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こんばんはごぶさたしてまたすみません。月末に書こうと思っていて、二日おくれでごめんなさい。----------------------------------私は仕事柄、公民館、市民会館、コミセン、などの「公共施設」を会場にして、セミナーやイベントなどを開く機会がたくさんある。いつも疑問に感じていることが一つある。それは、「机の配置のデフォルト(初期設定)」の問題。一般的にデフォルトは「教室型」になっている。なぜいつも教室型なのだろうか。このブログの読者であれば、ご存じと思うが、場の作り方は、その場の在り方を決めるかなり重要な要素のひとつだ。座りかたをかえる、窓をあける、テーブルクロスをかける、お茶を用意する、音楽を流す……少し環境をかえるだけで、ぐっと空気がよくなる場合が多い。最近はやりのワールドカフェなどは、その典型。カフェというスタイルをつくることによって、安心した場をつくり、自由な発言を促す。会議、研修……それぞれどんな場(空気)にしたいかで机や椅子の配置はかわる。例えば、教室型=学校型。この型は、あらかじめ教師が答えをもっていて、生徒がその答えを探す、ないし覚える、という場合に向いている。なので、子ども時代、長い間教室型を体験した私たちは、教室型というだけで、答えがあたかも主催者・運営者講師(ファシリ)の側にあるかのように感じてしまう。条件反射として。逆に、同じ参加者同士が、知り合い、知恵を出し合い、何かをつくっていくということが一番やりにくい。とくに大学は机が固定されている場合が多く、参加型の授業にとっては最悪な環境に近い。「あ、大学ってそういうところなんだなあ」なんて思ったりする。一方、私らが施設を使う場合は、「答えが最初からわかっていないこと」が比較的多い。会議にしても、研修にしても。みなで答えを探す場でありたい、という場のほうが多い。だから必然的に、教室型は極力避ける。(箱型ですらなるべく避ける)------------------------------------さて、冒頭の問い、なぜ公共施設のデフォルトは、教室型なのだろうか。もとの配置がわかるよう床に、マーキングされているところも多い。一つの提案がしたい。デフォルトの種類を増やして、A教室型 B箱型 C島型 (またはさらにD 全部はじに寄せた状態)のどれかに戻せばよいというルールを採用してはどうだろうか。「使用がおわったら、下記のうちから一つを選んでください」とアナウンスしておく。現状では、B箱型でつかいたい人がA→B→Aという作業をしているのだが、A→B→B という可能性だって大いにあるし、Aのつもりで来たけど、言ってみたらCになってたんでじゃ、Cでいいかという場合だってあるかもしれない。私の場合、たいてい、A教室型からC島型にして、おわったら、またA教室型にもどすことをほぼ毎回やっている。とっても手間がかかる。そんな時、例えば、デフォルトが島型だったらなあと思う。世の中に教室型の使い方が多いから、まだ教室型がデフォルトというルールになっているのだろうか。これからの社会は、どれだけの人が、自分がこの社会の当事者であり、他者と一緒になにかが作れるという実感(つまり希望)を、どれだけの人が持てていけるのかにかかっている、と私は思う。自分が社会をつくる当事者だと思えていないことが、一番本質的な今日のこの社会の問題を生み出しているののではないか。いわゆる、環境問題しかり、子育て環境の問題しかり。そして、その問題について「当事者は自分だ」と感じてもらうには、わかっている「答え」を広告するより、「問い」を発することのほうが有効なことが多い。人は、聞かれてはじめて考えるからだ。二つの環境問題を解決するには、さまざまな人の知恵と行動が必要になるであれば「問い」というスタイルがその本質になければならない。A教室型のみをデフォルトにするのは、そろそろやめたほうがいいのではないか。そしたら社会のデフォルトも変わる??さてさて、この秋も、よい秋になりますように。また来月~。p.s.どっかおもしろいルールのあるところがあったら教えてください。また私も提案をしてみようと思います。p.s.2ヤキイモタイム、今年も募集開始しました。にしかわ/ @nekokant
October 2, 2010
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こんにちは。……ひさしぶりの月末(あれ、また月初めだ)の西川@ハンズオン埼玉です。なまけていた2ヶ月の間に、政権がまたかわり、参議院選挙もあり、梅雨も明けました。いろいろ思うところはありつつ、それはそれとして。この間、地元、埼玉で新システムの勉強会をやることになったり(参加者募集中)→ こちら 私が所属するハンズオン埼玉でも、5年目にしてはじめて、ちょいまじめな総会イベントをやることになったり(参加者募集中)→ 「NPO・ゆずれない夏」 ↑ いいタイトルでしょw ゆず茶(または、ゆずれもんジュース)をご用意して お待ちしています。以上、いきなり宣伝でごめんなさい。酷暑にまじめな話題もいいのですが、ちょっと息抜き。私たちハンズオンが息抜きにみているyoutubeを二つほどご紹介して、今月のお茶を濁させてくださいまし。(ハンズオンは息抜きばかり)1)「聞く」ハイジ テレビCMで有名ですが、 このyoutubeのロングバージョンは つい全部みてしまう傑作。 まちがえたと思って見てみてください。 あ、でも仕事中の方は音がでますんで。 →こちら いかがでしたか? 聞くことで、印象づける 「ねえ、少子化対策ってって何よ?ねえ?」 「そんなことオレに聞かれても~」 厚労省さんもいかがでしょ。 貴団体でもいかがでしょう。 「子育て支援ってなあに?」 ……だんだんムカツイてきますね…… つづいて2)衝撃的なお寺のCM だまされたと思って、ご覧ください。 →こちら ……いかがでした? よくNPOのイベントのチラシなどに 「お気軽にどうぞ」「どなたでも」と書いてありますよね。 でも文面みると、業界用語オンパレードで、 「こりゃ、ぜんぜんお気軽にはいけないのでは……」 なんてこと、しばしばありまん? この映像にも同じ言葉がつかわれてますが、 たしかに、お気軽にどうぞ、って感じ、しますよね。 「はまる」ってねえ(笑) メッセージとそのスタイルが一致してて安心。 しかも、お寺のイメージとずらしてる?ところが、 強烈なインパクト。すでにご存じの方もいらっしゃったかもしれませんが、何度見ても笑えるということでお許しください。そんなわけで、むごい夏ですが、どうぞ、笑って、ご自愛ください。よい月になりますように。
August 1, 2010
