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昨日、飲み会があり、日にちが変わったらアップしようと思っていたのですが、飲みすぎて寝てしまい、今朝のアップになってしまいました。申し訳ございませんでした。 風呂吹を食ひに浮世へ百年目(明治29) この句は「明月上人百回忌」に際して送ったものです。明月上人は、享保12年(1727)、山口の願行寺に生まれ、幼少の頃に松山の円光寺に入りました。明月は京都、江戸に遊学して服部南郭、宇野明霞などについて学門を学びます。書は泉州堺の食野南山人に学び、越後の良寛に比して、伊予の明月と讃えられました。明月は、寛政9年(1797)7月23日に、79歳で没しています。 円光寺の住職をつとめていた時、唐風の山門を作りますが、その門が奇抜に過ぎたため、藩から閉門を命ぜられます。しかし、明月は平気で自由に町を歩き回りました。夜はお役人も用がござるまいと、昼間から提燈をともして平然としていたといいます。円光寺の門は、いつしか町の人から「円光寺の門で、いなげなもん」と呼ばれ、変わったものを指すときの慣用句になったのでした。 子規はこの年、「風呂吹を食ひに浮世へ百年目」とともに、「故郷の大根うまき亥子哉」、大阪の石井露月の手紙に「此頃は蕪引くらん天王寺」と詠んでいます。 円光寺の風呂吹きとは「大根を蒸して味噌を塗って食べる」風呂吹大根のことで、12月の親鸞聖人をしのぶ法要・報恩講の際に、「風呂吹き大根」が今も振る舞割れます。集まった人たちは、熱々の大根をハフハフと頰張ります。翌年の明治30年から、年末には蕪村忌が催されるようになりますが、円光寺の大根の風呂吹きが、蕪村忌での蕪の風呂吹きに、何らかのヒントを与えたのかもしれません。 秋行くや大根二股にわれそめて(明治26) 練馬道大根引くべき日和哉(明治26) 風呂吹にすべく大根の大なる(明治29) 大根引く畑にそふて吟行す(明治31) 両岸に大根洗ふ流れ哉(明治31) こほろぎや翌の大根を刻む音(明治33) 京都鳴滝の了徳寺や千本釈迦堂、鈴虫寺(華厳寺)などでは、大根を炊いて健康を祈ります。12月8日はお釈迦様が母体樹の下で悟りを開いた日といわれ、この日に大根を食べると中風にかからないといわれます。了徳寺は、親鸞聖人ゆかりの寺で、鳴滝の地にやってきた商人が教えを説いた際、感動した里人が大根を炊いてもてなしたのが始まりとされています。了徳寺は、円光寺と異なり、油揚げと炊き込んだ「大根だき」で、厄除けと中風除けの願いを込めて食べられます。
2018.01.31
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その日の夕方、与次郎は三四郎を拉(らっ)して、四丁目から電車に乗って、新橋へ行って、新橋からまた引き返して、日本橋へ来て、そこで降りて、「どうだ」と聞いた。 次に大通りから細い横町へ曲がって、平の家という看板のある料理屋へ上がって、晩飯を食って酒を飲んだ。そこの下女はみんな京都弁を使う。はなはだ纏綿(てんめん)している。表へ出た与次郎は赤い顔をして、また「どうだ」と聞いた。(三四郎 3) 『三四郎』に登場する「平野屋」という料理店は、日比谷に実在していました。 大正14(1925)年刊行の奥田優曇華著『食行脚 東京の巻』には「明治五年、京橋上槇町に開業し、同十五年、現在の場所に移転した、平野屋支店は、京都の本店と同じく、古来よりの名物料理、一人前五十銭のえび薯と鱈の煮合、一名「薯棒鱈」とあんかけ豆腐を得意としている外、一人前七十銭内外の、季節向「松葺土瓶蒸し」は、さすがに元祖だけあって、他のそれに比べ竿頭一歩を進めている」とあり、大正12(1923)年の関東大震災の後でも「焼け跡のバラック建六畳、十二畳の衝立仕切りの追込座敷と、約八坪の食堂」で営業を続けていました。 しかし、昭和6(1931)年刊行の松崎天民著『東京食べある記』には「日比谷に出て居た京都の『平野家』は、不幸にして東京人の味覚に追われて、退転してしまった」とあり、昭和時代に入って間もなく、平野屋は店をたたんでしまったようです。 武田勝彦著『漱石の東京』には次のように書かれています。 三四郎は与次郎に連れられて、日本橋で下車した。当時の日本橋の停留所は橋よりは百メートル以上手前で、森村銀行の少し北にあった。ほぽ東洋ビルの前ぐらいになる。現在、日本橋と呼んでいる交差点や地下鉄銀座線と東西線の日本橋あたりは注目される場所ではなかった。西の大手町方面から東に向かって走る電車道が完成されていなかったので、目抜き通りになっていなかった。停留所とおぼしきものはなに一つなかった。呉服橋と茅場町の聞の電車開通は明治四十三年五月四日であり、大手町と呉服橋の間の電車開通は大正元年十二月二十八日である。 この停留所で下車すると、与次郎は「大通から細い横町へ曲って、平の家という看板のある料理屋」に三四郎を案内し、夕飯を取り、酒を呑んだ。この「平の家」は後に正式の「平野家」と表記されている。本店は麹町区有楽町一丁目三番地にあり、本田徳次郎が経営していた。日比谷公園の宮城寄りで、濠端通りに面する角地にあった。京都料理の専門店であった。この場所は現在では晴海通りの道路の一部と朝日生命日比谷ビルの一部になっている。漱石の頃は桜田門から来た電車が真直ぐ晴海通りを走るようになっていなかった。銀座四丁目尾張町へ向かう電車は現在の道でいうと、日比谷通りを帝国ホテルの方に折れ、それから再び曲って有楽町停車場の方へ向かった。 支店は日本橋区上槇町二番地にあった。上槇町は江戸時代から整然と区画されていたが、二番地だけは露地があって雰閤気も違っていた。現在の目標は外堀通りの新槇町ビルと八重洲口会館の間の小道を中央通りに向かって中ほどまで来たあたりで、日本橋三丁目の八番か三番のいずれかの一隅だ。明治時代には上槇町が道を隔てて面していた桧物町、その隣りの数寄屋町、元大工町、さらに日本橋川を渡った品川町、駿河町には芸者屋があった。この地域の芸者は日本橋芸者と呼ばれていた。浜町や新橋のように格式張らず河岸の旦那や商店の手代などが安直に遊んだ。与次郎が三四郎を連れ込むには手軽な場所であった。 武田勝彦氏が著書で平野屋の経営者として、本田徳次郎の名前を出しているのは、『食道楽』で知られる村井弦斎が編集していた雑誌『婦人世界』の臨時増刊「食物かがみ」に、「京都料理の特色…………平野屋主人 本田徳次郎」の執筆かあったためではないかと考えています。残念ながら、私は地方に住んでいますので、上京した時には大宅文庫によって、コピーをとってもらい、もう少し研究してみようと思っています。 ただ、この「平の屋」を調べるのは、少し大変でした。というのは、浅草田甫に「平野亭」という鈴木源蔵経営の牛鍋屋があり、『東京百事便』に牛肉店「平野」として「淺草千束村吉原に出づる道にあり。人呼て、田圃の牛屋という。近来普請も出来上がり、離座敷もありて清潔なり。また庭の手入方もよく届き至れり。この家は吉原通いの一杯傾けむ来る者殊に多し。西洋料理も望み次第調理すべき」という記述があったので、こちらかと勘違いしそうになりました。 奥田優曇華著『食行脚 東京の巻』にある京都の「平野屋」の支店だとすれば「そこの下女はみんな京都弁を使う」という記述もうなづけます。 私は、学生時代を京都で過ごしたのですが、円山公園にある「平野屋」へは、行かずじまいでした。若かったので、海老芋と棒鱈の煮付けに魅力を見出せず、料理屋の弁当巡りに精を出していました。今になってみれば、「いも棒」の滋味を楽しんでいたらよかったのにと、少しばかり後悔しています。 平野屋(日比谷)[京都料理] 平安の遷都に、旧都奈良から、御入洛あらせられた久邇宮家では、宮侍平野権太夫に令旨を給い、洛東円山の地を選んで、えび薯(いも)とお多福豆を、つくらしめられたが、何れも能く地味に適して、成育がすこぶるよかった。えび薯は食べて甘(おい)しく、煮た後に固くならぬので賞用されている、後世に至り鎌倉、その他で研究的に試作されたこともあるが、結局、平野屋家伝の栽培法に依る、円山産のような優秀なものはできなかった、宮内省御用達を蒙り宮中の女官には、特に愛好せられている。 明治五年、京橋上槇町に開業し、同十五年、現在の場所に移転した、平野屋支店は、京都の本店と同じく、古来よりの名物料理、一人前五十銭のえび薯と鱈の煮合、一名「薯棒鱈」とあんかけ豆腐を得意としている外、一人前七十銭内外の、季節向「松葺土瓶蒸し」は、さすがに元祖だけあって、他のそれに比べ竿頭一歩を進めている。 今後の区画整理完了までは、焼け跡のバラック建六畳、十二畳の衝立仕切りの追込座敷と、約八坪の食堂で押し通すらしい。醤油と砂糖に重きを置いて味を付ける、小笠原流の濃厚な東京料理に、食い飽きた人は、肴や野菜その物の味を主として、味付けをする生駒流の、淡泊な京都料理を味うべく、薯棒鱈可なり、あんかけ豆腐もよし、刺身、甘煮、お椀、新香附御飯一人前一円の定食また可なり、試みに箸を取るのも興を催すであろう。(奥田優曇華 食行脚 東京の巻)
2018.01.30
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節分や親子の年の近うなる(明治25) 節分やよむたびちがふ豆の數(明治25) 二軒家のあるじを問へば厄拂(明治26) 近年、節分の夜には、太巻きを無言でかじる「恵方巻き」が広く行われています。2018年の恵方は「南南東やや右」。もともとは大阪で「丸かぶり寿司」と呼ばれていましたが、平成10年にセブン・イレブンがキャンペーンを開始すると、一躍、全国的にブームになりました。 もともと節分は、立春、立夏、立秋、立冬の前日に季節の節目を祝う日で、季節の始まりを意味していました。それが春だけ残り、「節分」となったのです。大晦日に宮中で行なわれていた「追儺(ついな)」や「鬼やらい」の儀式が残ったものです。鬼は、季節の変わり目に出てくるといわれ、それを鎮めるために、疫病や悪鬼の退散を願います。金色の目が4つある面をかぶった方相氏(ほうそうし)が鬼を追い、役人たちが弓や太鼓で宮中をめぐります。それが、9世紀頃になると、方相氏は鬼となって追われる側に回ってしまいました。 鬼は、厄災を擬人化したもので、死人の魂である「隠(おぬ)」が変化したものです。角を生やし、虎の皮のパンツをはいているのには理由があり、角は丑の方角、虎のパンツは寅の方角をあらわし、鬼門である丑寅を意味しています。 豆まきの始まりは、9世紀の宇多天皇の御代、鞍馬山から降りてきた鬼を炒った豆を投げて鬼の目をつぶしたという故事から、鬼の目を打つため「魔目(まめ)」を使い、魔を滅する「魔滅(まめ)」といったと伝えられています。 大豆を撒くのは鬼を追い払うのではなく、神への供物の意味もありました。豆などの穀物は植えると芽が出ることから、生命を宿していると考えられ、死の象徴である鬼を、生命の象徴の豆で退治するのです。もともとは、家長である父親か、年男が豆をまきました。そして年の数だけの豆を食べて、鬼に負けない生命力を体に取り入れるのです。 豆まきにお相撲さんが招かれるのも、もともと相撲は神事で、四股は魔を踏みつけ、魔を払う行事であったことを示しています。ほうろくで豆を炒るときにトベラの葉を入れ、バリバリという音で魔が逃げるのだといいます。 節分にヒイラギとイワシの頭を飾るのは、鬼はトゲのある植物を嫌います。唐草も魔除けであり、オニグイ(タワラギ)の木にトベラの葉を刺すのも、鬼がいやがるトゲを集めようという目論見があるのです。また、鬼はイワシの生臭さを嫌うので、鰯の頭やメザシを玄関に飾ります。こうして見ると、鬼には嫌いなものが多いようです。 節分の夜には、厄落としの行事が行われました。正岡子規は『墨汁一滴』で「この夜には四辻にきたない褌、炮烙、火吹き竹などを捨てる。褌(女性は腰巻き)は身に付いた厄、炮烙は頭痛平癒、火吹き竹はおこりの予防」の意味があったと書いています。 節分に豆を撒くは今もする人あれどそれすら大方はすたれたり。ましてそのほかの事はいうもおろかなり。我郷里(伊予)にて幼き時に見覚えたる様はなおおかしき事多かり。その日になれば男女の乞食ども、女はお多福の面を被り、男は顔手足総て真赤に塗り額に縄の角を結び手には竹のささらを持ちて鬼にいでたちたり。お多福先ず屋敷の門の内に入り、手に持てる升の豆を撒くまねしながら、御繁昌様には福は内鬼は外、という。この時鬼は門外にありてささらにて地を打ち、鬼にもくれねば這入ろうか、と叫ぶ。そのいでたちの異様なるに、その声さえ荒々しければ子供心にひたすら恐ろしく、もし門の内に這入り来なばいかがはせんと思い惑えりし事今も記憶に残れり。鬼外にありてかくおびやかす時、お多福内より、福が一しょにもろてやろ、という。かくして彼らは餅、米、銭など貰い歩行くなり。やがてその日も夕になれば、主人は肩衣を掛け豆の入りたる升を持ち、先ず恵方に向きて豆を撒き、福は内鬼は外と呼ぶ。それより四方に向い豆を撒き、福は内を呼ぶ。これと同時に厨にては田楽を焼きそむ。味噌の臭に鬼は逃ぐとぞいうなる。撒きたる豆はそを蒲団の下に敷きて寐れば腫物出ずとて必ず拾う事なり。豆を家族の年の数ほど紙に包みてそれを厄払にやるはいづこも同じ事ならん。たらの木に鰯の頭さしたるを戸口々々に挿むが多けれど、柊ばかりさしたるもなきにあらず。それも今はた行はるるやいかに。(墨汁一滴 2月4日) 節分には、なおさまざまの事あり。我昔の家に近かりし処に禅宗寺ありけるが、星を祭るとて燭あまたともし、大般若の転読とかをなす。本堂の檐(のき)の下には板を掲げて、白星黒星半黒星などを画き、各人来年の吉凶を示す。我も立ち寄りて珍しげに見るを常とす。一人の幼き友が我は白星なり、とて喜べば他の一人が、白星は善過ぎてかえって悪きなり、半黒こそよけれ、などいう。我もそを聞きて半黒を善きもののように思いし事あり。またこの夜、四辻にきたなき犢鼻褌(ふんどし)、炮烙(ほうろく)、火吹竹など捨つるもあり。犢鼻褌の類を捨つるは厄年の男女その厄を脱ぎ落すの意とかや。それも手に持ち、袂に入れなどして往きたるは効なし、腰につけたるままにて往き、懐より手を入れて解き落すものぞ、などいうも聞きぬ。炮烙を捨つるは頭痛を直す呪(まじない)、火吹竹は瘧(おこり)の呪とかいえどたしかならず。 四十二の古ふんどしや厄落し(墨汁一滴 2月6日)
