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新春2日の奈良公園。若草山山頂に鹿遊ぶ。元旦に、石光寺の「寒牡丹」、當麻寺の「冬牡丹」を観に行って来ましたが、翌2日には、久しぶりに奈良公園を一周して来ました。今回の奈良公園一周のメインテーマは以下の2つです。(1) 今年の夏から「令和の大修理」の為、約8年に渡り姿を隠してしまう「興福寺五重塔」の「見納め」をすること、(2) 最近、左足が少し不具合が生じている中で、若草山山頂に登ること、リュウちゃんは今年6月で78歳、何時まで「遠足」が出来ますことやら?今回も女房殿を家に残し、リュウちゃん一人でポケットにハンディ・デジカメだけを入れ、午前9時過ぎに家を出発、午前10時ジャスト、IR奈良駅から「奈良公園一周」の旅に出発しました。JR奈良駅から歩いて10分で、興福寺の境内に入ります。「猿沢の池」から興福寺に境内に登る石段、ちょっとしんどい!無事に奈良公園を一周出来るのだろうか?お目当ての「興福寺五重塔」です。既に改修工事は始まっていまして、五重塔の周囲は工事のフェンスで囲われていて、塔の直下まで近寄ることは出来なくなっています。今年の夏には、塔全体がシートに覆われてしまい、約8年に渡り、その雄姿が見られなくなってしまうのです。8年後といえばリュウちゃんは86歳だ!今回が「見納め」になるかも知れない?「国立博物館」前の広場の鹿たちです。今年も、奈良公園の鹿に逢えた!<木に竹を接いだムクロジ>博物館から「片岡梅林」に行く途上にあります。幹の天辺から竹が生えている!??本当は、幹の天辺から生えているのではなく、幹の空洞の中の地面に竹の根があるのですが、見た目では幹の天辺に根を張っているように見える面白い「ムクロジの木」なのです。<浮見堂>「木の竹を接ぐムクロジ」の傍にある「片岡梅林」の下に降りた「鷺池(さぎいけ)」の中に、「浮見堂」が建てられています。「浮見堂」、奈良公園を代表する景観の一つだ。古代中国の「東屋(あずまや)」を連想する。干上がっている「鷺池」、初めて見た。その景観から、「浮見堂」は奈良時代に建てられたものだと、これまでリュウちゃんは思っていたのですが、実は創建は大正5年(1916年)、奈良公園の建築物の中では「新参者」なのです。「うきみどう」として関西で一番有名な建築物は、大津市の本堅田の琵琶湖の水上に建てられている「満月寺浮御堂」です。こちらは、「近江八景」の「堅田の落雁」として有名な観光地なのです。この「浮御堂」は、西暦1000年頃、「浄土宗の祖」とされる僧「源信(恵心僧都)」によって建立された由緒ある建築物で、古くより一休和尚、蓮如上人、松尾芭蕉、小林一茶、歌川広重、葛飾北斎などが訪れた名刹のようです。(満月寺浮御堂)<飛火野の大クス>「浮見堂」を後にして、「飛火野」の草原に向かいました。ここのお目当ては、「飛火野の大クス」です。飛火野の大クス、何時観てもその威容に圧倒される!この「大クス」は、圧倒的な威容から、樹齢が1000年位はありそうに見えるのですが、実は明治41年(1908年)、明治天皇が飛火野に行幸された際に、その玉座に記念植樹されたもので、樹齢は120年位の「若い巨樹」なのです。遠くから見ますと、一本のクスノキに見えますが、実は3本の木から成り立っている「集合巨樹」なのです。集合巨樹であっても、その「威容」は少しも色褪せないのだ。「飛火野の大クス」の周囲は、「鹿の集合場所」の一つなのですが、本日は新春のためか、大クスの周囲に鹿を見ることは出来ませんでした。以下の写真は春日大社の参道から撮った「飛火野の鹿たち」です。「飛火野」から、春日大社の参道に入りますが、「萬葉植物園」の前から参道を外れ、鹿の保護施設である「鹿苑(ろくえん)」の方向に向かいます。但し、「鹿苑」には入らず、この辺りから始まる「春日山原始林の巨樹巡り」をしようとする趣向です。神社参拝よりも、巨樹巡り」が、奈良公園散策の目的なのだ!<イチイガシの巨樹>「鹿苑」の奥に、「イチイガシの巨樹」があります。この巨樹の前には、以下のような「立札」があります。この、「イチイガシの巨樹群」の立札の辺りから、昭和30年に国の特別記念物に指定され、更に平成10年にユネスコの「世界遺産」に登録された「春日山原始林」が始まっています。以下の写真は、この辺りで観られる「最大の巨樹」です。幹周り約10m、木の品種不明、完全に枯れてしまっているが、感動的な巨樹なのだ!<春日若宮神社の大クス>前方に「春日若宮神社の大クス」が見えてきました。幹周11,46m、伝説では4世紀後半に神功皇后がが植えたとされる樹齢1500年以上の老巨樹、今年もこの巨樹に出逢えた!「春日大社」に入ります。さすが新春!かなり賑わっている。入口の「南門」から「本殿」に入ります。「本殿」の手前にある「山藤の根」凄い迫力だ!「本殿」は善男善定で大賑わいですが、生来の不信心者のリュウちゃん、賽銭箱には目もくれず。「本殿」の左手にある「御神木(社頭の大杉)」に目が行ったのです。樹齢約1000年、幹周約8m、「本殿」の祭神よりも、この御神木に賽銭を納げたい!朱塗りの柱の回廊を通って、「本殿」を後にします。もう12時30分、お昼時だ。で、「一言主神社」の近くにある昔ながらの「大衆食堂」に入り、「天ぷらうどん」と瓶ビール(中瓶2本)を注文し、昼食、プファ~、ビールが旨い!奈良公園散策はこれからが本番、足の痛みを酔いで中和して、元気に歩いてみよう。<水谷神社のイブキの巨樹と水谷茶屋>「大衆食堂」から2分位歩いた所に、「水谷神社」があります。「水谷神社」のイブキの巨樹、すっかり枯れ木だが、迫力絶大だ!水谷神社の近くにある奈良公園屈指の休憩スポット、「水谷茶屋」です。「大衆食堂」はガラガラだったのに、「水谷茶屋」は大賑わいだ!<春日山遊歩道から若草山山頂へ>さて、ここからが本日の遠足の本番です。「春日山遊歩道」を歩き、標高340mの「若草山山頂」を目指します。標高差は僅かに300mと少し、左足の不具合で、無事に山頂に辿り着けますことやら?「水谷茶屋」の前の山道を少し登った所に、「春日山遊歩道」の入口があります。「春日山遊歩道」は、「春日山原始林」の中を通る1,5kmのなだらかな山道です。(春日山遊歩道マップ)「春日山遊歩道」ウォーキング、「奈良公園一周」の、一番の醍醐味なのだ!午後2時ジャスト、無事、「若草山山頂」に到着、山頂から見下ろす奈良市と原始林の景観、山頂で遊ぶ鹿たち、新春の若草山山頂は平和に満ちている!午後3時ちょっと前、若草山の麓に降りてきました。雲一つ無い青空の下、山麓も穏やかで平和だ。<手向山八幡宮>2本の巨樹がある「手向山八幡宮」を通り抜けます。このたびは幣(ぬさ)もとりあへず手向山紅葉の錦神のまにまに(菅原道真、百人一首第24番)<東大寺二月堂>「手向山八幡宮」の隣に「お水取り(修二会)」で有名な「二月堂」があります。今回は足の痛みをこらえて「舞台」に登りました。二月堂の舞台から見下ろした「大仏殿」の屋根です。新年2日の奈良公園一周、もうゴールは近い!<大仏殿、南大門(ゴール)>「大仏殿」の前に出ました。「鏡池」の畔の紅葉、1本だけ散り残っていた!以下の写真は「南大門」の前の休憩所で撮りました。「南大門」の前の休憩所、鹿たちにとっても、一番の休憩所のようだ。朝10時にJR奈良駅を出発、午後4時にJR奈良駅に帰還、その間、約30分の昼食時間を除いて、約5時間半、歩きっぱなしの奈良公園一周旅、左足に不具合があったにも関わらず、無事に達成出来た!来年の新年も、一周旅に挑戦してみよう。今回の奈良公園一周旅では、「花」を全く見ることが出来ませんでした。なので、以下にリュウちゃんの家の庭に咲く花を何枚かアップします。奈良公園よりも、リュウちゃんの庭のほうが、「花」が多いのだ!
2024年01月20日
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石光寺(せっこうじ)の寒牡丹と、當麻寺(たいまでら)の冬牡丹、新春の奈良の花遍路は、ここからスタートなのだ。(石光寺の寒牡丹「東雲の月」)(當麻寺の冬牡丹)ちょっと遅くなってしまいましたが、新年おめでとうございます。さて、リュウちゃんの2024年は、全国的にも珍しい「寒牡丹」の名所、「石光寺」から始めることにしました。ついでに、當麻寺の「冬牡丹」も観に行って来たのです。石光寺の寒牡丹の見頃は、12月上旬から1月上旬、元旦でも、「見頃」を過ぎているのかも知れない?2024年1月1日(元旦)、リュウちゃん一人で公共交通に乗ってお出掛けしました。朝9時に法隆寺を出発、ローカル線を3回乗り換えして、石光寺の最寄りの駅である近鉄南大阪線「當麻寺駅」に着いたのが、午前11時過ぎ、アチャ~、「當麻寺駅」まで、2時間も掛かってしまった!ローカル線の乗り換え旅はしんどい!近鉄「當麻寺駅」から「當麻寺」までは、700m、「當麻寺」から「石光寺」までは、更に600m、従いまして近鉄「當麻寺駅」から「石光寺」までは1,3kmです。最初の写真は、途上の民家の庭に咲く「蝋梅」です。ここの蝋梅、元旦に満開になっていた!早咲き品種なのかな?「石光寺」の手前の途上に道から眺めた「二上山(にじょうざん)」です。「二上山」は「當麻寺」の山号にもなっている歴史的名山なのです。午前11時30分、「石光寺」に到着、境内に入ります。どれほどの「寒牡丹」を観ることが出来るかな?境内にある、「染めの井」(中将姫が「當麻蓮糸曼荼羅」を織る際、この井戸で蓮糸を染めたとされる井戸です)と「中将姫像」です。「染めの井」の脇には、「ミツマタ」が開花を待っています。さて、お目当ての「寒牡丹」です。以下に、この日に咲いていた全ての寒牡丹の写真を貼り付けて見ます(品種名が確認出来たものは、名称も書きます)(1)<緋の御旗>(2)<大正紅>(3)<東雲(しののめ)の月>(4)<時雨雲(しぐれぐも)>結局、品種名が確認されたのは、上掲の4種だけ、ネットの「奈良ガイド~石光寺寒牡丹の見頃」の記事によれば、石光寺には、約40種200株の寒牡丹が、11月下旬かた1月下旬の約2か月に渡り、順番に咲くようです。アチャ~、元日の石光寺で名前が確認出来た寒牡丹は僅か4種、全体の1/10に過ぎない!全ての品種を確認するためには、開花期間中に3~4回、足を運ぶ必要がありそうだ。以下に品種名を確認出来なかった寒牡丹の写真を貼り付けます。元旦に開花していた寒牡丹は、トータル10株程度。全体の1/20位なのだ!石光寺は、「関西花の寺二十五霊場20番札所」で、一般的には「牡丹の寺」として有名なのですが、牡丹の他にも、冬には「山茶花」、「寒咲きアヤメ」、「蝋梅」、「万作」、「ミツマタ」など、春から初夏には「桜」、「芍薬」、「紫陽花」、夏には「百日紅」などの花が咲きます。本日はまだ「蝋梅」や「寒咲きアヤメ」、「万作」は開花していませんでしたが、境内の至る所で「山茶花」と「南天」が「見頃」を迎えていました。午後12時30分に「石光寺」を後にして、「當麻寺」に戻りました。もうお昼時、當麻寺参道にある釜めし店でお昼を摂ろう。客はリュウちゃん唯一人、貸し切り状態の店で、「釜めしセット」と瓶ビール(中瓶)2本を注文し、遅い昼食、プファ~、ビールが旨い!殆んど人の居ない元旦の古刹、リュウちゃん流の「真冬の風流」なのだ!午後1時過ぎ、釜めし店を出て、「當麻寺」に向かいました。お目当ての「冬牡丹」は、「奥の院」の「浄土庭園」に咲いています。「浄土庭園」に入ります。元旦に観る「冬牡丹」、「山茶花」「水仙」、「寒桜」、ここは正に「冬の極楽浄土」だ!ここから。「冬牡丹」です。「冬牡丹」、正に極楽浄土の花なのだ!<千葉の孫姫4姉妹、奈良に来襲>昨年12月27日、千葉県に住んでいる孫姫4姉妹一家が来襲しました。今回の予定は12月29日に大阪の高槻市にある孫姫のパパの実家に行ってしまうというハードスケジュールで、奈良滞在は僅か45時間です。まる1日、孫姫達と遊べる時間は、12月28日だけ!どないしよう?と、悩んだのですが、結局、上の2人の孫姫の要望で、近くのイオンモールのシネコンで、ディズニーアニメ創立100周年記念作品の「ウィッシュ」を観に行くことにしました。長編アニメ「ウィッシュ」、ロマンスが無い、ファンタジーが無い、リュウちゃん失望!孫姫ちゃん達はどう思ったのだろうか?余談ですが、昨年公開された宮崎駿の7年ぶりの新作「君たちはどう生きるか」にリュウちゃんは魅了され、結局、3回も映画館に足を運んでしまいました。宮崎アニメの集大成、ロマンがありファンタジスティック、難解だが、見事な傑作だ!今年の米アカデミー賞の前哨戦であるゴールデン・グローブ賞で、この作品は見事、アニメ映画賞を受賞しました。日本のアニメがこの賞を受賞したのは、初めての快挙です。このまま行けば、宮崎駿は、2002年の「千と千尋の神隠し」に続き、2回目のアカデミー賞長編アニメ映画賞を受賞することが濃厚になってきました。対抗馬は、上掲のディズニーアニメ創立100周年記念作品「ウィッシュ」の筈です。2001年から始まったアカデミー賞長編アニメ映画賞は、ディズニーのために創られたような賞で、過去22回の内、何と、15回もこの賞をディズニー・アニメが獲得しているのです!(但し、受賞した15作品中、11作品は、2006年にディズニーが買収し、完全子会社にした「ピクサー・アニメーション・スタジオ」製作のアニメだったのです)今回の「ウィッシュ」は、本家ディズニー・アニメが、「創立100周年記念作品」として製作した作品です。自社の名誉のためにも、何が何でもアカデミー賞獲得に走る筈です。しかし、「ウィッシュ」は出来がお粗末過ぎる。若し「ウィッシュ」がアカデミー賞を獲るようなことになれば、裏で大規模な工作が行われたと見て間違いなさそうだ。閑話休題、改めまして孫姫4姉妹を紹介させて頂きます。<孫姫1号>:高校2年生、17歳、来年の春は成人&大学受験です。<孫姫2号>:中学2年生、14歳、来年の春は高校受験です。<孫姫3号>:小学校3年生、8歳。<孫姫4号>:小学校1年生、6歳。今回はまとめて孫姫ちゃんたちの写真を撮る機会がなかったのですが、リュウちゃんの家にいる猫の「チビ」ちゃんとの交流の写真を以下に貼り付けます。<猫のチビ>:17歳6ケ月、(孫姫1号より1ヶ月早生まれ)、チビは、人間に換算すれば、85歳のお婆ちゃん、でも、何時までも長生きしてネ!
2024年01月10日
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奈良県の真ん中にある談山神社と長谷寺、奈良の2大紅葉の名所なのだ!(談山神社・十三重塔の紅葉)(長谷寺、初瀬の大イチョウ)京都の貴船神社から銀閣寺の紅葉狩りをした翌日の11月23日、今度は、地元「奈良の紅葉狩り」で、桜井市にある「談山神社(たんざんじんじゃ)」にお出掛けしました。今回も女房殿は所要があり、リュウちゃん単独でお出掛けしたのです。車の運転が出来ないリュウちゃん、公共交通で行くしか手段が無いのだ!リュウちゃんの住んでいる斑鳩町から、公共交通を使って談山神社までは、以下のルートで行きます。JR法隆寺駅~JR奈良駅(万葉まほろば線に乗り換え)~JR桜井駅(奈良交通バスに乗り換え)~談山神社バス停。万葉まほろば線、奈良交通バスは、1時間に一本に超ローカル線、乗車している時間よりも、乗り換えの待ち時間のほうが遥かに長いのだ!午前11時過ぎ、談山神社バス停に到着、バス停付近の光景です。この辺りの紅葉、まずまずの色づきだ。普通、バス停から談山神社に行くのには、左側の小道を降りて行くのですが、リュウちゃんは、バス停の上から行くことにしています。ここの紅葉もなかなか良いのだ。しかし、色づきが浅い。まだ少し早かったのかな?もうお昼時、よし、談山神社に入る前に昼食を摂ろう。で、談山神社を見下ろす釜めし店で昼食、プファ~、ビールが旨い!窯めしが炊きあがる前に、缶ビールを2本飲んでしまった!昼食を終え、談山神社に降りて行きます。上から見下ろす十三重塔、周りの紅葉の色づきは浅いようだ?談山神社の入口の「大鳥居」の前にある「杉の巨木」です。今年も「杉の巨木」に出逢うことが出来た!「大鳥居」です。ここから石段を登り、談山神社に入ります。石段の途中にある杉の巨木、「夫婦杉」です。「夫婦杉」に逢うことも、談山神社散策の楽しみの一つなのだ!石段の上に「拝殿」があります。以下の写真は、「拝殿」の下部で撮った光景です。やはり紅葉の色づきは浅い。ちょっと残念だ。「拝殿」に上がります。銅製の灯篭と紅葉のコラボ、「拝殿」の一番の「見所」なのだ!「拝殿」を降りて、「十三重塔」に向かいます。「十三重塔」と紅葉のコラボ、「談山神社」の一番のビュースポット!この光景を撮るために、ほぼ毎年、「談山神社」に来るのだ!(※)「談山神社」のシンボルである「十三重塔」は、現存する世界で唯一の木造十三重塔です。天武天皇7年(678年)、藤原氏の「祖」である「中臣鎌足」の長男だった僧の定恵(じょうえ)が、この地に鎌足の墓を築き、その墓の上に「十三重塔」を建立したようです。「十三重塔」の裏手にある「権殿(ごんでん)」の周りの紅葉です。杉の大木とイチョウのコラボ、ここは「談山神社」屈指の、紅葉の「見所」なのだ!「権殿」から石段を下りて、出口に向かいます。出口付近から見上げた「十三重塔」、ここも「談山神社」の定番の紅葉スポットなのだ!<長谷寺の紅葉>本来なら、11月23日に「談山神社」に行った後、長谷寺に行く予定だったのですが、時間がタイトになってしまったために、この日の長谷寺行きは断念、改めて一週間後の11月30日に、女房殿の運転する車の助手席に乗って、長谷寺にお出掛けしました。長谷寺の紅葉、まだ「見頃」なのかな?午前10時30分、法隆寺出発、午前11時20分、長谷寺に到着、境内に入る前に、「長谷寺」の前、「天神山(与喜山)」の麓にある「素戔嗚(スサノオ)神社」に立ち寄りました。<初瀬の大イチョウ>「素戔嗚神社」に立ち寄ったのは、この小さな神社の境内にあるイチョウの巨樹、「初瀬の大イチョウ」を観るためなのです。駐車場の前の赤い橋の向こうに、大イチョウが見えてきました。「素戔嗚神社」に入ります。久しぶりに観た「初瀬の大イチョウ」、樹高約40m、幹回り7,15m、樹齢300年強、奈良県天然記念物、県最大のイチョウの巨樹、いつもながら、その威容に圧倒された!「素戔嗚神社」を出たのが、ちょうど正午、「長谷寺」に入る前に、参道にある和食店で「うなぎ定食」と瓶ビール(2本)で昼食(運転手の女房殿は、勿論、ビール抜きです)プファ~、ビールが旨い!久しぶりの「初瀬の大イチョウ」に、改めて感激!これから行く長谷寺の紅葉は、オマケなのだ!昼食を終え、午後1時に「長谷寺」に入場しました。長谷寺名物の一つは、「仁王門」から続く399段の「登廊(のぼりろう)」です。「登廊」の周辺には紅葉無し、上部に紅葉があるのだ。「登廊」は、「天狗杉」のちょっと上部で右に直角に曲がっているのですが、今年の夏にアジサイを観に行った時には、右に曲がる地点で「登廊」を外れ、「登廊」からまっすぐに続く石段を登ったのです。今回も夏と同じコースを辿って「本堂」に登ったのです。この「登廊」から続く石段、夏は鉢植えのアジサイ、秋は鉢植えの菊の花が飾られていた。石段の周辺の紅葉も見事だ!「本堂」の舞台に登りました。「登廊」の上部に、「十月桜」が咲いていた!舞台からの眺め、やはり今年の紅葉はイマイチだ(残念!)「本堂」の舞台から、「開山堂」に降りて行きます。「開山堂」の右手の山裾に、「真紅の紅葉」を発見!この「真紅の紅葉」、本日の一番の紅葉だ!?「開山堂」のある休憩所の紅葉、ここも「長谷寺」の紅葉の見所の一つ、見上げる「五重塔」と紅葉のコラボ、なかなか素敵なのだ。休憩所から坂道を降りて帰路につきます。帰路の道筋、ここが長谷寺の紅葉の一番のビュースポットなのかも知れない?「長谷寺」の最後の写真は、仁王門の横手にあった鉢植えの菊の花です。ここの菊の花、一際鮮やかだったのだ!
2023年12月12日
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稲渕の棚田の奥に咲く黄色い彼岸花、今年も巡り合うことが出来た!(前回のブログの続きです)「あすかびーる」3本の「昼食」を終えて、午後1時過ぎに「石舞台」を出発、次の目的地である「稲渕の棚田の案山子ロード」に向かいました。「あすかびーる」を3本飲んで元気回復!この勢いで、ずっと上り坂の「稲渕の棚田」を目指すのだ!「石舞台」から「稲渕の棚田」までは、徒歩約30分の行程なのですが、ずっと「上り坂」ですので、後期高齢者のリュウちゃん、歩いて辿り着けるか、ちょっと危ぶんでいたのいですが、「あすかびーる」3本飲んだおかげで元気百倍!当初の危惧はどこかへ吹っ飛んでしまったのです。以下の写真は、「稲渕の棚田」までの道筋で撮りました。流れる川は明日香村を縦断する「飛鳥川」です。「石舞台」から20分位歩いた眼前右手に「稲渕の棚田」が拡がって来ました。「稲渕の棚田」は、約300枚余りの水田と畑で構成されている横に広い棚田です。平安時代頃から開墾された古い歴史のある棚田で、1999年(平成11年)、「日本の棚田百選」の一つに選ばれました。また、2011年(平成23年)には、「重要文化的景観」の一つに選定されました。車道から小滝のある小道に下りて稲渕の棚田に入ります。ここは名物の「案山子ロード」今年も沿道脇に面白い案山子がお出迎えだ!<花と昆虫><万太郎上人!!>NHK朝ドラ「らんまん」ネタですね。<子泣きじじいさん><彼岸花と飛鳥美人><おいしい明日香の苺><ユニトピア 明日香><みんなでさんぽ><明日へ羽ばたく花トンボ><明日香に住む花の妖精さん♪><花と虫 自然いっぱいのカブ>「カブ」は、宮崎アニメ「ハウルの動く城」の案山子キャラです。<とれた~!!><ひまわり公園><少女時代に思いを馳せて><棚田のあおむし><稲刈りをする女の子>この案山子、今年のリュウちゃんの「可愛い案山子」大賞だ!<棚田号 出発進行!><ヤッホー!! 明日香村で大冒険!!>今年の「明日香村村長賞」を獲った案山子です。このキャラ、何だったのかな?今年の「ジャンボ案山子」です。この「ジャンボ案山子」、タイトルが付いていませんので、何を表現したのか、よく判りませんが、幾つかのネット記事では、顔は「笑福亭鶴瓶」のようだ」と書かれていました。リュウちゃんは、「笑福亭鶴瓶」というよりも、「柳家 金語楼」だ!と思ったのでした(古い!)新しいNHK朝ドラ「ブギウギ」のモデル、笠置シズ子にもちょっと似ている???<笠置シズ子「買い物ブギー」>v=Q_tHACJ12kw (上のリンクの右側のローマ字の部分をクリックしてください)<稲渕の黄色い彼岸花>「案山子ロード」の果てる先に、「白い彼岸花」と「黄色い彼岸花」の咲いている場所があります。遠目で見たところでは、少しだけ咲いているようだ。近づいて見なしたところ、少しだけ咲いていました。やれやれ、稲渕に来た甲斐があった!(※)「黄色い彼岸花」は、正式名称を「鐘馗水仙(ショウキズイセン)」といいます。通常の赤い彼岸花と同じヒガンバナ科ヒガンバナ属の多年草で、草全体にアルカロイド系の強力な毒を持っていることも共通しています。彼岸花は古代に中国から伝来した植物ですが、伝来した時から大半は3倍体で、種子を作らす(不稔性、動物では不妊性)で、球根の分裂で増えていくようです(稀に2倍体の赤い彼岸花がありますが、これは「コヒガンバナ(小彼岸花)」と呼ばれていますが、普通の3倍体の赤い彼岸花との区別は殆どつけられないようです)。「赤い彼岸花」の大半は3倍体ですが、白い彼岸花、黄色い彼岸花は種子を作る(稔性)の2倍体の植物である為、他の2倍体の彼岸花と交配により、様々な園芸品種の彼岸花が作出されているのだそうです。黄色い彼岸花は2倍体の植物なのに、何故、稲渕でしか咲いていないのか?ちょっと不思議。黄色い彼岸花が咲いている土手の上には、白い彼岸花の「小群生地」です。ここの白い彼岸花、ほぼ満開だ!稲渕地区を後にしたのが午後3時ちょっと前、これまではずっと登り道だったが、ここからはずっと降り道、やっとゴールに辿り着く目途が付いた。<橘(たちばな)寺>午後3時30分、眼前に「橘寺」が見えてきました。「橘寺」の下の稲田の畔は明日香村屈指の彼岸花の名所なのです。境内に入ります。「橘寺」は聖徳太子生誕の地と云われており、「聖徳太子建立七大寺」の一つとされています。建立は7世紀の始め頃ですので、「飛鳥寺」に次ぐ日本最古の寺院の一つと云えそうです。以下、境内で撮った写真をアップします。寺の名前に因んだ「橘」も境内に植えられていました。<二面石>「飛鳥の謎の石造」の一つです。片面が、もう片面が悪相なのですが、風化してしまって、どちらが善相か悪相か、判別がつかない。聖徳太子の愛馬「黒駒」像です。聖徳太子は「黒駒」に乗って明日香から法隆寺に「通勤」したのだそうです。(この銅像は平成12年に建立されました)境内の桜の大木の根本に、ちょとだけ彼岸花が咲いていました。午後3時30分、「橘寺」を後にして、「亀石」に向かいます。「橘寺」から「亀石」への道筋、ここも明日香村屈指の彼岸花の「見所」なのだ!<亀石>道筋の右手に、「飛鳥の謎の石造物」の一つ、「亀石」が見えてきました。「亀石」は、高さ1,8m、長さ3,6mの巨大な花崗岩の前面下部だけに、カエル(亀)のようなユーモラスな顔が彫られた石造物です。明日香村にある「酒船石」、「鬼の雪隠」、「鬼の俎(まないた)」、それと「亀石」などは、誰が、何の為に造ったのか、現在でも定説がありませんので、「飛鳥の謎の石造物」と呼ばれています。昭和50年に刊行された松本清張の長編歴史ミステリー小説「火の路」では、これらの謎の石造物は、古代ペルシャから渡来した「ゾロアスター教(拝火教)」の影響を受けた遺跡ではないかと、大胆な推理をしています。30歳の頃に「火の路」を読んだリュウちゃん、読後、明日香村はいっぺんに「憧れの古代ロマンの地」になってしまったのです。読んだ時には東京勤務だったのですが、36歳の時に転勤で大阪勤務になりましたので、「これ幸い!」と、明日香村に近い奈良に住むようになったのです。―閑話休題―あれ?いつも亀石の下に赤い彼岸花が咲いている筈だが、今年は全く芽も出ていない。残念!「亀石」の横に、無人休憩所があります。少し歩き疲れたので、休憩所の自動販売機で缶ビールを買って、暫し休憩。プファ~、ビールが旨い!今年も初秋の明日香村を堪能出来た。良かった!(休憩所の前の素朴な看板です)休憩所からゴールの「近鉄飛鳥駅」までは、約20分、途中、「天武・持統陵」を経由し、午後5時ちょっと前、「ゴールイン」しました。午前9時10分にスタート地点の「近鉄畝傍御陵前駅」を出発、午後5時にゴール地点の「近鉄飛鳥駅」に到着、休憩を1時間取った以外は、歩きっぱなしの7時間、歩いた歩数は、約5万歩!後期高齢者2年目のリュウちゃん、まだまだ体力は衰えていないのだ!
2023年10月06日
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(後ろ姿で失礼いたしますが)奈良の法隆寺より新年おめでとうございます。昨年の12月28日、千葉県から孫姫4姉妹一家が1年ぶりに奈良に来訪しました。改めまして孫姫4姉妹を紹介させて頂きます。★孫姫1号:高校1年生、★孫姫2号:中学1年生、★孫姫3号:小学校2年生、★孫姫4号:幼稚園年長組、今年4月にピカピカの小学校1年生、昨年も一昨年と同じように、僅か3日間だけの奈良滞在で、一緒に遊ぶ日は29日の1日しかありません。やはり奈良公園に行き、鹿と遊ぼうか?と、当初は考えていたのですが、孫姫1号に行きたいところを聞きましたところ、法隆寺と薬師寺に行きたい。とのこと、さすが高校1年生、歴史の勉学意欲に燃えている!ということで、29日は午前中の法隆寺に行き、午後からパパの運転する車で薬師寺に行くことにしました。<法隆寺探訪>リュウちゃんの家から法隆寺までは徒歩4分、午前10時に家を出発し、午前10時4分に南大門から法隆寺に入りました(尚、法隆寺探訪に参加したのは、リュウちゃん、孫姫のパパ、孫姫1号、それと、幼稚園の孫姫4号の4人だけだったのです)地元に住んでいるリュウちゃんに代わって、パパが法隆寺の案内人。パパの説明、堂に入っている!金堂。五重塔を観たあと、法隆寺の寺宝を展示している「大宝蔵院」に入りました。ここは撮影禁止ですので、以下の写真はネットからお借りしました。<玉虫厨子>(玉虫厨子)厨子とは、仏像などの礼拝対象を納めて屋内に安置する、屋根付きの工作物です。装飾に多数の玉虫の羽根を使ったので、「玉虫厨子」と命名されています。制作年代は7世紀と推定されtれいますが、制作者は不明のようです。出土品ではない伝世の漆工芸品としては日本最古の遺品であり、数少ない飛鳥時代絵画の遺品としても重要な工芸物とされています。<百済観音>体長211cm、10等身の優美な仏像です。制作年代は7世紀前半から中期と推定されています。像身は日本産のクスノキで造られているため、日本で造られた仏像のようです。日本で造られた「百済観音」、命名の由来は「謎」だ!百済から渡来した仏師が制作したのかな?下の写真は映画「アバター」のスチールです。アバターと百済観音。体形がほぼ同じだ!ジュームス・キャメロン監督は、「アバター」の体形を百済観音からヒントを得たのかな?「大宝蔵院」を出て、「夢殿」、「中宮寺」に向かいます。「中宮寺」の「天寿国曼陀羅繡帳」と「弥勒菩薩」、孫姫1号に観せたかった!<天寿国曼陀羅繡帳>天寿国曼陀羅繡帳は、聖徳太子の妃の橘大郎女(たちばな の おおいらつめ)が、太子〉の死(622年)を悼んで、采女に作らせた刺繍の織物です。聖徳太子が往生した天国(天寿国)の有様を描いた精密な刺繍は、飛鳥時代の刺繍の技術の高さを思い知らされる芸術品なのです。<弥勒菩薩>世界最高の彫刻の一つである「中宮寺弥勒菩薩」は、以下の写真のモダンなオープンスペースの本堂に、かなりオープンな形で、安置されています。(中宮寺本堂)以下、中宮寺のHPに掲載されていた「弥勒菩薩」に関する文章をそのまま貼り付けます。半跏思惟のこの像は、飛鳥時代の最高傑作のひとつであると同時に、わが国美術史上、欠かすことの出来ない存在です。また国際美術史学者間では、この像の顔の優しさを評して、数少い「古典的微笑(アルカイックスマイル)」の典型として高く評価され、エジプトのスフィンクス、レオナルド・ダ・ヴィンチ作のモナリザと並んで「世界の三つの微笑像」とも呼ばれております。半跏の姿勢で左の足を垂れ、右の足を膝の上に置き、右手を曲げて、その指先をほのかに頬に触れ、人の悩みをいかにせんかと思惟される清らかな気品をたたえておられます。斑鳩の里に伝統1300余年の法燈を継ぐ中宮寺の、この像は、その御本尊として永遠に私たちを見守ってくださるでしょう。東洋のモナ・リザ「弥勒菩薩」に間近に接した孫姫1号ちゃん、心の中にどんな化学反応が起きたのか?ちょっと興味があるリュウ爺ちゃんなのです。<薬師寺探訪>約2時間、法隆寺・中宮寺を散策し、リュウちゃんの家の近くのレストランで昼食、午後1時過ぎ、今度は孫姫のパパの運転する車に、リュウちゃん、孫姫のママ(リュウちゃんの娘)、孫姫全員の計6人が同乗して、「薬師寺」に行ってきました。リュウちゃんの家から「薬師寺」までは車で約30分です。午後2時30分、薬師寺の南側にある駐車場に到着、「中門」から薬師寺に入りました。「薬師寺」は何度も行っているが「中門」を観るのは初めてなのだ。「中門」の両脇に、「仁王像」ならぬ、「仁天王像」が配置されています。「仁天王像」は足の下に「邪鬼」を踏みつけていますが、この「邪鬼」は「煩悩」のようです。「煩悩」のかたまりのリュウちゃん、踏みつけられている「邪鬼」が哀れに感じられる。<薬師寺東塔・西搭>「中門」を潜り、孫姫1号のお目当てである「薬師寺東塔」の前に立ちました。ここでもパパの解説は冴えていた。皆、熱心にパパの解説に聞き入った。下の写真は「薬師寺西搭」です。「東塔」と「西搭」姿はほぼ同じだが、「西搭」のほうがカラフルだ!午後5時、本日の「晩餐」の場である「カニ道楽奈良本店」に到着、留守番をしていた女房殿たちも、ここで合流、♪~獲~れ獲~れピ~チピ~チ カニ料理~♪孫姫ちゃん達も皆、「カニ大好き姫」、夢中でカニ料理を食べました。リュウちゃんは勿論、カニよりもビール、プファ~、ビールが旨い!孫姫ちゃん達に囲まれ、飲むビール、最高の味だ!翌、30日は早くもお別れの日、孫姫ちゃん達は、大阪のパパの実家へと旅立ちました。お別れの前に恒例の「お年玉進呈」、リュウ爺ちゃんは昨年と同じように、「図書カード」を進呈したのでした。<猫のチビ>リュウちゃんの家には、孫姫1号と同い年の「チビ」という猫がいます。これまでは孫姫たちが奈良に来ると、2階に隠れてしまって、居間には出てこなかったのですが、今年はやっと慣れて来て居間にも顔を出すようになりました。下の写真は、30日朝のお別れの前に、ベッドで寝ていたチビと孫姫ちゃん達との「お別れ」の写真です。チビちゃん、やっと孫姫ちゃん達と少し仲良しになれたね!お別れの時間です。これまで写真を撮られるのを嫌がっていた孫姫4号も、剽軽な表情で撮影を許してくれました。孫姫ちゃんたち、コロナ禍が終息したら、春休みも夏休みにも奈良に来てね。今度来る時には、パンダが沢山いる「白浜アドベンチャーワールド」か、USJ(ユニバーサル・スタジオ・ジャパン)に行こうね。待っているよ!
2023年01月03日
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「藤原宮跡」、「馬見丘陵公園」、奈良の2大コスモスの名所、1日で探訪。10月28日、女房殿の運転する車の助手席に乗りj込んで、「奈良のコスモスの2大名所」である「藤原宮跡」と「馬見丘陵公園」に行って来ました。生憎、この日は曇天だったのですが、さまざまなスケジュールの都合もあり、やむなくこの日に決行することになってしまいました。10月下旬は曇天続き、しょうがない、この日に決行しよう!朝9時30分に家を出発、10時少し過ぎに「藤原宮跡」に到着、もう「見頃」は過ぎていたかと危惧していたが、まだ「見頃だった。良かった!「藤原宮」は694年、持統天皇の「宮殿」として造営された日本最初の「唐の条坊制」が採用された「都(みやこ)」です。百人一首で有名な、春すきてなつきにけらししろたへのころもほすてふあまのかく山の短歌は、ここで詠まれた歌なのです。(持統天皇)「藤原宮跡」は、持統天皇の歌で有名になった「天(あま)の香久山」と、神武天皇を祀る「橿原神宮」の傍にある「畝傍(うねび)やま」、それと、「藤原宮」の北側にある「耳成(みみなし)山」の、いわゆる「大和三山」のトライアングルの中央部にあります。「藤原宮跡」は、古代日本の「国のまほろば」だったのだ!例によりまして、コスモスの拝啓にある「大和三山」を写した写真を貼り付けます。<畝傍山>上掲の写真で、真ん中の黒い三角山が「畝傍山」です。「畝傍山」の後ろの山は「葛城山」、「葛城山」の左手の峰は「金剛山」です。山並みの右手、写真は切れたところに、「二上山(にじょうさん)」があります。<耳成山><天の香久山>上掲の写真で、手前の横長の「丘」のような小山が「天の香久山」です。香久山の後ろの山並みで、右側は「明日香村」の山並み、中央から左側のギザギザ状のところは、「大化の改新」で中大兄皇子(天智天皇)と中臣鎌足(藤原鎌足)が談合した「談山神社」のある「多武峰(とうのみね)」なのです。「藤原宮跡」から「多武峰」、以前リュウちゃんは歩いて登ったが、現在では歩けるかどうか?ちょっと不安だ。「天の香久山」をズームアップして撮ってみました。下の「図」は、「藤原京と周辺の図」です。(周辺図)上掲図で、中央に「藤原京」があります、「畝傍山」は図の左、「耳成山」は中央上部、「天の香久山」は「藤原京」の右隣にあります。図の下側は現在の明日香村で、左側の「丸山古墳」は欽明天皇陵説が有力な奈良県最大の前方後円墳、やや右の「甘樫丘」と「飛鳥寺」は、明日香村の入口に当たります。「藤原京」の中では、持統天皇の居所であった「大極殿」は図の一番上部にある筈です。<(参考)小墾田宮推定見取図>「大極殿」の中で、持統天皇が着座した「高御座(たかみくら)」の正面は「朱雀大路」ですね。「高御座」に着座した持統天皇の目線の右手には、「天の香久山」の麓に干されている「衣」が見えたのだと思われます。持統天皇の有名な「春過ぎて~」の和歌に出てくる「山」が、「畝傍山」でも「耳成山」でもなく、「天の香久山」だったのは、「高御座」から見える最短距離の山だったからだとリュウちゃんは愚考するのです。~閑話休題~以下、「藤原宮跡」で撮ったコスモスの写真を何枚か貼り付けます。「国のまほろば」を華麗に飾るコスモス、最高だ!約1時間ほど藤原宮跡を散策し、駐車場にもどりました。もう11時30分、昼食の時間だ。で、藤原宮跡の近くにある「餃子の王将」に入り、昼食。プファ~、ビールが旨い!「国のまほろば」の中で飲むビール、気分最高だ!午後1時ちょっと前、昼食を終え、次の目的地である「馬見丘陵公園」に向かいました。「藤原宮跡」から「馬見丘陵公園」までは、車で約20分の行程です。<馬見丘陵公園>午後1時ちょっと過ぎ、「馬見丘陵公園の「北エリア駐車場」に到着、おお、北エリアの「集いの丘」は、コスモスで溢れている!「集いの丘」から、「中央エリア」に向かいます。道沿いにも、コスモス、コキアが見頃を迎えていました。道の脇に、不思議な植物を発見、これ、何という植物なのだろう?女房殿が、この植物にスマホをかざしてみますと、あ~ら不思議。名前が出てました。「フウセントウワタ」リュウちゃんはスマホを持っていないのですが、スマホをかざすだけで、植物の名前が検索できる!凄い! 感激!小さいトンネルを潜って「北エリア」から「中央エリア」に出ます。中央エリアは、昭和j記念公園と同じように、レモンイエローの楽園なのだ!またまた道の脇に、不思議な花を発見、これ、何という花なのだろう?またまた女房殿に「スマホかざし」をやってもらって、その場では名前が判ったのですが、、、アチャ~、花の名前を書いたメモを失くしてしまった。アチャ~!上の花の名前をご存じの方、教えて下さいね。<「カリヨンの丘」のコキア>「レモンイエローの楽園」から、少し南にある「カリヨンの丘」に向かいました。ここの「見もの」は、「コキア」です。コキアも随分色づいてきた。もう紅葉の季節は近い。「カリヨンの丘」から、「ナガレ山古墳」を経て、「北エリア」に戻ります。公園の木の葉、少し色づいて来た。中央エリアの入口のところに「公園館」があります。「公園館」の正面に小さい丘があり、ここのコスモスには名前を期されたプレートが付けられています。以下、名前が確認出来たコスモスの写真を貼り付けます。<アプリコット・レモネード><イエローキャンバス><オレンジキャンバス><ダブルクリック>八重咲きのコスモスです。<シーシェル>花弁が円筒状になっている珍しいコスモスです。昨年も今年も、藤原宮跡で出逢えなかった「ダブルクリック」と「シーシェル」遂に今年、「馬見丘陵公園」で、生まれて初めて観ることが出来た!感激!
2022年11月11日
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境内に咲き誇る60種1万株のアジサイ、奈良のアジサイの名刹「矢田寺」、7年ぶりの訪問!6月8日、またまた女房殿の運転する車の助手席に乗って、奈良のアジサイの名刹、「矢田寺」に行って来ました。「矢田寺」はリュウちゃんの住んでいる斑鳩町の隣町、大和郡山市の「矢田丘陵」の中心である「矢田山」の中腹にあります。リュウちゃんの家から車で10分、行きつけの「馬見丘陵公園」とほぼ同じ距離なのだ!昼食を済ませ、午後1時に家を出発、1時10分、「矢田寺」の駐車場に到着、駐車場の管理人の話に拠れば、本日のアジサイの開花状況は「4分咲き」位とのこと、「3分咲き」でもなく、「5分咲き」でもなく、「4分咲き」、ちょっと微妙な表現だ!新型コロナ禍の為、一昨年、昨年と2年続けて矢田寺の「アジサイ祭り」は開催されませんでした。咲いたアジサイの花を全て摘み取ってしまったのだそうです。で、今年は3年ぶりの「アジサイ祭り」の開催となりました。今年の「アジサイ祭り」は6月4日~6月28日の24日に渡って開催されました。リュウちゃんが行った6月8日は、まだ開催4日目、「4分咲き」、やむをえない!以下の図は「矢田寺案内図」です。アジサイの主なビュースポットは下図左横にある「アジサイ庭園」ですが、「本堂」の裏の山際にも「アジサイ園」があります。また「本堂の右手前には「アジサイ見本園」があります。(略図)(広域図)「矢田寺」は、坂と石段の寺です。駐車場から入口の「山門」まで、約200m続く急坂の参道、本日、76歳の誕生日を迎えたリュウちゃんにとりましては、かなりキツい登り坂なのです。参道のキツい登り坂を登って、やっと入口の「山門」に辿り着きました。ここまで辿り着くこと、後期高齢者にはかなりシンドい!「山門」からは、150段の石段が続いています。この石段を見て、「矢田寺」参拝を諦める人も多いのです。石段の途中から見下ろした「山門」、眼下には大和郡山市、奈良市、天理市の町並みが霞んでいます。やっと境内に辿り着きました。下の写真の中央奥の建物は「本堂」です。本堂の裏側は「矢田山」なのです。アジサイのメインビュースポットである「アジサイ庭園」は、「本堂」の手前の左側にあるのです。「アジサイ庭園」に入ります。<谷間のアジサイ庭園>矢田寺のアジサイ庭園は、両サイドが急な斜面に挟まれたV字型の谷間にあります。谷間には細い散策の小径があり、小径の横には細い渓流が流れています。小径の両サイドは背丈の高いアジサイと新緑、「庭園」というよりは、アジサイのジャングルだ!アジサイの色は殆ど青系、赤系のアジサイは殆ど無し、酸性土壌のせいなのか?それとも、満開になれば赤いアジサイに変るのか?<アジサイについての俄か蘊蓄>◎アジサイは日本固有の花木だそうです。園芸種にある「西洋アジサイ」は、江戸時代後期に長崎の出島のオランダ商館の医官として日本に駐留していたシーボルトなどが、ヨーロッパに輸出し、輸出されたアジサイをヨーロッパで品種改良されたものを日本に逆輸入したものなのだそうです。◎アジサイの原種は「ガクアジサイ」なのだそうです。狭義のアジサイ(ホンアジサイ)は、原種のガクアジサイを品種改良したものなのだそうです。(ウィキペディアに掲載されているアジサイの原種「ガクアジサイ」)★上掲のガクアジサイを、もう一度注目して下さい。「花」の中央部は、ヒマワリの花の「種」の部分のように、無数の小さな青い粒状のもので構成されています。この部分が私達が通常、認識している「花」に当たる部分になります。アジサイは雌雄同花の植物なので、その花は「両性花」と呼ばれています。★中央部の外側に出ている、私達が通常、「花」だと認識している部分は、実は「花」ではなく、「萼」(ガク、通常の「花」では、花弁の一番外側にあり、花弁を支える役割を果たしている部分)なのだそうです。この部分は「花」のように見えますので、「装飾花」と呼ばれています。★アジサイの「花」は、「両性花」と「装飾花」で形作られています。果実(種)を作るのは「両性花」で、「装飾花」は生殖行為に関与しません。<手まり咲きのアジサイ>下の写真は、矢田寺のアジサイ庭園で撮った一枚です。★上掲のアジサイは「手まり」のように丸々としているので、「手まり咲きアジサイ」と呼ばれています。「西洋アジサイ」の殆どは「手まり咲きアジサイ」のようです。★「手まり咲きアジサイ」の「花」に見える部分は、全て「装飾花」、つまり「萼(ガク)」です。本来の花である「両性花」は、「装飾花」の下に隠されてしまって、見えづらくなっています。種子の採集に非常に難しいのだそうです。矢田寺の「アジサイ庭園」のアジサイ、殆どが「手まり咲きアジサイ」なのだ!30分ほど「アジサイ庭園」を散策し、境内に戻って来ました。境内の一角には、「アジサイ見本園」があり、矢田寺の60種のアジサイの品種の標本木が植えられています。以下、この日撮影出来た22種のアジサイを紹介致します。<見本園の品種>(1)「六甲山アジサイ」(2)「伊予時雨」(3)「エンジアンダム」(4)「八重カシワバアジサイ」(5)「ナデシコガク」(6)「みかん葉ガクアジサイ」(7)「乙女の夢」(8)「インマキュラーター」(9)「秋篠でまり」(10)「藍姫(あいひめ)」(11)「伊予てまり」(12)「ゆきあじさい」(13)「アナベル」(14)「椎葉(しいば)ヤマアジサイ」(15)「美里桜」(16)「海峡」(17)「紅(クレナイ)ヤマアジサイ」(18)「日向青」(19)「七変化」(20)「天城甘茶」(21)「ヒメアジサイ」(22)「ヤマアジサイ」<地蔵様とアジサイ>矢田寺は地蔵信仰のお寺です。境内の至る所にお地蔵様の石像があります。以下、お地蔵様とアジサイのコラボ写真を何枚か紹介致します。<本堂の裏・矢田山のアジサイ>矢田寺の本堂の裏は矢田山の上部で、アジサイ園には2000株ほどのアジサイが植えられています。ここのアジサイ、まだ「2分咲き」程度だが、まるで「奥の院」のような鄙びた趣きがある!<下山>約2時間の矢田寺散策を終えて、石段のない裏道から下山しました。下の写真は裏道の途上で撮ったものです。霞んで見える山並みの中央部は奈良市の若草山です。もう田植えが終わり、初夏到来だ。<Alla Tulca Café>参道の横手に、ちょっと洒落たカフェを発見、店名は「Alla Tulca Café(トルコ風カフェ)」、店内はこんな感じです。女房殿は抹茶シャーベットとワラビ餅を注文、リュウちゃんはビール大ジョッキとワラビ餅を注文、プファ~、ビールが旨い!元気で76歳の誕生日を迎えられたことに乾杯!
2022年07月02日
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いにしへの 奈良の都の八重桜けふ奈良公園に 咲きにけるなり(詠み人:元伊勢人のリュウちゃん)(南円堂と奈良八重桜)(萬葉植物園の藤の花)4月26日、「藤の花」を求めて、奈良公園を一周して来ました。これまで、この時期の奈良公園一周は、「藤の花」だけが目的だったのですが、今回は公園の各所に咲いている「奈良八重桜(ならのやえざくら)」も観て周りたいという「欲張り」な行脚なのです。<奈良八重桜について>奈良八重桜は平安時代の女流歌人、伊勢大輔(いせのたいふ/いせのおおすけ)が詠んだいにしへの 奈良の都の八重桜けふ九重に にほひぬるかな(小倉百人一首、第61番)の歌で有名になった超遅咲きの八重桜です。(伊勢大輔)伊勢大輔は、寛弘5年(1008年)頃に一条天皇の中宮・上東門院藤原彰子に仕え、和泉式部・紫式部などと親交し、晩年には白河天皇の傅育の任にあたった女官です。上掲の和歌は、京都の宮中で奈良から献上された八重桜を受け取る役目を、紫式部が勤める予定のところ、新参女房の伊勢大輔に譲ったことがきっかけとなり、更に藤原道長の奨めで即座に詠んだ和歌が、上東門院をはじめとする人々の賞賛を受けたものです。ウィキペディアの記述によりますと、「奈良八重桜」は、★カスミザクラが重弁化した変種であると考えられている。ナラノヤエザクラの繁殖力は極めて弱く、殖やすのが非常に難しい。樹勢は弱く、寿命も短い。東大寺の塔頭「知足院」に植えられていた「知足院奈良八重桜」も1923年に天然記念物に指定された樹は既に枯れてしまっている。★花弁は「奈良市史 自然編」によると 22 枚から 79 枚、「新日本の桜」によると 30 枚から 36 枚とされる。★ナラノヤエザクラはカスミザクラが重弁化した品種であるため、八重桜にしては小ぶりで清楚な花を咲かせる。花は 4 月下旬から 5 月上旬に咲き、ゴールデンウィークの頃に満開となる。★奈良八重桜は奈良市が市制施行した5年後の1903年に制定された奈良市章の素地となっている。(奈良市市章)★奈良八重桜は奈良を代表する花として1968年には奈良県花に制定された。さらに1998年には奈良市花に制定されている。これまでリュウちゃんは「開花している奈良八重桜」を確(しか)と観た記憶が無いのですが、奈良公園の八重桜の咲いている所を巡ってみることにしました。午前10時、興福寺の北円堂に到着、北円堂と南円堂の間にある数本の八重桜、確かに「奈良八重桜」だ!白とピンクが交じった小さい花弁、清楚だ!中金堂と五重塔の傍にも奈良八重桜が咲いている!興福寺から国立博物館に向かいます。国立博物館への道筋にも、相当数の奈良八重桜がある!国立博物館の裏の駐輪場横の奈良八重桜です。国立博物館から、春日大社の入口である「飛火野」に出ます。飛火野の棚藤、今年も元気だ!飛火野のもう1本のクスノキも、相変わらずの威容だ!奈良公園の藤のメッカ、「萬葉植物園」に入ります。「藤園」の藤は満開のようだ。入口にある「九尺藤」昨年に比べ、ちょっと短いが、元気だ。「萬葉植物園」は、昭和7年、万葉集に登場する約300種の植物を、なるべく人の手を加えず、自然のままに植えた植物園です。9000坪の園内には、300種の萬葉植物を植えた「萬葉園」、「椿園」、「藤園」などがあり、4月末からは藤の見物客で賑わうのです。以下、「萬葉園」の花を紹介します。★「ヤマブキ」★「大根の花」通常、大根は花が咲く前に収穫されてしまいますので、私達が近所の畑で大根の花を見る機会は殆ど無いのですが、ここは花を観賞する庭園ですので、珍しい大根の花を見ることが出来るのです。★「臥竜のイチイガシ付近のツツジ、花菖蒲、藤の花」「萬葉植物園」の「萬葉園」の中心部には、「臥竜(がりゅう)のイチイガシ」という巨木があります。「臥竜のイチイガシ」の周辺の花々、「萬葉園」のビュースポットなのだ!「藤園」に入ります。今年も「藤園」を観ることが出来た!★「山藤」「藤園」には、2本の巨大な「山藤」があります。入口近くにある1本は、殆ど花は付けていなかったのですが、もう1本の山藤は、以下の写真のように、かなり多くの花を付けていました。「藤園」には、20種類の藤が植えられています。今回はその内、12種類を撮影出来ましたので、以下に写真を貼り付けます。(1)<黒龍藤>(2)<麝香(じゃこう)藤>(3)<口紅藤>(4)<白甲比丹(かぴたん)藤>(5)<岡山一歳>(6)<昭和紅藤>(7)<新紅藤>(8)<緋ちりめん藤>(9)<本紅藤>ビュースポットで一際目立つピンクの藤、「本紅藤」だったのだ!(10)<白野田藤>(11)<九尺藤>「九尺藤」とは、花房が九尺(約273cm)にも伸びるという藤の種類です。「萬葉植物園」の「九尺藤」、今年の花房は、長いもので1,5m位のようです。尚、兵庫県丹波市の「白毫寺(びゃくごうじ)」には、120mに及ぶ九尺藤だけの藤棚があるそうです。白毫寺の九尺藤、全然知らなかった。来年には是非行って見たい!(百毫寺の九尺藤・HPからお借りしました)(12)<八重黒龍藤>まるで葡萄のような花房、ゴージャスだ!「萬葉植物園」を出て、春日大社に向かいます。<春日大社境内の「砂ずりの藤」>樹齢800年とされる奈良公園では一番有名な藤です。「砂ずりの藤」という名称は、かっては花房が地上にまで伸びて、地上の砂を擦るというところから名付けられたようですが、最近では樹勢が衰えたせいか、花房の長さはせいぜい50センチくらいなのです。でも、建物の「朱色」と砂ずりの藤の相性は抜群なのだ!<若草山の麓の奈良八重桜>リュウちゃん、これまで全然気付いていなかったのですが、若草山の麓にも、奈良八重桜が10本ほど植えられていました。若草山の麓、4月上旬はソメイヨシノ、4月下旬は奈良八重桜。2回、お花見が楽しめるのだ!<若草山の麓から国際フォーラムへの坂道>この道の脇には20本位の奈良八重桜の並木があります。<奈良春日野国際フォーラムの庭園>4月2日の奈良公園の桜行脚では、まだ奈良国際フォーラムの庭園の奈良八重桜は「蕾固し」だったのですが、24日あとの本日、庭園の丘に登りますと、咲いていました!<南大門前>奈良八重桜行脚のラストは「南大門前」です。南大門の近くの「夢風広場」のレストランで遅い昼食、プファ~、ビールが旨い!ビールに酔い、桜に酔い、藤の花に酔う、酔い3倍増の至福の1日なのだ!
