全7006件 (7006件中 151-200件目)
最近、葬送のフリーレンというアニメを見ている。ゲームなどでおなじみの勇者や魔法使いのパーティーが魔物を倒すという冒険譚の原型のような話をモチーフにしているのだが、面白いのは世界を救った冒険のその後を描いてることである。こうした意表をつく設定なのであるが、世界を救った冒険から何十年もたち、勇者も僧侶も高齢になって死に、のこっているのは長命のドワーフ族の戦士と千年以上の時を生きるエルフのフリーレンのみである。フリーレンは勇者が死んだ時になぜ悲しかったのかが分からず、人間というものを知るために旅に出る。人間を知るための旅…というと、同じような世界を下敷きにしながら人間の素晴らしさを描いたダイの大冒険にも似ているが、ここで人間の素晴らしさだけを描くとも思えず、もっと苦みのある話もありそうである。はたして、さめた瞳のフリーレンが見極める人間の本性とは、どんなものなのだろうか。オープニングも斬新であり、作画も非常に丁寧で、ヨーロッパ中世の雰囲気をよくだしている。アニメを見たことのない人にもおすすめである。
2023年11月29日
コメント(0)
最近、弱者男性という言葉をよく聞く。良くも悪くも能力主義社会においては、男性は強者、女性は弱者などという図式がなりたつわけもなく、男性にも女性にも強者もいれば弱者もいる。女性の若年定年制、正社員や正規公務員の男性に有利な採用、高偏差値の学校への進学の男子優遇…そうしたものはそんな遠くない昔にはあったが、今はない。それどころか、随所で逆差別のような女性登用さえも行われている。ある意味、今という時代は有史以来初めて女性が男性と大差ない経済力をもてる時代になったのではないのだろうか。近代以前の農耕社会や牧畜・遊牧社会では女性が一人で生きることは難しかった。弱者男性には女性に比べて不利な面がある。アメリカの捨て犬シェルターでは小さく白い犬はすぐに引き取られるのに大きな黒い犬はしておかれるという。同様に子供にはすぐに同情が集まるのに、中高年の男性の不幸は世間の目をひきにくい。速い話、子供の貧困(といっても実態は親の貧困なのだが)は社会問題として声高に語られても、中高年の貧困は自己責任とされる。そうした中で、ようやく弱者男性の存在にも社会が目をむけるようになったということなのだろう。中高年の貧困を考えた場合、男性の方が不利な点が多い。まず、比較的、ハードルの低い職業は女子の方が入りやすい。例をあげれば、介護や外食などである。次に、男性の場合、就業が難しい上に、家にひきこもっている場合の社会の眼も厳しいために、家族との軋轢を生みやすい。社会面をにぎわず親族間殺傷事件の多くは無職の息子が関係している。さらに、同じ低収入であっても、女性の場合にはやりくり、自炊でつましいなかにも楽しみをみつけて生きていける場合が多いが、男性はより自堕落になりやすいように思う。ギャンブル、パチンコなどは顧客の多くは男性であり、風俗も同様である。弱者男性という言葉はネットでは見かけても、マスコミにはまだあまりでていない。しかし、これからは弱者男性の問題にもよりスポットがあたっていくのではないのだろうか。とにかく男性≒強者、女性≒弱者という思い込みは卒業すべき時期ではないか。
2023年11月27日
コメント(6)
どういうわけか24日のアクセス数が普段の10倍近くと急騰した。城南五山の散策という地味なテーマだし、とくにコメントが多くなっているわけでもない。翌日からアクセス数はもとにもどっているし、おそらくはなにかも不具合なのだろう。城南五山もそうなのだが、最近では、テレビ番組の影響もあって。街を歩く際にも地形を考えることが多い。東京の中でも育ったところはずっと田舎の多摩の方だったので、あまり意識したことはないのだが、東京では高台は高級受託地、下町は庶民の街という歴史があるようだ。これは江戸がもともと低湿地を開拓してできた街であり、こうした低湿地には町人が住み、高台には武士が住んだという歴史とも関係しているのだろう。昔は下町ゼロメートル地帯などともいわれ、台風の際には下町の被害が大きかった。もっとも最近では、下町にも高級タワーマンションなども建設されているので、そうした住み分けもなくなっているのかもしれない。高台の中の窪地や高台のつきるところは、湧き水のわいているところがあり、そうした湧き水の作った池、その池の景観を活かした庭園がかってあった。そうした大名や武士、豪商の屋敷の庭園は今も公園として整備されているところが多く、これも街歩きの楽しみである。こうした低地と台地とに分かれた街では台地の方が高級住宅地になりやすいということがどこまで一般的かはわからない。ただ、東京の隣の川崎も南北に長い町で北の方は台地以上に起伏のある丘陵地形、南の方は多摩川の作った低地になっている。南の方はあの非行少年グループによるカワサキ国殺人事件のあったところで昔は公害病が問題となっていた地域だ。北の方は、閑静な住宅地になっている。最近、この川崎市の麻生区が全国で一番平均寿命が長いというので話題になっている。平均寿命は、年齢ごとの死亡率から算出するので、今日では老人の中で元気な者の比率が高ければ長くなる。安定した生活、医療へのアクセス、健康への知識が高ければ、元気な人が多くなるのは当然で、麻生区は高級住宅地と言うほどではなくとも、専門職や大企業管理職だった高齢者の比率が高いのではないか。ニュースでは麻生区の平均寿命が長い理由として坂道の多い町で足腰を鍛えているからといった説明がなされていたが、的外れのように思う。
2023年11月26日
コメント(0)
東京の地形は武蔵野台地と下町低地に分けられ、かつては武士は高台に住み、町人は下町に住むというような住み分けが行われていた。そして高台の中でも、大名や高級武士の屋敷のあったところは今でも高級住宅地としてのブランドイメージをもっている。これは電鉄会社が意図的に高級住宅地として開発した成城や田園都市構想の基で設計された田園調布とは、また別の高級イメージがある。目黒から品川にかけての城南五山とよばれる地域もそのひとつで、北から花房山、池田山、島津山、御殿山、八ツ山である。山というのは、こうした高台は武蔵野台地の先端部分にあたり、下から見ると山のようにみえるので、このようによばれ、今でも住居表示とは別に○○山という呼称は生きている。この城南五山を実際に歩いてみると、この五山の中でも池田山、島津山のあたりが特に広壮な住宅が多いように見える。もちろん一戸建てばかりでなく、豪奢な低層マンションもあるのだが、それもたいてい池田山とか島津山とかの名称がついている。住居表示上の名称よりも圧倒的にイメージがよいのだろう。こうした地域は明治以降も要人の屋敷になったところが多く、その上流イメージがいまも引き継がれているわけである。この地域のように台地が尽き、急に低くなるところには湧き水が出る場合がある。このあたりにもそうした湧き水による池の景観を利用した庭園から公園になったところがある。池田山公園と御殿山庭園である。御殿山庭園は周辺に大きなホテルがあり、それらのホテルと一体化しているようにもみえるが、池田山公園の方は高級住宅地の一角にこんなところもあったのかと驚くほどの樹木豊かな公園になっている。高台から急に低くなっているせいで池に行く階段は急なのだが、その池には橋も灯篭もあり、鯉が泳いでいる。あまり知られてないのが残念なくらいだが、なにしろ場所が場所だけに付近の住民は有象無象が押し掛けるのは決して望んでいなさそうである。門は二か所あり、高台の方の入り口から入ると、そのあたりは池田山の頂上近くのせいか、展望もなかなかよい。この池田山公園から、少し歩くと、これも区立公園になっているねむの木の庭がある。上皇后陛下の生家であったところを公園にしたもので、四季の草花とともに、それにちなんだ上皇后陛下のお歌が掲示されている。こちらの方も花にあふれた愛らしい風情の公園で、一度行くと、また、別の花の咲いている季節にも来たくなる。
2023年11月24日
コメント(0)
旭川で、子供のBB弾のいたずらをきっかけに、夫婦をナイフで刺し夫が死亡し妻が傷を負った事件で、懲役25年が求刑されたという。BB弾はサバイバルゲームに使うもので、そうしたものを知らない人の家に向って撃ったのだとしたら、少なくともピンポンダッシュと同列になるようなものではない。いたずらをした子供をつかまえて名前を書かせたところ、後にその子供の一家が家にやってきたため、恐怖心にかられて男を刺したというのが弁護側の主張である。そうなると、具体的にどんなやりとりがあったのか、被告人に対する態度は謝罪だったのか恫喝だったのかがカギになる。そしてそういう場合、被害者がどんな風貌だったかも重要な要素になる。ところが、この事件の報道では被害者についての情報は報道されていない。遺された家族、特に子供のことを配慮すれば、それもやむを得ないのだが、それでも、被告人の心理を判断するうえで、被害者はどんな風貌の人間だったかは大きい。そしてまた、この事件で思うのは、こういうものは、非常に現代的な犯罪ではないかということである。昔だったら近所の人というのはたいてい知っていた、地域社会も生きていた。そうした中では、子供のいたずらで親が謝りにくるというのは、ごくごく普通のことだった。しかし、今や近所といっても全く知らないということも珍しくない。さらに、個人の住居を訪問するということも少なくなり、家族ぐるみの友人同士であっても家を訪問するよりも外の店で会うというのが普通になっている。そもそも客間だとか勝手口だなんてのは今や死語ではないか。だから、知らない人が家の玄関先にやってきて、会うことを要求するというのは、本当に怖い。だから、被害者が訪れたときの被告人の恐怖というのもよくわかる。考えれば妻は赤ん坊を連れていたし、客観的には、そんなに恐怖を感じるものではなかったにしてもである。ああいった場合、もし自分が被告人の立場だったらどう対処すればよかったのだろうか。報道をみると、被害者の態度は謝罪というよりも、被告人のやりすぎた行為に抗議しにきたようにもとれるし、そうした訪問の趣旨は口調等でわかっただろう。かといって、玄関先でドアを開けないまま警察を呼んでも、まず相手にはされない。もちろん中に入れて、子供のいたずらに対してのやりすぎた叱責に平謝りに謝るという対応もある。その先には、おそらく失職して鬱屈したものがあっただろう被告人には、さらにねばねばした惨めな敗北感だけが残り、調子づいた子供はさらにBB弾のいたずらをエスカレートさせた可能性もある。ちょっと救いのない事件であるが、懲役25年というのはいくらなんでも…重いのでは。
2023年11月23日
コメント(0)
この週末に東北に行く機会があった。印象に残ったのは白虎隊終焉の地の飯森山。付近には大型バスの停まるスペースはないので、今回のような自動車の旅でないとなかなか行けないところだ。狭い階段がはるか頂上まで続き、両側には土産物屋が並ぶ。白虎隊の話は有名だし、古くからの観光地という雰囲気がある。この階段を上るのはかなり大変…と思うのだが、脇にはスロープの動く歩道?があり、「上まで階段で行くのは本当に大変です。どうかこちらを利用ください」とさかんに勧めている。みるとほとんどの人はこのスロープで上まで行っているので、大勢に従うことにする。こうしてあっという間に楽々頂上につくと、会津若松の街が眼下に見える。白虎隊の少年戦士達は、ここから火災の炎をみて城が落ちたと思い自刃したという。そうした白虎隊の墓と大河ドラマで有名になった婦女子隊の墓があり、彼らの忠烈を称える碑もいくつかある。なぜこれほどの激戦が行われたのだろうか。江戸時代は平和が続いた時代だが、それ以前の戦乱の物語は、当時の人々は今の人以上によく知っていたことだろう。源平合戦では平家方は徹底的に滅ぼされ、鎌倉幕府滅亡では北条氏が同様の憂き目にあった。会津藩は徳川秀忠の御手付きで生まれた庶子を藩祖としており、幕府への忠誠心や一体感はことのほか強かった。戊辰戦争は当時の感覚では徳川対反徳川の戦いで、負けたらどんな酷いことになるかわからない…そうした恐怖心が少年までも巻き込んでの総力戦になったのだろうか。戊辰戦争の記憶が新しいうちは白虎隊も朝敵方の無謀な戦法としてみられていただけだが、維新の記憶が薄れ、日本が軍国主義に進むにつれ、忠義の模範として美化されていったように思う。飯森山山頂にいくつもある碑はそうした時代のものなのだろう。そしてその中に一つ、洋風のものがあり、解説をみると、昭和初期にイタリア政府が白虎隊の忠義に感動して贈って来たものであり、石柱の材料もイタリアの大理石だという。三国同盟の前であるが、当時のイタリアはファシスト政権である。こうした話は日本人のだれかが美談として海外にまで喧伝しなければ、知るところにはならなかっただろう。朝敵から忠義の鑑へと…白虎隊をめぐる日本人の意識の変遷も興味深い。戊辰戦争は会津も含めた東北では激烈な戦闘があり、会津市内には戦死者の遺体が放置されていたというが、大変革の割には全体で見れば死者の数は少なく、生き残った敗者も新政府を担う人材として登用された。白虎隊の中で生き残ったという人物も、官庁の技官となり、近代日本の建設に貢献した。
