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夏なので怖い話を…万葉集の人魂の歌である。人魂のさ青なる君がただひとり逢へりし雨夜の葉非左し思ほゆこの歌は葉非左の訓が不明でその分意味が不明になっている。ただ意味が不明なことがかえって不気味な感じがする。そもそも葉非左というのは人名なのか地名なのか、それとも別の何かの名前なのだろうか。はふり(葬儀)の誤記という説もあるようだが、今日のような灯もない昔に雨の夜にわざわざ葬儀をやったとも思えない。そしてまた、さ青なると君は続くのだろうか、きれるのだろうか。続くのならさ青なる君は魂であり、青い火なのか青い顔なのかはともかくとして、ただひとりでいたのは幽霊になる。ただ、幽霊は生きている人間が一人でいる時に逢うからこそよけいに怖ろしい。だからこの歌は、ただ一人で逢ったのは君であり、君は生きている人間のようにも思う。人魂の真っ青い色をしたものを、君がただ一人雨の夜に逢ったんだって、その葉非左(地名?)のことが気になり考えているよ…という意味かなと思うのだが、そんなことを書いているうちに怖くなってきた。早く寝よ。
2023年07月23日
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以前風土記を読んだとき、神話の時代から今と同じ地名があることに驚いたことがある。しかし考えてみれば驚くようなことではない。最古の書物古事記にも、地名付解なのだが、三重や焼津といった地名の由来が出てくるし、国生み神話では四国四県がそのまま出てくる。四県はそれぞれ神となっていて、現在の愛媛の県名はそのまま古事記の女神の名に由来する。古事記が編纂されたのは712年、風土記編纂の命令は713年であるが、両方とも基は口承であることを考えると、実際の成立はずっと遡るであろう。新潮社の日本古典文学全集の万葉集でも当時の地図が掲載されている。その地図では、現在の東京は多摩と荏原、豊島、足立、葛飾となっており、足立と葛飾の範囲はずっと広い。葛飾の真間の手古奈が有名であるが、この頃の葛飾は上総も入っていた。また、荏原の南西には橘樹、都筑と久良という地があり、これも武蔵の版図に入っている。都筑とか久良岐という地名が横浜にあるが、関係があるのだろう。謎なのは橘樹である。こうした地名は今はなさそうだが、橘樹神社と言うのが横浜と千葉にあり、弟橘姫の物語に関係しているという。万葉時代にあった橘樹という地名がこれに関連しているのかはわからない。ただ見当をつけると、多摩川沿いの世田谷区のあたりには古墳が多くのこっており、多摩川中下流域は古くから開けていた。ヤマトタケル神話が大和王権の東方への勢力拡大の神話的表現だとしたら、弟橘姫の物語は橘樹あたりの豪族が大和王権に協力したことの反映なのかもしれない。(曙光さんの御指摘により記述を変更しました。)地名の中には不動産開発業者が命名したような新しいものもあるが、一方では歴史以前からあったのではないかと思うくらい古いものもある。そうした古い時代の地名が今に残っているというのも不思議な気がする。
2023年07月21日
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韓国ドラマ「ダリとカムジャタン」を見ている。上品な名家の女性と俗な成金の家の男性というカップルは「家門の栄光」に似ているが、「家門の栄光」は女性の方がパーフェクトだったのに対し、こちらのヒロインはめちゃめちゃ頭脳明晰なのに世間知らずで食事には関心がなく、また、男性の方もアホじゃないのだが無教養という取り合わせが面白い。ゴミのオブジェを単なるゴミと思って棄ててしまうところなど、一般人が現代美術について思っていることのあるあるネタだろう。基本はラブコメ+サスペンスなのだが、そのコメディが笑いのツボにはまっていて普段ラブコメに興味のない人でも笑える。気になるのに嫌いなふりをする男性とほんわかした女性のとりあわせがよい。そして、女性主人公が館長をやっている美術館は非常におしゃれな雰囲気で、芸術を解するかどうかに関係なく、都会にこうした空間があってもいいではないかと思わせる。一方、主人公の働いているのはカムジャタンのチェーンでこちらは庶民の典型的な食べ物だ。美術館とカムジャタンの取り合わせのように主人公の男女のちょっとかみ合わないけど互いに気になるという関係に目が離せない。
2023年07月20日
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万葉集巻17から巻20を読んだ。あらためてこうした歌の出来た背景についてみてみる。757年には橘奈良麻呂の変が起きるが、実はその前の744年にも橘奈良麻呂が孝謙天皇の即位に反対して長屋王の子を擁立する動きをみせたことがあった。大伴家持が越中国守に任官したのはその2年後の746年であり、この人事は左遷という説もあるそうである。ただ越中国司在任中に作られた歌は非常に多く、多くは布勢の湖遊覧や立山など越中の景勝を詠ったもので、751年に帰任する際にも帰任の喜びよりも名残りを惜しむ歌を多く作っている。しかしながら、ものを書く人間を信用してはいけない…楽しく明るい宮中絵巻である枕草子も書かれたのは中宮定子を擁する中関白家の没落が決定的になってからだ。風雅を楽しんでいるように見える越中国司の生活も本当はどうだったのだろうか。鬱屈を隠しながら、あえて楽しいことばかりを書くということだってある。今だったらBLのようにみえる大伴池主との情細やかな交友も、実は同族同士の密談の場だったのかもしれない。密告、噂、讒言でころころ人が死んだり失脚したりする権謀術数の時代なので上級貴族も大変である。中央政界では橘諸兄が相変わらず実力者なのだが、孝謙天皇の信認を得た藤原仲麻呂が急速に台頭してきており、大伴家持が国司で都を離れている間も橘諸兄とその子奈良麻呂対藤原仲麻呂の勢力争いが繰り広げられていた。大伴家持は橘諸兄に近かったようで、当時としては大変な長寿であった橘諸兄を寿ぐ歌を帰京後に作っている。いにしえに君の三代経て仕へけり我が大主は七代申さねただ、やはり橘諸兄の高齢には不安があったことだろう。756年すでに譲位していた聖武天皇が没すると、すぐに讒言によって一族の者が捕らえられるという事件が起きる。その時に、大伴家持は、氏の長者として一族の軽挙妄動を禁ずる趣旨の長歌及び反歌を作っている。神代以来の武門としての大伴家の誇りに訴えるわけである。伴はもともとは親衛とか護衛とかといった意味だろう。劒太刀いよいよ磨ぐべしいにしえゆさやけく負いて来にしその名ぞ聖武天皇没後は橘諸兄もまもなく任を解かれ翌年死亡する。同年には橘の奈良麻呂の反乱が起き、大伴池主も獄中死したともいわれる。大伴家持も因幡国司となったが、これは明らかに左遷である。因幡時代のものとしては、因幡国庁での歌が一首残っているだけでこれが万葉集の最後の歌となっている。新しき年の初めの初春の今日降る雪のいやしけ吉事その後、孝謙天皇は重祚して称徳天皇となり侍医僧弓削道鏡を重用する。称徳天皇40歳、道鏡60歳位なので、後世面白おかしく伝えられるような話はなかったと思うが、孝謙天皇という人は、仲麻呂にしろ道鏡にしろいったん信頼するとどっと頼ってしまう依存心の強い人だったのかもしれない。道鏡に寵臣の座を奪われた仲麻呂は、764年に反乱を起こしている。大伴家持も起伏の多い人生を辿り、最後は陸奥で死亡したという説もあるが、因幡国庁での歌を最後にそれ以降の歌は残っていない。
2023年07月19日
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万葉集は第17巻から第20巻が特に面白い。万葉人でイメージされる持統朝の時代の歌はよく知られた名歌が多いが、響きや音が美しく歌謡のように歌いつがれてきたもののようにみえる。額田王の有名な、茜さす…の歌も、自身の恋を詠ったというよりも、今の作詞家が恋の歌を作るように、想像力を働かせての歌なのかもしれない。それが、大伴旅人や山部赤人、山上憶良の時代を経て、大伴家持の時代になると、歌の詠まれた状況はずっと具体的なものとして遺っている。越中の国司としての赴任とそこでの生活、地域を回っての出挙(種籾の貸付)や税報告のための都への出張、四季折々の宴や行楽、そこでの交友など、千数百年まえの上級地方官がなにかすごく身近に感じられる。騎馬や鷹狩を行っていたことも、後の貴族のイメージとは違うし、鵜飼の風習に言及した箇所のあるのも興味深い。そしてなによりも、当時は布勢の湖というものがあって、そこでの遊覧の様子が何度も歌に詠まれている。今では、湖は潟になっており、十二町潟水郷公園として万葉の面影を今に伝えているという。もちろん国司の業務はそれ相応にあっただろうし、藤原氏が次第に勢力を伸ばしていく過程での氏族間の暗闘の苦労もあったであろう。しかし、そうしたことを念頭においても、古代の越中の国で、立山を眺め、時鳥の声をまちわび、宿には山吹を植えて春を待ち、時には気の合う仲間と湖に舟を浮かべたという暮らしはいいものだ。藤波の花の盛りにかくしこそ浦こぎみつつ年にしのはめ巻19では、特に公の席での歌や贈答の歌ではなく、個人の心情を述べた歌が多くなっている。こうなると、近代短歌の世界にきわめて近く、古さを感じさせない。いくら時代が変わっても人間の感性そのものはほとんど変わっていないのだろう。
2023年07月17日
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小田急線車内通り魔事件の被告に対して懲役18年の判決が下った。殺人未遂事件であり、報道を見る限りでは、被害者の中に重篤な後遺症を負ったという人はいない。通常の殺人事件でも懲役18年というのはかなり重い。この事件は裁判員裁判に付されたという。裁判員に期待される「普通の市民感覚」ではこうした事件こそ重刑に付し社会を防衛してほしいと思うのかもしれない。これと前後して起きた京王線の事件では実際に車内では火がついており、被害者の中には失職した人もいたという。小田急の事件以上の重刑になるのだろうか。刑罰はもちろん軽ければよいとか重ければよいとかいったものではない。ただ、他の事件との均衡のとれたものにするということが必要なのであろう。ある芸能人の自殺事件は社会に衝撃を与えた。原因がネット上の誹謗中傷とされるので、ネットに対する批判は強くなっていくのかもしれない。たしかにネットは顔が見えないし、自分は安全地帯にいるので誹謗中傷はエスカレートしやすい。それでも、何を書いても良いというものでもないし、侮辱罪などの法にふれなくとも節度があるだろう。書く対象には公人、芸能人、そして一般人という区別がある。公人中の公人である政治家には許容度は大きいのではないか。政治家に対する批判が許されないという社会がよいとは思わない。ただマスコミが率先して書いていた「サメの脳みそ」とか「漢字が読めない」という批判はどうなのだろうか。大マスコミの記者が学歴エリートであるだけに、こういうのはあまり品がよくない。次に芸能人であるが、芸能人には私生活を隠している人と逆に私生活をだしてそれをネタにしているタイプがいる。自殺した芸能人については、よく知らないのだが、今までのyahoo記事をみるかぎりでは後者のようにもみえるが、そういう場合でも限度があるというものだろう。また、政治家の子弟など、好き好んでその立場になったというわけでもない人については一般人と同様にみるべきだろう。一般人に対しては、たまたま名前が知られたとしても、公人や芸能人以上の配慮が必要なのはもちろんである。
2023年07月16日