2022年05月13日
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「馬見丘陵公園」の「集いの丘」、満開の桜とチューリップのコラボ、何時もながら、見事!4月3日、女房殿の運転する車の助手席に乗って、近所の「馬見丘陵公園」に行って来ました。「馬見丘陵公園」は奈良市の南西部にある河合町と広陵町にまたがって広がる面積65ヘクタールの広大な県営公園です。四季折々の花が咲き、何時行っても楽しめる「花の公園」なのです。今回のリュウちゃんの目的は、「馬見丘陵公園」の満開の桜を観ることです。これまで何回も馬見丘陵公園の桜をブログで紹介したことはありましたが、いつも断片的な紹介に止まり、公園全体の桜行脚をしたのは、今回が初めてなのです。「馬見丘陵公園」の全ての桜のビュースポットを行脚しよう!「馬見丘陵公園」では、4月9日から「チューリップ祭り」が始まります。4月3日には、当然、チューリップも「見頃」に近づいている筈ですので、「桜とチューリップのコラボ」も楽しめる筈です。桜とチューリップ、どんなコラボを見せてくれるのだろう?以下の「図」は、「馬見丘陵公園」の「中央エリア」です。上掲の「図」について説明します。○右端の「現在地」とある所は、「中央エリア」と、「図」の右端のはみ出したところにある「北エリア」の分岐点です。「北エリア」の「花見茶屋」の上部に、公園のメインのイベント会場である「集いの広場」があります。○本日は行きませんでしたが、「図」左下の道路の左側が「南エリア」です。南エリアには巣山古墳があり、手前には50本の河津桜や、寒緋桜の並木、蝋梅など、2月から3月にかけて楽しめる花木が植えられています。本日、リュウちゃんは「北エリア」から入り、以下の順路で公園を巡りました。北エリア駐車場~花の道~菖蒲園~流れのある坂道~乙女山古墳の下部(ハナモモの丘)~一本松古墳~カリヨンの丘~「上池」の上部~睡蓮の池~公園館~花の道~(北エリア)集いの丘、午後1時過ぎ、「北エリア」の駐車場に到着、おお、北エリアのチューリップ、ほぼ満開だ!チューリップの後ろの雪柳、やはり満開だ!ちょっと変わった花弁のチューリップ何という品種なのだろう?ムスカリも「見頃」だ!北エリアから、短いトンネルを潜って、中央エリアに出ます。中央エリアのチューリップは、5分咲きだ。中央エリアのチューリップ園の横手にある「菖蒲園」の隣が、「馬見丘陵公園」の最初のお花見スポットです。「菖蒲園」は開花準備中、お花見スポット、さすがに賑わっている!<ハナモモの丘>「ハナモモの丘」は「乙女山古墳」の下部、「下池」の畔にあります。疎らに植えられた約50本の花桃、「見頃」だ!<源平桃>様々な種類の花桃の中に、一本だけ、「源平桃」がありました。「源平桃」とは、一本の桃の木に紅白の花を付ける珍しい品種です(梅の木でいえば、「思いのまま」という品種ですね)。江戸時代に作出されたようですが、近年になって庭木として人気が出てきた品種です。一本の木に紅白様々な模様の花が咲く、正に驚き、桃の木、山椒の木なのだ!「ハナモモの丘」から、「一本松古墳」エリアに向かいます。途上の雪柳が美しい!<一本松古墳のチューリップ>「ハナモモの丘」から「一本松古墳」エリアを通って「カリヨンの丘」に行きます。これまで、「一本松古墳」エリアのチューリップは殆どブログで紹介したことが無かったのですが、ここで紹介させて頂きます。「一本松古墳」エリアのチューリップ、まだ新しいエリアだが、見応え充分のエリアになって来た!チューリプの間から、「ネモフィラ」が顔を出しています。チューリプが終わる4月下旬には、チューリップ畑一帯は「ネモフィラ畑」に変身するのです。<カリヨンの丘>ここのチューリップ、まだ「5分咲き」だ!(ムスカリは見頃)<ナガレ山古墳の下、「上池」の畔>「カリヨンの丘」から「上池」の畔に行きます。ここは「馬見丘陵公園」の、第2の桜のビュースポットなのだ!<睡蓮の池>「北エリア」から「上池の畔」までは「往路」なのですが、「上池の畔」からは「復路」になります。「復路」の道筋から少し右手に入った所に「睡蓮の池」があります。「睡蓮の池」の周囲には、100本ほどの「木瓜(ボケ)の花」が咲いています。木瓜の花の桜のコラボ、素敵だ!「睡蓮の池」の後ろの広場、第3の桜のビュースポットだ!<北エリア、「集いの丘」>「睡蓮の池」から「花の道」を経由し、「北エリア」に戻って来ました。「馬見丘陵公園の桜行脚」のラストは、「集いの丘」の周辺に咲く桜とチューリップです。ここは、第4の、そして最大の桜のビュースポットなのだ!本来なら、「集いの丘」の芝生の上にビニールシートを敷いて、プファ~、ビールが旨い!とやりたいところなのですが、ファミリー層の入場者が多く、ここで「プファ~」とやるのは「場違い」に思われますので、帰路、ファミリー・レストランに立ち寄り、一献傾け、プファ~、ビールが旨い!桜とチューリップの残像がツマミなのだ!
2022年05月06日
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天空に浮かぶ1000本の枝垂れ桜ここは奈良の新しい桜の名所なのだ!3月中旬、女房殿のスマホに、女房殿の50年来の友人である三重県在住のY子さんから、以下のようなメールが届きました。<4月7日に「高見の郷(たかみのさと)」に、お花見に行かない?>高見の郷???奈良の「桜ハンター」を自認するリュウちゃんにとりましても、初めて聞く地名です。高見の郷って、どんな所だ?何処にあるのだろう?と思って、ネット検索しました所、以下のHPに出逢いました。<「高見の郷」HP>ここをクリック、以下同様。<「高見の郷」公式ムービー2019>天空の庭「高見の郷」、山上に咲き乱れる1000本の枝垂れ桜!う~ん、凄い桜の名所のようだ。リュウちゃんも行ってみたくなった!で、今年の開花情報を調べてみますと、「4月5日に開花」とありました。4月5日に開花であれば、「見頃」は4月10日頃からかな?よし、10日過ぎの天気のよい日に、女房殿と2人で行ってみよう!結局、4月7日は、まだ「咲き始め」でしたので、女房殿とY子さん達の「仲良し四人組」の高見の郷行きは実現しなかったのですが、リュウちゃんと女房殿は、4月12日に車で「高見の郷」にお出掛けしたのです。「高見の郷」って、何処にあるのか?どうやって行けばいいのだろう?「高見の郷」の住所は以下です。<奈良県吉野郡東吉野村杉谷298-1>因みに、最寄り駅である近鉄大阪線「榛原(はいばら)駅」からはタクシーで約40分、料金は片道約7000円だそうです。以下の図は、<「高見の郷」のHP>に掲載されていたアクセスマップです。上掲の図で、左側に「近鉄榛原駅」があります。右側の「高見の郷」の上にある「高見山」は、奈良県東吉野村と三重県松阪市の県境にある、標高1249mの山です。その山容から、「関西のマッターホルン」と呼ばれています。(高見山)「高見の郷」奈良の秘境中の秘境なのだ!4月12日の朝、カーナビに上記の住所をインプットし、午前9時、自宅出発、午前10時30分、順調に「高見の郷」の駐車場に到着、法隆寺の近くにあるリュウちゃんの自宅から、約1時間30分で「高見の郷」に着いた。案外、近いのだ!駐車場からは、無料のシャトルバスが頻繁に出ていて、「高見の郷」まで運んでくれます。リュウちゃん夫妻も、シャトルバスに乗り、「高見の郷」の「天空の庭」まで行ったのです。「天空の庭」のバス停付近、いきなり枝垂れ桜のシャワーだ!ここで、「高見の郷」の「桜MAP」を貼り付けます。(桜MAP)上掲の「桜MAP」について、リュウちゃんの「俄か注釈」を書いてみます。★上掲図一面に貼り付けられているピンクのマークは、全て「枝垂れ桜」です。ソメイヨシノや山桜、八重桜は一本も無く、純粋な枝垂れ桜の園なのです。★恐らく、上部の「(5)千年の丘(展望台)」と、「(1)受付」の標高差は200m位ありそうです。仮に「(2)天空の庭」の標高を600mとしますと。最上部の「(5)千年の丘(展望台)」の標高は700m、最下部の「(1)受付」の標高は500mになります。つまり「受付」から「千年の丘」の標高差は約200mということになります。★「高見の郷」の桜の分布は、「吉野の桜」の分布によく似ています。吉野の桜は、下から「下千本」、「中千本」、「上千本」、「奥千本」の4っつのブロックに分けられますが、リュウちゃんは「高見の郷」の桜も、便宜上、「上千本」、「中千本」、「下千本」の3つのブロックに分けることにしました。◎「上千本」:上掲の「MAP」で、「(5)千年の丘(展望台)」から、「「(1)受付」のブロックの桜を「上千本」と呼ぶことにします。◎「中千本」:上掲の「MAP」で、「「(2)天空の庭」と称されている「高見の郷」のメインスポットのことを「中千本」と呼ぶことにします。ここには、「天空のレストラン」という茶店があり、うどん、そば、カレー、たこ焼きを食べることが出来ます(アルコールもありました!)「中千本」には、「MAP」にある「赤い蛇の目傘」の辺りに、花見客のためのベンチが数多く設置されているのです。◎「下千本」:「MAP」右下の「(4)記念植樹コーナー」の場所を、「下千本」と呼ぶことにします。ここは、どんどん桜の本数が増えている場所のようで、まだ苗木に近い幼い桜の木も多く観られる場所なのです。<中千本から上千本へ>シャトルバスで中千本に降りてから直ぐに「上千本」の頂上である「千年の丘(展望台)」に登って行きました。標高600mの山上ハイキング、途上の周辺はピンク一色なのだ!途上から観る対面の緑の山並みと「上千本」と「中千本」、絶景また絶景!!!桜の花のアップ、吉野の桜にと比べても、花の密度の濃さが段違いだ!<上千本の頂上、「千年の丘展望台」>頂上は桜は少ないが、山のオゾンが美味しい!<中千本「天空の庭」>「上千本」から一挙に「中千本」の「天空の庭」に降りてきました。やはりここは、東京で云うならば「銀座通り」、人も桜も、一段と華やいでいる!<休憩所の赤い蛇の目傘>「天空の庭」には、休憩所に2本の赤い蛇の目傘が設置されていました。ピンク一色の枝垂れ桜の中にある3本の赤い蛇の目傘は、桜の華やかさを一層高めていいて、見事なものだとリュウちゃんは感じたのです。赤い蛇の目傘のある桜の風景、華やぎの極みなのだ!もう12時30分、お腹が空いた!で、茶店で、「山菜そば」と缶ビール(2缶)を購入し、茶店の前のベンチで昼食(女房殿は、「山菜うどん」とお茶だけで、アルコールは飲まないのです)プファ~、ビールが旨い!四方をピンクの桜で囲まれた中で飲むビール、最高だ!!!<「高見の郷」について>既に「日本一の枝垂れ桜の名所」となっている「高見の郷」、ここは2004年(平成16年)に開園した出来立てホヤホヤの新しい桜の名所です。林業を営んでいた島崎照章さんが自分の所有していた山を「桜の園」に代えてしまったという、全国的にも珍しい「私園」なのです。島崎さんが「高見の郷」を造った経緯につきまして、「まほなび、自然と暮らす、」というネット記事を見つけました。非常に興味深い記事なので、全文をコピペして、以下に貼り付けます。<高見の郷/島崎 照章 さん 章 さん>関西のマッターホルンと呼ばれる名峰・高見山の近く、悠久の山々が連なる一角に桜の園が、今年も見頃を迎えようとしている。東吉野村杉谷地区の標高650mの地、5年前に植えられた1000本余りのしだれ桜が、手入れの甲斐あって樹形も花付きも見事になってきたものだ。「高見の郷」と名づけられた他に類を見ないこの園の花咲爺は島崎章・照章親子。二人は、林業不振で植林や世話が追いつかず地肌を見せる山が増えてくる中、環境保全からも、また先祖伝来の山林の緑を守りたいとの思いから、桜の園を計画。桜の種類を、寿命百年ぐらいのソメイヨシノと異なり手入れ次第で何百年も咲き続けるしだれ桜とし、全国から優良株を求めて植樹した。「杉やヒノキは百年単位の仕事、何代も先でないと結果が見えないが、桜なら皆に楽しんでもらえるし収入にもつながる」と、代々の林業続行の一方でこの観光林業に踏み切った。植樹や遊歩道などの基礎工事は専門職によるものだが、樹形を整える養生や肥料やりなど桜自身の世話と、雑草刈りやこまごまとした環境整備などの仕事は年間を通して山ほどある。地元のシルバー人材を活用する一方で、父章氏の高校同窓生たちのシルバーパワーが強力な味方に。東住吉高校時代の友人たちが県内外から駆けつけ、準備段階から率先して作業を手伝った。「ここに来るとマイナスイオンやオゾンがいっぱい。元気になりまっせ」「桜は手入れするほど美人になるんですわ」と、口を揃える笑顔がいい。今でもオフシーズンは週3回、開園時期には泊まり込みで、駐車場係や遊歩道案内役などのボランティアを買って出る。無報酬だが、昨年建てたバンガローで鍋やバーベキューを囲み、春は太閤秀吉気分、夏は満天の星の下で暑さ知らず、秋は桜の紅葉、冬は雪景色満喫と、“毎日が日曜&同窓会”を楽しんでいるのだとか。最初の数年間は、20年・50年物の桜以外は余り見応えがなかったが、昨年から若木の樹勢もよくなり、観光バスも入るほどになった。遊歩道は入り口から頂上まで上り坂600m。多少息を切らせながら行く桜のアプローチ道だが、下りてくる人々が口々に「来てよかった。まさに“絶景かな”でした」と。高齢者など足腰の弱い人用には送迎車(要森林協力金)を用意。涙を流して喜んでくれた老婦人もいたそうで、障害を持つ人たちへの特別招待なども検討中とのことだ。また、掘り当てた天然の湧水は、国道166号線沿い入り口に誰でも無料で汲めるようにしてあり、訪れる人が後を絶たないほどの人気。4月~5月の青空の下、濃い緑の山並みのなかに、遊歩道に沿って植えられたレンギョウの黄やユキヤナギの白に濃淡のピンクのしだれ桜の饗宴は、まさに“天空の庭”だ。「子々孫々守り継いでいってくれたらと、“千年の丘”と呼んでいます」と章氏が言えば、「まずは“島崎家百年の計”と、父と僕、そして1歳の娘、そのまた子どもへと、桜の名所が継がれていくよう、今をがんばりたいです」と、広報部門等担当の照章代表が頼もしく語った。(島崎 照章 さん 章 さん)<下千本「記念植樹コーナー」>昼食を終えて、記念植樹コーナーに降りて行きます。ここは「高見の郷」で、一番若いエリアだ。これからも植樹する人が増え、益々桜の数が増えて行く筈だ!<下山>1時間ほど「下千本」の桜のシャワーを堪能し、再び「天空の庭」に戻り、そこから下山しました。往路はシャトルバスで上って来たのですが、復路は歩いて下山しました。「下山」の道は、「上千本」を見上げる道なのです。これで初めて来た「高見の郷」ともお別れだ。<「高見の郷」と「吉野」>来場者の1人と少し会話しました。その人は、「これから吉野に桜見物に行きます」とのことでした。「高見の郷」と「吉野の桜」を1日で巡る!そんなことが可能なのか?「高見の郷」のある東吉野村と、「吉野の桜」のある吉野町は、隣接した自治体です。改めて地図を調べてみました所、「高見の郷」の下を通っている「国道166号線」から、吉野町に行く「奈良県道16号吉野東吉野線」に入れば、30分ほどで「桜の吉野」に着くことが出来そうです(あくまでも、地図を見ただけの感じなのですが、、)日本一の「吉野の桜」と日本一の「高見の郷」の枝垂れ桜を1日で巡ることが出来る!何とゴージャスなお花見ルートなのだ!帰路の途中、国道166号線沿いの「道の駅」に立ち寄りました。道の駅の無人案内所に、以下のような手書きの案内板が掲示されていました。この「道の駅」は、「又兵衛桜」まで(車で)8分、「仏隆寺の千年桜」まで35分、「高見の郷」まで15分、更に「桜の吉野」まで30分ここは日本の「桜のメッカ」だったのだ!(又兵衛桜)(仏隆寺の千年桜)
2022年04月27日
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後期高齢者になってから初めての吉野、今年も、満開の桜に巡り合えた!4月7日に「桜の吉野」に行って来ました。奈良人リュウちゃんの花遍路のモットーは、梅は月ヶ瀬、桜は吉野ですので、後期高齢者一年生の今年も、このモットーを果たすことが出来たのです。「吉野の桜」は、ほぼ毎年のように観に行っているのですが、最近は「奥千本」の満開の時期に合わせて行くことが多く、その時には「中千本」、「下千本」の桜は「ほぼ終わり」ということが多かったのです。よし、今年は「中千本」の「竹林院群芳園」にある、「天人の桜」の見頃に合わせて行ってみよう!で、新聞夕刊の「桜便り」で、「中千本」が七分咲きになった翌日の4月7日にリュウちゃん一人で出掛けたという次第です。例によりまして女房殿お手製のおにぎり弁当と、リュウちゃんお手製(?)の缶ビール(2缶)をリュックに詰め、午前7時30分に家を出発、電車を2回乗り継ぎ、午前10時に近鉄吉野駅に到着、アリャ~、出発点の吉野駅前は凄い混雑だ!ここで、「吉野山桜見所マップ」を貼り付けます。(吉野山桜見所マップ)上掲のマップで、出発点の「吉野駅」は、マップの左隅にあります。吉野駅の標高は207mです。今日は「吉野駅」からマップ右上の「奥千本」の下に表示されている「水分(みくまり)神社(吉野水分神社)」まで徒歩で往復しようという計画です。標高207mの「吉野駅」から「吉野水分神社」までの距離は、4,7km、「吉野水分神社」の標高は596m、「吉野駅」との標高差は389m、後期高齢者一年生のリュウちゃん、歩いて往復出来ますことやら?<吉野ロープウェイ>近鉄吉野駅の近くに、ロープウェイの駅があります。このロープウェイは吉野の総門である「黒門」の手前まで行っているのですが、もちろん、リュウちゃんは乗らず、歩いて登るのです。<七曲坂>駅から「黒門」までは「七曲坂」を登って行きます。「七曲坂」の途上は「下千本」です。対面の小山の桜ここも「下千本」なのかな?やはり「七曲坂」も、少し賑わっている!<七曲坂の2本の枝垂れ桜>「七曲がり坂」の頂上近くに、2本のピンクの枝垂れ桜があります。この枝垂れ桜、「七曲坂」を上る時の大きな楽しみなのだ!<最初の展望所と「大橋」の桜>「七曲坂」を登り切ったところに、「下千本」の最初の無料展望所があります。ここからの展望、なかなか素晴らしい!展望所の横に、「大橋」という小さな赤い橋があります。赤い欄干と桜のコントラストが美しい!橋とたもとに、ミツマタとボケの花(かな?)が咲いていました。<黒門>「大橋」から少し歩きますと、吉野山の総門である「黒門」に至ります。ここからが本当の吉野、今年も吉野に来られて良かった!「黒門」を潜ったすぐ右側の道脇に、大きな椿とピンクの枝垂れ桜のコラボが見られます。<蔵王堂>「黒門」から暫く商店街のなだらかな坂道を上って行きますと、吉野のシンボルである「蔵王堂」に着きます。おお、蔵王堂前の山桜、満開だ!久々に満開の山桜を観ることが出来た!<吉野朝跡地の「妙法殿八角三重塔」>「蔵王堂」の左側にある石段の下に「妙法殿八角三重塔」が建っています。ここは南朝の後醍醐天皇の皇居跡地で、かっては後醍醐天皇の行宮となった「実城寺(金輪王寺)」があった場所です。「実城寺」は明治の廃仏毀釈で廃寺となってしまいましたが、昭和32年、新たに「妙法殿八角三重塔」が建てられ、ここには後醍醐天皇以下、南朝四帝を祀っているのだそうです。ここはリュウちゃんの大好きな吉野の隠れた桜の名所なのだ!「蔵王堂」の石段から、「上千本」が見渡せます。おお、「上千本」は、ほぼ満開だ!<東西院>「蔵王堂」から少し歩きますと、近衛家の祈願所であった「東西院」に至ります。今回の吉野行きの目的の一つが「東西院の多宝塔の横の満開の枝垂れ桜を観る」ことだったのですが、残念ながら、少し「散り始め」だ。でも、まずまずのコラボが観られ、良かった!尚、東西院の多宝塔は、昭和12年に和歌山県から移築されました。<吉水神社の「一目千本」>「東西院」から歩いて数分の所に、吉野の桜の屈指のビュースポットである「吉水神社」に至ります。おお、「吉水神社」から観る「一目千本」、正に「見頃」だ!<豊臣秀吉の「吉野の花見」>文禄3年(1594年)2月27日(新暦:4月17日)から5日間に渡り、関白・豊臣秀吉は「吉水院」(現在の吉水神社)に本陣を置き、盛大な「花見会」を催しました。この4年後に催された「醍醐の花見」では、1300人が参集したと云われていますが、「吉野の花見」に参集したのは、「醍醐の花見」の約4倍の5000人!正に「空前絶後」の盛大な催しだったようです。この花見には、、豊臣秀次、徳川家康、前田利家、伊達政宗、細川幽斎、織田信雄(のぶかつ)、宇喜多秀家、小早川秀秋などの武将の他、大勢の公家も参集したようです。<吉野花見図屏風 >京都の「細見美術館」に、以下のような「吉野花見図屏風」が所蔵されています。(吉野花見図屏風)この「屏風絵」は、作者不詳なのですが、織田信長、豊臣秀吉に仕えた狩野派の絵師・狩野光信の作という説が有力です。狩野光信は、秀吉の肖像画を少なくとも2点残していますが、その内の1点を以下に貼り付けます。後世に描かれた肖像画と違い、同時代に描かれたものなので、秀吉の実際の風貌がこの絵により窺い知れるのではないでしょうか。(狩野光信「豊臣秀吉像」)「吉野花見図屏風」には、2つの「塔」が描かれているが、現存する吉野の「2塔」は、昭和時代のもの、秀吉の時代、何処に「2塔」があったのかな?<竹林院群芳園>正午ジャスト、本日のお目当ての「竹林院群芳園」に入りました。今年の「吉野行き」の主目的は、「群芳園」の「天人の桜」の満開を観ることだったのだ!「群芳園」に入ります。「天人の桜」、少し「散り始め」だったが、久々に花を観ることが出来た!<天空の桜>「天人の桜」の近くに、樹高の高い「天空の桜」があることを今回初めて知りました。樹高の低い「天人の桜」と樹高の高い「天空の桜」のコラボ、見応えタップリなのだ!この時期、「群芳園」には、桜と共にミツバツツジが満開になっています。庭園の「山」を登ります。見晴らしの良い山上には、休憩所である「東屋」が2棟建てられています。リュウちゃん、上掲の山桜に囲まれた東屋で昼食を摂りました。プファ~、ビールが旨い!気分は豊臣秀吉なのだ!<上千本へ>「群芳園」の山上でゆったりとした昼食を終え、「上千本」を目指します。後期高齢者のリュウちゃん、まだまだ健脚は衰えていない!?<「さくら咲競(さくら)プロジェクト」の標識>午後2時、「上千本」を見下ろす「さくら咲競(さくら)プロジェクト」の標識のある場所に到着しました。ここから見下ろす吉野の桜、天下一品の光景だ!<花矢倉展望台>「さくら咲競(さくら)プロジェクト」の標識のある場所から少し上に、「花矢倉展望台」があります。この展望台から、「蔵王堂」までの桜が一望出来るのだ!<吉野水分(みくまり)神社>「花矢倉展望台」から、本日の最終目的地である「吉野水分神社」までは、「ほんの一息」の距離なのです。午後2時30分、「吉野水分神社」に到着、おお、ここの枝垂れ桜、正に「見頃」だ!今年も「水分神社」の枝垂れ桜を観ることが出来て良かった!午後2時40分、下山開始、約4時間掛けて登って来た同じ道を一挙に下ります。「下千本」の辺りの道では、早くも路上に花吹雪が散っていました。午後4時10分、無事に吉野駅前に到着、少し喉が渇きましたので、駅前の「さくら堂」という茶店のテラスで、「桜ソフトクリーム」と缶ビールを注文し、暫し休息、プファ~、ビールが旨い!ツマミの「桜ソフトクリーム」も、喉に心地良い!
2022年04月21日
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春日大社の枝垂れ桜も、大仏殿の桜も、奈良公園の桜、見事に満開!梅の季節が終わったと思う間もなく、あっという間に桜の季節になりました。奈良県では3月26日に開花宣言が出て、奈良公園では早くも3月31日に満開となりました。よし、今年の桜行脚は、奈良公園から始めて見よう!ということで、晴天になった4月2日に奈良公園の「桜行脚」に出掛けてみたという次第です。以下は、行脚の事前計画です。全て徒歩で巡る予定です。JR奈良駅~興福寺~浮見堂~飛火野~春日大社~若草山の麓~東大寺二月堂~東大寺大仏殿~奈良春日野国際フォーラム・夢~I・RA・KA~氷室神社~大仏鉄道公園~佐保川土手う~ん、後期高齢者のリュウちゃんには、ちょっと欲張りな計画かな?でも、ダメ元で行ける所まで行ってみよう!午前9時過ぎ、家を出発、午前10時、JR奈良駅に到着、行脚開始です。<興福寺の桜>午前10時半ちょっと前、興福寺の南円堂に登って行く石段の下に到着、「興福寺の桜」も、ここから始まります。<三重塔>上掲の写真の左側の石段の途中の小道を左に入りますと、「三重塔」があります。ここは奈良公園最初の桜スポットだ!<北円堂の桜>「北円堂」の前には、八重桜が数本植えられているのですが、いずれも「遅咲き」で、この日はまだ「蕾固し」でした(残念!)<中金堂>興福寺の中金堂は創建当時から興福寺伽藍の中心的な建造物だったようですが、創建以来、6回も消失してしまいました。現在の中金堂は「七代目」で、平成30年(2018年)に再建された「新築」の建造物なのです。中金堂の屋根瓦の一枚、リュウちゃんが寄進したのだ!<五重塔>興福寺のシンボル、「五重塔」の周りには、桜は殆どありません。いつも五重塔と桜のコラボの撮影には苦労する!<奈良国立博物館・仏教美術資料研究センター>明治35年、奈良県の物産陳列所として建造された関野 貞(せきの ただし)の設計によるモダンな木造建築です。昭和58年、国の重要文化財に指定されました。玄関前の枝垂れ桜、素晴らしいのだが、残念ながら、まだ蕾、10日位後に満開になりそうだ!<浮見堂>「仏教美術資料研究センター」の前に、「片岡梅林」があります。まだ少し梅の花が咲き残っていた!「片岡梅林」から、「浮見堂」に降りて行きます。「浮見堂」周辺は、桜の見物客で賑わっている!ここは奈良公園屈指のお花見スポットなのだ!<飛火野園地>「浮見堂」から春日大社の入口に当たる「飛火野園地」に入ります。ここは昭和63年に「シルクロード博覧会」が開催された広大な芝生の広場で、「鹿寄せ」が行われる「鹿の楽園」です。桜の数は少ないが、奈良公園の中でも屈指のお花見スポットなのだ!<春日大社・南門の前の枝垂れ桜>「飛火野園地」から、春日大社に入ります。境内には桜は殆ど無いのですが、リュウちゃんのお目当ては、南門の横手にある枝垂れ桜です。おお!久々に観る南門前の枝垂れ桜、ほぼ満開だ!春日大社から若草山に向かう参道の横手にある食べ物屋の庭に、桜・ミモザ・ツツジの3色の花のコラボを観ることだ出来ました。この3色の花のコラボ、奈良公園の隠れたお花見スポットだ!<若草山>春日大社の境内を出て、若草山に向かいます。若草山の麓にも、何本かの桜が満開になっていまして、入場者の列が絶えませんでした。<大仏殿>若草山から、手向山八幡宮、東大寺二月堂を経由して、大仏殿の裏手に出ます。大仏殿の屋根の黄金色の鴟尾(しび)と桜のコラボ、奈良公園の桜の屈指の「見所」なのだ!<南大門前の広場>「大仏殿」から、「南大門」の横手に広がる広場に出ます。ここは奈良公園のメインのお花見スポットなのだ!<奈良春日野国際フォーラム「夢~I・RA・KA~」>広場の上部に、<奈良春日野国際フォーラム「夢~I・RA・KA~」>というイベント施設があります。この建物、その名称のように、厳めしくて、一般人には立ち寄り難い施設です。施設の前には、表示が何も無く、しかも入場口の扉は二重になっていて、まるで一般人の入場を拒否しているような威圧感があります。しかし、この施設は入場無料、誰でも立ち入り自由なのだ!施設の裏には、奈良公園屈指の「日本庭園」があります。この庭園も、入場無料なのです。この日本庭園、本数は少ないが、桜の隠れた名所なのだ!以下、この庭園の桜を紹介致します。<紅豊(べにゆたか)><八重紅枝垂れ><江戸彼岸桜><小彼岸桜>庭園の山径を登って行きます。小高い丘の頂上には、奈良ゆかりの2種類の桜が植えられています。<奈良九重桜><奈良八重桜>いにしへの奈良の都の八重桜けふ九重ににほひぬるかな<伊勢大輔(たいふ)、百人一首第61番>百人一首の中でも人気の高い女流歌人・伊勢大輔の短歌に詠われた「奈良八重桜」、ですが、超遅咲きの桜であるためか、まだ「蕾固し」でした。奈良人リュウちゃんも開花を観たことが無い「奈良八重桜」、何時頃、満開になるのだろうか?(まだ「蕾固し」の奈良八重桜)もう午後2時だ、お腹が空いた!で、奈良国立博物館の向かい側にある「夢風ひろば」の中にあるレストランで遅い昼食、プファ~、ビールが旨い!レストランの窓から大仏殿が一望できる。目も心もゴージャスなのだ!<氷室神社>2時30分頃、遅い昼食を終えて、三条通りの坂を下り、「氷室神社」に向かいました。「氷室神社」は、小さい神社なのですが、奈良市でも屈指の「桜の名所」なのです。<奈良で一番早く咲く枝垂れ桜>「氷室神社」の「四脚門」の前に、奈良市では一番知られた「奈良で一番早く咲く枝垂れ桜」の銘木があります。以前リュウちゃんは、月ヶ瀬梅渓に行った帰り道に、ここへ立ち寄り、この枝垂れ桜を楽しんだのでしたが、年々、樹勢が衰え、数年前にとうとう大幅に枝を伐採してしまったのです。伐採されて、見る影の無くなった氷室の枝垂れ桜、それでも、けなげに生きている!<大仏鉄道公園のピンクの枝垂れ桜>「氷室神社」を後にして、三条通りの坂を更に下り、JA奈良駅の手前を右に折れ「油坂船橋商店街」を通過して佐保川の橋を渡ったところに「大仏鉄道公園」があります。「大仏鉄道」は、明治31年開業、京都府の「加茂駅」から、公園のある場所の「大仏駅」を結ぶ全長9,9kmの鉄道ですが、開業して僅か9年で廃線になった「幻の鉄道」なのです。「大仏鉄道公園」のピンクの枝垂れ桜、ちょっと早かったが、ほぼ満開だ。<佐保川土手の桜並木>「大仏鉄道公園」から少し歩いた所から、「佐保川土手の桜並木」が始まります。佐保川の両側の土手の小道は見物客で賑わっています。ここは奈良市で一番のお花見スポットなのだ!<川路桜>江戸時代の末期、奈良奉行として赴任してきた川路聖謨(としあきら)は、現在の奈良公園・平城宮跡・佐保川土手に数千本の桜の木を植えたと伝えられています。もう170年も前の話ですが、その時に植えた桜が、現在、佐保川土手に5本だけ「川路桜」として現存しているのです。樹齢170年の「川路桜」、江戸時代から令和の時代を見届けた桜の古樹に、いつも圧倒される!佐保川土手の桜並木は、「川路桜」のある所から延々5kmに渡って続いているのです。以前リュウちゃんは土手の片側だけの桜の本数を約2時間、歩きっぱなしで数えたことがありましたが、その時には片側だけで518本の桜を確認したのでした。もう片側の桜、何本あるのだろう?生きている内に数えることが出来るやら?
2022年04月09日
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後期高齢者になって、初の「月ヶ瀬梅渓」相変わらず、五月川を見下ろす景観は雄大だ!3月17日、今年最後の「梅行脚」として、奈良市の最東端にある「月ヶ瀬梅渓」に行ってきました。以下の図は、昨年のブログでも貼り付けた「月ヶ瀬MAP」です。昨年は、上掲の図の「10キロ折り返し」の傍にある「桃香野バス停」で降りて、「五月川」の川辺の梅林を「五月橋」の手前まで歩き、そこから「月ヶ瀬橋」まで引き返し、対岸の山道を登り、<「ゴール」地点>(ここが断崖の上の梅渓の入口で、奈良交通バスの「尾山バス停」のあるところです)から断崖の上の梅渓を一周したのですが、今回は、上掲図の「高山ダム」のところまで足を延ばしてみようという計画です。「高山ダム」の周辺、どんな景観なのかな?例によりまして女房とのお手製のおにぎり弁当と、リュウちゃんお手製(?)の缶ビール(2缶)をリュックに詰め、8時過ぎに家を出発、JR奈良駅9時11分発の「石打」行きのバスに乗りました。10時10分、昨年降りた「桃香野バス停」の一つ手前、「桃香野口バス停」で下車、ありゃ~「桃香野口バス停」から「桃香野バス停」までは、梅の木は全く無く、四面杉林だ!しかも、「桃香野バス停」に着くまでに、下り坂を20分も掛かった!10時30分、やっと「桃香野バス停」に到着、やれやれ、やはり月ヶ瀬梅渓は「桃香野バス停」から始まるのだ!「桃香野バス停」から、これまで行ったことのない「高山ダム」までの道を歩いて見ました。「高山ダム」付近は、特に目立った景観は見られなかった(残念!)土産物店「湖畔の里・つきがせ」の店の前にある樹齢約500年の「白髭の梅」です。やはり花が弱弱しい、後期高齢の梅の木、仕方ないか?ジャスト正午、月ヶ瀬梅渓のシンボルである「月ヶ瀬橋」に到着、ここから坂を登り、断崖の上の梅渓に向かいます。坂の途上から見下ろした月ヶ瀬橋と五月川です。坂の途上からの景観、「月ヶ瀬梅渓」屈指のビュースポットなのだ!12時30分、やっと断崖の上の「月ヶ瀬梅林」の入口に到着、ここからが月ヶ瀬梅渓散策の本当の始まり、既に2時間以上歩きっぱなし、お腹が空いたが、頑張って行こう!<小谷商店の庭の枝垂れ梅>「月ヶ瀬梅林」の石碑の後ろにある土産物店は「小谷商店」です。リュウちゃんの上の梅林散策はいつも「小谷商店」の裏庭にある枝垂れ梅から始めるのです。今年は昨年に比べると、ちょっと花勢が弱い、少し「盛り」を過ぎたのかな?「小谷商店」から、上の梅林の最初に目的地である「真福寺」までは、100mくらい「急な登り坂」が続いています。この「急坂」、高齢者のリュウちゃんには、心臓破りの坂だ!、「真服寺」までは、とても一気に登れない(トホホ!)で、坂の途中の茶店の庭でひと休み、この茶店の庭の花も、なかなか見事だ!<枝垂れ梅><蝋梅><黄梅(オウバイ)>昨年のブログにも、この花の写真をアップしたのですが、昨年のブログ記入の時点では、この花の名前は分かりませんでした。今回、やっと「黄梅」という名前が判ったのです。<真福寺>午後1時、やっと「真福寺」に到着、「真福寺」の庭園です。<姫若の梅>樹齢690年と推定される古木です。去年よりも今年のほうが花付が良い!少し若返ったのかな?「真福寺」から、月ヶ瀬梅渓最大のビュースポットである「一目八景みおろし茶屋」に降りて行きます。途上の「散り椿」が印象に残りました。<一目八景みおろし茶屋>「月ヶ瀬梅渓」随一の絶景が見られるビュースポット、「一目八景みおろし茶屋」に到着しました。枝垂れ梅の咲き誇る「みおろし茶屋」、130mの眼下に流れる五月川の渓流、何時観ても雄大また雄大な風景だ!暫し「みおろし茶屋」からの絶景を堪能して、再び「真福寺」まで上がり、「帆浦梅林」に降りて行きます。「帆浦梅林」の休憩所です。昨年はここで、プファ~、ビールが旨い!とやったのですが、今回はリュウちゃんの好きな「天神梅林」で昼食を摂る予定だったので、通り過ぎました。眼前に、天神社の下の赤い橋が見えてきました。橋の向こう側の坂道を登って行きますと、お目当ての「天神梅林」に着くのですが、今回は「品種園」の上部にある「梅林公園」から「天神梅林」に向かうことにしました。<品種園・梅林公園>赤い橋の上部に、「品種園」があります。「品種園」には100本ほどの品種を明示した畝の木が植えられているのですが、よく見ると、「白加賀」という品種だけで十数本もあるので、品種の数としましては、20~30種類というところではないでしょうか?以下に、幾つかの梅の種類を紹介させて頂きます。<白加賀><未開紅><寒紅梅><玉垣枝垂><玉光><道知辺(みちしるべ)><大盃(おおさかずき)>「品種園」の上部は「梅林公園」になっていて、2階建ての「展望所」があります。「展望所」から見下ろした「梅林公園」です。<天神梅林>「展望所」の裏側にある坂道を登ると、そこは本日の最終目的地でわる「天神梅林」です。今年も「天神梅林」に来ることが出来た!もう午後2時近い、お腹が空いた!梅林の一角の梅の切り株に腰を下ろして、遅い昼食、プファ~、ビールが旨い!梅干しをタップリ入れたおにぎりの味も絶品だ!
2022年04月02日
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奈良の「寅の寺」、信貴山朝護孫子寺から明けましておめでとうございます。(信貴山朝護孫子寺の「世界一の福寅」の前でのスナップ)昨年末、リュウちゃんの身内に不幸があり、しばらくブログから離れていました。ちょっと遅くなってしまいましたが、令和4年明けましておめでとうございます。昨年末のクリスマスイブに、2年ぶりに千葉県から孫姫4姉妹が奈良に来てくれました。改めまして孫姫ちゃんを紹介させて頂きます。孫姫1号:中学校3年生、今年高校受験、孫姫2号:小学校6年生、今年中学校に進学、窓姫3号:小学校1年生:今年小学校2年生に進学、孫姫4号:幼稚園年中組、今年幼稚園年長組に進級孫姫1・2号:年長組、、孫姫3・4号:年少組、2年ぶりの孫姫ちゃん達、皆、見違えるように成長した!リュウちゃんの家で撮った写真は、ほぼ「年少組」に集中しました。以下に、リュウちゃんの家で撮った年少組の写真を何枚か貼り付けます。クリスマスケーキ、美味しい!(近くのレストランで)イチゴアイス、美味しい!縄跳び、楽しい!孫姫1号と同い年で、今年15歳になる猫のチビちゃんも顔を出しました。チビちゃん、猫の平均年齢を超えたが頗る元気です!<クリスマス・プレゼントとお年玉>12月25日、孫姫ちゃん達にクリスマス・プレゼントと、お年玉を進呈しました。リュウ爺ちゃんからは、孫姫ちゃんの年齢に相応しい「本」と、自分達の好きな本を買うための「図書カード」をプレゼントしました。孫姫1号は今年、高校受験、2年前に奈良に来た時と違い、ピリピリと緊張していて、他の孫姫ちゃんが大騒ぎしている中でも、一人、進研ゼミのタブレットに向かい、受験勉強をしていました。目指すは関東圏有数の名門校、頑張れ!孫姫1号ちゃん、孫姫1号ちゃんには、クリスマスプレゼント、お年玉とは別に、以下の物を贈りました。◎大井川鉄道の「合格駅―門出駅」の記念切符◎北野天満宮のお守り北野天満宮へは、「お守り」を貰うために、11月30日に女房殿と2人でお参りしてきました。お参りした際、孫姫1号ちゃんに代わって「合格祈願」の絵馬を奉納して来ました。これで孫姫1号ちゃんの高校合格は確実なのだ!(北野天満宮の絵馬)<寅の寺、信貴山朝護孫子寺へお参り>12月25日、リュウちゃんの家の近くにある「寅の寺」、「信貴山朝護孫子寺」に孫姫1号ちゃんの合格祈願を兼ねてお参りに行って来ました。<信貴山朝護孫子寺公式サイト>信貴山朝護孫子寺(しきさん・ちょうごそんしじ)は、リュウちゃんの住んでいる斑鳩(いかるが)町の隣町の平群(へぐり)町の信貴山(しきさん)の中腹にある大きな古刹です。創建者は聖徳太子、寺伝に拠れば、敏達天皇11年(582年)に寅の年、寅の月、寅の日、寅の刻に四天王の一つである毘沙門天を聖徳太子が感得し、後にその加護によって物部守屋に勝利したことから、用明天皇2年(587年)7月3日に聖徳太子は自ら刻んだ毘沙門天を本尊として当寺を創建し、「信ずべき貴ぶべき山(信貴山)」と名付けたとされています。朝護孫子寺は、寺伝に因み、「寅の寺」と呼ばれています。境内には、冒頭の写真の「世界一の福寅」を始め、大小さまざまな寅(虎)が鎮座しているのです。因みに、ネットの検索サイトに「寅の寺」と入力して検索してみますと、出てくるのは、ほぼ朝護孫子寺だけなのです。朝護孫子寺は、日本を代表する「寅の寺」なのだ!で、今回、朝護孫子寺の境内にある寅(虎)巡りをしてみました。以下に当日撮った寅(虎)の像の写真を貼り付けます。以下の図は、「朝護孫子寺の案内マップ」です。以下の「寅(虎)巡り」の参考にして頂きたいと思います。先ずは「世界一の福寅」、12年に一度しか巡ってこない「寅年」を迎え迫力満点だ!「世界一の福寅」の近くにある、リアルな子連れ虎の像です。子虎、孫姫4姉妹より遥かに多い!何匹いるのかな?「世界一の福寅」の横にいる2頭の子寅、孫姫3号と4号だ!「本坊」の近くの手洗い場の虎(?)です。「成福院」の前に設置された「寅ポスト」です。このポストは昨年2月20日の「寅の日」に、お披露目されました。孫姫号ちゃん、「寅ポスト」に年賀状を投函、このポストから配達される寅年の年賀状、何やら特別の「福」がありそうな?「成福院」(朝護孫子寺の塔頭)の、金・銀の寅、「寅」といいますか、座る姿は「蛙」のようですね。顔がユーモラスな「寅さん」だ!「本堂」の前にある檻に入れられた「虎」の石像、顔は、「虎」というよりも、ブルドッグだ!これも「本堂」の近くにある「親子の虎」の石像です。よく見ると、「お父さん虎」、「お母さん虎」の顔は、どこか間が抜けていて、ユーモラスです。この「お父さん虎」、リュウちゃんのようにボーとしている(苦笑)「千手院」の横手にある「猫バス」型の寅、この「寅バス」は動かないのですが、中を潜ると、四国八十八か所の霊場を巡るのと同じ効果が得られるのだそうです。「開運橋」の入口にある「寅さん」です。橋の手すりにも、同じ「寅さん」がいました。「開運橋」の入口には、「名物・寅まんじゅう」が実演販売していました。駐車場の傍にある「白虎」です。一見、「竜」のように見えますが、中国の伝説上の神獣である「四神」の一つで、「西方の守護神」なのです。本日の「寅(虎)巡り」はこれでお終いです。朝護孫子寺には、本日発見できなかった「寅(虎)さんが、なだまだいっぱいありそうです。若し、朝護孫子寺に行かれる機会がありましたら「寅(虎)巡り」をしてみて下さいね。「男はつらいよ」の車 寅次郎が、この寺を訪れなかったことは、残念至極だ!高校受験を間近に控えた孫姫1号ちゃん、朝護孫子寺の中で、入試合格祈願に御利益がある「虚空蔵堂」にお参りし、願を掛けました。「願掛け」の後、「本堂」の舞台に登り、「戒壇巡り」をして、「開運橋」でバンジージャンプを見て、リュウちゃんの家に帰りました。翌26日には早くも奈良を立つ日、僅か2泊の滞在で、パパの母親がいる高槻市に旅立って行きました。2年ぶりに逢えた孫姫ちゃん達、皆、見違えるように成長したね!オミクロン株蔓延の中で高校受験を迎える孫姫1号ちゃん、貴女の勉強ぶりを見てリュウ爺は安心したよ。無事に志望校合格を果たし、今年の夏には、また奈良に来てね。待っているよ!(※)このブログの冒頭に、「身内の不幸があって」と書きましたが、今、リュウちゃんは、その事に没頭しています。その為、ただでさえ遅いブログの更新が、益々遅れてしまいそうです。暫くブログをお休みしようかとも思いましたが、今後も最低、月2回くらいは更新したいと思っています。皆様、本年も宜しくお願い致します。
2022年01月07日
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紅葉に包まれた談山神社十三重塔、奈良県で随一の紅葉の名所だ!(この写真はネットからお借りしました)11月11日に女房殿の運転する車の助手席に乗って京都府宇治市の紅葉の名所巡りをしましたが、その4日後の11月15日、今度は奈良県の桜井市にある奈良県を代表する紅葉の2大名所、「談山神社」と「長谷寺」に、やはり女房殿の運転する車の助手席に乗って、行って来ました。新聞やテレビの「紅葉便り」によれば、「談山神社」、「長谷寺」共に「見頃」だが、はて?午前11時、「談山神社」の駐車場に到着、おお、駐車場の周囲の紅葉は、ほぼ「見頃」だ!境内に入る前に、いつものように十三重塔を見渡せる駐車場に登りました。ここの紅葉もかなり「見頃」だ!この駐車場から、十三重塔を見渡します。ありゃ~十三重塔の周りの紅葉は、まだ青い?駐車場から降りて、改めて長い石段のある正面から談山神社に入ります。正面の鳥居の前の杉の巨木、やはり凄い威容だ!正面の赤い鳥居の奥の石段から境内に登ります。石段脇の楓、まだ「青紅葉」だ。石段の脇に、「夫婦杉」という杉の巨樹があります。人間との大きさを比較するため、女房殿に「夫婦杉」の前に立ってもらいました。やはり凄い巨樹だ!土津川村・玉置神社の「夫婦杉」と比べても、遜色がない!?(玉置神社の夫婦杉)ここで、ネットからお借りした「談山神社の境内案内図」を貼り付けます。上掲の案内図につき、以下にリュウちゃんが俄か知識として得た注釈を書いてみます。「談山神社」は、ウィキペディアの定義によれば、「奈良県桜井市多武峰(とうのみね)にある神社」です。でも、上掲図には「多武峰(とうのみね)」という「山の峰」は全く出てこず、2つの「山の名前」は、左側が「御破裂山(ごはれつやま)」というヘンテコな名前の山、右側は、「談所の森」とだけの表記だけで、山の名前は明記されていません。多武峰という「峰」は実在するのだろうか?改めて「多武峰とは~コトバンク」を見ました所、「日本大百科全書(ニッポニカ)に、以下のような記述がありました。「奈良県中北部、桜井市の一地区。竜門(りゅうもん)山地中央部の御破裂山(ごはれつさん)(618メートル)南斜面一帯の地。山腹に藤原鎌足(かまたり)を祀(まつ)る談山神社(たんざんじんじゃ)がある。江戸時代まで多武峰寺と総称され、神仏両様の形式であったが、明治維新後、談山神社となった。天下異変のとき御破裂山が鳴動し、鎌足の木像が破裂するといわれている。神社周辺は紅葉の名所として知られる」そうだったのか!「多武峰」は、山の峰のことではなく、御破裂山の南斜面、すなわち「談山神社」の別称だったのだ!多武峰の「峰」は具体的には、「御破裂山の峰」のことのようだ。「御破裂山」という変な名称の由来も、上記の記述で何となく判るような気がする。上掲図の右側の「談所の森」は、「談山(かたらいやま)」の中腹にあるようだ。とすれば、案内図右側の山は「かたらいやま」なのかな?とすれば「多武峰」は「御破裂山」と「かたらいやま」の2峰の総称だともいえそうだ。(「権殿」の横手にある標識)閑話休題、紅葉狩りに戻ります。<恋神社>長い石段を登り、「拝殿」の下の横道に「恋神社」という標識がありました。久しく「恋」を忘れているリュウちゃん夫妻、この神社に参拝して「恋」を確認しよう(苦笑)「恋神社」への途上からの眺め、やはり紅葉はまだ「3分紅葉」だ。「恋神社」です。「恋神社」の前には、以下のような標識が立てられていました。「鏡女王」、初めて聞く名前だ、白雪姫の王妃のような女性なのかな?<「鏡女王」について>:ウキペディア「鏡王女(かがみのおおきみ)」の記述抜粋、「飛鳥時代の歌人。藤原鎌足の正妻。『万葉集』では鏡王女、『日本書紀』では鏡姫王と記されている」>「素性は謎に包まれており、額田王の姉という説がある」「はじめ天智天皇の妃だったが、後に藤原鎌足の正妻となる。鎌足の病気平癒を祈り、天智天皇8年(669年)に山階寺(後の興福寺)を建立した」「鏡女王の万葉集の歌<神奈備の石瀬の社の呼子鳥いたくな鳴きそ我が恋まさる>、現代語に訳すと<神奈備の石瀬の社の呼子鳥よ、そんなに激しく鳴かないでおくれ。私の恋しい思いが募るばかりだから>。この歌は、鏡王女が鎌足の死後、彼を思って作った歌だという説がある」鏡女王の歌に「恋」の文字が出てくるので、名付けて「恋神社」、命名者はコピーライターの素質充分だ!<拝殿からの眺め>奥に本殿、三方の回廊は舞台になっていて、回廊から三方が見渡せます。回廊から見下ろした紅葉、やはり「3分咲き」だ。拝所の中から見た本殿です。<十三重塔>「拝殿」を出て、段山神社のシンボルタワーである「十三重塔」に向かいます。十三重塔の紅葉、「見頃」はこれからだ。ちょっと残念!ここで、本ブログの冒頭の写真をご覧下さい。冒頭の写真はネットからお借りした「紅葉最盛期の十三重塔」です。紅葉最盛期の十三重塔、何時になったら観ることが出来るのだろうか?<権殿(ごんでん)横の紅葉とイチョウ>権殿は十三重塔の横手にある大きなお堂です。権殿の横手、紅葉とイチョウと杉の巨樹のコラボ、リュウちゃんの大好きな紅葉スポットだ!「権殿の石段」から「神廟拝所」に降ります。「神廟拝所」前の紅葉、見頃だ!談山神社の紅葉狩りは、これで終わりです。談山神社について詳しく知りたい方は、以下のサイトをクリックしてご覧下さいね。<談山神社ガイド>もう午後1時前だ、お腹が空いた!で、十三重塔を見渡せる駐車場の奥にある釜飯店で昼食、プファ~、ビールが旨い!店の前の紅葉のように鮮やかな切れ味だ!<長谷寺へ>午後1時過ぎ、談山神社を後にして、長谷寺に向かいました。談山神社から長谷寺までは、車で30分位で行けるのです。午後2時頃、長谷寺の「仁王門」に到着、以下の図は、長谷寺の境内案内図です。上掲の図の左下にあります「主な参拝ルート」の内、赤い点線で示された「開山堂経由ルート」から、(13)の「本坊」を外したルートが、本日リュウちゃん夫妻が辿ったルートになります。具体的に書いて見ますと、以下のようになります。仁王門(スタート)―登廊(のぼりろう)-本堂―開山堂―御守授与所(休憩所)―五重塔―納骨堂―六角堂―梅心院―仁王門(ゴール)長谷寺の詳しい案内につきましては、下記のHPをクリックしてご覧下さいね。<大和国「長谷寺」>「仁王門」のすぐ後ろから本堂に続く399段の「登廊」を登ります。<天狗杉>「登廊」の曲がり角の所にある杉の巨樹です。幹回りは4mと、さほど太くはないのですが、樹高約60mと、正に天を衝くような巨樹なのです。リュウちゃんのカメラでは、天狗杉の下の部分だけしか撮れませんでしたので、以下にネットからお借りした春の天狗杉の写真を貼り付けます。正に天を衝くような巨樹だ!この写真、どこから撮影したのだろう?<本堂の舞台>本堂の舞台に上がります。ここは長谷寺随一の紅葉の「見所」、だが、まだ紅葉は「3分咲き」だ! ちょっと残念。<開山堂へ>本堂の舞台から、「開山堂」へ降りていきます。ここの眺めも素晴らしいのだが、、、御守授与所から見上げた本堂です。<五重塔>昭和29年、戦後日本で初めて建てられた五重塔で、長谷寺のHPに拠れば、「昭和の名塔」と呼ばれているのだそうです。五重塔の横にある「納骨堂」の周りのイチョウ、紅葉、ちょっと風情がありました。帰路のドウダンツツジ、南天の「赤」が印象に残りました。<初瀬の大イチョウ>長谷寺を後にして、初瀬川の対岸にある「素戔雄(素戔嗚:スサノオ)神社」に行きました。ここには奈良県随一のイチョウの巨樹、「初瀬の大イチョウ」があるのです。5年ぶりに観た「初瀬の大イチョウ」、凄い威容だ!しかし、何かもの足りない、まだ落ち葉が少なく、「黄金色の絨毯」が敷かれていないのだ。で、5年前のブログに掲載した「黄金色の落葉の絨毯」が敷き詰められた写真を貼り付けます。「黄金色の絨毯」を敷き詰めた初瀬の大イチョウ、やはり「絶景」なのだ!
