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久しぶりの甲子園、友人ノンちゃんの母校早実、あえなく散る。8月19日(水)、久しぶりに甲子園球場に行って来ました。この日は第97回全国高校野球の準決勝の日、お目当ては午前11時プレーボールの第1試合、「仙台育英高校=早稲田実業高校」戦です。リュウちゃんのレコード会社勤務時代の友人のひとりに、N君という1歳年下の男性がいます。昔も今も茨城県在住、愛称「ノンちゃん」、ノンちゃんはちょうど50年前、早稲田実業卒業、高校時代は名門の硬式野球部に入部、残念ながらレギュラーにはなれませんでしたが、早実が甲子園に出場の際には、リュウちゃんの家に泊まり、早実野球部OBの一人として甲子園に応援に行くのです。今回はリュウちゃんも一緒に甲子園に行くことにしました。朝5時38分、法隆寺駅出発、朝7時、甲子園駅到着、ありゃ~、合開始4時間前だというのに、球場前はチケットを求める客で長蛇の列、まいったな!結局、1時間並んで、午前8時ジャストに甲子園入場、勿論、早実のブルペンがある3塁側の内野席です。まだプレーボールまで3時間もある!この待ち時間を利用して、朝昼兼用の食事&ビール、下の写真のような生ビール販売のお姉さんが席を回っていました。背中に背負ったビールタンク、重そうだ!と思い、お姉さんに「背中のタンクに生ビールはどれ位入るの?」と質問しましたところ、「満タンで10リットル、20杯分です。タンクと併せて15キロあります」とのこと、体重の1/3ものタンクを背負ってのお仕事、お疲れ様です。今年の夏の甲子園は、100年目の記念大会と云われ、王貞治氏が始球式を務めた他、100年前の第1回大会で優勝した京都府立鳥羽高校(京都二中)の甲子園出場が話題になりました。(1915年第1回全国中等学校優勝野球大会)http://teto.nekonikoban.org/koukou/1/1.html上記第1回大会には、全73校が参加、地方大会を勝ち抜いた10校の変則トーナメントで京都二中が優勝しましたが、早稲田実業も第1回大会に出場していました。実はリュウちゃんの母校の前身の「三重四中(山田中学)」も第1回大会に出場していたのですよ!午前11時にプレーボール、ご承知のように、この日の早実は、全くいいところが無く、敢え無く7-0で仙台育英に惨敗、早実卒業50年目のノンちゃんの夏は終わってしまいました。甲子園で飲んだビールはほろ苦かった!午後1時に試合終了、当初は六甲山に登る予定でしたが、あまりの惨敗ぶりに気落ちしましたので、予定を変更して、大阪駅駅裏にある「梅田スカイビル」(下記URL)の「空中庭園」に行ってみました。http://www.skybldg.co.jp/skybldg/生憎の曇天で、地上170mの展望も、以下のように視界は限定されていたのです(残念!)午後3時、スカイビルの地下1階にある昭和初期の街並みを再現した「滝見小路」(下記URL)でノンちゃんと「別れのビールの一献傾け」、http://www.takimikoji.jp/下の写真は、「滝見小路」に展示されていたビクターのシンボル・「ニッパー像」です。昔、リュウちゃんとノンちゃんは、このマークのレコード会社に勤めていたのです!ノンちゃん、また奈良に遊びに来て下さいね。2人の好きな懐メロカラオケで盛り上がろう!
