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初詣では日本一の参拝者数を誇る明治神宮ですが、実はこれまで訪れたことはありませんでした。大鳥居訪れたのは自粛要請前の2月のことで、海外からの参拝客はほとんどいませんでした。それでも新型コロナウィルスの影響か、参拝客は思ったより少なく、清正井戸もほとんど並ばずに見ることができました。初詣の映像はテレビで観たことがあるのですが、同じ場所だとは思えないほどです。三の鳥居南神門拝殿も行列ができたりということはなく、すぐ参拝できました。いま(4月)となっては、参拝する人はもっと少ないことでしょう。
2020/02/23
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随分とご無沙汰だとも思いつつ、梅雨入り前の5月の話です。「うまいもの探し」のポタリングを兼ねて、今年も堀切菖蒲園に行ってみました。この季節だけは、京成堀切菖蒲園駅の周辺もにぎわいます。5月も後半でしたが、ちょうど見ごろだったようです。堀切の花菖蒲は江戸時代から有名だったようで、歌川広重も「名所江戸百景」に描いています。花菖蒲の向こうに流れるのは大川(現在の隅田川)だと思いますが、なるべく同じアングルで撮ってみました。花菖蒲の向こうに見えるのは、何とも殺風景な首都高6号線です。
2015/06/28
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記事の日付は昨年になっていますが、2014年最後の城めぐりは深大寺城です。深大寺の境内を散策し、深大寺そばで一杯やった後は、いよいよ都立神代植物公園の水生植物園のエリアへと足を向けて行きました。冬の植物公園はなんとも殺風景ですが、水生植物園の南側(右側)の台地上に深大寺城の城跡があります。現地の城跡図を見る限りでは、南側を大手として、本丸から三の丸までを備える縄張りだったようです。現在の三の丸はテニススクールの敷地となっており、フェンス越しに眺めてみると、遺構らしきものが残っていました。テニススクールに続く車道ですが、枡形虎口にしか見えません。テニススクールの道を横に見ながら、深大寺城跡に続く道を上がると、二の丸の曲輪が広がっていました。深大寺城の二の丸は、戦国城郭としては意外と広く、家族連れがビニールシートを広げて楽しんでいました。建物の掘立跡突然現れた怪しい城跡ハンターは、二の丸の曲輪そのものには目もくれず、二の丸の周囲から探索を始めました。二の丸南側の土塁土塁の向こうに見える住宅地には、腰曲輪が配されていたと思われます。二の丸から見た三の丸方向フェンス越しに見ると、竪堀のような跡も見られます。三の丸のある西側は特に堅固な縄張りとなっており、二重土塁と空堀の跡が残っていました。いまなお自然が残る深大寺界隈とは言え、都心に近い城跡でここまで遺構が残っているのは驚きです。深大寺城の遺構がここまで残っているのには、皮肉で悲しい理由もあるのですが。二の丸の周囲を巡った跡、本丸方向に来てみると、ここにも土塁と空堀の跡が残っていました。左が本丸で、右が二の丸です。本丸虎口二の丸とは土橋でつながっていたようです。本丸の周囲にも土塁が残っており、片隅には城跡碑がひっそりと建っていました。実は7年ほど前にも深大寺城を訪れたことがあるのですが、その時は夏場だったため木々が生い茂り、縄張りの様子もよくわかりませんでした。本丸前回はやたらとカラスが多く、木や草に覆われていたので、城跡めぐりどころではありませんでした。やはり冬場は戦国城郭の最適期で、カラスもいなければ天敵の爬虫類もいません。本丸土塁なによりも落葉で縄張りがわかりやすくなるのが一番です。深大寺城の築城時期や築城主については不明ですが、戦国時代には河越城(川越城)を本拠地とする扇谷上杉家の拠点でした。あの河越夜戦よりもずっと前の話で、扇谷上杉氏の支城だとすると、太田道灌が築城した可能性もあります。扇谷・山内の両上杉氏と対立し、関東平定を狙う小田原北条氏に備えるため、その拠点として深大寺城が整備されたと言われています。その北条氏綱が河越城を攻略するにあたり、この深大寺城を攻めることなく素通りしてしまったため、深大寺城はその防衛拠点としての力を発揮することができませんでした。これだけ堅固な深大寺城ですが、攻撃を受けなかったために、かえって遺構が残っているのは、なんとも皮肉な結果です。
2014/12/31
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古刹に相応しい雰囲気を残しているのが、深大寺の門前町です。深大寺を訪れたのは去年12月の話で、記事を更新しないうちに年が明けてしまいました。参道の先にある茅葺の山門は、火災による焼失を免れたため、深大寺に現存する建築物の中では最古となる1695年の建立です。山門のすぐ右手にある鐘楼では鐘が突かれており、重厚な鐘の音が境内に響き渡っていました。鐘楼の先には冠木門形式の東門があり、通用口として使われているようでした江戸時代には茅葺だった本堂も、幕末の1865年の火災で焼失してしまったため、現在の本堂は大正時代に再建されたものです。本堂の奥にも境内が広がっていて、さらに本堂のような堂宇があり、元三大師堂とのことです。元三大師堂元来の元三大師堂は本堂の手前に建っていたそうですが、幕末の火災で焼失したため、崖を削って現在の位置に再建されたものだそうです。さらには、元三大師堂の方が本堂より先に再建されたとのことでした。その元三大師堂の下から発見されたのが「銅造釈迦如来倚像」で、現在は釈迦堂の中に厳重に保管されていました。「銅造釈迦如来倚像」は「白鳳仏」とも呼ばれ、その名の通り7世紀の作とされています。「銅造釈迦如来倚像」(国指定重要文化財)境内の西側へ足を運んでみると、遅い紅葉の中に深沙堂が見えてきました。深大寺の由来ともなった深沙大王像が祀られています。実は今回深大寺を訪れたのは、深大寺そのものが目的ではなく、ついでに立ち寄った気でいました。それでも初めて訪れた深大寺の境内は、ゆったりと開放的な雰囲気があって、境内をふらりと散策するだけでも楽しいかも知れません。
2014/12/29
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足利尊氏が室町幕府の将軍となった後、各国に1寺ずつ「安国寺」を建立したことは、あまり知られていないかも知れません。その安国寺のうち、甲州街道府中宿の街道筋にある高安寺が、武蔵国に建立された安国寺に位置付けられています。高安寺山門本堂扁額には「等持院」と書かれており、足利尊氏とのゆかりを感じます。足利尊氏によって再建される以前、ここは市川山見性寺という寺院でした。さらにそれ以前の平安時代には、「俵藤太」の藤原秀郷の居館があったそうです。武蔵国府中で藤原秀郷の名前を見るのはあまりに意外なので、「はるか唐沢山城は何だったのだろう?」などと思ったほどです。平将門を討伐した功績によって下野守となった後、藤原秀郷は武蔵守も兼任していたようで、そう考えると武蔵国府のあった府中に居館がある方が自然な気もします。高安寺の本堂奥には「秀郷稲荷」があり、藤原秀郷が鎮守として祀られています。藤原秀郷が居館を置いていた当時は、方形の一重堀で囲まれた中世の武士館だったと思われますが、現在となってはその面影もありません。その秀郷稲荷には矢印の案内標識があり、「弁慶硯の井」とありました。俵藤太の藤原秀郷もさることながらが、弁慶もまた各地で伝説の多い人です。「俵藤太の次は弁慶か…」などと思いつつ、まずは行ってみることにしました。弁慶硯の井源義経が源頼朝の怒りに触れて鎌倉入りが許されなかった時、京都へ帰る途中で当時見性寺であったこの場所にとどまり、弁慶とともにこの水を汲んで赦免祈願の写経をしたと言われています。鎌倉街道からも近いこの地にあって、これも何となく真実味のありそうな話ではあります。時代は下って太平記の時代、足利尊氏と同じく鎌倉幕府の討幕軍を率いていた新田義貞は、分倍河原で鎌倉幕府軍との戦いになった時、ここに本陣を置いていたようです。(新田義貞も、稲村ヶ崎を歩いて渡った伝説の持ち主ですが)足利尊氏が各国に安国寺を建立したのは、後醍醐天皇をはじめとする戦没者の供養が目的でした。時代によっては「逆臣」・「逆賊」とされてきた足利尊氏ですが、同時代を生きた他の武将と同じく、この時代ならではの苦悩を持っていたのでしょうか。後世になって、室町幕府足利氏と鎌倉公方足利氏との争いや、鎌倉公方足利氏と関東管領上杉氏の争いなどで、この高安寺も戦火で伽藍を焼失してしまったようです。足利尊氏の建立の願いとは裏腹に、全く皮肉な結果としか言いようがありません。
2014/12/09
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「府中」の地名にあるように、律令時代に武蔵国の国府が置かれていたのが、現在の府中市です。その武蔵国の政庁は、現在の大国魂神社の境内にあったようです。国府跡の碑大国魂神社は武蔵国の総社として、武蔵国の一ノ宮から六ノ宮までが祀られ、「六所宮」と呼ばれていました。随神門一口に武蔵国と言っても、現在の行政区分では東京都・埼玉県の全域と神奈川県の横浜市・川崎市となり、大国魂神社はその3都県の総社ということになります。中雀門拝殿大国魂神社には武蔵国府に関する「府中ふるさと歴史館」(入場無料)があり、出土品などが展示されていました。和同開珎府中に限らず、あちらこちらに郷土資料館みたいな展示館があるかと思いますが、時間の許す限り足を止めてみるのがいいかと思います。ふと訪れた土地であっても、その地に関する展示物が豊富なので、最も詳しい歴史を知ることができます。(公立であることも多いので、入館料も格安(または無料)なのもよろしいかと思います)六所宮のあった大国魂神社の参道は、「馬場大門けやき並木」として、現在も並木道が続いています。けやき並木の起源については諸説あるようですが、「前九年の役」で奥州に向かう源義家が大国魂神社で戦勝祈願をし、勝利した帰途に苗木を植えたとする説がその1つにあります。徳川家康によって補植され、現在のケヤキ並木になったとも言われています。「八幡太郎」の源義家が、奥州に向かう途中、「ここで戦勝祈願をした」という話は幾度となくありました。奥州征伐よりもあちこちの戦勝祈願で忙しかったのではないかと思うほどですが、やはり各地で語り継がれる「武家の棟梁」だったのかど思います。源義家像
2014/12/07
