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令和のコメ不足だそうである。理由は昨年の猛暑や地震の影響を受けての買いだめといわれるのだが、どうなのだろうか。コメの収穫量はたしかに減っているが農業従事者の高齢化や農地の減少によるところも大きいだろう。地震の影響というのもどうなのだろうか。震災の不安が高まったのはたしかなのだが今に始まったことではない。むしろ「買いだめ」のニュースが買いだめをよんでいるのではないか。コロナが始まった頃、マスク騒動に続き、コメや保存食品の買いだめという動きもあった。ステイホームで戦々恐々としていた頃は買い物も最小限にし、そのうち、本当に物の供給がなくなるのではないかと不安におもっていた人もいたわけである。実は、あの頃に、コメをあわてて買い、しまっておいて忘れていたのだが、それが3年後くらいに出てきたため、古々々々米といいながら、やっと消化した。その時の教訓から、たしかにスーパーなどではコメはなくなっているが、あわてて買わなくてもいいように思う。また、地震の影響であるが、日向灘を震源とする地震があったことで南海トラフ地震に警戒する必要が高まったとのことなのだが、はたして地震予知というのは可能なのだろうか。南海トラフ地震にしても、1361年から1946年までの間に100年から150年周期で大規模な地震が発生しているという歴史学的知見が根拠となっている。しかし、地質学の世界では地質の活動は10万年単位に考えるともいわれており、これに対する人間の記録などはせいぜい1000年くらいのものである。そして地域も機内周辺の記録が多いのは当然で、東北や北海道の記録はないのではないか。人間だって咳がでやすいかどうかは医師は診断できるが、その人が10秒後に咳をするか20秒後に咳をするかはどんな名医でもわかるわけがない。人間にとって重大事の1年や10年という時間も地球にとっては1秒や10秒のようなものである。
2024年08月27日
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ダイナミックな「太平記」を読んだ後、すらすらと読める歴史小説を探して読んだのが「市塵」である。歴史小説には二種類あって、作者が自由に想像の翼を広げて書いたものと、資料を丹念に読み込んで読みやすくまとめたものとがあるように思う。新井白石の伝記となっている本書は後者だろう。資料も多いし、なによりも本人の著作も残っている。文章は藤沢周平なので非常に読みやすく、市井の儒学者だった新井白石が甲府藩に仕え、その後、藩主が将軍になるに伴いご意見番となって、家宣、家継の二代の将軍のご意見番として勤務した様子が淡々と描かれる。徳川時代を通じて、知恵者の側用人や御意見番が現れては消えていったが、将軍家をしのいだり、将軍家を棚上げにして権力をふるうような者はあらわれなかった。将軍吉宗の登場で、新井白石はご意見番を辞して儒学者としての著述生活に戻る。生類憐みの令などの綱吉時代の政策の否定に始まり、宣教師からの対外情報の収集、朝鮮通信使の礼遇の簡略化、通貨鋳造など、はでな施策や事件があるわけではなく、淡々と時代は移っていく。それにしても、あの太平記を読んだ後では、平和な時代のものはものたりない。それにしても、徳川綱吉は暗愚な将軍とされているが、このイメージは新井白石によるところもあるのかもしれない。最近では綱吉の再評価も行われているという。なにしろ「もし徳川家康が総理大臣になったら」でも徳川綱吉は入閣しているくらいなのだから。今度は今話題の「逃げ上手の若君」を見ようかな。
2024年08月26日
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政治について語るとき、よく右とか左とかいう語が使われる。この右とか左についての古典的な見方では、経済的、あるいは社会階層を上下に分け、富裕層の立場にたつ意見を右、貧困層の立場にたち意見を左としている。昔は、マルクス主義あるいは社会主義という理論が流布しており、貧困層つまり労働者階級こそが人類の歴史の歯車を回し来るべき社会の主人公になるといわれていたので、左=マルクス主義、右=反マルクス主義という区別はわかりやすかった。けれども今は時代が変わり、日本で言えば江戸時代に生まれたマルクス主義を正しいと思う人はどれくらいいるのだろうか。今の格差は親がブルジョアかプロレタリアかによるものではないし、工場や農地などの生産手段を国有化したところで平等な理想社会が生まれるわけでもない。今でも右や左という言葉が使われるが、これは左=リベラル、右=移民排斥という意味で使われることが多いように思う。これがますます混乱する。リベラルという語は保守に対する語で、保守とは伝統的思考方式をさす。欧米では伝統的思考方式は宗教と結びついているので、宗教で罪悪としている中絶やLGBTが政治的テーマとなる。日本では、その伝統的思考に当たるのがなぜか家父長的思考とされ、LGBTだけではなく、選択的夫婦別姓やジェンダーの問題も政治的テーマとされている。はっきり言おう。ほとんどの国民にとっては、LGBTも選択的夫婦別姓もどーでもよい問題で、やりたければどうぞではないだろうか。ジェンダー差別も能力を活かせないという意味での差別は、とうの昔になくなっている。某県で問題になっている公立高校の男女別学であるが、これは優秀な女子が男子のトップ進学校に入れないのは差別だといわれても、男子が女子のトップ進学校に入れないということは問題視されない。なにか男子の進学校を女子の進学校の上に置くような、それこそ一種の「男尊女卑思考」ではないかと思ってしまうのは自分だけなのだろうか。移民排斥となると、日本ではそうした問題が起きていないだけにもっとわかりにくい。極右というと、なにか特殊な偏った思考のようだが、欧州ではその極右政党がかなりの支持を得ているので偏った少数派とはいえない。英国ではパリ五輪期間中に反移民の暴動が起きている。そしてその極右の支持層は、右というから富裕層かと思いきやさにあらずで極右の支持基盤は貧しい層である。それもそのはずで、移民労働者に職を奪われたり、移民の流入によって待遇が低下するのは低賃金労働者だから当然だ。さらに移民が集団で住めば、周辺住民には脅威になるのだが、そうしたことは高級住宅地ではまず起こらない。移民の犯罪発生率が高いというのは偏見でもなんでもなく、経済的に不安定だったり希望のない状態におかれた人ほど逸脱しやすいというのは人間に共通することである。だから、貧しい層は反移民を支持し、移民に職を奪われる不安もなく、高級住宅地に住み、移民系といってもその中の知的エリート層とだけお友達になっている裕福な層は反移民をポピュリズムとよんで軽蔑する。結局のところ、左=リベラルは富裕層、右=貧困層といった、昔ながらの右とか左といった概念とは様相が異なってきているわけである。米国でも大企業幹部などの本当の富裕層は別にすれば、裕福な知的エリートは民主党支持、ラストベルトの労働者は共和党支持という図式になっているという。
2024年08月25日
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これという花にない盛夏に、百日紅の赤はひときわ目を引く。あきる野市では並木に百日紅を植えているので、道路を行くだけでも楽しい。このあきる野市が合併によって誕生するはるか前にこのあたりが連続幼女誘拐殺人事件の舞台になっていたことも人々の記憶からかなり薄れている。舞台というのは正確ではない。犯人の男が五日市町に住んでいたのだ。事件が起きた時、多くの人は孤独な一人暮らしの男の犯行を想像した。被害者の骨を被害者の自宅に送り付けたり、遺体を切断したりしていたので、犯人が家族と同居している状況は考えにくかった。しかし、実際には、犯人は地域新聞を発行している名士である父親と母、そして妹と一緒に暮らしていた。もっとも、犯人の居室は離れになっていて、そこには無数のビデオがあったという。その犯人の生家はながらく更地の駐車場になっていたというが、通りかかってみると、「和み広場」という立札がたっていた。ベンチが置いてあるだけで、なんの設備もない。今後、設置されるのかもしれないが、東京の中では今後過疎化がすすみそうな地域なので、このまま放置されていくようにも思う。殺人自体がこの場所で行われたわけではないのだが、住民にとっては気分のよいものではないだろう。敷地の隅に大きな形の良い石が二つ置いてある。かつての庭に置いてあった石かもしれず、かの犯人も何度もこの石の周りで遊んだことだろう。あの当時は20歳代後半の男が幼女趣味でアニメを好んでみていたというと奇異な感じがした。しかし、今ではアニメの多くは深夜に放映され、明らかに成人男性をターゲットとしたものも多い。そのアニメの主人公も、中学生や高校生の美少女が多いが、幼女キャラも人気を博している。もちろんアニメと犯罪は無関係であるが、あの事件もたしかに時代を先取りしていたように思う。今では20代どころか30代以上の大人が美少女アニメを好んでみて、声優をおいかけるなどは普通の光景になっているのだから。
2024年08月23日
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韓国ドラマ「智異山」を視聴中だ。山岳ミステリーということなのだが、今のところはレンジャーを主人公にした山岳ドラマということで、見ながら涼んでいる。韓国最高峰の山なのだが、2000メートルはないので、老人が、子供が登ってくるので、それぞれの人間ドラマがある。思ったことを脈絡なく、以下に書いてみる。智異山はチリ山と読むのだが、なぜ異をリと読むのだろうか。イではないのか…と思う。また、あちこちに登山禁止区域があり、レンジャーが監視しているというのも、ちょっと日本では考えにくい。まあ、そのあたり、ドラマなのでレンジャーをめだたせているのかもしれないのだが。智異山は、また、朝鮮戦争の際には戦場にもなり、銃弾の残る岩もある。その際に死んだ母の供養に登山する老婆もでてくるのだが、朝鮮戦争では全土が廃墟になり、多くの人が死んだ。同族殺傷の悲劇だが、その背景には中国、ソ連、アメリカがいた。こうした国々への反感よりも、機会あるごとに反日がでてくるのが不思議である。ドラマでは智異山の上で巫術をやっているのをレンジャーが強制的に排除する場面がある。韓国で古代から続く民間信仰にシャーマニズムがあるのだが、それは巫俗とされ、宗教とはみなされていない。だからクリスチャンでも仏教徒でも巫術の託宣を聞くこともあるという。その代り、儒教は宗教と位置付けられていて、朝鮮時代は儒教を国教として仏教は弾圧されたという。日本では、儒教は宗教とはみなさず、儒学という言葉を使っている。宗教事情だけは国によってずいぶんと違い、民族の境界線もこのあたりにあるのかもしれない。主演はチュジフンなのだが、以前見た時とはずいぶん感じが変わっていて最初はわからなかった。際立った長身もカメラアングルのせいか、さほどめだっていないし。
2024年08月22日
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お盆ということもあり、墓参に出かけた。八王子の静かな山の中にある墓地であり、墓地ができた当初にお墓を建てた。その後は、お盆やお彼岸、命日のたびにお参りをしており、ずいぶん年月がたっているのに、お墓はそれほど増えていない。そういえばひところは墓地不足という言葉が聞かれたが、最近はあまりいわれなくなっている。それどころか、古いお寺などでは、放置されている墓所を整理しているところも多いようだ。葬式離れとか僧侶離れということが言われるが、墓地離れということもあるのかもしれない。古い感覚では盛大な葬儀と立派なお墓が幸福な人生の終着駅のような見方もあったのだが、今ではそんなふうに思っている人はいないだろう。どうも、背景には少子化ということがあるのかもしれない。自分には子供がいない、子供がいても孫がいないとなれば、お墓を建てても、その墓をずっと守る人がいるとは限らない。昔なら、たとえ自分に子供がいなくても血縁集団という感覚があり、その血縁は未来永劫ずっとつながっていくという感覚があったものなのだが。少子化の影響については様々なことがいわれている。ただ、それはどうも経済関係の分析が多いように思う。そうではなく、血縁が連綿と未来永劫に続くという感覚、家も墓も何万何千年はないにしても、今後何百年くらいは続くという感覚がなくなっているのではないか。「太平記」などを読むと、昔の武将は後世に残る名をなによりも大切にしていた。自分の子や孫はたとえいなくても、自分の属する血縁集団は永遠に続く。その中で、恥ずかしくない形で自分の名が伝えられなければならない。こうした感覚は今では理解しにくい。自分の死後も子々孫々がお参りするお墓、自分の死後も家の名誉として大切にされるであろう勲章や褒章…自分の子孫がいないのだとしたら、そんなものはどうでもよい。もしかしたら、そうした感覚が広がりつつある時代なのかもしれない。
2024年08月20日