2015年08月21日
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球児の夏 終りたれども残暑果てなし 酷暑の日本列島を沸かせた第92回全国高校野球選手権大会も、8月21日、沖縄県代表の興南高校の春夏連破で幕を閉じました。沖縄県勢としては、夏の甲子園は初優勝でした。決勝戦は、東海大相模の一二三投手と興南の島袋投手という、今大会屈指の二人の好投手による投手戦が期待されていましたが、一二三投手は4回に興南打線に捕まってしまい、結果、6回を投げて自責点11と、不本意な結果に終り、自責点0で完投した島袋投手と明暗を分けましたが、両チームとも、酷暑の甲子園で完全燃焼しましたね、両チームの皆様、お疲れ様で御座いました。 さて、8月9日にリュウちゃんと一緒に甲子園に行った友人のノンちゃん、8月14日の早稲田実業xs中京大中京戦にも甲子園に来園しました。この日は、千葉県柏市に住んでいます昔の職場の友人で慶応(オールド)ボーイの周ちゃんと二人での観戦、周ちゃんは慶応なので、早稲田とはライバルの関係なのですが、奥様が甲子園の近くの出身ということで、奥様の故郷へ里帰りを兼ねての甲子園行きという訳だったのです。 リュウちゃんは、8月9日の甲子園初体験で、目が悪い為に(糖尿病性網膜症・視力障害2種5級免許皆伝(笑)・)試合の経過が全く判らず、球場観戦は一回で懲りましたので、今回はテレビ観戦、試合は21-6で早実が快勝、試合が終って、午後6時に大阪で待ち合わせ、今回はリュウちゃん、ノンちゃん、周ちゃんの3人で、梅田の阪急東通り商店街の中にあります割烹料理店で一献傾けとなりました。 周ちゃんとは、ほぼ30年ぶりの再会、昔は仕事帰りに、よく職場の近くで一杯やっていました。当時は黒髪フサフサのダンディでしたが、30年ぶりに再会した周ちゃんは、ダンディぶりは昔と変らなかったものの、黒髪は、真っ白になっていました(リュウちゃんは黒髪自体が薄くなっているのです、とホホ!)しかし、久し振りの「乾杯」が終わりますと、すぐに30年前の青年時代に戻り、しばし楽しい歓談が出来ました。昔話だけではなく、リュウちゃんのブログ友達であります「HARU姫」の出身高校・東葛飾高校の話題でも大盛り上りました。この東葛飾高校は、周ちゃんの住んでいる近所にあるようで、彼にこの高校の話をしましたところ、「おー!トーカツ!あそこは難関校だ!」 HARU姫の情報によれば、東葛飾高校は、地元では、親しみを込めて「トーカツ」と呼ばれているそうです。 ノンちゃんは、この日もリュウちゃんの家に一泊、本来なら、早実の試合の最後まで、リュウちゃんの家に連泊してもらうという手もあったのですが、リュウちゃんは仕事がありますので、そうもいかず、若し早実が準決勝に進むようであれば、また来坂を約して、茨城の実家へ帰って行きました。 その後、残念ながら、早実は8月17日の3回戦第2試合、同じ関東勢の関東一高との試合に10-6敗れ、4年前の「ハンカチ王子」の時の再現は成りませんでした。 ノンちゃん、また来年の期待しようぜ! 百日紅咲く古都 大寺の 鴟尾(しび)光る8月9日にリュウちゃんの家に一泊したノンちゃん、翌10日には、遷都1300年で沸いている奈良を観光したいという事で、自称・奈良観光案内人のリュウちゃん、下記のような計画を練りました。 平城宮跡-近鉄奈良駅前の寿司屋(昼食)-県庁庁舎屋上(奈良公園俯瞰)-興福寺国宝館(阿修羅像見物)-浮見堂-春日神社-氷室神社-水谷茶屋(休憩)-春日遊歩道-若草山麓-東大寺二月堂-東大寺大仏殿-東大寺南大門-喫茶店「ちちろ」-JR奈良駅前の創作居酒屋(一献傾け) この行程を、一部を除いて、徒歩で周ろうという計画、大体、10キロくらい歩くことになります。酷暑の日に、大丈夫かな?でも、日頃一日野外で25000歩を歩いているリュウちゃんにとっては、上記の計画は、何と言うことはないのですが、ノンちゃんは大丈夫かな? 当日は、朝9時過ぎにリュウちゃんの家を出まして、家から徒歩5分の所にあります「藤ノ木古墳」を訪問、整備されていましたが、中にははいれませんでした(残念!)