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万葉集の巻十七から巻二〇は大伴家持の歌日記という趣がある。そしてそのかなりの部分が越中の国守に赴任してからの歌であり、万葉集というのは実は越中の国司のあった高岡あたりとの関係が非常に深いわけである。万葉集が非常に多彩なものであるということを前の日記で書いたのだが、万葉人といってイメージされる人麻呂や額田王の時代と大伴家持が最後の歌を詠んだ時代とは相当のへだたりがある。この頃は紙が貴重品だっただけではなく、仮名文字すら成立していない時期だったことを思うと、口承で伝わった歌もけっこうあったのだろう。そういうわけで巻十七以降はいわゆる万葉人の世界というよりも、大伴家持という奈良時代の一貴人の生活が垣間見られるような歌が多く、それはそれで興味深い。家持は746年30歳くらいで越中国国司になる。すでに、731年には父大伴旅人が、733年には父とも親交のあった山上憶良が没している。越中国司は左遷という説もあるようだが、宴会や鷹狩の際の歌、それに越中の風物を詠んだ歌が多く、それだけみると、赴任生活を楽しんでいるようにみえる。布勢の湖に遊覧したときの長歌では湖を遊覧した楽しさを詠い「いや年のはに思うどちかくて遊ばむ今もみるごと」とすっかり今の生活を楽しんで都に帰りたいという感じもしない。毎年毎年気の合った者同士でこうして遊びたいねといっているわけだから。むしろ父の大伴旅人の方が、赴任先の筑紫ではけっこう都に帰りたいという歌を遺していたようにおもう。都を恋しがるどころか、税収報告のために都に行く際には、越中での別れを惜しむ歌がある。玉鉾の道にいでたち別れなば見ぬ日さまねみ恋しけむかも恋歌じたてで別離の情を詠ったものであるが、越中では特に大伴池主という人物と深い交友があったようである。同族で立場も地方高官同士ということもあったのだろうけど、二人の和歌のやりとりは、今はやりのBLじゃないかとおもうくらいに、情愛にあふれ細やかである。そしてその一方で妻との歌のやり取りはあまりない。その点、配流になった中臣宅守と妻狭野弟上娘子と贈答歌がいくつも残っているのと対照的である。まあ、このあたりは十七巻を読んでいる途中の感想なので、二十巻まで読んだらあらためて感想を書いてみる。立山に降り置ける雪を常夏に見れども飽かず神からならし
2023年07月14日
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普通は小説と言えば物語だと思う。ところが小説の中には物語性が希薄なものがあり、それが高踏的な芸術作品と思われているものもあるようだ。最近ではそうでもないのかもしれないが、過去の芥川賞にはそうしたものも選ばれていて、海外在住の男のところにかかってきた日本の妻の会話で終始するものや、貧しい青年の一日を描いたものや、出張先で大学時代の女友達に会ったというだけの顛末を描いたものがある。そうしたものは商業ベースにはのらないので、その作家の本がその後も売れたという話はあまりきかない。小説の中の物語豊かなものと希薄なものと比べた場合、前者が通俗的で後者は芸術的だといえるのだろうか。そうではないだろう。「源氏物語」や「戦争と平和」などは最高峰の芸術とされているが、物語としても面白く何度も映画化されている。一方で物語性の希薄なものは、単に芸術をきどっただけのものですべてつまらないかといえばそうでもない。「マルテの手記」は筋というのは特にないのだが、小説全体の静謐な雰囲気は何度も読み返したくなるし、「失われた時を求めて」も作者目線でゆっくりとすすむ展開がここちよい。一方でサルトルの「吶喊」は「マルテの手記」と類型は似ているが、小説の雰囲気はそれほどよくなく、再読する気はない。前置きが長くなった。「ユリシーズ」第1巻(ジョイス)を読んだ。複数の主人公の目線で6月のある一日を描いたもので前衛小説と称されるものである。主人公目線で丁寧に意識を追う手法は「失われた時を求めて」に似ている。ただ、「失われた時を求めて」を読んだときには、こうした小説もよいと思ったのだが「ユリシーズ」はちょっと違う。当時の世相や登場人物の教養に裏打ちされた発想があるので、いずれも注が必要なのだが、「ユリシーズ」ではその注の量が小説本体をこえるほどに膨大になっている。そして変幻自在な文体の変化が小説の面白みになっているのだが、これが翻訳だとどうも伝わらない。そんなわけで第一巻は読んだのだが、続けて第二巻を読んだものかどうか少し迷っている。こうした前衛的な小説というのは、今はどうか知らないが、昔の文学青年などはけっこう書いていたのかもしれない。佐藤愛子「血脈」で愛子の二番目の夫は文学同人誌仲間であったが、何かの賞を受賞した作品「変奏曲」は難しくて誰が読んでもよくわからず、その後も小説は売れなかったという。おそらくこれも凝った文体と筋書きのない芸術的かつ高踏的小説だったのだろう。
2023年07月13日
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万葉集(四)を読んだ。似たような恋の歌が並ぶ巻十一や十二はやや読むペースが落ちたが、巻十三以降はそれぞれ特徴のある巻がならぶ。巻十三は長歌と反歌の万葉集らしい体裁の歌がふたたび多くなり、巻十四には東歌と防人の歌が収録されている。さらに巻十五になると、遣新羅使関係の歌145首と中臣宅守が流罪となったときに妻の狭野弟上娘子と贈答した歌63首が収録されていて、特に前者は独立した歌物語のような様相を呈している。巻十六の前半は長い詞書のある歌が収録されていて、美女桜児やかずら児の哀話や竹取の翁が神女にあう話があり、物語の萌芽のようである。男たちが自分のために争うのを悲しんで自ら命を絶ったという美女の哀話は万葉集の葛飾の真間の手古奈が有名であるが、似たような話が同じ万葉集にあるというのも興味深い。日本最古の物語は竹取物語とされるが、竹取の翁や美女をめぐって複数の男が競争するなどは、このあたりに源流があるのかもしれない。巻十六の後半は、うってかわって宴会の余興の歌が多くなり、骰子の歌やウナギの歌など面白い歌が多い。いずれも一時の余興ではなく、ある程度人口に膾炙した歌なのかもしれない。今日では和歌といえば紙に書くというイメージなのだが、この頃はこうした歌は節をつけ、舞ったりして宴会を盛り上げていたのだろう。時代がはるか下って古今著聞集にも遊女が即興の歌を謡い舞う場面がある。前の日記で紹介した骰子の歌などは、それだけみると、ばかばかしいのだが、これも面白い節や舞があれば宴会をもりあげたと考えられる。なお、この巻十六の最後に乞食の歌や人魂の歌がある。乞食の歌と言っても、ホームレス歌人ではなく、門付けの歌のようなもので、これも、独特の節や踊りで謳われたのだろう。人魂の歌はおそろしきものの歌三首の中に収録されていて、宴会で怖がらせる際に謳われていたのだろう。
2023年07月12日
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万葉集には歌集の中の歌集というような、同じ状況で詠まれた一群のまとまった歌が収録されている。令和の出典となった梅香の宴の歌もそうだが、遣新羅使の歌もあり、これは天平8年(736年)から翌年にかけてのもので145首に上る。当時は新羅との関係は非常に険悪(白村江の戦いは663年)であり、新羅は使いの旨を拒否し、しかも、帰途、対馬で大使阿倍継麻呂は疫病のために病没したとある。遣唐使は新羅との関係が険悪であったため、半島を通らない海路でゆかざるを得ず、危険なものであったというが、遣新羅使の目的はもしかしたら航路の便宜を図ることと関係あったのかもしれない。使いを拒否した理由もまた疫病と関係あったのかもしれない。いずれにしても悲劇的な航海であり、歌はいずれも望郷の念に満ちたものばかりである。当時は九州でも故郷からは遠く、故郷に帰るまでは安心できない旅であった。それにしてもちょっと不思議なのは、当時は大陸との交流もあり、遣唐使を詠んだ歌もある。山上憶良のいざ子ども早く大和へ…の歌である。これも望郷の歌であり、大陸の風物を詠んだ歌ではない。遣新羅使の歌もおそらくは新羅に上陸していないので、新羅の風物がないのは仕方なくとも、見慣れぬ海の光景や新羅の陸影などを詠ったものはあってもよいように思う。今の物見遊山の旅と当時の旅を一緒に考えるわけにもいかないにしても、富士山や筑波山など都の人には見慣れない東国の風物は何度も詠われている。沖つ波 高くたつ日に あへりきと 都の人は 聞きてけむかも
2023年07月11日
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万葉集を読んでいるが、これが意外と面白い。まず収められている歌が非常に変化に富んでいる。これはおおまかにいって、特定の人物(万葉人)の和歌とされるもの、多くの不特定の人によって謡われてきたものがある。前者はさらに半ば言い伝えとなった古い時代のものと、編者に近い時代のものとがあり、後者の場合には筑紫での梅香の宴などの具体的な場面に詠われた一連の歌がある。多くの不特定の人によって謡われてきた歌にも宴会の座興の歌もあれば、門付けの歌もあり、さらに東国の歌や防人の歌もある。中には骰子の歌もあり、一二の目のみにあらず五六三四さえありけり双六のさえ…とある。これなんか今だったら小学生の作のようだが、古代人が立方体の骰子をはじめてみると、こんなふうに驚くのかもしれない。様式も短歌が多いが長歌と反歌という形式をとっているものもあり、後の歌物語のような長い詞書を持っているものもある。そうでなくとも長歌には物語性のあるものがあり、葛飾の手古奈の物語もこの形式である。歌の多くは、作者が明記されていないものも含めて、下級官吏以上の階層の間で謳われていたものが多いのかもしれないが、興味深いことに、当時は馬に乗る風習がかなり一般的だったようにみえる。例えば…つぎねふ、山背道(やましろぢ)を、人夫(ひとづま)の、馬より行くに、己夫(おのづま)し、徒歩(かち)より行けば、見るごとに、音(ね)のみし泣かゆ、そこ思ふに、心し痛し、たらちねの、母が形見と、我が持てる、まそみ鏡に、蜻蛉領巾(あきづひれ)、負(お)ひ並(な)め持ちて、馬買へ我が背(せ)他の人は馬に乗っているのにあなただけが徒歩なんて気の毒で泣けてくるわよ、母さんの形見の鏡や布を売るから馬を買いなさいよ…というわけである。馬にのる風習が一般化していないのは、地形が複雑で馬が走り回るような広い道が少なかったせいのように思っていたが、さらに古い時代の万葉人が靴を履いて馬に乗っていたというのも不思議である。いったいどういう経緯で草履と徒歩、牛車や駕籠の生活にうつっていったのだろうか。
2023年07月10日
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賛否両論もちろんあるのだろうが、今や街中に設置されている防犯カメラが、犯罪防止や犯人検挙に役立っていることは否定できないであろう。ところが、札幌のススキノ殺人事件では防犯カメラの映像があり、被害者の身元も分かっているのに、いまだに犯人は分かっていない。防犯カメラの映像で見る限り、犯人のおぼしき人物はホテルに入る時は女装、出るときは男性の服装のように見えるが、女装はふだんやっていない人がやるとかえって目につくものである。男性の服装なら、女性でも男性っぽい服装はあるのだから、さほど目立たないだろう。女性か、そうでなければ普段から女装に慣れていた人物なのかもしれない。そしてもう一点、首を切断して持ち去ったのが異様で理解不明である。座間の大量殺人事件では犯人は被害者の首だけを自宅に保管しており、その理由として首の処理は困難だったことをあげていた。そうなると犯人が処分の難しい頭部をわざわざ持っていった理由がわからない。そのほか、首を切断する理由として犯人が被害者を畏怖していて生き返ることを怖れた、身元が判明することを怖れたなどの理由も考えられるが、前者であれば持ち去る理由にはならないし、後者であれば指紋照合も考えるのが普通で頭部持ち去りだけを行うのも変だ。しかし、もし、混乱の中でとっさに身元隠しのために頭部を持ち去ったのであれば、被害者の周辺を辿れば分かるところに犯人がいるということなのかもしれない。真相はいったいどうなのだろうか。サイコパスの快楽型の殺人で、自己顕示もかねた犯罪だったとしたら、それが一番おそろしい。やっぱりクマも怖いけど人間も怖い。
2023年07月09日
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韓国ドラマ「金の花」を視聴した。正式にこういうジャンルがあるかどうかは知らないのだが、韓国ドラマによくある財閥家庭崩壊ものといったものに入るドラマである。出生の秘密、親族内の権力争い、復讐などがテーマなのだが、最初からひきこまれて視聴した。視聴を終えてみると、悪役であり、復讐のターゲットである、財閥家長男の嫁がひたすら気の毒に見える。主人公は正体を隠して財閥家に顧問弁護士として入り込んだ長男の婚外子である。けっこう入り組んだ話なので、もう一度視聴しようと思う。主人公は地味な風貌なのだが、財閥のドラ息子役はかなりのイケメンだ。韓国ドラマでは人気の俳優が悪役やダメ人間の役を演じることも多く、それがドラマをひきたてているように思う。日本のドラマはそんなに見ていないのだが、日本では役柄の印象が俳優の印象につながることが多いのではないか。最初は悪役が多かった俳優が人気がでると善人の役をやるようになる傾向があるように思う。期待するのは、あくまでもスターやアイドルを見ることであって演技という芸ではないということなのかもしれない。本当は、ひいきの女優がすごくいやな女の役をやっているのを見て、その演技力に感心するということもあってよいのではないかと思うのだが。