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「第○次 ○○合戦」みたいに、何度かの合戦が同じ場所で起こることがありました。思い浮かぶ例としては、武田信玄VS上杉謙信の川中島や、北条氏綱・氏康VS房総連合軍(足利義明・里見義弘)の国府台などですが、いずれも同じ相手で同じ時代に起こったことです。時代も違えば相手も違い、なおかつ時代の流れを変えるような、そんな戦いの舞台になってきたのが、東京都府中市の分倍河原でしょうか。まずは「太平記」の時代、分倍河原と言えばやはりこの人です。分倍河原駅前の新田義貞像名将・愚将の評価はともかく、やはり武将には騎馬像が似合うものだと、この新田義貞像を見てつくづく思いました。(騎馬像と言えば、当ブログのプロフィール画像も同じ太平記の時代、楠木正成の騎馬像です)分倍河原の駅からは「分梅」の地名があり、住宅地の中を通る普通の道がかつての鎌倉往還、「鎌倉街道」です。すべての道は鎌倉に通ず。その鎌倉街道を南下すると、親水公園のような遊歩道に行き当たりました。ここがかつての多摩川の河原、分倍河原です。(現在の多摩川の流域は、ここから1kmほど南にあります)分倍河原古戦場碑新田義貞が鎌倉幕府の倒幕軍を率い、鎌倉に攻め込んだいきさつは下記の通り6日で鎌倉を陥落させたようになっていますが、実は鎌倉に近づくにつれ、幕府軍の防戦によって苦戦を強いられています。(化粧坂や稲村ヶ崎など)それでも、鎌倉幕府の倒幕で言えば、実力行使では新田義貞が立役者でしょうか。1333年の鎌倉幕府倒幕の舞台の1つとなったのが分倍河原でしたが、鎌倉幕府倒幕から建武の親政を経て、ずっと後の足利将軍の室町時代に起こったのも分倍河原の戦いでした。同じ足利氏ながら京都の室町幕府と対立する鎌倉府の足利氏、その鎌倉府と対立する関東管領上杉氏。応仁の乱に先立つ1455年、その鎌倉公方と関東管領の戦いの場となったのも、やはり分倍河原です。2つの戦いから、分倍河原(多摩川)は鎌倉の生命線だったことがうかがえます。私本太平記(五)-【電子書籍】
2014/12/06
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「あきる野百景めぐりマップ」という無料小冊子をゲットし、「秋川渓谷 瀬音の湯」の湯上りにビール瓶を傾けながら、興味深く読んでいました。その小冊子の東秋留地区の散策マップを眺めていると、「二宮神社並びに城跡」の文字があります。「二宮神社並びに城跡」として東京都の旧跡に指定されているようで、「城跡」とあっては素通りするわけに行きませんでした。(「並びに城跡」などと、おまけみたいな言い回しが気になりますが)JR武蔵五日市駅から4駅目、五日市線を東秋留駅で降りて、300mほど歩いたところに二宮神社の境内があります。現在は「あきる野市」と平仮名表記になっていますが、旧秋川市の漢字表記は「秋留」となり旧五日市町では「阿伎留」となるのが興味深いところです。二宮神社にある「秋留」は、多摩川・秋川・平川の合流点に近く、河岸段丘のある平野部が広がっています。境内の敷地も一段高い台地上にあり、周囲には土塁か切岸のような地形が見られました。これが城郭の遺構なのかどうか、よくわかりません。それでも鳥居の手前にある池がの注意書き板には、「堀」の文字が使われていたため、地元では城郭と認識されているのかも知れません。堀跡とも言われるこの池ですが、「東京の名湧水57選」に選ばれているそうです。「日本百○○」とか「○○百選」などはよくある話ですが、「名湧水57選」とはなんとも中途半端な選定です。(100選を目指したけど57選が限界だったのか、いっそ50選にしてみると各所の調整が難しかったのか)ところで二宮神社については、武蔵国一宮である大国魂神社(府中市)に次ぐ、武蔵国二宮がその名前の由来です。拝殿拝殿横の盛土が土塁に見えなくもありません。二宮神社の境内を城跡として見るならば、方形の一重堀と土塁で囲まれた中世の武士居館だったと思われます。城跡と言われれば堀や虎口跡のようにも見えますが、やっぱりよくわかりません。大石氏が居館を構えていたことは文献にも残っていますが、その場所については明らかになっていません。二宮神社の境内もその候補の1つで、昭和37年に「二宮神社並びに城跡」として東京都の旧跡に指定されました。その後の発掘調査では、縄文時代の遺構は出てきたものの、中世の城跡(居館)の遺構は出てこなかったそうです。
2014/11/23
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JR武蔵五日市駅の東側、三内神社のある山稜が阿伎留(あきる)城跡だとされています。JR五日市線の踏切の向こう側に三内神社の参道があります。事前に得た情報では、ここに城郭があったかどうか懐疑的だったのですが、実際に訪れてみるとどうなのでしょうか。三内神社の鳥居城跡として見るならば、鳥居脇の削平地は山麓の居館跡だとも思われます。三内神社の縁起らしきことも書かれていたのですが、阿伎留城については触れられていませんでした。途中にある小さな祠にも解説板が建っていて、読んでみると御嶽神社を分祀したものだそうです。三内神社の拝殿へと登る途中、「拝殿に至る二択の迷い道」と書かれた碑があり、道が左右に分岐していました。左は普通の山道で、右は石の階段となっています。ここは右に曲がるのが登城のセオリーなので、右の階段を登って行きました。石段を登りながら、これも最近気づいた登城のセオリーで、後ろを振り返ってみました。視線を変えて上から見てみると、横矢の掛かった枡形虎口にも見えます。さらに途中で後ろを振り返ってみると、わずかに削平地が見えましたが、曲輪の跡かどうかはわかりませんでした。「二択の迷い道」とは言うものの、ほどなくして三内神社の拝殿に到着しました。三内神社拝殿三内神社が阿伎留城跡だとするならば、拝殿のある削平地は曲輪だったと考えられます。それにしてもシンプルすぎる縄張りで、曲輪の位置も稜線の途中にあったりと、なんだか違和感がありました。拝殿を参拝した後で周囲を見渡してみると、拝殿のさらに上に祠が見えたので、行ってみることにしました。「金毘羅」と書かれていたように記憶していますが、その先に尾根道が続いているので、たどってみることにしました。稜線をたどる途中、南側の五日市方面の眺望が開けており、秋川の流域と戸倉城のある城山(矢印)を眺めることができました。尾根道の途中には、竪堀跡のような溝や曲輪跡のような削平地が見られたのですが、城郭の遺構かどうかまではわかりませんでした。竪堀跡?曲輪跡?やがてピークに続く石段(明らかに後世になって造られたもの)が現れ、三内神社の本社に到着しました。城跡ならばここが本丸になります。本丸跡に神社が建っている城跡は、これまでにも数多く見て来ました。いつもながら社殿の裏側に回るのはタブーなのでしょうが、城跡ハンターとしては社殿の裏側が気になるところです。社殿の背後にある盛り土が、土塁に見えなくもないところです。さらに先の斜面にはこれが建っていました。これまでにも曲輪跡に送電用の鉄塔が建っているのは見たことがあります。ここが曲輪跡かどうかは別にして、史跡の有効利用といったところでしょうか。三内神社本社のあるピークには天竺山の名称があり、標高300mのピークからは東側(都心方面)の眺望が開けていました。東京サマーランドらしき観覧車が見えており、さらにその背後に続く山稜は八王子城へと続いています。武田信玄の甲州へ続く秋川流域にあって、八王子城からの支城を築くならば、ここは絶好のロケーションだと思われます。しかしながらここに城郭はあったとしても、戦国時代の山城ではなかったようにも思います。(狼煙台くらいはあったかも知れませんが)縄張りなどを見る限り、戦国時代より前の鎌倉時代、武州南一揆の武士団城跡かも知れません。武州南一揆が上杉禅秀の乱(1416年)の時から活躍していたことを考えると、地の利のあるこの場所に城郭があったとしても不思議ではないと思います。(実際に南側の山麓、秋川流域には「舘谷」の地名があり、有力武士の拠点があったことがうかがえます)五日市郷土館に展示されている、足利持氏から武州南一揆への感状。阿伎留城は武州南一揆の有力者である小宮氏の居館だとも言われていますが、三内村の三内氏の築城だとも言われています。三内氏は現在もここにお住いのようで、三内神社の社務所の傍らにその顕彰碑が建っていました。個人的にはここに城郭があったとは思うのですが、シンプルな縄張りからすると鎌倉時代、三内氏による築城だと思います。
2014/11/22
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城跡の場所を特定できていながら、本丸へのアプローチに失敗した城郭はいくつかあります。理由もいくつかあるのですが、「足が痛い」という想定外の理由で撤退したのが、あきる野市にある戸倉城でした。前回(2014年9月)に陣馬山から奥高尾縦走路の尾根をたどった時、最後の目的地にしていたのが戸倉城跡のある戸倉城山でした。今回は反対側の日の出山から秋川渓谷を経て、戸倉城山を目指すことにしました。武蔵五日市方面から見た戸倉城山の遠景戸倉城は戸倉城山の山頂部にあった戦国城郭で、二つのピークにそれぞれ曲輪が配されていたようです。戸倉城山山頂部の復元模型(あきる野市五日市郷土館)現在の戸倉城山秋川渓谷瀬音の湯のある十里木からは、戸倉城山に至る登山道の一つがあります。(登山道入口は樹林帯に覆われて、わかりづらい位置にあります)西側の斜面を登って行くと、荷田子峠との分岐点に差し掛かりました前回のアプローチが成功していれば、奥高尾縦走路からこの道を来ていたと思います。西側ピークを目指して行くと、途中の斜面を送電線が横切っていました。曲輪跡に鉄塔が建てられているのは他の城跡で見たことがありますが、この鉄塔は斜面に建てられており、曲輪跡のような削平地も見当たりませんでした。戸倉城山の東西二つのピークのうち、西側には物見台が置かれていたようです。鞍部には堀切のような跡も見られます。東側ピークの途中にはベンチの置かれた削平地があって、二の丸の曲輪の跡だと思われます道標の立つ場所は堀切跡だと思われます二の丸の周囲には切岸の跡が残っており、枡形虎口のような跡も見受けられました。二の丸跡二の丸(本丸のある上から見たところ)本丸の周囲には野面積みの石積があったのですが、後世になって積まれたものだと思います。石積みの脇を抜けた先は削平地となり、本丸跡に着きました。本丸のあるピークは、戸倉三山の一つ、戸倉城山の山頂でもあります。戸倉城山山頂碑(標高434m)本丸から眼下を見ると、五日市の市街地の眺望が開けていました。本丸にある縄張り図戸倉城の大手口は北側にあったようで、戸倉へ降りる途中には城郭の遺構がいくつか見られました。竪堀跡(藪に覆われてわかりづらいですが)腰曲輪の跡虎口跡(?)斜面を下って行くと神明社の裏手に出ましたが、城郭と関係があるのかは不明です。平時の居館跡のような雰囲気です。15世紀の秋川・南多摩一帯には、「武州南一揆」と呼ばれる在郷の武士団があり、戸倉城はその主要構成員であった小宮氏の居城だとされています。1416年の上杉禅秀の乱では鎌倉公方足利持氏に味方し、その恩賞として5年間税を免除されたようで、その書状が五日市郷土館に展示されていました。戦国時代より前から秋川一帯に勢力を持っていたことがうかがえます戦国時代になって北条氏が勢力を伸ばしてくると、大石定久が北条氏照に滝山城を譲った後、戸倉城を隠居の居城としていました。北条氏支配下の戸倉城は八王子城の支城のような存在だったらしく、甲斐の武田信玄に備えるべく、檜原城とも連携していたようです。その八王子城が1590年の豊臣秀吉の小田原の役によって落城すると、戸倉城も廃城となっています。
2014/11/20
