懐メロカラオケ 0
橋幸夫 0
株・日本航空 0
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芳紀17歳のひばりちゃん、確実に「大人の歌手」として成長した!(まえがき)さて、17歳のひばりちゃんです、ひばりちゃん17歳の時の楽曲は、昭和29年5月5月29日から昭和30年5月28日までに発売された歌です。具体的には、「お針子ミミ―の日曜日<108番>」から、「花の投げ節<137番>」の29曲です。この年は洋楽を4曲発売していますので、合計のリリース曲は33曲になります。(紅白歌合戦初出場)昭和29年12月31日、「第5回紅白歌合戦」がラジオとテレビで同時放送されました。NHKがテレビの本放送を始めたのは、昭和28年2月1日からです。以下の写真は、国産初のテレビ、です。14インチモノクロ、当時はサラリーマンの月給が3万円の時代でしたが、この国産初のテレビの価格は30万円、現在の価格に換算しますと、約300万円くらいになります。(国産初のTV受像機、シャープ<TV3-14T>)紅白歌合戦のテレビ放送は、昭和28年の大晦日に開催された「第4回」から始まり、「第5回」は2回目のテレビ放送になったのですが、当時のテレビはまさに「高嶺の花」で、現在、このテレビ放送を観たという人は殆どいないのではないかと思われます。第5回紅白歌合戦は男女各15人、計30人の歌手が出場、この内、5回連続出場した歌手は藤山一郎と二葉あき子の2人だけでした。デビュー2年目だった春日八郎が、大ヒット曲「お富さん」で紅白デビューを果たしました。(三人娘)この紅白では、後に「三人娘」として大人気を博した江利チエミ、雪村いづみ、それとひばりちゃんの3人が勢揃いしました(チエミは2回目、ひばり、いづみは初出場)江利チエミは昭和12年1月生まれ、ひばりちゃんより半年早く生まれ、学年も一年上です。ひばりちゃんと同じように「天才少女」と云われていましたが、レコードデビューは、15歳の時で洋楽の「テネシーワルツ」だったのです。<江利チエミ「テネシーワルツ」>(江利チエミ)雪村いづみは、昭和12年3月生まれ、江利チエミと同学年で、ひばりちゃんより2か月ちょっと年上です。裕福な家庭で育ちましたが、父親の自殺、母親の経営していた会社が倒産、いzづみは内定していた高校進学を諦め、歌手を志望し、芸能活動を始めました。レコード・デビューは、昭和28年4月、いづみちゃん16歳の時の「思い出のワルツ」で、江利チエミと同じ、洋楽曲でのデビューだったのです。<雪村いづみ「思い出のワルツ」>(雪村いづみ)「三人娘」年齢順は江利チエミ>雪村いづみ>美空ひばり、昭和29年年末までのレコーディング曲数は、江利チエミ:48曲、雪村いづみ:32曲、美空ひばり:138曲!歌手としてのキャリアがダントツだったひばりちゃんが、何故、紅白出場が遅くなってしまったのか?思い当たることはありますが、ちょっと不思議ですね。(三人娘)またまた「まえがき」が長くなってしまいました。楽曲に入ります(48)<108番>「お針子ミミ―の日曜日」<お針子ミミーの日曜日>★発売日:昭和29年6月1日、★作詞:木下忠司、作曲:黛 敏郎、★映画「青春ロマンスシート・青草に座す」主題歌、★カラオケあり、★評点:A(49)<109番>「ひばりの冒険」<ひばりの冒険>★発売日:昭和29年6月1日、★作詞作曲:木下忠司、★映画「青春ロマンスシート・青草に座す」主題歌、★「お針子ミミ―の日曜日」のB面曲、★カラオケなし、★評点:B<映画「青春ロマンスシート・青草に座す」、50分バージョン>リュウちゃんの他にカラオケで「お針子ミミ―の日曜日」を唄う人がいるのかな?と思われるほどの異色作で、クラシックの前衛的作曲家であった黛 敏郎(まゆずみとしろう)の唯一のひばりちゃんへの提供曲です。以下に歌詞を書いて見ます。♪~1、六日も空を見なかった 六日も土を踏まなんだだからミミ―の日曜は リュクサンブールに幕が開く貸船木馬にミュージック ユラリユワロン幕が開く鳩がベンチが噴水が あれあれみんなバラ色よララリラララリラララリララララ~ 「うるさいわね!」野暮いうお方はお出口へ2、お針子ミミ―はパリジェンヌ ダニー・ロバンが大好きで白い晴れ着がよく似合う どこかで見たよなパリジャンと腕組み第2場セーヌ河 ユラリユワロン幕が開く橋が煙が川船が あれあれみんなバラ色よララリラララリラララリララララ~ 「当たり前だわよ!」恋にローズはつきものよ3、モンマルトルのキャフェ―で、ちょいと真似してカルヴァドス見たよな殿御と思ったは ジュラールフイフイフィリップ さあさ一、二、三拍子 あれあれみんなバラ色よ ララリラララリラララリララララ~ 「あら、いいわネ」 皆さん一緒に踊りましょう~♪リュウちゃん、カラオケでこの歌を歌うようになってから、歌詞の意味について考えるようになりました。先ず、歌のタイトルのヒロイン「お針子ミミ―」とは、イタリアのオペラ作曲家・ジャコモ・プッチーニの著名な歌劇「ラ・ボエーム」のヒロイン、「お針子ミミ」のことなのですね。<歌劇「ラ・ボエーム」より、アリア「私の名はミミ」:マリア:カラス>♪~六日も空を見なかった 六日も土を踏まなんだ~♪この部分は、19世紀末のパリのお針子さんは、日曜日しか休日が無かったことを示しています。正に「楽しい日曜日」だったのですね。♪~ダニー・ロバンが大好きで 白い晴れ着がよく似合う~♪ダニー・ロバンはフランスの清純派女優です。(ダニー・ロバン)昭和28年、ジャン・マレー、ダニー・ロバン主演の「真夜中の愛情」という映画が公開されました<リュウちゃんも高校時代、テレビでこの映画を観た記憶があります。ダニー・ロバンのエレガントな美貌にクラクラしてしまいました(苦笑)><映画「真夜中の愛情」、白いドレスを着るダニー・ロバン>♪~ちょいと真似してカルヴァドス~♪カルヴァドスとは、リンゴから作られた蒸留酒のことです。ノルマンディ地方で産出されるもののみ、カルヴァドスと呼ばれ、それ以外で産出されるものは、単に「アップル・ブランデー」なのだそうです。(カルヴァドスのボトル)♪~ジュラールフイフイフィリップ~♪ジュラール・フィリップは、フランスの二枚目俳優です。(ジュラール・フィリップ)昭和22年の「肉体の悪魔」で、その人気は世界的なものになりました。日本でも、昭和27年公開の「花咲ける騎士道」、「夜ごとの美女」で人気爆発、昭和28年10月に来日、物凄い「ファンファン・フィーバー」(ファンファンは彼の愛称)を巻き起こしたようです。残念ながら昭和34年に肝臓癌で、わずか36歳の時に夭折しました。「フランスの2枚目俳優」としてジュラール・フィリップの後を継いだのが、アラン・ドロンです。世界的な大ヒットとなった「太陽がいっぱい」は、ジュラール・フィリップの死の翌年の昭和35年に公開されたのです。映画「青春ロマンスシート・青草に座す」の主演は桂木洋子です。(桂木洋子)この映画の桂木洋子は、まるで「和製ダニー・ロバン」というべき、清楚で溌剌とした演技を見せてくれます。実はこの時、桂木洋子は「お針子ミミ―の日曜日」の作曲者の黛 敏郎と結婚していたのだ!ちょっと悔しい(苦笑)黛 敏郎と桂木洋子の長男として、昭和28年に生まれたのが、NHKドラマのディレクターとして活躍している黛りんたろうなのです。(50)<番外>「ひばりのお買い物」<ひばりのお買い物>★発売日:平成2年3月21日(録音日:昭和33年?)、★作詞:石本美由紀、作曲:上原げんと、★収録アルバム「秘蔵!幻の未発表曲集」★カラオケなし、★評点:B、美空ひばりの死後、これまで録音した曲で発売されず、「お蔵入り」になった歌22曲をCD2枚組として発売した中の一曲です。「お蔵入り」になった曲だけに、あまりピンとくる曲はなかったのですが、この曲だけは印象が残り、リュウちゃんも時々鼻歌で口づさむ曲になりました。録音が昭和33年、ひばり21歳の時の録音のようですが、ここで紹介しておきます。(51)<110番>「日和下駄(ひよりげた)」(日和下駄)<日和下駄>★発売日:昭和29年6月15日、★作詞・作曲:米山正夫、★映画「七変化狸御殿」挿入歌、★カラオケあり、★評点:特A、<映画「七変化狸御殿」、14分バージョン>ひばりちゃんの粋な「江戸もの・東京もの」の会心作です。ひばりちゃんの「江戸・東京もの」は他に「江戸の闇太郎<215番>」、「ら・あさくさ<240番>」「江戸っ子4寿司<241番>」、「大川ながし<250番>」、「大川祭り囃子<264番>」、「車屋さん<292番>」などがありますが、「日和下駄」は数ある「江戸もの・東京もの」の中でも、ピカイチの名曲だとリュウちゃんは思っています。ひばりちゃん本人も「お気に入りの歌」だったようで、後年、テレビやコンサートでもよく歌っていましたね。<美空ひばり42歳の時の「日和下駄」>この歌は、昭和28年111月に録音されましたが、発売は何故か録音の半年後の昭和29年6月です。何故、発売日が録音日から半も年遅れてしまったのか?ひばりちゃんは、昭和29年1月、浅草国際劇場正月公演で、恐らく(?)、永井荷の風の随筆「日和下駄」を基にした「日和下駄」というタイトルの舞台を演じ、好評を博しようです。恐らく、「日和下駄」は、浅草国際劇場の正月公演のために作られた楽曲で、当初はレコード発売の予定は無かったのかも知れませんが、舞台の評判が頗る良かったため、舞台から半年を経てレコードが発売されるようになったのかも知れませんね。レコード発売から半年後、上掲のミュージカル映画「七変化狸御殿」で挿入歌として使われましたが、ちょっと場違いな使われ方ですね。この映画では、ひばりちゃんが十数曲を歌いまくっているようで、若い頃のひばりちゃんファンにとりましては、堪らない「宝の山」のようです。♪~おっと危ない横丁の黒犬よ~♪このラストの歌詞を聞きますと、リュウちゃんは本居長世の30秒の名作童謡、「三丁目の犬」を思い出すのです。<「三丁目の犬」>(52)<111番>「心ぶらお譲さん」(心斎橋)<心ぶらお嬢さん>★発売日:昭和29年6月15日、★作詞・作曲:原 六朗、★カラオケ無し、★評点:A、ひばりちゃんの唯一の「大阪もの」です。「心ぶら」とは、大阪の南の繁華街、「心斎橋」をブラブラと歩くことで、東京の銀座をブラブラ歩くことを「銀ぶら」というのと同じ省略語です。ひばりちゃんは、13歳の時に「銀ブラ娘<20番>」という、唯一の服部良一作曲の歌があります。服部良一が何故、ひばりちゃんに、たった1曲の楽曲しか作曲しなかったのか?このことも謎の一つですが、ひばりちゃんのモダンな歌は、服部良一の弟子だった原 六朗に受け継がれたと考えれば、ちょっと納得ですね。リュウちゃんが奈良人になったのは、東京から転勤で大阪の「北」の梅田勤務になった時からです。勤務地は「北」の梅田の繁華街にありましたが、「南」の心斎橋にも、しょっちゅう「寄り道」しました。「心斎橋」を歌った歌で、リュウちゃんが好きな歌を一曲挙げてみます。<「若い二人の心斎橋」:三田 明・吉永小百合のデュエット>(53)<115番>「ブラジルの花嫁さん」<ブラジルの花嫁さん>★発売日:昭和29年9月15日、★作詞:西条八十、作曲:万城目 正、★映画「若き日は悲し」主題歌、★カラオケ無し、評点・特A、<映画「若き日は悲し」で歌われる「ブラジルの花嫁さん」>35枚組の「美空ひばり大全集」で初めて聴いて、好きになった歌の一つです。この歌は、多分、当時の「ブラジル移住ブーム」と、昭和29年2月の戦後初の日本航空による、東京(羽田)~ホノルル~サンフランシスコの国際線の開通を念頭に置いて作られた歌ではなおかと思われえます。それと、ひばりちゃんの「ブラジル公演」という構想も念頭にあった歌なのではないでしょうか(ひばりちゃんの「ブラジル公演」が実現したのは、「ブラジルの花嫁さん」発売の16年後の昭和45年だったのです)以下に1番の歌詞を書いてみます。♪~桜振袖可愛く振って さよならお別れお富士さま 廻るプロペラコメット機 わたしはブラジルの花嫁さん お嫁に行きますサンパウロ~♪この歌は、ブラジルに移住した男性に、日本人女性がお嫁に行く、という内容の歌詞になっています。桜の咲く春に振袖を来て、周航したばかりの日本航空のプロペラ飛行機、「ダグラスDC-6B機」(多分?)に乗って、富士山を眼下に見ながら、日本とお別れする。行く先は、当時のブラジルの一番の大都市「サンパウロ」です。(ダグラスDC-6B機)実際にはブラジル移民は「苦難の連続」だったようですが、「ブラジルの花嫁さん」は夢と希望にあふれた底抜けに明るい歌です。ひばりちゃんの「ブラジルの花嫁さん」聴いていて気持良くなる楽しい歌だ!日本航空の飛行機が、プロペラ機からジェット機に代わっていたのは、昭和39年くらいのようです。この年の7月、日本航空はボーイング727機を国内線に投入、本格的に「ジェット機時代」の幕開けとなりました。