2023年07月07日
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この本のもとになった「ショックドクトリン」についてはNHKの100分で名著の番組でとりあげており、堤未果氏が解説をしていた。ショックドクトリンとは恐怖で国民が思考停止しているときに、政府や大資本による過激な政策をおしすすめる手法を言う。ソ連崩壊、911テロの際などにこの手法が使われたとし、最近では東日本大震災やコロナ、そして温暖化にもこれがあてはまるという。少し前だったら、こうした本がNHKで紹介されること自体が考えにくかっただろう。読み易い文章でざっと読んだだけなので、どこまで理解したかも自信はないが、マイナンバーカードや太陽光パネルへの警鐘も一理あるように思う。ただその一方で、主要国に遅れたデジタル化の現実を思うと、マイナンバーカードは推進すべきもののように思うし、なにかわからないからデジタル化は怖い…という不安感をあおるのはどうなのだろうか。政府がなにか不安感を煽って都合のよい施策を行うというのは今にはじまったことではない。不安を煽るどころか本物の不安があった戦時中に多くの規制が導入されたという。それにしても、この本を読んで思うのは、コロナや温暖化、それに最近の日本では少子化など、政府が旗を振って大変だ~大変だ~と危機感を煽るのは本当に危機なのだろうか。いささか疑り深すぎるのかもしれないが、なにか都合のよい施策を導入するために危機感を煽っているのではないか。コロナの最初の頃は感染者がでて事業所が閉鎖されたとか、公共交通に支障が出るということがあった。感染したら即出勤停止となればそうなるだろう。この日記でもコロナの最初の頃は不安なことを書いたのだが、今年初め、実際に自分が感染すると、人によって違うのだろうけど通常の風邪よりもはるかに症状は軽いものであった。もしかしたらコロナ自体、最初からこれほど大騒ぎするほどのものではなかったのかもしれない。温暖化にしても、地球の気温は長期的に見れば温暖期と寒冷期を繰り返しており、青森の縄文遺跡ができた時期は今よりもずっと温暖だったという。温暖化で人類は絶滅するかのような言説は危機感をあおりすぎではないか。著者の考えには賛否あるかと思うのだが、すぐ読める本であり、機会があれば一読するのもよい。
2023年07月06日
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万葉集(三)を読んだ。最近、ペースが落ちていたのは、第11巻、第12巻と非常に似たような恋の歌が延々と続いていたせいである。だいたいが想う人に会えない嘆きを歌ったものが多く、会えない理由としては旅であったり、世間の噂であったり、女性の母親の反対であったり、人妻であったり、女性がまだ子供であったりというもので、女性は妻の場合もあれば、遊び女の場合もある。こうした歌は、作者の記述もなく、どういう状況でうたわれたものかという記述はない。思うにこうしたものは、民謡のように節回しをつけて歌われたものではないのだろうか。そういえば少し前までは恋をうたった歌謡曲があちこちで流れていた。こうした一連の万葉集の恋の歌も、それと同じようなものなのかもしれない。こうした歌がどういう人々の間で歌われていたのかは想像するしかないが、万葉集の編者やその周辺に近い階層だったのだろう。こうした階層なら、時には遠方に旅をすることもあるし、旅先でもそれ相応の交情の機会を得ることもある。日本では騎馬の風習というのはあまりなかったようなイメージがあるが、意外なのは馬に乗る歌もけっこうある。馬の蹄の音がするので、女がいそいそと迎えにでるというような歌である。この頃の一定階層以上の人々の間では騎馬も一般的に行われていたのかもしれない。詳しくは知らないのだが…これが時代が下って平安時代になると、光源氏が馬を乗り回すというのは、ちょっと想像しにくい。 いで我が駒 早く行きこそ 真土山 待つらむ妹を 行きて早見む
2023年07月05日
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三浦半島は近い観光地として気楽に行けるのがありがたい。午後に出かけても十分に楽しめるし、東海岸、西海岸どちらを行っても海の景色が楽しめるし、しゃれた店も多いのでデートコースとしてもよいのではないか。そしてまた、行く旅にこんなところもあったのか…というスポットがある。この間、出かけた時に訪れたのは、湘南国際村の公園、ペリー来航記念館、立石公園であるが、いずれも無料である。湘南国際村はその名の示す通り、国際会議やイベントなどを念頭において建設された施設だという。東京から近い風光明媚な場所は、国際会議にはうってつけのようだが、実際には学生の合宿や企業の研修などにつかわれているようだ。コロナ禍の最初の頃には感染者の療養施設としても使用されていた。そのせいか、施設前の公園はちょっと雑草が目立ったが、それでも、高台からの展望はよく、散策するのにはちょうどよい。あいにく天気があまりよくなく、江の島がかすかに見えた程度だが、天気が良ければ富士山も見えることだろう。ペリー来航記念館はさほど広くもないが展示が充実している。建物はともかくとして、記念館のある公園自体は古くからあったもののようで、伊藤博文の揮毫のある日米友好の大きな碑が目を引く。年代を見ると、日英同盟の前で、当時の政治家は米国との関係の重要性を認識していたということだろう。この認識が続いていたら、その後の歴史も違っていただろう。立石公園は巨岩立石を眺める公園で、この立石は古くからの絶景として安藤広重の絵にも描かれているという。駐車場を降りると遊歩道があり、夕陽の絶景スポットとして、時刻によってはカメラをかまえた人たちが並ぶという。立石は高さ12メートル、周囲役30メートルの凝灰岩の巨岩であり、たしかに駐車場からはすっくと立っているように見えるのだが、遊歩道から眺めるとうずくまった後ろ姿のようにも見える。水面の辺りは波の浸食されており、こうした岩も長い年月の間には少しづつ姿を変えているのだろう。
2023年07月04日
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フランスの暴動について紹介した動画があるが、実態は報道以上に深刻なようだ。【前代未聞】フランスの緊急事態をフランス人が分かりやすく解説します🇫🇷🇯🇵 - YouTubeもちろんこの動画をどこまで信用するかは人それぞれだが、社会の分断とか共生とかいったものについて、いろいろと考えさせられる。フランスにおける分断の根は今にはじまったことではなく、イスラム教に対してヘイトとのいうような漫画が刊行され、その編集者に対しテロが行われたことがあったし、さらにはその漫画を使って「表現の自由」についての授業を行った学校教師が殺害される事件も起きた。後者については、表現の自由は神聖であるとして、その被害者の教師の国葬までが行われたという。そもそもイスラム教になじみのない日本では、冒涜漫画をみてもおかしくもなんともないし、ひたすら下品としか思えない。宗教は心のよりどころになるものだし、特に辛い境遇にある場合はなおさらである。どうみてもアレな宗教というものもあるのかもしれないが、一般的には、宗教を揶揄するのは心無い業だし、殺人は許されないにしても、被害者の国葬というのは異様な感じがした。そのあたりでも、不満が鬱積していたのではないか。移民のもたらす分断の他に、貧富の差のもたらす分断もある。フランスではジレ・ジョーヌ運動があったし、米国でも人種暴動やウォール街デモ、英国でも暴動があった。こうした分断の克服というものが21世紀の大きな課題になってくるのかもしれない。
2023年07月03日
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最近のニュースについて思ったことをいくつか書いてみる。さる女性芸能人の不倫騒ぎ自体には興味ないのだが、夫という人についてはちょっと不思議に思う。経歴をみると、高校卒業後20歳からキャンドル制作を始め、その後、社会活動家としても活躍しているという。世の中、キャンドルでもアクセサリーでも小物でも趣味でなんか作っているという人は多いのだが、それで生活するというのは考えられないし、ましてや高収入を得るなんて夢のような話だ。いったいどれくらいの才能なのだろうか。神戸で起きた6歳児の虐待死は痛ましい限りなのだが、関係者には知恵遅れ等の障害を持つ者がいたという。だいたい人間を含めた自然界の属性は正規分布曲線を描き、IQでいえば120以上と80以下は同数、110以上と90以下も同数いる。そうした人々すべてを含めての社会というものである。こうした虐待事件は起きた後では、保育園や児童相談所などで防げなかったのかという議論が必ず起きるものだが、家族内のことへの他人の関与には限界がある。こうした事件の多くは防ぎようもなかったものなのではないか。これからも生き残った関係者の長い人生は続いていく。ロシア情勢はニュースをみてもよくわからないことが多いが、一番わからないものは民間軍事会社なるものだ。そもそもロシアは軍事大国であるのに、なぜ普通の軍隊ではなく、民間軍事会社を使っていたのだろうか。そしてその民間会社を率いる人物もネットで見る限り旧ソ連時代のエリートとか軍人ではなく、まったくバックグラウンドをもたない人物のようである。そうした軍事会社の収入は国家から得ていたとしても、正規の軍との関係は政府の中での所管はどうなっていたのか。そしてなによりも、兵士はどうやって調達していたのだろうか。指揮命令がある以上、言語を解さない人間では無理で、しかも、主体が民間なので、勲章などの国家からの栄誉や補償も期待できない。そしてその民間軍事会社のクーデターが失敗した現在、そうした兵士や将校は今どうなっているのか。と
2023年07月02日
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こういう本は自分では絶対に買わない。今日、紙の本を買う層のほとんどは高齢者又はその予備軍なので、高齢期の生き方のような本を著名人が書くと売れる場合が多いのだろう。具体的な名をあげるのはひかえるが、そうした本は文章がうまいので一気に読ませるが、読んでみると、知的老人の座談を聞いたような感じで中味がない。そして、時間を無駄にしたような感じがする。受験評論家から映画監督、そしていつのまにか高齢者医療の専門家になったような方が最近では、この手のベストセラーを連発しているようだが、その流れに乗ったのか女性精神科医二人の対談で作成した本でいかにもお手軽だ。けれども、90歳を超えた女医と50代の女医というのがあたらしい。言っていることは極めてまともで人と比べるな、無理するな…ということで、そのとおりだろう。こういう本は教えを乞うというよりも、そういえば自分もずっとそう思っていた、有識者でもそうなんだと安心するために読む本なのだろう。まあ、読む機会があればざっと読んでみるのもよいかなという類の本である。人間関係は人を動かそうとするから辛くなる、あきらめからスタートすれば万事解決とか、孤独死おおいにけっこう、一緒にあの世にきてくれるわけでなしとか、なかなかの名言もあるが、結局は、不満をいうよりも諦めろということで、これは日本古来の仏教思想などにも通じるようだ。いきつくところはそこなのだろうか。
2023年06月30日
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歌舞伎役者の自殺ほう助事件についてはわからないことだらけだ。自殺の引き金になったというのは、老々介護と週刊誌報道なのだという。老々介護は今の世の中、珍しくない。おそらく経済的には相当に裕福であるので、施設だけではなく、看護師や家政婦を雇うという選択もできたはずだ。それが、介護する側、介護される側双方が自殺するというのは飛躍しすぎている。週刊誌報道となるともっとわからない。ハラスメントが事実であったとしても、それが犯罪になるようなものとも思えないし、一時的なダメージを受けたり、内容が本人が知られたくないことであっても、それは歌舞伎役者本人の話で両親の自殺動機にはならないだろう。こんなことは当事者でないとわからないことなのだが、おそらく親族間の自殺ほう助で実刑なるとも思えず、沈黙のうちにしだいに忘れられていく事件なのだろう。それはそれでよいのだろう。マイナンバーカードと保険証の紐づけについてはいろいろの意見がある。そもそもマイナンバーカード導入の時にあれほどいわれた強要するものではないというのはどうなったのだろう。保険証と紐づけなら事実上の強要ではないか。しかし、一方でデジタル化の流れもあるし、マイナンバーカード一枚ですめば便利であり、マイナンバーカードには写真もあるので悪用の危険も少ない。保険証を紛失し誰かがそれをサラ金で使ったら…というよくある不安はなくなる。ただ問題は紐づけした場合に、今のような保険制度が維持できるかである。奇跡のような一億総中流なんてものは過去の話になったにしても、まだまだすごいとと思うのは、社会階層にかかわりなく、同じ病院で同じ医師の診察が受けられることである。金持ち対象の病院、医師、貧乏人対象の病院、医師という区別があまりない。せいぜい個室か相部屋かという違いで、それも、快適さに大きな差があるわけでもない。そのあたりはどうなのだろうか。