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すみません、あっという間の月初め。名ばかり月末男。あいかわらず、年度末も終わってない男。GW、みなさまいかがおすごしでせうか。滋賀の実家に田植えに来ております。まだ前年度仕事かかえつつ(泣)●最近、お座敷(講師やファシリなどお声をかけていただいて出かける仕事)などで、よく日本の子どもの孤立と自信のなさがあまりにも諸外国にくらべて突出しているというデータを引用して、「どうしたらいいでしょうか?」と問いかけたりします。もう有名になってきましたよね。で、関連して『格差社会という不幸』(神保哲生・宮台真司ほか著 春秋社)のご紹介。まえがきがとてもよくまとまっていて、頭の整理に最適。少し長くなりますが、下記、一部ご紹介。ーーーーーーーーーーーーーーーーー自殺率は、英国の三倍、米国の二倍、西側先進国でダントツの1位。単に経済の沈下が理由とは言えない。国民一人当たりGDPは2000年代初頭段階で2位か3位なのに、自殺率は既に先進国で突出した第1位だった。公的支出に占める教育費の割合は、他の先進国が5%台で日本は3.5%。子育て支援費が公的支出に占める割合は、他の先進国が3%台半ばで、日本は1.3%。現行世代が次世代の育成を──子々孫々の育成を──これほど気づかわない国はない。就業時間はヨーロッパ1400時間前後。アメリカが1700時間台。日本はサービス残業をのぞいて1900時間台。サービス残業含めると2200時間前後とされる。ひと月で50時間以上多く、労働日20日として一日に通勤時間含めて三時間多い。これでは家族や地域やNPO等への社会参加の契機が削られ、そのぶん社会成員は互いに切り離されて相互扶助が薄っぺらくなり、人々は社会的に孤立する。つまり、多少経済的につまづいたり離婚したりした程度で、幸せに生きられなくなる。その意味で、昨今話題の「ワーク・ライフ・バランス」が趣味の時間を増やすことだと誤解されがちだが、本質は「経済を回す」ための時間を減らして「社会を回す」ための時間を増やすことにある。こうした誤解が蔓延するのは日本だけだ。ーーーーーーーーーーーここで時間といってるのも示唆的。『モモ』ですね。日本は毎月GWをやったほうがいいんじゃないだろうか。もしやったとしても、それなりにまわってしまったりするんじゃないですかね。本文からも少しーーーーーーーーーーーー(「経済を回すのに社会を犠牲に」してきたのが日本の社会だが)「経済がよかったあいだは、社会の穴が経済で埋められる」けれど、「経済が悪くなると、社会の穴」が露呈することになる。(中略)この「社会の穴」を埋めてきたのが、先にも触れた政府のばらまき=公共事業です。(中略)いまや公的借金は天文学的数字で、公共事業が不可能になりました。それが「地方切り捨て」と呼ばれる。「社会の穴」を「何かで埋める」やり方はもう無理。「社会の穴をなくす」のが重要です。ーーーーーーーーーーーーこの本、マル激トーク・オン・ディマンドhttp://www.videonews.com/on-demand/というネットの番組からできている本で、湯浅誠さん、堤未果さん、本田由紀さん、斎藤貴男さんなど、そうそうたるメンバーによる対談番組の単行本。最近の社会起業家やソーシャルビジネス、コミュニティビジネスなどの言葉の意味するものは、たぶん、社会を消費する(こわす)のではなく、つくる経済とは何かということなのでしょう。では「社会とは何か」は議論がわかれるかもしれませんが、少なくとも経済より上位概念であることは、もうちょっと共有されていいような気がします。いったい、どちらが道具なのか、と。●とまあ、GWでいい天気なのに暗い話でごめんなさい。申し訳ないので、先日読んだ記事でとってもうれしかったものを一つご紹介。お読みになった方も多いかと思いますが。http://www.asahi.com/special/hug/TKY201004190221.htmlこんな出会いがあったらいいですね。ちょっと暖まります。常々「たまたま居合わせた人が、居合わせてよかったと思える場をどうつくるか」をテーマにしている私としては、ってもうれしい記事でした。保育所の保護者会もずっとそんな気持ちでやってきたんです。たまたまこのまちに住んだ、たまたま同じ山に登った……。この社会も同じ。たまたま同時代に居合わせて、出会えたことがよかったと思える、そんな場にしたいと思います。●電車といえば、ここで一曲。中島みゆきの『帰省』という歌もいい歌です。http://www.youtube.com/watch?v=P0FlxUdhEvA歌詞はこちらhttp://music.goo.ne.jp/lyric/LYRUTND54427/index.html田舎出身のわたしとしては、田舎の人がそんなにいい人ばかりかというと、むしろ「路上の人をほっておいたら、自分がおこられる」という意味もあるなと思いますが、それをさしひいても、ちょっと、ぐっときます。この歌、3年ほど前に、保育所関係のシンポジウムにださせてもらったときに、同じくシンポジストだった保育所の園長先生がアカペラでうたってくださいました。ご自分が園長をされている保育所を、こんな場所に、したいとおっしゃってました。●湯浅誠さんといえば「溜め」で有名ですが、私は、世の中にもっと「遊び」(一見、やくにたたないようで、実はそれがないと成り立たないもの。ハンドルの遊び、建築物の遊び)が必要だと思っています。たぶん、同じような意味合いだなと思いました。(上記の本で宮台さんは「バッファ」と読んでいました)さて、「溜め」がたまるかどうかを基準に社会や経済の動きを見ていくとしたら、ベーシックインカムや子ども手当はどう見えるでしょうか。ーーーーーーーーーーーーーー4つ葉プロジェクト+ 第4回子育て政策研究会 こども手当と子どもの貧困~こども手当からベーシックインカムを考える~ http://yotuba-project.net/kenkyukai04.htmlーーーーーーーーーーーーーーに、素人代表?として出演させていただきます。ベーシックインカムを好きな方も嫌いな方も好きか嫌いかわからん方もぜひいらしてください。出演者の堅田香緒里さんのお考えをお読みになりたい方はこちらおすすめ。We164号(2010年2・3月号)特集:つながりのなかで安心して生きる 【インタビュー】堅田香緒里さんベーシック・インカムに女性の視点をhttp://femixwe.cart.fc2.com/ca10/58/p-r10-s/うっ、子どもが起きてきた。タイムアウト。今日は実家のたんぼの田植えです。夜はたんぼで竹灯籠でもするか。ではでは今月もみなさんにとってよい月になりますように。(今月こそ??)毎回長い記事ですみませんm(_ _)m
May 2, 2010