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珍しく紅葉を見に行く気になったのですが、例年決まって行くお気に入りの場所があるでもなく、どこに行ったものか思案をしていました。 そんな中、なんとなく選んだ先が御岳山で、紅葉の季節に訪れるのは初めてとなります。 前回(2013年8月)と違って、季節が変われば様相もすっかり変わっていました。 さらに前回と違って今回は天候に恵まれて、全く違った眺望が広がっていました。 本殿のある山頂付近に目を向けると、門前町の山上集落が、紅葉に染まった山肌に浮かんでいました。 古くから山岳信仰で栄えた武蔵御嶽神社の門前には、宿坊と並んで土産店や茶店も数多く並んでいます。 なんだか九份老街を思い出します。 武蔵御嶽神社は標高900m付近にあるため、紅葉のピークを過ぎている心配もあったのですが、まだまだ見ごろとなっていました 随神門 拝殿 前回は深緑の中を大岳山へと向かいましたが、今回は初見参の日の出山を目指すことにしました。 武蔵御嶽神社拝殿から見た日の出山
2014/11/16
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高校の日本史ではおなじみの話ですが、日本に現存する最古の戸籍は東大寺の正倉院に保蔵されており、奈良時代の下総国葛飾郡大嶋郷の戸籍です。そこには「甲和里」・「嶋俣里」の地名が登場し、現在の江戸川区小岩、葛飾区柴又ではないかと言われています。さらには、その戸籍の中には「刀良(とら)」と「佐久良(さくら)」なる人物の名前があり、奈良時代の柴又にもトラとサクラが住んでいたと話題になりました。かつて柴又村の鎮守であった柴又八幡神社では、社殿の裏手に古墳の石組のようなものが見られ、昔から古墳ではないかと言われてきたそうです。発掘調査の結果、社殿を中心とする円墳だとわかり、埴輪・直刀・馬具・須恵器などが出土したのですが、中でも平成14年に出土した人物の埴輪が注目を集めました。柴又八幡神社の埴輪(寅さん記念館にて)この「寅さん埴輪」が出土した平成13年8月4日は、奇しくも渥美清さんの命日でもありました。
2014/05/24
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大森貝塚遺跡庭園から池上通りを大井町方面に向かうと、途中に品川区立品川歴史館がありました。この手の郷土資料館では、テーマが局地的かつマニアックになりがちで、その分当たり外れも大きいところがあるため、入ってみるべきかどうかと、いつも迷うところです。今回は見送ろうかと思いつつ、ふと入り口脇を見てみると、石垣石みたいな石が目に入りました。近づいて見てみると、品川台場の石とのことでした。入館料が100円ということもあり、急に気が変わって中に入ってみることにしました。品川台場に関して言えば、昭和28年当時の海岸線の俯瞰写真があり、現在は残っていない第一台場や第五台場などが写っていたりして、かなり貴重な資料だと思います。品川歴史館の常設テーマの1つは大森貝塚で、大森貝塚や付近の縄文遺跡から発掘された出土品や資料などが紹介されていました。(大森貝塚の記事でも触れましたが、出土した貝殻が会議用のテーブルの上に普通に置いてあったのが驚きです)そして品川歴史館のもう1つのテーマが、東海道品川宿です。品川宿の北側の入口にあった傍示杭(復元)この傍示杭は歌川広重の東海道五十三次にも描かれていたものです。さらに圧巻なのは、模型で復元された品川宿の宿場町でした。床にはそれぞれの屋号が書かれており、両脇の模型の中を歩く感じです。さすがに江戸東京博物館でも、品川宿だけでここまでのことはできないと思います。ところで、現在の旧東海道品川宿はこんな感じです北品川商店街(2009年8月)一車線、一方通行の道幅がわずかに旧街道の面影を残しています。品川宿本陣の復元模型東海道のしかも江戸に最も近い本陣で「一文字三ツ星」とは不可解千万ですが、その由緒はわかりませんでした。現在の本陣跡(2009年8月)品川宿に限らず、御殿山のから出土した陶磁器なども展示してあり、かなり興味深いものがありました。(すでに江戸時代では、現代と変わりない食生活だったように思われます)たまたま入った品川歴史館でしたが、入館料100円でこの展示は大当たりでした。
2014/02/28
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名所江戸百景にも描かれた八景坂 (現在の池上通り)を上がって行くと、歩道の脇に史跡を示す碑が建っていました。日本史の最初の方ではおなじみの「大森貝塚」の碑ですが、意外とコンパクトにまとまっています。案内の矢印があり、ビルの狭い間を抜けるようにしてビルの階段を普通に降りていくと、ビルの通用口のような場所に史跡の解説板がありました。「大山鳴動 鼠一匹」とは言いますが、日本史ではあんなに大騒ぎしながら、なんだか拍子抜けした感じです。ビルのすぐそばを東海道本線と京浜東北線の線路が通っており、線路のフェンスぎりぎりにも碑がありました。「大森貝墟」と読めますなんともあっけない感じでしたが、再びビルの階段を登って池上通りに戻ると、「300mほど行ったところ(品川区)にも大森貝塚がある」旨のことが書かれていました。大森貝塚が2つもあるとは奇特な話ですが、再び池上通りを歩いて行くと、今度は大きな史跡公園にたどり着きました。今度は「大森貝塚遺跡庭園」とあって、歴史公園として整備されているものの、場所的には大森ではなく、大井に近いかと思います。(行政区分でも品川区です)大森貝塚と言えばモース、モースと言えば大森貝塚と言った感じですが、エドワード・モースが大森貝塚を発見したのは、1877年のことでした。横浜から新橋まで汽車で向かう途中、大森駅付近で線路脇の崖に貝塚があるのを発見したそうです。エドワード・モース像(大森貝塚遺跡庭園)縄文時代の海岸線(大森貝塚遺跡庭園)現在はすぐ下を東海道本線が通っています。モース博士は動物学者だったようですが、大森貝塚の発見がまさに考古学の幕開けと言っても過言ではないと思います。大森貝塚は「考古学発祥の地」と言われており、実際に「縄文時代」の名称は、大森貝塚から出土した土器に由来しています。モース博士は”Shell Mounds of Omori”の発掘報告書を出版しましたが、「大森」の地名はあるものの、具体的な場所までは明らかにされていなかったようです。大森貝塚の場所を巡っての混乱が続いたものの、モース博士の発見からちょうど100年経った1977年に公文書が見つかり、大森貝塚の発見場所は「大井鹿島谷二千九百六十番地」であったことが明らかになったそうです。実は大森貝塚の場所は大森ではなく、現在の品川区大井、すなわち「大森貝塚遺跡庭園」にあったようです。大森貝塚遺跡庭園にある貝塚の発掘跡具体的に大森貝塚の場所が明らかになった後、大森貝塚の付近を発掘調査したところ、住居跡や土器・石器・装身具、さらには人骨や獣骨なども発見されました。大森貝塚での出土品は、一部品川歴史館に展示してあります。出土した貝殻会議用のテーブルの上に、普通に並べてあるのが衝撃です。
2014/02/27
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「恐れ入谷鬼子母神」、真源寺前の言問橋通りでは、毎年恒例の入谷朝顔まつりが開催されていました。入谷の朝顔は江戸時代から知られており、朝顔の別名「牽牛花」に因んで、七夕の前後三日間で朝顔市が開催されるそうです。入谷の交差点から根岸一丁目の交差点までの間、言問橋通りは通行規制がされて、両側にずらりとお店が並んでいました。バリケードの所にいた警察官に聞くと、押してならば自転車で通っても構わないとのことでした。警察車両の屋根の上からマイクで呼びかける警察官もいましたが、ごく普通に通行規制の呼びかけをしているだけでした。さほどの混乱もなかったためでしょうが、「本当はおまわりさんも朝顔が好きなんです」とはならなかったようです。
2013/07/08
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北秋川と南秋川が合流する檜原村の中心部、檜原街道沿いに吉祥寺という寺院があり、この裏手の城山山頂に檜原城跡があります。檜原城遠景吉祥寺境内に建つ蔵には三つ鱗の家紋が描かれており、北条氏の縁をうかがわせていました。吉祥寺本堂屋根にも三つ鱗の家紋が輝いています。本堂裏手には墓地が広がっていて、その墓地の中に城山へ登る入口がありました。城山への登山道は十三仏巡りのコースになっており、山頂までは標高差130mを登るかなりハードな道筋です。途中で十三仏コースと城山コースに分かれるのですが、取り急ぎ城に用事があるので城山コースを行きました。どちらのコースも行き着く先は同じで、同じ斜面を交錯しながら登るようになっていました。東側の斜面(上からみたところ)斜面の途中には竪堀と思われる跡が上から延び、登城道を横切っていました。東側斜面には武者走りのような跡も見受けられましたが、城の遺構かどうかはわかりませんでした。檜原城の前に浅間嶺を往復してきたところで、この斜面を登攀するのはかなりこたえます。檜原城の曲輪は城山の頂上部に南北に延びており、登城道を登り切ると城跡の北側に着きました。藪に覆われた削平地があり、その先にも削平地が連なっていました本丸の先にある腰曲輪山頂部には曲輪が2つあり、北側にある曲輪が最も広くなっていました。こちらが二の丸だと思われます。二の丸からも南側に城郭が続き、堀切を隔ててピークへと続いていました。堀切跡二の丸よりも一段高くなった場所に曲輪と思われる削平地がありました。こちらが本丸と思われますが、櫓台のような感じでした。山頂部の城跡を見る限りでは、かなり小規模な城郭だと思いました。同じ北条氏の八王子城や津久井城のように、平時は吉祥寺のある山麓部分に居館を構えて街道筋を押さえ、山頂部分は物見台と有事の詰め城として機能していたのかも知れません。本丸から眺めると、檜原街道と北秋川方面が一望できました。※城山コースでは竪堀の先あたりの地盤が軟らかい上に崩落しており、十三仏コースを行かれることをおススメします。檜原城の築城年代については明らかではありませんが、鎌倉時代からこの地域を支配していた平山氏の拠点となっていたようです。檜原村役場の近くにある岩舟不動尊の解説によると、平山氏は北条氏に従ったため、以後は檜原城も北条氏の支配下となりました。岩舟不動尊平山氏重の妹鶴寿姫が信仰していた念持物で、北条氏の支配下となった後に実家である檜原に送られてきたものです。1590年の豊臣秀吉による小田原の役では、檜原城主であった平山氏重も北条方につき、平山城は落城しています。
2013/05/14
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JR青梅線の東青梅から北に約500mほど行った場所に光明寺があり、境内裏手の小高い丘陵が勝沼城のあった場所です。勝沼城遠景光明寺裏手の斜面は墓地になっていますが、遠目にも土塁の跡がうかがえます。墓地の中を登って行くと、虎口と思われる枡形がありました。勝沼城から見た青梅市街地斜面は切岸状になっていますが、城郭の遺構なのか、それとも墓地を造成した時のものかはわかりませんでした。虎口を抜けると堀切と思われる跡があり、曲輪と思われる削平地がありました。堀切跡曲輪跡ここが本丸だと思われます。本丸の周囲には土塁の跡が残っていました。わずかではありますが、土塁の跡だと思われます。それでも本丸の周囲に巡らされた空堀ははっきりと残っていました。空堀跡空堀は複雑に入り組んでいる印象があって、縄張りがなんだかよくわかりませんでした。さらには本丸南東側の斜面には腰曲輪の跡もありました。勝沼城は三の丸まで備えていたようですが、二の丸と三の丸と思われる曲輪の跡は墓地となっており、さすがに中に入っていくのはためらわれます。二の丸跡勝沼城は平将門の末裔を自称する豪族三田氏の居城でありましたが、築城主や築城年代は明らかになっていません。上杉謙信が武蔵に進出すると、武蔵国の他の豪族たちは、次々と上杉氏と敵対する小田原北条氏に従いましたが、勝沼城主三田綱秀は上杉謙信に従って、頑強に北条氏に抵抗し続けていました。そして1563年に滝山城の北条氏照の攻略により、勝沼城は落城しました。三田綱秀は勝沼城を放棄し、辛垣城に籠って抵抗を続けましたが、最後は自刃して、三田氏は滅亡しています。三田氏滅亡後は北条氏照の家臣師岡将影が入城して城郭の改変を行ったことからも、勝沼城は別名師岡城とも呼ばれています。光明寺の隣には、師岡氏の名前を冠した師岡神社が祀られていました。空堀が複雑に巡らされている印象を受けたのは、三田氏と北条氏の造った空堀が交錯しているからかも知れません。
