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私:戦争とはいえ、何故、日本兵はよく虐殺し、戦争が終わると何故、急に鬼畜米英から民主主義の教師として迎えられたのか。 このミスティリーをこの本は説いてくれているようだね。 この本は名著「敗北を抱きしめて」の著者のジョン・ダワーがこの本の前に書いたもので、本来はこの本を読んでから、「敗北を抱きしめて」を読むのが順序なんだが、逆になってしまった。A氏:サブタイトルが太平戦争における人種差別とあるね。私:太平洋戦争は人種差別の面があることを明快にふれている。 白人と黄色人との対立、同じ黄色人でありながら、日本のアジア人に対する差別などをあげている。A氏:米英にとってはドイツ人だって敵ではないの?私:日本人は黄色い小さなサル・ジャップと蔑視して呼ぶ。 しかし、ドイツ人はナチスと言って非難する。 良いドイツ人もいるという発想だ。 しかし、日本人はインディアン同様、「死んだ日本人が良い日本人だ」となる。 人種差別が明確だね。 太平戦争の初期の日本軍のすさまじい進撃を信ぜられず、イギリスのチャーチルは文明の劣った黄色いジャップにできるはずはないから、その背後にドイツ将校の援助があったと思っていたという。A氏:そういえば、日系アメリカ人はすぐ監禁、隔離されたが、イタリア系、ドイツ系はなかった。私:例の大西洋横断で有名なリンドバーグがニューギニアの米軍基地で過ごす日記があるが、米軍が日本兵に対して動物に対するような軽蔑の念をもって嬉々として殺すのを目のあたりにして苦悩する。 彼は騎士道的伝統派だったのだね。 日記では東洋人の残虐のほうがわれわれのよりたちが悪いと信じていたが、その区別は、だんだんあいまになっていったとあるという。A氏:アメリカ軍の戦いぶりは日本兵を動物狩するという発想なんだね。私:その後の彼の日記では、日本兵の死体から金歯が取られ、残った死体はゴミ穴に投げ捨てられ、洞窟には降伏しようとしたのにかかわらず、「もどって最後まで戦え」と突き返された日本兵の死体が山と積まれているのを目撃する。 頭蓋骨や鼻も集めて記念品となった。 リンドバークが帰るとき、税関検査で荷物に骨が入っているかを聞かれた。 それは税関では決まりきった質問だったのだね。A氏:耳を切り取って集めるのもそうだね。 ある米軍兵士がルーズベルト大統領に日本兵の死体からとった骨から作ったペーパーナイフを贈った事件(大統領は断わった)があったね。 これは戦時中、日本でもアメリカ人の残酷性を示すという宣伝に使われたね。 要するに、相手の悪い点を徹底的に攻め、同じ悪い点が自分たちにもあるということを忘れるんだね。 最近では、中国の反日教育に似ているね。 今、朝日新聞で多くの虐殺者を出した中国の文革についてふれているが、未だに中国内ではタブーらしいね。私:ちょっと違うね。 中国は、今、日本とは戦争していないし、日本はそれに負けないで、中国の内戦や文革のときの残虐を徹底的に宣伝してはいないよ。 この宣伝はちょっと異常だね。A氏:ヨーロッパ戦線は、白人同士の戦いだろう。私:そうだね。 ヨーロッパ戦線を取材していたジャーナリストが、太平洋戦線に取材にきたが、戦いの残虐性が違うと感じたそうだね。 しかし、この本は日本軍の残虐性、特にアジア人に対する残虐性にもバランスよくふれているね。A氏:しかし、日本兵は何故、同じ黄色人種のアジア人に対して残酷だったのかね。私:当時の軍国主義の神道では日本民族、厳密には大和民族は天照大神の子孫で神が治める民であるというわけだ。 だから、他のアジア人は格が下で動物並みとなりやすい。 日本の伝統には珍しい一神教の登場だね。 一神教は、人を残虐行為に走らせやすい。 そして、軍隊内のマゾがサドにはけ口を求める。 だから、万世一系の天皇を戴く神の国の民族だというのは、こういう人種差別の原因になるので気をつけないといけないね。A氏:そういえば、われわれが小学生の頃、ジャップみたいに、中国や韓国の人民に対しては蔑視した言葉を使っていたものね。