2023年11月21日
コメント(6)
銚子市の屛風ヶ浦は日本のドーバーともよばれる景勝地なのだが、そこにレンガ色のひときわ目を引く立派な建物がある。例の加計学園で有名になった千葉科学大学である。科学大学といっても物理や化学を専攻するのではなく、学部は危機管理学部、薬学部、看護学部である。その千葉科学大学が志願する学生が減り苦境に陥っているという。公立化を模索しているというが、ただでさえ破格の条件で大学を誘致した銚子市にとって大学の存在は財政上の負担となっている。これ以上の負担は市は望まないとなると、結局のところ県の負担で大学を維持することになるのかもしれない。危機管理学部もよくわからないが、就職の固そうな薬学部や看護学部にさえ学生が集まらないというのは、もうその大学に対する社会的需要はないということなのではないのだろうか。公立や国立にすれば学生は集まるかもしれないが、そうした公立ブランド、国立ブランドというものも過去の話で経営難で公立化した大学にそうしたブランドイメージがあるとも思えないし、安い授業料はその分、どこかが税金で負担するわけである。そうまでして大学を維持する理由というのがよくわからない。なお銚子市の財政はかなり厳しいようで、景勝地にかかわらず廃墟が目立ち、犬吠埼の遊歩道は震災で壊れたまま整備もされないで放置されている。
2023年11月20日
コメント(2)
国民死刑投票を見終わった。もとがウェブトーンだけに、展開が早く、もう一度視聴しないと細かな個所などわかりにくいところもある。それに、最初の方で殺害されたロシア人妻など、あれっていったいなんだったのと思う部分も多い。ある日、スマホに画面が送られてきて、悪人でありながら法の裁きをのがれた「無罪の悪魔」の情報が公開され、犬仮面が死刑投票をよびかける。そして死刑賛成が過半に達すれば、悪人はなにものかに拉致されて殺害される。いったい犬仮面とは何者で、その正体ははたして…というのが前半の興味関心であれば、ほぼ犬仮面の正体が判明してからは真の巨悪(金と権力を兼ね備えた存在)がどうなるかという点が後半の興味である。韓国では死刑制度はあるのだが、ここ何年も執行は行われておらず、一種のフラストレーションがあるのかもしれない。いやそれよりも、ドラマの中の台詞にあったように、「指一本で他人の生死を左右できる快感」に酔っているというのが実相なのか。そうだとしたら、ネット上での誹謗中傷も、指一本で他人を罵倒する快感という意味では国民死刑投票に似ているのかもしれない。実際に、こうした誹謗中傷で自殺に追い込まれる場合もあるというのだから。
2023年11月18日
コメント(3)
この本が出たということは覚えているが、その頃はちょうど忙しい時期でもあり、読む機会はなかった。今読んでみると、改めてカオスのようなあの頃の新宿の街の光景がよみがえってくる。新宿といえば寺山修司であり、東口のフーテンであり、西口のフォークゲリラであり、何でも新しいことは新宿から始まっていた。若者も数が多く元気がよく、なにものでもない生き方をすることにも世の中は寛容だったように思う。なにもかも右肩上がりに上昇しており、主人公の庄司薫くんのようなエリート高校生でなくとも、普通にサラリーマンになって普通に結婚して普通に生きていくことなど、すぐに手の届くところにあった時代だ。この小説は赤ずきんちゃんからはじまる、赤、黒、白そして青の色四部作の最後になる。本作は、主人公の庄司薫君が新宿の街を付け髭と昆虫採取網をもって歩き回る一日を奇妙な人々との出会いとともに描いたものである。たしかに、あの当時の新宿の夏(設定はアポロの月面着陸の日)だったら、こんな変な人々もいたかもしれない。ただ、肝心の変な人々であるが、観念的な言葉のやり取りが多く、どうも人物が伝わってこない。あえていってしまうと、こうした登場人物同士が観念的な会話や議論を行う形で物語が進むというのは、文学かぶれの若者が小説を書く時に往々にして用いた手法であって、そうしたものを書いていた人の多くは書くことから離れていったように思う。作者の最後に発表した小説という先入観で読んだせいか、この小説にもそうした袋小路のような印象を受ける。作者の妻は高名なピアニストであり、そうした有名女性の夫という立場でエッセイや雑文を発表すれば読む人はいただろう。現に女性宇宙飛行士の夫でその立場でエッセイを書いている人もいる。相当に才気あふれるエッセイなのだが、ちょっと人畜無害すぎて、最後まで読んではいないのだが…庄司薫氏ならこれと同等かこれ以上のものをきっと書けるだろう。この作者が、作家として文筆家として沈黙しているのがちょっと残念な気がする。
2023年11月17日
コメント(2)
最近、熊による被害が相次いでいる。それも、登山や釣りで山に入った場合だけでなく、住宅付近で襲われる場合もあり、想像したくもないのだが、そのうち子供の被害もでてくるだろう。しかも熊の被害範囲も北海道だけでなく、関東以南まで広がってきているので、他人事の「クマさん可哀そう」論者もそろそろ黙るのではないのだろうか。熊被害の話がでると、必ず熊との共生とか自然保護という議論が出てくる。共生という言葉は普通は人間同士に使う言葉で自然相手に使うのはよくわからないのだが、要は自然保護と同じような意味なのだろう。自然保護というのは必ずしも自然そのままを意味しない。一度失われた種は元に戻らないので種の保存は必要なのだが、人間の生活に悪影響や害を与えるものは必要に応じて駆除する。スズメバチもそうだし、マムシやアツミゲシもそうだ。春になればあちこちの街路樹で大々的に毛虫駆除が行われるのもそうだろう。熊も害の程度は比較にならないので、当然に駆除の対象だろう。問題はその駆除が高齢の民間人にまかされており、しかも、その報酬が時給1000円というお話にならない額という点ではないか。また、熊の問題については棲み分けとか生態系をいう人もいる。近代以前は山の民のような例外は除くと人は里に住み、熊は山に棲んでいた。「カミ」の語源には、動詞であるクム(籠む・隠む)や名詞のクマ(隈・熊・神など)が音韻変化したものとされており、熊も神の語源の一部になっている。また、オオカミについても大口真神として神格化されてもいる。熊やオオカミは、人間などの力の及ばないものとして畏怖の対象であり、山は人が踏み入る領域ではなかった。しかし、今では登山、山歩き、釣り、キャンプは大衆の娯楽であり、生活様式は大きく変わった。昔のような生活に戻るのならともかくとして、今のように山も人間の領域とするのであれば、山での駆除も必要なのではないのだろうか。もちろん一般のハイカーが立ち入らないようなところまで駆除が必要かどうかは議論があるのだろうけど…。日本オオカミは絶滅した。もし、絶滅していなかったらキャンプや釣りもずっとスリリングなものになっていただろうが、それがよいとも思えない。生態系をいう人もいるのだが、人間のように自然をコントロールする種が出てきたこと自体、すでに生態系を乱しているといえないだろうか。生態系を変えてはならないのであれば、人間も石器時代くらいに戻って食うか食われるかの自然の食物連鎖の中に入るしかない。人間は石器時代にも戻れないし、里に籠っていた近代以前の生活にも戻れない。それを考えると、熊対策は、最低限の種の保存を念頭に置いた上での駆除一択ではないか。人間を襲った熊や危険な熊は駆除ということをいう人もいるが、それでは駆除するためには誰かが襲われたり危害にさらされたりしなければならないわけで、それもおかしな議論だろう。
2023年11月16日
コメント(17)
最近、将棋がなにかと話題になっている。そして不思議なのは「観る将」と言って棋士を観るだけのファンもいるらしい。自分はやらないけど観るというのはスポーツなどは大抵がそうで、野球や相撲を観る人のほとんどは自分ではやらないだろう。ただスポーツの場合は自分がやらなくても、観れば凄さは伝わるし、勝敗も細かなルールは別にしてもだいたいはわかる。これに対して将棋は自分がやっていないと指した手のどこが凄いかといったことは分からないのではないか。ただ将棋の棋士を観るだけというのがよくわからない。そのうち下火になるのかもしれないけど。その将棋の聖地といえば将棋会館であるが、その千駄ヶ谷の将棋会館近くには鳩森神社と言う神社がある。ここは、スマホ騒動の前までは、よく休憩中に散策をしている棋士もいたというので、今のような観る将なんてものがあれば、それ目当てのファンも集まっていたかもしれない。そうでなくとも、なにかと将棋に縁のある神社のようでお御籤も将棋の形で将棋の格言が書いてある。手水は色とりどりの花を浮かべた花手水で最近ではこうしたものが人気なのだろうか。衛生的な配慮から手水の水を柄杓で飲むというのは最近では消えていったようだ。鳩森神社は広く見どころもいろいろとありそうなのだが、なんといっても第一の特徴は富士塚ではないかと思う。富士参拝の代わりとなる富士塚はあちこちにあるが、鳩森神社の富士塚は別格のように思う。富士塚の石もどうやら本物の溶岩を使っているようで、結構リアルに富士山の気分を味わえる。その分、足元も悪く、歩きやすい靴が必須なのだが、三合目、五合目といった表示もあり、山頂まで登ると、それらしい祠もある。ただ富士塚に登っただけなのにこの達成感は何なのだろう。東京の真ん中にこうした場所があるのは実に興味深い。外国人観光客にもぜひ教えてあげたいくらいの場所である。
2023年11月14日
コメント(2)
毎日のように詐欺と思われるメールが届く。例えばこんな文面だ。 最近の第三者による不正利用の急増に伴い、当社では「不正利用監視システム」を導入し、24時間365日体制でアカウントの使用を監視しています。この度、ご本人が使用しているか確認したい取引がありましたので、勝手ながら一部アカウントの使用を制限させていただきますのでご連絡させていただきます。 また、以下のアクセスとアカウントの使用確認にご協力ください。ご回答を得られない場合は、アカウントの使用制限が継続されることもございますので、予めご了承ください。こうしたメールが大手通販サイト、クレジット会社、個人オークションサイトの名で届く。多くはそもそも加入していないものだったりするのだが、最近ではマイナポイント運営事務局の名でマイナポイント第二弾というメールも来る。アクセスすると、クレジットカードの情報を書き込むようなサイトに誘導するのだろう。こうしたものについて犯人が逮捕されたというニュースもあまり聞かない。少し前まではふざけたいたずら電話でもメールを出したり、掲示板に書き込んだだけで、すぐに逮捕されていたのに、こうしたものは野放しなのだろうか。そしてまた、電話による振り込め詐欺の注意喚起はあちこちでみかけるのに、こうしたネットあるいはショートメールによるフィッシング詐欺の注意喚起は少ない。お年寄りは固定電話というのも思い込みで、パソコンやスマホを使っている人も多い。紙の通帳や現金が普通だったという世代なら、ネット取引で他人が不正に預金を引き出しているのではないかという不安を持つ人もいる。詐欺の被害者は被害を恥じるところがあり、また、被害金額もかえってこないというあきらめもある。実際の被害はけっこうあるのではないか。また、こうしたフィッシング詐欺と思われるもの以外に、仕事紹介についてのうまい話もある。知らない番号から電話がかかってきて、とってみると、パソコンの前で3時間座っているだけで月10万円というアルバイトの勧誘だった。また、詐欺ではないのだろうが、英国での新薬の治験バイトというのもある。英語力不要、旅費も宿泊費も先方持ちで病院にいて薬を服用するだけで毎日万単位の収入があるという。座っていることや薬を服用することは誰でもできるので、万単位の報酬と言えば心の動く人もきっといるだろう。カンボジアの詐欺グループが逮捕されたというが、彼らの多くもこうしたうまいバイトの話にのったのかもしれない。外国の高級ホテルでの滞在、電話をかけるだけの簡単な仕事で毎日何万円…こんなふうに誘われればその気になる人もいる。報道を見ると逮捕された人の中には「食事もまずく、観光もできなかった」といっている人もいるらしい。逆にいえば、その人はおいしい食事と観光付きの海外でのバイト話ということで誘いにのったのかもしれない。そしていざ電話をかけるための原稿を渡されてみると、さすがにやばいと思ったのかもしれないが、その時には我が身は海外、パスポートも取り上げられて既に逃げられなくなっているわけである。この事件の続報がまたれる。まあ、詐欺には金を奪う詐欺もあれば、人生を奪う詐欺もあるということである。
