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関東ふれあいの道「富士見のみち」でもある笹尾根の稜線を行き、茅丸のピークを過ぎると、いよいよ生藤山の山頂と巻き道の分岐点に来ました。もちろんここはトラバースせずに、生藤山のピークを登って行きました。生藤山手前の稜線は意外とゴツゴツしていて、岩が露出したピークなどもありました。にせピークをいくつか越えると、生藤山山頂の山頂です。生藤山(標高990m)お彼岸とは言え、山頂には夏の景色が残っていて、眺望の季節もまだまだ先のようです。冬の澄んだ季節などは、富士山も見えることと思います。早々に生藤山を後にして、三国山の方へと下りて行きました。三国峠武蔵国・相模国・甲斐国の国境にあることからこの名前があり、現在も東京・神奈川・山梨の都県境となっています。三国峠からの眺望三国峠から先は神奈川県側に降りて、今回スタート地点である和田に戻るルートもあるのですが、せっかくなので山梨県側に降りて、軍荼利(ぐんだり)神社へ立ち寄ってみることにしました。再び樹林帯の中を降下していると、途中でふと沢に出会って、その沢を横切って行きました。どこの山でも、沢のせせらぎは心地よいものです。やがて木々の間に社殿が見えてきて、軍荼利神社奥ノ院にたどり着きました山から降りて来る時は、いつも順序が逆になって、表参道や一の鳥居ではなく、奥ノ院から参詣することになります。軍荼利神社本殿本殿横に立つ剣が見事です。軍荼利神社の祭神は、軍荼利明王ではなく、日本武尊(ヤマトタケルノミコト)で、1,049年の創建とされています。軍神として崇められ、岩殿城の小山田氏が厚く崇敬した他、武田信玄も自画を奉納したそうです。軍荼利神社の境内をたどりながら、さらに沢伝いに下りて行くと、軍荼利神社の入口にある井戸集落までやってきました。夏山の景色の中にも、秋の気配を感じます。
2013/09/30
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「山高きが故に貴からず」とは言いますが、この表現がよく似合うのが生藤山でしょうか。三頭山から高尾山まで続く笹尾根のほぼ中央部にあって、標高990mと高くはないものの、武蔵・相模・甲斐の三国境の要衝に立つ山です。今回はJR中央本線を藤野駅で降り、さらに藤野駅でバスに乗り換えて、笹尾根南側にある和田から生藤山を目指すことにしました。和田峠へと続く車道(しばらくは車道沿いを行くことになります)正面に見えているのは、同じ笹尾根上にある醍醐丸のピークでしょうか。途中で左折して林道に入り、生藤山・三国山への最短ルートで尾根に取り付くことにしました。林道が終わったところで山道となり、沢に沿って樹林帯の中を登ることとなります。さらに沢からも分岐して、笹尾根南側の急な斜面を登って行きました。この先に目指す笹尾根は、南北から向きを変えて東西に延びており、その東西に延びる尾根の南側を直登する感じです。月見草(?)この日はお彼岸、アキアカネ(赤とんぼ)がやって来ました。九十九折の斜面を登っていると、どうやらスズメバチの通り道を行き来しているようで、スイッチバックをする度にスズメバチに出会うようになりました。あの「カチ、カチ」という威嚇音が聞こえなかったので、巣は遠いように思われたものの、かなり攻撃的に向かって来ました。スズメバチは天敵がクマということもあり、動く黒いものを攻撃する習性があります。この日は黒のザックを背負っていたこともあって、かなり執拗に追い回されました。すでに夏山シーズンは終わりましたが、夏山でスズメバチに出会った時、つい追い払ったりしてしまいたくなるものです。実はこれが逆効果で、特に攻撃意図もないスズメバチも、攻撃されたと思って反撃に出ることがあります。こんな時は、静かに後ずさりしながら、スズメバチのテリトリーから離れるのが一番だと思います。さらにこの日はスズメバチが8の字に飛ぶのを初めて見たのですが、来年に向けて新しい巣作りの場所を探しながら、仲間に合図していたのかも知れません。スズメバチが去るまでの間、立ち休みがてら遠くに目を向けると、陣場高原と思われる尾根が見えていました。陣馬山には随分と前に登ったことがあって、山頂には京王電鉄が建てた馬の像があります。やがて樹林帯の間に尾根線が見えるようになり、ようやくの思いで笹尾根に取り付きました。おなじみの指導標ながら、この尾根上のルートは関東ふれあいの道「富士見のみち」でもあります。尾根に取り付いても、相変わらずの樹林帯で眺望はありませんが、アップダウンもなくて快適な尾根歩きでした。ちょうど東京都と神奈川県の都県境で、左側が神奈川県(相模原市緑区)、右側が東京都(檜原村)となります。さすがに関東ふれあいの道は整備されていて、ピークには巻き道もついていたのですが、せっかくなのでトラバースせずに、それぞれのピークを辿って行きました。そのピークの1つ、連行山(標高1,016m)茅丸(標高1,019m)この茅丸が今回のコースの最高点となりますが、やはり「山高きが故に貴からず」、この先の生藤山を目指して、それぞれのピークはスルーして行きました。
2013/09/29
