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1981年2月25日、ローマ法王では初めて来日したヨハネ=パウロ2世が、広島で立ち寄った聖堂が「世界平和記念聖堂」でした。あえて菩提寺とか檀家という言葉を使うならば、ここはうちの菩提寺でもあります。但し、世界平和記念聖堂とは呼ばずに、単に「幟町の教会」と呼んでいます。うちに関しては割とノンセクトなところもあって、私も神社や仏教寺院には崇敬をもって参拝しているつもりですので、念のため。敷地内にあるヨハネ=パウロ2世像ヨハネ=パウロ2世による広島アピール(抜粋)平和記念公園では、日本語によって読み上げられました。戦争は人間の仕業です。戦争は人間の生命の破壊です。戦争は死です。過去を振り返ることは将来に対する責任を負うことです。ヒロシマを考えることは核戦争を拒否することです。ヒロシマを考えることは平和に対して責任をとることです。
2013/06/22
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琴電高松築港駅のすぐ隣りに玉藻公園があり、ここが高松城跡です。高松築港駅玉藻公園入口「玉藻よし」が讃岐の枕詞で、高松城も別名玉藻城と呼ばれていました。高松城の内堀は水門で瀬戸内海につながっており、ここでは鯛が飼われているそうです。「讃州さぬきは高松様の城が見えます波の上」の歌があるように、当時は高松城のすぐ向こう側に瀬戸内海が広がっていたようです。水手御門と月見櫓(現存)月見櫓(内側から見たところ)櫓台の石垣を見ると、所々に矢穴(石垣を加工する時のミシン目)も見られました。途中で櫓が増築されたのか、櫓台の石垣が継ぎ足されています。内堀の船着き場のところで、訪れた人から「ここは豊臣秀吉の水攻めの城だ」と聞こえたのですが、水攻めの城は備中高松城で、しかも岡山にあります。讃州高松城は日本三大水城に数えられるほどの水城で、豊臣秀吉でもこの城を水攻めにするのは不可能だったかと思います。むしろ城内から水軍が出てきて、返り討ちに遭うのが関の山でしょうか。讃岐高松城はその豊臣秀吉の命により、生駒親正によって築城されました。瀬戸内海の要衝の地にあって、縄張りを行ったのは黒田如水(官兵衛)とも藤堂高虎とも言われています。同じく三大水城に数えられる中津城や今治城と比べてみても、石垣は中津城(黒田官兵衛)のようでもあり、水堀は今治城(藤堂高虎)のようでもあり、どちらがどうとも言えません。藩主が生駒親正から松平頼常に代わると、三の丸には披雲閣と呼ばれる藩庁が建てられていました。現在は大正時代に松平氏によって建てられた披雲閣があります。披雲閣披雲閣の敷地内には、同じく大正時代に造園された枯山水の「内苑御庭」が広がっていました。披雲閣入口のある三の丸南側には桜御門の跡があり、その先には桜馬場の曲輪があります。桜御門跡戦前までは門があったようですが、空襲で焼失してしまいました。石垣にはその時の焦げ跡が残っています。桜馬場名前からすると大手口の馬出と思われますが、桜の名所だそうです。大手口に近い南東にも隅櫓が現存していますが、巽櫓(南東)ではなく艮櫓(北東)の名前がありました。艮櫓月見櫓と同じく江戸時代の1677年に建てられたものですが、元々北東の隅櫓であったものを、南東の隅櫓があった場所に移築したそうです。外側から見たところ桜馬場の南東側に旭橋御門と旭橋があり、こちらが高松城の大手門になります旭御門の枡形旭橋と旭橋御門の表門(外側から見たところ)明治時代まで高松城の本丸には天守が建っていたようですが、老朽化によって取り壊されたとのことです。天守台当時は三の丸から見ると、天守が海に浮かんでいるように見えたそうです。天守台のある本丸は、岬のように内堀に突き出しており、本丸との間には鞘橋が架けられていました。鞘橋天守台入口ここの石垣にも矢穴が残っており、現存する石垣だと思います。天守の礎石跡天守については古写真も残っているため、復元の動きがあるようです。史実に基づかない復興天守には否定的ですが、古写真や設計図を基にした復元天守はいいと思います。いつか天守から瀬戸内海を望むことができるでしょうか。(財)日本城郭協会「日本100名城」