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年度末。人事その他もろもろでみなさん大変の中と存じます。私もです……。一日おくれました。月末すぎた。ごめんなさい。●なんで年度末に忙しいかというと、行政の年度が末だから。で、それにあわせていろいろつくりものをしています。ある社会問題について「考えて」もらうための冊子をつくっています。発行主体は行政。まだ社会の問題として認知されているとは、とうていいえない問題について、可能なかぎりのデータや言葉を集めて、考えてもらおうという趣旨。なかなかの難物。文字におとしていく作業をすると、想定される読者を「説得しよう」とする私がいることに気づく。こう言うと、こういう反論が来るだろう、では、このデータを示しておけば、読者はこういうふうに流れていくだろう、という想定を可能なかぎりしている自分。文章を書くということは少なからずそういうことだと思う。でも、それは読者が「考える」ということにつながるのだろうか?、とふと不安になる。よくある行政発行の「啓発パンフ」みたいになってしまわないか、と。●一般的に私は、行政が発行する発行物を読みたい、とあまり思えない。誤解をおそれず書くと、人権とか男女共同参画とかの類にはとくに。それは、なんとなく、あらかじめ決まっている「正しさ」を押しつけられるんじゃないかと疑っているから。読者である自分が介入する余地がない。私には聴かれてない、という感じ。結論は発行物を出す側がすでにもっていて、それを「わかりやすく」伝えてやろうとしている、そんな姿勢を感じたら、私はあまり読みたいとは思わない。行政発行の冊子が、あまり読まれない理由のひとつには、誰がどんな立場や視線で語っているのか、よくわからないということが大きいのではないだろうか。「市では○○と考えております」「町としては○○になっています」の「市」や「町」ってなんだかが読み手からイメージがわかないために、読み手としての自分の身の振り方がわからない。つまり、コミュニケーションが起動しない。わたしはこう思う。あなたはどうか?という図式で発信すること=書き手の主語を明確にし、内容の是非についての判断を読者にゆだねること。そうなっていれば、コミュニケーションが起動する可能性が生まれる。もちろん読者にわかる言葉で書かれていることが前提になる。発信の主体がよくわからないと、読者にとっては、よくわからい、ということになる。●少し余談になるが、一般的に、行政主導のまちづくりがうまくいかないのも、このためだと思う。まちづくりって、ようするに「よびかけ」で動く関係の連鎖なわけで、それは、よびかける人、とよびかけられる人がいてはじめて成り立つコミュニケーションのはずだ。ところが、よびかける人が単なる組織から与えられた職務として発信していると、よびかけられる側からはいまいち「誰が」「なぜ」よびかけているのか、その主語とゆえんがよくわからないということになる。コミュニケーションが成立しないわけだから、だれも動いてはくれない、ということになる。(なので、あらかじめお金や利益を配分した組織に動員を要請してごまかすことになったりする。)●最近、大きな企業などが、twitterを使いはじめていて、その広報効果が話題になっている理由もここらへんにあるように思う。「誰が」発信しているのか、がtwitterの場合とてもわかりやすい(わかりやすいように見える)。たとえば、NHKやTBSなどの広報担当者の「つぶやき」をちらっと見ていただけると、NHKやTBSの印象が少しかわると思う。NHKさん http://twitter.com/NHK_PRTBSさん http://twitter.com/tbs_channelテーブルマークさん http://twitter.com/katokichicoltd組織と見えていたその向こうに人がいる気配が伝わってくる感じ。それが組織の意図として行われているのかもしれないので、しくまれた親密感か?と思い、微妙な気分にもなるが、それでも担当者のつぶやきの中に、ぎりぎりアウト(笑)のはみだしつぶやきを見つけるとうれしくもなる。NHKでここまで言うかと。そのうれしさが、好きにつながっていく気がする。●何を言うか、もだいじだが、誰が、誰に、なにゆえ、どのように、のほうがよりたくさんのことを伝えていく。コミュニケーションが起動するかどうかは、ここで決まる。いまつくっている冊子が、結論をおしつけることになっていないか、が気になる。おしつけと感じた瞬間、人は反発するか、気持ちが離れる。つまり考えてはくれない。こちらは、もうわかっている人、そのわかっている人が、わかっていない人にわからせようとつくる冊子と、読者の眼にうつったらもう終わり……正しさは、人を遠ざける。このことは、市民活動やNPOをすすめていく立場として、いままで痛い思いをたくさんしてきた。たぶんNPOが嫌われる理由~。だから文章の書き出しが一番ふんづまって、悩むことになる。もちろん、冊子を発行するのは、考えてもらいたいことがあるから。そこには発行者(私をふくめ)のメッセージがある。しかし、その問題を考える主体は読者。コミュニケーションが成立するのかどうか。このことを何度も何度も思いながらつくらねば。と思うと、やっぱり思い切って読者は誰なのか、を絞りに絞ってつくらなけらばいけない、ということになる。読者の目線にたどりつけているかどうか。行政はしぼってはいけない、というたてまえがあったりするから、さらにむずかしい。●そういえば、このブログも誰向けに書けばいいのか、よくわかってないことに気づき不安になる(笑)。しちめんどくさい文書を読んでくださったあなたに感謝。今年度もよい年度でありますように。年度末おじさん にしかわでした。まとまらない文章のおわびに、最後に最近、考えるをめぐって西村佳哲さんが書かれた下記の文章をご紹介しておきます。こんなふうな『考える』の種を植えてみたい。------------------------------考えるとは腕組みをしてウーンと唸ることでもないと思う。道を歩いていて、あるいは本を読んでいて、「あっ、そうか!」と、頭の中で離れた場所にあったなにかとなにかがつながる瞬間を思い返してみると、『考える』とは「自分が気にしていることや、わからないことを、決して忘れずにいることである」ということに思い至る。自分の「わからなさ」や「明らかにしたい」という気持ちを心の片隅や念頭にやんと置いたまま、忘れずに生きてゆくこと。『自分の仕事を考える3日間』西村佳哲著 弘文堂 ↑西村さんの本は、どの本も子育て支援者のみなさんにもぜひおすすめです。(低賃金または無償で働いているスタッフの方もおおいでしょうから、仕事ってなんだ?と考えてみるよい機会になると思います)西村さん→http://www.livingworld.net/nish/
March 31, 2010
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先日、某協会主催の保育所長さん向けセミナーがあり、保育士でも学者でもないのに登壇させてもらいました。「これからの保育所に望むことを自由に話してください」がオーダーだったので、好き放題しゃべらせてもらいました。こんな保育所と下記3つを提案。1)みんなで お茶が飲める保育所2)保護者が「ただいま」って、帰ってくる保育所。3)「ありがとう」って保育者が言ってる保育所-------------------------1)みんなで お茶が飲める保育所 お迎えにいくと「さあ、さっさと帰ってくださいね」という 雰囲気がすでに漂っている時があって…… 先日、NNNドキュメントで反貧困の湯浅誠さんの特集をしていました。 で、『公設派遣村』の場面で、 大晦日の夜に、湯浅さんが量販店をまわって、 電気ポットを10個買って、宿泊場所に届けるというシーンがあって。 「(お茶を飲むことで) ちょっとほっと一息つける。それで『ため』ができるんです。 たかだかお茶ぐらいっていうのは、 お茶をが飲みたいときに飲める人のセリフですね」 かっこいい~。 間がなくなってきています。