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「芝大門」の地名の由来にもなっているのが増上寺の大門です。増上寺の総門であり、現在の門は昭和になって建てられたものです。大門を通って表参道を行くと、目の前に三解脱門が見えてきました。1611年に徳川家康の助成によって建立され、現在の門は1622年に再建されたものです。空襲によって増上寺の建造物がほとんど焼失する中、江戸時代初期から残る貴重な遺構だと思います。大殿(本堂)空襲で焼失したものを、昭和49年に再建したものです。この日は徳川将軍墓所の公開日だったので、中に入ってみることにしました。霊廟入口にある「鋳抜門」(現存)2代将軍徳川秀忠をはじめ、6代家宣、7代家継、9代家重、12代家慶、14代家茂の6院の将軍の墓所となっています。他に徳川家の菩提寺としては上野寛永寺がありますが、寛永寺の将軍墓所は公開されていません。台徳院(2代将軍徳川秀忠)と崇源院(江姫)の墓所静寛院(和宮墓所)元々将軍墓所のあった場所には、本堂をはるかに凌ぐ規模の霊屋が建っていたおり、その霊屋の中に宝塔があったようですが、この霊屋も空襲で焼失してしまったそうです。第2代将軍徳川秀忠の宝塔があった南御霊屋の跡にはプリンスパークタワー東京が建ち、6代将軍徳川家宣以降の宝塔があった北御霊屋の跡地は、東京プリンスホテルの敷地となっています。北御霊屋の入口にあった「二天門」が現存しており、御成門駅の横に建っていました。戦災で焼失する前までは、南御霊屋の隣に五重塔も建っており、かなりの大伽藍だったと思われます。現在は歌川広重の名所江戸百景で、当時を偲ぶことができます。歌川広重「名所江戸百景 増上寺塔赤羽根」
2013/09/28
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高崎宿から引き続き中仙道を逆走、倉賀野宿に入ってきました。倉賀野宿の旧中仙道倉賀野宿の街道沿いには倉賀野神社があり、崇神天皇48年の創建と言いますから、紀元前からここに鎮座していることになります。倉賀野神社崇神天皇の皇子である豊城入彦命が、東国平定の時に松の木を植え、亀石を祀ったのが始まりとされ、今もその亀石が御神体だそうです。この由緒からも、祖霊神信仰より古い神社の形をみたような気がしてきました。その倉賀野神社と街道を挟んで反対側には、安楽寺の山門がありました。安楽寺の境内には、高崎市の指定史跡である「異形板碑」があります。梵字や仏像が刻まれた卒塔婆の一種で、「板仏」・「平仏」・「平石塔婆」などとも呼ばれ、鎌倉時代末期から南北朝時代の建立とされています。安楽寺を出て南に向かうと、沿道には旧家が残っていたりして、倉賀野宿の高札場が見えてきました。隣に古い高札が残っていますが、現在は現代語意訳の高札が掲げられていました。内容は一般的なことで、特に倉賀野宿というわけではなさそうです。街道トラベルで逆走も掟破りになるのでしょうか。倉賀野宿には倉賀野氏の倉賀野城があり、倉賀野城を訪れた時に倉賀野宿を散策したことがあります。その時に立ち寄った脇本陣後ろめたさを感じながらも高崎駅から倉賀野駅へ逆走してきました。
2013/09/27
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前橋から再び高崎に戻ってきて、高崎からは中仙道を歩くことにしました。高崎宿は江戸から数えて13番目の宿場町なのですが、中仙道の宿場めぐりは7番目の鴻巣宿で止まっていたので、街道トラベラーにあるまじき5宿の宿場飛ばしをしてしまいました。井伊直政の高崎城の城下町としても栄えた高崎宿は、中仙道でも4番目の規模を誇る宿場町でしたが、意外にも本陣や脇本陣は置かれていませんでした。さすがに井伊直政の城下町とあって、諸大名が宿泊を遠慮したからだとも言われています。その高崎宿の中心地であった「あら町」をスタートして、中仙道を辿ることにしました。あら町交差点向こうに見えているのが高崎市役所、高崎城跡です。あら町の交差点近くには諏訪神社が祀られており、箕輪城から高崎城への城下町移転の時、箕輪城下から勧進されたものだそうです。新町諏訪神社あら町の交差点からは県道134号線が中仙道を踏襲しており、倉賀野方面に向かって県道を南下して行きました。宿場飛ばしに加え、掟破りの逆走です。高崎宿の中仙道は普通の市街地の道路となって、残念ながら旧街道の面影は残っていませんでした。「宿場まんじゅう」の看板に旧街道のノスタルジーを見るような気がします。街道を逆走しているので、東京の行先表示を見ると違和感がありました。街道めぐりの御一行とすれ違いましたが、逆走しているのはこちらの方です。街道沿いに遺構らしきものは残っておらず、結局高崎から倉賀野まで、一駅を歩いただけでした。歌川広重「木曽街道六十九次 高崎」描かれているのは烏川と赤城山でしょうか、当時は優美な光景が広がっていたようです。
2013/09/26