(ボーイング727機)♪~夢のジェット機 セブントゥーセブン~♪<「そこは青い空だった」:橋 幸夫と吉永小百合のデュエット>(そこは青い空だった、ジャケット)(54)<117番>「八百屋お七」(「八百屋お七ふり袖月夜」ポスター)(月岡芳年 「八百屋お七」)<八百屋お七>★発売日:昭和29年8月20日、★作詞:野村俊夫、作曲:;万城目 正、★映画「八百屋お七ふり袖月夜」主題歌、★カラオケあり、★評点:A「八百屋お七」とは、江戸時代前期、江戸本郷の八百屋の娘で、恋人に会いたい一心で放火事件を起こし火刑に処されたとされる少女です。山田風太郎のノンフィクション奇書「人間臨終図鑑」は、実在した923人の臨終の様子を年齢順に淡々と綴っていますが、この本の最初に登場するのが、15歳で火あぶりの刑で死んだ「八百屋お七」です。この実話は、井原西鶴の「好色五人女」で採り上げられたことで広く世に知られるようになり、歌舞伎の演目としても再三採り上げられるようになりました。1番の歌詞は以下です。♪~月を見てさえ 吉さま恋しまして逢えなきゃ なおさらに泣いて畳んだ 折鶴だいて娘十六 恋ごころ~♪上掲の歌詞に出てくる「吉さま」とは、お七が惚れた「吉三郎」のことで、映画では中村錦之助が演じています。映画「八百屋お七ふり袖月夜」は歌舞伎とは違い、ラストでお七(美空ひばり)と吉三郎は結ばれるというハッピーエンドになっているようです。この辺り、かなりいい加減な脚本ですが、錦ちゃん、ひばりちゃんファンにとりましては、「良い結末」だったのかも知れませんね。「♪~娘十六恋ごころ~♪」:映画では、八百屋お七は16歳という設定ですが、これは映画撮影時のひばりちゃんの実年齢に合わせたにおかもしれませんね。平成6年、演歌歌手の坂本冬美が「夜桜お七」という異色作をリリースしました。歌詞には全く出てこないのですが、「夜桜お七=八百屋お七」なのです。<坂本冬美「夜桜お七」>(55)<119番>「お夏清十郎」(映画「歌ごよみ・お夏清十郎」ポスター)<お夏清十郎>★発売日:昭和29年11月1日、★作詞:石本美由紀、作曲:上原げんと、★映画「歌ごよみ・お夏清十郎」主題歌、★カラオケあり、★評点:特A、<映画「歌ごよみ・お夏清十郎」、68分バージョン>「八百屋お七」に続く、ひばりちゃんの「歌舞伎・浄瑠璃もの」です。ひばりちゃんの「歌舞伎・浄瑠璃もの」は他に「恋の曾根崎<147番>」、「お染久松<148番>」、「おかる道ゆき<227番>」、「御存じ弁天小僧<271番>」があります。「お夏清十郎」は、寛文2年(1662年)に、現在の姫路市で実際に起こった「駆け落ち事件」を題材にした物語です。姫路城下の旅籠・但馬屋の娘「お夏」は、手代の「清十郎」と恋仲になり、二人は駆け落ちをしますが、すぐ捕らえられてしまいます。清十郎は「かどわかしの罪」に加え、「店金持ち逃げの罪」を着せられ、「打ち首」になります。「お夏」は狂乱して行方をくらまし、以後、誰も「お夏」の姿を見ることはありませんでした。この実話は、江戸時代から歌舞伎・浄瑠璃などの人気演目となり、昭和111年には、田中絹代のお夏、林 長二郎(長谷川一夫)の清十郎という配役で、初めて映画化され、東海林太郎の歌った主題歌も大ヒットしました。<東海林太郎「お夏清十郎」>映画「唄まつりお夏清十郎」は、「八百屋お七・ふり袖月夜」と同じように、歌舞伎や浄瑠璃の結末とは正反対のハッピーエンドの物語に改変されています。こちらもひばりちゃんファンにとりましては「良い結末」なのですね。歌詞の一部が、東海林太郎の歌と同じ部分があります。東海林太郎の2番の歌詞は以下です。♪~向こう通るは清十郎じゃないか 笠がよう似たすげ笠が~♪ひばりちゃんの歌の2番の後半、♪~向こう通るは清十郎様か 笠が似ている菅の笠~♪これ、ちょっと「パクリ」なのかな?この歌、リュウちゃんも大好きな歌の一つで、カラオケでひばりちゃんの「時代もの」をまとめて歌う時には、必ずこの歌から歌い始めるのです。(56)<127番>「千両舞いすがた」(映画「大江戸千両囃子」)<千両舞いすがた>★発売日:昭和30年1月20日、★作詞:野村俊夫、作曲:万城目 正、★映画「大江戸千両囃子」主題曲、★カラオケあり、★評点:S、(57)」<128番>「お役者道中」<お役者道中>★発売日:昭和30年1月20日、★作詞:野村俊夫、作曲:万城目 正、★映画「大江戸千両囃子」主題曲、「千両舞いすがた」のB面曲、★カラオケなし、★評点:特A、「千両舞いすがた」、3曲目の「評点S」の歌です。伴奏はジンタ風で頂けないが、ひばりちゃんの歌唱はまさに絶品!聴けば聴くほど、絶妙な歌唱に体が震える思いだ!映画「「大江戸千両囃子」では、ひばりちゃんは旅役者一座の花形スター「小春」を演じていて、映画の中では、歌と踊りをタップリ披露しているようです。共演は後に東映チャンバラ映画で中村錦之助と人気を二分した東(あずま)千代之介です。(東 千代之介)ひばりちゃんは、映画「ひよどり草紙」では、中村錦之助、映画「「歌ごよみ・お夏清十郎」では、後に大映映画の若手時代劇の大スターになった市川雷蔵、そして映画「大江戸千両囃子」では、中村錦之助と共に、東映チャンバラ映画の大スターになった東 千代之介と共演、また、18歳の時には、映画「笛吹き若武者」で大川橋蔵を歌舞伎界から映画界に誘い出し、橋蔵は「錦ちゃん、千代ちゃん」に続く東映チャンバラ映画の大スターになったのです。往年の時代劇の大スター、中村錦之助、東 千代之介、市川雷蔵、大川橋蔵は、新人の頃、美空ひばりと共演し、大スターになった。ひばりちゃんは、戦後の時代劇の大スターの「生みの親」なのだ!(58)<129番>「娘船頭さん」<娘船頭さん>★発売日:昭和30年3月10日、★作詞:西條八十、作曲:古賀政男、★映画「水郷哀話・娘船頭さん」主題歌、★カラオケあり、★評点:A、<映画「水郷哀話・娘船頭さん」、78分バージョン>昭和期を代表する歌謡曲作曲家・古賀政男の初めての古賀政男の曲です。(古賀政男)後年、美空ひばりは、「柔<362番>」、「悲しい酒<381番>」という2大人気曲により、ひばりの歌の作曲家といえば、一番先に古賀政男の名前が挙げられるようになりました。しかし、ひばりちゃんがデビューした昭和24年には、既に古賀政男は日本コロムビアのトップ専属作曲家だったのです。ひばりちゃんは、デビューの2年前の昭和22年、横浜で開催されたのど自慢で、審査員として来席していた古賀政男の前で、彼の新曲「悲しき竹笛」(近江俊郎・奈良光枝のデュエット曲)を歌い、<古賀はその子供とは思えない歌唱力、度胸、理解力に感心し「きみはもうのど自慢の段階じゃない。もう立派にできあがっている」、「歌手になるなら頑張りなさい」と激励した>(ウィキペディアの記述)とされています。<「悲しき竹笛」歌:近江俊郎・奈良光枝>小学校4年生の少女だったひばりちゃんの歌う「悲しき竹笛」、恐らく古賀政男は、お世辞ではなく、本当に驚いたのではないかと思います。その2年後、古賀政男が所属していた日本コロムビアにひばりちゃんは専属歌手として入社し、「悲しき竹笛」とタイトルが似た「悲しき口笛<2番>」で早くも大ヒットを飛ばします。恐らく、それを見ていた古賀政男は考えたことでしょう。正に天才歌手の出現だ。しかし、この天才に、どういう曲を書いていいのか?五里霧中だ。ということで、ひばりちゃんへの初提供した歌が、彼女のデビューから6年も経った昭和30年になってしまったのではないかとリュウちゃんは愚推するのです。結局、古賀政男が美空ひばりに提供した曲は合計34曲にとどまります。「娘船頭さん」は、西條八十=古賀政男のゴールデンコンビが満を持してひばりちゃんに提供した曲とあって、哀切極まりない中にも格調高い名曲になったとリュウちゃんは思っているのです。(59)<131番>「湯島月夜」<湯島月夜>★発売日:昭和30年3月15日、作詞:猪又 良、作曲:米山正夫、★雑誌「平凡」作詞募集入選詞、★カラオケ無し、★評点:B、三波晴夫「大利根無情」、石原裕次郎の「男の横丁」、「口笛の聞こえる港町」、ちあきなおみの「新宿情話」などを作詞した猪又 良の作詞家デビュー曲です。詞の題材は泉鏡花の長編小説「婦系図(おんなけいず)」の「湯島天神の境内の場」(湯島の白梅)から得た歌です。(湯島天神の泉鏡花筆塚)台詞入りの明治ロマンのムード溢れる歌ですが、リュウちゃんがこの歌に興味を持ったのは別の点にあります。それは、♪~わかりますとも お蔦のこころ~♪の、「お蔦の」の「の」の音符、上の「F音」(五線の一番上)だ!リュウちゃんがカラオケでひばりちゃんの歌を歌う時には、全て原調で歌えるのですが、若し「湯島月夜」を歌うとすれば、3度下げないと歌えないと思われます。晩年の「みだれ髪」で、船村 徹は、「♪~憎や 恋しや 塩屋の岬~♪」の「塩屋」の「し」の音符を、当時の美空ひばりの体調を無視するかのようなキーの高い音符を書きましたが、それでも、この部分のキーは<上のD音>で、五線符の第4線、「湯島月夜」の「の」の音よりも3度低い音なのです。「湯島月夜」の「の」の<上のF音>、ひばりちゃんの全517曲の中で、一番高い音程なのだ!(60)<132番>「あの日の船はもう来ない」<あの日の船はもう来ない>★発売日:昭和30年4月15日、作詞:西沢 爽、作曲:上原げんと、★カラオケあり、★評点:A、(61)<133番>「さすらいの雨」<さすらいの雨>★発売日:昭和30年4月15日、作詞:西沢 爽、作曲:上原げんと、★「あの日の船はもう来ない」のB面曲、★カラオケ無し、★評点:特A、「ひばりのマドロスさん」に続く、「マドロスもの」第2弾です。この歌は、「マドロスさん」に恋をした女性の失恋の歌ですね。「愛したマドロスさんが船に乗って行ってしまった。マドロスさんは2度と帰ってこない。それでも私はいつもマドロスさんの帰るのを待って、波止場に行くが、彼の乗った船は帰ってこない。毎日波止場に行くので、波止場にいるカモメだけが私の友達なのだ」という悲しい歌なのです。「ひばりのマドロスさん」の明るく陽気な歌と違って、しみじみとした、現代風に言えば「スローバラード」の曲ですね。このような「大人の歌」を17歳で歌ったひばりちゃん、やはり「天才」としかいいようがないとリュウちゃんは思っているのです。B面の「さすらいの雨」はA面の「あの日の船はもう来ない」とは打って変わって、早いテンポの「慟哭の歌」です。♪~港しぐれにギターもむせぶ 唄も悲しや ああ おさげ髪~♪悲しい歌が好きなリュウちゃん、A面の「あの日の船はもう来ない」よりも、B面の「さすらいの雨」のほうが、断然、好きなのです。
2022年03月05日
コメント(26)
16歳のひばりちゃん、この年は、「マドロス歌謡」元年だったのだ!(マドロス姿のひばりちゃん)(まえがき)今回はひばりちゃんの16歳の時に発売された楽曲について書いてみます。16の時の歌は、昭和28年5月29日から昭和29年5月28日の間に発売された歌です。具体的には「唄祭り八百八丁<78番>」ら「母恋い扇<107番>」までの29曲です。(洋楽事始めの年・民謡事始めの年)上記、29曲は、リュウちゃんが持っている35枚組の「美空ひばり大全集」に収録されている曲数なのですが、ひばりちゃんは16歳の時から「洋楽」のレコーディングを開始しました。昭和28年6月1日発売の「上海/エル・チョクロ」を皮切りに、16歳の時だけでも、「アゲイン」、「チャルメラそば屋」、「ゆうべはどうしたの」、「ンゴに二人を」、「スターダスト」、「ジングルベル」と、計8曲の「洋楽」をリリースしています。ひばりちゃんの「洋楽」は、オリジナルの英語などの歌詞に、一部に日本語の訳詞を入れたスタイルでロ幾音されています。一例として、以下に「ジングルベル」の動画を貼り付けます。<美空ひばり「ジングルベル」>→ここをクリック(以下同様)また、この年には、初の民謡として、「会津磐梯山」と「茶切節(ちゃっきりぶし)」の2曲を発売しました。<美空ひばり「茶切節」>民謡といいましても、「茶切節」は、昭和2年に(詞):北原白秋、(曲):町田佳声(かしょう)のコンビによって作られた「新民謡」なのです。昭和6年、鶯芸者の「市丸(いちまる)」の歌唱でビクターからレコードが発売され、大ヒットしました。<市丸「茶切節」>(市丸)「会津磐梯山」は、「茶切節」とは違って、古くからあった「古民謡」なのですが、こちらもビクターの鶯芸者であった「勝太郎」の歌唱によるレコードで全国的にヒットしました。ひばりちゃんの民謡は、コロムビアのライバルだったビクターの市丸、勝太郎への挑戦だったのか?という次第で、16歳のひばりちゃんは、邦楽29曲、洋楽8曲、民謡2曲の計39曲のレコードを発売することになりました。16歳の時に公開された映画も、全て主演作で、9作品が公開されています。1年間で主演した映画が9本!レコーディングした歌が39曲!これじゃ、高校に通っている暇が無い!さて、楽曲に入ります。(34)<78番>「唄祭り八百八丁」<唄祭り八百八丁>★発売日:昭和28年6月1日、★作詞・西條八十、作曲:万城目 正、★映画「ひばり捕物帳 唄祭り八百八丁」主題歌、★カラオケあり、★評点:A<映画「ひばり捕物帳 唄祭り八百八丁」、51分バーション>この歌、「お祭りマンボ」に続くひばりちゃんの「お祭りソング」第2弾なのですが、言葉の「切れ味」が小気味よく、リュウちゃんも大好きな歌なのです。リュウちゃんと同年配の近所のカラオケ店のオバサン曰く。「お母さんが好きだった歌」、オバサンのお母さんと云えば、生きていれば今年100歳!