、法隆寺の前の喫茶店で、早くも一服、午前10時頃の電車に乗り、JR奈良駅の駅裏からシャトルバスで、平城宮跡に着いたのが午前11時頃、この日の気温は、33℃位で天候は曇り、真夏の平日とあって、あまり来場者は多くはありませんでした。 平城旧跡からタクシーで近鉄奈良駅に着いたのが正午少し前、駅前の行きつけの寿司屋で、好みのにぎり寿司と、生ビール2杯を飲み干し、いざ、奈良公園ウォーキングに出発しました。 奈良公園は、春は梅・桜・藤などの花が楽しめますが、真夏の今は百日紅一色のようです。県庁庁舎屋上に正午過ぎに上がってから、予定した行程通りに奈良公園を徒歩で周遊し、最後から3番目の目的地であります東大寺南大門に至ったのが午後5時少し前、そこから、最後から2番目の目的地であります喫茶店「ちちろ」までは約20分、午後5時半頃に「ちちろ」に到着しました。「ちちろ」に到着すると同時に、今年の名物、「ゲリラ豪雨」襲来、物凄い雷と雨に、しばし、「ちちろ」で足止めを食ってしまいました。 実は喫茶店「ちちろ」は(以前のリュウちゃんのブログでも紹介しましたが)、奈良が世界に誇る女性映画監督、河瀬直美さんの2007年カンヌ映画祭グランプリ受賞作「殯(もがり)の森」に主演した、「うだしげき」さんが経営する喫茶店です。築100年近い古民家をそのまま喫茶店にした店、一階は喫茶店、二階は河瀬直美さんの映画のギャラリーになっているようです。 8月25日から、河瀬さんなどが主唱する、「なら国際映画祭2010」が始まります。リュウちゃん、地元・奈良での初めての映画祭に興味深々なのであります。「ちちろ」のマスターの「うだしげき」さんに、そのことを話しましたら、映画祭のチラシを頂くことが出来ました。 8月25日のオープニングには、仕事を休みにして、イベントに参加します! 「ちちろ」で暫く雨宿りをした後、JR奈良駅前の創作料理店で、しこたまビールを楽しみ、二人でリュウちゃんの家に辿りついたのが午後10時過ぎ、3泊に及んだノンちゃんとの夏も、無事終了したのでした。 「なら国際映画祭2010」、楽しみです。河瀬監督と、お知り合いになれるかな?
2010年08月22日
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土俵には金が埋まっている(第45代横綱・若乃花) 史上初のNHKテレビ中継なし、天皇賜杯なしの大相撲名古屋場所は、6月25日に幕を閉じました。終ってみると、横綱白鵬の3場所連続全勝優勝、大鵬を抜いて史上3位となった47連勝達成、秋場所にも、千代の富士の53連勝を抜きさる事が視野に入ってきましたね。名古屋場所千秋楽の結びの一番、対把瑠都(ばると)の一戦は、手に汗握る熱戦で、改めて大相撲の面白さ、奥の深さをファンに堪能させてくれました。 やっぱり、大相撲は面白い! リュウちゃん、前回のブログで、「大相撲の抜本的改革は、幕下以下の力士にも賃金を支払うことである」という提案を致しましたが、コメント頂いた皆様の意見は、概ねリュウちゃんの提案に賛成頂きました。幾つかのコメントを以下に紹介させて頂きます。 18歳有資格はともかく、相撲取りやってて無給はないですよね。この改革案断然いいでですよ(清教寺様)ご意見にミコちゃんも賛同します、『苛めの様な無給』には人間としてのプライドが保てませんね(ミコちゃん様)無給力士を無くす、皆様と同じで私も大賛成です(HARU@お友達募集中様) やはりプロであれば、賃金を支給されるのは、当たり前のことですよね、「衣食足りて礼節を知る」という格言は、現代でも、真理として生きているのです。 表向きの力士の所得は、プロ野球などの人気スポーツと比べますと、決して多いものではありません。現在、横綱の月収が282万円、単純化しますと、この12倍が基本的年収という事になります。