2013/06/20
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丸亀城に来るのは2回目なのですが、前回はずっと以前だったので、「たしか丸亀城には行ったことがある」くらいの記憶しかありません。しかも前回は雨降りだったように思うのですが、今回は丸亀に着いた途端に天気が良くなりました。大手方向から見た丸亀城築城当時の大手は反対側の南側にあったようですが、京極氏の時に北側に移されたようです。大手虎口と大手濠大手濠には入隅と出隅の石垣だけでなく、土塀も見事に残っていました。大手一ノ門(現存)大手一ノ門(内部から見たところ)高麗門形式になっており、雁木や狭間も残っていました。大手門内部は枡形虎口になっており、枡形や櫓門も現存しています。枡形内部櫓門形式の大手二ノ門(現存)大手虎口を抜けると、左手には三の丸へ通じる「見返り坂」があり、右手には玄関先御門と番所がありました。玄関先御門(こちらも現存)玄関先御門に続く番所(現存)三の丸へ通じる見返り坂見返り坂を登ったところでは、目の前に二の丸の高石垣が現れました。打込み接ぎで積まれた高さ22mの高石垣これほどの高石垣を積める人は加藤清正と藤堂高虎の2人しか知らないのですが、隅石には扇の勾配があり清正流の石垣だと思います。(熊本城の記事→こちら)三の丸の曲輪跡三の丸からは、正面に飯野山(讃岐富士)を眺めることができました。丸亀城の縄張りは輪郭式になっており、本丸の周囲に曲輪と石垣が巡らされていました二の丸石垣二の丸虎口二の丸の曲輪そして本丸にあるのが現存12天守の1つ、江戸時代初期に建てられた三重天守です。天守の背後には瀬戸内海が広がり、瀬戸大橋が見渡せました天守が現存する城は全国に12城しかありませんが、丸亀城では天守だけでなく石垣や門なども現存し、さらには本丸から大手までの縄張りが本当によく残っていました。丸亀城は生駒親正によって1597年に築城が開始され、5年の歳月をかけて1602年に完成しました。生駒氏がお家騒動で転封になると、1641年に山崎家治が入城し、石垣の改修などを行っています。山崎家治が肥後(熊本)から入封したことを考えると、現在残る清正流の石垣も山崎氏の時代のものだと思われます。(財)日本城郭協会「日本100名城」
2013/06/19
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最初に瀬戸大橋を渡ったのは開通の翌年のことで、青春18きっぷで快速マリンライナーに乗り、瀬戸内海を陸路で渡ったのを覚えています。その時は陸路で海を渡れるなんて思ってもおらず、岡山駅を出発した後もずっと半信半疑でした。今回は岡山駅から特急「南風」(「しおかぜ」併結)に乗り、本州から四国へと瀬戸大橋を渡りました。鷲羽山トンネル(2011年5月)鷲羽山トンネルから続く下津井瀬戸大橋(2011年5月)それにしても鷲羽山トンネルを抜けた瞬間、いきなり海の上に飛び出る感覚はいまだに不思議です。ところで快速マリンライナーはその後も一度乗ったことがあるのですが、今回は初めてディーゼル気動車で本四備讃線を行きました。マリンライナーも南風も橋梁部に入ると減速してくれたのですが、どうやら粋な計らいではなく、橋梁部では速度制限があるようです。それでも現在の気動車はトルクとパワーが桁違いで、加速もスムーズでした。しばらく海の上を飛んだ後は、いよいよ四国に上陸です。アンパンマン塗装のJR四国N2000系特急南風(丸亀駅にて)ディーゼルターボの加速音もさることながら、丸亀駅の入線メロディーが最高でした。この曲は反則だと思います。この子は日系5世で、日本語はわからないそうです
