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プーケットにいた2007年が終わる。住んでいる時は、バカ暑くて、蒸し暑くて、アリやムカデや毛虫がいっぱいで、庭に蛇が出て、道路がいつも工事中でちっとも終わらなくて、ちょっと照れば埃っぽくてと、文句ばっかり言ってたプーケットだけど。日本に帰ってきた今思い出されるのは、山越えすると見えてくるパトンの海と町並み、カロンへ行く途中の1本の椰子の木、ロータスやセントラルの食品売り場、買い物帰りの夕暮れのオレンジの空・・・。大晦日にはいつもメオタイさんの家に呼ばれて美味しい年越し蕎麦をいただいた。思えばメオタイさんにはずいぶんたくさん美味しい和食を食べさせてもらったな。パトンを一望するNヴィラの3階でみる花火はホントきれいだった。あちこちのホテルが派手に打ち上げる花火をみていると、新年はきっといい年になる、そんな気がした。火の粉が降りかかってきそうなソイバングラで見る花火も、周り中みんな笑顔で、見知らぬ人と新年になった途端に「Happy New Year !」と声を掛け合った。きっとハッピーな年になる、そう思えた。。後ろをふりかえってばかりいても仕方ないね。これからは日本とプーケットを行ったり来たりできるように自分の生活をつくり上げていくだけだ。「前進あるのみ!」ちょっと早いがこれは2008年のmy new year's resolutionプーケットにいる皆さん、日本にいる友だち、2008年もよろしく!<<写真はソンクランの日、マイカオで放流される海亀。みんなの願いを背負って海へ向かっていく。>>
Dec 31, 2007
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12月26日。インド洋大津波の日から3年がたった。あの時ワシはパトンビーチから2キロほど離れたナナイに住んでいて、次第に効いてくるボディブローのように被災を感じたけれど、物理的な被害は受けずに済んだ。朝7時半、本当にいい天気の日曜日で、「どこかへ行かなくちゃもったいない」と寝ぼけた頭で思っていた。なぜ寝ぼけていたかというと、近所がざわついていていつもの日なら眠っている時間に起こされてしまったから。きっと事故か何かあって、また野次馬が出たのだろうと思っていた。その後すぐに津波のことを知ったのは隣に住む大家さんからだった。あまりに騒がしいので妹が聞きにいったのだ。大家さんがいつもの通り、ビーチまで朝ごはんを買いにいったときに津波に出くわしたという。首のところまで水が上がってきてまさに命カラガラ逃げてきたのだと。ワシと妹と隣に住んでいたFさんは、とりあえずの着替えとパスポートと水をバックパックに入れて避難の準備をした。猫のミルと元気だったピッピは連れて行かなかった。結果的には大丈夫だったけど、1回目の避難の時にピッピとミルを置き去りにしたのだと思うと、今でもとても心が痛む。裏山に逃げられるようにワシら3人は隣りのアパートのベランダにいたが、携帯電話は通じなくなるし、何の情報もなく、1時間がとてつもなく長く感じた。この先一体どうなるのか。皆目見当もつかず、こんなのイヤだ、こんなとこ逃げ出したい、そんな気持ちでいっぱいだった。ナナイは大丈夫そうなので、家に戻ってテレビの情報を見ることにした。NHKはまったく役に立たず、対応の早いBBCやCNNが頼りだった。いつも見慣れた通りがめちゃめちゃになっている映像がテレビに映し出される。怖くてとても外に出られる気分ではなかったが、その日ダイビングに行っていたお客さんのことが心配だった。午後4時ごろ、とりあえずダイビングショップへ行ってみようとでかけると、ビーチのほうから青いトラックが走ってきて何かドライバーが叫んでいる。と、ビーチ方向に向かっていたバイクや車が一斉にUターンして大パニックになった。「津波が来るぞ!」と叫んだらしい。「落ち着くんだ!落ち着くんだ!!」と自分に言い聞かせたことを覚えている。1週間後、ワシと妹はやっとビーチへ行く気になった。メチャメチャになった現実を見るのが恐くて、それまでいけなかったのだ。いつものパトンビーチとまったく違う光景がそこにあった。ビーチには打ち上げられた船が一艘あるだけで、ほかには何もなかった。すでに多くのボランティアがビーチを掃除していたからゴミもほとんどなく、ただただ何もないパトンビーチが広がっていた。ビーチ沿いの土産物店は消え、レストランやホテルは建物だけの残骸と化していた。あんなに賑やかだった通りなのに、砂まみれの道路とゴミの山が続くばかり。あまりの変わりように、猥雑な夜のパトンビーチの光景ばかりが思い出され、もう2度とあの風景を見ることができないのかと思うと、やり場のない喪失感にとらわれた。実際には、ビーチ沿いの土産物屋の回復力はすさまじく、3月には90%が再オープンしていた。ビーチから20メートルだったか離れなくてはいけないとか、電線を地下に埋め込むとかいわれていたけれど、「マイペンライ」なんだろう、元通りに戻った。「back to normal」、このときほどノーマルという言葉が嬉しかったことはない。ワシがいた会社は観光業であるが、プーケット以外のエリアも扱っていたし、バンコクやサムイ、クアラルンプールにも支社があったので、給料カットされることもなかった。家族も友だちも怪我もせずいたし、思えば、津波はワシにとって奪われるより与えられることの方が多かった。不謹慎な言い方ではあるけれど、敢えてそう言わざるを得ない。プーケット復興委員会を一緒に立ち上げた仲間たち。あの時、一緒にプーケットにいたということは、きっと深い縁があるのだろう。それまでコンペティター同士だった人たちがそれぞれの得意分野を生かし、力を合わせてWEBサイトを立ち上げ、活動した。それに直接的・間接的に本当にいろいろな人たちが協力してくださり、口幅ったい言い方だが、ワシは大きな愛を感じた。それは今まで経験したことのないものだった。復興委員会は1年で活動を停止し、今ワシは日本にいてこうして思い出すにとどまっているけれど、あの時の強力サポーターであったマイケル東山さんは今も活動を続けていらっしゃる。マイケルさんの行動力と持続力を身近に教え伝えられることもまた、ワシにとって津波からの贈り物なのだ。
Dec 26, 2007
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