2018.01.29
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漱石の作品『それから』『門』『こころ』『行人』には、三角関係の恋愛とその果てが繰り返し扱われています。『それから』は、親友の妻・三千代に対する思慕の念が断ち切れない主人公・代助が、高等遊民の立場を捨て、三千代との生活を選ぶことを選択します。姦通罪に問われるかもしれない行為に加え、生活を考えなければならない立場に身を置いた代助のこれからを暗示して小説は終わります。『門』は『それから』の続編ともいうべき作品で、友人からの略奪愛の罪悪感に苛まれている宗助夫妻の日常と、友人が訪ねてくるという不安、そしてささやかな幸せを描いています。『こころ』には、親友を裏切って恋人を得、そのために友人を死に追いやった罪悪感に苛まれた先生を描き、先生は全てを告白して自殺してしまいます。『行人』は、妻への不安から、種進行・一郎は妻の貞操を試すために妻と弟・二郎との旅行を持ちかけます。しかし、そのことで主人公の心は傷つき、さらに苦悩が増していきます。 こうした三角関係というモチーフが作品で繰り返されるため、研究家は漱石自身に強烈な恋愛体験かあったのではないかと勘ぐっています。 研究家が挙げるのは、『行人』の筋書きから兄の夏目和三郎直矩の妻である登世、『それから』『門』『こころ』から親友・大塚保治の妻・大塚楠緒子です。 登世との恋愛を示唆する研究家の代表が江藤淳です。 江藤は『漱石とその時代』の「登世という嫂」という章で、漱石が8月3日の子規宛の手紙で「不幸と申し候は、余の儀にあらず。小生嫂(あによめ)の死亡に御座候。実は去る四月中より懐妊の気味にて悪阻と申す病気にかかり、とかく打ち勝れず漸次重症に陥り、子は闇から闇へ、母は浮世の夢二十五年を見残して冥土へまかり越し申候。天寿は天命死生は定業とは申しながら洵に洵に口惜しき事致候」と書いたことを紹介しています。江藤は「恋をしていたとすれは彼はうたがいもなく死んだ嫂に恋をしていたのである(漱石とその時代)」と断じています。 一方、大塚楠緒子は、『それから』『門』『こころ』の楠緒子に対する熱い思いと三角関係の苦しさ、親友に対する罪の意識という設定から、漱石が楠緒子に愛情を抱いていたと推測されています。 もともと、楠緒子は裁判官の娘として生を受け、東京女子師範付属女学校(現お茶の水女子大)を首席で卒業、婿養子を探している時に、保治とともに漱石も婿候補に挙がっていたといいます。この時に、何があったかはわかりませんが、楠緒子は、のちに小説家として注目されるようになります。 漱石は「星ケ岡茶寮で(大塚家の)結婚披露宴かあって招待された時、夏目の兄さんの仙台平の袴を借りて行ったこと、それからあれは俺の理想の美人だよなどといういらぬことまで付け加えて話し(夏目鏡子 漱石の思い出)」たと言います。また、漱石も『硝子戸の中』で、「日蔭町の寄席の前まで来た私は、突然一台の幌俥(ほろぐるま)に出合った。私と俥の間には何の隔りもなかったので、私は遠くからその中に乗っている人の女だという事に気がついた。まだセルロイドの窓などのできない時分だから、車上の人は遠くからその白い顔を私に見せていたのである。私の眼にはその白い顔が大変美しく映った。私は雨の中を歩きながらじっとその人の姿に見惚れていた。同時にこれは芸者だろうという推察が、ほとんど事実のように、私の心に働らきかけた。すると俥が私の一間ばかり前へ来た時、突然私の見ていた美しい人が、鄭寧(ていねい)な会釈を私にして通り過ぎた。私は微笑に伴なうその挨拶とともに、相手が、大塚楠緒さんであった事に、始めて気がついた」とあり、その美しさに心惹かれていたことがわかります。 ただ、こうした人物以外にも、謎の女性がいます。明治24年7月17日に子規に宛てた手紙で「ああそうそう、昨日眼医者へいった所が、いつか君に話した可愛らしい女の子を見たね、ーー〔銀〕杏返しに竹なわをかけてーー天気予報なしの突然の邂逅だから、ひやっと驚いて思わず顔に紅葉を散らしたね。丸で夕日に映ずる嵐山の大火の如し」と報告しています。また、妻の鏡子も「その寺から、トラホームをやんでいて、毎日のように駿河台の井上眼科にかよっていたそうです。すると始終そこの待合で落ちあう美しい若い女の方がありました。背のすらっとした細面の美しい女でーーそういうふうの女が好木だとはいつも口癖に申しておりましたーーそのひとが見るからに気立てが優しくて、そうしてしんから深切でして、見ず知らずの不案内なお婆さんなんかが入って来ますと、手を引いて診察室へ連れて行ったり、いろんなめんどうを見てあげるというふうで、そばで見ていてもほんとに気持ちがよかったと後でも申していたくらいでした。(夏目鏡子 漱石の思い出)」とあります。 漱石の亡くなる4、5年前、漱石はこの女性と会っています。鏡子は「たしか亡くなる四、五年前のこと、高浜虚子さんに誘われて九段にお能を観にまいりますと、その昔の女が来ていたそうです。二十年ぶりに偶然顔を見たわけですが、帰ってまいりましてから、『今日会って来たよ』とそのことを私に話しますので、『どんなでした』とたずねますと、『あまり変わっていなかった』と申しまして、それから、『こんなことを俺が言ってるのを亭主が聞いたら、いやな気がするだろうな』と穏やかに笑っておりました。(夏目鏡子 漱石の思い出)」と語っています。 この女性は、年を経て、どのようになっていたのでしょうか。 七月十八日(土)正岡子規松山市湊町四丁目十六番戸正岡常規宛「真言秘密封じ文」牛込区喜久井町一番地より 去る十六日発の手紙と出違に貴翰到着。早速拝誦、仕候人をけなす事の好きな君にほめられて大に面目に存候。鳴呼持つべき者は友達なり。 愚兄得々賢弟黙々の一語、御叱りにあずかり恐縮の至り。以来は慎みます。 御帰省後、御病気よろしからざるおもむき、まことに御気の毒の至に存候。左様の御容体にては強いて在学被遊候。とても詮なき事、御老母のみかは小生迄も心配に御座候得ば、貴意の如く撰科にでも御辛抱相成る方、可然人爵は固より虚栄学士にならなければ飯が食えぬと申す次第にも有之間じく候得ば、命大切と気楽に御修業可然と存候。それに就ても学資上の御困難はさこそと御推察申上候という迄にて、別段名案も無之、いくら僕が器械の亀の子を発明する才あるも、開いた口へ牡丹餅を抛りこむ事を知って居るとも、こればかりはどうも方がつきませんな。それも僕が女に生れていれば一寸青楼へ身を沈めて君の学資を助るという様な乙な事が出来るのだけれど……。それもこの面ではむづかしい。 試験廃止論貴察の通り、泣き寝入りの体裁やった所が到底成功の見込なしと観破したね。 ええと、もう何か書く事はないかしら、ああそうそう、昨日眼医者へいった所が、いつか君に話した可愛らしい女の子を見たね、ーー〔銀〕杏返しに竹なわをかけてーー天気予報なしの突然の邂逅だから、ひやっと驚いて思わず顔に紅葉を散らしたね。丸で夕日に映ずる嵐山の大火の如し。その代り君が羨ましがった海気屋で買った蝙蝠傘をとられた、それ故今日は炎天を冒してこれから行く。 七月十八日 凸凹 物草次郎殿(明治24年7月17日 子規宛て書簡) 当時夏目の家は牛込の喜久井町にありましたが、家が流祭とかで、小石川の伝通院付近の法蔵院という寺に間借りをしていたそうです。たぶん大学を出た年だったでしょう。その寺から、トラホームをやんでいて、毎日のように駿河台の井上眼科にかよっていたそうです。すると始終そこの待合で落ちあう美しい若い女の方がありました。背のすらっとした細面の美しい女でーーそういうふうの女が好木だとはいつも口癖に申しておりましたーーそのひとが見るからに気立てが優しくて、そうしてしんから深切でして、見ず知らずの不案内なお婆さんなんかが入って来ますと、手を引いて診察室へ連れて行ったり、いろんなめんどうを見てあげるというふうで、そばで見ていてもほんとに気持ちがよかったと後でも申していたくらいでした。いずれ大学を出て、当時は珍しい学士のことですから、縁談なんぞもちらほらあったことでしょう。そんなことからあの女ならもらってもいいと、こう思いつめて独りぎめをしていたものと見えます。 ところがそのひとの母というのが芸者あがりの性悪の見栄坊で、ーーどうしてそれわかったのか、そのところは私にはわかりませんがーー始終お寺の尼さんなどを回し者に使って一挙一動をさぐらせた上で、娘をやるのはいいが、そんなに欲しいんなら、頭を下げてもらいに来るがいいというふうに言わせます。そこで夏目も、俺も男だ、そうのしかかって来るのなら、こっちも意地ずくで頭を下げてまで呉れとは言わぬといったとあんばいで、それで一思いに東京がいやになって松山へ行く気になったのだとも言われております。当時にしてみればパリパリの学士で、大学でも評判のよかったという人が、何も苦しんで松山くんだりまで中学教師として都落ちをしなければならないわけはなかったらしいのです。いずれ何か理由があったか、深い考えがあったことと想像されないことはありますまい。ともかく松山へ行ってもまだその母親が執念深く回し者をやって、あとを追っかけさしたと自分では信じていたようです。(夏目鏡子 漱石の思い出 1松山行) たしか亡くなる四、五年前のこと、高浜虚子さんに誘われて九段にお能を観にまいりますと、その昔の女が来ていたそうです。二十年ぶりに偶然顔を見たわけですが、帰ってまいりましてから、 「今日会って来たよ」とそのことを私に話しますので、 「どんなでした」とたずねますと、 「あまり変わっていなかった」と申しまして、それから、 「こんなことを俺が言ってるのを亭主が聞いたら、いやな気がするだろうな」と穏やかに笑っておりました。私にはこの話は、実在のようでもあり架空のようでもあって、まことにつかまえどころのない妙な話に響くのですが、兄さんはその女の名前を御存知のはずです。(夏目鏡子 漱石の思い出 1松山行)
2018.01.28
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子規と漱石の交際の間には、二人の仲が険悪になったこともありました。 明治24(1891)年11月のことです。 子規の手紙は現存していないのですが、読売新聞に掲載されていた『明治豪傑譚』が単行本になった際、子規はこの第一巻に、自分の考えを記した「気節論」を加えて漱石の元に送ったのでした。 この時期の漱石は、江藤淳が『漱石とその時代』で漱石の恋愛感情があったとする、兄・和三郎の嫁・登世をこの年の7月28日に亡くし、心の傷が癒えていない頃でした。 漱石は8月3日の子規宛の手紙で「不幸と申し候は、余の儀にあらず。小生嫂(あによめ)の死亡に御座候。実は去る四月中より懐妊の気味にて悪阻と申す病気にかかり、とかく打ち勝れず漸次重症に陥り、子は闇から闇へ、母は浮世の夢二十五年を見残して冥土へまかり越し申候。天寿は天命死生は定業とは申しながら洵に洵に口惜しき事致候」と書き、「朝貌や咲た許りの命哉」「人生を廿五年に縮めけり」「君逝きて浮世に花はなかりけり」「何事ぞ手向けし花に狂ふ蝶」の句を送っています。 心が塞いでいた漱石は、この論に対して怒り、長い手紙をしたためました。もともと子規は、藩士の家柄を誇っていて、こうした豪傑譚を盲目的に好んでいたのです。 漱石は、元士族で名主てはありますが、町人として育ったので階級的な差別に小田わりませんでした。「君の議論は、工商の子たるが故に気節なしとして、四民の階級を以て人間の尊卑を分たんかの如くに聞ゆ。君が故かかる貴族的の言葉を吐くや。君若しかくいわば、吾これに抗して工商の肩を持たんと欲す」と反論します。そして「朋友がかかる小供だましの小冊子を以て季節の手本にせよとて、わざわざ恵投せられたるは、つやつやその意を得ず」「君何を以て、この書を余に推挙するや。余殆ど君の世を愚弄するを怪しむなり」と送りつけました。 子規は、漱石の剣幕に驚き、急いで漱石に詫び状(現存せず)を送りました。漱石の手紙には、子規の「偏えに前書及び本書の無礼なるを謝す」という詫びを記し、「ただ君の方で足下呼わりで難しく手掛けられた故つい乗気になり、色々の雑言申し上げ恐縮の至りに不堪。決して決してお気にかけられざるよう願上候」と、怒りの矛を収めました。 この後、二人の友情は長く続きました。この諍いが二人にとってプラスに働いたようです。 十一月十日(火)牛込区喜久井町一番地 夏目金之助より本郷区真砂町常盤会寄宿舎 正岡常規へ 僕が二銭郵券四枚張の長談議を聞き流しにする大兄にあらずと存じおり候処、案の如く二枚張の御返礼にあずかり、金高よりいえば半口たらぬ心地すれど、芳墨の進化は百枚の黄白にも優り嬉しく披見仕候。仰の如く小生十七、八以後かかるまじめ腐ったる長々しき囈語を書き連ねて紙筆に災ひせし事なく、議論文などは君に差上候。手紙にも滅多に無之、ただ君の方で足下呼わりでむずかしく出掛られた故、つい乗気不堪決して決して御気にかけられざるよう願上候。 頑固の如くには候えども、片言隻行にては如何にしても気節は見分けがたくと存候。良雄(忠臣蔵・大石良雄のこと)喜剣の足を抵る。良雄の主義、人の辱(はずかしめ)を受けざるにあれば、足を舐るは気節を損したるなり。良雄の主義、復讐にあれば、足を舐るは気節を全うしたるなり。喜剣良雄の墓前に死す。喜剣の主義、長生にあらば墓前に死するは節を損したるなり。喜剣の主義、任侠にあれば墓前に死するは節を全うしたるなり。去れば一言一行をその人の主義に照り合せざれば、分らぬ事と存候(その人の主義の知れておる時は例外)。 