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廃藩置県によって藩庁がそのまま県庁になり、現在も県庁の敷地となっている城跡はいくつかあります。(これまで私の見てきた中では、福島城、駿府城、福井城、山口城がありました)群馬県庁のある前橋城(厩橋城)もそんな城跡の1つで、城跡は現在も群馬県庁の敷地となっています。敷地内に見えるレトロな庁舎は、昭和3年に建てられた昭和庁舎だそうです。そのレトロな昭和庁舎を囲んでいるのが、さらにレトロな前橋城の土塁です。石垣ではなく土塁で囲まれてはいますが、現在も残る前橋城の遺構は、江戸時代に築城された近世城郭のものです。前橋城の縄張り図前橋城は「関東七名城」の1つに数えられていますが、七名城に選定されているのは前橋城の前身である厩橋(まやばし)城、戦国時代の方の城郭だと思います。ところで関東七名城では、前橋(厩橋)城の他に太田城、宇都宮城、唐沢山城、(新田)金山城、忍城、川越城があり、誰が選んだのかはわかりませんが、なぜこの7城なのかいまだに不思議です。北条氏康・武田信玄・上杉謙信が争奪戦を繰り広げ、戦国時代から連綿と続く厩橋城でしたが、江戸時代に入ってから近世城郭へと改修されたため、現在ではその姿を見ることができません。さらにその近世城郭さえも、度重なる利根川の氾濫によって破壊され、江戸時代半ばに姿を消してしまいました。すぐ西側を流れる利根川戦国時代には上杉氏と北条氏が激しい争奪戦を展開した厩橋城も、江戸時代になって酒井氏が建てた三層の天守も、この激しい流れの中に水没したようです。酒井氏の時代の天守復元図現在残っている城郭は、幕末も幕末の1867年に再建されたもので、函館の五稜郭 (1866年完成)よりも新しい築城ということになります。あの五稜郭よりも新しい城郭ながら、県庁敷地の周囲に残る土塁を見る限りでは、なんともクラシカルな印象は否めません。県庁北側の土塁新前橋城の城郭では本丸のあった場所も、旧前橋城の城郭では三の丸に相当するようです。本丸虎口「高浜門」跡わずかに枡形が残っていました。県庁西側の土塁県庁北側の土塁上には、前橋城址の碑が建っていて、ここだけは土塁に上がることができました。土塁上にある「前橋城址之碑」旧前橋藩にゆかりのある人々によって、明治41年(1908年)に建てられたもので、厩橋城から続く前橋城の歴史などが書かれています。(碑文は全部漢字、しかも繁体字で書かれているので意味不明ですが、その隣に口語で書かれた意訳の解説板がありました)前橋は元々厩橋(まやばし)と呼ばれ、東山道の群馬の駅が近かったことに由来しています。厩橋城の始まりは箕輪城の支城であった石倉城にあり、箕輪城主長野氏の一族であった長野方業によって、15世紀に築城されたと言われています。しかしながらその石倉城も利根川の流れによって破壊され、残った三の丸を再建したのが、戦国史に登場する厩橋城でした。1560年に上杉謙信が厩橋城を支配下におさめると、以後は厩橋城が関東奪還の拠点となり、北条高広が城主となって厩橋城の防衛にあたっています。ところでこの北条高広なる人物、北関東の戦国史ではよく見かける名前ですが、紛らわしいことに北条を名乗りながらも上杉謙信の家臣で、小田原の北条氏とは敵対関係にありました。(さらに読み方は「ほうじょう」ではなく、「きたじょう」です)厩橋城をめぐって小田原北条氏VS上杉謙信の攻防戦が続く中、さらに紛らわしいことに北条高広が北条氏に寝返ったため、厩橋城も北条氏の支配下となっていました。(本人もさすがに紛らわしいと思ったのか、この時の北条高広は本来の姓である毛利を名乗っていたようです)1590年の豊臣秀吉による小田原の役では、秀吉軍の浅野長政の攻撃の前に、ついに厩橋城も落城しています。北条氏の後に徳川家康が関東に入封してくると、厩橋城には平岩親吉が入城し、平岩親吉が甲府城に移封になった後は、川越城から酒井重忠が厩橋城に入って、以後9代にわたる酒井氏の藩政が続きました。酒井氏の時代に厩橋城も近世城郭へと改修され、地名も厩橋から前橋となって、三層の天守が建てられていました。しかしながら再び利根川の激流によって城郭の破壊が進み、1767年に川越藩の陣屋扱いとなると、前橋城も廃城となっています。それから100年近く経った1863年に前橋城再築の許可が下り、ようやく悲願の城郭が完成したのが1867年のことでした。しかしながらその半年後に大政奉還が行われて、近世城郭としての前橋城も役割を終えることとなり、前橋城の本丸御殿が前橋県庁へと引き継がれています。関東七名城
2013/09/18
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井伊直政が本拠地を箕輪城から移すべく、烏川の東側に新たに築城したのが高崎城で、現在の高崎市役所などの公共施設が並ぶ一帯に城郭の中心部があったようです。高崎城の縄張り図を見ると、戦国色の強い箕輪城の中世城郭とは大きく違って、近世城郭であることがうかがえます。烏川の流れる西側に本丸と搦め手を配し、中仙道の通る東側に大手を配した縄張りとなっています。井伊直政が高崎城を築城したのは1598年のことで、それまで和田と呼ばれていた地名も、高崎に改称しました。箕輪城から本拠地を移したのは徳川家康の命だったようですが、中仙道と三国街道の交通の要衝であったことから、ここが城地に選定されています。戦闘拠点としての戦国城郭は役割を終え、政治と経済に重点を置いた城郭と城下町が出来たことで、当時の人たちも中世から近世への時代の移り変わりを感じたのでしょうか。その近世城郭としての高崎城の遺構としては、高崎市役所の周囲に一重の水堀と土塁の跡がわずかに残っていました。