282×12=3385万円、国技のトップスターの俸給としては、むしろ非常に少ないといえそうです(因みに、十両の月収は104万円、ですから、関取の最低年収は、104×12=1248万円です)、現在のプロ野球選手の最高年俸は6億円(巨人:イ・スンヨプ)、の1/20、プロ野球の平均年収が3600万円位ですから、横綱の給与は、プロ野球の平均年俸より低い事になります(力士の給料は、この基本給に、「給金」という独特の制度がありますが、ここでは一般に公開されている給与のみで比較しました)ここに「ゴッツぁん」体質の淵源があるように、リュウちゃんは感じます。 昔から大相撲は「ゴッツぁん(ごちそうさま)の世界」と云われています。いいタニマチ(後援者)を持っている力士は、それこそ衣食住全てにわたり、タニマチのお世話になる、化粧回しのプレゼントは云うに及ばず、部屋以外での飲み食いから、夜の接待まで、何から何までタニマチ頼り、関取が一晩で高級にぎり寿司を100万円分、ペロリと平らげたとか、優勝した力士に1億円ポンとプレゼントしたとか、タニマチにまつわる途方も無い話が山とあります。しかも、この所得が贈与税として申告される事は殆ど皆無に近い、タニマチから、親方、力士への金の流れは、正に「闇の世界」のようです。 大相撲の「タニマチ」の実態は、どんなのもなのでしょうか? 「タニマチ」は、力士などのスポーツ選手、演歌歌手などに多額の金品を提供する「個人後援者」のことです。語源は、明治の初期に、現在の大阪市中央区谷町(たにまち)で開業医をしていた医者が大の相撲ファンで、診察に訪れた力士の治療費を受け取らなかったという逸話から来ているようです。 「タニマチ」は、一般人にとっては、正に「闇の世界」で、ほとんど具体的な実態が判らないようですが、ウィキペディアに揚げられている何人かの「タニマチ」の名前をここに再掲します。 佐川清、渡辺広康、泉井純一、浅田満、細木数子、山本英俊、野口美佳、高須克弥、 リュウちゃんのような一般人にとりましても、何人か名前を聞いたことのある人物がいます。ここでは、最初の二人(佐川清、渡辺広康)について、少し触れて見ます。 佐川清氏、佐川急便の元社主(初代社長・会長)、同郷の田中角栄元首相の他、多くの芸能人、スポーツ選手などと交際が深く「日本一のタニマチ」と呼ばれていました。平成4年には、東京佐川急便の渡辺広康社長が、懇意にしていた広域暴力団・稲川会会長:石川進氏とその系列会社に約1000億円もの融資・債務保証をしたとして、特別背任罪に問われた「東京佐川急便事件」が起こりましたが、国会に証人喚問された佐川氏は体調不良を理由にこれを拒否、事件の本質は、まさに「闇の世界」に埋もれてしまったようです。 渡辺広康氏は上記のように「日本一のタニマチ」、佐川清氏の腹心です。竹下登氏が首相になった時には、竹下氏の腹心である金丸信氏に頼まれて、懇意にしている稲川会会長・石川進氏に依頼、いわゆる「右翼ホメ殺し事件」を止めさせた人物です。二人とも、労働基準法を無視した超長時間労働を社員に強いて、荒稼ぎした金を政界・暴力団、そして相撲界へは「日本一のタニマチ」として、大盤振る舞いをしていた人物なのです。 先週、元大関若島津の松ヶ根親方が率いる松ヶ根部屋が、名古屋の宿所を長期にわたり暴力団に関係した人物から提供されていたとのニュースがながれ、当の松ヶ根親方は記者会見で、「暴力団員ではなく、実業家だと思っていた」という趣旨のコメントをしましたが、果たして、善良な実業家が、途方も無い金品を授与するような「タニマチ行為」が出来るのでしょうか?このような「タニマチ」は、表の顔は、佐川清・渡辺広康氏のように実業家、しかし、暴力団と密接に繋がる「裏の顔」を持っている場合が多いのではないかと、リュウちゃんは推定いたします。 ここで、リュウちゃんの「大相撲改革案(2)」を書きます。 ★ リュウちゃんの大相撲改革案(2)(1) 大相撲の力士・部屋の後援者(タニマチ)からの金品授受を100%透明なものとする。その為に、タニマチの実態を相撲界全体として過去に遡って公表し、それらのタニマチからの金品授与の逐一を全て公表する。その為には、化粧回しなどがタニマチから提供された際には、その制作にかかった費用を全て明らかにし、贈与税納税に備える。