リュウちゃん、まだまだ青二才なのだ!(35)<番外>「上海」<上海>★発売日:昭和28年6月1日、★作詞:B.Hilliard|M.Delugg、日本語詞:奥山靉(あい)、★カラオケ無し、★評点:A、ひばりちゃんの初めてのジャズ(洋楽)のレコーディングです(この歌は35枚組の「美空ひばり大全集」には収録されていませんので、<番外>となります)この歌は、アメリカの人気女優で歌手のドリス・ディが昭和26年に29歳の時にリリースしました.(ドリス・ディ)<ドリス・ディ「上海>以下の冒頭の英語の歌詞を挙げてみます。♪~Who's gonna kiss me?Who's gonna thrill me?Who's gonna hold me tight tonight?Why did I tell you I was goin' to Shanghai?I wanna be with you tonight.Why did I holler I was goin' to Shanghai?~♪この冒頭の部分、ひばりちゃんの歌唱と、ドリス・ディの歌唱を聴き比べてみて下さい。どちらがドリス・ディで、どちらがひばりちゃんか、、英語の部分だけ聴いた限りでは、区別がつかない!リュウちゃんは英会話が全く出来ない人間ですが、以前、知人の英語ペラペラのジャズ評論家に、ひばりちゃんの「上海」の英語について問い合わせたことがあります。知人曰く。「<上海>のひばりの英語は、ネイティブの英語のように聞こえる」とのことでした。英会話が出来なかったひばりちゃんが、ネイティブと同じ発音で歌える!奇蹟だ!おそらく、ひばりちゃんは、ドリス・ディの「上海」を繰り返し聴き、耳でこの歌を完全に自分のものにしてしまったのでしょうね。美空ひばりオフィシャルサイトによりますと、ひばりちゃんは3歳の時に、小倉百人一首を殆ど暗記してしまったようですが、このエピソードも、ひばりちゃんの「異常ともいえる耳の良さ」を示しています。ひばりちゃんの「上海」のB面曲は、スペイン語の「エル・チョクロ」で、この歌もひばりちゃんは後半でスペイン語で歌っています。こちらは確認していないのですが、おそらく、スペイン人が聴いたとすれば、ネイティブなスペイン語だと思うのではないかと思っています。<美空ひばり「エル・チョクロ」>ひばりちゃんの洋楽ネイティブの歌手と遜色のない仕上がりなのだ!(36)<84番>「チャルメラそば屋」<チャルメラそば屋>★発売日:昭和28年8月10日、★作詞作曲:ボビー・ノートン、日本語訳詞:奥山靉、★カラオケ無し、★評点:A、35枚組の「美空ひばり大全集」に収録された唯一の洋楽曲です。邦楽オリジナル曲オンリーの筈の「大全集」に、何故、1曲け洋楽曲が収録されたのか?実はリュウちゃん、今の今まで、てっきりボビーノートンはアメリカの著名なカントリー・シンガーで、「ャルメラそば屋(Soba Song)」もアメリカで録音され、日本も聴かれるようになった歌だと思っていたのですが、下記のボビー・ノートンの「チャルメラそば屋」の動画を見ました所、このレコードのレード番号が「JL-47番」であることが分かりました。<ボビー・ノートン「チャルメラそば屋」オリジナル>「LJL-47」番!この「JL」は、当時の日本コロムビアの、主として邦人アーティストが「洋楽」を吹き込む時に使われた記号なのだ!因みに、ひばりちゃんの「上海」以前のレコード番号は、全て<A-○○番>というレコード番号になっています。例えば、デビュー曲の「河童ブギウギ」は、「A-570」番、「唄祭り八百八丁」は「A-1696」番、といった具合です。ひばりちゃん初の「JL」曲は上述の「上海」で、レコード番号は「JL-41」番なのです。このことからから考えますと、恐らくボビー・ノートンは、当時、日本に滞在していたアメリカ人で、何らかの機会に、日本コロムビアで「チャルメラそば屋」をレコーディングし、それが、ひばりちゃんの「洋楽」にピッタリだということで、ひばりちゃんの「洋楽第2作目」の曲として採り上げられたのではないかとリュウちゃんは推測するのです。それにしても、ひばりちゃんの謳い回しは、お見事!ですね。(37)<85番>「山葡萄実る頃」(映画「山を守る兄弟」、北上弥太郎と美空ひばり)<山葡萄実る頃>★発売日:昭和28年9月15日、★作詞:西條八十、作曲:米山正夫、★映画「山を守る兄弟」主題歌、★カラオケ:一時あり、★評点:A、<映画「山を守る兄弟」62分版>♪~あ~~~~~~甲斐は山国 笛の音がふもとにひゞく 秋祭り雲は流れる 夕日は落ちる山の葡萄も赤くなる~♪清新な抒情歌です。おそらく、この歌は、後年、美空ひばりもステージで歌うことは無く、ひばりファンにも注目されることも無く、歴史の中に埋もれてしまった「幻の名曲」なのですね。勿論、リュウちゃんも「大全集」で初めて聴いた曲です。聴いた当初の印象は薄かったのですが、何回も聴く内に、歌の良さがジワジワと胸に迫って来たのです。レーザーディスクの時代、カラオケがあり、近所のカラオケ店で一度だけ歌ってみたことがありますが、やはり胸が締め付けられるような感動を覚えたのです。リュウちゃんにとっては、「山葡萄実る頃」は、「津軽のふるさと」を上回る感動の抒情歌なのだ!(38)<88番>「可愛いティティナ」<可愛いティティナ>★発売日:昭和28年12月10日、★作詞・作曲:米山正夫、★カラオケ無し、★評点:B、このレコードは「洋楽」として、「JL-69」番というレコード番号で発売されましたが、米山正夫の作詞作曲で、ひばりちゃんのオリジナル曲なのです。タイトルの「可愛いティティナ」、はて、「ティティナ」という名前、どこから来たのだろう?昭和13年、日本でチャップリンの名作「モダン・タイムス」が公開されました。この映画の中で、チャップリンは、「ティティナ」という意味不明な歌を自らの肉声で披露しました。<チャップリン「モダン・タイムス」より、「ティティナ」>チャップリンの「ティティナ」、リュウちゃん、今の今まで、てっきりチャップリン自らが作詞作曲したオリジナル曲だと思い込んでいたのですが、実はこの曲は大正11年(1922年)、ロシア系フランス人の作曲家、レオ・ダニダーフによって作曲された「フランスの流行歌」だったのですね。この歌は「モダン・タイムス」公開以前にかなり流行したようで、日本では「羽衣(はごろも)歌子」という歌手によって、昭和6年にレコーディングされました。<羽衣歌子「ティティナ」、昭和6年発売>また、昭和28年には、生田恵子という歌手の「東京ティティナ」という、歌詞のみを替えた「ティティナ」のレコードがビクターから発売されました。(生田恵子)<生田恵子「東京ティティナ」>ひばりちゃんの「可愛いティティナ」は、オリジナルの「ティティナ」とは全く違う、米山正夫のオリジナル曲です。ちょっとロシア民謡の「カチューシャ」などを思い起こす歌ですね。(40)<89番>「ただ何となく」<ただ何となく>★発売日:昭和28年12月10日、★作詞・作曲:米山正夫、★「可愛いティティナ」のB面曲、★カラオケ無し、★評点:A、「可愛いティティナ」のB面曲です。タイトルのように、何気ない歌ですが、エレガントで、リュウちゃんにとりましては好ましい歌なのです。(41)<92番>「楽しい日曜日」<楽しい日曜日>★発売日:昭和29年1月15日、★作詞:松坂直美、作曲:万城目 正、★映画「お譲さん社長」挿入歌、★カラオケ無し、★評点:A、<映画「お譲さん社長」1時間1分バージョン>上掲の映画「お譲さん社長」の中で、映画のストーリーとは全く関係のない歌として歌われます(上掲の映画の7分40秒から歌が始まります)1番の歌詞は以下です。♪~みどりのそよ風甘く うちつれ道ゆく人の 軽い足どりも なぜかしら夢さそう 楽し日曜 嬉し日曜 さあさ行こうよランララ~ 山越え野越え~~♪昭和♪20年代、日本の公官庁や大企業では、週休1日半(半ドン)が当たり前でした。公官庁や大企業で、「完全週休2日制」が定着したのは、昭和55年以降なのです。それだけに週に一度の日曜日は、サラリーマンにとりましては、週休2日制になった現代よりも遥かに「貴重な休日」だったのですね。上掲の歌詞には、「貴重な休日」の楽しさが、よく表現されていると思います。しかし、歌詞の楽しさとは裏腹に、メロディは短調で付けられていて、何やら物悲しい感じです。「貴重な休日」の翌日には、厳しい仕事の月曜日、月曜日のことを考えると、憂鬱になる。ということを、このメロディは表現していると、リュウちゃんは思っているのです。この歌詞は、藤山一郎の「丘を越えて」を思い起こす部分があります。<藤山一郎「丘を越えて」>「丘を越えて」は底抜けに明るい歌ですが、ひばりちゃんの「楽しい日曜日」は陰影の濃い、少しメランコリックな歌です。でもリュウちゃんは、断然、「楽しい日曜日」が好きなのです!(42)<94番>「ひよどり草紙」(映画「ひよどり草紙」の中村錦之助と美空ひばり)<ひよどり草紙>★発売日:昭和29年1月20日、★作詞:西條八十、作曲:万城目 正、★映画「ひよどり草紙」主題歌、★カラオケ無し、★評点・B、<映画「ひよどり草紙」、55分バージョン>かって「東映チャンバラ映画」の若手スターとして絶大な人気を誇った中村錦之助(後の萬家錦之助)の映画デビュー作です。中村錦之助は昭和7年生まれ、ひばりちゃんより5歳年上で、映画出演時には21歳の青年でした。歌舞伎界の御曹司で、4歳から歌舞伎の舞台に立っていましたが、なにしろ四男坊だったので、当時は歌舞伎で主役級の役者になることは至難の業だったようで、人気がありながら端役に甘んじていました。そこに美空ひばりの新芸術プロダクションから映画出演のオファーを受け、歌舞伎界から映画界に転出、「ひよどり草紙」が映画出演第1昨となり、この映画は松竹で配給されました。リュウちゃんも幼い頃は中村錦之助のチャンバラ映画の大ファンだったのですが、リュウちゃんが錦ちゃんのチャンバラ映画を初めて観たのは,「ひよどり草紙」の10か月後に公開された東映の「紅孔雀(第1部)」だったのです。中村錦之助は、ずっと東映の大スターだと思っていたが、デビュー映画は松竹だったのだ!中村錦之助は、昭和29年2月10日封切りの松竹映画「ひよどり草紙」で映画デビューの後、同年3月24日封切りの新東宝映画「花吹雪御存じ七人男」に出演、その後、東映に移籍し、同年4月27日には、早くも東映デビュー作で、中村錦之助の出世作となった「笛吹童子第1部どくろの旗」に主演しています。<映画「笛吹童子完結編・満月城の凱歌」>尚、中村錦之助は、デビューした昭和29年だけで、何と!、18本もの映画に主演、一挙に人気スターになり、東映の救世主になりました。(43)<95番>「鳥笛吹けば」<鳥笛吹けば>★発売日:昭和29年1月20日、★作詞:西條八十、作曲:万城目 正、★映画「ひよどり草紙」主題歌、★カラオケ無し、★評点・S、映画「ひよどり草紙」のラストシーンで1番だけ歌われる挿入歌であり、歌の「ひよどり草紙」のB面曲です。この歌、「涙の白桔梗<46番>」に続く、リュウちゃんの最高評点の歌なのだ!この歌も、35枚組の「美空ひばり大全集で初めて聴いた歌です。以下に歌詞を全部書いてみます。♪~1、 可愛い小鳥を呼ぶように 君呼ぶ笛があったなら面影おぼろな若衆まげ 赤い灯りの江戸恋しピロローピロロー ピロロロピロロ~<(※)2、3番も繰り返し>2、 青葉若葉の峠道 しぐれに濡れる街道で鳴らせば心も泣けてくる なぜか寂しい笛の唄3、 君を思って旅をゆく わたしも小鳩 流れ鳥落葉松林を吹く風に 雪の信濃路 陽が落ちる~♪リュウちゃんがこの歌を何故、最高評点にしたのかをちょっと書いてみます。一番の理由は、歌詞の一語一語まで丁寧に歌ったアーティキュレーションの見事さです。例えば、1番の冒頭の♪~可愛い小鳥を呼ぶように~♪の「小鳥」の歌唱表現です。音譜では「小鳥」は「ラードーシ」となっていますが、「ラ」音から「ド」の音に3度高く移行する時に、ファルセット(裏声)のようにスムースに、気持ちよく移行します。次の「シ」音は、単なる「シ」音ではなく、「シドシ」と、軽い「節回し」を入れて、「小鳥」という僅か3音の「詞」を見事に表現するのです。もう一つ例を挙げます。3番の後半の♪~落葉松林を吹く風に~♪の部分です。ここの部分は音符では「シシーラシ―ドシラーシミーレーミーファラー♯ソミー」となりますが、「落葉松林を」の部分の音符「シシーラシ―ドシラーシミー」を、しかりと格調高く歌うことによって、この落葉松林の存在感がくっきりと浮かび上がります。また「吹く風に」の部分は、音符では「レーミーファラー♯ソミー」ですが、ひばりちゃんは「風に」を「ファラー♯ソラ♯ソミー」と、軽い節回しを入れることによって、臨場感あふれる「風」を見事に表現するのです。ちょっと突飛な比較になりますが、「鳥笛吹けば」のひがりちゃんの「風」は、シューベルトの名歌曲「ズライカ1」の巻き起こる東風を思い起こします。♪~Was bedeutet die Bewegung?Bringt der Ost mir frohe Kunde?~♪この風のそよぎは何を告げようとしているのでしょう?