2023年11月12日
コメント(2)
最近、まだ行ったことのない東京を探すための一日トリップを行なっている。この間は、成城学園から野川緑道を歩いた。成城学園前の北口を降りると高級住宅地らしい瀟洒な並木が続く。そこをしばらくあるくと、緑地が見えてくるのだが、このあたりは都内でも有名な高級住宅地で住宅を眺めるだけでも興味深い。同じ高級住宅地でも田園調布のように、要塞のような生垣に囲まれて一戸建てがぼつんぼつんと点在するのとは違って、瀟洒な洋風の屋敷が連なっている様子は明るく開放的な感じだ。昔は、このあたりにはスターが住んでいて、ファンが目当ての屋敷を見に来るような光景があったというが、今はどうなのだろうか。明らかに一戸の住宅だった土地を二戸に分割した家や、もとはお屋敷だったものが店やマンションになっているところもあり、高級住宅地も世代交代とともに様変わりしているように見える。その一方で、ほとんど改修していないのではないかと思われる昔ながらの板葺きの家もあったりする。大きな緑地公園を回る形で住宅街を歩いたのだが、緑地公園から様々な鳥の鳴き声が聞こえてくる上、道にも樹木が豊富に残され、東京都区内にこんなに緑豊かなところがあったとは驚くほどだ。そんな豪邸の中に、車庫のシャッターにロシアの風景を描いている家があって驚いた。もしかして、著名な画家の家かと思って検索してみたが、どうもそうではないようだ。ちょうどこのあたりは、武蔵野が野川の周りの平地におちてくるあたりで、見晴らしもよいが、急な坂もある。駅ちかくならよいが、この坂を上り下りするとなると少し不便なのかも。高級住宅地を抜け、橋を渡ると、野川遊歩道にでる。成城の丘を眺めながら、砧をめざして歩くと、次大夫掘公園に着く。
2023年11月10日
コメント(0)
商店街を歩いていると妙な気分になる。なんだ、この違和感。ジングルベルやきよしこのよるのクリスマスソング、そして店先のクリスマスツリー。ハロウィンも過ぎて店はすっかりクリスマスモードなのに、薄手の長袖でもこの暑さ。これも地球温暖化の影響なのだろうか。今年の夏は40度越えという昔なら考えられなかった高温が続き、夜も暑いので夕涼みと言う言葉も死語になるほどだったが、来年にはさらなる暑さがやってくるのだろうか。地球温暖化に終息していないコロナと地球規模の問題があるのに、ウクライナ、そしてパレスチナと戦争という人災が次々と起こり、死ななくても良い人が死に、健康だった人が手や足、そして眼や耳を失う。人間の愚行は止むことなし…なんか人類の終末も近いのかも。閑話休題カンボジアで特殊詐欺グループが捕まったという。どうせ異国で監禁同様の境遇だった下っ端連中で大本は他にいそうである。パソコンでもスマホのショートメールでも詐欺と思われるものがよく来ており、こうしたものは検挙するなり注意をよびかけるなりできないものかと思う。詐欺の被害者には被害を恥じる気持ちがどっかにあり、また、どうせ被害金は返ってこないというあきらめもある。実際の被害はもっと大きい。そしてまた、こうした犯罪の跋扈する背景には、金に困った若者と言うのが相当数いるということもある。豊かな時代に生まれ育ち、情報のあふれる社会で生活しながら思うような収入を得ることができなければ、一回何万という収入についつい惹かれるという気持ちもわからないではない。闇バイトではないのだが、ネット広告で、英国での治験バイトの募集があった。薬品を服用して病院にいるだけで一日何万かの報酬があり、英語力不要で、それどころか英会話学習の機会もあるという。円安なので高額の報酬をだせる外国企業も多いし、こうした募集に心が動く人も多いだろう。
2023年11月09日
コメント(4)
「前巷説百物語」を読んだ。京極夏彦のものを読むのは初めてなのだが、写真は雑誌などでときどき見かけた。写真の印象では西岸良平の「鎌倉物語」の主人公のモデルは絶対この人だと思っていたのだが、ネットで検索してもそういうことを言っている人はいないので違うのだろう。それはともかくとして、頁数の多さにおそれをなしていたのだが、読んでみるとすいすい読めるし、個性的な登場人物が多くて面白い。化け物をテーマにしているが、怪奇小説というのでもないし、江戸の町を舞台にした時代小説と言うのだろうか。損料屋(今で言うとリース業)に持ち込まれる裏家業、つまり損の埋め合わせを中心に物語が進み、それに化け物の仕掛けがからむという趣向である。あらためて作者の経歴をみてみると、仕事が暇なときに初めて書いた小説を出版社に送ったら、すぐに出版のはこびとなったという。編集者は原稿をみた時、高名な作家が編集者の技量をためすためにわざと変名で送ったのではないかと考えたという。書けない人は書けないし、書ける人は最初から書ける。才能とはそういうものなのかもしれない。そんなわけで非常に面白い小説なのだが、ただ同じ作者のこのシリーズをもう一度読むかどうかは微妙である。ネタバレを書くわけにはいかないが、化け物の仕掛けに騙されたという爽快感を感じるか、つっこみどころがあるように感じるかは人によって違うだろう。そんなものは好き好きかもしれない。ただ、ちょっと仕掛けが無理あるように見えたり、新しい登場人物、それもスーパーマン的な味方が都合よくあらわれたり…というのが個人的には気になる。
2023年11月08日
コメント(0)
イスラエルで閣僚が核使用の可能性について言及したことがニュースになっている。イスラエルが核保有国であることは、ほぼ公然の秘密のようであるし、昨今の情勢にかんがみるとそうした可能性もありそうである。核の悲惨さや非人道性はいくら強調してもし足りないほどなのであるが、そうしたものが実際に使用する場合のブレーキになるわけではない。人の理不尽な死はいつも悲惨であり非人道的なものであり、それは核による死も、昔ながらの銃剣による死も変わりないし、核兵器だけがだめだというのは、実はあまり説得力はない。ただし、核兵器の使用は次の使用をよび、それが続けばハルマゲドンというのも現実味をおびてくる。壁に閉じ込められたガザ地区の人々は、今までもほぼ失業状態で援助物資で命をつなぐ極限状況の生活をしてきた。そして爆撃も今までもあった。そういう状況を放置したまま、今現在の大規模な空爆をやめたり、いくばくかの食料を人道支援として給付したところで、あの天井のない牢獄といわれるガザ地区の状況がよくなるわけではない。いまのあの状況自体がすでに人道危機なのである。映像で見ると、壁に囲まれて暮らしている人々の目は憎悪と復讐にぎらぎらしている。壁の外には小奇麗なイスラエルの街があり、テロに襲われた音楽イベントも世界的なテクノミュージックのイベントだったという。ガザ地区に対しては、今でも壊滅的なほどの強硬な攻撃な行われ、想像したくもないが、核もつかわれるかもしれない。差別が差別を生み、憎悪が憎悪を生む。宗教が対立の原因ではなく、宗教は憎悪に理由を与えているのに過ぎないのだろう。手のほどこしようもない黒い憎しみの連鎖がパレスチナ紛争である。。
2023年11月07日
コメント(12)
ネット配信の韓国ドラマ「国民死刑投票」を楽しみにしているのだが、アジア大会などで配信が後れる時もある。回がすすむにつれ、込み入った話になってきているので、そうした場合には過去の回をもう一度見直すとよいようだ。スマホで妙な動画が送信されてきて、画面をみると不気味な犬仮面(ケタル)がでてきて国民死刑投票への参加を案内する。状況証拠はあるが証拠不十分で有罪を免れた者や地位を利用して警察の動きを抑えた「無罪の悪魔」を国民が裁くと言う趣向である。いったいケタルとは何者なのか…その目的は…ということで、非常に面白いのだが、原作はスマホのウェブトーン漫画だという。ウェブトーン漫画は読んだことがないのだが、国民死刑投票で検索するとでてきた。なるほど普通の漫画をただスマホ画像で見るのとは違い、マンガの一コマが一画面になっているので、迫力が違う。そしてまた、コマの使い方など紙媒体とは違うウエブトーンならではの技法もあるようだ。俳優も原作漫画の雰囲気となんとなく似ているのも面白い。ただし、一番驚いたのはそこではない。韓国語版も検索すればあるのだろうが、日本語版では徹底的に内容が日本化されている。登場人物の名前はもちろん、お札の場面では日本円、建物はソウル南部庁ではなく警視庁、夜の看板も日本語という具合に。昔、韓国に行ったとき、書店で漫画をみると、日本で人気のコミックもいくつかあった。もちろん韓国語なのだが、驚いたのは登場人物の名前が韓国式になっていたことだった。桜木花道はカンベッコ、流川楓はソテウンという具合だった。金田一少年の名前がそのまま韓国読みでキムジョニルとなっていたのは面白かった。今、それと逆の韓国原作の日本化という現象がウェブトーンで起きているということなのだろう。こういう韓国発ウェブトーンの日本化というのは、他の国でもあるのだろうか。それとも日韓限定なのだろうか。そのあたりが気になる。
2023年11月06日
コメント(0)
袴田事件は再審が始まり、おそらく近いうちに再審無罪となるだろう。しかし、本人はすでに高齢で出廷もできない状況であり、ずっと支え続けていた姉も90歳を超えている。まさに国家(具体的には警察、検察、司法関係者)が一人の人間の人生を奪った犯罪であり、補償の問題も含めて様々な議論がうまれることだろう。証拠となった血痕は一年も味噌に漬かっていたが、なお赤い色をしていたという。日常生活でもちょっとしたケガで服に血のつくことはあるが、血のしみの色は赤から暗赤色、褐色へとみるみる変わっていく。赤い血痕の疑問は誰でも持ったと思うのだが、それが専門家の鑑定でおしきられたということなのだろうか。冤罪事件には往々にして不思議な鑑定がでてくる。甲山事件では、知的障碍者には作話能力がないので証言は通常人よりも信用できるという鑑定が出た。唯一の証拠となった知的障碍児の証言は15歳の時に10歳の日の記憶について証言したものであった。知的障碍者は…というと、すぐに差別と言う人もいるので、一般論としてみても、15歳の時に10歳の日の記憶を思い出しても、周囲の話等による記憶の変容は容易に起こる。そしてまた知的障碍者の証言はより信用できるという説は、記憶にあるかぎり甲山事件の裁判でしかでてこない。逆に障碍者のいる福祉施設などで、職員による被害の訴えが握りつぶされた例はでてくるのに…。日本の司法ではいったん起訴されると有罪率は100%に近いという。逆に無罪判決を出した検察官はキャリアの中でハンディをおうという。裁判官にしてみれば、検事は法曹の仲間であり、被告人は別世界の人間である。それでどうこうということはないにしても、検察は検察で、無罪判決は組織のメンツにかかわるという意識もあるだろう。いったん国家(この場合は検察)が暴走を始めると、真実よりも、組織の論理や上への忖度でとまらなくなる。あの甲山事件は一度も有罪の判決がでないものの裁判は25年も続いた。冤罪被害者の女性は最初の婚約者とは別れ、収監されなかったものの殺人事件の刑事被告人という肩書はついてまわった。検察官の中でも彼女が真犯人と思う人は少なかったのではないか。25年の長期裁判は組織、具体的には組織を構成する人々を守る(無事に退職して勲章でももらうまで)ために行われたとしか思えない…。袴田事件も無罪判決は大報道されるだろうけど、それはけっして姉の美談や無罪判決をだした裁判官や弁護士の英雄譚だけにおわってはならないように思う。
2023年11月05日
コメント(4)