また、飲食接待を受けた際にも、領収書をキチンと受領し、納税に備える。 (2) 今後、後援者は、いわゆる昔ながらのタニマチに頼ることを原則中止し、個人の善意の小口の寄付による健全な後援者の制度を確立する。 現在はどうかわかりませんが、昔は有望な少年を相撲界に勧誘する時には、「土俵には金が埋っている」という言葉を使ったそうですが、現在の制度では、「土俵の内に金が埋っている」のではなく、「土俵の外に(タニマチのところに)金が埋っている」ように思われます。この、前近代的な体質から完全に脱却しない限り、大相撲の再生は無いと、リュウちゃんは考えます。 このシリーズ、まだまだ続けていく予定です。
2010年07月28日
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ああ、大相撲よ 何処へ行く (横綱 双葉山) 6月11日から、注目のテレビ中継のない大相撲名古屋場所が始まりました。平日の観客は、約6割の入り、夕方6時過ぎのNHKの「大相撲ダイジェスト」を見ますと、平日の館内は土俵の周辺を除きましてガラガラの状態、懸賞の本数もこれまでの1/4に激減、淋しい限りですね。 昨年の名古屋場所初日の後半戦の視聴率は10,5%だったようですが、今回のダイジェストの視聴率は、それを少し上回った水準で推移しているようです。 名古屋場所開催中に報じられた新たな疑惑は二つ、一つは7月14日発売の週刊新潮が報じた佐ノ山親方(元大関千代大海)の野球賭博と「裏カジノ」に関与した疑惑、この疑惑に関しては親方本人は全面否定、訴訟も辞さないとしています。また、日本相撲協会の特別調査委員会(座長=伊藤滋・早稲田特命教授は、親方を20分程、電話で事情聴取しただけで、週刊新潮の記事は「全体として明らかに信用性を欠いている」として、潔白との結論を出しました。 もう一つは、貴乃花親方が愛媛に新弟子勧誘で訪れた際に、会食などに同席した父兄の中に、暴力団関係者がが混じっていたと報じられた事です。この疑惑につきましても、上記特別調査委員会が調査を進めましたが、現在のところ貴乃花親方は全面否認、特別委員会も親方の否認に沿った結論になりそうですが、この2件について特別委員会は更に調査を進め、今月20日をメドに最終結論を出すようです。 最終結論の行方はさておき、相撲人気の低迷している昨今、新弟子集めには各親方も大変苦労されているようですね。 少し話は変わりますが、リュウちゃんが少年の頃は、「将棋と相撲ほど、プロとアマチュアの格差が大きい競技はない」と云われていました。 将棋でプロになる為には、養成機関であります奨励会に入って、そこで研鑽を積み重ね、昇級昇段を重ねていく必要があります。大体、奨励会6級あたりからスタートし、規定の勝星・勝率を上げて昇級昇段をしていきまして、4段に昇段しますと、晴れてプロ棋士として認定されます。相撲で云いますと、十両昇進です。奨励会員は、6級~3段までの棋士の卵で構成されていますが、これは相撲で云えば、序の口~幕下までの、いわゆる取的さんに相当します。双方共、無給での厳しい修行の生活ですね、商売の世界で云いますと、丁稚奉公の時代、ほぼ無給で、その商売の世界のしきたりを、先輩の叱咤激励の下に、身体で覚えていく世界です。 将棋の世界では、アマチュア強豪からプロの世界に転じて大成した人は、花村元司九段ただ1人しかいません。最近はパソコンの普及で、プロ棋士の棋譜を簡単に入手出来るようになり、アマチュアとプロの格差が縮まってきたとは云え、並の学生名人やアマチュア名人では、まだまだプロとの格差は非常に大きい世界のようです。 相撲の世界では、有望な人材は小・中学校時代から注目され、中学校卒業と同時に角界入り、前相撲からスタートし、序の口~序二段~三段目~幕下と進み、幕下上位で好成績を挙げますと、晴れて一人前の関取、すなわち十両に昇進出来るという訳です。 リュウちゃんが少年時代の時のように、大相撲の人気が全盛の頃は、力士の数は合わせて700人位いた筈です。