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クリフトン年代記の第二部である。同じ作家の「ケインとアベル」では、WASPの銀行家ケインとポーランド貴族の私生児でホテル王となるアベルの生涯をたどりながら第二次大戦前後から戦後の歴史を描いたが、本作では同じ時代を貴族のバリントン家と労働者のクリフトン家を中心に英国を主な舞台として描いている。ストーリーは波乱万丈であきさせない。あまり詳細を語るとネタバレになるのだが、今でいえば韓ドラでみられるようなネタが随所にちりばめられている。出生の秘密と恋人同士の異母兄妹疑惑、死んだと思っていた恋人が別人の名で生きていた謎、財閥家の相続争い等。そしてまた、主な主人公の一人は小説家、もう一人は政治家になるところなど、政治家でもあり小説家でもある作者自身の投影ではないかと思ったりもする。「ケインとアベル」ではWASPと東欧移民、本作では貴族階級と労働者階級を描いているのだが、物語からかいまみられる作者の人間観は、むしろ能力貴族主義ともいうべきもののようにみえる。感情移入するような主人公は知力に優れているのはもちろん才覚や才能にも恵まれ、あぶなげなく社会の階段を上にのぼっていくような人間に設定してある。そして戦時にはいずれも祖国のために勇敢に戦うということも共通している。このあたり読者にとっては爽快感があり、人気の所以なのかもしれない。そして、その一方で階級をとわず、ダメな奴としてえがかれる人物もあり、そうした人物は愚かであるだけでなく、臆病で卑怯である。波乱万丈で面白いストーリーと類型的人物像は、いわゆる大衆小説とよばれるものの典型なのだが、こうした小説が純文学とよばれるものよりも価値が低いなどとは全く思わない。すいすいと読めるし、読んでいる間は非常に楽しい。かといって、手を離せなくなるというほどではない(人にもよるのかもしれないが)。なんかこのあたり、通勤電車の友ともいわれる永遠の33歳を主人公にした某推理小説のシリーズにも似ているのかもしれない。
2023年09月18日
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そろそろ彼岸花の季節になる。よく行く彼岸花の名所は埼玉の巾着田であるが、駅からこの群生地に行く途中で興味深い高札がある。保存されたものか復元されたものか不明なのだが、明治新政府がごく初期に出した五榜の掲示である。興味深いのは徒党の禁止などとともに、切支丹禁制についての記述があり、密告者についての賞金の記述もある。邪宗の儀御禁制でござる…は江戸時代までのような感じもするのだが、実際には明治初期にも弾圧が行われた。いや、それどころか、平和な江戸時代に黙認されていたものが明治時代の始まりとともに弾圧が強化されたような印象も受ける。そうした明治6年に五榜の掲示が民衆が熟知したという理由で撤去され、実質的な弾圧が終わるまでの期間で起きた信者に対する拷問などのことは、いまだに生々しい伝承として語り伝えられているようだ。あらためて明治維新というものを考えてみると、停滞した封建時代の社会に大きな窓があり、近代の科学技術や人権思想が入って来た素晴らしい時代のようなイメージがあるが、当時の人はそう思わなかったのだろう。アヘン戦争後の中国の惨状だけでなく、植民地化の状況も入ってきていたし、ロシアが近代武力をもって対馬を占拠した事件もあった。技術面の近代化は急がなくてはならない。ただ、それと同時に思想や宗教の流入には最大限の警戒をしなければならない。天皇中心の新国家を創るために、それに反するものが入ってくるのは困る。すでに共産党宣言も明治維新よりも前に世に出ている。和魂漢才と言う言葉は昔からあったというが、和魂洋才と言う言葉が大きく唱えられ始めたのも、新しい思想宗教の流入を防ぎたかったのであろう。明治天皇のこんな御製もある。白雲のよそに求むな世の人のまことの道ぞ敷島の道今となってははるか昔だし、時の新政府には新政府の考え方があったにしても、明治新政府樹立から明治6年までのキリスト教弾圧は近大日本の黒歴史だろう。日本政府は切支丹遺跡を世界遺産に登録申請し、認められたというが、よく申請したものだと思ったりもする。
2023年09月15日
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ひさしぶりにネットカフェにいってみて驚いた。すでにその店のカードを作っていたのだが、入場から座席選択、印刷、退場がすべて機械化されていて、入ってから出るまで店員との接触は一切なかった。店員は新規入会者の案内と座席のかたずけくらいだと思うが、もしかしたら新規入会手続きも自動化されているのかもしれない。そういえばスーパーやコンビニでもセルフレジが次第に普及しており、今はまだ過度期で店員レジの方が混んでいるが、そのうちセルフレジが普通になるのかもしれない。また、外食でも各テーブルへ料理を届ける作業をロボットが行うところがでてきている。注文についてはタッチパネルがかなり一般化していることを考えると、外食も急速に省力化が進んでいるように見える。考えてみれば大昔は切符切りも人間がやっていたし、金の預け入れや引き出しも人間がやっていた。両方とも膨大な数の人間が雇用されていたことはいうまでもない。そんな時代と今とを比較しても技術は日進月歩であり、今日必要な仕事が明日には機械で代替できるようになっていく。そうした中で本当に人間でなければならない仕事、人間がいなければならない仕事と、将来的には機械化がすすんでいくであろう仕事とを区別して考える必要があるのかもしれない。
2023年09月11日
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児童虐待が増えているという。これは潜在化していたものが表に出るようになったのか、それとも実際に増えているのか、そのどちらなのだろうか。世の中に理想の人間なんてものはいないし、同様に理想の親もいない。子供を叩く、暴言を吐く、やる気をなくすことを言う…そんな親って昔からいたのではないか。そしてさらに貧困や家庭不和など、親自身の不幸や不遇があれば、それはさらにエスカレートする。京アニ放火殺人犯の成育歴に関する記事がいくつもでてきているが、彼の父親の場合も、失職し家庭も崩壊した鬱憤を抵抗できない子供にぶつけていたように思う。本来ならそうした場合、親に十分な養育能力はない場合、児童福祉施設など社会的擁護の途がひらかれているべきだし、実際に、児童福祉施設はそうした児童も在籍しているという。京アニの事件もそうなのかもしれないが、大きな犯罪が起きると、その成育歴のせいにしようとする議論がでてくる。しかし、人間の生育はそんなに単純なものではない。同じ家庭で同じように育っても全く違う兄弟も珍しくない。どんな親でも子供を犯罪者に育てようとする親はいないし、ままならぬ人生故によい親になれなかったとしても、それは親自身の不幸であり弱さだろう。そして親の人生と子供の人生は別物である。親が貧しければ子供は早くから自立を志ししっかりした人間に成長することもある。ハングリーさはいつの時代も成功への原動力であることも事実だ。そしてその一方では劣悪な環境で育った犯罪者というものもいる。要はどういうふうに育つかは人様々でなんでもかんでも親が貧乏っだったの離婚しただの虐待しただのといったことのせいにするのは間違いではないか。ましてや40歳すぎたいい大人のしでかした犯罪に親は関係ない。繰り返すが、貧乏だったことや家庭が崩壊したことは親の人生にとって不幸な出来事である。こうした不幸な親の子供が不幸な事件を起こしたからといって、不幸な親を責めるようなことがあってはならない。最近ようやく「加害者の親族」の問題がクローズアップされてきたが、多くは殺人犯の子供の立場からの発言が多い。しかし、たまたま犯罪者の親族であるからといって社会から排斥されるようなことがあってはならないのは、成人した犯罪者の親も同じではないか。
2023年09月10日
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京アニ殺人事件の公判がついに始まった。被告人前へ…という発声の次に担架が運ばれてくる光景を想像していたが、車いすでの入廷になったようだ。もっともこれも、背中が倒せる車いすなので、ようやく言葉の出る程度に回復したということだろうか。重度の障害を負った身であっても、リハビリの先に光があるわけでもない。犯行の動機は小説を盗用された恨みだというが、これもおそらくこれ以上の新事実がでてくるとも思えない。それでは盗用された小説はどんなものだったかというと「女子高生がキャピキャピしている」ものだというので、いわゆる日常系アニメの原作だろう。これも京アニ作成の「けいおん」あたりから人気の出たジャンルだ。中学生や高校生の複数の美少女が主人公で、少女同士の日常がメインで男性キャラはでてこない。そしてこうしたものを視聴するのは当の女子中高生ではなく、大人の男性が中心で、放映時間も深夜というものが多い。ちなみに入浴や水着の場面のある回はサービス回といい、特定の少女にスポットのあたった回は当番回というらしい。まあ、女性向きにも複数の美少年が主人公となるBLというジャンルがあるのだが、美少女同士はゆるい仲良し関係というのがほとんどで、BLの女性版というわけでもない。興味深いのは中学から不登校で、昼間の高校にも通ったことのない被告人がなぜこうした女子高生の日常系の小説を書こうと思ったかという点である。被告人の写真をネットで見ていると、小学生の頃の写真が出てくる。心から笑っている可愛らしい子供だ。この頃は、まだ一家の困窮は始まっておらず、普通に友人とも遊んでいたのだろう。京アニ殺人の犯人は仲良しの美少女たちがたわいなく遊んでいる物語を書きながら、友達とわいわいがやがややっていた子供時代を追体験していたのかもしれない。犯行の背景には被告人の過酷な成育歴があり、さらにその背景には家庭崩壊や困窮があったという説がある。最近は「加害者家族」の問題ということが、ようやくいわれるようになったが、京アニ事件の怒りが被告人の親族にむかうようなことはあってはならない。好きで子供を犯罪者に育てる親はいないし、ましてや家庭崩壊や困窮とて自分で選んだわけではない。それに犯行時、被告人は40歳を過ぎている。いつまでも、貧乏だったの親が離婚しただの虐待されただのと言っている齢ではない。世の中には、逆境をバネとして成功した人もいれば、逆境の中で育ったにも関わらず誰にも迷惑をかけずに善良な社会人として生きている人はもっと大勢いる。というよりも、それがむしろ普通ではないか。
2023年09月08日
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「谷間の百合」のような文学作品らしい小説を読んだ後、「時のみぞ知る」を読んでいる。本を読むスピードはその頁数だけではきまらない。いわゆる大衆小説と言うジャンルではこのスピードは圧倒的に早くなり、ページを繰る手がとまらなくなる。「時のみぞ知る」はそういう小説であり、作者本人も自分はフィッツジェラルドにはなれないストーリーテラーだと自覚していたようだ。ここでは大衆小説というのを、ややご都合主義的だがストーリーの面白さを売る小説というつもりで使っているだけで、くだらないという意味ではない。人物造形もたしかだし、登場人物も魅力的だ。それにしてもこの作者はなぜこんなに人気があるのだろうか。同じ作者の「カインとアベル」そして「ロスノフスキ家の娘」を読んだ時にも思ったのだが、感情移入を期待する主要な登場人物が皆優秀なのである。知能が優れているというだけでなく、指導者としても事業家としても高い能力をもっている者がほとんどである。だから小説を読んでいる間は、ある種の全能感や爽快感を得られる…ような気がする。まあ、そのあたり画面がある間は勇者になっているつもりのゲームに似ているのかもしれない。そして「時のみぞ知る」には「カインとアベル」同様の楽しみもある。1920年に生まれた主人公の生涯を追う形で物語が進むが、背景に当時の歴史だけでなく、社会風潮や大衆文化などももりこまれており、それもまた興味深い。主人公は出生の秘密をかかえたまま、港湾労働者の息子の地位からかけあがっていくわけだが、その先も波瀾万丈のようだし、本作は第一部とのこと。ためしに作者についてもネットで調べてみたが、こちらも名門大学時代にスポーツで新記録樹立、政界進出、偽証罪等での服役体験、ベストセラー作家と波乱万丈のようである。才能というものはあるところにはあるものだ。