水堀と土塁の跡石垣は後世になって積まれたものだと思います。入隅の跡高崎市役所庁舎の東側には城址公園があり、公園周囲には土塁が残っていました。城内側から見たところ市役所庁舎南側の土塁道路で分断されていますが、元々の虎口だったのかも知れません。高崎城の本丸は、市役所敷地の北側一帯にあったようですが、現在となっては城郭を比定するのも困難でした。それでも群馬シンフォニーホールや音楽センターの北隣には、高崎城の建造物が移築復元されています。本丸「乾櫓」(内側から見たところ)本丸の四隅には隅櫓が建っていたそうで、乾櫓の名前にある通り、北西の隅櫓です。乾櫓を外側から見たところ高崎城に限ったことではありませんが、隅櫓は城外の方から見るのが最も秀麗かと思います。乾櫓の隣には、本丸「東門」も移築復元されていました。「東門」の名前からすると本丸の大手口にあったことになりますが、くぐり戸がついていることから、通用門として使われていたようです。高崎城のあった場所には、元々和田氏の依る和田城があり、鎌倉時代に和田正信によって築かれたと言われています。1590年の豊臣秀吉による小田原征伐(小田原の役)の時、箕輪城と共に和田城も落城し、和田氏も滅亡しました。徳川家康の関東入封に伴い、井伊直政が12万石で箕輪城に入城しましたが、1598年に和田城のあった場所に新たに築城し、本拠地と城下町を移転しています。箕輪城のある旧箕郷町と高崎市街地には、「連雀町」などの共通の地名が見られたのですが、これも箕輪城から高崎城への移転の名残かも知れません。
2013/09/17
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榛名山からの帰り、せっかくなので箕輪城に立ち寄ってみました。箕輪城を訪れるのは2回目で、前回訪問したのは2007年8月と、実に6年前のことです。前回訪れた時の印象としては、遺構もよく残っていて、何よりもその城郭の規模に圧倒される思いだったのを覚えています。箕輪城搦手口搦手から見た光景は前回と変わっていないものの、幟が立っていたり本丸の土塁が見通せたりと、なんだかすっきりした印象はありました。見覚えのある「日本百名城」の看板日本城郭協会で100名城が選定されたのは2006年、前回2007年に訪問した時はこの看板も新しかったのですが、随分と色あせたように思います。搦め手口から登城道を行くと、帯曲輪を抜けて二の丸の曲輪の前に来ました。二の丸の前にある縄張り図を見ていると、ガイドらしき人がつかつかと寄って来て、箕輪城の説明を始めてくれました。せっかくの機会なので、どうしても気になっていることを聞いてみることにしました。「先日のニュースで箕輪城の門が復元されると聞きましたが、誰の時代のものなのでしょうか」と。ガイドの方からは即答で、「井伊直政です」とのことでした。その後でいくつかやり取りがあった後、二の丸前の縄張り図を指し示しながら説明してくれたのですが、ガイドの方が「曲輪」とか「堀切」とか、日常生活ではまず聞くことのない城郭用語を、普通に使い始めたのが衝撃でした。箕輪城は南北に長い縄張りとなっており、二の丸からは北側にある本丸へと向かって行きました。グーグルアースで見た箕輪城の縄張り二の丸と本丸の間にある空堀長野氏や武田氏時代の城郭を井伊直政(または北条氏)が改修したものでしょうか二の丸の北側、本丸にある城跡碑本丸本丸も井伊直政時代のものだと思われますが、戦国城郭にしてはかなりの規模があります。本丸から西側を見てみると、土塁のはるか下に空堀が見えていました。本丸の北側には、堀切を隔てて一段高くなった削平地があり、御前曲輪と名付けられています。本丸北側の空堀御前曲輪御前曲輪は長野氏の時代の本丸と考えられており、箕輪城が落城した時には、本丸にあった持仏堂に城主以下が籠ったとされています。御前曲輪には井戸が残っており、井戸を発掘したところ、長野氏関連の墓石などが出土したそうです。長野業正の時代、武田信玄の猛攻を何度も防いだ箕輪城でしたが、長野業正亡き後、ついに落城となりました。御前曲輪の北側にも城跡の遺構が広がっており、曲輪には「稲荷曲輪」「通仲曲輪」「新曲輪」などの名前が見られます。御前曲輪北側の空堀「新曲輪」の名前があるように、長野氏の時代から改変されたものだと思われますが、新曲輪には武田流築城術に特有の「丸馬出し」があることから、武田氏の時代に拡張されたのかも知れません新曲輪新曲輪の規模や馬出しの位置から推測すると、武田氏の時代はこの北側に大手口があったと思われます。 (武田信玄が備えるべき北側の敵と言えば、やはり上杉謙信でしょうか)新曲輪から先は藪が多かったこともあり、一旦御前曲輪に戻って、今度は御前曲輪と本丸の西側を戻ることにしました。御前曲輪と本丸西側の空堀が最大となっており、最大幅30mの深さが10mもあります。御前曲輪西側の空堀この空堀は井伊直政の時代のものだと思われますが、御前曲輪西側の土塁には石垣も見られました。空堀は御前曲輪から本丸・二の丸の西側に巡らされており、本丸の西側が特に広くなっていました。本丸西側の空堀本丸西側の土塁本丸西側には橋が架かっていたようで、その橋台の跡も残っていました。井伊直政の時代には、西側が大手だったようです。