2021年11月28日
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人恋うは悲しきものと平城山に もとほり来つつたえ難かりき古へも夫(つま)に恋ひつつ越えしとふ平城山(ならやま)の路に涙おとしぬ(北見志保子:「平城山」)<ヒシアゲ古墳(磐之媛命陵)><秋篠寺から平城山(ならやま)へ~奈良市の「歴史の道」散策(上)の続きです>山上(やまがみ)八幡神社」から、近鉄西大寺駅前を経由して、平城宮跡に向かいました。午後1時ジャスト、道の右前方に、平城宮跡の「大極殿(だいごくでん)」が見えてきました。「大極殿」の裏の入口から殿内に入ります(入場無料)「大極殿」は天皇の即位や外国使節との面会など、国の最も重要な儀式に使われた宮殿です。<鴟尾(しび)のレプリカ>大極殿の屋根の大棟(一番上)の両端に付けられた飾りの一種です。鴟尾は大体、「鯱(シャチ)」(頭は虎、姿は魚という空想上の動物)の形が多いのですが、この鴟尾の形は鯱を抽象化したような造形になっています(高さ2m)。尚、鴟尾は「火除け」の意味があったそうです。<高御座(たかみくら)>国家儀式の際に天皇が着座した玉座です。平城宮の高御座の構造や意匠の記録はありませんので、京都御所の紫宸殿に常設されている大正天皇即位の時に作られた高御座を参考にして作られたのだそうです。<日本画家・上村淳之の壁画>「高御座」の上部の壁には、前回のブログで紹介しました日本画家・上村淳之(あつし)の「四神」と「十二支」の壁画が描かれています。壁画は全36面、上村淳之76歳~77歳の時の作品です。大作とは云えないが見事な壁画、大極殿が続く限り、壁画も永遠に残るのだ!(「白虎」を描く上村淳之)「大極殿」の南側は、壁のない開放された空間です。南西側には、金剛山系の山並みが見渡せます。真南には「朱雀大路」が通っていて、以前には「朱雀門」が一望出来たのですが、今は大極殿と朱雀門の間に、「南門」を新しく造成工事中でした。東側には、隣接して「第2次大極殿跡地」があり、その向こうに「若草山」が迫っているのです。午後1時30分、造成工事中の「南門」の近くの休憩所で遅い昼食、プファ~、ビールが旨い!抜けるような青空、秋爛漫だ!<第2次大極殿>午後2時。遅い昼食を終え、「大極殿」の東隣りにある「第2次大極殿跡地」に立ち寄りました。<第1次大極殿と第2次大極殿>平城宮跡には、「第1次大極殿」と、「第2次大極殿」の2つの「大極殿」があったのです。何故、大極殿が2つもあったかといいますと、聖武天皇は在位中の740年から745年にかけて「第1次平城京」~「恭仁(くに)京(京都府木津川市)」~「難波京(大阪市)」~「紫香楽(しがらき)京(滋賀県甲賀市)」~「第2次平城京」と、5回も遷都したため、遷都前と遷都後の平城京の場所がずれたのです。現在では、遷都前の大極殿を「第1次大極殿」、遷都後の大極殿を「第2次大極殿」と呼んでいます。「第1次大極殿」は再建されたが、「第2次大極殿」は再建されるのかな?<平城山(ならやま)へ>「大極殿」の北側の小道を北東に実かいますと、そこは「平城山(ならやま)」です。奈良市に、「平城山」という名前の「山」があるの?と、リュウちゃんも以前は思っていたのですが、実際の平城山は「山」ではなく、平地から80m位標高の高い「丘陵」で、正式には「平城山丘陵」なのだそうです。今回の散策の目的地、「磐之媛命陵」、「コナベ古墳」、「ウワナベ古墳」は、皆、「平城山」にあるのだ!<八上(ハジカミ)池>「平城山」の入口にある大きい池です。池の中央に2つの小さな島があり、水鳥の休憩場所になっています。池の名前の由来は、奈良時代にこの辺りに住んでいた土師(はじ)氏(古墳の埴輪を制作した一族)から来ているようです。八上池の傍に立つ「歴史之道」の碑です。リュウちゃんは右の矢印の「磐之媛(いわのひめ)陵」に向かいます。リュウちゃんにとりましては、上掲の「歴史之道」の石碑から「平城山」が始まるのです。石碑から「磐之媛陵」までは、奈良市内にあるとは思えないほどの「田舎の山里」なのです。<佐紀盾列古墳群の東端の空中写真>以下にリュウちゃんがこれから散策する「佐紀盾列(たてなみ)古墳群」の東端の空中写真をウィキペディアからお借りして貼り付けます。上掲の写真で、左下の長方形で囲われたところが「平城宮跡」です。写真の最上部にある前方後円墳が「磐之媛(いわのひめ)陵」とされている「ヒシアゲ古墳」(全長219m)、その斜め右下の前方後円墳は「コナベ古墳」(全長204m)、コナベ古墳の右横の池の中にある前方後円墳が「ウワナベ古墳」(全長255m)です。「コナベ古墳」の右側にある台形上の大きな「池」は、奈良市最大のため池である「水上(みずかみ)池」です。周囲1,5kmの「水上池」は、日本書紀によれば、奈良時代のずっと以前に造られ、奈良時代には「奈良の水瓶」だったようです。写真の上から下までS字型に貫く道路は「国道24号線」で、写真上部は京都へ、下部は和歌山に通じています。写真下部を左から右下に貫いているのは「近鉄奈良線」で、右端の途切れた先には「近鉄奈良駅」がある奈良市の中心部なのです。<磐之媛(いわのひめ)陵>これまで辿って着た小道の右横に、更に整備された小道が続いています。この小道が「磐之媛竜」の正面に出る道なのだ!通常の天皇陵の正面には、こんな風情のある長い道はありません。道の脇の池には、水連らしい水草が浮いています。また、道の両脇には、松や針葉樹が整然と植えられているのです。「磐之媛竜」の正面に出ました。ここは、平井庚三郎の名歌曲「平城山(ならやま)」が生まれた「聖地」なのだ!<歌曲「平城山」>先ず、以下に貼り付けた2つのYou-Tubeをクリックして聴いてみて下さい<歌曲「平城山」(独唱)鮫島有美子><女声合唱「平城山」:いずみの会女声合唱団>この歌、60年前、リュウちゃんが高校に入学し、混声合唱部に入り、初めて歌った「懐かしい歌」なのです。以後、リュウちゃんの心の中で、「屈指の名曲」として定着しました。最近、地元の公民館で「歌声クラブ」を指導していますが、ここでもこの歌を採り上げ、歌っているのです。詞として採り上げられた短歌は、高知県宿毛(すくも)市出身の女流歌人・北見志保子です。ここで、このブログの冒頭に掲げた北見志保子の短歌2首を改めて以下に貼り付けます。人恋うは悲しきものと平城山に もとほり来つつたえ難かりき(現代語訳)「人を恋することは哀しいものだと平城山を巡りながらつくづく感じ、耐え難い思いがした」。「もとほり来つつ」の「もとほり」は古語の「もとほる」の連用形で、「廻る、巡る、さまよう」の意です。古(いにし)へも夫(つま)に恋ひつつ越えしとふ平城山(ならやま)の路に涙おとしぬ(現代語訳)「昔の人も恋焦がれつつ越えたという平城山の道で、私は涙を落した」「夫(つま)」はここでは夫(おっと)のことです。「越へしとふ」の「とふ」は、「~という」の意味になります。「古へも」の「昔の人」は、「磐之媛」のことです。磐之媛(いわのひめ)は仁徳天皇の皇后として難波高津宮(なにわのたかつのみや、現在の近鉄上本町駅付近)の宮中に住んでいましたが、ある時、磐之媛が宮中を留守にしていた間に、仁徳天皇は異母妹の「八田皇女(やたのひめみこ)」を宮中に迎えます。これみ激しく嫉妬した磐之媛は以後、宮中には二度と戻らす、平城山に近い「筒城宮(つつきのみや、現在の京都府京田辺市多々羅付近、後に第26代継体天皇が皇居にした所)に移り、同地で没したのです。「筒城宮」に移った後も、仁徳天皇への思慕は変わらず、しばしば。生駒山(生駒山の向こう仁徳天皇の住んでいる難波高津宮があります)の見える平城山に通ったようです。北見志保子は明治18年生まれ、一時は与謝野晶子と並び称せられる歌人だったようです。大正2年に同郷の歌人・橋田東声と結構しますが、結婚後7年目の大正9年、夫の東声の弟子で、12歳年下の慶応大学生・浜 忠次郎と恋に落ちてしまいます。それを知った浜家では、二人の縁を断ち切るべく、忠次郎をフランスに留学させてしまいます。北見志保子は恋人の浜 忠次郎がフランス留学中の大正9年に磐之媛陵を訪れ、この短歌を詠んだようです。最初の「人恋うは~」の歌は、フランスに留学してしまった浜 忠次郎へのせつない想いを、「古へも~」は、自らの境遇を、仁徳天皇を慕う磐之媛になぞらえて詠んだものであると思われます。昭和10年に作曲された平井庚三郎の曲も、北見志保子の心情を余すところなくメロディにしていて、「永遠の名曲」だとリュウちゃんは思っているのです。(筒城宮を訪問した北見志保子)<水上池>「磐之媛陵」から、「水上池」を一周しました。池の畔の民家の庭には、様々な秋の花が咲いていました。池の周囲の1,5kmの小道は、「奈良市民の散歩道」として良く整備されていて、快適な散策になりました。<コナベ古墳>「水上池」の隣にある「コナベ古墳」も一周しました。「コナベ古墳」は奈良市法華寺町にある全長204mの巨大前方後円墳です。上掲の写真でお分かりのように、四方を池に囲まれていて、まるで「離れ小島」です。天皇陵には必ずある「拝所」らしきものは無く、正式参拝は出来ないようです。「コナベ古墳」は誰の墓所なのか?ウィキペディアによりますと、以前は「磐之媛」の陵に治定(じじょう)されていたようですが、現在、「磐之媛陵」は、前述した「ヒシアゲ古墳」に治定されていますので、「コナベ古墳」は、「磐之媛募陵参考地」に治定されているようです。(※)「天皇陵の治定」:「治定(じじょう)」とは、天皇陵を推定することです。現在、その陵が明らかにその天皇陵であると確実視されているのは、平城京に遷都した第43代・元明天皇(女帝)以降の天皇だけで、前方後円墳のような巨大古墳時代の天皇陵は、殆ど特定されていません。幕末の尊王攘夷、明治の王政復古により、天皇陵の特定が必要になり、当時の宮内省により天皇陵の特定が進められましたが、巨大古墳は墓誌もなく、文献による証拠は何一つありません。なので、8世紀に書かれた「古事記」、「日本書紀」などの記述を手掛かりに、特定しようとしたのが、現在は「天皇陵の治定」なのです。「治定」は「確定」ではなく、あくまでも「推定」の域を出ないものですから、様々な新しい証拠により、「治定」を覆す事例が続出しているのです。磐之媛は墓所が2つある!???「ヒシアゲ古墳」と「コナベ古墳」、どちらが本当の墓所なのだ?それとも、両方とも本当の墓所ではないのか?謎は深まるばかりなのだ!<ウワナベ古墳>奈良市法華寺町にある「ウワナベ古墳」は「コナベ古墳」と「航空自衛隊幹部候補生学校」を間に挟んだ東側にあります。本ブログ(上)では、「ウワナベ古墳の全長を255mで、全国第13位の巨大前方後円墳」だと紹介しましたが、「ウワナベ古墳」のウィキペディアに拠りますと、「2020年11月に再計測の結果、全長は約280m」と修正されたようです。全長280mの巨大前項後円墳、これは「佐紀盾列古墳群」では、「神功皇后陵」よりも大きい古墳なのだ!「ウワナベ古墳」も「コナベ古墳と同じように、池の真ん中にあり「離れ小島」なのです。「ウワナベ古墳」の被葬者は誰なのか?ウィキペディアに拠りますと、「仁徳天皇の皇后である八田皇女(やたのひめみこ)の陵墓参考地として治定されている」とのこと、八田皇女といえば、磐之媛に代わって難波高津宮の仁徳天皇の皇后になった女性の筈だ!何故、磐之媛の陵の近くに陵があるのか?摩訶不思議???としか言い様がない!もう一つ、ダメ押しの疑問、前回のブログで「佐紀盾列(さきたてなみ)古墳群」に含まれる6基の巨大古墳の内、「神功皇后陵」、「成務天皇陵」、「日葉酢媛陵」の3基は「佐紀町」ではなく、「山陵(みささぎ)町」にあると書きましたが、今回書きました三つの古墳の内、佐紀町にあるのは「磐之媛陵」ただ1基、「ウワナベ古墳」「コナベ古墳」は「奈良市法華町」にあることが判りました。「佐紀盾列(さきたてなみ)古墳群」にある6基の巨大古墳の内、奈良市佐紀町のある古墳は。「磐之媛陵」ただ1基のみなのだ???これも摩訶不思議???としか言い様がありませんね。もう午後4時を過ぎた。そろそろ帰ろう。ちょっと疲れましたので、「ウワナベ古墳」のすぐ近くにある定期バスに乗ろうかと思いましたが、やはりJR奈良駅まで歩いて帰りました。午後5時ジャストにJR奈良駅到着、朝9時15分に近鉄「西大寺」駅を出発してから、途中、30分の昼食休憩を除いては、7時間余の「歩きっぱなし」の散策旅でした。家に帰ってから、腰に付けた万歩計を見ましたところ、歩数は49222歩!惜しい!もう少しで5万歩だったのに、ーーーーーーーーーー<特報>藤井聡太3冠、将棋界最高のタイトル、竜王位を獲得、4冠になる!(竜王戦第4局で勝利した直後の藤井4冠)11月13日夕方、藤井聡太3冠が豊島将之竜王に勝利し、将棋界のタイトル「竜王」を獲得、これにより「4冠」となり、将棋界の序列第1位になりました。リュウちゃんはこの対局をずっとアベマTV将棋チャンネルのライブ中継で観ていたのですが、終局間近の、もう豊島竜王が「投了」するしかないという場面の藤井3冠の表情に注目しました。もうすぐ「竜王」になるというのに、何たる沈痛で、今にも泣き出しそうな表情なのだ!上掲の写真はデイリースポーツ紙に掲載されたものですが、この写真は、豊島竜王が投了した瞬間の藤井3冠ですね。まるで号泣寸前。こんな悲痛な表情をした勝者を見るのは初めてだ!この悲痛な表情が何を意味するのか?これは藤井4冠本人にしか判らないことですが、リュウちゃんは藤井4冠の人間的な成長を、この表情から感じ取ったのでした。明けて最高の14日の記者会見には、前日の沈痛な表情とは打って変わって、爽やかな表情で臨みました。昇竜・藤井聡太4冠、これからも異次元の活躍を期待しています!
2021年11月14日
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奈良市北西部にある「佐紀盾列古墳群(さきたてなみこふんぐん)」、奈良市は巨大古墳のメッカなのだ!(五社神古墳(ごさしこふん)、神功皇后陵)(ヒシアゲ古墳(仁徳天皇皇后・磐之媛命陵)10月17日、奈良市の北西部にある「歴史の道」を歩いてきました。以下に、この日歩いた「歴史の道」を順に書いてみます。近鉄西大寺駅(スタート)~秋篠寺~神功皇后陵~成務天皇陵・日葉酢媛命陵~平城宮跡~磐之媛命陵~コナベ古墳~ウワナベ古墳~JR奈良駅(ゴール)以下の「図」の左半分が、リュウちゃんがこの日に辿った道筋です。(佐紀盾列古墳群)例に寄りまして、女房殿お手製のおにぎり弁当と、リュウちゃんお手製(?)の缶ビール(2缶)をリュックに詰め、午前8時に家を出発、スタート地点の「近鉄西大寺駅」に到着したのは9時15分でした。<秋篠寺>9時30分、秋篠寺の東門から境内に入りました。門前の楓、少し色づいていました。秋篠寺は、奈良随一の「苔の寺」です。境内の半分くらいは、柔らかい苔に覆われています。人っ子一人居ない静寂に包まれた苔の絨毯、ここだけ時間が停まっているようだ。苔の絨毯の中に「歌碑」が立っていました。この歌碑、読めそうで読めない!誰の歌碑なのだろう?拝観料500円を払って境内に入ります。下の写真は国宝の本堂です。秋篠寺は宝亀7年(776年)、光仁天皇の勅願により創建されたとされています。延暦25年(806年)に崩御した桓武天皇の57回忌が秋篠寺で行われたようで、天皇家とも深い関係があった寺なのです。秋篠寺の古像の中では、特に「伎芸天立像」(重要文化財)が有名です。伎芸天は、シヴァ神の髪の生え際から生まれた「天女」で、容姿端麗で器楽技芸が堪能だったため、音楽・芸能の神として信仰を集めているようです。古像としては日本に一つしかない秋篠寺の伎芸天は「東洋のミューズ」と呼ばれ、人気を集めています。(伎芸天)1990年(平成2年)、礼宮文仁親王と川嶋紀子様が結婚され、文仁親王は「秋篠宮文仁親王」となり、紀子様は、「文仁親王妃紀子」様となりました。この結婚により「秋篠宮家」が創設されたのですが、「秋篠宮家」という宮号は、秋篠寺に由来しているのだそうです。文仁親王が紀子様と結婚され「秋篠宮」となった時、紀子様が「秋篠寺の伎芸天に似ている」と話題になったことがありました。上掲の「伎芸天」と下掲の「紀子様」似ている(かな?)(紀子様)先般、秋篠宮ご夫妻の長女:眞子様が民間人の小室 圭氏と結婚され、皇籍を離脱し、民間人・小室眞子さんとなりました。小室 圭さん、眞子さん、結婚おめでとうございます。末長くお幸せに!10時過ぎに秋篠寺を出て次の目的地である神功皇后陵に向かいました。下の写真で、池の向こう側の低い山並みの一番右側あたりが神功皇后陵の筈ですが、その前に確認したい場所がありますので、ちょっと迂回して行くことにしました。稲刈りが終わった田んぼの際に、キバナコスモスが咲いていました。<唳禽荘(れいきんそう)>神功皇后陵に行く前に、ちょっと寄り道して行ってみたかった所とは、日本画家・上村淳之(あつし)氏のアトリエである「唳禽荘」です。リュウちゃんが「唳禽荘」の場所を知りたいと思ったのは、昨年10月に、以下のブログを更新した時からなのです。 <奈良市「松柏美術館」で上村松園の美人画を観る>⤴ここをクリック上村淳之の祖母・上村松園は、昭和20年に京都から奈良市山稜町にある敷地約1万坪もある「唳禽荘」に、いずれも日本画家である息子の上村 松篁、孫の上村淳之と共に移り住み、母・息子・孫の三代のアトリエとしました。この広大なアトリエに1000羽以上もの鳥を飼うようになり、「唳禽荘」と呼ばれるようになったのは、息子の松篁の代になってからのようです。松篁が2001年に98歳で死去してからは、「唳禽荘」は松篁の息子・淳之のアトリエとなり、淳之は更に鳥の数を増やすと共に、「唳禽荘」に「日本鳥類保護連盟奈良研究所」を設け、ここの所長に就任しています。淳之は「花鳥画」の中でも、特に「鳥の日本画」を専門としています。以下に2点だけ、淳之の「鳥の日本画」を貼り付けます。(双鶴)(早春)神功皇后陵に向かう道の丘陵の住宅に、長い石垣を見つけました。地図で知った場所から考えると、ここが「唳禽荘」のようだ?長い石垣の向こうに霞む山並みは、生駒山系です。見つけました!「唳禽荘」の玄関。若し、「唳禽荘」が一般に公開されていれば、立ち寄って1500羽の鳥たちと戯れようと思ったのですが、上掲の玄関はあくまでも「個人のアトリエ」でしたので、場所を確認したことに満足し、神功皇后陵への道を急いだのでした。若し「唳禽荘」が一般に公開される機会があれば、是非、行って見たい!<神功皇后陵>「唳禽荘」から10分くらい歩きますと、左前方に神功皇后陵が見えてきました。神功皇后陵は、石畳の階段を上ったところにあります。神功皇后陵は全長275mの巨大な前方後円墳です。以下の、<古墳の大きさランキング>に拠れば、神功皇后陵は12位に入っています。<古墳の大きさランキング(日本全国版)>上掲のサイトには、ベスト40位まで掲載されていますが、本日リュウちゃんが散策した「佐紀盾列古墳群」には、(13位)ウワナベ古墳(255m)、(24位)ヒシアゲ古墳(磐之媛陵)(219m)、(26位)成務天皇陵(218m)、(32位)日葉酢媛陵(207m)、(34位)コナベ古墳(204m)と、神功皇后陵を含め、6基もの200mを超える巨大古墳があるのです。神功皇后は、戦前の歴史教科書のスターでした。「熊襲征伐」、「三韓征伐」など、「戦う女帝」としてのイメージが戦前に教育を受けた人の心の中には定着していたと想像されます。戦後、神功皇后は実在自体が問題になり、歴史教科書から消えてしまいました。現在では「実在説」と「非実在説」が混在しており、「神功皇后=卑弥呼説」、「神功皇后=斉明天皇説」などがあるようです。(神功皇后・歌川国芳作)神功皇后は、明治の初め、初めて発行された「政府紙幣」の肖像に採用された人物なのです。明治維新で初めて発行された紙幣、肖像は女性の神功皇后だったのだ!(明治11年に発行された1円紙幣)上掲の紙幣は額面1円札ですが、ほぼ同時に、同じ神功皇后の肖像画が入った、「5円札」、「10円札」が発行されました。この肖像画は、明治初期にイタリアから来日した画家・版画家、エドアルド・キヨッソーネによって作成されたため、西洋風の女性像になっているのです。尚、キヨッソーネは、他に「西郷隆盛の肖像」、「明治天皇の肖像」などを描きました。日本人の中に定着している「西郷隆盛」のイメージは、キヨッソーネの肖像画に由来しているのだ!(キヨッソーネの西郷隆盛の肖像画)<山陵(みささぎ)八幡神社>神功皇后陵から少し歩いた所にある神社です。主神は神功皇后、この神社の神功皇后は「武運」と「安産の神」なのだそうです。<福松大神>山稜八幡神社の隣にある小さなお稲荷さんです。小さい割には、朱い鳥居が印象的だ!京都の伏見稲荷のミニチュアだ。<成務天皇陵:日葉酢媛(ひはすひめ)陵>神功皇后陵を後にして、次の陵に向かいます。「歴史街道」沿いに近鉄奈良線の踏切を渡ります。踏切を渡り、古い家並みの小道を左側を上ると、そこは成務天皇陵と日葉酢媛陵の間を通る整備された小道が続いているのです。上掲の写真で、右側の森が「成務天皇陵」(全長218m、全国26位の前方後円墳)、左側の森が「日葉酢媛陵」(全長207m、全コカ第32位の前方後円墳)です。2つの巨大古墳の間を縫うように貫く整備された小道、奈良市内にあるとは思えないほどの静閑な環境なのだ。ここで「佐紀盾列古墳群の西側」の空中写真をウィキペディアからお借りして貼り付けます。(佐紀盾列古墳群の西側)上掲の空中写真で、左上の大きな前方後円墳が「神功皇后陵」です。左下から右上に走る道路のように見えるのは近鉄京都線の線路です(線路の左下には、「平城(へいじょう)駅」があります)。写真右下の2つ並んだ前方後円墳の左側が「成務天皇陵」、右側が「日葉酢媛陵」です。一番下の逆L字型に折れ曲がった古墳は、第48代「称徳天皇(女帝)陵」で、全長127mの中型の変形前方後円墳なのです。下の写真の右側が「成務天皇陵」、左側が「称徳天皇陵」です。2つの陵の間に見える山並みは「生駒山」なのです。「成務天皇陵」の正面です。通説では実在性の低い第13代成務天皇、真実は古墳の中に隠れている?尚、「日葉酢媛」は第11代「垂仁天皇」の2番目の皇后とされていますが、垂仁天皇の実在性自体が疑問視されていますので、当然、彼女の実在性も疑わしいようです。<山上(やまがみ)八幡神社>「日葉酢媛陵」の正面の前にある神社です。社殿の奥に見える大木は、豊臣秀吉が天正19年(1591年)、朝鮮出兵に際し、そいの成功を祈り、手植えした由緒ある「杉の神木」なのだそうです。「神功皇后陵」から、ここまで辿ってきた古墳は、皆、「佐紀盾列(さきたてなみ)古墳群」に含まれています。この古墳群の名称は、古代奈良の「佐紀の地」に由来するようですが、「佐紀の地」は現在の「奈良市佐紀町」の筈です。なのでリュウちゃんは、これまで辿ってきた古墳はすべて佐紀町にあるものと思っていたのですが、実は、全て「山陵(みささぎ)町」にあったのですね。ここまでの古墳群の名称、「山陵(みささぎ)盾列古墳群」と変えたほうが判り易い!尚、「盾列(たてなみ)」とは、この古墳群に含まれる古墳が全て巨大な前方後円墳なので、上から見ますと、「盾」のような形で、列をなして並んでいるように見えるところから付けられた名称なのだそうです。「山上八幡宮」を出て、次の目的地である平城宮跡に向かいます。あれ、もう正午だ!よし!「プファ~、ビールが旨い!」は、平城宮跡でやることにしよう!(以下、「秋篠寺から平城山(ならやま)へ~奈良市の「歴史の道」散策(下)」に続きます)
2021年11月06日
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空は曇天、されど地上の藤原宮跡のコスモスは「晴天」だ!10月26日、久しぶりに藤原宮跡のコスモスを観に行って来ました。リュウちゃんの過去ブログを遡ってみますと、藤原宮跡のコスモスのブログを更新するのは、2017年10月以来、4年ぶりになります。藤原宮跡には、2006年から地元住民が史跡周辺の荒廃を防ぐためにコスモスが植えられ始めたようですが、今では約3万平方メートル(甲子園球場の約2倍)の広大な平原に約300万本のコスモスが咲き誇る「奈良県随一のコスモスの名所」になっています。昨年は新型コロナ禍のため、コスモスの植え付けはされませんでした。今年も昨年に続き、コスモスの植え付けは中止かな?と思っていたのですが、ブログ友達にさせて頂いている静岡県在住の「曲まめ子」さんが、以下のブログを更新されました。<藤原宮跡の満開のコスモス>そうだったのか!昨年はコスモスの植え付けは中止されたが、今年は植えられたのだ!善は急げ、早速、藤原宮跡に行ってみよう!という次第で、急遽、比較的お天気のよさそうな26日に藤原宮跡に行ってみたのです。例に寄りまして女房殿お手製のおにぎり弁当とリュウちゃんお手製(?)の缶ビール(2缶)をリュックに詰め、午前10時に家を出発、藤原宮跡の最寄り駅である「畝傍(うねび)駅」に着いたのが11時30分でした。<おふさ観音>JR「畝傍駅」から「藤原宮跡」へ行く道の途中に、バラの寺として有名な「おふさ観音」があります。「おふさ観音寺」という寺名、何やら寺名らしくないぞ。どんな由来の寺なのだろう?と思ってネット調べしましたところ、「おふさ観音」のHPに以下のように書かれていました。<おふさ観音の由来>本堂が建つ辺り一帯は、かつて「鯉ヶ淵(こいがふち)」と呼ばれる、大きな池でありました。時は慶安3年(1650)4月、ある日の早朝のこと。この地で暮らす「おふさ」という娘さんが、鯉ヶ淵のそばを歩いていると、白い亀の背中に乗った観音様が、目の前に現れたのです。おふささんは、池のそばに小さなお堂を建て、そこに観音様をおまつりすることにしました。その観音様は、色々なお願い事をかなえてくださるとして、近くの村人たちに厚く信仰され、大切にまつられました。やがて誰からともなく「おふさ観音」と呼ばれるようになったといいます。明治時代になり、「観音様のために、大きな本堂を建立しよう」という計画が持ち上がりました。そして様々な人たちが協力して寄付を集め、無事、現在の本堂が建てられたのです。完成した本堂には、高野山からお坊さんを紹介していただきました。その後も、おふさ観音は多くの人たちに愛され続け、現在の高野山真言宗・別格本山へと発展していきました。おふさ観音は、時の権力者や特別な地位の人によって建立されたのではなく、市井の人たちの手によって建てられ、守られてきたお寺です。そして、日々の悩みや苦しみに寄り添う、庶民信仰のお寺として、今もあり続けています。「おふさ観音」は明治時代に庶民の手によって建立された寺だったのだ!ちっとも知らなかった!<おふさ観音のバラ>「おふさ観音」は、奈良市の「霊山寺(りょうせんじ)」、大和郡山市の「松尾寺(まつおでら)」と共に「奈良の三大バラの寺」として有名なお寺です。「おふさ観音」のバラの特徴は、その種類の多いことです。狭い境内に3800種、4000株のバラが植えられている!「おふさ観音」はバラの天国なのだ!今の季節、「秋バラ」はもう終わりかけだったのですが、以下にバラの写真を何枚か貼り付けます(バラの品種名は不明なのです)<アメジスト・セージ>本堂から裏庭に行く小道に、アメジスト・セージが植えられていました。<メダカの学校>バラ園の後ろ側に「メダカの学校」が開校していました。(この写真はネットからお借りしました)この「メダカの学校」は、どうやら今年の春に開校したようです。木枠や陶器の水槽にクラス(種類)別に開校された「メダカの学校」一体、何クラス、何匹の生徒がいるのだろう?いけない、もう正午だ、先を急ごう!「おふさ観音」から徒歩20分で、「藤原宮跡」の「コスモス畑」に到着おお、正に今が見頃!「コスモス畑」というよりは「コスモスの海」なのだ!で、「コスモスの海」の傍にあるベンチに座り、昼食。プファ~、ビールが旨い!空は曇天なれど、心は快晴なのだ!ここで、「藤原宮跡」の位置について、若干の説明をさせて頂きます先ず、下図をご覧下さい。「藤原宮跡」は上掲図で「奈良盆地(大和平野)」と書かれている「下部」、中央部にある「葛城山」の右側にあります。「奈良盆地」は東側(図では右側)に「笠置山地」が南北に走っています。「笠置山地」の南端は大神神社の神奈備である「三輪山」、北の端には、奈良公園の園地になっている「若草山」があります。中央上の「生駒山」の右手に「奈良市」があります。図で「京都」と書いてあるところは「京都市」ではなく、京都府の南端部にある「木津市」です(「奈良市」の北端部は京都府の南端部にある「木津市」に隣接しているのです)以下の「図」は、「藤原宮跡」と周囲の「大和三山」(畝傍山、耳成(みみなし)山、天の香久山)のトライアングル図です。上掲図の右下にある「天の香久山」を20分くらい南下しますと、古代王朝が続いた「飛鳥地区」(明日香村)に至ります。持統女帝が、明日香村にあった「飛鳥浄御原宮」から、「藤原京」に遷都したのは、この地が、古代朝廷から崇められていた大神神社・三輪山が眼前にあったこと(明日香村から大神神社は、天の香久山に遮られて、見えないのです)と、大和三山のトライアングルの中心という立地が、素晴らしかったからだとリュウちゃんは勝手に憶測しているのです。(百人一首の持統天皇)さて、「藤原宮跡」のコスモスです。300万本ものコスモスの開花の様(さま)を全て紹介するのは至難の業ですが、ここでは、★大和三山とコスモス、★コスモスの種類、の2つの方向で紹介してみます。<畝傍山とコスモス>畝傍山のバックに見える山並みは「金剛山系」です。一番左側の山は主峰の「金剛山」、畝傍山の真後ろの山は、初夏の「一目百万本のツツジ」で有名な「葛城山」です。下の写真で、金剛山系の一番右側に遠く霞んでいる2つの峰は、大津皇子の墓所がある「二上山(にじょうざん)」です。<耳成山とコスモス>下の写真で、左側の山は「耳成山」ですが、右側に遠く霞んでいる山並みは、大和平野の東側を縦断している「笠置山地」です。下の「笠置山地」の写真で、一番右側の山が主峰の「龍王山」、写真中央部の産地の果てに、奈良公園の「若草山」があります。阿倍 仲麻呂が、百人一首に採られた天の原 ふりさけみれば 春日なる 三笠の山に 出でし月かもという歌を詠んだ場所は、「ひょっとすると、藤原宮跡だったもかもしれない」という妄想が、一瞬、リュウちゃんの頭の中でよぎったのでした(苦笑)<天の香久山とコスモス>下の最初の写真の手前にある小山が、かって藤原京の主であった持統天皇が、春過ぎて 夏来るらし 白妙の 衣干したり 天香具山と詠んだ「天の香久山」です。「天の香久山」の後ろの山は、紅葉の名所として有名な「談山神社」のある「多武峰(とうのみね)」なのです。<藤原宮跡のコスモスの種類>「藤原宮跡」には、以下の7種類のコスモスが植えられているそうです。(1)サンセットイエロー(黄色)(2)ピコティ(3)サイケ(4)ダブルクリック(八重咲のコスモス)(5)ベルサイユ(6)クレストレモン(7)シーシェル(花弁が筒状のコスモス)◎「サンセットイエロー」コスモス畑の一角に、「黄色いコスモス」が主役として植えられているゾーンがあります。ここの黄色いコスモスが「サンセットイエロー」のようです。◎「ピコティ」これは「白い花弁の縁が赤い」という特徴のあるコスモスなので、間違いなく「ピコティ」ですね。◎「ベルサイユ」結局、藤原宮跡のコスモス畑に植えられているとされる7種類の内、リュウちゃんのカメラで確認出来たのは上記の3種類だけだったのです(トホホ!)以下、印象に残ったコスモスの品種を推定してみます。◎「センセーションホワイト」か「ソナタホワイト」???◎「レッドベルサイユ」???リュウちゃんの好きな「赤いコスモス」です。ネットのコスモス図鑑に載っているいる「レッドベルサイユ」は、下の写真のような「花弁の中心部に白い陽光」が無いのですが、、、、◎「ダブルクリック」結局、「ダブルクリック」のような「八重のコスモス」は発見出来ませんでした。なので、ネットからお借りした写真を以下に貼り付けます。(ダブルクリック)◎「シーシェル」花弁が筒状になっている不思議なコスモスです。こちらも観ることhが出来ませんでしたので、ネットからお借りした写真を以下に貼り付けます。こんな不思議なコスモス、見た記憶が無い!本当に「藤原宮跡」に咲いているのだろうか?(シーシェル)◎「クレストレモン」これは「黄色いコスモス」なのですが、黄色いコスモスは「黄色のコスモスゾーンしかありません。「クレストレモン」は、「サンセットイエロー」に交じって植えられているのか?それとも「サンセットイエロー」だと思ったコスモスが、「クレストレモン」だったのか?花音痴のリュウちゃん、頭がこんがらがってきました。「藤原宮跡」のコスモスを植えられた皆様、出来ることならコスモス畑の一角に「見本園」を作って頂ければありがたき幸せ。なのです。コスモス畑を散策している間は、ずっと「曇天」だったのですが、一瞬、晴天になる時がありました。以下の写真は、その一瞬に撮影しました。やはりコスモスは「晴天」がお似合いだ!<安倍文珠院へ>午後2時、藤原宮跡を後にして、桜井市にある「安倍文珠院」に向かいました。「安倍文珠院」も奈良のコスモスの名所の一つで、境内には背丈が3m近くにもなる「コスモス迷路」が作られている筈なのです。周りの稲田は、稲刈りが終わって、稲藁が各所に積み重ねられていました。午後3時ジャスト安倍文珠院に到着。おお、「金閣浮御堂」の池の傍のコスモス、「見頃」だ!しかし、「コスモス迷路」のある筈の場所は、「更地」のなっていました。今年は「コスモス迷路」は作られなかったのかな?と思い、浮御堂拝観の入場口にいたお姉さんに事情を聞きましたところ、「例年なら11月上旬まで「コスモス迷路」は公開されるのですが、今年はコスモスの終わるのが早く、10月中旬で終わってしまいました」とのこと、ちょっと残念!本当は「コスモス迷路」よりも、迷路の入口にある小さい鉢植えのチョコレートコスモスが見たかったのですが、今年は見ることは叶えられなかったのです。なので、5年前に撮ったチョコレートコスモスの写真を以下に貼り付けます。小さいが気品のあるチョコレートコスモス奈良県ではここでしか見ることが出来ないのだ!「安倍文珠院」から歩いてJR「桜井駅」に辿りついたのが午後4時ジャスト、昼食休憩を除き、約4時間半、歩きっぱなしの散策旅でした。腰に付けた万歩計は、33605歩、ちょっと歩き足りなかったかな?
2021年10月28日
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秋の馬見丘陵公園ダリアが満開、コキアも朱く色づいてきた。(ダリア「桜蛍」)10月5日、まだ連日、厳しい残暑が続く中、女房殿の運転する車の助手席に乗って、久々に「馬見丘陵公園」にお出掛けしてきました。「馬見丘陵公園」は「花と古墳の公園」です。「春」には「パンジー」、「桜」、「雪柳」、冬「チューリップ」、「ネモフィラ」、「バラ」、夏には「ひまわり」、「花菖蒲」、「あじさい」、秋には「ダリア」、「バラ」、「コスモス」、「コキア」(花ではありませんが)、冬には「皇帝ダリア」など、四季を通じ、花の途切れることのない公園なのです。今はダリアとコキアの季節、今日はダリアとコキアを堪能しよう!<ダリア>ダリアは、「北エリア」の「花見茶屋」の前に集中して植えられています。約120種1000株のダリアが一斉に開花するのは、「見事!」なのです。例に寄りまして、幾つかのダリアの種類を紹介させて頂きます。<高嶺(たかね)><声望(せいぼう)><友の面影><ゾロ>この名称、昔、テレビで観た「怪傑ゾロ」に由来しているのかな?<イーグルアイ><黄望><ハミルトンジュニア><純愛の君><おぼろ月><フィダルゴブラッキー><桜蛍>このブログ冒頭にアックの写真を貼り付けたダリアです。<セクシーポーズ>ちょっと刺激的名前のダリアですね。でも、名前とは違い、清楚なダリアなのです。<黒蝶><パープルプラネット><奈々>奈良県で算出された可憐なダリアです。「奈々」と聞きますと、昭和50年にデビューしたアイドル、岡田奈々ちゃんを想い起こします。岡田奈々ちゃん、リュウちゃんの生涯最高の心のアイドルの一人なのだ!(※)尚、2012年にAKB48のメンバーとしてデビューした岡田奈々は全くの別人ですが、こちらの岡田奈々は本名で、リュウちゃんのアイドルの岡田奈々は芸名なのです。<ダリア園の横のコキア>ダリア園の横の小道を隔てた一角に、少しだけコキアが植えられています。コキアの前には小さいコスモス、11月には一面にコスモスが見頃になる!北エリアから短いトンネルを抜けると中央エリアに出ます。以下、中央エリアに咲いていた花を紹介します。<つるバラ>トンネルの手前にある雨傘状に仕立てられたつるバラです。殆ど終わっていたが、ワンポイントだけ咲き残っていた!<コルチカム>イヌサフランを園芸用に改良した植物です。彼岸花と同じように先に花が咲き、葉は花が終わった後で出てくるのだそうです。球根には「コルヒチン」という猛毒が含まれていいる「毒草」なのですが、薄紫の花は可憐ですね。<サルヴィア・レウカンサ(アメジスト・セージ)>中央アメリカ原産の大きく育つサルビアです。トンネルを抜けた所から、小さいバラ園に行く道沿いに毎年植えられていて、目を楽しませてくれるのです。馬見丘陵公園では脇役の花だが、リュウちゃんはこの花に「秋」の訪れを強く感じるのだ!<ススキの丘・パンパスグラス>サルヴィア・レウカンサの咲いている道の横手に「ススキの丘」があります。もうススキは「満開」(?)だ!ススキの林の中に、一際大きい種類がありました。これは、ススキとはちょっと種類の違うパンパスグラス(シロガネヨシ)なのだ!<コスモス>「ススキの丘」から降りますと、小さいバラ園のある「中央エリアの花壇」です。「中央エリアの花壇」では、春はチューリップ、夏には「ひまわり」、そして「ひまわり」が終わりますと、秋にはコスモスが植えられます。10月初旬は「コスモス」が植えられたばかりで、まだ見栄えがしません。コスモスの「見頃」は11月になりますので、また「見頃の時期」に訪れたいと思っています。<キバナコスモス???>まだ普通のコスモスは、植えられたばかりなのですが、コスモス花壇の一角に、「見頃」を迎えている「黄色いコスモス」がありました。この黄色いコスモス、「キバナコスモス」なのかな?「馬見丘陵公園」のHPに寄りますと、この黄色いコスモスは「レモンブライト」という品種なのだそうです。通常の「キバナコスモス」は、レモン色ではなく、朱色に近い色ですね。レモンブライトは、キバナコスモスの変種なのかな?と思って、「コスモス」のウィキペディアを見ましたところ、以下のことが判りました。(1) コスモスは、(A)オオハルシャギク(大春車菊:一般的なコスモス)、(B)キバナコスモス、(C)チョコレートコスモス、の3種類に分類される(いずれも「キク科コスモス属」の花)(2)オオハルシャギク、キバナコスモス、チョコレートコスモスは、「属」までは同じだが「種」が違うので、原則、互いに交配出来ないが、キバナコスモスとチョコレートコスモスとは交配が可能で、この2種を交配して作出されたコスモスは「ストロベリーチョコレート」と呼ばれる。(3)、元来、オオハルシャギク種のコスモスには「黄色の花」は無かったが、1988年(昭和63年)、玉川大学農学部育種学研究室により、史上初の黄色いオオハルシャギクである「イエローキャンパス」が育成された。(4)、ネットで検索出来るサイトを幾つか見たが、見た限りのサイトは皆、「黄色いコスモス」=「キバナコスモス」となっている。ここからは「レモンブライト」=「黄色いコスモス」=「キバナコスモス」と結論せざるを得ないが、、上記(3)に寄れば、「レモンブライト」=「オオハルシャギク」だと結論できそうだ。この問題につきましては、これくらいでお終いにします。「レモンブライト」は「キバナコスモス」なのか?それとも「オオハルシャギク」なのか?コスモスに詳しい方がいらっしゃいましたら、この問題についてお教え頂ければ幸いなのです。<カリヨンの丘の「コキア」(ホウキギ)>コスモス花壇から南へ10分位歩いたところに「カリヨンの丘」があります。「カリヨンの丘」の周辺に、約3200株の「コキア」(ホウキギ)が植えられています。夏にはマリモのように青かったが、もう紅葉のように赤くなってきた!馬見丘陵公園のコキアは、昨年(2020年)から植え付けが始まったので、まだ「コキア園」としては「新参者」です。植えられている株数は3200株、この株数、全国的には何位のコキア園なのか?と思ってネット調べしましたところ、下記のサイトがヒットしました。<コキアが見られる全国の公園13選>上記サイトで、コキアの株数の多い順に並べてみます。(1位)国営ひたち海浜公園(茨城県ひたちなか市):32000株、(2位)東京ドイツ村(千葉県袖ケ浦市):20000株、(3位)国営みちのく杜(もり)の湖畔公園(宮城県柴田郡):10000株、(3位)ひるがのピクニックガーデン(岐阜県郡上市):10000株、(5位)国営武蔵丘陵森林公園(埼玉県比企郡):4500株、(6位)国営讃岐まんのう公園(香川県まんのう町):4000株、そして、(7位)馬見丘陵公園(奈良県河合町・広陵町):3200株、昨年に誕生したばかりの馬見丘陵公園のコキアの株数は、堂々の全国第7位!この調子で行けば、1位の「ひたちなか海浜公園」の株数を追い抜く日も近いぞ(ちょっと無理か???)ーーーーー(おまけ)リュウちゃんの家の小さい庭で、シュウメイギクが満開になりました。
2021年10月21日
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明日香村・稲渕地区名物の案山子ロード今年のジャンボ案山子は大谷翔平選手だ!(前回のブログに続きです)12時30分、やっと「石舞台売店」(休憩所)に到着、休憩所のベンチで昼食、プファ~、ビールが旨い!飛鳥の初秋の風が心地いい!昼食の後、久しぶりに石舞台古墳に入場して見ました。側面から撮った石舞台古墳です。側面から見ると、まるで「寝ている大仏」に見える!右側の巨石、「大仏の頭部」だったのか???玄室(死者を埋葬した墓室)に入ります。玄室の内部です(撮影に失敗したため、以下の写真はネットからお借りしました)玄室には、本来、被葬者を埋葬した「石棺」があった筈ですが、昭和8年~10年に京都帝国大学により行われた本格的な発掘の際には、すでに「石棺」は断片しか残っていなかったようです。石舞台古墳の横手に、復元された「石棺」が安置されていました。「復元された「石棺」の横に、以下の立て札が立てられていました。この立て札の記述により、多少、石舞台古墳の謎が判ったような気がする。尚、「石舞台古墳の謎」につきましては、下記のサイトに要領よくまとめられていますので、興味のある方は下記サイトをクリックして読んでみて下さいね。<閑古鳥旅行者―石舞台古墳―>通常、石舞台古墳のような古代の豪族の墳墓は、築造された後に墳墓全体を「封土」(土で埋める)するのですが、石舞台古墳は、かなり昔から封土が剥がされ、石室がむき出しになっていたようです。以下の絵図は、嘉永6年(1853年)に刊行された「暁鐘成(あかつき かねなり)」が著した「西国三十三所名所図会」の「石舞台の図」です。上掲の絵図で左側の手前にあるのが石舞台古墳です。この絵図により、江戸時代の終わり頃には、石室が剥き出しになっていたことが判ります。下の写真は、昭和8年に京都大学が発掘調査した時の石舞台です。(昭和8年の石舞台)上掲の絵図及び写真を見ますと、当時は玄室の下まで岩が剥き出しになっていることが判りますね。現在見られるような玄室のところまで盛り土をしたのは、周辺整備と復元作業が行われた昭和34年だったようです。上記の事柄から推定いたしますと、石舞台古墳の封土は、645の「乙巳の変」直後に剥がされ、石室が剥き出しにされた。と云えそうですね。<石舞台周辺の萩の花とススキ>石舞台の周辺は公園として綺麗に整備されています。以前は石舞台を囲む正方形の土手の斜面や、周辺にも紅白の彼岸花が見られたのですが、今回は残念ながら、彼岸花は全く見ることが出来ませんでした。ここは奈良県屈指のススキと萩の花の名所なのだ!<稲渕地区へ>一時、ススキと萩の花を愛でてから、本日の一番のお目当てである「稲渕地区」に向かいました。「稲渕地区」は石舞台から徒歩30分くらい坂を上ったところにある「棚田百選」に奈良県で唯一剪定された「棚田の村」なのです。上がっていく道路の右側に、「稲渕の棚田」が見えてきました。棚田の周辺には、赤い彼岸花が咲き残っていました。稲渕の陸橋を潜りますと、名物の「案山子ロード」のある目的地です。入口のところに、いつものように紅白の彼岸花が咲いていました。今年も入口の紅白の彼岸花に逢えた。奥の黄色い彼岸花、まだ咲いているだろうか?さて「案山子ロード」です。稲渕地区では、9月になりますと棚田の農道沿いに地元の皆様が作られた数々の案山子が飾られます。毎年、テーマがありまして、昨年のテーマは「絆」、今年のテーマは「マスクの似合う案山子」なのだそうです。両方とも「新型コロナウィルス」に関連したテーマですね。さて、今年の「案山子」を幾つか紹介いたします。(分かる限り、案山子のタイトルを入れてみました)★「マスクの似合う<女の子>」:これ、「毀滅の刃」案山子なのかな?★「稲渕の棚田でとれた棚田米」★「お姉ちゃんと仲良く」★「疫病解散!?アマビエの眼で鬼退治」:ちょっとシュールな案山子だ!★「三猿」★「大坂なおみ選手」:この案山子、本人よりもキュートだ!?ここの案山子、いつも1体だけ、巨大なジャンボ案山子が作られます。昨年は新型コロナ禍で亡くなった「志村けん」のジャンボ案山子だったのですが、今年は大リーグで「二刀流」で大活躍した大谷翔平選手のジャンボ案山子だったのです。大谷選手よりは顔が長いのが気になるが、大谷選手をジャンボ案山子にした「選球眼」はナイス!なのだ。実はリュウちゃん、オリンピック・パラリンピック開催中に、オリ・パラは殆ど観ずに、ネットのAbemaTVで藤井総太君の将棋中継と大谷選手の試合ばかり見ていました。ここで大谷選手の今季の成績を挙げてみます。<打撃成績>★出場試合数:155試合、★打席数:537打席、★ヒット数:138安打、★打率:0,257、★本塁打:46本、打点:100打点、★得点:103得点、★盗塁:26盗塁、★四球:96個(内、敬遠:20個)、三振:189個、<投手成績>★登板試合数:23試合(全て先発)、★勝敗:9勝2敗、★登板イニング数:130イニング、★防御率:3,18、★奪三振数:156個、大谷翔平殿来年は今年以上に、二刀流に磨きをかける事を期待しています!<稲渕地区の白と三色の彼岸花>案山子ロードの終着点に、赤・白・黄色の三色の彼岸花が咲いているエリアがあります。終着点が見えてきました。遠目では彼岸花は少ない、やはり「終わりかけ」なのか?やはり、「終わりかけ」でした(残念!)もう午後3時だ。先を急がないと日が暮れてしまう!少し足は重いが、これからはずっと下り坂、先を急ごう!帰路途中の「富有柿」です。もう柿の季節だ!<聖徳太子誕生の橘寺>午後3時30分、聖徳太子生誕の地とされる「橘寺(たちばなでら)に着きました。橘寺の下の棚田も、明日香村屈指の彼岸花の名所なのです(下の写真で、左側にあるのは「観音堂」なのですが、現在は修復工事中なのです)境内に入ります。橘寺の境内には、約150本の「酔芙蓉」が植えられていて、今や奈良県屈指の酔芙蓉の名所なのです。不信人者のリュウちゃんが拝観料350円を払って境内に入ったのは、「酔芙蓉」を観るためだったのです。もう夕方朝には白かった花びら皆、酔っぱらってピンク色になった!下の写真は橘寺の境内にある「飛鳥の謎の石造物」の一つ、「二面石」です。2つの顔が彫られており、一面は「善の顔」、もう一面は「悪の顔」とされていますが、長年にわたる風化で、表情が殆ど判らなくなってしまいました。聖徳太子が「通勤」に使ったとされる愛馬「黒駒」の像です。7世紀の初め、聖徳太子は「斑鳩宮」で暮らしていましたが、飛鳥の「小墾田宮(おはりだのみや)」で即位した推古天皇の摂政となったため、「斑鳩宮」から黒駒に乗って、頻繁に飛鳥に「通勤」したとされています。法隆寺にも、聖霊院の右手に小さな厩(うまや)があり、この中には「黒駒」と、従者の調子丸の像が祀られています。(法隆寺の黒駒の小さい厩)飛鳥の「橘寺」から斑鳩の「法隆寺」までの道は「太子道」と称され、現在でも残っています。「太子道」は全長28km、歩いて行けば1日掛かりの行程ですね。馬に乗っていったとしても通常なら2~3時間くらい掛かる筈ですが「黒駒」は「神馬」で、一瞬にして富士山も飛び越えてしまう超能力を持っていたようなので、一瞬で「法隆寺」から「橘寺」に辿り着いたのかも知れませんね。そうだとすると手綱を引く調子丸は「おいてけぼり」だ!調子丸さん、大苦労されたようだ!?(黒駒に乗る聖徳太子と従者調子丸)もう午後4時だ!先を急ごう。下の写真は、境内の中から撮った「西門」です。写真中央に伸びている農道を右に曲がりますと、「亀石」に出逢います。田んぼのあぜ道に一列に咲く彼岸花です。こちらの彼岸花は、まだ「見頃」でした。石碑の下に咲く白い彼岸花です。本日の遠足で最後に観た白い彼岸花となりました。明日香村の「謎の石造物」の中でも、最も有名な「亀石」です。例年、この「亀石」の頭の横には、赤い彼岸花が咲くのですが、今年は下の写真のように、彼岸花の姿は影も形もありませんでした(残念!)「天武・持統陵」のある丘の麓の彼岸花です。この辺りは蕎麦畑になっています。実は、ここに「赤トンボ」が飛んでいたのですが、リュウちゃんのバカチョンデジカメでは「赤トンボ」をとらえることが出来ませんでした。カメラが悪いのか?リュウちゃんの腕が悪いのか?おそらく後者ですね。ブログ友の「みなみたっち」さんだったら、バッチリと「赤トンボ」の飛翔を捉えられただろうと思い、つくづくも残念だったのです。下の写真は「天武・持統陵」の下で撮りました。正面の石段を上がったところに「天武・持統陵」(野口王墓)があります。時間があれば、「天武・持統陵」の裏手から、明日香の彼岸花の「名所」の一つである「欽明天皇陵」まで足を運ぶ予定だったのですが、夕暮れが迫って来ましたので、本日の最後の目的地である「中尾山古墳」に向かいました。「中尾山古墳」って何?以下に「高松塚古墳」周辺の案内図の写真を貼り付けます。★上掲の案内図で、中央上部の矢印の先、徒歩10分のところに「天武・持統陵」があります。★図のやや右下に、「高松塚古墳」があります★「高松塚古墳」の下、案内図からはみ出したところに「文武天皇陵」があります。★「中尾山古墳」は、右上の赤字で「現在地」と書かれた斜め左下にあります。★「中尾山古墳」は直径約20m、高さ4mの小さな三段式八角墳です。明日香村の古墳の中では、地味な存在であった「中尾山古墳」は、昨年末、急に脚光を浴びることになりました。以下に、昨年11月、「中尾山古墳」に関する新聞記事の「見出し」を幾つか貼り付けます。<奈良の八角墳、構造判明、専門家「文武天皇陵では?」>(2020年11月26日、朝日新聞デジタル)<奈良・中尾山古墳、「真の文武陵」 異例の成果、陵指定なく調査可能>(2020年11月27日、毎日新聞大阪朝刊)<中尾山古墳も八角墳、文武陵?、石敷きは3重>(2020年11月26日、日本経済新聞)明治以来、宮内庁か一貫して「文武天皇陵」であるとしてきた「桧隈安古岡上陵:ひのくまのあこのおかのえのみささぎ)」が、実は文武天皇陵ではなかった!これは考古学上のビッグニュースなのだ!(文武天皇陵?桧隈安古岡上陵?)この問題につきまして、ジャーナリストの粟野仁雄(まさお)氏が2020年12月30日付けの「デイリー新潮」で総括的なコラムを書いていますので、そのコラムを以下にコピペします。<「中尾山古墳」が文武天皇陵と確実に、宮内庁はいつまで「ねじれ構造を放置するのか>奈良県明日香村の中尾山古墳が、日本が統一国家の様をなしてゆく7世紀末から8世紀初頭に君臨しながら夭逝した文武天皇(683~707年)の陵墓であることが確実となった。2020年11月28、29日だけ一般公開され、ぽかぽか陽気の29日に訪れた。明日香村の教育委員会と関西大学が「再調査結果」として発表したもので、発掘調査は1974年(昭和49年)以来という。 中尾山古墳は近鉄・飛鳥駅から歩いて15分ほどの丘にある。文武天皇陵と認められたことを祝うように、古墳の周囲だけまだ紅葉が美しかった。 集まった見学者を前に明日香村教育委員会の西光慎治調整委員が「天皇中心の律令国家で作られた新しい形態のお墓。舒明天皇以来の八角形は天皇にしか許されない形のお墓の形態なんです。でもこの八角形は中尾山古墳で終わってしまった。唯一無二の重要な古墳です」などと説明していた。巨大な前方後円墳の時代はとうに去り、規模も縮小されたこうした天皇陵が主流になったが、その最後のもので「終末期古墳」とされる。 墳丘は三段構造。下段と中段には石が敷き詰められている。上段は土だけを固めている。(版築という)。石室は10個の大きな石材を組んで作られた「横口式石槨」構造。 側壁、奥壁、隅石(石柱)は加工しやすい兵庫県高砂市産の「竜山石」(凝灰岩の一種)が使われる。石敷きの石は560トンも使われ、八角形の「対辺長」(円でいう直径)は32・5メートルもある。 石室には子供か痩身の人ならやっと入れる幅25センチほどの隙間がある。鎌倉時代に盗賊が重い隅石を押しのけて作った隙間だ。入口に鏡が置かれて中が少し覗けるようになっていたが「次のグループが来ていますのでお進みください」と言われよく見られなかった。天井石は花崗岩、内部はかつて水銀朱で真っ赤に塗られており、天井に片鱗があるという。中央には火葬骨を収めた銀壺を置く台があったと見られる。 「文武天皇陵であることをさらに強く裏付ける発見」(白石太一郎・国立歴史民俗博物館名誉教授)(11月27日付け読売新聞朝刊)、「八角墳の最終段階を象徴するような古墳。『文武をもって古墳は終わる』といわれているが、火葬骨をおさめた石槨(せっかく)の石はピカピカに磨かれ、本当に精緻な造り。最高峰の人物にふさわしい墓だ。中尾山古墳の被葬者は文武天皇の可能性が極めて高い」(岡林孝作・奈良県立橿原考古学研究所副所長)(同日付け産経新聞朝刊)など、中尾山古墳に文武天皇が埋葬されていることは確実視されている。 文武天皇は祖父が天武天皇、祖母が妻の持統天皇。父親(草壁皇子)が若くして死亡し、持統天皇が後見人となって697年に15歳で即位した。孫の即位に邪魔になる大津皇子を処刑した祖母の庇護で文武天皇は「大宝律令」を作り、法と官僚が支配する中央集権の律令国家を完成させた。唐の女帝、則天武后に遣いを送り、新国家が「日本」という名であることを知らせたが、710年の平城京への遷都が間近だった707年に25歳で病没した。 文武天皇から物語が始まる『続日本紀』では、文武天皇の亡骸は飛鳥の山で火葬され遺骨は檜隈安古岡上陵(ひのくまのあこのおかのえのみささぎ)に埋葬された、と記録される。名前が書かれた石などもなく、文武天皇陵との確証はない さて、この長い名前の埋葬場所は実際にはどこなのか? 実は宮内庁が指定(治定(じじょう)という)している文武天皇陵は、極彩色の壁画で有名な高松塚古墳を挟んで500メートルほど南の栗原塚穴古墳なのだ。行ってみた。中尾山古墳よりはるかに大きく、鉄門で閉ざされて入れない奥に立派な鳥居がある。立札には「文武天皇 檜隈安古岡上陵」としっかり書かれている。訪れていた年配の男性は「宮内庁は文武さんの墓はここや言うて、今度も絶対変えへんのやろなあ」と笑っていた。 『天皇陵古墳を歩く』(朝日新聞出版社)などの著書がある今尾文昭氏(関西大学非常講勤師 元橿原考古学研究所調査課長)によれば、文武天皇の墓は江戸時代、中尾山古墳の少し北にある「野口王墓」とされていたが、明治時代に見つかった「阿不幾(あおき)乃山稜記」により、ここが天武、持統天皇夫妻の合葬墓と判明。明治14年(1881年)に明治政府は治定を変更した。「その結果、文武天皇陵を新たに栗原塚穴古墳に決めてしまったのです。江戸時代は文武天皇陵が高松塚古墳だったこともありました。中尾山古墳は近代初めの陵墓からは漏れていたのです」と話す。 この明治14年を最後に宮内庁は一切、天皇陵を変更していない。最近では2010年に、7世紀に活躍した斉明天皇(女帝・皇極天皇が復位して改名した)の墓が明日香村の牽牛子(けんごし)塚古墳と判明、大ニュースになったが、宮内庁は隣町の高取町の越智崗上陵(おちのおかのえのみささぎ)を斉明天皇陵としたままだ。頑として変更しない理由を宮内庁は「神聖な祭祀が行われてきた」(陵墓課)などとする。6世紀に君臨した継体天皇陵も宮内庁は大阪府茨木市の太田茶臼山古墳を陵墓としているが、学術研究から大阪府高槻市の今城塚古墳であることが確実。これも変更しない。前述の男性の「今度も」はこれらを念頭にしている。宮内庁は祭祀の伝統とともに「墓誌などが見つかっていない」も変更拒否の理由とし、今回も「名前が書かれた石などもなく、文武天皇陵との確証はない」などとする。「真実性」 では栗原塚穴古墳には文武天皇の名前が書かれた石があるのだろうか。宮内庁は研究者も一切立ち入らせない。今尾氏は「今の学者で中尾山古墳が文武天皇陵であることを否定する人はいない」と見ており、宮内庁の姿勢は屁理屈をこねて歴史をねじ曲げているとしか思えない。 明治政府は天皇国家として天皇家の権威づけのため実在も疑わしい神武天皇以来の「万世一系」を「可視化」するために慌てて天皇陵墓を「治定」してゆく。幕末から明治にかけて、文献や地域の伝承などに基づいての指定だったが「根拠薄弱」が多いことは指摘されている。その一方で指定した天皇陵の学術的な実地調査をほとんど拒否している。 さて今回、半世紀ぶりに中尾山古墳が発掘調査されたのには理由がある。明日香村と橿原市は「飛鳥・藤原の宮都とその関連資産群」として、石舞台や天皇陵などの遺跡の世界遺産登録を目指している。中尾山古墳を構成資産にしてもらうには、古墳の正確な寸法のなどが必要だった。明日香村は今回の調査結果について「世界遺産の登録に向けて大きな一歩となる」(教育委員会)と期待している。だが、世界遺産登録の要件に「真実性」がある。「嘘の埋葬場所」を世界に向けて具体名を挙げた天皇の墓だなどと喧伝していいのだろうか。昨年、大阪府堺市や藤井寺市などの「百舌鳥・古市古墳群」が世界遺産に登録されたが、目玉の「大山陵」に埋葬されているとされる仁徳天皇は実在さえ疑わしい。前述の今尾文昭氏は「百舌鳥・古市古墳群を構成する5世紀後半ごろまでの前方後円墳などの被葬者は不確かなことが多い。しかし今回の中尾山古墳は時代が8世紀に入っており、『続日本紀』などの正確な史料がある。それなのに事実と違うことを世界に向けて発信するのは問題です」と指摘する。さらに「宮内庁は祭祀を強調するが、一般の人は陵墓祭祀など知らない。違う場所を税金で祭っていることもおかしいのでは」と話す。 宮内庁は墓誌や墓碑がないとするが、そもそも日本の墓には墓誌を入れる風習はない。今尾氏は「律令には墓碑を立てよとの規定はあるが、天皇陵、皇后陵は規定の外にある。学術研究の成果と国家の指定の『ねじれ構造』を正していくべきです。ただ、現状では正しい場所に変えるための法律が存在しない。国会議員なども動いてほしいですね」と訴える。 仮に秦の始皇帝の墓と信じて中国の西安市を訪れて、真っ赤な嘘であれば世界の人は黙っていないだろう。自国の歴史を正しく伝えない国は世界の信用も得られまい。ーーーリュウちゃんがこの日訪れた「中尾山古墳」は、昨年の発掘作業が無かったかのように古墳が埋め戻され、古墳を埋めた小山の南斜面には草がぼうぼうと茂っているのみだったのです。「中尾山古墳」を後にして、ゴール地点の近鉄「飛鳥駅」に辿り着いたのが午後5時ジャストでした。家に帰り、腰に付けていた万歩計の歩数を見ましたところ、何と、49187歩!でした。少々足取りは重かったが、1日の遠足の最高歩数記録を更新した!後期高齢者一年生のリュウちゃん、まだまだ健脚なのだ!
