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なんでこんなに、電気製品が壊れるのか・・・??まず4月、ギリシャ旅行中に、iPadミニが使用できなくなった。 4月20日、PCデスクトップが壊れて、5月4日に新PCに替えた。 5月の10連休中に炊飯器が壊れた・・・。 iPadが壊れたのは、10連休明けの5月10日頃だったか・・・。 ところで、炊飯器の選ぶ基準は、何だろう?私は*「色」・・・白*金額・・・上限1万円。*大きさ・・・3合炊き のみを考えて買った。使ってみたら、もっと選ぶ基準を考えればとがっかり・・・。●重さ内窯・・・今のは重過ぎる。毎日のように洗ったり、米を研いだりするので、重いのは困る。故障したのより、新しく買ったのは、重いので使いにくい。●蓋を開けるボタンの位置。故障した方は、炊飯器の上にあったが、新しいのは、横にある。開閉は、一日に何回もあるので、上の方が便利だ。炊飯器を使う度に、溜息をつく今日この頃・・・。 テレビでは、「令和」、「令和」に明け暮れた五月。私は、関係ないと言いながら、作った俳句に元号が・・・。●平成の終わりをかざる桜かな●元号の決まりて桜咲き初(そ)むる●元号は「令和」となりて桜咲く●新しき元号はじめや五月晴 はるな■2019年5月見た映画■*僕たちのラストステージ*ホワイト・クロウ 伝説のダンサー*アガサ・クリスティー ねじれた家*希望の灯り■書き残したネタ■*丁寧すぎる言葉*牡蠣の殻ネタ*ギリシャネタ*読書ネタ*一人称について*中ノ島堀割*M1グランプリ*ローラの発言*コインランドリー「フレディ・レック・ウォッシュサロン」*暖房ネタ*プラスティックごみ。 *白樺のかご*天蓋ベッド*葛井寺と藤井聡太*会話力*妄想古民家カフェ「くるり」*漆の木・・・・・・・・・・・・・・・・ にほんブログ村・・・・・・・・・・・・・・・・
2019.05.31
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5月18日(土)、古い町並みの残る奈良県・五條市に行き、ガイドさんの案内でまち並みを見てきた。奈良県五條市は大阪府との県境の金剛山の南麓の小さな盆地の町。(▲吉野川) ■五條・地名■五條市は盆地で北の金剛山の南斜面から多くの谷の水が五條市を東西に横断する吉野川に流れ込んでいます。その吉野川の支流が上流から宇智川、内の川、 西川、東浄川、寿命川と5本あり、これがわずか1.5kmほどの間に並んでいます。金剛山から5本の小川が流れ込んでいる、ということから五條の地名がつけられたのではないかと思われます。なお、市内にたくさんある御霊(ごりょう)神社がなまって五條になったという説もあります。五條市全体の古代からの地名は宇智で、50年前の町村合併の前は宇智郡であったのが、その時の中心の五條町の名前が今の五條市の名前になったのです。宇智に似たような「宇」のつく地名に、宇冶、宇陀、宇佐、宇部、宇品などがありますが、これらはすべて谷間から川が流れ出す盆地や三角洲の地名のようです。 ■吉野川の近くにあり、そこへ流れ込む水路のような小さな川が何本もあることも■五條新町の景観を面白いものにしています。この時は、川にはほとんど水が流れていませんでしたが、川ギリギリまで建物が立ち、足場を作って川面にせり出すように家を広げていたりするのが楽しいですね。今は、吉野川は、この向こう(階段の所が堤防)に流れているが、昔は、手前まで水が来ていた。かつては石垣のところまで水が来ていた。吉野川には三十石船や奥吉野から木材を運ぶ筏(いかだ)流しも見られ、水陸交通の要地でもありました。▲道路のすぐそばに船着き場があった。▼西川にかかる6鐵屋橋のすぐそばにあるのが、「餅商 一橋」。大正時代から続く、いかにも古そうな、このお店、最近閉店されました。「新町橋」と「しんまちばし」。東にあたる方に漢字を西にはひらがなであらわしたそうだ。そうすることで、夜暗い時でも、方角が分かるからだそうだ。■五條は古来さまざまな土地への交通の要でした。■奈良、和歌山、河内長野、十津川、あらゆる場所へ続く旧街道が、現在の五條の本陣交差点で交差しました。交差点にはかつての繁栄を偲ばせる立派な道標が残されています。交通の要衝地だったゆえに、数々の歴史の舞台ともなりました。なかでも幕末には、天誅組が尊王攘夷を掲げ、徳川幕府に対して武装蜂起した場所としても知られています。五條から南へ鉄路を伸ばす五新線の計画も、多くの人々の期待を集めたものでした。しかし昭和57年、開通することなく工事は全面中止に。新町通りを横切る高架跡は、鉄路に夢を馳せた人々の思いを静かに今に伝えています。 幻の「五新鉄道」風光る はるな(▲右部分、広い格子)商いをしていた町家には、通りに面して設けられた格子の形にも特徴がある。多くの町家に、間隔が広い格子、狭い格子、その中間にあたる幅の格子と、3種類の格子が存在している。幅が広い格子は店先部分にあたり、その奥に並べられた商品が見えやすい構造に。(▲左、狭い格子右側、中間の格子)また間隔が狭い格子の向こう側は住居部分にあたり、生活の様子が通りから見えにくいようになっている。そして、店先部分の格子と住居部分の格子との、ちょうど中間ほどの幅の格子は、勘定をする帳場に用いられた格子である。(▲五條代官所跡)1870年(明治3年)、宇智郡五條村(現五條市)に置かれていた五條代官所に五條県が設置された。その後、紀伊国内の高野山領、大和国吉野郡十津川郷を管轄した。しかし、翌年の第1次府県統合により廃止された。五條という町を今回初めて知ったが、昔は大いに繁栄していたようだ。・・・・・・・・・・・・・・・・ にほんブログ村・・
2019.05.29
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■ファジーな大阪弁一覧表:「い」■(平成13年(2001)6月21日)◎は、私のメモ。■いかい(厳い)大きい、大変な、沢山、大仰■いかん(いかぬの訛)あかん?いけない、駄目だ■いきゃたりばったり深く考えずに、成りゆき任せでその場限りに物事を処理するをいう。■いけいけ(行け行け)相殺、差引勘定が零の場合。◎「いってこい」(行って来い)ともいう。【畳語の例】いねいね、おそおそ、からから、きちきち、つめつめ、はだはだ■いける(行ける)①行くことができる。②思ったより美味な時の言葉。■いっこも①ひとつも②少しも■いてしまう①行ってしまう。②やっつける。◎「いてまう」ともいう■いやしんぼ・くいしんぼ■いわす①言わせる②やっつける。◎いかき笊(ざる)のこと15世紀の《下学集》は笊籬を〈いかき〉と読み,味噌漉(みそこし)としている。いまでも京阪では〈いかき〉,東京では〈ざる〉と呼ぶが,語源については〈いかき〉は〈湯かけ〉から,〈ざる〉は〈そうり〉から転じたなどとされる。◎いちびり動詞は「いちびる」。「いちびり」とは、ふざけまわる人、お調子者、出しゃばりといった意味の大阪弁。◎■いちびり■■ファジーな大阪弁一覧表:あ■・・・・・・・・・・・・・・・・ にほんブログ村・・・・・・・・・・・・・・・・
2019.05.28