その700人の中で、十両以上の関取は、70人位、関取の数は、全力士の10%しかいませんでした。全力士の90%は、無給の取的さん、言い換えれば、将来を嘱望されて角界入りしても、晴れて関取になれるのは、10人に1人の狭き門、大多数の力士は無給の取的のままで角界を去らなければならない運命なのですね。 リュウちゃんの少年時代のように、中学校を卒業して、すぐ就職するのが当たり前の時代、もっと前の高等小学校を卒業して丁稚奉公に行くのが庶民の普通の就職のあり方であった頃には、力が強く、体の大きい少年にとっては、「土俵には、金が埋っている」という言葉は、大変魅力があった筈です。映画「三丁目の夕日」に描かれましたように、当時の並の少年少女達は、中学校を卒業すると同時に、親元を離れて、夜行列車に乗り都会へ集団就職をいたしましたが、それが、体力を認められ、請われて角界入りするのであれば、一般の少年少女達とは格段に離れた「バラ色の未来」を夢に見られたであろう事は、想像に難くありません。 しかし、現在は、高校の義務教育化が謳われ、公立高校の学費無償化が実現し、2人に1人は大学に進学する時代、リュウちゃんの少年時代のような中卒で丁稚奉公する時代ではないのです。にも拘わらず、相変らず相撲界のスカウトの方法は「中卒の金の卵」を求めている。これは全く時代錯誤も甚だしいと云わざるを得ませんね、日本人の中から、抜きん出た力士が出なくなったのも、むべなるかなと思います。 それでは、どうすればいいのか? ここで、リュウちゃんの考える「大相撲改革案」(1)を以下に書きます。 「リュウちゃんの大相撲改革案(1)★ 大相撲の入門年齢を、従来の中卒(15歳)から、高卒(18歳)に引き上げる。→プロ野球やサッカーなど、プロ・スポーツでは、これがグローバル・スタンダード、15歳からプロの水の中で、徹底的に鍛えなければ、大力士は出ないという論法は、学生横綱が大相撲の横綱になる時代には通用しない。 ★ それに伴い、無給の力士を無くす。入門と同時に、例えば10~20万円位の最低賃金を支払う。丁稚奉公制を廃し、力士全員がプロとして給料のみで生活が成り立つように給与制度をドラスティックに大改革する。 ★ 上記、給与制度の大改革に伴い、従来の幕下以下の階位(すなわち、序の口、序二段、三段目)を廃止し、幕下一本とする。また、幕下以下の力士数を、全体で100人位に大幅に削減、全力士数の上限を200人とする。 ★ 現在の制度では、十両に昇進すると、いきなり無給から年収1000万円位になるが、十両の力士の年収を現在の半分くらいに削減し、削減により生じた原資の一部を、幕下力士の賃金に充当する。以上がリュウちゃんの大相撲改革案(1)です。 多分、大相撲の関係者からは、「何も判らないド素人が、寝ぼけた事をほざいているだけ、検討するのも値しない妄論」という声が聞こえてきそうですが、いやしくもプロのスポーツマンに対して、その世界に入団と同時に、それなりの賃金を支払うのは、「当たり前」の話です。いわば、上記改革案はプロスポーツの前提条件です。この前提条件抜きに、いかなる改革案も成立しない事を、大相撲の関係者は肝に銘じるべきだとリュウちゃんは考えます。 次回は、この「改革案」から話を広げ、親方株の問題、総当り制の問題、相撲部屋運営の問題等、いろいろと考えてみたいと思っています。相撲ファンの方も、そうでない方も、忌憚の無いご意見をお寄せ頂ければ幸いです。
2010年07月19日