私:これが、ヨーロッパ戦争でも西部戦線とスラブ族などのソ連やその周辺国との東部戦線とは違うのだね。 死者の多さは全く違う。 ドイツ軍は550万人のソ連人を捕虜としたが、350万人死亡しているという。 これに対して英米人捕虜は約23万、死亡は1万人足らずの4%だという。 日本の英米人捕虜は約13万人、死亡は約3万人で27%。 この差が日本人の残虐性で問題になるんだね。A氏:話しは変わるが、占領され鬼畜米英が宣伝されていた事実と異なると対米感情はコロッと変わるね。 宣伝が極端だと、その反動も大きいんだね。 北朝鮮だって、将軍様が一挙に変わるかも知れないね。私:それはアメリカ側も同じで、「卑劣で残虐な」サルのジャップが、「かわいい」サルのジャップになる。 そして民主主義の教師になる。A氏:1960年頃までのアメリカは日本人が学ぼうとするとおおらかだったね。私:それが1980年代になると、自動車貿易摩擦で「あのちっぽけな黄色い連中、ご存じのホンダ」という人種差別的な言葉が復活する。 この本は1986年に発行されているから、その問題も扱っている。 まさか、戦争に負けてアメリカが親切に教えてやった日本がアメリカを負かすとは考えられなかったのだろうね。A氏:しかし、その後、アメリカは朝鮮、ベトナムでアジア人と戦い、9.11テロ以降は、アフガン、イラクと戦っているね。 いずれも人種的な残虐性を指摘されているようだね。私:ベトナム戦争のドキュメンタリー番組を以前、見たことがあるが、アメリカのインテリ紳士が「ベトナム人は喜怒哀楽のない人種だ」と軽蔑的に言うシーンがあり、すぐに父親を戦争で失い、その墓を抱いて大声を上げて泣く、幼いベトナム人の子供のシーンが続いたのを見たね。A氏:皮肉な編集だね。私:日露戦争は、帝政ロシアと戦った戦争だが、そのロシアを倒し、ソ連を作ったスターリンが、太平洋戦争で日本が降伏したとき、これで日露戦争の仇が討てたといったという。 モンゴルもソ連圏内にあったときは、チンギスハンのためにいじめられたそうだね。 民族の恨みは怖いね。 いずれにせよ、大義はどうであろうと戦争で人を理性を失い、狂気になり、残酷となるね。 殺されるほうも殺すほうも悲惨だね。
2006.09.10
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私:40年前に「八甲田山」という映画を見たが、高倉健が主演だったね。 これは、1902年1月23日、日露戦争に備えた耐寒訓練などを目的に、旧陸軍青森第5連隊(青森隊)が八甲田越えの雪中行軍に出発し、1泊2日の予定だったが、記録的寒波と暴風雪にあい、参加した210人のうち199人が死亡するという壮烈な事件を映画化したものだね。 A氏:ところが、別ルートで八甲田越えした弘前第31連隊(弘前隊)は成功しているんだね。 弘前隊は遭難した青森隊が出発した3日前に弘前市を発ち、十和田湖を経由する反時計回りのコースをとり、区間ごとに地元住民に道案内させた。 八甲田連峰の横断には、ふもとの十和田市から20~30代の猟師ら7人が同行し、11泊12日全224キロの行軍を一人の死者も出さずに完遂させた。 私:しかし、旧陸軍により青森隊の悲劇が美談のように語られ、事件の2年後に生還者の後藤房之助伍長の銅像が建てられたのとは対照的に、弘前隊を率いた福島泰蔵大尉(1866~1905)の報告書は直後の部内報に掲載されず、封印された。 旧陸軍が、青森隊の失敗と比べられるのを恐れたためとみられ、地元の案内人については、福島大尉が「絶対に口外するな」と口止めし、地元でも知られることはなかった。 A氏:その後、案内人7人のうち1人が知人に話した経験談が地元紙に掲載されたことをきっかけに知られるようになり、1931年、地元青年団が7人を「七勇士」とたたえる石碑を建立し、小学校が7人の顔を彫ったトーテムポールを建てたり、活躍を伝える版画を作ったりするなどの活動があったが、地元だけの取り組みだったという。 