2023年09月07日
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読後感を一言でいえば不思議な小説だ。ついでにいえば、こういう小説は今ではどれだけ詠まれているのだろうか。何が不思議かといえば主人公の青年とヒロインであるアンリエットとの恋愛がよくわからない。アンリエットは美しく気品ある女性なのだが、無能でヒポコンデリー気味の夫とは不仲で、二人の子供は病弱である。主人公の青年はアンリエットに恋をするのだが、アンリエットも、夫への貞潔の義務をまもりつつ母のような、または姉のような愛で応えることとなる。そうした関係であっても青年は生涯にわたり彼女に忠誠を尽くすことを誓う。やがて青年はパリに出るが、その後も、女性との手紙を通じての交流は続き、女性に対して忠実を尽くすため他の女性には関心をもたない。ここで疑問がわく。純愛(プラトニックラブという意味での)の存在は否定しない。しかし、将来の結婚を期しての純愛や死にゆく恋人を見守る中での純愛というのはありえても、青年が人妻に対し、生涯にわたって純愛をささげるということはありうるのだろうか。もちろん女性の夫は老人というほどの年齢でもない。また、女性は貞潔であることをもって妻の義務は尽くしたと自分で思っているのであるが、夫には関心をもたず、青年だけを精神的に愛していても妻の義務を尽くしていると言えるのだろうか。もっともこの点については小説の最後で罪悪感をもっているらしい描写があるのだが。そして小説の後半部では、青年の肉体的欲望をかなえる別の恋人が出現したことにより、アンリエットとの恋愛はいったんは終わりを迎える。しかしその時には、すでに彼女は病魔にとりつかれ、余命いくばくもない状態であった。今の感覚では、こうした純愛はもともと無理があったとしか思えないのだが、この小説が発表された当時はこれもリアリティある物語として読まれたのだろうか。ただ、このような一見荒唐無稽のような純愛も、よく考えてみると普遍性がある。理想の人との出会いが少しずれたために、結婚はできないという関係は今も昔もあるだろう。結婚生活が不幸であり、そこに理想の相思相愛の人がいたとしても、子供がいて、諸々の事情もあり、別れるということができないという例である。全体は19世紀の小説らしく小説のテンポはゆっくりで、自然描写、特に前半部の南仏の田園風景の描写は美しい。「文学」を読んだという満足感なら十分にある。
2023年09月05日
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山にも特異な山容の山というものがある。頂上が広く平らな平面になっている荒船山などその最たるものだが、こういうものは地学用語でメサといい、浸食によって固い部分が残ったものだという。もともとは新生代第三紀にできた本宿カルデラの一部だそうである。この間、出かけた群馬県昭和村の展望台からも、この荒船山ほどではないが、やはり頂上が平らなテーブル状になっている山が見える。三峰山である。これは三峰というくらいなので、実際には三つの峰があるわけなのだが、この方向からはちょうどテーブルのようにみえる。この三峰山の左には大きな山が見え、中腹にある突起のような岩が目につく。これが子持山で岩は獅子岩という。獅子岩という名の奇岩は全国あちこちにあるのだが、これもライオンが咆哮しているように見えるのだろうか。角度によってはそう見えるのかもしれないし、昔はそう見えたのだが、風化によってその面影はなくなったのかもしれない。何度も行ったことのある三浦半島にも特徴のある山容の山がある。岩堂山でちょうど一つの山を中央で切ったような形をしており、城ヶ島公園などからはすごく目につく。調べてみると、三浦市最高峰で神奈川県で最も低い山だという。岩堂山 | 畑に囲まれた三浦市最高峰で神奈川県で最も低い山 (miurahantou.jp)その岩堂山に行ってみた。最高地点のある方の山は道路の脇が切通しのようになっているが、もう一つの峰はその横の丘と言う感じである。想像していたのは一つの山の真ん中に道路が貫通しているようなものだったがさすがにそうではない。山頂日は立ち入り禁止であり、すこし登っていった先も畑ではたして踏んでよいものかどうか悩ましい(結局踏まなかった)のだが、そこからの展望は素晴らしく、さすが最高峰である。
2023年09月04日
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まだまだ厳しい残暑が続くが、それでも木陰に入るとずいぶん涼しく、やはり季節の進みを感じるこの頃。この夏は暑く、子供の頃は外国にしかないと思っていた気温40度なんていう数値が、温帯地方にまででてきて驚いた。地質学は10万年を一単位とするというが、気象も地球をとりまく大気現象である以上、やはり長い目でみないと変化はわからないと思っていた。しかし、この夏は、域値をこえたように世界のあちこちで例をみない高温が観測されたようだ。ずっと先だと思っていた温暖化に伴う破壊的な現象もわりあいとすぐそこまできているのかもしれない。特に、夏でも涼しいというイメージのあったフランス、ドイツ、イギリスといった西欧の国で40度を超えた地域があったというのには驚いた。サハラ砂漠の存在など日本とは別の要因があるのかもしれないが、それでも、明治時代には日本の夏の暑さを嫌って軽井沢や中禅寺湖に別荘を持っていた人々の国にも猛暑が襲っているとなると大変なことのように思う。温帯地方でもこれほどの高温となると、熱帯地方ではどうなっているのだろうか。想像というのか、妄想というのか、なんというか…このままでは熱波を避けるための大規模な人口移動が起きるかもしれない。熱帯からの人口移動は生きるか死ぬかの移動、温帯からの移動はより快適な住居を求めての移動である。欧州ではこの夏のバカンスを南欧ではなく北欧で過ごす人が増え、日本国内でも猛暑日が少ない地域には移住の問い合わせがあるという。そしてまた人間には住だけでなく衣食も必要である。温暖化に伴う食糧危機は、もしかしたら一番の問題かもしれない。
2023年09月03日
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このところ報道が少なくなったススキノ殺人事件が気になっている。たぶん一番わかりやすい構図は被害者が女装して加害者に近づき○○し、その復讐として殺害された、そして殺害後に加害者は逃げるために父親をよびだしたというものだ。首を切断したのも、その首を持ち帰ったのも身元を隠すためのとっさの判断としてわからなくもない。ただその後の報道では父親の積極的な関与も明らかになってくる。犯行前に一緒にナイフやのこぎりを準備していただけでなく、娘と被害者男性がダンスホールにいた場にも父親がいたという。これも、100歩ゆずって娘を○○した被害者に父親も怒り、殺害に協力したというのなら、そういうこともあるだろう。ただこうなると、なぜ娘を一人で被害男性と対峙させたのかがわからなくなる。報道されているように溺愛の限りをつくした娘なら、まだ老人ともいえない男性と二人きりにしておくわけがない。それを考えると、常軌を逸したことではあるが、以下のように推測できる。娘は、人を刺殺することにも、首を切断することにも躊躇しない性格で、それを父親はよく知っていた。娘と男を対峙させた場合、娘が返り討ちにあう可能性も考えられるが、そうした結果も容認していた。両親と娘の住んでいた家は豪邸であったが、中はゴミ屋敷となっており、父親は家の外で寝泊まりしていたという。両親とも娘を怖れて暮らしていたのかもしれない。血をみるのが嫌で精神科医になったという父親にとっては、娘が切断した頭部を持ち帰って家に置いておくなどという事態は想定外だったのではないか。少子化に貢献しそうな事件がまた一つ…。
2023年09月01日
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今日の満月はスーパームーンとして2023年で最も大きく見えるのだという。そのつもりで心して今宵は月を眺めることにしよう。ところで、月を愛でる文化というのは西洋には、あまりないという話を聞いたことがある。英語のlunaticの語源は「月にあたった」という意味であるといい、その背景には月光にあたると気が狂うと信じられていたことがあるという。もしかしたら狼男伝説もそうした感覚が背景にあるのかおしれない。たしかに日本よりも高緯度の国が多い西欧では、夏の満月は地上近くにかかり、その分、赤みをおびてどことなく不気味にみえるだろう。しかし、西洋といっても文化圏は様々だし、ギリシャ神話には美しい月の女神もでてくる。美しいものを美しいと感じるのは人間であれば共通の感性のはずだ。そう思って探してみると、月夜をうたったこんなに美しい歌もある。どこの国、どこの民族からも月は同じに見える。月明かりの夜-最も美しいウクライナの歌🇺🇦(すべての勇敢なウクライナの人々に捧げる)🇺🇦 - YouTube日本の古歌でも月を詠った歌はおびただしい数にのぼるが、月を媒介にした無常観や懐旧の情を詠ったものが多く、月そのものの美をうたったものはそれほどないように思う。もし一つ上げるとすればこれかも…。暗きより暗き道にぞ入りぬべきはるかに照らせ山の端の月(和泉式部)漢詩の方にもこんな傑作がある。 把酒問月 酒を把(と)りて月に問ふ 李白 青天 月有りて来(このか)た幾時ぞ 我 今 杯を停めて一たび之に問ふ 人 明月を攀(よ)づるも得(う)べからず 月行 却(かえ)って人と相ひ随ふ 皎として飛鏡の丹闕(たんけつ)に臨むが如く 緑煙 滅し尽くして 清輝 発す 但だ見る 宵に海上より来たるを 寧(なん)ぞ知らん 暁に雲間に向ひて没するを 白兔 薬を擣(つ)きて 秋 復た春 姮娥(こうが) 孤(ひと)り棲みて 誰と隣ならん 今の人 古時の月を見ず 今の月 曽経(かつ)て古人を照らす 古人今人 流水の若く 共に明月を看ること 皆 此(かく)の如し 唯だ願ふ 歌に当たり酒に対するの時 月光 長(とこし)へに金樽の裏(うち)を照らさんことを
2023年08月30日
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この間、万葉集を読んでみて、万葉集の歌には、民謡の歌、宴席の歌、贈答の歌、そして自分自身の歌があると思った。その分類でいけば、今日短歌として詠まれているもののほとんどは自分自身の歌であろう。自費出版の歌集をいただいたことがあるが、そこで詠まれているものも自分自身の歌で、当人を知っている者としては、あらためてその人となりや人生に接する想いがする。こうしたものは当人を知る人にとっては読むだけの価値があるが、まったくの他人にとってはどうであろうか。こうした自分自身を語る歌と文芸としてより多くの人に読まれる歌とはどこが違うのだろうか。以前、「サラダ記念日」がベストセラーになったとき、売れるはずのない短歌の本が売れていると話題になった。それはサラダ記念日の歌が自分自身の歌と言う枠を超えて、見ず知らずの人にも感興を与える文芸になっていたからではないか。それではただの自分自身の歌と文芸としての歌はどう違うかと言えば、それは新しい表現手法や発見があるかどうかなのかもしれない。セロリの葉が自転車の籠からでている情景を「わんと広がって」楽しいと表現したり、雨の中のサッカーゴールを「思索的」と表現することにより、誰もが見慣れている日常の光景にも詩情があることにあらためて気づかされたことが「サラダ記念日」が大人気になった背景なのだろう。もちろん短歌は作者とは切り離せない文芸なので、作者のNHK朝ドラ的な万人受けするキャラクターもあったのかもしれない。歌集を読んでいて特異な状況の歌や特定の考えを述べた歌はそれはそれで価値があるのだと思うのだが、文芸としてはどうなのか…と思ったりもする。
