全7件 (7件中 1-7件目)
1
商社マンになって10年、海外出張にもすっかり慣れたが、太平洋を超える時いつも少しだけ胸の奥に何かが引っ掛かる。それが何かずっとわからなかったのだが、ある時何気なく手に取った機内雑誌をパラパラめくっていると「internatinal date line(日付変更線)」という言葉が目に入った。その瞬間、僕の脳裏に中学校時代のある一場面が蘇った。学生時代、僕は父親の転勤で5回も転校した。大学受験のこともあり、中学3年の時に、一人東京の祖父母の家に預けられたのだが、その直前まで、僕はずっと西の方にある県の中学校に通っていた。当時の僕はテニス少年だった。勉強もできないわけではなかったが、テニスが面白くて仕方がなく、勉強は二の次。試験はいつも一夜漬けだ。だが、それでもそれなりによい点数を維持することができた。というのも、二宮真弓という強力な助っ人がいたからだ。真弓はひとことでいうと本の虫で、分厚い眼鏡をかけ、いつも本を抱えていた。口の悪い連中は「牛乳瓶の底」などと陰で笑っていた。彼女と出会ったのは、中学2年の時だ。クラス替えで一緒のクラスになり、たまたま席が隣になったのだ。小柄で、分厚い眼鏡の彼女は、正直魅力的なタイプではなかった。だが、勉強はよくできた。特に英語が得意で、中学2年の時にすでに高校レベルの英語力があった。彼女のおかげで、英語に関してはまったく不自由しなかった。なぜなら、授業で当てられても彼女がそっと自分のノートを見せてくれ、それを読むだけでよかったからだ。今でこそ僕も仕事で英語を使うが、その頃はからきしだめで、白状すると過去形と現在完了の区別が今いちつかなかったくらいなのだ。そんな彼女と一度だけ図書館で一緒に勉強したことがある。夏の期末試験直前にテニスの全国大会予選があり、まるで勉強ができず、街の図書館でああでもないこうでもないと脂汗をかいているところに彼女が来たのだ。「浅野君もここでよく勉強してるの」「え?ああ、二宮。違うよ、たまたま」「私はよくここに来るの・・・」真弓は偶然 隣の席を使っていたのだが、書架で本探しをしていたのでわからなかったのだ。少し恥ずかしそうだった。僕が隣にいるので本当は他の席に行きたかったのだが、どこも埋まっていた。そんなわけで偶然一緒に勉強することになったのだ。だが、それは僕にはラッキーだった。「なあ、二宮、わりいな、後でお礼するからさ、ここちょっと教えてくれない?」「え?」「な、いいだろう、ほらここんところさ」「う、うん」真弓の説明はひどくわかりやすかった。おかげで、僕は何とか赤点を免れた。試験が終わった後、部活が終わり荷物を取りに教室に戻ると、なぜか真弓がいる。「おお、二宮この間はサンキュー、ほんとに助かったよ」「そう、よかった」「お前帰らないのか」「帰るよ」「じゃあな」僕が帰ろうとした時、「まって」「なんだい」「浅野君この間お礼するって言ったよね」「お礼?ああ、もちろんするよ」「リクエストしていい?」「なんだよ、こわいな。できることならな」「一緒に日付変更線を越えたらお嫁さんにしてくれる?」「なんだそれ」「イエスかノーで答えて欲しいの」「そんなことでいいのか、イエス、イエス」「ほんとね」「ほんと、ほんと。じゃあな」僕は適当に答えて教室を飛び出した。仲間たちと遊びに行く約束があり急いでいたのだ。それにしても、一緒に日付変更線を越えるってどういうことだ。そんなことあるわけないじゃん。それはそれとして、あの分厚い眼鏡を外すと、真弓は結構かわいいことを僕は知っていた。それから間もなく転校し、真弓のこともそれっきり忘れてしまっていた。もちろん日付変更線のことなどまるで忘れていた。だが、ずっと心の底にひっかかっていたのだ。そう思うと不思議な気がした。そして、懐かしく、少し切ない思いがした。そういえば、あの分厚い眼鏡を外した時の真弓は澄んだきれいな目をしていたっけ。今頃どうしているだろう。もう結婚してるだろうな。結構きれいになっているかも知れないな。そんなことをぼんやりと考えていたときだった。「お客様ただいま日付変更線を越えました」いつの間にか日本人のスチュワーデスがそばにいて、僕の耳元で囁いた。驚いて声の主を見ると、そこには成熟した美しい女性がいた。その目はあの日一瞬垣間見た二宮真弓の目そのものだった。(完)
2010.05.31
コメント(5)
一口に中国語ちゅうてもですな、様々な方言があるそうな。曰く、官話方言、呉方言、湘方言、かん(字が出んかった)方言、客家方言、えつ(これも字が出ぬ)方言、びん(〃)方言の7つが大きなところであるとな。これ以外にも、ひと山越えれば違う言葉があるとかで、いやはやさすがは中国じゃ・・・時に、オヤジが日々減りつつある脳細胞を振り絞り学んでおるのは、いうまでもなく「官話方言」すなわち北京語であるよ。「ニーハオ」で始まるところのあれでござる。まあ、オヤジが直接中国語で仕事するわけではないが、挨拶の一つもかましてみたいではないか。とはいえ、やはり簡単にはいかぬのが、語学の道じゃな。再見!
