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旧大蔵省人脈の中には、テニス友達もおりました。私が大蔵省を担当していた時の主計局の若手のS氏で、1997~98年にジョンズ・ホプキンス大学の大学院(SAIS)で偶然再会。SAISで日本問題を研究するアメリカ人たちとともに早朝テニスの仲間でした。私が担当していた当時主計局次長だったM氏の秘書さんと結婚したと聞きました。 また旧通産省人脈の中には、スキー友だちのN氏もいます。SAISで知り合い、一緒にウェスト・ヴァージニアまでスキーをしに行ったこともあります。N氏は私の友だちでクラス・メイトでもあるタイのジャーナリストのノポルン氏とも仲が良く、卒業旅行と銘打って二人でレンタカーを借りてアメリカの東海岸から西海岸まで横断旅行をしたと言っていました。青春をしていましたね。N氏について調べたら最近通産省を退官して、業界団体の専務理事になられておりました。 ハーバード大学院でお世話になったのは、運輸省のN氏です。とにかく勉強ができて、教授からも一目を置かれていました。経済の授業を比較的楽に乗り切れたのも、N氏によるところが大きいです。運輸省といえば、元北海道知事の息子で当時運輸省に勤めていたY氏ともSAIS関連の勉強会などで一緒になった記憶があります。 航空自衛隊の尾上定正氏とは、ケネディスクールの同期で、年が近かったこともあり、仲良しでした。話す英語は、私よりもうまかったです。最後は航空自衛隊補給本部長で空将として退役しています。ほかには大蔵省のK氏や、通産省の玉田俊平太氏にも勉強面でお世話になりました。ここで謹んで御礼を申し上げておきます。 いずれもアメリカの大学院に留学しているときの人脈です。 ほかにも大勢いますが、これを書いていると切りがないので、次へ進みましょう。 こうした人脈の中にあって、UFO友達以外は、基本的にオカルトは秘してきました。 特に東大―大蔵省組などエリート官僚たちに「オカルトを体験している」「UFO肯定派だ」などと言おうものなら、頭のおかしい人扱いされます。そもそもエリート役人にとっては、UFOを肯定しようものなら出世にも間違いなく響きます。仮にUFO肯定派であっても、決して口に出さないはずです。 その中で東大法学部―大蔵省という典型的なキャリア組だった山川紘矢氏が1987年7月に同省財政金融研究所研究部長を最後に、大蔵省を退職、ニューエイジ・精神世界・スピリチュアル関係の翻訳家になったのは、異色中の異色といえます。逆にいうと、スピ系であることを公言すると、出世はおろか、大蔵省にいることすら難しくなります。山川氏は「財政金融研究所研究部長」の肩書きで、当時私と同様に秋山氏が創刊した「ボストンクラブ」に寄稿していましたから、まあ“確信犯”であったといえるのではないでしょうか。自分の本当の運命を知っていたということでもありますね。 さて、こうして比較的幼少期より、オカルト的なことを秘しながら人生を送ってきた私ですが、本当にオカルト人生を突き進むようになるのは、2003年になってからのことでした。 (続く)
2023.10.14
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秋ですが、まだ夏の名残りのような光景に出会います。夏を代表する花のカンナ。本日の撮影ですが、まだ元気に咲いているのが驚きです。そしてこちらは糸トンボ。いずれも夏の風物詩ですね。こちらは秋の薔薇。9月も暑かったせいか、いつもより咲くのが遅い感じがしました。
2023.10.13
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秋の夕焼け空です。とても静かで落ち着いた夕焼けですね。本日、新刊の見本が到着。早い書店では19日ごろから発売される見通しです。正式な発売は23日となっております。
2023.10.12
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今日は秋の空という感じでしたね。さて、今日は新刊の見本が出来上がったようです。私の手元には明日届く予定です。
2023.10.11
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私の人生におけるUFO人脈とテニス人脈について語ってきましたが、おそらく皆さんがもっとも意外だと思われる人脈が、実は大蔵省(現財務省)人脈です。私は1993年の6月ごろから1995年の2月ごろまでの1年9カ月間くらい、共同通信社経済部の記者として大蔵省を担当していたのですが、そこでずいぶん大蔵省の役人と仲良くなりました。 大蔵省という職場とは、どういうわけか妙に水が合ったんですね。 一番お世話になったのは、当時国際金融局次長で後に同局長、そして財務官まで上り詰めた榊原英輔資(さかきばら・えいすけ)氏です。 私と同じくスキューバ・ダイビングが趣味で、よくダイビングの話をしました。 そして、何といっても、私がハーバード大学院に願書を出す際の推薦文を書いてくれたのも榊原氏です。もちろん自分で書いて、サインをもらいに行っただけなのですが、「よく書けているよ」とほめてくれました。おしゃべり好きなので、私に限らず多くの記者が押しかけました。 しょっちゅう顔を出したので、秘書さんとも顔馴染みになります。 記者にとっては秘書人脈も大事なんですよね。 榊原氏の後に財務官になった黒田東彦(くろだ・はるひこ)氏とは、彼が大臣官房審議官(国際金融局担当)のときに日米構造協議の取材などでお世話になりました。財務省退官後はアジア開発銀行総裁を経て、日銀総裁にまでなっていますね。 黒田氏と前後して大臣官房参事官(副財務官)をしていた溝口善兵衛(みぞぐち ぜんべえ)氏のこともよく知っています。ある時、JR新宿駅のホームで電車を待っていたら、向こうから溝口氏が近寄ってきて話しかけてきたので驚いたことがあります。私は当然、溝口氏と何回かあって話をしていますが、向こうが私の顔を覚えているとは思いもしなかったからです。短期間で変わっていく記者全員の顔を覚えるのは至難の業です。それを簡単にやってのけるのは凄い人だな、と感心しました。溝口氏もその後、財務官になり、退官後は島根県知事にまでなっていますね。生まれ故郷で錦を飾ったわけです。 ちなみにジョンズ・ホプキンス大学院の願書の推薦文は、当時の国際金融情報センター理事長・大場智満(おおば・ともみつ)氏に書いてもらっています。大場氏も元財務官で、85年に為替のドル高是正で合意した「プラザ合意」の交渉に携わった人でもあります。 どうして推薦文を大蔵省人脈に頼ったかというと、実は上司に話さずに米国留学を進めていたからでもあります。秘密にしているのに、上司に推薦文を頼むわけにいきませんからね。上司以外に私の仕事ぶりを評価できる人物は取材先しかなかったのです。 スキューバ・ダイビング趣味仲間としては、当時主計局調査課長をしていた篠原尚之氏とも懇意にしてもらいました。もちろん大蔵官僚ですから口は堅いですが、1995年度の予算規模を予想するうえで、いくつかヒントをもらいました。彼は当時、ギザのピラミッドはオリオンの三ツ星を地上に転写したものだと主張する『オリオン・ミステリー』という本を熱心に読んでいましたから、かなり私と同系統の趣味や嗜好を持っているといえなくもありません。夫婦共働きという点でも生活スタイルがちょっと似ていました。留学するうえのアドバイスも教えてくれました。彼はプリンストン大学に留学、私と同じMPA(行政学修士号)を取得しています。篠原氏はその後国際局長、財務官を経て退官。国際通貨基金の副専務理事になっています。 (続く)
2023.10.10
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UFO友達のほかには、テニス友達もたくさんできました。 富山支局時代は富山県警捜査二課長のⅠさんとテニスをしました。ゴルフ練習場に初めてさそってくれたのも、Iさんです。Iさんは沖縄県警から選抜・抜擢されたいわゆる準キャリアですね。 富山では「武内ローンテニスクラブ」に所属しておりましたが、共同通信は当時4週5休制で休みが少なかったので、週一回テニスができるかできないかくらいでした。しかも冬場は雪で4カ月ほどテニスができません。それでも、もう名前も忘れてしまいましたが、結構うまいテニスプレイヤーを見つけて、冬の間はその人とインドアで時々テニスをしておりました。クラブには堀田友愛ちゃんという、後に全日本のランキングプレイヤーになる子がいて、いつも父親と練習していたのを覚えています。 富山の次の赴任地の浦和支局では、川口市のテニスクラブ「チャンプ・ラケットクラブ」の会員になりました。かなり強い人たちが来ていたので、良い練習になりました。泊まり勤務のときは午後5時から勤務だったので、午後3時くらいまでテニスをして、出社することもありました。ですから平日は、同じく泊まり勤務のある消防士の人たちとよくテニスをしておりました。 しかしながら、私が本当にテニスに強くなったのは、本社勤務になって都内のテニス・クラブ「スポーティングソサエティ NO1」に入会してからです。非常に充実したクラブで、コートがオムニ社の人工芝で10面以上あり、会員のためにインストラクターが常駐しているので、一人でふらっと遊びに行ってもヒッティングの相手をしてくれます。室内にはマシーンやスタジオ、それに25メートルプールもあるという豪華さで、お風呂もジャグジーやサウナ付きでした。 私は初心者からセミプロまで分け隔てなく誰とでもテニスをしたので、結構友だちができました。中でも当時、亜細亜大学の学長をしていた衞藤瀋吉(えとう・しんきち)氏とはよくダブルスを一緒に組んで試合しました。大学に一芸一能入試制度を導入した学長としても知られていますね。国際関係論の学者で、私の叔父のこともよく知っており、おしゃべりやテニスを楽しくやらせてもらいました。来世でもどこかで会う可能性が高いように思われます。 映画監督の長谷川和彦氏や、俳優の西田敏行氏の奥様ともよくテニスをしました。当然、長谷川監督のパートナーの室井滋さんや、西田敏行氏にもテニスコートで出会っています。 おなじスポーツクラブのお風呂で、元首相の中曽根康弘氏に会ったこともあります。私がお風呂のジャグジーで疲れた体を癒していると、手すりで隔てられた隣に元首相がやってきたので驚いたことがあります。 リクルート事件などで騒がれている最中だったので、記者根性を発揮して取材することもできたのですが、それも野暮かなと思って声は掛けませんでした。 当時、日本テレビの社長に君臨していた氏家齊一郎氏とは、2~3人しか入れないスチームサウナの中で一緒になったことがあります。 政治家ではほかに、日本テレビ記者から政治家に転身した石原伸晃氏とは面識があり、よく挨拶をかわしました。 『金融腐蝕列島』を書いた経済小説の巨匠・高杉良さんにもよく声を掛けられました。 「布施君、フィクションはいいぞ。ノンフィクションよりも売れるし。君もノンフィクションなんかやめて、フィクションを書けばいい」と(冗談で?)いわれたこともあります。 だけどやはり私にはノンフィクションが似合います。フィクションももちろん書けるかもしれませんが、私にとってはどのようなフィクションよりも私が実体験する本当のオカルト世界のほうが、はるかに奇想天外で面白く、真実に満ちてエキサイティングだからです。 (続く)