山歩きもいいよね…と思うのだが、やはり転倒が怖いので、平地をあるくことにした。平地でも樹々が多く、できるだけ自然を感じられるコースがよい。食べ歩きや買い物には興味がないし。というわけで横十軒川親水公園を歩くことにした。住吉駅から猿江恩賜公園を抜けたところを曲がり、しばらく歩くと親水公園に入る。高度成長時代、都市部を流れる小河川の多くは、どぶ川と化し、やがて暗渠化されていった。あの千と千尋にでてくるコハク川もそういう経緯を辿っていたかと思う。それがある時期から、暗渠にするのではなく、清流に戻すというように方向が変わっていったようだ。目黒川もかつては酷い悪臭を発する川で、一部は暗渠になっていたのだが、清流化計画により、次第に水が綺麗になり、そうなると、両岸の桜並木が見事だということで都内有数の桜の名所になった。横十軒川も川の流れに沿った緑地遊歩道で、途中にある野鳥の島では様々な野鳥の声も聞こえ、東京にもこんな場所があったのかと驚くほどである。やはり清流の方が暗渠よりもずっとよい。この横十軒川親水公園は仙台堀川公園に続いており、これも遊歩道になっている。みると桜の並木もあり、花見の頃には相当の賑わいだろう。東京の地形は武蔵野台地と下町低地にわけられ、このあたりは低地で平坦な地形のため自転車が多い。横十軒川親水公園は非常に気持ちの良い遊歩道なのだが、難をいえば、舗装された道は自転車と共用なので、高スピードの自転車には歩く方も注意しなければならない。その点、仙台堀川公園になると、自転車道と歩道が分離されているので安心である。ただ、仙台堀川公園は、かなりの部分が工事中であり、本来なら水が流れているはずの水路も水が枯れていたのが残念であった。最後は歩道橋で小名木川を渡り、大島稲荷神社の角を曲がると、まもなく地下鉄の大島駅に着く。
2023年11月04日
コメント(0)
謡曲に隅田川という題目がある。梅若丸という12歳の少年が人買いに攫われて都から東国に連れられて行く途中、隅田川を渡ったところで病を得たため、そこに捨て置かれて亡くなった。その一年後に、都の北白川に住む母が、梅若丸を探しにやって来るのだが、隅田川までやってきて、我が子の死を知るという話である。謡曲の隅田川も有名なのだが、梅若丸の物語は、江戸時代には歌舞伎や浄瑠璃にもなったという。筋書きも詳細になっており、父は吉田少将惟房で、5歳で父に死に別れ、7歳で比叡山に入り、母の名も花御前とか出家して妙亀尼とかになっている。攫われた経緯も、寺同士の稚児比べをしたとき、対立する寺の僧侶に襲撃され、逃げているところを、道に迷い大津に出てしまい、陸奥の信夫藤太に騙されて東国まで連れてこられたとある。隅田川は伊勢物語の言問の歌にもでてくる。梅若丸のような史実があれば、都から川を越すたびに、もう帰れなくなってしまったという悲しみに沈んだことだろう。隅田川は都の人にとっては東国のはずれのようなイメージであった。梅若丸の墓は水神橋近くの木母寺ということろに今もあり、梅若丸を祀った堂もある。ただ、伝説の古さに比べるとお寺もお堂も非常に新しい。それもそのはず、このあたりは酷い空襲のあったところで、寺も神社も皆焼けてしまった。中世の人買いの悲劇もさることながら、空襲でも幾多の子供を失った親の悲劇があったことだろう。隅田川ではないのだが、さるお寺では山の手空襲の慰霊碑があり、そこでは、母親が火傷で瀕死の子供をかかえながら「苦しいのは今のうちだけだよ、もうすぐ楽になるのだから」と語りかけていたという挿話が残されていたのを思い出した。親を失うのも悲劇だが、おそらく子供を失うのはもっと辛い。そうした普遍的な悲しみがあるから、「隅田川」は演目として残って来たのだろう。
2023年11月02日
コメント(2)
パソコンのメールで不要なものを削除したのだが、あらためて驚くのはフィッシング詐欺と思われるメールの多さである。加入した覚えのないクレジットやサービスを騙るのもあるのだが、アマゾンの名で支払方法に問題があるので情報の再入力をお願いすると言った内容であれば騙されることもあるのかもしれない。幸いアマゾンは月に一度くらいは利用しており、プライムビデオもよくみるので、「アカウント凍結の予告」がきてもなんとも思わないのだが。ただ自分など旧時代の人間のせいかネット上で金が動くことに気持ち悪さを感じている。人によってはネットでの取引用の口座とそれ以外の口座を分けているという例もあるのだが、それもわざわざやるのは面倒くさい。フィッシングメールも次第に増え、しかも巧妙になってきているようで用心が必要だし、こうしたものに注意喚起ももっとやるべきではないかと思う。つまらないいたずら書き込みはすぐにつかまるのに、こうしたフィッシング詐欺と言うのはなぜ検挙できないのだろうか。最近ではマイナポイント第二弾として、何万円支給されるというのがあったが、これも、もしかしたら貰い忘れている特典があるのではないかと言う心理を巧妙についている。最近の政府の施策はなんでもバラマキありきのものが多い。閑話休題昨日の立てこもり犯の年齢が86歳ときいたときには驚いた。この年齢になると死刑も無期懲役も怖くなく、それを考えると死傷者がでなくて本当に良かった。灯油?も持ち込まれていたという報道もあり、一歩間違えば無差別大量殺人の可能性もあったのかもしれない。ネットスラングで「無敵の人」という言葉があるが、職業、家族、財産など失うもののない人をいうのだが、86歳というのは、これから先の時間も少ないわけで、本当に意味での「無敵の人」とはこういうのをいうのかもしれない。犯罪には連鎖作用がある。電車のホームなどでは注意しなければ…。
2023年11月01日
コメント(0)
伝統とか風習といわれるものでも起源は意外と新しいものが多い。年賀状や初詣も郵便や交通機関の発達と不可分だし、よくいわれる夫婦同姓も戸籍制度が始まって以降のことだろう。年中行事は時代とともに変わり、歴史をもちださなくとも、子供時代と比べても随分と変わってきている。子供の頃はお正月は普段の町とはまるで違う静かな雰囲気だったし、晴れ着を着ている人も多かった。クリスマスといえば、どこに行ってもクリスマスソングが聞こえてきたが、今は静かになっているように思う。そのかわりハロウィーンはかげもかたちもなかった。そうした風習の中で、今でも残っているのが北枕の忌避である。この北枕を避ける風習というのは、もともとは中国の古代思想にあったそうなのだが、日本に入って来たのは古墳時代だという(リンクしているはるなさんのブログによる)。たしかに古墳の造営には渡来人技術者がかかわっており、そうした人はもちろん中国の文化にも通じていただろう。それが貴族から庶民へと普及していったのはいつ頃なのだろうか。北枕、左前、送り箸など、死や葬送に関連するものを忌むという感覚は、死への恐れとあいまって非常に根強く、現代でもいっこうにすたれる気配がない。北枕の忌避もこれからも残っていくだろうけど、今の住宅事情だとベッドを入れるスペースに苦労して、北枕など気にしてはいられないということもある。それに阪神大震災で分かったように地震の際の家具倒壊も不安で、棚の中のものが頭を直撃するのを避けるために北枕にせざるをえないという場合もあるだろう。そしてまた住居によっては、家が東西南北になっていないところや、窓が北向きというところもある。そして最後に北枕について疑問に思う点をあげてみる。由来は古代中国だとしたら、日本以外に北枕を現在でも気にするところはあるのだろうか。逆に日本人が海外旅行や出張などで外国に行った場合、北枕を気にするのだろうか。気にしたという話を聞かないのだが、外国では気にしないのに、日本では気にするというのも変ではないか。根拠は仏陀が入滅の際に頭を北を向けていたからだというが、これはちゃんと出典等があるのだろうか。およそ歴史的人物の類で死んだ時に頭をどっちに向けていたかなんてことが記録されている例はきいたことがない。
2023年10月31日
コメント(4)
土曜日の夜、たまたま車で渋谷あたりを通りかかったところ、大変な量の警察車両が目についた。そういえばここはスクランブル交差点の近く…車窓からハロウィーンの様子を見ることにして方向転換。相変わらずの賑わいだが、普段の週末と変わらない。注意して探すと仮装の人もいたのだが、よく見ると外人のように見える。少なくとも仮装で来ている人よりは警察官の方がよほど多い。それにしても、スクランブル交差点はなにかと若者が集まるのだが、ここまでハロウィーンを問題視する理由は何なのだろうか。韓国のような群衆事故の怖れもいわれるが、外国の事故であり、それも傾斜のある細い坂道で起きたというので、渋谷の交差点とは条件が違う。何年か前に、集まった若者が車を押し倒したことがあったが、集団心理で偶発的に暴動が発生することを危惧しているようにみえた。スポーツ大会の応援や年末年始も、このあたりは人が集まるが、そうしたものも今後は規制されていくのだろうか。街角で人が集まり、見知らぬもの同士がハイタッチしたりする文化というものは、いままでなかったが、日本の一角にそうした場所があっても良いように思うのだが。
2023年10月30日
コメント(19)
謡曲といえば、皆同じようなものという印象を持っていた。嫋々とした謡に合わせて旅の僧侶なんかがでてきて、精霊や幽霊であるシテが現れ、最後は僧侶の念仏とともに消えていくという筋書きである。謡曲集(上)を読んでみると、たしかにそうしたものが多いのであるが、内容は想像していたものよりもずっと多彩である。歴史に材をとったものもあれば、源氏物語や伊勢物語のような文学に材をとったもの、説話や伝説に材をとったもの、中国古典に材をとったものまである。シテが現れ、最後は消えていくという点は共通しているが、重要なのは謳や舞はないのだが、語りの部分ではないかと思う。そこで、背景となる物語の内容を理解し、あらためてシテに感情移入をしてその舞をみる。シテの消え方は様々であるが、成仏して消えると安堵するし、そうでない場合には物語の余韻にひたる。謡曲の物語の中には六条御息所の生霊や盧生の夢のようなもとからあった話もあるが、謡曲と言うジャンルの中でふくらんでいった話もある。36歌仙の一人の小野小町などもその一つだろう。小野小町と言えば容色の衰えをなげく100人一首の歌が有名であるが、そこから派生して、老残の小町が放浪する姿を扱った謡曲がいくつもある。さらには深草の少将というオリジナルキャラまででてくる。小野小町に恋文を送り、100日間通い続けたら靡くという小町の言葉を信じて。通い続け、100日目に凍死したという。小野小町については、中級貴族の出身で身分出自も明確でない上、後ろ盾になるような人と結婚したという事実もないこと、子供もなく晩年が不明なこと、歌の中に容色の衰えをなげくものがあったことなどから老残の小町と言う想像がふくらみやすかったのかもしれない。実際に老齢の放浪乞食の中には、もとは〇〇の身分だったのかもしれない…と噂されるような例があっただろう。皇女が零落して乞食になった話は今昔物語に出てきており、それを芥川龍之介は六宮の姫君という小説にしている。沙石集にも、上級貴族の女性が高齢になって山に隠れ住んでいたという話がある。小野小町の場合はもっと悲惨で、関谷小町では庵に住んでいるが、鸚鵡小町では放浪の身、卒塔婆小町では乞食となっている。そして通小町では死んだ後の成仏もままならないことになっている。古来、五福の第一は寿といわれるくらい、長生きは人の憧れるものであったが、長生きしたからと言って、それまでの成功を維持できるとは限らない。小野小町は美貌だけでなく、和歌の才覚で世にもてはやされたが、それとても100近くまで生きていれば衰えていくだろう。長生きしても、そこにあるのは昔を恋しがるだけの長い余生である。謡曲の小町ものは高齢社会の今の時代にもいろいろと考えさせられる。
2023年10月29日
コメント(2)
最高裁判所大法廷は、性同一障害特例法のうち、生殖機能をなくす手術を求める要件について憲法に違反して無効だと判断した。これにより、特段の手術なくして、性同一障害の場合、男性の身体の人が女性に、女性の身体の人が男性に戸籍変更できることとなる。男性か女性かで全く人生が変わったような時代ならともかく、今日では男性にしかつけない職業、女性にしかつけない職業も少なくなっており、趣味の世界でも女性がボクシング、男性が編み物をやっていても驚く人はいない。ファッションもモノセクシュアルなものも随分あり、別に性自認と実際の性が異なっていても、さほど問題ないように思うが、それはひとまずおいておく。これにより、男性の身体で女性、女性の身体で男性という人が生れるわけだが、施設管理の問題と戸籍は別なので、すぐに女風呂に男性の身体の人が入ってくるというわけではないだろう。ただ、戸籍上女性であれば宿帳も女性になるし、身体も女性だと思って、女風呂に案内されるということはより多くなるだろう。そして今なら、女装の男が女湯に入れば犯罪になるのだが、性自認も戸籍も女で身体は男性という人が女湯に入った場合は「犯罪」になるのだろうか。世の中、LGBTQに理解のある人が増えているので、性自認も戸籍も女なのに女風呂に入れないのはおかしい…という議論も起きそうである。ずっと昔、英国のバースという町に観光旅行で行ったことがある。ローマ時代の浴場があったところで、温泉は今も湧いている。ローマの浴場の遺跡があり、浴場を再現した立体映像もあったのに、実際に入浴できる施設がないのが不思議だった。せっかくの温泉なのにである。早い話、欧州には日本式の大浴場と言う文化自体がない。日本の浴場は、かつては混浴だったというが、今の日本の大浴場文化は、異性の身体の人が入ってこないという信頼に支えられている。性自認が女で身体は男性という人が女風呂に入れるようになれば、当然、性自認が男の女装趣味男性も入るようになる。そうなれば、大浴場だけでなく、手軽に非日常と旅行気分を味わえる温泉施設レジャーも衰退するだろう。それどころか、温泉地の旅館も大浴場ではなく、部屋付きの温泉が主流になっていけば、どこもばか高くなり、庶民には温泉旅行も手が届かなくなる。