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昔から思っていたのだが8月は過ぎるのが速いように思う。夏休みは7月20日から8月31日まであったのだが、まだ7月だ、休みは長いぞと思っていると、そのうち8月になり、そこから先はあっという間だ。だいたい宿題は先送りする方だったので、8月の終わりころに友人の家に行って、そのまま答えを写させてもらったこともあった。それにしても、夏休みといえば、子供は外遊びが普通だったのだが、今よりは絶対に暑くなかったように思う。もちろん射病という言葉はあったが、それは炎天下で帽子をかぶらないでいると日射病になるといわれていた。その後、日射病に近い言葉として光化学スモッグなどということがいわれた時期もあったが、それでも、今日の死者まで出る熱中症とは別物だったのだろう。少子化もあるし、猛暑の影響もあるのかもしれないが、外遊びをする子供というのはまず見かけなくなった。
2024年08月19日
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「財閥家の末息子」の二度目の視聴を終えた。貧しい一家を支えて忠実に勤務していた社員が、会社に切り捨てられ殺害されたと思ったら、ソウル五輪直前の時代に財閥家の末息子として生まれ変わっていた。「私の夫と結婚して」と同様の人生やり直しファンタジーかと思っていたが、そうではなく、見終わると再度視聴したくなる。転生?した財閥家の末息子と忠実に勤務していた社員は同じ時代に同じ年代として、別々の人生を歩む。一人は工員と食堂経営の母との間の子として、もう一人は財閥創業者の愛人の子である父と元女優の母との子として。ただ、財閥家の末息子は社員としての記憶も持っているので未来の出来事を知っている。大韓航空機事件、大統領選挙、IMF危機、ワールドカップ四強など…。未来の知識と優れた頭脳を武器にして、他の親族をおしのけて着々と地位を築いていく。一方、同時代を生きる社員は父親の失職、母親の死、進学希望の放棄、契約社員やアルバイトを転々とする生活をする。中進国から先進国となっていく中で、失職や小口株式の切り捨てなどで犠牲となっていく庶民への目線もあり、経済ドキュメンタリーのような趣もある。最初に見た時にはよくわからなかった箇所も多かったのだが、二度目の視聴では、ああこういうことかと思う。転生でもタイムスリップでもない…こういう物語の作り方もある。存在感あふれる財閥総帥は「未生」の生活感あふれる中年サラリーマンとは同じ俳優とは思えないし、主人公は貧しい生い立ちの高卒社員とスーパーエリートの財閥家の息子を演じ分けていた。面白くお薦めのドラマである。
2024年08月18日
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番組としては見ていないのだが「逃げ上手の若君」という南北朝期を舞台にしたアニメが人気なのだという。「太平記」を読みながら南北朝の武将について検索するとしばしばこのアニメがヒットする。この時代は今まで漫画やドラマの舞台になったことが少なく、その分、登場人物もイメージが固定していなくて、面白い話が作りやすい。それに登場人物も多様で、武将の中には、源氏や平家のような武家もいれば、寺社勢力もいる。また、公家の中にも武力を有するものもいるので、このあたり、武力の有無が武家と公家をわけているわけではない。「太平記」で描かれている時代というのは公家が没落していった時代であり、貧窮死する公家一家の挿話や身寄りのない公家女房の話が出てくる。財力といっても、それを支えるのは土地の支配権であり、武家の勃興と公家の没落の背景には、土地の支配権の変遷があったのだろう。だから公家の中でも経済的基盤のしっかりした公家は生き残り、江戸時代も天皇家をとりまく公家官僚として残っていった。一方でまた、武家にしてみても、領地を失い経済的基盤をなくした場合には貧窮死することもあり、実際、「太平記」にはそうした最期を迎えた武将もでてくる。律令制度には国司郡司という制度があり、平安時代の貴族は地方官を務めると財産を得ることができた。土地のあがりは貴族が得ていたわけである。その後、守護地頭の制度ができるとともに国司郡司といった律令制の地方官は形骸化していった。吉良上野介といっても吉良氏は上野に知行地があるわけではなく、単なる名称である。こうした変化は徐々に起きて行ったのだろうけど、南北朝時代というのが転換期だったのかもしれない。
2024年08月17日
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パリ五輪が終わったので、日本人のフランスへの憧れについて考えてみる。明治維新後日本が近代国家として出発した頃、欧州では普仏戦争が起こっており、新興プロシャが急成長していた。英国は産業革命を終え、世界の覇者として君臨している。そうした時期だったので、近代化の模範はまずドイツであり、英国だったのは当然のことだったであろう。幕末にはオランダ語を勉強した人材もいて、近代化の重要な力になったのだが、オランダ語を習得すれば似た言語である英語やドイツ語の方が学習しやすい。そうした意味で、フランスというのは、本流とちょっとはなれた、斜に構えた界隈での憧れの国だったのかもしれない。旧制高校でも外国語は英語とドイツ語が中心で、フランス語は文学部志願者の間で人気だったという。ふらんすへ行きたしと思えど…という萩原朔太郎の詩があるが、憂愁の文学者の憧れはフランスであって、英国やドイツではない。戦後になると、フランスへの憧れは、すごい勢いで普及してきているアメリカ文化よりも一段高級なヨーロッパの文化というイメージが背景にあったのだろう。おフランスでは~を口癖にする漫画のキャラは有名だったが、流行歌でも「フランス人のように」というお洒落な歌がヒットしていた。横顔さえもフランス人のように…といっても、あんた鼻低いじゃん…というつっこみはなしにする。まあ、こんな歌ができるほどフランスへの憧れは一般的だったわけだ。「韓国人のように」という歌はいくら韓流ブームがあってもできそうにない。フランス人のように (佐川満男 さん) (youtube.com)
2024年08月16日
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ずいぶん前から話題になっていた映画である。行ってみると観客席はけっこう埋まっていて、若い人が目立つ。コロナ禍に苦しむ日本でAIで復活させた歴史上の偉人の内閣をつくったら…という映画だ。コロナは劇的に弱毒化しているわけでもないのに、いつのまにかウィズコロナが日常になっている。だから、この映画は、あのコロナが出てきた当初の社会の雰囲気を思い出させる。今から見ればコロナも騒ぎすぎだったように思う。それはともかく歴史上の偉人を現代によみがえらせるというのが面白い。こういうのは最初は笑えるがそのうちばかばかしくなり、映画館を出るころには金と時間の無駄遣いを後悔する映画かと思っていたが、評判がよさそうだし、監督が「翔んで埼玉」の監督なので期待して見た。豪華キャストで再現された歴史上の偉人達は、実際にもこんな感じだったのかも、と思わせる。ただなにしろ歴史上の偉人であるだけに現代の政治家とはけた違いのカリスマ性がある。そして国民というものはそんなカリスマに熱狂しやすい。国の進路を誤るのは、国民がそんなカリスマにまかせて思考停止をしてしまう場合なのだろう。一人一人が自分を信じて自分で考えろということなのだろう。そう考えていくと、歴史上の偉人に任せるというのも、一種の白紙委任ではないか。歴史的偉人じゃなくとも、選挙民はとかく「何かやってくれそうだから」と言って票を投じることをやってしまいがちである。まあ、この映画の最後は人々が選挙に行く場面で終わるのだが、いくら選挙に行っても、この前の都知事選のように投票したい人がいないのも困ったものだ。それこそAIジョーもいたし、大石蔵之助もいたし、織田信長??もいて、ここだけは偉人ジャーズを髣髴とさせたのだが。
2024年08月14日
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「太平記」を読み終えた。軍記物語に分類されるのだが、「平家物語」とはずいぶん趣が違う。源平合戦を背景に滅びゆく平家の哀れを描いたのが平家物語なら、南北朝時代の動乱を背景に裏切り、卑怯、狡猾などそこに蠢く人間の実相を諧謔も交えて描いたのが「太平記」である。もちろん「平家物語」にも主君から立派な馬を賜りながら主君を見捨てて逃げる家臣が出てくるし、「太平記」にも楠木正成のような英雄的人物もでてくる。それでも、どちらに重点を置いて描いているかといえば、両者は明らかに違うように思う。また、「平家物語」が語り物らしく物語としての記述で一貫しているのに対して、「太平記」では人物名を羅列した箇所が多く、記録文学としての面もある。また、仏典や漢籍からの引用も多く、そうした挿話は後半になるほど多くなる。こうした挿話を読むのも、面白さのうちだろう。ただ、太平記は、平家物語に比べると読みにくい。これは、裏切り、寝返りはあたりまえの時代であるため、読んでいるうちにどちらが幕府方なのか、南朝側なのか、北朝側なのかがわからなくなってくるのである。私は、新潮日本古典集成で読んだが、これは注に適宜説明があるので、ずいぶん助かった。たしか、学校では応仁の乱で戦国時代が始まったと習った。しかし、「太平記」を読むと、室町時代初期からしょっちゅう戦闘があったようだ。鎌倉幕府を倒す戦いがあり、次には北条残党による中先代の乱があり、次には、建武の新政側と足利尊氏の戦いがある。このあたりまではわかりやすいのだが、室町幕府成立後は、高師直と足利直義の争いなど幕府内の争いが起きてくる。それどころか、互いに気に食わないくらいの理由での大名同士の争いまであるので、全く世の中は平和とはほど遠い。物語の終わりでは次第に南朝も先細りになっていき、世の中はようやく安定する様子をみせる。もっともこの時期になると南朝方の戦もどこか気が抜けていて緊迫感にかけている。湊川の戦いのような悲壮感ある戦はなくなっている。「太平記」という書名には平和な時代を希求するという意味があるのだろうけど、義満の小康状態を経て、やがて戦国時代が始まることを思うと、徳川の世になるまで、日本では長い長い戦争の絶えない時代が続いたのかもしれない。
2024年08月13日
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オリンピックが終わった。閉会式はトム・クルーズが出てくるなど、楽しいつくりになっていた。それにしても、還暦を超えているはずなのにあの動きはすごい。最後はハリウッドで到着して次の開会都市のロスにつなげるつくりとなっていた。開会式のときのようなごったに感はなかったが、和気あいあいとした選手たちの雰囲気が伝わってきて、これはこれでよい。パフォーマンスは圧巻で、やはりこれだけの人員をそろえる人材の厚さは大変なものだと思う。それにしても、パリオリンピックなのに、レディガガとかトム・クルーズとか、フランスには世界的スターがいないのだろうか。それとも、国籍にこだわらず世界的スターを参加させるということなのかもしれないが…。国別のメダルなんてことをいうのは全くの時代遅れもよいとこなのだが、日本が三位というのも驚く。中国も金メダルでは米国と同数なので、アジアがスポーツ弱小地帯というのは、全く昔の話になったのだろう。競技の多様化や女子競技の増加など、種目自体の変化もあるし、トレーニング方法などスポーツ科学の発展もあるだろう。ただ、最近ではオリンピック以外にも、各分野で世界的な才能をみせる若者が目立つように思う。こうしたことは、もしかしたら女性の社会進出と関係あるのかもしれない。女性もそれぞれの能力を生かして活動するようになれば、同じような才能を持つ相手と結婚することが多いのではないか。学問に優れた人は優れた者同士、音楽家は音楽家同士、アスリートはアスリート同士と結婚する機会が増える。そうすると、そうした分野で傑出した能力を持った子供が生まれる可能性が高くなってくる。本当にこうしたことがあるのかどうかはなんともいえないのだが、ちょっとそんなことを考えてしまう。
2024年08月12日