気節は(己れの見識を貫き通す)事と申し上候つもり。これ(見識)は智に属し(貫く)(即ち行う)は意に属す。行わずして気節の士とは小生も思い申さず、唯行へと命令する者が情にもあらず、意にもあらず、智なりと申す主意に御座候処、筆が立ぬ故、そこまでまわり兼疎漏の段、御免被下たく候。 僕、決して君を小児視せず、小児視せば笑って黙々たるべし。八銭の散財をした処が君を大人視したる証拠なり。恨まれては僕も君を恨みます。 君は人の毀誉を顧みず。毀誉を顧みぬ君に喃々(なんなん)するは君を褒貶するの意にあらず。唯、僕の説が道徳上嘉(よみ)すべき説なりや、道徳上悪しき説なるやを判じ給えとの意に御座候。唯、卑説の論理に傾きたるため善悪の字を以て正否の字に見違えらる。これまた僕の誤り(説に善悪あり、また真偽あり。多妻論は耶蘇教徒より見れば論理的なると否とを問わず悪説なり。進化主義も神造物者主義より見れば悪説なり。社会主義は伊天原連より見れば悪説なり)。「その悪を極口(くちをきわめて)罵詈せしとて、その人と交らぬというにはあらず」御説明にて恐れ入候。叩頭謝罪。 僕、前年も厭世主義、今年もまだ厭世主義なり。かつて思うよう世に立つには世を容るるの量あるか、世に容れられるの才なかるべからず。御存の如く僕は世を容るるの量なく世に容れらるるの才にも乏しけれど、どうかこうか食う位の才はあるなり。どうかこうか食うの才を頼んで、この浮世にあるは説明すべからざる一道の愛気隠々として或人と我とを結び付るがためなり。この或人の数に定限なく、またこの愛気に定限なく、双方共に増加するの見込あり。この増加につれて漸々慈憐主義に傾かんとす。しかし大体より差引勘定を立つればやはり厭世主義なり、唯極端ならざるのみ。これを撞着と評されては仕方なく候。 最後の一段は少々激し過ぎたる由、貴意の如くかも知れず。(僕の愚を憐んで可なり)などと出られては真に断憐不禁、再び叩頭謝罪。 道徳は感情なりとは御同意に候。絶大の見識もその根本を煎じ詰れは感情に外ならず、形而下の記号にて証明しがたければなり。去れど、この理想の標準に照し合せて見る過程(プロセス)が智の作用と存候。 君の道徳論について別に異議を唱うる能はず、唯、貴説のごとく悪を嫉むの一点にて君と僕の間に少しく程度の異なる所あるのみ。どう考えても君の悪を嫉む事は余り酷過ぎると存候。 微意の講釈は他日拝聴仕るべく候。 君の言を借りて、(偏えに前書及び本書の無礼なるを謝す。不宣) またまた行脚の由あいかわらず御清興賀し奉候。 秋ちらほら野菊にのこる枯野かなの一句千金の価あり。 睾丸の句は好まず、笠の句もさのみ面白からず。 十一月十日夜 平凸凹乱筆 子規 臥禅傍
2018.01.27
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明治22(1889)年9月、漱石は子規が書いた『七草集』に誘発され、漢詩集『木屑録』を書き上げました。 子規は、明治24(1891)年3月25日に十日ほどの房総行脚の旅に出ました。もちろん、漱石の『木屑録』を辿る旅でした。常盤会寄宿舎を出発した子規は、市川で昼飯はとり、菅笠を買いました。そこから痩せ馬で大和田に着き、「榊屋」に泊まりますが、枕が堅くて寝られません。 26日の朝7時に宿を出て、白井から佐倉、成田に至り、佐倉宗吾の社と成田山新勝寺に参詣します。午後2時に成田を出発し、日もすっかり暮れた頃に、馬渡の「上総屋」に入りました。宿の飯は軟らかったのですが、固い蒲団が一枚きり。11里(約41キロメートル)も歩いた子規は足に豆をこさえ、肩をひどく凝らしました。 27日、子規は朝7時半に「上総屋」を発ち、篁(竹薮)に入って竹の杖をつくります。正午に千葉に着き、笠を持って記念撮影。昼飯に鰻飯としゃもを食べました。鰻はあまり美味しくなく、しゃもは少し甘いのですが、漬物をとても美味しく感じました。数丁歩いた後、竹杖を忘れたことに気づき、取りに戻ります。寒川から海岸に出た子規は、浜伝いに浜野、潤井戸を経て、長柄山に向かい、東京湾の眺望を楽し見ます。子規は「富士山がないのが惜しい」と思います。7時に宿の「大黒屋」に入ると、この宿の飯は軟らかく、初めて食べたせいろ(セグロイワシ)の刺身と、はりはり漬けのおかずを美味しいと思い、大きな茶碗に4杯もご飯を食べました。昨夜、一昨夜と同じように木枕のため、子規はよく眠れませんでした。 28日、朝7時に宿を出ると霧が出ています。曇天の下を歩くと、雨が降り始めました。路傍の穴の中で雨宿りし、長南に着いても、まだ小雨が降っています。そこで蓑を買いますが、この蓑は終生、子規のお気に入りとなりました。この喜びが、『かくれみの』という紀行文のタイトルになりました。雨が激しくなってきたので、大多喜の蕎麦屋を兼ねた大きい旅館「酒井屋」に子規は泊まります。夜半には雨が上がり、月が出てきました。 29日、子規は朝8時に宿屋を出ます。前日、笠の紐をきつくしばっていたためか、唇がはれ上がっていました。台宿から小湊の誕生寺に向かいます。漱石の『木屑録』には、鋸山とともに誕生寺の風景が描かれています。子規は、「鶯や此の山出れば誕生寺」と詠みました。漱石の『こころ』には「小湊という所で、鯛の浦を見物しました。……丁度そこに誕生寺という寺がありました。日蓮の生まれた村だから誕生寺とでも名を付けたものでしょう、立派な伽藍でした」と書かれています。 町はずれで寿司を食べた子規は、トンネルを通って天津に出ると日は暮れていました。路傍の少女や老婆に問うと、宿は学校の隣にあるといいます。木賃宿「野村」ではすぐに夕食が出ました。湯がないので湯屋に行くと混浴で、しかも混雑していました。子規は初めて按摩を呼び、気持ちのよさにようやく熟睡できました。 30日、硬い朝飯を食べて、朝8時に宿を出た子規は、今年初めてのレンゲの花を見ます。和田の茶屋で昼食をとりますが、飯が硬く、魚が臭くて食べられません。そこで海に臨む茶店に入り、寿司と生卵を食べました。朝夷で日が暮れたので、平磯の「山口屋」に泊まります。湯屋に行くと湯が臭い。夕食の飯は軟らかいのですが、魚が昼と同じで臭くて食べられませんでした。 31日、朝8時に宿を出て、野島崎灯台に行きましたが、修理中で見られませんが、太平洋の眺めを楽しむことはできました。滝口で菓子を買い、それを昼食がわりとしました。北条へ向かう山中で1時間ほど寝て、5時前に館山の宿に入ります。新築で一人も客がいないのに、子規は最下等の部屋に案内されました。 4月1日、宿を8時過ぎに出ます。子規は、那古の観音に行き、左甚五郎の彫刻を見ようと思いますが、これも修理で望みはかないません。諏訪神社で菓子を食べ、市部に向かう途中のトンネルで昼食をとりました。加知山を経て保田で宿に入理、鏡を見ると顔が真っ黒になっていました。これで、人が子規をジロジロと見ていた理由がわかりました。 2日は、羅漢寺から鋸山に登り、五百羅漢を見ました。山頂から武蔵、相模、房総を望めます。船で帰京し、常盤会宿舎に着いた頃には日が暮れていました。 房総の旅を終えた子規は、叔父の大原恒徳と大谷是空に手紙を送りました。是空には「菅笠を戴き蓑をかぶり、一足のわらんじも二日はくなどその勇気その打扮(いでたち)、君ら富家の子弟には薬に見せたきくらいに御座候。この夏も同じ姿で木曽道中と出かけるつもり(四月七日是空宛書簡)」と旅の予定を綴っています。
2018.01.26
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親交を深めた子規と漱石は、頻繁に手紙をやりとりしました。明治22年(1889)の子規の喀血は、肺病を患う兄を持つ漱石にとって他人事ではありませんでした。 漱石は、5月13日に病状の経過と養生の大切さを説きました。5月27日には、滅入りがちな気分を笑い飛ばそうと、漱石の雅号を間違えて書いた自分を笑います。6月5日には、学校を休んでいる子規のために、試験の日取りや授業内容を連絡しました。9月27日には、漱石の奔走により子規の落第が回避されたことをユーモラスに伝え、子規に早めの上京を促しています。 これらの手紙は、漱石の細かい気くばりを感じさせるものばかりです。 只、子規の病状が良くなったと知るや、漱石は式の考え方に異を唱えます。 12月31日の手紙では、天真爛漫に思いつくまま文章を書き綴る子規に対して、漱石は思想やアイデアを養い、読書に力を注ぐことを忠告しています。また、翌年1月の手紙でも、漱石は最良の思想をそのまま移して読者に伝えることが最上の文章だとしました。文章の技法より、思想こそが大切だと訴えたのです。 それに対して、子規は、1月18日にレトリックに満ちた文章こそ文学の要だと返書しています。内容と形式のどちらを重視するかは、小説と詩の差異、子規と漱石の文学に対する取り組みの違いでもありました。 子規と漱石は、親密な交遊を続けていたからこそ、本音を語ることができたようです。 とかく大兄の文はなよなよとして婦人流の習気を脱せず、近頃は篁村流に変化せられ、旧来の面目を一変せられたるようなりといえども、未だ真率の元気に乏しく、従うて人をして案を拍って快と呼ばしむる箇所少なきやと存じ候。すべて文章の妙は胸中の思想を飾り気なく平たく造作なく直叙スルガ妙味と存ぜられ候。さればこそ瓶水を倒して頭上よりあびる如き感情も起こるなく、胸中に一点の思想なくただ文字のみを弄する輩はもちろんいうに足らず、思想あるもいたずらに章句の末に拘泥して、天真爛漫の見るべきなければ人を感動せしむること覚束なからんと存じ候……伏して願わくは(雑談にあらず)御前少しく手習をやめて、余暇をもって読書に力を費やし給えよ。御前は病人なり。病人に責むるに病人の好まぬことをもってするは苛酷のようなりといえども、手習をして生きていても別段馨しきことはなし。(明治22年12月31日 正岡子規宛書簡) 文章 is an idea which is expressed by means of words on paper故に、小生の考えにてはideaが文章のEssenceにてwordsをarrangeする方はelementには相違なけれど、essenceなるideaほど大切ならず。(=文章は紙に書かれた言葉の意味を表明するものであるゆえ、小生の考えでは思想が文章の本質にて、言葉を整理する方は基本には相違なけれど、本質なる思想ほど大切ならず)」(夏目漱石 明治23年1月初旬 正岡子規宛書簡) Rhetoric軽而Idea重乎、突如而来未有無Rhetoric之文章也、冒頭足下謂Idea good而Rhetoric bad則不過good idea為bad rhetoric幾分所変也、引用他書翰来、甚称書牘体、而何不謂Good idea expressed by bad rhetoric与Bad idea expressed by good rhetoric其価値略相等耶。(=修辞は軽くて思想は重いのだろうか、修辞のない文などあろうはずがない。思想が優れていて修辞が悪いとすれば、優れた思想は悪い修辞ということなのだろうか? ならば悪い修辞によって表記された良い思想と、良い修辞によって表記されたくだらぬ思想は同じということなのだろうか?)(正岡子規 明治23年1月18日 夏目漱石宛書簡)
2018.01.25
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幼い頃から、子規も漱石も寄席が好きでした。 幼い子規は、松山の大街道にあった「遠山席」とも「改良座」とも称した寄席に掛けられる軍談(講談)に夢中になりました。当時、松山で人気を集めていたのは軍談師の燕柳でした。柳原極堂著『友人子規』には、燕柳は「大阪風の講釈ぶりで大きな張扇で机をバタバタ叩きながら威勢よく盛んな調子」だったとあります。 明治11(1878)年、子規と親戚の三並良(はじめ)は、親に無断で親戚に金を借り、寄席に潜りこみました。そのことが発覚して家の戸を閉められ、閉め出されたこともありました。 上京してからも子規は、友人たちと連れ立って寄席に出かけました。木戸銭の捻出に借金や質屋を利用したこともあります。「白梅亭」は神田連雀町、「立花亭」は日本橋通石町にあり、猿楽町の下宿からも近かったためでした。 当時は「娘義太夫」がブームとなっていて、書生たちは「堂摺連」を結成して、奇声を発しました。名前の通り、サワリの部分で「どうするどうする」と囃したて、拍手喝采するのですが、子規たちもそれに倣ってはしゃぎました。 南方熊楠は、大学予備門で同級だった子規や秋山真之が大流行していた奥州仙台節を習っていると記しています。子規は、『筆まかせ』で三遊亭円朝を文章の手本とするようにと記しています。円朝は、本名が出淵次郎吉で、前田備前守に仕えた江戸留守居役を祖父に持つといいます。伊予国出淵庄を領していたという噂もあり、子規はこれを誇っていたのでしょうか。 漱石は、『僕の昔』で「何分兄等が揃って遊び好きだから、自然と僕も落語や講釈なんぞが好きになってしまったのだよ」といい、明治41年9月号の「ホトトギス」掲載の『正岡子規』には、「忘れていたが、彼と僕と交際し始めたも一つの原因は、二人で寄席の話をした時、先生も大に寄席通を以て任じて居る。ところが僕も寄席のことを知っていたので、話すに足るとでも思ったのであろう、それから大いに近よって来た 」とあるように、漱石も子規も寄席が好きでした。 漱石の贔屓は柳家小さんで、小説『三四郎』の中で「小さんは天才である。あんな芸術家は滅多にでるものじゃない。……彼と時を同じうして生きている我々は大変な仕合せである。今から少し前に生れても小さんは聞けない。少し後れても同様だ」と絶賛しています。 子規と漱石は、幼い頃からの寄席通いが共通し、その縁でさらに親しくなっていきました。 余はこの頃、井林氏とともに寄席に遊ぶことしげく、寄席は白梅亭か立花亭を常とす。