時間も、空間も、人の間も。 病院(下記)にも欲しかったのは談話室。 ヤキイモタイムもこのためにやってます。ためをつくるために。 2)保護者が「ただいま」って、帰ってくる保育所。 これはある保育所の所長さんにヒアリングしていたときに 実際に聞いたひとことです。 事務室で所長さんと話し込んでいたら、 戸ががらがらっとあいて、 茶髪の若いお母さんが、「ただいま~」。 保育者の方が「おかえり」はよく言ってると思います。 (うちの保育所でもそう) でも、保護者が「ただいま」と思えている園は、 実はあまりないんではないかしら。 前にも書いたhome away。homeになっているか、と。 家、以外にただいまって思える場所があることは、 人の幸せにとても関係しているような気がする。 homeのless。 お客さんじゃないんですよね。3)「ありがとう」って 保育者と保護者がお互いに言ってる保育所 (とくに保育者がいってる保育所) 支援とは、何かについて考えると いつもここにいたります。 骨折、入院して、病室でひまつぶしに折り紙をする娘。 「あら、かわいいわねえ」とほめてくださる看護師さんは多い。 でも「あ、じゃあ、一つ注文してもいい」と聞いてくださった 看護婦さんが一人いました。 せっせと折って、わたす娘。 看護師さんにっこりして、 「ありがとう!事務室の机にかざっとくね」 もちろん娘はにっこり。 介助、介護、看護……身体のケアについては、 世話をやき、かたがわりをすることで、ある程度実現する。 患者が言うありがとう、で士気も高まる。 それはわかる。 でも、心をささえるのはそれだけではない。 患者さんに相談できる看護師さんやお医者さんは、 きっとその患者さんから信頼されていると思う。 あなたがいてくれてよかった、というメッセージが いちばんの薬になる。 とくに保育者が自然にありがとうっていってる保育所は、 いい雰囲気が流れている気がする。 そこでは、保護者はもちろん感謝している場合が多い。 (最近はそうでもないと言われそうですが)----------------------------こんな保育所にしたいといいつつ、保育者への要望みたいになってしまった。わたしなりにそうなるようにどうしたらいいかと、いつも考えています。(おかげさまで娘は順調に回復し、退院できました。 メッセージいただいたみなさんありがとうございました。) 今月もよい月でありますように。 年度末、私はぎりぎり暮らしていきます。 みなさんも身も心もおだいじに。 お茶飲み飲みいきませう。
March 1, 2010
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こんばんは月末とうちゃんの西川です。1)実は、先週、娘が学校で膝を骨折をして、入院しています。全治半年の重症。下の娘の世話とあわせて、ばたばたと暮らしています。金曜日手術でした。土曜日は、痛い痛いと泣いとりました。こればっかりは、かわってやれず、親にできることは、子ども自身の力を信じて祈るしかない。って、「正しく」書くとこうなりますが、ま、実際、おろおろしてるだけ。病院の方達、ばあちゃんじいちゃん、近所の友人、学校の先生、保育園先生……いろんな人の手をお借りしていることに、あらためて気づかされます。感謝。親であるということ、助けてということ、ありがとう、ということ、一つひとつを確認しなおす1週間でした。2) 「自分の住んでるまちでやっているから、 見てください」と 昨年、娘さんを亡くされた知人より、 映画『風のかたち』のご案内をいただきました。 でも、入院になっていけそうにない。うーんいきたい。 2/5まで。 http://k-scalaza.com/screening/screening.html また、一昨年末、 急性リンパ性白血病になったものの、 がんばって治療して、 いまは学校にもどりつつも、 闘病中っていう娘さんの お母さんから、 あたたかいメッセージをもらいました。 「ちゃお、りぼん、なかよし・・ 漫画三昧してください。 お姉ちゃんだから普段は甘えたりも しないだろうけど、 こんな時はいっぱい甘えさせてあげてね。」 さすが、半年以上入院していただけに、 よくわかってらっしゃる。 マンガを送ってくれる、と連絡ありました。 ありがたし。ほんとうに、大変なことだと思います。一番楽ちんな整形外科ですら、こんなに大変なのですから。内科で先が見えているわけではない入院・闘病は、どんなに大変だろうかと、あらためて想像しました。いろいろな人のいろいろな人生、いろなん気持ちを味わってみたいし、娘にも味わってほしいです。たまたま首相の所信表明を病院の待合い室で見ました。話題の「いのち」という言葉の意味を病院でかみしめました。(誰が書いたのかなあ~ちょっと言葉がうますぎの感ありますね)3)「はやくおうちに帰りたい」と娘はいいます。あたりまえか。home/awayのhome なんですよね。安心できる場所。 →awayがなるべくhomeになるように、 心をくだいてくださる看護師さんたちに感謝。ホームレスのホームってハウスの意味だけじゃないんですよね。ハウスに住んでいても、ホームをもてない人もいる。いろんな人のことを思い浮かべながら、毎晩、消灯の病室に娘をのこして、月夜の下を自転車ぱたぱた30分こいで帰っています。2月もみなさんにとってよい月でありますように。にしかわ@付き添いの合間につぶやきちょっと練習中。http://twitter.com/nekokant
January 31, 2010
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晦日おじさんの西川(埼玉)です。今日は、大晦日。あなたにとっては、どんな一年だったでしょうか。昨日、わたしは埼玉から滋賀の実家に帰省をしました。今年は経済危機なので、久しぶりに「青春18切符」(青春は遠くなったけど……)をつかい、10歳の娘と二人で電車の旅10時間半。東海道をゆっくりと西に移動。さほど大きな変化のない東海道線でも、茶畑や、製紙工場、みかんだ、海だ、山だ~など、それなりに風景の変化に気づくことができて、あきずに乗れました。いつもは新幹線でびゅーんといくのですが、やっぱり普通電車だから見える風景があるものですね。ーーーーーーーーーーー先日高知工科大学の大学院の集中講義3日間(コミュニケーション特論)をハンズオンのスタッフでやらせてもらいました。その中で、こんな議論になりました。これまで利益をコストや時間で割って効率がいいかどうかを指標にしてきた。 B/C …… Benefit÷Cost とか、 B/t …… Benefit÷time とかみんないつの頃からか、これが目指すべき目標だと思った。その効果もあって、経済成長してきたのでせう。でも、それぞれのゴールにいたるプロセスそのものにも、実は価値があるかもしれないよ、と思ったりもする。割り算だけで考えるのはそろそろやめにしてはどうか。たとえば B - (t -■) とか…… ■に入るものは、ゴールまでの過程の中で得られるもの。 たとえば、苦労とか、愛着とか。ごちゃごちゃしたもの。 いわゆる「市民参加」の意味などもこのあたりのことかな。 