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ああ、大相撲よ、どこへ行くのか?(第4代横綱・谷風梶之助) いよいよ、前代未聞の実況中継の無い大相撲が始まりました。昭和21年生まれのリュウちゃん、少年時代は大相撲の大ファンでした。物心ついてから少年時代は栃錦、若乃花(初代)の、いわゆる「栃・若時代」で、テレビ時代の到来と共に、戦後の相撲人気が一挙に盛り上がった時期でありました。 NHKテレビが開局したのが昭和27年、栃錦が横綱に昇進したのが昭和29年、この時栃錦は身長178センチ、体重106キロ、ライバルの若乃花が横綱に昇進したのは、昭和33年、身長179センチ、体重103キロ、(栃錦は全盛時の体重は132キロでした)二人の横綱は、ほぼ同じ体格だったのですね、 この頃の最巨漢力士は、最高位が小結だった大起(おおだち)、身長194センチ、体重180キロ、昔の云い方で48貫目、(昔の云い方では。栃錦、若乃花共に28貫目ということになります)敗戦から約10年を経たとは云え、まだ一般の庶民の暮し」は豊かではなく、日本人の体位も、現在と比較しますと、まだまだ貧しいものでした。因みに、昭和30年に二十歳を迎えた男子(昭和10年生まれ)の平均身長は、162,9cm、今年二十歳の男子の平均身長が約170cm強ですから、現在より8cm位、平均身長が低かったという事になります。そのような中で、大相撲の力士の体格は、当時の世界水準を抜くもので、体格の点からも、力士は当時の日本人の憧れだったように思われます。 (キーワード1)力士の体位は当時の日本人の憧れ リュウちゃんが大相撲に熱中した昭和30年代の初めの頃は、まだ一般家庭にテレビが普及していませんでした。リュウちゃんが育った所は、戸数が100軒弱の小さな集落でしたが、若乃花が横綱になった頃、この集落の中でテレビを所有していたのは(確か)3軒しかなかったと思います。小学生だったリュウちゃん、この3軒にはテレビを観るために、足繁く通ったのです。大相撲の他には、プロレスの力道山もご贔屓でした。散々攻撃された後に、「堪忍袋の緒が切れた」とばかりにくり出す空手チョップの嵐、宿敵シャープ兄弟、ボボ・ブラジルやプリモ・カルネラなどは、この空手チョップの嵐の中で、たちまちギブ・アップになるのでした。 力道山は元、大相撲の力士、二所の関部屋所属、上述の初代若乃花は取的時代に二所の関部屋に所属していたため、よく力道山に(相撲用語で云う)可愛がられたそうです。彼がプロレスで一躍、日本のヒーローとなったのは、昭和29年12月29日、蔵前国技館で行われた日本ヘビー級王座決定戦で、柔道の日本チャンピオン・木村政彦(この時には、既にプロレスに転向していました)勝ってから、彼の人気は決定的になりました。 リュウちゃんが第48代横綱・大鵬の本物を初めてみたのは、確か昭和35年、中学1年生の時でした。伊勢神宮の奉納相撲で初めて本物の力士を見たのですが、当時、関脇にに昇進したばかりの大鵬は、まだ均整のとれた体格で、後年のようにお腹は出ていませんでした。白い肌が桜色に染まって、女性のような美しさでした。 小学校の頃には、大相撲とならんで、プロ野球にも熱中していました。今だに鮮明に記憶に残っていますのが、昭和33年の読売ジャイアンツ-西鉄ライオンズの日本シリーズ、巨人の監督は水原茂、西鉄の監督は三原脩、当時、宿命のライバルと云われていました。この年の日本シリーズは巨人が3連勝、その後、西鉄のエース、鉄腕・稲尾和久投手が奇蹟の復活、4連投で4勝、最初の3戦で2敗していましたので、この年の日本シリーズの稲尾投手の成績は4勝2敗!稲尾が登板しなかったのは第2戦だけという、現在のローテーションが確立されているプロ野球とは違って、高校野球並の連投に継ぐ連投でした。因みに、この年のペナント・レースで、稲尾は72試合に登板、33勝10敗の成績この年の日本シリーズでの獅子奮迅の活躍ぶりは「神様、仏様、稲尾様」と讃えられました(昭和36年、稲尾投手はペナント・レースで78試合に登板、42勝14敗という大記録を打ち立てました。この記録は、今後、永遠に破られる事のない、不滅の大記録ですね) 昭和34年6月25日、後楽園球場での巨人-阪神戦も、近所のお家でテレビ観戦しました。この試合はプロ野球では初めてとなる「天覧試合」で、「卑しい職業野球」と揶揄されたところからスタートを切ったプロ野球を一挙に国民的スポーツの地位に押し上げました。試合は、入団2年目の長嶋茂雄のサヨナラ・ホームランで劇的なサヨナラ勝ち(スコアは5-4)、この時の阪神のピッチャーはルーキーの村山実でした。