2013/04/17
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青梅丘陵の西側、雷電山南東の標高457mにあるのが辛垣城で、青梅の有力豪族であった三田氏の拠点でありました。東青梅にある勝沼城を本拠地として、青梅丘陵の西側にある辛垣城は西城と呼ばれていたようです。縄張り図青梅丘陵ハイキングコースから分岐して、枡形山城のある東側の斜面から辛垣城を目指して行きました。東側の尾根に沿って登って行くと、ピーク上には腰曲輪か櫓台と思われる削平地が見られました。尾根道腰曲輪跡尾根道の途中に堀切のような跡がありましたが、腰曲輪以外は特に目立った遺構は残っていなかったように思います。やがて尾根道が急な斜面となり、登り切ったところで右手に巨大な堀切が見えてきました。ピーク手前の尾根道土橋のようにも見えますが、判然としませんでした。堀切跡両側を岩で削った堀切ですが、大正時代まではここで石灰石の採石が行われていたようで、辛垣城の遺構なのか、採石場の遺構なのかはわかりませんでした。いずれにしても戦国山城でこんな岩で囲まれた堀切は見たことがありません。堀切を抜けると、広い削平地に出ました。曲輪の跡だと思われ、周りには土塁のようなものが見えますが、城郭の遺構かどうかは依然として不明です。この岩盤が城郭の遺構で、なおかつ土塁だとすれば、相当堅固な城郭になると思います土塁に登って先をたどってみると、再び尾根道となって北側の辛垣山の山頂につながっていました。辛垣山山頂(標高457m)物見台があったかも知れませんが、防衛上はあまり重要でもないように思います辛垣山を下りて雷電山のある西側へ向かって行くと、こちら側には辛垣城のものと思われる遺構が残っていました堀切跡この堀切は竪堀となって、斜面を下っていました。下のハイキングコースから見たところ下から見ると、やまひだのように竪堀が伸び、その上に堀切があるのがわかります。空堀跡こちらもはっきりと残っています。土塁跡雷電山から戻って来た時は、辛垣山を巻いてハイキングコースを行きました。辛垣山から延びる稜線上には腰曲輪が配されていたようで、その跡が残っていました西側尾根の腰曲輪跡南側尾根の腰曲輪跡城跡も使いようかも知れませんが、手前の曲輪は砂防用に、奥の曲輪は鉄塔の敷地として使われていました。三田氏の本城である勝沼城に対し、辛垣城は詰め城のような役割だったと思われます。1563年に八王子滝山城の北条氏照が勝沼城を攻撃した時、三田綱秀は辛垣城に籠って抵抗しました。最後には力尽きて辛垣城も落城、三田綱秀は岩槻城に逃れましたが自刃し、三田氏も滅亡しています。見る限りでは堅固な印象のある辛垣城、この城が落城したということは、壮絶な攻防戦が展開されたことと思います。辛垣城の山麓、二俣尾の海禅寺には、その三田氏の供養塔があります。つはものどもが夢の跡
2013/04/16
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ハイキングを兼ねた戦国城郭めぐりは、青梅丘陵ハイキングコースのスタート地点を二俣尾の泉蔵院とし、まずは枡形山城へと向かいました。枡形山城は青梅丘陵の尾根へと続く稜線上にあり、泉蔵院脇の山道を登り始めると、神社の鳥居が現れました。道はここで分岐しており、鳥居をくぐる道はと枡形山城の本丸へ、もう一つは堀切跡を通って枡形山を巻くような恰好になっていました。堀切跡鳥居側から見たところ反対側にも曲輪のような削平地がありました。神社の鳥居の方を登ると、途中にも土塁や堀切の跡のようなものがあったのですが、遺構かどうかはわかりませんでした。土塁跡?堀切跡?やがて曲輪と思われる削平地に到着、祠があってここが本丸だと思われます。本丸にある二等基準点(標高376m)枡形山城の築城については2通りの説があり、三田氏が辛垣城防衛のための出城として築城したとする説が1つ、そして北条氏が辛垣城攻略のための向い城として築城したとする説がもう1つです。枡形山城の本丸からは、その辛垣城のある青梅丘陵の尾根に向って、さらに城郭の遺構が残っていました。堀切でしょうか青梅丘陵に続く稜線には土橋の跡なども残っており、遺構と縄張りからはどちらの説とも言い難い気がします。元々は三田氏が辛垣城防衛のための拠点として築いたものの、辛垣城を攻略する北条氏照が奪回し、辛垣城攻略の拠点として改変したとも考えられます。それでもこの後に訪れた辛垣城を見る限りでは、枡形山城に続く東側の尾根に遺構があまりなく、東側の防御が薄いような印象がありました。枡形山城が辛垣城を攻めるための向かい城であるならば、辛垣城の方も枡形山城に近い東側の尾根の防御を固めるかとは思います。枡形山城が独立した城郭というよりも、辛垣城の城郭の一部として機能していたように思いました。
2013/04/15
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志村坂上で旧中仙道を離れ、城山通りの坂を上がって行くと、目の前に城山の急斜面が見えてきました。丘陵の麓部分は城山公園の広場となっていますが、こちらは志村城の搦め手方向になります。城山の上は台地となっており、この台地上に志村城跡がありました。現在は熊野神社の境内となっており、城跡には熊野神社の社殿が建っていました。1042年に志村将監が紀州から勧進したと伝えられており、志村城主であった千葉自胤によって、志村城の守護神とされました・熊野神社本殿本殿は昭和32年に改築されたものですが、歴史としては本殿横にある絵馬殿が古く、江戸時代の中期から後期に、旧拝殿を移築したものです。絵馬殿絵馬殿の中には地域住民から寄進された絵馬が奉納してありますが、中でも「伊勢太々神楽奉奏」の絵馬には、寛永7(1795)年の文字が書かれていました。志村城に戻って、熊野神社の裏手を探索してみると、わずかながら土塁と空堀の跡が残っていました。土塁の跡社殿のすぐ背後にも土塁のような跡がありますが、元々志村城は古墳の上に造られたようなので、古墳の一部かも知れません。境内の西側には空堀らしき跡も残っていました。空堀跡だと思うのですが、熊野神社の境内は志村城の二の丸に相当し、二の丸西側の本丸跡にはマンションが建っていました。空堀跡。志村城の歴史は古く、1456年に千葉自胤が赤塚城に入城した際に、赤塚城の支城として築かれました。城山の丘陵と出井川・荒川の要害に囲まれ、難攻不落を誇った城だったのですが、1524年に小田原の北条氏綱に攻められて落城、廃城となっています。
2013/03/25
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桜と言えばソメイヨシノでしょうか。「ヨシノ」は桜の名所、奈良の吉野の山桜ですが、「ソメイ」は巣鴨にある地名で、実は巣鴨がソメイヨシノ発祥の地です。染井霊園江戸時代の染井村の植木職人による交配種が、桜の代名詞ソメイヨシノとなりました。お花見のスポットではありますが、墓標が建ち並ぶ霊園なので、さすがに宴を開いている人はいませんでした。
2013/03/22
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八王子市の南部、北野街道と国道16号線が交差する付近に片倉城跡があります。現在は片倉城跡公園となって、二の丸が広場として整備されています。二ノ丸二ノ丸の東側に本丸があり、なぜか二ノ丸よりも一段低い位置にありました。本丸跡二ノ丸と本丸の間の空堀荒れてはいますが、空堀の跡が残っていました。現在は二ノ丸までが確認されているようで、二ノ丸の外側には空堀の跡が残っていました。二ノ丸の先にも曲輪があるのではないかと思って空堀を登ってみると、その先には畑が広がっているだけでした。それでも畑の畦道をたどってみると、いかにも曲輪の跡らしき場所がありました。後世になって整地されたのかも知れませんが、土塁らしき跡もわずかに残っており、個人的には曲輪の跡だと思います。(三ノ丸ということになるでしょうか)曲輪だとすれば方形の北条流の築城術が見られる上、西側に城郭が広がっていたことになり、甲斐との国境に近いこの場所で、西側に備えていたとしても不思議ではありません。片倉城の築城時期や築城主についてははっきりしておらず、文献には応永年間(1394~1428年)に大江師親が拠点とし、大江氏の後裔の長井氏も居城としていたと記録にあるようですが、確証はないとのことです。それでも本丸の背後にある住吉神社には、一文字に三ツ星の家紋があり、大江氏とは何らかの関係があると思います。ちなみに一文字に三ツ星は毛利氏の家紋でもあり、同じく大江氏の末裔でもあります。解説板によると、周りの城郭との比較から15世紀後半以降に築城され、16世紀後半に廃城になったとのことで、城郭の形態や立地から小田原北条氏の築城による可能性があるとのことです。築城の形態からしても、私も北条氏の拠点であったことは間違いないと思います。しかも16世紀になってから築城され、八王子城や滝山城の支城として、西への防衛拠点だったのではないでしょうか。(廃城時期は1590年の小田原の役の時だと思います)
2012/12/11