私:この弘前隊を道案内した7人の地元の村人・「七勇士」の活躍を語り継ぐため、2年ほど前に地元の研究家らが「八甲田山雪中行軍を語り継ぐ会」を発足させ、これにより、7人への共感が広がりつつあるという。 昨年12月には十和田市が譲り受けた7人の石碑を修繕。 今後、小学校などでの「七人の勇者」の読み聞かせを通じ「地元の誇りを子どもたちに伝え、広げていきたい」という。 A氏:弘前隊に参加した間山仁助伍長の孫で、事件を研究する元喜氏は「青森隊は初日から暴風雪に遭った。映画は指揮の乱れを中心に描かれたが、冬の八甲田に対する情報が少なかったことが最大の要因だ」と分析しているという。 私:今でも、陸上自衛隊の演習があるが、事件があった1月23日周辺が演習日に選ばれることはほぼなく、それは翌24日は地元で「山の神の日」と呼ばれ、猟師が山に入ることを慎むほど、荒天が多いとされるためだ。 青森隊は、まさにその「山の神の日」にやられたわけだね。 弘前隊は、運良く、その3日前に出発しているし、八甲田山の雪をよく知るふもとの猟師ら7人の案内で、行進したのも成功の一因だろうね。
2017.05.22
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A氏:「文書」の審査・承認が必要だとすると、ハンコを押す2つの欄が必要だね。私:通常、作成者の欄が追加されて、3つの欄となるね。 しかし、中小企業では、作成から承認まで同一人が行うことが多いから、審査欄を削除して最低、作成・承認の2欄にしている例が多いね。 それでも、2回同じサインをしなくはいけないね。A氏:それでは、「文書」の審査を要求しているISO9001の要求を満たしていないのではないの?私:その場合、マニュアルで、審査は承認者が行うと明記しているね。A氏:俺の元いた会社では、審査欄が2つあって、部長が承認欄に捺印するが、2つの審査欄には課長と次長が捺印していたね。 もっとも次長は、判を押すだけで課長が実際に審査しているのだがね。 作成は係長だね。 これは印だけでなく、実際に作成している。私:君のところは大手企業だから、機能があいまいな次長とか副課長が多いからね。 ある会社で、ISO9001をとるとき、無意味な捺印をやめようとして、「文書」の欄を作成・審査・承認の3つの欄に機能的に統一したことがある。 従来は、ハンコを押す欄が5つくらいあったんだね。 そうしたら、従来、ハンコを押していた副課長がと次長が押す欄がなくなった。 副課長と次長から文句が出たので、3つの欄の欄外に押すようにしたというね。 要するに、これらの人は「俺が見た」という証拠を形式的に残したいだけなんだね。A氏:失礼な言い方かもしれないが、犬の小便みたいだね。 「審査」の中味がないんだね。 それから、作成・審査・承認には日付が必要なのかね。私:通常は日付が必要なので、ハンコでもデータ印といって、日付が入ったものを使うね。 ISO9001の拡大で使用が増えたようだよ。 その「文書」の発効日が必要だからね。 しかし、「文書」によっては、3つの欄の上に年月日を書くものもある。 これに書けば、データ印は不要だが、つい、欄外なので記入を忘れるという弱点があるね。 データ印がおすすめだが、「文書」作成がパソコン化してきたので、よほど、経理的に重要であるような「文書」以外はパソコンの文字入力になってきているので、データ印は「記録」確認には使うが、「文書」には使わなくなっているようだね。A氏:君は「文書」にハンコを押すのを好まないね。私:特に社内用の「文書」にはね。 ISO9001以前から、ある超大手企業では社内用「文書」の承認には承認者の名前のカタカナのトップの文字を書き、この文字を丸で囲んで承認としていたね。 佐藤ならサだけだね。 同姓なら、名前のトップのカタカナを一文字追加するだけだ。 承認で同姓同名というのはあまりないだろうが、あれば、どちらかに二重丸をするんだろうね。A氏:俺の会社では、ISO9001以前は、購買の注文書は工場長が承認印を押すことになっていたけれど、厖大な量なので、工場長は印を秘書の女性に渡し、その女性が機械的に捺印していたね。私:これは「記録」への捺印の話だが、ある中堅企業の社長は叩き上げで、現場をよく知っていたんで、営業マン約200名の週報に全部目を通していたね。 読んだという証拠にこれも赤のサインペンで苗字の一文字をサインしていた。 そして、コメントがあるとその赤ペンで書いていたね。 「文書」の作成・審査・承認や「記録」の確認などにハンコや署名の仕方があり、各社いろいろだが、その会社の知的体力があらわれているね。