2023.10.09
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この時期、富山地方鉄道が主催した北アルプス立山の室堂平のホテルで開かれた「UFO観測会」にも取材記者として参加しました。あいにくの雨天で観測会自体は中止となったのですが、このとき初めて東京・品川で当時「UFOライブラリー」を開設していた館長の荒井欣一氏に会っています。 荒井さんとは私が浦和支局に転勤してからも何度か会いに行っており、1987年には荒井さんのUFOライブラリーを紹介しつつ「40周年を迎えたUFO記念日」という原稿を私が書いて、共同通信から配信したこともあります。その前年(86年)は、日航貨物機長がアラスカで巨大UFOを目撃して、そのことを共同通信社が独自ネタとして配信するなど、結構メディアでも大きくUFOが取り上げられておりました。水産庁の調査船「開洋丸」が超高速UFOと接近遭遇し、レーダーにも捕捉された目撃事件があったのも、1986年でした。間違いなく「時代霊」が動いていますね。 尖山を何度も案内してくれた地元富山のIさんのこともご紹介しておきましょう。Iさんは尖山の麓の横江町に住んでいる、尖山の生き字引のような方です。 尖山の中腹にすり鉢型の集会場のような場所があることや、石を積み上げた祭壇の跡のような構造物があることを教えてくれて、その場所まで案内してくれました。 そのIさんはUFOを見たことがなかったのですが、晩年になって自宅二階の寝室で寝ていたところ、窓の外に、まばゆく光るUFOが来てくれたと話していました。やはり尖山はUFOのメッカなのだなと思います。 富山支局在任中には山口教授以外にも「UFO友達」ができました。 意外に思われるかもしれませんが、その一人が富山県警本部長の田中浩二氏だったんですね。1984年に当時の国鉄から出向する形で県警本部長になられた方ですが、すぐに意気投合し、よく本部長宅(官舎)に夕飯に呼んでくれました。 そこでUFO談義を重ねたわけです。 UFOなどというと頭から否定する人が多い中、楽しそうにしながら私の話に耳を傾けてくれたことが、とても心地よく嬉しかったです。 あくまでも冗談ですが、UFOの張り込み術を教えてくれたのも田中氏でした。 以前にもお話ししましたが、田中氏はその後国鉄に戻り、1987年に国鉄民営化で発足したJR九州の常務に就任。1997年には第二代の代表取締役社長になられたわけです。 昨年8月11日にお亡くなりになりましたね。生前にもう一度お会いしていたら面白かっただろうな、と思います。ご冥福をお祈りいたします。 で、お馴染みの秋山眞人氏とは共同通信社浦和支局時代の1986年から数えて約37年間の付き合いです。取材に行ったら、逆に彼が立ち上げた精神世界の本「ボストンクラブ」に原稿を書かせられて、まさにミイラ取りがミイラになった気分でした。 ここまでが主なUFO人脈でしょうか。もちろんほかにもUFO友達は沢山いますが、切りがないので、割愛させていただきます。また別の機会にご紹介することがあるかもしれませんね。 (続く)
2023.10.08
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山口教授の「尖山古代ピラミッド説」の原稿の次に私が挑戦したのは、UFOを呼んでそれを撮影するというイベント(作戦)でした。どうしてそうしたイベントを発案したかというと、尖山がある立山町周辺でのUFO目撃が非常に多かったからです。 その目撃談はどれも信じるに足るものばかりでした。たとえば、ある地元の人は、夜道を車で走っているときに、対向車線にまばゆい光を発する物体が遠くに見えたといいます。「随分まぶしいオートバイだな」と思っていたら、その物体はすれ違う前に急に上昇、空高くに飛んでいったそうです。尖山のそばの立山町の話です。 同じ立山町で二月の雪の深い、凍えるような深夜の話で、この時期は誰も登らないはずの尖山の頂上一帯がオレンジ色に光っているのを目撃した人もいました。まるで山頂が燃えているようだったといいます。しばらく見ていると、そのオレンジの光の中から小さな光の玉が飛び出て、山を転がり落ちていったそうです。後日、知り合いに尖山の頂上を調べてもらったら、何の焦げ跡もなかったと話しておりました。 こうした目撃談が頻繫に報告されているということは、尖山とUFOは何か密接な関係があるのではないかと推定して、山口教授を含む地元の有志7~8名と私で夜中にUFOを呼び出してみようではないかという話になったわけです。 1984年のある夏の夜、作戦は決行されました。 UFOが本当に出現し、それを写真に撮ることができれば、「世紀のスクープ」ですからね。 私はカメラを携えて、懐中電灯で真っ暗な登山道を照らしながら尖山を登りました。 ところが、晴れていたはずの天候が急に崩れ、途中から大降りになってしまいます。頂上に着いたころにはみんなずぶ濡れになっていました。それでも、UFOが出ないかとしばらく山頂で待っていましたが、一向に出てきません。だけれども、不思議なことに、あれだけ雨が降っていたのに、尖山のてっぺんだけは分厚い雨雲にぽっかり穴が開いたように晴れ渡り、無数の星空が輝いていたことです。まるで、尖山の山頂からエネルギーが噴き出して、雨雲を押しのけているようでした。あの雨の中で見た星々は、生涯忘れられない美しい光景として心に刻まれました。 (続く)
2023.10.07
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昨日は富士山の初冠雪だったとのことで、今日はその富士山を撮影しました。薄っすらと雪が積もっていますね。今日は見事な雄姿を見せてくれました。
2023.10.06
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感謝ついでに、私にサンデー毎日の動静を教えてくれた長野支局の同期・N君についても記しておきます。 まあ、富山と長野が隣同士だったということもありますが、彼とはどういうわけか馬が合って、以前から竹内文書の話をするなど結構頻繁に情報交換していたんですね。「竹内文書」に記された「荒唐無稽な話」をしたら、普通ならバカにして歯牙にもかけない記者が多い中、彼だけはちゃんと耳を傾けて、真摯に私の話を聞いてくれました。だからこそ、長野・松代の皆神山におけるサンデー毎日の動きを教えてくれたわけです。 そのN君とは沼沢均氏のことです。1958年青森県の生まれで、北海道大学水産学部で学び、確か卒業論文は「昆布にも“皮膚ガン”ができる」というような内容だったと記憶しています。 探検部にも所属していたようです。 卒業後は共同通信社に入社。日航機墜落事故で墜落現場の御巣鷹山に共同通信社の一番手で到着したのが彼でした。 登山が得意だったので呼び出されて現場に向かったんですね。 救助に駆け付けた自衛隊員と一緒に山の中で寝起きした、地獄のようだったと話していました。大活躍だったと思います。 ちなみにそのとき浦和支局に勤務していた私も呼び出されて、遺体が次々と運ばれてくる群馬県藤岡市の体育館で遺族の取材をさせられておりました。 その後、N君は本社外信部に異動。1992年からナイロビ支局長としてアフリカを担当します。ところが、1994年12月6日にザイールのゴマに向かうチャーター機の墜落事故に遭い亡くなられました。同乗していたフジテレビの入江俊彦カイロ支局長も命を落とし、大きく報道されました。当時の私は、大蔵省(財研)担当のサブキャップで、予算編成の取材で月140時間の超過勤務をこなす超多忙勤務の最中で、哀悼の意を家族に伝える暇さえありませんでしたが、悲報に大きなショックを受けておりました。 生前、彼がアフリカに赴任する前に、虎の門界隈で送別会を開催。夜遅くまで二人で話し込んだ光景を今でも時々思い出します。 本当にいいやつでした。 彼の遺作とも言うべき本も、亡くなった翌年に出版されました。 こちらです。 『神よ、アフリカに祝福を』 その書評はこちら。 アフリカ文学読書会 追悼。N君に感謝と癒し、そして祝福を。 (続く)
2023.10.05
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ここで裏話を暴露すると、「山口教授による尖山人工ピラミッド説」の原稿が出たのは、サンデー毎日のお陰でもありました。実はこの原稿は5月下旬には仕上がって、名古屋支社のデスクのところに届いていたのですが、それを受け取ったデスクが「奇妙奇天烈な内容」だという理由で配信されずに、暇ネタ(原稿が少ないときに出すストックネタ)として埋もれていたんですね。 その原稿は名古屋のデスクの上で三週間くらい寝かされていたでしょうか。長野支局の同期のN君が、「サンデー毎日が長野・松代の皆神山が人工ピラミッドだという仮説を立てて企画を始めるようだ」という連絡をくれたんですね。それを聞いた私が名古屋のデスクに掛け合って、サンデー毎日が「古代日本のピラミッド」の特集号が出す日までに配信してほしいと頼み込んで、ちょうど特集号発売日の夕刊用に配信してくれたというわけです。 最悪の場合、お蔵入りすらありえた原稿ですが、こうして日の目を見ることができました。サンデー毎日がピラミッド企画を立ち上げてくれなかったら、ボツ原稿にされかねなかったといういきさつがあったわけです。また、N君が私にサンデー毎日の動きを教えてくれなければ、後の祭りになっていたかもしれません。あらゆるところで神慮が働いたとしか言いようがありませんね。 そうした「神慮」のお陰で、私の書いた原稿は異例の大ヒットとなりました。すぐに産経新聞が夕刊社会面トップで配信記事を掲載したのをはじめ、何と地元富山の北日本新聞社も夕刊一面トップに掲載、夕刊のない名古屋タイムズは翌日の朝刊の一面トップに私の記事を載せてくれました。ほかでも全国いろいろな加盟紙や放送局で私の原稿を使ってくれたと思います。当時できて間もないオカルト月刊誌「ムー」まで山口教授や私のところに取材に来ました。それに基づいて、彼らも特集記事を書いています。 内輪の話になりますが、共同通信社の加盟紙である地元富山県の北日本新聞社が一面トップに共同通信社の富山発の原稿をそのまま載せるというのは、実は非常に名誉でありがたいことなのです。もちろん北日本新聞は共同通信の配信記事をほぼ毎日一面に掲載しています。しかしそれらは、自分たちでカバーしきれない東京を中心とする富山以外で起きたニュース記事だからです。地元には記者が多く配置されていますから、地元のネタは自分たちで発掘して書くというのが原則なんですね。その原則を破ってまで掲載してくれるというのは、本当にありがたいことなのです。 (続く)