2023年10月26日
コメント(7)
イスラエルとハマスの大規模戦闘をめぐり、米国と英国、ドイツ、フランス、カナダ、イタリアの6カ国は22日、イスラエルの自衛権を支持する一方、民間人の保護を含む国際人道法の順守を求める共同声明を発表した。このG7の日本抜きについては、国内でもいろいろな意見があるのだが、不参加の主な理由が「人質の中に邦人がいなかった」というのはどうなのだろうか。人質に邦人がいないからオレ関係ないというのは、自ら国際政治の主要プレーヤーではないと言っているようなものではないか。先進国が世界全体を見据えて発言する場がG7なのだから。それにしても、もし、あの人質の中に邦人がいればどうなっていたのだろうか。そしてその邦人が無職のバックパッカーの場合、名の知られたジャーナリストの場合、大使館などの要人の場合では違ってくるのだろうか。また、「人質の中に邦人がいなかった」という理由で共同声明に入らないのであれば、今まで日本人拉致事件で様々な国に協力を呼びかけてきたのはいったいなんだったのだろうかと思う。※今年はクマ被害が相次いでいる。北海道のヒグマだけでなく、本州でも出没しており、今までいないとされていた伊豆半島や東京都の町田でも目撃例があったという。実際に人身被害もでており、こうしたクマの駆除が高齢化著しい民間組織の猟友会にまかされていることも疑問だ。国民の保護というのは警察や自衛隊の所管ではないのだろうか。山でクマにであったら目をあわせてあとずさりなど…とっさの場合にできるわけがない。警察に電話しても「うちではない」なんて言われるのだろうか。想像したくもないが、そのうち子供や若者の死傷事件も起きるかもしれない。首都圏近郊で若者や子供が襲われ、政府が問題視しはじめたとき、それでは田舎で老人が襲われてもあまり動かなかったのはなんだったんだという批判がきっと起きるだろう。山菜取りの農家のおばあさんが鹿と誤認されて銃で撃たれてもベタ記事、名古屋のエリート高校生が米国で強盗と誤認されて撃たれたら大騒ぎというマスコミ世論のダブルスタンダードはいいかげんにしてほしいものだ。※老人保健施設で85歳の老人が殺害されたとして、介護士が逮捕された。供述によると老人がつねったのに腹をたててのことだというが、被介護者から介護士への暴行はたびたびあるという。認知症のケースもあるし、そうでなくとも、いらだっている人もいるだろう。介護士の方も、必ずしも望んでその職場にいるという人ばかりではない。介護する側にも、介護される側にもストレスの多い排せつや入浴の介護などの機械化は急務のように思うし、とにかくの待遇改善が必要だろう。この待遇には給料だけではなく、介護職員からの管理部門への登用などもあるのかもしれない。
2023年10月25日
コメント(40)
実在しない妹になりすまして戸籍を取得したなどとして、警備員の女(72)が逮捕されたという。報道によれば、家庭裁判所と区役所にそれぞれ偽造した書類を提出し、実際に48歳の妹の戸籍が作成された。よくわからないのは、架空の戸籍というのはそんなに簡単に作成できるのだろうか。いくらなんでも本人が申請しないと無理なので、72歳の女が「48歳の妹」と称し、それを家庭裁判所の職員も区役所の職員も信じたということになる。それだけでなく、警備員の職も、詐称した年齢で採用されていたのかもしれない。具体的な内容までは報道されていないのだが、いくら人手不足でも70代の女性を警備員には雇わないのではないか。共犯の夫の供述によると「妻は若く見られたい」というのが犯行の動機であったという。もしそうであるのなら、実害もさほどないし、大々的に報道しなくてもよいように思う。また、就労のために年齢を偽った戸籍が必要だったのだとしたら、今日的な問題が背景にあるように思う。それはともかくとして、今の高齢者というのは、元気なうちは多かれ少なかれ「若くみられたい」と思っているのではないか。さすがに72歳を48歳というのはないにしても、あからさまな老人扱いは嫌なものである。電車などで高齢者に席を譲るのが無条件でよいことみたいに言われることもあるが、実際に、杖でもついていればともかく、そうでない場合は席を譲っても喜ばれないことが多いように思う。現に、集まりなどでは、「席を譲られたことがない」ことを自慢する人が多い。同様に公園や博物館、それに映画など、はたしてシニア料金など必要なのかと思う。生活必需のものとは違い、こうしたものは教養とか娯楽に属するものである。普通に大人料金を出して入ればそれでよいと思うのは自分だけだろうか。それに、自動券売機でなく、窓口に人がいる場合、微妙な年齢でシニアと判断されたら、けっこうがっくりくるのでは…。
2023年10月24日
コメント(3)
全部で第7部、本にして14冊になるクリフトン年代記をようやく読了した。貧しい港湾労働者の息子とした生まれたハリーの港湾主の娘との恋、出生の秘密、戦争、服役、作家としての成功、ソ連の反体制作家の支援などの波乱万丈の生涯を描いた「クリフトン年代記」のうちで、最後の第7部は全体のエピローグ的なものであったが、いままでのどの巻よりも頁を繰る手がとまらない。それだけ主人公の行く末が気になったということもあったし、最後の最後までひっぱった主人公の出生の秘密がどうなのかという興味もあった。作者は人気作家であるだけでなく、政治家の経験もあるので、詳細に語られる英国議会の儀式なども興味深い。米国とはまた違う立憲君主というものもひとつの文化遺産ではないか。主人公ハリーの作家としての創作の苦労にふれた個所はないのだが、ハリーがディケンズを「英雄」と評しているあたりはなるほどと思う。個性的な登場人物や善悪の色分け、波乱万丈のストーリー展開など、たしかに本作はディケンズの小説を彷彿とさせる。まあ、安楽死とかいった重いテーマも本当はあるのだが、そこはあくまでもさらりと描かれている。そういう小説ではないのだろう。全体を読んだ印象では、おそらくは作者の理想像でもあるらしいヒーロー的小説家の主人公や、かのサッチャー女史と友情を結び閣僚にまで上り詰める妻、議会きっての雄弁家の義兄、最高学府教授の義妹など高スペック英国上流階級絵巻といった面々よりも、その反対側にいる悪女ヴァージニアが印象深い。伯爵令嬢なのだが、自分の美貌を頼みに他人にたかることしか頭になく、贅沢好きで、怠惰で…しかし、主人公側が完璧すぎる分だけ、逆にこの愚かさが人間的に見えてくる。彼女がいなければこの小説はずっとつまらなくなったのではないか。いやな女だけれども、物語の中心にいる。そのあたり、「人間の絆」のミルドレッドと双璧のような女性である。
2023年10月23日
コメント(0)
どうしても山歩きをしたい場合に高尾山はお薦めである。まず駅からのアクセスが良い。次にいつ行っても適度に混んでいる。これによって迷う心配はまずないし、万一であるが、山道で怪我をして動けなくなったりした場合に助けを呼ぶことができる。最近の山の遭難は低山でもけっこうあり、中身をみると、街中では転倒事故になるようなものが、山では遭難となっている。何年か前に関節変形症で人工関節を入れたので、休めばよいスタミナ切れよりも、転倒の方がはるかに怖い。ケーブルカーを降りて薬王院に行くまでは、道も舗装されており、名刹観光とかわらない。そこから高尾山頂までは、やや山道らしくなり、しばらく歩くと期待通りの絶景が見えてくる。ここから一丁平を目的にして歩くことにした。高尾山の山頂を越え、城山方面に向かうと急にひっそりとしてハイキングという感じになる。ここからは下り上りが続くが、階段状になっていて足元の危険なところはほとんどない。ただ雨の後などは、急坂は滑るのかもしれない。長い下りが続いた後、少し上ると紅葉台という見晴らしのよい箇所に来る。低山の故、全く紅葉はしていなかったが、紅葉の頃には素晴らしいだろう。その頃には、空ももっと澄んでいるに違いない。そしてそこから、一丁平まではけっこうある。昔も来たことがあるのだが、こんなに長かったかと思うくらいだ。ときどきハイカーとすれ違うのだが、もしそうでなかったら、道を間違えたかと思うかもしれない。まだかまだか…と思っているうちにようやく一丁平についた。一丁平は紅葉台と城山の間の比較的広い平地になっている箇所である。ここからさらに登ると城山であるのだが、そこから千木良までの下りはかなり急であり、千木良から相模湖までのバスの本数は少なかったのを覚えている。今はもっと少なくなっているかもしれない。城山まで行けば達成感はあるかもしれないが、景色は特によいわけではなく、結局戻るだけとなるので、ここで引き返すことにした。富士山は見えなかったが、大山や塔が岳、丹沢三峰が見えた。むかし、あのあたりを歩いたことを懐かしく思い出す。たぶんもう行くことはないと思うが。
2023年10月22日
コメント(14)
その昔、イスラエル人デュオの歌が続けてヒットしたことがあった。ナオミの夢と愛情の花咲く樹である。それぞれ別のグループだったが、愛情の花咲く樹はつい口遊みたくなるような名曲だった。そしてこの歌は各国で発売されており、ポリシーとして発売する国の国語で歌っていたとのこと…日本で発売されたものも訛りのない日本語で歌われていた。youtubeで探してみるとフランス語バージョンのものがようやくみつかった。このデュオの男性の方はその後伊藤咲子の「ひまわり娘」の作曲も手がけていたようだ。https://www.youtube.com/watch?v=yGh9uUCcOh8また、ヤエルというイスラエルの女性歌手のNEWSOULという曲がCMにも使われ人気になったのも記憶にあたらしい。Yael Naim - New Soul (Official Video) - YouTubeあと、イスラエルといって思い浮かぶのがユリゲラーだろう。検索してみると英国に在住していたが現在ではイスラエルに戻っているという。今はなにやっているのだろうかとさらに調べてみるとyoutubeで宇宙人の画像を公開して話題になっているらしい。ユリゲラーが来日した時、子供達も巻き込んで超能力ブームが起きた。ちょうどそのころの小学生の年代が後のオウム幹部の年代とも重なっていたので、この時の超能力ブームがオウム事件の遠因であるという議論まであるほどだ。幹部の中には超能力を得たいために入信したという人が何人もいたほどだ。まあ、しかし、ユリゲラーのようにスプーンを壊す能力とか、麻原のようなすこしばかり空中に浮く能力とか、そんなものが本物だったとしても、そんなに役に立つ能力だとも思えない。普通の能力、難解な数学の問題を解く能力とか何か国語を使う能力の方がずっとよい。ユリゲラーの宇宙人画像は検索するとすぐでてくるのだが、宇宙人そのものより、ユリゲラーが実年齢よりもずっと若々しいのに驚いた。齢をとらない超能力でもあるのだろうか。うらやましい…。
2023年10月21日
コメント(6)
夫が離婚調停中だった妻を殺害した事件について、20日、心神喪失状態であったとして無罪判決が出た。夫は統合失調症で妄想、幻覚の強い影響下にあったというのが、その理由だという。一方で、精神障碍者については、隔離ではなく、地域との共生という動きもあり、そうした運動をおしすすめる人々は統合失調症はありふれた病気であること、現実の統合失調症の犯罪率は一般人と変わらないことなどを主張する。たしかに統合失調症は100人の一人の割合で発症するといい、その多くはおそらくは犯罪とは無縁の人々だろう。しかし、こうした判決がでると、どうしても統合失調症の人々に対する警戒感が増幅されるのではないか。それに妄想の影響下での犯罪と言うのなら京アニ放火殺人の被告人も、明らかに「自分の小説はパクられた」という妄想により犯行を行った。この被告人も統合失調症の診断を受けている。京アニの裁判は始まったばかりなのであるが、もし、責任能力が肯定されるとしたら、妻殺害事件との違いは何なのだろうか。妻殺人は幻聴がきっかけであるが、京アニの場合は持続的な妄想が背景にあり、その妄想も自分が応募した原稿がパクられたといった荒唐無稽とはいえないようなものだからになるのだろうか。涼宮ハルヒはよく知らないが、女子中学生や女子高生がキャピキャピする日常系アニメは小ネタが命のようなところがあって、最終選考に残った作品の小ネタを使うというのは、ない…とは思うが、それをあると思っていたとしても、病的妄想とまではいえない。これに対して外に出していない小説をパクられたというなら病的である。それにしても、統合失調症が100人に一人というのは多い。そんなに幻覚や幻聴に悩まされているという人が多いのだろうか。それとも、ひきこもりで鬱々と暮らしている人が「近所の人がみんな俺のことを変だと思っている」と言えば統合失調症の診断が下るのだろうか。精神科は他の診療科のように数値や画像で判断するわけではない。統合失調症はまだしも、鬱病とか発達障害とかの病名を診断される人はけっこう多いのかもしれない。科毎の医師の数をみると、小児科や産科は減少傾向だが、精神科は増えている。