2011.10.24
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私:図書館は1月8日まで休館で、借りた本は「オッペンハイマー」下巻と他に1冊だけの計2冊だ。A氏:なんで、「オッペンハイマー」は下巻から借りたの?私:わからないが上巻の予約者のほうが多くて、下巻のほうが早く俺の順番が来たんだ。 しかし、下巻のほうは、日本への原爆投下から始まるから、「世界を不幸にする原爆カード・ヒロシマ・ナガサキが歴史を変えた」の知的街道には丁度いいね。A氏:オッペンハイマーは、「原爆の父」としてアメリカのヒーローとなるが、原爆の怖さを知っており、早期に情報を公開し国際管理下に置くことを提唱しているね。私:しかし、原爆を外交カードに使うトルーマン大統領にはそれが理解できず、その後、世界の人は抑止力に頼る原爆競争に悩まされることになる。 オッペンハイマーは、原爆は安いコストでできるようになるから、テロリストの使用も可能だとして、まさに、現在を正確に予測していたね。A氏:「世界を不幸にする原爆カード・ヒロシマ・ナガサキが歴史を変えた」ではトルーマン大統領の資質の問題をとりあげているね。私:この本の最初のほうで、1945年10月25日、オッペンハイマーが米大統領執務室でトルーマン大統領に最初に会ったときの興味あるエピソードが紹介されている。 パターソン長官による紹介後、3人は着席した。 トルーマンは原子力の管理権を永久に軍に委ねるとした法案が議会で可決されるよう、オッペンハイマーに応援を求めた。A氏:オッペンハイマーは、国際管理を考えていたので、大統領と基本的な考えが違うね。私:会話の途中で、トルーマンは突然、ソ連はいつ自前の原子爆弾を開発すると思うか、とオッペンハイマーに尋ねた。 オッペンハイマーは「分かりません」と答えた。 トルーマンは自信を持って私は知っていると言った。 「彼らは絶対に開発できない」A氏:実際に、4年後にソ連は原爆を開発し、オッペンハイマーが予測していた通りに50年余にわたる核爆弾の競争が始まるね。私:オッペンハイマーはトルーマンの無理解さに心臓が飛び出す思いがしたという。 オッペンハイマーは言った。 「閣下。私は手が血で汚れているように感じます」A氏:トルーマンは怒っただろうね。私:このコメントはトルーマンを怒らせた。 後に伝えられた話では、トルーマンは「私は彼に、血で汚れているのは私の手だ。君は心配しなくてよろしい」と言ったという。 一説によると「気にするな。洗えば落ちる」とも言ったともいう。 もう一説によると、トルーマンがハンカチを胸ポケットから引き出して、オッペンハイマーに「さあ、これで拭くかい?」と言ったともいう。A氏:会話は決裂だね。私:気まずい沈黙が流れ、トルーマンは立ち上がり、会談は終わったという合図をした。 二人は握手をした。 その後、大統領がつぶやくのが聞こえた。 「手に血が付いたって?ちきしょう。俺の半分も付いていないくせに!ぐちばかりこぼして歩くな」 大統領は後にディーン・アチソンに「俺は二度とあの野郎に、このオフィスで会いたくない」と言ったという。A氏:しかし、「血が付いた手」という言葉は、トルーマンの心に深い傷を与えたろうね。私:大統領はよほど、この「血が付いた手」が気になって忘れることができなかったようで、半年くらい後のアチソンへの手紙で、オッペンハイマーのことを「私のオフィスに来て、話の間ずっと手をもみながら、原子力を発見したために手が血だらけ、とぬかした泣き虫科学者」と書いているという。 オッペンハイマーのこのような性格や寸鉄人を刺す言葉と冷戦が「原爆の父」の後半生を不幸にしたようだね。 明日は、その後半生にふれよう。