東風がうれしい便りを運んできてくれたのでしょうか?<シューベルト「ズライカ1」D,720、(歌)キャスリーン・バトル>この歌のひばりちゃんのアーティキュレーションの凄さを挙げると、きりがありませんので、この辺で止めますが、ひばりちゃんの「鳥笛吹けば」は、聴けば聴く程に歌の世界が胸に迫って来て心打たれれる名歌なのだ!と、リュウちゃんは思っているのです。皆様も騙されたと思って、この歌を歌詞を参照しながら、10回ほど聴いてみて下さい。きっと、「涙ウルウル」になること、請け合いですよ。(44)<98番>「伊豆の踊り子」<伊豆の踊子>★発売日:昭和29年3月20日、★作詞作曲:木下忠司、★映画「伊豆の踊子」主題歌、★カラオケあり、★評点:A、<映画「伊豆の踊子」、59分バージョン>映画「伊豆の踊子」はひばりちゃん初の「文芸映画」です。これまでの映画と違って、一女優として、川端康成原作の「踊り子の薫(かおる)」をシリアスに演じています。この映画の音楽を担当したのは、「二十四の瞳」、「喜びも悲しみも幾年月」なで知られる木下恵介監督の実弟で、木下監督の映画の大半の映画音楽を担当した木下忠司、「伊豆の踊子」では、映画音楽と共に、上記2曲の主題歌の作詞作曲も担当しているのです。ひばりちゃんの主題歌「伊豆の踊子」は、映画の中では、伴奏を使わずに、鼻歌という感じで朴訥に歌われます。以下に歌詞を書いてみます。♪~三宅出るとき 誰が来て泣いた 石のよな手で親様が まめに暮らせと ほろほろ泣いた 椿ほろほろ散っていた 江島生島別れていても 心逢う島(大島)燃ゆる島 おらが親様離れていても 今度逢うときゃ花も咲く~♪普段のひばりちゃんの歌謡曲とは違い、哀切極まりない民謡調の抒情的な歌曲です。リュウちゃんもこの歌はカラオケでよく歌うのですが、「♪~心逢う島(大島)燃ゆる島~♪」の部分で「涙ウルウル」になってしまうのです。(45)<99番>「いでゆの里」<いでゆの里>★発売日:昭和29年3月20日、★作詞作曲:木下忠司、★映画「伊豆の踊子」主題歌、★カラオケ無し、★評点:A、映画では、この歌のメロディが通奏低音のように常に場画れています。A面の「伊豆の踊子」よりも、もっと哀切極まりない抒情歌です。以下の歌詞により、踊り子の一行が辿った道を紹介するという趣向になっています。♪~南(みなみ)風吹きゃいで湯の里に 赤い椿の花が咲く 椿赤けりゃ桂の恋も 燃えて修善寺湯の煙 湯ケ野湯ヶ島峠の下で 逢うに逢われぬしぐれ雨 万二万三は天城の峰よ 沖の七島見てござる 天城越えれば下田ノ港 オ吉恋しと千鳥鳴く~♪松本清張の初期の傑作短編「天城越え」、この歌詞からタイトルを考えたのか?石川さゆりの「天城越え」も同じなのか?尚、この映画で主人公の「私(一高生)」を演じた石濱 朗(いしはま あきら)は、ひばりちゃんより2歳年上の2枚目俳優で、「ひばりの初恋の人」なのです。結婚寸前までいった仲だったようですが、結局は失恋に終わったようです。(石濱 朗)(46)<104番>「ひばりのマドロスさん」<ひばりのマドロスさん>★発売日:昭和29年5月15日、★作詞:石本美由紀、作曲:上原げんと、★カラオケあり、★評点:A(47)<105番>「さよなら波止場」<さよなら波止場>★発売日:昭和29年5月15日、★作詞:石本美由紀、作曲:上原げんと、★「ひばりのマドロスさん」のB面曲、★カラオケ無し、評点;特A、ひばりちゃん初の「マドロス歌謡」です。「マドロス」とは、オランダ語で「船乗り」のことで、「マドロスさん」とは「船乗りさん」という意味になります。またマドロスさんとは「外国航路の船乗りさん」で、決して「国内航路の船乗りさん」ではないようです。「マドロス歌謡」というジャンルは、リュウちゃんが俄か調べした限りでは、昭和14年発売の<岡 晴夫「港シャンソン」>が「最初のものではないかと思われます。<岡 晴夫「港シャンソン」>(マドロス姿の岡 晴夫)考えてみますと、戦前には外国航路の船乗りさんと云えば、軍艦に乗り込む海軍の水兵さんが殆どという時代で、客船などは殆ど運航していない時代でしたので、歌謡曲でも「マドロスもの」は一つのジャンルとして成立しえない時代だったのですね。戦後、マドロス歌謡は、やはり岡 晴夫の「憧れのハワイ航路」で一挙に花が開きました。以下に、戦後の「マドロス歌謡」を幾つか挙げてみます。岡 晴夫「雨の波止場」、「マドロスの唄」、「憧れのブルーハワイ」、小畑 実:「アメリカ通いの白い船」、「船乗りシャンソン」、田端義夫:「ロマンス航路」、「肩で風きるマドロスさん」、藤島 桓夫「初めて来た港」、「帰りの港」、、、、以上挙げた歌は、皆、男性歌手による「男歌」です。でも、ひばりちゃんの「マドロス歌謡」は、女性が憧れる「素敵な男性のマドロスさん」という視点で歌詞が書かれています。以下にひばりちゃんの「マドロス歌謡」を、出来るだけ挙げてみます。「ひばりのマドロスさん<104番>」、「さよなら波止場<105番>」、「あの日の船はもう来ない<132番>」、「君はマドロス海つばめ<178番>」、「港は別れてゆくところ<179番>」、「波止場だよお父つぁん<186番>」、「港町十三番地<195番>」、「浜っ子マドロス<198番>」、「波止場小僧<202番>」、「青い海原<206番>」、「港町さようなら<208番>」、「ご機嫌ようマドロスさん<220番>」、「パパの故郷<221番>」、「三味線マドロス<222番>」、「白いランチで十四ノット<234番>」、「若い海若い船<<252番>」、「波止場へ行こうよ<253番>」、「初恋マドロス<278番>」、「哀愁波止場<280番>」、「ひばりの船長さん<281番>」、「鼻歌マドロス<293番>」、「小さな波止場町<294番>」、「波止場の道を歩こうよ<331番>」、「こよい港に降る雨は<332番>」「お久しぶりねマドロスさん<345番>」、「港は心のふるさと<346番>」、フ~、26曲もあった!リュウちゃんはカラオケでひばりちゃんの「マドロスもの」をまとめて歌う時には、必ず「ひばりのマドロスさん」から歌い始めます。上原げんとの軽快なメロディ海の匂いが濃厚なマドロス歌謡、ひばりちゃんの歌は、益々、冴え渡るのだ!
2022年02月20日
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ひばりちゃんの代表作の一つ、「お祭りマンボ」は15歳の時の歌唱だったのだ!(15歳のひばり、お祭りマンボ)(まえがき)今回はひばりちゃん15歳の時の歌を採り上げてみます。15歳の時の歌は、昭和27年5月29日から昭和28年5月28日の間に発売された歌です。楽曲としましては、昭和27年7月1日発売の「悲しき小鳩」<51番>」から、昭和218年5月25日発売の「パパは話がわかる」<77番>の26曲です。ひばりちゃんは、昭和28年3月に精華学園女子中学校を卒業、同年4月に精華学園女子高等学校に入学しました。「精華学園」(現在の「東海大学付属市原望洋高等学校」)は当時、西新宿にあり、現在の「堀越学園」のように、芸能人を多く受け入れていました。精華学園のひばりちゃんの後輩には、吉永小百合、星由里子、小川知子、和泉雅子、中尾ミエなどがいます。上記の芸能人のなかで、吉永小百合についてちょっと触れてみます。吉永小百合は、昭和35年、都立駒場高校に入学しましたが、芸能活動が多忙になったため、昭和36年に精華学園に転入学しました。しかし、精華学園でも芸能活動が超多忙となったため、やむを得ず精華学園を中途退学しました。この時点で、吉永小百合の学歴は「中卒」ということになりますが、彼女は昭和40年に「大学入学資格検定(大検)」を受験しました。「大検」には不合格だったようですが、早稲田大学が彼女の学力を「高卒」と同等以上と認定したため、昭和40年4月、「早稲田大学第二文学部西洋史学専修」に入学しました。(吉永小百合)ひばりちゃん、横浜に家があったのに、何故、新宿にあった精華学園に通ったのか?ちょっと不思議ですが、リュウちゃんの推測では、当時の精華学園はおそらく、殆ど出席しなくても、定期的にレポートを提出すれば卒業出来た、通信制高校のようなものだったのではないでしょうか?通学に拘った小百合ちゃんは退学しましたが、通学に拘らなかったひばりちゃんは、卒業出来た、という事ではないかとリュウちゃんは想像するのです。またまた「前置き」が長くなってしまいました。ここから、楽曲に入ります。(22)<51番>「悲しき小鳩」<悲しき小鳩>⤴ここをクリック、以下同じ★発売日:昭和27年7月1日(15歳)、作詞:西條八十、作曲:万城目正、★映画「ひばりのサーカス・悲しき小鳩」主題歌、★カラオケ無し、評点:B(23)<52番>「旅のサーカス」<旅のサーカス>★発売日:昭和27年7月1日(15歳)、作詞:西條八十、作曲:万城目正、★映画「ひばりのサーカス・悲しき小鳩」主題歌、「悲しき小鳩」のB面曲、★カラオケ無し、評点:A、<映画「ひばりのサーカス・悲しき小鳩」、34分バージョン>「悲しき小鳩」と「旅のサーカス」は、上記ポスターの映画「ひばりのサーカス・悲しき小鳩」の主題歌及び挿入歌です。(22)の「悲しき小鳩」がA面曲なのですが、リュウちゃんは断然「B面の「旅のサーカス」が「お気に入り」の歌なのです。この映画で特筆するべきことがあります。それは、サーカス団のメンバーに、佐田啓二と岸 恵子が、恋人役で共演していることです。(上記ポスターの右下に2人の姿が見られます)佐田啓二と岸 恵子=「君の名は」映画「ひばりのサーカス・悲しき小鳩」の2年後、「君の名は」で大ブレイクするのだ!(24)<53番>「お祭りマンボ」<お祭りマンボ>★発売日:昭和27年8月15日(15歳)、★作詞:原 六朗、作曲:原 六朗、★カラオケあり、評点:特A、美空ひばりに、モダンな楽曲を提供した、原 六朗のひばりちゃんの最初にして最大の大ヒット曲です。原 六朗は、服部良一の門下生で、服部から作曲およびアルト・サックスの演奏を学びました。米山正夫と同じく、大半の楽曲で作詞も担当しています。ひばりちゃんに提供した曲を以下に挙げてみます。「私のボーイフレンド」、「お祭りマンボ」、「月の幌馬車」、「チューチューマンボ」、「バラ色の船」、「バラ色の乙女たち」、「すずらん峠」、「江戸っ子マンボ」、「ふるさとの月」、「雨によせて」、「娘とリボン」、「心ブラお嬢さん」、「エスキモのー娘」、「灰色のワルツ」、「素敵なランデブー」、「誰も知らない」、「ワンワン物語」、「哀愁のサンバ」、「気まぐれ東京っ子」、「悲しい事は忘れましょう」、この歌で歌われている「お祭り」は、東京都千代田区にある「神田明神」の祭りのことで、山王祭、三社祭と並んで「江戸三大祭」の一つとされています。(神田祭り)神田祭りをテーマとしたひばりちゃんの歌は、他には19歳の時にリリースした「やくざ若衆祭り唄」<175番>があります。「お祭りマンボ」の歌詞について、ちょっと面白いことを発見!この歌詞に登場する人物は以下の3人です。1、 私、2、 隣のおじさん、3、そのまた隣のおばさん、1番の歌詞では、「隣のおじさん」の家が火事で焼けてしまうのですが、両隣の「私の家」と「おばさんの家」には類焼しなかったとは、普通では考えにくいですね。田園調布の豪邸のように、隣の家が何十メートルも離れていれば類焼は起きないでしょうが、神田の下町の家は、家と家との間隔が殆ど無く、いわば、「軒を連ねる」というイメージです。「おじさん」の家を真ん中に、私の家と「おばさんの家は、「向こう三軒両隣」の関係の筈ですね。そういう関係にある三軒であれば、おじさんの家が全焼すれば、両隣の「私の家」も、「おばさんの家も類焼は必至の筈です。♪~火事は近いよスリバンだ~♪「スリバン」とは、「擦り半鐘」の略語で、火事の時、半鐘を激しく打つことです。おじさんの家が燃えているのに、両隣の私とおばさんの家は無事???現実にはあり得ないことですね。更にもう一つ、不思議に思えることがあります。それは、おじさんの家がボーボー燃えている最中に、隣のおばさんの家に空巣が入って、おばさんのへそくりを盗むことです。火事が起きているおじさんの家には、消防車や見物人で混雑している筈です。そのような人目につく所で、空巣行為は現実的には多分、不可能でしょうね。それとも「火事場泥棒」という言葉があるように、火事のドサクサに紛れ込んで空巣に入ったのかな?ー閑話休題ー「お祭りマンボ」は、ひばりちゃんの生涯を通しても屈指の大ヒット曲になりました。まるでラップミュージックのように早口言葉で歌われる大量の歌詞は、笠置シズ子の「買物ブギー」を想起させられます。<笠置シズ子「買物ブギー」(昭和25年)>平成3年、ジャニーズ事務所のアイドルグループ「忍者」が「お祭りマンボ」の詞とメロディを大幅に改変した「お祭り忍者」を発売、改めてオリジナルの「お祭りマンボ」が「永遠の名曲」であることを思い知らされました。<「お祭り忍者」>(忍者)リュウちゃんにとりましても「お祭りマンボ」はカラオケのレパートリーの一つで、よく歌っています。昨年、後期高齢者になったリュウちゃん、何時まで「お祭りマンボ」を歌い続けることが出来るのか?「お祭りマンボ」は、アンチエイジングの試金石なのだ!