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タヌキばやしの証誠寺は実在するお寺で、意外にも木更津市の中心部にあります。ここが有名な「証誠寺の庭」です。証誠寺には「狸ばやし」の言い伝えがあり、その伝説を元にしたのが「証誠寺の狸ばやし」の童謡です。証誠寺の一帯は鈴ヶ森と呼ばれ、木々が生い茂って昼でも暗い場所だったそうです。ある夜中に証誠寺の境内が騒がしいので、和尚さんが目を覚まして外を見てみると、月が出ていて昼間のように明るく、よく見ると狸たちが腹を打ちながら踊っていたそうです。和尚さんも面白くなって狸たちと一緒になって踊りだし、その踊りは毎晩続いたとのこと。ところがある夜だけは狸たちが全く姿を見せないため、和尚さんが不思議に思っていると、翌朝リーダーの大狸が腹を破って死んでいたそうです。タヌキを不憫に思った和尚さんは、そのタヌキを懇ろに弔ったとのことでした。証誠寺の狸塚明るくコミカルな童謡とは裏腹に、狸ばやし伝説の方はなんとも悲しい結末でした。
2013/01/31
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上総国には請西藩という1万石の小さな藩がありましたが、この請西藩主であった林忠崇は昭和16年1月に94歳で病没、この人が昭和まで存命した最後の大名でありました。林忠崇が請西藩の藩主となったのは、幕末の1867年、弱冠20歳の時でありました。折りしも新政府軍と旧幕府軍による鳥羽・伏見の戦いが勃発し、請西藩も政府軍と幕府軍のいずれに加担するかの決断を迫られました。林家は旗本から大名へ抜擢された徳川恩顧の大名であるため、林忠崇は幕府方に付くことを決意しました。そして居城であった真武根(まぶね)陣屋を焼き払い、家臣とともに領地を去って行きました。当時藩士が身分を捨てて藩を脱走する脱藩行為はよく見受けられましたが、大名が脱藩したのは後にも先にも林忠崇だけではないでしょうか。それでも、陣屋を焼いて領地を去ったのは、領民に迷惑をかけないためだったそうです。その後林忠崇は東北各地を転戦し、1868年に明治政府に降伏しています。また脱藩の罪により、明治政府によって請西藩一万石の領地を没収されてしまいました。ちなみに明治新政府により領地を没収されたのは、請西藩が最初で最後だそうです。その請西藩の真武根陣屋の跡が千葉県木更津市にあります。人里離れた木更津中央霊園の入口近くに、ひっそりと陣屋跡の碑が立っていました。陣屋の跡地
2013/01/30
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大雄山最乗寺方面との分岐点から矢倉沢峠までは、外輪山の中でも初めて辿るルートです。金時山と富士山を正面に見ながら、緩やかに下って行きました。右手には大山~ヤビツ峠~塔ノ岳~鍋割山の丹沢の山並みが見えてきました写真を撮ろうとして新雪に踏み入れたところ、膝上までズボッといったので、真面目に焦りました。火打石山から先は、日陰となる斜面の北東側(カルデラの外側)にルートが変わります。ここで時間をとって、アイゼンを装着しました。思わぬところで雪が凍っていたりするので、日陰ではなるべくアイゼン付けた方がいいと思います。再び南西側の斜面にルートが変わると、眼下には仙石原が見えてきました。1590年の豊臣秀吉による小田原の役の時、その功績で仙石秀久にこの地が与えられたことから、仙石原の名前となりました。箱根カルデラの内側にあって、その先には堰止湖である芦ノ湖が広がっています。斜面が変わって積雪は落ち着いて来たものの、今度は箱根外輪山特有の笹に悩まされるようになりました。普段はV字型の縦走路の両脇に高い笹が生えているのですが、風で一方向になぎ倒されたうえ、その先が雪に埋まってしまい、笹のアーチとなっていました。高さは50cmほどしかなく、他に歩くところもないので、仕方なく這いつくばるようにして抜けて行きました。ランダムにねじまがる笹竹に道を遮られ、約1時間もの間この笹に悩まされ続けましたあまり端を歩くと斜面に落ちるし、一体どこを歩けばいいのかと言った感じですが、ここは富士箱根伊豆国立公園、むやみに笹薮をこぐわけにもいきません。ようやく笹薮から解放された時、目の前には金時山が近くなり、矢倉沢峠が見えてきました。振り返ると明神ヶ岳のどっしりとした山容が見えていました。矢倉沢峠の金時山との分岐点矢倉沢峠から仙石原へ降りる道は「いつか来た道」、金時山からの帰りに通ったことがあります。仙石原の登山道終点名前も金時山登山口になっていました。
2013/01/28
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今回の山行はまたしても箱根外輪山、2ヵ月前にも通った明神ヶ岳の縦走路です。前回は外輪山の東側を北から時計回りにたどったのですが、今回は反時計回り、南側のから明神ヶ岳を目指しました。箱根湯本から桃源台行きのバスを宮城野で降り、外輪山の内側からスタートです。日陰には積雪が残っているものの、ほとんど雪がなかったので、普通に登ることができました。雪山装備を持ってきていたのですが、ザックの中にしまい込んだほどです。樹林帯の中を40分ほど登ったところで、明神ヶ岳と明星ヶ岳の間にある「鞍部」、外輪山の尾根にとりつきました。見覚えのある道標ですが、前回は明神ヶ岳方面から明星ヶ岳方面へと、確かにここを通過しています。まだ記憶に新しい縦走路ながら、それでも2ヵ月前とはがらりと変わった風景でした。雪が靴の中に入るのが嫌なので、ここからはスパッツを着用することにしました。前回は振り返りながら見ていた富士山が、正面に見えるようになりました。前回は下りだった道を逆に登ること40分、明神ヶ岳山頂に到着です。富士山と金時山とのスリーショット明神ヶ岳山頂にはかなりの人がいて、カラフルな登山装備が雪に映えていたのですが、どうやら60人の大パーティーだったようで、その人たちが去った後は数組程度、山頂に静寂が訪れました。