しかれども懐中の黄衣公子意にまかせざること多ければ、あるいは松木氏のもとに至り、あるいは豊島氏のもとに至り、多少を借りきたりてこれをイラッシャイという門口に投ずることしばしばなれども、未だかつて後にその人に返済したることなし。必ずうたてき人やとうとまれけん。また、人をして余らの道楽心を満足せしむることは、度々できることにあらざれば、時として井林氏は着物を質に置き、その金にて落語家の一笑を買うたることもありたり。寄席につとめたりというべし。(『筆まかせ』「寄席」) (明治)二十一年の頃には、君と僕とは土曜日の夜ごとに落語を聞きに寄席へ出かけた。落語家の手腕を比較して番付さえ作った。君は落語を哲学的に評論するというて、大分書かれたものもあった。(大谷是空『正岡子規君』) 落語か。落語はすきで、よく牛込の肴町の和良店へ聞きにでかけたもんだ。僕はどちらかといえば子供の時分には講釈がすきで、東京中の講釈の寄席はたいてい聞きに回った。なにぶん兄らがそろって遊び好きだから、自然と僕も落語や講釈なんぞが好きになってしまったのだ。落語家で思い出したが、僕の故家からもう少し穴八幡のほうへ行くと、右側に松本順という人の邸があった。あの人は僕の子供の時分には時の軍医総監ではぶりがきいてなかなかいばったものだった。円遊やその他の落語家がたくさん出入りしておった。(夏目漱石 僕の昔) 松山の今は銀座通りと呼ばれる大街道に、今は残っていないが寄席があって、それに軍談(講談のこと)があった。燕柳という男のが、我々には面白かった。彼は真田三代記が得意で、大坂冬の陣、夏の陣を読んでいた。彼は家康がきらいで、幸村にめちゃめちゃにやられる光景を、ものも鮮かに演じたり、家康が六文銭の旗を見ると、腰をぬかして、彦左「またぬけた」などいう辺りを面白おかしく述べ立てるので、我々は夢中になっていた。……景浦の夜学に行く晩に、子規と寄席の前を通って、昨晩の続きが聴きたくて仕方がなくなった。代金は一人前全部で五、六厘だったと記憶するが、その頃私どもには小使いというものが特別に渡されなかったので、一文だって金銭は所有していなかったが、それでも何かの残りが、誰かの袂に四、五厘はあった。もう五、六厘あれば、入れるのだった。相談の結果、子規の親類が近所にあるので、彼がそこへ借りに行って難なく借りてきて、一緒に講談を聴いて、いつもの通り、通学から帰ったつもりにしてくると家の大戸がしまっていて、開かない。いくらたたいても何の返事もない。変だが悪事露見したのかと思っていると、子規が飛んできて、どうした、お前も入られんのかという。運命は同じなのだ。どんどんたたいていると、母の声がして『今夜はもう開けてやらん、夜学へ行くといって寄席へ行くものなんかは入らさんぞな』という。その中に子規のお母さんが見にきてくれて、升も入らすから幸さんもお入れといってくれたので、やっと門が開いた。どうして露見したかというと、その晩おり悪しく雨が降り出したので、子規の母と私の母とが雨傘と下駄を持って、景浦先生のところまで行ったのであったが、今夜は二人とも来ないといわれ、それではてっきり、燕柳を聴きに行ったと図星をさされ、双方の母たちが相談して門をしめて入れなかったのだ。(三並良『子規の少年時代』) いそがしき手習のひまに長々しき御返事、態々御つかわし被下候段、御芳志の程ありい(洋語にあらず)、かく迄御懇篤なる君様を何しに冷淡の冷笑のとそしり申すべきや。まじめの御弁護にていたみ入りて穴へも入りたき心地ぞし侍る程に、一時のたわ言と水に流し給へ。七面倒な文章論かかずともよきに、そこがそれ人間の浅ましき。終に余計なことをならべて君にまた攻撃せられて大閉口、何事も餅が言わする雑言過言と御許しあれ。 当年の正月は不相変雑煮を食い、寝てくらし候。寄席へは五六回程参り、かるたは二返取り候。一日神田の小川亭と申にて鶴蝶と申女義太夫を聞き、女子にでもかかる掘り出し物あるやと愚兄と共に大感心。そこで愚兄、余に云う様「芸がよいと顔迄よく見える」と。その当否は君の御批判を願います。 米山は当時夢中に禅に凝り、当休暇中も鎌倉へ修行に罷越したり。山川は不相変学校へは出でこず、過日十時頃一寸訪問せしに未だ褥中にありて、煙車を吸い、それより起きて月琴を一曲弾て聞かせたり。いつもいつものん気なるが、心は憂欝病にかからんとする最中也。これも貴兄の判断を仰ぐ。兎角この頃は学校でも吾党の子が少ないから、何となく物淋しく面白くなし。可成早く御帰りお帰り。もう仙人もあきがきた時分だろうから、一寸已めにしてこの夏にまた仙人になり給え。云々別紙文章論今一度貴覧を煩はす云々 埋塵道人拝 四国仙人 梧下 七草集、四日大尽、水戸紀行、その他の雑録を貴兄の文章と也。文章でなしと仰せらるれば失敬御免可被下候。(明治23年1月 夏目金太郎 子規宛書簡)
2018.01.24
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明治22年(1889)から、子規は生涯の友となる夏目金之助と交友を深めます。 明治17年(1884)に子規と金之助は東京大学予備門に入学しました。子規は、明治18年(1885)の学期末試験で不合格となって落第しましたが、金之助も腹膜炎のため、翌年の進級試験を受けられず、落第の憂き目を見ていたのでした。 落第で同級という、偶然の絆を結んだ二人は、子規の『七草集』をきっかけとして、話を交わすようになりました。『七草集』は、明治21年(1888)の夏に向島にある長命寺境内の桜餅屋に寄宿して書き上げたのです。秋の七草から題を取り、漢文の「蘭之巻」、漢詩の「萩之巻」、和歌の「をミなへし乃巻」、俳句の「尾花のまき」、謡曲の「あさかほのまき」、「かる萱の巻」で構成されるこの本は、後に向島の地誌「葛之巻」と小説の「瞿麦の巻」を書き足し、「かる萱の巻」をはずしました。この『七草集』は、友人たちの間で回覧されて評判となりました。 金之助は、この文集の評で初めて「漱石」の号を用いました。この雅号は、子規がかつて名乗っていたこともある雅号だったのです。 子規が書いた『七草集』に誘発され、 漱石は漢詩集『木屑録』を書きました。これを読んだ子規は、「甚だまずい」漢文で「頼みもしないのに跋」を書いてよこしたと、漱石は『正岡子規』の中で語っています。 互いの技量を知った二人は、書簡を頻繁に交わして友情を深めました。 漱石は「一体正岡は無暗に手紙をよこした男で、それに対する分量はこちらからも遣った」(『正岡子規』)と語っていますが、文学観や人生観、苦悩する心情などに彩られた手紙は、二人の心を結びつけました。 子規は、これらの手紙で自分を「妾」、漱石を「郎君」と書いて、我が身を女性に擬していますが、現実の子規は、漱石を子分のように扱っていました。 僕も詩や漢文を遣っていたので大いに彼の一粲を博した。僕が彼に知られたのはこれが初めであった。ある時、僕が房州に行った時の紀行文を漢文で書いて、その中に下らない詩などを入れておいたそれを見せたことがある。ところが大将頼みもしないのに跋を書いてよこした。……非常に好き嫌いのあった人で、滅多に人と交際などはしなかった。僕だけどういうものか交際した。一つは僕の方がええ加減に合わしておったので、それも苦痛なら止めたのだが苦痛でもなかったからまあできていた。こちらが無闇に自分を立てようとしたら、とても円滑な交際のできる男ではなかった。例えば発句などを作れという。それを頭からけなしちゃいかない。けなしつつ作ればよいのだ。策略でするわけでもないのだが自然とそうなるのであった。つまり僕の方が人がよかったのだな。……も一つは向こうの我、こちらの我とが無茶苦茶に衝突もしなかったのであろう。忘れていたが彼と僕と交際し始めたも一つの原因は、二人で寄席の話をした時、先生も大いに寄席通をもって任じておる。ところが僕も寄席のことを知っていたので、話すに足るとでも思ったのであろう。それから大いに近よって来た。(夏目漱石『正岡子規』) 「子規という男は何でも自分が先生のようなつもりでいる男であった。俳句を見せると直ぐそれを直したり圏点をつけたりする。それはいいにしたところで僕が漢詩を作って見せたところが、直ぐまた筆をとってそれを直したり、圏点をつけたりして返した。それで今度は英文を綴って見せたところが、奴さんこれだけは仕方がないものだからVery goodと書いて返した』と(漱石は)言ってその後よく人に話して笑っていた。(高浜虚子『漱石氏と私』) 子規が始終敬服していたのは、何といっても漱石であったようだ。しかし漱石にも無条件で敬服することは彼の覇気が許さぬようだった。『江戸児には奇気が乏しい、それが文章の上にも露われると夏目に言ってやったら、反駁めいた長い手紙が来たよ』と語られたことがあった。(菊池仙湖『予備門時代の子規』)
2018.01.23
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明治18(1885)年8月、大学予備門は東京大学から文部省の直轄となり、第一高等中学校と改称されて、翌年の7月より新しい制度となりました。 この年の7月、漱石は腹膜炎を患い、進級試験を受けられなかったので落第しました。これには、漱石の熱い想いが隠されていました。『落第』のなかで「僕が二級の時に工部大学と外国語学校が予備門へ合併したので、学校は非常にゴタゴタして随分大騒ぎだった。それがだんだん進歩して現今の高等学校になったのであるが、僕はその時腹膜炎をやってとうとう二級の学年試験を受けることができなかった。追試験を願ったけれど、合併の混雑やなんかで忙しかったと見え、教務係の人は少しも取合ってくれない」為に、漱石は「自分に信用がないからだ。信用がなければ、世の中へ立った処で何事もできないから、先ず人の信用を得なければならない。信用を得るには何うしても勉強する必要がある。と、こう考えたので、今迄のようにうっかりしていては駄目だから、いっそ初めからやり直した方がいいと思っ」たのでした。 漱石のこの想いは、成績に反映されます。小宮豊隆の『夏目漱石』によれば、明治19年から20年の「第一高等中学校一覧」には、「予科第二級(英)一之組」の首席に「塩原金之助」の名前が出ています。そうして、この首席は高等学校を卒業するまで続いたのでした。 何とか彼んとかして予備門へ入るには入ったが、惰(なま)けて居るのは甚だ好きで、少しも勉強なんかしなかった。水野錬太郎、今美術学校の校長をして居る正木直彦、芳賀矢一なども同じ級だったが、これらは皆な勉強家で、自ら僕等の怠け者の仲間とは違っていて、その間に懸隔(けんかく)があったから、更に近づいて交際する様なこともなく、全然(まるで)離れておったので、彼方でも僕等の様な怠け者の連中は駄目な奴等だと軽蔑していたろうと思うが、こちらでもまた試験の点許り取りたがっている様な連中は共に談ずるに足らずと観じて、僕等は唯遊んでいるのを豪(えら)いことの如く思って怠けていたものである。予備門は五年で、その中に予科が三年、本科が二年となっていた。予科では中学へ毛の生えた様なことをするので、数学なども随分沢山あり、生理学だの動物植物鉱物など皆な英語の本でやったものである。だから読む方の力は今の人達より進んでいた様に思われるが、然し生徒の気風に至っては実に乱暴なもので、それから見ると今の生徒は非常に温順(おとな)しい。皆な悪戯許りしていたものでストーヴ攻などと云って、教室の教師の傍にあるストーヴへ薪を一杯くべ、ストーブが真赤になると共に漢学の先生などの真面目な顔が熱いので、矢張りストーヴの如く真赤になるのを見て、クスクス笑って喜んでいた。数学の先生がボールドに向って一生懸命説明していると、後から白墨(チョーク)を以ってその背中へ怪しげな字や絵を描いたり、また授業の始まる前に悉く教室の窓を閉めて真暗な処に静まり返っていて、入って来る先生を驚かしたり、そんなこと許り嬉しがっていた。予科の方は三級、二級、一級となっていて、最初の三級は平均点の六十五点も貰ってやっとこさ通るには通ったが、矢張り怠けているから何にも出来ない。恰度(ちょうど)僕が二級の時に工部大学と外国語学校が予備門へ合併したので、学校は非常にゴタゴタして随分大騒ぎだった。それがだんだん進歩して現今の高等学校になったのであるが、僕はその時腹膜炎をやって遂々(とうとう)二級の学年試験を受けることが出来なかった。追試験を願ったけれど、合併の混雑やなんかで忙しかったと見え、教務係の人は少しも取合って呉れないので、そこで僕は大いに考えたのである。学課の方はちっとも出来ないし、教務係の人が追試験を受けさせて呉れないのも、忙しい為もあろうが、第一自分に信用がないからだ。信用がなければ、世の中へ立った処で何事も出来ないから、先ず人の信用を得なければならない。信用を得るには何うしても勉強する必要がある。と、こう考えたので、今迄の様にうっかりしていては駄目だから、寧(いっ)そ初めからやり直した方がいいと思って、友達などが待っていて追試験を受けろと切(しき)りに勧めるのも聞かず、自分から落第して再び二級を繰返すことにしたのである。人間というものは考え直すと妙なもので、真面目になって勉強すれば、今迄少しも分らなかったものも瞭然(はっきり)と分る様になる。前には出来なかった数学なども非常に出来る様になって、一日(あるひ)親睦会の席上で誰は何科へ行くだろう誰は何科へ行くだろうと投票をした時に、僕は理科へ行く者として投票された位であった。元来僕は訥弁(とつべん)で自分の思って居ることがいえない性(たち)だから、英語などを訳しても分って居乍らそれをいうことが出来ない。けれども考えて見ると分って居ることがいえないという訳はないのだから、何でも思い切っていうに限ると決心して、その後は拙くても構わずどしどしいう様にすると、今迄は教場などでいえなかったこともずんずんいうことが出来る。こんな風に落第を機としていろんな改革をして勉強したのであるが、僕の一身にとってこの落第は非常に薬になった様に思われる。若しその時落第せず、唯、誤魔化して許り通って来たら今頃は何んな者になって居たか知れないと思う。(落第) 漱石が腹膜炎にかかったのは、大学予備門入学当時に罹った盲腸炎の影響があるのかもしれません。それは、成立学舎に学んでいた頃に下宿していた小石川の新福寺の門前に、毎日やってくる汁粉屋がいました。汁粉屋は、門前に屋台を構えたという合図にうちわをバタバタと鳴らします。漱石は、その音を聞くとたまらなくなり、汁粉を食べに屋台へ駆けていきました。漱石は予備門には見事合格しましたが、入学後、汁粉の食べ過ぎで盲腸炎にかかってしまいました。 入学をした余もすぐ盲腸炎に罹った。これは毎晩寺の門前へ売りに来る汁粉を、規則のごとく毎晩食ったからである。汁粉屋は門前まで来た合図に、きっと団扇(うちわ)をばたばたと鳴らした。そのばたばた云う音を聞くと、どうしても汁粉を食わずにはいられなかった。したがって、余はこの汁粉屋の爺(おやじ)のために盲腸炎にされたと同然である。『満韓ところどころ 13』