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本所七不思議も残すところあと2つとなり、本編も無事最終回となりました。残る2つのうちの1つは「送り提灯」で、舞台はやはり南割下水の近く、法恩寺の付近だとされています。法恩寺山門前南割下水に沿って七不思議を追っているうちに、両国から錦糸町へと来ました。江戸時代の古地図を見ても、南割下水の中でもこの一帯は寺院が集まっています、法恩寺に来て気づいたのですが、実は法恩寺を訪れるのは2回目で、前回はここが本所七不思議の舞台だとは知りませんでした。法恩寺は大田道灌の開基によって建立された寺院で、平河山の山号があるように、元々は江戸城の北東にありました。徳川時代の江戸城では、北東の方角にある門は平河門と呼ばれ、別名「不浄門」とも呼ばれています。昔は方角を十二支で表しており、北東の丑寅(うしとら)の方角が鬼門として忌み嫌われており、江戸城に限らず北東の鬼門の方角には、「鬼門除け」として鎮守の神社や寺院が置かれることがよくあります。法恩寺は江戸時代になって現在地に移転し、徳川時代の江戸城の鬼門除けとされたのは上野寛永寺でした。ところで江戸時代には方角を十二支で表したといいましたが、北東の丑寅(うしとら)が鬼門であるのに対し、南西の未申(ひつじさる)の方角も裏鬼門として忌み嫌われていました。一方で南東の辰巳(巽)や北西の戌亥(乾)は吉方とされ、江戸城に限らず大手門は辰巳の方角、天守は戌亥の方角にあるケースをよく見かけます。幕末に「太平の眠りを覚ます上喜撰」と、宇治茶の代名詞として歌われた喜撰法師も、百人一首の中で、「わが庵は都の巽」と少々ご自慢気な様子です。(その後は掛詞を使いながら、「しか(鹿)ぞ住む」とか「世(予)を憂じ山(宇治山)と人は言うなり」と控えめです)現在でも十二支が方角の由来となっていることもあり、例えば船が左に舵を切るとき、十二支の方角をとって「取り舵(酉舵)いっぱい」と言ったりします。(右に舵をとる「面舵(おもかじ)」は「卯の舵(うのかじ)」が訛ったとも言われています)話は七不思議に戻って、「送り提灯」の舞台となったのがその法恩寺付近のようです。夜更けに本所を歩いていると、前方にポツンと提灯の明かりが見え、その提灯をいくら追いかけても同じ距離で先へと進んでしまい、まるで自分を送っているように見えるという話です。推測するに、地表面と空中の温度差によって起こる光の屈折ではないでしょうか。現在でも、アスファルトなど地表面の温度が空中より高い場所では「逃げ水」が見えますが、その逆の蜃気楼現象のようにも思います。(もちろん江戸時代には光が曲がって進むことなど、想像もつかないことかも知れません)いよいよ本所七不思議も最後となりましたが、一番最後は最もポピュラーな話かも知れません。「置いてけ堀」です。錦糸町付近には堀が数多く巡らされていたようで、現在は堀跡に「錦糸堀公園」が造られています。錦糸堀公園にある河童像「置いてけ~、置いてけ~」の声の主が河童だったとは納得が行かないところですが、さらには河童像がコミカルなのも合点がいかないところです。堀にはなっているものの、海水が混じっていたと思うので、おそらくフッコ・ハゼ・ボラあたりがよく釣れたのかも知れません。それでも全く釣果なくボウズで帰って来たとき、「河童かなにかが『置いてけ~、置いてけ~』と言うので、釣った魚を全部置いてきた」と、言い訳にもならない言い訳が七不思議になってしまったとしたら。関連の記事本所七不思議めぐり~その1~「片葉の芦」「落ち葉なしの椎」→こちら本所七不思議めぐり~その2~「馬鹿囃子」→こちら本所七不思議めぐり~その3~「消えずの行灯」「津軽の太鼓」「足洗い屋敷」→こちら
2012/09/13
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平戸藩松浦氏が「馬鹿囃子」を追いかけて音源を見失った先が「南割下水」でした。南割下水は雨水を川に排水するために開削された排水路で、現在の両国から錦糸町まで、東西に延びる排水路です。幕末の江戸の地図にも南割下水の水路を見ることができます。当時の南割下水は幅が1間(1.8m)から2間(3.6m)ほどの細い水路で、水も淀んだ暗い場所だったようです。本所七不思議も南割下水沿いに集中していることからも、相当薄気味悪い場所だったことがうかがえます。その南割下水には、夜鳴き蕎麦の屋台が出ていました。ところがいつ行っても誰もおらず、明かりだけが点いているというのが、本所七不思議の1つ「消えずの行灯」です。タヌキかムジナのような動物が描かれていますが、江戸時代では不思議なことが起こるとタヌキの仕業だとされていたようです。「消えずの行灯」の話はさほど不思議でもないような気がして、商売っ気のない店の主人が片手間に夜鳴き蕎麦屋を営んでいただけの話かも知れません。それでも逆バージョンの話もあるようで、いつも誰もいなくて明かりも点いていない屋台があって、通りがかりの人が親切に明かりを点けてあげると、その人に災いが降りかかるという、こちらはとんでもない話です。南割下水は昭和になって埋め立てられ、現在は「北斎通り」の舗装道路となっています。その名の通り葛飾北斎が生まれた場所に因んでこの名前が付いています。南割下水に面したところには、弘前藩主津軽越中守の上屋敷があり、「津軽の太鼓」の舞台でもあります。画像上側が南で、下側が北になります。現在の弘前藩津軽越中守の上屋敷跡「火事と喧嘩は江戸の花」と言われるように、火事の多い江戸の大名屋敷には、必ず火の見櫓が建っていました。火の見櫓には「板木」があって、火事の時には板木を叩いて急を知らせていました。ところが弘前藩の屋敷だけは、他の大名屋敷とは違って板木ではなく太鼓を使っており、「これは不思議だ」ということになったようです。火事を知らせるのに板木ではなく太鼓を使ったところで、「だから何なの?」と思われるかも知れませんが、私も全く同感です。(むしろ太鼓の方がわかりやすくていいかも知れません)実は「本所七不思議」のエピソードは九つあって、この「津軽の太鼓」は本所七不思議に入ったり入らなかったりといった話になっています。その津軽越中守上屋敷跡から、南割下水跡である北斎通りを東の錦糸町方面に向かっていくと、亀沢の「足洗い屋敷」の旗本の屋敷跡に来ました。「足洗い屋敷」の方は本所七不思議のレギュラーなのですが、これがまたとんでもない話です。夜中の丑三つ刻になると、突然天井から足が現れて、「洗え、洗え」と命じてくるとのことでした。足を洗ってやると素直に足を引っ込めるのですが、洗わないでいるとまた同じことが起こるので、この旗本はついに屋敷を代えたそうです。足を洗うとか洗わないとか言うのもさることながら、天井から足が現れるなんて、七不思議とか言う以前に、もはや事件ではないでしょうか。しかも旗本屋敷の天井から足が現れたとなると、絵島事件や浅野内匠頭の刃傷事件も影を潜めてしまいそうです。この旗本は大真面目に訴え出て、それを聞いた幕府も大真面目に屋敷代えを許可したそうで、全く意味不明です。「夜毎に天井から足が出るとは尋常ではないが、これは致し方あるまい。屋敷代えを認める。」なんて言っていたのでしょうか。関連の記事本所七不思議めぐり~その1→こちら本所七不思議めぐり~その2→こちら
2012/09/12
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企画倒れによる中断を案じながらも、「片葉の芦」・「落ち葉なしの椎」に続く本所七不思議は、すばり「馬鹿囃子」です。そんな跡を探しに行く方がよほど馬鹿かも知れませんが、これと言った特定の場所もないのが悩みどころです。そこで訪れたのが、馬鹿囃子を聞いたとされる肥前平戸藩松浦氏の下屋跡です。グーグルアースの江戸時代(1680年)の古地図には、確かに「松浦肥前守」の文字が見えます。ところで「落ち葉なしの椎」も、平戸藩松浦氏から分家した平戸新田藩松浦氏の江戸屋敷跡でした。七不思議のうちの二つまで松浦氏が絡んでいるのも不思議な話です。その平戸藩松浦氏の下屋敷跡は、本所中学校の敷地になっていました。ところでこの本所中学校のOBには、王貞治・いかりや長介・津本要が名を連ねています。どこからともなく祭のお囃子の音が聞こえてきて、その音源を確かめようとして、追いかけて行けば行くほど、お囃子の音は遠ざかってしまうというのが「馬鹿囃子」でした。考えてみれば、当時は世界一の人口を誇った大江戸とは言いながらも、現代とは違って木造平屋建ての広がる町割りです。夏も冬も季節風の吹き方は現代以上だったと思われるので、風に乗ってお囃子が聞こえてきたとしても不思議ではありません。夏の夜に、浦安の方からパレードの音が風に乗って深川で聞こえたとしても、さほど不思議ではないとは思いますが、江戸時代では大騒ぎだったのでしょうか。ましてや、「堀江猫実でネズミとアヒルが行列を作って騒いでいる」などとなると、旗本が緊急招集されて総動員くらいの話かも知れません。その馬鹿囃子を聞いた松浦氏も人を出して音の元を探ったそうですが、南割下で音源を失ってしまったそうです。(現代の潜水艦風に言うならば「音源ロスト」でしょうか)南割下は現在の両国から錦糸町の間にあった排水路で、その幅は広くてもせいぜい2間(3.6m)ほどの薄暗い水路だったようです。他の本所七不思議も南割下付近に集中しているのですが、それだけ薄気味悪い場所だったことでしょう。今回は本所七不思議を自転車で巡ったのですが、「馬鹿囃子」の松浦氏の下屋敷から南割下までは、自転車でもしんどい距離にあります。よくも南割下まで追いかけたと思う反面、南割下でお囃子が消えたとなると、いくら主命とは言え、引き返したくなるのが心情かも知れません。
2012/09/11
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「本所七不思議めぐり」ということで、前回は企画倒れに終わったこのマイナー企画が復活しました。まずは両国からスタートすることとなり、そのスタート地点は回向院です。本所七不思議を題材にした宮部みゆきさんの「本所深川ふしぎ草紙」では、七編全編に「回向院の茂七」という岡っ引きが登場します。高校の日本史では、江戸時代の警察組織として「与力-同心-岡っ引き」と習ったので、岡っ引きは下の位かと思っていまいした。岡っ引きの茂七は本所一帯の刑事(下っ引き)の親分、すなわち捜査課長のような存在です。それでも岡っ引きは同心や火付盗賊改方の配下にあるので、火付盗賊改方の「鬼平」こと長谷川平蔵の方が上ということになります。さらには「大江戸捜査網」の伝法寺隼人(音次郎)や井坂十蔵などは、隠密ながら「同心」なので、茂七親分よりも上にいることになります。(もっとも隠密同心の方は老中松平定信の直属組織なので、泣く子も黙る存在だったことでしょう)前置きは長くなりましたが、回向院から隅田川へと向かい、まずは両国橋にやってきました。江戸時代の始め頃までは隅田川が武蔵国と下総国の国境となっており、武蔵と下総に架かる橋に因んで両国橋と名付けられています。江戸時代の両国橋は現在よりも下流に架かっており、現在の両国橋のある辺りには「方葉掘」と名付けられた入り江があり、駒止橋が架かっていました。この駒止橋一帯の隅田川には芦が生い茂っており、本所七不思議の1つ「片葉の芦」の舞台です。「片葉の芦」のあった現在の隅田川コンクリートで護岸されており、片葉に限らず芦が生えている方が七不思議でしょうか。解説板によると、かくかくしかじかです。本所横網町に住んでいた留蔵という男が、三笠町のお駒という女性に惚れ込みました。留蔵はあの手この手でお駒に言い寄りますが、お駒は一向に留蔵になびかなかったので、腹を立てた留蔵はお駒の片手片足を切り落として大川(隅田川)に投げ込んだそうです。それからは、ここに生える芦は全て「片葉の芦」となったというのが七不思議の由来です七不思議というよりも単なるホラー話ですが、さらに解説板によると、「入り組んだ地形の風の吹き方が影響したと考えられる」とのことです。現在の駒止橋跡「本所七不思議めぐり」は早くも先行きが怪しく、またもや企画倒れに終わりそうな予感を感じながらも、再び回向院前から国技館通りを北へと向かって行きました。そういえば秋場所の初日でした。「片葉の芦」の次は「落ち葉なしの椎」、同じ隅田川沿いにある平戸新田藩松浦家の旧江戸屋敷跡です。江戸時代の切り絵図画像下側が北で、右側(西側)に大川(隅田川)が描かれています。松浦家の屋敷には椎の木が植えられていましたが、この木から葉が落ちるのを誰も見たことがないと言うので評判となり、「落ち葉なしの椎」として本所七不思議の1つとなりました。「椎の木屋敷」旧松浦家の屋敷跡(両国公会堂)「片葉の芦」がホラー話ならば、こちらは都市伝説といった感じですが、またまた解説板によると、元々椎の木は常葉樹で落ち葉は少ないとのことです。さらには大名屋敷という特別な存在もあって、このような伝説が広まったとのことでした。七不思議めぐりはどこまで続くのでしょうか。関連の記事本所両国散策(2008年9月)→こちら【送料無料】本所深川ふしぎ草紙 [ 宮部みゆき ]【送料無料】平成お徒歩日記 [ 宮部みゆき ]