2023.10.04
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竹内文書との出合いに続く、この「羽根ライン」の“発見”は、私にとっては大きな意味がありました。いつかこのことは本に書かなければならない、あるいは書くことになっているということが、何となくわかったからです。 でもそれは、「今」ではないこともわかりました。 どうして、そのことがわかるかというと、まったく説明できる理由がありません。ただわかるのです。まったく変な話ですよね。でもオカルトというのは、そういうものなのです。 このころから、どうやら大きな霊団のような霊的なグループが人間に示唆を与えて、人間を動かしているのではないかという仮説が浮かんでくるようになりました。 それというのも、富山大学の山口教授の協力を得て、北アルプスの麓、富山県立山町にそびえるピラミッド型の尖山は、「竹内文書」に記されているように神々が宿る古代の神殿「人工的なピラミッド」であったのではないかという仮説を立てて、共同通信社が配信する記事としてまとめたところ、サンデー毎日も同様な企画を考え付いて6月から始めることが分かったからです。 あまりにもタイミングがドンピシャですよね。連絡を取り合って、この企画を考案したわけではないのに、お互い全く面識のない別々のところから、同じ企画が始まったことになります。このことから先述の仮説が生まれたわけです。つまり私の仮説では、「時代霊」ともいうべき、時代の節目節目に出現する目に見えない大きな霊的な動きがあって、奇しくもサンデー毎日と山口教授と私を動かしたのではないか、と考えるわけです。そうでなければ、この完璧な「意味のある偶然の一致」は起こり得なかった。「偶然」を演出する神様が霊団の中にいるということになります。 言ってみれば、私たちはある種の操り人形なのかもしれません。操られていることも気づかない人形さんという感じもしなくもありません。 ただし、この操られ方というのは、強制ではないですね。「示唆を与えるから、気づいた人がいたら、そのように動いてね」という感じでしょうか。そして自らの意志で気づいて、自らの意志で「操られる」わけです。この世界はそのようになっているのではないかと考えるようになりました。 (続く)
2023.10.03
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思わぬことが起きたときに「狐につままれたようだ」という表現がありますが、そのときの感覚はそれに極めて近かったです。 まず私は、富山湾を挟んで富山の対岸能登半島の羽根ライン上に「聖なる山」がないかどうか探しました。 すると、ありました。「モーゼの塚(三つ子塚)」がある石川県の宝達山と並び称されることもある、奥能登最高峰の宝立山です。調べると、まさに東経137度11分にあります。私の審神者の条件の一つはクリアしたわけですね。 しかしまだ、審神者を完全にクリアするには、この山の真南に羽根という地名がなければなりません。私は宝立山の真南に直線を引いていきました。 そして驚いたことに、そこに羽根という地名を見事に“発見”したわけです。 その驚きと言ったら、まったく信じられないような驚きでした。私が立てた仮説通りだったからです。しかも後日、実際に奥能登の羽根に取材に行ったら、そこには羽根八幡神社という神社が海岸沿いにあり、まさに富山湾を挟んだ富山の羽根に向かって鳥居が立っていました。明らかに、対岸の富山を意識したつくりになっているわけです。 審神者の結果は当然、羽根ラインは古代人によって意図的に測量されたラインであるというものでした。 (続く)
2023.10.02
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1982年に共同通信社の記者になった後も、基本的にはオカルト的なことは秘して語ることはありませんでした。 しかし、動き出すのは、初任地の富山支局で、富山大学文学部(国文学)の山口博教授に取材で会ったときからです。取材先の富山県警鑑識課長もしくは捜査二課次長から山口教授の講演録「古典SFの世界」をたまたま見せてもらい、その内容が面白かったので取材のアポを取りました。1984年の春ごろ山口教授の自宅の玄関先で初めて出会ったのですが、その瞬間に意気投合してしまうという初めての体験をしました。 そして、ここで今まで聞いたこともないような古史古伝「竹内文書」が富山に存在することを知らされました。その手始めとして紹介されたのが、佐治芳彦が書いた『謎の竹内文書』『謎の神代文字』、それに富山県立中央図書館に所蔵されている天津教の教典『神代の万国史』でした。山口教授にとってはこんなことを書くとご迷惑になるかもしれませんが、「水魚の交わり」という言葉が浮かびました。私はそのとき、水を得た魚になったわけです。 そして驚くべきことに、その富山に伝わる「竹内文書」を調べていくうちに、東経137度11分に羽根という地名が南北一直線に並んでいることに気づきます。なぜ羽根という地名を調べようかと思ったかというと、竹内文書に「上古第14代国常立天皇が天空浮舟に乗って徂徠ケ岳(後に改め鑓ヶ岳。白馬鑓ヶ岳のこと)より羽根飛び登り行くところを羽根と名付ける」と記されていたからです。特に興味を引いたのは、山と飛行場と羽根という地名が結びつけてあることです。 早速、富山市の羽根という地名を見に行ったとき、羽根神社があり、UFO研究家の高坂克己(和導)さんが指摘していた通り、飛行場のようにちょっと盛り土の高台になっていることがわかりました。後から地図を調べたところ、盛り土の高台の部分は、南北に軸がありました。そこでそれを真北に伸ばしていくと、呉羽丘陵の呉羽山があったんですね。 つまり「竹内文書」の当該記述は、呉羽山など「聖なる山」を真北に据えた「飛行場」が羽根であると解釈できる可能性が出てきたわけです。 これは面白いと思って、東経137度11分の経線を真南に伸ばしていきました。すると、その直線は、「竹内文書」が古代日本の聖都が築かれたと記述している霊峰・位山の頂上を通ることがわかりました。私の仮説が正しければ、聖山を真北に据えた「飛行場」が羽根というわけですから、位山の真南に「羽根」という地名があるはずです。そこで調べると、確かに東経137度11分上の岐阜県萩原町に羽根という地名があったんですね。私は「これはすごい!」と思って、さらに直線を南に伸ばしていくことにしました。するとそこには、徳川家康とも深い関係がある愛知県岡崎市の羽根と、渥美半島の赤羽根が見事に経線上に配置されていたのです。 つまり、ここまで呉羽山、位山という聖なる山があって、その真南に羽根という地名が4つ並んでいたことになります。 これだけでもすごいことなのですが、疑り深い私は、この羽根ラインが偶然の産物なのか、あるいは人工的な測量ラインなのかを確かめるために、ある種の審神者(さにわ)をしてみることにしました。 「東経137度11分の羽根ラインが古代人の測量によるものならば、富山湾を隔てた60キロ先の対岸の能登半島にも、聖なる山と羽根という地名がなければならない」と。 もちろん私は審神者の仕方など何一つ知らないわけですが、どういうわけか、そのように決めたのです。ちなみに「聖なる山」とは、「竹内文書」に神の山として登場する山のことです。 (続く)
2023.10.01
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昨夜の中秋の名月。いい感じで雲がたなびいておりました。真ん丸ですね。国旗のようでした。さて、ちょうど昨日、出版社からの何度目かの問い合わせにも答えて、ほぼ校正完了です。来週印刷所に持ち込まれ、早ければ10月10日ごろには見本ができるのではないかと話しておりました。ただし、書店で売り出されるのは、10月23日ごろです。新刊はこちらです。
2023.09.30
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今日は中秋の名月ですね。雲が出ているので、見えたり見えなかったりでしょうか。今日ご紹介するのは、四日前の9月25日のお月様。夕日に照らされた帯状の雲の上を優雅に舞っておりました。今日はどのような姿を見せてくれるのでしょうか。
2023.09.29
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どうせ話しても理解してくれないということがわかっていたので、小学生のころから大学まで「オカルト(神秘体験)は秘して語らないもの」という不文律を原則的に守ってきたわけですが、やがてそれはほころび始めます。 今から思うと、最初にほころび始めたのは、1980年の夏、英国に留学中の夏休みにブライトンのホストファミリーのご主人であるクリストファーが、一緒にBBC制作のダライ・ラマの番組を見ているときに「もしかしたら生まれ変わりはあるかもしれない」という発言を聞いてからでした。「袖振り合うも他生の縁」という諺がる日本人ならともかく、ある程度合理主義が浸透し、物質社会を謳歌している西洋人からそのような言葉を聞くとは、当時は思っていなかったからです。糸のほつれはここから始まったように思います。 そしてクリストファーの勧めもあって、大学の授業が始まるまでの10日間をスコットランドで旅したのが、次のほころびです。私はスコットランドの最果ての地ともいえるハイランドからオークニー諸島に渡り、オークニー本島の首都カークウォールのユースホステルでドイツ人二人とアメリカ人一人に出会い、人生で初めて「前世に出会ったことがある」という不思議な感じを体験するわけです。 それでもまだ私は「常識人」でしたから、なるべくオカルト的なことは話さないようにしていました。特に社会人になってからはなおさらですね。何かオカルト的なことを言おうものなら、「頭のおかしい人扱い」されることは、火を見るよりも明らかですからね。 かといって、私は既存、新興にかかわらず宗教の教え(教義)にはほとんど感化されないので、何かの団体に勧誘されひっかかることも、傾倒することもまったくありませんでした。ICUの必修基礎科目「キリスト教入門」でCを取るわけです。だけど不思議なことに聖書には興味があるんですね。人文科の必修科目だった「聖書入門」は「Ⅰ」「Ⅱ」ともAでした。経典は、文献としてはとても面白いと思うんですね。なぜそのようなことを書かなければならなかったかという、その背景がよくわかるからです。 さて、次回は社会人になってからの、「秘密にしていたオカルト」のほころびについて語っていきましょう。 (続く)