2023年06月29日
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あまり書きたくもないことなのだが、某政党で党首公選制を訴えた平党員を除名したということがあった。それについて批判が起きると、政党党首は批判に対し「結社の自由をわかっていない」と主張した。たしかに、除名された党員が除名は言論の自由の侵害だとか憲法違反だとかといって訴訟を起こしたとしても、裁判所の判断は結社の自由の範囲内というものだろう。合憲とか違憲という視点でみれば某政党の除名は合憲ということになる。ただ、除名を批判する人々は別に除名が違憲だからといって批判しているわけではない。公選制の是非は置いとくとして、そういうことをやっているとライトな支持者は離れていくだろうと言っているのである。また、これもあまり書きたくないが、最近、部活について書いたところ、部活実績を内申書に反映させるのがおかしいという部分に反論のコメをされた方がいた。内申書の実態も自分の高校受験の頃とはずいぶん変わっているし、入試はしょせんは通過点と思うので、別に内申書に恨みもない。ただ、当時、生徒会の会長はじめ、役員をやっていた生徒達はほとんど、トップの学校群に進学していったのをみて、世の中はこういうものかと思っただけである。この内申書については、訴訟も行われており、これが有名な内申書訴訟である。学生運動たけなわの時代に、ある中学生が中学校でも全共闘運動を行った。当然に内申書の評価は悪く、中学生は希望した高校全部の入試に落ち、高校進学を諦めた。その後、内申書が思想信条の自由などの憲法の規定に違反するとして訴訟を起こしたが、最高裁までいって敗訴した。原告の少年は政治家となり、現在某自治体の首長になっている。ここで注意すべきことは、司法の判断は、内申書の憲法違反の有無についてであり、内申書が入試方法として適切かどうかの判断とは無関係だということである。それは、ちょうど某政党の除名が結社の自由には違反していないにしても、政党の判断として適切かどうかとは別問題だというのと似ている。まあ、「現政権の大軍拡に怒っている」コアな支持層だけを見ているというのなら、それも一つの選択だろうけど。要は違憲合憲と適切不適切は別問題である。合憲なのは当然のこととしても、合憲≒適切というわけではない。
2023年06月28日
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歌舞伎界のスター役者が自殺ほう助で逮捕されたという。老々介護の負担があっても、週刊誌のスキャンダル報道があっても、世間一般から見れば金もあり、順風満帆の家族に何があったのか真相をしりたいところである。歌舞伎のもう一人のスター役者も引退を表明しており、歌舞伎界の将来を不安視する人も多いのではないか。謡曲、文楽などの伝統芸能が勢いを失っているように見える中、歌舞伎だけは新たなファンを獲得して生命を保っているようにみえるだけに、これで歌舞伎がだめになるようなことになれば残念きわまりない。歌舞伎の様式には新劇とは別のみせる工夫もされており、演目も今でも古さを感じさせないものも多く、また、新作歌舞伎というものもある。すたれない伝統芸能という意味では落語と双璧かもしれない。まあ、当の役者についても、実刑なんてことはないと思うし、長い時間をかけても復活してほしいと思う。事件といえば、電車内で立て続けに起きた通り魔事件の初公判が行われた。二人の被告に共通する孤独や絶望、社会への怨嗟。こうしたものがいつの時代にも起きる例外的な逸脱なのか、今日の社会を映す鏡で大きな潮流の波頭にすぎないのか、気になるところである。
2023年06月27日
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毎日のように北海道の住宅地にクマ出没のニュースがあるけど、これが東京だったらどうだろう。クマ出没はさすがにシュールなのだが、猿とかが出没しただけでも、もっと大ニュースになって、人が襲われでもしようものなら対策本部でもできるかもしれない。なにしろ東京では矢鴨もカルガモもニュースになるのだから。クマ出没で、行政が駆除に動かないのは、北海道民差別としか思えない。子供が襲われるような惨事が起きてからでは遅い。閑話休題最近、高齢になってからの離婚が増えているという。高齢者の絶対数が増えているのだから、数として増えているのは当然なのかもしれないのだが、別の要素もあるのかもしれない。変な話だが人間が男と女でいる期間というのは思春期から更年期すぎくらいだろう。もっとも後の方はけっこう個人差があるのかもしれない。昔であれば、人生は大体、子供時代、青春時代、夫妻時代に区分されたが、長寿化によって、今では夫妻時代のその後が長くなっている。そしてこれも長寿化の一現象なのだが、この頃に、親の死亡を迎えるという人も多い。今頃、高齢期に入るという人は兄弟数の少ない世代でもあるので、親の死亡によってまとまった多くはなくともまとまった財産を受け取ることもある。退職という節目、年金受給という節目、子供の独立という節目、そして親の死亡という節目。こうした中で離婚そして人生の再出発という選択をするのはわからないわけではない。しかし、一方でこうも考えられる。老年期というのは病気等のリスクも高く、収入も限られてくる。親も亡くなり子供も離れているとなれば、最も夫婦間で頼り頼られる時期であるともいえるし、一人で暮らすよりも二人で暮らした方が生活費も安くすむ。離婚し再婚を願う相手がいたとしても、子育てもない以上、そうしたものは普通は財産目当てだろう。現実にはそうした後妻業のようなものも増えているのかもしれないし、幸せならそれもよいのかもしれないけど、人生の最後にごたごたがあるのも面白くない。高齢になってからの離婚といっても、その先にそれほどよいことがあるとも思えない。これも、あくまでも一般論なのだが。
2023年06月26日
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ひさしぶりにはまる韓国ドラマにであった。「金の花」(この金はお金のことで黄金ではない。現代も同じ)と題名は地味だし、主人公もあまり花のない、まるで悪役の脇役のような風貌なのだが、第一話を視聴してすぐにひきこまれた。極端に台詞の少ない寡黙な演技なのだが、眼差しや細かい動作で心の動きが伝わってくる。主演俳優はこの演技で最優秀演技賞を受賞したという。主人公は財閥総帥の婚外子で、母と兄妹を殺された復讐のために、素性を隠し、敏腕弁護士として財閥家庭に入り込むという韓国ドラマらしいストーリーだが、一人一人の人物造形がしっかりしているので荒唐無稽という感じはしない。しかし、こうした上流階級の一族間の争いや出生の秘密という話…本当に多い(笑)。余談だが、日本ではほとんど知名度のない韓国のイケメン法務大臣候補の疑惑をなぜか日本のワイドショーがリアル韓国ドラマといって騒いでいたが、なんで外国の政治スキャンダルをそこまで報道するのか意味不明だった。視聴したのは半分ほどだが、主人公が思いをよせる科学教師がよい人過ぎて、けっこう先が気になっている。物語のキーマンになりそうなのは、主人公の父の妻、昔の言葉でいえば嫡母なのだが、この悪女ぶりがなかなか迫力がある。いつも思うのだが、韓国ドラマでは悪役、特に女性の悪役にハマり役が多いように見える。別にリアル世界で韓国に悪女が多いというわけでもないのだろうけど。
2023年06月26日
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「茜さす」を読み終えた。新聞連載当時から気になっていた小説だが、改めて読んでみると、小説の舞台になった1980年代と今日との世相の差異を感じる。あの頃は雇用機会均等法などもでき、テレビのCMでは若い女性が職業選択の自由~と歌う求人誌の広告が流れていた。グルメや旅行を謳歌するハナコ族なんて言葉も流行し、若い男女がおしゃれな生活をするトレンディドラマが人気だった時代ではなかったか。スマホもパソコンもなかったけど、よい時代であった。永井路子の作品なので歴史小説かと思ったが、そうではなく、万葉集に興味を持ち、持統天皇の足跡をおう女子大生が主人公である。女子大で国文を専攻し、就職が決まらなくてもさほどあせっている様子もなく、卒業後は奈良での発掘作業の手伝いなどをして暮らす。あの頃、こうした若者も多かったのではないか。フリーターが若者の新しい生き方としてもてはやされ、主人公のように、そこそこ裕福な家庭では、娘に対してさほど就職をせかさなかった。いつでも望めば専業主婦になれるから…という安心もあったのかもしれない。そして主人公の友人二人は、母子家庭で育った自立志向の女性と秀才だが専業主婦志向の女性と対照的である。あの頃はちょうど女性の生き方も過度期を迎え、女子学生も自立志向と専業主婦志向に分かれていたのではないか。そしてその中間に主人公のようにフリーターで好きなことをするという生き方もあった。物語の最後は、家庭や結婚にこだわらない生き方をする人々を「個族」と定義し、主人公が自分もそうした個族であると認識するところで終わる。未婚率が上昇し、合計特殊出生率が低下してニュースになったのもこのころだったかと思う。こうして未婚化はまず女性の人生の選択が増えるという形で始まり、最初は未婚化ではなく晩婚化とよばれていた。そのうち、男女とも結婚という選択の出来ない人々が増えていったのだろう。80年代に青春真っ盛りだった「個族」達もそろそろ老年期を迎える。その後の人生が上手くいった人もいればそうでない人もいるのだが、後者の場合には生活不安に頭を悩ましている人もいることだろう。
2023年06月23日
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日本の少子化対策の切り札として外国人労働力の受け入れを主張する人がいる。人の国際移動はますます活発になっており、外国人労働力の受け入れというのは時代の流れでもあり、現に流入者は増えている。こうした外国人採用を支援する業務も増えているのも時代の趨勢で、総理の実弟も外国人採用支援の業務に携わっているという。岸田首相、外国人に手厚い政策は弟のため!?…実弟の会社の業務は「外国人採用支援」…利益誘導はあるのか | Smart FLASH/スマフラ[光文社週刊誌] (smart-flash.jp)たしかに様々な分野で人手不足がいわれている今日、そうした分野で働いてくれる外国人を導入することはありがたいし、多くの外国人がやってくれば人口減もくいとめられ、少子化対策にもなりそうである。ただ、よく考えてみると、今日、人手不足がいわれている分野の多くは低待遇で人の集まらないところであり、何年も担い手不足が言われながら待遇改善が進んでいない分野である。外国人とひとくくりにいってしまうのではなく、一人一人をみればそれぞれの人生をかかえた生身の人間である。日本で金を稼ぐことを夢見てやってくるのであって、別に日本社会の少子化対策のためにやってくるわけでもなければ、日本で最低生活を体験するためにやってくるわけでもない。低待遇で日本人も集まらないような職種に外国人が長期間働くとは思えないし、彼らのかなりの部分はしばらくすれば別の職種への移動を考えるのではないか。そしてまた、外国人流入には社会的コストというものもある。労働力流入によって利益を受ける企業等はそうした社会的コストを負うわけではないが、外国人子弟の義務教育編入による教員等の負担、社会的不適応による犯罪、習慣の違いによる近隣トラブル、さらには困窮した場合の生活保護といった問題まで…それを考えると、はたして外国人労働力の導入というのはどうなのだろうか。また、これからを考えると、日本がいつまでも外国人労働者に選ばれる国であるかどうかというのも疑問である。日本の最低賃金は主要国に比べて低いという子とはかなり知られているが、じゃあ、その最低賃金やそれに近い水準で働く人はどのくらいいるのだろうか。最低とか最高というとついつい平均が真ん中にある山型グラフを想像して、少ないと思う人がいるかもしれないがこれが多い。平成26年では39%が最低賃金の1.15未満で働いており、神奈川などでは半数を超えている。もちろんこれには高齢化というファクターもあるのだが、外国人の単純労働力の多くがこうした最低賃金の近辺で働くことを考えれば、今後が日本より最低賃金の高い国を選択するようになるというのが当然だろう。000101878.pdf (mhlw.go.jp)さらにいえば、外国に行って働くというのには金銭以外の要素もある。その国のイメージ、その国の言語の習得しやすさとその言語を習得した場合のメリット、その国で得た経験の価値等々である。人はより幸せな人生を得るために国境を超える。そうした目で見た場合、もしそれが自分だったらどういう国を選ぶのだろうか。
