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1974年の三月上旬だったと思いますが、公式戦の試合中にラックになったときに、密集に巻き込まれ腰の辺りに痛みを覚えたんですね。幸い、その試合には勝ちました。試合中はほとんど気にせずにそのままプレイを続行したのですが、試合が終わって部室に戻るときに腰の辺りに重さを感じます。歩くのがしんどくなって、最後にはそばの椅子に座り込む始末です。 疲労かなとも思ったのですが、休んでも腰付近の重さとダルさは治りません。 そこで翌日、整形外科で診てもらうことにしました。レントゲンを撮ってもらって、お医者さんから説明を受けると、確か「腰部脊柱管狭窄症」との診断。二か月間コルセットを付けて運動をしないように言われます。 当時の私にはすごいショックでした。何しろ毎日運動していないと気が治まらないようなスポーツ少年でしたから、二か月間、その運動を禁じられたのは、二か月間遊びを禁じられた子供の心境です。ラグビー部を休部することを伝えると、皆からがっかりされましたが、ドクターストップがかかったのでは仕方ありません。 野球部の先輩からは怒られました。ラグビーなんかやるから怪我をするんだ、と。まあ、その通りなのですが、あのラグビーの面白さを知ったら、辞められませんね。その後も高校二年生までは春から秋は野球、冬はラグビーと、二つの部の掛け持ちをやらせてもらっていました。この自由さがいいですね。 しかしながら、二か月間に及ぶドクターストップの宣告に、私はしょげ返っていました。せっかくの春休みもおとなしくしていなければならなくなりました。 そのしょげた気持ちを少しだけ和らげてくれたのは、中学の卒業式で、体育優良賞をもらったことでしょうか。毎年男女一名ずつ選ばれる賞で、野球、陸上、ラグビーで活躍したことが評価されたようでした。女性の受章者は水泳部のFさん。Fさんは小学校の同級生で、五年生くらいのときに両親の仕事の都合だと思いますが、S学園を休学して二、三年アメリカで暮らしていました。そして中学になって再びS学園に戻ってきた人です。 このFさんとも不思議な因縁があり、Fさんの父親と私の伯父が大の親友だったんですね。その縁で私も、私の伯父の車でFさんら家族と一緒に群馬県の水上温泉のスキーに行ったことがありました。 このスキー場は、確か水上高原藤原スキー場だったと思いますが、非常に因縁のあるスキー場で、私が後に高校生の時に書いた短編小説の舞台にもなっています。小説家を目指した高校生時代の話も追々話してゆきましょう。 (続く)
2023.01.28
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3年生最後の学期は、ラグビー部に入ったおかげで、とても楽しく、充実した学生生活を過ごせました。ラグビー部では、二人のほかの同期生以外に下級生とも結構仲良くなりました。 中でも、どういうわけか意気投合したのは、二年生のスタンド・オフの原君です。通学途中の電車で一緒になって、いろいろ話し込んだおかげで随分、仲良しになりました。さっぱりしていい奴でした。私は高校2年生の秋までラグビー部とかかわりがあって、その時は右ウィングが原君で、私は左ウィングを任されました。 その原君が後に日本コロンビアの社長になっていたのには驚きました。 その話を、確か小学校から高校まで私の同級生だったT君から聞いたと思います。T君というのは、私が小学生のとき顔にエクトプラズムが出現したときの写真を撮ったときのモデル(被写体)となったT君です。 T君も同じ野球部に所属し、私とずっと仲が良かった友達なのですが、そのT君も後に原君と仲良くなるのですから不思議な縁です。といってもラグビーを通して親しくなったわけではなく、T君が留年したので原君と同級生になって友達になったのだと思います。大学時代も二人は仲が良かったそうです。 一方、そのT君ものちに、とある語学出版社の社長になるわけですから、何か因縁を感じますね。たぶんT君と原君と私には、前世の因縁があったように感じます。いつかその因縁がわかったらお知らせすることもあるかもしれません。 で、その後の中学時代のラグビーの試合ですが、私はトライゲッターとして活躍、私立の六中学大会は結局、三勝二敗か二勝三敗くらいの成績だったと思います。二年生主体のチームとしてはよく健闘したと思います。 そして都大会も一回戦は勝って、二回戦に進みますが、ここで私はアクシデントに見舞われます。(続く)
2023.01.27
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「甲子園に出る」という野望があったため私は野球部からラグビー部に転部することはありませんでしたが、私の先輩には、友だちに誘われてラグビー部に入ったことにより、人生の設計を大幅に変えざるを得なくなった人がいます。 それが、後に世界的に有名な指揮者になった小澤征爾氏ですね。 小沢氏は中学のときには既にピアニストになることを決め、「指が危なくない卓球部」に入っていたそうです。そんな小沢氏をラグビーに誘ったのは、クラスメートの熱血ラガーマン松尾勝吾氏。松尾雄治氏の叔父さんです。松尾一族はラグビー一家ですね。 で、小沢氏は誘われるまま入ったら、ラグビーがものすごく楽しくて、夢中になるんですね。その気持ちは私もよくわかります。ラグビーは「血沸き肉躍る」という感じで、本当に面白いスポーツなのです。その証拠に、私が在籍した当時のラグビー部の部室の扉に「楽美部」、楽で楽しくて美しい部と漢字で書かれており、笑えました。決して楽ではありませんが、楽しくて美しいスポーツというのは本当です。 日経新聞のこのサイトに詳しく書かれていますが、小沢氏のポジションはフォワード第一列のプロップでした。指揮者時代の小沢氏の体型を見ると意外ですが、当時は「今より太っていた」し、「体も強かった」のだそうです。 ピアノの先生には内緒で、毎日ラグビーボールを追って練習をしていたのですが、雨の日の練習か試合で、何とピアニストの生命線ともいえる右人差し指を骨折する大けがを負ってしまったんですね。 泣く泣くピアニストになるのを断念し、恩師の進めもあった指揮者の道を歩み、何と世界的な指揮者になったわけです。 ラグビーをやっていなければ、どうなっていたか、わかりませんね。 小沢氏が私のラグビー部の先輩だったとはつゆ知らず、私が米国ボストン近郊ケンブリッジにある大学院(ハーバード・ケネディ行政大学院)に留学しているとき(1996~97年)に、二回ほど小沢氏が指揮するボストン交響楽団の演奏を聴きに行きました。一回はボストンのシンフォニーホールで、もう一回はボストンから車で2、3時間離れた森の中にあるタングルウッドの野外コンサートでした。私はボストン響だけでなく、その「夏バージョン」ともいえるボストン・ポップス・オーケストラも好きで、こちらもよく聴きに行きました。 話は大きく脱線しますが、ハーバード留学中は、週末はシアター・ディストリクト(劇場街)に入り浸り、暇さえあればあちこちの史跡や観光地にでかけ、週に三回くらい地元のテニス・クラブでテニスをする学生生活でした。いったい、いつ勉強していたんですかね。でも、あーら不思議、ちゃんと優秀な成績で卒業しましたから、ご安心ください(笑)。 (続く)
2023.01.26
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ここで我々の中学のラグビー部について説明しておきましょう。実は私の一つ上の代のラグビー部はものすごく強くて、Mさんという中学レベルでは圧倒的に群を抜く、絶対的な、全日本クラスのスタンド・オフがいました(全日本クラスのMさんと言っても、松尾雄治氏ではありません。確かにラグビー部の先輩ではありますが、代が違います。松尾雄治氏は私の兄と同期生でした)。 Mさんはとにかくテクニックだけでなく、抜群の持久力がある運動選手で学内のマラソン(競歩)大会(距離は17キロくらい)をやると、必ず断トツの一位になる長距離型のスポーツマンでした。 ちなみに私は短距離・中距離走は得意ですが、長距離はそれほど得意ではありませんでした(それでも学年で3位くらい)。 うろ覚えですが、Mさんたちが三年生だった前年度(1972年度)は、慶応、青学、麻布などが入っている私立六中学戦を制し、東京都の大会でも優勝し、中学の全日本に補欠もいれて8人くらい選ばれて、わが校のMさんかIさんが主将を務め、交流試合の韓国戦にも勝利した、というような感じだったと思います。 ところが、彼らが抜けた今年(1973年度)は、3年生の部員は、猫の手となって野球部から臨時に借り出された私を入れても3人だけという歯抜け状態になってしまったというわけです。 だからものすごい馬力で短中距離を文字通り馬のように爆走する私は、ラグビー部としては喉から手が出るほど欲しかったのだと思います。 実際、ラグビー部顧問の体育のY先生からは「お前、ラグビー部に入らないか。日本一のラガーマンに育ててやるぞ」とおだてられて、勧誘されました。豚もおだてりゃ木に登るといいますからね。思わず木に登りかけましたが、思いとどまります。「いや、先生。私には甲子園に出るという夢があります。このまま野球を続けます」と答えておきました。 (続く)
2023.01.25
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当日、私は練習した通り右のウィングで先発しました。実質的には相手は三年生主体のチーム、こちらは二年生主体のチームでハンディがあるのですが、結構接線になりました。 私の記憶では先制したのは我々のチームです。 スタンド・オフの二年生の原君が、パスダミー(投げると見せかけて投げないで、タックルのタイミングを外して抜き去る技)を入れて相手の隙をつき、ディフェンスラインを突破、いきなりトライしたと思います。 その後一進一退の攻防が続き、前半の終わりころ、私のところにもチャンスが回ってきました。 自陣の攻防で、目の前でマイボールのラック(地面にあるボールを奪い合う密集戦)となり、スクラムハーフの二年生の村田君と目が合います。そのとき相手ディフェンスに隙があるのがわかっていましたから、私から声を出してボールを求めます。 すると、村田君はスタンド・オフの原君ではなくて、ウィングの私にダイレクトでパスしてくれたんですね。私はそれを受け取ると、いきなり猛ダッシュ。対面のディフェンダーを初速の速さで抜き去ると、得意の快足で右のライン際を猛スピードで駆け抜けます。もう無我夢中でした。たぶん自陣二〇メートルくらいのところから独走態勢に入って、距離にして70メートルくらい走ったでしょうか、右隅にトライを決めました。人生初トライです。 その後の試合経過はよく覚えていません。覚えているのは後半、対面にいた選手を練習で教わった通りのタックルで、一発で倒したことです。バインドもうまく行って本当に綺麗に決まりました。 しかし、ここで問題が発生。倒した後、どうすればいいか聞いていなかったんですね。本当はタックルが成立した時点でバインドを外し、立ち上がって地面に置いてあるボールを拾い上げてプレイを続行すればよかったのですが、どうしたらいいかわからず、地面でじっとしていました。倒された相手もタックルされたままなので、身動きがとれずボールの上に軽く手を置いて、味方に「早く来い」と叫んでいます。 ラグビー部の人が見たら、結構滑稽な場面だったかもしれません。 そうこうしているうちに、味方も相手も集まってきて、通常通りのボール争奪戦が再開されました。 まあ、ルールを知らない素人ですから、ご愛敬ですかね。 試合はおそらく僅差ですが、我々のチームが負けたと思います。 それでも二年生主体チーム対三年生主体チームの対戦みたいなものですから、大健闘だったらしく、負けたとはいえ、皆自信を深めていたように記憶しています。これで何とかやれるぞという感触をつかんだようです。 70メートル独走トライと、一発タックルで、私の評価はうなぎ昇りだったらしく、試合後コーチの大学ラグビー部の人が私を抱きしめてくれて、「感動したよ」と言ってくれました。 いつもの「かけっこ」をしただけなのに、そんなことを言ってくれたので、私も感激して、とても嬉しかったことを覚えています。ラグビーの試合は、本当にワクワクするほど面白かったです。野球とは一味も二味も違うさわやかな感動がラグビーにはありました。 こうして人生初めてのラグビーの試合が終わりました。 (続く)
2023.01.24
