか」そして、私は、誘われるままに、何気なしに〔おだずま注、この5文字に傍点あり〕、29年の夏の一日、その米川に第一歩を印ました。------------ この時の記事が124号(1954年7月11日)に掲載されている。小林司教が初めて米川に来て1年後、1955年(昭和30)7月10日には集団洗礼がある。159号(1955年7月11日)には、「全国的にも異例の式」「受洗者は184人、大人38人、大部分が小中学生だった」などと。同号の社説の記載は次の通り。------------ 去る10日、184名が受洗された事は本村何百年来の快事である・・・・・・・われわれの祖先がキリスト教を信仰し、120の殉教者を出した聖地である事は、つい近日まで誰一人、口にする者のなかった・・・・・・・人類愛に生き抜くべく改宗された方々のその英断、ひたすら良い子たれと、わが子を神に託すべく受洗させられたご両親の決断に対し、心から敬意を表したい。願わくは受洗者のすべてが、村人の心のともしびとなられるよう祈ってやまない。------------ この集団洗礼は『アサヒグラフ』(1955年7月27日号)で紹介された(バテレン村に主はきませり-宮城県登米郡米川村-)。米川に聖堂はなく、洗礼式は米川小学校で行われた。7月10日は農繁期で昼は忙しかったので、夜に行われた。『アサヒグラフ』記事では、なぜ集団洗礼を受けたかとの記者の質問に、少年が「母ちゃんが、まぁええじゃろう」と答えた、とある。 181号(1956年3月1日)では、聖マリア保育園開園を知らせ、241号(1957年11月1日)には、「カナダ レミュ大司教の贈物」の見出しで聖堂落成の記事が掲載されている。小林司教はカナダで、江戸時代に殉教のあった米川で集団洗礼が行われたことを講演した結果、浄財が集まり聖堂建設が実現したと報じている。 301号(1959年7月10日)には、次の記事(集団洗礼4周年)がある。------------ 7月10日は米川カトリック教会に於ける第1回集団洗礼の記念日にあたり、教会では・・・・・・・ミサを捧げることになっている・・・・・・・信者たちも追々増え信仰生活も漸く板について来つつある。保育園事業その他教会を中心とした仕事も着々と実績が上がって居り今後が期待される。------------ 前掲『身も魂も...記念誌』によると、同誌が発行された昭和51年(1976)時点で、米川教会とその巡回教会の大籠教会の両教会で受洗した人は、臨終洗礼を含めて540人。(3)米川カトリック教会神父の随筆が掲載された時期 =1960年から1963年 1960年(昭和35)に米川カトリック教会は教会報「じゅあん」を発行する。それ以降、米川新聞に教会関係の記事は少なくなるが、神父のエッセーが掲載されるようになる。そのうち3例を紹介する。 347号(1960年11月1日)には、浅沼事件(10月12日社会党委員長浅沼稲次郎が右翼成年に刺殺される)について平田浩神父が寄稿。379号(1961年10月1日)の島村泰三神父の題は「世界の関心は核実験」。ベルギー人の村首ステファノ神父は「青い目で見た米川」の題で連載し、432号(1963年4月1日)では、できるだけ他人の私生活に互いに興味を持たない方が良い、と書いている。6 カトリック布教からみた米川新聞の評価 前出『身も魂も...』には、米川新聞を「間接の布教」と評価する意見が掲載されている。教会報「じゅあん」が発行される前は米川新聞が教会の広報誌の役割を果たしていたが、新聞の編集者は布教を第一の目的に書いたのではないだろう。公平な報道を心がけていたと推察される記事があるからである(下記)。 143号(1955年1月24日)「新春座談会 若い世代に聞く」では、ある青年の「自分だけが幸福になるのなら宗教で出来ようが、家族を幸福にするには経済が伴わないことには」という率直な意見を掲載している。359号(1961年3月1日)では、辛口エッセーを載せる「ほそみち」欄で次の文章がある。