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■4月18日(木)この日は帰国するが、午前中は、アテネ市内を観光した。アクロポリスの丘の後、バスで移動。バスの窓からも古代の建物の遺跡が見えた。道は相変わらず混んでいる。アテネは、坂道があるからか自転車ではなく、オートバイが多かった。使い込んだオートバイを取られないように、厳重に繋いである。■パナシナイコスタジアムは■ギリシャのアテネにある競技場。1896年の第1回近代オリンピックが初めて開かれた場所でもある。古代オリンピックにならい、トラック(1周330m)の直線が極端に長く、コーナーはヘアピンカーブ。総大理石造りのスタンドは4~5万人収容。 2004年の第28回大会では、男女マラソンのゴール地点とアーチェリーの会場に使われた。▲周りには、古代オリンピックを思わす像が・・・。▼バスの中から、美しい建物が見えた。高いところにある二つの像のうち、左が、アテネの守り神、アテーナの像。この他、丘の上からみたアクロポリスの丘。丘に登る途中には、アカンサスがたくさん生えていた。アザミに似た形の葉は古代ギリシア以来、建築物や内装などの装飾のモチーフとされる。特にギリシア建築のオーダーの一種、コリント式オーダーはアカンサスを意匠化した柱頭を特色としている。ギリシアの国花。 古代ギリシア文化がこの装飾の起源であり、渦を巻く葉の先端はローマ人によって磨きをかけられた。 アカンサスのデザインの人気は、ビザンティン、ロマネスク、ゴシック建築の時期まで続き、ルネサンス期に復興、現在まで支持され続けている。 ■中ノ島ダイビルの柱を飾るアカンサス模様■ ウィリアム・モリスも壁紙にアカンサスをデザインしている。アテネ市内でランチ。今回の旅行最後の食事。イエミスタ(トマトのライス詰め)。この後、帰国の途に。エーゲ海イカロスのごと飛び立ちぬ はるな■ギリシャ神話イカロス■イーカロスは、ギリシア神話に登場する人物の1人である。蝋で固めた翼によって自由自在に飛翔する能力を得るが、太陽に接近し過ぎたことで蝋が溶けて翼がなくなり、墜落して死を迎えた。イーカロスの物語は人間の傲慢さやテクノロジーを批判する神話として有名である。イーカロスの神話は、テクノロジー批判神話の一種であり、人間の傲慢さが自らの破滅を導くという戒めの意味もあった。 しかし、楽曲「勇気一つを友にして」のように、本来の教訓とは逆に、自らの手で翼を作り飛び立ったイーカロスを勇気の象徴として表している例もある。 ■ホテルの前にあったイカロス像■■楽曲「勇気一つを友にして」■昔ギリシャのイカロスはロウでかためた鳥の羽根(はね)両手に持って飛びたった雲より高くまだ遠く勇気一つを友にして赤く燃(も)えたつ太陽にロウでかためた鳥の羽根みるみるとけて舞い散った翼(つばさ)奪(うば)われイカロスは墜(お)ちて生命(いのち)を失った(▲サントリーニ島の夕日)期待以上に楽しめたギリシャ。行きは、ドバイまで10時間30分。待ち時間5時間。ドバイからアテネまで5時間10分。帰りはアテネ~ドバイ 4時間30分ドバイ~大阪 9時間15分。 お土産は、ドライトマト。4月10日(水)関空4月11日(木)ドバイ経由アテネ。コリントス運河4月12日(金)オドントス登山鉄道に乗れなかった。 デルフィの町を散策4月13日(土)デルフィ博物館 世界遺産:デルフィの遺跡 世界遺産:オシオスルカス4月14日(日)世界遺産:メティオラ修道院4月15日(月)クレタ島4月16日(火)サントリーニ島。4月17日(水)サントリーニ島からアテネに4月18日(木)アテネ市内観光。帰国。4月19日(金)関空着・・・・・・・・・・・・・・・・ にほんブログ村・・・・・・・・・・・・・・・・
2019.05.27
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岡山県の田舎に住んでいた60年以上前の話。うちの家の敷地の西側に、細長い竹藪があった。篭や笊、火吹き竹、竹帚、洗濯竿などの生活道具として、建材として、昔の生活は、なにかと竹を使っていた。 竹の種類は、マダケだったかハチクだったかは、覚えていないが、タケノコの旬は今頃だった。今頃は、毎日のように竹藪に入って、タケノコを採ってくるのが私の役目だった。西側にある竹藪は、夏になると、強い西日を遮る格好の日よけになった。夏、洗濯の物干し竿や、稲を干す竿を切り出し、七夕になると二本の竹を切り出し笹に願い事を書いた。竹藪にいる翅の黒いトンボを私は飽きずに眺めていた。竹を利用することで、竹藪の面積は維持されていた。 タケノコをありがたがらず、日常に竹を使わない今、竹藪が拡大し「竹害」という言葉が生まれている。竹と共に暮らしていた藪のある暮らしが懐かしく思い出される。・・・・・・・・・・・・・・・・ にほんブログ村・・・・・・・・・・・・・・・・
2019.05.26
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■4月18日(木)この日、帰国するが午前中は、ギリシャ人のガイド氏の日本語でアテネ市内を観光した。まず行ったのが、アクロポリスの丘。■アクロポリスの丘■紀元前8世紀ごろのギリシアには多くのポリスと呼ばれる都市国家が成立した。アクロポリスとは、このポリスの中心部に作られた外敵を見張ることのできる丘のことで、「高い丘の上の都市」という意味。だから、ここは、本当のいい方は「アテネのアクロポリス」。アテネのアクロポリスは海抜150mの岩山の上にそびえる守護神をまつる聖域として、また市民が立てこもる要塞として2000年以上にわたってアテネの街を見守ってきました。◎足場が悪いので雨の日は、危険だから観光できないそうだ。■パルテノン神殿■アクロポリスの中心となるのは、アテネの守護神・女神アテーナをまつるパルテノン神殿です。この神殿は紀元前488年にペルシャとのマラトンの戦いに勝ったのを記念して作り始めましたが、紀元前480年にペルシャにより破壊されてしまいました。ドーリア式の神殿は、合計46本の立派な円柱が支えており、その表面に施された装飾彫刻には完成までに15年もの歳月を要した芸術作品だったと言われています。残念ながら現在残るのはそのごく一部。レリーフや破風(※)の像の一部は、アクロポリス博物館や大英博物館に保存されています。◎女神アテーナのシンボルは、オリーブの木。アクロポリスの丘の周りにいっぱいあった。◎ユネスコのシンボルマークは、パルテノン神殿を図案化したものです。重厚なパルテノン神殿に対して北側には6体の女神像が屋根を支えるカリアティディス柱廊がイオニア様式の気品と優雅さを感じさせるエレクティオン神殿を見ることができます。こちらはレプリカですが、かつての様子を忠実に伝えてくれています。オリジナルのうち4体は仔牛を担ぐ男像などとともにアクロポリス博物館に収蔵されており、1体は大英博物館に収蔵されています。アテナ・ニケ神殿は他の壮大な遺跡と比べると小さな神殿ですが、真っ白な神殿は鳥かごのような可憐さを感じさせてくれ、青空によく映えています。神殿には勝利の女神ニケが祀られており紀元前424年に建設されました。現在の神殿は20世紀に再建されたもので、以前の神殿は1687年のヴェネツィア郡との戦いでオスマン帝国が防衛施設を建設するために破壊してしまったと言われています。 女神ニケは、翼のある勝利の女神。ギリシャのサモトラケ島で発見され、ルーブル美術館にある「サモトラケのニケ」が有名。 スポーツメーカーのNIKE(ナイキ)は、英語読みでニケ。シンボルマークは、翼。アクロポリスの麓ではギリシア最古の大型野外劇場であるディオニソス劇場も見ることができます。石造りの劇場は紀元前325年に建設され、14000人〜17000人もの観客を収容することが可能でした。その後はローマ式の劇場に改築されています。さすが、世界有数の観光地。係りの人が「止まらないでください」と叫び続けていた。ガイド氏は、冗談が上手で、パルテノン神殿の大事な宝物をイギリスやフランスが持って行ったということを「大英博物館に見に行ってください」と冗談半分、皮肉半分に言っていた。4月10日(水)関空4月11日(木)ドバイ経由アテネ。コリントス運河4月12日(金)オドントス登山鉄道に乗れなかった。 デルフィの町を散策4月13日(土)デルフィ博物館 世界遺産:デルフィの遺跡 世界遺産:オシオスルカス4月14日(日)世界遺産:メティオラ修道院4月15日(月)クレタ島4月16日(火)サントリーニ島。4月17日(水)サントリーニ島からアテネに・・・・・・・・・・・・・・・・ にほんブログ村・・・・・・・・・・・・・・・・