2023年06月22日
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最近、部活と教員の過重労働が問題となっている。思えば中学時代も部活というのはあったけれども、顧問の先生が一緒に残るなんてことはあまりなかったし、教師自身も、部活に残るのがよい先生だなんて思わないでほしいとはっきりいっていた記憶がある。そしてまた、熱心に部活をやっている子もいたが、帰宅部や帰宅部同然の文化部という子もけっこういたように思う。自分の体験なのではるか昔の話だ。地域によって事情は違うのかもしれないが、今のように部活が強化されたのは、あの校内暴力が問題となったことが契機だという。暴力を振るう少年なんてどうみても少数派だし、そうした非行対策の処方箋として部活動をもってきたというあたりにボタンの掛け違いがあるのではないか。部活動については縮小とか民間委託とかといった議論があるが、廃止という選択肢が正解のように思う。そもそも部活動自体、学習指導要領にあるものではないし、根拠がない。学校教育の重点としては、主要三教科>主要五教科>九教科>学校行事>>部活ではないのだろうか。教員の数が足りない上に週五日制も導入されているという状況の中で、学校行事は縮減されず、部活もそのままという状況の方がむしろ異常である。それにまた、部活というのはそんなに教育効果があるのだろうか。よく中学校などで〇〇君▽△大会準優勝とかといった垂れ幕が掲げられているのをみるが、教科では遠慮されている選別や順位付けが部活となると、あからさまに行われているのも変だ。集団競技で全員が一丸となって努力することが教育効果があるという人もいるかもしれないが、そうしたものは排除やいじめと紙一重という面もある。要は、様々なお稽古事や塾と同様に、部活もやりたい人だけが学校外でやればよいのではないか。さらにいえば、今はどうか知らないが、東京では部活の活躍や生徒会での役割が内申書で非常に有利に扱われていた。なぜ、五教科を真面目に勉強している子よりも、実技教科でよい演技をする子や部活や生徒会をやっている子の方がよい内申書がもらえるのだろうか。あの内申書こそは不公平のかたまりのように見えてならなかった。
2023年06月21日
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人が大体の場合、言葉を使って考えるものだが、時にはその言葉に思考が騙されることもある。古来より詭弁というものはあったし、「ものはいいよう」という言葉もある。もちろん、理屈ととりもちはどこにでもつく。言葉だけでは、地獄を天国のように表現し、天国を地獄のように表現することも可能かもしれない。そんな中でも騙されやすい、まあ、逆から言えば騙しやすい言葉は「改革」という言葉ではないか。改革という意味は変革するというだけで、その中身については何も言っていない。ただそれを改革というだけで、自動的にそれがよいものであるかのように、すりこまれてしまう。そしてその「改革」に反対する者を「守旧派」とよべば、改革≒善玉、守旧派≒悪玉となり、そうしたムードだけで「改革」は進んでいく。政治改革という掛け声の下で小選挙区制が導入され、税制改革という掛け声の下で消費税が導入された。これからも様々な「改革」が唱えられていくかもしれない。言葉の受け手である我々としては「改革」は必ずしも善とは限らないことを心しながら改革の中味を子細に見て、その改革が実行された場合、自分自身あるいは自分の身近な人にどういう影響が及ぶかを考えてみればよい。思考の基準はあくまでも、身近なところに置くこと、人類とか環境とか日本とかいった大きな概念的なところに置くと、それもまた騙される原因になる。そういえば戦時中には八紘一宇だの大東亜だのと言った大きな言葉が盛んに使われていた。政府は最近、骨太の改革として終身雇用制の見直しを言い出している。こうした「改革」こそ、もしこうしたものが実行された場合、自分自身あるいは自分の家族など身近な人々にどういう影響が及ぶかをよく考えてみる必要がある。
2023年06月20日
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奨学金返済を理由とした自殺が年に10件ほどあったことが判明し、これで奨学金についての議論が再燃している。 現在の奨学金の多くは貸与型であり、給付型は少ないことを問題視する意見や、少子化対策として高等教育を無償化しろといった意見などである。 しかし、10件を多いとみるか少ないとみるかはともかくとして、給付型奨学金にしろ、無償の高等教育にしろ、そうしたものには原資がなければならない。 それを考えると、今の大学教育全般がそれだけの価値あるものかどうか疑問となってくる。 大学進学率が少なく、大学も狭き門といわれた時代には、大学卒の学歴はそれなりの価値があったのかもしれない。 けれども今では大学の数も多く、中には入試競争すらもなりたたないところもある。 分数計算ができないなど、驚くほどの低学力の大学生がいたって驚かないし、統計上、大学生の勉強時間が中学生よりも少ないという結果をきいてもそんなものかとも思う。 ひきこもり、無業、あるいは生活困窮者にも大学を出た人がいるのが普通だし、公務員だと高卒資格で就業した後に大卒の学歴が判明して解雇されたなんていう悲劇もある。大学を出るということが必ずしも有利になるとは限らない時代である。もちろん 余裕があればモラトリアム期間として大学に行くのは悪くない。しかし、大学の費用は学費だけではない。人生の中の吸収力に富む若い時代を大学生活に使うわけである。そうだとしたら、人によっては大学教育を受けるよりも、より収入に直結する技能資格を身に着けた方がよいという人もいるのではないか。中学や高校程度の学力もおぼつかない青年が大教室で講義を聞いても、得るものがあるとも思えない。高等教育の無償化や奨学金徳政令のような議論は暴論としか思えない。そしてまた、昔も今も十分に学力のある若者には進学の途が開かれていた。地域には学費のかからない国立大学があり、格安の学生寮も整備されていた。さらに、給付型の本来の意味での奨学金もあったし、塾教師や家庭教師と言った割のよいアルバイトの機会もあったので、家貧しくても、有為な人材として社会に出ていった人も多かったことだろう。
2023年06月19日
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こうした本の常としてかなりな意訳であろう。ただ、資本主義の弊害が問題視されていく中で、こうした本が脚光をあびるのも当然なのかもしれない。なぜ論語なのかといえば、日本にいちばん定着している道徳の規範として論語があること、そして当時の支配層の多くは儒学によって倫理観を培ってきたことがある。なぜ算盤なのかというと、儒教の教えは富や競争を否定したものではなく、今後振興を図っていく実業の領域でも儒教に基づく道徳観が必要であるとの考えによる。渋沢栄一の注目すべきところとして、明治のごく初期から救貧活動を行っていることであり、東京市養育院の設立にも関与している。当時も「怠け者を養ってやる必要などはない」という強い反対があったが、それを押し切って設立したという。現在でも養育院の後身である健康長寿医療センターには渋沢栄一の座像がある。困窮者の中には自業自得という人がいるにしても、こうした人々の扶助は儒教道徳の仁に合致すると考えたのであろう。本書には格差や競争にもふれた個所がある。渋沢栄一は競争を否定しないし、その結果の貧富の格差についても、それは人間社会の宿命であり、あきらめるよりほかないとする。ただし、貧しい人と金持ちの関係を円満にし、両者の調和を図ろうと努力することはもののわかった人間のたえざる義務であるとする。それなのにそれは人間社会の宿命として放置すると、ついには取り返しのつかない事態になるとする。その禍を小さいうちに防ぐ手段として「思いやりの道」を盛り上げていくように切望するとある。この思いやりの根底にあるのが道徳であり、儒教でいえば仁というものであろう。格差は活力、稼ぐが勝ち、若者には貧しくなる自由がある、貧困者は子供も作れないのでそのうち淘汰される…こういう言葉を現代のエリートから聞くことも多いのだが、こうしたものは、格差を人間社会の宿命として放置するものであろう。渋沢栄一は明治初期の偉人がそうであったように、前近代と近代と二つの全く違った時代を生きた。渋沢自身は豪農の生れだったが、前近代の農民の貧困も目の当たりにしただろう。そうした時代の格差が「取り返しのつかない事態」にならなかったのはなぜなのだろうか。身分制からくるあきらめと情報がないことによりそうした生活しか知らなかったこと、この世の忍耐を賛美し来世に希望を持たせる宗教の存在などいろいろな要素があるのだろう。そう考えると、近代化による、身分制の否定と競争の激化、宗教の弱体化や情報の増加といったものはみな格差による「取り返しのつかない事態」を招来する引き金となるものなのかもしれない。そんなことを渋沢栄一に聞いてみたいような気もする。
2023年06月18日
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最近のニュースで気になるものについて書いてみる。※北海道で宅地にまでクマが出没して問題になっている。普通に考えたら非常事態だろう。それなのに、いまだに駆除は民間人頼みであり、それどころか、クマとの共生とか山に返せとかといっている人たちもいるらしい。調べてみると、日本熊森協会というものがあり、この団体がクマの捕殺をやめ人間とのすみわけを提案しつづけている。実際にこの団体にどの程度の発言力があるのかよくわからないが、HPを見ると、会長の弁護士の方は「人間にえさ場を破壊され、人里に出てこざるを得なくなった山の動物たちを、私たちはいつまで害獣として、捕殺し続けるのでしょう。環境破壊にあえぐ野生動物たちの今の惨状は、子どもたちが将来直面する未来だと、わかってほしい」と言っている。こうした主張に賛同する人はいるのかもしれない。けれども、この団体の本部は兵庫県の西宮であり、会員も都会暮らしの方がほとんどだろう。実際にクマが出没する地域の人はどう考えているのだろうか。少数の人々の意見が多数の意見とかけ離れているということになっていなければよいが…少年法をめぐる議論でそんな悪しき実例をいやというほど見ている。まあ、クマについては、不安を感じる人は北海道に行かなければよいだけなのかもしれないが、地元の人はどう考えているのだろうか。※不衛生な行為の動画が拡散したことによって損害を被った回転寿司チェーン店が当の行為を行った少年に6700万円の賠償請求をしたという。こんなものは当の少年に賠償能力があるとは思わないし、仮に支払われたとしても巨大企業にとってはどうでもよいお金だろう。そうだとしたら、考慮する要素は、こうした賠償請求が企業イメージにとって吉か凶か…なのだが、はてどうでるのだろうか。※小中学校の教員が不足しているという報道も気になる。志願者の現象は質の低下につながり、そうなると問題は単なる人員不足に留まらない。免許更新制(今では廃止)など、教員の待遇という意味ではマイナスの制度改正が行われたことに加え、部活の重視による過重労働もあるのだろう。国語も算数も小学校4年まで嫌いだったし、成績も悪かったが、小学校5年でよい先生に出会い、そのあたりがましになった経験があるので、やはり小学校や中学校の先生の役割というのは大きいと思うのだが。
2023年06月13日