------------〔おだずま要約〕旧正月元旦、お父さんは神タナの前で「五穀ホージョー、国家安全」とかしわ手。7歳のA子と5歳のS坊は保育所のおしこみよろしく「チチトコト セイレイノ ミナニヨリテ アーメン」。3歳のT坊やは「ナンミョーホーレンゲッチョ」。ハイティーンK君は年越しパーティで夜更かしし今朝もぐりこんだ床の中から「アアアリガタヤ アリガタヤー」------------ 最後の一節は、1960年某歌手が歌って流行した「ありがたや節」の一節。(五穀豊穣)国家安全は、前年(1960年)の安保闘争を反映して、家内安全を国家安全に書き換えたと推察する。そして、このエッセーの重要な点は、父親だけが伝統的な宗教儀式を継承していること。 伊藤幹治氏が「東北農村におけるキリスト教の受容」(『国立民族学博物館研究報告』11巻1号、1986年8月25日)で、「家督相続者非受洗の法則」と書いている。父親はキリスト教徒にならないことがエッセーから読み取れる。7 現代につながる隠れキリシタン(まとめ) 隠れキリシタンは既存の宗教から新しいキリスト教の信仰に生きた人々である。戦後参政権を得たが、女性が議員として活躍する機会は特に農村では閉ざされていた。しかし、米川の有権者は、沼倉たまきを議会に送り18年間も政治を託した。この選択は、既存の価値観にとらわれない点で、隠れキリシタンと通じるものがある。 米川新聞が15年間休刊がなかったことは、信仰生活を送った米川の人々の持続力と勤勉の成果である。そして、編集者たちが自らを「同人」と呼んだことに象徴されるが、年齢や男女の差もなく多様な人々が結集し新聞発行を担い、米川地区の購読者もまた担い手の一員だった。 戦後の米川地区の人々の中には、隠れキリシタンと同じような精神が生き続けていたと思う。■関連する過去の記事(登米市関係) 気仙沼線・BRTを体験する(2024年05月05日) 香林寺(登米市)(2024年05月02日) 組合立だった名取高校、岩ヶ崎高校、岩出山高校など(2024年03月21日)=組合立だった米谷工業高校 ついに見た!米川の水かぶり(2023年02月09日) ネフスキーと登米(2022年11月9日) 北上川の移流霧(2021年5月22日) 登米の警察資料館(2015年5月24日) 中江その通り(2015年5月1日) 船で脇谷閘門を通過する(2010年11月14日) 華足寺(2010年11月12日) 海無沢の三経塚(2010年11月11日) カトリック米川教会(2010年11月9日) 登米市と「はっと」(08年11月30日) 仙北郷土タイムス を読む(08年10月6日) 登米市出身の有名人と「まちナビ」(08年5月2日) 北上川改修の歴史と流路の変遷(08年2月17日) 北上川流域の「水山」(08年2月11日) 柳津と横山 名所も並ぶ(07年10月26日)
2024.08.16
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盆の供え物に、キュウリで馬を、ナスで牛を模して造られる「精霊馬」がある。祖先が現世には馬で早く帰来し、来世には牛でゆっくり戻るようにとの思いが込められたとされる。近年、従来の素朴な牛馬ではない工夫がされて、ネットで公開されている。キュウリやナスをカットし組み合わせて、車やバイクや飛行機にするなど。祖先の乗り物という意識は保持されつつ、ネット画像を見て、自分の考えや思いを反映したアートをさらに画像にアップするという、お盆を巡る現代の民俗のあり方と言えよう。■島村恭則編『現代民俗学入門:身近な風習の秘密を解き明かす』創元社、2024年 から(堀田奈穂執筆部分)同書によると、山形県遊佐町では、精霊馬の代わりに、家の軒先に自動車などの模型を吊るす風習がある。キュウリなどの野菜ではなく、模型なのだ。故人が好きだった車種にしたり、先祖の人数が多いとバス、さらには飛行機にする家庭もある。野菜でアート化するケースと同様に、故人への思いと供養の気持ちが反映されている。ところで冒頭の画像のキュウリとナスは、お盆に実家でもらった野菜です。盆が開ければ、秋が来る、はずの東北もまだまだ暑い日が続くよう。