2023年08月29日
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二十四節季の処暑を過ぎ、ようやく炎暑は和らいだような気がするがまだまだ暑い。この炎暑は今年だけの問題ではなく、地球温暖化がある閾値を超えたことによるものかもしれない。そうだとしたら、単に暑いということではなく、地球規模で起きる問題というのもあるだろう。素人考えなので心配しすぎかもしれないし、そうであることを願っているが、いくつかあげてみる。一つは、現実に起きていることなのだが、台風や山火事などの自然災害の激化である。海水温が高いせいか台風の勢いが衰えず、過去にあまり台風被害のなかったような地域でも被害がでている。山火事もいまのところは海外のニュースだが、これとても国内でも、いつ起きるかもしれない。二つ目は生物相の変化により、過去には熱帯地方にしかなかった病気が国内で発生するようになる。例えば、マラリアなどが国内で発生するようになる可能性はないのだろうか。マラリア蚊だけでなく、過去には日本の気候では生息できなかった有害な昆虫や他の生物が海外から持ち込まれるようになるかもしれない。三つ目は日本や欧米の猛暑ばかりがニュースになるが、世界には様々な気候のところがある。熱帯地方では温暖化はどういう影響を与えているのだろうか。暑熱が人間が生存できないほどになれば、熱帯地方からの大規模な人口移動が起きるかもしれない。豊かさを求めての移動ではなく、生きるための移動であるので、誰にも止めることはできない。また、温暖化による水面の上昇で国そのものが沈むおそれのある島嶼国もある。そうしたところからの人口移動もあるかもしれない。生死をかけた移動でなくとも、より冷涼な気候を求めての移動も起きるだろう。移動は時に国境を越える。温暖化は人類の大規模な移動をもたらし、それがいくつかの場所では紛争をもたらすこともあるだろう。四つ目は農産物や水産物の変化である。従来の作物や水産物が獲れなくなることにより、経済的に困窮する人が増える。また、その波及効果や炎暑による屋内作業の制限による経済的影響もある。多くの国で政治の不安定化や社会崩壊が起きるのではないか。古い話だが革命の背景に凶作ありである。以上、いろいろ書いてみたが、いずれもありがたくないことばかりである。人間がもっと賢く平和的ならば、温暖化≒地球の豊穣化となり、不毛の高緯度地方が豊かな土地になり、そこで人々が平和に暮らすなんてこともあるかもしれないが、そういうことにはなりそうもない。そしてまた、大変なことになる前に起こりそうなことがある。それは温暖化など地球環境問題をめぐる非難合戦、宣伝合戦である。地球環境はすべての国家の問題、人類全体の問題でもある。だからこそ、我が国は環境にこんなに貢献している、環境に負荷を与えているのは○○国だというようなことを言いたくなる。
2023年08月28日
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連合赤軍事件死刑囚の坂口弘の歌集を読んだ。歌には作者が表れる。歌集から読み取れる作者の印象は100%普通の人間であったということ。リンチ殺人そのものを読んだ歌もいくつかあるが、反省とか悔悟とか被害者に対する感情とかそういったものよりも、ストレートに伝わってくるものは殺人行為に対する嫌悪感とそれを思い出すことへの拒否感である。戦争、革命、動乱などで、心ならずも殺人を行った人間の感情はそんなものだろう。普通の人間はおそらく本能的に殺人という行為を忌み嫌うようにインプットされているし、坂口弘もその意味で普通の人間であった。だから印象的な歌は、途中から総括アジトに参加した「同志」がカフカの世界に迷い込んだような眼をしていたという歌と、この歌集には収録されていないのだが、以前、朝日歌壇に投稿されていた、占い師に観てもらった時に訝っていたという話を母から聞いたという趣旨の歌である。ちょっとした出会いの連鎖で、集団心理や場の力学なども働いて殺人など嫌悪していた人間が、犯罪史上特筆すべき大量残虐殺人の犯人として死刑囚となる不可解かつ不条理な人生。だからといって坂口弘に対する死刑判決が問題だとか、執行すべきでないなどとは思わない。犯罪を行うということは、それ相応の意思による選択はあるわけで、犯罪被害者になるとか災害被災者になるとかいうのとは真逆の話なのだから。ただ、人間の中には、まれにであるが、殺人をなんとも思わないという人間もいるようだ。もちろんそうした性向の人間がすべて犯罪者になるわけではないし、殺人には嫌悪感はないが、高い倫理観を持つ人間というものももしかしたらいるのかもしれない。そうした殺人をなんとも思わず、かつ殺人者でもある人間の中には女性もいれば高知能者もいるようだ。印象的なのはやはり佐世保市の少女による同級生殺人事件だ。2件あって2件とも世間に衝撃を与えたのだが、後から起きた方は、父親は地元の名士で多彩な趣味を持ち、母親も教養豊かな女性であった。ただ、娘は小学校6年時に給食に水酸化ナトリウムを入れるなどの問題を起こし、殺人事件前も父親の頭をバットで殴るなどしていたという。父親はそうした娘の性向を知りながら戦々恐々としており、それもあって高校一年生の娘を一人暮らしさせ、留学させることも考えていたのではないか。真相はまだ不明なのだが、最近起きた札幌の事件もこれと同じようなものだったら怖すぎる。
2023年08月27日
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韓国ドラマ「国民死刑投票」の配信を楽しみにしている。はらせぬ恨みをはらすという仕置き人ものは日本でも大人気なのだが、それを個人的なはらせぬ恨みではなく、社会全体がモヤモヤしている法を逃れた悪人を、国民投票で断罪するという趣向だ。高名な法学者が娘を殺害されるが犯人とされる人物は証拠不十分で無罪となる。ただ状況証拠はそいつが犯人に間違いない。こうした「無罪の悪魔」を断罪するために、法学者は犯人を殺害し、殺人者として服役する。それから何年かたってスマホに突然、犬の仮面をかぶった男(ケタル)があらわれ、特定の人物を名指しして死刑投票を呼び掛ける。死刑が多数であればその人物を殺害するという予告もこめて…。最初のターゲットは児童ポルノで巨額の富を得ながら獄中結婚と反省手記で仮釈放となった男。二番目は三度の結婚で夫が次々と不審死しながら証拠不十分で無罪となった女。まあ、最初は法定刑が現実の社会通念と乖離しているケースで、これは日本にもあるように思う。監禁罪の上限が懲役7年というのはおかしいという議論があったのにその後法改正されたという話は聞かないし、傷害罪などもどんな重篤な障害をのこしても15年以下と言うのも変だろう。絶対死なない方法で全身まひや失明などの症状をのこすことだって可能なのに。次に証拠不十分というケースも実際にはある。そしてそんな事件の中にはどうみてもあいつしかいないのに…というのもあるだろう。「国民死刑投票」で今後はどんなターゲットがでてくるのかはわからないが、日本だったらさしずめ少年犯罪者だろう。日本では14歳未満の少年の行為は犯罪にはならないし、当然に刑罰の対象にもならない。ところで刑罰はなんのためにあるのかという議論はいろいろあり、応報だの教育だのということがいわれるのだが、大きな目的は社会防衛だろう。刑罰があることで犯罪者予備軍は一線をこえることを躊躇し、そのため被害の発生が防止されるわけである。現実には中学校でも○○や△△のような犯罪行為が行われることがあり、それを14歳未満なので犯罪にはならない、14歳を超えていても少年法の対象なので十分な処罰を行わないというのは、国家はそうした被害から守ることはしませんよといっているようなものだろう。14歳未満の犯罪行為の場合は被害者もまた14歳未満であり、少年犯罪の被害者もまた多くは少年少女である。旭川で起きた悪質な犯罪行為では警察も学校も被害者を見捨てており、結局、被害少女は死を選ぶしかなかった。
2023年08月25日
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図書館の開架棚で気になっていた本である。坂口弘の名は永田洋子とともに、連合赤軍事件の殺人者として記憶に残っていたし、こうした大量殺人事件の死刑囚が長期裁判の末、死刑が確定した後もいつまでも執行されないことにも疑問をもっている。共犯者の逃亡があるにしても、冤罪の可能性のある事件ではないし、法的に執行不能の理由にはならないだろう。そんなわけで、作者には共感するものなどないのだが、気になっていた歌集でもあり、手に取って読んでみた。死刑囚としての限定された生活の中での透徹した眼差しのあるいくつかの歌が印象深い。映画「刑務所の中」のラスト近くに雑草の花が映る場面があるが、あのとき、観客は知らず知らずのうちに囚人の目線で花を眺めていたのだと気づく。手入れなき病舎の裏の庭に咲く野芥子の花の丈長きこと歌風は三行にわける様式もそうであるが、後書きを書いた歌人の解説によると石川啄木の影響があるという。たぶんそうなのだろう。歌は人を表す。歌集を読んだ印象では、作者は全く普通の人間であり、死に怯え、凄惨なリンチ殺人の記憶からは目をそむけたがる。そんなものだろう。人間だから。リンチ殺人そのものを詠った歌もいくつかあるが、それだけにこうした作歌は作者にとって苦痛だったと推察する。おいつめられた小集団で猜疑が猜疑をよび、ひとたび暴走すると、自分がやらねばやられるかもしれないという心理になり、残虐はエスカレートする。そうなると集団からの逃走企ても殺害の理由になるので、逃げられなくなる。そうはいっても殺人は殺人。特に連合赤軍の事件は、殺害方法も嗜虐的で被害者も多数で犯罪史に残るものだろう。
2023年08月24日
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あまり大きなニュースではないし、いやそもそもニュースといっていいのかどうかわからないのだが、ある方(有名人らしいが知らなかった)が外国での出産後胎盤を食べたということが話題になっている。そこに紹介されている記事によれば、胎盤を食したという例は他にもあったという。どんな時代のどこの風習かは不明であるが…。このニュースをみたとき、胎盤は排出されたものとはいえもともとは臓器ではないか、胎盤を食するのは人間の臓器を食べることではないのか…と異様な感がした。排出されて不要になった臓器なら食しても良いのか、他人の臓器ではなく自分の臓器だから食すことができるのか。一説によると栄養学上最も効率が良いのは同種の生物を食べることだという。ただ広く自然界を見渡しても共食いをする生物はあまりいない。それはともすれば種族絶滅をよぶ行動であり、だから人間も本能的に人肉食を嫌悪するのかもしれない。そう考えると胎盤を食べるのはちょっと違う。これから授乳などで栄養がますます必要となる産婦が胎盤を食べるのは種族保存の目的にもかなう。厳しい環境に生きる人間集団には実際そんな風習があっても不思議ではない。ただそう考えてみても、胎盤を食べるというのは、自分だったらやはり抵抗がある。あと、本能と言えば、人間が本能的に嫌悪するものは死体である。これも死体のある場所と言うのは、有毒物質があるとか猛獣がでるとかの危険のサインであり、本能的にそうしたものを避けるようにインプットされているのだろう。ところが最近では手元供養と言って遺骨や遺灰を材料にしてアクセサリーを作る場合があるという。いくら大切な人であったとしても、個人の遺骨や遺灰は散骨でもよいからそっとしておいた方がよいように思うのだが。まあ、それも人それぞれの感覚なのかもしれないけど。
2023年08月23日