目の前には箱根火山のカルデラが広がり、それぞれにこの風景を楽しんでいるようでした。山頂にたどりついて短い山の挨拶を交わした後は、再びそれぞれの景色に戻る、これが醍醐味かも知れません。箱根外輪山の中心部明神ヶ岳を後にすると、快晴の富士山を正面に見ながら、矢倉沢峠を目指して外輪山を北へと向かって行きました。すっかり変わってしまった縦走路、新雪をザクザク踏んでみたり、なかなか快適な雪山歩きです。スキー場の条件反射なのかはわかりませんが、雪を見ると無性にラーメンを食べたくなるのが不思議なところです。前回は最乗寺から外輪山の縦走路にとりついたのですが、その分岐点も様変わりしていました。大雄山との分岐点何度か訪れた外輪山の縦走路ですが、実はここから矢倉沢峠までの尾根は歩いたことがありませんでした。完全に雪が融けてぬかるみになったかと思うと、再び積もっていたりで、なんだかよくわかりませんでした。雪山歩きも終わりかと思い、矢倉沢峠の方から来る人に積雪の状況を聞くと、「ジャンジャン積もっていますよ」と。実は積雪はではなく、箱根特有のある植物に苦しめられるとは、知る由もありませんでした。
2013/01/27
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冬晴れの快晴の1日、こんな日こそ富士見に行こうと、向かった先はヴェルデさんのお膝元、静岡市清水区にある薩埵峠です。由比宿から興津宿へと抜ける旧東海道の風景は、歌川広重も「東海道五十三」に描いています。自分の中で富士三景をあげるならば、この薩埵峠と三保半島・田子の浦が断トツで、何度も来たい場所でもあります。波も穏やかで、水平線上には伊豆大島もはっきり見えていました。この日は冬の青空にコントレールが幾筋も映えており、駿河湾上空のナゴヤ・トランジションの航空路にも、クライムスラストの見事な航跡が描かれていました。この空路を行くのは伊丹か関西へ向かう航空機ですが、さすがに機材やカンパニーまではわかりませんでした。双発機には間違いないものの、B787ではないようです。実は薩埵峠から浜石岳まで往復しようと登山装備で来たのですが、そもそも思い立ったのが遅すぎで、すでに正午を過ぎていたのであっさり諦めました。それでも諦めきれないのは桜海老のかき揚げ、あのサクサクでジューシーな食感はたまりませんでした。
2013/01/25
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石川啄木が寝転んでいた不来方のお城、盛岡城の二ノ丸から空堀を越え、本丸に入って来ました。タクシーの運転手さん情報によると、本丸には「馬がいたっけな~」とのことです。半信半疑で本丸に着いてみたのですが、厩舎のようなものはありませんでした。盛岡城本丸もしかして、馬がいたというのはこの台のことでしょうか。この台座の上には南部氏第42代当主、南部利祥氏の像があったようですが、その解説にはなんとも悲しい歴史が刻まれていました。南部利祥氏は最後の盛岡藩主であった南部利恭の長男で、陸軍士官学校を卒業した後、日露戦争では陸軍第1軍に中尉として従軍したそうです。しかしながら24才にして満州で戦死し、後に金鵄勲章が授与されました。この功績を称える市民の寄付によって像が建てられたのですが、そこには戊辰戦争以来朝敵とされてきた南部藩の汚名が、この功績によってようやく返上されたとの思いがありました。それでも太平洋戦争では軍事物資として供出され、現在は台座のみが残っています。本丸の搦め手らしき虎口を降りると腰曲輪があって、本丸の石垣を見上げることができました。切込接ぎで積まれ、隅石は直線的な勾配です。こちらは積み方が変わって、打ち込み接ぎでした。本丸西側の隅石は、清正流とも呼ばれる扇の勾配がありました盛岡城は明治になって廃城となり、建物も解体されましたが、築城当時の縄張りが残っており、石垣だけでも十分見ごたえがあると思います。盛岡駅のコンコースには、当時の城郭がステンドグラスで復元されていました。日本城郭協会「日本100名城」
2013/01/22
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盛岡を訪れるのは2回目、前回は5年前のことでした。その時は1泊2日で札幌と盛岡に予定があり、1日目は札幌で予定を終えた後、その日のうちに再び空路で杜の都仙台へ仙台では転勤で赴任している高校時代の友人と飲み明かし、次の日にほうほうの体で盛岡に着いたのを覚えています。しかしながら前回の盛岡では時間がなく、ようやく盛岡冷麺を食べた後は、盛岡城を遠くから眺めるだけでした。今回は盛岡城を訪れる時間ができたものの、歩いて城下町の町割りを見ている余裕はなかったので、仕方なくタクシーを利用しました。そのタクシーの運転手さんは、しきりに「石垣しかない」とこぼしていましたが、どうも弘前城を意識している様子でした。「石垣が残っているだけでも立派じゃないですか。仙台城だってそうですし」とは言ったものの、「そうかな~」と。運転手さん自身も仕事柄盛岡城の前までは来るものの、もう何年も中に入っていないとのことです。「そう言えば、一番上に馬がいたっけな~。今はいるのかな?」とのことで、「盛岡城の本丸には馬がいるのか!?」と、石垣よりもそちらの方が気になります。盛岡城の大手口は近世城郭には珍しく北東の鬼門側にあり、三ノ丸の虎口が残っていました。三ノ丸大手にある城址碑三ノ丸大手「瓦御門」の枡形跡櫓門は現存していませんが、三ノ丸虎口の石垣には築城当時の「矢穴」がありました。当時の技術では矢穴と呼ばれるミシン目を入れ、そこにクサビを打ち込んで石垣石を切り出していました。この技法は全国各地の城郭でも見られますが、とても気の遠くなるような作業です。それだけに石垣には先人達の苦労がうかがえます。三ノ丸の曲輪跡三ノ丸の先には再び枡形虎口の跡があり、二ノ丸へと続いていました。二ノ丸「車御門」跡ところで盛岡城と言えば、旧制盛岡中学の石川啄木が詠んだ歌があります。「不来方のお城の草に寝ころびて 空に吸はれし十五の心」不来方(こずかた)城は盛岡城の旧名で、石川啄木が詠んだのも盛岡城の二ノ丸でした。二ノ丸にある石川啄木の歌碑石川啄木が寝転がっていた季節は夏だと思われ、一面の夏草で覆われていたのでしょうが、季節が変わればすっかり様相も変わっています。二ノ丸の曲輪石川啄木と同じように寝転がってみることはできず、「我泣きぬれて 雪とたわむる」二ノ丸の先がいよいよ本丸で、空堀には朱塗りの橋が架けられていました。本丸の空堀と石垣なかなか信じがたい話ですが、果たしてこの先に馬がいるのでしょうか。