2023年10月20日
コメント(0)
大衆小説家として第一人者としての地位を築いただけでなく、ソ連の反体制作家の本を世界に紹介することにも成功した主人公。大企業会長かつ大病院理事長として辣腕を振るい、政界進出の誘いもうける才色兼備の妻。若くして事業家として頭角をあらわす息子は相思相愛の妻と幸福な家庭を築き、二人の間には才能豊かな娘もいる。普通ならここで物語は終わるのだが、大きな謎、主人公の出生の秘密についてはまだ残っている。さらに、周辺に漂う東ドイツ秘密警察の影や敵役の末路は…というようにして第8部に続く。主人公は強者であり体制側の人間で、社会通念や伝統にもどっぷりとつかっている。これはそういう小説で、批判や懐疑を期待するのはお門違いなのだろう。このあたり、ディケンズの「デビッドコパフィールド」を想起させる。目まぐるしいストーリー展開と作家として成功していく主人公の物語で、こちらも当時の階級制度や社会に対する批判はほとんどない。ただ、デビッドコパフィールドに比べても、主人公側は完璧で、その分、悪役の卑小な間抜けぶりは憎たらしさを通り越して、巻がすすむにつれ、哀れにもみえてくる。舞台は英国、米国、ソ連、東独、インドと移っていくが、こまかな情景描写や風物の説明はほとんどなく、このあたり観光案内と推理を両方楽しめる日本の社会派推理小説とは全然違う。悪党の奸計や秘密警察との駆け引きなど、ひたすら人間の行動だけで話を引っ張る作者の物語作家としての筆力はたいしたものだ。深みはないけど…とあえていうけど、こんな面白い物語が、あと一巻で終わると思うとちょっと残念に思う。
2023年10月19日
コメント(0)
刑事訴訟法には勾留期限について制限があるのだが、それとても、「新たな容疑」での再逮捕を行うことで期限を延ばすことができる。こうした否認供述や黙秘している被疑者や被告人を長期間拘留することは人質司法として批判されているが、さらに問題だと思うのは鑑定留置については期限の制限が明文化してないことである。起訴前の拘留は最大でも20日(それでも新たな容疑で再逮捕して伸ばすことがあるが)となっているが、鑑定留置となると、常識的な期限ということで裁判所の判断に任される。元総理銃撃犯の鑑定留置も何か月にも及んだが、普通に考えて精神鑑定にそれほど日数がかかるとも思えない。あの7月に起きたススキノ殺人事件であるが、両親と娘が逮捕され、いまだに鑑定留置が続いている。実行犯は娘であり、娘の場合は、たしかに責任能力の問われる精神疾患の可能性もあるかもしれないが、半年間もいったいどんな鑑定をするというのだろうか。両親は普通に社会人として生活しており、犯罪を犯したとしても責任能力が問題になるとも思えない。その犯罪の内容も、父親は凶器の準備や犯行現場への送迎を行ったというのだが、母親の加担については報道では不明である。100歩あるいは1000歩譲って父親に鑑定留置が必要だとしても、母親を半年間も鑑定留置する理由がよくわからない。そしてこうしたことが、公然と行われているのに、普段人権を口にする人々がなぜ黙っているのかも不思議である。
2023年10月18日
コメント(0)
人が小説を書きたいと思う場合、自分の夢やなりたい自分を小説の主人公に託するという心理があるのかもしれない。「クリフトン年代記」の主人公は売れっ子の小説家であるだけでなく、才色兼備の妻を持ち、冷戦下のソ連から当局を出し抜いて反体制作家の原稿を持ち出すという英雄的な人物になっている。第二次大戦ではほぼ単身で手柄をたてるという挿話もあり、とんでも設定だとも思うが、それでも読ませるのは作家の筆力だろう。そうした才能あふれる例とは180度違うのだが、京アニ放火殺人犯も小説に打ち込んでいたという。女子高生がキャピキャピしているような学園小説だというのだが、中学で不登校になり、定時制高校を出たという彼にとっては、普通の高校生活というのが憧れだったのかもしれない。小説を書いている間は、自分には得られなかった普通の高校生になっていたのかもしれない。しかし、小説を好きで書いている人は多いが、それが社会の「上りエスカレーター」になる人はごくわずかだ。京アニ放火殺人犯は、それでも、本気で小説が社会での浮上の手段になることを考えていて、それがかなわないとわかった時に、光の当たる場所で憧れの仕事についている人々への不満を爆発させたのかもしれない。自分の作品がつまらない、自分には才能がないなどということは最後まで思いたくない。アイディアを盗用されたというが、それは実際にそう思うというよりも、そういうふうに思いたかったのだろう。京アニ殺人犯は子供時代は普通に楽しい時期を過ごしていたようだ。それが両親の離婚、父親の失職、貧困、不登校と次第に人生が暗転していく。それでも若い頃には、友人関係もあり、同僚との交歓もあった。それが中年以降には次第に人とのかかわりもなくなり、唯一の希望が小説になっていたわけである。
2023年10月17日
コメント(0)
ニュースには文字通りのニュースといままでもあったものがなにかの機会にとりあげられるようになったものとがあるようだ。電車事故を契機にいくつもの電車のオーバーランがニュースになったり、ある大学の入試ミスによる入学許可を契機に連続して入試ミスがニュースになったり、エレベーター閉じ込め事故を契機にエレベーターの閉じ込めがニュースになったりするのは後者の例だ。最近、オーバーランもエレベーター閉じ込めもニュースになっていないが、こうしたものがなくなったというよりも、単にニュースに取り上げなくなっただけだろう。そして最近ではさらに第三の範疇があるように思う。今までマスコミも国民も知っていたが、タブー視してとりあげられなかったものが、なにかの拍子にそのタブーがなくなるといっせいに大報道を始めるというパターンである。ジャニーズ事務所の性加害も相当前に内部告発本がでており、知っている人もかなりいた。統一教会と政治家との関係も岸信介の頃からで、これも散発的に週刊誌などでとりあげていたように思う。ジャニーズは国連での問題視、統一教会は安倍総理銃撃事件をきっかけとして報道が噴出しているのは周知のとおりだ。タブーは横並びだからタブーなのであって、ひとたび外れると今度は「みんなで渡れば怖くない赤信号」になっていく。マスコミは権力から情報を貰い、スポンサーから広告を貰い、一般人から購読や視聴を貰うことで生きている。だから与党や有力政治家、官庁、有力企業、巨大宗教などには弱い。もしかしてマスコミの報道をみる場合には報道していることだけではなく、報道しないこと、報道されなくなっていることにも注意する必要があるのかもしれない。
2023年10月16日
コメント(12)
イベント会場へのテロに端を発したガザ地区への侵攻の可能性が国際的関心を集めている。海外の事情は視界の外になりがちであり、特に中東といえば心理的距離が遠い。あらためてニュース映像で見ると、大勢の人々がひしめきあって暮らしており、地区全体が10メートルのコンクリートの壁で囲まれている。ベルリンの壁の崩壊以来、壁というのはトランプ大統領の言うメキシコ国境の壁くらいしかイメージできなかったが、あらためて「壁」の実物を映像でみるとやはり異様な感じがする。あの「壁」を内側から眺めていれば巨大な牢獄にいるような気になるだろう。ガザ地区は種子島ほどの面積のところに200万人もの人が暮らしている。それだけの人が暮らす産業というものはないので、支援物資で生命を繋いでいる状況だという。そして、今までも度重なる爆撃攻撃も受けている。そういうところで暮らす人々、そしてそうした中で育っていく子供たちはどんなことを思うのだろうか。ここにもまた想像もできないもう一つの世界がある。地球上では人間は進化の頂点にいる高等生物だという。しかし、こうした同族殺傷が止まないのであれば、進化とか高等生物という意味を問いたくなる。
2023年10月15日
コメント(16)
新聞やテレビは将棋界八冠の話題で持ち切りである。でも、この将棋のニュースでいつも思うのだが、なんで「勝負飯」がニュースになるのだろうか。野球の選手が試合の前に何を食べたかなんて話題にもしないのに。これって、スポーツや芸能などと違って、将棋については、中味について説明してもわからない人が多いからではないか。あるノーベル賞受賞者について、研究内容よりも、授賞式でダンスをするかどうかがさんざんワイドショーのネタになったあれと同じである。まあたしかに昔も今も将棋は万人向けのゲームとはいえない。それに加えて最近の少子化やテレビゲームなどの隆盛で、将棋をゲームとして楽しむ人口というのは減っているのではないか。駒の動かし方は5分もたてば覚えるのだが、実際に打つ手の先を読んで頭脳ゲームとして楽しむのはハードルが高い。しかも、運の要素が全くといっていいくらいないので、下手でも楽しめるという余地がない。大人になって将棋を楽しんでいる人を見ると、子供の頃に将棋を覚え、しかもある程度強くなったという人に限られるように思う。閑話休題統一教会にいよいよ解散請求がでるという。しかし、サリンを撒いた教団とは違って、多額寄付という問題は統一教会だけなのかどうか。例えば、宇都宮連続爆破事件で検索すればよいのだが、これも宗教への多額寄付が背景にある事件である。これについてはマスコミは触れないようだし、これ以上は書かない。また、統一教会で宗教二世の問題がクローズアップされているのも違和感がある。新興宗教の被害で言えば、まず信者となって財産を奪われた被害者がいて、その子供と言うのは派生的な被害者だろう。安倍元総理銃撃事件でいえば、夫のDVと自殺、息子の難病とたびかさなる不幸があって、救いを求めたはずの宗教に多額の財産を奪われた女性こそが第一の被害者ではないか。他の悪徳宗教や詐欺でもそれは同じであり、統一教会についてだけ、二世の被害が強調されるのもよくわからない。ついでにいえば解散請求というのは宗教法人格をなくすというものであり、団体そのものがなくなるわけではない。団体そのものの解散は破壊活動防止法でしかできないが、まさか統一教会には無理だろう。
2023年10月13日
コメント(13)
いよいよクリフトン年代記も第5部となり、時代は本格的な冷戦時代に入っていく。主人公のハリーは、英国のペンクラブ会長として、ソ連の反体制小説家の作品を西側で出版するために英雄的な活躍をする。妻のエマも女性初の大企業会長として、会社を守る戦いとともに、宿敵ヴァージニアの名誉棄損訴訟を受けて立つ。息子のセブも、若手銀行家として活躍するが、一方では恋人との関係修復の問題をかかえている。登場人物は、一般人から見ると、皆はるかに高スペックで、特にハリーは作者(現実にも一流大学のスポーツ選手、最年少議員、ベストセラー作家という超スペック)の理想像そのままで、そうした人物に感情移入する爽快感がよい。そしてこれに対する悪役の方は、いずれも主人公に対峙するには能力が落ちるので、憎たらしさに欠けるし、むしろ一抹の哀れすら感じる。ただ悪役群の中で美女ヴァージニアはなかなかの迫力だ。それにしてもなぜ虚栄、嫉妬、弱者演技、贅沢好きといった女性らしい(偏見?)悪役は男性作家の筆によるものが多いのだろうか。三銃士のミレディ―とか里見八犬伝の船虫とか…あと、悪というのはやや躊躇するが人間の絆のミリーとか。男女の役割と言う意味では、悪役ヴァージニアは非常に保守的であるのに対し、主人公側の母や妻は才色兼備の女性として職業面でも大活躍する。優秀な男ほどパートナーとなる女性には優秀であるだけでなく、社会的な活躍も期待するということか。まあ、エンタメ小説で、文学としての深さはないのだが、時代背景とか男女観とかについてはいろいろと考えさせられる。