2010.05.26
コメント(5)
上海に行く話は前々回したのじゃが、問題は中国語ができないことにありますな。その昔、香港に住んでおった時期があり、広東語などもみようみまねで話しておったものじゃが、北京語と広東語はまるで違うのであるよ・・・上海じゃから地元ピープルは上海語のようじゃが、通常は北京語で事足りるらしい・・・ちゅうても、ワシは事足りんがな!な、わけで老骨にムチを打ち中国語のお勉強を始めたのじゃ。広東語からの経験でいえば、文法そのものはそれほど複雑ではないな。だからやさしいというわけではないぞよ。文法が単純じゃからこそ難しいのじゃ。とりわけ中国語学習を困難にしておるのは・・・(少なくともオヤジにとってはであるが)・・・あの声調というやつであるな。四声とやら・・・広東語では八声とも十一声とも言われておったがの。マー、マー、マー、マー・・・わしにはどれも同じに聞こえるゾ!!
2010.05.18
コメント(8)
「いつか、ここできっとあなたに会うと思ってた」久美の目はとても澄んで見えた。「元気そうだね」出口に向かって歩きながら僕らは話した。「なんとかね・・・でも、ずっと心が晴れなかった」「なぜ」「あなたと綾子の間を引き裂いてしまったから」久美の目にはうっすらと涙が滲んでいた。「許してもらえるかどうかわからないけど・・・ごめんなさい」「もういいんだ」「え?」「もう何も思っていない。それに君のせいなんかじゃない」「だって・・・」「そういうさだめだったのさ」「・・・」「君も忘れた方がいい、過ぎたことに束縛されたら人生がもったいないじゃないか」「それは本心なの?」「わからない。でもそう考えるより他ないじゃないか。だって僕らは生きていかなければならないんだから」「それはそうだけど」話しながら歩くうち、僕らは出口のところまで来ていた。「僕はタクシーで帰るけど、君はどうする」「私はもう少しここにいる」久美の横顔には言い知れぬ陰りがあった。「あまり気にしない方がいいよ」「ありがとう。あなたもお元気で」「君もね」二人とも沈黙した。やがてタクシーが来て、僕は乗り込み、窓を開けた。「じゃあ、元気で」「ひとつだけ聞いていい?」「いいけど、何?」「私たちもう二度と会えないのかな」僕は一瞬考えて答えた。「先のことはわからない。でも、もうこだわることは何もないんだ。落ち着いたら連絡するよ」「きっとよ」返事をする間もなくタクシーは走り出した。それから何年もの時が過ぎた。その時どんな返事をしようとしたのか今では思いだせない。久美の思いと僕の思いがその後どう交錯したかはご想像にお任せしよう。僕の記憶から綾子が消えることは生涯ないだろう、でも、どのみち僕らは現実を生きて行かなければならないのだ。(完)
2010.05.16
コメント(6)
何の因果か、この年で上海でござるよ・・・万博見物なら気楽でよいがのう・・・
2010.05.15
コメント(0)
手紙は僕の将来の成功と幸せを祈る言葉で終わっていた。手紙の日付は、3年前の同じ月だ。彼女の余命が本当に5年ならばまだ彼女に会える。それに、ひょっとしたら治っているかも知れない。僕は居てもたってもいられず、彼女の家に電話をかけた。「どちら様ですか」母親らしき女性が出た。「綾子さんと大学でクラスメートだった永井と申します」「永井さん・・・ですか」女性は、僕の名前を思いだそうとするかのように間を置いた。「ああ、永井さん、綾子からお名前は伺っています」「ご在宅でしょうか」「あの・・・綾子は亡くなりました」「え?」僕は一瞬絶句し、頭の中が真っ白になった。「そうですか、それは・・・ご愁傷様です」かろうじてお悔やみを伝えると、綾子が眠る場所を聞いた。その週末、僕は綾子のお墓を訪ねた。秋晴れの美しい日だった。都心から少し離れたところにあるその霊園は、芝生の中にシンプルな形の墓標が並ぶ、まるで西洋の墓地を思わせるようなところだった。真ん中には一本大きな通りがある。そして、その両側には楡系の大木が植えられ、ところどころにベンチが置かれている。その光景は、どことなく、綾子と最後に会った神宮外苑を思わせた。