2018.01.22
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落第の人を送るや梨の花(明治31) 十年の苦学を想ふ蛍哉(明治32) 明治25(1892)年6月の学年試験に子規は落第しました。俳句に熱中するあまり、試験勉強に身が入らなかったのです。 子規は『墨汁一滴』に「リース先生の歴史で落第した」と記しています。講義はほとんど聴かず、しかもドイツ人の英語だから少しも理解できません。加えて試験に出題されたのが、ノート以外の内容だったため落第したというのが子規の言い分です。 多くの友人たちは、子規の退学に反対しました。あと1年頑張れば卒業なのに、今やめるのは馬鹿馬鹿しいことだ、学士の肩書を取ってからにしろなどの忠告がありましたが、五百木瓢亭だけは子規の退学を支持しました。 子規は瓢亭の意見にびっくりして、自分の落第を喜ぶ者は広き天下に瓢亭だけだと、冗談のような手紙を送っています。 明治25(1892)年に退学を決めた子規は、10月に箱根、熱海。10月後半には日光。11月には上京する家族を迎えに神戸へ行き、京都で遊びました。「日本」に就職した12月には、内藤鳴雪と共に八王子に出かけています。 新聞「日本」への就職が内定した子規は、松山から母・八重と妹・律を呼び寄せます。子規は、二人を迎えに神戸まで出向き、京都を見物した後、家族で東京へと向かいました。 明治二十四年の学年試験が始まったが、段々頭脳が悪くなって堪えられぬようになったから、遂に試験を残して六月の末帰国した。九月には出京して残る試験を受けなくてはならぬので、準備をしようと思うても書生のむらがっているやかましい処では、とても出来そうもないから今度は国から特別養生費を支出してもろうて、大宮の公園へ出掛けた。万松楼という宿屋へ往て、ここに泊って見たが松林の中にあつて静かな涼しい処で意外に善い。それにうまいものは食べるし、丁度萩の盛りというのだから愉快で愉快でたまらない。松林を徘徊したり野逕を逍遥したり、くたびれると帰つて来て頻りに発句を考へる。試験の準備などは手もつけない有様だ。この愉快を一人で貪るのは惜しい事だと思うて手紙で竹村黄塔を呼びにやった。黄塔も来て一、二泊して去った。それから夏目漱石を呼びにやった。漱石も来て一、二泊して余も共に帰京した。大宮に居た間が十日ばかりで試験の準備は少しも出来なかったが、頭の保養には非常に効験があった。しかしこの時の試験もごまかして済んだ。 この年の暮には、余は駒込に一軒の家を借りてただ一人で住んで居た。極めて閑静な処で勉強には適して居る。しかも学課の勉強は出来ないで俳句と小説との勉強になってしもうた。それで試験があると前二日位に準備にかかるので、その時は机の近辺にある俳書でも何でも尽く片付けてしまう。そうして机の上には試験に必要なるノートばかり置いてある。そこへ静かに座をしめて見ると、平生乱雑の上にも乱雑を重ねていた机辺が清潔になっているので、何となく心持が善い。心持が善くて浮き浮きすると思うと、何だか俳句がのこのこと浮んで来る。ノートを開いて一枚も読まぬ中に十七字が一句出来た。何に書こうにも、そこらには句帳も半紙も出してないからラムプの笠に書きつけた。また一句出来た。また一句。余り面白さに試験なんどの事は打ち捨ててしもうて、とうとうラムプの笠を書きふさげた。これが燈火十二ヶ月というので、何々十二ヶ月という事はこれから流行り出したのである。 こういう有様で、試験だから俳句をやめて準備に取りかかろうと思うと、俳句がしきりに浮かんで来るので、試験があるといつでも俳句がたくさんにできるということになった。これほど俳魔に魅入られたらもう助かりようはない。明治二十五年の学年試験には落第した。リース先生の歴史で落第しただろうという推測であった。落第もする筈さ、余は少しも歴史の講義聴きに往かぬ。聴きに往っても独逸人の英語少しも分からぬ、おまけに余は歴史を少しも知らぬ、その上に試験にはノート以外のことが出たというのだから落第せずにはおられぬ。これぎり余は学校をやめてしもうた。これが試験のしじまいの落第のしじまいだ。 余は今でも時々学校の夢を見る。それがいつでも試験で困しめられる夢だ。(『墨汁一滴』6月16日)
2018.01.21
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漱石が大学予備門に入った頃は、神田猿楽町の下宿に中村是公、橋本左五郎、佐藤友熊などといっしょに住んでいました。その中でも、漱石は中村(当時は柴野)是公と気が合いました。明治19年、漱石と是公は江東義塾の教師アルバイトを始めます。そして、塾の寄宿舎に住みこみました。『永日小品』の「変化」には「吹き曝しの食堂で、下駄を穿いたまま、飯を食った。食料は一箇月に二円であったが、その代りはなはだ不味いものであった。それでも、隔日に牛肉の汁を一度ずつ食わした。もちろん肉の膏が少し浮いて、肉の香かが箸に絡まって来るくらいなところであった」とあり、五円の月給から予備門の月謝二十五銭と二円の食料を引き、あまった金で、蕎麦や汁粉や寿司を食い廻りました。 反対に龍口了信に対しては、あまりいい感情をもっていませんでした。龍口了信は、中村是公の同郷の広島県生まれで、勝順寺という寺の息子でした。東京帝国大学国史科を卒業し、広島の中学校長を歴任した後、本派本願寺文学寮(現龍谷大学)の教授などをつとめたのち、政治家に転身します。漱石の小説「こゝろ」の「K」のモデルの一人であるともいわれます。(是公もモデルの一人です) では、なぜ龍口のことが好きにならなかったかというと、その食事方法にありました。太田達人の『予備門時代の漱石』には「ある時夏目君が『彼奴は豚汁の中へ餡こを入れて煮て喰わせる、あんな汚ならしい真似をされては敵はない』というのです」とあり、無茶苦茶な食べ物に対して怒りを覚えていたのでした。太田も続けて「夏目君がどこか斉然(きちん)とした所のあるのに対して、龍口了信は実際だらしのない男でした。元来広島県の生れで、中村是公と竹馬の友であった処から、吾々の仲間へも入ってきたのですが、酒が好きで、大学の寄宿舎では一番隅の部屋にいましたのでスチームの鉄管からちびちび湯気が凝って垂れる、それを金盥(かなだらい)に受けて置いて、その中で薬瓶に詰めた酒の燗をしては飲んでいました」と綴っています。 是公との交際は、漱石が鬼籍に入るまで続きました。大正5年12月9日、漱石き徳利電報を受け取った是公は、午後一時過ぎに病院に駆けつけました。漱石は目をつぶったまま「中村だれ?」時き、妻の鏡子が「中村是公さんですよ」というと、「ああ、よしよし」と漱石は答えました。 二人は二畳敷の二階に机を並べていた。その畳の色の赤黒く光った様子がありありと、二十余年後の今日までも、眼の底に残っている。部屋は北向で、高さ二尺に足らぬ小窓を前に、二人が肩と肩を喰っつけるほど窮屈な姿勢で下調べをした。部屋の内が薄暗くなると、寒いのを思い切って、窓障子を明け放ったものである。その時窓の真下の家うちの、竹格子の奥に若い娘がぼんやり立っている事があった。静かな夕暮などはその娘の顔も姿も際立きわだって美しく見えた。折々はああ美しいなと思って、しばらく見下みおろしていた事もあった。けれども中村には何にも言わなかった。中村も何にも言わなかった。 女の顔は今は全く忘れてしまった。ただ大工か何かの娘らしかったという感じだけが残っている。無論長屋住居の貧しい暮しをしていたものの子である。我ら二人の寝起きする所も、屋根に一枚の瓦さえ見る事のできない古長屋の一部であった。下には学僕(がくぼく)と幹事を混ぜて十人ばかり寄宿していた。そうして吹き曝しの食堂で、下駄を穿いたまま、飯を食った。食料は一箇月に二円であったが、その代りはなはだ不味いものであった。それでも、隔日に牛肉の汁を一度ずつ食わした。もちろん肉の膏が少し浮いて、肉の香かが箸に絡まって来るくらいなところであった。それで塾生は幹事が狡猾で、旨いものを食わせなくっていかんとしきりに不平をこぼしていた。 中村と自分はこの私塾の教師であった。二人とも月給を五円ずつ貰って、日に二時間ほど教えていた。自分は英語で地理書や幾何学を教えた。幾何の説明をやる時に、どうしてもいっしょになるべき線が、いっしょにならないで困った事がある。ところが込こみいった図を、太い線で書いているうちに、その線が二つ、黒板の上で重なり合っていっしょになってくれたのは嬉しかった。 二人は朝起きると、両国橋を渡って、一つ橋の予備門に通学した。その時分予備門の月謝は二十五銭であった。二人は二人の月給を机の上にごちゃごちゃに攪き交ぜて、そのうちから二十五銭の月謝と、二円の食料と、それから湯銭若干(そくばく)を引いて、あまる金を懐に入れて、蕎麦や汁粉や寿司を食い廻って歩いた。共同財産が尽きると二人とも全く出なくなった。 予備門へ行く途中両国橋の上で、貴様の読んでいる西洋の小説のなかには美人が出て来るかと中村が聞いた事がある。自分はうん出て来ると答えた。しかしその小説は何の小説で、どんな美人が出て来たのか、今ではいっこう覚えない。中村はその時から小説などを読まない男であった。 中村が端艇(ボート)競争のチャンピヨンになって勝った時、学校から若干の金をくれて、その金で書籍を買って、その書籍へある教授が、これこれの記念に贈ると云う文句を書き添えた事がある。中村はその時おれは書物なんかいらないから、何でも貴様の好きなものを買ってやると云った。そうしてアーノルドの論文と沙翁のハムレットを買ってくれた。その本はいまだに持っている。自分はその時始めてハムレットと云うものを読んで見た。ちっとも分らなかった。 学校を出ると中村はすぐ台湾に行った。それぎりまるで逢わなかったのが、偶然倫敦(ロンドン)の真中でまたぴたりと出喰わした。ちょうど七年ほど前である。その時中村は昔の通りの顔をしていた。そうして金をたくさん持っていた。自分は中村といっしょに方々遊んで歩いた。中村も以前と異かわって、貴様の読んでいる西洋の小説には美人が出て来るかなどとは聞かなかった。かえって向うから西洋の美人の話をいろいろした。 日本へ帰ってからまた逢わなくなった。すると今年の一月の末、突然使をよこして、話がしたいから築地の新喜楽まで来いといって来た。正午までにという注文だのに、時計はもう十一時過である。そうしてその日に限って北風が非常に強く吹いていた。外へ出ると、帽子も車も吹き飛ばされそうな勢いである。自分はその日の午後に是非片づけなくてはならない用事を控えていた。妻に電話を懸けさせて、明日じゃ都合が悪いかと聞かせると、明日になると出立の準備や何かで、こっちも忙しいから……と云うところで、電話が切れてしまった。いくら、どうしても懸らない。おおかた風のせいでしょうと、妻が寒い顔をして帰って来た。それでとうとう逢わずにしまった。 昔の中村は満鉄の総裁になった。昔の自分は小説家になった。満鉄の総裁とはどんな事をするものかまるで知らない。中村も自分の小説をいまだかつて一頁も読んだ事はなかろう。(永日小品 変化)
2018.01.20