2013/01/21
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現在でも青森県の言語を分ける津軽地方と南部(三八)地方、津軽藩と南部藩に分かれていたことがその理由で、天気予報でも分かれていました。(ちなみに津軽の藩庁が弘前城だったのに対し、南部藩の藩庁は岩手県の盛岡にありました)それでも南部藩の初代藩主となった南部氏は、元々青森県八戸市を本拠地としてしており、南北朝時代から続くみちのくの名門です。そう言えば、宇宙戦艦ヤマトのクルーには歴史上の人物と同じ名字の人が登場するのですが、例えば沖田艦長や土方艦長もそうですし、真田技師長や徳川機関長、島航海長などもそうでしょうか。確か南部さんも航海班でブリッジにいたように思います。1333年の後醍醐天皇による建武政権の時、陸奥守に任命された北畠顕家とともに奥州の南朝方の中心となっていたのが南部師行でした。南部師行は元々甲斐の御家人でしたが、ここを南朝方の拠点とするべく、「南朝の根となる城」、根城を築城しています。八戸市博物館前にある南部師行像当ブログのプロフィール画像に似ていますが、同じ時代の南朝方ながら別人です(笑)現在残る根城の城跡には、その中世城郭が見事に復元されていました。大手門のすぐ先、東善寺曲輪の空堀東善寺曲輪には、枝垂桜などの観賞用の木だけでなく、梅や桃などの実用の木も植えられていたようです。東善寺曲輪朝早かったのですが、すでに通路は除雪されていました。東善寺曲輪の先にはまた空堀があり、その先には中館の曲輪があります。中館の空堀中館の曲輪中館の先にはさらに空堀があり、いよいよ本丸です。本丸の空堀ここだけは箱堀でなく、薬研堀のようです・本丸内には数々の建物が復元されており、それぞれに役割があったようです。古代遺跡の跡ではなく、納屋すなわち倉庫です。係の人に聞いたところでは、「まずは発掘調査をして、そこから時代考証をしてから、建物を復元した」とのこと。この言葉を深くかみ締めたのですが、ここに城跡保存の理想形を見たように思います。どこの城跡とは言いませんが→こちら、歴史に対する考え方の違いでしょうか。本丸の工房跡礎石だけの場所もありますが、ここにも史実に基づかないものは建てない姿勢がうかがえます。日本100名城の選定にあたっては、史実に基づいた復元も選定基準にあり、当然ながら根城も日本100名城に選ばれています。上馬屋ご丁寧に馬まで復元されています。中馬屋これだけの厩舎に3頭しか馬がいないのは、何か深い意味があったのでしょうか。そして本丸の中心に復元されていたのが主殿です。根城に限らず、現在も残る城跡の大半は中世城郭で、実はこれがその城跡の本当の姿です。本丸の最奥部には一段高くなった場所がありました。解説板によると「祭壇跡?」とのことです。この「?」に時代考証の跡がうかがえますが、方角からして鎮守があったのでしょうか。最奥部にある門搦め手門だと思われますが、その先には空堀の跡がありました。訪れる人は私だけだったのですが、何人もの方が丁寧に除雪されていたのが印象的です。挨拶をした後、「本当に素晴らしいです。ありがとうございました」と、率直な感想を述べさせてもらいました。(それがリップサービスでないことをわかってもらいたく、「各地の城跡を250ほど見てきましたが」と付け加えたのですが、逆に怪しまれたかも知れません)それでも係の方がおっしゃるには、「天守がなくてがっかりする人もいるんですよ」と。弘前城との比較ではそうなるのでしょうが、そもそも時代が違うので、根城に天守がある方がおかしな話です。実は城に天守があるのは長い長い城郭の歴史の中でも、ほんの20年間くらいの話です。最初の天守は松永久秀の多聞山城とも織田信長の安土城とも言われていますが、江戸時代になって天守の新築が禁止されたため、実は天守の歴史は非常に短いものでした。(逆に考えると、現存12天守は全て国宝にしてもいいほど、貴重な遺構でもあります)どうしても「城」=「天守」となるのは理解していますが、城も郷土の歴史のシンボルであるならば、本当の歴史を残すことも大切かと思います。八戸で生まれ育った方たちには、この根城を大いに誇りにしてもらいたいものですし、そんな城跡を残してもらえたことが羨ましくもあります。(財)日本城郭協会「日本100名城」
2013/01/20
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弘前の次は盛岡で予定があったのですが、スケジュールに余裕があったので東北新幹線を途中で降りてみました。ホームに降りた途端にアナウンスがあって、「はつのへ~、はつのへ~ず~にばんせんは、はやで20号とうぎょうゆぎです」何とも味のあるアナウンスが聞こえてきました。初めての青森滞在では津軽ことばにすっかり魅入ってしまい、耳心地が良いというか、韻のある言葉にはメロディーすら感じます。それでも厳密に言うと八戸は津軽弁ではなく、南部弁になるそうです。青森や弘前が津軽弁で、八戸は盛岡に近い南部弁とのことですが、年配の八戸の方に聞いたところでは、「子供の頃は津軽の人の言葉がわからなかった」と、それほどの違いがあるようです。弘前でも同じ話を聞いたのですが、同じ青森県でも青森や弘前は弘前藩、八戸は南部藩(盛岡藩)と、藩が違うので言葉も違うとのことでした。