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「茜さす」(上)を読んだ。この小説の初版をみると昭和63年、今から思うとかなり昔だ。小説を読む興味の中には、物語自体もさることながら、小説の書かれた時代についてふりかえるということもある。主人公は国文学を学ぶ女子大生であり、主人公の友人の一人は母子家庭で育った自立型のタイプで、もう一人の友人は優秀な学生なのだが就職する気のない専業主婦志向のタイプだ。そして主人公は…というと、一応はマスコミ志望ということなのだが、あまり必死にはなっていないし、両親とも、就職しなければ市内でもよいという様子である。さらに、もう一人の友人がいるのだが、彼女は奔放な生活をしていたようだが、小説の冒頭で自殺?している。舞台設定は名門女子大の国文科なので、必ずしも世の中の平均というわけではないが、当時の女子大生の意識というのは、こんな感じだったのだろうか。あの頃の時代、それは女性にとって結婚が人生の選択の問題として認識されはじめた頃で「自立する女性」だの「翔んでる女」だのが流行語になったのもこの頃だったように思う。1.53ショックというように出生率の低下が議論になったのも、この頃だったと思うのだが、それは女性の晩婚化が背景にあるとされ、今日のような未婚社会は想像する人はあまりいなかったように思う。今にして思えばよい時代であった。ただ、小説というのは、普通の人の普通の感性、そして普通の人生を描くだけでは、常識の範囲であり、あまり感動がない。当時の山の手女子大生の日常スケッチという意味では、興味深いがそれだけだろう。小説的興趣を与えるのは、女子大生が専攻する万葉集の世界についての考察と、翔んでる女性である主人公の叔母の存在である。そしてまた飛鳥でであう謎の富豪男性も気になる。小説らしくなるのは下巻ということで、通読したら、ネタバレにならない範囲で感想を書くことにする。それにしても時代の変転は激しい。昭和63年の時代であれば、専業主婦志向でまともに就職をしなかった女性も、主人公のようにどこかのんびりかまえていた女性もめずらしくなかった。けれでも時代は変わり、そうした女性の中にはそのまま定職をもたずに年齢を重ねている人もいるのではないか。男性はともかく女性の無業者にはそういうタイプが多いように思う。若いうちは望めば専業主婦になれるのはあたりまえだし、周囲もそう思っていた。しかし、家で家事手伝いや花嫁修業をしているうちに適齢期は過ぎていくし、主婦を養えるほどの高所得の独身男性は意外に多くないことに気づく。いまさら、会社勤めで新人から始めるのも難しいので短期のアルバイトを転々とすることになる。現役時には相当の収入があり、頼りになった親も、予想外の長生きや病気もあり、あまり遺産は残りそうもない。兄妹もそれぞれに生活の問題を抱えており甥姪の教育費の負担も大きそうなので、相続ももめそうだ。将来を考えると不安でたまらない…という人も多いのではないか。
2023年06月11日
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東京は今日から梅雨入りしたとみられるという。ところで、万葉集を今読んでいるのだが、時雨についての歌はいくつもあるのだが、五月雨の歌はほとんどない。いや、万葉集の時代には五月雨という言葉自体がなく、卯の花くたしとかそういう名で呼ばれていたようだ。時雨についての歌もほとんどは萩の花との関連で歌われており、雨そのものの風情となると、平安時代まで待たなければならなかったのだろうか。また、今の日本では梅雨といえばなんといっても紫陽花なのだが、万葉集はもちろん古今集でも紫陽花の歌というのはほとんどない。そんなわけで紫陽花がいつから人気になったのか、気になったのでネットでいろいろと見てみた。すると驚いたことに、今のように人気になるのは第二次世界大戦後だという。これも意外な感じがするが、雨中で宝石のように映える今のような種ができたのは案外と新しいのだろう。なお、令和の元号は万葉集からとられたのだが、万葉集で漢文が使われているのは例の筑紫での梅の宴のところだけのようだ。そうだとしたら、万葉集から元号をとると決めた時点で令和というのは、すでに有力な候補だったのかもしれない。この漢文の作者については宴会の主催者である大伴旅人の可能性もあるが漢文の名手で帰化人説もある山上憶良という説も有力らしい。現代でもよくいわれる秋の七草も万葉集の山上憶良の歌に由来しているし、この人物は後世への影響は非常に大きいようだ。ちなみに春の七草の歌はずっと時代が下るのだが、歌としての語呂の良さ、覚えやすさは春の七草の方が上でこちらの方が人口に膾炙しているようにみえる。
2023年06月09日
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中学校の時の理科の授業でこんな話を聞いたことがある。今だとどうか分からないが、当時は先生によっては教科書にのっていない話をすることがあって、それがけっこう面白く印象に残っている。たしか、生物の分類と進化との関連についての話で、動物の中で一番進化しているのは人間であるが、植物の中で進化の先端にあるのはキク科なのだという。中学校の頃と今とでは学説もかなり違っているものも多いのだが、最近、ネットで見た情報でもやはり植物の進化の最先端はキク科(一説にはラン科)だとある。裸子植物よりも被子植物は後に現れ、被子植物では単子葉よりも双子葉の方が、まあ進化してそうなのはわかる。しかし、その被子植物の中でキク科というのがどうもわからない。動物の場合、進化の行き先が人間のような、知能が高く(他の動物に比べ)、文明を形成しうる方向に向かうのはわからんでもない。でも、植物の場合はいったいどんな方向に向かって進化しているのだろうか。まあ、こんなしょもないことを思うのは、子供の頃夢中になってみていたアニメ「鉄腕アトム」で植物人間の巻が印象に残っているせいだろう。植物人間というと、今では全く別の意味で使われることが多いのだが、その話では植物が進化して知性と高度な文明を持つようになった宇宙人をいう。植物も進化していけば遠い未来には人間のような生物になるのだろうか…そんなことを子供心に思った記憶がある。今なら、地球という惑星を生き物として考えた場合、人間のような環境破壊や戦争をするような生物が発生したことは病気のようなもので、植物こそが地球の意にかなった生物なのではないかと思う。そういえばSFで植物しかいない惑星の話を読んだことがある。※最近リンクしている方のブログで昔のNHK少年ドラマの映像を紹介しているところがあった。それに触発され、子供の頃に好きだったアニメのことなど、いろいろと思い出してみた。
2023年06月08日
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先日、万葉集の河鹿蛙の歌を紹介したが、ヒキガエルの歌もあるので紹介する。朝霞鹿火屋が下に鳴くかはづ声だに聞かば我れ恋めやも歌の意味はカエルの声ではないがあの人の声さえ聞くことができればこんなに恋に苦しまないのに…というものである。恋人の声を述べるのにヒキガエルというのは、今ではどうかと思うが、昔の人はカエルの声にも風情を感じていた。だいたい、この世の中に生きていれば音が聞こえるのはあたりまえのことだろう。それをいちいちうるさいだの騒音だのと言っていれば、生きてはいけない。ただそうしたものを騒音ととる人が多くなっているように見えるのは、それだけ世の中が快適になっており、また、それがあたりまえになってきているからではないか。一頃、昭和30年代がブームになり、この時代を舞台にした懐かし系のアニメや映画もできたりした。けれども、あの頃を思い出してみると、家にトイレがあれば部屋で便臭がするのは当たり前だったし、道路ではゴミの匂いもあれば、畑近くの肥溜めの匂いもあった。ハエや蚊の飛んでいるのも普通だったし、ゴキブリ、蟻、ときにはナメクジやヤモリも家に出没した。夏は暑く、冬は寒いのもあたりまえで、冷房は家庭にはなかったので、保冷剤を頭に巻き付けるような製品があったように思う。昭和時代でさえこうだったのだから、さらにその前の時代などおしてしるべしだろう。だからこそ、蚊は蠅はとかくとして、無害なものの出す音についてはうるさいなどといわずに、それもまた一つの風情としてみていたのだろう。古歌には妻を恋する声として頻繁に詠まれている鹿の鳴き声も実際は叫ぶような声で頻繁に聞こえたらうるさいという人もいるかもしれない。けれども、どうせ音自体は変わらないのなら、うるさいというよりも風情ととった方が豊かな気もする。そろそろ東京でも梅雨が始まる。うっとおしいだのじめじめしてるだの思わずに、梅雨には梅雨の風情ありと思った方がよい。
2023年06月07日
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総理官邸での忘年会のニュースは長男の秘書官が辞職した後、急速に報道がなくなっている。その後、総理本人の写真までが流出したとなると、本当に長男主催の忘年会だったのか、むしろ総理の方が主だったのではないかと思うのが普通なのだが、そのあたりのマスコミの沈黙が不可解である。なにか圧力があったとしか思えないし、圧力があったのならあったでその旨報道すればよいのに…と思う。忘年会の悪ふざけがけしからんというよりも、問題はこうしたマスコミの姿勢である。マスコミ情報の受け手としては、マスコミの報道することだけでなく、報道できないことにも想像力をめぐらせる必要があるのかもしれない。マスコミは斜陽産業と言われている。現に最近でも伝統ある老舗週刊誌が休刊となった。新聞の部数も軒並み下がっているという。ただそうした中でも、マスコミの役割がなくなるとは思わない。こんなどうでもよい日記でもしょっちゅうマスコミの悪口を書いているのだが、それでも、ネットがマスコミに代わるとは思えないし、マスコミにはやはりマスコミにしか得られない情報がある。ネットでいろいろ書いているものをみても、おおもとに情報は政府や公的機関の発表、大学などの学術機関の情報、そして日本や海外のマスコミ報道が元になっているものがほとんどである。そして特に現在進行中のものごとについての情報はマスコミ報道が必須である。
2023年06月06日
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万葉集にはカエルの声を読んだ歌がいくつかある。例えば次のような歌である。み吉野の岩もとさらず鳴くかわづうべも鳴きけり川をさやけみ草枕旅に物思い我が聞けば夕かたまけて鳴くかわづかも万葉集にはこのほか、蝉やコオロギの声についての歌もあり、昔の人はこうした鳴き声も雑音ではなく風情あるものとして聞いていたようである。不勉強なだけなのかもしれないが、漢詩には虫の声を歌ったものはなく、こうしたことは「日本人は虫の声を右脳」で聞くということと関連があるのかもしれない。カエルの声も日本人は虫と同様に右脳で聞いているのだろうか。最近、カエルの鳴き声がうるさいという苦情があることが話題になっている。たしかに都会育ちだとカエルの声を耳にする機会もないし、そういう人が田んぼの傍に住むようになるとうるさいと思うのかもしれない。昔と違って今の人はカエルの声も雑音と同じ左脳で聞くようになったということもあるのかもしれないが、上記にあげた歌のかわづは河鹿カエルであり、一般のカエルとは鳴き声が違うのだという。子供の遊ぶ声もそうなのだが、昔はあたりまえの音とされていたものが騒音に区分され、苦情の種になっているというのも時代なのだろうか。童謡おぼろ月夜では、「かわづの鳴く音も鐘の音も~」というようにカエルの鳴き声は春の田園風景の一環になっているのだが。盆踊りも苦情があるので住宅街ではできず、風鈴の音もうるさいという声があるので、近年は風鈴そのものもあまりみなくなっている。なお、カエルつながりであるが、外来種にウシガエルというのがある。これは戦前に食用として、アフリカマイマイとともに移入され、今ではどちらも繁殖している。自分たちで食べる気もない人々が食糧不足の切り札だといって移入してもうまくいくわけがない。最近話題のコオロギ食も同じ途をたどりそうである。
2023年06月05日