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学校の試験過ぎたる昼寝哉(明治31) 夜学して蚊にくはれけり試験前(明治31) 夜一夜蚊にくはれけり試験前(明治31) 明治22年5月9日に喀血した折に、子規の名前を号したのですが、漱石の雅号もこの年の5月25日のことでした。子規の「七草集」の批評をした際に漱石と名乗ったのですが、その字を間違えていました。 漱石はそのことに気づいたのか、子規宛の5月27日の手紙のあとがきに、「『七草集』には、さすがの某も実名を曝すは恐レビデゲスと少しく通がりて、当座の間に合わせに漱石となんしたため侍り、後にて考うれば漱石とは書かで「涑」+「攵」と書きしように覚え候。この段、御含みの上御正し被下たく、先ずはその為口上左様。米山大愚先生傍より自己の名さえ書けぬに人の文を評するとは『ても恐ろしいトンマだなー』チョン々々々々々」と書いています。 漱石の雅号は、かつて子規も使っていたことがあり、「筆まかせ」の『雅号』には「漱石は今友人の仮名と変せり」と書かれています。漱石はその後、房総半島に赴いて漢詩集『木屑録』をつくり、子規と漱石は互いを認め合う関係になります。 子規の勉強には、ムラっ気がありました。自分の興味のあることに没頭する為、当面に役の立ちそうのない勉強は無視したいました。試験勉強をするにしても、友達からノートを借りて写すなどという面倒くさいことはせず、漱石を呼びつけ、授業内容を話させて理解しようとしたのです。 漱石も現金なもので、お礼の食事にケチをつけ、鮭の食事ではなく、西洋料理を食べさせてもらうようにしたと言います。 その後も子規は学校の勉強などに見向きもせず、俳句をひねることに没頭しました。 併しその前は始終僕の方が御馳走になったものだ。そのうち覚えている事を一つ二つ話そうか。正岡という男は一向学校へ出なかった男だ。それからノートを借りて写すような手数をする男でも無かった。そこで試験前になると僕に来て呉れという。僕が行ってノートを大略話してやる。彼奴の事だからええ加減に聞いて、ろくに分っていない癖に、よしよし分ったなどと言って生呑込にしてしまう。その時分は常盤会寄宿舎にいたものだから、時刻になると食堂で飯を食う。ある時また来てくれという。僕がその時返辞をして、行ってもいいけれどまた鮭で飯を食わせるから厭だといった。その時は大に御馳走をした。鮭を止めて近処の西洋料理屋か何かへ連れて行った。(夏目漱石 正岡子規) 明治二十四年の春、哲学の試験があるのでこの時も非常に脳を痛めた。ブッセ先生の哲学総論であったが、余にはその哲学が少しも分らない。一例をいうと、サブスタンスのレアリテーはあるかないかというような事がいきなり書いてある。レアリテーが何の事だか分らぬに、あるかないか分るはずがない。哲学というものは、こんなに分らぬものなら、余は哲学なんかやりたくないと思うた。それだから滅多に哲学の講義を聞きにも往かない。けれども試験を受けぬ訳にはいかぬから、試験前三日というに哲学のノート(蒟蒻板に摺りたる)と、手帳一冊とを携へたまま、飄然と下宿を出て向島の木母寺へ往た。この境内に一軒の茶店があって、そこの上さんは善く知っているから、こうこうで二、三日勉強したいのだが、百姓家か何処か一間借りてくれまいかと頼んで見た。すると上さんのいうには二、三日なら手前どもの内の二階が丁度明いているから、お泊りになっても善いというので大喜びで、その二階へ籠城する事にきめた。 それから二階へ上って蒟蒻板のノートを読み始めたが、何だか霧がかかったようで十分に分らぬ。哲学も分らぬが蒟蒻板も明瞭でない、おまけに頭脳が悪いと来ているから分りようはない。二十頁も読むともういやになって頭がボーとしてしまうから、直に一本の鉛筆と一冊の手帳とを持って散歩に出る。外へ出ると春の末のうららかな天気で、桜は八重も散ってしもうて、野道にはげんげんが盛りである。何か発句にはなるまいかと思いながら、畦道などをぶらりぶらりと歩行いていると、その愉快さはまたとはない。脳病なんかは影も留めない。一時間ばかりも散歩するとまた二階へ帰る。しかし帰るとくたびれているので、直に哲学の勉強などに取り掛る気はない。手帳をひろげて半出来の発句を頻りに作り直して見たりする。この時はまだ発句などは少しも分らぬ頃であるけれど、そういう時の方がかえって興が多い。つまらない一句が出来ると、非常の名句のように思うて無暗に嬉しい時代だ。あるいはくだらない短歌などもひねくって見る。こんな有様で三日の間に紫字のノートを、ようよう一回半ばかり読む、発句と歌が二、三十首出来る。それでもその時の試験はどうかこうかごまかして済んだ。もっとも、ブッセという先生は落第点はつけないそうだから、試験がほんとうに出来たのだかどうだか分った話じゃない。(墨汁一滴 6月15日)
2018.01.19
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駿河台の成立学舎出身者(橋本左五郎、佐藤友熊、太田達人、小城斎)が中心となって結成した「十日会」で、漱石らは江ノ島へ旅行を決行しました。この旅行は、会費十銭のため、汽車を使うこともできず、もちろん徒歩。宿も野宿で、しかも江ノ島に行ったことがあるのは中村是公だけというおそまつさで、行き当たりばったりの青春の旅そのものでした。「十日会」のメンバーが下宿していたのは、神田猿楽町の「末富屋」という下宿屋で、江ノ島までは16里(約60km)の道のりでした。三食分の握り飯を懐に入れ、暗いうちから江ノ島めがけて歩き出しました。品川宿に着いた頃には陽が登り始めました。昼飯をとったのは神奈川の土手で、夜の8時に藤沢へ到着しました。 何とか江ノ島に到着した一行でしたが、江ノ島のすぐ目の前に到着しましたが、どこからどう渡ったらいいかわかりません。「十人会」の一行は、持参した毛布にくるまり、海岸の窪地で野宿をせざるを得ませんでした。 この頃、江ノ島は海岸と陸続きではではありませんでした。干潮になれば渡れるのですが、満潮時には渡し舟を使うか、人足に頼んで背に乗って渡るかしか、江ノ島へ行く手段はありませんでした。明治24年には桟橋が架けられましたが、全てが渡れるわけではなく、やはり人足が一部分の距離を背負って渡していたのです。1年中自由に島渡りができるようになったのは明治30年のこと。州鼻口から島口まで、380間(1間は1.82m)の橋ができましたが、しっかり片道一人一銭五厘、往復三銭の渡橋賃が徴収されました。 朝を迎えた漱石たちは、翌朝島へ渡りました。十銭の会費では全員を渡すことができないため、誰かひとりが背負ってもらい、残りの人間はその後について海の中を歩いていくことに決めました。漱石は、「俺がおぶさる」と申し出て、自分は少しばかり楽をしました。江ノ島を巡ろうにも詳しいことは是公も覚えていません。一行は、いつしか旅館の庭に迷い込み、そこで仲居さんに道を聞いて、ようやく弁財天の祠にたどり着きました。帰りは鎌倉の鶴ヶ岡八幡宮にまで足を伸ばしました。元気がまだ残っている者は、石段を昇って、へばっている者に声をかけます。実朝や頼朝の宝物が見えるから、早く来いというと、宝物よりも、そこの甘酒屋で甘酒を飲んで休んでるから、上から銭を放れと叫ぶのでした。 帰路は、歩けなくなったふたりは、横浜から汽車に乗り下宿へと帰還。他の者は、神田猿楽町まで駆け足で帰りました。 「十人会」の他の連中は、多くは神田猿楽町の末富屋という下宿屋にいました。佐藤友熊なぞもその一人ですね。ある時この「十人会」で江の島の一泊旅行を企てたことがありました。会費は一人前十銭です。その時分は汽車はまだ横浜までしかない。汽車があってもなくっても、十銭の会費だから汽車になんか乗れない。片道十六里の道程(みちのり)を歩いて行って、歩いて帰る予定で、勿論日帰りにはできないから、着いた晩は弁天様のお宮の拝殿ででも泊ろうという趣向でした。丁度その前晩は根津の遊廓に火事があって、大観音のあたりも、騒いでいると一時になった。それから寝ずに飯を焚いて、三度分の握飯を拵(こしら)えて腰に附けたまま私はすぐに出掛けました。末富屋に同勢が打揃って、いざとい,8,うので出発しましたが、夜明け方品川の宿に着く時分になると、穿き馴れぬ草鮭に、私はもう足が痛くなりました。その頃東京では、あれが粋なつもりでしょうが、実に細い瓢箪形(なり)の草鮭を売っていたものです。あれを穿いてゐいたからたまらない。それでも辛抱をしいしい神奈川まで着いて、一同土手に腰掛けたまま先ず午飯のつもりで持って来た握飯の包みを開いたが、私はこれから未だ七八里もあろうという藤沢まで行って、それから江の島へ渡って、更に明くる日十六里の道を歩いて帰ることは到底できそうもない。いっそ自分はここから一人別れて帰ると云い出した。すると衆皆(みんな)が、実は吾々も黙ってはいるが足は痛いのだ。ここまで来て、一人先へ帰るという法はない。是非我慢して一緒に行けというものだから、私もその気になってまた歩き出した。日もとっぷり暮れて、何でも夜の八時頃藤沢へ着いたが、更にまた労れた足を引摺るようにして、片瀬の海岸まで辿り着いた。見ると、海水が漫々として、江の島の影は見えるが、思ったよりも海は広く、何処から渡っていいかさっぱり分らない。今の様に桟橋なんてえものはないのだ。実をいうと、それ迄に江の島へ来た覚えのあるものは柴野(中村是公)一人で、是公が案内役の格だから、どうして渡るんだと聞くと是公も、さあ困ったな、この前来た時はこんな筈じゃなかったがと云うばかりで、一向埒が明かない。それに夜も更けて、労れてはゐるし、仕方がないから、一同砂地の窪みで、めいめい持って来た毛布に包まったまま野宿をすることにした。処が、夜半にぽつりぽつり小雨が降り出して、海岸だから風は吹く。夜が白んで、物の文色(あいろ)が見えるやうになった頃、お互いの顔を見ると、どれもこれも吹き附けられた砂がへばり着いて、真黒になっていた。おまけに一行中の真水英夫(工学士)の脚絆が見えないと云って騒ぎ出す。夜半に犬が吠えていたようだから、犬でも啣(くわ)えて行ったんじゃないかという者があって、捜してみると、やっぱり砂浜の藻屑の中へ啣へて行ってあった。ここらは『満韓ところどころ』の中に書いてある通りです。私なぞも江の島旅行を想い出すたびに、きっと真水英夫の脚絆が目に泛んでくるから不思議なものですよ。 そこで砂の上に蹲(うずくま)ったまま朝飯に竹の皮包みの握飯を喰った覚えがあるから、弁当は確に三度分持って行ったんです。その間に夜が明け放れて、江の島の家並みがはっきり見える頃になると、向う岸でも五六人の男が出てきて、頻りにこっちを見ていたが、江の島見物の客人だと見当をつけて、ぞろぞろこっち側へ渡ってきた。それが見物の旅人を負って渡す人足だったんですね。しかし無代(ただ)じゃ渡してくれない。こっちは昨日からの強行軍で十銭の会費は残り少なになってゐるし、これは全く予算外の支出だから、すっかり弱ってしまった。で、会費以外に持っている者は出せ出せと云って集めましたが、未だ何に要るか分らないし、ここでめいめい負(おぶ)さって渡るわけにはいかない。仕方がないから、誰か一人だけ負って渡して貰って、自余(あと)の連中はその後にくっ附いて海の中を渡渉(かちわた)ることに相談を極めました。そこで誰が負さるかという段になると、夏目が真先に「おれが負さる」と云い出した。そこらは素早い男でしたよ。こうして兎に角江の島へ渡りましたが、さて道をどっちへ取っていいか、柴野もうろ覚えでよく分らない。ままよと、坂の下から東の方へ入ったら、宿屋の庭へ出てしまった。丁度女中が雨戸を繰つている処で、吾々の顔を見ると吃驚(びっくり)して、「こんなに早く、あなた方は一体どこでお泊りになったのです?前の何屋さんですか」と聞くから、まさか砂の上とも云われず、「ああ、そこで泊ったよ」と好い加減に答えて置きました。それからその女中に道を聞いて、石段を登って弁財天の洞にも参詣した上、兎に角江の島を一巡して、岩屋にも詣でました。 で、江の島を後にして、七里ケ浜の砂浜伝ひにーええ、その時分は衆皆(みんな)足が痛くてたまらぬものだから、本当に波打際の砂の濡れた所ばかり選って歩くようにして、ようよう鎌倉へ辿り着きました。午飯は何処で喰ったか覚えていませんが、鶴ケ岡八幡宮の石段の下まで来た時には、私なぞもう腹は減るし、足は痛いし、どうにもその石段を登るだけの勇気がなかった。しかし元気のいい連中はそれを駈け上って、石段の上から、「おい、実朝とか頼朝とかの宝物が見せて貰えるんだ、早く上って来い!」と喚ぶんですがね。下の連中はもうそんな宝物なぞどうでもええ。そんな物見るだけの金が剰っていたら、石段の下の甘酒屋で甘酒でも飲むから銭を放ってくれと云いましてね、上から放って貰った銭で甘酒を飲んだ覚えがありますよ。その時分あそこに甘酒屋が屋台店を張っていたものです。で、他の連中は宝物を見て降りて来ましたが、今日中に東京まで帰るには余程急がなければならない。足が痛んで歩けない者だけ横浜から汽車に乗せることにして、それだけ後に残して置いて、他の連中はこれから駈足で戻ろうということになりました。前にも云う通り、私は昨日神奈川から帰ろうと云い出した位だから、私ともう一人古城と申しまして、工科を出て、日露戦争の時には船に乗り込んでいて、露西亜へ捕虜になっていった経験のある男ですが、この二人だけが汽車に乗って帰る権利を許されました。夏目君も最初は駈足で帰る組に入りましたが、遣り切れなくなって、途中から汽車に乗り込んだものとみえ、私達が猿楽町の末富屋へ戻って休んでいると、夜晩くなって一人で先に帰って参りました。他の連中はずっと後れて帰ったようなわけです。この江の島旅行の話は、夏目君の筆で委しく書いて置いてくれると、よほど面白いものができたように思いますがね。(太田達人 予備門時代の漱石) 明治二十年の頃だったと思う。同じ下宿にごろごろしていた連中が七人ほど、江の島まで日着日帰りの遠足をやった事がある。赤毛布(あかげっと)を背負って弁当をぶら下げて、懐中にはおのおの二十銭ずつ持って、そうして夜の十時頃までかかって、ようやく江の島のこっち側まで着いた事は着いたが、思い切って海を渡るものは誰もなかった。申し合せたように毛布(けっと)に包まって砂浜の上に寝た。夜中に眼が覚めると、ぽつりぽつりと雨が顔へあたっていた。その上犬が来て、真水英夫の脚絆を啣(くわ)えて行った。夜が白んで物の色が仄(ほのか)に明るくなった頃、御互の顔を見渡すと、誰も彼も奇麗に砂だらけになっている。眼を擦ると砂が出る。耳を掘くると砂が出る。頭を掻いても砂が出る。七人はそれで江の島へ渡った。その時夜明けの風が島を繞(めぐ)って、山にはびこる樹がさあと靡(なび)いた。すると余の傍に立っていた是公が何と思ったものか、急にどうだ、あの樹を見ろ、戦々兢々としているじゃないかといった。 草木の風に靡く様を戦々兢々と真面目に形容したのは是公が嚆矢(はじめ)なので、それから当分の間は是公の事を、みんなが戦々兢々と号していた。当人だけは、いまだに戦々兢々で差支えないと信じているかも知れないんだから、ゼントルメン大いに飲みましょうも、この際亜米利加語として士官側に通用したと心得ているんだろう。通じた証拠には胴上にしたじゃないかくらい、酔うと云いかねない男である。(満韓ところどころ 12)
2018.01.18