ーーーーーーーーーーーーこの学科、公共事業のあり方なんかを考える学科なのでした。いろんな計算式つかうんですって。ややこしや~。 「手づくり」という売り文句は、手づくりだからこそできたその商品の価値(作業の結果)を伝えたい言葉だとは思いますが、ほんとは、手でつくるというプロセスの中に、作り手の側のしあわせ(これも価値?)もふくまれているようにも思います。先日、わたしは何年かぶりに「年末の大掃除」をしました。もとがあまりに汚なかったせいか、まさに「みちがえるほどきれい」になり、大満足。ビールがうまかった。(毎日やってないから、おもしろく思えるだけでせう。)掃除もお金で買うことができる時代ですし、そうしてはしょることで、別のことに時間をかけるという選択肢もある。でも忘れたくないのは買ったら得られないモノもある、ということなですよね。(うちは掃除を買うお金がそもそもないから、そんな心配いらないけど)いまは、過度に、結果だけを買うという暮らし(外注)になってしまってる時代かもしれません。あ、そう思うと……ごちゃごちゃやってることそのものが、おもしろいって思えなかったら(B/C や B/t だけでやってたら)やってられないのが子育っちゅうもんで。人との関係はごちゃごちゃしないとつくれないわけで、買うわけにはいかんのですよね、たぶん。だから、肩代わりはいかん、と。さらに、子育ては相手が人間なだけに、手をかけすぎてもおかしくなるから、「てきとーに」がむずかしい~。計算式にできるんかな。マニュアルどおりに働き、消費していればできた生活が、子育てではじめてごちゃごちゃするわけだから、最初からそれを楽しめる人はそうはいない。子育て支援はごちゃごちゃ支援。大晦日だから、さらに話しをひろげると……ごちゃごちゃやって、なんぼのもんですよね人生は。その、ごちゃごちゃを保障できるような世の中にしていきたいものだ。子ども手当は、ごちゃごちゃを保障してくれるか~ごちゃごちゃをふくめた幸せの計算式ってあるのか。計算できないから、ごちゃごちゃがいいのか。……話しがごちゃごちゃしてきました。ごめんなさい。ーーーーーーーーーーーあなたのこの一年はごちゃごちゃしてました?べてるの家 ふうにいうと「順調にごちゃごちゃしてました?」(私はごちゃごちゃしすぎていた……)来年が、あなたにとっても、わたしにとってもよいごちゃごちゃの一年でありますように、今晩、村のお寺の鐘をならしにいきます~「来年もオレとごちゃごちゃしようぜベィベー」(追悼:キヨシロー風)一年おつかれさまでした。佳いお年を。西川@今日は滋賀の里山から
December 31, 2009
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月末おじさんの西川です。(でも締め切りおくれて月頭のおじさんになっちゃった。すみません)年末ですね。みなさまいかがお過ごしでしょうか。流行語大賞には、まにあったかな~。↑今日発表?さて話題の「事業仕分け」についての議論は仕分け終了後も花盛り。NPOも分野によっては、あたふた。そこで、やっぱり火事場はいかねば、現場にはいって、感じてみたいと、先日、私も傍聴してきました。一回見ただけで何かを言うのは、それこそ事業仕分けみたいで(失礼)あまりよくないかもしれません。政策決定が一部透明になったということだけでも意味があるというのが多くの人の声に賛同しつつ、仕事がなくなる~と不安な方に共感しつつ、下記、多少の感想を書かせていただきました。お時間あったらご笑読を(長いよ)。○長いので、まず要旨1)議論のないところに公共性は発生しない。その意味ではとにかくものごとの決め方を変えようという今回のこころみは評価されてよい。「新しい公共」の模索として。2)しかしいくつかの点で疑問ものこり残念。現場の声がどこまで反映されていたのか?疑問。 △課題とその解決方法の検証の議論になりにくく、 勝ち負けが先行していた △大きな方向性(グランドデザイン)が、ないまま の仕分けは、優劣が本来つけられるものか疑問。 △天下りの問題と、その事業の必要性や効果がごっ ちゃに話されている場面もあった。 △数字で表現できないものもふくめて、現場を知ら ない人に、その価値をどう伝えるか、はNPOにと って大きな課題 △座り方がよくなかったなあ。そんなわけで、「事業仕分け」について西川仕分け人の判定は……本文。----------------------------------1)「事業仕分け、なかなかよいな」「事業仕分け」の結果、私自身のの仕事もかなり影響を受けそうなんですが、しかし、やはり議論があるのはいいと思いました。その理由は、「議論なくして公共なし」だからです。友人の加藤哲夫さん(せんだい・みやきNPOセンター代表理事)が、以前、こんなことをいわれていました。 「公共をつくる」という言い方に ちょっとひっかかるところがありま す。「公共性が発生する」という言 い方がいいかと思っています。つま り、「公共」という実体をつくるの ではなく、「公共性」という関係概 念が発生すると考えるのです。そう でないと、役所にはいつも公共があ るという話になってしまう。市民組 織にはいつももうひとつの公共があ るという話になってしまう。そうで はないのではないか。私は、NPO は公益団体だなどという考え方に疑 問を感じてしまうのです。 --*注1いきなり理屈ですみません私は、民主主義は多数決と学校で習い、学級会で多数決を経験してきました。が、大人になってからそれは違うかもと、考えるようになりました。多数決は議論=合意形成の努力を放棄または破綻したときにしかたなく使うべき方法ではないか、と。つまり、異論があってこそ、公共は生まれるということです。議論がないところに発見も気づきも合意もない。合意(納得)がないところに行動もありません。合意とは、「その結論は当初私がのぞんだものではなかったが、なぜその結論になったのかについては納得できる」ということです(ややこし)。政治の世界の妥協とは似て非なるもの。納得がいかなければ、人は、無関心になるか、または、恨みをもつようになります。「由らしむべし知らしむべからず。まかせておけ」という上から目線の官僚と、「オレの関係ないところで、決めてるんだから、オレは責任とらねえぞ」という国民の共犯関係が、いまのこのしんどい社会(誰も責任をもとうとしない社会)をつくってきたと思います。そこで登場したのが「新しい公共」。鳩山首相が、所信表明演説で言ってた言葉です。この10年、NPOをめぐる議論の中で、さんざん使ってきた言葉だったんで、びっくりしました。それは、単に公共サービスの担い手がNPOということ(これは小泉改革)ではなく、「ものごとの決め方を変えていこう」ということのはず。私はそう言う意味でつかってきました。その意味で、その「決め方の模索」のいっかんとして、事業仕分けを入れたことは、とても評価していいように思います。本来は、国会ですべき議論だったことなのに、これまで十分なされてこなかったのですよね。国会が、泥仕合をつづけていることを傍目に、行政府はお上として=公共であると威張ってればよかったんですね。そして、公共性は発生しなかった。(=誰も納得しておらず、政府を信用しておらず、オレのせいではないとみんな言うようになった……)事業仕分け、エライ。