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中学三年生の第3学期。1974年1月のことだと思いますが、ラグビー部顧問の体育の教諭から「おい、布施。お前足が速いんだから、ラグビーやらないか。面白いぞ」と誘われます。 面白いと言われると、すぐに乗ってしまう単純な私がそこにいました。野球部は事実上秋で引退していましたから、暇になっていたこともあります。 「えっ、ラグビーって面白いんですか。じゃあ、ちょっとやってみようかな」と答えると、その日か次の日からラグビー部の練習に参加することになりました。 ラグビーの「ラ」の字も知らないド素人。いつものように、スパイクから何から何まで、お古の借り物です。 実は当時のラグビー部には、私をラグビー部に引き入れなければならない事情がありました。3年生が2人しかいない運動部だったんですね。つまり2年生以下がほとんど主力のラグビー部です。1年生はまだ体が出来上がっていないので危なくて試合に出せないから、他の運動部で体が出来上がっている人材を募集していたわけです。その時、目を付けられたのが、野球がオフになって暇をしていた私ということです。 練習は木曜日から始まりました。次の日曜日が試合ですから、木、金、土の三日間でラグビーのいろはを教わります。でも、練習からして凄く面白いスポーツであることがすぐにわかりました。ルールも大体のことを教わりましたが、細かいところはわからないので、試合でその都度覚えることになりました。 まずきちっと覚えさせられたのは、ボールを投げる(パスする)ときは自分よりも後方にいる選手にしか投げられないこと、ラインを踏んだらフィールドの外に出た(タッチ)と判断されること、タックルは相手の膝の後ろ付近に自分の肩をぶつけ、両手でしっかりと相手の両足をバインド(つかむ、ホールド)すること、でしょうか。それだけは三日間で徹底的に覚えさせられました。 こうして、一夜漬けならぬ、練習の三日漬けで日曜日の公式戦にいきなり先発デビューすることになりました。 (続く)
2023.01.23
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一応ここで断っておきますが、いまここで幼稚園・小学校時代から私の人生を振り返っているのは、なにも自慢話をしたくて書いているのではないんですね。 がり勉君だったことや、運動能力抜群だったことをあえて書いているのは、勉強の人生やスポーツ選手としての人生など人間にはいろいろな人生の側面がありますが、本当の人生は、実はオカルトの人生であるということを言いたくて書いているのです。 よく、オカルトなんて近寄らない方が身のためだとか、真のオカルトの意味を知らずに毛嫌いしたり、嫌悪したり、オカルトを否定したりする人は沢山いますが、私に言わせれば、オカルトを否定することは、その人の人生の80%以上を否定することにほかなりません。本当にもったいないことです。それはいわば、宇宙物理学者や理論物理学者がこの宇宙の80%を占めるとされるダークエネルギーやダークマター(暗黒物質)を否定しているようなものです。 誰もが必ずオカルト的な体験をしているはずです。しかしながら、人間には自分に枠をはめてしまう性質のようなモノがあって、そういう神秘的な体験をしても、なかったことにしてしまう癖があるんですね。虫の知らせ、夢告、シンクロニシティなど本当は誰もが日常的に体験しているんです。 ところが、凝り固まった固定観念や偏見を持っていると、オカルトを受け入れるのが難しくなります。心の目が閉じてしまうと、目に見える表面的なことや物質的なことばかり追い求めてしまうんですね。 肩書や目に見えることだけでは人間の人生は語れません。その根底にある真実は、人間が神秘的な体験をするオカルト現象の中にあります。 かといって、どこかの宗教団体に入る必要はまったくないんです。 なぜなら、神とつながるのは宗教を通してでも、教祖を通してでも、グル(宗教的指導者)を通してでもないからです。私から見れば、他人を通して神とつながることはナンセンスです。それによって「歪められた神」とはつながれるかもしれませんが、それは愚かで無意味なことです。神とつながれるのは、一人ひとりの自分自身の魂を通してのみ可能だからです。 おそらく宇宙に向かって心を開けば、誰もが大宇宙ともつながることができるはずです。大宇宙とつながれば、それはもう、より大きな神とつながることでもありますね。オープンマインドになったうえで、人が謙虚で、感謝して、癒しの心を持ち、何に対しても祝福するならば、すでにそこには神が宿っているはずです。そのやり方は人それぞれ。自分でそのやり方を見つけ出すのが一番だと思っています。 ということで、次回はラグビー部に電撃入部した話をいたしましょう。
2023.01.22
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紀伊国屋書店など大きな書店では新刊『強運が来る兆しの法則』が発売されたようなので、この新刊の解説をいたしましょう。 簡単に説明すると、運命には兆しがあり、それをキャッチすると役に立って面白い人生を歩めるよ、という本です。その兆しは、実は私たちの身の回りに溢れています。ただそれに気づくだけで、人生は楽しく、面白くなります。 このブログでもご紹介しましたが、この本の著者校正作業と重なって(シンクロして)起きた4400の数字の「シンクロの嵐」がそうでした。12月14日に国際郵便代として払った4400円と同じ数字が翌日の新聞の見出しに踊っていたことから異変に気づいたことによって、その日が私の楽天ブログの440万アクセス達成日だったことが分かったわけです。で、秋山氏によると、それはもしかしたら今年4月4日など44と何らかの関係がある大きな出来事が起こる前触れ(兆し)かもしれないという話でしたね。ありえない確率の現象が続いているのは、我々の集合無意識がそれを事前に察知して騒いでいることの現れだ、と。 もちろんそれは一つの大きな見方です。 ところが兆しの面白いところは、それが小さなシンクロの輪、中くらいのシンクロの輪、大きなシンクロの輪というように、三つぐらいの意味があって、それぞれがまたシンクロしていることです。つまり意味が三つくらいにわかれて、それぞれシンクロの波を広げていきます。 ですから、「4400」「440」は個人的な意味をもつ小さなシンクロでもあったんですね。 というのも、私の場合、何かお知らせがくるときは、直接的に2つの数字で来ます。 易をまったく信じていなかった2010年9月、下田富士に向かう電車の中でまどろみかけているときに、いきなり頭の中に麻雀牌が二枚現れ、それがゆっくりと表に返って3ピンと7ピンであることがわかるという映像を見ました。2年後に秋山氏の麻雀牌占いを見たときに、それが易の22番目の卦である「山火賁」であることが判明するという出来事がありました。つまり私が易の卦を見る時は、一発勝負的にドンと直接的に数字が二つ来ます。 今回の場合は4と4が0で強調されていると解釈できますから、易の卦でいうと51番目の「震為雷」が導き出されます。大逆転、大発展という意味ですね。これはまさに12月の私の状態を言い当てたどんぴしゃりの卦でありました。 今回の新刊本は、そうした兆しのつかみ方や解釈の仕方を様々な側面から解説しています。巻末には「あなたの未来を示す64の運の宇宙法則」として易の64卦を今まで以上に詳しく紹介しております。そして秋山氏が、64卦の順番は生まれてから亡くなるまでの私たちの人生そのものを易の性質で描いたものであり、同時に次の順番の卦を読み解くことによって、それぞれの人生の段階での状態とその対処方法が書かれているものなのだ、ということを明らかにしていきます。 そしてここにも、大きなシンクロの輪と、中くらいのシンクロの輪と、小さなシンクロの輪が呼応していることがわかってきます。 私たちの人生は、この三つの輪の繰り返しのようなモノなのです。 その三つの輪がもたらす波紋・波を読み解いて、楽しく人生をサーフィンしましょう、というのが本書の目的です。 是非とも皆さまが、本書をお読みになって、シンクロニシティの妙味を味わいながら、幸せな生活を送っていただければ、本書がその一助となれば、と祈念しております。
2023.01.21
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もうすっかりお忘れでしょうが、私が八支部という私立中学校の大会で陸上部デビューした中学3年生の時の話に戻ります。 200メートルを借り物の“纏足シューズ”で見事優勝、私がエントリーした残る種目は走り幅跳びだけです。 それはたぶん1週間後の日曜日だったと思います。場所は前にもお話ししたように、世田谷にある駒沢競技場。1964年の東京オリンピックでも使われた運動競技場ですね。観客もたくさん入ります。 たった一日のために陸上用のスパイックシューズを買う気はまったくありませんでしたから、この日も借り物シューズで臨みます。でも、今度は私と同じくらいの足の大きさのH君から借りたように記憶しています。痛さはそれほど感じませんでした。 さて、走り幅跳びに出場すると言っても、私はまともに練習したことは一度もありません。小学生のときには自分の通う小学校の記録を塗り替えましたが、その後中学生になってから走り幅跳びをするのは年に一回あったと思われる体力測定の時だけです。踏切板でどのように歩数を合わせて飛べばいいかなど知る由もなく、全くテクニックはゼロ。ただ、高く遠くへ飛べばいいとだけ聞いたことがあるだけです。 そこで、見よう見まねで飛ぶわけです。確か全部で3回~5回飛んで争ったように思われます。 一回目は多分どういうわけか、ちゃんとファールせずに飛べました。二回目はファールか、一回目よりも飛んでいなかったかのどちら。で、何回飛んだか覚えていませんが、何と最終回の手前まで私が1位だったんですね。で、最終跳躍で、それまで2位だった人が私を抜いて優勝しました。それでもわけのわからない素人が2位だったのですから、たいしたものです――と自画自賛(本当は負け惜しみ?)。 かくして、私の最初で最後の陸上部デビューは、かけっこが一位で、幅跳びが二位という結果に終わりました。 “本職”は野球なのですが、実は陸上部以外にも借り出された運動部がありました。 それがラグビー部だったんですね。 (続く)
2023.01.20
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ラフドラ原稿を書き終えたので、とある取材を兼ねて、久しぶりに富士山へ。最初は曇っていたのですが、途中から晴れました。何の取材に行っていたのかは、今度お話しいたします。
2023.01.19
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本日、ようやく三月出版予定の本のラフドラを書き上げました。これを月末までにブラッシュアップしていきます。さて、年末にご紹介した「440」のシンクロニシティの嵐に見舞われた話の続きがありました。 楽天ブログ440万アクセス突破記念というお気楽なオチでは終わらない、という話です。 例によって、昨年12月20日秋山事務所に寄ったときに秋山氏にそのことを聞いてみました。そのとき彼は次のようなことを言っています。 秋山:「4400が何度も出現したということは面白いシンクロですね。こうして繰り返し、繰り返し同じ数字が出現するということは、安全なことではないことを意味します。つまり危険が迫っているわけです。米国で橋が崩落したときに出現したモスマンのような警告を意味します。偏れば偏るほどヤバイわけです。実際、能力者はみな騒いでいますが、いつ来る、何が来るかはわかりづらいのが実情です。 4と4を足すと8で、8は土の年を表します。今年(2022年)がそうでした。事実、44のシンクロは既に始まっています。土を二つ重ねた「圭」を名前に持つ人が話題になったことは、土の年が二年続くことを表します。ですから来年(2023年)も土の年となります。ただし同じ土の年でも性質は異なります。 今年(2022年)の「土」のようにばらばらと既存の制度や古い体制が崩れたり壊れたりしたものが、来年(2023年)は再結晶するような土の年になると思います。固まり直す年です。 坤の年が二回続くので、4と4で8の年なのです。 来年(2023年)は再結晶、たとえば、東北地方では異常な雪です。ボロボロしたものが再結晶しているわけです。でも全体的には寒波は弱いです。東京ではあまり雪が降らないと思います。問題は雪ではないと思います。もっと別のこと。何か予想がつかないようなことが起こります。能力者たちは何が起こるかわからなくて、ただ数字が出ていることがポイント。4がらみになると思います。4月4日とか。来年の4月4日に何かあるかもしれません。選挙で何か起こる可能性があります。統一地方選挙が大波乱になるのかもしれない。 選挙が荒れると、集合無意識が事前に騒ぎます。統一地方選は、今のところ4月の9日か23日辺りではないかとされています。 統一教会をぶち壊して、統一教会は自民党の選挙を応援しないと言っているわけですから、大波乱があるかもしれません。自民党は純粋に創価学会とだけでやるわけですが、今までのようにはいかないでしょう。問題はそれ以上に野党もポンコツすぎることです。令和新選組や参政党が躍進する――そういうことになるかも。選挙前に民衆の意識は偏って荒れます。金融とか地震とかではなく、たいていは選挙です。最初に集合無意識が動くのは選挙(ワープロ変換で二回「占拠」となる)です。その次位に地震(ワープロ変換で「自信」)です。個人とつながりが強い社会的なことを察知して騒ぐ。選挙は自分が揺れる。一人一人が非常にエゴイストなのです。選挙を差し引いても何かシンクロが起こるとすれば、4月の選挙はすごく荒れると思います。」 ・・・と、だいたいこのような内容でした。 さて、何が起こるのか。とりあえず44と関係ある今年の4月4日あたりを注目すればいいのかもしれませんね。 これで、シンクロの嵐は終わりです。というか、まだ続いたりして・・・。