2021年10月08日
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明日香路の元薬師寺の紅白の彼岸花、もう秋たけなわだ!9月23日(秋分の日)、1年ぶりに明日香村を散策してきました。リュウちゃん、6月に後期高齢者の仲間入りし、ちょっと足腰に不安を覚える中での、初めての本格的な遠足です。昨年はキトラ古墳から元薬師寺跡まで、46000歩を歩いたが、足腰に不安を覚える中で今年は何歩くらい歩けるだろうか?今年は昨年とは逆に、元薬師寺跡からスタートし、以下の順路で歩く計画を立てました。★(スタート)近鉄「畝傍御陵前」駅~★元薬師寺跡~★藤原宮跡~★天の香久山の麓~★甘樫の丘~★飛鳥寺~★石舞台~★稲渕地区(棚田百選)~★橘寺~★亀石~天武・持統陵~★鬼の雪隠・鬼の俎(まないた)~★欽明天皇陵~★高松塚古墳~★近鉄「飛鳥」駅(ゴール)以下に明日香村の「散策図」を貼り付けます。上の図で、スタート地点の「畝傍御陵前」駅は、図の左上の「橿原神宮前」の更に上部にあります、「甘樫の丘」は図の中央部やや上部にあります。「石舞台古墳」は図の右下、棚田百選に選ばれている「稲渕地区」は、右下の「マラ石」の下部(図には表示されていません)にあります。例によりまして女房殿お手製のおにびり弁当とリュウちゃんお手製(?)の缶ビール(2缶)をリュックに詰め、午前8時に家を出発、午前9時15分、スタート地点の「畝傍御陵前」駅に着きました。(※)「畝傍御陵」とは、神武天皇陵のことです。明日香路の彼岸花、まだ「見頃」なのだろうか?<元薬師寺跡地>「畝傍御陵前」駅から徒歩10分で、最初の彼岸花の見所である「元薬師寺跡地」に着きます。おお!ここの彼岸花、まだ「見頃」だ!大和三山の一つ、「畝傍山」と元薬師寺跡の彼岸花のコラボです。<藤原宮跡>元薬師寺跡から北東の方向へ20分くらい歩きますと、持統天皇の都であった藤原宮跡に着きます。道の右側に「天の香久山」が見えてきました。元薬師寺跡地では真近に見えていた畝傍山は、少し遠ざかってきました。大和三山の内、一番北川にある耳成山(みみなしやま)です。このあたりの彼岸花はすでに色が褪せて、「終わりかけ」だったのです。ここで予め明かしておきますが、9月23日の明日香路の彼岸花は一部を除いて殆どが「終わりかけ」になっていました。お彼岸だというのに、彼岸花は「終わりかけ」、以前はこんなことは無かった筈だ!やはり地球温暖化の影響なのか?藤原宮跡の道脇に、コスモスが咲き始めていました。本来ならこの季節には、藤原宮跡には一面にコスモスが植えられる時期で、11月には、奈良県屈指のコスモスの名所になる筈なのですが、昨年に続き今年も新型コロナ禍のために、コスモスの植え付けは行われないようです。新型コロナ禍のために、奈良のコスモスの名所が一つ無くなった!来年、名所は復活するのだろうか?ここで突然ですが、リュウちゃんが大好きな山口百恵ちゃんの歌を2曲貼り付けます。<山口百恵「秋桜(コスモス)」>→ここをクリック、<山口百恵「曼珠沙華(まんじゅしゃか)」>ここをクリック、山口百恵さん、コスモスのように清楚で、彼岸花(曼珠沙華)のように情熱的な女性でしたね!(山口百恵さん)藤原宮跡の東の端、「天の香久山」の麓に「国立奈良文化財研究所」があります。ここには「トイレ休憩」で立ち寄りました(苦笑)「国立奈良文化財研究所」の右手奥、文字通り「天の香久山」の麓に、彼岸花の群生を見つけました。リュウちゃん、この季節には何度もこの辺りを散策したのですが、ここの「群生」を観たのは初めての体験だったのです。文字通り彼岸花の群生の発見!明日香路の彼岸花は奥が深い!?元薬師寺跡、藤原宮跡、天の香久山は橿原市にあるのですが、「国立奈良文化財研究所」の前の道を南に向かいますと、すぐに明日香村に入ります。橿原市とは少し風景が変わってきました。午前11時30分、「甘樫の丘」の麓にある休憩所に到着。休日とあってか、サイクリング・ツアーの客で賑わっていました。最初の予定では「甘樫の丘」に登るつもりだったのですが、時間が押してしまいましたので、残念ながら登山は諦めました。<あすか夢の楽市>明日香村のメインの駐車場の一つであり、「道の駅」でもある「あすか夢の楽市」に到着。ここの白い彼岸花、今年も咲いていた!<飛鳥水落遺跡>「あすか夢の楽市」の駐車場の横手に中大兄皇子(後の天智天皇)が斉明天皇6年(660年)に作ったとされる「漏刻」(水時計)の遺跡があります(下記写真のバックの小山は「甘樫の丘」です)この遺跡は1981年に発見されました。668年、大津宮で即位した天智天皇は671年4月25日に漏刻を宮内に作り、鐘鼓を打って日本で初めて「時報」を開始したのだそうです(天智天皇10年)。天智10年4月25日は現在の太陽暦に直しますと6月10日になります。現在の「時の記念日」の由来は、ここから来ているのですね。<蘇我入鹿の首塚>「水落遺跡」から、「蘇我入鹿の首塚」のある「飛鳥寺」のの裏手の田圃道に出ました。ここは明日香村屈指の「彼岸花の名所」なのですが、残念ながら、ここの彼岸花も「終わりかけ」、しかし、明日香村特有の雰囲気はよく出ている。さて、「蘇我入鹿の首塚」です。馬子=蝦夷=入鹿と3代に渡り、飛鳥朝廷で権勢を欲しいままにした蘇我氏、入鹿は642年、皇極天皇の即位に伴い、父の蝦夷の後を継ぎ、実質的に国政を掌握しました。入鹿の政治は「暴政」だったと云われています。入鹿の暴政に対し、国政を天皇中心にしようとする機運が高まり、遂に皇極天皇4年6月12日(645年7月10日)、入鹿は「首塚」から約600m離れたところにあった「飛鳥板蓋宮(いたぶきのみや)」の大極殿において皇極天皇の御前で中大兄皇子(後の天智天皇)等によりで殺害されてしまいました。このクーデターは世に「乙巳(いっし)の変」とと呼ばれ、蘇我氏の滅亡と「大化の改新」をもたらしたことで日本古代史のなかでも画期的な事件だったと思われます。中大兄皇子によって斬り飛ばされた入鹿の首は「板蓋宮」の大極殿から600m離れた「首塚」まで飛んだという伝説により、この地に「入鹿の首塚」が立てられたとされています。(「乙巳の変」~「多武峰縁起絵巻」より)(※)尚、「乙巳」とは、干支の一つで、西暦年を60で割って45余る年が「乙巳の年」なのだそうです。「乙巳の年」は60年に一回巡ってきます。一番最近の「乙巳の年」は1965年、一番近い未来の「乙巳の年」は2025年ということになります。<飛鳥寺>「入鹿の首塚」の後ろの道は、飛鳥寺の裏手に続いています。今回、初めて裏手から飛鳥寺に入りました。境内の狭い庭には、酔芙蓉、小菊が開花していました。庭の一角に、彼岸花が咲き残っていました。<飛鳥寺について>推古4年(596年)、仏教を保護した蘇我馬子の発願により建立された日本初の本格的寺院、鎌倉時代に伽藍の大半を消失したが、江戸時代に再建された。本尊の「銅造釈迦如来坐像」は飛鳥時代の作で、現存する日本最古の仏像、通称「飛鳥大仏」の名で親しまれている。靴を脱いで、飛鳥大仏の安置されている本堂に上がります。久々にお目にかかった飛鳥大仏そのアルカイックスマイルは永遠に不滅なのだ。飛鳥大仏のお目どうりを終え、本堂入口の縁側に座り、靴を履こうとしたその時。痛テテテテ~~~!!!両足が攣(つ)った、痛くて靴が履けない!結局、10分近く悪戦苦闘の末、何とか靴を履くことが出来ました。靴を履いて立ち上がりますと、両足の痙攣は嘘のように無くなり、元に戻ったのです。足の痙攣はとりあえず治ったが、少々足が重い。まだ予定の半分も歩いていない。全行程を歩き切ることが出来るのだろうか? 以下、<奈良・明日香村彼岸花巡り2021(下)>に続きます。
2021年09月29日
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真夏の馬見丘陵公園、30種15万本のひまわりがお出迎え、8月5日、奈良県の最高気温は36℃、朝からギラギラと太陽が照り付ける酷暑日、久しぶりに女房殿の運転する車の助手席に乗って、馬見丘陵公園に行ってきました。本日の目的は、30種15万本のひまわりと、植え付けられたばかりの緑のコキア、それと水連池の水連です。本来でしたら、おにぎり弁当と缶ビール(2本)を持って行って、園内で、プファ~、ビールが旨い!とやるところですが、気温36℃の猛暑日に、野外で昼食を摂りますと、プファ~!とやる前に熱中症になってしまいますので、冷たいお茶を入れた水筒だけ持ってお出かけしたのです。朝、8時20分、家を出発、朝8時30分、馬見丘陵公園北エリア駐車場に到着、既に真夏の太陽ギラギラ、確実に30℃は超えている!下の写真は駐車場の近くから撮った「集いの丘」です。やはり来場者が少ない!「集いの丘」で撮った写真を何枚か貼り付けます。やはり真夏には。ひまわりがよく似合う!北エリアから中央エリアに至る短いトンネルの近くに、コキアが植えられていました。植えられたばかりの夏のコキア、阿寒湖の毬藻のように瑞々しい!コキアの周辺には、背丈の短いひまわりが植えられています。このひまわり、「スマイルラッシュ」という品種なのかな?中央エリアに入ります。中央エリアのひまわりです。<赤いひまわり「プラドレッド」>中央エリアには、毎年、「赤いひまわり」が植えられます。このひまわりの名称は「プラドレッド」、日本語に訳しますと、「平原の赤」の意味になります。ひまわりと云えば黄色のイメージ、赤いひまわり、やはり珍しい!?中央エリアの公園館のの前の「芝生の丘」には、小さく白いひまわり「ホワイトナイト」が植えられています。「ホワイトナイト」のバックに、赤い百日紅(さるすべり)が咲いていました。馬見丘陵公園には多くの百日紅があり、今、「見頃」を迎えています。<水連池>公園館からナガレ山古墳に向かう途中に、水連池があります。もう水連はほぼ終わりか?リュウちゃんは視力障害者5級の免許皆伝者なので、一見したところでは水連の花は見えなかったのですが、女房殿に教えられて、幾つかの花をズームで撮影することが出来ました(やれやれ!)「水連池」を後にして、本日の最後の目的地である「カリヨンの丘」に向かいます。途中、ナガレ山古墳の麓のトイレ&休憩所で一服、熱い!もう気温は35℃くらいありそうだ。熱い!暫し休憩してから、カリヨンの丘に向かいます。「カリヨンの丘」周辺のコキアです。写真で見た限りでは、緑のコキアは涼し気に見えますが、実際は、36℃の灼熱の中の光景です。本日の歩数は僅か6000歩だったのですが、熱中症一歩手前になりました。真夏の馬見丘陵公園散策、命懸けなのいだ!早々に公園散策を切り上げ、リュウちゃんの家の近所にある回転寿司店で早い昼食、プファ~、ビールが旨い!熱中症寸前から蘇った!ーーーーーーー<将棋・藤井総太2冠、今シーズン中に6冠なるか?>(藤井総太2冠)将棋の藤井総太2冠(19歳)の勢いが今季も止まりません。6月6日から行われた棋聖戦5番勝負(初のタイトル防衛戦)では、挑戦者の渡辺 明3冠に3勝0敗でストレート勝ち、この勝利により、史上最年少(18歳11か月)でのタイトル初防衛と、将棋界の最高段位である九段に昇進しました。藤井2冠の現在までの対渡辺3冠の対戦成績は8勝1敗です。(渡辺 明3冠)<将棋の8大公式タイトル>★名人:渡辺 明、★竜王:豊島将之、★王位:藤井総太、★棋聖:藤井総太、★王座:永瀬拓矢、★王将・渡辺 明、★棋王:渡辺 明、★叡王:豊島将之、★渡辺 明→名人・王将・棋王の3冠、★豊島将之→竜王・叡王の2冠★藤井総太→王位・棋聖の2冠、★永瀬拓矢→王座の1冠ということになります。<2021年7月度レーティング>将棋の現役のプロ棋士は、現在、170人います。それぞれの棋士の、段位やそれぞれの棋戦でどのクラスに在籍しているかに関わらず、本当の実力を示す指標となるものに「レーティング」(定まった数式に当てはめた棋士の現在の実力を示す数値)があります。棋士のレーティングは、四段に昇段し、プロ棋士になった時に、一律1500点と評価されます。それから対局を重ね、勝ちますと、対局者のレーティングに比例して点数が上がり、敗けますと、やはり対局者のレーティングに比例して点数が下がるというシステムになっています。具体例として、藤井2冠が四段に昇進して29連勝した時のレーティングの推移を以下に書いてみます。★2016年12月:1503点(加藤一二三九段との1戦のみ、通算1勝)★2017年1月:1509点(豊川孝弘七段との1戦のみ、通算2勝)★2017年2月:1536点(浦野正彦八段他計4戦、通算6勝)★2017年3月:1561点(大橋貴洸四段他計4戦、通算10勝)★2017年4月:1595点(小林裕士七段他計4戦、通算14勝)★2017年5月:1630点(近藤誠也五段他計5戦、通算19勝)★2017年6月:1700点(澤田真吾六段他計10戦、通算29勝)以上、藤井2冠のデビュー戦から29連勝した2017年6月度までのレーティングの推移を見ました。この間、29連勝でレーティングは1500点から1700点と、200点アップしました。1勝あたり、約7点、レーティングが上がったことになります。デビュー戦の対加藤一二三九段戦の勝利では、わずか3点しか上がらなかったのですが、これは、この時点での加藤九段のレーティングが相当低かったことが原因です。「神武以来の天才」と称された加藤九段も、段位はそのまま維持されますが、77歳という年齢には勝てず、レーティングは最低レベルに落ちていたのですね。加藤九段は藤井総太四段(当時)のデビュー戦に敗れ、現役を引退したのです。さて、ここで2021年7月末時点でのレーティング上位10傑を挙げてみます。(1)藤井総太:2050、(2)渡辺 明:1936、(3)永瀬拓矢:1929、(4)豊島将之:1921、(5)斎藤慎太郎:1861、(6)広瀬章人:1825、(7)木村一基:1800、(8)羽生義治:1794、(9)糸谷哲郎:1792、(10)山崎隆之:1789、やはり藤井2冠がダントツの1位、2位の渡辺3冠を114点も引き離しています。大体、レーティングが100点の差があれば、上位者の勝率は8割とされていますので、現在の藤井2冠は「ほぼ無敵」と云えますね。このことを念頭に置いて、今シーズンの8大タイトル戦の展望について以下に書いてみます。<2021年8月10日現在の藤井2冠のタイトル戦進行状況>(1)<棋聖戦>今季は渡辺 明3冠の挑戦を受け、5番勝負を戦いましたが、見事3連勝のストレート勝ちで初めてタイトル防衛に成功しました。これで藤井2冠の対渡辺戦は8勝1敗となりました。(2)<王位戦>6月30日から藤井2冠が保持しているもう一つのタイトル、王位戦7番勝負が始まりました。挑戦者は、レーティング第4位の豊島将之2冠、6月29日までの対戦成績は1勝6敗、藤井2冠が最も苦手としている難敵です。6月30日の初戦は、なすところなく敗退、「やはり藤井将棋は豊島2冠には通じないのか!」と思わせましたが、その後、第2戦、第3戦に連勝し、現在2勝1敗です。あと2勝すれば王位戦防衛となります。(豊島将之2冠)(3)<叡王戦>藤井2冠は、現在、豊島2冠が持っている「叡王」に挑戦しています。こちらは5番勝負で、先に3勝すればタイトルを取ります。8月10日現在、2勝1敗、叡王位奪取に「王手」をかけました。8月22日の「第4戦」に勝てば、晴れて「藤井3冠」の誕生となります。王位戦と合わせ、藤井2冠は、豊島2冠と、この夏、最大12局、タイトル戦を争っているのです。<竜王戦>名人戦と並ぶビッグタイトルである「竜王戦」でも、藤井2冠は挑戦者決定戦3番勝負に進出してきました。こちらの対局相手はレーティング第3位の強豪・永瀬拓矢王座、この3番勝負に先に2勝すれば、豊島竜王と竜王戦7番勝負を戦うことになります。藤井2冠のこれまでの対永瀬戦は4勝1敗、順調に行けば、初めてビッグタイトルである竜王戦に挑戦ということになります。竜王戦挑戦者決定戦3番勝負は、第1戦が8月12日に行われます。(永瀬拓矢王座)王位戦7番勝負、叡王戦5番勝負、竜王戦7番勝負全て対戦相手は豊島2冠だ!今夏は苦手だった豊島2冠との決着の季節だ!尚、「竜王戦」の挑戦者決定戦3番勝負の対局料は460万円、本戦7番勝負の優勝賞金は4320万円、敗者(準優勝者)の賞金は、1620万円です。若し藤井2冠が竜王位を獲得すれば、竜王戦だけで5000万円以上の賞金・対局料を獲得することになる!<王将戦>昨年のシーズンは7人で総当たりする挑戦者決定リーグ戦で3勝3敗の五分の成績だったのですが、順位の関係で「頭ハネ」になり、リーグ戦を陥落してしまいました。今シーズンは2次予選からスタートし、8月16日に行われる対稲葉 陽(あきら)八段戦に勝てば、晴れて「挑戦者決定リーグ」入りすることになります。稲葉八段との通算成績はこれまで3勝2敗、最近ではB級1組順位戦で対戦し、苦い1敗を喫した侮れない強豪ですが、この対戦に勝ってリーグ戦に入れば、やはり渡辺 明王将へ挑戦する最有力候補になりそうですね。(稲葉 陽八段)<棋王戦>棋王戦5番勝負は、例年、2月~3月に行われますので、まだ予選トーナメントが始まったばかりです。昨年は予選2回戦で出口若武四段に負けてしまいましたが、今年は2冠となったためか、予選免除でいきなり挑戦者決定トーナメントからの出場となり、9月に行われる斎藤明日斗(あすと)四段戦からスタートします。まだ渡辺 明棋王への挑戦までは、6連勝しなければなりませんが、予想される対戦相手の顔ぶれを見る限りでは、充分に可能なのではないでしょうか。来年3月、藤井総太2冠は「6冠」になっている可能性がある!これからも藤井2冠の将棋は、目が離せないのだ!<AbemaTV将棋チャンネル>藤井2冠の対局は、「王将戦」を除き、すべての対局がインターネットTVの「AbemaTV将棋チャンネル」でライブ中継されています。リュウちゃんは藤井2冠の対局がある日には、朝から晩まで、このTVに釘付けになります。将棋のタイトル戦の対局は、短くても6~8時間、2日制のタイトル戦になりますと長い将棋では2日合わせて計10時間以上も掛かるのですが、最近はAIによる形勢判断が数値で示され、かつAIによる「最善手」が示されるので、アマチュア・ヘボ二段に過ぎないリュウちゃんでも、長時間の対局に殆ど飽きることが無いのです。もう一つ、飽きない理由を書きます。それは、「聞き手」の女流棋士の存在です。今、リュウちゃんは藤井2冠の将棋と共に、「聞き手」の2人の女流棋士のファンになってしまいました。一人目は、中村桃子女流初段です。(中村桃子女流初段)ピンク・レディーのケイちゃん(増田恵子)に似た清楚なルックス、声も憂いを含んだ優しいソプラノ、リュウちゃんは「聞き手」に桃子さんが出てきますと、将棋そっちのけで桃子さんに魅入ってしまうのです(苦笑)もう一人は本田小百合女流三段です。(本田小百合女流三段)彼女、ルックスや仕草が会社時代のマドンナとそっくりなのだ!かくて、将棋の本質は殆ど解らなくても、「聞き手」の2人のマドンナにクラクラしているリュウちゃんなのです(苦笑)
2021年08月10日
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5月の馬見丘陵公園、「チューリップの丘」が、「ネモフィラの丘」に変身した!?(5月の馬見丘陵公園)(4月の馬見丘陵公園)5月15日、昼食を済ませてから、女房殿の運転する車の助手席に乗って、「馬見丘陵公園」に行って来ました。「チューリップ・フェア」の終わった「馬見丘陵公園」、どうなっているのかな?午後1時30分、「馬見丘陵公園」の北エリア駐車場に到着、おお、「集いの丘」は、「ネモフィラの丘」に大変身だ!「馬見丘陵公園」のネモフィラは、4月の「チューリップ祭り」に合わせて、2月頃、約60万球のチューリップの球根が植えられたのですが、同時にチューリップの球根の周りにネモフィラも植え付けられたのですね。チューリップの開花期にはネモフィラもチューリップの花の下でひっそりと開花しているのですが、ネモフィラは、あくまでも「チューリップの引き立て役」ですので、脇役として目立つ存在ではないのです。「チューリップ祭り」が終わり、枯れたチューリップを全て取り去った後に、脇役から主役に大変身し、チューリップ畑は「ネモフィラ畑」に変身したのです。なので、4月にチューリップ畑であった場所は、殆ど「ネモフィラ畑」になっています。この時期、公園の大半がネモフィラで埋め尽くされている!ネモフィラの原産地は北アメリカ、日本には大正時代の初めに渡来した一年草の小花です。渡来が比較的最近の花のためか、あるいは一年草の小花のためか、「ネモフィラの名所」とされるところは、それほど数は多くないようです。一番有名なネモフィラの名所は、茨城県ひたちなか市にある「国営ひたち海浜公園」で、ここには、530万本のネモフィラが植えられているようです。(「国営ひたち海浜公園」のネモフィラ)最近、関西にも「ネモフィラの名所」が誕生しました。大阪湾に浮かぶ人工の島、「舞洲(まいしま)」のネモフィラ園です。(舞洲ネモフィラ園)ここは以前は「舞洲ユリ園」として、夏には多くの客で賑わっていました。(舞洲ユリ園)ところが2018年の台風により高波に見舞われ、塩害のため殆どのユリが駄目になってしまいました。ユリに代わって2019年から「ネモフィラ園」が開園、2019年に「第1回ネモフィラ祭」が行われたようですが、続く2020年新型コロナのために閉園、残念ながら今年も緊急事態宣言のために閉園になってしまいました。舞洲のネモフィラは100万株、「馬見丘陵公園」にネモフィラは、リュウちゃんの推定で600万株(???)株数に限れば「日本一のネモフィラの名所」の筈だ!?しかし、馬見丘陵公園のネモフィラは、元々がチューリップの脇役として植えられたため、チューリップを取り去った後のネモフィラは「花付き」もイマイチで、花も疎ら、おまけに花の周りに雑草が生え放題なので、株数が多い割には見栄えがイマイチなのです(残念!)奈良県の造園担当の皆様、何とか工夫頂き、「馬見丘陵公園」のネモフィラを「日本一のネモフィラの名所」に仕立てあげて下さいね!<バラ園>本日の馬見行きの主な目的は、ここの「小さなバラ園」のバラを観ることでした。「馬見丘陵公園」の「バラ園」は、「中央エリア」の「花の道」の一角にあり、30種500本のバラが植えられています。殆どのバラが身の丈1m位に仕立てられていて、バラのアーチも無ければ凝った仕立てもない「単純な仕立て」のバラで、「馬見丘陵公園」では、バラは「完全に脇役」の存在なのです。以下、「馬見丘陵公園」のバラを、名前だけ紹介しまし。<カクテル>北エリアから中央エリアを繋ぐ短いトンネルの出口のところにあります。「馬見丘陵公園」唯一のつるバラ、このように仕立てられているのも「馬見で唯一」なのです。<ボスコベル><ゴールドバニー><ラブ><インターナショナル・ヘラルドトリビューン><フリュイテ><ラヴィアンローズ><アイスバーグ><青空><ザ・フェアリー><うらら><シエラザード><ガルテンツァーバー84><ガートルード・ジェキル><ラ・セビリア―ナ><ゴールデンウィングス>やはり「馬見丘陵公園」では、残念ながら「バラ園」は添え物的な存在ですね。奈良県の造園担当の皆様。「馬見丘陵公園」のバラ園をもっと充実させて、「公園のシンボル」の一つにして下さいね。そろそろ「花菖蒲」と「アジサイ」の季節です。「馬見丘陵公園」には、中央エリアに、100種3万本の花菖蒲が咲く「花菖蒲園」があります。また、「アジサイの小径」には、4000株の紫陽花が咲いています。以下の写真はこの日の「花菖蒲園」です。まだ開花には暫く時間が掛りそうだ。「花菖蒲園」の周りを囲んで、何本かの「ヤマボウシ」が白い花を付けていました。「花菖蒲園」から、いつものように公園を一周、「梅園」の梅の木は、梅の実をいっぱい付けていました。この梅の実、誰が収穫するのだろう?<イボタノキ><エゴノキ>この花は桜に似て、可愛い花ですね。<ベニバナトチノキ><バイカウツギ>さすが「花の宝庫」、馬見丘陵公園には知らない花がいっぱい咲いているのだ!「アジサイの小径」の紫陽花、「咲き始め」でした。小径の脇の水連池、一輪だけ蕾を確認。もうすぐ蓮と睡蓮の季節なのだ!よし、今度は花菖蒲と紫陽花と睡蓮の季節に、馬見丘陵公園に行って見よう!ーーーーーー<藤井聡太2冠の2021年>(藤井聡太2冠)7月10日に19歳になる将棋の藤井聡太2冠(王位・棋聖・八段)の快進撃が止まりません。2016年10月1日に史上最年少の14歳2ヶ月でプロ棋士になってから、今年で6シーズン目を迎えています。本日(2021年6月2日)までの通算成績は、218勝41敗、勝率は8割4分2厘、2021年4月1日から始まった今シーズンは5勝1敗、勝率は8割3分3厘です。昨年、将棋の8大公式タイトルの内、「棋聖位」を渡辺 明名人から3勝1敗で奪取、「王位」を木村一基九段から4勝0敗で奪取し「2冠」となりました。今年は「2冠」の「防衛の年」です。<棋聖戦5番勝負>6月6日(日)から、棋聖戦5番勝負が始まります。挑戦者は、先般、4勝1敗で名人位を防衛したばかりの渡辺 明3冠(名人・王将・棋王、37歳)です。渡辺3冠は昨年、1勝3敗で棋聖位を奪取されたので、今年はリベンジ戦となります。(渡辺 明3冠)<王位戦7番勝負>6月29日(火)から王位戦7番勝負が始まります。挑戦者は、藤井2冠が最も苦手としている豊島将之(まさゆき)2冠(竜王・叡王)(32歳)、(豊島将之2冠)藤井聡太2冠と公式戦を戦う渡辺 明3冠、豊島将之2冠、3人合わせると、将棋の8大タイトルの内、7大タイトルを独占している。この3人は、現在の将棋界の「3強」なのだ! それでは、この「3強」の中で、誰が最強なのか?以下に、それぞれの通算対戦成績を挙げてみます。渡辺 明VS豊島将之の通算対戦成績:21勝12敗(昨年の名人戦は4勝2敗)藤井聡太VS渡辺 明の通算対戦成績:5勝1敗(昨年に棋聖戦は3勝1敗)藤井聡太VS豊島将之の通算対戦成績:1勝6敗、(昨年11月の朝日杯2回戦で初勝利)以上のように、これまでの対戦成績で見る限りでは、★渡辺 明は豊島将之より強い。★藤井聡太は渡辺 明より強い。★豊島将之は藤井聡太より強い。藤井聡太>渡辺 明>豊島将之>藤井聡太渡辺 明>豊島将之・・・・・このような関係を「三すくみ」といいます。「三すくみ」の例としましては、ジャンケンの「グー」、「チョキ」、「パー」の関係が思い起こせますね。グー>チョキ>パー>グー>チョキ>パー>・・・・今回の棋聖戦、王位戦は、藤井聡太2冠が、「三すくみ」を脱して、「最強棋士」になるのか、それとも「3強」の中で、「最弱棋士」に甘んじるのか、極めて興味深いタイトル戦になります。これまで1勝6敗と大幅に負け越している豊島2冠との2日制の王位戦も興味津々です。それでは、ここで他のタイトル戦の状況について、見て行きます。<竜王戦>「竜王」は「名人」と並ぶ、棋界最高タイトルです。藤井2冠は2組トーナメント戦で優勝し、決勝トーナメントに駒を進めました(事実上のベスト8です)。決勝トーナメントで、あと2勝すれば、「竜王戦挑戦権獲得3番勝負」に進み、これに先に2勝した棋士が、晴れて豊島竜王と7番勝負を戦うことになります。藤井2冠の初戦の相手は山崎隆之八段、過去0勝1敗の難敵です。これに勝ったとしても、2戦目の対戦相手は(多分(?)久保利明九段、過去、2勝3敗と、5戦以上対局した棋士のなかで、藤井2冠が負け越ししている数少ない難敵です<他に5戦以上して藤井2冠が負け越している棋士は、上述の豊島竜王と、大橋 貴洸六段(2勝4敗)の計3人だけなのです>。この2戦を突破すれば、豊島竜王に挑戦する「竜王戦7番勝負」に進出する可能性が高くなってきますね。<叡王(えいおう)戦>叡王戦の決勝トーナメントは、現在、準決勝の4人が出揃いました。準決勝の組み合わせは以下です。★藤井聡太2冠VS丸山忠久九段、★佐々木大地五段VS斎藤慎太郎八段、藤井2冠が豊島叡王に挑戦するためには、先ず準決勝で丸山九段に勝ち、更に決勝で、斎藤八段と佐々木五段の勝者との決勝戦に勝つ必要があります。丸山九段は、名人位3期獲得した強豪で、藤井2冠とは昨年の竜王戦決勝リーグで初対戦し、116手で藤井2冠を破りました。藤井2冠にとりましては、今回の準決勝は昨年のリベンジなのです。リュウちゃんは、この準決勝で丸山九段に勝てば、叡王戦初挑戦が濃厚になると思っています。<棋王戦・王将戦・王座戦>「棋王戦」は、挑戦者決定トーナメントが8月頃から始まります。「王将戦」は今年は、第2次予選トーナメントからの出場となります。「王座戦」は、残念ながら5月6日に行われた挑戦者決定トーナメント一回戦で深浦康市九段に敗れてしまいました。<順位戦>名人に繋がる順位戦が今年も始まりました。藤井2冠は、名人挑戦者を決める「A級」の一つ下の「B1」リーグに在籍しています。「B1リーグ」には現在、13名の棋士が在籍していまして、これから来年の3月まで、総当たり制でリーグ戦を戦い、成績上位の2人が、名人挑戦者を決める「A級」に昇級出来るのです。藤井2冠の順位戦の成績は、これまで40勝1敗(!)、「C1」リーグの時に近藤誠也五段(当時)に負けたのが唯一の黒星なのです。この黒星のために、「CI」に2年間留まることになってしまいました。「B1リーグ」は別名「鬼の棲み家」と云われていまして、海千山千の実力者が犇めいている恐ろしいリーグですが、現在の藤井2冠の実力に鑑みますと、1期でA級昇級の可能性は大きいと思われます。来年はA級昇進、再来年はA級優勝、そして名人挑戦、再来年の今頃、藤井新名人誕生!そんなことを夢見ている藤井ファンの端くれの一人のリュウちゃんなのです。
2021年06月02日
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「一目百万本」、全山燃える!葛城山のヤマツツジ、今、満開。5月10日、6年ぶりに葛城山のヤマツツジを観に行って来ました。全国屈指のヤマツツジの群生地として知られている大和葛城山は、奈良県と大阪府の境にある「金剛山地」の主峰の一つで、標高959,2mの山です(主峰は標高1125mの「金剛山」です)。山頂付近は「葛城高原」と呼ばれ、ツツジの季節には大勢の観光客で賑わうのです。リュウちゃんは古希になる直前まで、ほぼ毎年、葛城山のツツジを観に行っていたのですが、古希を過ぎてからは、今回まで一度も行かなかったのです。行かなかった理由は、下山の山道が急過ぎて下山出来る自信が無い。ということなのです。で、6年間、登山を敬遠していましたが、やはり5月の「奈良県の花遍路」には、葛城山のツツジの紹介は不可欠であると思い、行って見ることにしました。登山、下山共に、ロープウェイを使えば楽勝だ!例によりまして、女房殿お手製のおにぎり弁当と、リュウちゃんお手製(?)の缶ビール(2缶)をリュックに詰め、朝7時30分に家を出発、公共交通を6回(!)乗り換えて、午前10時前、「葛城山ロープウェイ」駅に着きました。「葛城山ロープウェイ」は昭和42年開業、奈良県御所(ごせ)市にある「葛城登山口駅」から、山頂の「葛城山上駅」までの営業距離1421m、標高差561mを6分で結んでいます。昨年は新型コロナ禍のため、ツツジの季節には運休していたのですが、今年は乗車定員を「密」にならないように減らして営業しています。しかし、登山口付近の駐車場は全面封鎖していますので、登山口へは徒歩で行くか、奈良交通のバスで行くかの2通りしか方法が無いのです。例年ですと、ツツジの季節には、ロープウェイに乗るために長い行列が出来て、並んでから乗車するまで2時間くらい掛るのですが、今年は、待ち時間無しで、すんなりロープウェイに乗れた!ロープウェイの眼下には、吉野の山並み、大和平野がパノラマのように拡がっています。下の写真は、持統天皇によって造営された「藤原京」の辺りです。手前やや右の小さい山は、「畝傍山」、左側やや後方の山が「耳成(みみなし)山」です。畝傍山と耳成山の間の、高い山並みの下に、「天の香久山」があります(大和三山)「香具山は 畝火(うねび)ををしと 耳成(みみなし)と 相あらそひき 神代より かくにあるらし 古昔(いにしへ)も 然(しか)にあれこそ うつせみも 嬬(つま)をあらそふらしき」(中大兄皇子、万葉集・巻1-13)山上駅からの眺め、奈良市の若草山が遠く霞んで見えます。山上駅からツツジの群生地までは、登り坂で約20分位掛ります。この辺りは「ブナの群生地」なのですが、ブナの木の間に、小さいヤマツツジが咲いています。ヤマツツジの手前には「熊笹」が群生しているのです。ツツジ園に行く前に、葛城山の山頂展望所に立ち寄りました。展望所にも、かなり人出がありました。山頂の標識の横に、赤いポストがあった!毎日、ここまで郵便物を収集に来る作業、大変だ!山頂からツツジ園に降りて行きます。下の写真の左手に建物は、「葛城高原ロッジ」です。「葛城高原自然つつじ園」に到着、ヤマツツジの群生の背後に大迫力で迫る金剛山の偉容、息を飲むパノラマ光景だ!標高950mの「つつじ園」の正面に立ちはだかる標高1125mの「金剛山」、燃えるようなヤマツツジと金剛山のコラボは、ここの最大の「見所」です。ちょっと見る位置を変えるだけで、金剛山とヤマツツジは、様々な姿を見せてくれるのです。以下、金剛山とヤマツツジのコラボのバリエーショウンの写真を貼り付けます。6年ぶりに見た金剛山とヤマツツジのパノラマコラボ、やはり天下の絶景なのだ!<「葛城高原自然つつじ園」について>標高1125mの「金剛山」に接する大和葛城山の南斜面に、15万平方メートルものヤマツツジの群生が広がる自然公園です。ここのツツジは、人の手で植えられたのではなく、全て天然に自生しているヤマツツジなのです。ここのツツジのキャッチフレーズは「一目百万本」ですが、実際の本数は(リュウちゃんの机上の計算では)せいぜい3万本(株)、但し、ここのヤマツツジは一つの株から十数本の枝が伸び、枝の先端に咲く花の数は、一株で数千~1万個に達すると考えられます。(「葛城高原自然つつじ園」のヤマツツジの個体)仮に、一株に平均3000個の花を付けるとしますと、3000×30000株=9000万個(咲いている花の数)→約1憶個、ということになります。「一目百万本」ならぬ、「一目一億花」なのだ!!??ここのヤマツツジの群生は、昭和45年頃、突然、姿を現したのだそうです。元々、この斜面は熊笹の群生地だったそうですが、昭和45年頃にここの熊笹が一斉に花をい付けたのだそうです。「笹の花」が咲くのは、100年に一度くらいの珍しい現象なのですが、不思議なことに、一斉に花を付けた熊笹は、今度は一斉に枯れてしまったのだそうです。熊笹が枯れた後に、これまで熊笹に覆われていたヤマツツジが、顔を出したのだそうです。現在でも熊笹からツツジを守るために、年に2回ツツジの根元の熊笹を刈り取るのだそうです。葛城山系の北の端にある「二上山」から「金剛山」まで続いている縦走路「ダイアモンドトレール」を辿り、ツツジ園の底に降りていきます。「ダイアモンドトレール」の途上からの眺めです。道沿いのツツジです。殆どは、葉の無い朱色の大きな花をい付けるヤマツツジなのですが、中には葉が付いているものや、ピンクの花のヤマツツジも少しだけ混じっているのです。「ツツジ園の底」に降りて来ました。ここには、3つの木製の「舞台」があり、登山者の休憩所になっています。もう,お昼時、お腹が空いた!で、「舞台」の一つに座って、少し早めの昼食、プファ~、ビールが旨い!全山朱色のツツジに囲まれ、酔いが回る!話は変わりますが、リュウちゃんは地元の公民館で2つの「歌声クラブ」を指導しています。2つのクラブ共に、歌う曲はリュウちゃんが決めて楽譜・歌詞カードなどを用意し、伴奏のピアニストと打ち合わせの上で、メンバーに皆様に歌ってもらうことにしています。採り上げる歌は、2つの歌声クラブの性格に合わせ、かなり違うのですが、3年前に。両方のクラブで、「坊がつる讃歌」という歌を採り上げました。<芹 洋子「坊がつる讃歌」>この歌は上掲のYou-Tubeのように、芹 洋子の歌唱によって全国的に知られるようになった歌なのですが、元々は、昭和27年に九州大学の山岳部の学生が、大分県竹田志にある標高1200mの高原・湿原「坊ガツル」の山小屋で作られた「山男の歌」なのです。2番の歌詞は以下です。♪~ミヤマキリシマ咲き誇り 山紅(くれない)に大船の峰を仰ぎて山男 花の情けを知るものぞ~♪(※)「ミヤマキリシマ」は九州の高山に自生するヤマツツジの一種です。「♪~大船の~♪」の「大船(たいせん)」とは、坊ガツルを囲む九重連山の主要峰の一つで、標高1786mの火山なのです。以下に、ネットからお借りした「ミヤマキリシマの咲く坊ガツル」の写真を貼り付けます。ミヤマキリシマの咲く「坊ガツル」ヤマツツジの咲く「葛城高原」に似ている!お蔭様で「坊がつる讃歌」は2つの「歌声クラブ」で大歓迎され、今では両方の歌声クラブで、例会の最後に必ず歌う「愛唱歌」になったのです。―閑話休題―暫し、「ツツジ園の底」を散策し、元の「葛城高原ロッジ」に戻って来ました。ちょっと喉が渇いた。よし、「葛城高原ロッジ」で喉を潤そう。(この写真はネットからお借りしました)で、葛城高原ロッシに入り、枝豆と瓶ビール(中瓶)2本を注文、プファ~、ビールが旨い!開け放された窓から吹き込む強風が心地よい!(この写真もネットからお借りしました)結局、葛城高原で、昼間に缶ビール2本、瓶ビール2本も飲んでしまいました。そして。家に帰ってからいつもの晩酌で更に缶ビール2本を飲んだのです。もうすぐ後期高齢者になるリュウちゃん、ビールの飲量だけは現役時代とちっとも変わらないのだ(苦笑)
2021年05月23日
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新型コロナ禍に沈む日本列島、今年も春日大社の藤の花が見頃を迎えた!4月27日、2年ぶりに奈良の春日大社の「藤巡り」をして来ました。昨年は「新型コロナ元年」で、公共交通を一切使わないことを誓っていましたので、奈良公園には行かなかったのです。奈良公園の「藤の見所」は、以下の通りです。(1) 公園の至る所に在る「藤棚」、(2) 春日大社の森の至る所に在る「山藤」、(3) 「萬葉植物園」の「藤園」の20種類の藤、(4) 春日大社本殿の境内にある「砂ずりの藤」リュウちゃんが奈良公園に行く時に使う公共交通は、<JR「法隆寺」~JR「奈良」>までの約10分間だけです。この区間は、朝夕の通勤時間には、かなり混雑するのですが、リュウちゃんが乗る昼間は、全く「密」にならないのです。昼食を済ませ、午後12時30分に家を出発、午後1時ジャスト、JR奈良駅に到着、ここからは往復、歩いて奈良公園を巡るのです。<興福寺の藤棚>JR奈良駅から徒歩15分で、興福寺に着きます。おお、興福寺南円堂の周りは新緑が鮮やかだ!南円堂の周囲に、2つの藤棚があります。朱い南円堂には、藤の花がよく似合う。南円堂から、五重塔に向かいます。五重塔と藤のコラボ、始めて撮ることが出来た!<国立博物館前の藤棚>興福寺五重塔から歩いて10分位で、奈良国立博物館に着きます。ここの「藤棚」老木のせいか、花付きは悪いが、「幹」はアートなのだ!<飛火野の藤棚と山藤>国立博物館から5分程歩きますと、リュウちゃんお気に入りの「飛火野エリア」に着きます。飛火野のシンボル・巨大クスノキと手入れされていない藤棚のコラボ、「野生の美」、なのだ!飛火野は鹿の楽園なのです。飛火野の奥、春日野原始林の始まる所に、山藤が自生しています。ここの山藤、眩しい!<萬葉植物園>午後2時、入場料400円を払って「萬葉植物園」に入場しました。おお、入場口の裏手の九尺藤、正に「見頃」だ!藤の下に入って撮った写真、話に聞く「足利フラワーパーク」の大藤のようにも見える!?「九尺藤」の下に、以下のような「万葉集の歌」のパネルが設置されていました。このような「万葉集の歌」のパネル、以前には無かったのですが、今年の4月23日まで、1年近く「休園」している間に取り付けられたようです。現在では園内にある約300種の万葉植物の殆ど全てに、このような「万葉集の歌パネル」が設置されています。<「萬葉植物園」について>「萬葉植物園」は正式名称を「春日大社 神苑 萬葉植物園」といいます。その名の通り。春日大社に付属する植物園です。昭和7年、万葉集にゆかりの深い春日野の地に、昭和天皇より御下賜金を頂き、約300種の万葉集に出てくる植物を植えた日本でも稀有な植物園なのです。園内の面積は約9000坪で、殆どは300種の万葉植物を植えた「萬葉園」なのですが、他に「五穀の里」、「椿園」、それと藤原氏の「下がり藤」の家紋に因んだ約2000坪の「藤の園」が造られているのです。(藤原氏の家紋「下がり藤」)<臥竜のイチイガシ>「萬葉植物園」のシンボル・ツリーです。周囲には菖蒲・ツツジが満開を迎えていました。以前にはこの巨木にまつわりつくように、「山藤」が咲いていたのですが、現在では取り払ってしまったためか、「山藤」が見られないのは残念なのです。<藤園>「萬葉植物園」を一周して、「藤園」に入場します。やはり今が「見頃。かなり来場者が多い。ここの「山藤」も素晴らしい!「藤園」には、20種200本の藤が植えられています。大抵の「藤の名所」の藤は「棚造り」に仕立てられているのですが、ここの藤園は、「立木造り」と「棚造り」が混交しています。それが、他の藤園には無いバラエティに富んだ興味尽きない景観を生み出しているとリュウちゃんは思っているのです。以前のブログでは、ここの20種類の藤を殆ど全て紹介したこともありましたが、本ブログでは、写真の仕上がりの良かった藤を幾つか紹介致します。尚、以下のサイトには、ここの全種類の藤が紹介されていますので、興味のある方は覗いて見て下さいね。<春日大社・萬葉植物園><九尺><白野田><岡山一歳><麝香藤><昭和紅><黒龍><八重黒龍><本紅><口紅><金龍神社の八重桜と山藤>約1時間ほど、萬葉植物園の藤を楽しみ、春日大社に向かいました。今回は春日大社本殿に入る前に、末社の一つである「金龍神社」に立ち寄りました。「金龍神社」の山藤の幹自然のオブジェなのだ!ピンクの八重桜と山藤のコラボ初めて見た!<春日若宮神社の山藤>春日大社第一の摂社である春日若宮神社、巨樹大好き人間のリュウちゃん、ここに立ち寄ると、必ず「大クス」(樹齢1700年、根本の幹周11,2m)に挨拶するのです。ここの本殿の朱い鳥居の後ろ側の山藤も、なかなかの見物(みもの)なのです。<春日大社の山藤と「砂ずりの藤」>春日若宮神社から春日大社に入ります。先ずは本殿右横の山藤に目を奪われます。ここの山藤、春日大社境内一番の偉容の藤だ!<砂ずりの藤>本殿の前に、樹齢800年と云われる棚仕立ての「砂ずりの藤」があります。この藤棚の手前に、この藤の由来を書いた立て看板が立てられています。(砂ずりの藤)花の穂が地面の砂にすれるほど長いことから、この名がある。樹齢800年ともいわれ、鎌倉時代後期(1309年)に描かれた「春日権現験記」にも、ここにフジがあったことが記されている。春日大社では神紋にもフジの文様を用い、奈良朝以来、境内のフジは大切にされている。上掲の写真でご覧頂きましたように、現在では樹勢が衰えたためか、花房の長さはせいぜい1m位、地上に届くためには最低でも2,5m位の花房の長さが必要なので、到底地上には届かないのです。奈良に住んでから、リュウちゃんは何十回も、この藤を観たのですが、花房が地上に届いているのを見たことがありません。何時頃まで花房が地上に届いていたのか?それとも、昔は藤棚が低かったのか?これは、奈良人リュウちゃんにとりましても、「永遠の謎」なのです。
2021年05月11日
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長谷寺の牡丹と室生寺のシャクナゲ、対になって満開を迎えた!(長谷寺の牡丹)(室生寺のシャクナゲ)4月下旬、牡丹とシャクナゲの満開の季節を迎えました。奈良には、牡丹の名所と致しまして、五條市にある「金剛寺」、葛城市にある「石光寺」、「当麻寺」、それと桜井市にある「長谷寺」があります。中でも「長谷寺」、は境内に150種7000株の牡丹が咲く、全国屈指の牡丹の名所です。奈良のシャクナゲの名所と致しましては、明日香村にある「岡寺」、それと、宇陀市にある「室生寺」です。奈良の花の名所は、殆どが「お寺」なのだ!「岡寺」も「室生寺」も、共に3000株のシャクナゲが咲いているのですが、牡丹とシャクナゲを1日で観るのには、「長谷寺」と「室生寺」がベスト・カップリングなのです。車で行けば、「長谷寺」と「室生寺」は、所用時間20分なのだ!4月23日、例によりまして、女房殿お手製のおにぎり弁当と、リュウちゃんお手製(?)の缶ビール(2缶)をリュックに入れ、午前9時、斑鳩町の自宅を出発、午前10時過ぎ、長谷寺の門前に到着しました。以下に、「長谷寺案内図」を貼り付けます。上図で、「牡丹ゾーン」は、(1)入り口の「仁王門」から続いている399段の「登廊」の周辺、(2)下図一番下の「本坊」の前の庭園、の2カ所です。「仁王門」の前は、ツツジが「見頃」、牡丹も「見頃」なのだ!「仁王門」から長谷寺の境内に入ります。「登廊」の周りは、牡丹がいっぱいだ!様々な色の牡丹、正に「牡丹繚乱」だ!「御衣黄桜」と牡丹のコラボも素敵だ!「登廊」の石段の横手にも、「本堂」の前にも、鉢植えの牡丹が置かれている!「本堂」の舞台からの眺め、濃い緑が目に眩しい!<長谷寺と牡丹>長谷寺は、「寺伝」によれば、朱鳥元年(686年)、僧の道明が初瀬山山麓に三重塔を建立、続いて神亀4年(727年)、僧の徳道が本尊の十一面観音像を祀って開山したと伝えられています。9世紀の半ば頃に「官寺」に認定され、以後、「観音霊場」として貴族の信仰を集めたようです。藤原道長を始めとする多くの平安貴族が参拝し、「枕草子」、「源氏物語」、「更級日記」などの平安文學にも登場する古刹です。牡丹は中国原産の花で、日本には、8世紀頃に伝来されたようです。長谷寺の牡丹は9世紀頃から植えられ始めたとされています。伝説によれば、「唐18代の僖宗皇帝(在位:873年~888年)の皇后・馬頭(めず)夫人は馬面だったので、美しくなりたいと長谷寺の観音様にお願をかけたところ、願いはかなえられて、大変な美人になった。馬頭夫人は祈願成就のお礼に数々の珍宝を長谷寺に献上し、その中に牡丹もあった」のだそうです。「本堂」の舞台から、五重塔の下にある「茶所」(休憩所)に下りて行きます。ここはシャクナゲの「見所」なのだ!もう午前11時半、ちょっとお腹が空いた。よし、五重塔の下で昼食にしよう。プファ~、ビールが旨い!朱い五重塔と新緑が目に眩しい!正午ちょっと過ぎに昼食を終え、2つ目の「牡丹ゾーン」である「本坊」に向かいます。道の途中に「大手毬」が満開を迎えていました。「本坊」の牡丹庭園からは、牡丹の上に「本堂」が見渡せるのです。ここで撮ったアップの牡丹の写真を何枚か貼り付けます。「長谷寺」は牡丹の天国なのだ!午後1時過ぎ、「長谷寺」を後にして、「室生寺」に向かいました。<室生寺のシャクナゲ>午後1時半頃、室生寺の駐車場に到着、下の写真は、駐車場で撮った室生の里です。長谷寺のある「初瀬の里」よりも鄙びた山里だ。室生川に架かる赤い「太鼓橋」を渡り、室生寺に入ります。川に沿って、杉の巨木が3本並んで生えています、この3本の杉は、「三宝杉」と呼ばれています。樹齢はおよそ200年程、室生寺のある室生山には、これより巨大な杉が何本も生えていて、「巨樹ファン」のリュウちゃんの目を楽しませてくれるのです、おお、「仁王門」の前の小道のシャクナゲ、満開だ!「長谷寺」のシャクナゲより、スケールが大きい!!入り口の赤い仁王門とのコラボも素敵だ!ここで、「室生寺の伽藍図」を貼り付けます(実際の室生寺は杉や楓などの森の中にあるのですが、下図では、樹木は省略されています)<「室生寺」とシャクナゲについて>室生寺は、奈良時代末期の宝亀年間(770-781年)、興福寺の僧・賢璟(714-793年)によって開かれたとされています。平安時代には興福寺の別院あるいは末寺だったようです。また、山岳修行の場、諸宗の学問道場でもあったようです。江戸時代に真言宗の寺となり、当時から女性の参拝が認められていましたので、別名「女人高野」と呼ばれるようになりました。特に西暦800年頃に創建されたとされる「五重塔」(国宝)、は、「女人荒野」を象徴する優美な建築物で、リュウちゃんは「室生寺の貴婦人」と勝手に命名したのです。長谷寺の牡丹と違って、室生寺にシャクナゲが植えられたのは、昭和初期からなのだそうです。現在では下の仁王門から、一番上の「奥の院」まで、約1キロの道沿いに、約3000本のシャクナゲが植えられています。これは当時の室生寺の管長がシャクナゲを気に入り、室生寺を「シャクナゲの寺」にしようと考えたことで実現したのだそうです。標高400mの「室生の地」は、シャクナゲの育成には最適な環境で、全国屈指のシャクナゲの名所になりました。<鎧坂(よろいざか)>「仁王門」に入ると、すぐ左手に「金堂」に登って行く72段の石段で造られた「鎧坂」があります。この坂の周囲に植えられているシャクナゲ、素晴らしい景観を作り出しています。「金堂」(国宝)とシャクナゲ、「金堂」には、室生寺の本尊・釈迦如来立像や、それを守護する十二神将立像が納められているのですが、今回も仏像鑑賞はパスしました。「金堂」の裏手に、「天神社」という小さな神社があります。この神社の横にある大杉は、「室生の神杉」と呼ばれています。幹周9,6m、樹高45m、以下の写真では、その威容は伝わりませんが、室生山の一番の「巨樹」なのです。「金堂」から更に石段を登り、「五重塔」に向かいます。石段を登り切ると、すぐ右手に、お目当ての「五重塔」が出現します。おお!今年もシャクナゲと共に「室生の貴婦人」に逢うことが出来た!「五重塔」の裏手から、「奥の院」への山道が続いています。ここから「奥の院」に行く道は、400段の石段を登り降りしなければなりません。リュウちゃん一人だったら、当然、「奥の院」に行くのですが、女房殿が、「疲れた!」と言いましたので、残念ながら、今回は奥の院行きを諦めたのです。「五重塔」の下に、シャクナゲに包まれて10体ほどの小さい石仏が並んでいます。室生寺の石仏たち、皆、柔和な顔をしている!人間界の新型コロナ騒動、石仏の眼にはどう映っているのだろうか?