2012/09/09
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自転車に乗って走っているうち、小伝馬町までやってきました。小伝馬町と言えば、江戸時代に伝馬町牢屋敷のあった場所で、現在の十思公園がある一帯に牢屋敷があったとされています。広さは2,618坪もあり、旗本の「揚座敷」、武士・僧侶の「揚牢」、町民の「大牢」の他「百姓牢」や「女牢」がありました。約270年間の間に数十万人が牢送りになったと言われていますが、伝馬町牢屋敷が最も知られるのは、やはり幕末の安政の大獄でしょうか。1858年9月から1859年12月までの間の極悪非道な政治弾圧により、延べ96人が伝馬町の牢屋敷に送り込まれ、そのほとんどが処刑されました。その最後の処刑者となったのが、長州萩で松下村塾を主催していた吉田松陰です。十思公園にある「吉田松陰先生終焉之地」の碑その横には松陰先生の辞世の句が刻まれています。身はたとひ 武蔵の野辺に朽ちぬとも 留めおかまし 大和魂松陰先生の亡骸は回向院に無縁仏として葬られていましたが、後に高杉晋作・伊藤博文らの松下村塾門下生によって現在の松陰神社に改葬されました。吉田松陰の処刑によって安政の大獄は終わりましたが、同時にそれは倒幕の始まりだったかも知れません。
2010/11/09
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吉田松陰先生を祀る松陰神社と言えば、松下村塾のある山口県萩市が有名かと思いますが、世田谷の松陰神社も縁の深い場所です。最寄駅は東急世田谷線の松陰神社前です。松陰神社境内にある松陰先生の像参道入口の大山道(矢倉沢往還、現在の世田谷通り)沿いに建てられていた道標。明治45年に同じ長州出身の乃木希典によって建てられたものです。松下村塾もちろん復元されたもので、実物は萩の松陰神社にあります。1859年の安政の大獄で大老井伊直弼により死罪に処せられ、その亡骸は他の罪人と同じく、小塚原の回向院に無縁仏として埋葬されていました。1863年に松下村塾の門下生であった高杉晋作・伊藤博文らが、その亡骸を改葬したのがこの場所です。同じ安政の大獄で刑死した頼三樹三郎の墓碑や、明治維新をみることなくこの世を去った長州藩士の墓碑も並んでいます。1866年の長州征伐の時、幕府軍によって墓所が破壊されましたが、1868年(明治元年)に木戸孝允(桂小五郎)によって修復されました。高杉晋作率いる奇兵隊や大村益次郎の近代用兵を相手に、「長州征伐」とは聞いて呆れますが、修復の際には徳川氏によって、謝罪の意味を込めた灯篭が墓前に寄進されました。吉田松陰先生の辞世にある二つの歌です。「親思う こころにまさる 親心 今日の音ずれ 何と聞くらん」「身はたとひ 武蔵の野辺に 朽ちぬとも 留め置かまし 大和魂」松下村塾門下生たちは遺志をさらに深く心に刻んでいたことでしょう。左から高杉晋作・吉田松陰・久坂玄瑞(道の駅「萩往還」にて)山県有朋・木戸孝允・伊藤博文品川弥二郎・山田顕義関連の記事回向院(東京・足立区)→こちら松陰神社(山口・萩市)→こちら
2010/10/01
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世田谷城は目黒川の支流である烏山川が蛇行する台地上にあり、その城郭は豪徳寺の境内までも含む大規模なものだったようです。豪徳寺の南側の住宅地内に世田谷城址公園があり、土塁や空堀の跡が保存されていました。空堀跡石垣は後世になって積まれたものだと思います。公園脇には土塁の跡も残っていました。縄張り図を見ると、城址公園の方は詰城として機能していたようで、本丸は豪徳寺の境内にあり、城主の居館が置かれていたようです。豪徳寺の方へ行ってみると、境内の脇にわずかに土塁が残っていました。世田谷城の歴史は古く、1366年に足利氏の一族である吉良治家によって築城されたと言われています。吉良氏は「世田谷吉良殿」とも呼ばれ、足利氏一族として相応の力を持っていたようです。15世紀後半の関東の戦乱においては、太田道灌と同盟関係を結んで、武蔵国の中心勢力でもありました。16世紀後半の戦国時代においては、吉良頼康が小田原北条氏と縁戚関係を結び、北条氏の支配下にありました。しかしながら1590年の豊臣秀吉による小田原攻めの時、世田谷城も秀吉方に攻められて廃城となっています。江戸名所図会を見ると、豪徳寺の横に世田谷城跡が描かれていますが、すでに江戸時代には城郭が失われていたようです。関連の記事豪徳寺→こちら
2010/09/30
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小田急線の駅名にもある豪徳寺は、世田谷城主であった吉良氏の居館が置かれ、世田谷城の主要部であったと言われています。豪徳寺の山門世田谷城主であった吉良政忠によって、1480年に建立された弘徳院が豪徳寺の前身とされ、後に臨済宗から曹洞宗に改宗されました。江戸時代に入って彦根藩の世田谷領が成立すると、1633年に彦根藩主井伊直孝(井伊直政の次男)が井伊家の菩提寺とし、井伊直孝の法号から豪徳寺と改称されています。井伊直孝の娘である掃雲院によって多くの堂舎を建立・寄進し、豪徳寺を井伊家の菩提寺に相応しい寺院へと改めました。三重塔仏殿1676年に掃雲院によって建立されたもので、当時から現存している建物です。鐘楼1679年に建立され、仏殿と同じく現存しています。豪徳寺は招き猫発祥の地とされており、境内には招猫観音を祀る招猫堂がありました。彦根藩主であった井伊直孝が豪徳寺の前を通りかかった時、寺の飼い猫が門前で手招きするような仕草をしました。そこで井伊直孝が寺に立ち寄って休憩していると、突然雷雨が降り始めたため、猫のおかげで雨に遭わずに済んだことから、井伊直孝は喜んで豪徳寺に多くの寄進をしたとされています。(さらにはこれが縁で、豪徳寺は井伊家の菩提寺となりました)招猫堂の中を見ると、招き猫がずらりと並んでいました。豪徳寺では招福猫児(まねぎねこ)と呼ばれ、彦根城の「ひこにゃん」のモデルでもあります。招き猫の縁で井伊家の菩提寺となった豪徳寺には、井伊直孝以降の井伊家代々の墓所が置かれています。初代井伊直政の墓所はありませんでした。徳川四天王の井伊直政から続く井伊家ですが、やはり井伊家と言えば、幕末の大老であった井伊直弼が有名かと思います。井伊直弼墓所松陰神社(吉田松陰の墓所)がすぐ近くにあるのですが、なんとも皮肉な感じがします。
2010/09/29
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渋谷に行くのは久しぶりだったのですが、相変わらず人は多いものの、一時と比べれば随分と少ない気もしました。(休日の昼間に行ったことがないので、こんなものかも知れませんが…)ところで「渋谷に城なんてあったのか?」って感じですが、渋谷駅東口を出て六本木通りを六本木方面に向かって行くと、少し高台になった場所に金王八幡宮があり、ここが渋谷氏の本拠地である渋谷城の跡です。金王八幡宮遠景青山通りと六本木通りの交差点にも「金王坂」の地名がありますが、金王の名称は渋谷金王丸に由来しています。金王八幡宮社殿社殿は徳川家光が三代将軍に決定した時、青山忠俊が春日局と共に、1612年に造営を開始したものです。渋谷氏の時代は曲輪の跡だったかと思いますが、当時は方形の中世武士館が建っていたことでしょう。神社の西側を渋谷川が流れ、当時としては相応に要害を形成していたのかも知れません。現在の金王八幡宮の門も、1769年に創建されたとする説と、1801年に創建されたとする説の2通りがあるのですが、いずれにしても江戸時代から現存する建築物です。金王八幡宮の門今となっては見る影もありませんが、渋谷城そのものは戦国時代末期まで現存そしていた城郭です。さらにビックリなことに、当時の砦の石垣石が残っていました。これが残っているのも驚きですが、関東の城郭で戦国時代に石が使われていたのは、もっと驚きです。渋谷城の築城時期は明らかではありませんが、少なくとも平安時代末期から渋谷氏の居館が置かれていたものと思われます。源義家が御三年の戦い(1083~1087年)に勝利した後、「この勝利は(渋谷氏の祖である)河崎土佐守基家の信奉する八幡宮の加護なり」と、河崎氏(渋谷氏)の居館に八幡宮が創建されたと言いますから、渋谷城の歴史は相当古いものだと思われます。渋谷氏の城主の中でも渋谷金王丸は、源頼朝VS源義経の争いの中で、頼朝方に付いて1185年に義経の館に討ち入りして最期を遂げました。その源頼朝の勝利に貢献した渋谷金王丸の功績を偲び、頼朝が鎌倉から移植したとされる桜の木が、今も境内に残っています。今も「金王桜」として、境内に残っていました。源頼朝と親交が深く、鎌倉幕府の設立に貢献した渋谷金王丸、頼朝が送った桜の木もさることながら、ここには渋谷金王丸が自らの姿を彫刻した像も残っているようです。その像が納められている「金王丸御影堂」渋谷の地名の由来となった渋谷城ですが、さらに戦国時代の末期まで続いていたのは、驚き以外のなにものでもありません。渋谷金王丸の活躍から300年以上も経った関東の戦国時代の最中、1524年に小田原北条氏の攻めにより、渋谷城は落城してしまいまいました。戦国の関東で渋谷氏の名前は出てこないのですが、「よくそこまで残っていたもんだ…」って印象です。
2010/09/28
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三宝寺池が広がる都立石神井公園に石神井城の城跡があり、平安時代からこの地域で勢力を持っていた豊島氏の拠点でした。三宝寺池石神井川の水源でもあります。三宝寺池から見た本丸跡三宝寺池に架かる橋を渡ると、本丸の脇に城跡碑がひっそりと建っていました。発掘調査に基づく縄張り図を見ると、土塁と空堀で囲まれた城郭だったことがわかります。中世の武士館に近い感じでしょうか。本丸周囲には土塁と空堀の跡がわずかに残っており、現在はフェンスで保護されて立入禁止となっていました。本丸の土塁跡本丸の空堀跡ここまで残っているのは、奇跡的な気がします。縄張り図からすると、この道路も空堀跡のように思います。石神井城の築城時期は明らかではありませんが、平安時代末期より豊島氏の拠点となっていたようです。石神井川沿いには豊島氏の城郭が多く並んでおり、豊島氏の勢力拡大は石神井川と深い関係にあったのかも知れません。豊島泰経の時代の1477年には、長尾景春の乱に呼応して、豊島泰経も石神井城と練馬城で挙兵しました。一方で長尾景春の乱を鎮圧するために出陣したのが太田道灌で、豊島泰経と太田道灌は「江古田原・沼袋の戦い」で激突、豊島泰経は石神井城に敗走しています。太田道灌はなおも石神井城に攻め寄せたのですが、豊島泰経が味方の小机城に敗走したため、石神井城は落城しました。(太田道灌はさらに小机城まで攻め寄せ、小机城も落城したため、ここで豊島氏は滅亡しています)