2023.01.18
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まだ書いている途中ですが、アマゾンで告知されたので、三月の新刊をご紹介しましょう。こちらです。この本も面白くなりそうです。発売もされていないのに「現在在庫切れ」となっているところがアマゾンらしいです。一月の新刊『強運が来る兆しの法則』もほどなく発売される予定です。発売されたら、どのような本か解説したいと思っています。
2023.01.17
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次の原稿の執筆が佳境に入っているので、ブログの更新がままなりませんでしたが、本日、一月の新刊本の見本が送られてきました。書店での発売は、23日ごろになる見通しです。紀伊国屋書店はこちら。アマゾンはこちら。
2023.01.14
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新春の花といえば梅ですね。ということで、新春の梅を愛でに行きました。こちらは蝋梅。良い香りがします。今が見頃ですね。こちらは以前にも紹介した「冬至」。前回よりも花が咲いておりました。咲き始めたのは、八重寒紅。こちらはまだ、ちらほらしか咲いておりませんが、12月から咲いている紅梅も見受けられました。正月の所用も昨日で終わり、いよいよ次(3月出版予定)の新刊の仕上げに入ります。こちらも面白い内容の本になりそうです。ちなみに今月発売予定の本も見本は近日中に送られてくる予定です。
2023.01.10
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今日は人日(じんじつ)の1月7日。五節句の一つで、七草がゆを食べることから七草の節句とも呼ばれていますね。朝、早速七草がゆをいただきました。春の七草はこちら。セリ、ナズナ、ゴギョウ、ハコベラ、ホトケノザ、スズナ、スズシロの七種類。ただし、地方によっては七草は異なるそうです。さて、しばらくブログを留守にしておりましたが、別に寝正月を送っていたわけではありません。昨日までは、三月出版予定の本の原稿を書きまくっておりました。ようやく昨日で一段落。完成の目途が立ってきました。また出版の詳細がわかりましたら、告知いたします。今しばらくお待ちください。
2023.01.07
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元日、午前7時5分。遠い海上の雲に日が当たり始めます。山の端もようよう明るくなって・・・太陽が降臨。撮れたての初日の出でした。本年もよろしくお願いいたします。
2023.01.01
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「シンクロニシティの嵐」の続きです。12月14日に始まったシンクロニシティの嵐は、16日になっても収まりません。この日は午後2時に知人のコンサートが市民ホールであったので、聴きに行きました。招待されていたので、お花を挙げようと駅のそばの花屋さんに行って、3000円くらいの花束を作ってもらおうとしたのですが、お店の人が「4000円にすると、花束の包み代(500円くらい)が無料になるので、どうせなら4000円の花束にしたらどうか」と強く勧めます。3500円も4000円もそう変わらないので、4000円の花束にしたら、消費税込みで4400円を支払いました。どうも「4400」にするような力が働いている気がします。 その日の夜、何気にパソコンでネット検索をかけていると、そこにまたまた4400の文字が目に入ってきます。「ヨハネの黙示録」には獣ではなく神の側につく人の数が14万4000人であると、書かれていたんですね。調べると確かに14章にそのようなことが書かれていました。同時に標準音のラの音が440ヘルツであることも思い出します。 翌17日は何も気づきませんでしたが、18日には某新聞社の集金の人が来て、支払った金額が4400円。そのころ、秋山氏が以前、宇宙人から聞いたという1霊年(生命がこの宇宙に出現して、宇宙の壁を抜けて外宇宙へ出ていくのに必要な転生回数の単位。詳しくは『秋山眞人のスペース・ピープル交信全記録』を参照)が1440万回であったことも思い出します。 その後もテレビで報道番組を見ているときにイーロン・マスクが10月28日にツイッターを買収した金額が440億ドルだったことが耳に入ってきたり、2021年に開催された東京オリンピック汚職事件に絡む新聞記事の中に東京パラリンピックの参加者が約4400人であったという記事に目が留まったりしました。 そして最後は12月23日に決まった政府予算の税収が69兆4400億円だったというニュース。 4400がまるで引き寄せられるようにやってきます。 よくもまあ、これだけ続くものです。 だけど、もうこれで最後だろうと思って、油断しておりました。 まだあったんですね、肝心な4400が。 ようやく24日夜、ゲラ校正が終わって、久しぶりに自分のブログの管理画面をボーっとみていたら、その時点で楽天ブログのアクセス数が440万7651であることに気づきます。 「あれ、ここにも440があるな」と気づきます。しかも、つい最近440万0000アクセルに到達した可能性があることにも気づきます。 楽天には過去のアクセス数を棒グラフにした履歴画面がありますから、そこから逆算して、いつ440万アクセスを突破したかを割り出すと、何と、このシンクロニシティの嵐が始まった12月14日の早朝であったことが判明したんですね。 楽天ブログ440万アクセス突破記念シンクロニシティ! 偶然の神様は何とも粋な計らいを見せてくれるものです。 なんて、ずいぶんお気楽な結論(オチ)で終わったとお思いになる方もいるでしょうが、実は本当の意味は別のところに隠されておりました。 その話はまた来年いたしましょう。 最後に恒例の富士山と夕景です。2022年もとうとう大晦日。 よいお年をお迎えください。
2022.12.31
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大掃除の第一弾終了。今日は月と木星、金星と水星がそれぞれ大接近する日でもありました。こちらは月と木星。この後、もっと接近したと思います。木星はこの時期、天頂近くにあって目立ちますね。こちらは金星と水星。中央左に写っているのが金星で、水星はその右斜め45度のところに写っている微かな光りがそれです。肉眼でも辛うじて確認できます。伊豆半島の天城山と金星。遠景になると、水星は写真には写らなくなります。あすも用事が済んだら、少しだけ大掃除の続きをする予定です。
2022.12.30
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昨日、出版社の校正・校閲作業も終わり、校了となりました。これで三月出版予定の本の執筆に専念できます。原稿の締め切りは1月末です。今年はあと、買い物と大掃除も残っていますね。30日も用事ができたので、もうちょっと忙しい日が続きそうです。暇を見つけて、シンクロの嵐の続きと、中学時代の話の続きを書こうと思っています。しばらくお待ちください。
2022.12.28
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ようやく忙しさの峠を越えました。この二週間は仕事などで忙しいだけでなく、強烈なシンクロニシティの嵐に見舞われ、目が回りそうでした。始まりは、12月13日です。この日、いつもイギリスでお世話になっているカーライルの農場のジョンと、タヴィストックのアマンダに本をプレゼントしようと思って、郵便局に行きました。すると、小包類は事前にネットで登録しなければならないことを知ります。ちょっとご無沙汰していただけで、ずいぶんシステムが変わりました。で、その晩、登録して、税関申告書のようなものを書いて翌14日に郵便局で二つの小包を発送したわけです。その代金は、一個当たり4400円。二つで8800円でした。これも随分高くなったものです。昔は印刷物扱いで送れば、もっと安かったはずです。それでも、これまではコロナの影響で小包などは送れず、最近ようやく小包を送れるようになったのだと郵便局の人は言っておりました。この12月14日は、後でわかるのですが、シンクロの始まりの日であり、起点の日でもありました。それは徐々にゆっくりと始まります。とりあえずその日は、秋山事務所で次の本の取材をして、夜家に帰りましたが、ほかに何も起こりませんでした。翌15日朝。私がたまたま新聞を読んでいると、「4400」という見出しが目に留まります。元国連事務次長の明石氏についての記事なのですが、そのとき私はふと「あっ、昨日郵便局で払った金額が見出しになっている」と思ったのです。でもたいした話ではないので、すぐに忘れてしまいました。ところがその日の夜、ある事務所から資料が届きます。その資料には、440万円と関係がある内容が書かれていたのですが、この440万という数字を見て、「そういえば朝、4400という見出しを見て、奇妙な気持ちになった」ことを不意に思い出したんですね。凄い偶然です。もしその資料が届かなければ、4400のシンクロを忘れていたと思われるからです。440のお陰で4400を思い出しました。その時はすぐには明石氏についての記事だということを思い出すことができず、どこかに見出しで4400と書いてあったはずだと思って、目を皿のようにして新聞を調べた結果、明石氏についての記事だったことがわかったわけです。しかし、その新聞を隅から隅まで調べているときに、4400に関する新たなシンクロニシティを発見します。前日の12月14日はまさに44のゾロ目の日で、1ユーロが144円00銭となった日でもあったんですね。ですから、「EUがインフラ投資に100億ドル拠出」という記事も「100億ドル(約1兆4400億円)と記載されていたのです。ここにも4400があります。面白いなと思っていたら、家人が「4400なら今日(15日)、スーパーで買い物をしたときに見た」と言い出します。レシートがあったので、調べると確かに小計で4410円となっています。まあ、10円オーバーですが、誤差の範囲内です。この偶然には何か意味があるはずですよね。意味ある偶然(シンクロニシティ)の本を書いている私としては調べないわけにいきません。そうしたら、翌日もシンクロニシティの連打に見舞われます。まるでそれまでが序章であったかのように・・・。(続く)
2022.12.26
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本日、再校ゲラ著者校正締め切りの新刊の表紙が出来上がりました。こちらです。宇宙の表紙ですね。運の兆しをつかむ方法が書かれています。来年1月23日発売予定。ご予約はこちらからどうぞ。
2022.12.24
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昨日は冬至でしたね。これからは一日一日、日が長くなります。ところで、「冬至」という名前の梅があり、この時期花を咲かせますが、一週間以上前に都内で梅の花が咲いているのを見つけました。寒紅梅の一種だと思われます。梅の花が咲くと、新春気分になります。ただし、年内にやらなければならないことは、依然として目白押しの状態です。
2022.12.23