2023.09.28
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信じられないかもしれませんが、先ほど再校ゲラ校正が終わって、出版社にメールしようとした直前、窓から外を見たら虹が出ていました。朝から晴天で、雨などどこにも降っていなかったのに、空の一カ所だけ雨が降って夕日が当たったようです。こちらがその写真。信じられない偶然。「偶然は神」ですから、なかなか粋なことをするなと思いました。
2023.09.26
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来月23日発売予定の新著のカバーが完成したようです。こちらです。ただいま最終校正中。締め切りは明日迄。
2023.09.26
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テニス部を卒業したからといって、大学が卒業できるわけではありません。勉強の方も卒論制作に向けた追い込みをしなければなりませんからね。 4年生の秋学期から一年間留学することが決まっていましたから、新4年生になったこの春学期中に、決められた単位と必修科目をすべて履修しておく必要がありました。 もっとも、この時点で結構、単位を大方取っていたんですね。1980年春学期は緩やかに3教科だけ取りました。 その3教科は、人文科学の基礎教科である「聖書入門」と専門科目である「近代フランス文学Ⅰ」、それに自然科学科の基礎科目である「物理学の基礎概念」で、それぞれA、B、Aでした。つまり専門のフランス文学だけBだったわけですね。 これで必修科目を含む必要な単位は卒論以外すべて履修を完了。フランス文学の専門科目もすべて履修し終わりました。 結果は、フランス文学史がB、B、Aで、近代フランス文学がB、A、A、C、C、Cとなりました。綺麗にABCをそれぞれ3つずつ取ったことになります。副専攻科目の英文学はB、B、A、Bでした。 Aが秀で、Bが優、Cが良ですから、すべて「可(D)もなく不可(F)もない」というわけです。 私にCを3つも付けてくれたクリスティーヌ・小玉講師には、一年後に留学先から戻ってきたらフランス語で卒論を書くつもりなので卒論の担当教官になってほしい旨を伝えて、7月に英国に旅立ちました。ここからは「ザ・イヤー・オブ・1980~81」のブログに書いた通りです。イギリス留学の1年と、卒論執筆と就職活動、そして共同通信に入社が決まるまでのことが書いてあります。1982年に共同通信社に入った後の話は、既にブログで書いた「新聞記者の日常と憂鬱」にある程度まとめてあります。 その後共同通信社を辞めて、1996年に渡米、ハーバード大学のケネディ行政大学院で学ぶことになりますが、その辺りの話は「ハーバード経済日誌」にまとめたつもりです。ジョンズ・ホプキンス大学高等国際問題研究大学院(通称SAIS)時代の話は、幻の大作「ハーバードでもAが取れる英語論文ペーパー作成術」に少し書きましたが、これは未公開のままです。いつかご紹介する機会があるかもしれません。 これらの原稿を全部合わせると、おそらく本5~6冊分になります。すごい分量ですよね。 ところが、実はここまでは、かなり現実的かつ表層的な記述・記録が主になっており、私のオカルト人生を明かした本編「今そこにあるスピリチュアルワールド」の前振りにすぎないんですね。本編はこれからです。1999年に留学先のアメリカから日本に戻ってきた後から、私がそれまで秘していたオカルト的な人生がいよいよ幕を開けるわけです。 (本編へ続く)
2023.09.25
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新主将のA君は、残ったメンバーの中では一番強かったです。次に二年時に主務を務めていたK(金沢)君でしょうか。レギュラーメンバーでは、ダブルスで活躍した理学科のK(兼広)君、時々シングルスで試合に出たM君がいます。彼らが軸になってチームを作っていくことになりました。 新二年生にも有望な選手が何人かいました。体の大きなK君や元気のあるY君、それに人気者のO君やM君など逸材揃い。将来が楽しみな選手ばかりです。 最後にテニス仲間、先輩や後輩たちがICU卒業後どうなったのか、私の知る範囲でお伝えしておきましょう。長らくテニス部のOBOG会に参加していないので、情報が極めて限定的ですが、ある程度はわかります。 5年先輩の主将Kさんと4年先輩の主将Tさんは先日お話ししましたね。3年先輩の主将Kさんは、私のおぼろげな記憶が正しければヤマハに就職しています。人間味のある、非常に穏やかな主将で、後輩からも慕われておりました。Kさんの同期には私のテニスの師匠であるTさんがいます。卒業を一年遅らせたので、私と同時期に試合に出ることになったわけです。そのTさんはソニーに入っています。ほかにもUCLAに交換留学生として一年留学していたKさんがソニーに入社しました。この代では、確かOさんもソニーです。 二つ上の主将のHさんは、和歌山県出身のきりっとした、さわやかなスポーツマンタイプの主将でした。卒業後、三井物産に入りました。私の高校時代の同級生(女性)が短大を出て、Hさんの同期で三井物産に就職しましたが、「H君」と君付けで呼んでいることに、運動部畑が長い私としてはちょっとカルチャーショックを受けました。確かに二歳年が違っても三井物産では同期ですから君付けですね。主将のHさんの代にはキッコーマンに入ったNさんがいます。先日会った先輩のTさんによると、米国のキッコーマンで大活躍されたそうです。 一年上の主将のOさんは理学科の生物専攻でしたが、ソニーに入りました。ソニーには、ICUのテニス部閥が出来そうな雰囲気ですね。Oさんの同期のNさんは真珠のミキモトに就職。変わり種はYさんで、半ば5年上のKさんを追うようにして、テニスのコーチになりました。卒業した後の20代後半のころ、私はよくYさんとダブルスを組んでキダー杯(テニス部主催の現役OB入り交じってのトーナメント)に出場、一回か二回優勝した覚えがあります。当時は「まだまだ現役には負けない」と本気で思っていました。 私の同期では副将M君が、日本経営者団体連盟(後に日本経済団体連合会に統合)に就職。その後まもなく、たぶん社費留学で北アイルランド・ベルファーストのアルスター大学に学び、MBA(経営学修士)を取得しています。彼に関連するサイトがありましたので、ご参考までに記しておきます。 →記事現在は経団連労働法制本部参事としてILOの使用者側理事にもなっているようですね。任期は2024年までだそうです。 私の同期はほかにS君が教員免許を取得して理系の先生になっています。N君は大手石油会社に就職しました。 後輩では、主将のA君が三菱商事に入社。通算27年をイスラム圏(エジプト、イラク、サウジアラビア、インドネシア、マレーシア、パキスタン)で過ごし、特にパキスタンには通算14年在住し外国籍民間人に与えられる最高勲等「パキスタンの星」を受勲しているそうです。 彼の自己紹介したサイトはこちらです。 女子部員ですが、三菱商事の会長の娘Mさんは、私と同じジャーナリストの道を選び、タイム東京特派員になっています。夫はニューズウィーク東京支局長だったビル・パウエルさん。1995年に二人で本を書いています。→こちら。 パウエルさんには直接会った記憶はありませんが、私も2000年4月から2004年3月までニューズウィーク日本版の編集部におりましたから、少しだけ重なっていますね。Mさんは1994年にタイムを辞め、夫のパウエルさんはその後米タイム誌の記者をやっていると書かれています。 他にもたくさんユニークで優秀な方はおられると思いますが、とりあえず浮かんだ人たちをご紹介してみました。 (続く)
2023.09.24
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3月26日。 いよいよ、リーグ戦の最終戦です。 その結果です。 対芝浦工業大学 8勝1敗でICU勝利 ダブルス(3勝) NO3 松井・金沢 0-6、6-3、6-3 八木・吉家 NO2 布施・西河 6-0、6-3 山崎・中村 NO1 安藤・兼広 6-3、6-4 田中・鈴木 シングルス(5勝1敗) NO6 清水 0-6、0-6 中川 NO5 金沢 6-4、6-2 八木 NO4 松井 6-3、7-5 青木 NO3 布施 6-1,6-0 田中 NO2 安藤 6-2、6―1 山崎 NO1 西河 7-5、6-2 吉家 シングルスのNO6だけ落としましたが、他は快勝でした。有終の美を飾ったわけですね。 同期のS(清水)君は、切り込み隊長として本当によくやってくれました。 通算成績は3勝2敗。特に劣勢だった高千穂商科大学と、競った試合が多かった防衛医科大学に勝利してくれたのは、本当に助かりました。 私は、ダブルスで3勝2敗と思ったほどいい成績を残せませんでしたが、シングルスは一度も負けずに5戦全勝でした。 殊勲は何といっても副将のM君でしょうか。2年生のK君と組んだダブルスでは4勝1敗。シングルスも3勝2敗と勝ち越してくれました。特に防衛医大戦でシングルスNO3として相手のポイントゲッターにフルセットの末勝ったのが非常に大きかったです。 もう一人の同期N君もよくやってくれました。私と組んだダブルスで3勝2敗、シングルスでも3勝2敗とし、三年生4人はいずれも勝ち越しを果たしました。 リーグ戦の後半には二年生も勝てるようになって、ずいぶん自信になったと思います。 なおリーグ戦は、どこが優勝したかというと、私たちが5-4で勝った防衛医大でした。 防衛医大、山梨大、ICUと5勝1敗で並びましたが、当該大学同士の得失ポイント差で、防衛医大が優勝したんですね。結局、防衛医大は山梨大学に7対2か6対3で勝ったようです。大逆転勝ちですね。おめでとうございます。防衛医大は4月からの二次リーグに進みました。 これで我々三年生の代は、全日程を終了。4月からは新三年生に完全にバトンタッチします。 予想通り、主将にはA(安藤)君が就任しました。 (続く)