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この間、弘明寺に行く機会があった。とにかく暑い暑い…せっかくなので午後には三崎口まで行き、前々から気になっていた岩堂山を散策してみようという計画ははやばやと放棄した。城ヶ島に行くと、いつも二つに割れたような特異な形状の山が目につく。これが三浦市では最高峰の山であり、神奈川県では最も低い山とされる岩堂山だ。調べてみると特異な形状は、真ん中に道路があり、その脇は切通しになっているためなのだが、なぜこうした地形になったかと言う経緯はネットで調べてもよくわからなかった。かつてこのあたりは軍の要衝であり、それとも関係しているのかもしれない。山頂は国有地として許可なくしては立ち入れないという。まさか今さら軍の機密があるとも思えないが、それでも道路からの景観だけでも素晴らしく、涼しくなったら一度いってみたいものである。そんなわけで岩堂山は諦めたが、せっかく弘明寺まで来たので、名刹弘明寺に詣でることとした。奈良時代にまでさかのぼることのできる古い寺なのだが、明治以降廃仏毀釈の頃はさびれていた時代もあり、その後、復興したのだという。境内には善無畏三蔵法師が渡来の際、当山の霊域を感得し、陀羅尼を書写して結界を立てた霊石である七ツ石もあり、興味深い。善無畏三蔵法師の渡来は奈良時代なので、この石は奈良時代からあったのだろうか。周辺の柵は新しいのだが、結界としての雰囲気があり、どういう方か知らないが、若い男性が座って経を唱えていた。なお、拝観料を出せば、本尊や寺宝を拝めるのだが、ゆっくり見る時間もなかったので、また、次回ということにした。遠くまで旅行に行かなくとも東京近郊にも名刹はある。また、弘明寺には大きな商店街もあり、アーケードのついた昔ながらの雰囲気がよい。お土産によさそうな手ぬぐいや風呂敷、それに安価なカバンや袋類も売っており、見て歩くだけでも楽しい。
2023年08月21日
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本書の多くは「もののけの正体」への考察というよりも、江戸時代の百鬼夜行図や琉球やアイヌの妖怪の紹介にあてられている。まずもののけにはどういうものがあるが、というあたりから入らなければならないので、これはこれでよい。そしてこうした妖怪について、「とらえどころのない恐怖に仮の名前や姿を与え、それを克服しようとした」ということが妖怪の生れた背景であるとする。そういえば水木しげるの紹介した妖怪の多くは日常のちょっとした不思議体験の原因となるものだった。夜でも灯があふれているような時代とは異なり、昔の人々は不思議な体験をする機会はずっと多かったことだろう。夜歩いていると誰もいないはずなのに袖をひおっぱられる、後ろから何者かの足音がする、山道で突然お腹がすいて動けなくなる…など。いったん怖いと思うと恐怖感はふくらんでいく、それを妖怪の仕業とすることで恐怖をコントロールするというわけだ。恐怖感というのは人間の原始的な感情なので、そうした恐怖を具現化した怪談は大昔から語られていたことだろう。原始時代に火を囲んで家族が集まり食事をするとき、そこで語られていた物語は怪談が多かったのではないか。さらに、怪談の背景には恐怖の他に罪悪感もあるだろう。大切に使っていたものを、古くなったからと言って棄てるときには罪悪感を持つことがある。つきつめれば一種のアニミズムであり、こうしたものを解消するために、モノを棄てる時には供養して棄てるという文化もあるようだ。人形を棄てるときに供養を頼むというのはわりあいあるようだし、針供養も有名だ。そのほか、鋏供養とか筆供養というのもある。妖怪の中には古くて棄てられたものが変化となるというものも多い。江戸時代の百鬼夜行図の多くはこうした器物の妖怪であるようだ。また、本書には書いていないが、今日のような情報化時代は妖怪の噂も拡散しやすく、新たな妖怪も生まれてくるかもしれない。口裂け女や人面犬などは週刊誌がたきつけて有名になったのだが、ネットでの書き込みや体験談が似たような情報を付加されて広まっていく…というこのもあるかもしれない。人々が不安感や閉塞感を持つ時代ならなおさらである。
2023年08月20日
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現在配信中のドラマ「国民死刑投票」が面白すぎる。証拠不十分で無罪となったが実行犯間違いなしの犯罪者、法の不備で軽い刑で出所した犯罪者など現実の法で裁けぬ悪を成敗するというドラマは、いつの時代も人気なのだが、その成敗の是非をスマホの送信画面を受け取った国民が投票するという趣向が斬新だ。しかしこれって、実際に「死刑」なんてことはしなくても、今のネット社会で現実化していることではないか。大昔ならマスコミが氏名や顔を隠したため一般には知られることもない凶悪少年犯罪者の情報をネットが明らかにする。批判はあるにしても、こんな怖ろしい人間が顔も名前もわからない透明な存在として社会を闊歩していることの方が怖ろしい。ただ弊害は誤情報の拡散で、現にそれで被害を受けた人もいる。少年犯罪者以外にもネット上には犯罪と扱われない14歳未満の殺人者の情報や一部週刊誌で問題視されている政治家夫人の元夫の死亡についての情報もある。ネットにあげることで、「制裁」のような効果があるのならこれも一種のネット民(一般国民全体)による処罰のようにみえる。「国民死刑投票」はネット時代の気分を反映した物語のようでもあり、国家とか司法に対する不信感を背景にした物語のようでもある。第一話で最初の「死刑」が執行され、第二話はまた思いもよらない展開になっている。次の配信がまちどおしい。
2023年08月18日
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「ユリシーズ」を読んだ。もっとも、読んだ版では本文と同じくらいの注があり、そちらの方の多くはスルーした。文体の目まぐるしい変化や言葉遊びや韻は結局のところ英語で読まなければ面白さは伝わらない小説で、そのうち日本の作家でもこれをやりたいと思う人はでてくるかもしれない。井上ひさしは言葉遊びをよく戯曲にとりいれていたし、筒井康隆の小説でも章ごとに目線が変わり、それに応じて文体も変化していったものがあったように記憶する。きっとほかにもあるだろう。何かを主張するとか、何かを考えさせるという小説ではない。二人の主人公、一人は中年の広告業者、もう一人は作者の分身と思しき若い文学博士。前者をユリシーズ、後者をその息子のテレマコスとして、ギリシャ叙事詩オデッセイアをなぞる形で物語が進行する。なぞるといっても、描かれるのは二人の主人公がダブリンで過ごすほぼ一日(6月16日はこの小説にちなみブルームデイとよばれるそうだ)の出来事だ。文学修士は非常に知的な人物として描かれ、もう一人の主人公の方もそこそこ知的で温和な性格で読者の好感を得やすい。ユダヤ人という設定にしたのは、世界を放浪するというイメージと重ねたか…そのあたりはわからない。文学は言葉を使った芸術であるともいえるが、こうしたこともできる…という意味で実験的前衛的な小説なのだろう。…無理には読むことを薦めない。※※この小説の中で科学的問答体を用いている第17章の中で、「人間の血液は白血球と赤血球による星座群を含む一宇宙であり、血球の一つ一つがまた別の球体による星座群を含む空虚な宇宙空間であり、その球体の一つ一つもやはり一宇宙であるから…」(丸谷才一・氷川玲二・高松雄一訳)という箇所がある。手塚治虫「火の鳥未来編」で原子もまた一つの星系であるという発想がでてきたが、それと似ていると思う。もしかしたら影響があったか??
2023年08月17日
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コロナも終息していないのに、最近では地球沸騰化ともいうべき急激な温暖化の進行が話題になっているようだ。子供の頃には気温が40度近くなど想像もしにくかったが、それも日常になりつつある。温暖化というのは単に暑さを我慢しなければならない問題というのではなく、世界史の上でもターニングポイントになりうる変化だろう。暑いのは人間だけではなく、他の生き物も同じだ。この間、有名な馬が熱中症で死んだというが、馬に影響するのであれば、牧畜などの影響も少なくないだろう。農業にも影響がでているかもしれない。また、これまでは熱帯地方にしか生息できなかった生物の広がりといった影響もあるだろう。こうした生物の中には人間や他の生物の病気の原因となるものもある。こうした変動は経済的な変動をもたらし、やがてそれは政治的変動や事件、テロ、戦争などの人為的活動にも影響を与える。それがどういうものになるのかは、想像がつかないのだが。そしてこうした急速な温暖化の原因である。人間の活動が原因であるということはほぼ専門家の意見が一致しているようだが、隣の人口大国の急速な近代化が背景にきっとあるのだろう。少し前までは大勢の人々が広い道を自転車の銀輪をきらめかして移動していたのに、今では大変な車社会になっている。個人でも自家用の車を持つ人が相当数おり、これからも増えていくのであろう。電気自動車にしたところで、電気自動車製造過程では温暖化ガスを排出するわけなので、極論すれば人間が豊かな生活をすること自体が環境への負荷要因だといえる。じゃあ、現に豊かで便利な生活をしている先進国の人々が現に経済発展をし先進国化しようとしている国々に対し、これ以上発展するなといえるだろうか。そんなことは決して言えない。欧米のインテリの多いベジタリアンの中には地球環境に配慮してのベジタリアンというのが、けっこういるという。個人としてできることというのはそのくらいなのだろうか。しかし、考えてみれば先進国化というのは教育機会の拡大という面もある。多くの国や人々が先進国化の恩恵を受けるということは、それだけ傑出した知能を有する人々がその能力を活かす機会を得るということでもある。そんな人々の中からよい知恵が出てくればいいのだが。
2023年08月16日
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俳句と短歌とどちらが難しいか…という問いは時々なされるのだが、間違いなく俳句の方が難しいだろう。俳句は江戸時代にさかんに作られたが、これは和算に次ぐ一種の頭脳ゲームだったのではないか。17文字の中に季語を入れたというだけでは俳句にならない。俳句とするためには、そこに新たな発見や表現がなければならない。これは自分の感情をそのまま吐露して三十一文字にまとめれば短歌になるのとはまるで違う。俳句と言えば芭蕉なのだが、芭蕉が松島の絶景を見て、あまりの美しさに俳句にならず「松島やああ松島や松島や」と詠んだという話がある。この話は相当昔にきいた話で、長いこと実際の話だと思っていた。しかし、それは嘘であり、ネットでいろいろなサイトをみてみると、この「ああ松島や」の基になった句は相模の田原坊の作とある。芭蕉が句を詠めなかったという話になったのは、「奥のほそみち」に松島の句がなかったことも背景にあったのだろう。芭蕉は松島で「島々や千々にくだきて夏の海」という句を詠んでいるという。さすが…というべきで夏の海のきらめきとその中に浮かぶ幾つもの島々が目に浮かぶ。「島々や」で切れて、ここでいくつもの島が浮かび、「千々にくだきて」でそれぞれの島に寄せて砕ける波が浮かび、最後の夏の海で、明るい陽光に照らされた光景になる。これは、島々に波が寄せて砕けている光景を「砕く」という他動詞を使った表現が斬新で、しかもこれを「島々を千々にくだきて」にすると即物的になってしまう。同じ光景を見ても、自分だったら「島々に波寄せ砕ける夏の海」くらいしか思い浮かばないが、これでは俳句にもなっていないと言われるだろう。同じ芭蕉の名句で「閑さや岩にしみ入る蝉の声」があるが、これも蝉の声という音がかえって静けさをひきたてるという発見があるのだが、この「しみいる」を「しみつく」とか「しみこむ」とかちょっと違う似たような言葉にするととたんにだめになってしまう。思うに「しみつく」は固体、「しみこむ」は液体であり、「しみいる」として初めて気体となる。「しみいる」という気体に使う表現を取ったことで蝉の声は空気の一部となり、静けさと同化するのではないか。
2023年08月15日