2021年05月02日
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咲き誇る90種60万球のチューリップ桜とのコラボも見事だ!4月3日~4月11日にかけて、リュウちゃん行きつけの「奈良県営馬見丘陵公園」で、第8回チューリップ・フェアが開催されました。馬見丘陵公園は近所にありますので、リュウちゃんは3月30日と4月9日の2日間、チューリップの開花期に馬見丘陵公園に足を運んだのです。なので本ブログでアップする写真は、2日間で撮ったものがMIXしていることを最初に御断りしておきます。馬見丘陵公園のチューリップは2月の初めから球根植え付けが始まります。2月末頃に芽が出て、3月中旬に花が咲き始め、3月末に「見頃」になります。以下に「馬見丘陵公園の花MAP」を貼り付けます。下の「花MAP」で、チューリップは、図の左上の「集いの丘」の周辺、「馬見花苑」と、図の中央部の「乙女山古墳」の下にある「バラ園」の辺りに殆どが植えられているのです。(馬見丘陵公園の花MAP)いつものように、「北エリア」の駐車場から入場します。おお、「馬見花苑」の桜とチューリップ正に「見頃」だ!「集いの広場」周辺もチューリップと桜の楽園なのだ!カフェレストランの前の「彩りの広場」にも、整然とチューリップが植えられています。北エリアから、小さいトンネルを抜けて、「乙女山古墳」の手前にある「バラ園」に出ます。「バラ園」の前の広場が、もう一つのチューリップの見所です。<パンジー、ビオラ、ムスカリとネモフィラ>主役のチューリップの根元には、主役のチューリップの「引き立て役」として、パンジー、ビオラ、ムスカリ、ネモフィラなどの小さな花が植えられています。脇役の小花の殆どはネモフィラです。ネモフィラは、茨城県にある「国営ひたち海浜公園」の「ネモフィラの丘」が有名ですが、「馬見丘陵公園」のネモフィラの花の数も、「ネモフィラの丘」の花の数に匹敵するのではないでしょうか。「ネモフィラの丘」の花の数は約530万本、「馬見丘陵公園」のチューリップは約60万本、チューリップ一本当たり10本のネモフィラが植えられているとすると、馬見のネモフィラは600万本!「ネモフィラの丘」の本数を超える!?<馬見丘陵公園のチューリップの種類>「馬見丘陵公園」には90種類のチューリップが咲いています。殆どのチューリップに品種名が書かれた小さいパネルが立てられていますが、ここでは、確認出来た11種類のチューリップをアップして見ます。<ミスティックバンエイク><ハッピー・ジェネレーション><ピンク・クラウド><ブラッシングビューティ><クンフー><アグラス・ホワイト><ゴールデン・オックスフォード><スイートロージー><キースネリス><スプリング><クイーン・オブ・ナイト(夜の女王)>「クイーン・オブ・ナイト」、「黒いチューリップ」の代表的品種です。「黒い」といいましても、自然界には真っ黒な花は存在しませんので、「黒に限りなく近い、濃い赤紫のチューリップ」なのです。「黒いチューリップ」で思い出すのが、フランスの文豪・アレキサンドル・デュマが1850年に発表した同名の小説です。この小説は17世紀のオランダで起きた「チューリップ・バブル」を背景にしていますので、「黒いチューリップ」の作出は、17世紀頃に始まったようですね。<余談:「青いチューリップ」>真っ黒なチューリップが存在しないと同様に「青いチューリップ」も自然界には存在しません。近年、研究が進み、幾つかの「青いチューリップ」に関する特許も出ているようですが、「完全な青いチューリップ」の作出は前途遼遠のようです。<ハナモモの丘>チューリップ・ゾーンを後にして、乙女山古墳の裏側にある「ハナモモの丘」に向かいました。「ハナモモの丘」は、今年3月、南エリアの河津桜を観に行った時に、偶然、「発見!」したのです。梅の季節には「咲き始めだったが、3月末には満開だ!(ハナモモについて)ハナモモは、花を観賞するために品種改良された桃です。3月3日の「桃の節句」に「花飾り」として使われます。「桃の節句」は平安時代に貴族の子女が皇居を模した「雛飾り」で遊んだことが起源のようですが、江戸時代になると庶民の間でも広く祝われるようになりました。それにつれ、「花飾り」として使われる「ハナモモ」の改良も進んだようで、現在見られる「ハナモモ」の殆どは江戸時代に作出されたのだそうです。「ハナモモ」の「見頃」は、3月下旬から4月中旬、大体、桜の「ソメイヨシノ」の見頃と同じですが。「ソメイヨシノ」より一週間ほど「見頃」は長いようです。江戸時代、3月3日に「ハナモモ」は咲いていたのか?という疑問が浮かびますが、江戸時代は旧暦が使われていましたので、旧暦の3月3日には、丁度、「ハナモモ」は「見頃」だったのです。因みに、2021年の旧暦の3月3日は、新暦では、4月14日になります。<古墳の丘のソメイヨシノ>「ハナモモの丘」から、馬見丘陵公園の一番の桜のお花見スポットである「古墳の丘」に向かいます。ここは小さい桜天国、プファ~、ビールが旨い!とやりたかった。<ミツバツツジ>「古墳の丘」の裾に「ミツバツツジの小道」があります。淡い紫色のミツバツツジ、穏やかな春の風物詩なのだ。<ウンナンチュウキンレン(雲南地湧金蓮)>帰路、「花の道」の一角に見たことがない珍しい花を発見!何だ何だこの花は?この花の横のパネルには、「ウンナンチュウキンレン(雲南地湧金蓮)」と記されていました。花も変わっているが、名前も変わっている!「馬見丘陵公園」にはよく行くが、この花は今回初めて観た。改めて「ウンナンチュウキンレン」をネットで調べましたところ、以下の記述を見つけました。「ウンナンチュウキンレン」は別名「チャイニーズ・イエロー・バナナ」、中国南部(雲南省)からインドシナ半島の山地(標高2000m前後)に自生するバショウ科ムセラ属の耐寒性多年草で、バナナの仲間です。中国では「地湧金蓮」と書きますが、文字通り蓮に似た鮮やかな黄金色の花が地面から湧き出ているように見えます。茎の高さは60~80㎝、茎の頂部で花びらのように四方に開いている部分は苞で、直径30㎝ほどになります。苞の付け根に見えるたくさんの小さな筒状の器官が1つ1つの独立した花です。それらの花が終ると次の苞が開き、次の花が出てきて開花します。花は春から秋にかけて次々に咲き、長期間(5~11月)咲き続けます。開花した株はバナナ同様に世代交代のために枯れますが、地際に子株が出てくるので、それを次の株として育てます。2000年の淡路花博の際、日本に初めて導入され、目玉植物として大変な人気を呼びました」「馬見丘陵公園」は花の宝庫。まだまだ知らない花がいっぱいありそうだ!
2021年04月26日
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中千本の「吉水神社」から見上げる桜、上千本から見下ろす桜、桜の吉野、春爛漫!「梅は月ヶ瀬、桜は吉野」本ブログでは何度も言っていますが、これが奈良人リュウちゃんのお花見のモットーなのです。毎年、月ヶ瀬梅渓の梅と吉野の桜を観ないことには、年が越せない(苦笑)で、今年は、3月11日に「月ヶ瀬梅渓」に行き、満開の梅を観ることが出来ました。吉野の桜、何時、「見頃」になるのかな?新聞夕刊の「桜便り」は、3月20日頃から始まりましたが、3月25日の「桜便り」では、吉野の「中千本」は、まだ「咲き始め」、この分では、吉野の桜の「見頃」は、4月5日頃なのかな?しかし、その後、開花は猛烈なスピードで進み、3月31日の「桜便り」では、吉野の「下千本」・「中千本」は既に「満開」、「上千本は「七分咲き」、ありゃ~開花のスピードが異常に早い!よし、明日、吉野に行こう!ということで、急遽、4月1日に吉野に行くことにしました、生憎、この日は女房殿は所用がありましたので、リュウちゃん単独でJRと近鉄電車を乗り継ぎ、吉野行きを決行したのです。例によりまして女房殿お手製のおにぎり弁当と、リュウちゃんお手製(?)の缶ビール(2缶)をリュックに詰め、午前7時半、家を出発、JRと近鉄電車を乗り継いで、午前9時52分、近鉄吉野駅に到着、下の写真は、駅前の風景です。さすが天下の吉野山、相当な混雑ぶりだ!ここで、「吉野山散策図」と、吉野駅の案内板を貼り付けます。(吉野山散策図)(駅の案内板)リュウちゃんの本日の散策予定は、近鉄吉野駅から「上千本」の「吉野水分(みくまり)神社」まで、全て徒歩で往復することです。近鉄吉野駅の標高は207m、吉野水分神社の標高は596m,近鉄吉野駅から水分神社までは、全て上り坂で4,7km、つまり、標高差389m、距離4,7kmの道を、途中、「蔵王堂」、「吉野朝宮跡」、「吉水神社」、「竹林院」などに立ち寄りながら、吉野の桜を愛でようとする趣向です。時間が許せば、後醍醐天皇の陵のある「如意輪寺」にも立ち寄る予定です。今年は、中千本の上部にある「竹林院」の桜が、一番のお目当てなのだ。<下千本・七曲坂(ななまがりざか)>午前10時ジャスト、近鉄吉野駅を出発、「中千本」までは公共交通としましては、奈良交通バスと、昭和4年に開通した日本最古のロープウェイである「吉野山ロープウェイ」がありますが、リュウちゃんは「公共交通を使わず、全て徒歩で踏破する」ことがモットーなので、当然のことながら、歩いて登って行ったのです。吉野登山は、「七曲坂」からスタートします。「七曲坂」の道沿いは、「下千本」そのものなのだ!「七曲坂」の頂上近くに、2本の「ピンクのしだれ桜」が咲いています。このピンクのしだれ桜、「下千本」の一番の「見所」なのだ!<大橋>七曲坂を登り切ると、小さな赤い橋に出逢います。この小さな橋は、そのサイズに似合わず「大橋」という名前が付けられています。ここから「中千本」なのだ!<黒門>「大橋」から5分位歩きますと、吉野山全体の総門である「黒門」に至ります。ここからが、本当の「吉野」なのだ!<金峯山寺(きんぷせんじ)蔵王堂>「黒門」から10分位、坂道を登っていきますと、吉野のシンボルである「金峯山寺蔵王堂」に着きます。おお!「蔵王堂」の前のヤマザクラ、ほぼ満開だ!(「蔵王堂」について)「蔵王堂」は、修験道の開祖とされる「役小角(えん の おづぬ)」(伝:643年~701年)により、7世紀の後半に創建された金峯山修験本宗(修験道)の本山です。ここから「最も険しい修験道の道」である「大峯奥駈道(おおみねおくがけみち)」が熊野まで170キロにわたり、続いています。本尊は3体の「蔵王権現」(秘仏)です。修験道の伝承では、蔵王権現は役行者が金峯山での修行の際に感得した(祈りによって出現させた)ものとされています。尚、スキーのメッカとして全国的に有名な「蔵王山」は、古くは刈田嶺(かったみね、かったね、かりだのみね)、または、不忘山(わすれずのやま)と呼ばれていた山岳信仰の山だったのですが、吉野から蔵王権現が勧請され、平安時代には修験者が修行するようになったため蔵王山とも呼ばれるようになったのだそうです。<吉野朝宮跡>蔵王堂の左側にある石段を降りたところに、後醍醐天皇の行宮(あんぐう)跡があります。延元元年/建武3年(1336年)の暮、足利尊氏の京都占領によって建武政権が崩壊(建武の乱)し、幽閉されていた後醍醐天皇が京都を脱出して穴生(賀名生)を経由して吉野吉水院に入り、数日後に近くの金峯山寺の塔頭・実城寺を「金輪王寺」と改名して行宮と定めました。これが「吉野行宮」で、後醍醐天皇から後村上~長慶~後亀山と、4代56年に渡る南朝で、約20年間に渡り、ここが「皇居」だったのです。(注)「行宮(あんぐう)」とは、政変や行幸などで、天皇の正規の「御所」が無い場合、臨時に設けられた「御所」のことを「行宮」と言います。南朝では、一番長かった「吉野行宮」の他に、「吉水行宮」、「賀名生行宮」、「天野行宮」、「金剛寺行宮」、「観心寺行宮」、「男山八幡行宮」、「住吉行宮」、「船上山行宮」、「栄山寺行宮」と、計10か所も「行宮」があったようです。「行宮」を置くということは、「遷都」することです。南朝は、少なくても10回も「遷都」したのだ?「行宮」のウィキペディアに、面白い記述を発見!それは東京都千代田区にある「皇居」は、東京が日本の首都であると直接的に定めた法令は存在せず、「現在の皇居も一時的な宮殿」、つまり「行宮」であるとする主張があるという記述です。現在の「皇居」は「行宮」なのだ!?ちょっと興味深い主張ですね。おお、「蔵王堂」の前から、「上千本」が一望出来る!<東南院>「蔵王堂」の東南にある大峰山の持護院で金峯山修験本宗別格本山。開祖は「蔵王堂」と同じで「役小角」です。昭和12年に和歌山県の「野上八幡宮」から移築された見事な「多宝塔」と、その横に植えられている「しだれ桜」が「見所」なのですが、アチャ~、ここのしだれ桜、もう殆ど散ってしまっている!「中千本」の満開の時期には、このしだれ桜の「見頃」は絶対観られないのだ!<吉水神社>「吉水神社」の前に、人垣が出来ていました。おお、ここから「中千本」、「上千本」、そして「奥千本」が一望出来る!ここは「吉水神社一目十年」、吉野でも屈指の桜のビュースポットなのだ!上掲の最後の写真で、左側の桜は「中千本」の上部です。一番上近くに、後醍醐天皇の勅願寺である「如意輪寺」があり、その奥に後醍醐天皇陵があります。真ん中の三角形の桜が「上千本」、その右側の一番高い所にある桜が「奥千本」です。<中千本><上千本><奥千本>「吉水神社」は、7世紀後半の白鳳年間に金峯山寺の僧坊・吉水院(きっすいいん)として役小角により建立されたと伝えられています。文治元年(1185年)12月には源頼朝に追われた源義経、武蔵坊弁慶や静御前などが5日間吉水院に身を潜めた所で、南北朝時代には、後醍醐天皇が一時、ここを「吉水行宮」としました。文禄3年(1594年)に豊臣秀吉が行った「吉野の花見」の際には、吉水院はその本陣とされ、秀吉はここに5日間滞在したのだそうです。源義経も豊臣秀吉も、ここから観た桜、やはり天下の絶景なのだ!<竹林院群芳園>「中千本」の繁華街(!)の突き当りに、奈良県の三大名園の一つである「竹林院群芳園」があります。実は、今回の吉野散策の目的の一つが、この庭園の池のほとりにある樹齢300年以上とされるしだれ桜、「天人之桜」の満開を観ることだったのですが、アチャ~、「天人之桜」殆ど葉桜だ。残念!でも庭園の山裾に咲いているヤマザクラやミツバツツジは格段に美しかったのです。(「竹林院・群芳園」について)「竹林院」は、寺伝によれば、聖徳太子が開創して椿山寺と号し、その後弘仁年間(810年~824年)空海が入り、常泉寺と称したと伝えられています。1385年(至徳2年/元中2年)に竹林院と改められたようです。「群芳園」は、文禄3年(1594年)、豊臣秀吉が「吉水神社」で花見をした際、「千利休」がそれまであった庭園に手を加え、現在見られるような桃山風の回遊式庭園に造り直したのだそうです。豊臣秀吉や千利休は、「天人之桜」を観ることが出来なかった!?<中千本から上千本へ>「竹林院」から、急な坂道を登り、「上千本」に向かいます。以下の写真は、その途上で撮ったものです。坂道の一角に、以下のような西行法師の歌碑が建てられていました。吉野山うれしかりける導(しる)べかな さらでは奥の花を見ましや西行(1118年~1190年)は、吉野を愛し、桜を愛した平安時代の武士であり僧侶であり、歌人です。年代は不明ですが、奥千本の一角に「西行庵」を結び、そこで3年間、侘び住まいをしました。今回は奥千本には行けませんので、4年前に行った時の西行庵と奥千本の写真を以下に貼り付けます。(西行庵)(奥千本の桜)西行は生涯に20000首以上もの膨大な数の短歌を詠みました。吉野や桜に関する歌もいっぱいあるのですが、ここでは2首だけ挙げてみます。吉野山 こずえの花を見し日より心は身にもそわずなりにき願はくは花の下にて春死なん そのきさらぎの望月のころ<上千本>午後1時少し前。「上千本」に到着、午前10時ジャストに近鉄吉野駅を出発してから、既に3時間が経過してしまいました。ここまで約3時間、歩きっ放し、お腹が空いた!で、いつもの「さくら咲競(さくら)プロジェクト」の看板の場所で遅い昼食。プファ~、ビールが旨い、下界のコロナ禍が嘘のような、ここは別世界なのだ!「下千本」、「中千本」、「上千本」、「奥千本」というが、いったい、吉野には何本位、桜があるのだろう?4月4日(日)TBSの「情熱大陸」で、<「一目千本」世界に誇る吉野の桜を守る3人の男たち>という番組が放送されました。以下、4月2日の毎日新聞の「情熱大陸」についての番宣記事を紹介させて頂きます。奈良県中部に位置する吉野山。奈良県中部に位置する吉野山。世界遺産であり、日本三大桜の名所の一つだ。山肌一面、50ヘクタール(東京ドームの6,5倍の広さ)に3万本(番組では18000本)もの桜が生えており、春には「一目千本」とも表現される圧巻の景色が広がる。そんな桜の世話をするのが「桜守」と呼ばれる職種。文字通り「桜を守る人」。吉野山出身でリーダーの伊藤将司(33歳)、元造園業の奥西信介(38歳)、ムードメーカーの山口公佑(42歳)だ。(左から山口公佑氏、伊藤将司氏、奥西信介氏)「桜の世話」、といっても、その内容は多岐にわたる。「母樹」からの種拾いに始まり。種植え、苗木育成、植樹、土壌改善、草刈り、時には野生の鹿に傷つけられたり病気になってしまった桜の手当てまで。桜を子供とするならば、親役から医者役まで何でもこなす。桜守の作業で最も危険なこと、それは「崖」といっていいほどの切り立った山肌の草刈りだ、桜を観に来た人により美しい景色を見せたい、との思いで桜の周りの草刈りをする。だがそれは想像以上の厳しさだった。高さ50m、けもの道すらない斜面を、おのれの足で登り、草を刈る。命の危険すらある作業を彼らは平然とやってのける。そんな桜のそんな桜の満開の期間はおよそ一週間、そのたった一週間のためだけに彼らは1年を捧げ続ける。リーダーの伊藤曰く「手をかけてやればやるほど、桜はそれに応えていい花を咲かせてくれるんですよ」<プロフィール>日本一の桜の名所とも言われる奈良県・吉野山。2004年には吉野山を含む「紀伊山地の霊場と参詣道」が世界遺産に認定された。吉野山の桜は、1300年ほど前から「ご神木」として崇拝され、手厚く保護されてきた。春には日本古来の「シロヤマザクラ」を中心に約3万本(番組では18000本)という世界でも類を見ない規模の桜が咲き誇り、その絶景は「千本桜」「一目千本」とも形容される。この番組そのものはYou-Tubeにアップされていませんでしたが、ナレーション無しの今年の吉野の桜のドローン映像がありましたので、以下に貼り付けます。<「絶景:美し過ぎる千本桜(奈良吉野山)」:情熱大陸公式チャンネル>↑ ここをクリック午後1時半、昼食を終え、更に上に登っていきます。<花矢倉の絶景>昼食を摂った場所から徒歩5分の所に、「上千本」の絶景スポットと言われている「子守茶屋展望台」(通称:花矢倉)があります。昼食を摂った場所からの景色と、殆ど同じですが、やはり絶景だ!桜の道の突き当りに霞んで見えるのは「蔵王堂」です。その右横の川は「吉野川」(紀の川)です。「花矢倉」の店の前には、シャクナゲが咲いていました、「花矢倉」から、本日の最終目標点であり、折り返し点である「吉野水分神社」に向かいます、道沿いの民家の庭に咲いていたピンクのしだれ桜とハナカイドウ(花海棠)のコラボ、このコラボ。吉野でも屈指の美しい花なのだ!<吉野水分(みくまり)神社>午後2時ちょっと前、「上千本」の頂点である「吉野水分神社」に到着、境内のしだれ桜、「見頃」になっているかな?おお!境内のしだれ桜、正に見頃!良かった!<吉野水分神社について>「水分神社」は、干ばつの時に雨を祈る水の神を祀った神社のことです。多くは川の源流や分水嶺の近くに創られたようです(水分=水配り)「吉野水分神社」の創建の時期は不明ですが、遅くとも7世紀の終わり頃には存在していたようです。元来は吉野山の最奥部に在る「青根ヶ峰」(標高858m、古来より水分山と呼ばれた神奈備山)に置かれていましたが、大同元年(806年)頃に現在地へ遷座しようです。主神は、水を司る神である天之水分大神(あめのみくまりのおおかみ)、また、「みくまり」が「みこもり」となまり、子守明神と呼ばれ子授けの神としても信仰を集めているようです。午後2時10分。「吉野水分神社」を後にして帰路につきました。往路は、上り坂の上に、あちこち「寄り道」しましたので、近鉄吉野駅から「吉野水分神社まで、昼食時間も含めて約4時間掛りましたが、帰路は寄り道せず、一直線に歩きましたので、1時間20分で近鉄吉野駅に着いたのです。午前10時、近鉄吉野駅出発。午後3時30分、近鉄吉野駅に帰還、昼食の30分を除き、約5時間、歩きっ放しの吉野紀行でした。持参した万歩計の歩数は36400歩でした!電車の時間まで、少し余裕がありましたので、駅前の茶店で、「プファ~、ビールが旨い!」とやろうかと思いましたが、そうするにはちょっと時間が足りないと思い、以下のように〆たのです。プファ~、桜ソフトクリームが旨い!吉野の桜には、桜ソフトがよく似合う。
2021年04月14日
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奈良県宇陀市の里山に咲く又兵衛桜、今、壮麗に満開!郡山城跡の桜と天理教本部の巨大しだれ桜を観に行った3月27日の2日後の3月29日、女房殿の運転する車の助手席に持って、宇陀市にある全国屈指の「一本桜」である「又兵衛桜」を観に行ってきました。これまで何度か「又兵衛桜」を観に行ったが、満開の「又兵衛桜」を観たことがない、今年は絶好の機会のようだ!?事前にカーナビで所要時間を調べましたところ、リュウちゃんの家から約1時間という予想が出ました。よし、朝9時に家を出れば、午前10時頃には着ける。で、朝9時に家を出発、予想通り、午前10時ジャストに、「又兵衛桜」の近くの駐車場に着きました。下の写真は、駐車場から見た「又兵衛桜」です。どうやら満開のようだ!「又兵衛桜」の手前に、「北向きお地蔵さん」があり、ここに咲く「しだれ桜」も中々立派でした。「北向きお地蔵さん」を通り過ぎると、いよいよ「又兵衛桜エリア」です。入り口のテントのところで、協力金100円を払って、エリアに入場します。側面から見た「又兵衛桜」まるで白い頭、ピンクの胴体を持ったライオンかスフィンクスのようだ!尚、ピンクの胴体は「桃の花」なのです。「又兵衛桜」の下に近づきます。満開の「又兵衛桜」やはり凄い偉容だ!来て良かった!「又兵衛桜」は、別名「本郷の瀧桜」とも呼ばれています。これは、ここの地名が、「奈良県宇陀市大宇陀本郷」である所から来ている命名のようです。一本桜として全国的に著名な「三春の瀧桜」が福島県三春町にあるのと同じ発想の命名ですね。(三春の瀧桜)「又兵衛桜」の前に、以下のような文面の「立て札」が建てられていました。<本郷の瀧桜(又兵衛桜)>本郷区には、戦国武将として活躍した後藤又兵衛がこの地に落ちのび、僧侶となり一生を終えたという伝説が残っており、この枝垂れ桜が残る地も、後藤家の屋敷跡であることから、地元では、「又兵衛桜」と呼んで親しまれています。一説には樹齢300年と言われ、幹周3m、高さ約13mの見事な桜です。シーズンには数万人の花見客でにぎわいます。(注)慶長20年(1615年)の「大阪夏の陣」で、真田幸村らと共に、豊臣方の「大阪城五人衆」の一人として活躍した猛将・後藤又兵衛、定説では慶長20年5月6日の「道明寺の戦い」で討ち死にしたとされていますが、宇陀市本郷地区に伝わる伝説では、後藤又兵衛はこの地に落ちのび、現在の桜のある場所(後藤屋敷跡)で暮らしたとされています。「又兵衛桜」自体は樹齢約300年ということで、後藤又兵衛よりも200年位、年代が新しいのですが、この辺りに後藤姓が多いところから、源義経のような英雄流離伝説が生まれたのではないでしょうか。<源義経の英雄流離伝説>「源義経は平泉の衣川館で自害したのではなく、逃れて北海道から大陸に渡り、チンギス・ハーンになった」「又兵衛桜」の周りを一周します。山側は一面の桃の花が咲いています。「又兵衛桜」の裏側・正に「桃源郷」なのだ!一周を終えて、川向うの正面に出ました。ここからの眺め、「又兵衛桜」の一番のビュースポットなのだ!<仏隆寺の千年桜>「又兵衛桜」を堪能して、駐車場に戻ったのが午前11時30分、よし、これから「仏隆寺の千年桜」を観に行こう!カーナビに仏隆寺の住所を入力しました所、約40分で到着というう予測が出ました。カーナビの予測通り、12時10分に仏隆寺に到着、アチャ~「仏隆寺の千年桜」まだ「蕾」だ!仕方がないので、2016年4月に撮った「満開の千年桜」の写真を以下に貼り付けます。「又兵衛桜」と「仏隆寺の千年桜」は、「見頃」が一週間ズレている。同じ日に両方の満開を観ることは不可能なのだ。(満開の仏隆寺の千年桜)「蕾」の千年桜を一周しました。やはり主役の千年桜が「蕾」だと、ちょっと淋しい光景だ。<仏隆寺と千年桜について>仏隆寺は、平安時代前期の嘉祥3年(850年)に空海の高弟・堅恵(けんね)により創建されたと伝えられる古刹です。空海が唐から持ち帰った最古の茶を栽培したといわれ、「大和茶発祥の地」とされています。約6キロ離れたところにある「室生寺」の末寺です。「本堂」は「千年桜」の横に造られた197段の石段を登ったところにあり、本尊は聖徳太子の作とされる木造の十一面観音立像です。「千年桜」は樹齢900年と推定される奈良県で一番古い桜です。以下に宇陀市観光サイトに掲載されている「千年桜」のデータを紹介します。★(桜の品種):モチヅキザクラ、★(推定樹齢)900年、★(樹高):16m、(幹周):7,5m、★奈良県指定天然記念物、12時30分、仏隆寺散策を終えて、帰路につきました。もう昼食時、お腹が空いた!本当は、家でおにぎり弁当と缶ビールを持ってきて、又兵衛桜の下でプファ~とやりたかったのですが、朝の天候を見て俄かに宇陀行きを決行しましたので、弁当は持参しなかったのです(返す返すも残念!)で、帰路の途中にある長谷寺の参道の料理屋で昼食を摂ることにしました。<長谷寺の桜>午後1時過ぎ、長谷寺に到着、長い参道沿いの、客席全てがアクリル板で細かく仕切られている、新型コロナ対策万全(と思われる)の和食の店に入り、うなぎ定食とビールで遅い昼食、プファ~、ビールが旨い!久々に食べたうなぎ、絶品だ!昼食の後、「長谷寺」の桜見物をしました。長谷寺の桜、今が「見頃」のようだ!下の絵図は「長谷寺境内図」です。長谷寺名物、399段の登廊(のぼりろう)の周りも、桜爛漫だ!本堂前の舞台も、桜見物の客で賑わっていました。舞台から降りて行く帰路の道脇に、数輪だけですが、シャクナゲが開花していました。「本堂」を見上げる休憩所で、暫し休憩。ここの桜も素敵なのだ!リュウちゃんは、休憩所の上にある五重塔に立ち寄りたかったのですが、運転手の女房殿はお疲れの様子、やむなく、休憩所からそのまま坂を下り、帰途についたのです。<高田川千本桜>長谷寺から斑鳩町に家に帰る途中に、奈良県でも屈指の桜の名所である大和高田市の「高田川千本桜」があります。「又兵衛桜」、「仏隆寺の千年桜」、「長谷寺の桜」と、3カ所の桜見物で、ちょっと「桜疲れ」をしていたのですが、帰路の途中にある桜の名所でもあり、立ち寄ってみました。おお、ここの桜も満開だ!4カ所の奈良の桜の名所を「はしご」して、家に帰り着いたのが午後5時ジャスト、「桜疲れ」を振り切るため、家でビール2缶で晩酌、プファ~、ビールが旨い!「桜疲れ」が見事に吹き飛んだ!次回の「桜紀行」は、いよいよクライマックスの「吉野の桜」です。乞う、ご期待!
2021年04月07日
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天理教本部の中庭の「巨大しだれ桜」、今、満開!今年は例年よりソメイヨシノの開花が一週間くらい早く、各地で「桜前線」が猛烈なスピードで進んでいます。テレビのニュースによれば、東京の上野公園や目黒川の桜は春分の日くらいに満開になったと伝えられました。梅見物のすぐ後に桜見物、今年は忙しくなりそうだ!リュウちゃんの住んでいる奈良でも、桜の開花は急速に進み、3月末時点で殆どの平地の桜の名所では「満開」になりました。よし、3月の第4週は、桜見物ウィークだ!ということで、3月27日(土)、今年の「桜行脚」の手始めに、近場の郡山城址と天理市の天理教本部の桜見物に出掛けました。<郡山城址の桜>斑鳩町のリュウちゃんの家から隣町の大和郡山市にあでる「郡山城跡」までは、JRで約7分、徒歩で約20分くらい、法隆寺を除き、リュウちゃんの家から一番近い桜の名所です。朝9時30分に家を出て、10時ちょっと過ぎに「郡山城跡」に到着しました。おお、「東隅櫓」の傍のしだれ糸桜、満開だ!上掲のしだれ糸桜は、「早咲き」なのです。通常は、このしだれ桜が満開の頃は、城内のソメイヨシノはせいぜい「5分咲き」、城内のソメイヨシノが満開の頃には、しだれ桜は散ってしまっていることが多いのです。今日の城内のソメイヨシノ、「見頃」を迎えているかな?「二の丸跡」の入り口から入場、もう「お城まつり」が始まっていた!入り口の「鉄御門跡」の石垣の桜、ほぼ満開だ!以下に「郡山城跡案内絵図」を貼り付けます。(郡山城跡案内絵図)尚、「郡山城跡の桜」は、平成2年に制定された「日本さくら名所100選」に、奈良県では「奈良公園の桜」、「吉野の桜」と共に選定されました。「鉄御門跡」からお城の外濠を左手に見て、「追手門」に向かいます。「追手門」の桜も、ほぼ満開だ!裏側から見た「東隅櫓のしだれ桜」です。やはり表側から見たほうが、見栄えがする!?「城址会館(明治の館)」から「天守台」に向かいます。下の写真は、「城址会館」付近から「天守台」を見上げたものです。「天守台」にも、見物客が来ている!「城址会館」から、内濠を右側に見ながら、今年2月に再建された「極楽橋」に向かいます。内濠の石垣の傍にも、立派なしだれ桜があります。しだれ桜の向こうに「極楽橋」が見えてきました。「極楽橋」から眺めたしだれ桜も、中々ダイナミックだ。「柳沢神社」の裏手に「天守台」があります。「天守台」からは、郡山市の四方が一望出来るのですが、本日は黄砂飛来の影響か、遠方は霞んでいたのです。郡山高校の前の内濠の桜を暫し愛でて。午前11過ぎに郡山城跡を出て、近鉄電車で天理市に向かいました。<天理教本部周辺の桜>正午頃、天理駅に到着、少しお腹が空いた。で、天理駅前の商店街にある料理店で昼食。プファ~、ビールが旨い!天理の桜に、期待ワクワク!天理教本部の桜鑑賞、リュウちゃんはいつも、本部の建物群の手前にある<よろず相談所病院「憩いの家」>から始めるのです。おお!「よろず相談所病院」の前のピンクの桜、満開だ!「よろず相談所行院」の裏手に、小さな公園があります。この公園、天理教本部周辺の屈指の桜のビュースポットなのだ!リュウちゃん、ここでハタと気づいたことがありました。これまで天理教本部周辺の桜見物をする時には、桜の下で「プファ~、ビールが旨い!」とやることは控えきました。何故かといいますと、ここの桜は、信者の皆様にとりましては「聖地に咲く桜」です。聖地の桜の下で、プファ~!は出来ない。しかし、この公園の中であれば、プファ~!は可能だ!よし、来年はここでプファ~をやろう!公園のすぐ先が天理教本部です。本部に登って行く坂道にも、ピンクの桜の並木があります。このピンクの桜、何という品種なのだろう?本部の前の広場には、多くの信者の皆様が参集していました。本部の東側の道路沿いの桜です。上の写真の奥に、「奈良で一番の早咲き桜」とされる桜並木があるのですが、残念ながら「葉桜」になっていました。残念なので、2019年に撮影した同じ桜並木の写真を貼り付けます。この桜、以前は「河津桜」と思われていたが、河津桜と同じ早咲きの「アタミ桜」なのだ!さて、本日お目当ての3本の「巨大しだれ桜」です。このしだれ桜は「東側別席場」という施設の入り口及び中庭にあります。それぞれ樹高約10メートル、下部の花の広がりの直径約20メートル途方もなく巨大なしだれ桜なのだ!この巨大しだれ桜、樹齢は何年なのか?何という品種の桜なのか?この疑問に関しましては、以下の動画が参考になりました。<天理の桜・四季旬/彩/天理教道友社>→ここをクリック上の動画は、天理教営繕部造園課顧問の肩書きを持っている長谷川佳孝氏の語りで進められます。それによりますと、この3本の巨大しだれ桜は、★原種に近い桜である。★この桜は秋田県・角館(かくのだて・仙北市)の信者から寄進されたもので、樹齢は70~80年、花の色はやや異なるが、同じ品種である。★この種類の桜は通常はこのように大きくはならないが、支柱を立て、成長に合わせて棚組みを毎年変更することにより、あのように巨大な桜になった。う~ん、この巨大しだれ桜は「原種に近い桜」という事は分かったが、結局、具体的な品種名は不明なのだ。因みに、日本の「桜の原種」は、以下の11種類なのだそうです。(1) エドヒガン(江戸彼岸)、(2)オオシマザクラ(大島桜)、(3)ヤマザクラ(山桜)、(4)カンヒザクラ(寒緋桜)、(5)マメザクラ(豆桜)、(6)チョウジザクラ(丁子桜)、(7)オオヤマザクラ(大山桜)、(8)カスミザクラ(霞桜)、(9)タカネザクラ(高嶺桜)、(10)ミヤマザクラ(深山桜)、(11)クマノザクラ(2018年に発見された原種)「原種に近い」巨大しだれ桜、品種名は「謎」だが、旺盛な生命力は偉大なのだ!「東側別席場」の奥庭には、ピンクと白の立派な桜が咲いていました。天理教本部の桜で、リュウちゃんの「残る謎」は、天理教本部周辺に、いっぱい咲いているピンクの桜、何という品種なのだろう?という「謎」なのです。上掲の<天理の桜・四季旬/彩/天理教道友社>を全部チェックしても、この品種については全く語られていません。しかし、「四季旬彩」シリーズのNo6で、長谷川佳孝氏は、「、、、ソメイヨシノも植えているし、ヨウコウという桜も植えている、、、、」と語っています。<さくらVie-Point・おやさと四季旬彩(06)>天理教本部周辺では、ありふれたピンクの桜、高岡正明氏が1981年に作出した「陽光」なのかな?
2021年04月02日
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全山梅また梅奈良で一番大きい賀名生(あのう)梅林、やはり雄大な景色だ!3月12日、「奈良で一番大きい梅林」である「賀名生(あのう)梅林」に行ってきました。前日の「月ヶ瀬梅渓行きに続く、2日連続の梅林探訪です。「月ヶ瀬梅渓」のブログでも書きましたように、「賀名生梅林」の梅の本数は2万本、奈良県で一番大きい梅林です。以下に「賀名生梅林散策MAP」を貼り付けます。上掲の散策マップにつきまして、注釈を入れてみます。★青能梅林の住所は、奈良県五條市西吉野町北曾木、JR「五條駅」から南に向かい、8,5キロの場所にあります。梅林は北曾木丘陵の斜面全面に、2万本の梅が植えられています。★「吉野の桜」に習って、「口の千本」、「一目万本」、「見返り千本」、「東雲(しののめ)千本」、「西の千本」、「奥の千本」といった「お花見スポット」があります。★MAPの一番下に「賀名生皇居跡」、「賀名生の里・歴史民俗資料館」があります。ここの標高は160m、これは「月ヶ瀬梅渓」の「下の梅林」とほぼ同じ標高です。一番上の「奥の千本」の標高は400m、従いまして、一番下の「賀名生皇居跡」と、一番上の「奥の千本」の標高差は240mとなります。「月ヶ瀬梅渓」の上と下の標高差は130m、「賀名生梅林」の上と下の標高差は240m 、「月ヶ瀬梅渓」の2倍近い標高差がある!★メインストリートである「黄色い道」の外周は、5,5キロ程のようです。メインストリート以外にも、無数の小道が縦横に走っていまして、その小道は梅林の中に点在する梅農家に繋がっているのです。例によりまして、女房殿お手製のおにぎり弁当とリュウちゃんお手製(?)の缶ビール(2缶)をリュックに詰め、午前8時半に自宅を出発、電車とバスを乗り継いで、午前11時47分、梅林の入り口にある「賀名生和田北口バス停」に到着しました。<賀名生皇居跡>梅林に登る前に、麓にある「賀名生皇居跡」に立ち寄りました。「皇居」といえば天皇のお住まい、誰の「皇居」なのだろう?「皇居」の前に、由来が書かれた「碑」が建てられていました。以下、その碑文を書き下ろして見ます。<賀名生皇居跡の碑文>延元元年(1336年)、12月21日、後醍醐天皇は京都花山院を脱出、23日、阿那宇(あのう)にお着き、ここを皇居とされた。28日には吉野に潜幸になっている。かくて正平3年(1348年)、高師直(こうのもろなお)が吉野を犯したので、後村上天皇は逃れて、9月頃賀名生の皇居に入られ、時には住吉、観心寺、天野山金剛寺に、一時は京都に還幸された。殊に正平6年(1351年)、足利尊氏が帰順したので、北朝の天皇の廃立を宣し、南朝の年号に統一し、神器も皇居の内待所におさめられた。現在の堀家は、皇居の跡で普通の民家としては異例の特色ある稀有の遺構を有している。藁葺門の「皇居」の扁額は、天誅組吉村寅太郎の掲げたもの、尚、堀家には南朝関係という遺品の記録及び天誅組浪士帖等、多数の宝物がある<西吉野村観光協会>今はカフェになっているこの「皇居」、「南朝」の祖、第96代・後醍醐天皇と第97代・後村上天皇の「皇居」だったのだ!(後醍醐天皇)「皇居」の上のある山裾に、後醍醐天皇の側近であり、実質的に南朝を指揮し、著名な歴史書「神皇正統記」の著者である北畠親房(きたばたけ・ちかふさ)の墓があるというので、行ってみました。鳥居は立派だが、墓自体は非常に小さい!下の写真は、北畠親房の墓の近くで撮った「賀名生梅林」の下部の光景です。もう、午後0時30分ですが、昼食は後回しにして、これから梅林を登って行きます。<見事なミツマタの花>梅林の麓に、見事なミツマタの花が咲いていました。正にゴールデンボール!こんな見事なミツマタの花、初めて見た!車も通れる舗装されたメインストリートを登って行きます。メインストリートの右側は「口の梅林」です。メインストリートの左側は「一目一万本」、この急斜面にある梅の花が、賀名生梅林を代表する光景なのです。「賀名生梅林」は「月ヶ瀬梅渓」とは少し違って観光梅林ではなく、「梅の実生産梅林」。殆どが梅の実収穫のための「白梅」なのだ。道路沿いに、またもやミツマタを発見、賀名生のミツマタ、素敵だ!「白梅」以外の梅の花をい求めて、脇道に入って行きました。ありました!農家の門前に咲く、ピンクと赤の枝垂れ梅!赤い枝垂れ梅にリュウちゃん大感激!!!この辺りの小さな集落には、ピンクの梅やピンクの枝垂れ梅がありました。ピンクの枝垂れ梅と松の若葉のコラボ、「松竹梅」ならぬ「松・梅」だ!ガレージを改装した私営の休憩所の前のピンクの枝垂れ梅です。枝垂れ梅の右手に見える山は「金剛山」(標高1125m)です。ここから見る金剛山の裏側は大阪府の千早赤阪村です。南北朝時代、後醍醐天皇を奉じた武将・楠木正成(くすのき・まさしげ)の居城「赤坂城」・「千早城」がありました。元弘元年(1331年)、楠木正成は「赤坂城」・「千早城」に立て籠もり、攻めてくる鎌倉幕府軍と対峙、わずか500人の軍勢で、30万人とも云われた圧倒的な幕府軍を相手に、約1ヶ月もの間、持ちこたえたというエピソードは、「太平記」のハイライトの一つですね。(「千早城の戦い」絵図)段々、梅林の上部に登って行きます。上部に登るにつれて、視界がどんどん広がって行きます。もう午後1時30分、猛烈にお腹が空いた!!!「賀名生梅林」は「月ヶ瀬梅渓」とは違って、観光客のための休憩所やトイレが殆どありません。少なくても、リュウちゃんが辿った道筋には、公共の休憩所やトイレは全く無かったのです。何処で昼食を摂ろうか?道の脇に、「ここは西の千本です」という標識を発見、よし!ここで昼食を摂ろうプファ~、ビールが旨い!眼下に拡がる梅林と吉野の山並み、最高だ!もう午後2時を過ぎた。そろそろ下山しよう。で、「奥の千本」辺りの絶景を楽しみながら、約1時間掛けて下山しました。帰路の途上、梅の花と竹林のコラボを発見、往路の松とのコラボを合わせると、「松・竹・梅」の完成だ(苦笑)午後3時ジャスト、下山完了、帰りのバスの時間まで、少し余裕がありましたので、「皇居跡」の隣にある「賀名生の里・歴史民俗資料館」にちょっと立ち寄りました。「歴史民族資料館」の中には、大和郡山市にある「大和民俗公園」と同じように、幾つかの雛人形や「唐箕」などが展示されていました。「歴史民族資料館」に、賀名生梅林に関する2つの立て看板が立てられていました。2つとも、「賀名生」を知る上で重要な情報が書かれていましたので、以下、文字起こしをしてみました。(1)<賀名生の由来>延元元年(1336年)12月。足利尊氏によって京都を追われた後醍醐天皇は、吉野潜幸の途中、この地に拠られました。当時。この地は「穴生(あなう)」と呼ばれていました。正平6年(1351年)10月、足利尊氏が南朝に帰順し、京都の多くの公卿や殿上人が「穴生」に参候して北朝が否定されたので、翌正平6年(1352年)正月、後村上天皇は、「願いが叶って目出度い」という思し召しから、「加名生(かなう)」と名付けられ、京都に還幸されました。これが世に云う「正平の一統」です。後で「加名生」は畏れ多いと、「賀名生」に改められたと伝えられています。明治の始めになって、「あのう」に呼び方を統一しましたが、下賜された南朝の歴史を伝える地名も昭和34年の合併で消え、ここに「賀名生の里」として刻まれるのみである。(2)<賀名生梅林について>「月ヶ瀬」、「広橋」とともに奈良県の三大梅林の一つである「賀名生梅林」、北曾木の丘陵を約2万本の梅が蓋い尽くす風景は、西吉野に春の訪れを告げる風物詩です。南北朝時代、都を追われた後村上天皇や公家達は、この地の梅を愛で、歌を詠んだと云われています。明治の初めに果実の収穫を目的として栽培が始められ、大正12年(1923年)に、当時皇太子だった昭和天皇のご成婚を記念して、5千本の苗が植えられました。時代の変化と共に、梅の栽培に適していることから、戦後さらに拡大され、現代のような広大な梅林となりました。品種としては、「白加賀」、「鶯宿」、「南高」、「林州」などが栽培されています。なかでも、賀名生梅林を象徴する梅は、この地特有の「林州」という品種です。後村上天皇や公家達が詠んだ歌の梅は、この地で眺めた林州だったのかも知れませんね。一時、和歌山県みなべ町の「南高梅」が人気となり、「南高梅」へと植え替えられてしまい、梅林の大半を占めていた「林州」は全体の2割程度まで落ち込みましたが、地元の人達が「林州」を増やす努力を続け、昔ながらの賀名生梅林の景観を取り戻そうとしています。「月ヶ瀬梅渓」、「賀名生梅林」、そして「桜の吉野」、皆、南朝=後醍醐天皇繋がりだったのだ!