2019.05.25
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■4月17日(水)この日、朝9時過ぎに、バスに乗って、島の真ん中あたりにあるフィラという町に行った。(▲バスの中から見た並木道の木が白く塗られているのは、防虫のためだとか。)公共バス(一人、1.8ユーロ)で、一駅のバス停で降りて、街中散策。フィラは海抜300mで断崖の上に立つ島の中心の町です。バス交通網はすべてフィラが起点となっていて、港や空港からのバスもこのフィラに着きますので、ほとんどの旅行者は、この町を訪れることになります。テラスからエーゲ海の素晴らしい風景が見えるようになっている真っ白な可愛いホテルやペンション、ブティック、ジュエリーショップ、ギャラリー、レストラン、カフェ、お土産店などが並んでいて、いつもこの辺りは人々で賑わっています。眼下に広がる青い海と白い家並みが見事に調和しています。船から来て、この急峻な崖を昇るのは、ゴンドラとロバ・・・。かわいそう・・・。サントリーニ島にはギリシャ正教の教会がたくさんありますが、その総本山がフィラの南端にある大聖堂です。広いアーチ型の回廊と鐘楼に特徴があります。フィラには映画館もある。▲博物館もある。 ■亥年ですから??■イノシシも。サントリーニ島にイノシシがいたのか?この海は、大昔の火山の噴火で出来た。■この海に落ち込んだ巨大なクレーターができたのは、紀元前1600年代。■ここで未曾有の火山大爆発があり、島の中央部分が吹き飛んでしまったのです。その時、島に人がいたとしても助かったものは誰もいなかったでしょう。この時の衝撃は広く地中海世界に影響し、人々の間で語り継がれたはずです。そしてこのサントリーニの火山の爆発が、アトランティス伝説の元になったのではないかという説があるのです。アトランティスは、古代ギリシャの哲学者プラトンが記述した伝説の大陸です。ここのホテルにも「アトランティス」という名前が・・・。ランチは海の見えるお店。ランチ後にも町なかを歩く。時間があったので、みんなは、お土産に皿やスカーフなどを買っていた。お土産は、食べ物と決めている私は、スーパーで、ドライトマトを見つけて買った。14:40集合。帰りも、公共バスで、ホテルに戻る。町の景色。(▲細い路地)(▲一番上の通りには、時々、門のようなものがあって、カフェやレストランの入り口だった。)(▲通りも白と黒の石で美しく模様が描かれていた。▼)▲所々に、「アート」が▼▲ギョギョ!!雨量が少ないからか、サボテン系の植え込みを見かけた。道の端っこに、イチジクが生えていた。ど根性、イチジク!!サントリーニ島から飛行機で45分。アテネに。ホテルで夕食。STANLEY(スタンレー ホテル)4月10日(水)関空4月11日(木)ドバイ経由アテネ。コリントス運河4月12日(金)オドントス登山鉄道に乗れなかった。 デルフィの町を散策4月13日(土)デルフィ博物館 世界遺産:デルフィの遺跡 世界遺産:オシオスルカス4月14日(日)世界遺産:メティオラ修道院4月15日(月)クレタ島4月16日(火)サントリーニ島。イアへ夕日。4月17日(水)サントリーニ島・フィラ。飛行機でアテネに。・・・・・・・・・・・・・・・・ にほんブログ村・・・・・・・・・・・・・・・・
2019.05.24
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■4月15日(月)島の北に位置するサントリーニ島のイアは、夕日が有名。サントリーニ島のパンフレットやポスター、写真集などの多くの写真の撮影地となっているのがイアの町。 イアの町から見る伝統的なキクラデス建築の白い家々。青いドームの教会が印象的な風景が広がる。イアの町で有名なのが夕日の美しい絶景スポット。エーゲ海に沈む夕日と薄暗くなったイアの街並みのコントラストは素晴らしい。ただし、あまりに有名で夕日の時間になると身動きができなくなるほど混み合うため、早めに場所を確保することをおすすめする。イアの夕日を見るには、この建物のある広場を目指しましょう!「Ekklisia Agios Onoufrios」と呼ばれる教会が目印になっていて、ここで写真を撮ったり、夕日を見た後の集合場所になっている。イアの町は、多くの観光客が美しい景観を楽しみに訪れるので、カフェやレストラン、ギフトショップなど軒をを連ね賑やかな街になっています。家々が崖にへばりつくように建てられており、屋根の上が道になっていたりしてわかりにくい。夕日を見に行く前に、夕食。これも、オプショナルとして、ツアーと別料金で日本で支払い済。シーフードが今回も食べきれない。エビなんか、お正月でもこんなに食べない・・・。もったいない・・・。旅行中は、財布と体と環境に悪い食事だ。今回の旅行で、オプショナルツアーとして、「夕日のまち・イアでのサンセット鑑賞」というのがあって参加した。しかし、なんとも解せないのだ。このサントリーニ島の一番の売りは、「イアの夕日」。みんなが、見たい、見るべき所がオプショナル・ツアーって、おかしいのでは・・・。▼日が落ちる前のイアの町は、燃えるようだった。▼スフィンクスも見る夕焼け。4月も半ばだというのに、この日は寒くて、ダウンジャケットを着ていてもふるえた。アルバトロス4月10日(水)関空4月11日(木)ドバイ経由アテネ。コリントス運河4月12日(金)オドントス登山鉄道に乗れなかった。 デルフィの町を散策4月13日(土)デルフィ博物館 世界遺産:デルフィの遺跡 世界遺産:オシオスルカス4月14日(日)世界遺産:メティオラ修道院4月15日(日)クレタ島へ入港。遺跡見る。・・・・・・・・・・・・・・・・ にほんブログ村・・・・・・・・・・・・・・・・
2019.05.23
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■希望の灯り■♪音が出ます!はかなく密やかに、祝福のようにままならない人生にも、美しい瞬間がある。腕や首の後ろにタトゥーを入れた無口な青年クリスティアンは、巨大スーパーマーケットの在庫管理係として働き始める。旧東ドイツ、ライプツィヒ近郊。店の周囲には畑地が一面に広がり、遠くにアウトバーンを走る車が見える。仕事を教えてくれる中年男性ブルーノはクリスティアンを言葉少なに見守る。年上の魅力的な女性マリオンへの一途な思いは、恋の喜びと苦しみを教えてくれる。ここで働く者たちは、みな、素朴で、ちょっと風変わりで、心優しい。それぞれに心の痛みを抱えるからこそ、たがいに立ち入り過ぎない節度がある。それが、後半に起きる悲しい出来事の遠因になったのかもしれないが、彼らは喪失の悲しみを静かに受けとめ、つましく生きていくのだ。いま目の前にある小さな幸せに喜びを見出すことで日々の生活にそっと灯りをともす。 スーパーの裏(バックヤード)で働く人々の話。主人公のクリスティアンは、少年時代2年間刑務所に入っていた。もう昔の事だし、少年だから名前が出ていないし、仲間とは切れたというが、首や手首からのぞく刺青が、なかった事にはならないと言っているようだ。彼は、貧しい家に育ったのだろうと推測する。そこで車上荒らしなどをしたのだけれど、もっと喋らないとダメだろうと思う。自分は口下手だから・・・といっても許されるわけがない。不器用でも、職場の人の名前を覚えるとか、会ったら笑顔で挨拶するとか・・・。平凡だけど、当たり前のことが、運命を切り開くと思う。 このスーパーのバックヤードで働く人の多くが元西ドイツの人。クリスティアンを指導するブルーノも元東ドイツで働いていたことを懐かしんでいた。故郷をなくした喪失感が悲劇を生む。バックヤードで働くということ=人生の日の当たらない場所で働く人たちに温かい目線で描かれた映画だった。・・・・・・・・・・・・・・・・ にほんブログ村・・・・・・・・・・・・・・・・