2023.09.23
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山梨大学に負けたことにより、優勝はかなり難しい状況になりました。 しかしながら、スケジュール上の朗報もありました。3月23日に予定されていた日本工業大学との試合は、向こうの理由で試合ができなくなりデフォ勝ち(不戦勝)になったからです。23,24日と連戦しなくてよくなったわけです。 結局、日本工業大学はこの年、全試合不戦敗となりました。 七部には時々、エントリーしたけれど試合ができる状況に至らなかったので出場できなくなる大学が出てきます。60校近い大学がひしめき合っていますからね。中にはそういう大学もあるわけです。 これによって、我々のスケジュールが少しだけ楽になりました。実際22,23の両日はゆっくり休めました。 残りの日程は、24日にホームで足利工業大学と、26日にアウェイで芝浦工業大学と試合するだけとなりました。 24日の結果は次の通りです。 対足利工業大学 6勝3敗でICUの勝利。 ダブルス(2勝1敗) NO3 松井・金沢 6-3、6-3 小高・長岐 NO2 布施・西河 6-4、3-6、5-7 樋口・野口 NO1 安藤・兼広 4-6、6-4、6-1 大西・山口 シングルス(4勝2敗) NO6 清水 6-4、6-0 長岐 NO5 松井 1-6、6-4、4-6 小高 NO4 金沢 4-6,7-5、1-6 野口 NO3 布施 6-4,6-2 樋口 NO2 安藤 6-1、6-0 大西 NO1 西河 6-4、3-6、3-3(相手が棄権) 本沢 二日休んだので復活したという感じですね。特記事項としては、二年生コンビの安藤・兼広組が初勝利を挙げたことでしょうか。 シングルスでも安藤君が初勝利を挙げましたね。金沢君のシングルスデビュー戦は、残念ながら黒星となりました。 なお「外れ」が多かったオーダーも少し変えました。 私がNO3で出場、ダブルスで敗れた相手にシングルスでは勝っています。 西河君の相手は、途中で足がつって走れなくなり、棄権しました。 (続く)
2023.09.22
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結果的に四連戦の最後になったことに加えて、長距離の遠征、そして遅れて着いたことによるドタバタ――。 慌ただしさの中、みんな平静ではなく、加えて体もへとへとになっているのは明らかでした。 私も体が重く感じられて、思うように動けません。 15分遅れくらいで始まった山梨大学とのダブルスの試合は、今まで二連勝で負けなしだった布施・西河組が相手の実力NO1とみられる上野・高橋組に敗れるという予想外の展開になってしまいました。 しかも私が思い切って打ったスマッシュをネットにかけてしまったミスがきっかけとなって、相手が調子に乗ってしまったことが痛かったです。 すべての歯車が狂いだして、ミスを重ねてしまいました。 それでも幸いだったのが、松井・金沢組が相手の実力NO2を破ってくれたことです。何とか1勝2敗でシングルス勝負に持ち込めました。 ダブルスの結果は以下の通りです。 NO3 松井・金沢 6-3、6-4 丹羽・相河 NO2 布施・西河 3-6、2-6 上野・高橋 NO1 安藤・兼広 3-6、2-6 山口・深沢 しかし、午後から始まったシングルスの試合も、スコアを見ると、みな絶不調だったことがわかります。 ICUのNO6、NO5ともに、ほとんど反撃できないままストレート負けしてしまいます。 完全に相手に呑まれていますね。このように圧倒されるほどの実力差はなかったと思います。 続くNO4は、ダブルスで初めて黒星を喫した私で、相手は山梨大学のキャプテン。つまりキャプテン同士の対決です。 私は確かに疲れていましたが、意地を見せなくてはなりません。厳しく攻めて、相手に隙を与えずに6-1、6-2と快勝しました。 本当なら相手の実力NO1か2と対戦して勝利するのが望ましいのですが、たぶん相手は、実力ランキングはNO4よりも低かったはずです。今回も見事にオーダーが外れて(あるいは外されて)しまいました。 残りのNO3、NO2、NO1も実力を発揮できずに惨敗。 何と2対7と完敗してしまいました。 シングルスのスコアは以下の通りです。 NO6 清水 1-6,0-6 高橋 NO5 宮城 1-6,2-6 丹羽 NO4 布施 6-1、6-2 相河 NO3 松井 1-6、2-6 上野 NO2 安藤 1-6、0-6 深沢 NO1 西河 0-6、5-7 矢野 疲労と敗戦で打ちひしがれてしまいました。 でもリーグ戦は続きます。前を向かなくてはなりません。 (続く)
2023.09.21
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再び1980年に話は戻ります。 3月21日は、甲府に遠征して山梨大学と対戦するリーグ戦第3戦目でした。 これまで二戦二勝。この調子で勝ち続けたいところです。 しかし、甲府遠征は予想以上に大変で疲れました。 予算に余裕のある大学だったら、前日に甲府に宿泊したり、バスを借りたりして遠征できるのかもしれませんが、ICUの学生にはそれほど余裕はありません。安上がりに済ませるしかないんですね。 甲府への行き方をめぐっても、部内で二つに割れました。 私は公共交通機関を利用して中央本線の特急で新宿駅発午前8時頃発の電車に乗り、午前9時半に甲府駅に到着する方法を提案したのですが、新宿駅まで時間がかかるという部員が大半で、否決されます。結局、何代かの車に分乗して自分たちで運転して、山梨大学に向かうことに決まりました。 午前7時ごろICUの正門に集合して、4台か5台くらいの車で山梨大学に向かいました。事前の取り決めで、交通渋滞などの事情も推定されることから試合開始予定時刻午前10時に遅れても、デフォ負けはなしということにしてありました。 案の定、運転に不慣れな部員もいて、本当なら9時半には付くはずの予定が10時になってしまいます。休む間もなく、慌ただしく着替えをするなどして、10~15分遅れて試合開始。前日の防衛医大への遠征を入れると、二日連続の遠征で、しかも4連戦となります。 このような状態で、果たしていい試合などできるのでしょうか。 (続く)
2023.09.20
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丘の上に何か見えていますね。段々はっきりしてきました。雲です。しかも巨大な入道雲。手招きをしているような入道さんでした。今日で初校ゲラ校正を終了。図表を付けた再校ゲラの校正は、来週早々になる見込みです。
2023.09.19
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ただいま、ゲラ校正中です。締め切りは火曜日。しばらくお待ちください。
2023.09.17
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翌3月20日。たぶん午前10時ごろだと思いますが、埼玉県所沢市にある防衛医大を訪れました。 防衛医大は、医師である幹部自衛官の養成や、自衛隊の医官(旧軍の軍医に相当)の教育訓練を目的に1974年に開設された省庁大学校です。 新しい大学だったので、広い敷地に綺麗に整備された施設が並んでおりました。1980年に一期生が卒業したと書かれていますから、私たちが相手したのは、二期生や三期生たちだったと思われます。 テニスコートはクレイではなく、ハードコートでした。 実は当時の大学テニスはクレイコート全盛の時代で、基本的に公式の試合はクレイコートでしかやりませんでした。ただし例外的にハードコートも認められていたと記憶しています。 普段はクレイでしかやっていない私たちにとっては不利でしたね。 全員で軽く練習した後、NO1の試合が再開されました。第二セット4-4からです。 続く2ゲームはお互いゲームを分け合い、5-5となります。 ここから向こうの選手が本領を発揮して、一気に押し切り7-5で勝利。 A君はあえなく敗退となりました。試合自体は5-4でICUが勝利しました。 結局、この4ゲームのために、はるばる所沢まで皆で足を運んだことになりましたが、A君は相手チームのNO1か2と目される5年生と第二セットで競ることができた経験が大きな自信につながったと後日語っておりました。 翌21日は甲府へ遠征します。試合の反省会と明日の集合場所や段取りなど予定の確認をして現地で解散しました。 (続く)
2023.09.16