2008.01.06
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私:著者は、マルクスの人間性の特徴として4つの側面をあげている。 「暴力志向」「権力欲」「金銭管理能力の欠如」「周囲の人間に対する強い搾取嗜好」だという。 A氏:そう言えば、マルクス思想には暴力が内在し、マルクス主義体制では絶えず暴力的な活動があり、レーニン、スターリン、毛沢東しかりだね。私:家庭でも父親との口論は暗い影を投げかけたという。 仲間の誰ともケンカしたが、それは相手を完全に自分の支配下に置くことができないときに限られていた。 ある論争相手はこのマルクスを「トリール出の色黒男は荒れ狂う、おそろしげにこぶしを握り、限りなくわめきちらす、無数の悪魔に髪の毛をつかんで引きずり回されているかのよう」と詩にまで詠んだという。A氏:何かの欲求不満でもあったのかね?私:一つの大きな不満、すなわち、資本主義体制に対する憎悪の根本にあるのは、マルクスの異常なまでの金銭能力の欠如だね。 青年の頃には高利の金貸しに頼るなど、高利貸に対する憎悪がある。A氏:なんでそんなに金に困るのかね?私:安定した正業がないのに浪費家だったらしいね。 高利貸に借りる前には、まず、自分の家族や友人からの借金で、家族との手紙の内容のほとんどは金銭問題。 ついには両親から支援を断わられる。 そうしているうちに、両親の死で遺産が入る。 うまく投資すれば安定した生活ができたのに、夫婦ともに金銭感覚がなく、遺産も借金も底をつく。 妻の実家も支援を断わる。 さらに、1948年、ベルギー政府はマルクスに国外退去命令を出す。A氏:貧乏のどん底だね。私:家の中は埃と汚れだらけで、マルクスはめったに風呂に入らなかったという。 子どもも二人失う。 結局、娘3人が成長するが、娘たちが独立して職業を持つことを許さなかった。A氏:「働かざる者、食うべからず」なのにね。私:その頃、1940年代中頃から知り合ったエンゲルスが支援をするようになる。 エンゲルスは事業家だが、自分が得た金の半分はマルクスの生活支援に費やされた。 そのうちに、エンゲルスは、マルクスの金銭感覚に期待するのを諦め、1969年に事業を売り払い、金利で生活できるようにした。A氏:資本主義を嫌ったマルクスが金利で生活するとはね。私:最後にもう一人の問題の人物がいる。 マルクスの妻が結婚するとき、お手伝いとしてついてきた「レンヒェン」だ。 マルクスが死んだ後の1980年までマルクス家に仕えた。 よく働いたそうだが、マルクスは全く給料を払わなかった。 彼女が、マルクスが直接知っている唯一のプロレタリアートだった。A氏:当時、いくら労働搾取といっても資本家は労働者に多少のカネを払っていただろうからね。私:1949年から50年にかけてのどん底時代に、彼女はマルクスの愛人となり、1851年に男の子を出産。 世間体を考えマルクスは認知しない。 子どもは労働者階級の家に里子に出され、マルクスの家に訪問しても玄関の使用は禁じられ、台所でしか母親と会うことはできなかったという。A氏:結局、マルクスは隠しとうしたのかね。私:事実を知っていたエンゲルスが1958年に死ぬ間際にマルクスの娘に事実を明らかにした。 その男の子、フレディは労働者階級の子どもとして育てられ、機械整備工になる。 マルクスはそのフレディのことは知らなかったし、フレディもマルクスの家で一度見たマルクスが父であることを知らなかった。 フレディは1929年に死ぬが、まさにそのとき、マルクスが切望した絶対権力を掌握した指導者、スターリンがロシアの農民に対して破滅的攻撃を始めようとしていたと、この本はこのマルクスを扱った章をしめているね。
2008.01.05
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