そう言えば本州の反対側の山口に赴任している時、下関や萩など旧長門国(長州)と、岩国や周南などの旧周防国(防州)では、同じ山口弁でも違いがわかるほど違っていたように思います。西日本の人間にとって津軽ことばはとてもわかりづらく、失礼ながら何度か聞き返したことがありました。(わからないまま聞き流すのは、もっと失礼だと思うので)思うに西日本では単語の最初にストレスがあるのに対し、北日本では単語の最後の方にストレスがあるのでしょうか。例えば山口で地名を言うとき、普通には「やまぐち(山口)」、「いわくに(岩国)」となりますが、長州では「やまぐち」、「いわくに」と極端に最初にストレスがあります。想像ではありますが、津軽では「やまぐつ」とか「いわぐに」となって、最後にストレスがあるかも知れません。(欧米ではまた違うようで、米軍岩国基地の海兵隊は「いわくに」となっていました)話は戻って、その南部氏の本拠地となっていたのが根城でした。ところで、街中では路線バスや路面電車ほどエコノミーで有難いものはないのですが、初めての土地では路線バスほど難しいものはありません。八戸駅でも同様で、バスの路線表も「○○前」ばかりでよくわからず、停まっていたバスの運転手さんに、「ねじょうにいきたいのですが」と尋ねると、「ねじょうにいぎますよ」とのことでした。積雪の中、バスの車窓から垣間見る根城の城郭は、江戸時代の近世城郭ではなく、まぎれもない中世城郭でした。ここが大手門です。城郭を巡った後で再びここに帰って来た時、いい音楽と演奏を聴かせてもらった時と同じ言葉を思わず発していました。城跡を振り返って、「Bravo!!」
2013/01/18
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天守が現存するのは全国で12城しかなく、その最後に訪れたのが弘前城でした。 これまで写真でしか見たことのなかった弘前城の天守、そう簡単に城郭ハントはさせてもらえないようです。本丸に近づくにつれて風雪が強くなり、ようやく天守まで来た頃には、かなり視界が悪くなっていました。 他にもまだまだ探索してみたかったのですが、「天守を見られただけでも満足」と、これまでにない悪天候で、さすがに撤退を決めました。とは言え、再び三の丸追手門までの長い道のりを戻るのも辛いところです。 これまでの縄張りのパターンから行くと、本丸から大手に行くよりは、搦め手を目指した方が早いケースが大半でした。 ある程度縄張りを見渡してから、一通り見た後は虎口のありそうなところを目指していくのが自分なりのセオリーだったのですが、ここでは視界が遮られて周りがよく見えないため、そのセオリーも通用しませんでした、全く方向を見定めることもなく、取り急ぎこれまで来た道の反対側を目指して行きました。 これが本丸ですもはや雪原となった本丸を突っ切って行くと、ようやく堀が見えて来ました。どうやら本丸の端まではたどり着いたようです。 堀には橋が架かっていたのですが、その先にも曲輪があるようでした。 後から地図を見て「北ノ廓」という曲輪だとがわかったのですが、本丸と同じくらいの広さがある曲輪です。「なぜ搦め手にこんな広い曲輪があるのだろう?」と思いつつ、脱出口でもある虎口を求めて雪原を彷徨っていました。 (そう言えば八甲田山ってここから近いな~)ようやく「武徳殿(休憩所)」と書かれた建物を発見し、一息つこうかと思ったところ、「11/24~3/31は閉鎖」とのこと。 そもそもこの北ノ廓も有料区域だったようなのですが、この季節に来るのはよほどのもの好きしかいないためか、料金所も閉ざされていました。 武徳殿がなんだったのかもよくわからないまま、「はて、次はどの方向へ向かったものか・・・」と、ようやく迷子になっていることに気付きました。近世城郭、それも山城ではなく平城で縄張りをロストするとは、穴があったら入りたいくらいです。しかしながらこの積雪ではそんな穴を見つけるのも大変ですし、ましてやそんな穴を掘っている余裕もありませんでした。仕方がないので、探検部時代に洞窟で帰り道を見失った時のように、曲輪の周囲をつぶしていると枡形虎口の跡を発見しました。 雪を払って解説を読んだところ、賀田(よしだ)御門跡のようで、元々はこちらが大手だったそうです。 実は弘前城の縄張りは途中で改変されたようで、元々の大手が搦め手となり、元々の搦め手は大手となったようでした。 賀田御門でようやく搦め手にたどり着いたと思っていたら、さらに広い雪原が広がっており、なんとその先に四の丸があるようでした。 元々の大手口がこちらにあったならば、広い曲輪があってもおかしくはないのですが、完全に縄張りを見誤っていたことになります。 それでももはや後戻りはできないので、風雪は一向におさまらない中、四の丸を歩いていくことにしました。 すると横向きに流れる雪の向こうに、人影が動いているのを発見することができました。 「こんな天候の中に奇特な人もいるもんだ」と思って近寄ってみると、ヘルメットに迷彩服の陸上自衛隊で、向こうも私に気付いたのか、指揮官の人が「おい、人がいるぞ。作業やめ」みたいな状況になりました。 奇特なのはこちらの方だったかも知れませんが、陸上自衛隊の人に見送られながら、ようやく搦め手門(亀甲門)に到着。 北ノ門(亀甲門) 本丸天守からだけでも、実に500mの道のりでした。 ようやくたどり着いた北ノ門の前には、武家屋敷も残ってました。目の前は普通にバス通りになっていたのが衝撃です。弘前の人に聞けば、やはりおススメは桜まつりの季節とのことで、弘前の桜が満開になるのは4月の終わりから5月の始めにかけてのGW期間中です。私も雪のない季節をおススメします。
2013/01/17