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連戦となった防衛医大との試合は、大接戦となりました。 その中でICUにとって幸運だったのは、ダブルスで2勝を挙げられたことです。前回同様、その公式記録を掲載しましょう。左がICU。 ダブルス NO3 松井・金沢 6-1、4-6、6-0 横山・都原 NO2 布施・西河 2-6、6-1、6-4 関・池脇 NO1 安藤・兼広 1-6、1-6 吉田・荻原 スコアから類推すると、実力NO3の安藤・兼広組が相手の実力NO1に当たって粉砕されています。実力NO1の布施・西河組が相手の実力NO2を接戦で制し、実力NO2の松井・金沢組が相手の実力NO3に競り勝ったというところでしょうか。ラッキーな組み合わせだったといえるでしょう。 ダブルスで2勝1敗のアドバンテージをもらって、午後からはシングルスで真っ向勝負です。面白いのは、相手が医科大であるため、向こうの主力選手が4年生、5年生であることです。こちらは2年生、3年生が主体ですから、経験値では二年ほど向こうが上回っているんですね。 まずNO6の試合では、切り込み隊長のS君が五年生相手に大奮闘、2セット連取で一勝を挙げます。 続くNO5は、向こうの5年生に完敗します。 この日もNO4となった私は、ダブルスと同じ対戦相手となった同学年の選手と比較的競った試合をしましたが、2セットを連取して危なげなく勝利、4勝2敗とします。あと一勝すればICUの勝ちが決まります。 ところが、NO3の試合は苦しい戦いとなります。副将のM君が接戦のうえ相手の4年生に第一セットを落としてしまったんですね。同じころ始まったNO2の試合は、何とN君が相手の実力NO1か2とみられる4年生に対して、試合前から足がつっていたこともあり、まったく歯が立たず、あっさりと完敗。逆転負けの芽も出てきました。しかし、ここから副将のM君が踏ん張って攻めに転じます。ほとんどミスをしない相手選手に対して、あの手この手で粘ってポイントが取れるようになったんですね。そしてとうとう、続く2セットを6-2、6-2で逆転勝ちをする大殊勲。NO1の試合結果を待たずして、ICUが5勝3敗と辛うじて勝利を手に入れました。 とにかく接戦が多かったので、すっかり日が暮れてしまいました。最後のNO1の試合は相手の5年生が終始リードして第一セットをとると、第二セットは一転して接戦に。4-4となったところで、日没となり、試合は中断します。 皆の疲れ具合を考えると、勝敗は決していたわけですからポイント獲得は諦めて、NO1の試合をデフォ負けとする手もありました。しかし、せっかく追い上げて4-4にしたのにそこで終わらせるのはもったいないという気持ちも強くありました。後々ポイント数がリーグ戦の勝敗を決めないとも限りません。 そこで双方の主将と主務が話し合った結果、連戦を理由にこの日のICUのホームでの開催を認めてくれたといういきさつもあり、今度は、残りのNO1戦の続きは防衛医大のテニスコートで明日午前中に、第二セット4-4から再開することに決まりました。 この日のシングルスの結果は次の通りでした。 NO6 清水 6-1、7-5 横山 NO5 宮城 4-6、3-6 関 NO4 布施 6-4、6-3 池脇 NO3 松井 4-6、6-2、6-2 新行内 NO2 西河 2-6、1-6 吉田 NO1 安藤 2-6、4-4(日没で順延) 荻原 他校との試合結果を踏まえると、防衛医大は吉田、荻原、新行内、池脇あたりがポイントゲッターだったのだと思われます。実力伯仲の相手でした。 (続く)
2023.09.15
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初戦の対戦相手の高千穂商科大学は、すでに三戦ほど試合をこなしていましたが全敗しており、こちらとしては負けられない相手です。 ところが、初戦で硬くなってしまったためか、強化したはずのダブルスで二つ落としてしまいます。(公式記録なので実名で記します。左がICU) ダブルス NO3 松井・金沢 4-6、1-6 大橋・寺井 NO2 布施・西河 6-0、6-1 船田・田中 NO1 安藤・兼広 2-6、6-3、2-6 江原・寺尾 結果およびスコアを見ると、オーダーが見事に外れたことがわかります。実力NO1の布施・西河組が多分相手の実力NO3と対戦させられています。ところが、実力NO2の松井・金沢組は多分相手の実力NO1と当たって敗れ、実力NO3の安藤・兼広組は相手の実力NO2に接戦の末に敗れたようです。 いきなり初戦からピンチです。 どうなることかとちょっと気が気ではありませんでしたが、そんなことは言っていられませんね。私はNO4で出場しますから、間もなく試合に入らなければなりません。ちなみに試合は一番ランキングの低いNO6同士の対戦から始まって、ランキング順にNO1同士の試合へとコートが空き次第入っていきます。 NO6から始まったシングルスの試合でも苦戦が続きました。NO6、NO5とも接戦の末第一セットを落としてしまいます。 絶体絶命――と思ったら、NO6のS君が第二セットを7-5と取ると、ファイナルセットも6-1で取って逆転勝ちします。NO5も第二セットを6-4で取り返し、反撃を開始。 NO6の試合が終わったので、NO5の試合結果を見届けられないまま、自分が出るNO4の試合に入ります。もちろん、NO5の試合は隣のコートでやっているので、試合経過はわかるわけです。副将のM君がNO5のコートに付きっきりでコートサイドから応援してくれているのがわかります。 で、私の試合は、見事にオーダーを外されて(というか、ある意味ランキング通りのNO4くらいの選手が出てきた)、6-1、6-1とあっという間に勝ってしまいました。その間、NO5のM君もファイナルセットを6-3で取って辛勝。これによってシングルスで3連勝となり、対戦成績を4勝2敗とします。 ダブルス3ポイント、シングルス6ポイントの9ポイント制ですから、残り三試合のうちあと一勝すれば勝ちですね。 その後、NO3のM君が貫録勝ちしてICUの勝利が確定しました。他の試合はNO2のN君が圧勝したものの、NO1のA君はたぶん相手校の実力NO1か2に当たって完敗しました。結果は6勝3敗(ダブルス1勝2敗、シングルス5勝1敗)で、見事初戦を飾りました。同様に記録を記しておきましょう。 NO6 清水 4-6、7-5、6-1 船田 NO5 宮城 6-8、6-4、6-3 田中 NO4 布施 6-1,6-1 水谷 NO3 松井 6-3、6-4 寺井 NO2 西河 6-0、6-1 松尾 NO1 安藤 3-6,2-6 大橋 上の結果とスコアからわかることは、実力NO1の布施(私)と実力NO2の西河がオーダーを見事に外されていることがわかります。ほかは結構僅差でしたから、いい勝負でした。 6-8というスコアがあることからわかるように、当時はタイブレークなしのロングゲーム(6-6の場合はどちらかが先に二ゲームを連取するまで続く試合)でした。 結果的に快勝したので、主将としてはホッと胸をなでおろしました。 遅くなったので反省会もソコソコにして、各自帰宅します。 というのも翌日も朝から試合があるからですね。 翌19日は防衛医科大学校との試合でした。他校ではありえないような過酷な日程です。 (続く)
2023.09.14
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当時のテニス・ノートが手元にありますから、1980年三月以降のテニス部の活動記録を順に追ってゆきましょう。レポート提出期限などすべての期末試験が終わったのは、3月15日のようです。16日は休みで、17日は卒業式があったと記されています。 おそらく試験期間中は自主練習で、その期間中でも試験が終わった部員から徐々に本練習に入ったと記憶しています。 すでに二月には、リーグ戦の抽選があり、私は二年生主務のK君と一緒に渋谷の岸記念体育館の抽選会兼試合日程調整会に出席しました。 その結果、我々のリーグ戦ブロックは、シード校が山梨大学で、ほかに防衛医科大学、足利工業大学、高千穂商科大学、芝浦工業大学、日本工業大学とわが校の7校によるリーグ戦となりました。 日程調整は難しく、期末試験で2週間試合を組めないICUは、いつものように強行日程となります。それでも相手校は事情をある程度考慮してくれて、ホームで4試合、アウェイで2試合と、ホームで2試合多い、日程を組ませてもらいました。 その結果、決まったのは次の通りです。 3月18日 対高千穂商科大学(at ICU) 3月19日 防衛医科大学(at ICU) 3月21日 山梨大学(at 山梨大学) 3月23日 日本工業大学(at ICU) 3月24日 足利工業大学(at ICU) 3月26日 芝浦工業大学(at 芝浦工業大学) 9日間で6試合という超ハードスケジュールです。関東大学リーグですから、参加校も関東地方の広範囲に及び、山梨県甲府市に遠征しなければならなくなりました。 他校は、大体一週間に二試合くらいしか組まないのですが、勉学を徹底的に優先させるICUでは、1週間で5試合と倍以上の過密さで試合をこなさなければならないわけです。 さて、3月18日、いよいよリーグ戦が始まりました。 オーダーは、練習試合と違って、「関東学生」「インカレ」などの資格(本戦出場者)を持っていない限り、必ずしも実力通りの順番にする必要がないことは既にお話ししたとおりです。 本当の実力順だと、私がNO1で、NO2が同期のN君、NO3が同じく同期で副将のM君、NO4が同期のS君、そしてNO5が一年下(二年生)のA君、NO6も二年生のM君ですが、リーグ戦の順番はガラッと変えて、NO1は二年生のA君(実力はNO5)、NO2は同期のN君(実力と同じ)、NO3 同期のM君(実力と同じ)、 NO4が私(実力はNO1)で、NO5に二年生のM君(実力はNO6)、NO6に同期のS君(実力はNO4)が入ることになりました。 つまり私がNO4に紛れて暴れまわるオーダーになっているわけです。 各校とも戦術は大体同じで、NO2、3、4、5辺りに実力NO1~3を持ってきます。 第一戦は高千穂商科大学(現高千穂大学)でした。 (続く)
2023.09.13
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取った科目が悪かったのか、それともただ勉強をしなかったからか、1979年冬学期(12月から翌80年3月まで)は最も惨憺たる成績でした。Cが2個に、Bが2個、Aが1個で、GPAが2・80。学期の成績でGPAが3を下回るのは初めて(最初にして最後)でした。 小玉先生の「近代フランス文学Ⅵ」はフランス語の実力不足で仕方がないにしても、フランス語力を付けようとして履修した語学科の「フランス語翻訳研究」でもCを取ってしまいました。救いは早稲田大学のフランス文学講師がくれた「近代フランス文学Ⅲ」のAだけ。専門科目の「英文学史Ⅱ」と基礎教養科目の「古典の世界」はBでした。 ICU在学中に取ったC6個のうち、この学期にその三分の一の2個を取った計算になります。 まあ、それだけテニスに打ち込んでいたとも解釈できますけどね。 前にも話したと思いますが、テニス部としての活動は、三年生の冬学期に始まるリーグ戦の終了で最後となります。四年生となる4月からは個人でテニスをすることはあるかもしれませんが、事実上引退して、卒論や就職活動に集中するわけです。 いつものように冬学期の期末試験が三月中旬に終わり、すぐにテニスの大学対抗リーグ戦モードに突入しました。 (続く)
2023.09.12