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12月22日は冬至でしたね。久しぶりに夕暮れを見に行きました。最も日が短い日。あっという間に日が沈みます。雲の上の残照。やがて木々や山々がシルエットになって空に溶け込んでゆきます。何というグラデーション。この時期の夕暮れの空は本当に美しいです。日没後は金星がよく見えます。中央上の白い点が宵の明星・金星です。このほか木星と火星が肉眼で確認にすることができました。12月20日から31日までの間、太陽系の7惑星すべてが夕方の空に姿を現すそうです。日の入り後の30分から1時間が見るチャンスとのことですから、是非夕暮れの空を見上げてみてください。さて、本日(22日)最終ゲラが到着。24日校正締め切り。見本ができるのは、来年1月12日ごろのようです。タイトルと表紙が決まりましたら、ご報告いたします。
2022.12.23
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ゲラ初校をようやく校了。また22日に再校ゲラが送られてきますので、24日までに仕上げることいなっています。それで作業は終わり、1月下旬の出版となりますが、3月出版用の本の取材と執筆が既に始まっております。ほかに金融機関巡りをしなければならなくなり、慌ただしい日々を送っております。そのような多忙で疲れた心身を癒してくれるのは、やはり海や富士山などの自然でしょうか。ということで、今日はその富士山と海です。烏帽子岩が写っていますね。良く晴れた日が続いております。
2022.12.21
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ゲラの校正も始まったので、盆と正月に加えて、冠婚葬祭が重なったような状態です。何はともあれ、ようやく前が見えてきました。来週の火曜日迄には何とか見通しが立ちそうです。3日前の12月13日には、『世紀の啓示書 オアスペの謎を解く!』の第3刷が送られてきました。アマゾンなどではそれまで4000~5000円くらいの高値で売られていましたが、これで定価2800円+消費税で購入できるようになりました。この本に関連して、1年前にあるパーティーで出会った某国立大学の准教授が今度「オアスペ」の研究会を立ち上げたいなどと話していました。その後どうなったかは存じませんが、「オアスペ」はそれだけ面白い本だと思います。この本もその解説書として、長く読み継がれていくのではないかと思っています。
2022.12.16
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盆と暮れが一度にやってきたような忙しさ。あちらこちらを駆けまわっています。いくら昔かけっこが速かったからと言って、師走でこう走らされては息が上がってしまいます。落ち着いたらブログを再開します。
2022.12.13
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運動靴に関しては、実はほろ苦い思い出があります。私は小学生のころから運動会のかけっこでは負けたことがありません。ところが、中学生のとき一度だけクラスメートのM君に負けて、二番になったことがあります。その時の理由が実は運動靴にあったんですね。 スタート直前にふと自分の足元を見たら、左の靴紐がほどけているのに気づきました。トーニャ・ハーディングのようにタイムをかけて、靴紐を結び直せばよかったのですが、もうスタートラインに立っていたこともあり、私は円滑な進行を邪魔したら悪いと思って、タイムをとらずに、靴紐がほどけたまま走ることにしました。 ところがいざ走ってみると、左の靴が脱げそうになり、そればかりが気になってうまく走れないんですね。結局、最後までスピードが出せないまま二着になりました。喜んだのはM君です。後にも先にも運動会のかけっこで私に勝ったのは、M君だけです。彼があまりにも喜んでいるので、「実は靴が脱げそうで走れなかった」とは言えなくなりました。そもそもスタートラインに立つまで、靴紐がほどけていることに気づかなかった私が悪いのです。ただ「おめでとう」と言って、私は負けを認めて、何も弁明せずに退散しました。 そのときの教訓は、「運動靴の紐がほどけただけで、こんなにも足が遅くなるんだ」ということでした。K先生の「纏足シューズ」で走ろうとしたときに思い出したのは、その靴紐のことでした。靴さえ脱げそうにならなければ何とか走れるだろう、と自分に言い聞かせます。同時にスタート前、200メートル走のエントリー人数が少なかったので、予選ではなくこのレースが決勝となることを知らされます。つまり一発勝負なわけですね。人数は8人だったと思います。 スタート位置について、今一度靴紐を確認します。そして、スタート。 纏足シューズですから、当然一歩一歩が痛いわけです。それでも幸いなことに脱げる心配はなさそうです。いつものようにスピードを上げて、コーナーを突っ走ります。曲がり切って直線に出たときには、スタートで私よりも早かったとみられる選手を抜き去ってトップに立っていました。そして残りの直線100メートル。靴が馴染んでいなかったこともあり、一気に加速とまではいきませんでしたが、なんとか最後まで無事に走りきることができました。そして何と、並み居る陸上部員を抑えて一着だったんですね。 実はこのレース、私の友人の陸上部のH君も走っていました。H君は残念ながら表彰される三着以内には入れなかったようです。そのH君が、私が一位でゴールした後、歩み寄ってきて、「惜しかったね」と声を掛けてきます。私は一位だったのに惜しかったとは、レーンオーバーなどで失格したのかなとドキッとします。実は後でわかったのですが、後方にいたH君には私がタッチの差で二位になったように見えたとのことでした。私の感覚では、1メートル以上は引き離していたと思っていたのですが、意外と接戦だったのかもしれません。 何はともあれ、陸上部デビューとなった200メートル走は、借り物の靴でも優勝できたわけです。 (続く)
2022.12.10
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私にとって3年生の秋は、スポーツの秋でもありました。野球部の試合に出る一方、陸上部からもお呼びがかかったんですね。既に話したかもしれませんが、中学の最上級生となった私は全校生徒で一番の快速の持ち主でした。体育祭(運動会)で、ものすごい勢いで突っ走る私の走りが注目されるようになり、陸上部担当のK教諭に「私立中学による秋の地区大会(東京私学陸上第八支部の競技会)が駒沢のオリンピック陸上競技場であるので、出ないか」と誘われます。種目は200メートル走と走り幅跳びだといいます。私の得意種目は100メートル走だったので、100メートル走は駄目なのかと聞いたら、その教諭は「100メートル走はスタートが勝負。いつもスタートの練習をしている陸上部の生徒が出場するので、君をあえて選ばなかった」と言います。 「そんなものなのかな。でも、観客席のある大きな競技場で走れるのは面白そうだ」と思ってすぐに承諾、200メートル走と走り幅跳びで競技会にエントリーします。 駒沢競技場で競技する前に、予選会があるというので、友だちの陸上部のH君とともに予選会の会場に行きました。予選があるというのは、200メートル走でした。 体育の時間に走ったことがある50メートルや100メートル、そして運動会のリレー競争で走る400メートルは経験したことがある距離ですが、200メートルという中途半端な距離を走るのはその日が初めてでした。 私はその日も、いつものように体育の時間で履いている普通の運動靴で予選会に出ようとしていました。それを見たK教諭は、「君はスパイクを持っていないのか」と驚きます。「持っていません。運動靴でもいいですよね」と、私。私の無頓着ぶりに呆れたK教諭は「運動靴では滑るから、私のスパイクシューズを貸してあげる」と言ってくれます。ところが、「バカの大足、間抜けの小足」ではありませんが、私の足はK先生が思う以上に大きかったんですね。K先生のサイズは26センチで私の足の27センチよりも1センチも小さいことが判明します。 そこで私は「シューズが小さくて痛いんですけど、運動靴で走ってはいけないのですか」と聞きます。しかし、どうやらほかの選手は皆スパイクシューズを履いているのに、私だけが運動靴ではまずいということになり、私はそのK先生の「纏足シューズ」を履いて走ることになりました。 (続く)
2022.12.09
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C中学はそのときも強かったです。私の速球はソコソコ良かったと思いますが、ちょっとした隙をついて、コツコツと加点してきます。これに対して初戦に打線が爆発して大勝した私たちは、ちょっと攻めがチグハグでした。たとえば、私が二塁打で出塁した後、三塁に盗塁しようとして走ったら、打者が打ってショートライナーでゲッツー(ダブルプレイ)になるなど、やることなすことが裏目に出ます。結局7回までに私は4点を取られ、こちらの得点は2点止まり。2点差で惜敗しました。背番号5番のエースとしては初めての敗戦です。悔しくて、涙がこぼれたことを今でも覚えています。かなり負けん気の強い選手でした。 二年生のころから活躍して期待された私たちの代の野球部は、これで春も夏も、準々決勝にすら進むことができませんでした。完敗ですね。 この後、二年生にバトンタッチして、秋は実質的に後輩の二年生たちが主役となります。それでも、秋には東京都内の私立中学が六校集まって対抗戦をする六中学大会というのがあって、そこに三年生として出場しました。私は春大会以降エースとなって、その後一度も先発を譲りませんでしたが、背番号は5のままでした。ですから相手チームは、今日は控え投手が先発かと思うわけですが、その「控え投手」が投げた球を見てみな驚くわけです。 六中学大会では勝ったり負けたりでしたが、私はすべての試合に完投して、失点も2点くらいに抑えたように記憶しています。一つ一つの試合は覚えていません。しかしある試合でダイナミックな投球を繰り広げたところ、相手チームの監督から褒められた覚えがあります。 この私立の対抗戦の面白いところは、自分たちが出場しない試合の主審以外の審判を任せられたことです。一度二塁の審判を務めさせられたのですが、審判がこんなに難しいとは思いませんでした。二塁に盗塁を試みた選手へのタッチと、走者がベースに着いた瞬間の区別がつかないことがあるんですね。きわどい判定のジャッジが難しいのです。それこそスローモーションビデオで見ればわかるのでしょうが、タッチする瞬間の素早さに惑わされて、何度か野手側に有利に判定してしまいました。 試合前に、信じた通りに自信をもってコールするように主審に言われていましたから、信じた通りに大きな声で「アウト!」とコールしました。ところが、あとで主審に聞いたら「多分セーフだった」と指摘されたケースが二度ほどありました。せっかく盗塁に成功したと思った選手には悪い事をしました。審判業の難しさを痛感させられる、いい経験でした。 (続く)
2022.12.08
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二年生秋の新人戦から、私たちの学年が事実上の最上級生となります。エースはI君。本当に体に恵まれた野球選手です。彼を見た相手チームはたいてい、あまりにも大きな体に圧倒されます。中学生野球に高校生か大学生が入っているような感じです。 ところがI君は、ソコソコいい球を投げるのですが、いかんせんコントロールがそれほど良くないんですね。新人戦は勝った記憶がありません。勝ったとしても一回くらいです。 最上級生の三年生になった春の大会でも、成績が芳しくなかったように思います。やはり初戦敗退でしょうか。良くても2回戦止まりです。私は打撃が好調で、一年時に2割5分、二年時に3割だった打率がさらに上がって、三年生のときはクリーンアップ(3番、4番、5番)を打つ打率4割のバッターになりました。 そしてI君が投手として伸び悩んだこともあり、春の大会後はとうとう私が先発ピッチャーに昇格しました。私なら大きく崩れることがないからです。ただし背番号は三塁手の番号である5のまま。背番号5番を付けたエースです。 隣町のK中学との練習試合が私の先発デビュー戦となりました。K中学はスポーツが全般的に強く、野球でも常にベスト4くらいには入る強豪校です。蛇足ですが、私の四つ下の従弟が後にK中学に入って、バスケットボール部で活躍。その後早実、早大と進み、バスケットバール部のレギュラー選手になっています。私の母の兄(つまり伯父)の長男、綿貫哲雄の甥の長男にあたります。小さいときはよく私とピンポン玉を使った野球をして遊んでおりました。今でも仲がいいです。 さて、そのK中学との試合では、私は最初から絶好調でした。自分でもびっくりするくらい伸びのある速い球を投げたことを覚えています。上手から鞭のようにしならせて投げる速球は、自分でも感心するくらい非常に威力がありました。K中学のバッターはほとんど打ち返せません。途中乱れて、2失点しましたが、私は7回を完投、3対2で勝利しました。 強豪校に勝利したことは、非常に自信になりました。夏の大会は、背番号5番のエースとして先発します。一回戦は打線も爆発して、五回コールドくらいで大勝します。 続く二回戦の相手はK中学と同じくらい強豪のC中学。私の記憶が正しければ、因縁の対決です。二年生のときの春の大会の準決勝で私たちが敗れた相手チームが、確かC中学でした。 (続く)