といいつつ「事業仕分け」も多数決方式。そして過剰に勝ち負け演出、それってどうよ。というわけで、以下、何点か考えてみたいと思います。2)「事業仕分け、どうかなあ」と思う理由よい議論は、事実が説明・共有されないとはじまらない。議論の質を決めるのは、どれだけの事実が共有されているのかにかかっていると思います。これまでの社会は、行政の権威主義と、住民の陳情主義もしくは無関心にもとづき、運営されてきたので、どんな情報を出すかは、運営者が勝手に決めてきたわけなんですよね。それが今回一部とはいえ、白眉のもとにさらされ議論のまな板にのったことは大きな意味をもつと思います。でも、現場の声が、仕分けの会議の委員さんにどこまで共有されたかについては疑問ものこりました。△議論に足る役者だったか事業仕分けの説明者の役所の方々、一所懸命には見えましたが、わたしには必死というほどではないようにも思えました。その事業にどこまで愛着をもっているのか、よくわからなかった。現場でこの予算がなくなるとどのような事態が発生するのか、一般論を超えて、現場の言葉で、リアルに語れていたとは、とうてい思えませんでした。現場でがんばってる人の声が、とどくプレゼンができている人がどれだけいたか、疑問です。もちろん全員がそうだったといいませんが、多くの説明者にはそれを感じました。たまたま、今年度その部署・立場に居た方なんだからしかたない、といえばいいすぎ?かなしいかな、ほとんどの説明者の方は、事業仕分けの結果、その事業が廃止されても、クビにはなりません。メンツはつぶれますが。 昨日、NHKのクローズアップ現代で、 ちょうどこの中心市街地の支援策削減 の議論をしているところを見ているが んばってる商店街の方々がWEB中継を 見ている様子が紹介されていました。 大幅減額に「数字じゃわからないよ~」 とお嘆きの映像が出ていました。あと、政治家の方々のふるまいは、テレビを完全に意識したものもあったりして興ざめの場面もなんどかありました。「天下りいるんでしょ!」と目をつりあげて「役人を責める図」をテレビにとらせて、さっさといなくなる議員さんとか……。(ばっちり週末のテレビの特集で紹介されていました)△そもそも、「課題」について話す場ではなく、予算を削ることを目的にしているという点で、生産的な議論にはなりにくいのかもしれません。 例えば、さきほどの中心市街地の活性化支援策。活性化って何を意味するのか?なぜ、「衰退」しているのか?それは、商店街が怠惰だからなの?それとももっと大きな政策のせいなのか? そして、どう、なりたいのか?どうしたいのか? このテーマが専門の仕分け人の方(学者さん)は、活性化は、結局、経済成長だとおっしゃってました。それって……「商店街である」ということの意味と、どうかみ合うのか?(この先生さん、こままでの国の施策が全部うまくいってない、と「暴露」してくれたので、説明者のお役人さんはたじたじでした。でもこの先生、授業なのか、議論の途中で退席されました……)△優劣はつけられるの?私は助成金の審査をやらせてもらうことがあります。審査では、審査基準がはっきりしていないと、審査員はとてもつらいことになります。だってどの活動だって意味がないわけではないから。だからこそ、ある大きな方向(グランドデザイン)を向いて、その方向に対しての優先順位をつけるということでなければ、結局、優先順位なんてつかないですよね。 活性化の例でいうと、大型店(資本)が消費を全部吸い上げていくのを許容しつつ、不満をなだめるために(票をとるために?)市街地への補助金をだしてきた、というこれまでの構図をどうしていくのか?という話しでもあるわけですよね。商店街の方々の努力云々では語れない、とも言えるわけで。経済的に成り立たなくても、自給率や森林や里山は保全すべき、という別の議論の軸もあるわけですよね。 その業界でない人が聞いて、その事業の意味があるかどうか考えてみる、という試みは、公共を議論する上で避けてはとおれず、すごくいいなと思いう反面、一方、それは数値にならないことについては評価をしないと言っていることと、実質、ほぼ同義にもなります。数字に還元されることだけで語ることはできない、ということもやはりあります。経済の言葉だけで語ることができない、ということを、単純に「それは政治判断で」と言うことになってはいなかったでしょうか。どんなふうに語っていけば、現場の方と、現場を知らない人が合意を形成していけるのか。これが、いまNPOの現場でみなが一番困っていて、一番模索していることではないでしょうか(数日前のめだかさんも書かれてますね。もう少し現場をリアルに語れる人がいれば、もっと議論が生産的になった(仕分け人が困った)かもしれません。△仕分けして話して~・事業そのものを問題にしていくのか、・目的はいいが、天下りなどそのやり方や 運営の方式に問題があるのか、この二つは、もっと「仕分け」して議論しないと、現場でがんばってる人にとっては、たまらないと思いました。おそらくいきなり予算直結としてしまったところに無理があって、いったんは「事業評価の場」とし、そこで出た見直しの視点を一度、省庁・実施側で見直して、やっぱりだめなら決算段階で検証し、翌年はバッサリという手順がよかったかもしれないなと思いました。(スピード感がないから支持率に結びつかないかな……)△最後に座り方。単なる勝ち負けになってしまうんであの囲んで対面の座り方はよくなかったですね。ボードに書いて、ボードを見つつ、問題点をさぐるというのがいいかなと思いました。以上、一見さんの私の感想としては、事業仕分けは、「見直しつつ継続」かなと。*1 公共をめぐる議論は、私が編集をしました『私のだいじな場所 公共施設の市民運営を考える』でまとめて議論しています。http://www.hands-on-s.org/daiji/なぜ、市民が公共施設にかかわるのか、その魅力は何か、魅力の秘密は何かをさぐった本で、類書がなく「新しい公共」について現場の言葉で書かれているとの評を得て、クチコミだけで、3000人以上の方に読んでいただきました。是非ご一読ください。 また、加藤さんが書かれた『市民の日本語……NPOの可能性とコミュニケーション』(ひつじ市民新書)は、ぜひおすすめです。NPOとは何か、なぜNPOなのか、市民社会とは何か、がきちんと書かれている希有な書です。http://www.hituzi.co.jp/books/166.html-----------------------字数制限一杯まで書いてしまいました(笑)スミマセン。そんなわけで、やっぱり、議論ははじまってよかったのだと思います。来年の仕事、どうなるか不安一杯の年越しになりますが。飲み過ぎず、よい年末を。(_ _)
December 1, 2009