(24)<55番>「こだまは歌うよ」<こだまは歌うよ>★発売日:昭和27年9月10日、★作詞・作曲:米山正夫、★映画「リンゴ園の少女」挿入歌、★カラオケ無し、評点:Bひばりちゃん初の「ヨーデルソング」です。「ヨーデル」はヨーロッパ・アルプスの牧童が、遠く離れている仲間と呼び交わすために使用された発声法で、低音域の「地声」と、高音域の「裏声(ファルセット)」が入り混じった独特の発声法です。日本のヨーデルソングとして一番有名な歌は、灰田勝彦の「アルプスの牧場」です。(灰田勝彦)<灰田勝彦「アルプスの牧場」(昭和26年)>この歌の後半、裏声で歌われる♪~レイホ― レイホ―~♪、一番高い音は、何と、上の上の「D音」!女性のソプラノの最高声域よりも3度も高いのだ!ひばりちゃんの「こだまは歌うよ」には、「アルプスの牧場」のような超高音は登場しない、普通の音域の歌なのですが、15歳という年齢に相応しい、明るく、元気な歌ですね。尚、ひばりちゃんには、もう一つ、「アルプスの娘たち」<174番>というヨーデルソングがあります。この歌も「こだまは歌うよ」と同じく、米山正夫の作詞・作曲の歌なのです。新発見!映画「リンゴ園の少女」の中で、この歌が挿入歌として使われている!(25)<59番>「二人の瞳」<二人の瞳>★発売日:昭和27年10月10日、★作詞:藤浦 洸、作曲:万城目 正、★映画「二人の瞳」主題歌、★カラオケなし、評点:B、(「二人の瞳」ポスター)(美空ひばりとマーガレット・オブライエン)<映画「二人の瞳」、9分5秒のトレーラー>昭和24年12月、ハリウッドのテクニカラー総天然色映画「若草物語」が日本で公開されました。<映画「若草物語」トレーラー>(若草物語ポスター)映画初公開当時、3歳のチビっ子だったリュウちゃんは勿論、初公開の時には、この映画は観ていないのですが、初公開から13年経った昭和36年、高校一年生の時にリバイバル上映で、故郷の伊勢市でこの映画を観たのです。4姉妹の末っ子、べスを演じたマーガレット・オブライエン、たちまちファンになってしまった!(「若草物語」のマーガレット・オブライエン)この映画では、長女メグをジャネット・リー、次女ジョーをジューン・アリソン、3女エイミーをエリザベス・テイラー、そして夭折する4女べスをマーガレット・オブライエンが演じています。(「若草物語」の4姉妹)上掲のスチル写真を見ますと、映画出演当時14歳だったマーガレット・オブライエンは、3人の姉に比べると、飛びぬけて小柄です(マーガレット・オブライエンはひばりちゃんと同い年なのです)社会人になってから、「二人の瞳」をDVDで観て、ビックリしました。マーガレット・オブライエンは、ひばりちゃんより10センチ以上も背が高い!マーガレット・オブライエンは「大女」なのだ!歌の「二人の瞳」は、ちょっとノスタルジックで、ジャジーなスローの歌だったのですが、世界的な人気子役女優との共演を果たした映画は、ひばりちゃんの数多い映画の中でも、エポックメーキングな作品になったとリュウちゃんは思っているのです。(26)<62番>「初夢道中」<初夢道中>★発売日:昭和27年12月15日、★作詞:西條八十、作曲:万城目 正、★映画「ひばり姫初夢道中」主題歌、★カラオケ無し、評点:B、<映画「ひばり姫初夢道中」、17分28秒のトレーラー>(27)<63番>「乙女旅」<乙女旅>★発売日:昭和27年12月15日、★作詞:西條八十、作曲:万城目 正、★映画「ひばり姫初夢道中」主題歌、「初夢道中」のB面曲、★カラオケ無し、評点:A、ひばりちゃん初の「道中もの」です。歌謡曲の世界では、戦前から「道中もの」は数多くのヒットソングが生まれました。「旅笠道中」、「妻恋道中」、「おしどり道中」、、、「道中もの」の中で、渡世人が旅をするという設定の歌は「股旅もの」と呼ばれ、ことらも数多くのヒットソングがあります。「赤城の子守歌」、「旅姿三人男」、「大利根月夜」、「勘太郎月夜唄」、、、、、「股旅もの」の中に「三度笠もの」があります。「三度笠」とは、竹の皮やスゲ(菅)を編んで作られた深い編み笠のことで、時代劇の渡世人の定番のスタイルです。♪~縞の合羽に三度笠~♪(橋 幸夫「月夜の渡り鳥」)(三度笠を被った渡世人)「三度笠もの」は、「三度」を略し、単に「笠もの」となるケースもあります。以下に「三度笠もの」の有名な歌を幾つか挙げてみます。「花の三度笠(小畑 実)」、「弥太郎笠(鶴田浩二)」、「潮来笠(橋 幸夫)」、「木曽ぶし三度笠(橋 幸夫)」、「てなもんや三度笠」(藤田まこと)」、ひばりちゃんの「三度笠もの」は以下の2曲です。「ひばりの三度笠<136番>」、「白い野菊と三度笠<322番>」、ひばりちゃんの「道中もの」は「初夢道中」を皮切りに、「花かるたいろは道中<125番>」、「お役者道中<128番>」、「花笠道中」<231番>」、「星空道中<262番>」、「追分道中<289番>」、「初雁道中<318番>」、と、計7曲あります。「道中もの」の最初の「初夢道中」とB面の「乙女旅」は、2曲共に「地味な歌」ですが、リュウちゃんは「乙女旅」の清潔で丁寧な歌唱に惹かれているのです。★(28)<64番>「馬っ子先生」<馬っ子先生>★発売日:昭和28年1月15日、★作詞・作曲:米山正夫、★映画「リンゴ園の少女」主題歌、★カラオケ無し、評点:A、★(29)<65番>「津軽のふるさと」<津軽のふるさと>★発売日:昭和28年1月15日、★作詞・作曲:米山正夫、★映画「リンゴ園の少女」主題歌、★カラオケあり、評点:A、<映画「リンゴ園の少女」全長版>昭和27年5月1日に発売された「リンゴ追分<49番>、「リンゴ園の少女<50番>」のカップリング盤から、約8か月後に発売された、映画「リンゴ園の少女」の主題歌第2弾です。このレコードには、2つの「謎」があります。<第一の謎>同じ「リンゴ園の少女」の主題歌なのに、何故、発売日が8か月もずれてしまったのか?この「謎」は、ひょっとすると「リンゴ追分」の大ヒットのせいなのかも知れませんね。本来なら「リンゴ追分」発売の1,2か月後に発売する予定だったのが、「リンゴ追分」の余りの大ヒットで、結局、約8か月も発売が遅れてしまった???、今やその真相は不明ですが、有り得る話だとリュウちゃんは思っています。<第2の謎><64番>の「馬っ子先生」は、「美空ひばりオフィシャルサイト」にも<映画「リンゴ園の少女」主題歌>と表記されていますが、上掲の映画「リンゴ園の少女」を始めから終わりまで全部観ても、どこにも「馬っ子先生」は出てこない!リュウちゃんが俄か推測しますと、「馬っ子先生」は、当初、映画のラスト、「リンゴ祭り」のシーンで使うつもりで作曲されたのだと思っています。♪~ハア~祭りだ祭りだ リンゴの祭りだ~♪多分、映画のラストで、「津軽のふるさと」を、しんみりと歌ったあとで、映画のラストに相応しい「音頭もの」(この歌はひばりちゃん初の「音頭もの」の歌なのです)の明るい歌で、大団円を迎える予定で作曲されたのだと思いますが、結局、映画のラストでひばりちゃんが歌った唄は、ジャズ風にアレンジされた「リンゴ追分」だったのです。という訳で、「馬っ子先生」は幻(まぼろし)の主題歌となってしまいました。「馬っ子先生」は、昭和30年の、桃太郎をひばりちゃんが演じたミュージカル映画「宝島遠征」で、「桃の祭り」と歌詞を変えて歌われ、昭和31年に発売されたのです。<「桃の祭り」<173番>♪~ハア~ 祭りだ祭りだ 桃の祭りだ~♪「津軽のふるさと」は、端正な歌曲風の歌です。この歌は発売当初はB面曲で、発売以来、ずっと「日陰の存在」だったのですが、ひばりが晩年、この歌をよく歌うようになり、「平成の名曲」としてファンに知られるようになりました。以下の動画は、昭和59年に「ミュージック・フェア84」で、ひばり本人が歌った「津軽のふるさと」です。<「津軽のふるさと」:美空ひばり47歳の歌唱>上掲の歌唱は、15歳の時のオリジナルの歌唱よりも、5度くらい音程を下げて歌っています。なので、オリジナル歌唱にはあったひばりちゃん独特の「ファルセット(裏声)の魅力」が全く発揮されていません。大方のひばりファンの皆様は、こちらの歌唱のほうが馴染み深いと思われますが、リュウちゃんは、「ファルセットの魅力」が充分に発揮されたオリジナルの歌唱が断然好きなのです。A面の「馬っ子先生」とB面の「津軽のふるさと」は、共に昭和27年10月18日にレコーディングされました。改めて驚かせるのは、性格の全く違った両曲の「見事な歌い分け」です。「馬っ子先生」は12歳くらいの無邪気な歌唱、「津軽のふるさと」は20歳くらいの端正な歌唱、同じ日に録音されたとは思えない「見事な歌い分け」、やはりひばりちゃんは天才だったのだ!★(30)<66番>「チューチューマンボ」<チューチューマンボ>★発売日:昭和28年2月15日、★作詞・作曲:原 六郎、★カラオケあり、★評点:A、「お祭りマンボ」に続く原 六郎の、「ひばりマンボシリーズ」第2弾です。♪~暗い夜更けの屋根裏で 親にはぐれた子ねずみが ひとりぼっちで淋しくて 猫がこわいと泣いている チュ チュ 悲しそに チュ チュ 泣いている~♪ちょっとイソップ童話の「田舎のネズミと町のネズミ」を連想する歌詞ですね。(田舎のネズミと町のネズミ)この歌、当時、あまりヒットしたとは思われないのですが、何故か通信カラオケがあり、リュウちゃんも、カラオケ店でよく歌います。全体的には「悲しい歌」なのですが、「チュ チュ」というネズミの鳴き声を歯切れ良く歌うと、歌の良さが伝わるのです。この歌のタイトル、「チューチューマンボ」ではなく「チュ チュマンボ」のほうが良さそうだ。★(31)<70番>「春のサンバ」<春のサンバ>★発売日:昭和28年3月5日、★作詞:藤浦 洸、作曲:万城目 正、★映画「姉妹(きょうだい)」主題歌、★カラオケなし、評点:B、(※)映画「姉妹」では他に「歌がはづめば」<68番>」、「乙女ごころの唄<69番>」、「私はシンデレラ<71番>」が挿入歌として使われています。<映画「姉妹」、30分バージョン>ひばりちゃんの最初で最後の「サンバ」の歌です。1番の歌詞は以下です。♪~ほら ほら 釣鐘草が 土から首を出したよ もうすぐ春がそこに来ている 楽しい春が来ている ほら ほら 釣鐘草が にっこり花を咲かせた~♪早いテンポと上下動の激しいメロディの歌を15歳のひばりちゃんは楽々と歌いこなしています。日本の歌謡界でも、多分、サンバはこの歌が最初の楽曲だったと思われますが、ポップスの時代に入ってからは、「白い蝶のサンバ」(森山加代子:昭和45年)、「てんとう虫のサンバ」(チェリッシュ:昭和48年)、「お嫁サンバ」(郷ひろみ:昭和56年)、「マツケンサンバ」(松平 健:平成4年)などにヒット作が登場しました。★(32)<72番>「流れのギター姉妹」<流れのギター姉妹>★発売日:昭和27年11月28日、★作詞:藤浦 洸、作曲:上原げんと、★カラオケあり、★評点:A、♪~姉が奏でるギターの弦(いと)の 弦音(ねおと)悲しや 夜の街 ゆれる心の光の陰に あけて十六 妹の心~♪昭和13年、北海道の炭鉱町で生まれた双子の姉妹(姉:並木栄子、妹:並木葉子)は、昭和26年に上京し、山谷の木賃宿に住み、三味線を持って浅草の繁華街を流すようになります。昭和34年、コロムビアレコードに入社、「こまどり姉妹」の芸名で「浅草姉妹」という曲でデビューを果たします。(こまどり姉妹)ひばりちゃんの「流れのギター姉妹」は、まるで「こまどり姉妹」の苦闘時代を歌にしたような錯覚を覚える歌です。「こまどり姉妹」の並木栄子・葉子はひばりちゃんと同学年で、浅草で流しを始めたのは、15歳の時でした。♪~あけて十六~♪ひばりちゃんも「こまどり姉妹」も、正に「明けて十六歳」だったのだ!この歌は、ひばりちゃん初めての「ギター演歌」です。あまりヒットはしなかったようですが、何故かカラオケがあり、リュウちゃんもよくカラオケで歌います。歌いながら、「こまどり姉妹」の苦闘時代をい想像し、「あけて十六」のところで、「涙ウルウル」になるのです。★(33)<74番>「バラ色の乙女たち」<バラ色の乙女たち>★発売日:昭和28年2月9日、★作詞:藤浦 洸、作曲:原 六郎、★ラジオ東京連続放送劇「ひばりアワー・バラ色の乙女たち」主題歌、★カラオケなし、★評点:B、ミディアムテンポの、穏やかな青春の歌です。♪~都の空のたそがれに バラ色染める乙女雲 風よ風よ吹かないで 夢よ夢よ散らないで 流れて遠い果てまでも~♪この歌、リュウちゃんは、「美空ひばり大全集(CD135枚組)」で初めて聴いた歌だったのですが、リュウちゃんより少し年上のひばりファン2人のオバサマから、「バラ色の乙女たち」って、いい歌ね、と聞いたことがあります。一人は東京のオバサマ、もう一人は奈良のオバサマ、2人のオバサマは面識がありません。後年、ひばりが歌ったこともなく、カラオケにも入っていないこの歌、何故、知っているのだ?と、リュウちゃんは長年、訝しく思っていたのですが、今回、この歌がラジオ東京の連続放送劇「ひばりアワー・バラ色の乙女たち」主題歌だったことを知って、上記2人のオバサマの発言が腑に落ちたのです。2人のオバサマは、「ひばりアワー・バラ色の乙女たち」のリスナーだったのだ!?