2022.12.07
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優勝候補二校を続けて撃破して、私たちは東京でも激戦区のS地区大会の準決勝に駒を進めました。次に勝てば、都大会に出場することができます。しかしながら、私たちはその準決勝で完敗します。今となっては、どこにどうやって負けたかも覚えていません。先輩のN投手が乱調だったのか、あるいは守備が乱れて完敗したのか、わかりません。ただし私は「記録魔」でスコアブックをいつも付けて保存していましたから、いつかそのスコアブックを見つけることがあったら、どのように敗れたかをご紹介できるのではないかと思っています。 実は私が野球を好きな理由は、その記録性にあります。前にも話したと思いますが、私は数学とか数字遊びが大好きなんですね。数学は私にとっては心地よい音楽です。野球の打率や自責点はすぐに暗算で計算できます。言ってみれば、数字マニア、記録マニアみたいな野球選手だったわけです。 何はともあれ、地区大会のベスト4に入ったことにより、私たちの野球部は全校生徒の前で表彰されました。朝礼で皆の前に立たなくてはならなかったので、ちょっと恥ずかしかったですけどね。 夏の地区大会は、シード校となり、二回戦からの登場。その二回戦を快勝した後、三回戦の準々決勝では敗れます。夏はベスト8止まりでした。私は春の大会ほどは活躍しませんでしたが、三塁の守備では活躍したことを覚えています。難しい当たりのサードゴロを三つ連続で見事にさばいて、その回のアウトすべて取って三者凡退にしたんですね。すると、相手のベンチからも拍手をもらって、恐縮したことがありました。試合には負けましたが、嬉しい思い出です。 打撃成績でいうと、一年生の時に2割5分だった打率が上がって3割バッターとなりました。順調に上達していたと思いますが、残念なこともありました。コーチが私のことをその年代のエースとは認めてくれなかったんですね。私はあくまで三塁手で、投手では中継ぎ扱いでした。というのも、同学年にはI君という180センチくらいの体の大きい選手がいて、彼がエースに選ばれたからです。確かに、I君のあの大きな体から投げ下ろす直球は、威力があります。これに対して私は、中学1年のときには165センチと背が高い方でしたが、その後3年間で身長が伸びず、172センチに留まってしまいました。身長が伸びなかったので、エースになれなかったともいえます。 それは二年の夏の合宿で決まったと思います。私は三塁手に据え置かれました。ただし打順は、一番バッターではなく、クリーンアップのだぶん三番打者になったのではないかと記憶しています。(続く)
2022.12.06
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準々決勝の相手は、やはり前年秋の新人戦で、同地区でS中学と両校優勝を果たしたI中学でした。I中学の三年生投手の球は、すごく速かったことを覚えています。試合が始まった当初は、「こんな速い球を打ったことがない。当たるかな」と思っていました。先頭バッターとなった第一打席は、唸るように向かってくる伸びのある直球に、ほとんどまともに当たりません。何球目かで辛うじて当たった球は、私のつま先に当たって、サードの方角に転がりました、私は当然、足に当たったのでファールだと思って一塁に走らなかったのですが、ベンチから「何やっているんだ! 走れ、走れ」と言われ、インプレイ(プレイが続行されている状態)だと気づきます。慌てて走り出しますが、もちろん一塁はアウトでした。 私は訳がわからないまま、すごすごとベンチに帰ろうとしますが、コーチから審判にちゃんと聞いてこいと諭されます。再び慌てて主審に「足に当たったのでファールだと判断したのですが」と尋ねると、主審は「ボールが足に当たったことは確認できなかったので、フェアーとしました」と言います。 そうなんですね。勉強になりました。自分で当たったと思っても、主審がそれを確認できなければ、当たっていないことになるのがルールです。だから狡賢いプレーヤーなら、当たっていないのに「当たった。当たった」と言って痛そうな演技をしたりするわけです。当時の私は馬鹿正直(小学校のころから大根役者)だったので、実際に当たったら審判はちゃんとみていてくれるだろうと思い込んでいて、何のアピールもしなかったわけです。当たってもいないのに当たったとアピールはしなくとも、これからは当たったときはもうちょっと大げさにアピールをしようと反省しました。 この試合では、エースの先輩Nさんの調子がまずまずで、ほぼ互角の投手戦となりました。それでもさすが、今大会の優勝候補のI中学です。小刻みに点数を重ね序盤の3回か4回までに3点を取ります。これに対して我々のチームは3回、相手投手の制球が乱れたところに付け込んで満塁として、私が押し出しの四球を選んで1点を返し、ささやかながら反撃します。 試合はそのまま中盤から終盤に進み、迎えた5回。再び相手チームのエースが制球を乱し、満塁となり、またしても私に打席が回ってきました。たぶん三打席目だったと思います。 前の打席で押し出しの四球を選んでいたということは、たぶんその日の私にはボールがよく見えていたのだと思います。初球か二球目の高めの直球を思いっきり叩くと、打球は左中間を真っ二つに引き裂きます。私は得意の快足を飛ばして、一塁、二塁、三塁を回ってそのまま余裕でホームイン。逆転満塁ランニングホームランです。当時の私がどれだけ速かったかというと、普通の中学生が一塁からホームまで必死で駆け抜ける間に、私の方が先にベースを一周してホームを駆け抜けることができるほどでした。つまりベース一周(約110メートル)走をしたら、少なくとも塁間(27・431メートル)以上の差をつけることができるということです。 おそらくこれは、当時の私たちのベスト・ゲームです。Nさんはその後、二回をぴしゃりと押さえて5対3で私たちのチームが勝ちました。 オカルト的に振り返ると、最初の打席で自打球を自分の足に当てたのが良かったのかもしれません。当たったおかげで(しかも主審がそれを見落とすという代償行為によって)、逆転満塁ホームランという大当りを引き当てたのかな、と今では半ば本気で思っています。 (続く)
2022.12.05
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中学一年生のときの野球の成績は、惨憺たるものでした。小学生と中学生では球の威力も違います。一学年上の上級生が投げてくる、うなりをあげて向かってくる球を打ち返すのは、最初は結構大変でした。秋の新人戦は、たぶん一回戦は勝ったものの、二回戦で敗退したと思っています。小学校の時から知っている一学年上の先輩のNさんが新人戦ではエースでした。左投げで、小学生のときから凄い球を投げるということで評判になっていました。そのNさんが二回戦では打ち込まれたので、衝撃を受けたことを覚えています。私の打率は2割5分くらい。8打数2安打くらいだったと記憶しています。野球がうまくなり始めたのは、春合宿が終わって二年生になってからでしょうか。三年生が四人しかいないチームでしたが、エースのNさんや一塁手のMさん、キャッチャーのAさんらがおり、私たち二年生を引っ張って春の地区大会では勝ち進みます。 一回戦はNさんが好投して勝ちました。問題が発生したのは、二回戦でした。前年秋の新人戦で両校優勝したS中学相手にNさんが先発投手として投げたのですが、4回くらいに突如崩れて、ストライクが入らなくなってしまったんですね。とうとう4~5人連続で四球をだして、2点を取られてしまいます。 その時です。当時コーチをしていたYさんがピッチャー交替を告げたんですね。しかも突然、私をリリーフに指名したんです。とうとう出番が回ってきました。私は三塁手でしたが、実はピッチャーをやりたくてしょうがなかったんですね。だから打撃練習では、率先してピッチャーをやっておりました。そのような私のことを観察していたYさんが監督の担当教諭に進言してくれたのだと思います。 ノーアウト満塁の大ピンチ。嬉しくてしょうがなくて、うきうきした気持ちがつい顔に出てしまいます。すると、相手チームのベンチから「おい、ピッチャーになれて嬉しがっているのか」とすかさずヤジが飛びます。図星です。本当に投げられるのが嬉しかったのです。 ああ、このマウンドの感触。ここから思いっきりボールを投げたくて野球部に入ったのだと実感します。 第1球を投げました。 ストライクです。 相手はリリーフもノーコンだと思っていたのか、全く手をだしません。 続いて第2球。 またしてもストライク。 打者は、続けてストライクを投げてきたので驚いているようです。第3球。何とバッターを空振り三振に抑えたんですね。 その後も次々とストライクを投げ込みました。記憶は定かではありませんが、その回の追加点を一点に抑えて、火消しに成功。6回まで失点1くらいに抑えたと思います。最終回(7回)は再びエースのNさんにバトンタッチ。見事8対6くらいのスコアで勝利しました。4回から6回までの3回くらいを投げ切った私に勝利投手が付きました。公式戦初勝利です。私たちのチームは地区大会の準々決勝に進みました。 (続く)
2022.12.04
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顔を変えた以外には、中学時代はそれほどオカルト的な体験をしていません。むしろ私が中学時代に情熱を傾けたのは、野球でした。野球といっても、中学時代は軟式野球です。ただし私は、上級生が下級生をいじめたり、下級生が上級生に絶対服従を強いたりするという運動部の体質が大嫌いで、かなり反抗的な態度をとっていました。そのため上級生から「生意気だ」と何度も警告を受けていました。 とくに私が中学一年生のときの三年生たちは、彼らもまた上級生からいじめられた経験があるためか、不良っぽいいじめ体質の先輩がいて、一年生の私たちはよくいじめやしごきのターゲットになりました。野球を楽しむための部活だと思ったのが、しごかれ苦しむための部活になっていました。 しかし、これもある意味社会勉強の一環になっているのが面白いところです。社会に出たらもっと理不尽なことに遭遇しますから、その予備訓練みたいなものだったなと今では考えることができます。 幸いなことに、一つ上の二年生の先輩たちは比較的優しい人たちだったので、反抗的な私を諭して、もっと処世術を身に付けるようにアドバイスしてくれました。彼らもまた、三年生のしごきやいじめの被害者であり、うまく生き延びた人たちであったわけです。とにかく運動能力は優れていましたから、しごきに遭ってもへこたれませんでした。ようやく試合に出させてもらえるようになったのは、夏の合宿が終わって秋の新人戦の練習をするようになってから、でした。 しごきのせいで退部者多かったのかどうかは知りませんが、二年生は4人と人数が少なかったので、新人戦からは一年生がレギュラーの大半を占めることになりました。私は足の速い三塁手として一番バッターで起用されました。 (続く)
2022.12.03
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精神の力で顔を変えた後の写真が出てきました。初めて海外に行った時の写真。中学3年のときに旅行したカナダです。1973年の8月だと思います。円形脱毛症も「完治」しています。このときの旅行の感想文が英訳され、日本の英字紙「朝日イブニングニュース(Asahi Evening News)」(1954年創刊)に掲載されました。いつか切り抜きを見つけたら、ご紹介します。それが私の初めての新聞記事デビュー。新聞記者になろうと思ったのも、確かこのころだったと思います。
2022.12.02
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どこまでお伝えしたか忘れましたが、いくつか告知があります。確か、『最古の文明シュメールの最終予言』が発売後すぐに増刷になったことはお伝えしたと思いますが、オーディオブック化されることも決まりました。それから2020年にナチュラルスピリットから発売された『世紀の啓示書「オアスペ」の謎を解く!』の二度目の増刷(第3刷)が何週間か前(先月中旬ごろ)に決まりました。アマゾンなどでは定価よりも高く売られていますが、増刷分が間もなく出回るはずですので、定価で購入できるはずです。今しばらくお待ちください。今後の予定としては、12月中旬から1月23日発売予定の『運の宇宙法則(仮題)』の校正作業に入ります。同時に3月発売予定の新作の取材が今月7日から始まる予定です。詳細が決まりましたら、またお知らせします。