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月末のおじさん、西川です。今月はみなさんにとって、よい月だったでしょうか。それとも、いまいちだったでせうか。インフルエンザいかがですか。我が家にも昨日やってきました。保育園通いの娘が、お熱でしたが、タミフル投与で、一気に熱がさがりました。ほっ。さて、先日、にっぽん子育て応援団の緊急集会に参加させていただきました。四つ葉の関係者のみなさん、オールスターで、たくさん動いていらっしゃいました。お疲れ様でした。ぺこり。集会の結果はまたどなたかがどこかで報告されると思いますが、論点はやはり、5兆円の子ども手当。子ども施策が選挙の争点になったこと、実際に予算化されることについては、評価する発言多数。しかし、「5兆円くばるより、現物サービスに投入してほしい」「5兆円の1/100でいいから、現物に投下してもらえば いろいろなことができる」「保育所の制度の緩和はありえない、やめてほしい」などなど、それぞれ現場のリアルな声が届けられて、とてもよい学びの場になりました。わたしもずっとNPOの周辺を仕事としていて、お金については、ほんとに苦労してきました。なので、現金給付のインパクトって大きくて、もらえるもんは、ほしいと思いつつ、現金給付ばかりになって、むしろ仕事のほうに予算がまわらないのではないかとも思い、とても気持ちはゆれてます。___________________子ども手当。うちのような貧乏人にも、お金持ちにもすべて一律26000円。一律はどうなんだとか、いろいろ意見が出てますね。みなさんはいかがお考えでしょうか。わたしもどちらかというと、現物給付派ではあるんですが、別の視点からみると、一律現金給付も悪くないかもと先日、とある雑誌で知りました。ベーシック・インカム(BI)という施策です。生活に必要な最低限の収入は、無条件に、すべての人に保障されるべき権利だ、という考え方です。具体的にいうと、年金はじめ、さまざまな社会保障を、統合または廃止して、たとえば大人月額10万円子ども7万円などを一律に、すべての人に支給するというような施策です。例えば、子ども二人の母子家庭では、10+(7×2)=24万円、これに母親のパートをすすめるということになると、月額で30万こえると。私は20代のころ、障害者当事者による社会変革を求める団体の専従として働いていました。「働かざるもの食うべからず」を基本に現在は世の中のしくみがつくられていますが、その中では、障害者など、働けない人は、どうとらえるべきか、福祉作業所の労働とはなにか、重度障害者にとっての労働とはなにか、または、賃金労働になってない家事労働はどうとらえられてきたか、と、よく議論していました。そのために国家は、年金制度や生活保護、雇用保険などをつくってきたわけですが、それらの制度が、はたして、人々を「統合する」方向で作用してき たでしょうか。福祉はあいかわらず、かわいそうな人々に、~してあげる、の世界で、なんか暗い。「かわいそうな人に配る」では、どうしても、スティグマ(恥辱感)がのこります。また、それぞれの制度で、受給者の選別には膨大な労力(税金)を投入し てきました。(「消えた年金」問題をみれば明らかですよね。)一定額を一律に給付するBIという方法はそれらを解決するといいます。最初、私も、「お金をくばったら働かなくなるのではないか」と思いました。でも、考えてみると、いまの日本社会は、きちんと働いても、生活に必要な収入が得られないですよね。もしBIを開始すれば、「働かされる」働き方を無理にしなくてもよくなるかもしれない。たとえば、生活のめどがたたないために、暴力夫のもとをのがれられない女性はもしBIがあれば、出ることができるのではないか。もしBIで、最低限の現金収入が入るなら、農業に従事する人も増えるにちがいない。半農半BI、半○半BI……NPOでも喰えるかもしれません。ちなみに、社会主義ではありません。配られたお金は市場で自由に使うことができます。お金持ちになりたいひとはなれます。生活保護者をはじめ社会的に支援が必要な人々に対する偏見(「ずるい」という感情など)も消えるかもしれません。人々がやりたくない仕事の賃金はあがります。金持ちにも、というのは心理的は抵抗ありますが、たとえば図書館や道路が、お金持ちにも、貧乏人にも同じように、現物が給付されている、と考えれば、それを現金におきかえるだけなので、そう不自然だとも言えないような気がします。ま、財源とか現実的にはかなり難しいのかもしれません。異論もたくさんあるでしょう。私もあります。ただ、そんな考え方もあると知っておいてもよいかなと。民主党の5兆円の手当がはじまったら、どうなるのか、こういう視点でも見ておきたいです。所得保障という意味では、「給付つきの税額控除」(つまり一定所得以下にはしない制度)も年末の税制論議で話題になっていくようですし。http://www.nishinippon.co.jp/wordbox/display/6548/ ___________________閑話休題BIをわたしは最初、『We』という小さな雑誌で知りました。この雑誌、時代のちょっと先のキーワードを追いかけています。世の中でメジャーになるちょい前の人がたくさん登場します。ぜひ購読してみてください。http://www.femix.co.jp/最新号でとりあげていて、第一人者の山森亮さんのインタビューが掲載されています。また、山森さんの著書、『ベーシックインカム入門』(光文社新書はたいへんわかりやすく解説されています。お金をめぐる考察では、数年前に地域通貨のブームがありましたが、その当時よんだ『エンデの遺言』に匹敵するおもしろさがありました。___________________そんなわけで、以下もう少し蛇足。にっぽん子育て応援団緊急集会に話を戻します。お金がだいじであることは当然ですが、お金だけで人が幸せになるはずがありません。議員のセンセイ方もそうおっしゃってました。「他もちゃんとやります」と。わたしが印象にのこったのは、横浜でひろばなどを運営されている方からの次のような発言でした。(言い回しはちがったかもしれません)「子どもが生まれたから、いろいろな人と出会えた、 つながれた、というような経験ができるような社会にしていきたい」子どもが生まれて、社会との関係を絶たれた、孤立したと感じるのか、子どもが生まれたからいままでとは違う出会い方が生まれたと思えるのか、そこがポイントのような気がします。本来、人がつながるときって、「困りごと」か「おもしろいこと」のどちらかだと私は思っています。(そのどちらかのとき、人は他人に声をかけていくんですね。)つまり困りごとは、本来、人をつないでいくはずなのに、むしろ孤立がすすんでいく、ってのは、やっぱりなにかが、おかしいですよね。長くなりました。11月も、みなさんにとって、よい月になりますように。疲れたらたき火をして、ヤキイモ食べましょう。http://yakiimotime.com/そろそろ満月ですよ。
October 31, 2009