その時、少し先のベンチに若い女性が座っているのが見えた。女性は僕に気付くとこぼれるような笑顔で、僕に手を振った。(綾子!?)はっとした次の瞬間、女性の姿は消えた。少し心に痛みを覚えた。教えられた区画に都倉家の墓標はあった。そこにはたしかに綾子の名前が刻まれている。僕は持ってきた花束を置くと、目をつぶり手を合わせた。様々な想念が心に浮かぶ。ボタンをほんのひとつ掛け違っただけなのにどこまで行っても直すことができないもどかしさ。そしてわが身の愚かさ。しばらくそうやっているうちに心は落ち着いてきた。僕は、鞄からオカリナを取り出すと、綾子が好きだった、ラベルの「逝ける王女のためのパヴァーヌ」を奏でた。綾子と別れてからの僕は、二度とオカリナを吹かないことに決め、封印をした。だが、その日初めて封印を解いた。綾子が聞きたがっている気がしたからだ。曲が終わろうとするころ、一陣の風が吹いた。風はすぐに止んだが、風の音はかすかに(ありがとう)という言葉に聞こえた。「アデュー」僕はフランス語で綾子にさよならを言った。もう二度と会わないという意味のさよならを。オカリナを鞄にしまい、帰ろうとした時、こちらに近づいてくる女性の姿が見えた。久美だった。「きっと来ると思った」「君もお墓参り?」「月に一度来ているの」「そう」「いつか、ここできっとあなたに会うと思ってた」久美の目がとても澄んで見えた。(続く)
2010.05.09
コメント(2)
綾子の手紙良太君お元気ですか。きっと素晴らしい留学の成果を携えて日本に戻られたと思います。おめでとう。さて、あなたへの最初で最後の手紙を書きます。正直に言えば書くべきかどうか迷いました。本当は書くべきではないのかも知れません。でも、あなたにどうしても本当のことを知ってもらいたかったのです。神宮外苑で、私があなたに迷惑をかけたくないと言った時、あなたはわかっていると答えました。その時はなぜあなたがそう答えたのか深く考えませんでした。ただ悲しかったのです。本当はあなたに怒って欲しかった。なぜ、別れる必要があるのかって・・・そして、その理由を知った上で、答えを決めて欲しかった。あなたと別れてからしばらくしてある疑いが頭をもたげました。あなたは何か誤解しているのではないかと。その疑いは、ある時、久美(クラスメートの水沢久美です)と話した時にわかりました。久美は、あなたに私の婚約者の話をしたと言ったのです。そして彼女もまたあなたが好きだと。一瞬私は足元から崩れおちるような錯覚に陥りました。久美と私は幼稚園からの親友です。お互いのことは何もかも知っています。私に婚約者が(いた)ことも・・・でも、久美が知らないことが一つありました。それは、あなたと出会い、親が決めた婚約を解消したことです。婚約者がいるのに、別に恋人を作れるほど私は起用な人間ではありません。そのことを知った久美は、涙ながらに誤りました。不思議と怒りはありませんでした。久美があなたを好きになることは自由です。そして、私に婚約者がいたことも事実です。選択するのはあなたなのですから。でも、その前提が間違っているとしたら・・・ところで、私があなたに迷惑をかけると言ったのは病気のことでした。大学2年の秋、私は自分が不治の病に冒されていることを知りました。お医者様からはもって5年と言われました。そのことを隠したままいればあなたの時間を犠牲にしてしまう、そんなことは絶対にしたくない、そう思ったのです。でも、それでいてやはりあなたにはそばにいて欲しい。残りわずかな時間だからこそ、あなたにそばにいてほしい。そう願ったのです。でも、それはかないませんでした。所詮はこういう運命だったのだと納得したつもりでした。でも、あなたが私の婚約者のことを知っていると知った時、居てもたってもいられない気持ちになりました。自分はいずれ死んで行く身です。このままいればあなたに迷惑をかけてしまう。でも、あなたに誤解されたままではいたくない、その一心でこの手紙を書いたのです。(続く)
2010.05.05
コメント(2)
全7件 (7件中 1-7件目)
1