2023年10月12日
コメント(0)
8050問題ということがいわれる。成人しても無職で生活力のない子供が親の年金等に頼って生活していた場合、その親が高齢化して子供を扶養しきれなくなった時に起きる問題をいう。親子間の殺人事件など、こうした問題が背景にあると思われるものが多いし、川崎の事件のように親子間に留まらず、通り魔犯罪という形で暴発する場合もある。この8050という問題を考える場合、親と子という関係でみる場合が多いのだが、多くの場合にはそれにさらに兄弟がいるし、場合によっては兄弟の配偶者もいる。ネットの記事を見ていたら、一階には老母と無職の兄が住み、二階には弟とその妻子が住んでいるという例で老母の死後、母の相続財産を分けるに際して、弟は兄に金銭を渡したいと思ったのだが、兄は実家に住み続けることを要求しているという話がでてきた。二世帯住宅でなくとも、無職の子供が老親と暮らしていて、その老親の死後、相続財産の分割と実家からの立ち退きを迫られるということは増えているように思う。そうした兄弟対立を背景とした事件も起きてくるのかもしれない。また、8050というと、普通子供は一人とする場合が多いが、実際には二人以上の子供が親にぶらさがっている場合もある。その程度も、ひきこもりのような重度のものから、時々アルバイトをやるが、自立には至らないという場合もある。他に兄弟がいなければ、兄弟二人がそのまま実家に住み続ける。兄弟二人が家計を共にすれば、兄弟世帯ということになるが、こうした世帯は増えているのだろうか。もちろん小説「間宮兄弟」のように、生活力のある独身兄弟二人が実家にそのまま住み続けるようなライフスタイルなら全く問題はないのだが。住民と直接の面識はないのだが、近所に大きな家がある。立派な門構えからしてかっては相当の家だったと思うのだが、今では庭は手入れされておらず、洗濯物がときおり乱雑に干してあるだけだ。そして、夜になると、二階の離れた部屋に別々の灯がともる。成人した兄弟がそのまま親の家に住み続けているのだろう。かつてはあの庭も家も小奇麗に手入れされ、夫婦と可愛い子供達からなる絵に描いたような幸せマイホームだったのだろう。※検索をしてみると兄弟世帯が増加中という記事がみつかった。https://www.yomiuri.co.jp/column/wideangle/20211220-OYT8T50005/都会に出てきた若い兄弟が一緒に住むというライフスタイルは昔もあったが、高齢期の兄弟世帯の増加は未婚化の反映だろう。未婚の女性が既に世帯をもった兄夫婦や弟夫婦と同居するという家族形態は激減したが、別の形の兄弟同居は増えているということか。
2023年10月11日
コメント(2)
近いこともあり三浦半島にはよく行く。そしてこの三連休も三浦半島に行ってきた。ところで三浦半島には湘南国際村というところがある。場所は川崎と葉山にまたがる地域でホテルや研修施設が立ち並んでいる。ホテル横の公園からの眺望がすばらしいので、よく訪れる。稲村ケ崎が見え、半分隠れた江の島がみえ、反対側には荒崎が見え、そして向こうには富士山。こうした眺望は変わらないのに、湘南国際村は行くたびに変わっている。そもそも湘南国際村はなぜ「湘南国際村」なのかであるが、これは、1985年に策定された「湘南国際村基本構想」により、「緑陰滞在型の国際交流拠点」を理念とし、国際的視野に立脚した「学術研究」「人材育成」「技術交流」「文化交流」の四つを基本的目的とし、これらを基本的機能として集積する多目的区画地域として建設されたものだそうである。1985年といえばバブルの時期であり、ジャパンアズNO1なんて言葉もあった頃だ。本格的な国際化時代を迎えるから、東京からほど近い風光明媚な場所に国際交流の拠点を作る必要があるなんていう作文は、当時ならいくらでも書けたことだろう。国際会議などで、海外から購買力のある層がやってくれば地域のイメージアップにもなるし経済効果もあるなんて考える人もいただろう。初めて行ったときには留学生の交流事業や建築士による住宅設計の展示会があった。留学生の交流事業はたしかに国際的と言えば国際的だ。そして和洋それぞれのお高めのレストランがあり、両方とも営業していた。ところが二度目に行った時には、ホテルは閑散としている上、洋食のレストランは閉まっていた。コロナの第一波の時は感染者の宿泊施設として利用されていた。そしてこの間行った時には、洋食のレストランは予約時のみ開くこととなっており、和食レストランも閉まっていた。そしてなによりも変わったのは展望を楽しみにしている公園だ。芝生の上に雑草が繁茂しており、一部立ち入れないところもできている。歩道の踏み石も草で覆われ初め、自然に帰りつつあるようだ。ホテルだけでなく、政策研究院大学や企業の研修施設もあるのだが、付近にはコンビニがあるくらいでさしたる店などもなく、いったい学生や研修生は食事などどうやっているのだろうか。湘南国際村はおそらくは当初は鳴り物入りでスタートしたのかもしれないが、国際交流の拠点という当初期待した方向とは別に向かっているように見える。
2023年10月10日
コメント(0)
この間上った日和田山が感動的だったので、他の低山にも上ってみたくなった。そこで登ってみたのは神奈川県の権現山。最寄駅は秦野なのだが、登り口までは遠い遠い。もちろん駅からのバスはあるのだが、一時間に一本とかそのくらいで、公共交通機関だけで来ようとすると大変である。考えてみれば秦野は都内通勤もぎりぎり圏内、横浜通勤なら十分と言った街なので、山観光にさほど力を入れる理由もないのだろう。たしかに駅近くには丹沢なんとかという名のついた店はあるのだが、駅に案内地図やパンフレットがおいてあるわけでもない。そしてまた、けっこう山の斜面のようなところに広壮な一戸建てがあったりする。たしかにある時期まで、夢のマイホーム一戸建てという時代があり、住宅は郊外へ郊外へと広がっていった。都市近郊ではそうした一戸建てが空き家となっている場合が多いと聞いたことがあるが、見る限りでは、空き家はさほどめだたず、住居の多くは維持されている。ただ、県営住宅の方は活気がなく、高齢者がよろよろと歩いているのをみかけるばかりで正直限界集落化しているような印象を受けた。駅周辺の状況を観察したのは登り始めるまでに散々迷ったせいである。登り口から山頂までの行き方はいろいろあるのだが、結局は車でも通れる道を歩いた。たしかに登山道はあるのだが、細く整備もされていない。山をやっている人ならなんてこともないのだが、自分などが転んでけがをしたらつまらない。この年齢になると、山はスタミナ切れよりも転倒による怪我が怖い。自動車道にはやたらに「不法投棄禁止」の看板があり、そうしたごみを捨てる人が多いのだろう。木陰は気持ちよいというよりも陰気で、展望はなく、あまり歩いて楽しいという道でもない。ほぼ登り切ったところに、駐車場があり、多くの人はどうやら自動車で来ているようだ。そこから頂上まで険しい道があるわけではなく、この見晴らしの良い広い尾根道と緩やかな階段が続く。山の支度は全く必要ないくらいなのだが、歩いている人々はそれなりに山装備をしている人が多い。東京から誰でも行ける低山としてお薦めなのだが、自動車で来るか、公共交通機関を使う場合にはバスの時間をよく調べてから来る方がよい。
2023年10月09日
コメント(2)
毎年思うのだがノーベル賞の中で文学賞と平和賞は別の範疇にした方がよいように思う。他の分野に比べて政治的配慮や地域的配慮が入り込み、素直に、わあ凄いとは思えないところがある。ノーベル文学賞についていえば、最初の頃はトルストイやドストエフスキーも存命だったにもかかわらず、ニルスの不思議な旅の作者であるラーゲルレーブが受賞している。ニルスも傑作だとは思うけど、やはり釈然としない。そしてその文学賞と言えば毎年話題になるのが村上春樹の受賞への期待だ。もうこれはほとんど年中行事になっているし、本屋さんなどもこれで盛り上がればよいのかもしれない。しかし、こういうことをいうのは勇気がいるのだが…村上春樹の小説は、どこがよいのか正直わからない。最初に読んだのは「アンダーグラウンド」であり、当時、オウム事件に関心があったので、読んでみたが印象が散漫でドキュメンタリーとしてもさほど鋭いとも思わなかった。その後、「スプートニクの恋人」と「ノルウェイの森」を読んだ。両方とも話題になった小説であるし、作者にとっても代表作の一つといってもよいだろう。しかしながら、その両方とも正直あまり面白いとは思わなかった。なぜだと考えてみると、登場人物の心理や行動が全く理解不能なのである。こちらの読解力が鈍いせいなのか、それとも、小説の面白さの本質は感情移入や疑似体験だという感覚が古いのか。ハルキ作品の魅力についての街頭インタビューで「異世界に行ったような気になる」のが魅力だと答えていた人がいたが、なるほど、理解不能な思考行動の人物ばかりなのをもって異世界と言っているのかもしれないし、小説には、そういう楽しみ方もあるのかもしれない。正直自分としてはあまりこうしたものを読みたいとは思わない。
2023年10月07日
コメント(5)
サンクコストの呪いと言う言葉がある。いろいろな定義の仕方があるが、コストや労力をかけてきた選択については無駄にしたくないという心理がはたらき正確な判断ができない状況をいう。自分の選択が間違っていたとか、損をしたとか思いたくないという心理が背景にある。大きな例では多額の経費をかけたせいでひきかえせなくなったコンコルドの開発などがでてくるが、個人の日常的な例でも、高い金で購入したものはたとえ今それが無価値でも捨てられないとか、UFOキャッチャーで高額な金を投入したからには何か掴むまではやめられないとかいうのもサンクコストの呪いだろう。さらに、人生にかかわる問題でも、せっかく苦労して入社した会社なので退職はしたくない、せっかく今まで努力してきた目標なのでいまさらあきらめたくない、せっかく今まで尽くしてきた恋人なので別れたくないという例があるが、その「せっかく」こそがくせものである。過去は過去としていったん外に置き、冷静に現在と未来を考えるという視点が必要である。今までのコストや労力が無駄になる…ではなく、今までのものは無駄になってしまったとりかえしようもないものとみたほうがよい。登山は撤退の決断が一番難しいという。撤退とは、ここまで登って来た苦労を無にするわけなのだから、心理的な抵抗が大きい。それと同様に、ある目標に向けて努力してきたにしても、現在の状況をみて撤退するという判断は非常に難しい。それは個人のみならず組織レベルでも同様だろう。
2023年10月06日
コメント(8)
今の世の中にまん延する幻想に自己実現真理教のようなものがある。つまり万人にとって実現すべき自己があって、それに向かってあきらめなければ夢は叶うというアレである。あきらめなければ夢は叶うというのは、あたりまえで夢が叶った人しか発言しないからである。それがすべてだと思い込んだ人々が実現すべき自己を求めてむなしい努力をしている。そんな現実がけっこうあるのかもしれない。閑話休題「謡曲集」を読んでいる。謡曲は能の詞章であり、脚本のようなものなのだが、能自体は昔見て、あ、こんなものかと思った記憶しかない。謡曲を読んでも、ほとんどは似たような話で、旅の僧などが霊や精霊に出あい、最後は成仏したり夜明けとともに消えていくというストーリーである。これだけをみるとワンパターンそのものなのだが、実はストーリーの本領はそこではない。途中で霊や精霊の由来が語られる場面があり、その物語を頭において舞を眺めることに興趣があるのだろう。この間の日記でとりあげた謡曲「海士」も房前が志度寺を訪れると、母親の霊が現れ、最後は消えていくというだけの話だ。ただ語りでは、背景に非常に込みいった物語がある。それは、藤原不比等の妹は大変な美人でその評判が海を越えたために唐の高宗皇帝の后となったことに始まる。もちろん史実とは関係ない。その見返りとして唐から興福寺に三つの宝玉が渡される。そのうちの二つは無事に都に着くのだが、一つは途中で竜宮にとられてしまう。珠を取り返すために、不比等は身をやつして讃岐に至り、海女との間に子供をもうけ、その子供が房前である。そして海女がいうには、珠を手に入れたら、我が子を世継ぎにすると約束してください、と。そして不比等はそのとおりの約束をする。すると海女は竜宮に行き、珠を取って、その珠を我が身を切り裂いて肉の間に入れた。綱をひきあげたところ、海女が息絶えていたが、珠は無事に戻り、それはそのまま藤原氏の中で栄えていった藤原北家の始祖の由来となる。こうした話は舞台の所作にはでてこないが、語りでは十分に時間をとって語られる。その意味で、教養ある人士はともかく、寺社などで能をみる庶民にとっては語りの芸という側面もあったのではないか。そう思って見ると謡曲の題材の多彩は驚くほどである。寺社の縁起だけではなく、源氏物語、伊勢物語、平家物語などの日本の物語から邯鄲のような漢籍に由来するものもある。日本神話もあれば伝説もあり、それ以外の桜の精や猟師の霊のでてくる話もある。昔は退屈だと思った謡曲も読んでみると面白い。