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江戸時代には弘前藩が置かれていた弘前市は、青森県では青森市・八戸市に次いで3番目の人口規模を持つそうです。弘前城はその市街地にありながら、三の丸から本丸までの曲輪だけでなく、数々の建造物が現存する非常に貴重な城跡です。三の丸追手門(現存)三の丸外堀水堀なのか空堀なのか、はたまた土塁なのか石垣なのか、雪に覆われていて不明です。雪原となってしまった中、三の丸追手門から約150mほど進むと、二の丸の堀に突き当たりました。二の丸の堀やはり水堀なのか空堀なのかは判然としません。雪景色に埋もれて見落としそうだったのですが、二の丸の堀越には木々の間に辰巳櫓が顔をのぞかせていました。辰巳櫓(現存)三の丸から二の丸虎口の間にも木橋があり、こちらも現存するようです。杉の大橋(現存)二の丸虎口も枡形が残っており、ここでも櫓門が現存していました。南内門(現存)南内門の先にも雪原が広がっており、ここが二の丸の曲輪です。二の丸地面がどうなっているのかわからない不安はありつつ、櫓が見えたので近づいてみました。二の丸南東に現存する未申櫓の隅櫓(二の丸内側から見たところ)当時の曲輪や石垣もさることながら、これだけの櫓や門が現存している城跡は希少で、来てみれば第一級の城跡でした。二の丸から本丸へは直進できない縄張りとなっており、二の丸の堀を廻って東側に本丸大手があるようです。本丸大手に架かる下乗橋(こちらも現存です)そしてその下乗橋から本丸を見ると、写真でしか見たことのなかった、あの弘前城天守が目の前にありました。それでもいざ実物を見てみると、想像以上に華奢な感じがあって、本丸の隅櫓かと思ったほどです。それでも特徴のある縦長の狭間や切妻破風など、どう見ても弘前城の天守でした。元々の弘前城には5層の天守が建っていたようですが、1627年に火災で消失してしまい、長らく天守不在の城でした。現在の天守は1810年に創建されたもので、200年近く経ってようやく幕府から許可が下りたようです。幕府に遠慮したのか、天守ではなく「御三階櫓」と呼ばれていたようで、寺際に本丸辰巳櫓を解体して造ったと言われています。それでもできる限り大きく見せるため、縦長の狭間や切妻屋根となったようです。下乗橋から本丸に入っていくと、枡形で大きくカーブして、天守の前に出ました。本丸虎口の枡形跡ここも櫓門があったと思われますが、現存はしていませんでした。この枡形の先に天守があります。天守を本丸内側から見たところ弘前城の櫓に限ったことではありませんが、本丸内側と外側で外観が大きく異なるのは、よくある話です。三の丸の追手門では薄日が差していたものの、天候が急変して本丸に着くころには吹雪いて視界が利かなくなりました。天守も見たことなので、ここで撤退を決めたのですが、この天候の中で再び三の丸追手までの距離を戻るのはかなり辛いことになりそうです。「本丸まで来たので搦め手門が近いはずだろう」と、そのまま先に進んで行ったのですが、実はこれが大きな勘違いで、すでに縄張りをロストしていることに、この時点ではまだ気付いていませんでした。
2013/01/16
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札の辻交差点から南へ延びる通りは「蔵造り通り」と名付けられ、重伝建(重要伝統的建造物群保存地区)にも指定されています。現在も残る蔵造りの町並みは、明治26年(1893年)の大火の後で建てられたもので、厳密には江戸期の創建ではありません。1893年の大火では中心部がほぼ全焼するほどの被害を受けた歴史を思うと、この蔵造りには大火後の復興の歴史が刻まれているような気がします。数々の建造物が焼失する中、焼失を免れたのが火災に強い蔵造りの建物でした。焼失を免れた大沢家住宅(国指定重要文化財)大火よりはるか前の1792年に創建されたもので、蔵造りとしては川越で最古のものだそうです。この火災で蔵造りの耐火性が実証され、各地からの支援などによって復興された町並みが、現在も残る蔵造りの町並みです。このどっしりとした重厚な町並みが続きます。ボンネットバスは昭和期のものでしょうか。蔵造り資料館蔵造り資料館の先で蔵造り通りを外れ、旧多賀町界隈へと入ってみました。旧多賀町にある「時の鐘」こちらも大火の後に再建されたものです。寺院か神社かは忘れましたが、境内入口の門にもなっており、珍しい鐘楼門形式となっていました。仲町の交差点からは、蔵造り通りに並走する「大正夢浪漫通り」を行ってみました。個人的にはこちらのネーミングに魅かれたのですが、ジャポニズムとモダニズムが融合した町並みは、何ともノスタルジックないい雰囲気を醸し出していました。江戸時代ももちろんですが、大正~昭和初期にかけての豪華絢爛な建物はとてもお気に入りです。(実はその良さに気付かされたのは台北赴任時代のことで、私としては少し寂しい気もありました)それでも江戸~明治~大正の町並みを一歩外れると、昭和の雰囲気が残っていました。「まんじゅう」ではなく、「まんぢゅう」というのが気に入りました。(「大名古屋ビルヂング」みたいに、昭和を感じます)
2013/01/09
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交差点ではよく耳にする「通りゃんせ」、この歌詞にある「天神様の細道」とは、三芳野神社の参道だとされています。三芳野神社境内にある「わらべ唄発祥の所」の碑いくらなんでも「わらべ唄発祥」とは大風呂敷だと思っていたら、横に小さく「ここはどこの細道ぢゃ 天神さまのほそみちぢゃ」と書かれていました。つまりは「通りゃんせ」のわらべ唄発祥ということのようです。三芳野神社は河越城本丸のすぐ隣にあり、三芳野神社の創建は平安時代初期の大同年間(806年~810年)と言いますから、河越城築城の600年以上前からここにあることになります。三芳野神社の主祭神はスサノオノミコトとクシイナダヒメノミコトだそうで、神社の名前にも「天満宮」や「天神」の名前はありませんが、菅原道真もここに祀られています。太田道灌が河越城を築城するにあたって、三芳野神社を河越城の鎮守としました。そしてここに「天神曲輪」を造ったことからも、古くは「天神様」であったことがうかがえます。江戸時代に入った1624年に川越城主であった酒井忠勝によって社殿が再興され、1656年に同じく川越城主であった松平信綱(知恵伊豆)によって改修されました。現在の社殿は松平信綱の時のもののようですが、松平信綱が奉納した「三芳野天神縁起絵巻」にもあるように、ここでも「天神」の名前が出てきます。川越城の本丸のすぐ隣にある三芳野神社ですが、江戸時代には日時を指定して一般の参拝も認められていたようです。それでも江戸防衛の要衝である川越城の、しかも本丸のすぐそばにあっては、参拝客も厳しく取り締まられました。そこから「行きはよいよい 帰りはこわい」の唄ともなったようです。その「天神様の細道」、三芳野神社の参道
