売り場に学ぼう by 太田伸之

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Nobuyuki Ota

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2022.09.06
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ニューヨーク・ファッションウイークの主催者がデザイナー組織CFDAから大手代理店IMGの手に渡り、メルセデスベンツがその冠スポンサーだった頃、IMGからCFD(東京ファッションデザイナー協議会)久田尚子議長にアプローチがありました。東京コレクションの代理店として協賛企業や冠スポンサー探しで協力したい、と。しかしCFD側の条件ハードルがあまりに高かったのでこのとき交渉は前進しませんでした。久田さんから直接聞いた話です。




ちょうどその頃、経済産業省繊維課に宗像直子課長が就任、繊維アパレル業界を巻き込んで政府からも東京コレクションに補助金を出す方向で動き出します。宗像課長に協力要請された日本ファッション協会の馬場彰理事長は、TSI会長だった三宅正彦さん、ファッションプロデューサーの大出一博さんに相談、東京コレクションを業界全体で支援する日本ファッションウイーク推進機構が誕生しました。役所の一課長の情熱がこの体制を作り、東京コレクションは官民協力体制の下で存続することに。

振り返ってみれば、1985年CFD設立から2005年JFW設立までの20年間、霞が関の官僚たちとは一定の距離を保ちながら細々とつながってきました。お堅い官僚たちとは全く異なる人種の集合体がCFD、東京コレクションの補助金申請をしたことがなく、役所は全く関係のない組織でしたが、デザイナー側の考えを委員のひとりとして伝え、様々な提案もしました。

通商産業省(現・経済産業省)繊維ビジョンの中で提案されたイベントとしてのWFF(ワールド・ファッションフェア)と装置としてのFCC(ファッション・コミュニティーセンター)構想には否定的、むしろ人材育成の高等教育機関を作るべきと主張した私の意見に熱心に耳を傾けてくれたのは、のちにジェトロ理事長になる繊維製品課長だった林康夫さんでした。林さんはCFD事務局に足を運んでよく意見を聞いてくれましたが、業界団体幹部からは「通産省の課長が足を運ぶなんて異例だよ」と妬まれたくらい友好的な関係でした。

また、林課長の上司である生活産業局長の岡松壮三郎さんもデザイナー側の声に耳を傾けてくれた幹部でした。後年通産省のナンバーツーとして日米構造協議でタフネゴシエイターとして活躍した人物、役所の監督下にある組織でもないのにデザイナー側の意見を聞いてくれたのは林さんの進言があったからでしょう。

1995年CFD議長を退任して民間企業に転じた私は役所との接点がなくなり、たまにIFIビジネススクールの会議や会食で顔を合わす程度でした。ところが、ある大手企業の中堅幹部研修の講師に呼ばれた私は、同じく講師として来場した製造産業局繊維課の山本健介課長から「お手間はとらせません、協力してもらえませんか」と声をかけられました。山本さんは宗像さんの二代前の繊維課長です。

日米繊維交渉で対米繊維輸出ができなくなった企業への支援金の残り150億円をやる気のある中小繊維事業者の自立支援補助金として役立てたい、その民間審査員になってくれという話でした。繊維産地の役に立てるならと引き受けましたが、送られてきた約50社の過去3年分の決算書、自立事業計画書を読んで採点して上位得点企業のトップを半時間ずつ面接、「お手間はとらせません」でなくかなり負担のかかる作業でした。

しかし審査官として参加して、まだ知らない優れた技術を有する会社が日本にはくさんあることを学びました。この自立支援事業の補助金で産元商社や問屋の下請けから脱却し、ダイレクトに欧米トップブランドと取引する繊維事業者は増えました。私が審査を担当した工場の中にも、シャネル、ルイヴィトン、モンクレールなどにテキスタイルやニットを採用されたところがありますから、山本課長の構想は繊維業界を救いました。