2013/06/18
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一乗谷の城下町を見て回った後は、朝倉氏の居館に入って行きました。城下町とは一乗谷川を隔てた近い距離にあり、居館も方形の一重堀と土塁に囲まれただけの造りになっていました。朝倉義景館跡内堀城下の方向意外とすぐ近くにあります。居館の入口には唐門がありましたが、こちらは現存するものではなく、移築したものを江戸時代になってさらに再建したものだそうです。唐門の前の水堀唐門の先に朝倉氏館の敷地があり、その背後には山があって、三方を土塁に囲まれていました。敷地内には10棟の建物の跡が見られ、接待や会見のための主殿を中心とする建物群と、台所などの常御殿の建物群から成っていたようです。背後の丘陵部から見たところ義景館庭園の跡昭和43年の発掘調査で見つかったそうです。最後にここに住んでいたのは、第5代で朝倉氏最後の当主朝倉義景でしたが、居館跡には墓所が建てられていました。織田信長との戦いに敗れた朝倉義景墓所朝倉義景館の背後には高台があり、湯殿庭園と名付けられていました。回遊式の庭園で、当時は池や水路があったようですが、戦時には空堀の役目を果たしていたのかも知れません。その湯殿庭園の先、中の御殿との間には、空堀にも水路にも見える掘削地がありました。どうしてもこれが空堀に見えます。中の御殿跡朝倉義景の実母光徳院の屋敷跡と伝えられ、朝倉氏当主の妻子などもここに住んでいたと思われるようです。その中の御殿の周囲は、通路と共に土塁でしっかりと囲まれていました。元々庭園や造作だったものを、防御用の空堀や土塁に改変したとしか思えないのですが、諏訪館の跡もそんな感じでした。これも空堀に見えてしまいます。諏訪館跡諏訪館跡から見た城下朝倉義景館・湯殿跡・諏訪館・南陽寺跡の4庭園が「一乗谷朝倉氏庭園」として国の特別史跡に指定されています。歴史小説などに描かれている朝倉義景は、時勢が見えずに自ら滅亡したような印象を持っていました。実際は将軍足利義昭と共に和歌を残すなど、相当な教養人であったことがうかがえます。さらに城下全体を見た印象で言うと、領民と一乗谷を守る名君でなかったかとも思いました。山麓部の居館の他、標高440mの一乗山山頂には、戦時の詰め城として戦国山城も築かれていました。城郭の遺構もよく残っているようですが、残念ながら今回は訪れることができませんでした。1471年に朝倉氏初代の朝倉敏景が本拠地を移して以降、第5代の朝倉義景に至るまで、約1世紀に渡って繁栄を誇ったのが一乗谷です。朝倉義景は将軍足利義昭による信長包囲網の一翼を担っていましたが、武田信玄亡き後はその包囲網も崩壊し、1573年に織田信長の前に一乗谷の城下町も焼失してしまいました。(財)日本城郭協会「日本100名城」
2013/06/17
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朝倉氏と言えば越前一乗谷、一乗谷と言えば白戸次郎でしょうか。1471年から1573年までの約1世紀の間、朝倉氏5代の本拠地と城下町が一乗谷にあり、発掘調査によってかつての城下町がよみがえっていました。江戸時代の町割りが残る城下町はいくつかあるものの、戦国時代の町割りが残る一乗谷の城下町は、とても貴重な遺構だと思います。一乗谷川が流れる谷間に城下町が広がり、下流部と上流部を城戸で区切った町割りだったようです。下城戸跡土塁で囲まれ、石垣の枡形になっていました。城戸から城下町へ続く道一乗谷川一乗谷川沿いを行くと、両岸にはかつての居館の跡が随所に見られました。朝倉景鏡(第5代朝倉義景の従兄弟)の居館跡中世武士の居館のように方形の土塁と堀で囲まれていたようで、その跡も一部残っています。一乗谷でも最大の支谷であったのが八地谷で、「八地千軒」の通称があるように、谷の奥まで屋敷が並んでいたようです。八地谷の雲正寺地区東西と南北に道路が通り、交通のインフラも整っていたようです。この辺りは民家になっていたようですが、掘立式の建物が建っていたようで、礎石の跡や敷地の井戸の跡などがありました。さらに一乗谷川沿いを行くと、かつての武家屋敷が復元された場所もありました。中世の武家屋敷が復元される例は滅多にないので、中世の建物を知る上では本当に貴重な遺構でした。ところでこの一乗谷ですが、ソフトバンクのCMのお父さん、白戸次郎のふるさとでもあります。