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温暖化とか地球沸騰とかいっても、やはり季節はすすむものらしい。昨日はかすかに虫の声が聞こえてきた。そういえば、この間、有名な馬が熱中症で死亡したという。温暖化の影響は人間だけではない。牧畜や農業にも影響も与えるであろうし、食糧危機という問題も現実化していくのかもしれない。いきなり昆虫食という発想ではなく、棄農地の再生とか、温暖化に適した農産物の探求とかの方策は考えられないのだろうか。まだ、夏がこんなに暑くない時代を思い出してみる。昭和40年代。家庭用の冷房は電気代が高く、まだ普及していなかった。保冷剤を頭に巻くためのベルトが当時は人気商品だったのではないか。海外旅行は一生に一度あるかないかで、国内旅行もまだまだ一般的ではなかった。あの頃、ご当地ソングというのがあって、地図でしか知らない遠くの海岸や温泉の旅情を詠った歌詞が、旅行意欲をかきたてていた。そんなときに開催されたのが大阪万博だった。関東に住む人間にとって大阪は遠い街だった。修学旅行で京都まで入ってもその先はなかなか…。だからこれを機会に大阪も見物して万博を見て…という人が周囲には多かったと思う。国内旅行が増えていく時期と万博が重なっていたわけである。中国の上海万博が盛況だったというのも、中国もちょうど経済発展して国内旅行者が増えていく時期にあたっていたのではないか。今度、大阪で万博が開催されるというが、前回の万博とは時代が違う。それに「月の石」のような目玉もない。そしておまけにこの猛暑。はたしてどのくらい行きたい人がいるのだろうか。
2023年08月14日
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小湊花火大会を見に行った。わずか10分間の打ち上げ花火なのだが、対岸の漁港から上げる花火は海に反射し、ドーンという音の響きも心地よい。混雑というほどには人は集まっていなかったので、見物をしたこの場所自体、あまりしられていない穴場なのかもしれない。特等席の有料化は仕方ないにしても、こうして無料で見られる花火も夏の風物詩としていつまでも残ってほしいものだ。ただ、こうした花火大会の費用は商工会議所や企業からの協賛金や自治体の補助金で賄われているところが多く、費用の工面がむずかしくなっているところもあるという。これからは規模の小さな花火大会は消えるところが相次ぎ、人気のあるところは有料席設置で生き残っていくのかもしれない。そして後者の多くは、人の集まりやすい場所にあるので、「混雑を避けるため」有料席以外は目隠しとなり、どうしても無料で花火をみたい場合には展望できる高層ビルや高台からの遠見の花火となる…わいわいと人々が集まっていっせいに空をみあげた花火大会と言うのは過去の話になっていく。ただ、目隠しフェンスは本当に混雑による事故を避けるために必要最小限のものであるべきだろう。昔から花火大会は人が集まるものと決まっていたが、目隠しなどが聞いたこともない。有料席の価値を高めるための目隠しを「混雑による事故を防ぐため」という名目で設置するのはやめてほしいものだ。昨日は神宮外苑の花火大会があり、こちらの方も有料席が設置されたが、幸い目隠しはなかったようである。もっとも、人ごみと熱波をさけるために、こちらの方は、高層ビルから遠見の花火を見物した。
2023年08月13日
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国立科学博物館のクラウドファンディングの寄付は短期間のうちに5億円を超える金額が集まったという。趣向を凝らした返礼品もあったというし、科学博物館のファンというのも全国に多いと思うので、それ自体は別に驚くことでもないのかもしれないが、その寄付を募った理由には首をかしげる。それは「保管資料の保存管理のため」だというのだ。博物館であれば展示に足る貴重な資料があり、そのほとんどは適切な管理を要するものなので、そのための資金がいるのは当然だ。しかし、それは博物館の維持管理のための最低限の費用ではないか。私設の博物館がこうした目的で寄付を募るのならわかるのだが、国立科学博物館である。資料の保管管理の費用は当然に国が文化教育行政の一環として支出する金額なのではないか。もしこれが新たになんらかの企画を行うとか、新たにこうした分野の資料を集めるとかいう理由であれば、寄付を募るというのはわからんではないが、現在ある資料の維持管理のための寄付となると、そんな費用まで寄付に頼らなければならない国立科学博物館とはなんなのか…と思う。もちろん外国の博物館や美術館の中には入場料は無料として、入り口で寄付という形での浄財をあつめているところもある。日本でもそうした博物館や美術館もあるのかもしれない。しかし、国立科学博物館はきちんと入場料をとっているし、入場者の数も多い。多くの人がそうだと思うが、子供の頃に科学博物館に行った想い出は強い印象として残っている。石が好きだったので、化石や鉱物の標本はいつまでも見ていたかったし、特に巨大トンボの化石は忘れがたい。フーコーの振り子の実物も日本で実際にみられるのは国立科学博物館だけではないか。地球の自転を眼で実感できる貴重なものである。そんな科学博物館の資料の維持保管の費用も出せないほど国の財政がひっ迫しているのだろうか。
2023年08月12日
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よくマイナンバーカードと保険証の紐づけの報道があるのだが、その「紐づけ」についての説明はほとんどない。これでは、本当に紐をつけるなんて思っている人が…まあそれはいるわけないだろうけど。実際に紐づけの方法を検索してやってみると、意外と簡単で、診療所などでマイナンバーカードを使って見たら、たしかに「紐づけ」がされていた。これで診察券や保険証を何枚も持つ必要もなくなるので、慣れると便利かもしれない。その上、マイナンバーカードは顔写真や暗証番号もあるので、保険証と違って悪用される恐れもないだろう。もっとも、保険証を失くすとサラ金などに悪用される可能性があるということがよくいわれたが現実にそういう例はどのくらいあったのだろうか。ただ、別の不安もある。今までは保険証もあまり持ち歩かず、持っているのは銀行のキャッシュカードと診察券くらいだった。キャッシュカードは暗証番号がなければ使えないし、診察券はまあ失くしてもそれほど問題にもならない。それがマイナンバーカードを常時持ち歩くとなるとちょっと不安だし、なくすとどのくらい面倒なことになるのだろうか。悪用はないにしても…たとえば番号はどっかに控えて置いた方がよいのだろうか。そのあたりがどうもわからない。さらにもう一つ…マイナンバーカードの利点としてさかんにいわれる住民票がコンビニで入手できるというのがあるが、マイナンバーカードというデジタルの話で紙の住民票がでてくるのが不思議だ。住民票のいる局面というのは自治体の各種住民サービスが多い、そうだとしたらそういうところはマイナンバーカードだけで住民票の機能が果たせると思うのが普通なのではないか。
2023年08月11日
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江戸の昔から花火は庶民の風物詩ときまっていた。それが、どこかの花火大会では有料席以外の客がみえないようにわざわざ壁を設置したというから驚きだ。花火をわざわざ見えないようにするなんて、もしかしたら前代未聞ではないのだろうか。一応は混雑による事故を防ぐといっているが、こんな理屈はなんとでもいえる。そもそも目隠しなしの普通の花火大会で事故が続出しているなんていう話は聞いたことがない。お代官様は私らの安全をお考えになって花火が見えないようにしてくださっているんだとよ、ありがたいこって…なんて江戸時代の庶民だっていわないだろう。おそらく見るなら有料席(2万円から立見席4千5百円)を買えばよいということなのだろうけど、湖の景観は空気や風同様にみんなのものではないのだろうか。花火にも金がかかる、だから有料席を設ける必要があるというのはわかるけど、有料席(2万円から立見席4500円)以外の人は見ることができないように目隠しの塀をわざわざ作るというのが理解できません。
2023年08月09日
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最近であるが名曲「浜辺の歌」には三番の歌詞があったということを知った。作詞者の林古渓は当初4番まで作詞していたが、「音楽」に掲載された時に、3番の前半と4番の後半がくっつけられて、4番がなくなっていたという。そしてこの3番の歌詞は意味が難解であることもあっていつのまにか歌われなくなったという。もちろん中学の音楽の教科書にも2番の歌詞までしか載っていなかった。3番は次のような歌詞である。はやちたちまち 波を吹き赤裳(あかも)のすそぞ ぬれひじしやみし我は すでに癒えて浜辺の真砂(まさご) まなごいまはやはり3番の歌詞は唐突な感じがする。1番と2番は浜辺を散策する人の感傷を詠ったもので、どうにでも解釈できるし、もしかしたら解釈も必要ないかもしれない。若い人は若い人なり、老人は老人なりに、自分の歌としてとればよいだけのことだろう。ところが3番になると、とたんに場面は限定される。赤裳は女性の着物であり、その女性が浜辺を散策しながら、自身の病気で離ればなれになった我が子を想っている…普通に解釈すればそんな意味のようだ。昔は結核などで女性が婚家を去るということもあった。しかし、そうだとすると2番で昔の人を偲んでいるのに3番で我が子を想うというのが結び付かない。それにこの状況もなんの説明もないのでは、意味がわかりにくい。ここはやはり「昔の人ぞしのばるる」の2番を受けて、3番の赤裳の人はその「昔の人」と解した方がつながるのではないか。1番で昔のことを思い、2番で昔出あった懐かしい人々を想い、そして3番で昔の人々の中でも最も強烈に想い出に残っている女性を想う…というわけである。若い恋人同士が浜辺を散策している。彼女はときおり歓声をあげて波をよけたりもしたかもしれない。けれども突然に風が吹いて着物の裾を巻き上げる。その後、歌詞の主人公は、病などもあって彼女と別れ、彼女の消息はその後わからない。まなごは自分の子供ではなく、愛しい子という意味だろう。普通は子供に対して使うのだが、彼女は、今にして思えば子供と言ってもいいくらいに若かった。ただこの歌は普遍性をもった歌詞が流れるような旋律にのっているのがよく、3番はやはり余計だろう。浜辺の歌Hamabenouta/歌いだし♪あしたはまべを/見やすい歌詞つき【日本の歌Japanese traditional song】 - YouTube
2023年08月08日
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ある大学の運動部の薬物汚染が問題になっている。薬物(覚せい剤)と言うのは相当高価なもので売る側も金の匂いを嗅いで売りつける。だから芸能人やスポーツ選手の薬物使用がニュースになるのだが、いくらアマチュアスポーツの花形にしてもなぜ大学生が…というのが最初の疑問だった。しかし、いろいろと見てみると、末端の価格は学生の手が出せない値段ではないという。もちろん非合法で正規の値段などあるわけないが、安い場合には1グラム5万円というので金のある学生なら買えない額ではない。運動部が舞台になったというのも考えさせられる。人は個人ではハードルの高い行為でも、「みんながやっている」というと途端にハードルが下がる。運動部のような濃密な人間関係のあるところでは、その「みんな」という仲間の意味が格段に重いのだろう。そういえば給付金詐欺でも、先輩や友人に誘われて詐欺に加担したという例がかなりあった。みんながやっているから、とか友人もやっているからとかいうのは、決して言い訳にはならない。わざわざ子弟を大学まで通わせていたのに、これでは親も泣くに泣けないだろう。覚せい剤に手を出した著名人を見てみると、立ち直って活動を再開している人もいれば、何度も逮捕され続けている人もいる。たばこ同様に覚せい剤の依存性も体質によって個人差があるのかもしれない。この薬物汚染事案もこのまま隠ぺいが続けば、集団生活の中で薬物に手を出す人はさらに広がり、何人かは人生終了となった可能性もある。捜査を徹底するとともに、なぜ隠ぺいともいえるようなことが起きたのかも検証する必要があるのではないか。
2023年08月07日