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卒論や就職活動の準備、テニス部の部活のほかに、当時の私の計画としてあったのは、留学です。高校生のとき、両親と私の間には、実家から通える大学で、現役で大学入試に合格したら、留学に行かせてくれるという暗黙の了解がありました。これは当初からクリアしていましたね。 でも当然、留学先は自分で決めなければなりませんし、留学できるだけの実力も自分で培わなければいけないわけです。 GPA(成績の平均天点)やTOEFL(学国語としての英語テスト)などの基準はクリアしていたのでICUの留学制度を利用する手もあったのですが、三年時にはあえてその制度には申し込みませんでした。ICUの留学制度の提携先として決まっていたイギリスのサセックス大学が、あまり自分向きではないように思えたからです。 そこで自分で選んだ大学に留学できる制度がないかどうか探したところ、文化放送が英国の大学への派遣留学生を募集していたことが分かったんですね。早速、英国の大学を調べて、探し当てたのが英国ケント州カンタベリーにあるケント大学でした。そこでケント大学でヨーロッパ演劇の研究をしたい旨のエッセイを書いて、TOEFLの成績とともに願書を提出。面接を受けたところ合格して、ケント大学への留学が決まったという次第です。面接を受けたのは晩秋か初冬だったのではないかと思われます。この制度に選ばれたのは10人で、大学の学部生は私を含めて二人だけ、後は社会人やそれに準ずる留学生でした。 ケント大学は非常に私に合った留学先でした。比較的新しい大学でしたが、結果的に私が論文を書きたいと思っていたサミュエル・ベケットについて、後に有名なベケット研究家になるデイヴィッド・ブラドビー講師が在籍していたからです。大学の綱要を読んでも、近代欧州演劇の研究に力を入れていることがわかりました。 こうして3年生最後の学期となる冬学期が始まる1979年12月ころには、留学先も決まりました。一年留年することになりますが、自分には必要な一年であることは明白でした。 年が明けて1980年。テニスの部活の集大成となる大学対抗リーグ戦が迫ってきました。 (続く)
2023.09.11
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専門科目では、英文学も多く履修しました。 前年冬学期の「英文詩と散文」、春学期の「19世紀英文学」に続いて、この秋学期に取ったのは「現代英文学」。小玉先生の「近代フランス文学」と違って、何と優秀なことに成績は「A」でした。こうした科目を履修することで、英文学の根底を流れる表現の面白さを学びました。言葉遊びやパロディーの要素が強いんですね。 そのため、過去の偉人や詩人たちが残してきた言葉を知っておく必要があるわけです。ウィリアム・ブレイクといったロマン主義の先駆的詩人から米国最大の詩人と称されるウォルト・ホイットマンまで、随分暗唱しました。 今でもハムレットやマクベスなどの有名な台詞はスラスラと出てきます。日本では言えば、鴨長明『方丈記』の「行ゆく河の流れは絶えずして、しかももとの水にあらず」とか『平家物語』の「祇園精舎の鐘の声、諸行無常の響きあり」のようなモノですかね。こうした有名な詩編を暗唱しておくと、非常に役に立ちます。 そのほかに秋学期に履修したのは、基礎教養科目の「歴史学」。これもどういうわけかAでした。 面白い所では、体育の授業の「チームスポーツ」でBを取っています。 初めてそこで習ったのは、アメリカンフットボールを安全かつ簡略化したタッチ・フットボール。タックルの代わりに、地面にどちらかの足を付けたまま相手の体にタッチすればタックル成立とみなして、ミニアメリカンフットボールのようなゲームをします。これなら「密集で乱闘」みたいなことになりませんから、眼鏡をかけていても安心してプレイすることができます。なにしろラグビーから身を引いたのは、勉強のしすぎで、あるいは漫画の読みすぎで目が悪くなったからですからね。本当は、広いグラウンドを走り回るのが好きな性格なのです。 「花のクォーターバック」をやらせてもらって、パスやランをドンドン決めました。 グラウンドを使った、久しぶりの団体スポーツだったので、本当に楽しかったです。 それ以前に履修した「個人スポーツ」(同じく成績はB)では、水泳が上手くなりました。力の抜き方を覚えたので、クロールの息継ぎが楽にできるようになったんですね。それ以来、よく泳ぐようになりました。社会人になってからも水泳を続け、30~40代でも平気で休まずに1キロ~3キロくらいプールで泳いでおりました。 この学期のGPAは、3・38とまずまずでした。 (続く)
2023.09.10
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三年生の秋学期は、いよいよフランス文学を専攻する学生にとっても勝負の時です。 そもそも、当時はフランス文学を専攻する学生の担当教諭は荒木亨教授しかいませんでしたが、そこにクリスティーヌ・小玉先生という新進気鋭のフランス人女性講師が入ってきて、フランス語で授業をするようになったわけです。ICUには英語で講義をする先生は大勢いましたが、語学のクラス以外で、フランス語で講義をする先生は多分初めてのケースだったと思われます。 当然、フランス語ができることが前提になりますから、履修できる学生も限られてしまいます。私に関して言えば、フランス語を始めて一年程度で、大学レベルの文学の講義をフランス語で受けるのですから、本当に大変でした。 私は三年生のときに近代フランス文学Ⅳ、Ⅴ、Ⅵと一年間(三学期間)ずっと小玉先生の授業を取りましたが、生徒は私のほかに同級生が1人と、一年先輩が1人、それに聴講生として参加した大学院生1~2名だけの少人数ゼミのような授業でした。 履修した3人の学部生の中で一番出来が悪かったのが、私です。逆に一番優秀だったのは、先輩のKさん。Kさんの専攻は英文学だったように思いますが、フランス語もうまく、時々先生を深く感心させるような解釈や分析を披露するなど非常に優秀な学生でした。Kさんは実はテニス部の先輩(ただし女子)でもあり、ICU卒業後は東大の大学院に進学しています。 フランス文学を含めた専門科目の中では、小玉先生の授業こそ三学期ともCでしたが、ほかの先生の授業の成績はまずまずでした。1979年は確か荒木先生が一年間のリーブ(研究休暇)を取っていたため、クラスを持っていなかったように記憶しています。そのため、近代フランス文学Ⅳ、Ⅴ、Ⅵとほぼ同時に取った近代フランス文学Ⅰ、Ⅱ、Ⅲでは、早稲田大学から専門講師が来て、私たちにフランス文学を教えてくれました。私はスケジュールの関係で、春学期にⅠを取ることができず、秋学期からⅡ、Ⅲ、Ⅰの順番で履行したのですが、成績はA、A、Bでした。 しかしながら、この成績の良さにはからくりがあります。 秋学期にⅡを取ったときの学生が私一人だけだったんですね。本当はもう一人登録をした学生がいたのですが、出てこなかったために、秋学期はマンツーマンの授業となりました。受講生が1人だけでは、いくら何でも悪い点は付けられないわけです。ただし予習をやらないと授業になりませんから、毎回の出席と予習はmust、絶対やらないわけにはいかないわけです。 その近代フランス文学Ⅱでは、フランスの近代詩を劇的に変えたとされるギヨーム・アポリネールの詩集『アルコール』を中心に勉強しました。面白かったですよ。私の卒論で取り上げた不条理劇作家のベケットとも通じるところがありますから、非常にためになりました。アポリネールが書いた有名な詩「ミラボー橋」くらいなら、40年以上経った今でも暗唱することができます。 (続く) ご参考: Le pont Mirabeau by Guillaume Apollinaire Sous le pont Mirabeau coule la Seine Et nos amours Faut-il qu'il m'en souvienne La joie venait toujours après la peine Vienne la nuit sonne l'heure Les jours s'en vont je demeure Les mains dans les mains restons face à face Tandis que sous Le pont de nos bras passe Des éternels regards l'onde si lasse Vienne la nuit sonne l'heure Les jours s'en vont je demeure L'amour s'en va comme cette eau courante L'amour s'en va Comme la vie est lente Et comme l'Espérance est violente Vienne la nuit sonne l'heure Les jours s'en vont je demeure Passent les jours et passent les semaines Ni temps passé Ni les amours reviennent Sous le pont Mirabeau coule la Seine Vienne la nuit sonne l'heure Les jours s'en vont je demeure
2023.09.09