二の丸西側の堀底道を抜けると、三の丸の曲輪まで来ました。三の丸三の丸から南側も井伊直政によって拡張されたものだと思いますが、「あれ?」と思うところもあったりします。三の丸から見ると、本丸南側の空堀がよく見渡せたのですが、高低差のある空堀が交差していました。このような造りの空堀は、関東の戦国城郭でよく見かけるのですが、北条流のような気がします。二の丸・三の丸の南側は「大堀切」で区切られ、土橋が架けられていました。土橋大堀切不思議だったのは土橋の先にある方形の「郭馬出」で、北側には丸馬出があるのに対し、南側には方形の馬出があることになります。郭馬出長野氏、武田氏と城主が代わった後、箕輪城は北条氏の支配下になっていた時期がありました。郭馬出の周辺だけを見ると、北条氏の影響があるようにも思えます。郭馬出周辺の空堀この空堀が北条流の「畝堀」に見えてしまうのは、やはり考えすぎでしょうか。1590年の小田原の役で北条氏が豊臣秀吉に滅ぼされた後、北条氏の後に関東に入封してきたのが徳川家康で、この時に徳川家臣団の中で最高の12万石で箕輪城に入ってきたのが井伊直政でした。(本多忠勝は大多喜城で10万石、榊原康政が館林城で10万石です)郭馬出の先には広くて平坦な曲輪が広がっており、「木俣」の名前がありました。木俣木俣曲輪を始めとして、南側には平坦な曲輪が連なっていますが、この辺りは井伊直政時代のものだと思われます。12万石の家臣団を抱えるためには、この箕輪城でも手狭だったようで、井伊直政が新たに高崎城を築城して本拠地を移すと、箕輪城も廃城となりました。長野業正から井伊直政の時代までは約40年の歳月があり、築城技術もその間に進歩してきました。箕輪城では、その様々な時代の城郭遺構を目にすることができ、それがよく残っている貴重な城跡だと思います。西上野の要衝にあって、箕輪城をめぐっては激しい争奪戦が展開され、城主もめまぐるしく変わってきました。何よりも実戦をくぐり抜けて来た、名城中の名城だと思います。(財)日本城郭協会「日本100名城」
2013/09/16
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ヤセオネ峠から先、伊香保温泉までの群馬県道33号渋川松井田線は、有名な「秋名の下り」のコースでもあります。ヤセオネ峠バス停頭文字Dの描写がリアルなだけに、どうしても榛名ではなく、つい「秋名」と言ってしまいます。頭文字D 1st Stage Act4「交流戦突入」(後半) VS 高橋啓介RX-7 FD3SAct 5 「決着!ドッグファイト」 VS 高橋啓介RX-7 FD3S実際に伊香保温泉までは車道で7kmの道のりがあり、さすがにこの車道を下るわけには行きませんでした。(歩道もないので、真面目に「溝落し」にはまりそうです)Act 9 「限界バトル!ハチロク VS GT-R」 VS 中里毅 スカイラインR32 GT-RAct 10 「爆裂!5連ヘアピン」 VS 中里毅 スカイラインR32 GT-Rヤセオネ峠のバス停横にある伊香保森林公園からは、「関東ふれあいの道」の「榛名から水沢へのみち」の自然歩道がついており、あの秋名の下りを行かずとも、約3kmの道のりを徒歩でショートカットすることができます。群馬県立伊香保森林公園入口森林公園入口の先で二ツ岳との分岐に差し掛かり、伊香保温泉へと下りて行きました。伊香保温泉へと続く「関東ふれあいの道」ヤセオネ峠から伊香保温泉へ下りる道は、榛名カルデラの北側斜面にあり、火山の名残か所々に崩落した岩が転がっていました。シダが群生しているのも、火山の名残でしょうか。道の脇にある溶岩このルートは傾斜はさほどきつくないものの、地盤が弱いのか、斜面から小さな石が転がってきたり、ところどころに崩落の跡があったりして、通行には注意が必要かと思います。登山道を下りきったところで、川底が茶色く変色した沢が見えて来て、伊香保温泉の最奥部に到着しました。河鹿橋湯元呑湯道標温泉客の道案内のため、明治23年に建てられたもので、「右 榛名山 二ツ嶽 左 湯元 呑湯」の文字があるようです。火山カルデラのすぐ近くに温泉があるのは、当たり前と言えば当たり前ですが、実際に榛名から伊香保まで下りて来ると、改めてそのダイナミズムに触れたような気がします。伊香保の温泉街伊香保神社へ続く石段頭文字Dの中で、藤原拓海と武内樹が湯の花まんじゅうを食べていたのもこの石段です。江戸時代の口留番所(関所)跡江戸時代には身分を問わず多くの湯治客が訪れたため、この番所が置かれたようです。ハワイ王国公使別邸ハワイが独立州だった1898(明治31)年まで、駐日公使ロバート・ウォーカー・アルウィンが別邸として所有していたもので、当時は「アルウィンさんの別荘」と親しみを込めて呼ばれていたそうです。伊香保と言えば竹久夢二や徳富蘆花の名前が挙がって、ゆかりの場所も様々ありますが、今回のゴール地点にしたのはここでした。少しは頭文字Dから離れた方がよさそうです。それでもまだ、ここは「秋名」のゴール地点です。Act 26「新ダウンヒル伝説!」VS 高橋涼介RX-7 FC3Sイニシャルディー(頭文字D) 1-47巻 全巻 ★送料無料★ 【新品新刊全巻セット】【大人買い】☆送料無料☆DVD 頭文字D: 1st Stage (全26話 650分収録 北米版 13)