2010/09/20
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城跡が神社や寺院の境内に変わっているのはよくあることですが、こういうのは初めてかも知れません。練馬城の跡は「としまえん」に変わっており、城郭の遺構は全く残っていませんでした。それでも練馬区にありながら「としま」の名称が付いているのは、練馬城主であった豊嶋氏に由来しています。また、としまえん付近のマンションには「キャッスル」の名前が付いていたりして、ここが城跡だったことは、一応認識されているようです。練馬城は、1331年~1333年頃に造られ、豊嶋氏一族の拠点となっていました。豊嶋氏の本拠地である石神井城の支城として位置付けでもあったようです。1477年の長尾景春の乱の時に、豊嶋泰経は石神井城と練馬城の両方で呼応して兵を挙げ、太田道灌の拠点である江戸城と河越城のラインを分断する役目を果たしていました。しかしながら江古田原・沼袋の戦いで豊嶋泰経が太田道灌に敗れると、石神井城と同じく練馬城落城したとされています。
2010/09/17
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西武池袋線と新宿線の駅名にもある江古田と沼袋ですが、この辺り一帯は1477年に太田道灌と豊嶋泰経が激突した戦場でもありました。現在は妙正寺川沿いに江古田公園に、古戦場の碑が建っています。戦国時代の始まりは1467年に京都で起こった応仁の乱とされていますが、すでに関東では1455年に起こった享徳の乱により、戦国時代へと突入しつつありました。鎌倉公方(後に古河公方)足利氏VS室町幕府足利将軍・関東管領上杉氏の対立の構図が出来上がり、以後は関東の諸将を巻き込みながら、約30年にわたって戦乱が続いていました。(元々は鎌倉公方の足利持氏が元凶ですが、さらには足利成氏が引っ掻き回して、とてもややこしい構図を作ってくれました)その戦乱の中、1476年に関東管領上杉氏の家臣である長尾景春が、古河公方足利成氏と結んで鉢山城で反旗を翻し、世に言う「長尾景春の乱」が勃発しました。長尾景春によって(山内)上杉顕定と(扇谷)上杉定正の陣が急襲され、上杉顕定と上杉定正は敗走したのですが、長尾景春の乱の鎮圧に乗り出したのが、扇谷上杉家の家宰であった太田道灌です。一方、長尾景春の挙兵に呼応して、関東の諸将も次々と挙兵しましたが、その中の1人に石神井城に本拠を置く豊嶋泰経がいました。豊嶋泰経は石神井城と練馬城で挙兵し、太田道灌の拠点である江戸城と河越城を結ぶ防衛ラインの分断にかかりました。太田道灌も豊嶋泰経の石神井城を攻撃するために進軍し、両者が激突したのが江古田・沼袋原でした。結果は豊嶋軍の敗退に終わり、さらには豊島氏の石神井城も太田道灌によって落城しています。妙正寺川から古戦場の方を振り返ると、太田道灌の「足軽軍法」もはるか遠い出来事のように思えます。
2010/09/16
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林芙美子の旧宅が中野にあるというので、行ってみることにしました。昭和16年から亡くなる昭和26年まで、林芙美子は中野に住んでいたそうです。「放浪記」のイメージからは全く違って、豪邸と呼べるほどの立派な邸宅でした。夫で画家の手塚緑敏は平成元年までここに住んでおり、林芙美子の居室とは離れになっていました。夫婦の部屋が離れになっているのは、羨ましい限りです。林芙美子は家事が大好きだったようで、日本で初めての冷蔵庫なども置いてあったりしました。さらには晩年は児童文学なども書いていたそうです。林芙美子の書斎電灯以外は全部尾道に持って行かれたと、ボランティアガイドの方が悔しそうに話していました。放浪記は全部読んだわけではないのですが、最初のフレーズに強烈な印象を受けたのを覚えています。海が見えた。海が見える。五年振りに見る尾道の海はなつかしい。汽車が尾道の海へさしかかると、煤けた小さい町の屋根が提灯のように拡がってくる。赤い千光寺の塔が見える。山は爽やかな若葉だ。緑色の海向こうにドックの赤い船が、帆柱を空に突きさしている。私は涙があふれていた。尾道の海は瀬戸内海を象徴するような海で、強烈なノスタルジーがひしひしと伝わってきます。尾道水道(2008年8月)芸予諸島やはり林芙美子=放浪記で、放浪記=林芙美子でしょうか。尾道駅前の林芙美子像(2008年8月)関連の記事文学のこみち(2008年8月)→こちら
2010/09/15
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門前仲町の永代通りから続く深川不動尊の参道は、「人情深川ご利益通り」と名付けられています。門前仲町の地名は、深川不動尊の前身である永代寺の門前町であることに由来しています。深川不動尊の正式名称は「成田山東京別院深川不動堂」で、成田山新勝寺の東京別院として位置付けられています。江戸時代には、成田山新勝寺の本尊である不動明王を、江戸市中で一般に公開する「出開帳」が行われてきました。1703年に1回目の出開帳が富岡八幡宮の別当である永代寺で行われ、これが深川不動堂の始まりとされています。「成田屋」の屋号を持ち、成田山に深く帰依していた市川團十郎が、不動明王の登場する芝居を行ったこともあり、成田山の人気が一気に高まったことから「出開帳」が行われるようになったそうです。関連の記事成田山新勝寺→こちら富岡八幡宮→こちら
2010/07/23
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明治通り沿いには「向島百花園」の標識をよく見かけるのですが、前から気になっていたので、中に入ってみることにしました。一面緑に覆われていて、やはり見ごろは春か秋なのかも知れません。この季節の花と言えば花菖蒲です。花の数では堀切菖蒲園には及ばないものの、ここだけはカラフルな感じでした。さらにもう1ヶ所、花が咲いている場所がありました。ガクアジサイ向島百花園の歴史は古く、江戸時代の1805年に佐原鞠塢(きくう)と言う人が、約3,000坪の元旗本の屋敷跡を購入し、梅を植えたことに始まります。当時の亀戸には「梅屋敷」があり、こちらは「新梅屋敷」と呼ばれていたのですが、後に「百花園」と呼ばれるようになりました。やがて百花園は江戸市中でも有名となり、江戸市民のみならず、将軍や多くの文化人が数多く訪れたそうです。
2010/06/20
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下総の名門千葉氏が千葉から逃れてきた先は、隅田川の西岸の東京都荒川区にある石浜城でした。しかしながら石浜城の所在については判明しておらず、石浜神社が有力な城跡の1つだとされています。石浜神社遠景白鬚橋から少し上流に行った先にあります。石浜神社祭神は天照大神で創建は724年と、由緒ある神社です。1189年には、源頼朝が奥州出兵の必勝祈願のために寄進を行ったとも言われています。石浜城跡は完全に神社の境内に変わっており、残念ながら城郭の跡は残っていませんでした。石浜神社社殿それでも境内の隅には、石浜城主であった千葉守胤によって祀ったとされる、真崎稲荷の跡が残っていました。江戸時代には景勝地として知られた真崎です。石浜城の歴史は、そのまま千葉氏の歴史と言えるかも知れません。1455年の古河公方足利成氏と関東管領上杉氏の争いである享徳の乱に乗じて、千葉氏の重臣である原胤房や馬加城の馬加康胤は、千葉氏の居城である千葉城を襲撃しました。この時、千葉氏の嫡流である千葉実胤と弟千葉自胤は千葉城を追われ、市河城(国府台城)へと逃れています。しかしながら市河城も古河公方足利成氏に攻められ、兄千葉実胤は武蔵の石浜城へ、弟千葉自胤は赤塚城へとさらに逃れて行きました。千葉家の宗家を乗っ取った原胤房と馬加康胤は、東常縁(とうのよりつね)によって滅ぼされ、千葉実胤と自胤も太田道灌の援護を受けて古河公方に対抗していましたが、結局下総への帰還が叶うことはありませんでした。関連の記事白鬚橋→こちら千葉城(亥鼻城)→こちら馬加城→こちら国府台城→こちら赤塚城→こちら古河公方館→こちら
2010/06/16
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神楽坂からさらに坂を登って行くと、筑土八幡神社があり、ここが筑土城の跡だとされています。筑土八幡神社神社の社殿はさらに階段を登った先にあり、いかにも築城に適した高台といった感じです。ちなみに筑土八幡神社の石鳥居は1726年に建立されたもので、新宿区内で現存する最古の鳥居だそうです。柱に奉納者の名前が刻まれており、常陸国下館藩主黒田直邦が奉納したようです。階段の先は削平地になっていますが、普通に神社の境内といった感じで、土塁や空堀などの城郭を思わせるものは見当たりませんでした。筑土八幡神社社殿境内には庚申塔があり、1664年に奉納されたものだそうです。由緒はよくわかりませんが、二匹の猿が描かれていました。筑土八幡神社は「名所江戸図会」にも描かれていますが、「当地には管領上杉時氏の塁の旧跡」の記載があり、戦国時代に上杉時氏なる人物が砦か何かを築いたようです。江戸名所図会関東管領で上杉時氏という人は聞いたことがありませんが、近くを神田川が流れる高台にあり、城郭を築くには最適な場所だと思います。
2010/06/12
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亀戸天神から両国方面に自転車を走らせていると、「太田道灌公開基之寺」と書かれた碑がありました。お寺の名前は「平河山 法恩寺」だそうです。法恩寺山門太田道灌と言えば、築城の名手でありながら、和歌の造詣が深かったことでも知られています。法恩寺には、そのきっかけとなった有名な山吹伝説の碑も建っていました。七重八重 花は咲けども 山吹の実の一つだに なきぞ悲しき法恩寺は1457年に太田道灌が江戸城を築城した時、江戸城鎮護の祈願所として、現在の江戸城平川門付近に建立されました。「平河山」の山号は、平川の地名に由来しています。法恩寺の境内には平河清水稲荷が祀られています。江戸城内を流れる「平川」の清流は、「小川」と呼ばれており、その川岸に建つ祠は「平川清水稲荷」として祀られていました。太田道灌も武蔵野の 小川の清水 絶えやらで 岸のねせりを 洗いこそすれと詠んでいます。江戸時代に入ると、法恩寺は神田柳原や谷中清水町へと移転し、1695年に現在の墨田区太平に移されました。(「太平」の地名も、太田道灌の「太」と平河山の「平」を合わせたものです)
2010/04/28
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江戸幕府が直轄地から集めた年貢米や買い上げた米を、収納・保管していたのが「御蔵」と呼ばれる倉庫です。大阪・京都二条・江戸浅草の御蔵は「三御蔵」と呼ばれ、特に浅草御蔵は旗本・御家人の給米を保管するため、勘定奉行の支配下に置かれていました。浅草御蔵は、1620年に浅草鳥越神社の丘を切り崩して、隅田川の西岸を埋め立てて造営されました。隅田川の近く、蔵前橋を渡ったところには、浅草御蔵跡の碑が建っています。浅草御蔵跡浅草御蔵の前面は「御蔵前」と呼ばれ、米問屋や札差の店が並んでいました。その地名は「蔵前」として現在も残っています。蔵前橋(蔵前橋通り)から見た隅田川