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大学の三年目は、大忙しの一年となりました。 まず必修科目の単位取得を基本にして、必要な専攻科目(私の場合はフランス文学)をしっかりと履修しなければなりません。 テニスはキャプテンとしての責任が増し、忙しくなりました。一年間にわたる練習カリキュラムを作って、部員全員の体力や実践・技術の向上を目指さなければなりませんからね。 同時に、そろそろ就職活動も視野に入れて、この時代多くの学生がやっていましたが、自動車の運転免許を取得する必要がありました。勉学や部活をしながら自動車免許を取るのは、結構大変でした。ICUの多くの学生は、自転車で通える尾久自動車学校で免許を取得します。私も友だちに自転車を借りて、暇な時間を見つけては自転車をこいで教習所に通いました。たぶん夏までには免許を取得したと思います。 勉強のほうは、以前にも話したと思いますが、フランス人のクリスティーヌ・小玉講師のフランス語の授業による厳しい指導に鍛えられながら(耐えながら)、卒論の構想を練る時期に入っておりました。小玉講師に付けば、卒論は当然、フランス語で書くことになります。 79年春学期の成績表を見ると、専門科目でイギリス人の教授が英語で授業する「19世紀英文学」がB(優に相当)、専攻学科「フランス文学史」もB、私の卒論指導教官となる小玉講師の近代フランス文学はC(良に相当)、必修科目の「聖書入門Ⅱ」がA(秀に相当)、教養基礎科目の「経済・経営学」もAで、結局GPAは3・21でした。前学期の3・40よりは落ちますが、まずまずの成績でした。 テニスは、一学期目(春学期)は全体的に部員の技術や体力の底上げに力を注ぎました。 ダブルスを組む場合も、上級生同士で組むのではなく、上級生と下級生でペアを組ませました。上級生が下級生にいろいろ教えて、試合の駆け引きなどを学ばせるわけです。一年前は、私もそうしてもらいました。 夏以降はいよいよ実践編です。 夏は、自由学園との定期戦を合宿先の山中湖で実施。 自由学園のナンバー1のO選手は、関東学生本戦出場者(いわゆる関東学生)ではありませんでしたが、それに匹敵するくらいのかなりの強敵です。 私はICUのナンバー1として対戦しましたが、一進一退を繰り返す大接戦。結局、私は第一セットを6-8くらいで落としてしまいました。第二セットも接戦で4-4になったところで日没。何とか引き分けに持ち込むことができました。 この試合で相手の強敵ナンバー1と接戦を演じることができたことが結構自信につながりました。テニスが上達するのは、結局強い相手と試合をするに限ります。 そこで秋以降は、関東学生がいる大学との練習試合を意図的に組むようにしました。 一度も現役関東学生を破ることができませんでしたが、専修大学の関東学生とは一セットはタイブレークに持ち込み、かなり競ることができました。駒大の関東学生からは6-2で第1セットを取る健闘。 武蔵の関東学生とも6-8で競るなど勝ちはしませんでしたが、いい勝負をすることができるようになりました。 四年生の元関東学生の前主将のOさんにもキダー杯の決勝戦で初めて勝ちました。 この時期、私自身随分強くなったように実感しました。 (続く)
2023.09.08
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さて、たぶんお待たせしていることはないと思いますが、私がICUの3年生だった1979年の時代に話を戻しましょう。 と、その前に、最近(2023年8月24日)、本当に久しぶりにICUテニス部の先輩に再会しました。私の4学年上の主将だったTさんです。ちょうど私が入学した年に卒業して、神戸製鋼に就職した大先輩です。 ちょうどすれ違いで普通なら会うこともなかったのですが、ICUのテニス部は卒業してからも現役部員とOBが集まって試合をするキダー杯というテニス大会が年二回あるので、何度かテニスコートで会っています。ちなみにキダー杯の名前は、当時テニス部の顧問だった考古学のキダー教授の名前を冠しております。 Tさんと会うのはおそらく40年ぶりであるうえ、お互い年を取ったので、最初は気づきませんでしたが、私はTさんの歩く姿を見て、Tさんだと確信しました。顔や身なりは変わっても、意外と動作や歩き方はずっと同じなんですよね。 テニス部の先輩でいうと、Tさんの一つ上にKさんというテニス一筋という感じの大先輩がいます。Kさんとは、3年生か4年生のときにキダー杯の決勝で一度対戦したことがありましたが、全く歯が立たなかったことを覚えています。 Kさんは関東学生本戦出場者で、大学卒業後はある大手印刷会社に就職しましたが、会社に直談判してテニススクール(ルネサンス・テニスアカデミー)を開設。そこの運営を任され、テニス選手の育成に尽力し、長塚京子(WTAランキング最高28位)らを育て、一躍コーチとして有名になった方です。今でもコーチ業をされていますから、人生をテニスに捧げたような方です。 ご興味のある方はこちら→ルネサンス鷹の台(https://lp.s-re.jp/especiallyschool)。 そのKさんと学生時代ダブルスを組んでいたのが一年下のTさんで、その四代下のキャプテンが私だったというわけです。 ということで、次回からは1979年にタイムトリップします。 (続く)
2023.09.07
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朝から富士山が見えなくても、夕方になってようやく富士山が見えることもあります。木立の間から山頂だけが雲の中に見えておりました。
2023.09.06
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ウォーリーを探せではありませんが、睡蓮の池に何かいます。睡蓮に溶け込んでいて、わかりづらいかもしれませんが、中央にいます。拡大すると・・・前にも紹介したことがあるカイツブリです。潜水の名手ですね。この日も何か音がしたので、カエルかと思って振り向いたら、カエルではなく(カエルも跳ねていましたが)、カイツブリが潜水を終えて顔を出したところでした。睡蓮の池は、かなりのお気に入りの場所のようです。さて、10月下旬に発売予定の新刊『前世は自分で診断できる: 迷いが吹っ切れ、不安が消える本』(河出書房新社)の著者校正は、来週半ば以降に始まる予定だそうです。カバーももうすぐ決まりそうです。決まりましたら、ご紹介いたします。
2023.09.05
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昨日紹介した9月2日の雲の続きです。本当に個性的な雲がたくさん出ておりました。中央の雲は翼を広げたような雲ですよね。Yの字にも見えます。夕日の下には富士山があるはずですが、この日は見えませんでした。そして、こちらも変わった雲です。巨大な戦艦にも、翁の顔にも見えます。最後は変わった図形?舟形と目の形が浮かんでいるように見えます。シンボル色に満ちた空の雲たちでした。
2023.09.04
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昨日はダイヤモンド富士を撮影しようと思ったら、この通り。すっかり低層の雲に覆われて、富士山は見えませんでした。それにしても、凄い雲のパレードです。上の写真を見てもわかるように、海面のそばを流れる低層の雲。龍のように細くたなびく中層の雲。そして上層は精乱雲のような雲が出ておりました。雲のオンパレード。富士山の前を幾層にも行進しているようです。迫力のある雲たちでした。
2023.09.03
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この地域のダイヤモンド富士の季節がやってきました。この時期、観察地点を微妙に変えるだけで、ダイヤモンド富士の撮影ができるわけです。昨日の成果はこちらです。ちょうど富士山の真上に太陽が着陸したように見えますね。久しぶりのダイヤモンド富士でした。
2023.09.02
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昨日(8月31日)は13年ぶりというスーパーブルームーンが各地で観測されましたね。私が撮影した午後7時7分ごろの写真。私のもっているコンパクトデジカメではこれが精一杯でした。ところで、その約4時間半前の8月31日午後2時半ごろ、再び日暈を観測しました。ただし完全な輪ではなく、半分ほどの輪。やはり何か宇宙界ではいろいろ動いているようです。
2023.09.01
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昨日の富士山です。朝方見えていた富士山も、午後1時ごろにはすっかり雲に包まれておりました。午後2時になっても同じ。雲が裾野の下の方までまとわりついておりました。この後、雲が引いて顔を出しますが、それは明日以降、ご紹介いたします。
2023.08.31
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ブログの管理画面に入れなくなったため、この三日間ほどお休みしておりました。特筆すべき出来事としては、久しぶりに綺麗な日暈(ひがさ、にちうん)を目撃しました。それがこちら。8月28日の午前11時半ごろ撮影しました。私が目撃、撮影したのは、2019年5月1日の天皇即位の前後3、4日の二度以来ですから、久しぶりの日輪です。ちなみにその前は、2008年6月24日のゲルとペルの和解記念日でした。何か宇宙的な動きがあったのかもしれませんね。何があったか、判明したらお知らせします。
2023.08.30
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雨がザーッと降ったかと思うと、一転快晴。遠くには見事な入道雲(積乱雲)が立ち昇っておりました。まだまだ夏は続きますね。
2023.08.26
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今日の富士山。今日は朝から晴れていましたが、富士山の周辺は雲が立ち込めておりました。今朝、初稿を脱稿。9月は校正作業となる見込みです。
2023.08.25
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プルメリア。タヒチ、フィジー、ハワイなど太平洋の島々でレイに好んで使われる、良い香りのする花ですね。温室で綺麗に咲いておりました。
2023.08.25
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涼しげな小道シリーズです。木漏れ日の小径ですね。ここは本当に涼しくて、快適な小道です。ところで、本日出版社(ナチュラルスピリット)から連絡があって、『世紀の啓示書「オアスペ」の謎を解く!』の増刷(第四刷)が決まったそうです。多くの人が評価して読んでくださり、非常にありがたいです。あらためて、厚く御礼申し上げます。
2023.08.23
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今日は降ったり止んだり晴れたりと、まるでイギリスのような天気です。で、原稿が書き終わったので、写真を整理していたら、カワラヒワの写真を撮っていたことを思い出しましたので、ご紹介しましょう。こちらです。この建物の屋上で休んでいるのが、カワラヒワです。拡大すると、こうなります。肌色の太めのくちばしと、翼の黄色い斑が特徴です。名前の通り、河原に生息するヒワ(アワやヒエを食べる鳥)です。たまたま目の前に来たので撮影しました。
2023.08.22
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