2023年10月05日
コメント(0)
謡曲に「海士」という物語がある。宝玉を探しにきた藤原不比等と海女の間に生まれたのが藤原房前であるという伝説をもとにした演目である。房前が讃岐の志度寺を訪れて海女であった母の霊に出あうという物語で、母は房前を生んだ後、不比等が所望した宝玉を竜宮に取りに行き、自分の命を犠牲にしてそれを手に入れたという。同じ藤原不比等の娘で、後に聖武天皇の母となった藤原宮子については、母親ではなく宮子自身が海女であったという伝承もあり、梅原猛はこのテーマで著書を出していたかと思う。房前といい宮子といい、藤原不比等の周辺には、なぜか海女にまつわる伝承がある。宮子は美貌故に不比等の養女になったというが、美貌なら養女よりもむしろ妻とするだろう。想像をたくましくすれば、法律や文筆の才で世に出る以前の下級官吏であった不比等が海女を見初めた史実があったのかもしれない。謡曲の題材は勧進帳などすでに知られている話を基にしたものが多く、房前の母の話も讃岐の志度寺縁起に由来する。志度寺は625年に始まり、その後、藤原不比等が妻の墓を建立し「死度道場」と名づけられた。ここまでが史実なら、不比等の妻であり、房前の母だった人はこのあたりと縁があるのだろう。房前という地名がこのあたりに残っていること、そして房前は兄の宇合とは違って当初は嫡子の扱いをうけていなかったらしいことなども思い出される。
2023年10月04日
コメント(0)
いよいよクリフトン年代記第4部「追風に帆をあげよ」を読んだ。主人公ハリーはいまやベストセラー一位をキープするほどの大人気作家、そして才色兼備の妻は大手海運会社の会長として、ともに充実の日々を過ごしている。二人の間の息子も成人し、ケンブリッジ奨学生の資格を得たばかりでなく、若くして銀行の幹部であるだけでなく、妻の後継者としても期待されている。とにかく頭がよく機転が利き、語学の才もあって、友人との雑談でイタリア語やヘブライ語をマスターしただけでなく、日本語も2月の講習で取引先日本企業幹部の社内の雑談を聞き取るほどになる。このように、主な登場人物は皆常人よりもはるかに高スペックで、そのあたりが爽快感を持つところでもある。そんな人が実際にいるかと思うのだが、作者のアーチャー自身、学生時代はスポーツ選手で活躍した後、最年少の議員になり、一時服役したものの、ベストセラー作家として不動の地位を占めるなど、相当に凄い人である。ケインとアベルではASPと東欧移民、クリフトン年代記では英国の貴族と労働者を描きながらも、その実、能力貴族主義的な人間観が作者の本質なのだろう。労働者のクリフトン家でも、文盲で衝動的な叔父のような人間もいる反面、主人公やその母のような才能豊かな人々もいる。本作では主人公と悪役らとの対決が主な軸になるのだが、悪役側の事情が感情的なしこりだったり、逆恨みだったりしてあまり説得力がない上、だいたい知恵も策略もある主人公チームにしてやられるので、滑稽ではあるが、憎たらしさにはかける。このあたりは、小説の欠点というよりも、そういうタイプの小説だと思って読むほうがよいだろう。本書では息子が結婚を考える女性と言うのも登場するが、これまた才色兼備の女性となっている。
2023年10月03日
コメント(0)
彼岸花の名所の巾着田に行ってきた。自然にできたヒガンバナの群生地で、ひっそりした高麗駅もこの季節だけは大層なにぎわいとなる。川沿いからすでにヒガンバナの帯なのだが、しばらく歩くと巾着田公園の入り口となる。何年か前に行ったときには入場料はなかったのだが、入場料500円を払って公園を歩くとそこはヒガンバナの絨毯のようだ。ベンチはほとんどないので、ゆっくり散策するスタイルだが、中央にはイベント広場があり、そこでは売店や大道芸をやっている。そこで休んだ後にまた散策するという人も多い。大道芸はちょうど猿回しをやっていて、まるで人語を解しているような(本当に分かっているのかもしれないが)猿が最後には高馬の芸までもやってみせた。「投げ銭を回すと急に帰っちゃう人もいるのですが…」という最後の口上に皆々爆笑。でもやはりこれだけの芸をただというのは、人にも猿にも申し訳ないと思う人が多いせいか、退散する人はあまりいなかった。それにしても、他の花に比べると彼岸花は毎年同じような時期に咲く。今年は猛暑で遅れたとも言われるが、それでも桜などが非常に早く咲いたのに比べるとずれかたが少ない。ちょうど日の長い季節から日の短い季節に移る頃に決まって咲くのが、不思議である。巾着田だけでなく、高麗全域にわたってヒガンバナの花が目立つ。群生のヒガンバナも見事だが、道端や畑の隅に咲いているヒガンバナもよい。巾着田を見た後は聖天院や高麗神社を参拝するつもりだったが、途中で日和田山登山口と言うのをみつけ、急遽登ってみることにした。特に山歩き用の準備もしていなかったので、歩けそうもなければ引き返すつもりだったのだが、急な個所が二か所あるくらいで、なんとか頂上まで行けた。もっとも頂上は大きな岩になっており、そこだけはさすがにパスしたのだが。低山とは思えない見晴らしで、左手には丹沢の大山の三角の山容が目を引くし、その隣の低山は湘南平だろうか(自信はないが)。そして目を凝らすと、地平線の上に櫛の歯のような高層ビル群が見える。ところでネットで見てみると、この日和田山でも遭難事故があったという。最近は山の高低と無関係に遭難する場合があるのだが、背景にはやはり高齢化があるように思う。街では単なる転倒ですむものが、山では重大事態になるし、もちろん山道では転倒もしやすい。急な個所では必死に手すりをつかんで登ったり下りたりしたのだが、帰りの電車を降りたあたりから、手首が急に痛くなった。昔はこんなことってまずなかったのに。かつて、東京近郊の山を歩くのが最高の楽しみだったのだが、やはり同じような山歩きは無理のようなのが悲しい。さしてお金もかけずに非日常と達成感を感じることができる近郊山歩きは最高なのだけれどね。
2023年10月02日
コメント(2)
最近、壱岐、対馬といった離島観光をした人から聞いた話である。対馬はまだ人がいたのだが、壱岐は本当に過疎地だったという。それもよく考えてみると対馬には韓国からの観光客が多く、それにより生活している人もいるが、壱岐はそうしたものがないので、その違いではないか。それでは、対馬の韓国人観光客はどういう人々かというと、けっこう女性の買い物客が多かったという。買い物の目的は日本製の化粧品などで、新宿の大久保あたりでは日本人が韓国製の化粧品を買っているのを考えると変な気もするが、外国のものはよく見えるのかもしれない。そうした需要があるということは、大きな店もなりたつわけで、このあたりも小商店すらもなりたたないような離島過疎地とは状況が異なる。対馬が20億円と引き換えでの核のゴミ引き受けを拒否したというニュースがあったが、これも遠い将来の安全を考えてということだけでなく、観光業への風評被害を危惧したもののように思う。こうした国境の離島については、土地を外国人が買っている、国境の島に外国人が押し寄せていると警鐘をならす向きもあるが、現実には外国人観光客のインバウンド需要がなければなりたたない。壱岐も対馬も古事記の国生み神話にでてくるし、魏志倭人伝でもなじみが深い。そのくらい歴史の古い島であるが、今でも本土との交通は便利とは言えない。古代人が舟で行き来するとしたら命がけでもあっただろう。魏志倭人伝の記述から邪馬台国の場所を推測する議論はいまでもさかんなのだが、中国の使者が鏡を渡すためだけにわざわざ舟に同乗したとも思えない。あの陸行何日という記述は伝聞なのではないか。国生み神話では対馬はサデヨリヒメ、壱岐はアメノヒトツハシラという名がついている。天の一つ柱というのは意味ありげで、古事記がいろいろな神話を総合したものであることを思うと、壱岐にもっと重要な意味をもたせていた古代氏族がいたのかもしれない。
2023年10月01日
コメント(0)
知合いに絵を描いている人がいて、展覧会の案内をときおり送って来る。訪れたこともあるが、皆相当の技量だ。なかには部屋に飾っておきたい風景画もあり、手が届く値段なら買いたいように思う。こうした絵を一枚書くのも相当の労力と時間がかかっていることは容易に想像がつく。そうだとしたら、たとえこの展覧会で素晴らしい絵を展示している人にしてみても、絵だけで生活するなどということは、かなり難しいだろう。毎回依頼主の気に入るような絵を、頼まれた期日内に仕上げるというのと、趣味で描きたいものを描いているというのでは全く別の話なのだから。その人は、職業生活は不本意でさほど出世もできなかったが、定年後は絵を生きがいにしているという。彼が、職業生活についてぶつくさいうのを聞くたびに思う。まあ、口には出さないけれども、貴方が今こうして心置きなく絵を書いていられるのも、とにもかくにも我満を重ね、不本意な仕事を大過なくやりおえたからではないのか…と。貴方の絵はたしかに上手いけれども、失礼ながら、大金を払って何枚も買いたいとは思わない。絵で身を立てるというのは、単に上手いというのとは別次元の話だ。日本永大蔵の挿話を思い出す。江戸の市域に入る高輪大木戸の外には大勢の野宿者がいた。その中の一人に上方の大店の息子がいたが、彼は剣術、学問、芸事となにをやっても良くできたので、江戸にいけばなんとかなると思っていた。ところがどれも生徒としては優秀であったが、それで生活するレベルには達していなかった。いまさら上方に帰ることもできず野宿をしているという。そんなものだろう。以前見た米国のアニメに母親が息子をたしなめるこんなセリフもあった。「あんたが自分では得意と思うものでも、世の中にはそれがあんたよりもできるという人がごまんといるのよね」と。もちろんどんな分野でも才能のある人は羨ましい。けれども、それを業とし人生の柱とするのは、やはりそれ相応の厳しさがある。そういう意味で才能はなくとも、趣味で好きなことをやっているというのも、また別の贅沢なのかもしれない。
2023年09月30日
コメント(6)
2022年の観光バスの事故について27歳元運転手に禁固2年6月の実刑判決が下ったという。この運転手の過失度合いの軽重については専門的な知見をもとに見当がなされたのだろうけど、元運転手のこれからの長い人生には、実刑判決は影をおとすことだろう。運転手については人員不足がいわれているが、こうした裁判が報道されることによって、若い人の中には運転手となることを躊躇する人がでてくるだろう。判決では、多くの乗客を預かるバス運転手の責任の重さが指摘されたが、それではバス運転手の待遇はそれに見合うものなのだろうか。※東京にも「こうのとりのゆりかご」が開設されるという。こうした施設は大都市ほど必要であり、遅きにしっしたくらいだと思う。これにより、幾人かの赤ん坊の生命が守られるとともに、幾人かの母親が犯罪者となることも防ぐことができるのではないか。ただ欲をいえば、出産よりも前に望まない妊娠をした女性がかけこめるような機関も必要ではないかと思う。中絶可能期間は未熟児として育たない期間とリンクしており、未熟児医療の発達とともにどんどん短くなっている。本来未熟児医療と女性保護は趣旨が違うことを考えればそれも問題なのかもしれないが、誰にも相談できないうちに中絶可能期間を過ぎてしまうこともあるだろう。赤ん坊だけでなく、望まない妊娠をした、あるいはしたかもしれない女性が家族にも知られずに相談し、対策をとれる体制が必要なのだが、こうしたものはなぜか遅々としてすすまないのが不思議である。※袴田事件の再審開始日程がようやくきまった。いまさら延々と時間をかけるものとも思えず、速やかに手続きを進めるべきであろう。ところで冤罪事件の中には、現実に行われた犯罪について別人を犯人としたものもあれば、そもそも犯罪とすべきでないものを犯罪としたものもある。前者は普通の誤りであるが、後者は国策捜査の匂いもあり、それはそれで問題である。あるメーカーが軍事技術に転用できる機械を輸出したとして社長らが起訴勾留(その後起訴取り消し)された事件など、なぜかあまり報道されないように思う。
2023年09月29日
コメント(8)
全7006件 (7006件中 151-200件目)