2013/09/15
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松之沢峠で外輪山の尾根から分岐すると、カルデラの南東側にある湿地帯「ゆうすげ園」の中を通って行きました。ゆうすげ園湿地帯の中に通路が設けられ、たくさんの人が歩いていたのですが、この日榛名山で人を見たのはここが初めてでした。ゆうすげ園では、その名の通り夏になると一面にゆうすげの花が咲くようなのですが、すでにゆうすげの季節は終わっていました。ゆうすげは終わっていたものの、マツムシソウはきれいに咲いていました。マツムシソウゆうすげ園から見た榛名富士カルデラの北東側に目を向けると、これまでは見えなかった相馬山の山容も見えていました。箱根外輪山の金時山みたいないびつな山容ですが、相馬山も金時山と同じ寄生火山だそうです。ゆうすげ園を一周した後は再び外輪山へと足を進め、磨墨(するす)峠へと向かって行きました。途中にある磨墨岩には「行人洞」と書かれた溶岩洞があり、中には石像がいくつか置かれていました。壁面には仏像画もありました。磨墨峠から見た磨墨岩磨墨峠から外輪山を伝い、相馬山を往復してヤセオネ峠に向かう予定にしていたのですが、この先はガスって視界が悪いため、磨墨峠で再び外輪山から外れることにしました。榛名湖沿いの車道を通ってヤセオネ峠に向っていたところ、通る車のタイヤの摩擦音が変な音を出していました。よく聞いてみると音楽になっており、すなわち「♪静かな湖畔の森の陰から・・・♪」のあのメロディーがタイヤの摩擦音で聞こえていました。群馬県道33号渋川松井田線の榛名湖畔のルートには「榛名湖メロディーライン」の名前があり、時速50km以下で走るとメロディーが鳴るようになっているようです。その県道33号渋川松井田線を伊香保方面に歩いていくと、ヤセオネ峠で外輪山の登山道と合流しました。ヤセオネ峠登山口県道33号渋川松井田線は、榛名湖から伊香保温泉へと続いて行きます。そしてこの先は、おなじみの「秋名の下り」です。
2013/09/14
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阿蘇や箱根に比べればはるかに規模は小さいものの、中央火口丘の榛名富士とカルデラ湖の榛名湖を有するのが、榛名山のカルデラです。その榛名カルデラの外輪山を縦走してみようと、高崎駅からバスに乗って榛名湖に向かいました。高崎での天候はまずまずだったのですが、榛名山に近づいてみると、外輪山は遠目に見てもガスっているのがわかるほどでした。今回はカルデラの南西側、榛名湖に近い天神峠から外輪山に取り付くことにしていたのですが、やはり濃霧で視界は良くありませんでした。天神峠天神峠から先、七曲峠まではエスケープルートがないこともあって、「とりあえず行けるところまで行ってみる」という選択肢はなく、ここで行くか戻るかを決める必要があります。この日の予報で「天候はこれ以上悪化しないだろう」とか、「陽が高くなれば霧も少しは晴れるだろう」と、全く楽観的な根拠ではありましたが、ここは「ゴー」としました。旧天神峠より移築された石灯籠(1815年製)榛名神社からの外輪山は「関東ふれあいの道」にもなっており、関東圏ではおなじみの指導標が建っています。「関東ふれあいの道」の「榛名山へのみち」です。「榛名湖の眺望を楽しみながら外輪山の稜線をたどり」の案内文が虚しく思われます。歩き始めの15分~30分はいつもペースが安定しないのですが、榛名外輪山では最初から急勾配になっていて、視界もない中ではかなり辛いものがあります。急勾配を登りきったところで、まずは氷室山のピークにたどり着きました。氷室山(標高1235m)霧がなくても、この樹林帯に囲まれていては、おそらく眺望はないかも知れません。氷室山からは再び急斜面を下ったかと思うと、急な登りになったりしました。クマザサに覆われた稜線の風景は、箱根の外輪山によく似ています。火山の噴火で造られたカルデラという意味では、箱根も榛名も植生は同じなのかも知れませんが、榛名では箱根と違ってカルデラの南側の標高が高くなっています。再びピークを登った後、今回のコースの最高点である天目山のピークにとりつきました。天目山山頂(標高1303m)ガスっていなければ、天目山の眼下には榛名湖が見えたのかも知れません。視界のない静かな天目山を後にすると、これまでの登りが惜しまれるほどの急な下りが続いて行きました。カシワの樹林帯の中を延々と下っていくと車道にぶつかり、七曲峠にやってきました。七曲峠高度も下がると霧も晴れてきました。七曲峠の先の松之沢峠では、外輪山から榛名湖へ下りる分岐点があります。ここは外輪山の尾根を直進せずに、一旦外輪山を下りることにしました。尾根上を直進すれば磨墨峠に向かうのですが、左側の樹林帯の中ある榛名湖方面への分岐道を下りて行きました。分岐を下りてゆうすげ園の方に向かっていくと、ようやく榛名富士の山容が見えてきました。榛名富士つい「秋名富士」と言ってしまいそうになるのは、頭文字Dの見過ぎでしょうか。
2013/09/13