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最近、ものの値段が上がっていると思う。例えばコンビニのおにぎりなど、ちょっと前までは100円なんてのもあったのだが、今では二個買ってペットボトルのお茶までつけると、安いランチくらいの値段になる。もっともその安いランチも今では値上がりしているので、職場の昼食はお弁当派が増えているのではないか。それでも買い控えできるものならまだよい。電気料金などはそうもいかないので、値上げに対するには節電しかない。その一方で、猛暑日は熱中症の脅威などもあるので、公共施設などで涼をとるという人もでるのだろう。さらに、負担に拍車をかけるのは社会保険料だろう。増税というと、あれほど世論は騒ぐのに、社会保険料の値上げというとさほど騒がないのは何故なのだろうか。強制的に徴収されるという意味では同じなのに。財源の議論を先送りしたまま、少子化対策の議論が進んでいる。本当に苦しいのは子育て世代ではなく、子育ての余裕もない世帯ではないかと思うし、バラマキは国民の間の分断を加速させるだけだと思うのだが。少子化については原因を明らかにした上で、効果的な施策を検討すべきであり、タワマンパワーカップルも含めた所得制限なしの支給には疑問がある。何か世の中の流れは、所得制限なしがよいことみたいになっているようだが、やはりそれっておかしいのではないか。
2023年06月04日
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韓国ドラマを見る場合、最初の1,2話ではまるのと、逆に興味が持てずにリタイアするのと別れることが多い。「花遊記」は最初からファンタジーであり、物語にははまるというほどでもなかったのだが、最後まで視聴した。それというのもファンタジーとして非常に映像がきれいで、見るのが楽しみだったからだ。現在を生きる西遊記の主人公達ということで、悟空は遊び人の若者、八戒はトップスター、沙悟浄は大企業の社長、三蔵法師は人間の超能力者なのだが、牛魔王は芸能プロ社長となっている。他の登場人物も犬の化身の秘書とか竜魔王の息子の王子とか冬将軍とか、人間はほとんどいない。こうした人間以外のものを演ずるのは難しい。間違えると、学芸会やコスプレになってしまうが、そこはさすがの俳優の演技力である。ただよくわからないのは、悪役の人気教授についての扱いだ。祖先が、大日本帝国から勲章を貰ったという親日派の家だというのが大変な汚点になっている。本人がそうだったというのならまだしも、あずかり知らぬ祖先の行状が、子孫に及ぶという感覚がどうもよくわからない。しかし、韓国はつい最近でも、親日派が売国によって得た財産を没収する法律ができたというので、これは理解できないところだ。まあ、逆に言えば、日本のように、サミットでも原子爆弾が人間が人間に落としたものだということを忘れたような顔しているのも異様に見えるのかもしれないけど。それとあと、最近でも朝鮮戦争で虐殺された人骨が発見されたということがニュースになっている。朝鮮半島で凄惨な破壊と殺戮が行われたのは、大日本帝国の支配の時代ではなく、朝鮮戦争の時であろう。それについての追及はどのくらい行われているのだろうか。
2023年06月02日
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中野の立てこもり事件についてさらに書く。この事件についてのコメントを見ると、精神科医療を受けさせていれば予防できたというものが多くみられる。盗聴されているといって大学を中退したり、悪口を言われていると言って重大事件を起こしたりするのは、精神疾患を疑うに十分で、高校生の頃に性格が変わったというのも病気の好発年齢を考えると納得がいく。ただ、どうも世の中には精神科という医療領域についての過大評価があるのではないか。つまり精神科医の診断とか医療というものを絶対視する見方である。一般の内科治療などでも、問診だけでは原因がわからず、精緻な画像診断や検査数値で分かるということがよくある。ところが、患者に対する問診だけで判断を下す領域があり、それが精神科である。精神医療の領域では診断基準というものがあり、患者に対する質問により、それにあてはまるかどうかを医師が判断する。その診断基準も実際には曖昧なもので、それだけ現実の精神疾患というものは症状が多様なのだろう。中野の事件でも、悪口を言われているというのは被害妄想の一症状のようでもあるが、電波や神様が命令しているというのに比べるとまだしも妄想性は薄い。そしてまた中野の事件の場合、犯人には幻聴とか幻覚とかといった症状もないようだ。おそらく精神鑑定にはかけるだろうけど、どういう結果がでるのだろうか。普通に考えれば、悪口を言われたから殺害するということ自体がそもそも異常なのであるが。患者の側の受け答えでも、視力や聴力、それに知能検査や認知症の検査のように正誤があきらかになるものなら客観性があるが、問診の中で妄想とか不調の原因を探るというと医師の方も誤る可能性もあるし、患者の方も正直に語るとも思えない。一方で診断が欲しければ、それらしい答えをすればよいと思う人もいるようで、休職するための鬱病の診断などとるのは簡単だという話も聞いたことがある。もちろん真偽のほどはわからない。むかしはよく神経衰弱という病名が流行しており、この診断名が乱発されたという話も聞く。中野の事件についても精神科受診で防げたとは思えない。
2023年06月01日
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孤児の少女を主人公にした小説である。天涯の花である高山植物のキレンゲショウマをモチーフにして、施設を出た後、高山にある神社の養女となって、その花のように世間と隔たって暮らす娘の恋を描く。そう書くとなにやら通俗小説めくが、必ずしもそればかりでもない。主人公の少女も清純なだけというわけでもなく、都会に出て華やかに暮らしている友人の誘いに心動くこともあれば、養父をおいて恋人と出奔する決意をすることもある。そして主人公の周囲の人々も善人とか悪人とかではなく、どこにでもいそうな人間たちで、そうしたことがこの小説に説得力をもたせているように思う。ただ、ちょっと気になるのは高山植物を撮影にきた写真家であるが、これで本当に暮らせるの…という疑問があるのだが。ネタバレにもなるので、小説のあらすじはあまり書かないが、物語にひきこむ筆力は相当なものであり、背景となっている昭和30年代から40年代の世相についても考えさせられる。道路が整備され、電話が普及し、天涯のような過疎地が激減していったのがこの時期である。そして、今は、自動車の通る道であれば、舗装されているのがあたりまえであり、情報についての格差もほとんどなくなっている。ただ、今では、さらなる限界集落化、廃村という形で過疎地が激減しつつある。
2023年05月31日
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総理長男の官邸での忘年会は悪ふざけ写真の流出で秘書官辞任という形で決着した。最初、このニュースをみたときには、友人を集めた私的な集まりだと思った。30歳を超えた長男の友人たちにしてはなんて子供っぽい連中だ…それが最初の感想であったが、いろいろとネットを見てみると、どうやら親族の集まりだったようだ。親族となると、私的な友人というのとは印象が違う。中野市の事件については、次々と続報がでている。大学卒業間際での中退とあるが、就職活動はしていたのだろうか。ネット情報では特に農業関係の学部というのでもないようだ。思うに任せぬ就職活動、次々と舞い込む不採用通知…こういうので精神を病むというケースもあるのではないか。いくら人手不足といっても、足りないのは単純業務やアルバイトであって、企業は正社員の採用には昔以上に慎重になっているのだから。女性を殺害した動機は「悪口を言われたから」とあるが、31歳の男性が自分の母親よりも年長の女性にそこまでの殺意をいだくのはよくわからない。しかし、考えてみると、犯人の人間関係がそれだけ希薄で、家の前を散歩する老人が家族以外で関係のある数少ない人間だったという可能性もある。地域社会が濃密なところでは悪口をいうこともそりゃあるだろう。ましてや犯人やその一家は周囲から羨望の眼で見られる立場であり、だからこそ、実はあそこは…というのがかっこうの話題になる。実際に殺害された人が悪口を言っていたかどうかはわからないが、悪口という殺害動機は精神異常を示唆するが、電波が命令しただの、神様の声がきこえただのというほどには、異常を感じない。今後の裁判で心神耗弱がどう判断されるのだろうか。最後に、犯人は銃の免許をもっていた。これは立てこもりの家屋が特定された時点で警察はつかんでおくべき情報だったのではないか。防弾チョッキもつけず、銃も持たずに警察官が急行したことについての判断ミスはないのだろうか。警察官二名もの殉職はあってはならないことである。
2023年05月30日
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自然法則についての常識は時代とともに変わる。大昔は地球は平面で太陽が地球の周りを周りをまわっていたと思われても、今、そういうふうに考える人はいない。文明の進歩とともに知見が積み重なってきたためである。同じように道徳についての考えも時代とともに変わる。しかし、道徳は自然法則とは違うので、なかなか全人類一致とはいかないし、今の多くの人が正しいと思っていることが100年後、1000年後にどうなるかもわからない。LGBTQは差別してはならない…ということは、今では当然のようにいわれているが、それほど遠くない昔、欧米ではこうしたものは、「不自然な行為」として罪悪視されていた。そして欧米以外の文化圏では現在でも、こうした行為を犯罪として処罰しているところもある。児童婚も同様で、これについては禁止しようという動きもあれば、これに反発する動きもある。背景には宗教教義の問題もあるので、世界規模での一致は難しいだろう。死刑制度についても、欧米ではこれを野蛮な制度とみて廃止する潮流がある一方で、日本では世論調査のたびに存続論が多数を占めていることは周知のところである。要するに、自然科学の知見と違って、道徳についての考え方は文化によって異なる部分があるということである。最近、LGBTQ差別の問題がクローズアップされてきているのは、欧米において過去にそうしたものを罪悪視してきたことの反省という流れがあり、それが「国際世論」として日本にも及んでいるというところだろう。そして、日本でいまいち関心が薄いのは、日本ではそうした歴史がないということもある。LGBTQには欧米のような罪悪視という歴史もないのだから、日本では差別禁止法などさほど問題もないように見える。同性婚の問題も婚姻自体を合法化するのならすぐにでもできるだろう。政権党がこの問題に慎重なのは、もしかしたら深謀遠慮があるのかもしれない。夫婦別姓の問題と同様、日々の生活に忙しい人々にとってはLGBTQの人々の結婚を認めようが認めまいがどーでもよい問題だ。そうした問題を騒いでいる間は、いわゆる意識の高いおりべ様への支持は一ミリも伸びるわけもなく安心していられるというわけである。
2023年05月29日
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中野市での立てこもり事件は詳細が次第に明らかになってきているが、犯人はひきこもりがちの人間だったようだ。悪口を言われたと思い込んだのが動機なのだというが、人は自分でも気にしていること、負い目に感じていることを言われた時に一番腹がたつものだ。悪口の内容が報道のとおり「周囲から孤立」という内容であれば、それこそが当の犯人自信が一番気にしていたことなのだろう。裕福で学力等にも問題ないようにみえても、周囲になじめず、周りとうまく付き合えないことに犯人は悩んできた。それでも、学生時代まではなんとかやっていけても、その先の就職となるとそうはいかない。いじめを理由に卒業まじかで大学を中退というのも、社会人として生活していくことへの不安があったようにみえる。両親はともに、いわゆる成功者のようであるが、両親がはつらつとしていればいるほど、本人はオレはだめだと思い込む。子供にとって、親というのは庇護者であると同時に、最も身近な比較対象でもあるのだから…。川崎の通り魔事件や京アニの事件のような不遇や貧困と言った問題は、この犯人からは見えてこず、むしろ被害者ではあるが元農水省次官の息子と同じような問題を抱えていたのかもしれない。この事件後、父親は職を辞したというし、家族にとっては辛い日々が続くであろう。親ガチャという変な流行語があったが、現実には人生なんてガチャの連続で、親ガチャもあれば子ガチャもある。こんな事件があると少子化にますます拍車がかかるのではないかと思う。なお、日本以上に少子化が進んでいる国として韓国がある。よくいわれる理由として教育費の負担があるといい、同じ理由は日本でも言われている。まあ、韓国の事情は知らないのだが、日本については、どうもそれだけではないように思う。なぜなら、教育費というものは、不出来な子供ほどかかるものであり、しかも、教育費をかけたからと言って、子供の能力が向上するということはそれほどない。これは統計等があるわけではなく、いろいろな人の話を見聞きした中でのことなのだが、首肯する人も多いのではないか。勉強のできる子であれば塾なども必要ないし、学費の安い学校に進学する機会、給付型の奨学金を受ける機会、塾講師や家庭教師のような高収入のバイトの機会に恵まれる。従って、問題は教育費ではなく、子供に生活力がなかったり、問題行動を起こしたりした場合のリスクや負担が大きいということが根底にあるように思う。韓国はおそらく日本以上に血統を重視する社会で、誰の親、誰の息子ということが日本以上に重視される。そしてそうした文化を持つ東アジアの国では欧米に比べても少子化が進んでいるという。日本・中国・韓国・台湾の東アジアの出生率は低いが、アメリカでも急減しているアジア系の出生率(荒川和久) - 個人 - Yahoo!ニュース
