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作家の 大江 健三郎 がノーベル文学賞を受賞したのは 1994 年でした。この対談集には三つの対談が収められていますが、それぞれ、
「中野重治のエチカ」( 1994 ・ 4 月)
「世界と日本と日本人」( 1995 ・ 5 月)
「戦後の文学の認識と方法」( 1996 年・ 5 月)
と題されています。対談の日付から、ノーベル賞受賞前に一回、受賞後に二回行われたことがわかりますが、それから 25
年の歳月が流れています。
その当時、 大江健三郎
と 柄谷行人
の二人が会い、真摯に語り合っていた様子に不思議な感動が湧いてきます。
ぼくは、この二人たぐいまれな文学者の作品を 20
歳以来読み続けてきましたが、 漱石論
で脚光を浴びていたころの 柄谷行人
に 「個人的な体験」
をめぐる批評があったような気はしますが、二人の間の 「からみ」
を目したり、読んだりした記憶はありません。この二人は、互いに 「遠い場所」
にいると思い込んでいました。
その二人が、ちょうど、ぼくの記憶の真ん中あたりで出会っていたということに、まず、意表を衝かれました。それがこの本を手に取った直接の動機でした。
巻頭の 「大江健三郎氏と私」
の中で、 柄谷行人
は 「大江健三郎という作家」
と 「柄谷行人という批評家
」の在り方を、それぞれ 「小説の終わり」
と 「批評の終わり」
を意識せざるをえない場所に逢着した表現者であると結論づけていますが、 「終わり」
を意識するに至る二人の思考のプロセスを解くカギ言葉として、 ambiguous(
両義性 )
と ambivalent
(両価性)
という対義的な二つの言葉について語っています。
何のことかといぶかしむ方には本書を手に取っていただくほかはありませんが、本書に収められた対談についていえば、 「中野重治のエチカ」
は戦中から戦後にかけての文学的 「転向」の「エチカ」
、 「倫理」
をめぐって、語り合う二人の間には ambiguous(
両義性 )
についての思考が底流しています。
「世界と日本と日本人」
、 「戦後の文学の認識と方法」
はともに現代の世界文学における ambiguous(
両義性 )
をめぐる対談といっていいと思いました。
本書を読み進む中で、二人が、それぞれ、自らの表現スタイルについての告白にも似た様子で、語っているところがあります。ハッとして、表紙を見返すと装幀家 菊池信義
が
すでにに発見していて、表紙を飾っているのに気づいて笑いましたが、その語りはなかなかスリリングでした。
一つ目は批評家 柄谷行人
の文学的出発と、25年前の現在をめぐる発言です。
柄谷 大江さんが文芸誌にデビューされたのは 1957 年 ですね。 次は、 大江健三郎 の、 25 年前の現在 ですね。今、振り返れば、彼はこの後、 「宙返り」 に始まり 「晩年様式集」 にいたる作品を書きつつけていますが、この時点でたどり着いている 「小説の終わり」 に対する感慨を込めた発言には胸打たれるものがありました。
大江 そうです。 57 年の夏 。
柄谷 僕は 69 年 に、大江さんが選考委員をされていた 群像新人賞 をもらったわけです。当時、その十二年の違いは、随分大きいような気がしていましたが、今から振り返ってみると、さほどのことはなかったという気がしています。そ手も当然で、あれからニ十七年も経っているのですから。特に、九十年代以後の状況の中で考えてみると、僕はむしろ自分が批判してきた前世代と共通の時代的な基盤にあったことを痛切に感じています。
大江 あなたはそのころ哲学ではなく、批評という形でものを書こうとされたことには、やはり時代的な必然があると感じますか?