2022年02月04日
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ひばりちゃんは、中学3年生進学時点で、44曲の「持ち歌」があった!「その1」に続く、第2弾です、今回は、ひばりちゃん13歳(中学1年生)から、14歳(中学3年生)の歌を採り上げます。具体的な歌の紹介に入る前に、「前書き」としまして、今回のブログの「ルール」について書いてみます。<前書き>★美空ひばりの誕生日は、昭和12年(1937年)5月29日です。「データ」の「年齢」は、この誕生日から起算しています。本ブログでは、ひばりちゃん13歳から14歳の歌を採り上げます。年齢・学年は、録音日ではなく、レコード発売日の日付けと致します。ここで言う「13歳」とは、レコードが昭和25年5月29日~昭和26年5月28日の間に発売された歌ということです。同じく、「14歳」とは、昭和26年5月29日~昭和27年5月28日の間にレコードが発売された歌ということになります。★美空ひばりは昭和25年(1950年)3月22日に滝頭小学校を卒業、同年4月1日に「精華学園中学校」に入学しています。本ブログの「中学校1年生」とは、昭和25年4月1日~昭和26年3月31日の間に発売された歌、「中学2年生」とは、昭和26年4月1日~昭和27年3月31日の間に発売された歌、「中学3年生」とは、昭和27年4月1日~昭和28年3月31日の間に発売された歌ということになります。年齢と学年とは、ズレがあり、ややこしいのですが、以上のようなルールで「データ」を表記して行きます。★前回と同様に、採り上げる歌に「曲番」を付けます。この「曲番」は、平成元年8月21日に発売された35枚組・517曲のひばりのオリジナル曲のコンプリートCD「今日の我に明日は勝つ/美空ひばり大全集~さようなら、そしてありがとう・・・~」の曲順に準拠しています。デビュー曲「河童ブギウギ」が「1番」、ラストの「川の流れのように」が「517番」という次第です。★美空ひばりは、日本映画データベースによりますと、生涯に166本の映画に出演しています。特に初期の歌の殆どは、映画の主題歌や挿入歌としてリリースされています。また、初期のモノクロ映画の殆どは、無料視聴の出来る全長版がYou-Tubeにアップされています。今回からは、全長版がアップされている映画作品につきましては、なるべく本ブログに貼り付ける予定です。それが煩わしいとお思いになる方は、その部分をスルーしてブログをご覧下さいね。★前回のブログと同じように、リュウちゃん独断の「評点」を入れます。この「評点」は、「S・特A・A・B」の四段階になっています。「S評点」:このCDアルバムで初めて聴いて、大感激した歌、「特A評点」:以前から知っていた歌の中で、特に「名曲」だと思った歌。また、このCDアルバムで初めて知った歌で、S評点まではいかないが、「名曲」だと思った歌。「A評点」:このCDアルバムで初めて聴いた歌と、以前から知っていた歌で、「名曲」とは言えないものの、「いい曲」だと思った歌。「B評点」:S・A評価以外の歌、(※)この「評点」は、一般的に認知されている評価ではなく、あくまでもリュウちゃんの独善的な「評価」だということを最初に御断りしておきます。尚、「カラオケあり」と表示した歌は、現在、第一興商の15万曲レベルの通信カラオケに入っている楽曲です。因みに、リュウちゃんは、ひばりの十代の「カラオケあり」の歌は、全てレパートリー曲なのです。またまた「前置き」が長くなってしまいました。ここから、楽曲に入ります。(8)<18番>「私は街の子」↑ここをクリック(以下同様)(データ)★発売日:昭和26年2月20日(ひばり13歳、中学1年生)、★作詞:藤浦 洸、作曲:上原げんと、★映画「父恋し」主題歌、★カラオケあり。リュウちゃんの評点:B、「ひばりのマドロスさん」(104番)や「港町十三番地」(194番)などで、「ひばりのマドロス物」というジャンルを創り出した作曲家「上原げんと」の初めてのひばり作品です。上原げんとがひばりちゃんに提供した歌を数え上げてみましたところ、「44曲」ありました!この歌もリュウちゃんは子供の頃、ラジオを聴いて自然に覚えました。但し、歌詞の冒頭、「♪~私は街の子 巷の子~♪」の「巷(ちまた)」という言葉が分からず、幼いリュウちゃんは、「♪~私は街の子 田舎の子~♪」と歌ったのでした(苦笑)以下に、映画「父恋し」の「私は街の子」を歌うシーンのYou-Tubeを貼り付けます。<映画「父恋し」~「私は街の子」>(9)<19番>「ひばりの花売娘」(ひばりの花売り娘」復刻盤ジャケット)(データ)★発売日:昭和26年2月20日(ひばり13歳)、★作詞:藤浦 洸、作曲:上原げんと、★映画「父恋し」主題歌(「私は街の子」のB面曲)、★カラオケあり、★評点:A、「私は街の子」のB面曲として発売、この歌も子供の頃、ラジオで聴いて自然に覚えたのです。リュウちゃんは「私は街の子」よりも断然、この歌が「お気に入り」で、今でもカラオケでよく歌います。作曲の上原げんとは、岡 晴夫の為に「上海の花売娘」、「広東の花売娘」、そしてリュウちゃんの生まれた昭和21年には「東京の花売娘」を作曲しました。いわば、「花売娘」というジャンルの専門家なのです。<岡 晴夫「東京の花売娘」>岡 晴夫の「花売娘」の歌は、現在のリュウちゃんの耳には、古色蒼然の感がしますが、ひばりちゃんの「花売娘」は、現在でも全然色褪せず、常に新鮮なのです。この歌も映画「父恋し」の主題歌とオフィシャル・クレジットされていますが、映画を観ました限りでは、どこにもこの歌は出て来ません。<映画「父恋し」全長版(66分)>13歳当時のひばりが、「花売娘」を歌っている映像を発見!<ひばりの花売娘>この映像、「映画」の一部の筈ですが、「父恋し」の前後の出演映画を調べても、該当する作品が見当たらない!???しかも、メロディが2カ所、レコードと違っている!???これはリュウちゃんにとりましては「謎」です。上記の映像のタイトルがお判りになる方がいらっしゃいましたら、教えていただければ幸いなのです。(10)<21番>「泥んこブギ」(データ)★発売日:昭和26年4月25日(13歳、中学2年生)、作詞:藤浦 洸、作曲:万城目正、★映画「泣きぬれた人形」主題歌、★カラオケあり、評点:A、ひばりちゃんの4曲目のブギウギ・ソングです。これまでの3曲は長調の軽快なテンポの歌だったのですが、「泥んこブギ」は短調で作曲されていて、ちょっと重量感のある歌になっています。この歌、リュウちゃんは幼い頃に聴いた記憶はありません。平成元年に購入した35枚組のCDで初めて聴いて、気に入った歌なのです。今ではリュウちゃんがカラオケで「美空ひばり特集」をやる時には、最初にこの歌を歌うことにしています。ひばりファンでも殆ど知らないこの歌を最初に歌うことにより、聞く人のド肝を抜く!これがリュウちゃんの作戦なのです(苦笑)この歌は昭和26年5月に公開された映画「泣きぬれた人形」の主題歌です。以下に、「泥んこブギ」を歌っているシーンのYou-Tubeを貼り付けます。<映画「泣きぬれた人形」より、「泥んこブギ」>更に、映画「泣きぬれた人形」の全長版のYou-Tubeを以下に貼り付けます。<映画「泣きぬれた人形」全長版>下の写真は、映画「泣きぬれた人形」のスチル写真です。ひばりちゃんの右側の清楚な美人、誰なのだ!???その人の名は、、、桂木洋子(様)です。桂木洋子は、昭和5年生まれ、美空ひばりよりも7歳年上の清純派女優です。ひばりとの共演は、「泣きぬれた人形」を始め、「陽気な渡り鳥」、「牛若丸」、「青春ロマンスシート・青草に座す」と、4作品があります。よし、桂木洋子を観るために「泣きぬれた人形」の全長版を観て見よう(苦笑)(11)<23番>「角兵衛獅子の唄」(データ)★発売日:昭和26年5月19日(13歳)、★作詞:西條八十、作曲:万城目正、★映画「鞍馬天狗・角兵衛獅子」主題歌、★カラオケあり、評点:B、<17番>の「越後獅子の唄」に続く、ひばりちゃんの角兵衛獅子ソングの第2弾です。この歌も「越後獅子の唄」と同じく、作詞:西條八十、作曲:万城目 正のコンビの歌です。今回は、嵐 寛壽郎(あらし かんじゅうろう)の当たり役、映画「鞍馬天狗」で、鞍馬天狗を慕う角兵衛獅子の少年「杉作」をひばりちゃんが演じ、「杉作の歌」として、この歌が歌われているのです。<映画「鞍馬天狗・角兵衛獅子」、23分バージョン>嵐 寛壽郎(アラカン)は、生涯に46本の鞍馬天狗の映画を作りました。渥美清の「寅さんシリーズ」に次ぐ長寿シリーズだったのですね。アラカンが「鞍馬天狗」を引き受けた理由の一つとして、、杉作という子供のキャラクターを挙げ、「昔から、子供の出る芝居は必ず当たるんですね、、、」と語っています。「鞍馬天狗」における杉作少年は、それほど重要な役柄なので、46本の「鞍馬天狗」の映画には、必ず杉作少年が登場します。ひばりちゃんは、46本中、3本で杉作少年を演じたのでした。リュウちゃんがカラオケで、「越後獅子の唄」を歌う時には、必ず「角兵衛獅子の他」と、後述の「旅の角兵衛獅子」の3曲をセットで歌います。「越後獅子の唄」は誰でも知っているのですが、他の2曲は殆ど誰も知らない、これも「泥んこブギ」と同じように。聞く人のド肝を抜くリュウちゃんの作戦なのです(苦笑)(12)<32番>「父恋し母恋し」(データ)★発売日:昭和26年8月15日(14歳)、★作詞:藤浦 洸、作曲:万城目正、★映画「ひばりの子守唄」主題歌、カラオケ無し、評点:特A、この歌は35枚組のCDで初めて聴いた歌です。歌い出しの「♪~夜の荒野に鳴く雉の~♪」のメロディは「ミーミーミードシラ―シ―ラシファミレーファーミー」と、「ヨナ抜き」ならぬ、「ヨナ中心」の奇妙な感じになっていて、最初はあまり馴染めなかったのですが、聴くほどに「いい歌だなぁ~」と思うようになりました。特に歌詞後半の「♪~ああ 父恋し母恋し~♪」の「ミーミーードドシラ―ミ―ラソファミーミー」の「ラソファミーミー(母恋し)」の部分にシビれてしまったのです。カラオケで唄って見たい!この歌は、映画「ひばりの子守唄」の主題歌です。映画「ひばりの子守唄」はドイツの作家・エーリッヒ・ケストナーの「二人のロッテ」の翻案で、ひばりちゃんは、「すみれ」と「ひばり」の「一人二役」を演じています。「子守唄」というタイトルから受ける感じと違い、明るい映画になっているのです。<映画「ひばりの子守唄」、46分バージョン>(13)<35番>「あの丘越えて」(データ)★発売日:昭和26年9月15日(14歳)、★詞:菊田一夫、曲:万城目正、★映画「あの丘越えて」主題歌、カラオケあり、評点:A、この歌も少年時代に自然と覚えた歌です。短調で作曲された明るい曲、歌詞の最後「ヤッホー ヤッホー」の部分も、「ラミー ドラ―」と短調になっています。ひばりちゃんの少女期を代表する歌の一つで、後年、「演歌の女王」とよばれるようになってからも、よくコンサートなどで歌っていました。以下の写真は、映画「あの丘越えて」のポスターとスチルです。(映画「あの丘越えて」:鶴田浩二と美空ひばり)ひばりちゃんはこの映画で、当時、人気絶頂だった鶴田浩二と初めて共演、以後、鶴田のことを、「お兄ちゃん」と呼んで慕うようになりました。多分、ひばりちゃんの「初恋」だったのかも知れませんね。この時、鶴田浩二は27歳、ひばりちゃんより13歳年上だったのです。映画の学生服姿はちょっと無理があったとリュウちゃんは思っているのです。<映画「あの丘越えて」(全長版)>(14)<38番>「陽気な渡り鳥」(データ)★発売日:昭和26年12月25日(14歳)、★作詞:和田隆夫、曲:万城目正、★映画「陽気な渡り鳥」主題歌、カラオケあり、評点:A、この歌も35枚組のCDで初めて知った歌です。歌い出しの「♪~旅のつばくろ わびしじゃないか~♪」は、松平晃の「サーカスの唄」の「♪~旅のつばくろ 寂しかないか~♪」(詞:西條八十)とほぼ居同じです。で、リュウちゃんはこの歌を「ひばりちゃんのサーカスの唄」だと、ずっと思っていたのですが、「サーカス」ではなく、「女剣劇一座」だったということを、つい最近知りました。下記は「陽気な渡り鳥」の映画のポスターです。上掲のポスターで、一番写真は大きいのは、女奇術師を演じた淡島千景です。淡島千景は、宝塚のトップスターであり、この頃は映画女優としてもトップの地位を築きつつあった時代なのです。この映画出演時には芳紀27歳(鶴田浩二と同い年)、美しかったのですね。ポスターの一番左側は、「泣きぬれた人形」で共演した桂木洋子、今回は保育園の先生の役柄なので、ちょっと地味な役柄でした。<映画「陽気な渡り鳥」、前編><映画「陽気な渡り鳥」、後編>この映画のラストで、ひばりちゃんは。「アナタハン島」から生還した実の父親と巡り逢い、ハッピーエンドになります。「アナタハン島」、変な名前の島ですが、マリアナ諸島にある実在する火山島です。昭和25年頃、「アナタハン島女王事件」という猟奇的な事件が世間を賑わせましたが、この映画も、事件を反映しているのかも知れませんね。(15)<40番>「ピアノとヴァイオリン」(データ)★発売日:昭和27年2月15日(14歳)、作詞:米山正夫、作曲:米山正夫、★カラオケ無し、評点:特B、(米山正夫作詞作曲第1作)、スイング・ジャズのモダンな曲です。途中、「もしもし亀よ~」や「お手手つないで~」や、「ひばりの花売り娘」のメロディが伴奏される遊び心タップリな曲です。ひばりちゃんのリズム感も素晴らしい!この歌は、後にひばりちゃんの最重要作曲家の一人になる米山正夫の「ひばりデビュー曲」です。彼はひばりちゃんに、「リンゴ追分」、「津軽のふるさと」、「日和下駄」、「長崎の蝶々さん」、「花笠道中」、「大川ながし」、「車屋さん」、「関東春雨傘」など、計83曲の楽曲を提供しました。この曲数は、万城目 正に次いで「第2位」なのです。その多くは「作詞・作曲:米山正夫」なのです。<米山正夫について>米山正夫(1912年~1985年)は、太平洋戦争中の昭和17年に、高峰秀子の歌唱で「森の水車」を発売しましたが、アメリカ的な「敵性音楽」であるとして、発売僅か4日で、発売禁止になってしまいました。<高峰秀子「森の水車」>この歌、今でも少しも色褪せない永遠の愛唱曲ですね。リュウちゃんが地元で指導している「歌声クラブ」でも、人気曲の一つとして、よく歌っているのです(昭和26年に並木路子がリリースしたレコードは大ヒットしました)<並木路子「森の水車」>戦後には、ひばりちゃんに提供した楽曲の他に、近江俊郎の「山小屋の灯」、「南の薔薇」、美樹克彦の「花はおそかった」、水前寺清子の「三百六十五歩のマーチ」、美川憲一の「おんなの朝」など、モダンな歌を数多く残したのです。(16)<42番>「いで湯の灯」(データ)★発売日:昭和27年3月10日(14歳)、★作詞:西條八十、作曲:上原げんと、★カラオケ無し、評点:A、詞のニュアンスが、近江俊郎の大ヒット曲「湯の町エレジー」に似た歌です。