尚、王貞治も、この年に巨人に入団、この「天覧試合で、長嶋と共にホームランを放ち(王=通算第4号ホームラン)、いわゆる「O・Nアベック。ホームラン」の最初の試合となりました(O・Nアベックホームランは通算106回だそうです) この「天覧試合」で、プロ野球は、大相撲と並ぶ国民的人気プロ・スポーツとなりました。ノンフィクション作家、佐野真一の「巨怪伝」によりますと、この「天覧試合」の仕掛人は読売新聞・読売ジャイアンツ、日本テレビ放送網の社主であった正力松太郎、日本の民放テレビ第1号の会社として、NHKに対抗出切る人気番組を作る事を模索していた正力が、「相撲のNHK」に対し、「プロ野球の日テレ」というNHKに対抗できる図式を確立したのが、「天覧試合」だったという訳です・ (キーワード2)NHK対民放のスポーツ中継戦争 昭和39年、相撲と共に日本のお家芸とされていた柔道に衝撃的な事件が起こりました。東京オリンピックで初めて正式競技として採用された日本のお家芸・柔道の無差別級(当時は柔道=無差別級という考えが一般的でした。柔よく剛を制す、これは相撲の醍醐味でもあった筈です)で、金メダルが確実視されていた神永六段を、オランダのヘーシンク三段が袈裟固め一本で下し、金メダルを獲得してしまったのです。 (キーワード3)国技の国際化による衝撃、「柔よく剛を制す」から「やはり剛がベスト」へ 昭和39年の「東京オリンピック」開催の頃から、日本は高度経済成長の時代に入りました。それに伴い、中央と地方の経済格差の縮小、日本人の体格の飛躍的向上、高学歴社会時代の到来、社会のあらゆる部分に於ける国際化の到来と、昭和30年代と比べまして日本人の生活環境は劇的に様変わりしました。 (キーワード4)中央と地方ぼ経済格差の縮小、高学歴社会の到来、体格の向上 昭和42年3月場所、ハワイ出身の高見山が初めて外国人として関取になりました(最高位は関脇)その後、小錦が昭和58年に関取となり、大関まで昇進しました。身長184cm、体重285kg、昔の云いかたでは、76貫目!!力士の大型化を象徴するような関取でした。ハワイからは、その後、曙、武蔵丸が横綱に昇進、それぞれ、体重が232キロ、223キロの超大型力士、リュウちゃんが子供の頃には、相撲は「心・技・体」といいまして、小さい力士が大きい力士を倒すのが相撲の醍醐味だと思っていましたが、かっての巨漢力士、大起の48貫目を遥かに上回る71貫目の小錦が出現した事で、大相撲は、「心・技・体」の三位一体の時代から、「体」だけの時代になってしまったように思われます(何か、淋しさを感じています) (キーワード5)力士の大型化の加速、「心・技・体」の三位一体の時代から、「体」だけの時代への移行 近年、メタボリック症候群が世界的に大きな話題になりましたが、大型力士の体型は、まぎれもなくメタボ体型ですね、これに関して、象徴的な出来事がありました。第65代横綱・貴乃花光司、全盛時は身長183cm、体重155キロ、それが引退し、貴乃花親方になってから、体重を一挙に半分近くの80キロ台に落としました。体重を落としたきっかけは、膝への負担を軽減するためという事だそうですが、この体重では弟子を自ら指導出切るのか?はなはだ疑問に思いますね。 (キーワード6)メタボリック・シンドローム 日本人の横綱は、第66代・若乃花勝が最後で、横綱昇進が平成10年5月、すでに彼が横綱になってから12年の歳月が流れています。ずっと後世から大相撲を振り返りますと、「若乃花勝関が最後の日本人横綱だった」という事になるような感じがしています。 今回は、リュウちゃんの幼児からの大相撲や他のスポーツとの関りを書きましたが、次回は、最近の不祥事に関連しまして、リュウちゃんの大相撲に対する個人的な感想を書いて行きたいと考えています。大相撲ファンの方も、そうでない方も、リュウちゃんブログに感想のコメントを頂ければ幸いです。宜しくお願いいたします。
2010年07月13日
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