2013/01/08
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江戸の大手が小田原ならば、搦め手は川越と言われたほど、江戸防衛の重要拠点とされていたのが川越でした。関東の戦国時代においてもその重要性は同じで、利根川を挟んで勢力がほぼ二分する中、利根川より東の防衛ラインを担っていたのが河越城でした。現在の川越の町並みには江戸時代の風情が残っているものの、城郭の方は江戸時代の遺構さえもほとんど残っていませんでした。川越市役所前にある大手門跡の碑江戸時代の近世城郭すらも市街地に変わってしまった現在、ましてや戦国時代の河越城となると、想像するしかないような感じです。それでも川越市役所前にある像に、かつての「河越」とその栄光を見たように思いました。やっぱりこの人、我らが太田道灌です。徳川家康以前の江戸城を築城したことで知られる太田道灌ですが、その太田道灌が江戸城とほぼ同時期に築城したのが河越城でした。むしろ河越城の築城の方が先で、太田道灌としては河越城の防衛強化のために江戸城を築いたとも考えられます。かつての河越城の縄張り図太田道灌の中世城郭ではなく、江戸時代の近世城郭の縄張りです。「蔵造り通り」や「大正浪漫通り」にかつての町並みが残る中、河越城の方は「何か残っていればラッキー」くらいの感じでした。その河越城の遺構として、二ノ丸虎口付近の「中ノ門堀」の跡が残っていました。幾重にも巡らされた堀の中で、唯一残るのがこの堀跡です。河越城には「七不思議」があるようで、その1つが「霧吹きの井戸」です。現在は市立美術館の敷地となった二ノ丸跡に、その井戸がありました。普段は蓋をしてあるのですが、いざ敵が攻めてきた時に井戸の蓋を開けると、中から霧が立ちこめて城を隠してしまったとされるのが、この霧吹きの井戸です。この出来事から、河越城は別名「霧隠城」とも呼ばれています。本丸は市立美術館から道を挟んだ隣の敷地にあり、かつての虎口跡には碑が建っていました。本丸本丸には本丸御殿が現存しており、河越城では唯一の現存建築物です。江戸時代末期の1848年に建てられた御殿です。本丸御殿の隣は三芳野神社の敷地となっていますが、かつての天神曲輪があった場所です。境内の盛土が土塁跡に見えて仕方がなかったのですが、神社の盛土にしては不自然な感じで、かつての枡形の跡のようにも思えました。河越城は太田道灌の命名によって「初雁城」とも呼ばれていましたが、これも川越城七不思議の1つ、三芳野神社の「初雁の杉」に由来しています。太田道灌の時代、毎年初雁が三芳野神社にやってきて、毎年境内の杉の木の上で3周して3度鳴いて飛び去っていたそうです。現在も本丸の隣にある三芳野神社境内には、その初雁の杉の碑が建っています。戦国時代城郭の名残でもありますが、現在の初雁の杉は三代目とのことです。太田道灌が河越城を築城したは1457年のことで、まだ小田原北条氏が関東に進出するよりずっと前の話でした。当時は鎌倉公方足利氏VS関東管領上杉氏の対立に端を発して、さらには上杉氏も山内上杉氏と扇谷上杉氏が対立したりと、まさに三つ巴の混沌とした状況でした。扇谷上杉氏の家宰であったのが太田道灌で、後に古河公方を名乗る足利成氏への備えとして築いたのが河越城と江戸城でした。 そんな古河公方足利氏、山内上杉氏、扇谷上杉氏の三つ巴の争いの中、太田道灌亡き後で関東に進出してきたのが、小田原を本拠地とする北条氏でした。1525年には北条氏綱が川越城を奪取し、娘婿の「地黄八幡」北条綱成が入城しました。そして1546年の「河越夜戦」によって、北条氏康が歴史的な大勝利を収めています。 しかしながら1590年の豊臣秀吉による小田原城で川越城も落城し、以後は関東に移封されてきた徳川氏の拠点となりました。 北条氏が滅亡した後に徳川家康が関東に入封してきましたが、この時江戸城の他に本拠地の候補を挙げるとすれば、川越城や岩槻城があったのではないでしょうか。 (当時は城郭の大きさでは、大差はなかったと思います) 何らかの理由で江戸城が本拠とならなかったら、川越が日本の首都になっていた可能性は十分にあったと思います。(財)日本城郭協会「日本100名城」関東7名城
2013/01/07
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戦国時代の関東の勢力図を、まさに一晩であっさり塗り替えてしまった場所が川越でした。桶狭間の戦い・厳島の戦いと並んで「三大奇襲戦」に数えられるのが「河越夜戦」、北条氏康が10倍もの敵を相手に、乾坤一擲の大勝利を収めた舞台でもあります。現在は「小江戸」として江戸時代の町並みが残る川越にあっては、戦国時代のそんな面影は残っておらず、遠い過去のような気もしてきます。それでも蔵造り通りを北へ300mほど行った場所にある東明寺には、戦国時代の河越夜戦を伝える碑がひっそりと建っていました。東明寺口は激戦地の1つだったようです。東明寺戦国時代真っ最中の1546年、(扇谷)上杉朝定・(山内)上杉憲政・(古河公方)足利晴氏は、関東中の諸将を集めて大連合軍を結成、約8万の大軍で河越城を包囲しました。一方河越城の守将は「地黄八幡」の北条綱成でしたが、さすがの北条綱成でも城兵3千人では河越城陥落も目に見えている状況です。