沖縄返還の交換条件として対米繊維輸出が犠牲になり、その日米繊維交渉で痛い目にあった製造業を支援する補助金は全国各地に相当額配分されたでしょうが、この最後の補助金が最も効果があったのではないかとさえ思います。近年欧米トップブランドが日本の高品質素材に注目していますが、その原点はこの自立支援プロジェクトでした。




山本課長とはもうひとつの「お手間はとらせません」がありました。小泉内閣が従来の重厚長大産業ではない柔らかコンテンツ産業をどのように支援するか議論を始めたので、山本さんは私を内閣官房知的財産本部のコンテンツ産業戦略会議専門委員に推薦しました。私は海外出張中で推薦されたことを知りませんでした。

委員は、漫画家、出版社、アニメ制作のテレビ局、映画会社、音楽事業者、料理学校の代表者、コンテンツ専門の大学教授、それにファッション関係、重厚長大産業界の人とは違いました。小泉政権から安倍、福田、麻生内閣まで議論が続き、これまで国が放置してきた産業は将来重要になる可能性が大きい、そのために国は何をすべきか、答申がまとまりました。のちにコンテンツ産業は「クールジャパン」と呼ばれますが、当時はまだクールジャパンの文字は公式文書にありませんでした。

麻生内閣時の答申は政権交代後民主党政権に引き継がれ、自民党時代の委員は退任したので私もその後どのような議論があったのか、クールジャパン政策として議論されていたことさえ知りませんでした。

再び自民党に政権が戻り、クールジャパン政策は国の重要戦略のひとつに位置付けられ、海外市場に打って出る民間企業を資金面でサポートするための組織(株式会社海外需要開拓支援機構)の新設が決まりました。どういうわけか松屋の秋田正紀社長に新会社社長に常務執行役員である私を当てたい、と。その使者だった商務情報政策局長富田健介さんは山本さんの同期入省でした。山本さんの「お手間はとらせません」はここでも負担のかかる大変な仕事につながっていました。

もうひとり、ハートのある官僚として印象に残っている方は経済産業省クールジャパン推進室長(クールジャパン課長の前身)の渡辺哲也さんです。大震災のあとの自粛ムードの中、松屋と三越銀座店は銀座に元気を取り戻そうと合同イベント「銀座ファッションウイーク」を開催、さらに銀座歩行者天国でジャパンデニムをテーマに青空ファッションショーを企画しました。警視庁に許可申請するも却下されて困っているとき、一緒に交渉してくれたのが渡辺さんと課長補佐の高木美香さん(のちにコンテンツ産業課長)でした。

東京都主催の東京マラソンだって構想から許可まで7年かかっている、数ヶ月後のファッションショーなんて簡単に許可できない、これが警視庁の見解でした。そこで、さすがは東大卒の官僚、六法全書を持って歩行者天国の項を開き、「ファッションショーをやってはいけないとは書いてない」とフォローしてくれました。でも、警視庁は「許可しない」。渡辺課長は経済産業大臣が参加する非公式ミーティングに呼んでくれ、私は直接大臣にホコ天ショーの協力とモデル出演を要請しました。

大臣が動いてくれてくれたので、警視庁からは歩行者天国の時間帯ではなくホコ天交通規制解除後の開催ならと条件が出ました。しかし、3月の午後5時以降は薄暗く、モデル出演中の大臣の警備が難しいのではないでしょうかと返したら、警視庁は許可してくれました。ホコ天初のファッションショーは全テレビ局の夕方のニュース、全国紙翌日朝刊1面で大きく取り上げられましたが、これは渡辺さんらの協力があったから実現できました。

官僚と聞くと忖度だらけのお堅い人々を想像する方は多いでしょうが、これまで接点があった数人の官僚たちはファッションの社会的役割に理解があり、ファッション業界を応援してくれました。そういうハートのある官僚もいた、ということを知って欲しいです。

写真:(上)国の支援で新人発掘プロジェクトも開催
   (下)自立支援で採択された繊維メーカーのブース





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Last updated  2023.08.27 14:05:32
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