2019.05.22
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■アガサ・クリスティー ねじれた家■♪音が出ます!!嘘をついているのは、誰?ギリシャで生まれ、若いころに無一文で英国へ渡り、レストラン経営で大成功を収め、巨万の富を築いたアリスティド・レオニデスが突然死ぬ。孫娘ソフィア(ステファニー・マティーニ)はかつての恋人チャールズ(マックス・アイアンズ)が営む探偵事務所に赴き、一族の誰かが祖父を殺したに違いないと打ち明け、捜査を依頼する。チャールズはロンドン警視庁を訪れ、タヴァナー主任警部(テレンス・スタンプ)からレオニデスの死因は毒殺であることを知らされる。レオニデスの大邸宅に到着したチャールズは、レオニデスの前妻の姉で一族を取り仕切るイーディス(グレン・ローズ)から聞き込みを始めるが、強烈な個性を放つ人々を相手に、捜査はなかなか進まない。さらに、愛人のいる若い後妻ブレンダ(クリスティーナ・ヘンドリックス)、映画製作の資金が欲しい長男夫妻、父から受け継いだ会社が倒産寸前の次男とその妻、そしてソフィアに至るまで、全員に殺人の動機があることに気付く。そんななか、レオニデスの遺言書が無効であることが発覚する。それをきっかけにチャールズは真相が見えたと確信するが、その推理を覆す第二の殺人が発生する……。 アガサ・クリスティーといえば、時代が1920年代から30年代。探偵ポアロの鮮やかな謎解きが知られているが、この映画は、1950年代(と思う)で探偵は、20代の私立探偵チャールズ。ちょっとアガサ・クリスティーのものとは、違うな・・・。 ■天才作家の妻■で主役をやったグレン・クローズ が主要な役で出ていた。探偵・チャールズ役のマックス・アイアンズも、「天才小説家の妻」に主人公夫婦の息子役で出ていたそうだ。「えっ!!??」とびっくりの結末。■アガサ・クリスティーの別荘・グリーンウェイ■家と内部。・・・・・・・・・・・・・・・・ にほんブログ村・・・・・・・・・・・・・・・・
2019.05.21
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■4月16日(火)遺跡を見た後、食事をするために行ったのは、風車を利用したレストラン。サントリーニ島では、風車があるのは、知っていたが、ランチのレストランが風車を利用したものとは知らなかった。レストランの紙ナプキンにも風車が!ツアーのランチは、去年行った■クロアチア・スロベニア■でも豪華だったが、今回も豪華で、食べきれない。もったいない!!ランチの後、海辺に行った。この辺りの浜辺が黒いのは、火山の影響。時間があったので、海岸近くの町を散歩していたら、籠をいっぱい積んで売りに行く人を発見。顔の色が黒かったので、難民なのか・・・。▲映画館があるらしい。映画館、見つけた!!小さな島なのに、映画館があるってびっくり。野外で見る映画もあるらしい。早めにホテルに入って休憩するのは、この日の夕方から、イアという町に夕日を見に行くから。ベッドで休憩したり、水を買いにスーパーに行ったりして、夕方を待つ。4月10日(水)関空4月11日(木)ドバイ経由アテネ。コリントス運河4月12日(金)オドントス登山鉄道に乗れなかった。 デルフィの町を散策4月13日(土)デルフィ博物館 世界遺産:デルフィの遺跡 世界遺産:オシオスルカス4月14日(日)世界遺産:メティオラ修道院4月15日(月)クレタ島・・・・・・・・・・・・・・・・ にほんブログ村・・・・・・・・・・・・・・・・
2019.05.20
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■呑んでくてチョン■につっこんだりごとびに突っ込む私。長いこととってあった、「なにわことばのつどい」(平成13年(2001)6月21日)をここに移しておこう。ファジーな大阪弁一覧表:「あ」■あいそない(愛想無い)①不愛想②もてなしの悪い■あいそもこそも■あえる(和える)①食物と調味料を混ぜ合わせる。②馬鹿にする、物事を混ぜ返す。■あおた(青田)①まだ実らない稲田②無銭で興行物などを見る者への称■あかい(明い)①明るい②赤い■あかべ(赤目の転)①アカンベ②いやな事を指していう。■あかん(不可・埒(らち)明かぬの上略■あしがはやい①早足、早歩のこと。②食物の腐り易いのにいう。■あしだす①足を出す。②予定の金額よりも使い過ぎる。■あしをあらう①足を洗うこと。②水商売を止めて素人になる意。■あたまはる①頭をなぐる。②ウワマイをはねること。■あっさり・あっさり①大根の浅漬。②簡単な事、しつこくないさまさっぱりしたさまの事。■あぶらむし①ぼっかぶり・ごきぶり。②ならず者・無頼漢のこと。 ■あほ、あほぉ■あほのさいく(阿保の細工)念が入って間が抜けていること。■あめかぜ①雨と風と②甘い物も酒類(アルコール)も好きな両刀使い。■あめがふってもやりがふってもどんなことがあっても、どんな苦労をしても、どんな障害も排して。■あめねぶらす(飴舐らす)少しだけ利益を与えて大きな働きをさせること。■あもつき①餅搗き②秘語として房事を譬えていう。■あらいざらし(洗いざらし)洗いざらい、残さず余さずに。■あんじょお(味好う)うまく、体裁よく、丁寧に■あんする(お辞儀する)に同意。①お辞儀すること。②商売に失敗して閉店する。■あんばいよお(塩梅好う)都合よく、ほどよく、加減よく「なにわことばのつどい」平成13年6月21日号より。■あて■も是非、加えて欲しい。◎「あて」・・・酒の肴のこと。◎あもも団子も・・・一緒くたにすること。・・・・・・・・・・・・・・・・ にほんブログ村・・・・・・・・・・・・・・・・
2019.05.18