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たぶん世の中には別の感覚の人も多いと思うのだが、個人的な感想ということでご容赦いただきたい。はっきりいって五輪報道にはうんざりしている。日本選手のメダルラッシュと盛り上がり、選手の親兄弟や生い立ちを紹介し、感動物語にしたてる。そして選手の地元ではどうやって集めたのか地域の人々が集まって大画面の前で一喜一憂する。そして知り合いですらないような近所のおばちゃんまでがこれからも応援しているよとマイクの前で言い、スタジオでは感動をもらったとかいって盛り上がる。感動をありがとう…と。それにしても、どっかの誰かが東大理三に合格したような場合、知り合いでもない人が感動するのだろうか。そんなことはまずない。ノーベル賞受賞とか、国際的コンクール優勝とか、かなりすごい快挙であっても、称賛はするが、感動をありがとうというのとは違う。それなのにオリンピックではなぜ感動をありがとうになるのだろうか。思うに、他のコンクールや競技大会などとは違い、そこでは国家というものが介在するからではないか。選手は日本代表として試合に臨む。これを心理学ではどう説明するのか知らないが、国家が介在することによって、日本選手は自己の延長となり、自分の家族のように自国の選手を応援する。だから日本選手が活躍すると、報道は歓喜でもりあがり、感動をありがとうの大合唱になる。その背景には選手=日本国家=日本国民である自分という一種のフィクションがある。そしてそれはあくまでもフィクションである。戦前の時代、そして戦後の復興途上の時代ならともかく、今のオリンピックではそうしたフィクションはかなり後退しているのではないか。今は昔だが、ある水泳女子選手が「そんなにメダル、メダル言うんだったら、自分で泳いでみればいいんですよ」と言ったことがあったが、これは失言ではなく本音なのだろう。この発言は、選手=日本国家=日本国民というフィクションをぶちこわしており、だからこそ当時は失言とされた。こうした発言をする選手はその後はいないのだが、若い選手をみていると、「日の丸を背負って」とか「国民の期待に応える」といった感覚は薄れているようにみえるし、それでよいのだと思う。選手も稀有な才能と努力を別にすれば普通の若者であり、日の丸戦士でもなければ武士でもないのだから。そしてオリンピックを見る側である我々も、日本選手の活躍と感動物語だけでなく、地球規模での多様な選手たちの人間ドラマにも目を向けたいものである。「そんなにメダル、メダル言うんだったら、自分で泳いでみればいい」 超ド級の「問題発言」を発した女性アスリートの本心(デイリー新潮) - Yahoo!ニュース
2024年08月09日
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IOC幹部のリップサービスかもしれないが、記者との懇談会の中で、もう一度日本で五輪をという話がでたという。さすがに、ネットのコメントではとんでもないという意見が殺到している。たしかにもう一度五輪をやるのはごめんこうむりたいものだ。IOC幹部は日本で五輪番組の視聴率が高いことを理由にあげたようだが、これはテレビでさかんにそれを放映しているというだけのことだろう。多くの有力選手にはスポンサー企業がついていて、こうした企業はテレビ局にとってもスポンサーである。いずれも、もちつもたれつの関係があるのだろう。古来、為政者にとって民衆をよろこばせるのはパンとサーカスときまっているが、オリンピックなんてそのサーカスの最たるものだろう。選手を追いかけ、メダルメダルと連呼し、家族をまきこんだ感動物語を放映する。思えば、子供の頃はオリンピックをみるのが好きだった。それは勝敗というよりも、いろいろな国の選手がでてきて世界の広さを実感するのが好きだったからだ。当時は今よりもずっと競技の数も少なかったし、放送も静かだったように思う。今回のオリンピックは、様々なところで議論をよんだり、問題が指摘されている。不安視されていたセーヌ川のトライアスロンはやはり健康被害を訴える選手が続出している。人が泳げる川ならとうに市民が水遊びくらいしているだろう。パフォーマンスでちょっと泳ぐならともかく、一定時間泳がなければならないトライアスロンに使うなど無理があったのではないか。選手の中には遊泳中、「見てはいけないもの」を見てしまったという人もいるという。こうなると競技開催自体が人権問題にみえてくる。トライアスロンもそうなのだが、サーフィンやカヌー、ヨットも競技を開催できる国となるとかぎられる。競技を増やせば増やすほど開催国の負担は増す。今後は開催地に名乗りを上げる国も少なくなるのではないか。IOC幹部の発言ももしかしたらそのあたりをみすえているのかもしれない。今後は特に希望する国がある場合以外は、二か国か三か国くらいに固定して回り持ちにしてもよいのかもしれない。そうすれば新たに設備を作るなどの無駄も省ける。実際、過去にオリンピックを開催したところではせっかくの施設が廃墟化しているところもあるという。そしてまた、開会式もどんどん肥大化している。今回も、大いに論争になっている最後の晩餐のパロディー?以外にも、斬られた首が歌うパフォーマンスにも批判があるという。これについては、開催国の人々が、流血によって近代的人権を勝ち取ったこと誇りにしているのなら、血に染まる宮殿や斬首された王妃がでてきても不思議ではないと思うのだが。批判者の中には、フランス革命自体に疑問を呈する人もいるようなのだが、評価はともあれ、フランス革命が、人類史上の大きな教訓であることには否定できないのではないか。
2024年08月08日
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この間、新田神社に行ってきた。10年以上前に「太平記」を読んだ時も訪れたのだが、このたび再度読み直し、再び新田神社とは…。まあ、なによりも場所が多摩川矢口渡しというすぐ行けるところにあるのが大きいのだが、このあたりを舞台にして若き武将新田義興の謀殺劇が行われたというのが興味深い。当時の多摩川はもっと東京都側を流れており、矢口渡しと新田義興の墓所のある新田神社は近かったという説もあるという。太平記によると、このあたりの多摩川は特に深く、川の中ほどで謀殺に加担していた船頭が、義興と家来の乗った船の底を抜き、江戸遠江守や竹沢右京亮らの軍勢が川の両側から矢を射かけたという。そもそもなぜ舟に乗ったのかといえば、所領を取り上げられ将軍家に謀反を起こすのだが、その際の大将になってほしいという嘘の話で騙したのである。戦で死んだのならまだしも、汚い手口での謀殺はさぞや無念であったろう。江戸遠江守が死に、そのあたりに光るものが飛び交うなどの怪異が続いたので、義興を祀るためにできたのが新田神社である。新田神社は武蔵新田駅から歩いて数分の町中にある。境内には、樹齢数百年の欅の神木があり、なでると若返るという。また、珍しいことに、石の卓球台があり、ラケットや玉も貸し出すというのだが、この暑さでさすがに卓球をやっている人はいない。本殿の近くには、破魔矢のモニュメントがあり、説明では、破魔矢はこの神社から始まったという。たしかに、太平記には義興の怨霊が矢で身をさしつらぬいたという夢をみた江戸遠江守がその後狂い死にしたという記述がある。こうした話をモチーフに才人平賀源内が歌舞伎脚本を書き、有名になったのが、「神霊矢口渡し」で、これは今でも上演されている。恨みが深いほど、神となれば、大きな利益があるのだろうか。今でも多くの人が参詣する神社であり、多摩七福神の一つにもなっている。ただ、他の神社と違うのは、神社の奥には新田義興の御塚(墓所)があり、そこは立ち入ると祟りがあるとして柵で囲ってある。こうした禁忌の場所というのは、ときおりあるのだが、東京の住宅地にあるのは珍しい。もちろん禁忌は固く守られている様子だ。新田神社のほど近くには、義興とともに亡くなった家臣を祀った十寄(とよせ)神社があり、そちらにもお参りをした。さらに、義興の愛妾で、美しく心優しい女性であったという少将局を祀った女塚神社もあるのだが、こちらは少し離れたところにある。なお、女塚という地名は小地名として今でも残っている。
2024年08月07日
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太平記の時代というのは公家と武家の間で権力が移り変わっていった時代で、その権力というのはつきつめれば領地の実入りをどこがとるかといった問題だろう。そして、その過程では当然に零落していく人もでてくる。太平記には、そこそこに優雅に暮らしていた公家が、戦乱の中で、財産は散逸し、屋敷も消失して、都を去って物乞いをしたあげくに家族ともども身を投げるという哀話がでてくる。その一方で新興の武家は茶の湯だの田楽だのと贅沢三昧な生活をする。昔、習った歴史では、応仁の乱で都が焼け野原となって戦国時代が始まったとされていたのだが、室町幕府成立後の南北朝時代も何度も戦は起きているし、京の都が灰塵に帰すこともあった。どうも最初から室町時代というのは安定した中央政権のない時代だったように思う。零落した公家の中には、よるべない身の上となる者もいる。太平記には、身寄りのない上臈女房が、新田義貞の遺児である新田義興を謀殺するための道具にされる話がある。竹沢右京亮という武士が義興に近づくために美しく気立ての良い上臈女房を養女にし、妻として義興に献上する。これにより、すっかり竹沢右京亮を信頼した義興は、多摩川を渡る船の中で謀殺される。義興を祀る新田神社は武蔵新田の駅のすぐ近くの住宅街の中にあるのだが、同時期に殺害された上臈女房を祀る女塚神社、そして義興と一緒に死んだ家臣を祀る十寄神社も近くにある。太平記には義興の怨霊が様々の怪異をもたらしたという話があり、新田神社の奥には禁忌の森がある。江戸時代には才人平賀源内がこの話をモチーフに神霊矢口渡という歌舞伎を書いており、江戸庶民の間でも新田義興と新田神社にまつわる話は知られていたのだろう。
2024年08月06日
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オリンピックの最後の晩餐のパロディとされる場面であるが、全く印象に残っていなかった。そしてその後、いろいろと議論になってその場面をネットで探そうとしても動画がでてこない。聞くところによると著作権を盾にかたはしから削除されているともいう。長い開会式の録画映像の中で見つけるのもなんだかなあ…と思っていたのだが、実際に探してみると運よく簡単に見つかった。映画「ソドムの市」のような場面で全身を青く塗った男が歌うというもので、彼はフランスで大人気のシンガーソングライターということだが、歌も本人もさほどよいとも思わなかった。最期の晩餐というのも言われてみればそうなのかなと思う程度で、だから最初に見た時には「あっ、最後の晩餐だ」とは思わなかったのだろう。これについての記事をみると、宗教を冒涜…というか嘲弄する意図はおそらくあったのではないか。なにしろLGBTとかポリコレとかいった概念自体が、LGBTを罪悪視する伝統宗教への批判という意味合いがあるのだから…。そしてまた、フランスの近代史というのは、伝統宗教の桎梏からの脱却という意味があり、今ではライシテという厳格な政教分離があるという。宗教から俺たちはこんなに自由になったんだということをアピールしても不思議ではない。だからいまさら、あれは関係ない、ギリシャ神話がモチーフだといっても、ひよっているようにしかみえない。まあ、もちろんこんなのは内心の問題で本当にギリシャ神話のつもりだったのかもしれないのだけれども。ここでどうしても思い出すのは、イスラム教を冒涜した漫画を公立学校の教師が生徒に見せ、それが憤激をよんで、教師が殺害されるという事件が起きたことだ。件の漫画もネットでみたが、単に宗教を嘲弄するためだけのもので、別に面白くもなんともない。ただちょっと驚いたのは殺害された教師は国葬に付され、それに大統領も参列したということだ。もちろん公立高校の授業とオリンピックの開会式は同列ではないが、冒涜といえば、いわれてみれば最後の晩餐かなと思う程度のパフォーマンスに比べても、あの漫画は何百倍も冒涜している。殺人はもちろん悪であるにしても、冒涜漫画をみせた被害者教師を国葬にして大統領まで参列したということは、世界に向けて、宗教を冒涜する自由を尊重するということを宣言したということではないのだろうか。そうだとしたら、今回の最後の晩餐のパロディとされるパフォーマンスについても、堂々と、「見ようによっては冒涜ととらえ、気分を害する人もいるかもしれないけど、そうしたものも含めて表現の自由は大切にしたい」と宣言する方が首尾一貫しているように思う。「フランスには冒涜する自由がある」マクロン大統領、ムハンマド風刺画再掲載で - 産経ニュース (sankei.com)
2024年08月05日