小田原の北条氏康は今川義元との戦いの最中でしたが、北条氏康は今川義元に駿河の一部領土を明け渡して和平し、河越城の救援に兵力を集中することを決断しました。それでもその兵力は約8千と、10倍の連合軍相手では多勢に無勢といったところです。河越に到着した北条氏康は、古河公方足利晴氏に対し「城を引き渡すから、城兵の命は保証して欲しい」と、降伏ともとれる申し入れを行いました。さらに北条氏康軍と(山内)上杉憲政軍の間で戦闘が始まると、北条軍はすぐに逃げるように退却して行きました。これは北条氏康の心理作戦だったのですが、連合軍は「北条氏康が戦意を失っている」と思い込み、圧倒的に優勢である安心感もあって、夜になると軍装を解いてすっかりくつろいでいました。その様子を見た北条氏康は、8千の兵を4隊に分け、その4隊が代わる代わる攻め込む戦法で、(山内)上杉憲政の本陣に夜陰に紛れて急襲を仕掛けました。さらにはそれを合図に河越城からも北条綱成軍が討って出て、(扇谷)上杉朝定と(古河公方)足利晴氏の本陣に襲い掛かりました。不意を突かれた連合軍は大混乱に陥った上に次々と敗走し、この戦いで(扇谷)上杉朝定は討死、(山内)上杉憲政も平井城へと逃げ帰っています。この「河越夜戦」は、北条氏康の作戦が光った戦いでもありました。駿河の今川義元に領土を明け渡してまで和睦し、すぐに河越城救援に向うあたりは並々ならぬ才知を感じます。そんな急な出撃にも関わらず、北条氏康は細かなルールを指示して周知徹底させていました。1.夜襲を想定して、識別ができるように全員に白い羽織を着用させた。2.敵味方の識別のため、合言葉を決めていた3.動きやすいように、旗指物や鎧などの重装備を禁じた。4.「敵を討ち取っても、首級はとるな」と厳命した。特に4番目は当時としては常識外れの指示だと思われます。恩賞のためには討ち取った敵の首級を持ち歩く必要があったのですが、北条氏康は戦いの邪魔になるので、それすらも禁じていました。さらには急襲に成功しても深追いはせず、早めに引き揚げ命令を出して、敵の反撃に備える念の入れようです。やはり一番的中したのは戦意を喪失していると見せかけた心理作戦で、北条氏康は最初から連合軍を油断させて急襲するつもりだったのかも知れません。連合軍はこの心理戦に見事に引っ掛かったことになりますが、連合軍にとっては「やはり油断は大敵でござった」などでは済まされないほどの大敗北でした。ところで江戸時代になって書かれた「南総里見八犬伝」では、最後に八犬士が集結して里見氏と共に関東大連合軍と戦う「関東大戦」のシーンがあります。作者の曲亭馬琴がモデルにしたのは、明らかにこの河越夜戦だと思われます。戦国合戦「超ビジュアル」地図戦国合戦「超ビジュアル」地図名城と合戦の日本史小和田哲男著名城と合戦の日本史
2013/01/06
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神橋を渡り、目の前の斜面を登っていくと東照宮があるはずなのですが、実は東照宮の場所がよくわかっていませんでした。輪王寺の前で悩んでいると、同じように悩んでいる人がおり、どちらからともなく声を掛けて、「旅は道連れ」と行動を共にすることにしました。聞けば函館から福岡に向かうところで、途中で日光に立ち寄ったとのことです。お互いに身の上話をしながらも、私が雪国に住んだ経験がないことは見抜いていたらしく、「歩き方が見ていて危なっかしいです(笑)」と。(思えばこれまで住んだ場所と言えば、広島・山口・奈良・京都・千葉・東京そして台湾と、積雪とは縁のないところばかりでした)それでもいざ東照宮に入ってくるとお互いに口数が少なくなったは言うまでもなく、この意匠には圧倒されっぱなしでした。五重塔神庫ここでは重文クラスが当たり前です。神庫「見ざる 言わざる 聞かざる」の三猿輪蔵そして陽明門隅々に到るまで意匠を感じることができ、中世日本の建築技術の集大成でしょうか。拝殿作事奉行は藤堂高虎で、加藤清正と並ぶ築城の名手でもありますが、建築普請で小堀遠州の名前が出てこないのは不思議なところです。伝説の彫刻師、左甚五郎作と言われる眠り猫上野の東照宮にある「昇り竜 降り龍」も左甚五郎作と言われています。「鳴き竜」の本地蔵内部は撮影も録音も禁止でしたが、確かに龍のところでは鳴いていました。「こんなところまで・・・」と、パラノイアとも思われるほどの凝りようには感心するばかりでした。そしてかつての徳川将軍も参拝した奥宮へと入って行きました。奥宮拝殿将軍以外の昇殿は許されなかったそうで、現在も入ることができません。その拝殿の奥にあるのが、徳川家康の墓所である宝塔です。徳川家康の死後、静岡にある久能山東照宮に埋葬された後、遺言により江戸の鎮守として日光に埋葬されたと聞きます。1つ疑問に思うのは、あの希代の吝嗇家(すなわち希代のドケチ)が、これほどのものを望んでいたかどうか。(豊臣秀吉亡き後の天下が議論になった時、徳川家康に否定的な意見の持ち主は、唯一「ケチでなこと」を理由にしたくらいです)いずれにしても豪華絢爛な社殿から、天下統一後の徳川幕府の権威をまざまざと見せつけられたのが東照宮でした。思えば戦国時代の関東の覇者北条氏が滅亡した後、関東に入封してきた徳川家康が本拠地にしたのは小田原でも鎌倉でもなく、さらには川越でも岩槻でもなく、一漁村に過ぎなかった江戸でした。その江戸に幕府が開かれ、明治に入って東京となり、さらには平成のトウキョウを迎えた現在、その遺言どおりになっているのかも知れません。
2013/01/05