柄谷 ええ。少なくとも、 現在なら、僕は批評という形式ではやらなかっただろうという気がしますね。 僕はたんに小説をあげつらったり理論的に考察したりするために批評を選んだということはありません。それなら、むしろ小説家になろうとしたでしょう。やはり、哲学的というべき関心が強くあったのです。
ところが、それを哲学としてやる気にはならなかったのです。それにはそれなりの理由があったと思います。まず何よりも文章の問題がありました。僕はいわゆる哲学者の書いた文章が好きになれませんでした。それは自分自身の存在と遊離しているような気がしたのです。そして、それはまた日本の現実的な存在と遊離しているということでもあります。
戦中に行われた「近代の超克」という座談会を丁寧に読みなおしたことがありますが、その中に、小林秀雄が京都学派の人たちに、君たちはまともな文章を書いていないとやっつけているところがあります。再読したときに思ったのは、第一にその時、小林秀雄は京都学派の哲学者をこれ以上ない言い方で批判していたのだということです。第二に、実は小林秀雄は哲学者なのだ、しかし批評という形で書くほかなかった哲学者なのだ、ということです。これは日本において、あるいは日本語に置いて考える限り避けがたい問題でもあり、また、そう考えること自体が、批評という形式を強いるのだと思います。
僕にとって、 批評とは、思考することと存在することの解離そのものを見ることでした。 と言って、それは抽象的な問題で反句、日本の近代以降の経験、あるいはファシズムと戦争の経験、そういうものを凝縮した問題だと思うんです。それはいわゆる哲学や、社会科学や、そういったものから不可避的に抜け落ちてしまうなにかです。 逆に、批評という形式においてなら、どんなことでも考えられるのではないか、と思ったのです。今の若い人たちはそういうふうに考えないのでしょうが、僕にとっては、批評は自分の認識と倫理にとって不可欠な形式であったと思うんです。 そして、それは現在もなお続いていると思います。
(「戦後の文学の認識と方法」)
大江
「ドン・キホーテ」だって、下巻はとくにすぐれていますけれども、完全にサンチョ・パンサの批判、ドン・キホーテの批判で、あるいはセルバンテス自身の批判となっていて、実に高度なものですね。あれだけ高度であるということは、もうそれ以上の抜け道はないわけです。
偉い作家はこぞってそうだし、僕程度の普通の作家でも、小説だけ書いて生きていますと、その形式がよくわかってくるんです。そのうち一つの小説を書くと、次に書くのは最初の小説で発見したことの否定から始めるほかなくなる。 猛烈に早くふけてしまう老人みたいに、僕は個人として小説の歴史を早くたどり過ぎたわけです。 五十歳になったころ、すでに僕は。小説とはこういうものだという見通しを持っていたように思う。そして、それをもう一回やることには意味がない。本当の興味もありませんし、生き生きとした魅力もない。だから、僕はある段階から後ろ向きになってしまったのじゃないか。
いつも前を見て、わけのワカラナイ方向へ向かって書いていく、それが小説です。 認識していないものをなぜかけるのかというと、物語るという技術があるためです。 そういうわけで、前を向いて書いている分には健全ですけれども、それがいつのまにか後ろを向いて、自分の書いたものを検討しながらやるようになった。つまり自分にとっての小説の終わりというものを書こうとしてきたように思いますね。ですから、読者がいなくなるのも当然なんです。じぶんとしては、それはそれである面白さはあるんですけれども。 (「世界と日本と日本人」)
ぼくは、相変わらず、この二人の新しい作品を待ち続けていますが、つい先日、 古井由吉
の訃報を知り、思わず、丘の上に立って、日が沈んでいく地平線を遠くに眺めている ノッポとチビの二人連れ
を思い浮かべました。
端正なノッポが 柄谷行人
、チビでかんしゃく持ちの、ちょと太った男が 大江健三郎
でしょうか。
追記2023・03・14
2023年3月3日金曜日
、作家の 大江健三郎
が亡くなったそうです。彼の新しい作品を待ち続けていましたが、かなわない夢になりました。
まったく、偶然なのですが、中期の作品 「新しい人よ眼ざめよ」
、 「雨の木を聴く女たち」
、 「静かな生活」
と読み継いでいるさなかでの訃報でした。次はいよいよ大作群が待っています。亡くなったからといって、作品が消えるわけではありません。読み継いでいこうと思っています。
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