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「太平記」(四)を読んだ。知れば知るほどカオスな時代で、裏切り、寝返りは当たり前、ほぼ中心人物の足利尊氏さえ何を考えているのか不明で、いったい切腹の決心、出家の決心を何度やっているのだろうか。しかし、そうした絶体絶命の場にたってもなぜか強運で、いつのまにか幕府の創始者になっていたという感じだ。このあたり、天下統一を目指していた戦国時代の英雄や、日本の近代国家としての国づくりを考えていた幕末の偉人とは違う。南北朝時代は大河ドラマになったのは一回しかないのだが、この時代をドラマにしにくいのは皇室の扱いの難しさもさることながら、登場人物が何を目指していたかということの描きにくさもあったのではないか。この時代の人々は確固とした価値観があるわけではないのだが、武士の体面は非常に重視する。多くの人々が討ち死にする場面や集団で切腹する場面は何度も出てくる。合戦による死者の人骨が大量に見つかったというニュースがときどきあるが、それも南北朝時代のものが多いようである。京の都も何度も戦乱で荒廃し、足利義詮が一時的に南朝と和睦した時は、都を追われた北朝の官人でさえ、このままでもよいのでとにかく平和になってほしいと願ったくらいだ。いったいこの戦乱はいつまで続くのか…「太平記」という書名には、戦乱の終結の願いがあるのではないかというが、そのとおりだろう。戦国時代は応仁の乱で始まったというのが通説だったのだが、最近の研究では室町幕府というのは当初からそれほど安定した体制ではなかったという説もあるらしい。実際の権力の帰趨は、財力と兵力であり、究極的には、その領地を抑えている兵力であったのだろう。それぞれの地域ごとに、その場所を抑えている勢力があり、そうしたものが勝ち馬に乗ろうとして、ある場合には南朝方、ある場合には北朝方についていたというのがこの時代の実態であり、わかりにくさでもあるのだろう。
2024年08月04日
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「太平記」を引き続き読んでいる。鎌倉幕府滅亡から室町時代初期という時代の裏切り、寝返りとあまりにもカオスなことに驚くばかりだ。それは作者も承知の上で、漢楚の興亡や源平合戦で二度も裏切ったなんて例があるだろうかと嘆く。この時代は、多くの人々は形勢をみて、時流に乗ろうとしているので何度でも裏切る。どんな大群でも形勢不利となれば、我先にと戦線を離脱する。忠臣のような顔をして主君の最期を見届けた家臣がさっさと屋敷から金目の物を探して逃走したり、主君から美麗な武具や馬を送られて出陣した武士が敵の目の前で土下座をして降伏する。源平合戦なら奢る平家を諸国の源氏が立ち上がって倒していくという流れがあり、その中で滅ぶ平家の哀れさが印象的なのだが、太平記の世界はもっとわかりにくい。鎌倉幕府に代わった建武の新政も公家方の奢侈や乱脈など多くの問題がある。その後は、国に天皇が二人いるという南北朝の時代になり、錦の御旗とか尊王とかいった理念も不確かになっていく。登場人物にしても、智謀の忠臣楠木正成や武人新田義貞はまだ英雄的に描かれているが、足利尊氏はわかりにくい。戦況が不利になると、すぐに腹を切るだの出家するだのと言い出し、全く英雄的人物ではない。将軍でありながら高師直の軍に屋敷を包囲され、そのため、弟の足利直義が出家に追いやられるのだが、ここまでくると、本当に、足利尊氏は最初から権力があったのだろうかとも思う。実際、それまで政務は直義が行っていたので、初めから直義にかなり権限があったのではないかと思う。後世からみれば面白い時代のように思う。
2024年08月03日
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埼玉県など一部地域で公立高校の共学化が議論になっているという。こうした高校は戦前からの伝統校であり、戦後の教育制度改革の中で、なぜか別学として残ったのだという。戦後80年近くを経て、子供の数も減っている時代になにをいまさら…の議論だ。そして意見を言っているのも、伝統を尊重したいOBOGや男女平等の観点から別学に疑問を呈する識者の意見ばかりで、肝心の中学生や親がどう思っているかという話はなかなかでてこない。問題になっている別学校は、いずれも地域トップの進学校なのだが、進学校として学力を伸ばすのなら別学よりも共学の方がよいだろう。勉強は切磋琢磨が重要であり、いくら上には上がいるものだとわかっていても、その高校でお山の大将になってしまうと、そこで成長は止まってしまう。どの教科にも得意な子というものはいるもので、例えば、その地域の高校生で数学トップは男子、国語トップは女子だとしたら、女子高で数学のできる子、男子校で国語のできる子は、より先を走っているライバルの姿がみえないので、数学や国語の能力を伸ばしにくいのではないか。ただ、学力レベルとなると、男子校が共学化してもレベルはさほど落ちないのだが、女子高が共学化すると、レベルがおちる可能性がある。偏差値がすべてではないのだが、ある地域では、その高校のヒエラルキーをその前身でみると、県立第一中学、県立第二中学、県立高等女学校、市立高等女学校の順となっている。かつては女子の優秀層は県立高等女学校に行っていたのだが、戦後は県立第一中学の後身の学校にいくようになったわけである。おそらく、方向としては男女共学という流れは止めようがないだろう。そしてその流れは一部の県の公立高校の次には、男女別学の国立大学付属高校や国立女子大にも及んでいく。また、今でもあるかどうかわからないが、男女別で定員に差を設けている高校も同数、あるいは男女一緒に選抜という方向に動いていくことだろう。
2024年07月31日
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最近、ポリコレという言葉をよく聞く。これは、ポリティカル・コレクトネスの略で、人種、信条、性別、体型などの違いによる偏見や差別を含まない中立的な表現や用語を使用することを指すという。この「など」には、もちろんLGBTなどの性的志向も含まれる。だからだろう。今回の開会式でも、登場人物は必ず男女同数か女性が多く、人種も多様となっていた。美形ばかりでなく、太った男女がでてきたり、随所でLGBT的表現があったのもポリコレを意識していたのだろう。こうしたポリコレは映画にも影響を与えていて、ハリウッドなどでは、キャストやスタッフの多様性を確保するようにしているという。以前、ディケンズの「デビッド・コパフィールド」を読んだとき、映画化されたものを探したのだが、産業革命期の英国が舞台であるにもかかわらず、主人公はインド系、妻になる女性は黒人、その父親は東洋人となっていた。映画の見方はいろいろあるが、原作の雰囲気を映画に求めるのなら、いくら背景の建物などをそれらしくしても、俳優がイメージと違っていれば難しい。東洋人の親から黒人の娘が生まれるというのもありえないし、こうした有色人種の演じる役が、才色兼備の女性や主人公の恩人となる紳士など肯定的人物に限られているのも、かえって偏見の裏返しのようなものを感じる。このポリコレという言葉、国内ではあまりきかない。考えてみれば、日本ではあまり「人種差別」は意識しない。ワーホリに行ってホームレスの炊出しに並ぶ日本人というのは例外で、今のところは、企業や大学など、しっかりしたバックグラウンドのある人が海外に行くことが多いし、そういう人は人種差別することもなければ、されることもないだろう。また、やってくる外国人も、異人種の単純労働者が大勢で固まって住むというところはほとんどない。もしも、日本でも状況が変わり、国内問題として人種差別が語られるようになれば、国内でもポリコレという議論が起きてくるのかもしれない。
2024年07月30日
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パリ五輪の開会式を感動をもってみていた。歌も踊りも素晴らしい。なんたってフランスは芸術と文化の国。ヨーロッパ文明の華。世界の憧れ。マリーアントワネットの首がうたいだす。こんなのは日本では考えられないがそれくらいフランスは表現が自由なんだ。芸術の発展はこうでなくってはね。自由、平等、博愛…なんてすばらしい人類の永遠の理想。雨が降ってきたみたい…フランスの雨といえばシェルブールの雨傘、パリに歌えばなんだけど、雨ですらフランスだと粋にみえるなあ…と思っていたのだが、一夜明けてみるとけっこう批判があるらしい。特に物議をかもしているのは「最後の晩餐」のパロディで、録画している中から該当場面を探そうと思ったが面倒なのでやめた。ネットで探すと最後の晩餐と同じ構図でLGBTの面々が座っているもので、すぐに見つけることができる。「最後の晩餐」は宗教画というよりも有名な名画で、だいたい「最後の晩餐」の絵に向かって祈りをささげている人などみたことない。個人的には、いかにもパロディになりそうだし、問題にするほどでもないと思うのだが、敬虔なクリスチャンの感覚は違うようだ。やはり演じているのはLGBTを思わせる人々で、そうしたものがキリスト教では罪悪とされてきたことと無関係ではないだろう。そう思ってみると、LGBTや中絶の問題が、リベラルと保守との間で政治的論争になるかもわかる。今は、特にマスコミ人士や高学歴富裕層の間ではリベラルが圧倒的に優勢なようなので、今回の開会式も「多様性」に配慮したポリコレの展示会のようになったのもむべなるかなである。まあ、いいんだけど。こうした場面での宗教の扱いは、風刺画問題をみても、たいていは表現の自由対宗教という関係で議論される。〇〇の自由とか権利とかいうと、それが絶対的によいものであるかのように思うことが多いのだが、人間が集団で生きている以上、どんな自由や権利だって、他者の自由や権利を尊重するものでなければならない。報道の自由や知る権利といったって犯罪被害者の生活を破壊するような所業は許されるわけもないし、同様に、宗教も信者にとってはそれがよりどころでありアイデンティティにもなっていることを思えば、宗教の嘲笑もやるべきではない。だからフランスで起きた宗教風刺画がらみの殺人事件で、被害者の教師を国葬にし、それに大統領までが参列したというあたりにすごく違和感をもった。フランスは文化と芸術の国であることには違いないが、同時に、まだまだ理解しがたい面も多いようである。
2024年07月29日
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オリンピックの開会式は面白い。その国が何を誇りにしていて何をアピールしたいのか…そんなことがメッセージとして開会式に込められているように思う。中国ならば悠久の歴史とともに人類文明に不可欠な紙や印刷術の発明が中国発祥であることがもりこまれていたし、イギリスならば産業革命に代表される近代文明や福祉国家制度の創設がもりこまれていた。オーストラリアでは原住民との融和や世界各地からやってくる移民による活力ある国家として発展している姿がアピールされていた。もちろんそれはアピールしたいことであって、それが真実かどうかはまた別の問題である。パリ五輪の開幕も素晴らしいパフォーマンスで度肝をぬくようなものばかりであった。気球や燃えるピアノ、川の上を走る馬などの技術もさることながら、大勢のパフォーマーを集めるだけの層のあつさにも驚く。そして随所にちりばめられたフランスのブランドや文化芸術作品など、ああいった文化もまた国家の大きな資源であることを実感させられる。歴史であるが、やはりフランス革命の描き方であろう。歴史の評価は様々であっても、近代文明のなかでフランス革命の意義については否定できない。しかし、そうであっても、王妃の首をちょんぎったことはさすがに描かないのではないか…ロンドン五輪でも清教徒革命で王様の首を切った(文字通り)ことはやらなかったのだから…と思っていたら、いきなり王妃の血まみれの首が歌いだすパフォーマンス。そして建物が血を象徴する赤に染まっていく迫力。フランス革命は人類史の輝かしいイベントであると同時に、永遠の警鐘でもあるのだろう。1789年7月。その年は大凶作の年で多くの庶民は食うにも困っていた一方で、王侯貴族たちは華やかな生活を繰り広げていたという。あまりにも長いので録画をはしょってみたのだが、パフォーマンスはどれも素晴らしく飽きさせない演出だった。また、今回の五輪から「イマジン」が開会式の歌として取りれられたという。これは、宗教も国家も財産もない世界のすばらしさをうたった歌なのだが、しかし、宗教も財産もない世界というのはそんなに素晴らしい世界なのだろうか。個人的なことを言えば、自分は信仰心はそれほどでもないが、神社仏閣は大好きだし、金持ちではないが自分の大切なものを財産というのならそれは自分でもっていたい。そしてまた、国家だって、たとえ国家がなくなったとしても、その中で国家のような小集団は必ずできると思う。人間はなにしろ群を作りたがるものなのだから。
2024年07月28日
