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私:
この本は著者の博士論文のもとになったものだという。
300頁の小さな字がピッシリ埋まった専門書だね。
専門家でない俺は、もちろん、 全部、読むつもりはない。
これを図書館から借りたのは、 簡単な知的興味
からだね。
それは、「 広田弘毅
」
の本で、 近衛声明
の「 今後、国民政府を対手とせず
」が出る経過が書いてあり、その辺の事情をもっと知りたいという知的興味がわいたからだね。
A氏
:この「 近衛声明
」は日本が太平洋戦争に踏み込んで行くきっかけとなったものだね。
日本の近代史を後から振り返ってみると、 その後の日本の運命を決めた大きなターニングポイント
だね。
私
:中心となるのは「 トラウトマン工作
」だね。
これについて、この本では 10頁程度
、ふれているので、これに知的興味をもったね。
これをまとめておきたいと思ったね。
それが終わったら、図書館に返すよ。
しかし、この本のこの部分は、時系列が相前後して読みにくいね。
読みにくいと 博士論文
にならないのかね。
ところで、この本によると、「 トラウトマン工作 」に対しては、 最初、広田や日本の外務省は乗り気でなかった とあるね。
A氏 : ドイツ は、 蒋介石軍に武器を提供 し、かつ、上海事件ではドイツは 軍事顧問団 まで派遣していて、日本は苦戦するという苦い経験があるね。
私:しかし、一方、ドイツ側は、中国が戦争とともに 共産化
することを恐れてきた。
ドイツ
は ソ連に有利に展開する心配
が出てきた。
だから、必ずしも 日中戦争を日本に有利な形で収拾しようというものではなかった。
むしろ、 中国に巨大な権益
を持ち、中国にとっても関係の深い 英国を利用
して、日中和平をはかったほうが、 日本有利の形で停戦になると日本の外務省は考えていた
んだね。
広田外相
は、 1937年11月2日
に ドイツ大使に日中和平条件を正式に伝える前日
にも イギリスの仲介にまだ未練
があったという。
この辺の経緯は「 広田弘毅
」の本にはないね。
A氏 : 外務省はイギリスを重視 していたんだね。
私
: イギリス頼みの広田
が、 ドイツに変った経緯
は、 高木惣吉海軍省臨時調査課長
の集めた 極秘情報
「 広田外相の講和条件提示に関する経緯
」になまなましく書かれているという。
それによると、当初、 杉山陸相が広田外相に和平工作を頼み、
広田は英国の仲介工作に乗り出す。
1937年か9月から10月初旬
にかけて、 英国
は クレーギー英国大使
を通じて 広田外相の和平条件
を中国に伝えたが、 蒋介石の拒絶
にあって終わっていた。
英国
は、当時は 外交
は 米国と共同歩調
を取っており、 日中戦争への介入に消極的だったアメリカ
に合わせて、あまり和平には積極的でなかったようだね。
しかし、 日本外務省
としてはこのルートによる和平調停の継続を強く要望していた。
ところが、 陸軍省
と 権力争いをしていた参謀本部
が 陸軍省とは別に
、ドイツ外務省とではなく、 ドイツ軍に対して和平交渉を始めた
んだね。
私
:陸軍の「 下克上
」だね。
その結果、 陸軍内部からの突き上げを恐れた杉山陸相
が 広田外相に依頼していた英国を通じての和平交渉を断念
したという。
A氏
:列強が駆け引きしていて外交の難しい時期だね。
それにしても、 日本軍の内部分裂
はひどいね。
私
:陸軍内部では 参謀本部内
も 武藤章作戦課長らの中国に対する強硬派
と、 参謀本部の石原莞爾作戦部長などの不拡大派の対立
があったね。
今村均
陸軍大将
の回顧録・「 今村均回顧録
」によると、石原が武藤章に日中戦争反対を説くと、武藤は「 私はあなたが、満州事変でとった行動を真似しているだけです
」と言い返したという。
武藤がそういうや否や、他の青年将校が口を合わせて哄笑したという。
A氏
:軍の中では 石原は不人気
だったんだね。
武藤は後の 東京裁判で死刑判決
を受けるがね。
私 :実は「 トラウトマン工作 」は、日中戦争拡大を阻止したい、その石原が熱心だったようだね。
明日はそのへんから、話しを進めよう。
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