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■4月16日(火)クレタ島の港から高速ジェット船でサントリーニ島に向かう。スーツケースを預け、船室へ。(▲クレタ島)約2時間弱の船旅。天候は回復したが、空気は冷たく、風も強かった。ギリシャは、暑いだろうと半袖を持ってきたが、一度も着る機会がなし。10:45サントリーニ島の港に着く。サントリーニ島 (もしくは ティーラ島)は、エーゲ海のキクラデス諸島南部に位置するギリシャ領の島。かつて大爆発を起こした火山が形成したカルデラ地形(サントリーニ・カルデラ)の一部で、その外輪山にあたる。「サントリーニ島」の名はカルデラ全体、すなわち本島を含めた5つの島々(サントリーニ諸島)の総称としても用いられる。 カルデラ湾を望む断崖の上に白壁の家々が密集する景観でも知られており、エーゲ海の著名な観光地の1つである。一方で、サントリーニ・カルデラ内では現在も活な火山活動がある。港に待っていたバスに乗り込み、出発。バスの窓から広がるのは、砂漠のような土地。サントリーニ島は雨の量が少なく日差しが強い。ここで育つブドウは、降雨では必要な水分を確保できず、海風に含まれる湿気を頼りに育っているとか。島の家が白いのは、強すぎる日差しをはね返すため。アクロティリ遺跡をガイド付きで見学。▲この遺跡は、建物で囲まれているので、天候に左右される事なく見学が可能。▼(▲遺跡の模型)アクロティリ遺跡は、大噴火によって3500年前に突然消えた町の遺構。同じく火山の爆発で火山灰に埋もれ一夜にして無くなったイタリアのポンペイに比べられ、「エーゲ海のポンペイ」と言われている。アクロティリ遺跡は、3500年前のもの。ポンペイは、2000年弱。その差、1500年というから、この遺跡がいかに古いかわかる。ちなみに、日本の邪馬台国は1800年位前だそうだ。もうひとつのポンペイとの違いがある。それは、ポンペイでは、多くの人が亡くなったこと。それが、ここアクロティリでは、亡くなった形跡がない。地震などの予兆があって、事前に避難できる余裕があったのではないかと推測される。この遺跡は、まだ10%程しか発掘が進んでいない。このような遺跡から、サントリーニ島とクレタ島を中心とした大陸、アトランティス大陸があったとする説もある。■エーゲ海文明■4月10日(水)関空4月11日(木)ドバイ経由アテネ。コリントス運河4月12日(金)オドントス登山鉄道に乗れなかった。 デルフィの町を散策4月13日(土)デルフィ博物館 世界遺産:デルフィの遺跡 世界遺産:オシオスルカス4月14日(日)世界遺産:メティオラ修道院・・・・・・・・・・・・・・・・ にほんブログ村・・・・・・・・・・・・・・・・
2019.05.17
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■4月15日(月)アテネから船に乗って、船で一泊、クレタ島イラクリオン港に着いた。船中で簡単な朝ごはん。クレタ島は、ギリシャ共和国南方の地中海に浮かぶ同国最大の島。古代ミノア文明が栄えた土地で、クノッソス宮殿をはじめとする多くの遺跡を持つ。また、温暖な気候や自然景観から地中海の代表的な観光地でもある。 (▲ベネチア時代の要塞)クレタ島はヨーロッパにおける最初の文明のひとつであるミノア文明が栄えた。当時の社会については、伝えられるべき文字が遺されなかったため、遺構から類推するよりほかないが、平和で開放的であったと考えられている。ミノア期の遺跡には、壮麗な石の建築物や複数階の宮殿があり、排水設備や、(▲考古学博物館にて)女王のための浴場、水洗式のトイレがあった。水力を動力とする仕組みに関する技術者の知識はとても高度なものであった。エジプトなどとの交易によってもたらされた遺物から、ミノア文明は、紀元前3000年頃からクノッソスが衰退した紀元前1400年頃ごろまで栄えたと考えられている。 その当時クレタ島で使われていた言語はミノア語であると考えられている。(▲写真は、サントリーニ島のスーパーマーケットで。)オリーブオイルの世界一年間個人消費量の多いギリシアの中でも消費量が多く。東南部のクリッツァ村は、年間個人消費量が50リットルもある。クレタ島は、地中海と北アフリカの気候区にまたがっている。 クレタは神秘的な歴史をもつ島だ。エーゲ海の南の端にあるこの島には、4000年も前にすでにクレタ文明が栄えていた。しかし、彼らクレタ人がどこからやってきたかは、いまだに謎であるし、彼らが使っていた線文字も解読されていない。そして、文明が最盛期を迎えた3500年前に地震によって大被害を受け、そのまま地下に眠ってしまったのである。しかし、その文明はミケーネ文明を経て、ギリシア文明へ受け継がれ、現代までも脈々と流れている。 東西に細長いこの島はエーゲ海の島のなかでいちばん大きい。(島内には飛行場が3か所。)島内には4つの山脈があり、2000m級の山はざら。自然の変化に富んだクレタ島は実に魅力にあふれている。(▲儀式などをする場所)(▼上の場所を模型で現わしたもので、考古学博物館にあった。)■島の中心はイラクリオン■ クレタ島の中心地というとイラクリオンIraklion。有名なクノッソスの遺跡のあるこの町が、クレタ島観光の拠点には最適だ。 泊まったホテルは、島の中心地にあって、近くには、映画館もあった。アストリア・カプシス4月10日(水)関空4月11日(木)ドバイ経由アテネ。コリントス運河4月12日(金)オドントス登山鉄道に乗れなかった。 デルフィの町を散策4月13日(土)デルフィ博物館世界遺産:デルフィの遺跡 世界遺産:オシオスルカス4月14日(日)世界遺産:メティオラ修道院・・・・・・・・・・・・・・・・ にほんブログ村・・・・・・・・・・・・・・・・
2019.05.16
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■ホワイト・クロウ 伝説のダンサー■生きることは踊ること。踊ることは生きること。1961年、23歳のルドルフ・ヌレエフ(オレグ・イヴェンコ)はキーロフ・バレエ団の一員として、パリ公演のために生まれて初めて祖国ソ連を出る。ダンスへの情熱は誰よりも強いルドルフは、パリの生活に魅せられ、この魅惑的な街で得られる文化や芸術、音楽のすべてを貪欲に吸収しようとしていた。だが、彼の行動はKGBに監視され、政府の圧力は強まるばかりであった。そんななか、ルドルフはフランス人女性クララ・サン(アデル・エグザルホプロス)と親密になるが、その一連の行動により、政府からの疑惑の目はますます強まっていくのだった。6月16日、パリ、ル・ブルジェ空港。次の公演地へ向かおうとするルドルフだったが、突然帰国を命じられる。それは、収容所に連行され、ダンスを続けることすらままならない未来を暗示していた。団員たちが旅立ち、KGBと共に空港に残されたルドルフは、不安と恐怖に襲われるなか、ある決断をくだす……。■映画のメモ■20世紀最高と言われるソ連出身のバレエダンサー ルドルフ・ヌレエフ の半生を描いた映画『ホワイト・クロウ 伝説のダンサー』を見てきた。■映画:愛と哀しみのボレロ■でも描かれているが、天才ダンサーということと、パリに亡命したということなど、知っているが、今回いろんなことが分かった。■プロフィール■正確な誕生日は不明だが、3月17日前後に、父親の赴任地に向かう途中のシベリア鉄道の車内で生まれた。ヌレエフという名はアラビア語の姓「ヌーリー(光の)」をロシア風に改姓したもので、ルドルフの父ハメットの誕生の際から戸籍に登録されている。父ハメットは軍人で愛国者でもあり、共産主義に傾倒していた。ちなみに、親族は中央アジアの流れを汲むタタール系である。 ◎親族は中央アジアの流れを汲むタタール系である。このせいか、ヌレエフは、同じロシア人でも、自分は差別されているかのように、言っていた。(パリのカフェのシーン。)3歳でバシキール共和国ウファに移住し、幼少の頃から舞踊に興味を示した。父親の反対はあったが小学生の頃から民族舞踊のサークルに参加して、レッスンを受けるようになる。◎映画の中で、幼いヌレエフが、踊る姿がかわいい♪映画は、過去と現在を行き来する形で進が、幼い頃のシーンは、白黒で、(わずかな色だけ)表現。当時は民族舞踊的なものが主体だったが、11歳のときから、当時ウファに転入してきた元ディアギレフ・バレエ団のアンナ・ウデルソヴァにバレエの手ほどきを受け、才能を注目されるようになった。 