2021年03月23日
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月ヶ瀬湖を見下ろすピンクの枝垂れ梅、月ヶ瀬梅渓、春爛漫!3月11日、2年ぶりに奈良県の梅の名所である「月ヶ瀬梅渓」に行って来ました。昨年の梅の季節は、新型コロナ禍が始まったばかりで、当時リュウちゃんは「しばらくは公共交通は使わない」と誓ったばかりでしたので、それまで殆ど毎年行っていた「月ヶ瀬行き」をパスしてしまったのです。昨年後半から、「大阪や京都のような大都会に行かない限り、マスク着用で公共交通を使えば、大丈夫」と考えるようになりましたので、奈良県内のローカルな公共交通を使う機会が増えて来たのです。奈良人リュウちゃんのモットーは。「梅は月ヶ瀬、桜は吉野」です。毎年行かないと悔いが残る!「月ヶ瀬梅渓」は、奈良県の三大梅林の一つです。梅の本数の多い順に紹介しますと、(1位)賀名生(あのう)梅林(2万本)、(2位)月ヶ瀬梅渓(1万3000本)、(2位)広橋梅林(5000本)、となります。奈良の三大梅林の内、何故、「月ヶ瀬」だけが「梅渓」と称されるか?それは、月ヶ瀬を流れる「名張川」(五月川)が、かっては深い渓谷だったことから来ている名称なのです。この雄大な渓谷は、昭和44年、高山ダムの完成に伴い、この辺りの「五月川」は堰き止められて「月ヶ瀬湖」となり、渓谷は湖の底に沈んでしまったようです。「月ヶ瀬梅渓」の起源は古く、14世紀の後醍醐天皇の時代まで遡れます。元弘元年(1331年)、後醍醐天皇が笠置山から吉野に落ちのびる際、女官の「姫若」が「真福寺」の境内に一本の梅の木を植え、「烏梅(うばい)」という紅染の触媒剤の製法を教えたのが、「月ヶ瀬梅渓」の始まりとされています。当時、「烏梅」は非常に貴重かつ高価なものであったため、村人はこぞって梅の木を植え、「烏梅」を作ったようで、最盛期の江戸時代には、約10万本の梅の木が植えられていたようです。10万本の梅の木現在の約10倍の本数だ!松尾芭蕉もビックリなのだ!20世紀に入りますと科学的に合成された紅染の合成染料が普及したため、「烏梅」の需要は激減し、烏梅生産のための野性的な品種の梅は次々と伐採され、「月ヶ瀬梅渓」は観光梅林及び食用梅の生産梅林に変貌しました。大正11年、奈良公園などと共に、「日本で最初の名勝地」に指定されました。月ヶ瀬梅渓、そのダイナミックな景観により、全国屈指の観光梅林なのだ!例によりまして、女房殿お手製のおにぎり弁当と、リュウちゃんお手製(?)の缶ビール(2缶)をリュックに詰め、午前8時30分に家を出発、午前9時11分、奈良駅発月ヶ瀬行きのバスに乗り、午前10時30分、月ヶ瀬梅渓の入り口である「桃香野バス停」で下車。今日は「桃香野バス停」からスタートし、「月ヶ瀬梅渓」を隅から隅なで歩くぞ!以下は「月ヶ瀬MAP」です。上掲のMAPにつきまして、少し説明致します。★リュウちゃんが降りた「桃香野バス停」は、上図の「10キロおり返し」と表示された辺りにあります。★図を斜めに横切って流れている川は「名張川」です。この辺りは「五月川」とも呼ばれています。また川は図の左上にある「高山ダム」によって堰き止められていますので、この辺りは別名「月ヶ瀬湖」とも呼ばれています(同じ川に名称が3つもあり、ややこしいのですが、本ブログでは、今後、「月ヶ瀬湖」に統一します)★「月ヶ瀬梅渓」の梅林は「2層」に別れています。「1層目」は、上掲図の月ヶ瀬湖の下側の湖畔の斜面約5キロメートルに渡って続いている小さい梅林群です。本日の散策で確認出来た梅林の名前を順に挙げて見ます。「桃香バス停」→「龍王梅林」→「奥の谷梅林」→「コケ石梅林」→「宮の芝梅林」(月ヶ瀬橋の傍の梅林)→「竹陰の梅林」→「湖岸梅林」(五月橋の手前にある梅林)。★この「1層目の梅林」の中心部となる「月ヶ瀬橋」の標高は、130mです。本ブログでは、この「1層目の梅林群」を「下の梅林」と呼ぶことにします。★「湖岸梅林」から、月ヶ瀬橋にもどり、「2層目」の梅林に登って行きます。上掲図で「ゴール」と表示されている所が、「2層目」の梅林の入り口になります。入り口から更に急坂を上りますと、頂上の「真福寺」に辿り着きます。★「真福寺」から、一般的には「月ヶ瀬梅渓」として知られている「帆浦梅林」、「品種園」、「天神梅林」があります。★「真福寺」の標高は260mです。従いまして、「2層目の梅林」は標高250m前後の所にあります。なので、本ブログでは、この梅林のことを「上の梅林」と呼ぶことにします。「上の梅林」と「下の梅林」の標高差は、約120m、この標高差が他に類を見ない「名勝地」の景観を造り出しているのだ!★「上の梅林」、「下の梅林」は、月ヶ瀬の地勢が「河岸段丘」であることから来ています。リュウちゃんの孫姫たちが以前住んでいた群馬県沼田市は「河岸段丘の町」として有名で、地元の人は、「上の町」、「下の町」という表現をしますが、月ヶ瀬も同じなのですね。月ヶ瀬の地勢は、名張川の浸食によって形成された「河岸段丘」なのです。★「月ヶ瀬=河岸段丘」を俄か調べしているうちに、ビックリするような記述を発見しました。それは、月ヶ瀬の地は、400万年ほどの昔には、琵琶湖の湖底だった!!!「琵琶湖」のウィキペディアの「自然史」の記述の一部を以下に貼り付けます。「琵琶湖は世界有数の古代湖であり、その成立はおよそ440万年前まで遡る。以降現在に至るまでの琵琶湖の各時代の環境は、古琵琶湖層群と呼ばれる三重県から滋賀県にかけて分布する地層における各累層の泥・砂・礫の構成比率の違いにより示されている。440万年ほど前に琵琶湖が生まれたのは、後の三重県伊賀市(月ヶ瀬の隣町)である・・・」またまた前置きが長くなってしまいました。ここから月ヶ瀬梅渓のフォトブログになります。<桃香野バス停卑近・高山ダム>「桃香野バス停」で下車しますと、眼前に高山ダムの近くの梅林が見られます。<龍王の滝>「月ヶ瀬湖」とは反対側の山道に入りますと、「龍王の滝」という小滝があります。ここはかって「役の小角(えんのおづぬ)」が修行したところなのだそうです。<龍王梅林と白鬚の梅>「龍王の滝」のすぐ傍の梅林です。「湖畔の里つきがせ」という土産物店の入り口に、樹齢400~500年とされる「白鬚の梅」(奈良県指定・天然記念物)があります。まだ現役の梅の古木で、小さい白い花が咲いていました。<八幡橋>「下の梅林」は、殆どが「白梅」なのですが、1本だけ、ピンクの梅の巨木がありました。<奥の谷梅林><コケ石梅林><竹陰の梅林と浮見堂>「下の梅林」のシンボルである「月ヶ瀬橋」の近くにある小梅林です。湖畔に「浮見堂」があります。<湖岸梅林>「五月橋」近くにある、「下の梅林」の終着点です。ここにも、白梅に交じってピンクの梅が咲いていた!毎年のように月ヶ瀬梅渓を訪れているリュウちゃんですが、「湖岸梅林」まで足を延ばしたのは初めての体験です。今回、「湖岸梅林」を訪れた目的は、ここから「上の梅林」を見上げることだったのです。湖岸から120m上空にある「上の梅林」、中々の景観なのだ。<月ヶ瀬梅の資料館・月ヶ瀬橋>「湖岸梅林」から月ヶ瀬橋に戻り、橋の畔にある「月ヶ瀬梅の資料館」に立ち寄りました。ここから「上の梅林」に登って行きます。道の途中から見下ろした「湖岸梅林」です。この景色、名勝地「月ヶ瀬梅渓」の絶景の源なのだ!<「上の梅林」の入り口、小谷商店の庭の枝垂れ梅>「月ヶ瀬梅の資料館」から徒歩20分で、「上の梅林」の入り口に到着しました。上の写真の石碑の後ろにある「梅ソフトクリーム」の旗を掲げている店が「小谷商店」です。小谷商店の裏庭の枝垂れ梅とサンシュユ(山茱萸)、「上の梅林」の最初の見所なのだ!小谷商店の裏手から、急な坂を登って行きます。坂の途中は、見事な蝋梅が満開を迎えていました。蝋梅の近くにあった黄色い花蝋梅によく似ているが、何という花なのだろう?<真福寺>急な坂を登った頂上に、「真福寺」があります。この寺は「月ヶ瀬梅林発祥の地」と云われ、境内には紅白の枝垂れ梅や水仙、サンシュユなどの花が咲いています。<姫若の梅>真福時の本堂の前に、「姫若の梅」という梅の古木が植えられています。推定樹齢690年、月ヶ瀬梅渓の梅の木では、随一の古木です。「姫若の梅」の前の立て札の文言を文字起こししてみます。「元弘2年(1331年)、後醍醐天皇が笠置山に遷幸されし折り、この地に難を避けるべく逃げる途中、生根尽き圓生の森でたおれていたところを村人に助けられ、姫は村人に感謝し、真福寺の境内に梅の木を植え、烏梅(染織の原料)の製法を教えたのが梅林の始まりとされる」樹齢690年の「姫若の梅」、今も小さい白い花を咲かせている!<一目八景みおろし茶屋>「真福寺」から少し山道を下ったところに、「月ヶ瀬梅渓」随一のビュースポットである「みはらし茶屋」があります。ここからの眺めは「一目八景」と呼ばれていて、比類ない絶景が見られるところなのです。このブログ冒頭に、ここで撮った2枚の写真をUPしましたが、ここでは、冒頭の2枚の写真以外の写真を何枚か貼り付けます。正に「一目八景」、天下の名勝地!太古の時代、琵琶湖の底に在ったことが信じられない天空の絶景なのだ!いけない、もう午後1時を過ぎた。お腹が空いた。で、帆浦梅林にある休憩所で遅い昼食、プファ~、ビールが旨い!流れる白い雲に乗ったような気分だ!<月ヶ瀬梅林品種園>午後2時少し前、「品種園」に到着、ここは月ヶ瀬の観光客の憩いのスポットの一つです。品種園の前には、見事な枝垂れ梅があり、品種園には20種近くの梅が植えられています。品種園に植えられている品種の1/3くらいは「白加賀」という白梅です。(白加賀)品種園で、ちょっと面白い品種を発見、一本の木に、色違いの花が咲く「思いのまま」という梅です。「思いのまま」、大阪城梅林にもあった!<天神社の赤い橋>「品種園」のすぐ下に、小さな「天神社」があります。ここの赤い小橋も、月ヶ瀬梅渓のビュースポットの一つなのです。「天神社」といえば、梅の花を愛した菅原道真を祀る社(やしろ)ですね。東風吹かば にほひおこせよ 梅の花 主なしとて 春を忘るな(菅原道真、拾遺和歌集)<月ヶ瀬小唄>「天神社」の近くの道沿いに、下記の「歌碑」が建てられていました。八代亜紀が月ヶ瀬の唄を歌っていたのだ!<八代亜紀「月ヶ瀬小唄」・「月ヶ瀬夜曲」>←ここをクリック<天神梅林>「上の梅林」の最後の「天神梅林」です。この梅林の名称は、やはり菅原道真に因んでいるようです。リュウちゃんは「天神梅林」が好きで、いつもはこの梅林の枝垂れ梅の下で、「プファ~、ビールが旨い!」とやるのですが、今回は「上の梅林」に着くのが遅くなってしまいましたので、手前の「帆浦梅林」で「プファ~!」と昼食を摂ったのでした。「天神梅林」を暫し散策して、帰途につきました。帰路は、「天神梅林」の少し先から、「月ヶ瀬橋」に直接下る「春告げの小路」を辿ったのです。(春告げの小路)「春告げの小路」の途上から見下ろした「月ヶ瀬橋」、この辺りは梅の木は少ないが、橋の景観は素晴らしい!午後2時40分、「月ヶ瀬橋」の畔にある「月ヶ瀬梅の資料館」に無事到着、万歩計の歩数は24000歩でした。24000歩、大体、13キロくらい歩いたことになる。「月ヶ瀬梅の資料館」の向かいの石垣の上に、紅白の枝垂れ梅が咲いていました。これで今年の「月ヶ瀬梅渓」とはお別れ、来年の「月ヶ瀬梅渓」、どんな表情を見せてくれますことやら?
2021年03月17日
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「馬見丘陵公園」の南端「南エリア」、「巣山古墳」の前の河津桜、今、満開!3月3日、リュウちゃんは独りで「馬見丘陵公園」に行って来ました。今回の「馬見丘陵公園行き」の目的は、昨年、「発見!」した「河津桜並木」と「梅林」を観ることです。河津桜と梅の花、そろそろ満開の筈だ?本当は女房殿の運転する車の助手席に乗って行く筈だったのですが、女房殿は所用があり、今回はリュウちゃんの単独行となったのです。例によりまして、女房殿お手製のおにぎり弁当と、リュウちゃんお手製(?)の缶ビール(2缶)をリュックに詰めて、愛用のママチャリに載って、午前10時過ぎに家を出発しました。今回はリュウちゃん用の弁当・缶ビールの他に、小さくちぎった食パンを持参しました。小さくちぎった食パン、何に使うかですって?それは、ブログが進むにつれて分かりますので、ご安心下さいね。リュウちゃんの家から公園までは、ママチャリで20分位で着きます。午前11時頃、公園の北エリアに到着、北エリアのパンジーなどの小花、少し成長していた。公園の春の主役の花はチューリップです。毎年、真冬に36万球のチューリップの球根が植えられ、4月上旬には、公園全体が「チューリップの楽園」になります。3月はチューリップの「芽生え」の季節、公園の至る所で、チューリップが芽生えていました。どこかに、開花しているチューリップはあるのかな?と思いまして、探索しましたところ、ありました。超早咲きのチューリップ!ここでネットからお借りした「馬見丘陵公園の満開のチューリップ」の写真を貼り付けます。チューリップが満開になる4月が待ちどうしい!「カタビ古墳群」のある「古墳の丘」です。ここは4月になりますと、公園屈指の「桜の名所」になります。「オオバン」という水鳥の生息している「下池」です。「下池」に、家から持参した食パンを投げ入れてみました。すると、出て来ました。巨大な「草魚」!「下池」から、梅林におある「カリヨンの丘」に向かいます。途中にある古墳です。<倉塚古墳(スベリ山古墳)><一本松古墳>前方に梅林が見えて来ました。「馬見丘陵公園」の梅、ほぼ満開だ!「梅林」から、「河津桜」の並木のある「南エリア」に向かいます。おお、「南エリアの河津桜」満開だ!「馬見丘陵公園」の河津桜並木は、まだ植えられて5年ほどしか経っていませんので、ちょっと迫力不足なのですが、それでも奈良では一番の河津桜の名所なのです。南エリアの河津桜並木は、馬見丘陵公園最大の前方後円墳である「巣山古墳」(全長204m、後円部の高さ25m、全国23番目の巨大古墳)の後円部の前にあります。以下にネットからお借りした「巣山古墳」の空中写真を貼り付けます。巨大古墳と若い河津桜のコラボ、「馬見丘陵公園」の河津桜の一番の見所なのだ!もう、お昼、河津桜の下で昼食プファ~、ビールが旨い!リュウちゃんの気分も満開だ!暫し河津桜見物を終えて、帰路につきました。「南エリア」には、「河津桜」の他に、「寒緋桜」という早咲き桜が10本ほど植えられています(「寒緋桜」も、まだ植えられて数年の若い木なのです)南エリアの「寒緋桜」、「咲き始め」だ。<サンシュユ>帰路の「睡蓮の池」の周囲には、サンシュユ(山茱萸)の花が見頃を迎えていました。公園の中央口の近くにある「コブシ(辛夷)」の開花も始まりました。「コブシ」の近くにあるピンクの「椿」は、半分散っていました。次回、「馬見丘陵公園」へは、4月に行く予定です。その時には、チューリップとソメイヨシノ、それと「桃の花」を紹介する予定です。乞う、ご期待!?(おまけ)<リュウちゃんの家の庭の花><クリスマスローズ><白梅><ボケ(木瓜)><沈丁花><水仙>黄色の水仙も開花しました。リュウちゃんの家の庭は。いつも花盛りなのだ!
2021年03月08日
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大和民俗公園の蝋梅と紅梅のコラボ、かなりゴージャス!先週、またまた女房殿から、「大和民俗公園に行って見ない?」と、誘われました。暇を持て余していたリュウちゃん、迷うことなく、「行く!行く!」ということで、女房殿の運転する車の助手席に乗り「大和民俗公園」にお出掛けしたのです。「大和民俗公園」は、リュウちゃんの住んでいる斑鳩町の隣町である大和郡山市の「矢田丘陵」の麓にある県営の都市公園です。総面積は26,6ha、同じ奈良県営の都市公園である「馬見丘陵公園」の約2/5の規模の公園です。「馬見丘陵公園」も「大和民俗公園」も、リュウちゃんの家から車で約10分、格好の散歩スポットなのだ!以下にネットからお借りした「大和民俗公園のお花見スポット~初夏~」を貼り付けます(本当は「春」の図を貼り付けたかったのですが、ネットには「初夏の図」しか無かったのです)(「大和民俗公園のお花見スポット~初夏~」)この日の「大和民俗公園」行きの主な目的は、公園内にある「みんぱく梅林」にある10本ほどの「ソシンロウバイ」と梅の花を観ること、それと園内一周の散歩です。尚、「みんぱく梅林」は上掲の図で、右下の「ヤマブキ」の咲いている当りにあります。「大和民俗公園」の蝋梅、見頃なのかな?「みんぱく梅林」の梅、開花しているのかな?午後1時30分、公園の前の駐車場に到着、公園に入ります。公園入口のしだれ白梅、開花が始まっている!公園入口から右手の道を3分程歩きますと、お目当ての「みんぱく梅林」です。おお!「みんぱく梅林」の梅の花、ほぼ「3分咲き」だ!ソシンロウバイは、梅林の周囲に植えられています。ソシンロウバイ、ほぼ満開だ!「大和民俗公園」のソシンロウバイは、梅林の周囲に植えられていますので、至る所で「蝋梅と梅のコラボ」を観ることが出来ます。「蝋梅と梅のコラボ」、「大和民俗公園」の蝋梅の醍醐味なのだ!暫し、「みんぱく梅林」で蝋梅と梅のコラボを楽しんだ後、公園内一周ウォーキングをしました。園内を一周する小道は全長2,1キロ、ウォーキングとしてはちょっと物足りない距離ですが、午後のひと時をブラブラと散策するのには、うってつけの距離なのです。先ずは水車小屋のある「ハナショウブ園」、5月になりますと約70種1500株の花ショウブが咲きますが、今の季節はひっそりとしています。小道の脇には、至る所に赤いサザンカが咲いています。園内を一周する小道、小道といいましても、以下の写真のように、車が通れる程の道幅のある舗装された道なのです。エメラルド色の水を湛えた小池には水鳥が遊んでいました。この水鳥、鴨なのかな???小道の折り返し点です。前方に見える山並みは生駒市から斑鳩町に続いている「矢田丘陵」です。山並みの左手には、「あじさい寺」として全国的に有名な「矢田寺」があります。以下に、ネットからお借りした「あじさいの矢田寺」の写真を貼り付けます。ここ数年、矢田寺には行っていないが、今年の夏には行ってみたい!(あじさいの矢田寺)帰路の道筋は「古民家ゾーン」です。この公園には、奈良県各地から移築された江戸時代から昭和初期くらいに建てられた11棟の古民家が、往時の姿そのままに建てられています。茅葺き屋根の古民家、岐阜県の白川郷を彷彿する!古民家の内部には、昔の生活を偲ばせる民具が展示されています。(糸車)(機織り)<唐箕(とうみ)>「唐箕」とは、脱穀した籾(もみ、殻に入った米)を風力によって良質な籾とそうでない籾に選別する農機具です。農家では、良質な籾のみを食用及び種籾として保存し、そうでない籾は鶏の飼料などに使われます。実はリュウちゃん、少年時代に実家で唐箕を実際に使ったことがあります。「唐箕」は少年時代の思い出の農機具、懐かしい!いよいよ最終コーナー「大和民俗博物館」です。「大和民俗博物館」は昭和49年に開館、「大和民俗公園」のメインの建物です。館内には、江戸時代から昭和時代まで、奈良県で使用された農機具、林業・茶業で使われた伝統的な器具が展示されています。また、江戸時代=昭和時代までに近隣の旧家が酒造していた豪華な「雛人形」を十数組所蔵していまして、毎年、2月中旬から一か月位、館内で展示されるのです。「雛人形展」、もう始まっているのかな?と考えながら、入場口に行きましたところ、アチャ~、博物館は、改装のため、3月2日まで閉館、アチャ~!仕方がない、以前、リュウちゃんが撮った豪華な雛人形の写真を最後に貼り付けよう。もう春ですね!
2021年02月19日
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馬見丘陵公園の約30本のソシンロウバイ、今、満開!1月末の某日の午後、女房殿から、馬見丘陵公園に行って見ない?という誘いを受けました。暇を持て余していたリュウちゃん、即決で、行こう!行こう!ということになり、午後1時過ぎ、女房殿の運転する車の助手席に乗ってお出掛け、1時20分頃に公園の「北エリア」の駐車場に到着しました。北エリアのパンジー、植え付けが終わったばかりだ!ここで「馬見丘陵公園」のMAPを貼り付けます。(「馬見丘陵公園」のMAP)「馬見丘陵公園」は、馬見丘陵にある「馬見古墳群」を保全・活用するために造られた県立の都市型公園です。総面積65ヘクタール、東京にある「新宿御苑」より少し大きい公園です(入場料・駐車料金は無料)「馬見丘陵公園」の園内には、名前が付けられている古墳だけで9基あります。以下に、その9基を全て挙げて見ます。(北エリア)★池上古墳、(中央エリア)★乙女山古墳、★ナガレ山古墳、★別所下古墳、★倉塚古墳、★一本松古墳、(南エリア)★巣山古墳、★狐塚古墳、★三吉2号墳リュウちゃんが「馬見丘陵公園」に行く目的は「古墳」ではなく、「四季の花とウォーキング」なのです。以下、「馬見丘陵公園」のHPから拾った「月別の開花カレンダー」の図を貼り付けてみます。「馬見丘陵公園」は通年、様々な花が見られる「花の宝庫」なのだ!(月別の開花カレンダー)今回の散策の主な目的は「蝋梅」です。「蝋梅」は中央エリアの「ナガレ山古墳」の傍と、南エリアの「巣山古墳」の傍にあります。北エリアから短いトンネルを通って、中央エリアに向かいます。中央エリアのメインの花壇には、まだ何も植えられていませんでしたが、小さい花壇には様々な色のパンジーが植えられていました。<乙女山古墳周辺>中央エリアの「菖蒲園」の手前を左折し、「乙女山古墳」に向かいます。下の写真は「乙女山古墳」の全景です。「乙女山古墳」は、殆ど整備されていませんので、ご覧の通り、見た目「単なる小山」にしか過ぎませんが、以下のパネルの通り、全長130m、高さ35mの「帆立貝式古墳」です。乙女山古墳、早く整備して欲しい!今回初めて「発見!」したのですが、上掲のパネルのある場所は、「ハナモモ園」になっていたのです。ハナモモ園!昨年は大阪城公園に行ったが、今年はここで間に合う!ハナモモ園の一角に「紅梅」を発見!もう梅の開花が始まった。本格的な「春」近しだ!ハナモモ園から「下池」の畔に移動、そこには水鳥が群れていました。この水鳥、鴨なのかな?梅林に到着、ここは梅の木が100本程度の小さな梅林なのですリュウちゃんがこの梅林の存在を知ったのは、昨年秋、コキアを観に行った時だったのです。しょっちゅう馬見丘陵公園に行っていながら梅林の存在にはこれまで気が付かなかった。何という迂闊!さて、梅林です。この日は全体の2割くらいの木で開花が始まっていました。この分では、2月中旬頃が「見頃」になりそうだ。梅林を通り抜け、「ナガレ山古墳」に向かいます。「ナガレ山古墳」から「南エリア」に向かう道の脇が第一の蝋梅の見所です。おお、ここの蝋梅、正に「見頃」だ!蝋梅と白梅のコラボ、ちょっとゴージャス!中央エリアから陸橋を渡り、「南エリア」に入ります。「南エリア」は最近、開発去れてきたエリアで、馬見古墳群最大の古墳である「巣山古墳」(全長204mの前方後円墳)の周辺には、「寒緋桜」が約10本、「河津桜」が約50本、「蝋梅」が約20本くらい植えられています。高さ3m~5mの大きなソシンロウバイが約20本、ここは奈良随一の蝋梅の名所だ!本日は残念ながら、「寒緋桜は蕾固し」、「河津桜は蕾膨らむ」の状態でした。「寒緋桜」、「河津桜」が見頃になるのは、3月上旬くらいなのかな?その頃にまた「馬見丘陵公園」に行ってみよう。2時30分頃に帰路につきました。途中、中央エリアにある「ナガレ山古墳」に立ち寄りました。「ナガレ山古墳」は全長105mの前方後円墳で、馬見丘陵公園の古墳の中で唯一、きちんと整備された古墳です。以下にネットからお借りした空中写真を貼り付けます。(空から見たナガレ山古墳)ちょっと写真がボケでしまいましたが、高さ約10mの後円部から奈良の山並みが一望出来る、中々の絶景なのだ。午後3時過ぎ、北エリアに帰還、花の少ないこの季節、北エリアの一角に、有志の方が造成したと思われる「寄せ植え」が幾つかありました。葉ボタン、パンジーを主とした寄せ植え公園の冬の風物詩なのだ!約2時間の公園ウォーキング、女房殿のスマホの万歩計は、約9000歩になっていました。もうちょっとで1万歩、馬見丘陵公園往復ウォーキング、理想的な散歩なのだ!
2021年02月06日
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奈良の秘境、十津川村、その又秘境の玉置神社の巨樹の神代杉、3000年の星霜を経てそそり立つ。1月14日から15日にかけて、リュウちゃん夫妻は「十津川温泉」に一泊旅行に行って来ました。 この一泊旅行は、「Gotoキャンペーン」の奈良県版である「いまならキャンペーン」を利用して、極めて格安で行けたのです。本来であれば、宿泊費、交通費で6万2千円、これが「いまならキャンペーン」では1万6千円!新型コロナ禍の中ではあるが、こりゃ、行くしかない!<十津川村について>「十津川村」は奈良県の最南端にある自治体です。村の総面積は672平方キロメートル、日本で一番面積の広い「村」で、東京23区(622平方キロメートル)や琵琶湖(669平方キロメートル)より広いのです。一番面積の狭い香川県の約1/3の面積です(因みに、日本で一番面積の広い自治体は岐阜県の高山市で、2178平方キロメートル、十津川村の約3倍の面積があります。この面積は香川県、東京都、大阪府よりも広いのです!)十津川村は峻厳な紀伊山地の山中にあるため、鉄道もなく、交通の便がすこぶる悪く、正に「奈良の秘境」なのです。国道168号線が開通するまでは、正に「陸の孤島」だったのです。国道168号線が開通した現在でも、奈良市から十津川温泉までは車で約4時間くらい掛ります。その意味では、現在でも依然として「陸の孤島」なのです。奈良県北部から十津川村へ行く為の唯一の公共交通は、「八木新宮特急バス」です。この路線バスは、奈良県橿原市の近鉄「八木駅」から、国道168号線を経由し、和歌山県の新宮市のIR「新宮駅」に至る全長167キロに及ぶ路線バスです。「八木駅」から「新宮駅」までの所要時間は「6時間半」、停留所の数は167、一般路線バスとしては、走行距離・所要時間・停留所数ともに「日本一の路線バス」なのです。(「八木新宮特急バス路線図」、左上の「近鉄八木駅」から右下の「JR新宮駅」まで、167の停留所があります)「特急バス」と云っても、全ての停留所に停まる。実質は各駅停車バスなのだ!(「八木新宮特急バス」、ごく普通の路線バスなのです)以下は「十津川村の観光マップ」です。 上掲の図で、南北に走っている黄色い太線が「八木新宮特急バス」の通っている「国道168号線」です(リュウちゃん夫妻の今回の目的地は、図の中央やや左下にある「十津川温泉」です)図の上方に「谷瀬の吊り橋」があります。「谷瀬の吊り橋」は全長297m、川面からの高さ54m、生活用の吊り橋としては長さ・高さ共に「日本一の吊り橋」で、十津川村随一の観光名所なのです。(谷瀬の吊り橋)図の下方やや右側に「玉置(たまき)神社」があります。ここは、秘境・十津川村の中でも、また一段と秘境の地にある「秘境中の秘境の神社」なのです。リュウちゃんの十津川旅行の一番の目的は、「玉置神社」に行くことなのだ!<十津川温について>「十津川温泉」は、「十津川村」にある3つの「温泉郷」の総称です。 <十津川温泉郷HP>←ここをクリック「十津川温泉」は、2004年、全ての温泉で、全国で初めて「源泉100%かけ流し宣言」をしました。「源泉100%かけ流し」とは、上記HPによれば、<お湯の循環、再利用を一切せず、沸かさず、塩素消毒をせず、薄めず、「ほんまもんの温泉」>なのだそうです。前置きが長くなってしまいましたが、午前11時38分、八木駅発の「八木新宮特急バス」に乗り、旅行に出発しました。本日の八木駅から乗った客はリュウちゃん夫妻の他には、唯一人だけ、こりゃ、殆ど「貸し切りバス」だ!新型コロナに感染する可能性は、限りなくゼロに近い!???バスは橿原市~大和高田市~葛城市~御所市~五條市を経由して、午後2時頃に十津川村に入ります。十津川村に入ってから、車窓には、ずっと紀伊山地と、その間を縫って流れる十津川の流れが造り出す雄大な景色が見られ、飽きることがありません。車窓から見える雄大な自然の景観、十津川旅行の醍醐味なのだ!午後3時、「谷瀬の吊り橋」近くにある「上野地」停留所に到着、バスはここで20分休憩しますので、休憩時間を使って「谷瀬の吊り橋」に行きました。<谷瀬の吊り橋> さて、「谷瀬の吊り橋」です。リュウちゃん、「谷瀬の吊り橋」には、10数年前に女房殿の運転する車で、2度行ったことがあります。一度目は「高所恐怖症」のリュウちゃんも勇気を出して渡ったのですが、途中で恐怖心が膨らみ、ヘタってしまいました。ようやく橋の向こう側に辿り着いたのですが、引き返すことが出来ず、やむなく川面に下りて、橋の下の川面づたいに、やっと帰還することが出来たのです。 以来、「谷瀬の吊り橋」は2度と渡らないと、固く心に誓ったのです。以下の写真は、「谷瀬の吊り橋」の入り口です。入り口の最初の部分は、一面に木の板が敷き詰められているのですが、先に行くに従い、木板の部分が細くなり、両側の金網状の鉄線から50m下の川面が丸見えになります。木板が細くなっている部分は、両側の手摺に掴まることも出来ず、かくて高所恐怖症のリュウちゃん、渡れるのは、木板が全面に敷きつめられている部分だけなのです。高所恐怖症のリュウちゃんと違い、女房殿はヘッチャラです。僅か20分の休憩時間の間にスイスイと往復600mの吊り橋を渡り切ったのです。 女房殿、あなたは偉い!午後4時過ぎ、宿泊先の「ホテル昴(すばる)」に到着、 ホテル昴は、山の中の一軒だけの宿なのに、専用のバス停がある!以下は「ホテル昴」の外観です。鄙びた山の中の宿だと思っていたのに、中々モダンなホテルなのだ!ホテルのロビーです。ロビーの一角に、人気トラベルミステリー作家・西村京太郎の「十津川警部シリーズ」が数十冊展示されていました。 十津川警部の名前の由来は、ある時、西村京太郎が探偵役の名前を考えていた際、たまたま見ていた日本地図で十津川村の名前が目に留まったところから来ているようです。「十津川警部シリーズ」のおかげで、「十津川」という地名が全国的に有名になり十津川観光に大いに寄与したのでしょうね。西村京太郎は、平成21年に、十津川村観光大使に任命されました。以下は、ホテル昴のHPです。料理、温泉共に、中々のレベルだと感心しました。これから十津川温泉に行こうと思われている方、参考にして下さいね。 <ホテル昴HP>夕方6時、ホテルの中にあるレストランで夕食、プファ~、ビールが旨い!この環境では新型コロナも無縁だ!??<玉置神社へ>翌日の15日は朝6時起床、朝温泉を楽しんだあと、午前7時に朝食を済ませ、午前9時に予約してあったタクシーに乗り、今回の一泊旅行の主な目的地である「玉置神社」に向かいました。玉置神社!約40年前、奈良に引っ越してきて以来リュウちゃんの「憧れの地」だったのだ!<玉置神社について>★「玉置神社」は大峯山系の最南端にある「玉置山(たまきさん)」(標高1076m)の9合目、標高1000mの所にある古い神社です。★創建は、崇神天皇61年(紀元前37年)と云われ。恐らく現存する最も古い神社の一つのようです。★8世紀初頭に「役行者(えんのぎょうじゃ)」が開いたとされる修験道の道である「大峯奥駈道」(奈良の吉野山と若山の熊野三山を結ぶ約80kmの険阻な山道)の第10番の「靡(なびき)」(行場)であり、かっては修験者のための「宿」が設けられていました(現在、「宿」があるのかは不明です)★3万平方メートルある境内には、奈良県指定の天然記念物「杉の巨樹群」があります★ユネスコの世界遺産『紀伊山地の霊場と参詣道』(2004年7月登録)を構成する登録資産「大峯奥駈道」の一部です。★奈良県屈指の「パワースポット」であり、「神に呼ばれし者だけが辿り着ける特別な場所」とも云われている「秘境中の秘境」にある神社なのです。以下は玉置神社の動画です。リュウちゃんの拙いブログよりも玉置神社の魅力が楽しめる筈ですので、是非ご覧くださいね。 <吉野郡十津川村 玉置神社>←ここをクリック標高600mの「ホテル昴」から玉置神社までは、タクシーで約30分、標高1000mの玉置神社の駐車場まで、400mの標高差のある山道を登って行きます。山道の途中で見た雲海の下の十津川村、ここは正に「天空の城」、神の棲む領域なのだ!午前9時30分、玉置神社の駐車場に到着、 駐車場から見た新宮方面の山並みです。こちらも山里は雲海の下に沈んでいる!やはり「天空の城」なのだ!駐車場から玉置神社までは、片道15分の山道を歩いて行きます。山道の横手に、杉の大木が見えて来ました。 あと少しで本殿だ。本殿近くの杉の巨樹です。この巨樹、名前があるのかな?やっと本殿に辿り着きました。健脚の女房殿、スイスイと凍り付いた本殿の石段を登って行きました。 後を追うリュウちゃんは、石段の途中で凍った雪で滑りそうになり、石段に両手をつき、四つん這いになり、やっと石段を登ったのでした(情けなや~!、カッコ悪や~!)本殿の左手奥に、今回の一泊旅行の一番のお目当てである「神代(じんだい)杉」が生えていたのです。 神代杉!樹齢3000年、幹回り8,4m、樹高28m,圧倒的な迫力だ!その迫力は、リュウちゃんの写真では、半分も伝わらない!神代杉のの手前に、樹高2mほどの処から二岐に別れた「夫婦杉」がありました。 「夫婦杉」も迫力満点の巨樹だ!実は玉置神社には、「神代杉」より幹回りの太い「大杉」、「常立(とこたち)杉」、「磐余(いわれ)杉」があるのですが、今回は残念ながら、バスの発車時間の関係で、観ることが出来ませんでした。 今度、玉置神社に来る機会があれば、全ての巨樹を探訪するぞ!
2021年01月21日
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下界の新型コロナ禍もどこ吹く風、新春の若草山山頂に鹿遊ぶ新型コロナ禍で、孫姫4姉妹の来襲がなかった淋しい今年の新春、リュウちゃんは元旦と3日に、「初詣ウォーキング」をして来ました。元旦は近所の「松尾山詣で」、3日は、毎年恒例の「春日大社詣で」、 不信心者のリュウちゃん、新春の「初詣」は、いつも「お参り」が目的ではなく、「ウォーキング」が目的なのです。「松尾山」は初詣で賑わっているかな?奈良公園の鹿は元気なのかな?「春日大社」周辺には、この時期、どんな花が咲いているのかな?春日山原始林の巨樹は今年も癒してくれるのかな?<元旦の松尾寺詣で>元旦の朝、女房殿から「松尾寺に初詣に行かない?」と誘われました。リュウちゃんの住んでいる斑鳩町では、「松尾寺」は「初詣のメッカ」なのです。初詣といえば、普通はお寺ではなく神社、お寺に初詣、ちょっと変わった習慣だ!午前9時、自宅を出発、自宅から徒歩4分の所にある「法隆寺南大門」がスタート地点です。法隆寺南大門、人っ子一人居ない!「法隆寺」を通り抜け、裏手にある「斑鳩神社」が最初の初詣の神社です。 この神社、菅原道真を祀る「天満宮」なのに、梅の木が一本も無い!???斑鳩神社の石段の横にあるイブキの巨樹、幹回り3,6mです。「法隆寺」の裏手の棚田には小さなみかん畑があります。ここからのルートは昨年5月31日に更新しました<新型コロナ禍の中の斑鳩4塔(?)巡り>と同じです。「松尾寺」の詳細につきましては、こちらを参照してくださいね。<新型コロナ禍の中の斑鳩4塔(?)巡り>←ここをクリック 「松尾寺」の麓のゴルフ場には、山茶花がいっぱい咲いています。午前10時過ぎ、「松尾寺」に到着 「本堂」は、「厄除け」祈願する参拝者が絶えませんでした。境内では、絶えず「ゴーン」という鐘の音が響いています。参拝者が順に「鐘楼」の鐘を突いているのです。 「本堂」で祈願する人よりも、鐘を突く人のほうが多い?境内の至る所に「南天」が赤い実を付けていました。 冬の「松尾寺」は、南天の寺なのだ!登って来た山道の反対側の車道から下山します。 下の写真は、車道の途中から見た「若草山」です。この場所だったら、「若草山の山焼き」が鑑賞出来そうだ。(「若草山の山焼き」、今年は1月23日(土)に行われます)車道の脇の民家に咲いていた大きな白い花、この花、何という花なのだろう?お判りの方、またコメントして下さいね。「法輪寺」の前でも、山茶花が満開でした。同じく法輪寺の前の白い実を付けた樹、 これ、「栴檀(せんだん)」なのかな?法隆寺の近くの民家に咲いているバラです。元旦のバラ、風情がある!午前9時に自宅を出発、正午に自宅に戻りました。この日の歩数は約17000歩、元旦の歩数、まずまずなのだ。<3日の春日大社詣で>1月3日は、リュウちゃん単独で、奈良の「初詣」のメッカ、「春日大社」に行って来ました。「初詣」と言いましても、リュウちゃんの場合は「奈良公園一周ウォーキング」が主な目的です。 午前9時過ぎ、自宅を出発、午前10時30分、JR奈良駅到着、JR奈良駅からはずっと徒歩で奈良公園を一周する予定なのです。<興福寺>興福寺中金堂、人影は疎らでした。<奈良国立博物館、片岡梅林、浮見堂> 興福寺から「浮見堂」に向かいます。この辺りから鹿が多数登場してきます。やはり「鹿せんべい」を与える観光客が少ないせいか、「鹿せんべい店」の周りには、「人集(だか)り」ならぬ、「鹿集(だか)り」なのです。片岡梅林の手前にある「ムクロジ」の大木です。木の幹から、竹が生えている!???この「木に竹を接いだムクロジの巨木」、リュウちゃんのブログでは、お馴染みの巨木」なのですが、実際にはムクロジの幹から竹が生えているのではなく、空洞になっている幹の内部の地面から竹が生えているのです。でも、見た目には幹から竹が生えているように見える。奈良公園の中でリュウちゃん屈指のお気に入りスポットなのだ!<片岡梅林、浮見堂> 奈良公園の「片岡梅林」は、約250本の梅の木がある小さな梅林ですが、数本の白梅が開花していました。もう春が始まっている!「片岡梅林」の下にある「浮見堂」は、静かに佇んでいました。<飛火野エリア> 午前11時ジャスト、「飛火野エリア」の大クスノキの下に鹿が集まって来ました。近寄って見ますと、「奈良の鹿愛護会」の方が鹿にどんぐりを与えていました。そうです。奈良の鹿の主食は「鹿せんべい」ではなく、「どんぐり」や草なのです!「飛火野エリア」の名物イベントに「鹿寄せ」があります(年末年始には行われないのですが)「奈良の鹿愛好会」のお兄さんが、大クスノキの下でナチュラル・ホルンを吹きますと、大勢の鹿が集まって来ます。鹿が集合したところで、主食のどんぐりが鹿に与えられるのです。以下に「鹿寄せ」の動画を貼り付けます。ダイナミックな「鹿寄せ」を楽しんで下さいね。 <2019 0209奈良の冬の鹿寄せ>←ここをクリック「飛火野エリア」から「春日大社」の境内に入ります。ここは平成10年にユネスコの世界遺産に指定された「春日山原始林」が始まるところで、至るところに、目を見張るような巨樹が点在しています。<「万葉植物園」の「臥竜(がりゅう)のイチイガシ」>本日は「万葉植物園」は休園でしたので、以前UPした写真を貼り付けます。(臥竜(がりゅう)のイチイガシ)「万葉植物園」から、春日大社の参道をそれてに「鹿苑」に向かいます。「鹿苑」の奥手に、イチイガシの巨樹があります。ここ巨樹の根元近くには、以下の立て札が立てられています。「春日山原始林」には、幹周3mを超えるイチイガシの巨樹が33本もあるのだ!幹周6mほどの杉の大木です。鹿との対比で、その太さが実感出来ますね。巨樹の根元に憩う鹿、柔和な目ですね。前方に、リュウちゃんお気に入りの巨樹が見えて来ました。殆ど枯れてしまっている「杉の大木」(多分?)、幹周は8mほどはありそうです。 この大木、「春日山原始林」でも屈指の巨樹なのに、殆どスポットライトを浴びることがない、残念!<春日若宮神社の巨大クスノキ> リュウちゃんが奈良公園を一周する時には、必ず立ち寄り写真を撮る巨木です。推定樹齢1700年、幹周11,2m、奈良市で一番の巨樹であり老樹なのです。伝説では、神功皇后が三韓遠征の際、記念として植樹したと云われています。でも、前の石灯篭が邪魔をして、いつも全貌を捉えることが出来ない(トホホ!)「春日大社」に入ります。昨年の新春は、大勢の参拝者が押し寄せて入場規制をしていましたが、今年は参拝者も疎ら、すぐに入場することが出来ました。 <春日大社の巨樹> 上掲の巨樹で、3枚目の巨樹は、樹齢800年、幹周8mの「大杉」、「春日大社の神木」です。この神木、何時観ても凄い偉容なのだ!境内にある小さな「一言主神社」、ここは春日大社の摂社としては屈指の人気スポットなのだ!<水谷神社のイブキの巨樹>この巨樹のリュウちゃんのブログには何回も登場しますが、観る度にその威容に圧倒されるのです(幹周6,5n、樹齢不詳)そろそろお昼時、「一言主神社」の隣にある「大食堂」で、天婦羅うどんと瓶ビール(中瓶)2本を注文、プファ~、ビールが旨い!原始林の巨樹に癒された!リュウちゃんの「奈良公園一周ウォーキング」はここからが本番です。瓶ビール2本を飲んだ勢いで、「若草山」に登ります。「若草山」山頂へは、若草山の麓から続いている「春日山遊歩道」を登って行きます。「春日山遊歩道」は「春日山原始林」の中を貫く約2,5キロのハイキングコースで、周囲は鬱蒼たる原始林、奈良の市街地のすぐ近くで、太古の原始林の森林浴が楽しめる、凄い遊歩道なのだ!遊歩道入り口から45分で、若草山山頂に到着、 鹿群れる新春の若草山山頂、ここは天国だ!以下の写真は、若草山山頂で撮った「春日山原始林」です。 正に「太古の森」なのだ!午後3時、下山開始、往路は山頂まで45分掛りましたが帰路は下り坂なので約30分で若草山の麓に辿り着きました。午後3時30分、若草山山麓に到着、ここにも鹿が群れていましたが、鹿せんべいを与えてくれる観光客は殆ど居ない様子でした。鹿も新春から食糧難、新型コロナは鹿まで影響を及ぼしているようだ?若草山から「手向山(たむけやま)八幡宮」へ向かいます。 ここの境内にも幹周5mほどの巨樹が数本あるのです。此の度は 幣(ぬさ)も取り敢へず 手向山 紅葉の錦 神の随(まにま)に(菅原道真、小倉百人一首24番)東大寺二月堂の舞台から見た大仏殿の屋根です。背後の山並みは、多分、金剛山地です。二月堂から坂を下り、大仏殿に到着、 下の写真は「鏡池」に映る東大寺大仏殿です。東大寺南大門、法隆寺と違って、相当な人出がありました。鹿も大勢集まっていました。リュウちゃん、明けましておめでとう!今年も奈良公園に来て下さいね(奈良の鹿代表より)午後4時過ぎ、JR奈良駅到着、午後5時頃、無事に自宅に着きました。 この日の万歩計の歩数は35000歩弱、元旦の3日の2日間で、計52000歩を歩いたのです。もうすぐ後期高齢者のリュウちゃん、まだまだ「健脚」なのだ!
2021年01月13日
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新型コロナ禍に震え上がる日本列島、でも、冬の牡丹は例年と変わらず、大輪の花を開花させた!(石光寺の寒牡丹)(当麻寺の冬牡丹)明けましておめでとうございます!昨年末、3年ぶりに奈良県・葛城(かつらぎ)市にある2つの古刹、「石光寺(せっこうじ)」と「当麻寺(當麻寺、たいまでら)」に行ってきました。訪問の目的は、「石光寺の寒牡丹」、「当麻寺の冬牡丹」を観ること、牡丹の見頃は通常は5月なのですが、「寒牡丹の見頃」は12月下旬から1月上旬、「冬牡丹の見頃」は12月から1月なのです。花の少ない真冬に大輪の牡丹が観られる、これは貴重だ!例によりまして女房との特製のおにぎり弁当とリュウちゃん特製(?)の缶ビール(2缶)をリュックに詰め、午前9時に自宅を出発、ローカル線を乗り継いで、午前11時過ぎ、近鉄南大阪線・当麻寺駅に到着。当麻寺駅から徒歩15分で当麻寺に至ります。当麻寺から更に徒歩15分で石光寺に着きます。いつものように、先ず石光寺に行き、次に当麻寺に行くことにしました。下の写真は、当麻寺の近くの民家に咲く蝋梅です。もう蝋梅の季節なのだ!ここの蝋梅、近隣では一番の早咲きだ!桜や梅は、先に花が咲き、花が散った後に葉が出るのですが、蝋梅は葉が散った後に花が咲くのですね。迂闊なことに、この事をリュウちゃんが知ったのは、つい最近のことなのです。 いや、それとも、蝋梅の葉が散るのは、桜や梅と違い、「葉持ち」が良く、花の咲く寸前になるので、見た目には「葉が先」に見えるだけなのかも分かりませんね。やはり蝋梅も花が先、葉が後なのかな?同じ民家の庭に咲いていた「チロリアンランプ」です。真冬に咲くチロリアンランプ、初めて観た!石光寺の途上、左前方に「二上山(にじじょうざん)」が見えて来ました。二上山は、上掲写真右側の「雄岳」(標高517m)と左側の「雌岳」(標高474m)の2つのラクダのコブのような峰から成る「双耳峰」で、「葛城山」、「金剛山」と連なる「金剛山地」の北の端にある山です。二上山の向こう側は聖徳太子の墓所がある大阪府太子町で、「金剛山地」は奈良県と大阪府の県境にあるのです。 二上山の北側には、信貴山から生駒山に至る「生駒山地」があり、生駒山地も奈良県と大阪府の県境になっているのです。リュウちゃんは現在の斑鳩町に移って来る前、約15年間、二上山の麓にある香芝(かしば)市で暮らしていました。二上山、懐かしい山なのだ!午前11時半、石光寺に到着、石光寺の境内です。境内の背後の山は二上山です。上掲の写真で、左手前に写っている枯れたような茎は多分、芍薬か通常の牡丹、写真左中央と右中央手前に写っている藁で囲われた霜除け(わらぼっち)の下に寒牡丹が咲いています。以下、この日撮影した「寒牡丹」の写真を貼り付けます。石光寺は「寒牡丹」、当麻寺は「冬牡丹」、 「寒牡丹」と「冬牡丹」、どんな違いがあるのだろう?この「違い」、以前のブログでも書いたことがありますが、改めてここに書いてみます。<冬牡丹>春咲き品種の牡丹(春牡丹)そのもので、温室などを利用して牡丹に「春が来た」と思わせて冬に花を咲かせています。冬牡丹の「葉」は、春に咲く牡丹同様、青々と茂っています。茎や枝も青々としていて、勢いがあります。<寒牡丹>春だけでなく初冬にも花を咲かせる「二季咲き」という遺伝的性質を持ち合わせている品種で、牡丹自身が冬とわかっていながら咲いています。「葉」は殆ど無く、茎や枝も冬枯れ状態のままで、花だけが咲いているという牡丹なのです。「冬牡丹」に比べ、見た目には地味なのですが、育成は格段に難しいのだそうです。この時期、石光寺には「寒牡丹」の他にも様々な花を見ることが出来ます。以下、この日撮影出来た花を紹介します。<寒咲きアヤメ>この時期、「寒牡丹」と並ぶ石光寺の「名花」なのです。 <山茶花>境内の至る所に咲いています。<蝋梅> 境内には数本の大きな蝋梅がありますが、まだ葉が落ちず、「蕾固し」でした(残念!)<ミツマタ><マンリョウ>これは「花」ではなく、「実」ですね。この花、何という花なのだろう?この花の名前をご存じの方、コメントして下さいね。約1時間ほど石光寺の寒牡丹を鑑賞して、当麻寺に戻ったのが午後1時、早速、お目当ての「浄土庭園」に入場しました。「浄土庭園」の入場口には、巨大な柑橘類が鎮座していました。リュウちゃん「これ、何ですか?」入場口のお姉さん「鬼柚子です。通常の柚子の10倍の大きさがあり、縁起物なのです」リュウちゃん「へ~!」下の写真は「浄土庭園」の奥の部分です。背後の山は「二上山の雌岳」なのです。もう1時過ぎだ、お腹が空いた!で、庭園の[冬牡丹]を鑑賞する前に、石のベンチで昼食、プファ~,ビールが旨い!ホロ酔いの「浄土庭園」頭の中も極楽浄土なのだ!さて、当麻寺浄土庭園の冬牡丹です。 やはり石光寺の寒牡丹より華麗だ!園内では数本の「寒桜」が満開でした。枝垂れ桜の老木の下の水仙は、まだ開花を待っている状態でした。午後3時、当麻寺を後にして、帰路につきました。 下の写真は、当麻寺の参道の土産物店の軒先に咲いていたバラです。年末なのに、まだバラが咲き残っていた!皆様、本年も宜しくお願い致します!
2021年01月03日
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初雪のような一面のススキの銀世界曽爾高原の秋深し11月26日、ほぼ10年ぶりに「曽爾(そに)高原」に行って来ました。 曽爾高原は奈良県の東端にある「曽爾村」の、そのまた東端にある面積約38ヘクタールの高原です。標高1038mの「倶留尊山(くろそやま)」と、標高849mの「亀山」の西斜面の麓に広がる高原で、楽天トラベルの「黄金色の絶景!日本国内の美しいススキの名所16選」にも選ばれた日本屈指の「ススキの名所」なのです。<「黄金色の絶景!日本国内の美しいススキの名所16選」:楽天トラベル>→ここをクリック 以下の図は、「曽爾高原散策マップ」です。(曽爾高原散策マップ)上掲の図で、右上の「亀山」(標高849m)と、中央上の「二本ボソ」(標高996m)の下に拡がる黄色い三角形の部分が、「ススキの曽爾高原」なのです。図の中央にある「曽爾高原入り口」の標高は720mですから、一番高い「二本ボソ」と「曽爾高原入り口」の標高差は、206mとなります。もう少し「曽爾高原」のイメージを具体的にするため、以下に「曽爾高原案内図」の看板を貼り付けます。(曽爾高原案内図)上掲の図で分かるように、「曽爾高原」は図の右上の「亀山」と、図の左上の「至・二本ボゾ・倶留尊山」を頂点とし、「青少年自然の家」の近くの「現在地」を底辺とするすり鉢状の逆三角形の地形をしています。すり鉢の底にある「お亀池」は、実際は殆ど水のない「湿原」なのです。どうやって曽爾高原に行こうか?約10年前に曽爾高原に行った時は、女房殿の運転する車の助手席に乗って行ったのですが、今回はリュウちゃんの単独行、仕方がない、近鉄「名張駅」からバスに乗って行こう。ということで、例によりまして女房とのお手製のおにぎり弁当とリュウちゃんお手製(?)の缶ビール(2缶)をリュックに詰め、午前7時30分、自宅を出発、午前9時過ぎ、近鉄「名張駅」に到着。「曽爾高原」のある曽爾村は、奈良県北部の秘境なので、公共交通はバスしかないのですが、近鉄「名張駅」から曽爾高原行きのバスは午前9時35分発の一便のみ(10時22分「曽爾高原」着、所用時間47分)、反対に「曽爾高原」から名張駅行きのバスは、15時27分発の一便のみ(16時10分「名張駅」着、所用時間43分)、名張駅発曽爾高原行きのバスは三重交通、奈良県にある曽爾高原には、奈良交通のバスは運航していないのだ!予定通り、三重交通の臨時バスを使って、9時35分、名張駅を出発、道の両サイドの壮大な岸壁がそそり立つ名勝地「香落渓(こおちだに)」を経由して、10時22分、無事、「曽爾高原」に着きました。アチャ~、バス停は「曽爾高原」のかなり下にある、バス停から「曽爾高原」までの登り坂が大変だ!杉林の山道を15分位上り、やっと10時40分、「曽爾高原」に辿り着きました。 下から見上げる曽爾高原、やはり絶景だ!<この写真の「峰」は「亀山」(標高849m)です。手前の湿地帯は「お亀池」なのです>以下の写真の「峰」は、「二本ボゾ」の入り口です。「二本ボゾ」という変な地名の由来は、昔、ここに巨大な2本のホゾ(コナラ)の木が生えていて、この木が山の目印になっていたところから来ているようです。以下に「すり鉢の底」から撮った「二本ボゾ」方面の写真を何枚かアップします。下から見上げた「二本ボゾの嶺」、曽爾高原を代表する景観なのだ!麓の休憩所に、小学生の遠足の団体が来ていました。下の写真の山道を辿り、「亀山峠」に登って行きます。 山道からの眺め、正に絶景だ!山の稜線が美しい!「亀山峠」から見た曽爾村の山並みです。 ここは日本のザルツブルグだ!?暫し亀山峠から眼下に拡がる雄大な風景を楽しみ、11時30分にすり鉢の底の休憩所まで下山、ここで少し早い昼食、プファ~、ビールが旨い!陽に映えるススキが目に眩しい!正午に昼食を終え、「曽爾高原」を後にしました。 リュウちゃんのハイキング、ここから本番なのだ!本日のリュウちゃんの事前の計画は、<往路はバスで、「香落渓(こおちだに)」を経由して曽爾高原まで行き、帰路はバスに乗って来た道を歩いて「香落渓」を散策する>ということだったのです。曽爾高原から名張駅までは約20キロの道のり、全て徒歩で踏破するのはちょっと無理だが、行けるところまで行ってみよう!<曽爾村について>ここで曽爾村について少し紹介します。以下は「曽爾高原」のある「曽爾村全域マップ」です。★上掲のマップで、「曽爾高原」は中央右側」にあります。マップ最上部に「小太郎岩」がありますが、この下を走っている舗装された道路(三重県道・奈良県道81号名張曽爾線)が、往路バスで来た道で、これからリュウちゃんが歩く予定の道なのです。★名勝地「香落渓」は、「小太郎岩」からマップの上の三重県名張市に続く約8キロに渡る雄大な渓谷です。渓谷を造っている川は「青蓮寺川(しょうれんじがわ)」です。青蓮寺川は曽爾村の南にある御杖(みつえ)村(奈良県宇陀郡)の「請取(うけとり)峠に源流を発し、曽爾村~香落渓を経由して、三重県名張市にある「青蓮寺湖」に注ぐ約30キロの渓流です。★曽爾村は全体が、約1500万年前の火山活動により形成された「室生火山群」(室生山地)に含まれていて、村内には至る所に柱状節理により形成された奇岩・絶壁があります。以下に代表的な奇岩「鎧岳(よろいだけ、標高894m)」の写真をネットからお借りして貼り付けます。曽爾村のシンボルタワー「鎧岳」まるで、先端の円いマッターホルンだ! ★上掲図で、左側を上下に走る「県道赤目掛線」(赤目林道)の上部には「赤目四十八滝」の最上部「出会茶屋」があります。今回のハイキング計画は当初、「赤目四十八滝」を経由して赤目林道を通り、曽爾高原に行こうと思ったのですが、このルートは距離が25キロ近くもあることを知り、早々に計画を断念したのです。★上掲図左下の国道369号線は、「女人高野」として有名な「室生寺」方面に続いています。「赤目四十八滝」、「室生寺」、それと「月ヶ瀬梅渓」も。皆「室生火山群」に含まれているのです。正午を少し過ぎた時間に「曽爾高原」を出発、舗装された道をどんどん下って行きました。道脇の赤い実のなる木、この木、何の木?道脇には、美しい杉林が続きます。下り坂の前方上方に巨大な岩山が見えて来ました。前方の2つの岩山、曽爾村のシンボルタワー鎧岳(右)と兜岳だ!実はリュウちゃん、ハイキングをした時には、この右側の岩山は「鎧岳」とは別の山だと思っていました。リュウちゃんの頭の中の「鎧岳」は、上述の<曽爾村について>で貼り付けた「先端の円いマッターホルン」だったのですが、下り坂の途上から見上げた鎧岳は見る角度が違っていたため、別の岩山だと錯覚してしまったのです。 この角度からだととてもマッターホルンには見えない。しかし、その雄大さには目を奪われる!下り坂の道沿いの紅葉です。「曽爾高原から約1時間掛けて、青蓮寺川の流れに出逢いました。ここからは平坦な下り道です。天王神社の紅葉です。やっと美しいカエデ紅葉に出逢った!午後1時過ぎ、以下の写真の標識に出逢いました。「香落渓」の入り口の「小太郎岩」まで2,9キロ、午後2時には「小太郎岩」に着けそうだ。県道脇の紅葉です。午後2時、前方に「小太郎岩(標高703m)」が見えてきました。 青蓮寺川から約200mせりあがった巨大な岩山、やはり圧倒される!以下の図は「香落渓の散策マップ」です上掲のマップで、右側の「小太郎岩」から、中央よりちょっと左側の「トンネル」に至るやく8キロの県道沿いが「香落渓」なのです。 「香落渓」の急峻な柱状節理の岸壁の山です。県道81号線に沿って流れる「青蓮寺川」の川岸には、紅葉が点在していました。午後3時、「紅葉谷」に到着、 ありゃ、「紅葉谷」には紅葉が少ない!ちょっと、「名前負け」なのだ。とはいいましても、多少の紅葉は見ることが出来たのです。「紅葉谷」の休憩所で、3人組のバイク・ツーリングの男性に出逢いました。その中の一人が、リュウちゃんに声を掛けて来ました。 男性「歩いて来られたのですか?」リュウちゃん「そうです」男性「どちらから?」リュウちゃん「曽爾高原からです」男性「それはお疲れ様でした。で、これからどうされる予定ですか?」リュウちゃん、「このまま名張駅まで歩いて帰ろうと思ったのですが、そうすると青蓮寺湖あたりで日が暮れてしまうので、ここ(紅葉谷)からバスで帰ります」男性「それはお疲れ様です。気を付けてお帰り下さい」僅か数語の短い会話だったのですが、ちょっと心が洗われる気持ちがしたリュウちゃんなのでした。旅先で見知らぬ人と交わす会話は楽しい!当初の予定通り、15時49分発のバスに乗り、16時10分、無事に近鉄「名張駅」に着くことが出来ました。結局、今回は「香落渓」の「紅葉谷」からトンネル(香落渓トンネル)の間の約5キロの区間は歩いて踏破出来ませんでした。 実はリュウちゃん、今回未踏破の青蓮寺湖から紅葉谷までは、5年前に歩いたことがあります。その時の模様は、2015年11月29日に更新した以下のブログでご覧くださいね。 <2015年の紅葉狩り(2)~香落渓(こおちだに)徒歩散策>5年前の散策と今回の散策で、「香落渓」のミッシングリングが繋がった!