2022.12.02
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中学生になってからは、オカルト、勉強、スポーツという三つの世界の狭間でバランスを取りながらより現実的に生きることになるのですが、中学に入るまで「遊び」ばかりしていた私には結構きつい世界でした。遊びの延長にあった勉強も、試験や通信簿でいい点を取らなければならない競争の色彩が強まりました。私としてはより遊びたいがために点取り虫になるわけですが、周囲は勉強ばかりやっていて、付き合いの悪い「がり勉君」と私のことを見るわけです。 だから結構嫌われたのだと思います。まあ多くの部分で私自身に問題があるわけですが、友達が寄り付かなくなり、信じていた友達にも裏切られ、より孤独になり、ストレスが増えました。運動能力がすぐれていたので、いじめに遭うとまでは行きませんでしたが、かなりの嫌がらせを受けたのは覚えています。おかげで、人間不信に陥り、ストレスから円形脱毛症が発生。非常にみじめな思いをした時期がありました。奈落の底に落ちたようなものです。 そのときに私が陥った症状というのが、妬(ねた)み、嫉(そね)み、怨み、怒り、後悔、疑念といった人間の負の感情です。人を信じられなくなることによって、人間はダースベイダーのように暗黒面に落ちるのです。 実は、そのとき私を救ってくれたのは、小学生のころから自分が密かに培ってきたオカルトの秘術だったんですね。誰にも教わっていないのですが、オカルトはいつも私にどう生きるべきかを教えてくれます。結論を言うと、私は精神の力で自分の顔を変えました。 もちろん整形で顔を変えたわけではありません。そのいきさつは次の通りです。それは暗黒面に落ち込んでいたある日、鏡を見たことから始まりました。その鏡に映し出されていた自分は、負の感情に囚われた、本当に醜い顔をしていたんですね。顔は歪み、皺が増え、猜疑心の塊のような目をしていました。 面白いのは、その鏡に映し出された自分の顔を見たときに、誰か(多分自分の心)がささやいて教えてくれたことです。何を教えてくれたかというと、人間の精神が肉体に影響を与えるのだということなんですね。精神(心の形)が物質(肉体)を決めるのである、ということです。 思い当たることはありました。ストレスによってもたらされた負の感情が円形脱毛症を誘発しました。悔しいとか恨みや憎悪などの人間の負の感情が髪の毛の発育にすら影響を与えるわけです。私自身はなりませんでしたが、胃潰瘍などもその最たる例ですね。 で、今目の前には、自分の歪んだ顔が鏡に映し出されています。その醜い歪みがどこから来ているかというと、間違いなく自分の負の感情からきていることが分かったのです。 「ああ、そういうことか。怨み、妬み、嫉み、憎悪など負の感情を持たなければ、顔を変えることができるのだ」とすぐに悟ります。まあ、結構単純な人間ですよね(オカルトの極意でもあります)。 その日以来私は極力、人間のもつ負の感情を持たないように努めたわけです。人のせいにしないで、人を恨むことをせず、私は自分の心に誓って自分が正しいと思うことをする、と決めました。すると、あれよあれよという間に、元の美男子?の顔、少なくとも比較的均整の取れた顔に戻ることができました。災い転じて福となす。「心の形」が顔を変えるのだということを実際に体験することができたのです。 (続く)
2022.12.01
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一貫教育の学校ですから、小学校から中学校へはエスカレーター式に上がることができます。兄や姉のように塾に通って中学受験しなくてよかったわけです。もっとも、腕試しを兼ねて、中学受験のテストだけは予告なしに突然受けさせられました。そうしたらクラスで五人くらいしか受からなかったという結果が出ました。 私はその五人のうちの一人だったので、「そうか、兄と姉はこの試験を受けて合格したんだな」と実感できたわけですが、たった五人しか受からなかったというのもショッキングンな話でした。つまり中学に入ったら、受験勉強をして学力をつけた生徒と一緒になるということです。 一方、小学校から上がったエスカレーター組は、通信簿という存在すら知らず、受験競争とも無縁で、学力があるかどうかもわからない、のほほんとしてきた生徒ということもできます。試験勉強に関して言えば、最初からかなりの実力差ができてしまうんですね。 環境も随分と変わりました。 中学に入ると、これまで40人弱のクラスが三つだったのが、いきなり50人弱のクラス6つに増えます。生徒数が二倍強になるんですね。しかも、これまでなかった通信簿(成績表)というものが配られるようになります。結構なカルチャーショックです。それまでは遊びがメインで、その合間に勉強をソコソコやっていれば、それでよかったわけです。中学からはそうはいきません。いい点を取らないと落第してしまいます。通信簿で赤点を取らないようにしなければならないというのは、初めはかなりストレスを感じました。 でも結局、慣れてしまうんですね。試験勉強もクイズを解く遊びだと思えば結構楽しめました。遊びなら私に任せてください。なるべく効率的に勉強することをすぐに覚え、試験の点取り屋に変身しました。 英語と数学と体育は常に七段階評価の一番上の5でした。国語と理科、美術と音楽も5か4を取りました。一番苦手だったのは社会科の暗記物。試験勉強の時はいつも四苦八苦で、大体4以上でしたが、ヘタをすると3+を取る時もありました。 面白いことに、私の成績は生涯を通じて、どこで勉強しようと、同じような成績しかとりませんでした。それは高校でも大学でもアメリカの大学院でも同じで、大体似たり寄ったりの成績です。可もなく不可もなく、だいたい4以上というのが私の通信簿でした。 (続く)
2022.11.29
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小学生のときに秘して語らなかったオカルト現象がもう一つあります。 それは、想念は時を超えて共鳴することがあるという現象をよく経験していたことです。 その現象は、本当に突然発生しました。あるとき、M君という仲の良い友達と下校途中に銀杏並木を歩きながら話をしていました。具体的には何の話をしていたか覚えていませんが、たとえば銀杏並木を歩きながら理科の話をM君とするというシチュエーションがあったときに、雷に打たれたような衝撃、しかもかつて一度も経験したことがないような衝撃が走りました。何か自分の想念が突如、未来から降ってくるような感覚があったわけです。 私はすぐにM君に「今、何かが入ってきた!」と告げました。もちろん、M君にはまったく何のことか理解できません。それはそうです。自分自身でも何が起こったかわからないわけですから、M君はもっと訳がわからなくて当然ですね。それは本当に不思議な感覚で、当時の私には説明不可能な体験でした。そのときは、M君に不思議なことが起こったと言っただけで、とくに深く考えることもせずに、その後そのことをすっかり忘れてしまいました。 しかし、そのことを否応なく思い出させる現象が再び発生します。 その最初の不思議な体験があってから、数週間、もしかしたら数カ月が経過したころでしょうか。まったく同じ様なシチュエーションがあったときに、数週間前、あるいは 数カ月前にM君と銀杏並木の下を歩きながら理科の話をしたことを思い出し、その思い出した想念が過去の自分に影響を与えたことがわかってしまったのです。 つまり、あの時に私が感じた不思議な感覚は、数週間後か数か月後に同じようなシチュエーションがあって、そのことを思い出したときのハッとした驚きの感覚が未来から自分の想念に入ってきたことがわかったのです。 私は驚いて、そのことをM君に告げますが、当然、そんなことを言ってもM君には何のことかわかりません。これは経験した本人でないと、わからないことなのです。そもそも説明しても、理解などしてもらえないことは、すぐにわかりました。ジャンケンの未来映像が見えた時と同じです。だから、秘して語らないことにしたのです。オカルトとは、そういうものなのです。 このような現象は、本当にちょくちょく起こりました。50~60回くらいは経験しているように思われます。そして数週間後あるいは数か月後になって、それを確認できるような現象が起きるわけです。それはまさに、過去と未来が共鳴する現象でありました。想念が時を超越して響き合うようなことが起きるのです。 ある意味、それはデジャビュ(既視感)現象に近いです。マドレーヌと紅茶から壮大な過去を思い出すプルースト現象にも似ています。しかし、根本的に違うのは、過去を思い出すのではなく、未来の思いが入ってくるという感覚です。その感覚が不思議で面白いのです。私からみれば、デジャビュにしてもプルースト現象にしても、実はその前段階として、過去において未来を想起させるような不思議な現象が起きていてしかるべきなのです。しかし、それは非常に不思議で、ある意味非常に繊細で理解が難しい感覚なので、たいていの人は気づかないで済ませてしまっています。 小学生のときに、既にそうした現象があることに気づかせてもらった私は、非常に幸運だったのではないかと思っています。というのも、時を超越する想念こそ、宇宙の神秘の扉を開けるためのカギとなりうるからです。少なくともその体験は、私を大の宇宙好きにした一因になっています。 (続く)
2022.11.28
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それにしても何回見ても凄い写真です。こんなにはっきりと霊的な写真を撮影することができるということは、撮影者にもかなりの霊的な能力があることを示しています。 撮影者である担任のO先生は、並々ならぬ霊能力を持っていた可能性も浮上してきます。 逆にいうと、だからこそ意図的に、私が撮った写真を霊的な写真ではないと否定したのかもしれませんね。私がそちらの世界に深い入りすることがないように配慮したというわけです。もう亡くなられてしまったので、今となっては確認できませんが、私の質問に答える前に、少し躊躇していたO先生の顔が浮かんできます。 しかもこの集合写真は、私が見た集合写真の中でも飛びぬけて素晴らしい写真なんですね。 私を含めてみんな本当に楽しそうにして、笑顔が写真から飛び出し溢れてきます。 この最高傑作の写真に、霊的なものが写り込むということはどういう意味があるのでしょうか。 そこで秋山氏に写真を見せて聞いてみました。 「いい写真ですね。屈託のない笑顔がはじけています。ああ、確かに龍の顔みたいのが写っています。面白いですね。おそらくこの場所に関係のある霊的なものが写っているように思います」と秋山氏。 早速、その場所を調べてみました。 場所は、神奈川県横浜市と東京都町田市の境にある「こどもの国」。 太平洋戦争当時、日本軍最大規模の弾薬製造貯蔵施設があった場所を、戦後の1959年に当時の皇太子(昭仁)の成婚を記念して整備、1965年5月5日に「こどもの国」として開園した総合的な児童厚生施設です。 何と戦争のための弾薬庫があった場所なんですね。しかも地名に奈良町、三輪町などニギハヤヒと関係する大和国の地名が並びます。1944年には学徒動員による填薬(薬莢に火薬を詰めること)作業が始まりましたが、その際、動員された学徒を移動させていたトラックが川へ転落、死傷者が出る事故や、翌45年にはゲート近くの広場で弾薬運搬中の爆破事故が発生、死傷者が出るなど悲しい事故も起きています。 そういう歴史を知ったとき、写真の意味もわかってきます。戦争によって傷ついた場所を子供たちの笑顔によって癒すという意味合いがあったわけですね。屈託のない子供の笑顔に勝る癒しの力を持ったものはそうありませんからね。 おそらく白龍は、子供たちの純真さを象徴する守護神だったのではないでしょうか。白龍は私たちの笑顔を使って、その土地の悲しみや、土地に沈む霊たちに光を当てて、癒していたように思うんですね。ご存知だと思いますが、三輪山の神は白い大蛇(白龍)です。 だからこそ、あのような素晴らしい写真が撮れたのではないかと思っています。 (続く)
2022.11.27