三味線の伴奏による、細い単純な旋律線の歌で、ひばりちゃんはその旋律を普通になぞっているだけなのですが、聴けば聴くほど、哀感が胸に迫って来る稀有な歌だとリュウちゃんは思っているのです。(17)<43番>「旅の角兵衛獅子」(データ)★発売日:昭和27年3月20日(14歳)、★作詞:西條八十、作曲:万城目正、★映画「鞍馬天狗・天狗廻状」主題歌、カラオケあり、評点:B、この歌は「越後獅子の唄」、「角兵衛獅子の唄」と併せ、「角兵衛獅子3部作」の最後の歌です。3部作の中では一番地味な歌で、殆どカラオケで歌う人はいないのですが、リュウちゃんは3部作を纏めて歌うことにしています。(18)<45番>「牛若丸」★発売日:昭和27年4月20日(14歳、中学3年)、★作詞:西條八十、作曲:上原げんと、★映画「牛若丸」主題歌、★カラオケ無し、評点:B、映画「牛若丸」の主題歌です。この映画でひばりちゃんは「牛若丸」と、牛若丸を慕う娘・「桔梗」の1人2役を演じました。牛若丸の物語は、唱歌「牛若丸」の歌詞、「♪~京の五條の橋の上 大の男の弁慶は~♪」とある武蔵坊弁慶の存在も含め、殆どが実証されない伝説に過ぎないのですが、この映画に登場する「桔梗」は、どうやらこの映画のために新しく創られたキャラクターのようです。(19)<46番>「涙の白桔梗」★発売日:昭和27年4月20日(14歳、中学3年)、★作詞:西條八十、作曲:上原げんと、★映画「牛若丸」主題歌(<45番>「牛若丸」のB面曲)、★カラオケ無し、評点:S、初めての「評点:S」の歌です!この歌も、前述の「父恋し母恋し」と同じように、35枚組のCDで初めて聴いた当初は、「ちょっと奇妙な歌」だと思ったのですが、聴けば聴くほど、「素晴らしい歌だ!」と思うようになりました。以下にこの歌の歌詞を書いてみます(詞:西條八十)♪~1、小袖かざせば都が見える 青い賀茂川 青柳葵祭の笛の音きけば 一度行きたや牛若様と私は鞍馬の白桔梗2、幼馴染の牛若様は なんでお泣きゃる日の暮れに母が恋しとあなたが泣けば もらい泣きするみ山の雨よ私も淋しい白桔梗3、好きなあなたの身代わりならば なんで惜しもうこの命山の小鳥よおさらばさらば にっこり笑って散り行く花の私は乙女の白桔梗~♪この歌でリュウちゃんが特に「涙ウルウル」になるのは、2番の最初に部分です。「♪~幼馴染の牛若様は~♪」、ここの「牛若様は~」のひばりちゃんのフレージングとアーティキュレーション、正に牛若丸を恋い慕う「桔梗」その人になり切っているように感じられます。ひばりちゃんの歌唱は、完全に詞と歌そのものの世界に同化している。歌と歌唱の間に隙間が無い!正に、天才のみが為し得る絶唱なのだ!(美空ひばりの「桔梗」)以下はこの映画のトレーラーです。ありゃ? 何故かこの映画の牛若丸は白いマスクをしている??こんなマスク、平安時代にあったのかな???<映画「牛若丸」トレーラー> (20)<49番>「リンゴ追分」★発売日:昭和27年5月1日(14歳)、★作詞:小沢不二夫、作曲:米山正夫、★映画「リンゴ園の少女」主題歌、★カラオケあり、評点:特A、美空ひばりファンなら誰でも知っている初期の代表曲の一つです。勿論、リュウちゃんも子供の頃に自然と覚えた歌なのです。但し、カラオケで歌ったのは、ひばりが亡くなった前日の平成元年5月23日の夜が初めてだったのです。この歌の中間部に出てくる台詞を上手く語ることが出来ず、これまで歌うことを敬遠していたのですが、ひばりの死ぬ前日に歌って見ようと思ったのは「虫が知らせた」のかも知れませんね(でも、あの台詞は、いつになっても上手く語れないのです)美空ひばりは、カラーテレビの時代になった「晩年」にも、この歌をよく歌っていましたね。多くのひばりファンは、この「晩年」の歌唱のほうが印象に残っているのではないでしょうか。<美空ひばり48歳の時の「リンゴ追分」>でも、「晩年」のひばりの「リンゴ追分」は、オリジナルに比べ、5度くらい音程が下がっています。カラオケのキー・コントロールでいえば「5つ下げて」歌っているのです。で、リュウちゃんは断然「5つ上げた」オリジナルの歌唱が好きなのです。<「追分」とは?>ところで、「リンゴ追分」の「追分」とは、何のことなのでしょうか?「追分」のウィキペディアには、<「道が二つに分かれる場所」のことで、甲州街道と青梅街道の分岐である新宿追分や、中山道と北国街道の分岐である信濃追分など、各地に地名として残っている。また、そこから派生して、こうした地名を冠した日本の民謡の一種(追分節)の略称として用いられることもある>とあります。また、「追分節」のウィキペディアには、以下のように書かれています。<日本の民謡には、「○○追分」(○○は地名)という曲が各地にあり、その多くは朗々と声を響かせてうたう歌である。著名なものに「江差追分」などがある。もともとは信濃追分(現在の長野県北佐久郡軽井沢町)付近で歌われていた馬子唄(小諸馬子唄)が、関東以北の各地を中心に広がったとされている。追分の音楽的特徴として、• はっきりした・明確な拍節を持っていない(調子よくパンパンと手拍子を打てない)• 音域が広い(高い声から低い声まで出さなければいけない歌が多い)• 母音を伸ばす(一音多声型。歌詞等の一文字を長く伸ばす場合が多い。西洋音楽のメリスマ参照)などが挙げられる。この為、難しい方に入る。小泉文夫は日本音楽のこのような形式に注目し「追分形式」と呼んだ。追分形式と対照的なのが拍節感のはっきりした「八木節形式」(一音一声型、シラブル型)である>以上、ややこしい記述になってしまいましたが、「リンゴ追分」の「追分」は、♪~月夜に~月夜に~そっと~えええええええ~ええええええええ~えええ~え~え~え~えええええ~♪と、「え~」の一音をメロディを代えながら長く伸ばして歌う部分を指す言葉なのですね。ひばりちゃんの「追分」の歌は他に、「かもめ白波」<180番>、「おかる道ゆき」<227番>、「大川ながし」<250番>、「ギター追分」<308番>、「ひばりの佐渡情話」<314番>などがあります。<映画「リンゴ園の少女」前編><映画「リンゴ園の少女」後編>(21)<50番>「リンゴ園の少女」★発売日:昭和27年5月1日(14歳)、★作詞:藤浦 洸、作曲:米山正夫、★映画「リンゴ園の少女」主題歌、「リンゴ追分」のB面曲、★カラオケ無し、評点:B、映画「リンゴ園の少女」の主題歌です。挿入歌の「リンゴ追分」が追分節を使った日本調の歌だったのですが、こちらは軽く爽やかなポップスソングですね。ひばりちゃん14歳の時には、映画<「鞍馬天狗 角兵衛獅子」、「母を慕いて」、「ひばりの子守唄」「鞍馬天狗 鞍馬の火祭り」、「あの丘越えて」、「陽気な渡り鳥」、「鞍馬天狗 天狗廻状」>の7本が公開、歌は、<23番>の「角兵衛獅子の唄」から<50番>の「リンゴ園の少女」まで、計28曲をリリースしました。14歳時の1年間で、映画7本、歌28曲!美空ひばりは僅か14歳で、トップスターに躍り出たのだ!(以下、<「美空ひばりの517曲」その3>に続きます)
2021年05月16日
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美空ひばりの歌こそは懐メロリュウちゃんの原点であり、終着点なのだ!<プロローグ>リュウちゃんは昭和21年6月生まれ、今年の6月で75歳の後期高齢者になります。美空ひばりの歌は幼い頃、当時住んでいた田舎の集落でも、ラジオ放送でよく流れていまして、何となく自然に幼いリュウちゃんの心の中に沁み込んで来たのです(当時、リュウちゃんの自宅にはレコードプレーヤー(蓄音機)はありませんでした)。「悲しき口笛」、「東京キッド」、「私は街の子」、越後獅子の歌」、ひばりの花売娘」、「あの丘越えて」、「リンゴ追分」、「お祭りマンボ」などのひばりちゃんの初期のヒット曲は全てリュウちゃんが幼い頃、自然と覚えた「リュウちゃんの歌の原点」だったのです。小学校5年生の頃、朝、起き掛けのラジオから流れて来たひばりちゃんの歌に、ビビッっとリュウちゃんの身体にショックが走りました。その歌のタイトルは「長崎の蝶々さん」、何と素敵な歌なのだろう!何と素敵な歌唱なのだろう!これまで、何となく心に沁み込んでいたひばりちゃんの歌でしたが、この歌を耳にした瞬間、リュウちゃんはひばりちゃんのファンになったのです。「長崎の蝶々さん」に続いて、「別れのトロイカ」も同じようにビビッと身体に電気が走ったのです。その後、中学校~高校~大学と、ひばりちゃんの歌とは距離を置いていたのですが、昭和45年に「芸能生活25周年記念・美空ひばり」(全15巻、各2枚組LPアルバム)というレコードが順次発売されました。このアルバムは、デビュー曲の「河童ブギウギ」から、当時の新曲であった「愁い酒」までの、ひばりちゃんのA面・B面を含めた全シングル盤リリース曲(417曲)+1曲、計418曲を、15巻30枚に収めた画期的なアルバムだったのです。藤山一郎などの大歌手の「全曲集」は数多くあるが、せいぜいA面のヒット曲止まり、デビュー曲からA・B面の曲を全て収録した「全集」をリリースしたのは、美空ひばりが初めてなのだ!このアルバムの発売を知って、リュウちゃん、久しぶりにひばりちゃんに興味が戻って来ました。それで、「長崎の蝶々さん」や「別れのトロイカ」を含む「第8巻(全28曲)とその前後の「第7巻」、「第9巻」の計3巻を購入し、愛聴したのです。(「芸能生活25周年記念・美空ひばり9」のLPジャケット)平成元年5月24日、美空ひばりは「特発性間質性肺炎」が原因で死去しました。享年52歳、昭和62年に死去した石原裕次郎も享年が同じだったのです。ひばりが亡くなった前日の平成元年5月23日の夜、当時、行きつけだった大阪・曽根崎新地のカラオケスナックでリュウちゃんは徹夜でひばりちゃんの古い歌を、ほぼワンマンショーで30曲近く歌ったのです。ワンマンショーを終えて、奈良の自宅に朝帰りしましたところへ、美空ひばりの訃報が飛び込んできました。昭和の歌姫死す!訃報の日に久々に歌ったワンマンシュー、虫が知らせたのか?改めて美空ひばりの遺した歌を全部聴いてみたい!美空ひばりが亡くなって、ほぼ3ヶ月後の平成元年8月21日に、「今日の我に明日は勝つ/美空ひばり大全集~さようなら、そしてありがとう・・・~」という35枚組のCD(税込み定価¥64077)が発売されました。(「今日の我に明日は勝つ/美空ひばり大全集~さようなら、そしてありがとう・・・~」)このCD、ひばりちゃんのデビュー曲「河童ブギウギ」から最後のシングル盤「川の流れのように」まで、生前に発売されたオリジナル・シングル曲(全517曲)をA・B面曲を全て収録した、正に「美空ひばりの究極のコンプリート・シングルコレクション・アルバム」だったのです!これまで断片的にしか聴いてこなかった美空ひばりの517曲のシングル曲が、このCDで全部聴ける!こりゃ、買うきゃない!ということで、発売直後にこのCDを購入し、それから10年くらいは、「ひばり三昧」の日々を送ったのでした。本ブログでは、「ひばり三昧」の日々を送った日々の中で聴いた名曲を、発売順に出来るだけ多く紹介して行きたいと思っています。その方法の一つと致しまして。CDに収録された曲順に沿って「曲番」を付けました。デビュー曲の「河童ブギウギ」は「1番」、最後の「川の流れのように」は「517番」という「曲番」になります。因みに、主なヒット曲の「曲番」を以下に幾つか挙げてみます。★最初のヒット曲「悲しき口笛」(2番)、★「越後獅子の唄」(17番)、★「リンゴ追分」(49番)、★「お祭りマンボ」(53番)、★港町十三番地(194番)、★花笠道中(231番)、★「柔」(352番)、★「悲しい酒」(371番)、★「真っ赤な太陽」(384番)、★「愛燦々」(508番)、★「みだれ髪」(514番)前置きはこれくらいにして、早速、楽曲の紹介に入っていきますが、これまで散々美空ひばりの歌を聴いてきましたので、各楽曲についてリュウちゃんなりの「評価」(評点)が定まっています。その「評点」を「S・特A・A・B」の四段階で書いてみます。「S評点」:このCDアルバムで初めて聴いて、大感激した歌、「特A評点」:以前から知っていた歌の中で、特に「名曲」だと思った歌「A評点」:このCDアルバムで初めて聴いた歌と、以前から知っていた歌で、「名曲」とは言えないものの、「いい曲」だと思った歌。「B評点」:S・A評価以外の歌、(※)この「評点」は、一般的に認知されてい評価ではなく、あくまでもリュウちゃんの独善的な「評価」だということを最初に御断りしておきます。<美空ひばりの517曲~その(1)>(美空ひばりのプロフィール)美空ひばりの歌の紹介ブログを書くに当り、最初に出生からデビューの頃までの年譜を書いてみます(この年譜は、ウィキペディアを参考にしました)★昭和12年5月29日、横浜市磯子区の魚屋「魚増」を営む父・加藤増吉、母・喜美江の長女として生まれました。本名:加藤和枝。★昭和18年6月、和枝6歳の時、父・増吉が海軍に徴兵さて出征、その壮行会の席で和枝は、塩まさるの「九段の母」を熱唱、聴く人を感銘させました。これを見た母・喜美江は、「和枝の歌は人を惹きつける特別な力がある」と確信、これが後年の歌手になる端緒となったようです。★昭和20年、和枝8歳の戦後間もない時、和枝のために自費で「青空楽団」を結成、和枝は楽団と共に近所の慰問や舞台で歌うようになりました。この頃、初めて「青空和枝」という芸名を母が付けました。★昭和21年、和枝は「NHK素人のど自慢」に出場、予選で、並木路子のヒット曲「リンゴの唄」を歌ったのですが、落選、本選出場はなりませんでした。その時の審査員は、「うまいが子供らしくない」「非教育的だ」などと母親に落選の理由を告げたと云われています。★昭和22年春、横浜で行われたのど自慢大会に出場、その時、審査員として席についていた古賀政男の元に駆けつけた母は「どうぞ娘の歌を聴いて下さい」と古賀に直訴、和枝は古賀の前で、彼の作曲した「悲しき竹笛」歌いました。古賀はその子供とは思えない才能、度胸、理解力に感心し「きみはもうのど自慢の段階じゃない。もう立派にできあがっている」、「歌手になるなら頑張りなさい」と激励した、と言われたとされています。(※)NHK素人のど自慢の審査員の言葉と、古賀政男の言葉は、明らかにひばりの母・喜美江が発信源ですね。デビュー前の「ひばり伝説」の類かもしれませんが、ここではウィキペディアの記述を殆どそのまま書いておきます。★同年(昭和22年)、杉田劇場(現・横浜市磯子区民文化センター杉田劇場)で漫談の井口静波、俗曲の音丸一座(座長は、古関裕而の最初のヒット曲「船頭可愛や」で有名な音丸)の前座歌手として出演、一座と共によく地方公演に行きました。昭和22年4月28日、高知県での公演のため、バスで移動していたところ、このバスが崖から転落、和枝は一時、仮死状態になりましたが、危うく一命を取り留めました。