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円安を背景にして、最近では若者の間でワーキングホリデーが人気だという。中でも人気なのは働きながら英語も学べるオーストラリアなのだが、そこで仕事が見つからずに失業状態に陥る人がいるという。そうした人の中には風俗関係の仕事についたり、もっと酷い例では失業者のための炊き出しに並ぶ例もあるという。当然なのだが、英語国では英語力が要求され、そこで英語力の低い人は「いらない」ということになる。英語教育など必要ないといった英語不要論が教育に関する議論の中で散発的にでてくるようであるが、今ほど英語力の必要な時代はないのではないか。日本人が一概にということはないのだが、ワーキングホリデーの労働市場でも日本人は英語力で見劣りするために就労が難しい。「日本人はいらない」豪州ワーホリ利用者の惨状「求人1人に50人殺到」「ホームレス化」「“夜の世界”に踏み込む女性も」(SmartFLASH) - Yahoo!ニュースよいとか悪いとかは別にして英語が第一の国際語であるという事実は少なくとも今後数世紀は変わらないだろう。考え方によっては国民の英語力というものはその国の人的資源ともいえるのかもしれない。ひところ科学技術立国ということがいわれたのだが、理数系の才を伸ばすのと同じくらいに英語力を伸ばす必要がある。理数系の才は先天的要素が大きいが、英語力の才は理数系ほどには天与の才の差はないだろう。他に特別な才のない人ほど英語力だけはせめて身に着けるという姿勢が必要な時代なのかもしれない。そしてまた、今のように外国人が街にあふれているような時代には、国内にいても英語力は必要ではないか。インバウンド需要というが、国内での英語の通用度は外国人旅行者の受け入れにも関係する。新幹線が不意に運航停止となり、多くの人が難儀したというが、その際に、外国人旅行者への対応はどうなっていたのだろうか。逆の立場で、海外旅行に行って同じような事態に遭遇したとしたら、言葉が通じないでは心細いことこの上ない。よく英会話学習の動機で「外国人に道を聞かれたときに困る」と答える人がいることが笑い話のように語られるが、困るか困らないかは別にして、外国人に道をきかれるのもけっこう普通のことになりつつある。オーストラリアの最低賃金は日本の1.5倍であり、英語圏ということもあって、ワーキングホリデーが人気なのもわかるが、そこで職がみつからなかったとしても体当たりで英語を身に着けてくればよい。夜の世界はどうかと思うが、炊き出しに並んでも周囲に積極的に話しかけていれば語学は身につくのではないか。
2024年07月24日
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太平記を読む場合には常に登場人物がどちら側であるかを確認しておく必要がある。このあたり、平とか源とかいう登場人物の姓でどちら側かがわかる平家物語とは違う。登場人物がわかりにくいだけではない。南北朝の争いには大義がみえない。大義といえば錦の御旗なのだが、この時代にはなにしろ天皇が二人いる。大義がないので、世の中の大勢を見て、何度も寝返るのは普通のことになっている。こうした中で一貫して南朝方についていたのが、楠木正成と新田義貞だろう。新田義貞については、南北朝の争乱には源氏のなかでの新田と足利の争いという面があったので、一貫して南朝方であったのは当然だろう。しかし、新田と足利について、どっちが南朝でどっちが北朝かとなると、これは必然性がない。中先代の乱の平定後、新田義貞と足利尊氏はともに後醍醐天皇に双方を非難する書状を送っている。ここで後醍醐天皇は足利尊氏を朝敵としたのだが、もし、足利尊氏が後醍醐天皇側だったら、その後の歴史も変わっていただろう。楠木正成、新田義貞、足利尊氏についての記述を比べると、傑出した武芸の記述があるのは新田義貞だけである。しかし新田義貞にしても、一つの城の攻略にこだわって大局的な視点を欠いていたり、美女におぼれて攻勢の機会を逸したりと、人間的ではあるが、知略という面では楠木正成には及ばない。足利尊氏は野心家というよりは、戦況が不利になるとすぐに腹を切るだの、出家するだのと言い出し、京都での戦では挑発に乗り新田義貞と一騎打ちをしようとして部下に止められるなど、こちらも英雄的に描かれているわけではない。また、有名な稲村ケ崎の場面であるが、なんとなく、新田義貞が剣を投じると、潮がみるみるひいていき、鎌倉にわたったような想像をしていたのだが、実際には、剣を投じたその日の夜から潮がひいて遠浅となって馬で鎌倉に攻め入ることができるようになったとある。通常の潮の干満だったかもしれず、海など知らない新田の兵は潮が引いたのを神秘的にとらえただけかもしれない。太平記では、鎌倉時代末期からの、次々とうちつづく戦乱が描かれているが、建武の新政が乱脈をきわめ、恩賞が公平を欠き、武士たちが不満を募らせたあたりで、天下の大勢は、鎌倉幕府に次ぐ、新たな武家政権の誕生へと動いていったように見えてならない。特に倒幕に最も功績があり、自らも戦いの先頭にたっていた護良親王が、建武の新政発足後に岩屋に何か月も幽閉された後、足利直義によって殺害されたのをみれば、後醍醐天皇側にたって命がけで戦おうとはだれも思わないのではないか。それにしても護良親王の過酷な処分について後醍醐天皇はどこまで知っていたのだろうか。楠木正成とならんで早期に倒幕の兵をあげていた赤松則村が建武の新政後恩賞どころか司を取り上げられた理由はなんだったのだろうか。物語では語られない部分にもいろいろと興味がつきない。
2024年07月22日
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飲酒と喫煙を理由として女子体操の五輪選手が出場を辞退したという。今までの努力をふいにするような結果で残念であるが、これとは別にこうした問題が他の競技にも波及することはないのだろうか。この選手の場合には5月から7月にかけて飲酒、喫煙をしたというのだが、じゃあ、それが一年前だったらどうなのだろうか。また、飲酒や喫煙ではなく、不倫とかだったらどうなのだろうか。体操界だけではなく、他の競技でも、こうした告発がなされ、選手が辞退に追い込まれることがでてくるのかもしれない。良くも悪くも、飲酒喫煙イコール出場辞退という前例を作ったのだから…。※姫路城の入場料について外国人観光客にはより高い料金を設定するという動きがあるという。たしかに外国の観光地には外国人により高い料金を設定しているところがあるのだが、その多くはエジプトのピラミッドのように途上国の観光地の場合だろう。観光でやってくるような金持ちの外国人からは余計に料金をとってもよいではないかという発想である。実際に海外旅行で、そうした二重価格を払ったこともあるが、なんとなく差別されているような感じであまりよい気はしなかった。姫路城で二重価格を導入すれば、他の観光地でも追随することが考えられるが、こうした二重価格はおもてなし精神にも合致しないし、やめた方がよいのではないか。姫路城は市民の憩いの場になっており多くの観光客がくると維持管理に金がかかるというのであれば、外国人に高い料金を設定するのではなく、市民割引のようなものを導入すればよい。あからさまに外国人だからといって高い料金を設定することは、日本のイメージにも悪影響を与えるし、プラスマイナスしれば、結局はマイナスにしかならないのではないか。※トランプ氏の銃撃事件以降、トランプ支持が増えているという。銃撃直後の片手をあげている写真など、まさに狙ったような構図で、あの写真だけでも支持増加に十分な効果がある。ほとんど忘れられているが、かのヒラリー対トランプの選挙戦のときには日本の報道はヒラリーの圧倒的な優勢であった。当時の安倍総理が選挙運動期間中にヒラリー候補を訪れたくらいである。日本の新聞社が取材するような人士、そして日本の外務省が接触するような人士は圧倒的にヒラリー支持だったからだろう。ハリウッドのセレブ達も多くはヒラリー支持を表明していたように思う。そうしたヒラリー優勢の予想と実際の選挙結果の乖離はそのまま米国の分断を印象づけた。リベラルな民主党と保守的な共和党といっても、貧困層はリベラルを支持しているわけではない。リベラルイコール穏健な左翼という見方は実態にそぐわない。トランプが副大統領候補として白人男性を指名したことを受けて、「アメリカの分断を加速する」と言っている評論家がいたが、それでは分断はどこで起きているというのだろうか。副大統領候補に有色人種や女性のエリートを指名すれば「分断」が修復されるとでも思うような発想の方が、正直、理解できない。
2024年07月21日
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ちょっと古い話だがさるロックバンドの新曲コロンブスのミュージックビデオが植民地主義の肯定にあたるとして発売停止になったという。メンバーがコロンブス、ナポレオン、ベートーベンに扮し猿達に音楽や乗馬を教えるという内容らしいが実物はみていない。まあ、明治期の日本人だってお雇い外国人に西洋音楽も含め、様々なことを習ったわけなので、説明だけを読むと、そんなに違和感はない。猿というのは抽象的な表現で、具体的にどっかの民族を想起させるものならもっと問題だろう。こういうものって、誰かが問題だとか人種差別だとかいいだすと、とたんに反論が許されなくなるあたり、あの「ちびくろサンボ」の絵本に似ている。人種差別は戦前くらいまでは公然と行われていたもので、今でもモームなどの作品を読むと、人種差別じゃないかという表現が出てくる。あのSFの古典「猿の惑星」にも猿に支配された人間をわざわざ白人(原文では未確認)と表記してある箇所があって、じゃあこの猿って非白人の暗喩ではないかと思ったものだが実際はどうなのだろうか。「怪人フーマンチュー」シリーズでもあの時代悪行をやっていたのは白人なのに白人が英雄、中国人が悪役になっている。人種差別がけしからんというのなら、こうした人種差別的な記述のある文学作品を絶版にすべきなのだろうか。それはさておき、かつては子供向けの偉人伝にもとりあげられていたコロンブスが今では植民地主義の尖兵として批判的にとりあげられているという。たしかにそこにだって人はいたのに「発見」というのは変な話だし、その後に新大陸で起きた虐殺を思えば手放しで称賛はできないだろう。それにコロンブスも奴隷商人であったともいう。偉人とされてきた人々の行為も今日の価値観では問題となるものがある。その意味で、偉人の評価も時代とともに変わるのだろう。評価が変わったといえばモンゴルでのチンギスハンの評価も180度変わった。社会主義時代、モンゴルの旅行案内を読むと、モンゴル人にチンギスハンの話をするのは、ドイツ人にヒットラーの話をするようなものだということが書いてあった。あの時代にはモンゴル内でのチンギスハンの英雄視はなかったのだが、それが、社会主義体制が崩壊すると、民族の英雄として脚光をあびているという。変われば変わるものである。
2024年07月19日
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この前見ていた「金持ちの息子」がアマプラで突然有料化されたので、次に見始めたのが「財閥家の末息子」である。似たようなタイトルなのは偶然で、「金持ちの息子」がホームドラマであるのに対し、こちらはファンタジー系のサスペンスだ。長期失業中の父と病気の弟をかかえて働く高卒の青年が記憶はそのままで財閥家の末息子に転生する。いや、転生というよりも、いったん死んだと思って、気が付いたら財閥家の息子になっていた。時間もなぜか過去に戻っているので、もともとの頭の良さに加え、今後何が起きるのかが分かるので、財閥家の権力争いの中でも主人公はほぼ無敵だ。そしてドラマの背景として、民主化、大統領選、大韓航空機爆破事件、IMF危機、ワールドカップと最近の韓国の歴史が早送りのようにでてくる。その歴史の中で、主人公は、財閥家の息子でありソウル大首席合格のエリートとして行動しながら、失職した父親、投資話に手を出して自殺した母親といった時代の犠牲になる庶民の記憶をよみがえらせる。それにしても、韓国も短期間で歴史が動いた国の一つだろう。ドラマの最初の頃のソウル五輪直前の時代には、韓国企業が世界経済の中で重要な地位を占めることも、韓国のエンタメが世界で評価されることも夢の夢だった。ちょうどその時期に韓国に行ったことがある。自分にとっては初めての外国だったのでなにかと不安で、看板くらいは読めるようにと思ってハングルを勉強したりもした。韓国に長期間滞在している日本人を訪れたのだが、韓国語を勉強する気はないのかと聞いたところ、「強い国は弱い国の言語は勉強しないものなんだよ」と言い、じゃあ、買い物どかはどうしているのでしょうかと聞くと、「韓国人の女性を買い物のために雇っているし、貧乏な女性を雇ってあげることが韓国社会の恩恵にもなっている」と言った。そして、ホテルに戻ってテレビをつけると、面白そうなドラマをやっていたが、こういうドラマが日本に紹介されることはたぶんないのだろうなと思ったのを覚えている。時代というものは変わるものである。
2024年07月18日
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婚姻率や出生率の他に無子率という数字がある。これをみると50歳で子供のいない女性の比率は世界でもダントツに日本が高いのだという。おそらくこの数字は男性で見ても日本が高いものと思われる。一方で、夫婦の完結出生児数はさほど変わっていないし、子供が三人以上いるという世帯は増えて居るという統計もあるらしい。少子化は大問題、子育て支援は重用…今でこそこうしたことには誰も異議をとなえないのだが、今後は少子化対策や子育て支援に金を使うくらいなら他のところに使うべきだという声が大きくなっていくように思う。高齢化の中での高齢化、すなわち後期高齢者の割合の増加という事態は進行中だし。そうなれば介護はますます深刻な問題になっていく。一方、今後老年世代に参入してくるロスジェネ世代の貧困も問題だろう。国民年金はそれだけで生活できるようには設計されていないので、生活保護受給者が膨れ上がる。そうなると、少子化だの子育て支援だのはふっとんでいく。子供の騒音だって同様だろう。今の大勢は子供に寛容にすべきだ、子供の騒音を理由に公園が閉鎖されるなどけしからんという論調である。それもそのうち変わるのだろうか。子供はなにしろうるさい、邪魔だ、レストランには来るな、乗り物では静かにしろ、ボールで遊ぶな…そうした論調が普通になっていく。今の日本は少子化という静かな変革が進んでいるが、これは同時に子を持つ人と持たぬ人との分断も進行中なのかもしれない。