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仙丈ヶ岳山頂はガスに覆われていて視界はほとんどなかったものの、時折パッと視界が開けることがあって、ほんの一瞬だけ夏の青空や周囲の山並みを望むことができました。何よりも風が台風並みに強くて、じっとしていると寒くなってきたので、早々と山頂を後にして、再び北沢峠へ戻ることにしました。北沢峠までの累積標高差は約1,200m、行きも帰りも同じなのですが、思った以上に道がガレていたこともあって、この標高差の降下には少し不安があります。そこで帰り道は藪沢を経由せず、仙丈尾根の来た道を戻ることにしました。仙丈尾根を下る途中に仙丈小屋方面への分岐があるのですが、この分岐まで来たところでやっぱり気が変わって、「せっかく来たんだから」と藪沢を経由するルートで戻ることにしました。仙丈尾根から仙丈小屋方面への分岐仙丈尾根を長野県側へ下り、仙丈ヶ岳直下の斜面を巻くと、風力発電の風車が並ぶ仙丈小屋が見えてきました。仙丈小屋からは藪沢カールの直下を行き、藪沢へと下りて行きます。「北北東に進路をとれ」振り返ると藪沢カールの向こうに仙丈ヶ岳が見えるはず、だったのですが、「南アルプスの女王」は雲の中でした。それでも「南アルプスの貴公子」、甲斐駒は正面に見えてくるようになりました。甲府盆地も遠くに眺められるようになり、着実に高度を下げているのがわかります。ナナカマドとハイマツの群生地を降下中。「深く静かに潜航せよ」仙丈ヶ岳では森林限界の高度が高いような気がしたのですが、それだけに草木も豊富なのかも知れません。森林限界もはっきりしているように思います。藪沢に沿って行くルートには高山植物が豊富だと、ガイドブックなどでは紹介されています。また、仙丈ヶ岳で暮らす生き物には、ツキノワグマ、ニホンジカ、ニホンカモシカ、ライチョウ、ハトガラスなどがいるのですが、ハトガラス以外はお目にかかれませんでした。その高山植物を野生のニホンジカから保護するため、ところどころに防護ネットが張られていました。ウサギキク(?)後で図鑑で調べてみたのですが、今一つよくわかりませんでした。防護ネットの向こうには群生しています。花の色も種類も様々だったのですが、名前がよくわかりませんでした。後でこの花の名前を調べてみると、「じぇじぇ、トリカブト」やがて藪沢のせせらぎが聞こえるようになり、馬の背ヒュッテに到着しました。馬の背ヒュッテからは、仙丈尾根5合目の大滝の頭にトラバースする分岐があるのですが、そのまま藪沢沿いを行くことにしました。藪沢上流部まさに南アルプス天然水です。仙丈尾根の長野県側を流れる藪沢の水は、戸台川、黒川、三峰川へと合流しながら、最後は天竜川となって遠州灘の太平洋へと流れて行きます。その藪沢左岸に道があり、ガレ場の続く道を延々と降下していきました。7月上旬までは雪渓があるようです。途中にある滝仙丈小屋からここまで1時間の道のりでしたが、ようやく半分くらい来たところです。滝の先で藪沢の右岸に渡り、藪沢のせせらぎを遠く下の方に聞くようになると、樹林帯の急斜面を下って行きました。振り返ってみるとこの最後の樹林帯が最もつらくて、奥多摩や奥武蔵を歩いているのと全く変わりませんでした。(標高は2,000mを超えているとは言え、暑い上に眺望もなく、何よりもモチベーションがだだ下がりです)仙丈小屋から約2時間、ようやくの思いで南アルプス林道の太平山荘に到着しました。サッポロビールの★マークがしびれますが、この高度で飲んだら、ひっくり返ってしまいそうです。普段から「生はサッポロの黒ラベルに限る」と豪語する黒ラベル好きですが、ここではトリカブト以上に猛毒なので、なるべく看板に近寄らないようにしていました。ところで北沢峠から広河原へ向かうバスは午後に2便あって、13:30と16:30があります。(時期・曜日によって異なります)13:30のバスに何とか間に合いそうだったので、南アルプス林道を駆け抜けるようにして、北沢峠に向って行きました。朝の7:10に出発して、再び北沢峠に戻って来たのは13:25、6時間15分の山行でした。北沢峠から広河原へ、さらにバスを乗り継いで甲府に着いた時は疲れ果てていて、南アルプスの余韻に浸る間もありませんでした。「小作」甲府駅北口店もはや「花よりほうとう」、「山よりビール」といった感じです。
2013/09/03
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「健康登山」という言葉をよく耳にしますが、言われてみれば確かにそうかも知れません。思えばこれまで登ってきた山では、明らかに不健康そうな人を見たことがありませんでした。体を動かすという意味では他のスポーツと変わりはないのでしょうが、しばし自然と共に過ごすことは、心の健康にもつながっているように思います。(「森林セラピー」と言われるように、これは科学的にも立証されているようです)話は戻って南アルプス、これまでとは違って小仙丈ヶ岳から先はどう見ても天候が悪そうでした。その意味では時間の許す限り小仙丈ヶ岳に留まって、そこからの眺望を存分に楽しみながら、高山に暮らす生き物たちや植物と時間を共にするのが「健康登山」で、ある意味勇気ある登山だったかも知れません。そんな健康登山とはほど遠く、ただ「頂上を極めたい」という欲のかたまりになっていたのが、小仙丈尾根にいた私です。その小仙丈ヶ岳を越えてみると、目の前には小仙丈カールが広がっていました。