2023年05月28日
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理研で今春、10年を超える有期雇用を認めない「10年ルール」の結果、雇い止めにあった研究者や技術職員が計97人にのぼるという。よく高学歴ワーキングプアというが、雇止めになった研究者の中には生活に困る人もいるかもしれない。詳細は書かないが、実際、理研以外の高度な研究機関に任期付きで雇用されていた方で苦しい生活をしている人を知っている。その時も貴重な人材を活かしきれない世の中は間違っていると思ったものだが、理研の雇止めのニュースにも暗澹とする。こういうニュースを見て、これから成長する子供たちはどう思うのだろうか。いや、ニュース報道でなくとも、理研の研究者の親族や知り合いの子供の中には、おそらく高確率で勉強好きな子供というものがいるだろう。そうした子供たちが、努力して勉強なんかしても仕方ない…と思うようになるとしたら、それはそれで大きな問題なのではないか。
2023年05月25日
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東京の近郊にも名刹というものはある。遠方に旅行に行く機会はなくとも、近郊にこんなよいところがあったではないか…そんな名刹に出会うたびにそんなことを思う。この間訪れた松戸の本土寺もそういうメイサうの一つである。春が桜、初夏は紫陽花や菖蒲、秋には紅葉と四季おりおりの花や樹が有名な寺で、今年は桜も早ければ藤も早い、何でも早いので紫陽花も咲いているのではないかと期待して出かけることとした。事前情報では、北小金の駅から10分以上歩くとあったので、地図を見ながら迷い迷い行くのを想像していたが、これは思ったよりもわかりやすかった。駅からいくらも歩かないうちに、本土寺と書いた大きな標石があり、その先は並木に囲まれた道が続いている。それも店の続く参道ではなく、日光杉並木のような大木に挟まれた荘厳な感じの道だ。古めかしい言葉でいえば、「神さびた」というのだろうか。陽ざしの強い今の季節はそんな木陰もうれしい。開山は13世紀ということなので、まさかその時の並木ではないのだろうけど、かなりの年月を経た大木であることには違いない。もっとも、樹は杉ではなく、広葉樹であったが、樹の種類はよくわからなかった。本堂に参拝した後、遊歩道を歩いたが、紫陽花は、まだぽつぽつと咲いている程度だ。ただその先にある池の菖蒲はかなり咲き進んでいて、十分な見ごろとなっていた。よく見ると咲いている花以上に蕾があるのでまだまだ見ごろは続くだろう。菖蒲池を過ぎると睡蓮の池があり、こちらには純白の水連が咲いている。遊歩道脇には楓の樹も多くあり、その重なった葉から陽の光が差し込んでいた。紅葉の頃にもぜひ来てみたいものである。
2023年05月24日
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国際連合は英語ではUnited Nationsであり、連合国という意味だ。これを国際連合と訳したのは意図的な語訳ともいうべきもので、中国では連合国と表記している。国際連合そのものが第二次世界大戦後の国債情勢を色濃く反映しているわけで、日本も、敗戦国として戦後しばらくの間は国際連合への加入が認められなかった。よいとか悪いとかは別にして戦後の国際秩序というものは、連合国が悪の枢軸国に勝利したという事実をベースにしている。サミットが広島で開催され、G7の首脳が原爆資料館を訪れたことはそれなりに意味があるのだが、そもそも原爆は自然災害ではない。それなのに、原爆投下の非人道性についての謝罪とか反省とかいうものは、一ミリも議論にすらならない。別に議論すべきだとか、謝罪を求めろだとかということは思わない。ただ、もしこれが原爆資料館ではなく、ナチの虐殺記念館だったらどうなのかとか想像する。ところで国際連合について、日本では、よく問題視されるのは常任理事国の構成である。これも第二次世界大戦の戦勝国メンバーとなっているが、大戦から既に80年近くになり、植民地の独立や冷戦体制の崩壊など、国際秩序も変わっている。常任理事国の構成がこのままでよいのかということであるが、これについても常任理事国の拡大を求める勢力とそれに反対する勢力があるという。日本などは自国の常任理事国入りを求めて国連改革を主張しているわけだが、これに反対するコンセンサス連合というのもあって、メンバーは必ずしも一定していないが、イタリアが主導しており、メキシコ、韓国、アルゼンチン、パキスタンなどだという。イタリア人のコーヒー好きにかけてコーヒークラブともいわれるらしい。
2023年05月23日
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不思議なタイトルの本である。科学者の中にも、もちろん一般人と同様に、神を信じている人もいればいない人もいるだろう。ただ神を信じていない一般人からみれば、なぜ科学者の中に神を信じている人がいるのか不思議に見える。その背景には、神を信じているのは無知だからであって、自分でさえ神を信じていないのだから、自分よりももっと賢い科学者は絶対に神を信じないはずだという思い込みがある。たしかに様々な科学法則は発見された時、その多くは宗教上の神話や教義とは反するものであった。だから科学史の上では宗教というものは、そうした科学の進歩を弾圧したり阻害したりしてきたという印象が強い。しかし、実際にはそうした科学の進歩に貢献した科学者にも信仰をもっている人がいた。いったいなぜだろうか。それは精緻な自然法則をみたとき、やはりそれを作った何者かがいると考えるからではないか。本書はほぼ科学史をなぞる形で記述されており、そのせいか、後になればなるほど、理解が難しくなるのだが、神を信じる理由として、ニュートンの以下のような挿話がもっともわかりやすかった。ある時、ニュートンは機械職人に依頼して精巧な太陽系の模型を作らせた。友人がやってきて、誰が作ったのかと聞いた。誰でもないと答えると、その友人は怒り始めた。するとニュートンはこう答えたという。この模型がひとりでにできたといっても君は信じない。ところが普段君は本物の偉大な太陽系は設計者も制作者もなく存在しているという。いったいどうしたらそんな不統一な結論になるのだい…と。本書は別に信仰を薦めた本でもないし、科学者の中にも信仰を持つ人がいると言っているだけで、科学者が一般人よりも信仰が篤いとか薄いとかいっているわけでもない。宗教とのかかわりについては、様々な姿勢の人がおり、それにはどちらが上でどちらが下ということもないのだろう。ただ科学が発達すれば宗教が消えるとか、そういうものではなさそうである。ガリレオのこんな言葉も紹介されている。宇宙は第二の聖書であり、その言葉は数学で書かれている。これもなるほどそういうものかもしれない。数学はそれ自体が純粋な科学であると同時に科学の共通言語でもある。自然界を支配する法則を知ることは、それだけ神に近づくことであると考える人がいても不思議ではない。
2023年05月22日
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西伊豆に行ってきた。堂ヶ島から浮島海岸、そして沼津というコースであったが、コロナの五類変更の影響がツアー観光が復活しているという印象であった。ただコロナ以前はこうしたツアー観光の中心は免許を返納する年齢に達した高齢者が中心であったが、今ではずいぶん年齢が若返っているように思う。また、あるグループは韓国人ツアーのようで、こうした外国人のインバウンド需要も増えるのだろう。昼食に入ったところは、ちょうどそうしたツアー客にぶつかって大賑わいであったが、これも、コロナ厳戒態勢の下では閑古鳥が鳴いていたに違いなく、あらためてコロナの猛威が経済面でも多くの人々で影響をあたえていたことを思う。コロナは収束していないが、それでも、コロナは「あるもの」として、生活はもどりつつある。堂ヶ島は浸食によってできた海岸地形の美しいところで、何度も訪れているが、そこにあった加山雄三ミュージアムはいつの間にかトリックアート博物館になっている。中学生の頃は大人気で、それまで難しい学問をするところというイメージのあった大学を彼の映画の人気が変えたように思う。その後、逆境の時期があり、晩年は再び安定した人気を得ていたのだが…。浮島海岸は、細い道をは行った先で、地味な海岸なのだが、火山頸という火山のなごりの岩があり、その岩が見事な柱状節理をみせている。太古はこの岩が一つ一つの火山として噴火をしていたわけである。遠くには波勝先の特徴のある三角形がみえる。沼津に向かう海外沿いの道には碧の丘とか出会いの丘とか様々な名称のついた見晴らし台があり、夕陽を眺めることができるようになっている。残念ながら西の方には厚い雲が広がり夕陽が期待できなかったら、天気のよい日にはいくつも三脚カメラをもった人が並ぶのではないか。
2023年05月21日
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教員不足が問題となっており国会内で緊急集会が開かれたという。生産年齢人口の減少などを背景として様々な分野で人手不足が指摘されているが、教員は昔から志望者の多い職業でそうしたものとは無縁だと思っていた。ましてや少子化を背景として採用数も減っているはずであり、むしろ狭き門になってもおかしくないようにも思える。それではなぜ教員不足が起きるのか…というと背景に職場のブラック化があるという。激務の割には待遇が悪いとなれば、人が集まらないのは当然だろう。田中角栄の頃、人材確保のために教員の給与をあげたことがあったが、それ以降の政策はむしろ教員バッシングがめだつように思う。身近な国家公務員である郵便局員を叩いて民営化に踏み切ったように、政治家の中には身近な地方公務員である教員を叩いて有権者の歓心をかっていた者もいた。民間人の校長登用などは既存の教員に対する嫌がらせとしか思えないし、国レベルでも、意味不明の教員の免許更新制が導入されたりもした。教員の待遇が低下すれば、質が低下し、それが職場環境の悪化を生み、さらに質が下がるのは自明の理である。そしてまた、ブラック労働も問題とされているが、その背景は部活と生徒指導だろう。部活は指導要領にもなく、いったいどういう背景で導入されたのかも不明であるが、存在理由については、「ありあまるエネルギーを悪い方向に向けないため」といった本末転倒の意見を述べる人もいるらしい。非行対策なら別の議論だろうし、普通に考えたら、夕方までの部活では勉強時間が削られ、これが学力不振の原因になることもあるのではないか。集団で何かに打ち込むことによる教育効果は否定しないし、中には部活が一生の想い出になるという人もいるだろう。けれどもそうしたものが教員の無償労働で支えられているとしたら大問題であって、部活は学校から切り離しても良いのではないかと思う。生徒指導についても、すべてを学校や教員の責任にするのには疑問がある。中学生の学校外での犯罪で、よく学校関係者が会見を行う例があるが、学校は関係ないのではないか。むしろ警察の中で少年犯罪を扱う機能を拡充して、学校にも警察OBを配置して、教員は少年犯罪対策からは解放した方がよい。そうでなければ、学校は過度に犯罪を隠ぺいしようとするし、警察は消極的になり、その結果、旭川の少女のような陰惨な悲劇も起きてくる。小中学校の教員に恵まれて、天性の才能が開花した人もいるし、そうでなくとも、教員を通じて学問の面白さに気付いたという人もいる。教員の人材不足は大きな問題であり、人材確保のための待遇向上とブラック労働の解消は不可欠だろう。
2023年05月18日
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