2010/03/15
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「浅草に天文台があったのか…」と思ったのですが、江戸時代には天文・暦術・測量・地誌編纂・洋書翻訳を行う場所として、浅草に天文台が置かれていました。「司天台」や「浅草天文台」と呼ばれ、1782年に牛込藁店(現在の新宿区)から移転・新築されました。正式には「頒暦所御用屋敷」と呼ばれ、その名の通り本来は暦を作る役所である「天文方」の施設です。現在の浅草天文台跡。(全く面影がありません)当時の記録によると、高さ10mほどの築山の上に5.5m四方の天文台が置かれていたそうです。葛飾北斎の「富嶽百景」でも、「鳥越の不二」の中に浅草天文台が描かれています。浅草天文台では、天文方の高橋至時が寛政の改暦にあたっての天体観測を行った場所です。また高橋至時の弟子である伊能忠敬は、全国測量の前に深川の自宅と浅草天文台の距離を測って緯度の測定を行っていました。また1821年には、外国語の翻訳局である「蕃書和解御用」が設置され、洋学所や開成学校などを経て、東京大学へと受け継がれています。
2010/03/14
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銀座の晴海通りのランドマークとなっていた歌舞伎座ですが、老朽化のために2010年4月で休館し、新築工事に入るそうです。現在の建物は1925(大正14)年に竣工、太平洋戦争の空襲で焼失し、1950(昭和25)年に修築されたものです。新しい歌舞伎座は2013年春に完成予定で、地上38階建の高層ビルとして生まれ変わるようです。
2010/03/05
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葛飾区青戸の環七通りの両側に、「葛西城址公園」と「御殿山公園」があります。葛西城址公園御殿山公園いずれも葛西城の本丸跡ですが、なぜ道路の両側に本丸跡があるかというと、本丸の真ん中を環七が通っているからです。皮肉なことに、昭和42年に環七通りが建設された際に、葛西城跡が発掘されました。本丸の周囲は堀で囲まれ、城郭の規模も広範囲にあったようですが、現在は見る影もありません。大手口のあった場所(青戸8丁目の交差点)葛西城発掘調査の後、城跡は再び環七の地中に埋められたため、もはや城跡を目にすることはできなくなっていましました。葛西城の築城時期などは不明ですが、1538年に北条氏と房総連合軍との間で行われた「第一次国府台合戦」によって、葛西城は北条氏の支配下となりました。以後葛西城は、北条氏の武蔵から下総への進出拠点となり、1564年の第二次国府台合戦では、葛西城主の遠山綱景が北条軍の先鋒となっています。1590年に北条氏が滅びて徳川家康の支配となると、葛西城の跡には鷹狩のための「青戸御殿」が築かれていました。関連の記事国府台城→こちら
2010/02/07
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「番町皿屋敷」で知られる番町は、江戸城に入場した徳川家康が、「大番所」と呼ばれる旗本たちを住まわせたことに由来しています。現在も一番町から六番町までの地名が残り、明治に入ってからも伯爵・子爵や政府役人の邸宅が置かれていました。そのうちの三番町には、日露戦争の連合艦隊司令長官であった東郷平八郎元帥の邸宅があり、邸宅のあった場所は東郷元帥記念公園として整備されています。どこからどこまでが邸宅だったのかはわかりませんが、さらに一段下にも公園広場があり、邸宅にしては相当な広さがありました。関連の記事三笠記念館→こちら東郷神社→こちら
2010/02/05
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柴又帝釈天裏手の江戸川には、都内で唯一残る渡し舟「矢切の渡し」があります。元々は江戸時代の1631年に、地元住民専用の渡し舟として始まったのですが、今となってはもっぱら観光用として往復する人が大半のようです。柴又の渡船場この辺りで江戸川に架かる橋は、上流の新葛飾橋(国道6号線)か下流の市川大橋(国道14号線)しかなく、それぞれ柴又からは約3Kmの距離にあります。柴又から対岸に渡るには便利なのですが、対岸には何もないので、渡し舟を生活用に使う人はほとんどいないかも知れません。料金は「大人100円、小人50円」となっており、混雑していない時は自転車も乗船可能です。自転車を乗せてもらって国府台から市川大橋を回って行こうかと思ったのですが、超満員だったので乗せてもらえませんでした。関連の記事柴又帝釈天→こちら寅さん記念館→こちら国府台城→こちら
2010/01/12
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柴又の江戸川沿いには「寅さん記念館」があり、今も寅さんファンが数多く訪れています。映画で使われた「とらや」のセット今にも寅さんがふと帰って来るような気がします。とらやの模型映像も数多くあり、山田監督との台本の読み合せのシーンなど、貴重な映像も数多くありました。台本の読み合せでも寅さんファミリーは、やっぱり寅さんファミリーです。いつも笑いが絶えないのが印象的でした。その寅さんファンミリーの知られざる家系図など。「男はつらいよ」の台本さらには歴代マドンナ。そう言えばリリーさんが、「私は小岩だから歩いて帰るわ…」と言っていたのを覚えています。(柴又から小岩までは結構ありますよ…)今でも帝釈天や江戸川の土手にいると、ふと寅さんが帰ってきそうな感じがします。今の世の中を寅さんはどう見ているのでしょうか。「しけた面してんじゃね~よ」なんて…関連の記事柴又帝釈天→こちら
2010/01/11
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「男はつらいよ」でおなじみの柴又帝釈天ですが、経栄山題経寺というのが正式名称です。自宅が柴又街道沿いにあるので、そのまま柴又方面に真っ直ぐ行くと参道の入口なのですが、参道は混雑していたので、回り道をして山門に向かいました。「男はつらいよ」でもよく登場する山門「仁天門」仁天門から見た参道お正月の初詣の時ほどではないにしても、ちょうど「庚申」の縁日なので境内も人がいっぱいでした。本堂鐘楼源公(佐藤蛾次郎)が撞いていた鐘です。「柴又帝釈天」の題経寺は江戸時代の1629年に開基されましたが、日蓮が刻んだとされる「板本尊」は行方不明となっていました。1779年に第9代の日敬が、改修中の本堂の梁の上に板本尊を発見したのですが、この日が「庚申」であったことから、2ヶ月に1回の「庚申」の日が帝釈天の縁日とされています。板本尊を発見した日敬は、板本尊を背負って天明の大飢饉に苦しむ江戸の市中を回ったのですが、不思議なご利益があったことから柴又帝釈天の信仰が広がっていきました。昭和になってから、柴又帝釈天の名前を広めたのは、やはり寅さんでしょうか。帝釈天の裏手には江戸川が流れ、寅さんがたたずんでいた土手が広がっています。私も江戸川の土手沿いの景色が好きなのですが、ここに座ると心が落ち着くのも、やはり寅さんの影響でしょうか。「ま~、いいってことよ…」(寅さん記念館の映像)関連の記事国府台城→こちら
2010/01/10
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東京の観光名所と言えば、国内外を問わず、必ず浅草寺が登場してきます。実は「なんで浅草寺がそんなに有名なんだろうか?」と、素朴な疑問をずっと持っていたのですが、それを確かめるべく浅草寺へと行ってみました。観光ガイドなどでよく見る雷門。1865年に火災で焼失したのですが、昭和35年に松下幸之助の寄進によって、提灯と共に復興再建されています。浅草へは何度も来ていますが、雷門から先に入るのは初めてです。雷門の先にある「仲見世通り」は、初詣かと思うほど人でごった返していました。自転車だったので、混雑を避けて仲見世通りの脇道を進んで行きました。(それでも自転車に乗ったままでは進めませんでした)境内は意外に広くて、仲見世通りの先にはさらに門があり、五重塔までがある伽藍配置になっていました。宝蔵門左右に仁王像がありますが、「仁王門」ではなく「宝蔵門」で、その名の通り2階が「宝の蔵」になっているそうです。元々は942年に創建されたのですが、その後は火災による焼失・再建を繰り返し、1649年に徳川家光によって再建されました。徳川家光の宝蔵門は太平洋戦争の空襲で焼失してしまいましたが、昭和39年にホテルニューオータニの創始者である大谷米太郎の寄進によって復興再建されました。五重塔元々は942年に創建されたのですが、江戸時代の1642年に火災で焼失したため、1648年に徳川家光によって再建されました。やはり太平洋戦争で焼失してしまい、昭和48年に鉄筋コンクリートで復元されましたが、戦前までは国宝に指定されていました。宝蔵門をくぐると本堂なのですが、なんと来年の11月までは修復工事中でした。熱田神宮もそうでしたが、わざわざ訪れると修復中のパターンです。それでも本堂の中に入ることはできました。修復中にも関わらず、初詣かと思うほど人であふれ返っていて、人ごみの後ろの方から賽銭を投げる人も出てくる始末です。しかも本堂内には檀家らしき人たちが並んでいて、普通に法事が行われているのが驚きでした。浅草寺の歴史は古く、628年に隅田川で漁をしていた兄弟が、網にかかった観音像を祀ったのが始まりとされています。その後の645年に勝海上人によって開基され、942年に平公雅が伽藍を整備したと言われています。(雷門や宝蔵門が造られたのもこの時です)浅草寺は東京都内で最古の寺院とされていますが、おそらくこれだけの規模の伽藍を持った寺院も都内にはないと思います。(奈良に行けばこのクラスの寺院は結構ありますが…)それでもなぜ浅草寺がこれだけの観光名所になるのか、よくわかりません。
2009/12/19
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両国国技館から隅田川沿いを少し北に行くと、旧安田庭園があります。その名の通り、安田財閥の創始者である安田善次郎が所有していたのですが、関東大震災によりほとんどが倒壊したため、後に東京市(当時)によって復元されたものです。(それで「旧」がついているのでしょうか)元々は江戸時代に造園され、常陸笠間藩主であった本庄氏の大名屋敷の中にありました。江戸時代の大名庭園によく見られる回遊式泉水庭園です。首都高速6号線の通っていますが、その向こう側が隅田川です。江戸時代に造園された時は、隅田川の水を引き込んでいました。干満による潮位の変化によって、泉水の中で見え隠れする岩や護岸、島の浮き沈みなどの景観変化を楽しむ「潮入」という技法がとられていました。現在では隅田川の水を使わず、人工的に干満が表現されています。都内の回遊式泉水庭園にしては珍しく、旧安田庭園の入園は無料です。現在では両国国技館が借景になっています。
2009/12/16
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