2020年12月12日
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信貴山朝護孫子寺のイチョウと紅葉正に今、見頃なのだ!11月21日、以前から一度歩いてみたいと思っていた「生駒縦走歩道」をハイキングして来ました。「生駒縦走歩道」は、昭和39年に完成した有料道路「信貴生駒スカイライン」の「信貴山線」(全長:14,1km)の付近を縫うように貫いている細い山道(遊歩道)です。 今回のハイキングの主な目的は、「紅葉」です。生駒山宝山寺には紅葉があるのかな?縦走歩道の沿道には紅葉があるのかな?信貴山朝護孫子寺の紅葉は「見頃」なのかな?以下の図は、「信貴生駒スカイライン」の「全図」です。(「信貴生駒スカイライン」の観光地図)上掲の「地図」で、上部にある「生駒山上料金所」から、下部にある「信貴山料金所」まで、スカイラインに沿って設けられている細い遊歩道「生駒縦走歩道」を踏破しようという計画です。平坦なスカイラインの距離が14,1キロ、曲がりくねった「生駒縦走歩道」は実測で何キロあるのだろう?恐らく、「生駒縦走歩道」は実測すれば、20キロ近くありそうです。20キロの山道は古希を過ぎた高齢者の足にはちょっとキツい!これがリュウちゃんがこれまでこの道のハイキングを躊躇していた主な理由ですが、来年にはリュウちゃんも75歳の「後期高齢者」になります。ハイキングに行くなら、今の内だ!と思って、11月21日に決行に踏み切ったのです。例によりまして、女房殿特製の「おにぎり弁当」と、リュウちゃん特製(?)の缶ビール(2缶)をリュックに詰め、午前8時過ぎに自宅を出発、午前9時、近鉄「生駒駅」に到着、近鉄「生駒駅」からハイキングの「起点」である生駒山山頂(標高642m)までは「生駒ケーブル」で登ることにしました。<宝山寺> 午前9時30分、「宝山寺駅」到着、「宝山寺駅」から、「昇天さん」という別称で親しまれている「宝山寺」までは、まるで「伊香保温泉」のような長~~い石段を上って行くのです。やっと、「宝山寺」の参道に辿りつきました。ここは、リュウちゃんの大好きな映画「男はつらいよ・浪花の恋の寅次郎」(マドンナ:松阪慶子)ロケちになったところだ!(「男はつらいよ・浪花の恋の寅次郎」の宝山寺参道のシーン)You-Tubeに<男はつらいよ「浪花の恋の寅次郎」ロケ地巡り 宝山寺編>というのがありましたので、以下に貼り付けます。 <男はつらいよ『浪花の恋の寅次郎』ロケ地巡り 宝山寺編>→ここをクリックこの日の参道には、寅さんや松坂慶子さんの代わりに、一匹の黒猫が石灯篭の下に佇んでいました。この黒猫、寅さんの生まれ代わりなのかな?「宝山寺」には、紅葉が殆ど無い(残念!)再び生駒ケイブルの「宝山寺駅」に戻り、生駒山頂に着いたのが午前11時、 宝山寺立ち寄りで、思わず時間を使ってしまった。先を急がなきゃ!<生駒山上~パノラマ駐車場へ>生駒ケーブル生駒山上駅は「生駒山上遊園地」の入場口のすぐ傍にあります。本日は、遊園地は休業していましたので、ここまで登ってきた人は数人、これじゃ、マスク着用しなくても、新型コロナには感染しない!?遊園地の間の広い道を歩いて、「生駒縦走歩道」に向かいます。ここにも、若干の紅葉があった!道沿いには、山の麓からも見える「電波塔」が設けられています。これ等の電波塔は、「生駒山テレビ・FM送信所」で、大阪と奈良の放送電波を中継する「中継局」なのです。信貴山のほうから、生駒山を目指すハイカーにとりましては、この「電波塔」が、ゴール地点の目標となっているのです。「電波塔」を通り過ぎると、すぐに細い山道に入ります。 ここが「生駒縦走歩道」の入り口なのかな?でも、この山道、かなりしんどい!<パノラマ駐車場>細い山道を下ること約30分で、スカイラインに合流する「パノラマ駐車場」に到着、スカイラインの脇の紅葉、中々素晴らしい。「パノラマ駐車場」は、生駒山系きっての「展望台」で、四方がパノラマのように見渡すことが出来ます。 ★(北西方向の眺め):眼下の高層ビル群は大阪駅周辺、背景の山並みは「六甲山系」です。★(南方向の眺め):多分、金剛山(標高1126m、大阪府の最高峰)です。★(東方向の眺め):こちらは奈良県側です。一番奥の霞んで見える山並みは「笠置山地」、この山並みの麓には、リュウちゃん行きつけの大和の古道「山の辺の道」が南北に走っています。手前の濃い山並みは「矢田丘陵」です。笠置山地と矢田丘陵の間にある盆地は「奈良盆地」(大和盆地、大和平野とも呼ばれます)、 奈良盆地には、奈良市・天理市:桜井市などがあり、奈良県の歴史と文化の中心地です。「矢田丘陵」の麓にうっすらと見える集落は平群(へぐり)町、古代の豪族・平群氏の本拠地だった歴史の町です。この景色、正に「大和は国のまほろば」だ!<暗峠(くらがりとうげ)> 正午頃、暗峠に到着、暗峠にはちいさな集落があり、<峠の茶屋「すえひろ」>という茶店もあります(本日は休業していました。閉店したのかな?)。集落の中心を通る道路は「国道308号線」で、大阪市と奈良市を最短で結ぶ一般国道なのですが、何しろ道幅が車のすれ違いが困難なほど狭く、また大阪側はもの凄く急勾配になっているため、「日本一の酷道」と呼ばれています。峠の頂上には約50mに渡り「石畳」が続いていますが、この石畳は江戸時代、ここに郡山藩の本陣が置かれ、参勤交代の道でもあったため、殿様の乗った籠の滑り止め防止のために敷設されたのだそうです。「日本百名峠」の一つでもあります。 上の写真に右側には「県境標識」が立てられていまして、石畳の向こう側は大阪府東大阪市、標識の手前は奈良県生駒市になります。標識の左側の民家。住所は東大阪市なのか?それとも生駒市なのか???<鳴川峠へ>正午過ぎ、「府民の森なるかわ園地」の一部である休憩所に到着、おお、ここの紅葉は見事だ!で、紅葉の下にあるベンチで昼食、 プファ~、ビールが旨い!生駒の見事な紅葉、独り占めだ!午後1時、休憩所を出発、 ここで初めて「生駒縦走歩道」の標識を見た!<鳴川峠> ここの紅葉、色づきは浅いが、中々見応えがある。鳴川峠の上部には、「信貴生駒スカイライン」が走っています。 うわぁ!ここは「紅葉のトンネル」だ!<ここまでのリュウちゃんのとりあえずの結論> 生駒山系の紅葉は、「生駒縦走歩道」の沿道よりも、「信貴生駒スカイライン」の沿道のほうが断然いい!<十三峠へ>鳴川峠から十三峠へ向かいます。山道の両側には、山茶花がいっぱい咲き始めていました。山道の脇にも、素敵な紅葉があった! 午後2時、「鐘の鳴る展望台」に到着、展望台からの眺めは「絶景」なのですが、今回は時間の関係で登ることはパスして先を急ぎました。 暫くスカイラインに沿って、縦走歩道は続きます。スカイライン沿いのウルシ紅葉、素晴らしい!信貴山に近い「高安山駅」まで3,3キロという標識に出逢いました。 あと1時間と少しでゴールの信貴山に到着できそうだ。先を急ごう!細い山道から、また舗装された道路に出ました。この道路、スカイラインとは別の道路だ?道路脇の紅葉、これも素敵だ!しかし、この道路から縦走歩道に入る標識が見当たりません。やむなくその道路を下って行きましたが、どうやら迷ってしまったようで、この道は山の下の平群町に続いている農道のようでした。 どうやら信貴山行きは失敗したようだ。しょうがない、このまま平群町に下りよう。暫く舗装された農道を下って行きますと、眼前に広大な「菊畑」が見えてきました。平群町は日本一の「小菊の産地」なのだ! 結局、「菊畑」から近鉄「平群駅」までは、徒歩で1時間30分も掛ってしまったのです。生駒山から信貴山へのハイキングは失敗した。しかし、今年の信貴山の紅葉はぜひ観たい。よし!22日に信貴山に行こう!ということで、少々曇天ではありましたが、信貴山に出掛けてみました。いつもなら、斑鳩町から歩いて信貴山に登るのですが、今回は初めて大阪府側から行ってみました。交通手段は大阪府八尾市にある「西信貴ケーブル」に乗ってケーブルの終着駅である「高安山駅」まで行き、そこから歩いて信貴山へ行く、という計画です。高安山駅から信貴山まで歩くことにより、昨日歩き残したミッシングリングは多少埋められる。下の写真は「西信貴ケーブル」の麓の駅「信貴山口駅」です。ケーブルカーの車窓の下には、八尾市の街並みが見えています。 車中では「信貴山にお越しの方は、高安山駅からバスに乗って下さい」というアナウンスが流れていました。 「信貴山口駅」から約7分で、「高安山駅」に着きます。アチャ~、「高安山駅」の周りには、バス停があるだけで、他に何も無い!当初は「高安山駅」から歩いて信貴山に行く予定だったのですが、バスが通行する道路は「歩行者禁止」のスカイライン、一見したところ、「生駒縦走歩道」の標識も見当たらない。 しょうがない、十三峠から信貴山までのミッシングリングは埋まらないが、バスで行こう。本日は早めに昼食を済ませ、午前11時頃、家を出ましたので、信貴山へは午後1時30分頃に着きました。おお!信貴山の紅葉は正に今が「見頃」だ!日本で2本しか確認されていない珍しいイチョウ「仏手白果」(樹齢約500年)も散り残っていた!信貴山名物「世界一の福寅」です。北側の生駒山には「寅さん」が訪問しましたが、こちらは常駐しているのです。信貴山の茶店の脇にトラ猫が熊の彫り物と並んで座っていました。このトラ猫ちゃん、「世界一の福寅」より貫禄がある!信貴山からリュウちゃんの自宅までは約5キロ、ゆっくり歩き、1時間30分掛けて帰宅しました。 帰り道の紅葉も素敵だったですよ!
2020年12月02日
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法起寺のコスモス、法隆寺の紅葉今、「見頃」!?11月17日、リュウちゃんの住んでいる斑鳩町縦断ウォーキングを試みました。目的は、紅葉とコスモス、斑鳩町の紅葉とコスモス今、「見頃」なのだろうか?以下に、斑鳩町の「散策MAP」を貼り付けます。(斑鳩町散策MAP)斑鳩町は「法隆寺」を中心とする古い門前町です。リュウちゃんは上図の中心にある「法隆寺」のすぐ下の所に住んでいます。斑鳩町の一番西側には、春の桜、秋の紅葉の名所として知られている三室山と竜田川のある「県立竜田公園」があります(上図で左下)そして一番東側には、聖徳太子建立七大寺の一つとされる「法起寺(ほっきじ)」があります(上図で右上)、法起寺には、日本最古で、かつ日本最大の三重塔(706年建立、高さ24m、国宝)があります。斑鳩町の中央部分に住んでいるリュウちゃん、以下の順路で「斑鳩町縦断ウォーキング」をしました。自宅(法隆寺の下)~竜田公園~藤の木古墳~法隆寺~斑鳩神社~法輪寺~法起寺~中宮寺跡~法隆寺~自宅、結局、2回縦断したことになる!早めに昼食を済ませて、午前11時30分、自宅を出発、正午に今回の散策の出発点となる三室山の麓に着きました。<三室山(みむろやま)>三室山は、斑鳩町の西の端にある標高82mの小さな山です。現在では「県立竜田公園」の一部に含まれていまして、奈良県が管理をしています。三室山の麓に、以下のような「歌碑」が立っています。嵐吹く三室の山のもみぢ葉は竜田の川の錦なりけり~能因法師千早ふる神代も聞かず竜田川からくれなゐに水くくるとは~在原業平 <閑話:落語「千早振る」の解釈>昔、人気大関だった「竜田川」が吉原に遊びに行った。その際、「千早」という花魁に一目惚れしたが、「千早」は相撲取りが大嫌いだったので、竜田川は千早に振られてしまった。竜田川は次に千早の妹分の花魁「神代」に言い寄るが、彼女も、「姐さんが嫌なものは、わちきも嫌でありんす」と、言うことを聞かない。千早と神代に振られたことが原因で成績不振となった竜田川は力士を廃業し、実家に戻って家業の豆腐屋を継ぐ。それから数年後、竜田川の店に一人の女乞食が訪れ、「おからを分けてくれ」と言う。喜んであげようとした竜田川だったが、なんとその乞食は零落した千早太夫の成れの果てだった。激怒した竜田川は、おからを放り出し、千早を思い切り突き飛ばした。千早は、井戸のそばに倒れこみ、こうなったのも自分が悪いと井戸に飛び込み入水自殺を遂げた。和歌の最後、<水くくるとは>の「とわ」は、千早の本名だったのだ。閑話休題、三室山の紅葉です。山の麓を流れる川は「竜田川」です。色づきはイマイチだ。 <竜田公園>やはり色づきはイマイチ、まだ「見頃」にはちょっと早かったのかも知れませんね。でも、朱い小橋を渡った竜田川の川向うの高台の紅葉は中々見応えがありました。<藤の木古墳のコスモス> 竜田公園から20分くらい歩きますと、「藤の木古墳」に着きます。藤の木古墳はリュウちゃんの自宅から徒歩6分の所にあります。藤の木古墳の周辺では、、10年ほど前から休耕田を利用して、コスモスが植えられています。 藤の木古墳とコスモスのコラボ、コスモスは終わりに近いが見事!今年は以前に比べ、コスモスの耕作面積が半分くらいになってしまいました。 元々、斑鳩町のコスモスは政府の減反政策で休耕田になった私有地に植えられたのですが、減反政策が2018年に廃止になりましたので、斑鳩町のコスモスの2大名所である「藤の木古墳周辺」、「法起寺周辺」の両方共、コスモス畑の面積が半減したようです。しかし、斑鳩町全体のコスモス畑は減っていないのだ!何故なのか(?)この(?)が今回のブログのテーマの一つです。この(?)、ブログの最後で明らかになるのだ!<斑鳩文化財センター周辺、業平道のコスモス>斑鳩文化財センターはリュウちゃんの家から徒歩4分の近所にあります。主として「藤の木古墳」のガイダンスをする目的で平成22年に設立されました。館内には藤の木古墳から出土した石棺や金銅製の装飾品などのレプリカが納められ、藤の木古墳の概要が分かるシステムになっています(尚、本物の出土品は橿原考古学研究所付属博物館に収められています)(斑鳩文化財センター)文化財センター周辺のコスモス、まだ「見頃」だ!<法隆寺の紅葉> 先ずは南大門の前の長い松並木の中の「紅一点」、サクラ紅葉です(この桜は、今年の5月4日に更新したブログで紹介しました)南大門から境内に入ります。おお、法隆寺の紅葉は「見頃」だ!法隆寺は「松の寺」です。参道の松並木に始まり、境内の至る所にクロマツが植えられています。法隆寺が「松の寺」になったのは、1261年(鎌倉時代)に後嵯峨上皇が法隆寺に参拝した時から始まるようですが、「黒松」は杉やクスノキのように長命の樹木ではなく、せいぜい300年くらいの寿命なので、何度も植え替えられて今日に至っているようです。 法隆寺の境内で最長老(樹齢不明)のクスノキの周囲にも紅葉が見られましたが、これは老クスノキの貫録勝ちですね。世界最古の木造建造物である「法隆寺」ですが、境内の樹木は上の老クスノキを除き、皆「若木」なのです。 特に、春の桜、秋の紅葉の殆どは、推定樹齢20歳位、これではとても「奈良の桜・紅葉の名所」とは言えませんね。しかし、今年の紅葉を観て、法隆寺は奈良屈指の紅葉の名所、といえるようになったとリュウちゃんは感じたのです。<斑鳩神社裏のコスモス>法隆寺東院伽藍から、斑鳩3塔の一つである「法輪寺」に向かいます。途中、斑鳩神社の裏手にもコスモス畑があります。ここのコスモス、もう終わりかけだ。<法輪寺付近のコスモスとイチョウ> 斑鳩神社から法輪寺に向かう小道の脇もコスモスの見所です。コスモスの下は柿畑、コスモスと柿のコラボが観られます。 コスモスと法輪寺三重塔のコラボ、上の写真右側のイチョウ、見事な黄金色だ!<法起寺周辺のコスモス> 法輪寺から5分程、東に向かって歩きますと、本日の散策の最終ラウンド、「法起寺」に至ります。ここは斑鳩町を代表するコスモスの名所なのだ!法起寺周辺のコスモスも、この日にはもう終わりかけで、開花している花の間にしぼんだ花の名残りが多く見られました。そして作付面積も以前の約半分ほどに減っていました。 藤の木古墳から法起寺までのコスモス、減反廃止で半減した!しかし皆様、斑鳩町全体のコスモス畑は、ちっとも減っていなかったのです!それは、2018年に公園として整備された「史跡・中宮寺跡」の周りに広大なコスモス畑が出現したからなのです。<史跡・中宮寺跡公園>法起寺から奈良県道9号奈良大和郡山斑鳩線を国道25号線に向かい300mほど南下した所に「中宮寺跡地」があります。ここは2018年、公園として整備され、「史跡・中宮寺跡公園」になりました。「中宮寺跡地」???弥勒菩薩で有名な、「中宮寺」は法隆寺夢殿の裏手に在るのに、何故、別の場所に「跡地」が在るのか???「中宮寺」は、法隆寺創建と同じ頃、聖徳太子が母・穴穂部間人皇女(あなほべのはしひとのひめみこ)のために創建したと伝えられる尼寺です。現在の「中宮寺跡公園」の地に創建されましたが、16世紀末頃の戦国時代に、中宮寺は戦禍のため炎上したので、現在地である法隆寺夢殿の裏手に避難、そのままその地が現在まで続く「中宮寺」の地となったのだそうです。「史跡・中宮寺跡」は、元「中宮寺」の跡地だったのだ!2018年の政府の減反政策廃止で、藤の木古墳周辺や法起寺周辺のコスモス畑の減少を見越したように、「中宮寺跡地公園」の周辺は広大なコスモス畑として生まれ変わったのです。「中宮寺跡地公園」のコスモス、斑鳩町のコスモスの新しい名所なのだ!午後4時過ぎ、約4時間に渡る斑鳩町散策を終えて、帰途につきました。 リュウちゃんの家は法隆寺の傍にありますので、帰り道も法隆寺の境内の参道を通ります。法隆寺参道の紅葉、夕方は一段と美しい!
2020年11月23日
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白楽天の「長恨歌」を題材にした上村松園の「楊貴妃」、艶めかしいが気品溢れる名作だ!(上村松園「楊貴妃」:大正11年)10月14日、奈良市の郊外にある「松伯美術館」に行ってきました。「松伯美術館」は、女性として初めて文化勲章を受賞した「美人画」の画家・上村松園と息子の上村松篁(しょうこう)、孫の上村淳之(あつし)の三代に渡る日本画作家の作品のコレクションを集めた私立の美術館です。「松伯美術館」は平成6年(1994年)、松園の息子の松篁、孫の淳之から寄贈された作品をコレクションの基礎として、近畿日本鉄道の名誉会長であった佐伯勇氏の広大な邸宅敷地に開設されました。「松伯美術館」の館名の「松」は上村松園の「松」、「伯」は佐伯勇の「伯」のようだ。<「松伯美術館」のHP>→ここをクリック リュウちゃん、中学校3年生の美術の教科書に掲載されていた上村松園の絵を観て、いっぺんに魅かれてしまったのです。何と瑞々しく上品な美人画なのだろう!以来、松園の実物の美人画をじっくり鑑賞したいと思っていたのですが、その機会は中々無く、奈良に住居を構えてから奈良市に「松伯美術館」が在ることを知り、やっと松園の実物の美人画に出逢うことが出来たのです。ということで、女房殿の運転する車の助手席に乗って何度か「松伯美術館」に行ったことがありますが、今回は公共交通を使って、一人で出掛けたという次第です。リュウちゃんの家から「松伯美術館」までの行程は以下です。(JR法隆寺)~(JR王寺)-乗り換えー(近鉄王寺)~(近鉄生駒)~(近鉄学園前)-徒歩30分―「松伯美術館」。近鉄「学園前駅」から北に向かって20分程歩きますと、左手に大きな池(大渕池)が見えてます。池の畔にある白亜の建物が「松伯美術館」なのです。今回は「裏口」から「松伯美術館」に入りました。入場は正面入り口からです。今回は、「上村松園・上村松篁・上村淳之展「魂の継承 ~受け継がれる心~」(10月3日~ 11月29日)という展覧会を開催していたのですが、正面入り口には展覧会のポスターは貼ってありませんでした。 館内に入り、やっと展覧会のポスターに出逢いました。今回の展覧会では、松園の大作は冒頭に挙げた「楊貴妃」と、後述する「花がたみ」の2点だけだったのですが、リュウちゃん、この2点の前で「釘づけ」になってしまいました。 それでは改めまして、「楊貴妃」と「花かがり」を紹介させて頂きます。尚、「松伯美術館」の館内は残念ながら撮影禁止でしたので、「図」は全てネットからお借りしました。<「楊貴妃」(再掲)>「楊貴妃」は、大正11年、松園47歳の時の円熟した作品です。題材となった「楊貴妃」(719年~756年)は、中国・「唐」の第9代皇帝・玄宗の寵愛を受けた皇妃で、玄宗皇帝が余りに深く楊貴妃を寵愛し過ぎ、ために国務を疎かにして「国を傾けた」ところから「傾国の美女」と呼ばれる女性です。21歳の時に玄宗皇帝に見初められ、26歳の時に「貴妃」になりました。松園の「楊貴妃」は、唐代の詩人・白居易(白楽天:772年~846年)が、楊貴妃の死後の50年後の806年に作られた全部で120句ある長編の漢詩「長恨歌(ちょうごんか)」の「第5句~第8句」に基いています。(長恨歌第5句~第8句)(原文)春寒賜浴華清池 温泉水滑洗凝脂 侍児扶起嬌無力 始是新承恩沢時 雲鬢花顔金歩揺 芙蓉帳暖度春宵(現代語訳)(楊貴妃は)春まだ寒い頃、華清池の温泉を賜った。温泉の水は滑らかで、きめ細かな白い肌を洗う。侍女が助け起こすと、なまめかしく力がない。こうして初めて皇帝の寵愛を受けたのである。雲のように柔らかな髪、花のような顔、歩くと揺れる黄金や珠玉で作られたかんざし、芙蓉の花を縫い込めた寝台の帳は暖かく、春の宵を過ごす。以下に大正12年に「京都日出新聞」に掲載された松園の「芙蓉の花にも似た美しい楊貴妃を」という記事を貼り付けます。<芙蓉の花にも似た美しい楊貴妃を(上村松園)>帝展の方も大分出品しなかったので今年は思い立って……それも近頃取りかかったばかりで明日辺りから墨を当てようかというところなのです。画題は〈楊貴妃〉それもあの湯上りの美しい肌を柔らかな羅(うすもの)に包んで勾欄(てすり)に凭れながら夢殿の花園を望んで見ると言った構図で、尤も湯上りと言いますと何だか意気に、そうしてやや下品な様に聞こえますがそうではなく極気品の高いものにして全体羅の中に玉の様な肩先から白い胸の辺り少し湯上りのぽっと紅潮した皮膚が見えて居ると言った風で……傍には侍女が一人います。 詩集はかなり繙(ひもと)きましたが白楽天のは殊に愛誦して居りましたし中でもこの長恨歌には深い懐かしみを持って居りました。何時か一度はそれを描いてみたいと思って居りましたが、この夏大阪で開かれた展覧会に楊貴妃の半身を描いたのが今度全身の絵として出品する事になったのです。大きさは二枚折の少し大きな位で絹地を用います。 楊貴妃の服装についてはこの間中博物館へ通っていろいろ古い参考品を出して頂いて見て来ました。日本で申せば天平から奈良朝、あの時代の衣装や調度建築の様式で行く考えです。猶詩には春寒とありますがこれは夏の時候に改めるつもりです(大正12年)<花かがり>大正4年、松園40歳の時の作品です。題材は世阿弥の作と云われている謡曲「花筐(はながたみ)」に登場する狂女「照日の前」、 以下に謡曲「花筐」の内容を紹介します。「春の越前国・味真野。皇位を継ぐため都へ向かった大迹皇子(をほどのおおきみ、後の第26代・継体天皇)は使者を最愛の女性・照日の前の元に遣わす。使者は照日の前に皇子からの絶縁の文と愛用の花筐(花籠)を届け、悲嘆にくれた照日の前はそれらを抱いて故郷へ帰っていく。 秋の大和国・玉穂(磐余玉穂宮:継体天皇が遷都した所で現在の奈良県桜井市池之内付近にあったとされる)。帝(継体天皇)は臣下とともに紅葉狩りに向かうが、そこへ皇子を慕うあまり都へとやってきた照日の前と遭遇する。帝の行列を汚す狂女として官人に花筐を打ち落とされた照日の前は花筐の由来を語り、漢の武帝の后・李夫人の曲舞を舞う。花筐を見た帝はそれがかつて自ら与えたもので狂女が照日の前であると気づき、再び照日の前を召し出して都へと帰っていく」「松伯美術館」のHPには、この作品について以下のような解説文があしたので、下記に貼り付けます。◎松園が「乱心」に挑んだ名作芸術家たちが人間の個性や内面といったテーマを重視した大正時代、女性像を得意とした松園が、季節や日常の情緒といったものを超えて、女性の内面の深淵を表現しようと挑んだのが、この「花がたみ」です。松園40歳の時の作品で、第9回文部省美術展覧会(文展)で2等賞を受賞しました。世阿弥作とされる謡曲「花筐」に取材し、縦2メートルを超える絹本の大作に描かれているのは、ヒロインの「照日の前(てるひのまえ)」です。音もなく散り行く紅葉のなか、花かごを手にたたずむ女性の表情や肢体には、どこか尋常ならざるものがあります。愛する人をひたすら追い求め、乱心を装う照日の前。その狂気を、雅(みやび)な風情で描き出そうとしたのです。装いの乱れ、どこかうつろな眼差し、あてどのなし仕草など、繊細な筆致が照日の前の内面を見事にものがたり、美しい衣装や季節の彩りが、その深い悲哀をいっそう際立たせています。松園は華麗な衣装や凄味のある美しさをたたえた能面に取材しながら、この主題を絵画として結実させたのです。<上村松園の年譜と主な作品>上村松園って、どんな画家だったのだろう?どんな人だったのだろう?中学3年生の美術の教科書に掲載された上村松園の美人画に感銘を受けたリュウちゃんですが、今回の「楊貴妃」、「花かがり」を観るまで、殆ど松園につきましては、「無知」だったと知りました。ここでは、改めて上村松園の年譜を辿り、主要作品を観ることにより、リュウちゃんの感銘の軌跡を辿ってみたいと思います。(創作する上村松園)★1875年(明治8年) - 京都の下京区四条通御幸町の葉茶屋「ちきり屋」の次女として生まれる。★1887年(明治20年、) - 京都府画学校(現:京都市立芸術大学)に入学、四条派の鈴木松年に師事。(※)この時、松園僅か12歳、よほど才能があり、早熟だったようです。★1890年(明治23年) - 第3回内国勧業博覧会に「四季美人図」を出品、一等褒状受賞(この絵を、来日中のヴィクトリア女王の三男アーサー王子が購入し話題となった)。(※)この時、松園僅か14歳、やはり早熟の天才だったのですね。<明治25年の「四季美人図」>松園は少なくとも3作の「四季美人図」を残していますが、これは16歳の時に描いた2作目の四季美人図」です。まだ「美人画」という印象は薄いですね。 <「明治25年「清少納言」>「枕草子」第299段の<「清少納言よ、香炉峰の雪、いかならむ」と仰せらるれば、御格子あげさせて、御簾を高くあげたれば、わらわせ給う>を題材にしています。 ★1895年(明治28年) - 竹内栖鳳(せいほう)に師事(※)この時、松園20歳、竹内栖鳳は近代日本画の先駆者の一人で、京都画壇を代表する画家です(第1回文化勲章受章者)、★1902年(明治35年) - 長男・信太郎(松篁)が誕生。父親は最初の師の松年だったとされるも、未婚の母となった松園は多くを語っていない。(※)上村松園は強い女性ですね!女性の社会進出を嫌った明治時代、「女のくせに」と男性画家から強い嫉妬と憎しみが渦巻く中で、第一線の画家としての生涯を貫き通した孤高の女流画家だったのです。彼女は晩年、自身の生涯を振り返り、自分の生涯は「戦場の軍人と同じ血みどろの戦いでした」と述懐したようですが、長男の上村松篁をシングルマザーとして出産した時も「世間との血みどろの戦い」だったのでしょうね。<大正2年「蛍」>この図は美人が蚊帳を吊りかけて居る処へ夕風に吹き込まれてフイと螢が飛び込んだのを、フト見つけた処です(松園)★1914年(大正3年) - 間之町竹屋町に画室竣工。初世金剛巌に謡曲を習い始める。<大正7年「焔」(ほのお)」>「源氏物語」の「葵の巻」に登場する、嫉妬の余り、生霊となって源氏の愛する女君たちに仇を成す女性・六条御息所(ろくじょうのみやすんどころ)を描いた作品です。松園言うところの「数多くある絵のうち、たった一枚の凄艶な絵」なのです。 ★1934年(昭和9年) - 母・仲子死去。松園は生まれる2ヶ月前に父を亡くしました。母の仲子は女手一つで松園姉妹を育てたのだそうです。明治時代、女性が画家になることは、世間では認められないことだったのですが,母の仲子は松園のよき理解者で、常に画業に勤しむ松園を励まし続けたのだそうです。松園はその著書『青眉抄』で母を追憶して「私は母のおかげで、生活の苦労を感じずに絵を生命とも杖ともして、それと闘えたのであった。私を生んだ母は、私の芸術までも生んでくれたのである」と述べています。母・仲子の死後、松園は母を思慕する作品を何点か残しています。以下、それらの作品を何点か挙げて見ます。<昭和9年「母子」>第十五回帝国美術院展覧会出品作品、この作品は、亡くなった母・仲子を追慕した最初の作品です。母の口元が黒いのは、「お歯黒」、眉を剃る習慣も明治初期まであったようです(重要文化財) <昭和9年「青眉(せいび)」>「青眉」とは、眉毛を剃って、眉が青々とした様のことです。明治初期まで、女性は結婚すると眉を剃り、「青眉」になったのです。この作品も、母への思慕を投影しているようです。 <昭和16年「夕暮」>夕暮れ時、若い母が陽の光を頼りにして、障子を開けて針に糸を通す、昔には何処にでも見られたありふれた光景ですが、気品のある作品です。松園が幼い頃に見た母・仲子の想い出に繋がる作品ですね。<昭和18年「晩秋」>母親が縁側で破れた障子の穴を直しているという、これも、昔はよく見られたありふれた光景ですね。母親の凛とした姿は見事ですね。きっと松園の母・仲子もこんなたたずまいの女性だったのではないでしょうか。 <昭和11年「序の舞」>松園の代表作の一つです。若い女性の凛とした舞姿、この絵のモデルは松園の息子・松篁の妻なのだそうです(重要文化財) 尚、宮尾登美子の昭和57年の小説「序の舞」は上村松園をモデルにしたフィクションのようです(リュウちゃんは未読です)<昭和12年「雪月花」>貞明皇后(大正天皇の皇后)の御用命を受けて以降,完成まで実に20年以上を要した,女流画家・上村の畢生の力作である。画題は,雪,月,花にこと寄せた平安期の宮廷での雅やかな女性風俗であり,それぞれ『枕草子』,『源氏物語』,そしておそらくは『伊勢物語』等に想を得たと思われる優美な情景が,端正な画面構成と美しい色彩布置により表されている(宮内庁の解説文) <昭和13年「砧(きぬた)」>砧(きぬた)は、洗濯した布を生乾きの状態で台にのせ、棒や槌でたたいて柔らかくしたり、皺をのばすための道具。また、この道具を用いた布打ちの作業のことです。松園の作品は、世阿弥の作とされる謡曲「砧」に由来しています。<昭和15年「春芳(しゅんぽう)」>咲き始めた梅の花と若い女性、優雅で清潔な作品です。 ★1941年(昭和16年) - 帝国芸術院会員。★1944年(昭和19年)7月1日 - 帝室技芸員★1945年(昭和20年) - 奈良平城の唳禽荘(れいきんそう)に疎開。(※)「唳禽荘」、風変りな名前ですね。「唳」は訓読みで「なく」、意味は鶴や雁などが「鳴く」ことです。「禽」の意味は「鳥・鳥類」、なので「唳禽」の意味は「鳥が鳴く」ということになります。「唳禽荘」は「松伯美術館」から直線距離で約2キロの奈良市山陵町にあり、1万坪の広大な敷地には、1600羽の野鳥が松園の孫の日本画家・上村淳之氏によって飼育されているそうです。(「唳禽荘」:この写真は「なんば美術手帖」さんのブログからお借りしました)京都生まれの松園の美術館が何故、奈良にあるのか?という疑問はこれでほぼ解消、松園~松篁~淳之の「母・息子・孫」の三代の日本画家は、昭和20年から奈良人だったのだ!★1948年(昭和23年) - 文化勲章受章(女性として初)。★1949年(昭和24年) - 死去。従四位に叙される。享年74。<昭和16年「晴日」>晴れた日。若い女性が布の洗い張りをしているという、これも昭和20年代までは日常的に見られた光景です。 この洗い張りをする女性の顔立ち、柔らかな目線、この作品こそ、リュウちゃんが中学校の教科書で惹きつけられた作品だったのだ!!
2020年10月19日
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奈良の名刹・長谷寺の山上に、広大な「蕎麦畑」があった!9月29日、以前から行って見たいと思っていました奈良では珍しい桜井市の笠地区にある「蕎麦の花」を観に行って来ました。 元々、奈良県には蕎麦畑は殆ど無かったのですが、平成の代になってから国の農地開発事業により、1992年(平成4年)から長谷寺の上部の「笠(かさ)地区(奈良県桜井市大字笠)」で、19ヘクタール(190000平方メートル)の農地を使って、蕎麦の栽培が始まったようです。奈良で蕎麦作りが始まって僅か28年、リュウちゃんの奈良在籍期間よりも若いのだ!リュウちゃんが奈良に住み始めてから既に38年、現在住んでいる「斑鳩の里」に引っ越してきてから23年になります。奈良県の山奥に蕎麦畑が出来たという話は、かなり以前から聞いていたのですが、何処にあるのかを知ったのは、つい最近のことだったのです。桜井市大字笠、初めて聞く地名だ。どんな処なのだろう?下の写真は、笠地区の道路図です。写真の真ん中に「笠そば」、とありますが、この蕎麦屋の周辺一帯に蕎麦が植えられていて、秋には一面の蕎麦の白い花で覆われます。この蕎麦畑の真ん中に唯一ある蕎麦屋が「笠そば」ということになります。 「笠そば」、長谷寺の山の上にある!リュウちゃんの家から割と近そうだ。午前9時30分、女房殿の運転する車の助手席に乗って自宅を出発、上記「道路地図」にある「天理ダム」を経由して、午前10時30分過ぎ、笠地区の蕎麦畑に到着、おお、蕎麦の白い花、今、満開だ!<「蕎麦」の耕作面積豆知識> 奈良県には全部で24ヘクタールの「蕎麦畑」があります。その内、19ヘクタールが「笠地区」に集中しています。「蕎麦」は北は北海道から南は沖縄まで、全国各地で栽培されていて、令和元年の全国の栽培面積は66400ヘクタールに及んでいます。都道府県別栽培面積ベスト12を挙げてみますと、(1位)北海道:25200ha(ヘクタール)、(2位)山形県:5260ha、(3位)長野県:4410ha、(4位)秋田県:3770ha、(5位)福島県:3740ha、(6位)茨城県:3460ha、(7位)福井県:300ha、(9位)栃木県:2960ha、(9位)岩手県:760ha、(10位)青森県:1680ha、(11位)新潟県:1240ha、(12位)鹿児島県:1100ha、となります。本州最南端の鹿児島県が12位、ちょっと驚きです。逆に栽培面積の少ない都道府県は、★東京都:4ha、★大阪府:1ha、★和歌山県:3ha、★高知県:6ha、大都市である東京都や大阪府が少ないのは分かりますが、和歌山県がブービーとは!、これも驚きました。<笠そば>上記、蕎麦畑のすぐ近くに、この地区唯一の蕎麦屋である「笠そば」があります。まだ午前11時、ちょっと昼食時間には早かったのですが、「笠そば」に入店しました。以下は「笠そばのHPです。 <荒神の里「笠そば」HP>→ここをクリック上記HPから、「笠そば」の「人気の秘密」(口上)を以下に書き出します。(1) 昔ながらの製粉方法笠のそばは、笠産そばを100%使用し、石臼を用いて一番粉と二番粉を共に入れた挽きぐるみの 風味豊かなそばです。(2) 風味あるそば地区は標高が400~500m有り、朝夕の寒暖の差が激しく、そばづくりに最適な気候・風土に恵まれています。(3) 広大な大地で育つそばを使用19ヘクタールもの広大な土地を使用し、必要最低限の農薬しか使用しない農法を確立しているので、どなた様にも安心して食べて頂ける蕎麦を提供しています。ふ~ん、美味しい蕎麦が期待出来そうだ!リュウちゃん夫妻はテラス席を確保し、早速、注文、女房殿:暖かいキツネ蕎麦、リュウちゃん:暖かい梅とじ蕎麦+中瓶ビール2本!(梅とじ蕎麦)プファ~、ビールが旨い!梅干しの酸味とビールの苦味、絶妙なバランスなのだ!正午に店を出ました。この時間帯、店の前には行列が出来ていた。<笠山荒神社> 「笠そば」のすぐ近くに、「笠山荒神社」という神社がありました。この参道、中々、風情がある。本堂、割と小さい。本堂を過ぎても、参道はどんどん下に続いて行きます。結局、本堂を過ぎてから一番下の鳥居まで、155段の石段を下りました。「荒神」、どんな神様なのだろう? 以下は「笠荒神」のHPです。<笠山三宝荒神社(笠荒神)>→ここをクリック上記HPには、以下のような由来が書かれています。笠荒神(笠山荒神社)は、初めて火を起こし物を煮て食べる事を教えられた、 興津彦神(おきつひこのかみ)、興津姫神(おきつひめのかみ)、土祖神 (はにおやのかみ)を祀り、かまどの神様として庶民の厚い信仰を集めています。笠の西端、標高480mの山中に位置し、清荒神(兵庫県宝塚市)、立里荒神(奈良県野迫川村)と共に、日本三大荒神の一つに数えられています。(荒神とは仏・法・僧の三宝の守護神とされます) 明治維新の神仏分離で、竹林寺から本殿を笠山山頂に遷座しています。春日造・檜皮葺の本殿内の岩座に、木造極彩色玉眼の御神体二体が並び、後背に「竹林寺現在尊雅字春憲」や弟子・勧誘主・彫刻者名の外、享保十七年(1732)の銘があります。毎月二十八日例祭。境内入口に、室町時代末の海尊銘の不動石仏があります。 「荒神」はかまどの神様だったのだ!<閼伽井(あかい)不動明王>「笠荒神」の下の鳥居の横手にある小さな神社です。この小さな神社は、空海(弘法大師)が高野山金剛嶺寺の建立を志し、弘仁10年(819年)、この地で21日間の水行を行った場所のようです。空海の足跡は至る処に残っている!閼伽井不動明王を後にして、「笠荒神」の155段の石段を上り、駐車してある「笠そば」に戻り、「笠地区」を後にしました。帰路は長谷寺の前を通り、今日の2つ目の目的地である「馬見丘陵公園」に向かったのです。 帰路で立ち寄った別の蕎麦畑、蕎麦畑の脇には、コスモスが咲いていました。午後2時過ぎ、「馬見丘陵公園」に到着、 おお、至る所でコスモスが咲き始めた。本日、馬見丘陵公園に立ち寄った一番の目的は、今年から本格的に栽培され始めた「コキア(ホウキ草)」を観に行くことでした。 あれ?コキアは、北エリアには無い、何処に植えられているのだろう?と思って公園を散策しました。おお、中央エリアの「水分広場」に、白い彼岸花がいっぱい咲いていた!南エリアの「巣山古墳」の前には、赤い彼岸花も満開でした。やっと中央エリアの「カリヨンの丘」の麓に、「コキア」を見つけました!コキアは、10月中旬頃、茎も葉も「真紅」に染まる筈ですが、馬見のコキアはまだ「真紅」ではなかったのです。 これから「真紅」に染まるのかな?以下の写真は、ネットからお借りした茨城県ひたちなか市にある「国営ひたち海浜公園」の「真紅のコキア」です。ここのコキア、素晴らしい!!!(国営ひたち海浜公園のコキア)コキアって、どんな植物なのだろう?以下、「コキア」のウィキペディアから抜粋して書いてみます。<「ホウキギ(コキア)」のウィキペディアより>「ホウキギという和名は、乾燥した茎を箒に使うので、「ホウキギ」の名がつけたものである。原産地はヨーロッパ、南アジア、中国などのユーラシア大陸、日本には古くに渡来した。一年生の草本である。果実は、薬用・食用にされ、若芽は食用にされる。また成熟果実は秋田県の郷土料理「とんぶり」の材料となる。実はその性状から「畑のキャビア」「陸のキャビア」ともいわれ、煮付けて大根おろしやとろろに加えて食べられる」陸のキャビア「とんぶり」は、コキアの果実だったのだ!(とんぶりご飯)奈良県の農協の皆様、「笠そば」と同じように、「馬見とんぶり」を奈良の名産品にして下さいね!
2020年10月10日
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「棚田百選」に選ばれた明日香村稲渕地区、今、白・黄色の彼岸花が満開!(「奈良・明日香村彼岸花巡り2020(上)」の続きです) 午後1時40分、遅い昼食を終えて、明日香村一番の彼岸花の名所である「稲渕地区」に向かいました。下の写真は、「石舞台古墳」の周辺の整備された広場の一角です。この広場は今の季節、ススキと萩の名所です。目的の「稲渕地区」は上の写真の真ん中の山の稜線の右側の方向にあるのです。 稲渕地区の棚田が見えて来ました。石舞台古墳から続いている県道15号線から離れて、棚田に向かう小道に入って行きます。早速、紅白の彼岸花が出迎えてくれました。 おお、ここの白い彼岸花は満開だ!<案山子ロード> 稲渕地区では、毎年、彼岸花の季節になりますと、この小道沿いで「案山子コンテスト」が行われます。今年は「第25回案山子コンテスト」となります。なので、この小道は「案山子ロード」と呼ばれているのです。以下に今年の案山子の写真を何枚か貼り付けます。<ジャンボ案山子> 稲渕案山子コンテストのハイライトは、案山子ロードの中央部に作られた高さ約5mのジャンボ案山子です。今年のジャンボ案山子、何なのだろう?案山子ロードを歩いて行きますと、前方に見えて来ました。ジャ~~~~ン、志村けんの「バカ殿」だ!志村けんさん、今年3月、日本で新型コロナの流行が始まった頃、17日に倦怠感を訴え、2日後の19日、発熱と呼吸困難になり、20日に重度の肺炎と診断され、入院、入院時に新型コロナ感染検査を受けたところ、23日に「陽性」と判明、24日に人工心肺が必要との判断を受け、新宿区国立国際医療研究センター病院へ転院してECMOを装着し治療するも、病状は改善せず、遂に3月29日、帰らぬ人になってしまいました。享年70歳、合掌。 案山子ロードの果てた所の棚田の土手が、赤・白・黄色の彼岸花の咲く明日香村でも一番の彼岸花の名所です。あれ、ここには赤い彼岸花はまだ観られない。遠目では、黄色い彼岸花も少ない?土手に近づきますと、見えて来ました!稲渕地区名物、黄色い彼岸花。土手の上の木陰には、白い彼岸花もほぼ満開でした。犬と猿の案山子の脇にピンクの彼岸花発見!近くに寄ってよく見ましたところ、このピンクの彼岸花は「造花」だったのです(残念!) 稲渕地区の皆様、この場所にピンクの彼岸花も植えて下さいね。宜しくお願い致します。もう午後3時、そろそろ戻らなきゃ、キトラ古墳から稲渕地区までの「往路」は、ずっと上り坂だったのですが、稲渕地区からの「帰路」はずっと「下り坂」です。かなり足にガタが来ているが、下り坂なので大丈夫だろう。<飛鳥寺>稲渕地区から石舞台を経由し、「飛鳥寺」へ向かいました。下の写真は、明日香村のメインストリートです。やはり新型コロナの影響か、人出は少ない。途上のキバナコスモス、 この辺りは、古代、飛鳥京「飛鳥板蓋宮(いたぶきのみや)」がありました。645年7月(皇極天皇4年6月)、中大兄皇子(後の天智天皇)はこの宮殿に蘇我入鹿を呼び出し、その首を刎ねて斬殺、その頭は現在、「入鹿の首塚」が建立されている飛鳥寺の裏手まで飛んだと云われています。この事件は世に「乙巳の変(いっしのへん)」といわれ、「大化の改新」の第一歩となりました。(談山神社所蔵『多武峰縁起絵巻』より「乙巳の変」) 「飛鳥寺」に到着、ここは割と混雑していました。<飛鳥寺について> 推古4年(596年)、仏教を保護した蘇我馬子の発願により建立された日本初の本格的寺院、鎌倉時代に伽藍の大半を消失したが、江戸時代に再建された。本尊の「銅造釈迦如来坐像」は飛鳥時代の作で、現存する日本最古の仏像、通称「飛鳥大仏」の名で親しまれている。(飛鳥大仏)飛鳥寺の前の土手は、赤い彼岸花の名所の一つなのですが、アチャ~、まだ「芽が出た」ばかりなのだ!飛鳥寺の裏手、「入鹿の首塚」の周辺に向かいました。 この辺りも明日香村屈指の彼岸花の名所です。おお、かなり咲いている!この辺りは、明日香村のシンボルの一つである「甘樫の丘」(標高148m)の麓です。リュウちゃん、いつもなら「甘樫の丘」に登るのですが、今回は彼岸花散策の遠足なので、登頂はパスしました。 下の写真は、「甘樫の丘」の麓の「道の駅」に咲いていたコスモスと白い彼岸花です。もう午後4時、陽が傾いてきた。先を急がなきゃ!明日香村のなだらかな山並みを右手に見ながら、隣町の橿原市にある「天の香久山」に向けて足を進めます。あれ、下の写真の左下に撮影するリュウちゃんの影が写ってしまった(苦笑)前方に百人一首の持統天皇の歌でお馴染みの「天の香久山」が見えて来ました。「天の香久山」の標高は、152mと云われていますが、何回もこの山を見たリュウちゃん、とてもそんなに標高があるとは思えないのです。リュウちゃんの感じでは、せいぜい標高30~40m,152mとされる天の香久山の標高、何かの間違いではないか???「天の香久山」の麓にある「国立奈良文化財研究所」の前の道を左折すると、持統天皇が造設した「藤原宮跡」に入って行きます。 「藤原宮跡」の彼岸花は、かなり「見頃」でした。「畝傍山」と彼岸花、「耳成(みみなし)山」と彼岸花、「天の香久山」と彼岸花、「藤原宮跡」は11月になりますと、全面、コスモスで覆われますが、今の時期も若干のコスモスが咲いていました。晩秋のコスモスが楽しみだ! もう午後5時、いよいよ最終コーナー!<本薬師寺跡地>「藤原宮跡」から20分位歩きますと、本日の最終目的地である「本薬師寺跡」に至ります。「本薬師寺跡」の周りは「休耕田」で、夏から秋に掛けて、近所の小学生が植えた無数のホテイアオイが多くの観光客の目を楽しませてくれていました。また、ここは橿原市の彼岸花の名所の一つでもあったのです。以下は2018年の秋にリュウちゃんが撮った「本薬師寺跡」のホテイアオイと彼岸花の写真です。 今年もホテイアオイと彼岸花のコラボが見れるかな?と期待して行ったのですが、アチャ~ホテイアオイは稲田に代わっている!どうして、ホテイアオイが稲田に代わってしまったのか? 朝日新聞の記事によれば、「新型コロナウイルスの感染拡大を防ぐため、市などが植え付けをしない方針を固めた~中略~今年は人の密集を避けるため、株の植え付けを中止する見通しとなった。近くの特別史跡・藤原宮跡周辺の「花園」でも、夏のキバナコスモス、秋のコスモスは、今年は新型コロナ対策で種をまかないため、観賞や撮影を楽しめなくなりそう」またまたアチャ~「藤原宮跡」のコスモスも今年は見られなさそうだ。ちょっとショック!午後5時30分、終点の近鉄「畝傍御陵前」駅に到着、午前9時40分に起点の「壺阪山」駅を出発、途中40分の昼食休憩を除き、ほぼ7時間歩きっぱなしの徒歩旅行でした。家に帰りましてからズボンのポケットに入れていた万歩計の歩数を確認しましたところ、何と、46252歩!リュウちゃん、まだまだ健脚なのだ!