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卒業式や入学式の集合写真にエクトプラズムが写っているという話は、中学校のときに話題になっていました。時代はオカルト全盛時代に向かっていました。秘して語ってはいけないと思っていたオカルトが、世間でも語られ始めた時代でもありました。 もっとも私は、中学時代は勉強ばかりやっている堅物だと思われていましたから、オカルトとは無縁の「がり勉君」扱いでした。 その中で出会ったのが、オカルトについて詳しいU君です。彼は勉強ができるだけでなく、オカルトのことを本当によく知っていました。 私も勉強ができたので、クラス委員をずっとやらされていましたが、一度学校全体のクラス委員会をさぼって会議中に窓から抜け出して、U君と映画を見に行ったことがあります。見た映画は『ローズマリーの赤ちゃん』。ミア・ファロー主演のオカルトの名作ですね。 そのときのU君の解説があまりにも詳しかったので、衝撃を受けたことを今でも覚えています。なぜU君がそんなに詳しいかは、後でわかりました。U君の父親が有名なオカルト研究家だったんですね。U君は父親の研究を手伝っていたので、詳しかったわけです。 ちょっと脱線しましたが、エクトプラズムが写った写真探しに話を戻しましょう。 どこかに写っていないかなと思って探していたら、小学校の時の友達が決定的な写真を送ってきてくれました。 肖像権の問題もありますから、全体をお見せすることはできませんが、何とちょうど私の顔のそばに怪しげなものが写っておりました。 それがこちら。 左に写っているのが私で、その上にパペットのような白い物体が、そして向かって私の顔の右には仮面のようなものが写っています。当然、そこにはパペットも仮面もなかったことが、直前に撮られた別の角度の写真からわかっています。この写真だけに写っていました。背景に見える森には、無数の顔のようなものも写っています。撮影者は、私が撮影したエクトプラズムの写真を「ゴミ扱い」した担任のO先生。 オカルト写真を否定したご本人が、実はオカルト写真を撮っていたことが判明しました。 (続く)
2022.11.26
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小学校を卒業し、中学生になったばかりのころ、図書館で本を何気なく探していたら、名探偵シャーロック・ホームズのシリーズを書いたことで有名なイギリスの作家アーサー・コナン・ドイル(一八五九~一九三〇)の本が目に留まりました。 彼が書いた本だったのか、あるいは彼について書いた本だったかは思い出せませんが、一九世紀においてドイルが心霊現象に並々ならぬ興味を示し、数々の心霊写真などの心霊現象を研究していたことが書かれていました。その心霊写真の一枚に、私が小学校のときに撮影した煙のような顔と、ほとんど同じ写真が掲載されていたんですね。 ドイルが心霊研究に血道を上げていたことも意外な驚きでしたが、私が長らく封じていた写真と同じ写真があったことはもっと驚きでした。「やはり、あれはゴミか何かではなく、霊的な写真だったのではないか」と私は密かにつぶやかざるをえませんでした。 そのドイルの本には、煙のような霊の正体は「エクトプラズム」であるとも書かれていました。私にとっては、知っているにも関わらず、ほとんど「未知との遭遇」でもありました。名前がついていることさえ知らなかったのですから。 エクトプラズムとは、一九一三年にノーベル生理学・医学賞を受賞したフランスの生理学者シャルル・ロベール・リシェ(一八五〇~一九三五)が命名した正体不明の物質で、交霊会の際に霊媒から放出されたりするといいます。いわば霊的な素材とも呼べるもので、霧状、流体状、固体状など濃淡があり、粘稠(ねんちゅう)性があるとも書かれています。 このエクトプラズムの写真に関しては、インチキであるとか、偽物であるなどと疑問視する声があります。実はそれこそ笑止。本物を見たことがないから、否定しているにすぎないからです。 実は入学式や卒業式の集合写真にも写ることが間々あります。 早速、小学校のときに撮影した写真の中に、ほかに霊的素材が写った写真がないかどうか探してみました。 (続く)
2022.11.25
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初めて心霊写真を撮ったのも、S小学校のときでした。もちろん当時はそれが心霊写真だとは確信していなかったのですが、後になって間違いなく心霊写真であることがわかったんですね。 それはおそらく、小学校4年生か5年生のころでした。S小学校には面白いことに演劇の授業だけでなく、映像や写真といった授業もあったんですね。その授業の一環で、野外で写真撮影することになりました。制限時間は30分。私は仲の良かった友達にT君と一緒に隣接する幼稚園の校庭で、カメラでお互いの写真を撮ることにしました。 当時はデジタルカメラなど存在しませんでしたから、当然銀塩フィルムでの撮影です。現像してプリントするまでは、どのような写真が取れていたかわかりません。近所の写真屋さんで現像、プリントしてもらいます。 多分36枚のプリント写真の束を受け取って、ワクワク、ドキドキしながら写真をめくったのを覚えています。そこには、遠近法のトリックを使ったトンネルの中の“小人”のT君、小山からジャンプする瞬間をとらえたT君、木の牛らから妖精のように顔を出しているT君など、子供にしてはまずまずの出来栄えの写真が並んでいました。 ところが、最後のほうで撮影した一枚を見て、私は自分の目を疑いました。T君の顔の右頬の辺りに今まで見たこともないような煙のようなものが写っていたからです。その煙の形は、鼻と頬と目のような窪み、それに唇があり、まるで人間の顔のように見えました。 「何なのだ、これは!」と、私はもう一度その写真をまじまじと眺めました。どう見ても、何か白い煙でできた顔に見えます。まるでT君が白いお面を付けているようでした。更によく見ると、左下の地面には髑髏の形をした、うっすらとした光が写っています。いったい何が写っているのでしょうか。 母に見せたが、家事に忙しい母はまったく取り合ってくれません。そこで翌日、担任の先生にその写真を見せることにしました。その写真を受け取った先生は、しばらくそれを眺めていましたが、少し含み笑いをしながら、「ただのゴミか何かが印画紙に写り込んだのだよ」とだけ言って返してくれました。 「ただのゴミが人間の顔のように写り込むのだろうか」――私は先生の答えに疑問を持ちましたが、「先生がそのように判断するのだから、そうなのだろう。そう解釈したほうがきっといいのだ」と、あえて疑問を呈さずに、その見解を受け入れることにしました。 担任の先生が否定したこともあり、その後長らく、その写真のことは忘れていました。しかし、ほどなくそれを思い出すことになりました。 (続く)
2022.11.24
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世の中のすべての子供がそうだと思いますが、何か面白いことを発見したり、変わったことができたりすると、つい自慢したくなるものです。 私もそうでした。 だからじゃんけん大会で優勝するや、「実は頭のところに映像が見えたんだよね」と得意げに友達に話してしまったわけです。 それで私は痛い目に遭います。 友だちは当然、「そんなことがあるはずない」と否定します。「もし本当なら、俺がこれから何を出すか当てて、証明してみろ」とも言ってきます。 その時私はようやく、「自慢してはいけなかったのだ」という教訓を思い知ることになります。 というのも、説明しようとしたり、証明しなければならないと思ったりするだけで、映像は見えなくなるからです。 案の定、検証実験の結果、私はじゃんけんで大敗します。私は本当に愚かでした。同時に私は、オカルトは言挙げしてはいけないのだ、という法則を思い知らされました。 オカルトは自慢するものではなく、秘して語ってはいけないものだということを胆に銘じました。別に誰かに教わったわけではなく、そういうものだということが身に染みてわかるのです。もちろん、誰にも教わっていないというのは私の思い込みで、実は霊的な示唆を私に送ってくれた目に見えない人たちがいなかったとはいえません。 何であれ、話して得することなどないのです。処世術として、私はオカルトを秘密にすることに決めたのです。 (続く)
2022.11.23
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私はスポーツと勉強では非凡な才能を発揮しましたが、こと演劇となると絵に描いたような大根役者ぶりでした。だから結構、からかわれていました。当時、演劇や歌の授業では、綺羅星のように輝くスターが同級生におりました。それが岩崎宏美ですね。当時から抜群の歌唱力を誇っていました。彼女は運動神経もよく、歌とスポーツでは群を抜いていたと記憶しています。歌ではまったく叶いませんでしたが、運動能力ではいい勝負でした。 小学校のときの私の評判はたぶん、スポーツ万能で勉強もできるというものだったと思いますが、実は一つだけ皆に黙っていたことがありました。それは、オカルト的な現象のことがよくわかるという能力があったことです。これは誰にも教わったわけでなく、自然と「わかる」というものでした。 ある時、舞踊の時間(音楽に合わせて体を動かす授業)の最後の5分か10分を使って、じゃんけんゲームをやろうという話になりました。 ルールは簡単で、音楽に合わせて踊りながら、音楽が終わったとき一番近くにいた人とじゃんけんをして、勝った人が「運転手」となり負けた人はその後ろについて、「列車ごっこ」のように肩に手をおいて連結します。 そして音楽が再び始まると、今度はつながったまま音楽に合わせて踊り、音楽が鳴りやむと先頭の運転手同士がじゃんけんをするということを繰り返します。 やがて「列車」はどんどん長くなって、最後に残った「列車」が優勝するわけです。 このとき、私が優勝するのですが、その過程において不思議なことが起こったのです。 そのゲームで私が最初にじゃんけんをした際に、「向こうは何を出すのかな」とぼんやりと考えていました。 すると、対面した相手の頭の、向かって右上の少し(10センチほど)離れた空間にグーの映像がセピア色で見えたんですね。 私は驚いて「えっ、もしかしてグーを出すつもりなのかな」と、瞬間的に察知してパーを出すと、何とまさに思った通りで勝ってしまいます。 次も試したところ、やはり相手の頭の右上の空間にセピア色の映像が現れて、それで相手の出すモノがわかり、一発で勝ちます。 こうして私はドンドンじゃんけんで勝ち抜いていって、長い列車の運転手となるわけですが、三回目か四回目のときに一度、「この映像を使えば勝てるぞ」と欲を出して慢心したことがありました。 すると、そのときだけ映像が見えなかったんですね。 私は慌てて、適当に拳を出したのですが、その時はたまたまあいこになりました。 この失敗によって、私はどういうわけかすぐに悟ります。 「そうか、映像を見るには、変な欲を出してはいけないんだ」と。勝ち負けにこだわらず、ただ純粋にボーっとその空間を眺めるだけでいいのだということが感覚的にわかってしまったんですね。 すると、どうでしょう。再びセピア色の映像が見え始めました。 たぶん、優勝するのに六回勝ったと思いますが、私が色気を出して失敗した一回の引き分け以外は、すべて最初の一発で勝ったんですね。 じゃんけん大会で優勝した私は、どうしてもどのことを友達に伝えたくなります。 そこにもう一つの落とし穴が待ち受けていました。 (続く)
2022.11.22
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S小学校では学習能力もよく鍛えられました。面白かったのは、自学自習が基本で、自分のペースで勉強ができたことです。特に好きだったのは「児童数学」の授業です。最初に真新しい教科書をもらうと、それを自分で読みながら問題を解いて行くことができるようになっているので、自分の好きなところまで勝手に勉強していいわけです。 本当によくできている教科書で、面白いクイズをドンドン自分で解いていける「わかりやすいクイズ本」みたいな感覚で数学が勉強できるようになっていました。加えてK先生という数学の先生が本当にわかりやすく教えてくれたので、すぐに数学好きの生徒になりました。 理科のM先生も面白かったです。みなでどうなるかを予測して、議論し、最後は実験によって確かめるという理科の授業は、とても刺激的でした。 私が比較的苦手とする教科は、担任のO先生が教える社会科だったでしょうか。暗記物が多い科目は、いまでも苦手と言えば苦手です。 S小学校のいいところは、論理思考を重視する左脳教育だけでなく、創造性を重視した右脳教育にも力をいれていたことです。担任のO先生は、子供ミュージカルなど創作の分野でかなり実績を有する先生でもありました。私も修学旅行をモチーフにした子供ミュージカルの合唱団の一員として、ペギー葉山が出演するNHKの歌番組『歌はともだち』に出たことがあります。私自身は演技が下手だったので、いつも端役でした。 最初に出演したのは、『冬は冬』というミュージカルの風の役。台詞は一つもなく、ただ木立の中を走り回る春風を演じました。次に『ハメルンの笛吹き男』の力持ちの役。これは少しだけ台詞がありましたが、結構恥ずかしがって演じていました。自分たちだけで創作したミュージカル『折れた傘』では、いじめっ子の役をやらされましたが、最後まで「いじめっ子」になりきることができず、「優しい男の子」で終わってしまいました。これは民放の番組でも取り上げられました。 本当に「大根役者」だったので、演劇の授業では恥ばかりかいていた記憶だけが残っています。 (続く)