2024.08.15
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仙台・宮城では、県北をケンポク、南北をナンポクと呼ぶ人が多い。宮城固有の地域名である仙北(宮城県の仙台市以北の主に内陸部)も、センポクの読みが主流だ。以前から書いている話題だが、いつも通って見慣れている看板を、「証拠」とばかりに撮りましたよ。当ジャーナルの研究課題(?)の一つですが、今回は写真だけで失礼します。■関連する過去の記事 なすびも。やはり「けんぽく」だ(2016年6月17日) 地下鉄東西線乗りました(2015年12月6日) 福島も「けんぽ(po)く」です(2015年11月24日) 仙北・県北・南北の読み方 再論(2015年5月16日) 宮城県民は「県北」をやはりケンポクと読む(2013年2月6日) 南北線は Namboku Line(2012年11月22日) 宮城はやはり「せんぽく」(2011年2月8日) 仙北は「せんぼく」か「せんぽく」か(2010年7月26日)
2024.08.14
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ある本を読んでいたら、こんなことが書かれている。------------現在の視点から見れば、「写真を撮る」とは文字通り自ら撮影することを指す。しかし、〔中略〕幕末から明治初年においては「撮影される、あるいは肖像写真を依頼する」ことを指した。写真を制作する行為は、一般からかけ離れた専門的なものだったのである。------------保阪正康ほか『世界から見た20世紀の日本』山川出版社、2016年(三井圭司執筆部分、写真史概説:明治から大正の写真を支えた技術)何年か前だが、新型コロナのワクチンを「打つ」という表現に最初は戸惑った。打つのは医療関係者であり、一般人は「自分の腕に打ってもらう」はずなのだ。覚せい剤常用者じゃあるまいし。とはいえ、「皆さん打ってもらってください」「俺はもう打ってもらった」「勧奨されても打ってもらいたくない」などの語法は面倒でもあり、「打ってください」「もう打ったよ」「打ちたくない」と、自動詞的な言い方が定着した。明治の写真の場合は、誰でもカメラで手軽に撮影できる現代と違い、被写体側はまさに撮影してもらうのであり、撮影するのは装置と知識を備えた写真師に限られた。それでも被写体側を主語にして「撮る」という言い方だったという。他人に注射されるワクチンなのに自分を主語に「打つ」というのと、似ている。予防接種法をみよう。予防接種とは、ワクチンを人体に注射又は接種することと定義される(第2条)。そして、例えば定期接種であれば、市町村長が予防接種を行わなければならない(第5条)。他方で、打たれる側の一般人についての表現をみると、例えば定期接種の一部について「対象者は、これらの予防接種を受けるよう努めなければならない」とされる(努力義務、第9条)。さらにややこしいが、対象者が16歳未満などの場合は「保護者は、その者に〔中略〕予防接種を受けさせるため必要な措置を講ずるよう努めなければならない」とされ(第9条)、いずれにしても、予防接種を実施するのは市町村長、一般人は接種を受ける、という構図だ。では、接種の現場に関連する公的な表現はどうか。厚生労働省の手引きでは、被接種者、接種実施医療機関等、などの用語が使われている。あくまで接種するのは医療従事者であり、一般人は接種を受ける側である。ワクチンの準備、回数の確認、予診、注射、経過観察など予防接種を提供する側が主語になるのは当然である。おそらく、「打つ」の用語法は、俗な言い方として始まって定着してきた。