17歳でロシアバレエの名門校、ワガノワ・キーロフバレエ学院に編入し、本格的なバレエを学ぶ。入試にあたっては試験官から「あなたは歴史に残るバレエダンサーになるか、失敗するかどちらかでしょう。恐らく後者の可能性の方が大きいでしょうけれど…」と言われたという逸話がある。 名教師プーシキンに師事した後、ソリストとしてキーロフ・バレエ(現マリインスキー・バレエ)に入団。ニジンスキーの再来とまで言われるようになる。反面、激しい性格と反抗的な態度から政府に警戒されるようになる。 1961年に、海外公演の途中に亡命。 1963年ごろから英国ロイヤル・バレエのゲストとして20近く年上のマーゴ・フォンテインとペアを組み、後に伝説のパートナー・シップとまで言われるようになる。◎女性バレリーナがヌレエフに一緒に組んで踊ろうと誘う。20歳近く年上の彼女は、誰かと調べたら、マーゴ・フォンティーンだった!!びっくり♪彼女曰く、「年上の女性ダンサーが若い男性ダンサーと組んだら男性は、上手いと思われるし、女性は、若いと思われる。どっちも徳。」1993年、AIDSによる合併症のため、54歳で死去した。 ■ヌレエフ役には■ロシアでの大々的なオーディションを行った結果、ヌレエフ役にはカザン・タタール国立オペラ劇場バレエ団のオレグ・イヴェンコが選ばれました。彼を選んだ理由を5つ挙げています。①身体的にヌレエフに似ていること②スクリーンでの演技について理解できる才能③インテリジェント④人の話を聴く耳がある⑤カメラに愛されている(ずっと見続けていたい)皆が知っている人物について映画を制作するとき、似ているかどうかはとても重要ですが、その点、オレグ・イヴェンコはかなり似ているといいます。ちなみに、ヌレエフはタタール人ですがイヴェンコはウクライナ人だそうです。◎タタール人って単語、初めて知った。 ★重力を無視したジャンプで観客の魂を奪ったヌレイエフ。彼はそのまま自由を求め、鉄のカーテンをも跳び超えた!戸田奈津子(字幕翻訳者)タイトルの「ホワイト・クロウ」には「類(たぐい)まれな人物、はぐれ者」の意味があるそうだ。・・・・・・・・・・・・・・・・ にほんブログ村・・・・・・・・・・・・・・・・
2019.05.14
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4月14日(日) ■世界遺産メテオラ修道院観光■の後、アテネに350キロ、6時間のバス移動。 ここでも目立つのは、一面のオリーブの木と黄色い菜の花。 バスの運転手は、決まった時間を走ると休憩しなければならないという規則があるので 移動中ランチ。 ランチは「ムサカ」(ナスとひき肉の重ね焼き)など。アテネに入ると、落書きや壊れたビルが目に付く。 明らかに、色の黒い人が多くて、所在投げにしていた。 後で聞いたのだが、ユーロ圏内にいったんはいれば、他の国から流れてきて居着くのだそうだ。 治安が悪そうだ。 アテネ市内の道路は慢性的に混雑していて、その対策として、奇数、偶数のナンバーで乗り入れを規制している(一部、例外があり)。 ギリシャの主な産業は、造船業と観光で、昨年、造船を押さえて観光が第一位になったという。 夕食は、海の目の前の店。 海を見ながらの夕食。 なんでこんなに大きな魚を出すのだろう!!! 食べきれない!!! もったいない!!! 食後、港に移動。 21時発のフェリーでクレタ島に。 船内で一泊する。4月10日(水)関空4月11日(木)ドバイ経由アテネ。コリントス運河4月12日(金)オドントス登山鉄道に乗れなかった。 デルフィの町を散策4月13日(土)デルフィ博物館 デルフィの遺跡 世界遺産:オシオスルカス修道院4月14日(日)世界遺産:メテオラ修道院 アテネに移動して船でクレタ島に(船内泊)・・・・・・・・・・・・・・・・ にほんブログ村・・・・・・・・・・・・・・・・
2019.05.13
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昨年の母の日に、娘がふたりして、プレゼントをくれた。気持ちは、ありがたいけれど、■老前整理■をしている身、プレゼントは、今後いらない。と丁寧に断った。その代わり、といってはなんだが、モノでないものなら、いただきます。たとえば、うちに来て、掃除を手伝ってくれること。高い所のものを上げたり下ろしたりすること。車を運転してくれること・・・。などなど、モノでないものなら、ありがたく頂戴します。と言っていたら、ギリシャに行っている間に、長女が掃除をしていてくれた。長女は、整理整頓が趣味。いつもなら、見逃している所の掃除をしてくれている。 次女は、先日うちに来て、カーネーションの花束をくれた。「モノは、いらんゆうてたから・・・。これやったら、ええやろ?・・・。」掃除も、切り花も老前整理の身には、大歓迎のプレゼントだ。五月の第2日曜日の今日は母の日。■母の日(ははのひ)は■日頃の母の苦労を労り、母への感謝を表す日。アメリカでは以下のアン・ジャービスへの教会での追悼にさかのぼり、5月の第2日曜日に祝い、日本もそれに倣っているが、その起源は世界中で様々であり日付も異なる。例えばスペインでは5月第1日曜日、北欧スウェーデンでは5月の最後の日曜日に当たる。・・・・・・・・・・・・・・・・ にほんブログ村・・・・・・・・・・・・・・・・
2019.05.12
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NHK「日本人のおなまえっ!!」が好きで、必ずみている。先日、大型連休がらみの名前で、交通渋滞の「渋滞」を初めて使ったアナウンサーが紹介されていた。そして、そのアナウンサー、「渋滞」を防ぐために、混む日を調べたという。すると、「5日」、「10日」、「15日」、「20日」・・・と五と十のつく日が混む日と分かり、「五十(ごとう)日」と言った。「ごとうび」を造語したのは、「渋滞」を同じ人ということだった。違うだろう~~~~!!!(ある、女性国会議員)の口調で。)「五十日」は、大阪では、「ごとび」と言って、ずいぶん前から言っていた。「ごと払(ばら)い」とも言う。「今日、大阪に行ってたけど、えらい車が混んでたわ。」「そりゃぁ、ごとびやから、しゃあないわな。」という風にいうのを、勤めていた会社で聞いて大阪生まれではない私は、この言葉を知った。 今日は、5月10日。「ごとび」だ!!・・・・・・・・・・・・・・・・ にほんブログ村・・・・・・・・・・・・・・・・
2019.05.10