2024年07月17日
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トランプ氏暗殺未遂については驚いたし、大統領選への影響も少なからずあるだろう。未遂とはいえすんでのところで殺害の可能性もあったわけなので、自作自演はもちろんありえない。それにしても、過去の米大統領選を思い返してみてもトランプ氏ほどマスコミにいっせいに背をむけられた候補は珍しい。そしてその一方で支持者もいるので、相当の票を得るわけなのだが、それ自体、米国の分断を象徴しているように思う。トランプを支持している人々にとっては、マスコミも、そしてそのマスコミにのっている著名人もしょせんは「あっち側」の人間ということなのだろう。トランプ氏は別に「こっち側」ではなくとも、利口ぶったあっち側よりもマシなのかもしれない。米国の選挙と言うのは徹底した小選挙区制だ。実質二人の候補の争いとなる小選挙区制では、中間票の奪い合いになる。対立候補の票をとるためには、主張の違いを際立たせるよりも、対立候補の主張により近いものを出して中間層を支持を得た方がよいからである。米国の二大政党である民主党と共和党には政策の違いはあまりない。選挙はお祭りになるのだが、この制度では、10%、15%の人々の利益を代表する候補者はでてきにくい。候補者がいても投票したい候補者はいないということになりがちである。もっとも、それをいうのなら、こちらのこの間の都知事選も似たようなものであったが。
2024年07月15日
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今年は富士山での遭難が多いという。富士山には登山口が四つあり、河口湖口、富士宮口、須走口、御殿場口なのだが、富士宮口には自動車で行ったことがある。その五合目から六合目までは足慣らしのようなところで、軽装でも上ることができる。六合目と言っても、けっして十分の六というわけではないのだが、そこから頂上まではほんのすぐのように見える。軽装で登る人があとをたたないというが、それもわかる。けれども、この五合目あたりが森林限界でそれ以上登ると空気が薄くなり、全くの別世界である。安全かどうかは装備をみるしかないのだが、本人の体力は装備では分からない。今は富士山は自動車やバスで五合目まではいくことができるが、昔は延々とあの裾野を上っていった。その登り口が浅間大社になるわけだが、その浅間大社の傍に富士山世界遺産センターがある。世界遺産登録を契機に作られたものなのだが、ものすごく巨大な建物で、富士山の情景を映した映像やミニシアターもある。週末に訪れたのだが、あまり人は入っておらず、ミニシアターもほぼ貸し切り状態だった。ちょっと税金の無駄遣いではないか…という気もしたのだが、普段はもっと人が入っているのだろうか。世界遺産に登録されようがされまいが、富士山は富士山でよいではないか。
2024年07月14日
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東京都知事選は昔から泡沫候補が多かったのだが、それにしても最近は少し選挙で遊び過ぎているように思う。「暑いわねえ、脱いじゃおう、いやよ、そんなにみないで」みたいな候補がいるかと思うと、都知事のコスプレで登場し、町田市は何県問題?を解決するために町田市は神奈川県に移譲しますと主張する候補もいた。町田市の何県問題の解決なら神奈川中央交通バスのかわりに都バスを走らせればいいだけなのに…。これも自由で平和な国の選挙というもので、あまり深刻に批判するようなものでもないのかもしれない。ユーチューブで検索すると面白い政見放送はすぐにみつかる。それにしても同じ泡沫候補でもかつては筋金入りの右翼とか、ゲイ公言とか、政治はアートを主張する芸術家とか、何か信念のようなものがあった。でなければちょっと精神がどうかしているようなのもいたのだが…。今の泡沫候補は全部が全部というわけではないのだが、とにかく有名になるとか目立つことだけを目的としているようにみえる。ひょっとすれば芸能界に入れるかもしれないとか、ユーチューブのアクセスが増えれば収入になるかもしれないとか、そうした思惑があるのだろうか。東京だけではない。これからは都市部の選挙はどこもにぎやかになりそうである。
2024年07月12日
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日本でも話題となっているフランスの国民議会選挙であるが、左派連合が勝利したという。いまどき、左派といっても共産主義を信奉しているだの、暴力革命をめざしているだのと思っている人はさすがにいないだろう。その左派の公約であるが、例えば、以下のようなものである。燃料や食料品など必需品価格の上限設定最低賃金や公共部門労働者の賃金引き上げ富裕層への課税これをしばらく前の選挙で立憲民主党が前面に出していた、もりかけさくらの政治スキャンダル追及、学術会議の任命拒否問題、入管での女性死亡事件、LGBT差別反対、選択的夫婦別姓などと比べてみよう。これだけでも立憲民主党はリベラルかもしれないが、左派というのとはちょっと違うのではないかと思うだろう。もちろんフランスと日本では国情が違う。しかし、日本で公的部門労働者の賃金引上げなどをいえば右だろうが左だろうが票は逃げていく。公務員叩きはもっとも簡単に票がとれる手段であり、そのためか某自治体では教員志望者が減り公教育のレベルが低下しているという話も聞く。最低賃金の引上げも日本でなら必ず中小企業がつぶれるという反論が出てくる。富裕層の課税イコール金持ちが逃げ出すというのもほぼ定番の反論である。おそらく最低賃金ぎりぎり(じつはこの層は多い)で働いている人や富裕層とは程遠い人も、こうした定番の反論に首肯する。はたしてフランスでの左派の公約はどのくらい実現していくのだろうか。みてみたいものである。最低賃金を上げたら中小企業がつぶれるのか、富裕層に課税したら金持ちがアメリカかどっかに逃げ出すのか…。日本では方向はともあれ、生活に密着した公約をかかげる政党は少なく、野党も政治スキャンダルで関心をひけば票がとれると思っているようなところがある。そのせいなのだろうか、ときとして若くてみばえのよい政治家がぽっと現れ、「なにかやってくれそうだ」と選挙民が期待して票を投じるという現象がみられる。「なにかやってくれそうな」政治家が実際によい政治家であるという保障などなにもないのにである。
2024年07月11日
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「太平記」(二)を読んだ。この時代の騒乱はわかりにくい。源平合戦であれば源氏に属すること、平家に属することが戦いの理由であったし、主役はそのどちらかである。ところが、南北朝の騒乱となると、裏切り、寝がえりは普通のことで、そもそも天皇も二人いる形になるので、錦の御旗が唯一の勤皇というわけでもない。そしてその形勢も一進一退である。登場人物がいつのまにかあちら側についたりするので、まぎらわしい。鎌倉幕府が滅びた後、建武の新政が始まるが、恩賞は公平を欠き、後醍醐天皇側近の公家や寵姫の専横が始まる。楠木正成と並んで討幕の兵をいち早く上げた赤松円心は逆に守護職をとりあげられ、皇族中で最も功績のあった護良親王は征夷大将軍となったものの、讒言で失脚し、鎌倉に護送されて幽閉される。実父の後醍醐天皇は健在であったので、そこまでの措置というのがどうにも不思議だ。実際に幽閉されていたという岩屋が鎌倉にあるのだが、立ち上がることもできないほどの狭い土牢で、太平記にも、足利直義の命により殺害されたときに、長いこと座った姿勢しか取れなかったため、体が動かずに抵抗できなかったとある。背景には、自分の子を皇位につけたい寵姫の思惑があったことを匂わせているが、実際のところはどうだったのだろうか。その後、北条高時の遺児による中先代の乱がおき、足利尊氏が鎌倉に下り乱を平定した後、関東に権勢を振るうようになる。その後、足利尊氏は朝敵となり、新田義貞軍が討伐に向かう。最初は新田軍が優勢であるが、形勢は逆転し、都も危なくなったので、後醍醐天皇は御所を離れ、東坂本に移る。しかし、その後、後醍醐天皇方につく勢力が増えると、今度は足利尊氏が京を捨てて西国に下る。これだけのシーソーゲームが起きるのは、多くの勢力が寝返りを繰り返して優勢な方に着くために短期間で情勢が変わるし、世の中は落ち着かない。この間まで足利の二つ引き両の笠印をつけていた兵が線の中を塗りつぶして新田の紋に変えて今度は新田の兵として都を跋扈する。二筋の中の白みを塗り隠し新田新田(にたにた)しげな笠印かなそれにしても、大義の見えにくい時代なので、寝がえりする大将や降人となる武士も多い一方で、何百人単位での自害も行われる。不思議な時代としかいいようがない。
2024年07月10日
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昔は待ち合わせなどで時間をつぶす場合、本屋とならんでレコードショップで好きなレコードをさがすことがよくあった。いろいろとジャケットの写真や歌手の紹介をみながら、これは流行りそうとかこれはどうかなと考えてみるのは楽しい。ある歌手のレコードを見ていたら。プロフィールにちゃきちゃきの下町っ娘とあり、写真も気さくそうな雰囲気の普段着姿、曲もそれっぽい曲であった。しばらくして同じレコードショップで再びレコードを見ていると、同じ歌手の第二弾のレコードが販売されていて、今度は成城出身、趣味乗馬とあり、曲も前作とは違う雰囲気の曲となっていた。第一弾があまり売れなかったら今度は別の路線で勝負する。内情は知らないが、たぶんよくあることなのだろう。ちゃきちゃきの下町娘と成城出身で乗馬が趣味…別に両方とも嘘じゃなくったって不思議ではない。下町から成城に引っ越す人だっているし、乗馬も一回でも体験してまたやりたいと思っていれば、趣味乗馬といったっていいだろう。もちろん両方とも嘘ということも、イメージ勝負の芸能界ではそれもありなのかもしれない。俳優にしろ歌手にしろ人気を博するのはほんのわずかで、やりたい人は大勢いる。そうした中で、どんなイメージで売れば勝ち抜けるかを綿密に計算して売り出すのだろう。そういえば昔、剣の達人というイメージで世に出た青春スターがいた。美形のアイドルは沢山いたが、古武士的風格の質実剛健な好青年という位置は空白だったこともあり、わりと短期間のうちに人気者になったように記憶する。狭義の芸能人ではないがフリーのアナウンサーやニュースキャスターも似たようなものだろう。カイロ大学で首席と言うのはもりすぎなのだが、そのくらい目をひかなければ、他に肩書がなく有名人二世でもない女性が、英語の出来る美人というだけで世に出ることは難しい。政治家もまた、大衆から選ばれる職業と言う意味では芸能人と似ている。芸能人から政治家に転身するという例は多いが、芸能人として世に出るためについた嘘は政治家になってからどの程度問題視されるのだろうか。選挙公報に嘘の経歴を書けば公職選挙法違反になるのだが、それ以外の嘘は結局のところ有権者である大衆がどう判断するかによる。首席卒業と言うのはさすがに本当とは思えないが、政治家になってからはそれを別に言っていないし、大衆である有権者も問題視しなかった。それだけのことである。そしてまた卒業の方も当の大学が卒業と認めているのであれば嘘ではないだろう。
2024年07月09日
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都知事選には石丸という名の候補が二人出ていた。一人は二位になったことで話題になった石丸氏だが、もう一人の、じゃないほうの石丸氏も医師で弁護士と言う相当のハイスペックで、しかも投票所に設置されている候補者名簿では二位の石丸氏よりも前に掲載されていた。マスコミ報道も石丸氏が二人いることはあまり報道しなかったし、じゃないほうの石丸氏はポスターの掲載もなかったので認知していない人も多かったのではないか。間違えて記載した人もけっこういたと思う。それを考えると、実際の石丸氏の得票はもっと多かったのかもしれない。※韓国ドラマ「金持ちの息子」を見ていたのだが、突然、アマプラが有料となってしまった。なんかの表示を見落としていたのかもしれないが、こんなことってあるのだろうか。まあ、はらはらどきどきや謎解きを楽しむというドラマではなかったのだが、残念だ。そして今は「財閥家の末息子」を視聴している。今度は話数もすくないので大丈夫だと思うが、不安なら最終回を念のため見ておこうかな…。韓国ドラマも冬ソナのような記憶喪失や出生の秘密のからんだ恋愛ドラマよりも、ウェブ漫画を原作としたようなファンタジー系が多くなっているように思う。これも、高卒のサラリーマンが現在の大人の記憶を保持したまま、ソウル五輪直前の財閥家の少年に転生?して、財閥家の末息子としての人生を生きる話だ。民主化後初の大統領選、ソウル五輪、INF危機と記憶にある韓国の現代史をなぞる形になっているのが興味深いし、なにしろ未来(その時代からみての)を知っているので万能だ。それにしても、ソウル五輪の頃の韓国はいまよりもずっと貧しく、あの頃は韓国文化が世界を席巻するなんて想像もつかなかった。