2020年10月03日
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聖徳太子生誕の地「橘寺(たちばなでら)」、今、赤い彼岸花、満開!?9月21日(敬老の日)、彼岸花を求めて、奈良の彼岸花の名所の一つである明日香村を散策して来ました。 今回はリュウちゃんの単独行です。新型コロナ禍の中、これまで遠くへ出掛ける時には、公共交通を使わず、女房殿の運転する車の助手席に乗って行っていたのですが、今回は約8ヶ月ぶりに公共交通を使って明日香村に出掛けてみたのです。さすがに法隆寺から明日香村まで歩いては行けない。よし、禁を破って公共交通で行ってみよう。事前に、今回初めて明日香村の彼岸花の名所を「隅から隅まで歩いて巡る」という野心的な計画を立てました。以下は「明日香村散策マップ」です。具体的な計画は以下です。 (起点)近鉄吉野線「壺阪山」駅~キトラ古墳~文武天皇陵~高松塚古墳~天武・持統陵~欽明天皇陵~亀石~橘寺~石舞台~稲渕地区~石舞台古墳~飛鳥寺~甘樫の丘~天の香久山~藤原宮跡~本薬師寺跡~近鉄「畝傍御陵前」駅(終点)(注)上記の散策計画を上掲の散策マップに当てはめてみますと、★「起点」の近鉄「壺阪山」駅はマップ左下の図の外側にあります。「壺阪山」駅から図の左下にある「キトラ古墳」までは徒歩1キロくらいです。★明日香村の彼岸花の一番の名所であり、「棚田100選」にも選出されている「稲渕地区」はマップ右下部の「マラ石」のある道を下がった図の外側にあります。★「天の香久山」は、マップ右上の「国立奈良文化財研究所」の裏手にあります。「国立奈良文化財研究所」は明日香村ではなく、「藤原宮跡」、「本薬師寺跡」(マップには掲載されていませんが、中央最上部にある「藤原宮跡」の左側にあります)と共に、橿原市にあるのです。う~ん、かなり欲張り過ぎた計画だ。本当に計画通りに歩いて行けるかな?例によりまして、女房殿お手製のおにぎり弁当と、リュウちゃんお手製(?)の缶ビール(2缶)をリュックに詰め、午前8時、法隆寺を出発、午前9時40分、散策の起点となる近鉄吉野線「壺阪山駅」到着、<キトラ古墳エリア>午前10時、キトラ古墳エリアに到着、以前からキトラ古墳の周辺には、彼岸花は咲いていなかったのですが、キトラ古墳の手前の道の横に、2輪の彼岸花を発見しました。 ささやかな彼岸花だ。キトラ古墳の周辺は、「国営飛鳥歴史公園・キトラ古墳周辺地区」として整備されています。上の写真の(画面を外れた)右前方の小道脇の斜面に、リュウちゃんお目当ての「キトラ古墳エリアの彼岸花の名所」があった筈なのですが、 アチャ~、以前あった彼岸花の群生は消えている残念!以下の写真は4年前に、ほぼ同じ地点で撮った彼岸花の群生です。僅か4年で、この様変わり、ちょっと残念です。しかし、この斜面付近を散策しましたところ、ささやかではありますが、若干の彼岸花を観ることが出来ました。今回初めて気が付いたのですが、上記写真の道の向こう側の稲田に、少しまとまって彼岸花が咲いていました。 まだ半分は「蕾膨らむ」だ、全体的には「3分咲き」くらいかな?満開の彼岸花に、アゲハチョウがとまっていました。 動くものの撮影が大の苦手のリュウちゃん、こんな写真を撮ったのは本当に久しぶりなのだ!<高松塚エリア> キトラ古墳エリアから舗装された道路を30分くらい歩きますと、右手に「文武天皇(もんむてんのう)陵」が見えてきました。<文武天皇について~歴代天皇辞典の記述> 文武天皇は、名を軽皇子といい、草壁皇子の第二子。軽皇子は七歳で父草壁皇子を失ったが、祖母の持統天皇に寵愛されて育った。697年立太子、同年持統天皇の譲位を受けて文武天皇となった。当時15歳という先例のない若さだったため、持統が初めて太上天皇を称し後見役についた。権臣藤原不比等の娘宮子を夫人として首親王(聖武天皇)をもうけた。文武朝の701年「大宝律令」が完成して翌年から施行された。文武朝では「飛鳥浄御原律令」をまもらせ、また、田租・雑徭などの半分を3年間に渡り免除するなど、持統太上天皇や藤原不比等の支えを受けて善政をひいた。707年25歳の若さで崩御した(死因に関する記述はどこにも無い)文武天皇陵の裏手に「高松塚古墳」があります。高松塚古墳の下部の小道沿いに「白い彼岸花」の咲いている一角があるのですが、本日は以下の写真で撮ったものしか咲いていませんでした。参考のために、2018年に撮った同じ場所の白い彼岸花の写真を貼り付けます。<天武・持統陵> 高松塚古墳を過ぎますと、前方に「天武・持統陵」が見えてきます。本日はこの辺りにも彼岸花を観ることは出来ませんでしたが、陵の麓の畑にキバナコスモスが咲いていましたので、コラボ写真を撮りました。(「天武・持統陵」について~公益法人・古都飛鳥保存財団の記述) 天武天皇は、兄である天智天皇の遺志をつぎ、中央集権国家の形成を推し進めた。壬申の乱に勝利し皇位に就いたが、686年(朱鳥1)9月、病により崩御した。持統天皇は天武天皇の皇后であり天智天皇の娘である。天武天皇とともに中央集権国家の確立に尽力した。天武帝亡き後即位し藤原京の造営を行っている。檜隈大内陵と呼ばれたこの天武・持統陵は、藤原宮の南方中軸線上に営まれ、八角形の五段築成と考えられている。天武帝のために築かれたが、後に702年に亡くなった持統天皇が火葬され合葬されることとなる。1235(文暦2)年に盗掘された際の実検記である『阿不幾及山陵記』に記された記事と、『日本書紀』『続日本紀』などの記述が一致したため、天武・持統合葬陵であることが確定した。「天武・持統陵」の裏手にある民家の畑にも、白い彼岸花の咲いているスポットがあるのですが、本日は彼岸花は全く見られず、コスモスとタマスダレが咲いていました。タマスダレはヒガンバナ科の球根草、白い彼岸花の代わりなのかな?<欽明天皇陵> 「天武・持統陵」から徒歩10分の所に「欽明天皇陵」があります。この周辺も明日香村の彼岸花の名所の一つです。はたして、彼岸花は咲いているのか?下の写真は、途中にある明日香村の謎の石造物の一つ、「鬼の雪隠(トイレ)」です。欽明天皇陵が見えて来ました。欽明天皇陵の横手の稲田の畔に、彼岸花の群生がある筈ですが、、、 ありました!でも、まだ半分「蕾」だ!で、欽明天皇陵と彼岸花のコラボ写真は以下のようになりました。 ここの彼岸花もまだ3分咲き、コラボ写真も少し寂しい。欽明天皇陵を後にしたのが正午ジャスト、当初の計画では正午に石舞台古墳に到着し、昼食を摂る予定だったのですが、、、計画より既に1時間ほど遅れてしまったのです。 石舞台古墳に向かう遊歩道の途中に、見事な彼岸花が咲いていました。<亀石> 明日香村の謎の石造物の内、もっとも有名な「亀石」です。いつもなら「亀石」の下にも数本の彼岸花が咲いているのですが、今回は芽も出ていませんでした。やはり今年の彼岸花の開花は、大幅に遅れている!<橘寺(たちばなでら)> 「亀石」を通り過ぎますと、右手前方に橘寺が見えて来ます。<橘寺について~奈良県観光公式サイトより抜粋> 創建年代不詳、文献に初めて登場するのは天武9年(680年)、聖徳太子誕生の地といわれ、太子建立の7カ寺の一つ、8世紀には66もの堂宇が立ち並ぶ大寺院で、四天王寺式伽藍配置をとっていた。現在は江戸期に再建された本堂(太子堂)など、僅かな諸堂を残すのみとなっている。室町時代の聖徳太子坐像(重要文化財)をはじめ、善悪2つの顔が刻まれた「二面石」などがある。橘寺の下の稲田は、明日香村屈指の彼岸花の名所なのですが、満開なのかな?と疑問を抱きながら、橘寺の下の遊歩道に向かいましたところ、おお、ここの彼岸花はほぼ満開だ!来て良かった!もう午後1時前、足が疲れて来た。下の写真は、橘寺から石舞台に向かう途中で観た彼岸花です。美しい彼岸花を観て、ちょっと元気回復。<石舞台古墳> 午後1時10分、石舞台古墳に到着、ありゃ?やはり石舞台の周辺には彼岸花は全く咲いていない!残念!5年前には、石舞台の周辺には白い彼岸花がいっぱい咲いていたのですが、何故か最近は彼岸花が見られなくなってしまいました。なので本ブログには、5年前に撮った白い彼岸花の写真を貼り付けます。石舞台古墳の白い彼岸花、是非、再生して欲しい!お腹が空いた! で、いつものように、石舞台古墳を見下ろす丘の上の木陰で遅い昼食、プファ~、ビールが旨い!初秋の微風が心地よい!丘の上の土手の草むらの中に白い彼岸花を発見!この白い彼岸花、石舞台の彼岸花の生き残りなのかな?(以下、「奈良・明日香村彼岸花巡り2020(下)」に続きます)
2020年09月26日
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令和2年の「正倉院展」は模造品展!?でも、観に行こう。最高気温が38℃の灼熱日となった8月26日、約8ヶ月ぶりに奈良公園にお出掛けしました。今回のお出掛けの目的は、奈良国立博物館で開催されている<御大典記念 よみがえる正倉院宝物-再現模造にみる天平の技>を観に行くことです。 本来なら奈良公園に行く際には、JR大和路線の乗り、JR奈良駅から徒歩で行くのですが、新型コロナ禍であることと、午前中から35℃に近い灼熱日であることで、またまた女房殿の運転する車の助手席に乗り、出掛けたという次第です。午前9時過ぎ、法隆寺の自宅を出発、午前10時、奈良国立博物館の最寄りの「興福寺駐車場」に到着、ここから博物館までは、約200mです。新型コロナ禍による外国人客激減と猛暑、奈良公園の鹿たち、どう過ごしているのかな?下の写真は、駐車場から博物館へ歩いていく途上で撮った鹿たちの写真です。今日の鹿たち皆、涼を求めて木陰や水路で休んでいる!奈良国立博物館に到着、案の定、入場待ちの行列はゼロ、楽々入場出来る!例年、奈良国立博物館で開催される「正倉院展」では、多数の来場者が殺到し、博物館の前には長い行列が出来、入場するまで1~2時間掛ります。今回は行列が無いので、すぐ入場することが出来ました。何故、来場者が少ないのか?猛暑のためか?新型コロナ禍の影響か?それとも、展示物が「模造品」のため、敬遠されたのか?今回の展覧会に来場者が少ないことの主な原因は、今回の展示物が全て「模造品」だという点にあると思います。何だ、模造品か、模造品=偽物じゃないか、高い入場料を払ってまで、偽物を観に行く必要はない!という訳です。しかし、リュウちゃんはちょっと違った考えを持っていました。模造品と云えども、宮内庁公認で権威ある国立博物館で展示することは、よほど念入りに造られた品である筈、1300年の時を経て、色褪せた本物よりも、作成当時のままの鮮やかさをそのまま再現した模造品のほうが、素人の目を楽しませてくれる筈だ。また模造品なので、正倉院のトップクラスの人気品が一堂に観られる筈、これも素人の来場者には有り難い。また、本物の展覧会であれば、場内は完全に撮影禁止、模造品であれば、場内での撮影も許可されるかも知れないぞ!?以上のような期待を抱き、午前10時過ぎに入場しました。入場の前に、「正倉院」及び「正倉院展」、今回の模造品展についてのメモを書いてみます。<正倉院>「正倉院」は8世紀の聖武天皇・光明皇后ゆかりの品を始めとする天平時代を中心とした約1万点もの美術工芸品を収蔵した校倉造りの倉庫です。756年(天平勝宝8歳)、光明皇后は夫である聖武天皇の十七回忌際し、天皇遺愛の品約650点及び薬物60点を廬舎那仏に奉献したのが始まりのようです。光明皇后はその後、3回に渡って自身や聖武天皇ゆかりの品を廬舎那仏に奉献、現在でも見られるような1万点にも及ぶ県納品となりました。奈良時代には、南都七大寺(東大寺・興福寺・元興寺・大安寺・西大寺・薬師寺・法隆寺)それぞれの寺領から納められた品や、寺の什器宝物などを納める「正倉院」がありましたが、歳月の経過や戦乱のために荒廃して、現在では東大寺の正倉院ただ一棟だけが残ったため、「正倉院」といえば、「東大寺の正倉院」を指す固有名詞となったようです。(正倉院)<正倉院展>正倉院の宝物は江戸時代までは非公開だったようですが、明治時代から戦前までの時期には何回か不定期で公開されることがありました。現在のような「正倉院展」は、昭和21年から始まりました。昨年(2019年、令和元年)、71回目の「正倉院展」が開催されました。昭和21年といえば、リュウちゃんの生まれた年だ!昨年(令和元年)、リュウちゃんは73歳、「正倉院展」が毎年開催されたとすれば、昨年は74回目になる筈だが、、、?何らかの事情で、3回開催されなかった?2019年開催の正倉院展が71回目とすれば、今年の展覧会は72回目ということになる筈ですが、今回の展覧会は「再現模造展」であったためか、<番外>になったようです。今年の秋に正規の「第72回正倉院展」、開催されるのかな?以下は、今回の模造品展に関する奈良国立博物館のHPです。<奈良国立博物館HP>→ここをクリック 上記HPの冒頭に、今回の模造品展に関する「挨拶文」がありましたので、抜粋して以下に貼り付けます<HPの中にあるあいさつ文(抜粋)>◎正倉院宝物の本格的な模造製作は、明治時代に奈良で開催された博覧会を機に始まりました。当初、模造製作は修理と一体の事業として取り組まれ、昭和47年(1972)からは、宝物の材料や技法、構造の忠実な再現に重点をおいた模造製作がおこなわれるようになります。以来、人間国宝ら伝統技術保持者の熟練の技と、最新の調査・研究成果との融合により、芸術性・学術性の高い優れた作品が数多く生み出されてきました。 ◎本展は、これまでに製作された数百点におよぶ正倉院宝物の再現模造作品の中から、選りすぐりの逸品を一堂に公開するものです。再現された天平の美と技に触れていただくとともに、日本の伝統技術を継承することの意義も感じていただけますと幸いです。模造品と云えども、近年の深い考証と、伝統技術保持者の熟練の技で造られた芸術品なのだ!入場してすぐ分かったのですが、今回も場内での撮影は全面禁止、アチャ~、今回も場内は全面撮影禁止だ!ちょっとガッカリ、今回の展覧会は、以下のように6っつの「章」から構成されています。(第1章)楽器・伎楽、(第2章)仏具・箱と几(き)・儀式具、(第3章)染織、(第4章)鏡・調度・装身具、(第5章)刀・武具、(第6章)筆墨、それでは「第1章」から順に展示品を観て行きます。今回も展示品の撮影は不可でしたので、画像は全てネットからお借りしました。また、作品紹介は以下のサイトを基本にしていますので、詳細は以下のサイトを参照してくださいね。 <作品紹介>→ここをクリック<第1章:楽器・伎楽><螺鈿紫檀五弦琵琶>ササン朝ペルシャに起源をもつと云われている楽器「琵琶」、中世~近・現代の琵琶は、殆どが四弦琵琶のようですが、これは極めて珍しい五弦の琵琶です。古代の五弦琵琶で現存する世界唯一の琵琶のようです。オリジナルは天平勝宝8年(756年)、聖武天皇の七回忌に光明皇后が東大寺大仏に献納したとされています。 この琵琶の模造品制作は、平成15年に宮内庁が琵琶の胴体部を造るのにふさわしい良質な紫檀材を入手したことに端を発します。紫檀材を乾燥させるのに約8年、紫檀材が乾燥した平成23年に模造品作成事業開始、(マルバシタンの成木)琵琶の表面の文様は夜光貝を削り出した「螺鈿」で造られています。夜光貝はインド・太平洋のサンゴ礁に生息する大型の巻貝で、ぶ厚い殻の内側が「真珠層」となっており、古くから「螺鈿」の材料として用いられて来ました。(夜光貝)オリジナルの琵琶では消失している弦の復元には、美智子上皇が皇居御養蚕所で飼育されている蚕「小石丸」の細く上質な糸が最適と判断し、この蚕の糸を弦に使ったようです。(美智子上皇と「小石丸」)「螺鈿紫檀五弦琵琶」の再現模造品は2019年3月に完成し、同年、東京国立博物館で開催された特別展「正倉院の世界―皇室がまもり伝えた美―」で初めて展示され、美智子上皇もこの特別展を鑑賞されたようです。紫檀材の調達から16年を掛けて完成された「螺鈿紫檀五弦琵琶」の再現模造品、これは単なる模造品ではなく、高度な芸術品なのだ!<酔胡王面>(オリジナルの「酔胡王面」)(再現模造の「酔胡王面」)「正倉院」に171面所蔵されている「伎楽面」の一つです。「伎楽(ぎがく)」とは、3世紀に中国の南部にあった「呉」国で発祥したとされる仮面劇で、滑稽さを伴ったパントマイム(無言劇)です。日本には7世紀初頭に伝えられ、聖徳太子も大いに推奨したと伝えられています。西暦752年の「大仏開眼供養」の時には大々的に上演されたと伝えられていますので、「酔胡王面」もその時に使用されたのかも知れませんね。「酔胡王」とは酔ったペルシャの王様だと上掲の「作品紹介」では解説されていますが、その帽子の形から、同じイラン系の「ソグド人」ではないかという説も有力だと思われます。「ソグド人」はペルシャ人と違って、商業を得意としており、隊商を組んで中国とも盛んに交易したそうです。「ソグド人」のウィキペディアに、下記の写真が掲載されていました。(ソグド人の唐三彩陶磁器)上の写真には、以下のような説明文が付けられています。「駱駝舞楽胡人俑。ラクダに乗って演奏する胡人の像。俑は副葬用の人形であり、俑の胡人はソグド人を表す」「胡人はソグド人を表す」「胡人」はペルシャ人ではなく、ソグド人だったのか?駱駝の上で弾いている楽器は螺鈿紫檀五弦琵琶なのか?ちょっと興味深々!<漆槽箜篌 (うるしそうのくご)>(オリジナル)(再現模造品)箜篌(くご)とは、古代の東アジアで使われたハープの一種です。ハープは最も古い楽器で、ルーツは紀元前4000年のエジプトまで辿れるのだそうです。模造品は明治27年、当時宮内省職員であり、東京帝室博物館の学芸員であった稲生 眞履(いのう まふみ)によって復元制作されました。第1章が余りに長くなってしまいましたので、「第2章」以下はちょっと端折ります(興味のある方は上掲の「作品紹介」をご覧下さいね)、その代わりに、リュウちゃんがこれまでの正倉院展で観た最も興味を持った御物を、<番外>として入れて見ます。<第2章:仏具・箱と几(き)・儀式具>省略、<番外:漆金薄絵盤(うるしきんぱくえのばん)>仏前に供える香具の台座です「仏像の蓮華座のような形をした木工品。岩形の基座の上に華麗な蓮弁を葺き、盆状に作った蓮肉(れんにく)をのせている。蓮弁は黒漆を塗り、外側は金箔を押し、唐花文(からはなもん)や迦陵頻伽(かりょうびんが)、花喰鳥(はなくいどり)、鳳凰、鴛鴦(おしどり)、獅子などを彩絵している」とても1300年前の製品とは思えない鮮やかな色彩!これは凄い!<第3章:染織、><七条織成樹皮色袈裟(しちじょうしょくせいひしょくのけさ)>(オリジナル)(再現模造品)七条織成樹皮色袈裟は聖武天皇の遺愛品の一つ。2~3種類の色糸をより合わせた杢糸(もくいと)が使われており、拡大撮影した画像をもとに宮内庁正倉院事務所が織り方を再現、文様の部分ごとに横糸の色を変える「綴(つづ)れ」の技法が使われている。縦約1.4メートル、横約2.4メートル。皇后陛下が皇居の養蚕所で育てた「小石丸」のまゆから生糸が提供された。より合わせた糸のどの部分が出るかで色合いが異なるため、熟練の職人でも難しい仕事だったという。京都市中京区の龍村美術織物が請負い、3年かけて完成させた。制作費は1800万円」(以上、奈良新聞の記事転載)ここにも美智子上皇が飼育された「小石丸」の絹糸が使われている!<第4章:鏡・調度・装身具><黄金瑠璃鈿背十二稜鏡(おうごんるりでんはいのじゅうにりょうきょう>(オリジナル)(再現模造品)「正倉院に伝わる鏡のなかで、唯一鏡胎が銀製のもの。また宝物のなかで唯一の七宝製品。大小18枚の花弁の内側に銀の薄板で文様区を付け、黄、緑、濃緑色の釉薬を焼付けて宝相華文をあらわす」(正倉院HPより)現模造は平成年間に行われ、試作を繰り返し七宝焼の技法の再現が試みられました。背面と鏡面に二枚の銀板を打ち出して接合し、色ガラスの粉を高熱で溶かして仕上げているようです。尚。この鏡は現存する「世界最古の七宝焼」の製品なのだそうです。<番外1:紺瑠璃杯>ササン朝ペルシャ(現在のイラク)からシルクロードを経て、「唐」の都「西安」から日本にもたらされたガラス工芸品の逸品、鮮やかなブルーの発色は、「アルカリ石灰ガラス」にコバルトを添加して加工されました。表面は22個の「輪の文様」で装飾されていて、この文様はササン朝ペルシャのガラス工芸品の大きな特徴のようです。 <番外2:鳥毛立女屏風(とりげりつじょのびょうぶ)>(全形)(部分図)6扇からなる屏風、各扇に唐風の女性を一人配した樹下美人図です。頭髪・着衣・樹木などにヤマドリの羽毛が貼られていたところから、「鳥毛立女屏風」という名称が付けられたようです。正倉院の宝物の内、最も華麗な逸品の一つです。<第5章:刀・武具><金銀鈿荘唐大刀(きんぎんでんかざりのからたち)>(全体図)(部分図)「金銀鈿荘唐大刀」は、中国の「唐」代の儀礼刀で、聖武天皇も儀式に用いた大刀と考えられています。全長99,9センチ、手で握る部分は木製で鮫の皮を巻いています。鞘も木製で動物の薄い皮を張り、漆を塗って金の蒔絵を施し、また、部分的に銀製鍍金の透かし彫り金具をかぶせ、水晶や色ガラス玉を嵌め込んだ華麗な造りになっています。明治時代、田村宗吉によって修理復元されました。<第6章:筆墨>「正倉院」に所蔵されている文書は、総数1万数千点、大半は667巻と5冊に整理されています。内容は東大寺造営に関するもの、写経、戸籍、正税帳、計帳などです。戸籍や税帳などの大半は反故になった使用済みの和紙の裏面を使った「紙背文書(しはいもんじょ)」なのだそうです。作品は省略します。午前10時に入場して、約2時間、展覧会を鑑賞、博物館を出たのが、正午ジャスト、もうお昼、お腹が空いた!本来なら奈良公園での昼食は、女房殿お手製のおにぎり弁当とリュウちゃんお手製(?)の缶ビール(2缶)で、野外で摂るのですが、何しろ最高気温38℃の灼熱日、そんなことをしたらリュウちゃん夫妻は「干物」になってしまいます(苦笑)なので、博物館のトイメン(対面)にある「夢風広場」の和食店で昼食を摂りました。(博物館から夢風広場方面と撮った写真、右手、木と木の間当りに夢風広場があります)(夢風広場)プファ~、ビールが旨い!野外の灼熱が嘘のようだ!いつもは、ここから東大寺や春日大社を散策するのですが、今日は灼熱日とあって、とてもそんな余裕はなく、木陰の道を選んで駐車場に戻り、無事、法隆寺の自宅へ帰り着きました(やれやれ!)今回の再現模造品展は「正倉院展」としましては<番外>でした。 それでは今年の秋には「第72回正倉院展」は開催されるのか?新型コロナ禍の中で、年2回の開催は無理なのではないか?などと思っていたのですが、9月15日、奈良国立博物館は、令和2年10月24日~11月9日の日程で、「第72回正倉院展」の開催を発表しました。<第72回正倉院展:奈良国立博物館>ここをクリック⤴今年は新型コロナ禍のせいで、2回も「正倉院展」が観られる!よし、秋にはおにぎり弁当と缶ビールを持って、博物館に行くぞ!
2020年09月18日
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初めて訪れた天川村・みたらい渓谷、ここは真夏のオアシスなのだ!8月12日、女房殿の運転する車の助手席に乗って、奈良の秘境・天川村にある「みたらい渓谷」に行って来ました。 天川村は奈良県の中央部にある深山幽谷の秘境です。修験道の地である「大峰山脈」の麓にあり、大峰山に詣でる修験者の宿泊地なのです。近年、ボーリングによって温泉が掘り当てられ、「洞川(どろかわ)温泉」として関西では知られる温泉郷になりました。天川村には4年前に初めて行きました。その時のブログを下記に貼り付けます。 <奈良県・天川村初探訪~リュウちゃんの懐メロ人生>4年前には、「みたらい渓谷」には行かなかった。どんな渓谷なのだろう?「みたらい(御手洗)渓谷」は、「近畿の屋根」あるいは「大和アルプス」といわれる「大峰山脈」の主峰の一つ、「山上ヶ岳」(さんじょうがたけ)」に源を発する「山上川(さんじょうがわ)」流域の、「洞川(どろかわ)温泉郷」の下流から、「天川村川合」までの約7kmの「渓谷」です。大小無数の岩の間を流れる水は正に「清流」、透明度が非常に高いのです。春・夏は「新緑」、秋は奈良県屈指の「紅葉の名所」なのです。標高は泥川温泉バス停付近で830m、総合案内所のある川合バス停付近で600m、高低差230mのダイナミックな渓谷なのです。例によりまして女房殿お手製のおにぎり弁当とリュウちゃんお手製の(?)の缶ビール(2缶)をリュックに詰め、8時40分に自宅を出発、途中、ちょっと道に迷いましたが、11時ちょっと前に天川村川合にある「天川村総合案内所」に無事到着しました。(天川村総合案内所)「みたらい渓谷」訪問は初めての体験ですので、総合案内所で、ルートマップとか、最寄りの駐車場とかの「情報」を得たいと思い、立ち寄ったのです。以下に「みたらい渓谷散策MAP」を貼り付けます。(みたらい渓谷散策MAP)上記MAPで、「総合案内所」は一番上の部分にあります。太い「赤色」で表示されているのが「みたらいの道」で、起点の「総合案内所」から終点の「洞川温泉バス停」まで、全長7,6kmが「みたらいの道」ということになります(この標高差が230m、天川川合から出発しますと、終点の「洞川温泉バス停」までは「230mの上り坂」ということになります)最寄りの駐車場は上図左下の「休憩所」の横にあります(トイレもここにあります)案内所のお姉ちゃんに駐車場について問い合わせたましたところ、「駐車場は現在満車です。ここに車を置いて、歩いて行って下さい」とのこと、アチャ~、こりゃ、大変だ!総合案内所の前には、「みたらい渓谷内駐車場満車」の看板が立てかけられていました。しょうがない、どこまで行けるか分からないが歩いて行ってみよう。総合案内所から100mほど歩いた所に、小さな「吊り橋」がありました。人数制限5人の小さな吊り橋、ここは「みたらい渓谷の入り口か?吊り橋を渡って暫くは、なだらかな農道が続きます。この辺りの山は「吉野杉」に覆われている!<みたらい渓谷遊歩道> 「総合案内所」から1キロほど歩きますと、「弁天淵橋」という赤い鉄橋に出逢います。この鉄橋の手前右側から「みたらい渓谷遊歩道」が始まっています。 「遊歩道」は、渓谷の周囲の絶壁の間を縫うように作られています。渓谷からは大体50m位の高さがあります。 遊歩道の下は50mの断崖、高所恐怖症のリュウちゃん、目が眩みそうだ!以下は「遊歩道」から撮った渓谷の眺めです。 巨石の間を流れるエメラルドグリーンの清流が美しい!遊歩道の上部も巨石がいっぱいです。 何時落石してもおかしくない崖の上の巨石、崩落恐怖症のリュウちゃん、やはり怖い!<桂(カツラ)の大木> 遊歩道の山側に、カツラの大木がありました。巨樹大好き人間のリュウちゃん、大感激!<2つ目の吊り橋> 「総合案内所」から1時間ほど歩いた所に「2つ目の吊り橋」が現れます。この「吊り橋」は定員10人です。この吊り橋」の下に、「休憩所」があります。ここに、トイレ、駐車場もあるのです。(みたらい休憩所)~この写真はネットからお借りしました。もう正午、お腹が空いた!で、駐車場の脇から河原に降りて、巨石の上で昼食を摂りました。プファ~、ビールが旨い!エメラルドグリーンの清流と涼風が肌に心地良い!この日の奈良市は最高気温36℃の猛暑日、しかし、「みたらい渓谷」の気温は下界よりも10℃近く低く、風も涼しく、 正に絶好の避暑地なのだ!清流では、ヤングファミリーが水遊びに興じていました。新型コロナ禍にも拘わらず、殆どの人はマスク未着用、 このような清閑な環境の中では「3密」は起きる筈もなく、従いまして新型コロナに感染する可能性は限りなくゼロなのですね。リュウちゃんは一応、マスクを着用していたのですが、終始、「アゴマスク」、つまり「顎」にマスクをかけ、鼻と口は露出したままでこのハイキングをしたのです。つまり、リュウちゃんの「アゴマスク」は、「マスク警察」防止のための「ダテマスク」だったのです。河原での昼食を終え、後半の「遊歩道」に向かいました。<みたらいの滝>休憩所の傍の車道の橋の下に、小さな滝があります。この滝は、上掲のMAPによりますと「みたらいの滝」、本日は水量が少なかったのですが、水量の多い時には、かなり見事な「大滝」になるようです。<哀伝橋(あいでんばし)> 「みたらいの滝」の真上に、第3の吊り橋である「哀伝橋」が架けられています。全長85m、高さ約20m、高所恐怖症のリュウちゃんでも、楽々渡れる吊り橋なのだ!この「哀伝橋」、アスファルトで舗装されていますので、一見した限りでは吊り橋には見えないのですが、主ケーブルで床を吊り上げる「吊床版橋(つりしょうばんきょう)」という型式で造られた、「れっきとした吊り橋」なのです。<参考>奈良人リュウちゃんにとりまして、「最大の恐怖の吊り橋」は、天川村の南側に隣接する十津川村にあります「谷瀬の吊り橋」です。(谷瀬の吊り橋)~この写真もネットからお借りしました。 全長約300m、川面からの高さ:恐怖の54m!揺れる足下から54m下の川面に吸い込まれるようだ。怖い!谷瀬の吊り橋へは、10数年前に女房殿の運転する車の助手席に乗って2度行ったことがあります。1度目、リュウちゃんは勇気を奮い起こして吊り橋を渡ったのですが、引き返すことが出来ず、やむなく下の川に降りて、何とか川面伝いに帰ってくることが出来ました(やれやれ!)、女房殿は平気の平左で、スイスイとつり橋を往復したのです(女房殿、貴女は偉い!)女房殿よりも凄かったのは地元の中学生、通学のために自転車に乗って、この吊り橋をスイスイと渡って行くのを見て、唖然としました。十津川村の中学生のみなさん、あなた達のバランス感覚は凄い!<春日八郎「山の釣橋」>哀伝橋の上から見た渓谷の風景です。この辺り、正に「深山幽谷」なのだ!エメラルドグリーンの深い淵と青いカエデ、紅葉の季節に来て観たい!<光の滝> 哀伝橋から10分ほど遊歩道を上った所に、かなり大きな「滝」が見えて来ました。上掲の散策MAPによれば、これは「光の滝」だ!「光の滝」の上層部は、巨石と清流の「夏のオアシス」だ!もう午後2時を過ぎた。そろそろ引き返さないと日が暮れてしまう!という訳で、「光の滝」から少し上った所でUターン、元来た道を引き返し、「総合案内所」に戻りました。全長7,6kmの「みたらい渓谷遊歩道」の内、実際に歩いたのは約半分の3,8km位、ここを往復しましたので、実際に歩いた距離は、遊歩道の全長と同じ7,6km位になります。やはり総合案内所に車を置いての全行程踏破は少し無理がある。今度来る時には、「休憩所」に駐車して、全行程を踏破するぞ!<夏の名残りの花>帰路、総合案内所の近くの民家の畑には、様々な「夏の名残りの花」が咲いていました。「みたらい渓谷」は奈良県屈指の紅葉の名所、今度は紅葉を観に行くぞ!(紅葉の哀伝橋)~この写真もネットからお借りしました。
2020年08月17日
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新型コロナ禍の影響で人っ子一人いない法隆寺散歩には絶好のチャンスなのだ!新型コロナ禍の真っ只中の5月8日、久々に「近所の散歩」を楽しんで来ました。「近所の散歩」と言いましても、歩数約2万歩、散歩時間約3時間の「大散歩」なのです。この「大散歩コース」、10年ほど前には毎日のように歩いた道でしたが、最近は「寄る年波」で、月に一度くらいに頻度が落ちているのです。 <スタート:法隆寺西門>午前9時、自宅を出発、自宅から徒歩4分で、法隆寺の「西門」に至ります。下の写真の、軽トラックの駐車している手前の山道を辿って行くのです。山道に入ってすぐの所から見た「法隆寺五重塔」です。上記「法隆寺五重塔」の写真を撮った同じ場所から撮った山道の写真です。 写真右側は法隆寺の土塀、山道の左側、緑の楓の木の所の左手奥に「ウォーナー塔」があります。<ウォーナー塔> リュウちゃんの自宅から徒歩5分の所にある、小さな記念碑です。この小さな記念碑、何故、「塔」なのか?ちょっと不審。この記念碑は、「奈良・京都を戦禍から救うため、献身的な努力をされた」とされるアメリカの美術史家・ラングドン・ウォーナー(1881~1951)の功績を称えるために、昭和33年に建立されました。ウォーナー塔には、風雨に晒されて殆ど読み取れなくなった「碑文」の石碑が建っています。以下はネットで確認した「碑文の全文」です。興味がある方は下のサイトでお読み下さいね。<ウォーナー塔の碑文>→ここをクリック 「ウォーナー塔」から山道を上って行きます。山道の脇には、野生のツツジが咲いていました。この薄紫のツツジ、「モチツツジ」なのかな?<モチツツジ>法隆寺の「裏土塀」です。この土塀、最近造られました。「裏土塀」の周りに、「藤の花」に似た白い花が咲いていました。 この高木の白い花、何という花なのだろう?<法隆寺裏の棚田> 山道を抜けますと、眼前に棚田が広がります。法隆寺裏の小さい棚田、ここは斑鳩人の憩いの散歩道なのだ!<松尾山(まつおさん)> 棚田の道の一番上部の所に、以下の標識が立っています。<松尾寺:松尾山:1,6km>松尾山(標高315m)の頂上の近くには、「松尾寺(まつおでら)」という古刹があります。斑鳩人はこの寺のことを親しみを込めて、「まつのおでら」又は「まつのおさん」と呼んでいます。開祖とされるのは、天武天皇の皇子で、「日本書紀」を編纂したとされる舎人親王(とねりしんのう、676年735年)です。 「日本最古の厄除け寺」とされており、斑鳩町の多くの人々に親しまれている山寺なのです。<松尾山の山道のモチツツジ>今回、初めて気が付いたのですが、上の写真の「標識」の所から松尾寺に至る1,6kmの山道の脇には、至る所に「モチツツジ」が咲いていました。松尾寺に至る1,6キロの山道は、モチツツジの道なのだ!<松尾寺> 法隆寺の裏の「棚田」の標識の所から約30分で、松尾寺の入り口である「南惣門」に到着します。(南惣門) 以下は、「松尾寺伽藍図」です。(松尾寺伽藍図)上掲の伽藍図で、番号が書かれている主な施設を書きます。(1) 本堂、(2)神霊石の大岩、(3)北惣門、(7)鐘楼、(11)三重塔、(13)バラ園、(14)南惣門、(17)鉢植えのユリ園、尚、松尾山のHPは以下です。 <日本最古の厄除け霊場・大和松尾寺>⤴ここをクリック(本堂)(三重塔)<バラ園> リュウちゃんが本日、松尾寺を訪問した一番の目的は、ここの「バラ園」を見ることだったのです。ここのバラ園には80種500株のバラが植えられています。例年、バラ園の一般公開は5月15日~6月5日で、この日は本当は入場出来なかったのですが、潜り込んで何枚か写真を撮りました。やはり時期が早過ぎた。ちょっと残念!ユリはまだ未開花、残念!<帰路> 帰路は往路の「南惣門」からではなく、反対側の「北惣門」から舗装された車道を辿ります。下の写真は「北惣門」です。「北惣門」の右奥に、「松尾寺霊泉」という小さな湧き水があります。プファ~、湧き水が旨い!いつもこの湧き水には癒される!「北惣門」からは通称「七曲がりの車道」と言われる県道123号線が続いています。「七曲がりの車道」の道脇にも、シャガ、ツツジがいっぱい咲いていました。県道の途中から眺めた「奈良盆地」です。写真中央部の山は春日山(三笠山)、その左の色の薄い所は「若草山」です。県道の途中から右折して、「法隆寺カントリー倶楽部」(ゴルフ場)の間を縫う小道に入ります。新型コロナ禍の中でもゴルフ場は開場していまして、プレーする人がいました。この小道は、「斑鳩三塔」の一つ、「法輪寺」に続いています。 途中の池には、亀さんが日なたぼっこをしていました。「三井(みい)浄水場」の見事なツツジ!前方に「法輪寺三重塔」が見えてきました。 この辺りにも様々な花が見られますが、花音痴のリュウちゃん、花の名前がサッパリ分かりません。 下の写真の花、何という名前の花なのか?ご存じの方、教えて下さいね。「法輪寺」から約600m歩きますと、本日の最後の目的地である「法起寺(ほうきじ、ほっきじ)三重塔」に着きます。<斑鳩三塔巡り> リュウちゃんの住んでいる斑鳩町には、聖徳太子ゆかりの「法隆寺」、「中宮寺」、「法輪寺」、「法起寺」の4つの古刹があります。この4っつの古刹の内、中宮寺を除く3寺には、それぞれ「法隆寺五重塔」、「法輪寺三重塔」、「法起寺三重塔」の「三塔」があります。この「三塔」を巡る約5キロの道は、「斑鳩三塔巡り」として斑鳩町の主要な散策コースとして親しまれているのです。今回、ブログのタイトルを「斑鳩四塔巡り」としましたのは、上記「三塔」に加えて「ウォーナー塔」を入れて「斑鳩四塔」としたためなのです。この「四塔」に「松尾寺三重塔」を加えると「斑鳩五塔」になる?残念ながら、「松尾寺」は斑鳩町ではなく、隣町の大和郡山市にありますので、「斑鳩五塔」とは言えないのですが、舎人親王が松尾寺を建立した8世紀の初めには、ここは当然、「斑鳩の里の奥の院」のような存在だった筈ですね。明治以降の町政区分で、松尾寺は大和郡山市に編入されてしまいましたが、歴史的に見れば、斑鳩三塔に松尾寺三重塔を加え、「斑鳩四塔」とするのが正しいのではないでしょうか。正午少し前、人っ子一人居ない「法隆寺」に戻ってきました。法隆寺の境内にも、至る所にツツジが咲いていました。 法隆寺は、隠れたツツジの名所なのだ?ーーーーーー<特報>新型コロナウィルス特別定額給付金(一律10万円)5月22日に申請書が郵送されて来まして、必要事項を記入した申請書を5月23日にポストに投函、26日に「振り込み通知書」が郵送されて来まして、5月29日(金)、無事に振り込まれました!
2020年05月31日
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リュウちゃんの行きつけの馬見丘陵公園、河津桜の並木が出現した!3月11日の朝日新聞奈良版に「馬見丘陵公園の河津桜が見頃」という写真入りの小さな記事が出ました。 えっ?馬見丘陵公園に河津桜がある?初耳だ!で、早速、3月12日に女房の運転する車の助手席に乗って馬見丘陵公園に行ってみました。いつものように、北エリアの駐車場に車を停め、そこから公園に入ったのですが、そこには早咲き桜は全く見当たりません(女房殿の意見では、新聞に掲載された写真の場所は北エリアではないかということだったのです)新聞に掲載された河津桜、どこに咲いているのだ???で、中央エリアの「公園館」まで行き、案内のお姉さんに聞きましたところ、「河津桜は「南エリアの<巣山古墳>の北側に咲いています。ここには河津桜と寒緋桜の並木があります。まだ植えられて4年くらいしか経たない若い並木です」とのこと、アチャ~、南エリアは北エリアと真逆の場所だ!(馬見丘陵公園MAP)リュウちゃん1人であれば、当然、歩いて南エリアに行く所なのですが、女房殿が嫌がりましたので、改めて北エリアの駐車場に引き返し、車で南エリアに移動しました。南エリアに隣接している広陵町の「竹取公園」の駐車場に駐車し、巣山古墳に向かいました。眼前に寒緋桜の並木が見えてきました。上の写真で、右側に見える「森」が「巣山古墳」です。寒緋桜の並木が途絶えた先に、「河津桜」の並木が見えてきました。若い河津桜と「巣山古墳」のコラボが美しい!<巣山古墳について>下の空中写真は、昭和54年に国土交通省が撮影したものです。現在の河津桜並木は、写真の左側に造られています。「巣山古墳」は全長204mの巨大な前方後円墳です。全国の古墳の大きさランキングでは23位、古墳のメッカ(!)、奈良県の古墳ランキングでは11位、馬見丘陵公園にある古墳の中では一番大きい古墳です。被葬者は不明ですが、古代、この辺りを支配していた「葛城氏」の「王」であるとの説が有力です。昭和27年に国の特別史跡に指定されました。 この日は、「ちょっと立ち寄った」だけでしたので、かなり不満が残りました。よし、今度はリュウちゃん一人で遠足に行こう!という訳で、3月20日(春分の日)、リュウちゃん1人で馬見丘陵公園に遠足に行きました。例に寄りまして女房殿お手製の「おにぎり弁当」とリュウちゃんお手製(?)の缶ビール(2缶)を入れたリュックを背負い、午前9時に法隆寺の自宅を出発、今回は往復共、徒歩で行ったのです。午前10時20分、馬見丘陵公園の北エリアの入り口に到着、リュウちゃんの家から馬見丘陵公園北エリアまでは、徒歩1時間20分なのだ!<北エリア>北エリアの入り口にも「早咲き桜」が数本咲いていました。北エリアの「集いの丘」を見上げる「馬見花苑」、今の季節は、色とりどりのパンジーば植えられています。 チューリップも開花が始まりました。<雪柳>「馬見花苑」の南端には、見事な「雪柳の並木」があります。公園内には、今の季節は至る所で雪柳が満開だったのですが、特にここの雪柳の並木は見事だったのです。<中央エリア>北エリアから小さいトンネルを抜けると、そこは中央エリアです。中央エリアのチューリップも開花が始まっていました。<公園館>中央エリアの入り口にあるシンボルタワーです。<辛夷(コブシ)>「公園館」の裏手に咲いています。 ここの満開の辛夷、初めて観ることが出来た!公園館から南エリアに向かいますと、前方に上下2段の「黄色い花」が咲いていました。遠目には「蝋梅」のようにも見えますが、<山茱萸(サンシュユ)>上段の黄色い花はサンシュユです。別名「ハルコガネ(春黄金)」、秋にはグミのような赤い実をつけるのですが、この実を珊瑚に準えて「アキサンゴ(秋珊瑚)」という別名もあるのだそうです。<ヒュウガミズキ(日向水木)>下段の薄黄色の花はヒュウガミズキです。この木は元々は近畿地方の日本海側の岩場に自生しているのだそうで、名前にある「日向(宮崎県)」には自生していないそうです。日向地方に自生していないヒュウガミズキ、ちょっと不思議な名前だ!<ナガレ山古墳>馬見丘陵公園は、日本でも有数の古墳群である「馬見古墳群」の真ん中に作られた都市公園です。園内にある古墳は、名称が公表されているものだけで8基ありますが、ナガレ山古墳は全長105mの前方後円墳で、国の史跡に指定されています。園内の古墳中、唯一、築造当時の姿が判るように整備されています。階段を上り、古墳の上に出ました。 下の写真は、一段高い後円部から撮った「前方部」です。右手奥の山は「金剛山」です。「後円部」からの眺め、前方の山並みは大和高原です。山並みの左端には若草山、下の写真では途切れていますが、右端には「三輪山」があります。この山の麓に、古代の道である「山の辺の道」が35kmに渡り、続いているのです。 ここからの眺め、なかなかの絶景なのだ!「中央エリア」の南端と「南エリア」の間には、整備された町道で隔てられているのですが、「墳観橋」という歩道橋で繋がっています。その「墳観橋」の周辺では、数本の「白木蓮」が満開でした。「白木蓮」の彼方に見えるのは、「二上山(にじょうざん)」です。山頂付近に、古代の悲劇の皇子・大津皇子(おおつのみこ)の墓があります。<南エリア>「墳観橋」を渡ると、河津桜の咲いている「南エリア」です。3月12日に満開だった寒緋桜と河津桜、まだ咲いているのかな?と思って「南エリア」に入りましたところ、ありゃ、寒緋桜、殆ど終わりかけだ。(でも、少し咲き残っていました)ありゃ、河津桜は殆ど葉桜だ!?でも、まだ半数ほどのの河津桜は、葉が増えて来たとはいえ、「見頃」だったのです。もう12時30分、お腹が空いた!で、巣山古墳の「前方部」の畑の前で昼食、プファ~、ビールが旨い!この絶景の中の昼食、新型コロナウィルスも吹っ飛びそうだ!馬見丘陵公園「南エリア」の河津桜は、全部で50本くらい植えられていました。 まだ植えられて4年しか経っていませんので、現在のところ、「河津桜の名所」とまではなっていないのですが、5~10年くらい経てば、立派な「奈良の河津桜の名所」になる筈ですね。そうなる時を楽しみにしているリュウちゃんなのです。でも、リュウちゃん、その時まで生きていられるかな?
2020年03月24日
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水谷神社のイブキの巨樹いつもながら、凄い迫力だ!(前回のブログの続きです) 二人の巫女さんの後を追うようにして、春日大社を出ました。ここから若草山、手向山八幡宮、東大寺に向かいます。<一言主神社>先ずは「一言主神社」です。春日大社の境内にある小さな一言主神社は、春日大社の「末社」です。多分、奈良県御所市(ごせし)にある葛城一言神社の分社だと思われます。春日大社境内の摂社・末社の中でも、人気のスポットの一つで、いつも、「一言の願い事」を書いた絵馬を奉納する参拝客の行列が出来ているのです。 一言主神社といえば、全国的には茨城県常総市にある「一言主神社」が有名なようですが、こちらは平安時代に葛城の一言主を迎えて創建された「弟分」のようです。リュウちゃんの願い事はとても一言では言えない、なので絵馬奉納はパス(苦笑)一言主神社から水谷神社に向かう参道の横も鹿の集合場所です。あまり鹿せんべいを貰える場所でもないのに、何故ここに鹿が集まるのだろう?下の写真の真ん中に、「奈良の鹿」についての注意書きの看板があります。最近、観光客が鹿に襲われて負傷する事件が多発しているようですので、この看板の文言を以下に書き起こしてみます。<奈良公園の鹿の多くは人に慣れていますが、あくまで「野生動物」です。時として人を攻撃することがありますので、特に高齢の方や小さいお子様連れの方は注意して下さい> 孫姫ちゃんたち、鹿にせんべいをあげる時は、すぐせんべいを手放すのだよ!<水谷神社>冒頭の写真の、「イブキの巨樹」がある小さい神社です。 イブキの老巨樹が神社を圧倒している!今にも圧し潰されそうだ!このイブキの巨樹の下に以下のような看板が立てられています。 このイブキ、樹齢は何年なのだろう?<若草山の麓の鹿たち>水谷神社を過ぎると、若草山の麓に登っていく石段が見えてきます。 石段で雄鹿がお出迎え、リュウちゃん、若草山へいらっしゃ~~い!雌鹿さんもお出迎え、 リュウちゃん、若草山へようこそ!若草山の麓も奈良公園屈指の鹿の集合場所です。 ここの鹿も、皆、いい顔をしている!<手向山八幡宮>手向山八幡宮は東大寺建立にあたり、大分県の宇佐八幡宮から東大寺の守護神として迎えられた神社です。 手向山八幡宮の境内にある杉の巨樹、これも奈良公園屈指の巨樹なのです。ここにも雌鹿が顔を出しました。 リュウちゃん、こんにちは、<二月堂から生駒山を遠望>2枚目のズームアップした建物は大仏殿です。ここからの眺めは奈良随一なのだ!<大仏殿>普段、奈良公園を一周する時には、リュウちゃんは入場料(大人600円)の掛る大仏殿には入らないのですが、正月なので久しぶりに入ってみました。大仏殿の中は撮影可、実はリュウちゃん、大仏殿の廬舎那仏他の仏像の写真を撮ろうと思ったのですが、カメラの調子が悪かったのか(最近、ちょっとカメラの調子が不安定で、かなりボケた仕上がりになることが多々あるのです)、リュウちゃんの技術がヘボなのか(これは自他共に認めるところです。調節が出来ず、単に被写体にむけてシャッターを押すがけのバカチョンカメラマンなのです)、大仏様を撮ったつもりが「真っ黒」に潰れてしまい、何も見えないとうい体たらく、情けなや~!ちょっとボケていますが、辛うじて撮れた大仏様の右脇侍の「虚空蔵菩薩」の写真を以下にUPします。<南大門>東大寺南大門、相変わらず、凄い偉容だ! <南大門の前の鹿の群れ> 南大門前の参道、ここは奈良公園最大の鹿の集合場所なのだ!<鹿のお尻の毛は何故白い?>リュウちゃんは奈良の鹿の写真を撮る時には、「顔」を中心に撮るのですが、以前、奈良市在住のブログ友さんに「鹿のお尻フェチ」の女性がいました。 鹿のお尻の毛は白いハート型なのだ!鹿のお尻は何故白いのか? いろいろネット調べしました所、以下のような記事が目に留まりました。(1) 鹿は大型肉食獣に追いかけられた時には集団で逃げる。先行する鹿を追いかけるためには、前の鹿がよく見える必要がある。そのために夜でもお尻がよく見えるようにお尻のい毛を白くした。う~ん、リュウちゃん、この説はちょっと納得できない。何故かといいますと、日本には虎やライオンのような大型肉食獣がいないからです。そうだ、つい100年位前にはオオカミがいたぞ!しかし、二ホンジカは夜眠りますが、集団で眠っている時に夜でもくっきり見える白いお尻はオオカミの恰好の標的にならなかったのでしょうか?(2) 鹿の白い尻毛は「尾鏡(びきょう)」と呼ばれる。緊張すると臀部の筋肉の動きで、白い尾毛が逆立ち、群れの仲間に警戒の合図を送る。また他の仲間を守ろうとして、襲撃者の囮(おとり)になり、仲間を襲撃者から救う。う~ん、リュウちゃん(2)の説のほうに納得です。孫姫ちゃんたち、今度、奈良公園に行くときは、鹿の白いお尻も観察してね。ーーーーーーー<特報> 将棋の藤井聡太七段、順位戦連勝ストップ、師弟同時昇級成らず、連続昇級赤信号残念!(藤井聡太七段と師匠の杉本昌隆七段)2月5日に行われた将棋C級1組順位戦で、師匠の杉本昌隆七段と共に「師弟同時昇級」が期待されていた藤井聡太七段、残念ながら近藤誠也五段との第10戦に敗れてしまいました。これで、一昨年から続けていた順位戦連勝記録は18でストップ、中原誠十六世名人の持つ順位戦連勝記録をい抜くことは出来ませんでした。そればかりではなく、順位戦連続昇級にも赤信号が点ってしまいました。現在、藤井七段が所属している順位戦C級1組(五段格)には、39人の棋士でB級2組(六段格)への昇級を争っています。昇級枠はたったの2人!あと1戦を残して、昇級候補者は8勝1敗で並んでいる以下の4人です。★近藤誠也五段(C級1組順位6位)★杉本昌隆七段(C級1組順位7位)★船江恒平六段(C級1組順位14位)★藤井聡太七段(C級1組順位31位)同じ8勝1敗でもC級1組の中での順位がランクを決めますので、現在のところ、藤井七段の順位は「4位」ということになります。順位4位ではB級2組に昇級出来ない!<藤井七段の昇級の条件>★藤井七段が3月5日の最終戦に勝つことが絶対条件、★更に、藤井七段よりも上位にいる3人の内、2人が負ける事、上位3人中、2人が負けないと昇級出来ない!これはかなり厳しい条件だ!確率は100分の1くらいか?現在、将棋界の8大タイトル中、「名人位」を除く7大タイトルは予戦から連勝し続ければ、1年で獲得することが出来ますが、「名人位」だけはプロ棋士になってから最低5年掛るのです。<プロ棋士になってから最短で名人になるまでの年数>(スタート):先ずC級2組(四段格)に入る。(1年目):C級1組(五段格)に昇級する。(2年目):B級2組(六段格)に昇級する。(3年目):B級1組(七段格)に昇級する。(4年目)A級(八段格)に昇級する。(5年目):A級で優勝すると名人戦に挑戦者として出場、先に4勝すると「名人」になる。「神武以来の天才と称された加藤一二三九段は、14歳7ヶ月でプロ棋士(四段)になり以後、順位戦を毎年昇級昇段、18歳3ヶ月でA級に昇段(最年少記録)、A級2年目の20歳3ヶ月でA級優勝、史上最年少の名人挑戦者になりました。しかし、この「名人戦」は大山康晴15世名人に1勝4敗で敗れ、名人位獲得とはなりませんでした。加藤が名人位を獲得したのは初挑戦から22年後の42歳のことだったのです。(加藤一二三九段)史上最年少で名人位を獲得したのは谷川浩司九段、彼は14歳8ヶ月でプロ棋士になり、C級2組で1年足踏みした後は順調に昇級昇段、20歳直前の19歳と360日でA級に昇段、この年のA級順位戦で優勝、名人挑戦者として加藤一二三名人に挑戦、21歳と2ヶ月の時、名人戦に勝利勝利しました(史上最年少名人)(谷川浩司九段)タイトル獲得数99回、7大タイトル全てに永世称号を獲得した羽生善治九段は、加藤一二三、谷川浩司に続き、3人目の中学生棋士になりました。順位戦デビューは15歳と10ヶ月目のことでした。順位戦ではC級2組を2回、C級1組を2回経験しましたが、B級2組からは毎年昇級昇段、1993年3月、22歳6ヶ月でA級に昇級、昇級1年目でA級優勝、米長邦雄名人を4-2で下し、23歳9ヶ月で名人位を獲得しました。(羽生善治九段)藤井聡太七段は、2016年9月3日に奨励会三段リーグで優勝し、同年10月1日付けで四段に昇段し、プロ棋士になりました。この時、藤井君は14歳2ヶ月、これは加藤一二三九段の14歳7ヶ月より5か月早い史上最年少記録でのプロ入りでした。しかし、順位戦C級2組が始まるのが、翌年の6月からですので、C級2組を全勝突破した2018年3月には、藤井君は15歳7ヶ月になっていました。加藤一二三九段は14歳7ヶ月でプロ棋士になりましたが、すぐに順位戦に参加出来たようで、C級2組を突破した1955年3月時点では、15歳2ヶ月、藤井七段、史上最年少でプロ棋士になったが、C級2組最年少突破の記録は加藤一二三九段なのだ!この「差」は、プロ棋士になってから順位戦に参加するまでの「ブランク」の差なのですが、ちょっと残念な気がしますね。藤井聡太七段殿今期C級1組突破は難しいかも知れませんが、これからも「異次元の将棋」を指して下さいね!
2019年02月12日
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