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愛媛県の中山間地。我が子の通う小学校は全校生徒26人の山の学校です。うまれたときから同じ顔ぶれで育つ彼らは、兄弟姉妹のようで、地域の大人みんなに 見守られて育っていきます。最近は地域と学校を繋ぐ動きが活発で、ここ数年は毎年地域のお年寄りを『名人さん』として授業にお呼びしています。竹細工、わら細工。昔のお菓子や遊びなどを直伝いただく取り組みです。我が家の息子たち。先日は山登りの達人で元地元中学校の校長先生もされていた地域の先輩に、山登り用の『杖』の作り方を教わりました。山で適材を見つけ、刃物で皮をむき七輪であぶって加工する。子どもたちはこうやって、刃物も火も生活体験として身に着けていきます。遠く九州を望む愛媛県の南。海辺の超学校は全校生徒15名。冬には山にスキーにやってきます。交流が始まって5年。今年も夏の交流に行ってきました。お手製のいかだで離れ島を一周するレース。地元の漁師さんと一緒に地引網で魚を捕まえ、炭火で焼いて食べました。この小学校も生徒数減少のため、数年以内に閉校することが決まっています。『過疎』、『限界集落』、合併に統合・・・・。きえていく村々には、今ここで生きている『共に生き、支えあう』子どもたちを育てる力が残っています。未来を作る子どもたちを、ここからどう育てるのか・・・。私たち一人一人が問われています。
July 15, 2010
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愛媛県のわしのです。山口県・光市で行われたアースデイに行ってきました。希少な自然の残る瀬戸内海。その恵みに支えられた太古からの暮らし。森もまた、海の恵みを約束する「魚つき林」として認識され始めています。海も山も、生き物すべてその命の輪の中で生きていることを私たちの先祖は知っていたのでしょう。瀬戸内海の西玄関だった、上関町の島にある田ノ浦海岸には、西日本最大級といわれている縄文遺跡があります。1万2千年以上続いた縄文時代には持続可能な暮らしがあったはずです。今、瀬戸内海の自然海岸はわずか2割。その中でも最も希少な藻場で、生物学的なホットスポットでもある田ノ浦。ここに今、日本で56基目になろうという、新規の原子力発電所建設が強行されようとしています。建設予定地からわずか3・5キロ。小さな島「祝島」のおばさんは言います。「ここが好き。ここで死ぬるまでいたい」「これまで世話になってきた海を、金には代えられん」ホットスポットの埋め立ては、二度と取り戻す事の出来ない生き物の損失を意味します。http://blog.shimabito.net/生態系の頂点に立つ、私たちの足元がぐらついている。何万年も、その毒性を失わない核廃棄物を未来に残しながらもっと豊かな暮らしを求め続けるのか・・・?『核の無い世界』と『生物多様年』はここで深く結びつき、意味を持っています。私たちが日々慈しみ、大事に育てているのは『未来』。子どもたちが命を繋いでいく、その未来に「何を残して」「何を残してはいけないのか」真剣に向き合うときが来ていると私は感じています。私は、都会で生まれ育ちました。膨大なエネルギーを消費する暮らしの中にいたから、いま、思うことがあります。このままの大量消費生活が続けば世界は持続不可能です。私たちはどう暮らすのか。未来から、未来への提言。こどもたちのメッセージは、警鐘を鳴らしています。http://www.youtube.com/watch?v=uOlZsdAYMKI
April 22, 2010
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愛媛の鷲野です。四国と言えば温暖な気候、瀬戸内の光る海、ミカン山…というイメージでしょうか。私の暮らす町は、太平洋側の高知県と瀬戸内海に続く愛媛県との境、標高500~1000メートルに点在する集落で構成されています。町とは名ばかり。その実は[限界集落]という命名を日本で初めて拝受した、四国山中の村々の集まりです。西日本で一番高い山 石鎚山(標高1982M)が近く、かつては四国の軽井沢とも言われていたとか…。町内にはスキー場が2か所あって、冬の体育授業でスキーに行くような寒いところです。3月10日の朝6時。いつものように窓から外を眺めると、ちらちらと雪が舞っていました。3月に入ってからは、暖かい日が続いていて(もう梅の花も散りはじめてるし…)とすっかり油断していました。 あれよあれよという間に降り積もった雪は、午後には50センチに!!学校から連絡が入った頃にはもう、いつも通学している山道は雪で閉鎖寸前でした。あわてて、なんとか連れて戻った子供たち。息つく間もなくランドセルを放り投げ、とるものとりあえずまず除雪!!長男(小5)、次男(年長)ともどもスキーウェアに着替えると、さっそくお父さんの除雪作業手伝いに出ていきました。放し飼いにしているニワトリたちが、日暮れまでになんとか小屋にたどりつけるように。それに、雪の間もえさやりに通えるように、道をつけておかねばなりません。(鶏は寒さには強いけど、脚が短いので雪は苦手です。雪に溺れてしまうんですよ)何より、この先何日続くかわからない冬日に備えて、暖房用のまきを運び入れなくてはなりません。まき小屋に続く道を確保しておくのは雪の日の必須です。うちには女の子がいないので、こんな風に子どもたちはみな外の仕事に出かけます。日が暮れて家に戻るころ、家をあったかくして冷えた体をあっためるご飯を準備したり、冬場は特に、保存食を常備しておくのは、主に母親の私の仕事。山の暮らしでは自然と男女分業の支え合いが、暮らしの中で自然とできてしまいます。だれか一人欠けても大変なので、お互いに感謝できるのかもしれません。子どもの成長はイコール仕事する人が増える・・・この森で暮らし始めてからそんなこともわかってきました。
March 18, 2010
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皆さんこんにちは。四国山脈に点在する昔話のような集落で暮らしている、鷲野陽子です。今日は、自己紹介を兼ねてこの山里での暮らしをご紹介します。私の子どもたち(小5と年長)は、毎日2キロの山道を歩いてバス停のある里へ下ります。トトロがネコバスを待っていたバス停みたいなところで、一日4本のバスが来ます。学校は全校22人。ほとんど、家庭教師(?)のいる大家族みたいな感じです。学校まで5キロ。こんな不便なところでも暮らし続けているのは、ここの暮らしが好きだから。山道には季節のおやつがたくさんあって、野いちご、木苺にムカゴ(山芋の実)、あけび。朝まで遊んでいた野うさぎやリスにも会える楽しい通学を気に入っています。風呂を沸かすのは子どもたちの役目なので、焚き物に使う「杉のはっぱ」を拾って帰る事も遊びのうちに覚えました。夫は、森の管理人兼この森の企画するいろんなイベントなどの事務局をしています。国策で杉・ヒノキの植林ばかりになった森を『人と自然の共生、共依存』出来る森に・・・と仲間と活動しています。が、普段は草刈、雪かき、観察小屋の建設などなど・・・雑用全般何でもやります。私は、その森にある工房で、染織をしています。毎年、蚕を飼って糸を紡ぎ、草木で染めて機にかけて織る。地元のお年寄りに「生きる知恵を授かる」・・・という事が、今一番の仕事?になっています。水道は無いので山の湧き水で生活しています。雨が無い夏にはお風呂に入れない事もありますが、ここの水は最高においしいです。自給用の畑で野菜や穀物を育てて、放し飼いのニワトリたちと年老いたネコと。夫と息子2人の4人家族です。でも、はじめから、こんな暮らしをしていた訳ではなくて、今までの人生の半分は、都会で生きておりました。これから、時々日本の片隅・限界集落といわれるさと山里から通信を送らせて頂きます。浦島太郎かもしれません、どうぞよろしくお付き合いください。
March 5, 2010
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