2013/06/16
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南北朝時代・戦国時代と、2度に渡る有名な攻防戦の舞台となったのが金ヶ崎城でした。金崎古戦場の碑敦賀港を望む東側の丘陵部に城跡があり、太平記にも「かの城の有様、三方は海によって岸高く、巌なめらかなり」との記述があります。金ヶ崎城から見た敦賀港まさに太平記の時代の1336年、後醍醐天皇の命を受けた南朝方の新田義貞が、尊良親王と恒良親王の2人の皇子を奉じて入城したのが金ヶ崎城でした。足利尊氏の北朝方は、越前国守護であった斯波高経が金ヶ崎城を包囲、南北朝の間で激しい攻防戦が繰り広げられました。約半年にわたる籠城戦でしたが、金ヶ崎城は落城し、尊良親王と新田義顕(新田義貞の長男)は自刃して南朝方の敗北で終わりました。金ヶ崎城跡にある金崎宮祭神は尊良親王と恒良親王です。尊良親王の「御墓所見込地」同じく城跡にある絹掛神社総大将であった新田義顕以下321名の将兵が祀られています。その新田義顕が自刃した金前寺は、金ヶ崎城の山麓にありました。伽藍は戦国時代の戦いで焼失しましたが、新田義顕が自刃したのが、ここの観音堂になります。新田義貞は金ヶ崎城から逃れたようですが、1338年に越前で討死し、坂井市の称名寺に墓所があります。時代は下って戦国時代、「金ヶ崎退き口」として一躍名を馳せたのが、木下藤吉郎(豊臣秀吉)でした。越前一乗谷の朝倉義景討伐のため、織田信長は徳川家康と連合軍を組んで金ヶ崎城まで進軍して来たものの、妹婿である浅井長政が朝倉方についたとの知らせが入りました。織田信長の妹で浅井長政夫人であったお市の方が、小豆の入った袋の両方を縛って謎をかけたのも有名な話かと思います。前後に敵を受けた織田信長は退却戦を余儀なくされますが、その時に殿を務めたのが、当時は駆け出しの木下藤吉郎でした。そんな歴史の奔流にあった金ヶ崎城ですが、本丸のあった場所は月見崎と呼ばれ、月見御殿があったとされています。南北朝時代も戦国時代も、武将たちが日本海に浮かぶ月を眺めていたのでしょうか。また松尾芭蕉も「おくのほそ道」で越前を訪れており、金ヶ崎城の山麓には芭蕉塚があります。
2013/06/15
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「国際航路」がもはや歴史になりつつある現在ですが、かつてはユーラシア大陸への玄関口が敦賀でした。金ヶ崎城から見た敦賀港かつては新橋から敦賀まで陸路を列車で行き、敦賀からウラジヴォストークまでの連絡航路を乗った後、さらにシベリア鉄道でヨーロッパへ続く欧亜連絡列車がありました。杉原千畝記念植樹杉原千畝が発給した「命のビザ」によってナチスから逃れたユダヤ人たちが、シベリア経由で上陸した先が敦賀港で、敦賀港は「人道の港」とも呼ばれています。かつての敦賀港の模型現在は敦賀~敦賀港(金ヶ崎)間は廃線となっていますが、当時の駅舎が復元されていました。列車に信号を送っていたランプ小屋かつての引込み線跡復元された敦賀駅舎の内部は鉄道資料館となっており、敦賀港駅のみならず北陸本線の歴史が紹介されていました。北陸本線の敦賀と言えば赤い交流電気機関車日本海の港湾都市としては舞鶴が代表的かと思いますが、舞鶴が軍港として発展してきたのに対し、敦賀は商業港として発展してきました。江戸時代は北前船の寄港地でもあり、金ヶ崎公園には北前船の帆をあしらったモニュメントがおかれています。さらにはレトロな赤レンガ倉庫が残り、歴史と港町風情を感じます。現在の敦賀港には敦賀海上保安部があり、岸壁には海上保安庁の巡視船が係留されていました。巡視船えちぜん敦賀保安部は第八管区保安本部の管轄となっており、日本海の沿岸警備の本部はやはり舞鶴にあるようです。まるで梅雨が明けたかのような真夏の日本海でしたが、そもそも福井県嶺南地方は梅雨明けどころか梅雨入りもしていないそうです。