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4月14日(日) メテオラは、ギリシア北西部、セサリア(テッサリア)地方北端の奇岩群とその上に建設された修道院共同体、いわゆるメテオラ修道院群の総称である。 その地形及びギリシア正教の修道院文化の価値からユネスコ世界遺産(文化・自然複合遺産)に指定されている。 その名はギリシア語で「中空の」を意味する「メテオロス」という言葉に由来している。6つの修道院のうちの最大のメガロ・メテオロン修道院に行った。この崖の上にどうして修道院を作れたのか謎だ。昔は、いったんここに入った修道士は、出ることができなかったようだ。▲どうしても用事で出るときは、この部分から滑車と縄梯子を使って、30分かけて登っていた。▼安全点検はされていなくて、縄が切れたら替えるという具合だった。▲1922年に出来た116段の階段で歩いて昇ることができるようになった。▼メテオラの険しい地形は、俗世との関わりを断ち祈りと瞑想に生きるキリスト教の修道士にとっては理想の環境と見なされ、9世紀には既に、この奇岩群に穿たれた洞穴や岩の裂け目に修道士が住み着いていた。この時代の修道士は現在のような修道院共同体を形成することはなく、単独で修行する隠修士が主流であった。 メテオラに修道院共同体が成立したのは、14世紀、セルビア王国がセサリア地方に勢力を拡大してくる時代であるといわれる。2012年現在、6つの修道院が活動中である。女性はスカートでないと入れないので、巻きスカートを借りて腰に巻く。修道院の観光客用のトイレは、クラッシックな形。 6千万年前に海底で堆積した砂岩が隆起し、浸食されて今の地形となった。 メテオラの風景には、ツアー客はビックリ!! 「世界には、いろんなところがあるな・・・!! 今のうちに行っとかな、アカンわ。 いつ、世界でどんなことが起きるか分からんから行けんようになるかもしれんから・・・。」 次の日、世界遺産:ノートルダム寺院の火事を知った。 4月10日(水)関空 4月11日(木)ドバイ経由アテネ。コリントス運河 4月12日(金)オドントス登山鉄道に乗れなかった。 デルフィの町を散策 4月13日(土)デルフィ博物館 デルフィの遺跡 世界遺産:オシオスルカス修道院・・・・・・・・・・・・・・・・ にほんブログ村・・・・・・・・・・・・・・・・
2019.05.08
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4月13日(土)■デルフィの遺跡■を見た後、バスの中から雪をかぶった山を見ながら、進んだ。山にへばりついている町を通り過ぎ、 世界遺産・ オシオス・ルカス修道院に行った。 (▲オシオス・ルカス修道院) オシオス・ルカス修道院は、ギリシャ共和国中央ギリシャ地方ヴィオティア県ディストモ(デルフィ近郊)のヘリコン山の麓にある、ギリシャ正教:正教会の修道院である。 10世紀に設立され、中期ビザンティン建築の傑作と言われる聖堂と、11世紀に作成されたモザイクが残る。 1990年、他の2つの修道院とともにユネスコの世界遺産に登録された(登録名は「ダフニ修道院、オシオス・ルカス修道院、ヒオス島のネア・モニ修道院」)。 オシオス・ルカスは、克肖者ルカスによって10世紀前半に設立された修道院である。 ルカスは953年に死んだが、生前に東ローマ帝国の皇帝「ロマノス」によるクレタ島の征服を予言した。 彼の予言はロマノス1世レカペノスを指したようであるが、クレタ島の征服は961年にロマノス2世によって行われ、これによってルカスへの崇敬が高まることになった。 クレタ島制圧は、東ローマ帝国にとってエーゲ海制海権の奪回という重要な意味を持っており、バルカン半島沿岸地域におけるアラブ人の影響は、これによって著しく改善された。この日のランチは、スプラキ(肉の串焼き)。 オシオスルカス修道院を見た後、この日のホテルにバスで移動、3時間半。移動中、バスの窓から黄色の花があちこちで目に付いた。菜の花?!菜の花で油を作るのでは・・・という人がいた。いやー、オリーブの木がいたるところにあるのに、菜の花で油をとる?観光のためという人。レンゲのように土地を肥やすためという人。アブラナではなくマスタードの花で、食べるのだそうだ。最近、日本では見かけない菜の花畑をギリシャで、あちこちで見ることができた。▲ホテルから岩山が見える。▼その岩山の上に建物が!次の日に行く、世界遺産のメテオラ修道院の一つセント・ステファン修道院。 4月10日(水)関空 4月11日(木)ドバイ経由アテネ。コリントス運河 4月12日(金)オドントス登山鉄道に乗れなかった。 デルフィの町を散策 4月13日(土)デルフィ博物館 デルフィの遺跡 ORFEAS(オルフェアス)・・・・・・・・・・・・・・・・ にほんブログ村・・・・・・・・・・・・・・・・
2019.05.07
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4月13日(土)デルフィ博物館の後、世界遺産・デルフィの遺跡にバスで移動。デルフィとはギリシア中部パルナッソス山麓にあったポリス(都市国家)のことです。紀元前8~前6年ごろは全世界の中心と呼ばれ、古くから予言の神アポロンが崇拝されています。かつては宗教の中心として栄え様々な宗教儀式が行われ、芸術やスポーツ競技の中心地でもありました。古代デルフィの遺跡は1987年、「デルフィの考古遺跡」という名称でギリシャの世界遺産に登録されました。神託を求めて人々が訪れたデルフィ遺跡。渓谷の急斜面にしがみつく様にして残る遺跡。紀元前12年ごろはアポロンが信託を授ける神となり、全盛期にはギリシア国内はもちろん黒海沿岸やイスパニア方面からも巡礼者が訪れ、アドリアヌス皇帝と共に繁栄しました。アポロンのお告げをもとに、国家の指導者も国の大事なことをこの地で決定していました。(▲カスタリアの泉 バスの中から撮影)お告げを受ける者は、カスタリアの泉で体を清める。巫女や神託を聞きに来た人々が最初に訪れ、身を清めた場所です。この泉の名前の由来は、アポロンが一目惚れしたニンフのカスタリアが追いかけるアポロンから身を隠したことに由来しています。アポロンに捧げる、いけにえのウサギ、豚、鶏などを持って、この道を登る。多くの人が待つ、アポロンの神殿で順番を待つ。順番が来たら、聞く。例えば、「生まれてくる子供は、男の子か、女の子か?」「BOY or GIRL?」すると、「 BOY NOT GIRL 」という神のお告げ。帰って、男の子が生まれると、「BOY! NOT GIRL」女の子が生まれると、「BOY NOT GIRL!」と受け取る。戦争に勝つか負けるかなども、このような答え方なので、お告げは当たったという。このように、戦争など政治もここの占いによって行われ、そのお礼に沢山の貢ぎ物がされ、デルフィは大いに栄えた。 紀元後、土砂が崩れ街のすべてが埋まってしまい、長い眠りに就きました。その後、発掘が始まったのは1829年のことでした。この遺跡は、アポロン神殿を中心とする神域と都市遺構から構成されています。この遺跡を見ると古代の人々がどれほど神託の力を信じていたかが見えてきます。現代の文明の力を使っても巨大な石を使い建設するのが難しそうな渓谷の急斜面にしがみつくように建つ遺跡はとても印象的です。 ■4月10日(水)関空 ■4月11日(木)ドバイ経由アテネ。コリントス運河■4月12日(金)オドントス登山鉄道に乗れなかった。 デルフィの町を散策■4月13日(土)デルフィ博物館 ・・・・・・・・・・・・・・・・ にほんブログ村・・・・・・・・・・・・・・・・
2019.05.06
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なかつたらうマンモスを狩る男らが弱き子供を虐(しいた)ぐるなど (我孫子市 島津康右) 陰惨な幼児虐待事件に心を痛めたであろう人が詠んだ歌が、2019年3月31日(日)の朝日歌壇に入選した。 なるほど。 氷河期までさかのぼるとは、すごい想像力だが、150年前の日本でも子どもの虐待はほとんど見られなかったようだ。 明治初期に来日した外国人が、こぞって日本は子どもの楽園だと讃える声を紹介してきた。 《政府は28日、学校を長期欠席している子どもが虐待を受けていないか、緊急調査をした結果を公表した。 教員らが面会をしたうえで、「虐待の恐れがある」と判断し、児童相談所や警察と情報共有をした子どもが2656人、面会ができず、「虐待の可能性が否定できない」として情報を共有した子どもが9889人に上った。》 (3月29日朝日新聞) かつて日本はこどもの楽園だった。高瀬仁の「諸悪獏作」日記 https://takase.hatenablog.jp/entry/2019/03/31/ 冒頭の短歌を朝日新聞で読んで、ブログに絶対に載せようと思っていた。 テレビのニュースで虐待のニュースを聞くとあまりの辛さについ、チャンネルをかえる。 高瀬仁氏は、児童虐待が日本人のお家芸ではない、かつての日本は、こどもの楽園だったと書いている。今日、5月5日は「こどもの日」。・・・・・・・・・・・・・・・・ にほんブログ村・・・・・・・・・・・・・・・・