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日光街道宇都宮宿の先には徳次郎宿があり、「宇都宮市徳次郎町」の地名もさることながら、「徳次郎って誰よ?」というのが気がかりでした。その徳次郎宿や徳次郎町の地名の由来となったのが徳次郎城で、日光街道から300mほどのところにありました。徳次郎城遠景ここが徳次郎城虎口でしょうか名前からして名主の屋敷跡かと、てっきり単郭の居館跡を想像していたのですが、実は曲輪を複数備えた立派な戦国城郭でした。二ノ丸の空堀跡二ノ丸の曲輪跡さらに驚いたことに、ほぼ完璧な状態で遺構が残っていました本丸空堀跡保存もさることながら、復元をされた痕跡もなく、ここまで残ってきたのが不思議なくらいでした。本丸空堀跡本丸土塁相当な規模のある城郭で、「徳次郎城」の名前と目の前にある遺構がなかなか一致せず、そのギャップが激しすぎるほどでした。本丸跡果たしてここに徳次郎さんが住んでいたのでしょうか。これまで数多くの城跡を見てきた中で、保存・復元もなく遺構がここまで残っているのは稀なケースだと思います。ところで城跡を訪れる中でこれも稀にあることですが、何だか空気が重たいというか、「あまり歓迎されていないな~」といった雰囲気がありました。霊感が強いとかオカルト的な話ではないものの、激しい籠城戦を繰り広げた城跡でもこんな空気を感じたことはあまりないので、ましてや戦火に見舞われたことのない城跡では不思議な感じがします。徳次郎城は戦国時代に築かれたもので、北条氏と組んで敵対する日光の僧兵に対するために築城されました。築城主が新田徳次郎昌言で、その通称である徳次郎が城の名前となり、さらには宿場町や地名となって現在にいたっています。中世武士の慣わしから言えば、「源平藤橘」を朝廷から賜る姓とし、土着する地名を苗字(名字)とするのが通例です。例えば源義国が足利に土着して足利氏を名乗ったり、藤原宗円が宇都宮氏を名乗ったりと。本来ならば徳次郎城も元々の地名を氏とし、それが城の名前となるのでしょうが、通称が城の名前となり、現在でも地名となったレアなケースだと思います。
2013/01/04
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東武日光駅を過ぎたあたりから、沿道には様々なお店が並ぶようになり、東照宮の門前町へと入って行きました。江戸日本橋から数えて日光街道二十一次の21番目の宿場町、東照宮の門前町でもあった鉢石宿です。日光物産商会店舗国の登録有形文化財だそうです。宿場町の先には沿道の両側に2人の銅像が建っており、1人はあの怪僧天海でした。(どうも気に入らないので写真には撮っていません)そしてもう1人はこちら板垣退助です。戊辰戦争では新政府軍の東山道方面の参謀として、大鳥圭介や土方歳三率いる旧幕府軍と交戦していました。板垣退助の説得により、日光の社寺は戦火から免れたとのことです。天下泰平の始まりと終わりの表舞台にいた2人が並んでいるのも、奇妙な感動を覚えます。その板垣退助が救った日光の社寺は、すぐ目の前にありました。いよいよここが日光街道の終点です。くす玉を割るとかハトが飛ぶとかそういうこともなく、他の参拝客に混じって足早に通り過ぎて行きました。(じっとしていると寒いので)その先には、錦帯橋・猿橋と共に、「三大奇橋」に数えられる神橋がありました。何事にも「三大なんとか」がありますが、どの分野でも3番目をどれにするかでもめるのが常です。三大奇橋については錦帯橋・猿橋が当確として、3番目には徳島のかずら橋とも富山の愛本刎橋とも言われているようです。日光を目指して街道の終点まで来たわけですが、「日光街道の終点まで来た」という達成感もありながら、「もうこの先に日光街道はないんだ」という寂しさもあります。山に登っている時もそうなのですが、頂上を踏みしめた時には達成感と同時に、目指す頂上がなくなってしまった寂しさがあったりもします。そんなこんなで様々な思いの交錯する日光ですが、日光に入った時からある人の消息が気になっていました。もし会うことができれば、実に約15年ぶりの再会となるのですが、雪に阻まれて再会を果たせませんでした。15年前に初めて会った時は、思わず飛びついてしまった、あの「ニャンまげ」は健在なのでしょうか。日光街道二十一次 ~完~
2013/01/03
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大沢宿を過ぎた頃から路肩に雪が残るようになり、日光方面から来る車が大量の雪を乗せているのが気になるようになりました。「この先はどういう状態なのだろう?」と思いつつも、杉並木を通って今市宿へと入ってきました。そう言えば、山陽道(西国街道)にも今市宿があり、こちらは山口県の周南市と岩国市の市境付近にあります。「名は体を表す」とは言いませんが、中山峠を越えることもあって、あまりとらえどころのない宿場町だったのを覚えています。日光街道の今市宿の方は交通の要衝にあって、会津若松へと続く会津西街道や、大田原へ延びる日光北街道の分岐点となっていました。同時に中仙道倉賀野宿から来る日光例幣使街道や、途中で分流していた日光西街道との合流点でもあります。今市宿で合流する日光例幣使街道現在の国道121号線が踏襲しており、日光街道と同じく杉並木が残っています。日光例幣使街道との合流点にある追分不動尊「暴れん坊将軍」の第8代徳川吉宗も、日光社参の途中で参拝したそうです。追分から先の旧日光街道今市市は合併によって日光市となっていますが、旧今市市の市街地がそのまま今市宿の中心部だと思われます。本陣や脇本陣のあったかつての宿場の中心部に、銀行や信金の支店が置かれているケースはよく見られます。今市宿の本陣の場所はわかりませんでしたが、本陣跡が公共広場になっていることもよくある話で、信金の先に「今市宿 市縁ひろば」という場所がありました。その広場の傍らにひっそりと建っていたのが、「明治天皇御小休之地」の碑です。「御滞在」ではなく「御小休」というのが控えめで気に入ったのですが、少なくとも本陣か脇本陣があったことと思われます。JR日光線今市駅から日光街道までの間は、平成の新しい町並みでしたが、旧日光街道の沿道にはかつての昭和の雰囲気がよく残っていました。日光への先を急ぎつつも、ふと足を止めてみたいと思えるような、そんな今市の宿場町でした。
2013/01/02
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