2013/06/14
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中仙道の宿場町めぐりを始めるにあたり、実は日本橋ではなく神田明神をスタート地点としていたので、なんと中仙道で日本橋と神田神社の間が空白となっていました。今さらな感じだらけですが、あえて中仙道を日本橋からスタートして、その空白となったところを埋めてみることにしました。今さら感あふれる日本橋に、今回も自転車で参上です。改めて道路元標江戸時代には五街道を始めとして、脇街道を含む全ての街道の起点がここでした。現代では旧街道めぐりをスタートする度にここに来る羽目になります。その日本橋川を渡ると日本橋室町、まさに「三井通り」といった感じでした。三井高利が「現金掛値なしの切り売り」で始めた三井越後屋(現在の三越日本橋本店)その三越の先にあるのが三井本館です。さらにその先は日本橋三井タワーです。某都市銀行にいた頃、関係会社に「室町○○」と室町を冠した名前が多くありました。初任地が京都支店だったのですが、「室町○○」の人があまりに数多く支店に来るので、当時は京都の室町通りから来ていると思っていたこともあります。後になって知った三井発祥の日本橋室町ですが、現在の室町3丁目付近で中仙道と日光街道(奥州街道)・水戸街道が分岐していたようです。現在は国道17号線(中仙道)から国道4号線(日光街道)と国道6号線(水戸街道)が分岐しています。日本橋界隈を抜けると中央区から千代田区に入り、神田駅のガードが見えてきました。神田と言えば、「串かつ甲子園」と「きくかわ」しか出て来ないほど馴染みの薄い場所で、しかも夜しか来ない場所でもあります。そんな神田で昼間に入ったのがこちら細麺のストレートにこってりスープと九条ねぎ、何の脈絡もなく京都ラーメンです。天下一品のラーメンについては賛否はあるでしょうが、個人的には京都ではMでもYでもDでもSでもなく、天一が一番好きです。(ちなみにMは「名門」ではありません)京都では北白河が京都ラーメンの激戦地のようにも言われていました。それでも懐かしいのは現在の駅ビルが出来る前の京都駅北口、薄暗い駅前に並んでいた屋台ラーメンの味でしょうか。今では身近に天一があることにありがたみを感じつつ国道17号線を行くと、いよいよ神田川にぶつかりました。万世橋江戸城では神田川が外堀の役目を果たしていたので、ここで城下町を出ることになります。懐かしの鉄道博物館跡現在の国道17号線は、万世橋を渡ると神田川沿いに向きを変え、すぐ上流の昌平橋で再び向きを変えて行きました。かつて昌平橋の北側には神田旅籠町の地名があり、中仙道だけでなく日光例幣使の街道筋に旅籠が並んでいたことに由来しています。昌平橋旧中仙道では現在の万世橋と昌平橋の間に橋があり、「筋違橋」の名前の通り筋違いとなっていたようです。やはり江戸城下の出入口とあって直進はできなかったようで、現在の国道17号線も旧中仙道を踏襲したのか、この辺りでは複雑に折れ曲がっていました。やがて本郷台地の登り坂となり、再び神田神社に到着ですこれで一応日本橋から鴻巣宿までつながったことになりますが、鴻巣の次は熊谷宿が待っています。どうやら一番暑い時に一番暑い場所を行くことになりそうです。
2013/06/01
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