新型コロナ以前にも、季節性インフルエンザや子宮頸がんワクチンをめぐっても、(被接種者を主語として)「打つ」「打たない」語法はあったのだろう。言葉の厳密さを気にする度合いは各人の感覚によるが、それでも一般に通用している意味はわきまえた方がいい。写真を撮る、ワクチンを打つ、などの「自動詞か他動詞(受け身・使役)か問題」に関しては、私がたまに気になるのは、次のような言葉だ。・使用者・労働者=被用者 労働する側であり、雇用される側、なので納得できる。・雇用者これはちょっと微妙。本来は雇用する側(雇用主)を意味しそうだが、雇用された人を意味する場合がある。例えば、労働力調査(総務省統計局)では、「就業者」の内訳として、「自営業主・家族従業者」と並んで「雇用者」がある。簡単にいえばサラリーマン(死語か)だろう。また、今では「(非)正規雇用者」の語さえ通じているように思う。用語法の変化の背景には、雇用される側に立って、その主体性を重んじる風潮があるのかもしれない。昔なら労使二元構造を前提に被用者固有の課題を認識し、その地位向上がテーマだったが、今や一緒により良い「雇用」の実現、より良い労働環境の整備、生産性の向上、さらに少子化や人的資源経営にも立ち向かって行きましょう、ということ。やや考えすぎだが。生活保護の「被保護者(世帯)」、児童福祉における「要措置児童」などの他動詞受け身形の言い方も、変わっていくのだろうか。
2024.08.10
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雄藩という語は、解説によると2通りの使われ方があり、ひとつは江戸時代の規模の大きい大名、具体的には加賀、薩摩、仙台など。もうひとつは、藩政改革に成功して幕末に勢力を発揮した薩長土肥などを指していう、と解説にある。当ジャーナル編集長はかねてから、仙台の人が雄藩(東北の雄県)と自称する意識構造を気にしつつ、他地域と異なる仙台の(守旧的・閉鎖的・排外的ともいえそうな)文化特性を多角的に研究してきた(と胸を張るほどのものではありませんが)。雄藩の語に関しては、一般には幕末・維新の歴史を彩る西南などの諸藩をいうと思うが、仙台では大藩伊達藩の誇りを今なお称揚して、或いは維新の「主役」だった薩長への忌避感もあってか、400年前の三大外様大名の存在感を現在に投影して、東北の雄県などと言って見せる。しかしながら経済産業や人材育成の面でどれだけ「威光」に劣らない努力をしてきているのかが実は大事なのだが。■過去の記事 仙台・宮城と雄藩(雄県)を考える(2023年02月26日)ところで、下記書籍を読んでいた。幕末史の見方が、ちょっと前までの通り一遍の倒幕史観から、実証的研究を経てだいぶ変わっていることが面白かった。「雄藩」の語はたしかに公武合体や攘夷を唱えて動いた諸藩を指して記述のなかにさも自然に登場する。ただし、その路線は一致していたわけではなく、各藩の立場は極めて多様でかつ時点を追って変わっていく。また、列藩同盟の内部の対立なども新たな視点で捉えられそうだ。歴史は奥が深い。すべての歴史とは現代史である、とはクローチェの言だったと思うが(磯田道史が書いていた)、現在にいきる我々がよく学び直そう。■文献 小林和幸編著『明治史研究の最前線』筑摩書房、2020年■関連する過去の記事(仙台・宮城の県民性や歴史認識などに関しては、下記以外もあります。フリーページ記事リストをご覧ください。) 仙台・宮城と雄藩(雄県)を考える(2023年02月26日) 三柄大名(07年8月17日) 見透かされた「大藩仙台」の空虚なる風土(06年4月2日) 仙台・宮城人怠け者論を考える(09年11月11日)(明治末年の出来事) 仙台・宮城の気風を再び考える(06年7月3日) 肝付兼武のこと(06年6月13日) 仙台文化を理論的に解明?(06年2月17日)
2024.08.02
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