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今の通説では人類は数万年前にアフリカを脱出し、そこから全世界に拡散したとされている。また、ネアンデルタール人など別系統の人類との混血もアフリカ脱出以後に起きたという。こうしたものは、「今の通説」であり、将来は別の説がとってかわるかもしれない。いずれにしても、こうした人類の起源についての研究は一歩間違うと人種の優劣論とも結びつきやすく、他の分野にはない困難があるのかもしれない。この出アフリカの背景についても、ある学者は、勇気ある一部の人類が脱出したとしているが、これは価値観を含む説であり、じゃあ、今のアフリカ人は勇気のない人々の子孫かといえばそうではないだろう。人が移動する場合には探求心や冒険心に駆り立てられる場合もあれば、生存競争に負けて追い出されていく場合もある。要はいろいろであろう。地球の気温は長期的に見ると寒暖の波を繰り返してきたというのだが、人類のアフリカ脱出拡散は温暖化による生存域の拡大が背景にあるのではないか。また、日本における弥生人渡来にも関係するが、紀元前2世紀から3世紀にかけての東アジアでの人間の移動は、中国に強大な統一国家ができたことと関係するという説をみたことがあるのだが、これも寒冷化による移動という説はないのだろうか。気候変動と人類史の関連という項目でネットで検索してみたが、なかなかわかりやすいサイトはみあたらない。
2023年08月06日
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地球温暖化もある一定の閾値を超すと急速にすすむものなのだろうか。この夏は世界的に猛暑に見舞われているようだ。特に今まで夏は涼しいというイメージのあった西欧でも40度を超す日があるというので驚くしかない。こうした問題は単に暑いというだけではなく、農業や牧畜などの産業にも関わってくるだろうし、世界的な食糧不足という問題も現実味を帯びてくる。また、炎暑をさけての移住というのも起きてくるかもしれない。そうした意味でもリモートワークでも仕事のできる人々が率先して涼しい地域への移住ということになるであろう。また、今は猛暑ばかりに関心が向くが、地球温暖化は冬の気温の上昇ももたらす。現在真冬のアルゼンチンで30度の気温を記録したという。これも長期的には今まで不毛とされてきた土地で農業ができるようになるということにならないのだろうか。また、今まで寒冷地向けの作物をより人口支持力の高い作物に切り替えるということも考えられる。そうなると、いささか不毛な土地を持て余しているようなロシアなどが豊かな国になる可能性もあるのかもしれない。過去にも地球の気温は長期的に変動し続けてきたという。人類は7万年前にアフリカを脱出した一部が、その後全世界に拡散したという。また、青森の縄文遺跡ができた頃は温暖な時代で、その後、寒冷化するとともに、北から南への人口移動が起きたという。今は国境があり、人々はそう簡単に移住はできないのであるが、今年の猛暑は人類史の上でも大きな事件なのかもしれない。
2023年08月05日
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日本の是枝監督の作品だが韓国映画である。赤ん坊を違法にあっせんする二人組と赤ん坊を棄てた若い母、そして孤児院を脱走してきた子供と赤ん坊の五人がロードムービーをやっているうちに次第に家族のような情にむすばれていくという話で、ちょっと万引き家族に通じる。俳優も皆うまいし、特に若い母親が「ホテル・デルーナ」で元女武者の不老不死のホテル主人を演じていた人だとは気づかなかった。それくらい皆自然である。ただ欲を言えば海岸などの美しい風景がもっとでてきてもよかったかな…とも思う。特に子役がめちゃめちゃうまくて。この子供が入ってからがぜん面白くなっている。よく考えるとストーリーには殺人とかもあるのだが、そういう場面が描かれず、赤ん坊を引き取ろうとする夫婦も一行を追う警察官も皆いい人で、こんなほんわかした映画世界もいいなと思う。現実には韓国は非常に血のつながりを重視する社会で国内の養子縁組がすすまないから、海外への養子あっせんを行っていたと思うのだが、最近では海外養子に対する規制も厳しくなっているという。そうした現実からすれば映画世界は一種のメルヘンなのかもしれないが、それはそれでよいではないか。まあまあお薦めの映画だ。
2023年08月04日
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6月16日はブルームデイというらしい。なぜなら「ユリシーズ」は主人公ブルームの6月16日の出来事を書いた小説だからである。まあ、そのくらい有名であり、評価も定まった小説なのだが、読んでもわけがわからない。こういう小説は現代美術同様に読んだ人同士で「読んだ?わけわからなかったよね」と言い合うための小説なのではないか。第一巻を読んだとき、続きをどうしようかと思ったが、第二巻も結局読んだところをみると、やはり何かがあるのだろう。しかし、第十五挿話のキルケは半分空想や幻覚の世界を描いたもので、空想の中で死刑囚になったり世界の王になったりする。こうなるともうカオスすぎて、続きを読んだものか。ただ随所に実験的小説の手法がつかわれていて面白い。街を行きかう多様な人々の挿話がほぼ同時刻のものとして描かれた第十挿話のさまよい岩々や、主人公と少女のそれぞれの視点から同じ出来事をえがいた第十三挿話ナウシカア、そして極めつけは、目まぐるしく変転する文体で描いた第十四挿話太陽神の牛など…。とくにこの文体の変転は古事記祝詞の文体から章ごとにかわり最後は現代的な俗語まじりの文体になっている。翻訳が見事としか言いようがないが、英語で読めば(読めればだが)もっと面白いだろう。また、この小説を読むときスマホが非常に役に立った。マップ機能でダブリンをだし、地図を辿りながら映像を見る。もちろん小説の背景となった20世紀初めのタブリンではないが、建物や川の様子など変わらない部分もあるだろう。こんなふうに文学散歩をしながら読むことができるのも今の時代のありがたさだろう。
2023年08月03日
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韓国ドラマ「ダリとカムジャタン」を視聴した。最初の頃のラブコメが非常にツボで笑えたのだが、しだいにそのパワーが落ち、かわりにミステリー色が強くなっていったように思う。しかし決定的に悪い人間がでてくるわけでもないし、残虐な場面もない。美術館を舞台にしたおしゃれなドラマといったところだろうか。券さえあれば、誰でもほっとできる空間、それが美術館だ…という館長の言葉も良いし、一般にはあまりなじみのない現代美術だが、ドラマに出てくる光の展示などを見ると、現代美術もなかなかよいのではないかという気になる。欲をいえば、もっと美術部分にウェイトをおいてもよいのではないか。名画のパロディのオープニングがなかなかおしゃれであり、また、ルドンのキュクロプスの絵がドラマで重要な役割を果たしているのも意味ありげでよい。もっともこの絵の本物はオランダの美術館にあるという。※ススキノ殺人事件はすっかり報道が少なくなり、報道されている以上の真相はわからないのだが、防犯カメラの映像で犯人とされる人物が異様に大きなスーツケースを持っているのが気になる。出てくるときは遺体の一部らしきものはスーツケースとは別に持っていたようであるし…。
2023年08月01日
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子供の頃は30度をこえただけでも暑いと思い、40度の気温など外国にしかないと思っていたのだが、最近の猛暑はすさまじい。そしてこれが日本だけではなく、ヨーロッパも同様だというのだから驚くばかりである。温暖化がある閾値を超えて急速に進行しているのかもしれない。いずれは北の方への人口移動が起きていくのかもしれない。そういえばヨーロッパでも夏のバカンスは南欧をさけ、北欧や英国が人気だという。この間は、そんな東京の猛暑を避けて、山間部に行ってきた。行き先は大弛峠近くの夢の庭園。山の中にそこだけ花崗岩が露出したところがあり絶景を楽しめるとあって、木の階段や歩道設置により誰でも行けるようになっている。眼下は山ばかりなのだが、向かいの山の稜線かと思ったところが実は真っ白い厚い雲が上にかかっていただけだったりする。それもそのはずで大弛峠で既に2365メートルもあるのだから雲が目の高さにあっても不思議ではない。(山の中腹にこんな大きな岩が)ここでは猛暑など別世界…だが、いつまでもいるわけにはいかない。その後に立ち寄った乙女高原では、いろとりどりの花が咲いていたが、最近では鹿による食害が酷いということで、花畑のある一角は柵で囲まれていた。人間はもちろん柵の留め金をはずして散策することができる。ホタルブクロのように比較的あちこちで見ることのできる花もあるし、フウロソウも可憐な花だが特に高山植物というわけでもないようだ。それでもこれだけの花があるのは見事だ。一番目立つのはピンク色のシモツケ草でこれは高原による見られる花だという。それにしてもなんでこれがバラ科なのだろう。
2023年07月31日
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ビッグモーターの保険金不正請求事件が連日報道されている。これについてもわからないことばかりで、こちらの理解力がついていけない…。車に傷がついたので、保険金を請求する。その傷を過大にして、その分の修理費用の利益をあげていたというわけだ。ただ、この場合、ビッグモーター以外の当事者がいる。車の所有者と保険会社である。車の所有者は自分の車に自分と同様の愛着を持っている人も多い。当初の傷以上の傷がついたとしたら気づくのではないのだろうか。ましてや今はほとんどの人がスマホを持っている。修理前に車の撮影をするなんてことも日常的だろう。保険会社も同様である。なにしろその道のプロであり、車の走行中にできた傷とゴルフボールを振り回してできた傷との区別はつくのではないか。走行中に何かにぶつかってできた傷なら必ず擦れた後がある。誰かが石をぶつけたなんてことはめったにないし、雹が降って車に傷がつくのであれば、雹が降るたびに死傷者が続出するだろう。車の所有者も保険会社もなぜ気づかなかったのだろうか。次にこの事件誰が損をしたのだろうか。保険金を受け取った人は、簡単な修理だと思ったのにこんなに保険金が出てラッキーと思ったのかもしれない。保険会社も受け取る保険料と保険金全体を見てプラスであれば損はないだろう。結局は、その分、高くなった保険料を支払う大勢の車保有者に損が回ったということになる。車を保有していれば保険に入らないという選択肢はあまりないのだから。次にこうしたことは前々から雑誌やネットで問題視されていたのに、なぜ社会問題化が遅れたのだろうか。マスコミについては簡単な話である。ビッグモーターは大スポンサーであり、そこに配慮があったことは想像できる。まあ、マスコミ不信はさらにすすむであろう。ただ、これって普通に考えれば器物損壊であり、詐欺でもあるので、警察が動かなかったのは不思議である。まあ、いまごろになって、様々な省庁がいろいろと動いているようである。ただ、こうした大規模な不正請求以外にも、社員のブラックな労働環境も明らかになっている。これはこれで大問題だと思う。
2023年07月30日