2019.05.05
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■4月13日(土)デルフィの町の近くにあるデルフィ博物館の見学をした。古代ギリシアでは神の神託(お告げ)をもとに国家の大事が決定されていましたが、最高神であるアポロンの神託が行われていたのがデルフィ。長い間、土に埋もれていた、デルフィの遺跡をこの博物館に展示している。紀元前570~560年頃ナクソスから奉納されたスフィンクス像。12.1m高の柱のイオニア式柱頭の上に置かれていた。スフィンクス自身の高さは2.32m。 紀元前570年頃に作られたと言われアルカイックスマイルという神秘的な微笑みが特徴のスフィンクス像。 大理石で作られたこの像はアポロン聖域の柱の上に乗っており 神託守護のシンボルでもありました。 スフィンクスは謎めいた女性の顔、ライオンの胴と足そして鳥の翼を持っている。 アルゴスの兄弟クレオビスとビトンの像。左足を出した足に特徴がある。 博物館の最後にある青銅製の「御者の像」です。 青銅製の馬車や馬の一部と一緒に発見されましたが、馬車の手綱を握ったポーズのこの人物像は、左手を除くとほとんど完全な形で残っており、その強い視線と長いまつげ、鼻筋の通った端正な顔立ち、巻き毛の髪の繊細さ、裸足の足のリアルさ、衣服のひだなど、ため息が出るほど美しく、何世紀を経てもすたれない美しさを保っています。 この像は、紀元前5世紀に、ピュティア競技会で優勝したポリザロスが奉納したものと考えられています。 「厳格様式(厳しい表情、骨格や筋肉組織の表現も正確な、厳格さを特徴とする様式)」で作られ、制作者は、サモス島出身のピサゴラスと考えられています。 古代ローマのハドリアヌス帝の寵愛を受けたと言う美少年アンティノウスの像。 アンティノウスはナイル川で溺死する。 ハドリアヌス帝はその死を悼み、アンティノウスを神格化し、ギリシャの町々に彼の像を建てたと言う。 ●ギリシャとローマ● アウグストゥスは内戦によって疲弊したギリシャ復興のために、穀物分配や各都市に貨幣造幣の特権を認めるといった政策を採った。 また新しい都市を建設し、ローマ市民や周辺住民の移住を促した。 ギリシャ人の中にもローマ市民権を得るものも現れた。 ギリシャ文化を愛するローマ皇帝(特にネロ、ハドリアヌス)アテナイの都市整備の援助を行ったり、建造物や神殿の整備や修理を行った。 ハドリアヌスをはじめ、多くのローマ人がギリシャを訪れ、ギリシャ諸都市は一種の文化観光都市となった。 4月10日(水)関空 4月11日(木)ドバイ経由アテネ。コリントス運河 4月12日(金)オドントス登山鉄道に乗れなかった。 デルフィの町を散策 ・・・・・・・・・・・・・・・・ にほんブログ村・・・・・・・・・・・・・・・・
2019.05.03
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■僕たちのラストステージ■ やっぱり、きみだ。 1937年。 スタン・ローレル(スティーヴ・クーガン)とオリバー・ハーディ(ジョン・C・ライリー)のお笑いコンビ“ローレル&ハーディ”は、観客や批評家から愛され、出演映画は世界中で上映。 ハリウッド・コメディ界の頂点に君臨していた。 だが、それから10年以上が経過した1953年。 イギリスでホールツアーを開始したローレル&ハーディだったが、既に彼らは過去の人となっていた。 待遇は悪く、客席もガラガラ。 互いを笑わせながら続く過酷なツアー。 しかし、努力の甲斐あって、2人は次第にファンを取り戻していく。 ところがある日、口論をきっかけにオリバーはコンビ解消を決意。 スタンに引退を告げるが……。 サイレント期からハリウッドで活躍したお笑いコンビ“ローレル&ハーディ”の晩年の実話を映画化。 イギリス中を回る二人。はじめは、スコットランドをまわっていたが、劇場も小さく、客の入りも少ない。従って、宿も粗末なところ。そんな中で、スコットランドでは、キルトをはいて、舞台に立っていた。少しずつ人気が回復してきて、はじめは無かったロンドン公演も行うことに。その時のホテルは、最高級の「サボイ・ホテル」。やっぱり、芸人は、人気があるとないとでは、天と地だ。肥ったオリバー・ハーディ役の人の肥り具合は、ひどいと思ったら、ファット・スーツを着て顔も特殊メイクだそうだ。 特別映像の中で映しだされているのは、クーガンとライリーを“ローレル&ハーディ”に変身させた特殊メイク制作の舞台裏。 『グランド・ブダペスト・ホテル』(14)など2度のアカデミー賞受賞歴を誇るマーク・クーリエが手がけた特殊メイクによって、ライリーは本物のオリバー・ハーディと見間違うほどの風貌に。 肥っているのに、軽快に踊るのを見ると、芋洗坂係長を思いだす。コンビ愛とローレルとハーディのダンス、歌唱も秀逸。・・・・・・・・・・・・・・・・ にほんブログ村・・・・・・・・・・・・・・・・
2019.05.02
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■4月12日(金) 「オドントス登山鉄道」に乗れなかったので、宿泊地のデルフィには、早く着きデルフィの町を散策した。 デルフィの町は、デルフィ遺跡から少し離れたところにある。町は坂が多く、ホテルなどの建物は斜面に沿って建てられています。デルフィ(Delphi)は、古代ギリシャの時代には「世界の中心」とされて賑わいをみせたが、 現在は遺跡観光に訪れる観光客を迎えるホテルやレストランが立ち並ぶこじんまりとした集落になっています。 デルフィ遺跡とは、アポロンの神殿を中心とする聖域で、アテナ女神の聖域も近くにある。紀元前8世紀より神託所や神殿と共に開発され、紀元前6世紀頃には、「アポロンの神託」の名声が高まる。 紀元後、土砂が崩れ街のすべてが埋まってしまい、長い眠りに就きました。その後、発掘が始まったのは1829年のことでした。 この日、泊まった村は、発掘が始まるまでは、遺跡の上にあった。 村中でこの地に引っ越したというわけだ。 下のお土産のように、山にへばりつくように町が広がっている。まさに、天空の町、デルフィ!!▲町のカフェ。寒いからストーブをたいて、オープンカフェを楽しんでいた。▼▲町がこの地に移ったころに作られた水場。▼▲道の端に、キリストを祀っている小さな祠?のようなものがあるが、日本のお地蔵さんみたいなものか▼町はずれには、花がきれいだった。 4月10日(水)関空 4月11日(木)ドバイ経由アテネ。コリントス運河 4月12日(金)オドントス登山鉄道に乗れなかった。 ▲宿の玄関の像に蛇。蛇は、医療のシンボル。 HERMES(ヘルメス)・・・・・・・・・・・・・・・・ にほんブログ村・・・・・・・・・・・・・・・・
2019.05.01
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