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みなさん、こんばんは。今月も、もろもろお疲れさまでした。月末のおとこ、西川です。(集金の人みたい……)すっかり秋ですね。今日は明日について考えてみたいです。駄文ですが、おつきあいいただければ幸いです。■先日、保育者さんたちが有志で集まっている研究会に参加しました。その日の講師の方(保育園の園長さん)が、「思い切り遊ぶなかで、次の力が自然に生まれてくる。 だから、いかに子どもを笑わせるかが私たちの仕事だと 私は思っています。」とおっしゃっていました。なるほど。で、質問してみました。「小さい頃、体力をつけるために遊びがだいじ、とか どろんこで遊ぶと、五感が育まれる とかいいますが、どう思いますか?」と聞きました。「それはあべこべで、遊ぶために体力つけるのよ~」 と笑って応えてくださいました。なるほど2。うちの4歳児は保育所にいってますが、彼女の基準はかんたんで、「今日は保育所おもしろかった」ら「明日もいきたい」ですし、逆のときはいきたくない、です。遊び、は、たぶん「幸せ」にとってもちかいのだろうと思います。子どもにとっても、大人にとっても。かなしいかな体力は測れても、幸せはどうやったらはかれるのかしら。遊びといえば、木曜日のめだかさんの記事に評価の話しが掲載されていましたね。http://plaza.rakuten.co.jp/yotubaproject/diary/200909170000/測れるものしか目標にできないから、手段と目的があべこべになっちゃう。保育や遊びの分野にかぎらず、いつも問題になっています。■そう思ってて、最近であって、注目しているのが、「希望学」。http://project.iss.u-tokyo.ac.jp/hope/index.html 人が希望をもつ、ということってどういうことなのか、どんな人が希望をもってて、どんな人はもちにくいのか、希望の格差について、科学していらっしゃいます。例えば、 実現可能な夢を持てている人は、 友達をたくさん持っている人の場合が多いという統計が出ているそうな。(すみません手元に本がなくて、正確な記述は 後日補足しますね)希望は未来のはなし、未来は今日のつづき。■明日、といえば先月ご紹介した妻有のトリエンナーレにて、廃校になったすごい山奥の小学校で、アーティストの日比野克彦さんと、集落のおばあちゃんたちが展開してるのが「明後日新聞社」というアートプロジェクト。その基本理念がわたしは好きです。なので以下、全文掲載させていただきます。 ●明後日新聞社の基本理念 一、明後日新聞社は、あしたのそのつぎに思いを描きます。 一、明後日新聞社は、まだ見えないけど、なんとなく見えるかな、を 大切にします。 一、明後日新聞社は、もうすぐやってくるという気持ちとそんな先の ことなどわからない気持ちが共存する場所を活動の拠点とし ます。 一、明後日新聞社は、同じようなことを感じている人がどこかにいる というふうに考えたいという小さな期待を見つめ続けます。 http://www.asatte.jp/a bout.html「もうすぐやってくるという気持ちとそんな先の ことなどわからない気持ちが共存する場所」って、希望であり、遊びであり、幸せなんじゃないだろか、などと私は勝手に思っています。■そんなわけで、秋は焚き火の季節です。直火に人は吸い寄せられます。とくにオトコ。集まることは、幸せにつながります。たぶん。最後にドン・ガバチョのこの歌をおとどけします。♪「・・・今日が駄目なら明日にしまちょ・・・ 明日が駄目なら明後日にしまちょ・・・ 明後日が駄目なら明々後日にしまちょ。 どこまで行っても明日がある・・・」http://www.youtube.com/watch?v=oqgCJJIQm8Q 明日は、はや10月。みなさんにとって、よい日々になりますように。
September 30, 2009
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はじめまして。西川正と申します。埼玉に住んでいます。ブログ世話人さんからお声掛けいただき、遅筆ゆえ、月末のみのわがまま書き込みをおゆるしいただきました。お目汚し、時間の無駄にならないよう、がんばります。どうぞよろしくおねがいいたします。ハンズオン埼玉という小さなNPOを拠点に、あれこれやってます。あれこれの一つは「おとうさんのヤキイモタイム」です。今年の秋も県内各地100ヵ所以上で焚き火の開催を予定。その他、あれこれ、ついては、またおいおい書かせていただきます。- - - - - - - - - - - - - - 先日、新潟・妻有で開催中の大地の芸術祭に子どもを連れていってきました。(昨夜、選挙報道の裏番組の日曜美術館で再放送してましたね)3年前につづいて2度目です。350以上のアート作品が、奥深い里山の集落に点在していて、車で移動しながら味わっていきます。アート作品はもちろんですが、山の深さや、棚田や、雪国独特の家のたたずまいなどの、風景に圧倒されます。たくさんの作品が、若いアーティストと村の人々の協働で生まれていました。空き家を再生した小さな会場では、その集落のお年寄りがボランティアで受付をされていました。で、ついつい、「雪がつもった冬はどうしているのか」とか、「廃校になった小学校の思い出」とか、「出稼ぎの苦労などの昔話とか」、「アートをその集落で受け入れてやってみようと思った経緯」とか、ついいろいろと話し込んでしまいました。そっちのほうがおもしろくて、作品あまりたくさんまわれませんでした。(西川はおばさんといわれてます) この芸術祭の総合プロデューサーの 北川フラムさんは、次のように言います。「アートとは、ともすれば面倒で、 手のかかる赤ん坊のような存在ですが、 それを媒介に色んな人がつながり、 協働関係を生みだしたのです。」* http://www.performingarts.jp/J/pre_interview/1.html http://www.creators-station.jp/topic/049.html などをご一読くださいこれって、子育て支援で社会を変える(でしたっけ…)という四つ葉のスピリッツと同じですよね。手をかけ、かかわったものを人は愛します。そして、みんなで手をかけた、その記憶をもとに、人はつながっていく。妻有の風景である棚田はその典型。「ばあちゃん、じいちゃん、 とうちゃん、かあちゃんが、 だいじに手をかけて守ってきた田んぼだから、 自分が元気なうちは、 なんとかつくりつづけたい。」 そんな、気持ちが、 おそろしく手間のかかる、 棚田の米作りを支えてきた。 そして共同の作業が、 互いに支え合うという人の暮らし方をつくってきた。子育ても同じじゃないかしら。誰かの子育ての「かたがわり」をするのではなく、また「買う」のでもなく、みんなが手を出し合って、かかわって、みんなで暮らしをつくっていく。そう、そんなかかわりをデザインをする人が子育て支援者なんですよね(ちがう?)。で、政治を通じて社会全体として「投資」をしたいのは、そんな「かかわりのデザイナー」なのだと、あらためて選挙の夜に思ったしだいです。そしたら国民総幸福量(GNH)はあがるにちがいない。『大地の芸術祭』は、9/13までです。まだ間に合いますです。子どもも大喜びの作品多数です。- - - - - - - - - - - - - - なんて、一回目だからちょっと気をいれて書いてみました。次回からは、もそっとゆるゆるいいます。今後とも、どうぞごひいきのほどを。月末おじさん・西川でした。
August 31, 2009
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