遠近感がないので、まるでジオラマを見ているようです。それもつかの間、すぐにガスってしまいました。ガスで見えなかったのですが、山頂までにはいくつかピークがあるようで、ガスが切れると岩場が見えてきました。岩場を見ると思い出すのが探検部時代、鍾乳洞で叩き込まれた経験は今も忘れておらす、ここを巻かずになぜか岩を登っていました。「パブロフの犬」とか条件反射とは言いますが、ラジオ体操の音楽が鳴ると体が動くみたいに、20年経っても体は三点支持で登っていました。(ヘッドライトの光ではなく、自然光があるのが何よりです)ピークを越えてみると、ようやく山頂付近が見えたのですが、やっぱりガスの中です。おそらく近隣の南アの山から見ると、「仙丈ケ岳は雲に隠れてだめだな~」などとなったのでしょうか。その仙丈ケ岳では、何がなんだかよくわからなくなっていました。さらには台風の影響で風が強く、顔が凍るかと思ったのですが、風が止んだ途端に視界が開けてきました。透明ガラスと曇りガラスが常に入れ替わっている感じです。その曇りガラスの中、わずかに仙丈ヶ岳山頂が見えてきました。あとひと頑張りです。岩場には風を避けるようにして、イワツメクサが可憐に咲いていました。そしてようやく仙丈ヶ岳山頂。これまで登った3,000m峰と言えば富士山があるのですが、私の中では「登っていて全く面白くないあの山」よりも、ずっと価値のある3,000m峰でした。北沢峠をスタートしたのが7:10、仙丈ヶ岳山頂に着いたのが10:25と、山頂まで3時間15分の道のりでした。山頂ではさらにヤッケを着込んで、じっとガスが切れるのを待っていました。仙丈ヶ岳から見た甲斐駒ヶ岳さすがは南アルプスの女王と貴公子、おいそれと姿は見せないようです。
2013/09/02
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心配だった天候もまずまずだったので、北沢峠から先に進み、仙丈ヶ岳山頂を目指すことにしました。北沢峠(標高2,035m)をスタート北沢峠から仙丈ヶ岳へ登るルートは2つあり、仙丈尾根から小仙丈岳を経由するルートと、南アルプス林道を少し下った太平山荘から藪沢沿いを行くルートがあります。ガイドブックなどでは、登りは藪沢沿いのルートを行き、下りは仙丈尾根ルートを行くようになっていますが、今回は仙丈尾根ルートを登ることにしました。北沢峠を出発したのが7:10、朝日の差し込む針葉樹林帯の中を、ひたすら登って行く感じです。道は思ったよりよく踏まれていて、目印もわかりやすいので迷うことはありません。北沢峠を出発して約25分、ベンチがあったので見てみると、まだ二合目でした。このペースで計算すると、あと1時間40分で山頂ということになりますが、さすがにそうは行きませんでした。この先も樹林帯が続き、五合目に近づくにつれて、傾斜もきつくなってきます。樹林帯の切れ間でひと息ついて振り返ると、木々の間に鳳凰山が顔をのぞかせていました。そして北沢峠を出発してから1時間20分、ようやく大滝の頭まで来ました。ここが五合目、標高2,520mです。五合目から先も岩の転がる急な登りが続きましたが、樹林帯も切れ始めてきて、森林限界も近いことが感じられました。やがて森林限界を超えると、一面のハイマツ帯に飛び込んでいました。そしてここから先、振り返ると南アルプスの大パノラマが広がっていました。摩利支天を従えた「南アルプスの貴公子」甲斐駒ヶ岳思えば7月に大菩薩峠を訪れた時、あいにくの天候で眺望がなく、南アの山は見えなかったのですが、仙丈尾根からは甲斐駒の向こう側に大菩薩連嶺が見えていました。甲斐駒の北西に続く鋸岳その向こうには八ヶ岳の山並みも浮かんでいます鳳凰三山地蔵ヶ岳のオベリスクもはっきりと見えていました。本当に来てよかったと思うと同時に、「自分は地球にいる」と実感できる瞬間でした。そして白峰三山の方向に目を転じると 富士山も雲の上に顔を出していました。富士山と北岳の日本1位・2位コラボを撮りたかったのですが、あいにく北岳は雲の中でした。この先山頂付近では視界が効かないと思われたので、今のうちに南アルプスの貴公子と写真を撮っておきました。大パノラマに後押しされながら、引き続き仙丈尾根を登って行ったのですが、台風の影響からか強烈な横風が尾根を吹き渡るようになりました。下山した後のバスでのことですが、北岳の方から降りて来た人の会話を聞いていると、あちらでは眼鏡が吹き飛びそうな強い風だったようです。それにしても風の強さを表すのに「眼鏡が吹き飛ぶ」とは、白峰三山ではドリフみたいなことになっていたのかも知れません。仙丈尾根の方もハイマツが横風になびいて、その先にようやく小仙丈岳が見えてきたと思ったら、ニセピークでした。ピークを越えるとさらにピークがあり、今度こそ小仙丈岳だと思います。ハイマツの中をもうひと登りです。そして北沢峠を出発してから2時間15分、ようやく小仙丈岳に到着しました。小仙丈岳(標高2,855m)山頂標識が落ちていたので、手で持ち上げてみました。小仙丈岳からはいよいよ仙丈ヶ岳山頂を目指すのですが、この大パノラマを見られたのは、ここが最後となりました。
2013/09/01
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