2024年07月08日
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都知事が終わったので思うことをいくつか書いてみる。毎回都知事選と言えば泡沫候補が出るものなのだが、今回は特にそうした候補が多く、ほぼお祭り状態だったが、こうした候補が出馬できるのも民主主義のコストではないのだろうか。これくらい自由な国なのだと考えれば、供託金の引上げと言った議論はお門違いのように思う。個人的にはある候補者の現職知事のコスプレパフォーマンスなどはお笑い芸人の域に達していたと思うし…まあ、よいではないか。次に現職知事については執拗に学歴疑惑が取りざたされていた。実際に選挙違反となるような学歴詐称があれば警察は当然に動くし、動かなければならない。ところがエジプトカイロ大学側が卒業を認めているので動きようがないというのが実態だろう。ならば学歴詐称疑惑はいくら騒いでも大きくなりようがない。これについてはエジプト政府に借りができるのが大問題だと言っている人もいるが、現職知事は都市外交だといって都民の税金で二重外交に励んでいたわけではない。知事は外交を行うわけではないので、エジプトに「借り」などできようもない。この学歴詐称疑惑に関連して、現職知事がアラビア語ができないのではないかという「疑惑」もとりざたされた。しかし、駅伝選手で外国から日本の大学に留学していた人が、練習漬けの日々の中で、大学教科書を読むレベルの日本語能力を有するようになったと思う人はあまりいないだろう。政治家のレベルなら英語ができれば上等、アラビア語はできようができないが、どうでもよいのではないか。現職都知事はもともとはニュースキャスター出身だが、彼女が世に出た頃は知的タレントが人気になりかけていた時代で女子アナのスター化も始まっていた。おじいさんばかりの経済シンポジウムやインタビューでは気の利いた受け答えのできる知的美女が華を添える必要が認識されてきたわけである。ところが美人で英語のできるくらいの女性はいくらでもいる。何か目を引くような肩書がなければ、タレントとして世に出ていくのは難しい。カイロ大首席というのはもりすぎだったかもしれないが、それがあったからマスコミでも注目されたのは間違いない。青春ドラマ俳優で剣の達人という肩書でデビューした人もいるがそれと似たようなものだ。なお、現職知事の対抗馬とされた候補であるが、いまさら若者の貧困対策などの弱者救済をいったところで、嘘にしかきこえなかった。いったいなぜ国政の場でそれを今まで主張しなかったのだろうか。ロスジェネ世代はとうに若者と言われる年齢を過ぎたというのに。
2024年07月07日
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ラジオをつけていると、よく過払い金の取り戻しやB型肝炎の補償請求の広告を耳にする。いずれも弁護士や司法書士の広告である。そのうちこれに障碍者の不妊手術の補償請求の広告も入るのだろうか。優生保護法による不妊手術の強制について国の責任を認めた最高裁判決が確定したことで、今後は補償の動きが本格化していくことになるだろう。戦後制定された優生保護法は最近まで有効だったので、手術をされた方々についてすべて補償の対象とすれば、かなりの人数になるのだろう。裁判の原告になり、マスコミにもでている方は比較的軽い障害で、たしかに強制手術がなければ幸福になれたかもしれない。ただ現実には、不妊手術の対象者の中には、自分の行動についての判断の出来ない重い障害の方もいただろう。こうした手術は強制とは言っても、警官や役人が家にやってきて無理やり本人を拉致して手術をしたわけではない。だいたいは家族の依頼や了解の下に行われた場合がほとんどではないか。そしてもし、自身に障害によって判断能力のない娘がいたと想像すれば、その、娘が親も知らない間に妊娠するかもしれないという不安があるだろう。そうした不安は当事者の立場にたてば必ずしも杞憂とは言えない。今の価値観では問題のある法律であっても、当時は多くの人が受け入れていた法律である。違憲の法律であったとして、不妊手術をされたすべての人々に対して、遡っての損害賠償を認めた場合、障碍者を施設に預けたままの家族やその兄弟までが補償金を手にすることになるのだが、それはいったい誰に対する救済になるのだろうか。
2024年07月05日
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太平記の中で北条家を平家、足利や新田を源氏を表記している箇所がある。中でも足利尊氏が北条家はもともとは桓武平氏で天皇からわかれたのははるか昔の田舎武士にすぎない、それなのに、主筋だった源氏をさておいて天下の権をとっているのはけしからんと思っている箇所がある。天下の権力は伊勢平氏から源氏に、さらに桓武平氏の北条に移ったとなれば次は源氏の番だというわけである。そう考えると、南北朝の騒乱は、源平合戦の続編のようなものなのかもしれない。ただ、源平合戦と違うのは源氏の方に足利と新田という二つの勢力があったことだろう。足利家は室町幕府を開き、吉良や今川もこの足利家につらなる名家とされていた。そして戦国時代を経て、天下の権は徳川家に移るわけだが、徳川家康は徳川家康で自身を新田義貞の子孫を称していた。これが家康の時に言い出したものなのか、まことしやかに松平家に伝わっていた伝承なのかはわからないが、世良田東照宮には実際に新田義貞以降松平家に養子に入った徳阿弥に続く代々の石塔がある。ここは朝廷から東照宮に向かう例幣使街道の通り道でもあるので、例幣使は世良田東照宮にもより、徳川家康が新田義貞の子孫であることを再確認したのかもしれない。南北朝時代ははるか昔のようなのだが、案外と後の時代にもつながっている。「太平記」は、建武の新制の始まりの辺りを読んでいるが、後醍醐天皇の一片の命令で世の中が動くわけもない。現実の兵馬の権がなければ、領地をあたえるのなんのといっても空文だろう。しかもそこに情実がからんで、一つの領地の権利が功労とは関係なく何人もの人に乱発される事態が生じたとある。権力も乱脈をきわめていたわけである。合戦では夜襲に怯えて錦の御旗を放り出して逃げた公家大将も、我が世の春とばかりに贅沢三昧の生活をして世人の眉をひそめさせる話も出てくる。まだまだ世の中は落ち着かない。二条河原の落書きもこの時期である。
2024年07月04日
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太平記で鎌倉幕府が滅亡にむかう過程を読んでいる。歴史は勝者によってつくられるので、現実の北条高時がここで書いてあるように闘犬と田楽だけに溺れた人物だったとも思えないが、世襲の常としてそれほど優秀というわけでもなかったのだろう。鎌倉幕府の体制がゆきづまり、つぎつぎと討幕の動きが起きてくるわけなのだが、幕府もその出先の六波羅もなすすべがない。日本史上の争いというのは、宗教とか民族といった決定的な対立軸がないので、大義というよりも時流によってどちらにつくかを決める傾向が強い。源平の合戦でもそうだし、はるか後の戊辰戦争もそうだった。特に、南北朝時代の対立は天皇まで二人いるので、特にこの傾向が強い。平家物語には無常観が根底にあり、栄華を極めた公達が、それぞれに悲劇的な最期をとげる様子が余韻をもって描かれる。それに比べると、太平記の登場人物はそれぞれがそれぞれの欲望で動いており、鎌倉方はもちろん後醍醐天皇方も美化されていない。嫋々と無常を謳うのではなく、争いから一歩ひいた皮肉っぽい知的な視線がある。そこが平家物語とは違う。太平記で英雄的人物として描かれているのは楠木正成だが、楠木正成が国民的英雄と扱われるようになったのは明治以降で、湊川神社も明治5年の創建のようである。現天皇は北朝系なのに、明治以降に南朝の中心の神格化が始まったのは不思議な感じがする。この時代は大河ドラマでもタブー視されていたというが、一度だけ扱われたことがある。局内では論争があったそうだ。ネット情報によると、楠木正成役には高倉健も候補になっていたそうで、高倉健なら昔ながらの英雄のイメージにぴったりだろう。ところが実際に楠木正成を演じたのは武田鉄矢であった。身分の低いゲリラ戦を特異とする土豪ならこっちの方がイメージにあうように思う。
2024年07月02日
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混同されがちなのだが、「リベラル」と「左翼」は違う。これは急進的か穏健かといった差異ではなく、リベラルは文字どおり自由が語源で伝統的権威的思考からの自由を意味し、左翼はもともとは社会主義的共産主義的思想により平等な理想社会を目指す考え方を意味した。社会主義や共産主義は宗教を「人民の阿片」とよんで攻撃し無神論をとなえたので、ある時期のある社会では、この二つは重なり合っていたのだが、本来は価値観も目指すところも違う。それに左翼については、21世紀も4分の1過ぎた現在、いまさら地主や工場主を倒してその財産を国有化すれば究極の平等な理想社会が出現するなんて考えている人はほとんどいないのではないか。今日的な意味では、格差の少ないより平等な社会を目指すのが左翼ということになるのだろうが、福祉政策や労働政策、税制の応能負担などを全く否定する考え方もないので、そのあたりにどのくらい重点をおくかという違いになる。理想としては政体は民主主義で格差の少ない福祉社会が目指す方向なのだろうけど、現実的にそれはどこまで可能なのだろうか。次にリベラルであるが、伝統的権威的思考が宗教的なものだったらわかりやすい。中絶や同性愛を罪悪視する宗教があれば、中絶の自由やLGBT差別反対はリベラルの大きな旗になる。しかし、日本の場合には認められる中絶の範囲は広いし、LGBTも多くの人の感覚では好きにすればといったところではないか。同性愛を罪悪と考える伝統は日本にはない。だとしたら日本のリベラルはいったい何と戦うのか。そこで敵と想定したのが日本の伝統的家父長制的思考なのだろう。そうした流れで日本のリベラルは声高にジェンダー平等や選択的夫婦別姓を主張する。あとは憲法九条…。しかし、現実には、伝統的家父長制的思考は現代では影が薄くなっているし、財界から選択的夫婦別姓の制度化の要望がでてきているのもむべなるかなである。こんなわけでリベラルと左翼は別の概念である。だから、経済的弱者の利益を代表するのがリベラルとは必ずしもいえない。いくつかの先進国では移民排斥や移民の制限を唱える政治勢力が支持を得ている。こうした勢力の支持層は貧困層が多いので、富裕なマスコミ人士は批判的に報道する。しかし、移民に職を奪われたり、労働条件が低下したりして窮地に陥るのは貧困層であるし、治安の悪化も貧困層や恵まれない人々を直撃する。移民への寛容を唱えるマスコミ人士の隣人には食い詰めてやってきた移民はいないだろう。それにリベラルは伝統的宗教的権威からの自由を主張するが、満ち足りて教養のある人ほど宗教とは縁がなく、逆もまたしかりである。移民排斥や移民の制限を唱える政治勢力を極右とよんでいるが、貧困層の利益を反映した主張という意味ではこうしたものこそが実は「左翼」なのではないのだろうか。
2024年06月30日
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紅麹サプリによる健康被害について新たに関連が疑われる死者数が76人に上るという報道があった。厚労省への報告が遅れたことが問題視されているが、情報の遅れはかえって不安を増すだけだろう。それにしても、どうもこのニュースでわからないのは、サプリのどういう成分がどういうメカニズムで人体に害を与えているのかというメカニズムが解明されていないことだろう。プベルル酸という成分が疑われているようだが、これは普通に青カビにふくまれているもので、これが紅麹サプリに入って重篤な健康被害をもたらすという確証はないという。健康被害を受けた方々の被害の程度、年齢、持病などの情報は数値としては出してもよいように思う。いったいどこまでがわかっていて、どこまでがわからないのだろうか。こうしたサプリは機能性表示食品など食品という名称がついているが、形は錠剤や粉末であり、見た目で何が原材料になっているかが分からない。その点、薬膳で花や桂皮の形がそのまま残っているのとは違う。こうした見た目ではさっぱりわからないものを、安心して飲んでいるのは、気休めかもしれないが、少なくとも毒にはならないという安心感があったればこそだろう。健康被害の報道は、サプリ全般の売れ行きにも影響するのではないか。こうしたサプリは特定保健用食品は許可が必要なのだが、栄養機能食品や機能性表示食品は特にそうした許可は必要ないという。わけの分からない錠剤を飲むのも自己責任ということである。