★昭和23年2月、神戸松竹劇場に出演に際し、神戸の興行を仕切っていた暴力団・三代目山口組組長・田岡一雄に気に入られ、以後、和枝は田岡のことを「神戸のおじさん」と呼んで慕うようになりました。★昭和23年5月、当時、人気絶頂だったボードビリアンの川田晴久に才能を見込まれた和枝は、横浜国際劇場公演に抜擢されました。川田は和枝を傍に置いて可愛がり、和枝もまた川田のことを「アニキ」と呼んで懐いていたそうです。美空ひばりとしてデビュー後の歌の節回しも、川田から学んだようです。尚、ひばりの初期の映画は、殆ど川田晴久が共演しています。<川田晴久「地球の上に朝が来る」><川田晴久「地球の上に朝が来る」>↑ここをクリック(以下同様)★和枝は川田一座で、笠置シズ子の物真似で人気が出て、「ベビー笠置」として拍手を浴びました。またこの頃、横浜国際劇場に前座で出演、笠置シズ子の「セコハン娘」を歌い、これが評判になり、当時、横浜国際劇場の支配人をしていた福島通人(つうじん)に認められ、以後、通人は「美空ひばりのマネージャー」として活躍、ひばりのために「新芸術プロダクション」を設立、ひばりが出演した「東京キッド」以降の多くの映画のプロデューサーを務め、ひばり・いづみ・チエミの「3人娘」の結成や歌舞伎座から中村錦之助、大川橋蔵を映画界に引き抜いて、ひばりと共演させたのも通人の業績です。昭和33年頃、ひばりが自分のプロダクションを設立した後には、ひばりに代わるスターとして西田佐知子(当初の芸名は浪花けい子)を育てました。以下に、西田佐知子のデビュー曲を貼り付けます。「コーヒー・ルンバ」や「アカシアの雨がやむとき」のような都会的なポップスではなく、時代物の歌謡曲で西田佐知子はデビューしたのだ!<「伊那の恋唄」:西田佐智子(本名)><「伊那の恋唄」:西田佐智子(本名)>★昭和24年頃、「美空ひばり」という芸名が付けられました。命名の由来は諸説あり、不明のようですが、昭和24年3月に公開されたひばりの映画デビュー作「のど自慢狂時代」には、「美空ひばり」という芸名がクレジットされています。以下に、「のど自慢狂時代」のポスターを貼り付けます。写真がボケていて、ちょっと見にくいのですが、上部のキャストクレジットの左から8番目に「美空ひばり」と、クレジットされています。(映画「のど自慢狂時代」のポスター)★映画「のど自慢狂時代」に、ひばりはブギウギを歌う少女の役で出演していたようです(現在、この映画のひばり出演シーンは残っていないようです)。昭和24年1月、ひばりは日劇のレビュー「ラブ・パレード」に出演し、笠置シズ子の「セコハン娘」や「東京ブギウギ」などを歌って人気を博しました。<「東京ブギウギ」:笠置シズ子><「東京ブギウギ」:笠置シズ子><美空ひばりが歌う「東京ブギウギ」~映画「びっくり五人男」より><美空ひばりが歌う「東京ブギウギ」~映画「びっくり五人男」より>★映画「のど自慢狂時代」の原作者であった詩人・劇作家のサトウハチローは、昭和25年1月23日付けの「東京タイムス」紙のコラム「見たり聞いたりためしたり」の中で、猛烈な美空ひばり批判をしました。「・・・やり切れなくなった。消えて無くなれと怒鳴りたくなった。吐きたくなった。いったいあれは何なのだ。怪物・バケモノのたぐいだ・・・」(※)この時、美空ひばりは12歳、12歳の少女に、この酷評は、余りに酷いものでしたね。当時の歌手は殆ど音楽学校でクラシックの声楽を学んだ後に歌手になりました。また、川田正子などの少女歌手は、殆ど童謡か唱歌しか歌わなかった時代です。川田正子は、昭和9年生まれ、美空ひばりよりも3歳年上です。代表曲の一つである「みかんの花咲く丘」のレコードは昭和21年、川田正子12歳の時に発売されました。<「みかんの花咲く丘」:川田正子><「みかんの花咲く丘」:川田正子>この時代の少女歌手といえば、「みかんの花咲く丘」の川田正子のような、可愛い子供の声で子供の歌を歌うというのが、当時の(今もですが、)常識でありカルチャーだったのですね。そんな時代の中で、突然、彗星の如く現れて、小学生なのに大人の歌を見事に歌った美空ひばり、サトウハチローなどの当時の音楽関係者にとりましては、「強烈なカルチャーショック」だったと思われます。ひばり母子もこの記事にショックを受けたようですが、ショックにめげることなく前に進んで行こうという決意を固める意味で、この記事の切り抜きをずっと保存していたようです。後年、ひばりとサトー・ハチローは和解したようで、昭和37年、ハチローはひばりのために「ほんとかしらほんとかしら」(320番)と、「わが母の姿は」(321番)の作詞をしています。前置きが長く成ってしまいましたが、ここから美空ひばりの歌を順番に辿って行きます。(1)<1番(デビュー曲)>「河童ブギウギ」<1番(デビュー曲)>「河童ブギウギ」(データ)★発売日:昭和24年6月23日(ひばり12歳)、★映画「踊る竜宮城」挿入歌、★作詞:藤浦 洸(こう)、作曲:浅井 挙曄(たかあき)、★霧島昇「楽しいささやき」のB面曲)、カラオケ有り、リュウちゃんの評点:B。昭和24年8月公開のレビュー映画「踊る竜宮城」の挿入歌です。12歳のひばりちゃんは河童の扮装をしてこの歌を歌います。以下にこの映画のポスターを貼り付けます。ポスター左下の河童スタイルの少女がひばりちゃん、以下の動画は映画「踊る竜宮城」で「河童ブギウギ」を歌うひばりちゃんです。<「河童ブギウギ」:映画「踊る竜宮城」のシーン><「河童ブギウギ」:映画「踊る竜宮城」のシーン>美空ひばりは、自分の持ち歌のない少女時代、笠置シズ子の物真似で人気がでました。当初は笠置シズ子もひばりちゃんを激励していたのですが、段々とひばりちゃんの人気が出るに従い、その歌の力に脅威を感じたのか、ある時、ひばりちゃんが自分(笠置)の歌をステージで歌うことを禁じてしまったのです。自分の持ち歌が欲しい!「河童ブギウギ」で、やっと自分の持ち歌が1曲だけですが出来たのです。でも、この歌、ちょっとグロテスクですね。しかし、言葉さばきは明確で抜群、特に、「♪~しぶきはパチャパチャパチャパチャキャ~♪」の「パチャパチャ」という擬音(オノマトペ)の表現は、一音一音が明快でリズム感も抜群ですね!(2)<2番>「悲しき口笛」(2)<2番>「悲しき口笛」(データ)★発売日:昭和34年8月12日(12歳)、★ひばり初主演の映画「悲しき口笛」の主題歌、★作詞:藤浦 洸、作曲:万城目正(まんじょうめ・ただし)、カラオケ有り、リュウちゃんの評点:A、美空ひばりのセカンド曲にして、初期のひばりを代表する名曲です。デビュー曲「河童ブギウギ」とは打って変わって、しっとりとした文芸的な「大人の歌」ですね。このレコード(78回転SP盤)は当時45万枚の売り上げを記録し、ひばりちゃんは一躍、トップ歌手として躍り出ました。作詞は「河童ブギウギ」と同じ藤浦 洸、作曲は、「旅の夜風」、「リンゴの唄」の万城目正、藤浦=万城目のコンビは、初期のひばりの楽曲を12曲提供したのです。尚、万城目正はひばりちゃんの歌を100曲近く作曲していて、ひばりちゃんの歌の「最多作曲家」なのです。この歌は、高峰三枝子の昭和15年のヒット曲「湖畔の宿」によく似ています。<高峰三枝子「湖畔の宿」><高峰三枝子「湖畔の宿」>リュウちゃん、この歌も万城目メロディだと思っていましたが、調べてみました所、笠置シズ子にブギウギの曲を書いた服部良一の作曲であることが分かりました。「悲しき口笛」のヒットを受けて、同じタイトルの映画が作られました。初めての主演映画!ひばりちゃんの満足度は如何ばかりだったでしょう。(3)<5番>「青空天使」(3)<5番>「青空天使」(データ)★発売日:昭和25年3月31日(12歳)、★作詞:門田ゆたか、作曲:万城目正、★東映映画「青空天使」主題歌、カラオケ無し、評点:A、「悲しき口笛」と同じ、スローテンポの佳曲です。大きく上下するメロディラインを見事に歌い上げていて、初めて「涙を誘う歌唱」となっている歌なのです。映画「青空天使」は、長らくプリントが行方不明になっていましたが、平成14年に大阪で発見され、修復されたプリントは東映でDVD化されました。(4)<7番>「白百合の歌」(4)<7番>「白百合の歌」(データ)★発売日・昭和25年4月7日(12歳)、★作詞:藤浦 洸、作曲:万城目正、★カラオケ無し、評点:A、タンゴの楽曲です。間奏はアルゼンチン・タンゴの名曲「碧空(あおぞら)」に似ています。リュウちゃんは、この詞の3行目の<♪~遠いあの嶺 咲いた白百合を~♪>の部分にホロリと涙したのです。(5)<9番>「東京キッド」(5)<9番>「東京キッド」(データ)★昭和25年7月20日(13歳)、★作詞:藤浦 洸、作曲:万城目正、★映画「東京キッド」:昭和25年9月9日公開、★カラオケ有り、評点:A、「悲しき口笛」に続く、ひばり2作目の大ヒット曲です。この歌のヒットで、ひばりの人気は不動のものに成りました。「キッド」とは、「子供」のことで、「東京キッド」は、「東京の子供」ということになります。歌詞の中に「チューインガム」、「チョコレート」と、当時の子供には「高嶺の花」だったお菓子が出てきますが、リュウちゃんは戦後の焼け跡の中で子供達が進駐軍のアメリカ兵に「ギブミ―チョコレート」とおねだりしたことを思い起こしました。歌詞の最後は、「♪~もぐりたくなりゃマンホール~♪」となっていて、浮浪児を連想しますが、映画の設定はそうではないようです。しかし、リュウちゃんはこの歌詞から、小坂一也の「オンボロ人生」を連想してしまいました(苦笑)<小坂一也「オンボロ人生」><小坂一也「オンボロ人生」>(6)<13番>「拳銃ブギー」<拳銃ブギ―>(データ)★発売日:昭和25年9月20日(13歳)、★作詞:名古屋 宏、作曲:浅井 挙曄(たかあき)、★カラオケ無し、評点:A、恐らく、昭和24年の暮れに公開されたボブ・ホープ主演の西部喜劇「腰抜け二挺拳銃」にヒントを得て作られた歌のようです。ひばりちゃんにとりましては、デビュー曲「河童ブギウギ」に続く2作目のブギウギソングです。「河童ブギウギ」は、ちょっとぎごちない歌でしたが、「拳銃ブギ―」ではひばりちゃんのチャイルドパワー大爆発ですね!尚、「腰抜け二挺拳銃」の主題歌、「ボタンとリボン」は、池 真理子がカバーして、大ヒットしました。<池 真理子「ボタンとリボン」(バッテンボー)><池 真理子「ボタンとリボン」(バッテンボー)>(7)<17番>「越後獅子の唄」<越後獅子の唄>(データ)★発売日:昭和25年10月3日(13歳)、作詞:西條八十、作曲:万城目正、★昭和26年1月3日公開の映画「とんぼ返り道中」の主題歌、★カラオケ有り、評点:特A、(映画「とんぼ返り道中」)ひばりちゃん、初めての「時代物」の歌です。「越後獅子」とは、新潟市南区(旧西蒲原郡月潟村)を発祥とする郷土芸能で、「角兵衛獅子」とも呼ばれています。子供を中心とする「獅子舞の大道芸」です。江戸市中で流行したようです。映画「とんぼ返り道中」でのひばりちゃんの役柄は、浅草・浅草寺の鐘をつく少年という設定になっていて、越後に住んでいる母を探すために越後獅子の一座に入るという設定になっています。以下にネットからお借りした30分バージョンのYou-Tubeを貼り付けます(「越後獅子の唄」は、以下のYou-Tubeの12分辺りに出てきます)<映画「とんぼ返り道中」、30分バージョン><映画「とんぼ返り道中」、30分バージョン>以下に、1番の歌詞を挙げてみます(詞:西條八十)尚(この詞は西條八十の最初の美空ひばり作品なのです)♪~笛に浮かれて逆立ちすれば山が見えますふるさとのわたしゃみなしご街道ぐらし流れ流れの 越後獅子~♪リュウちゃん、この歌は聴く毎に「涙ボロボロ」になります。何と哀しい歌なのだろう!何と上手い歌なのだろう!そして、何と瑞々しい歌なのだろう!この歌をカバーする歌手は、後世、多数いますが、皆、このひばりちゃんのオリジナルの歌唱には遠く及ばないとリュウちゃんは思っています。では、ひばりちゃんの歌唱と他の歌手の歌唱は、どこが違うのか?と考えてみますと、リュウちゃんは、ひばりちゃんの天性のアーティキュレーションとフレージングの付け方の素晴らしさではないかと思っています。アーティキュレーションは、「一つの音符の表情付け」、フレージングは「一塊りの音符の表情付け」のことです。「越後獅子の唄」の冒頭のフレーズ、「♪~笛に浮かれて~♪」の部分は、「ララシド―ミ―ドラシー」という8つの音符でメロディが作られています。このメロディをPCの打ち込み音や、「初音ミク」のような合成音で演奏すると、「無味乾燥」な音楽になってしまいますが、ここに歌手それぞれのアーティキュレーションとフレージングで「表情付け」することにより、本来、無味乾燥な音符は、見違えるように「生きた音楽」に生まれ変わるという訳なのです。抜群のアーティキュレーションとフレージング、そして明快な言葉さばきと抜群のリズム感、詞の内容によって千変万化する歌声、美空ひばりは、天性の名歌手なのだ!<映画「とんぼ返り道中」の斎藤寅次郎監督について>映画「とんぼ返り道中」の監督は、斎藤寅次郎です。斎藤寅次郎監督は、昭和元年から昭和37年までの37年間に250本を超える映画を監督、その殆どがスラップスティック喜劇で、「喜劇の神様」と呼ばれる存在でした。昭和61年に、「男はつらいよ」の山田洋次監督が、「キネマの天地」という松竹蒲田撮影所のオマージュ映画を作りました。この映画で、いつも奇想天外な面白いアイデアを出す「内藤監督」を堺 正章が演じていましたが、この「内藤監督」は斎藤寅次郎がモデルなのです(斎藤寅次郎は、よく堺正章の父・堺駿二を映画に起用していましたが、「キネマの天地」では息子の正章は、父・駿二を起用した斎藤監督を演じたのです。尚、堺駿二は上述の映画「とんぼ返り道中」で、「源六」という役名で登場し、ひばりちゃんと一緒に旅をするのです)。「男はつらいよ」の寅さんこと車寅次郎、この名前は斎藤寅次郎から採ったのだ!斎藤監督は、子供時代のひばりちゃん出演の映画を、何と14本も撮っているのです(斎藤寅次郎監督の美空ひばり出演作品一覧)「のど自慢狂時代」、「びっくり五人男」、「あきれた娘達(金語楼の子宝騒動)}、「おどろき一家」、「憧れのハワイ航路」、「続・向こう三軒両隣り第三話・どんぐり歌合戦」、「続・向こう三軒両隣り第四話・恋の三毛猫」、「戦後派親爺」、「青空天使」、「東京キッド」、「とんぼ返り道中」、「母を慕いて」、「ひばりの陽気な天使」、「ひばり捕物帳・唄祭り八百八丁」、斎藤寅次郎監督は、ひばりちゃんの映画スターとしての基礎を作った恩師だったのだ!<映画「とんぼ返り道中」のひばりと堺駿二(いちばん右)> (以下、「美空ひばりの517曲~その(2)」に続きます)
2021年03月02日
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