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ススキノ殺人事件については「親の溺愛」が話題になっている。犯罪が起きると親の評価は両極端に別れる。虐待か溺愛か…。しかし、犯罪者に育てようとして子育てをする人はいない。普通に育てても、様々なベクトルの働きで不本意な結果になることだってある。それに溺愛というが、本当に溺愛なのだろうか。親はスーツケースやのこぎりまで娘と一緒に用意したという。娘が被害者と二人でホテルに入り、殺害した後、首を切断することまで計画していたわけである。しかし、女性がまだ老人ともいえないような男性と対峙し、刃物で殺害しようとする場合、返り討ちにあう危険がきわめて大きい。そのため、この事件も最初は女装の男性による犯行ではないかという説もあった。娘を溺愛していた親が娘をそんな危険な場に出すであろうか。娘が自分の手で殺害したいといったにしても、もっと娘が安全な場を用意する。そこのところがどうもわからない。報道によると娘は最初は被害者でストーカー被害を受けていたという。警察に相談すればよかったという意見もあるが、過去のストーカー事件で警察がいかに役にたたないかという例はいくつもある。娘や両親も警察にでて、いわば表ざたにするのは望まなかったのかもしれない。そしてその一方で恐怖感はどんどん膨らんでいく。娘一家の家がゴミ屋敷となっていたという報道があったが、家族三人恐怖にとりつかれ、正常な生活ができなくなった末の犯罪なのかもしれない。窮鼠猫を噛む型の被害者の反撃といった犯罪類型である。娘を一人で犯人と対峙させたこと、身元確認を遅らせるどころか証拠になってしまう遺体の一部の持ち帰りなど、通常の心理では理解不能な点も、娘一家の精神状態はそれだけ正常ではなかったことの反映と解すべきなのだろうか。
2023年07月28日
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ふるさと納税では体験型が増えているという。体験型というと御大層に聞こえるが、施設の入場券とかレストランの食事券などだという。こうしたものは単に目的の施設だけではなく、その周辺にも金が落ちるので自治体にとってのメリットも大きいだろう。ふるさと納税する側から見ても、現在では世帯規模が小さくなっており、地域にもよるだろうけど、おすそ分けの習慣もなくなってきている。使い切れないほどの農産物や魚介類が届くよりも、二人で行ける食事券の方がありがたいと思う人は多い。ただし、こうしたタイプの返礼品は、大都市やその周辺の自治体の方が圧倒的に有利だということも忘れてはならない。そもそもそうした施設は都市部に多い上、交通費だけでも相当かかるような遠方の地の施設利用券であれば普通は欲しくない。東京都区部や大都市周辺の市の中にはふるさと納税による税金流出を問題視する声もあるが、ふるさと納税がこうしたものにシフトするようになれば、東京都区部や大都市周辺の市に税金が入って来るという逆の流れが起きてくるのではないだろうか。また、地下鉄車内で牛肉や温泉付きホテル利用券を返礼品にした某大都市のふるさと納税の広告を見たことがあるが、こうした広報力でもやはり大都市は強い。今までふるさと納税というと、この制度のおかげで財政力の弱い自治体が助かるからよいのではないかという意見が多かったが、今までとは逆の流れが起きてくるわけである。そうなったときに、あらためてふるさと納税の制度も見直されるのかもしれない。
2023年07月27日
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札幌で起きた殺人事件は医師一家が逮捕されるという予想外の展開をみせている。被害男性と娘の間になんらかの事情があって、それがもとで娘のみならず父母までが被害男性に憎しみを募らせることは十分にありうることだろう。ただ不可解なのは父親が凶器の準備にも関与していて、娘を一人で被害者に対峙させたことだ。しかもその後の死体損壊までも予定している。事件の起きた後、困った娘が親に連絡し、その時初めて父親が事件を知り、車で迎えに行ったというのであればわかりやすいのだが…。それにしても世の中にはLGBTQとは別に女装趣味の男性というのもいるのだろうか。一説によると女装は実年齢よりも若く見えるようになるのが魅力と言う人もいるし、大昔、主人公が女装する米国映画が人気になり、有名人の女装写真が週刊誌に掲載されていたこともあった。趣味としての女装ならどうぞご自由にということなのだが、そういう人が女子トイレや場合によっては女子更衣室に出没するようになればそれはそれで問題のようにも思う。
2023年07月26日
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今は昔、清里ブームというのがあった。1980年代ごろにアンアンやノンノといった女性雑誌にとりあげられたこともあり、軽井沢同様におしゃれな避暑地として人気があり、タレントの店が評判になったりもしていた。それがこの頃では清里の名を聞くこともなくなったし、アンアンやノンノという雑誌も今でもあるのかどうかもよくわからない。この間、清里に行く機会があったが、さほど老朽化しているとも思えないお城のようなファンシーショップやレストランが軒並み廃墟となっており、不思議な光景であった。当時は大人気だったというアイククリームの店に行ってようやくブームの頃に若者だったと思われる年代中心に観光客がぱらぱらといたというくらいだろうか。こうしたものは人気が人気を呼び、さびれ始めると坂道をころがるように寂れていく。もともと歴史やそれに裏付けられたブランド力があるわけでもなく、温泉や周辺の名所があるわけでもない。清里という地名のイメージと雑誌などによる売込み戦略が功を奏した一時的なブームだったのかもしれない。ただ自然景観の豊かさは変わらないし、高原らしい夏の過ごしやすさもある。この近くの清里テラスはあまり歩かず1900メートルからの絶景を楽しめるのでお薦めである。廃墟となると異様な感じのする派手なショップやレストランがなくても、おちついた避暑地として、もっと人気がでてもよいのかもしれない。
2023年07月25日
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科学的とはいえないものでも、社会に大きな影響を与えているものがある。この本ではこれを金縛り、オーラ、パワーストーン、超能力、サプリメント、水からの伝言、性格診断などいくつかの例をだして、その科学性を検証した本である。といっても堅苦しい本ではないし、さっと読めるような本である。想像のとおり筆者はいずれについても、疑似科学としている。だからといって、それを全否定しているのでなく、例えば、サプリメントについては、比較的金に余裕のある高齢者が安心を得るとともに経済をまわすという効用は認めている。ただ、そうしたものは科学とは区別すべきものであるとする。本書の最後では、科学となるための要件を理論やデータ、社会的営みと言う分野ごとにまとめているが、こうしたことについては、筆者らによるサイトもあり、いつでもみることができる。疑似科学とされるものを科学的に考える|Gijika.com筆者は疑似科学が社会に過度の影響を及ぼすことには批判的であり、それはそのとおりであろう。しかしそうした疑似科学の受け手である我々の方としては、こうした疑似科学には遊びとか気休めの効用もあり、多くの者は科学の専門家が思うほどには真に受けているわけではないように思う。水からの伝言も水に音楽の良しあしを判断したり感謝の言葉を記憶する機能がないということは誰でもわかることであるが、美しい水の結晶の写真集として人気を博していたのだろう。前世を霊能者があてる番組も、実際に前世を信じ視聴していたというよりも、著名人と霊能者のトーク番組としてうけていたのだろう。血液型性格診断やノストラダムスの予言にしても誰でも参加できる共通の話題として、楽しんでいた。それにまた、本書が指摘しているように、科学と疑似科学の間にも段階がある。今はほぼ科学で照明されたとするものもあれば、今はほんの仮説だが、将来は科学になるものもあるだろう。逆にいまでは科学的と信じられているものについても将来は誤りとされるものが出てくる可能性も皆無ではないし、逆にまた、今は半信半疑のものであっても将来には科学的な根拠づけがなされる可能性のあるものもある。
2023年07月24日
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夏なので怖い話を…万葉集の人魂の歌である。人魂のさ青なる君がただひとり逢へりし雨夜の葉非左し思ほゆこの歌は葉非左の訓が不明でその分意味が不明になっている。ただ意味が不明なことがかえって不気味な感じがする。そもそも葉非左というのは人名なのか地名なのか、それとも別の何かの名前なのだろうか。はふり(葬儀)の誤記という説もあるようだが、今日のような灯もない昔に雨の夜にわざわざ葬儀をやったとも思えない。そしてまた、さ青なると君は続くのだろうか、きれるのだろうか。続くのならさ青なる君は魂であり、青い火なのか青い顔なのかはともかくとして、ただひとりでいたのは幽霊になる。ただ、幽霊は生きている人間が一人でいる時に逢うからこそよけいに怖ろしい。だからこの歌は、ただ一人で逢ったのは君であり、君は生きている人間のようにも思う。人魂の真っ青い色をしたものを、君がただ一人雨の夜に逢ったんだって、その葉非左(地名?)のことが気になり考えているよ…という意味かなと思うのだが、そんなことを書いているうちに怖くなってきた。早く寝よ。
2023年07月23日
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以前風土記を読んだとき、神話の時代から今と同じ地名があることに驚いたことがある。しかし考えてみれば驚くようなことではない。最古の書物古事記にも、地名付解なのだが、三重や焼津といった地名の由来が出てくるし、国生み神話では四国四県がそのまま出てくる。四県はそれぞれ神となっていて、現在の愛媛の県名はそのまま古事記の女神の名に由来する。古事記が編纂されたのは712年、風土記編纂の命令は713年であるが、両方とも基は口承であることを考えると、実際の成立はずっと遡るであろう。新潮社の日本古典文学全集の万葉集でも当時の地図が掲載されている。その地図では、現在の東京は多摩と荏原、豊島、足立、葛飾となっており、足立と葛飾の範囲はずっと広い。葛飾の真間の手古奈が有名であるが、この頃の葛飾は上総も入っていた。また、荏原の南西には橘樹、都筑と久良という地があり、これも武蔵の版図に入っている。都筑とか久良岐という地名が横浜にあるが、関係があるのだろう。謎なのは橘樹である。こうした地名は今はなさそうだが、橘樹神社と言うのが横浜と千葉にあり、弟橘姫の物語に関係しているという。万葉時代にあった橘樹という地名がこれに関連しているのかはわからない。ただ見当をつけると、多摩川沿いの世田谷区のあたりには古墳が多くのこっており、多摩川中下流域は古くから開けていた。ヤマトタケル神話が大和王権の東方への勢力拡大の神話的表現だとしたら、弟橘姫の物語は橘樹あたりの豪族が大和王権に協力したことの反映なのかもしれない。(曙光さんの御指摘により記述を変更しました。)地名の中には不動産開発業者が命名したような新しいものもあるが、一方では歴史以前からあったのではないかと思うくらい古いものもある。そうした古い時代の地名が今に残っているというのも不思議な気がする。
2023年07月21日
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韓国ドラマ「ダリとカムジャタン」を見ている。上品な名家の女性と俗な成金の家の男性というカップルは「家門の栄光」に似ているが、「家門の栄光」は女性の方がパーフェクトだったのに対し、こちらのヒロインはめちゃめちゃ頭脳明晰なのに世間知らずで食事には関心がなく、また、男性の方もアホじゃないのだが無教養という取り合わせが面白い。ゴミのオブジェを単なるゴミと思って棄ててしまうところなど、一般人が現代美術について思っていることのあるあるネタだろう。基本はラブコメ+サスペンスなのだが、そのコメディが笑いのツボにはまっていて普段ラブコメに興味のない人でも笑える。気になるのに嫌いなふりをする男性とほんわかした女性のとりあわせがよい。そして、女性主人公が館長をやっている美術館は非常におしゃれな雰囲気で、芸術を解するかどうかに関係なく、都会にこうした空間があってもいいではないかと思わせる。一方、主人公の働いているのはカムジャタンのチェーンでこちらは庶民の典型的な食べ物だ。美術館とカムジャタンの取り合わせのように主人公の男女のちょっとかみ合わないけど互いに気になるという関係に目が離せない。
2023年07月20日