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17日、18日と上京します。荷物になるためにPCを持っていかないので、18日のアップは夜の10時過ぎになります。申し訳ございません。 学校のあとに淋しき青田かな(明治27) 学校の昼静かなり百日紅(明治27) 二階建の学校見えつ麦の風(明治31) センター試験が終わり、だんだんと入学試験のシーズンになってきました。 子規が大学予備門に入学できたのは、明治17(1884)年9月で、共立学校の同級生数人と試験に挑戦しました。共立学校は東京大学予備門をめざす人たちのための学校で、松山在住時からの友人・秋山真之や勝田主計とともに、子規は英語や数学を学んでいます。 自分でも英語力不足だと思っていたのですが、運を試そうと受験してみました。ところが、試験発表を見て子規は驚きました。なんと、子規と菊池謙二郎の二人だけが合格していたのです。 試験を受けた子規は、試験の中にわからない英単語があったのですが、隣の仲間から「幇間」という答えが届きました。意味は通じなかったのですが、それをそのまま書いた子規は、後で「法官」だと気がつきます。ところが、試験の結果、教えてくれた友人は不合格でしたが、なんと子規は東京大学予備門に合格していました。子規はこの一件で「試験は屁のごとし」と思うようになっています。 明治18年(1885)3月、2学期の試験で、子規は不合格になりました。『墨汁一滴』によると、子規の勉強方法は月に一度の徹夜勉強だけで、毎日の下読みはほとんどしませんでした。子規の英語への劣等感を煽ったのは、同級生の山田美妙でした。試験の答案を英語でスラスラと書く美妙を見た子規は、自分の英語力を心細く感じたといいます。 この年の落第は数学(幾何学)でしたが、子規はその時のことを「余が落第したのは幾何学に落第したというよりもむしろ英語に落第した「試験は屁のごとし」と思っていた子規でしたが、試験でズルをすることは卑劣なことだと考え始めた子規は、カンニングをやめたのですが、試験勉強はあまり熱心ではありませんでした。 余が大学予備門の試験を受けたのは明治十七年の九月であったと思う。この時、余は共立学校(今の開成中学)の第二級でまだ受験の力はない、ことに英語の力が足らないのであったが、場馴れのために試験受けようじゃないかという同級生がたくさんあったので、もとより落第のつもりで戯れに受けてみた。用意などは露もしない。ところが科によると存外たやすいのがあったが、一番困ったのは果たして英語であった。活版摺の問題が配られたので恐る恐るそれを取って一見すると、五問ほどある英文の中で自分に読めるのはほとんどない。第一に知らない字が多いのだから考えようもこじつけようもない。この時、余の同級生は皆片隅の机に並んで座っていたが(これは初めより互いに気脈を通ずる約束があったためだ)余の隣の方から問題中のむつかしい字の訳を伝えて来てくれるので、それで少しは目鼻があいたような心持ちがして、いい加減に答えておいた。その時、ある字が分からぬので困っていると、隣の男はそれを『幇間』と教えてくれた。もっとも、隣の男も英語不案内の方で、二、三人隣の方から順々に伝えて来たのだ。……今になって考えてみるとそれは『法官』であったのであろう、それを口伝えに『ホーカン』というたのが『幇間』と間違うたので、法官と幇間の誤まりなどは非常の大滑稽であった。それから及落の掲示が出るという日になって……行ってみると意外のまた意外に及第していた。試験受けた同級生は五、六人あったが、及第したのは菊池仙湖(謙二郎)と余と二人であった。この時は、試験は屁のごとしだと思うた。……しかし余のもっとも困ったのは、英語の科でなくて数学の科であった。この時数学の先生は隈本(有尚)先生であって、数学の時間には英語よりほかの語は使われぬという規制であった。数学の説明を英語でやるくらいのことは格別むつかしいことでもないのであるが、余にはそれが非常にむつかしい。つまり数学と英語と二つの敵を一時に引き受けたからたまらない。とうとう学年試験の結果幾何学の点が足らないで落第した。(『墨汁一滴』6月14日) 余が落第したのは幾何学に落第したというよりもむしろ英語に落第したという方が適当であろう。それは幾何学の初にあるコンヴアース、オツポジトなどという事を英語で言うのが余には出来なんだので、そのほか二行三行のセンテンスは暗記する事も容易でなかった位に英語が分らなかった。落第してからは二度目の復習であるから初のようにない、よほど分りやすい。コンヴアースやオツポジトを英語でしゃべる位は無造作に出来るようになつたが、惜しい事にはこの時の先生はもう隈本先生ではなく、日本語づくめの平凡な先生であつた。しかしこの落第のために幾何学の初歩が心に会得せられ、従ってこの幾何学の初歩に非常に趣味を感ずるようになり、それにつづいては、数学は非常に下手でかつ無知識であるけれど、試験さえなくば理論を聞くのも面白いであろうという考を今に持っている。これは隈本先生の御蔭かも知れない。 今日は知らないが、その頃試験の際にズルをやる者は随分沢山あつた。ズルとは試験の時に先生の眼を偸んで手控を見たり隣の人に聞いたりする事である。余も入学試験の時に始めてその味を知ってから後はズルをやる事を何とも思わなんだが、入学後二年目位にふと気がついて考えて見るとズルという事は人の力を借りて試験に応ずるのであるから、不正な上に極めて卑劣な事であると始めて感じた。それ以後は如何なる場合にもズルはやらなかった。(『墨汁一滴』6月15日)
2018.01.17
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漱石が大学予備門に入学するまでに通っていたのは成立学舎でした。成立学舎は駿河台にあり、英語を使って上級学校進学のための学習をする、予備校のような存在でした。漱石は、明治16年に成立学舎へ入学し、明治17年の秋に大学予備門に合格したのでした。その際、成立学舎の入学者か中心となり、十人会が組織されました。主なメンバーは、漱石、太田達人、佐藤友熊、橋本左五郎、中川小一郎、斎藤英夫、小城斎らで、成立学舎出身ではありませんでしたが、中村(当時は柴野)是公もその中に含まれていました。 太田達人は、岩手県盛岡に生まれ、明治26人に帝国大学物理学科を卒業。大阪、秋田、樺太などの中学長を歴任しました。 佐藤友熊は、鹿児島生まれで、明治27年に帝国大学法科大学法律学科を卒業。検察官から警察官僚になり、関東都督府警視総長や札幌区長をつとめました 橋本左五郎は岡山県に生まれ、予備門から札幌農学校に入学。のちに東北帝国大学農科大学教授に就任して、日本初の「畜産製造学」の講義を受け持地ました。 中川小一郎は、京都の亀岡に生まれ、帝国大学から文部省に進み、西園寺公望文部大臣の秘書官となって女子教育強化わ進めました。のちに実業界へ転身し、貴族院議員に選ばれています。 中村是公(よしこと)は広島県の出身で、漱石の親友でした。帝国大学法科大学を卒業して、大蔵省に入省。秋田県収税長を経て、台湾総督府に赴任し、南満州鉄道株式会社(満鉄)の副総裁となります。のちに総裁となり、鉄道院総裁、東京市長、貴族院議員などを歴任しました。 錚々たるメンバーで、漱石は彼らと青春の火を燃やしたのでした。 龍口了信著『予備門の頃』には、学生たちの生活が評者されています。 牛肉店は、予備門から二町ばかりの所に松本という店が出来た。これが牛肉店の初めである。珍しいから、時には行ったが、高いのでそう度々は行くことは出来ない。鳥屋はシャモ屋といって、牛肉店が出来ない前からあったが、これも高いから書生はあまり行かなかった。蕎麦、うどん、焼芋、妙豆などが、まず書生の食うものであった。蕎麦はもり、かけ各八厘、当時は天保銭が八厘に通用していたから、天保銭一枚で蕎麦のもりを食うことが出来たのである。寿司などは高級のもので、書生は口にしなかった。何しろ下宿料が一ケ月三円から三円五十銭、上等で四円という時代である。当時酒は日本酒が一合二銭か三銭であり、ビールは一瓶二十五銭か三十銭で、日本酒はどこにでもあるが、ビールは滅多になく、珍らしかった。こんなわけで書生は飲むならみな日本酒を飲んだ。芳賀君は後に非常な酒豪になったが、書生時代には酒豪というほどではなかった。(龍口了信著 予備門の頃) また、漱石は、予備門合格の祝いとして、養子先の塩原家で牛鍋パーティを催したようです。塩原家に下宿した関荘一郎の危機が来て、「『道草』のモデルと語る記」という文があり、きっちりとした裏付けが取られていないのですが、漱石の生活ぶりを養子先の塩原家の側から綴ったものです。そのため、記述にはややバイアスがかかっているかもしれません。 金之助が高等学校ヘ入ってからも、学資や下宿料や小使一切、みな老人の懐から出して、一金も夏目の家からは出して貰はなかった。金之助はこの頃から我儘が一層ひどくなって来た。ある日こんなことがあった。「明日家へ友達二三人を連れて行くから、牛肉を何斤と葱を何束、飯はお植で一つ、香の物はどんぶりで幾個、それだけの者を整えて午後の三時をきっかけに一家を明け渡せ。下女も婆やも誰も残っていることを許さない」。 養父母に対して金之助はそうした申し渡しをしたのであった。かつ子は金ちゃんは塩原の殿様だからなどと、その通りの品物を煮れば食べられる許にちゃんと整えて、その時間に老人と一所に(婆やも女中もつれて)浅草へ出かけて行った。帰ってみると食べ殻がそこらしゅう散かしてある。汁の滴、飯粒のこぼれ、相撲でもとったものか、畳の上は狼籍をきはめていた。おまけに天井へ吊しておいたかき餅を全部平げ、戸棚からは菓子などを引っ張り出して食いちらし、そうしてもう本人どもは引きあげたあとであった。「ほんとに呆れてしまう」。 老人夫婦は矢張り苦笑するより外はなかった。(関荘一郎 『道草』のモデルと語る記)
2018.01.16
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庵の春鏡餅より白みけり(明治26) 齒固や鼠もためす鏡餅(明治26) 黴生て曇るといふらん鏡餅(明治26) 丸きもの初日輪飾り鏡餅(明治26) 玄翁でわるや鍛冶屋の鏡餅(明治27) 海老赤く穂俵黒し鏡餅(明治28) 歳神様に捧げる丸く大きな餅を鏡餅といいます。ご神体には鏡が使われますが、その形と同じく円形をしているので鏡餅と呼ばれます。「長もちする」「もち歩くことができる」「満月すなわち望月(もちづき)の日につくる」など、なぜ餅と呼ぶのかについては諸説ありますが、『豊後国風土記』逸文には、豊後国球珠郡の肥えた土地へ多くの人が移り住み、裕福な暮らしをしていました。あるとき主人が弓を射ようと思いますが、的がなかったので、餅を的として射たところ、餅は白鳥に変わり飛び去ってしまったという伝説が残っています。 柳田国男は『食物と心臓』で、餅は「人間の心臓の形を、象取っていたものではないか」と想像し、餅に特別な力があることから「力餅」と呼び、柳田國男の時代には峠の茶屋で餅を売っていて、それが「力餅」の名で、歴史滋養の人物にちなんだという話が伝わっています。餅は、食べる人に力を与えると考えられており、出産のときの餅や誕生祝いの餅を「力餅」ともいいました。 正月に神へ供えられる鏡餅は、歳神へパワーを与えるとともに、神に祈る家族への生命に力を与えると考えられていたのです。これは、餅が腹持ちがよく、パワーのある食物として捉えられていたことがうかがえます。民話の「ネズミの相撲」のように、餅はまた力の源でもありました。 鏡餅は、場所によって多少の違いがありますが、歳神、床の間、かまどの神、蔵、便所、農機具、臼や杵、部屋などに飾られます。供えた鏡餅は、鏡開き・鏡あげ・オカザリコワシなどといって下げられ、1月11日や15日に、おろした餅を雑煮にして食べます。その際、餅を刃物で切るのは不吉だとして、叩き割ってしまいます。 近年では、あずきがゆや汁粉の中に入れて食べることが多くなっています。 餅と団子とはどこがちがうかということなども一つの問題になる。双方ともに節の日の食物として作られるが、一方は粉をこね、他の一方は粒を搗いてつぶすものに、限るかというと必ずしもそうでない。杵が今のように大きくなるまでは、餅も粉にしてから搗くのが普通であり、粉も挽臼の普及するまでは、やはり水に浸してから臼に入れて搗いていた。一方は仏事に、一方は神事にという風に考えている人もあるが、これなども必ずしも事実と一致しない。 誰でも知っている一つのちがいは、餅には鏡とかオソナエとかいって、大きな円い一重ねを作るに反して、団子は一粒二粒といって数多く、めいめいがほしいほど取って食べる。これが古くからの餅の用途であり、団子は新しくて、もうその伝統をもっていないという点かと思う。節の日の食物としては、一人もその分配に洩れないのはもちろんだが、そういう中にもおのずから目ざす人、または中心というものがあって、これだけは是非ともここへと、最初からきめておくことが、団子には見られない特色のようである。 神におそなえの大きいのを上げる外に、もとは正月には身祝と称して、一人一人にもやや小ぶりな鏡餅をすえ、それでまたオスワリという名もあった。近頃はそれを省略して、一家共同の大鏡を一重ね、床の間に飾って見ているようにもなったが、それでも関西では雑煮の餅は円く、餅は円いものという概念はまだ消えてはいない。ただその小餅がいよいよ小さく、数でこなすという点が団子と近くなって、後には切餅に作る風が一般化して来たのだが、今でも東北地方に行くと馬の餅・臼の餅・鉈なたの餅などと、家畜にも家具にも人並みに、それぞれの円い餅を供している。つまりはこういう気持のいい配給の出来ることが、モチというものの早くから、めでたいものと見られた理由だったのである。(柳田國男 年中行事覚え書 餅と祝い) 來年の餅の匂ひや大三十日(明治26) はつかしや餅なき臼に音たてん(明治26) 餅つきの隣へ遠し草の庵(明治26) 餅をつく日から立けり口の春(明治26) 病牀に聞くや夜明の餅の音(明治34)
2018.01.15