2024年06月29日
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「太平記」を読んでいる。以前、読んだとき、あまりにも面白かったので、もう一度読んでみたいと思っていた。鎌倉幕府崩壊から建武の新政とその瓦解を描いたもので、戦乱の時代を描いた書なのに、なぜ太平記とつけたのかが不思議だ。今、読んでいるのは幕府転覆の陰謀が行われた正中の変とそれにより誅殺されたものの哀話、それにつづく楠木正成の登場と、幕府軍の笠置攻めのあたりだ。この戦で抜け駆けの功名を狙った武士が二名ほどいて、いずれも敗れるのだが、その時の落首が秀逸でわらってしまう。最初に高橋又四郎と言う者が攻めていくのだが、さんざんに敗れる。この時の落首が木津川の瀬々の岩波早ければ懸けてほどなく落つる高橋次に小早川と言う者が攻めるがこれも敗れたので懸けもえぬ高橋落ちていく水に憂き名を流す小早川かなである。有名な五条河原の落書きもこの時代だし、この頃の落首落書きの水準はめちゃめちゃ高いように思う。源平もそうなのかもしれないが、日本の争いには理念とか宗教の争いと言った色彩はあまりない。後醍醐天皇と幕府の戦いも勤皇か武士かともいいにくい。なにしろこの時代は天皇に既に北朝と南朝があったのだから。勝ち馬に乗りたい様子見がほとんどなので、争いは長引かずに短期間で決する。だから壊滅的な被害もないので、古い木造建築や仏像なども比較的残っている。まあ、あせらずゆっくり読んでいこう。
2024年06月28日
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世の中、何が変わったかと言えば「有名であること」の価値が昔よりも大きくなったことではないのだろうか。背景はいろいろある。昔のような地縁血縁共同体のようなものがあれば、英名と悪名の差異は明確で、人々は名を上げること以上に恥をさらすことをなによりも怖れた。それがそうした共同体が崩壊し、一人一人が群衆の海に浮かんでいるような世の中になれば、栄誉と恥の区分もあいまいになってくる。人間には多かれ少なかれ自己顕示欲があるが、こうなると、とにかくどんな形でも有名になりたいという人もでてくるだろう。さらに言えば、現代では「稼ぐが勝ち」といった価値観も有力だ。ネット社会では、とにかく目立てば稼げるという場が増えてきている。ユーチューバーなどはその典型であろう。今度の都知事選では最多の候補者数だという。全員が全員、売名目的ではないのだろうが、供託金を払えばポスター掲示やテレビ出演の場を与えられる選挙と言うのは売名に最適なのかもしれない。都知事選にかぎらず、これからは様々な選挙で候補者の乱立と言う現象がおきてくるのではないか。
2024年06月27日
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去年の暮頃、咳が続いたことがあって、診療所に行ったところ、すぐにCT検査のできるところを紹介してもらった。そこでの検査結果を受け取り、再度診療所で説明を聞いたのだが、人間ドックで指摘される異常がことごとく指摘されていた。CT検査とMRIの違いというのはよくわからないのだが、こうした精緻な検査が一般化したら人間ドックで胃カメラとか超音波検査とかをやらなくても異常はわかるのかもしれない。昭和の名作「白い巨塔」ではエックス線画像をみながら名人芸のように医師が診断を行う場面があったが、そんな時代に比べると医療もずいぶんかわってきたと思う。最近、近所でもCTやMRIを置く診療所ができ、こうした高度な機器も急速に普及しているのかもしれない。こうした機器は初期費用が相当かかるはずだし、いずれより新式のものがでればとってかわられる。恩恵を受ける側としてはありがたいのだが、はたして採算がとれるのだろうかと思ったりもする。また、都市部だけの現象なのかもしれないが、診療所やクリニックも増えている。MRIやCTを置いている診療所と提携しているようなので、待合室と診療室だけあれば開業でき、その分、閾は低いのかもしれない。歯科はあきらかに過当競争気味だと思うが、クリニックもいずれは過当競争という時代がくるのだろうか。たしかに高齢化は医療の需要を増加させる。ただ、今後、起きてくるのは高齢者のなかでの高齢化だ。たとえば雑誌の同じ高齢者向けの記事でも10年前は高齢者の〇〇という特集がよくあったが、最近ではもっぱら介護や終活が中心である。高齢者がさらに高齢化していけば、医療に期待するものも変わってくるように思う。不安にかられてせっせと診療所に行くというのは、まだ元気な高齢者だろう。
2024年06月26日
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韓国ドラマ「金持ちの息子」をみている。類型としてはホームドラマで自営業を営む父のいるヒロイン一家とそこに間借りしている一家、そして主人公の家の三つの家族が舞台となっている。この主人公の家というのが謎だらけで、飲食店チェーンを営んでいるいわゆる「金持ち」なのだが、料理人で職人肌の父、気品のある美人の継母、そして経営に関与している継母の兄とその息子なのだが、父と継母は夫婦としてちぐはぐだし、継母には獄中経験があるらしい。いったいこの主人公の家の過去にはなにがあったのか…そんな興味でひっぱっていく。そして最初は旅行作家になるなどといって海外旅行し放題のニート生活をしていた金持ちの息子の主人公が、父の死に続く逆境の中でどう成長していくかもドラマのみどころだろう。こうしたホームドラマでは、もののわかった父親というのがでてくるのだが、ヒロインの父がその役割を担っており、ヒロインや主人公に対する愛の鞭や教訓もよい。主人公とヒロインだけではなく、ヒロインの姉弟や間借りしている一家の兄妹など様々な恋愛が同時進行するあたり、「家門の栄光」にも似ているが、こちらの方はヒロインもそれほど完璧ではなく、主人公と一緒に成長していく。ドラマでは軟弱に育った金持ちの息子が肉体労働をして変わっていくのだが、考えてみたら豊かな時代に生まれた世代というのは「金持ちの息子」のようなものかもしれない。登場人物を応援したくなるようなドラマで良作といえる。
2024年06月25日
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最近の世の中の変転は激しい。様々な施設の予約などもネットを通じてQRコードを認証するような形式が多くなっており、そのため、そうした操作に慣れていない高齢者がしめだされているという面があるのではないのだろうか。よくいろいろなところで若者が多いとか高齢者をみかけなくなったとかいうことを聞くが、原因はコロナ不安よりもそちらではないのだろうか。予約だけではなく、最近では店の注文などもタッチパネル式が多くなっている。そんな方式で注文するファーストフード店では、怒って機会を叩いていた老人がいたというがありそうな話である。かくいう私も紙の券がないと安心できないし、詐欺サイトではないとわかっていても、パソコン上でクレジットカードの番号を打ち込むのは気持ち悪い。それにしても、スマホにしても、パソコンにしても詐欺メールの多いこと多いこと。よくこれだけの手口を考え付くと感心する。最近では、ある宅配業者の名を使ったメールで、お届け物があるが住所が違っているので届けられない、このままでは荷物が渋滞して困っているという趣旨のものが毎日何通も届く。しつこく何回もメールをすれば、そのうち誘導するサイトにアクセスすると思うのだろうか。固定電話の詐欺については、さかんに啓発が行われているが、ネットを使った詐欺についても注意喚起の公報が必要なのではないのだろうか。考えてみれば、こんな効率のよい詐欺はない。電話は電話代がかかるし、郵便は郵便代がかかる。ところがメールは何通だそうが経済的負担はない。下手な鉄砲も数うちゃ当たるで、沢山のメールを送れば、たまに騙される人がいる。それで十分に元は取れる。オレオレ詐欺のように、出し子や受け子がいるわけではなく、ネット上で金が動くので逮捕のリスクは少なそうだし、実際にこうした詐欺犯が逮捕されたという話もあまりきかない。おそらく警察に届けない被害というのもかなりあるだろう。たしかにパソコンやスマホによって昔では考えられないくらい便利な世の中になった。けれども、同時に詐欺などがこんなに身近になる時代になるなんてことも想像もしなかった。
2024年06月24日
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平安時代は女流文学が隆盛だった時代として知られるが、それ以前にも女性の「文学者」はいた。古今集や万葉集などは女性抜きには語れないし、最古の文学ともいえる「古箏記」も語り部の稗田阿礼は女性だったという説がある。いや、そもそも稗田阿礼が女性というよりも語り部そのものが女性の役割だったのかもしれない。それが時代が下り、中世さらに近世になってくると、女性の作家というのがいなくなってくる。それが不思議でならない。特に、江戸時代は庶民文化が栄えた時代なのだが、そんな時代でも女性の作家というのは聞かない。滝沢馬琴など、自分の書いた小説の中で、この物語は婦幼のために道徳を涵養する目的で書いたなどということを言っている。じゃあ、なぜその婦の中から小説を書くという人が出なかったのだろうか。別に男尊女卑がそんなところまで及んでいたとも思えない。大河ドラマでも「光る君へ」の次は「べらぼう」で、今度は江戸文化を扱うという。平安時代に比べ、江戸時代ではなぜ文化の中で女性の存在感が薄かったのかも話題になるだろう。平安時代には女性の方が仮名文字に親しんでいたことや宮廷サロン文化の存在など特有の事情があり、それ以降では、文化の担い手が僧侶とか豪商とか文化サロンの性格が変わっていったということもあるのかもしれない。現代では女性の作家と言うのは何も珍しくないが、それでも少し前までは女流作家とか女流文学という言葉が使われていたし、本屋にもそうしたコーナーがあった。作家が女性にしろ男性にしろ、自身の体験を基に書いた小説というものが大きな分野としてあって、私小説が隆盛だったころには特にその傾向が強かった。女性作家の中にも自身の不倫体験などを小説にする人もいて、そうした時代には女流文学と言うジャンルがあってもおかしくなかったのだろう。今では女流作家とか女流文学とかといった言葉自体聞かなくなっている。
2024年06月24日
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「九十歳。なにがめでたい」を観た。佐藤愛子かあ…この作者の「血脈」を面白く読んだのだが、登場人物はほぼ実名の家族史であり、ここまで書いてよいのだろうか。そういえば、あのサトーハチロー記念館もネットで見たら休館になっていた。これも「血脈」で、サトーハチローの私生活を書いたために、心温まる童謡を書いた詩人というイメージが崩れたせいなのではないか。…違うかもしれないが。要は「血脈」では一世を風靡した小説家の佐藤紅緑の先妻の子、新橋の芸者との間の子、後妻の子そしてその孫達が描かれているが、ともかく佐藤紅緑の才能をうけついだらしい三人を除くと、多くは放蕩や乱脈などの社会不適合者としての人生を送り、早世する。才能をうけついだサトーハチローにしても私生活は相当なものだ。この小説では遺産争いも赤裸々に描かれるが、親からもらう一番の宝は遺産ではなく、才能だろう。というわけで、佐藤愛子先生には才能がある。断筆宣言をした後で、某雑誌の編集者にくどかれてエッセイを書き、本にすると評判になる。「九十歳。なにがめでたい」である。エッセイは簡単なようでいて、人に読ませるものを書くのは難しい。ましてやそれを金を出して買ってもらうようなものとなると、なおさらである。映画の中で愛子先生は、子供の騒音、スマホなど身近な題材で。すらすらと書いているが、なかなか凡人にはできることではない。しかし、書くというのは手段であり、書くためには書く内容がなければならない。子供の騒音にしてもスマホにしても、通常なら見過ごしてしまうような点に気がつき、それを文章にして伝える。その意味でエッセイの名手と言うのは文章にまとめる力だけではなく、ものを見て考える感性にも鋭いものがあるのだろう。実年齢90歳の草笛光子演じる佐藤愛子が本物そっくりなのも面白く、他はの登場人物もやや類型的ながら、よくできている。まずますの佳作映画ではないか。ただ映画の入りはさほどよくなかったので、観るなら早い方がよいのかもしれない。
2024年06月23日
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