2022.11.21
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幼稚園の次の新しい遊び場となったS小学校は、私にとっては自由で面白い楽園のようなところでした。何しろ授業の中には「遊びの時間」が本当にあって、真剣に遊びました。しかも通信簿もありません。成績など気にせず、思いっきり遊んで、思いっきり勉強しました。まさに我が世の春。毎日毎日が新鮮な驚きと発見、希望に満ちていました。 この小学校に入ったおかげで、私は今まで知らなかった自分の能力を開発していったように思います。 その一つは、何と言っても運動能力です。もともと家が急な坂道の上にあったこともあり、幼稚園のころから足は鍛えられていたようです。小学生になって電車通勤をするようになると、電車に間に合うようによく走ったことも、心肺機異能が鍛えられた要因なのかもしれません。 小学校では雨が降っていなければ、いつでも外で体を動かす遊びをしていました。キック・ボール、ドッジボールなども大好きでした。とにかく当時の同学年の小学生としては桁外れ的に足が速かったです。リーレーなんかでも、ビリでバタンをもらっても、グランドを一周する間に前にいた全員を抜き去るくらい断トツに速かったです。 当時の8ミリ映像を見たことありますが、小学生の中に中学生が紛れ込んでいるような感じでした。スポーツ万能で、体育のO先生は私の垂直飛びの高さを計ってびっくりしていました。当時のS小学校の走り幅跳び記録を塗り替えたこともあります。 担任の先生に初めて野球を教えてもらったときに、いきなり土手越えのホームランを打ったことも思い出に残っています。打球がグランドのフェンスを越えて、電信柱の遥か上を通って、ボールが消えてしまったこともありました。それがきっかけで高校まで野球少年まっしぐらの青春を過ごしました。 (続く)
2022.11.20
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こうしてわずか6歳にして私は、世に言う「受験戦争の荒波」にもまれることになりました。だけど本人はまったく「荒波」とは思っていません。というのも、何の受験勉強もしなかったからです。実際母が私に言ったことと言えば、「泣かないで質問にちゃんと答えていれば受かるから」という言葉だけでした。それを信じた私は、「ふーん、泣かないで答えていれば受かるんだ」と高を括ってしまいます。 当日は、「絶対泣くものか」と自分に言い聞かせて、「お受験」に挑みました。 最初に行かされたのは、音楽室でした。ピアノの前には、後で名前がわかるのですが、M先生という、怖そうな女性の音楽教師が私を待ち構えていました。そしていきなり、「この音を声に出してごらん」と言って、一つの鍵盤を鳴らします。私は聞こえた通りに「あー」だったか「ラー」などと音を出しました。それを何回か続けて、それでおしまい。その間も私は、ただ泣かないことだけを考えていました。 うまく音を出せたかどうかはわかりませんでしたが、M先生がつけた評価は一つ丸でした。目の前の紙に評価を記入するので試験結果がわかるようになっているんですね。私は、泣かないと丸がもらえるのかな、と理解しました。 次は大きな部屋に通されて、それぞれの試験官のところに行かされました。試験の順番については、ちゃんと案内の人が導いてくれたので安心でした。 最初に案内された試験官のところでは、大きなイラストを見せられて「これはなにをしているところの絵ですか」と聞かれました。イラストには遮断機の下りた踏切と、その手前で立ち止まっている人々、通過する列車が描かれていました。そこで「みんな列車が通過するのを待っているところです」と簡潔に答えました。試験官は「それだけ?」と聞くので、「はい」と答えると、何と二重丸をくれたんですね。短い答えなのに二重丸をくれたのが意外でした。後から考えると、簡潔に答えたから評価が高かったのかもしれません。 そのほかの試験については、覚えていません。図形を使った試験もあったように記憶していますが、どのような問題だったかは忘れました。いずれにしても結果だけは、その都度、試験官が目の前で評価を書きこむのですぐにわかりました。先ほどの二重丸以外はすべて一つ丸でした。可もなく不可もなくということだったのだと思われます。 その後、健康診断を受けて、両親同席で面接を受けて、それでおしまいです。私は無事に泣くこともなく、お受験を済ますことができました。 ハプニングもありました。大きな部屋で試験を受けている間、近くにいた受験生の女の子が泣き出してしまったんですね。「ああ、かわいそうに。泣いたら丸をくれないのに」とその時は同情しました。母のアドバイス通りに泣かなかった私は、合格通知を受け取りました。初めてのお受験は成功したわけです。 そして、そのS学園の初等科(小学校)に入学した後のことです。あのときお受験中に泣いていた女の子も入学していたことがわかったんですね。「なんだ、泣いても合格できるんだ」と、ちょっと騙されたような気持になったことを今でも覚えています。 (続く)
2022.11.19
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幼稚園でW先生が読んでくれた絵本から始まって、「青い鳥」、死後の世界や前世、幽霊、空を飛ぶ話、そして多摩川の氾濫と意識の流れの中で振り返ってきましたが、再びS幼稚園の話に戻りましょう。しかし、その前にプルーストやジョイスが得意とした「意識の流れ」の手法について、若干コメントしておきましょう。 『失われた時を求めて』でプルーストは、マドレーヌを紅茶に浸した瞬間に、過去の壮大な物語を思い出し回想してゆくわけです。現在から過去が無意志的想起されたとしたわけです。しかし私の解釈では、実は紅茶に浸したマドレーヌを最初に食べた幼少期(過去)も同様に、未来(あるいは現在)と共鳴を起こしていたはずなんですね。あまりにも繊細な感覚であったため、プルーストは残念ながらそのことに気づかなかったのかもしれません。プルーストのいう無意志的想起は過去にも未来にも、時空を超えて波紋を投げかけているはずなのです。 この文学の「無意志的想起」に非常に近い意味を持つ物理学用語が、バタフライエフェクトです。あえて同じように言い換えると、「無意志的連鎖」でしょうか。蝶の羽ばたきが地球の裏側で竜巻を起こすとする仮説ですが、これも同様に地球の裏側で起きた竜巻が過去の蝶の羽ばたきを誘引したというようなことが起こるのが、この世界なのです。これらの話も追々語ってゆきましょう。 では幼稚園の話に戻ります。 S幼稚園はプロテスタント系で、日曜学校がありました。その代わり月曜日が休みです。日曜学校に出席すると、綺麗なカードをもらえるので、それを目当てにいそいそと出かけていたことを覚えています。日曜学校の内容はキリスト教の礼拝のようなモノだったでしょうか。ただし断っておきますが、私はキリスト教徒でもなければ、いかなる宗教の信徒でもありません。そうかと言って、無神論者でもありません。ただ、神様と交流するのに宗教は必要ないと思っているだけです。 そういえば、一度だけ、幼稚園に行くのが面倒になり、狸寝入りをして朝起きれないふりをして、さぼったことがあります。しかし二度目は狸寝入りだということが母親にばれてしまい、二度とこの手は使えなくなりました。とにかくこのころは、遊びだけでなくて寝ることも大好きでした。いつもたくさん寝たいと思っていました。幼稚園でも昼寝の時間があり、楽しみでした。 そうこうしているうちに、あっと言う間に三年間が過ぎ去ろうとしていました。その時、初めて人生の選択という問題が発生しました。 私には兄と姉がいて、二人とも区立の小学校で学んでいたのですが、私だけはどういうわけか、別の小学校に行かされることになったんですね。最初私は、兄や姉がいる小学校に行きたいと駄々をこねたのですが、その区立の小学校に入学しても、兄や姉はすぐに卒業していなくなってしまうし、私に行かせようとしている小学校は、兄や姉が中学入試で入ろうとしている小中高大学一貫教育の学校だから、すぐに一緒になれると説得されました。こうして、私は小学校を「お受験」することになったのです。 (続く)
2022.11.18
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「昨晩、幽霊を見たわ」と母から不意に真顔で打ち明けられたのは、おそらく私が中学生のころだったと思います。「えっ、幽霊!? 本当に?」と聞くと、母はその時の様子を克明に教えてくれました。 その晩は嵐のような雷雨が吹きすさぶ荒れ模様でした。私は隣の部屋でぐっすり寝ていて起きませんでしたが、比較的近くに雷が落ちたので母は夜中に目が覚めたのだそうです。すると、母の部屋の寝床の足下の斜め右奥にある鏡付きの洋服ダンス(鏡台だったかも)の前に、見知らぬ男が立っていたといいます。泥棒かとも思ったようですが、どうも様子が違います。ところが、起き上がって見ようとしたら、金縛りにあって動けないことに気づきます。それでも、自分の足元近くにたたずむその男の姿ははっきりと見えたといいます。 その男は、明治・大正時代のころの和服姿で、帽子をかぶり眼鏡をかけていました。その顔にはまったく見覚えがなかったと母は言います。男の方は、別に母の方を向いているわけではなかったようです。いったい誰だろう、何でこんなところに男がいるのだろうと母が訝っていると、何とその男は、足を動かすことなく立体映像のまま寝ている母の頭の右のそばまでスーッと音もなく移動してきたといいます。幽霊に足がないとはよく言ったものです。そして、ちょうど母親の頭の右側で一瞬止まったかと思うと、何とその立体映像のまま直角に曲がって遠ざかり、壁の向こう側、すなわち壁を通り抜けて家の外の方へと消えていきました。 意識ははっきりしていたと母は言います。金縛りも男が去るのと同時に解けました。母は一応、自称唯物論者であり、無神論者でしたから、幽霊も神様も元々信じていません。ですから、自分が見たモノは雷と同時に現れた奇妙な放電現象に違いないと自分に言い聞かせようとしました。 しかしながら、それから何時間かが経った翌朝、一本の電話が母のところにかかってきます。それは親戚が亡くなったというお知らせでした。母はそれが誰だかは教えてくれませんでしたが、亡くなった親戚は夜中に落雷とともに現れた男とは明らかに違う人物だったといいます。それでも母は落雷とともに現れた男と親戚の訃報を関連付けて考えざるをえなくなり、自分の子供たちに幽霊を見た話をしたわけです。 私が中学生のころ亡くなった遠い親戚としては、母方の祖父の兄にあたる綿貫哲雄や母方の祖母の姉が嫁いだ兼子一がいますが、だれだかは今となってはわかりません。しかしながら、ありえない確率の偶然には必ず意味があります。彼らと関係するご先祖さまが知らせにきたのかもしれません。推測ですが、母の右側に現れたことを考えると、母方の祖母に関係するご先祖さまが現れた可能性が高いように思われます。霊的なものは、父方なら左側に、母方なら右側に出るとされているからです。 母がこの幽霊目撃体験によって、唯物論者や無神論者を卒業したかどうかはわかりませんが、認知症が進んだ母は晩年、私にこう言ったことがあります。「昨日、神様から空を飛ぶ能力を授かったのよ」と。私は母が神様の話をするのは珍しいなと興味を示して「その飛ぶ能力を使って、何を見てきたの?」と聞くと、母は「多摩川よ。多摩川が氾濫していたわ。そんなことなんてあるのね!」と目をくりくりさせて、興奮気味に話していました。 大方、過去の多摩川の水害の記憶を思い出しただけだろうと思っていましたが、その約7年後の2019年10月12日夜、台風19号の影響で東急二子玉川駅付近の多摩川が氾濫、付近の道路が冠水するなど河川敷を水浸しにする災害が起きています。 もしかしたら、飛ぶ能力を授かった母が見たのは、過去の記憶だったのではなく、時空を超えて飛ぶことができる能力を神様からもらったので未来を目撃して帰ってきたのかな、などと今では思っています。 (続く)
2022.11.17
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