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万葉集巻17から巻20を読んだ。あらためてこうした歌の出来た背景についてみてみる。757年には橘奈良麻呂の変が起きるが、実はその前の744年にも橘奈良麻呂が孝謙天皇の即位に反対して長屋王の子を擁立する動きをみせたことがあった。大伴家持が越中国守に任官したのはその2年後の746年であり、この人事は左遷という説もあるそうである。ただ越中国司在任中に作られた歌は非常に多く、多くは布勢の湖遊覧や立山など越中の景勝を詠ったもので、751年に帰任する際にも帰任の喜びよりも名残りを惜しむ歌を多く作っている。しかしながら、ものを書く人間を信用してはいけない…楽しく明るい宮中絵巻である枕草子も書かれたのは中宮定子を擁する中関白家の没落が決定的になってからだ。風雅を楽しんでいるように見える越中国司の生活も本当はどうだったのだろうか。鬱屈を隠しながら、あえて楽しいことばかりを書くということだってある。今だったらBLのようにみえる大伴池主との情細やかな交友も、実は同族同士の密談の場だったのかもしれない。密告、噂、讒言でころころ人が死んだり失脚したりする権謀術数の時代なので上級貴族も大変である。中央政界では橘諸兄が相変わらず実力者なのだが、孝謙天皇の信認を得た藤原仲麻呂が急速に台頭してきており、大伴家持が国司で都を離れている間も橘諸兄とその子奈良麻呂対藤原仲麻呂の勢力争いが繰り広げられていた。大伴家持は橘諸兄に近かったようで、当時としては大変な長寿であった橘諸兄を寿ぐ歌を帰京後に作っている。いにしえに君の三代経て仕へけり我が大主は七代申さねただ、やはり橘諸兄の高齢には不安があったことだろう。756年すでに譲位していた聖武天皇が没すると、すぐに讒言によって一族の者が捕らえられるという事件が起きる。その時に、大伴家持は、氏の長者として一族の軽挙妄動を禁ずる趣旨の長歌及び反歌を作っている。神代以来の武門としての大伴家の誇りに訴えるわけである。伴はもともとは親衛とか護衛とかといった意味だろう。劒太刀いよいよ磨ぐべしいにしえゆさやけく負いて来にしその名ぞ聖武天皇没後は橘諸兄もまもなく任を解かれ翌年死亡する。同年には橘の奈良麻呂の反乱が起き、大伴池主も獄中死したともいわれる。大伴家持も因幡国司となったが、これは明らかに左遷である。因幡時代のものとしては、因幡国庁での歌が一首残っているだけでこれが万葉集の最後の歌となっている。新しき年の初めの初春の今日降る雪のいやしけ吉事その後、孝謙天皇は重祚して称徳天皇となり侍医僧弓削道鏡を重用する。称徳天皇40歳、道鏡60歳位なので、後世面白おかしく伝えられるような話はなかったと思うが、孝謙天皇という人は、仲麻呂にしろ道鏡にしろいったん信頼するとどっと頼ってしまう依存心の強い人だったのかもしれない。道鏡に寵臣の座を奪われた仲麻呂は、764年に反乱を起こしている。大伴家持も起伏の多い人生を辿り、最後は陸奥で死亡したという説もあるが、因幡国庁での歌を最後にそれ以降の歌は残っていない。
2023年07月19日
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万葉集は第17巻から第20巻が特に面白い。万葉人でイメージされる持統朝の時代の歌はよく知られた名歌が多いが、響きや音が美しく歌謡のように歌いつがれてきたもののようにみえる。額田王の有名な、茜さす…の歌も、自身の恋を詠ったというよりも、今の作詞家が恋の歌を作るように、想像力を働かせての歌なのかもしれない。それが、大伴旅人や山部赤人、山上憶良の時代を経て、大伴家持の時代になると、歌の詠まれた状況はずっと具体的なものとして遺っている。越中の国司としての赴任とそこでの生活、地域を回っての出挙(種籾の貸付)や税報告のための都への出張、四季折々の宴や行楽、そこでの交友など、千数百年まえの上級地方官がなにかすごく身近に感じられる。騎馬や鷹狩を行っていたことも、後の貴族のイメージとは違うし、鵜飼の風習に言及した箇所のあるのも興味深い。そしてなによりも、当時は布勢の湖というものがあって、そこでの遊覧の様子が何度も歌に詠まれている。今では、湖は潟になっており、十二町潟水郷公園として万葉の面影を今に伝えているという。もちろん国司の業務はそれ相応にあっただろうし、藤原氏が次第に勢力を伸ばしていく過程での氏族間の暗闘の苦労もあったであろう。しかし、そうしたことを念頭においても、古代の越中の国で、立山を眺め、時鳥の声をまちわび、宿には山吹を植えて春を待ち、時には気の合う仲間と湖に舟を浮かべたという暮らしはいいものだ。藤波の花の盛りにかくしこそ浦こぎみつつ年にしのはめ巻19では、特に公の席での歌や贈答の歌ではなく、個人の心情を述べた歌が多くなっている。こうなると、近代短歌の世界にきわめて近く、古さを感じさせない。いくら時代が変わっても人間の感性そのものはほとんど変わっていないのだろう。
2023年07月17日
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小田急線車内通り魔事件の被告に対して懲役18年の判決が下った。殺人未遂事件であり、報道を見る限りでは、被害者の中に重篤な後遺症を負ったという人はいない。通常の殺人事件でも懲役18年というのはかなり重い。この事件は裁判員裁判に付されたという。裁判員に期待される「普通の市民感覚」ではこうした事件こそ重刑に付し社会を防衛してほしいと思うのかもしれない。これと前後して起きた京王線の事件では実際に車内では火がついており、被害者の中には失職した人もいたという。小田急の事件以上の重刑になるのだろうか。刑罰はもちろん軽ければよいとか重ければよいとかいったものではない。ただ、他の事件との均衡のとれたものにするということが必要なのであろう。ある芸能人の自殺事件は社会に衝撃を与えた。原因がネット上の誹謗中傷とされるので、ネットに対する批判は強くなっていくのかもしれない。たしかにネットは顔が見えないし、自分は安全地帯にいるので誹謗中傷はエスカレートしやすい。それでも、何を書いても良いというものでもないし、侮辱罪などの法にふれなくとも節度があるだろう。書く対象には公人、芸能人、そして一般人という区別がある。公人中の公人である政治家には許容度は大きいのではないか。政治家に対する批判が許されないという社会がよいとは思わない。ただマスコミが率先して書いていた「サメの脳みそ」とか「漢字が読めない」という批判はどうなのだろうか。大マスコミの記者が学歴エリートであるだけに、こういうのはあまり品がよくない。次に芸能人であるが、芸能人には私生活を隠している人と逆に私生活をだしてそれをネタにしているタイプがいる。自殺した芸能人については、よく知らないのだが、今までのyahoo記事をみるかぎりでは後者のようにもみえるが、そういう場合でも限度があるというものだろう。また、政治家の子弟など、好き好んでその立場になったというわけでもない人については一般人と同様にみるべきだろう。一般人に対しては、たまたま名前が知られたとしても、公人や芸能人以上の配慮が必要なのはもちろんである。
2023年07月16日
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万葉集の巻十七から巻二〇は大伴家持の歌日記という趣がある。そしてそのかなりの部分が越中の国守に赴任してからの歌であり、万葉集というのは実は越中の国司のあった高岡あたりとの関係が非常に深いわけである。万葉集が非常に多彩なものであるということを前の日記で書いたのだが、万葉人といってイメージされる人麻呂や額田王の時代と大伴家持が最後の歌を詠んだ時代とは相当のへだたりがある。この頃は紙が貴重品だっただけではなく、仮名文字すら成立していない時期だったことを思うと、口承で伝わった歌もけっこうあったのだろう。そういうわけで巻十七以降はいわゆる万葉人の世界というよりも、大伴家持という奈良時代の一貴人の生活が垣間見られるような歌が多く、それはそれで興味深い。家持は746年30歳くらいで越中国国司になる。すでに、731年には父大伴旅人が、733年には父とも親交のあった山上憶良が没している。越中国司は左遷という説もあるようだが、宴会や鷹狩の際の歌、それに越中の風物を詠んだ歌が多く、それだけみると、赴任生活を楽しんでいるようにみえる。布勢の湖に遊覧したときの長歌では湖を遊覧した楽しさを詠い「いや年のはに思うどちかくて遊ばむ今もみるごと」とすっかり今の生活を楽しんで都に帰りたいという感じもしない。毎年毎年気の合った者同士でこうして遊びたいねといっているわけだから。むしろ父の大伴旅人の方が、赴任先の筑紫ではけっこう都に帰りたいという歌を遺していたようにおもう。都を恋しがるどころか、税収報告のために都に行く際には、越中での別れを惜しむ歌がある。玉鉾の道にいでたち別れなば見ぬ日さまねみ恋しけむかも恋歌じたてで別離の情を詠ったものであるが、越中では特に大伴池主という人物と深い交友があったようである。同族で立場も地方高官同士ということもあったのだろうけど、二人の和歌のやりとりは、今はやりのBLじゃないかとおもうくらいに、情愛にあふれ細やかである。そしてその一方で妻との歌のやり取りはあまりない。その点、配流になった中臣宅守と妻狭野弟上娘子と贈答歌がいくつも残っているのと対照的である。まあ、このあたりは十七巻を読んでいる途中の感想なので、二十巻まで読んだらあらためて感想を書いてみる。立山に降り置ける雪を常夏に見れども飽かず神からならし
2023年07月14日
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普通は小説と言えば物語だと思う。ところが小説の中には物語性が希薄なものがあり、それが高踏的な芸術作品と思われているものもあるようだ。最近ではそうでもないのかもしれないが、過去の芥川賞にはそうしたものも選ばれていて、海外在住の男のところにかかってきた日本の妻の会話で終始するものや、貧しい青年の一日を描いたものや、出張先で大学時代の女友達に会ったというだけの顛末を描いたものがある。そうしたものは商業ベースにはのらないので、その作家の本がその後も売れたという話はあまりきかない。小説の中の物語豊かなものと希薄なものと比べた場合、前者が通俗的で後者は芸術的だといえるのだろうか。そうではないだろう。「源氏物語」や「戦争と平和」などは最高峰の芸術とされているが、物語としても面白く何度も映画化されている。一方で物語性の希薄なものは、単に芸術をきどっただけのものですべてつまらないかといえばそうでもない。「マルテの手記」は筋というのは特にないのだが、小説全体の静謐な雰囲気は何度も読み返したくなるし、「失われた時を求めて」も作者目線でゆっくりとすすむ展開がここちよい。一方でサルトルの「吶喊」は「マルテの手記」と類型は似ているが、小説の雰囲気はそれほどよくなく、再読する気はない。前置きが長くなった。「ユリシーズ」第1巻(ジョイス)を読んだ。複数の主人公の目線で6月のある一日を描いたもので前衛小説と称されるものである。主人公目線で丁寧に意識を追う手法は「失われた時を求めて」に似ている。ただ、「失われた時を求めて」を読んだときには、こうした小説もよいと思ったのだが「ユリシーズ」はちょっと違う。当時の世相や登場人物の教養に裏打ちされた発想があるので、いずれも注が必要なのだが、「ユリシーズ」ではその注の量が小説本体をこえるほどに膨大になっている。そして変幻自在な文体の変化が小説の面白みになっているのだが、これが翻訳だとどうも伝わらない。そんなわけで第一巻は読んだのだが、続けて第二巻を読んだものかどうか少し迷っている。こうした前衛的な小説というのは、今はどうか知らないが、昔の文学青年などはけっこう書いていたのかもしれない。佐藤愛子「血脈」で愛子の二番目の夫は文学同人誌仲間であったが、何かの賞を受賞した作品「変奏曲」は難しくて誰が読んでもよくわからず、その後も小説は売れなかったという。おそらくこれも凝った文体と筋書きのない芸術的かつ高踏的小説だったのだろう。
2023年07月13日
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