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夏目漱石というと、胃弱で神経質というイメージがあり、学生の時にスポーツをやっていたなんて紳士られないと思う人も多いのではないでしょうか。 ところが、漱石は器械体操とボートを楽しんでいました。東京大学が、隅田川で最初の学内ボート大会を開いたのは明治17年10月17日で、漱石が予備門に入学したのはこの年の9月ですから、もび門の学生の間にボートに関心が高まっていたと考えられます。 『こゝろ』に登場する「K」のモデルとされる龍口了信は『予備門の頃』の中で、次のように書いています。 その頃は、勿論今のようなスポーツはやらなかったが、それでも予備門の運動場には機械体操の鉄棒があり、ボール投げもやっていた。それからボートがあった。私は予備門へ入ってからは、富士見町から猿楽町の末富屋という下宿に移り、中村是公君、菊池謙二郎君、得能文君(得能君は遂に予備門には入らなかった)等と一緒にいたが、ボートは柳橋の下につないであるので、神田からてくてく歩いて柳橋まで行って、ボートに乗った。そして和服に袴をはいたまま隅田川を漕ぎまわるのである。大学に入ってからはボートの倶楽部も出来て、中村君や白石元治郎君は法科の名高いクルーであった。これに対して夏目君や私どもは文科でも倶楽部をつくったが、物にならなかった。芳賀君も下手な姿勢でボートを漕いだことを今に記憶している。(龍口了信 予備門の頃) ただ、龍口了信の文章を見ると、スポーツはあまり得意ではなかったように書かれています。 柴田宵曲の『漱石覚え書』には、漱石の親友・中村是公がボートで勝ったため、学校から記念の金が出て、本を買ったという話を紹介しています。 漱石の学生時代に親友の中村是公がボートレース選手になって勝った。学校から若干の金をくれて、その金で書籍を買い、それに某教授がこれこれの記念に贈るという文句を書添えるとなった時、是公が俺は書物なんか要らぬ、何でも貴様の好きなものを買ってやると云って、アーノルドの論文とハムレットとを買ってくれた。漱石は生涯その本を持って居ったらしい。(柴田宵曲 漱石覚え書 時代的相違) 漱石自身も『満韓ところどころ』の中で次のように記しています。 入学の当時こそ芳賀矢一(はがやいち)の隣に坐っていたが、試験のあるたんびに下落して、しまいには土俵際からあまり遠くない所でやっと踏み応えていた。それでも、みんな得意であった。級の上にいるものを見て、なんだ点取がと云って威張っていたくらいである。そうして、ややもすると、我々はポテンシャル・エナージーを養うんだと云って、むやみに牛肉を喰って端艇(ボート)を漕いだ。試験が済むとその晩から机を重ねて縁側の隅へ積み上げて、誰も勉強のできないような工夫をして、比較的広くなった座敷へ集って腕押をやった。岡野という男はどこからか、玩具の大砲を買って来て、それをポンポン座敷の壁へ向って発射した。壁には穴がたくさん開いた。試験の成績が出ると、一人では恐いからみんなを駆り催して揃って見に行った。するとことごとく六十代で際どく引っ掛っている。橋本は威勢の好い男だから、ある時詩を作って連中一同に示した。韻も平仄もない長い詩であったが、その中に、何ぞ憂えん席序下算の便と云う句が出て来たので、誰にも分らなくなった。だんだん聞いて見ると席序下算の便とは、席順を上から勘定しないで、下から計算する方が早分りだと云う意味であった。まるで御籤(おみくじ)みたような文句である。我々はみんなこの御籤にあたってひやひやしていた。 そのうち下算にも上算にもまるで勘定に這入らないものが、ぽつぽつできて来た。一人消え、二人消えるうちに橋本がいた。是公がいた。こう云う自分もいた。大連で是公に逢って、この落第の話が出た時、是公は、やあ、あの時貴様も落第したのかな。そいつは頼母しいやと大いに嬉しがるから、落第だって、落第の質が違わあ。おれのは名誉の負傷だと答えておいた。(満韓ところどころ 14) 漱石の文章を見ると、牛肉を食べるための口実がボートのようですが、ただ、予備門での落第は漱石にだいぶこたえたようで、心を入れ直して学問に志す道を拓きました。 人間というものは考え直すと妙なもので、真面目になって勉強すれば、今迄少しも分らなかったものも瞭然(はっきり)と分る様になる。前には出来なかった数学なども非常に出来る様になって、一日(あるひ)親睦会の席上で、誰は何科へ行くだろう、誰は何科へ行くだろうと投票をした時に、僕は理科へ行く者として投票された位であった。元来、僕は訥弁で自分の思っていることがいえない性だから、英語などを訳しても分っていながらそれをいうことが出来ない。けれども考えて見ると分っていることがいえないという訳はないのだから、何でも思い切っていうに限ると決心して、その後は拙くても構わずどしどしいう様にすると、今迄は教場などでいえなかったこともずんずんいうことが出来る。こんな風に落第を機としていろんな改革をして勉強したのであるが、僕の一身にとってこの落第は非常に薬になった様に思われる。若しその時落第せず、唯誤魔化して許り通って来たら、今頃は何んな者になっていたか知れないと思う。(落第)
2018.01.14
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昨日、1月12日の愛媛新聞に、愛媛出版文化賞奨励賞のインタビュー記事が載りました。正式な発表は、1月5日だったのですが、わかりにくかったのか、興味をそそられなかったのか、5日には誰からもお祝いのメールがなかったのに、12日には電話やメールが結構届きました。 以下が『大食らい子規と明治』についてのインタビュー記事です。 食欲と旅にスポット 俳聖の力と源泉をたどる 松山出身の俳人正岡子規。病気に苦しみながらも34歳という短い人生で俳句や短歌の革新に取り組み、明治の近代文学に大きな足跡を残した。その力の源泉は何だったのか。書は「食欲」と「旅」にスポットを当て、子規の魅力をたっぷりと味わえる寸おいしい」一冊だ。今治市在住のフリーライター土井中照さんは、地域の歴史や民俗から郷土料理まで幅広い分野の本を出版してきた。子規の著作は「そこが知りたい子規の生涯」「のぼさんとマツヤマ」に続き3 冊目。一昨年春に病気を患い手術し、生誕150年に当たる昨年の出版を目指して執筆に着手した。自身の病気を「食欲や命について改めて考えさせられ、子規を感じるためにはいい体験だった」とひょうひょと語る。 本書では、初の上京で食べた菓子パンや、桜餅とロマンス、愚陀仏庵で漱石の払いで食べけ続けたウナギ、旅先で出合った料理など、さまざまなエピソードを盛り込みながら紹介。「正岡家の家計簿」ではエンゲル係を約62%と算出するなど、数くの文献資料から集めたデータやこぼれ話、イラストを満載して、分かりやすく解説する土井中さんならではの手法が今回も存分に発揮されている。「命燃え尽きるまで頑張り、俳聖と称される子規に学ぶところは多いが、ごく普通の生活者の側面もあった」と土井中さん。だから高邁(こうまい)な人生や作品だけでなく、身近なエピソードを織り交ぜながら、紙芝居のように表現。読者の好奇心を刺激することを大事にしているだという。「食べることは人間の基本であり、身近な幸せ。それは自分の本を書く姿勢とも似ている。知識・情報を咀嚼(そしゃく)してもらい、豊かで幸せな心になってもらえたら」と話し、後への意気込みをみせる。 この記事ではカットされていますが、ブリア=サヴァランが著した『美味礼讃』に登場する「教授のアフォリスム」のうちの「どんなものを食べているか言ってみたまえ。君がどんな人間であるかを言いあててみせよう」という言葉にインスパイアされて、子規の食生活から子規という人を描こうと考えたとも答えています。 子規は、学生時代の自慢できる大食い体験に始まり、結核にかかってからの体を維持するための栄養食に関心を持ち、体が動かなくなり「病牀六尺」の生活を送るようになると滋養に関心を向けました。これが子規のいわゆる「贅沢主義」なのですが、ブランドや美味しさにはあまりこだわることなく、肉や魚を中心とする食事で、命を繋いだのでした。 教授のアフォリスム1.生命がなければ宇宙もない.そして生きとし生けるものはみな養いをとる。2.禽獣はくらい、人間は食べる。教養ある人にして初めて食べ方を知る。3.国民の盛衰はその食べ方いかんによる。4.どんなものを食べているか言ってみたまえ。君がどんな人間であるかを言いあててみせよう。5.造物主は人間に生きるがために食べることを強いるかわり、それを勧めるのに食欲、それに報いるのに快楽を与える。6.グルマンディーズはわれわれの判断から生まれるので、判断があればこそわれわれは、特に味のよいものを、そういう性質を持たないものの中から選びとるのである。7.食卓の快楽はどんな年齢、身分、生国の者にも毎日ある。他のいろいろな快楽に伴うことも出来るし、それらすべてがなくなっても最後まで残ってわれわれを慰めてくれる。8.食卓こそは人がその初めから決して退屈しない唯一の場所である。9.新しい御馳走の発見は人類の幸福にとって天体の発見以上のものである。10.胸につかえるほど食べたり酔っぱらうほど飲んだりするのは、食べ方もの味方も心得ぬやからのすることである。11.食べ物の順序は、最も実のあるものから最も軽いものへ。12.飲み物の順序は、最も弱いものから最も強く香りの高いものへ。13.酒をとりかえてはいけないというのは異端である。舌はじきに飽きる.三杯目からあとは最良の酒もそれほどに感じなくなる。14.チーズのないデザートは片目の美女である。15.料理人にはなれても、焼肉師のほうは生まれつきである。16.料理人に必要欠くべからざる特質は時間の正確である。これはお客さまのほうも同じく持たねばならぬ特質である。17.来ないお客を長いこと待つのは、すでにそろっているお客さま方に対し非礼である。18.せっかくお客をしながら食事の用意に自ら少しも気を配らないのは、お客をする資格のない人である。19.主婦は常にコーヒーの風味に責任を持たねばならず、主人は吟味にぬかりがあってはならない。20.だれかを食事に招くということは、その人が自分の家にいる間じゅうその幸福を引き受けるということである。(サヴァラン 美味礼讃)
2018.01.13
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子規は、若い頃に書き留めた『筆まかせ』で、夢について綴っています。明治17年の「夢中の詩」は風邪をひいて声が出なかったとき「夜半夢驚くの際、雪の窓を打つを聞く。夢か幻か、一聯を得たり。『打窓声小軟於雨、鋪地色明白似霜』、翌暁眼覚めて後猶模糊心胸にあり」とあり、病の中で見た夢か現実かよくわからない瞬間を書き留めています。 明治18年には「夢」で「鹿を追う猟師は山を水とかや。誠に利名に耽りて世を忘れるもの多し。鶏鳴一声、一夜の夢のサメし心地すれどもその実ね夢が覚めたのか、または夢が始まったのか知るべからず。もしいつか真正に夢が醒むるものなりせば、我々は一日一日とその醒むる時に近きいるに相違なし」と書き、「夢の国」では「華胥の国とか邯鄲の夢とかいうことを荘子流に、あるは小説流にあやをつけ、艶をつけて詳細に説き出しなば面白き文章のできることなるべし」、「夢卜」では「夢を聞けば大方その人の性質を知るべき也。例えば平生は口に大膽なることをいう人にても、もしその人が実際卑怯なる時は決して夢の中にても、大膽なる仕業はなさぬもの也」とあります。 これを書いた当時、子規は哲学者になろうと考えていました。夢か現か分からぬ瞬間に心を奪われ、生きるということの意味を問おうとしていたようです。ところが年下の米山保三郎の意見を聞き、これはとてもかなわないとばかり、哲学者への道を諦めたのでした。 明治21年の「夢不絶」には「明治十八年頃、板垣という下宿に井林氏とともに下宿したり。その頃余は『人は毎夜睡眠中は常に夢みつつあるもの也。その記憶せざるとは、その夢が感情を激昂せしむるの度の多少による』といいしに、井林氏は大にこれに反対をとなえられしことありしが、この頃、人の話を聞くに西洋の対価にして我が説のごときことをいう者多しと」と、書いています。 フロイトは、無意識下で見る夢を深層心理に結びつけて、「夢分析」を提唱しました。夢の内容は無意識を反映したものと考えています。ユングは「夢は個人的無意識と、集合的無意識が、意識の世界に表出したものである」といい、フロイトとユングの夢の捉え方には、少しながらの差異があるのですが、子規のいう「激昂=日常の強い記憶」が夢として表出するという考えにも似ています。 さかさまに何の夢見る草の蝶(明治25) 春の夜や何の夢見て蝶一つ(明治26) 蝶しばし舞ふや翁の夢の上(明治26) 猫の夢上に胡蝶の狂ひ哉(明治26) 世の中の夢は夢見る胡蝶哉(明治26) 夢と蝶といえば、歌舞伎の「保名」を思い出します。「保名」は安倍晴明の父である安部保名のことです。 保名は、恋人の榊の前が身の潔白を証明するために、保名の目の前で自害したことにショックを受けね気がふれてしまいます。野辺をさまよい、野に飛ぶ、つがいの蝶に誘われて、たわむれながら悲嘆にくれています。榊の前の妹・葛の葉姫が現れます。葛の葉姫は、榊の前の妹と瓜二つで、葛の葉姫と言葉を交わした保名は正気に戻ります。しかし、葛の葉姫は狐の化身でした。その正体を知られた葛の葉姫は、子供の晴明と「恋しくば尋ねてきてみよ和泉なる 信田の森のうらみ葛の葉」という和歌を残して去っていきます。 大阪の松竹座で、仁左衛門の「保名」を観たことがあります。狂いながら舞うその姿には、そこはかとないあわれが感じられ、花道を案内するのは、つがいの蝶でした。蝶には、現実から非現実の世界を繋ぐ存在でもありました。 明治34年5月15日発表の『墨汁一滴』には「五月はいやな月なり。この二、三日漸く五月心地になりて不快に堪へず。頭もやもや考少しもまとまらず。夢の中では今でも平気に歩行いて居る。しかし物を飛びこえねばならぬとなるといつでも首を傾ける」と書き、「去年の今頃はいざるようにして次の間位へは往かれたものが今年の今は寐返りがむつかしくなった。来年の今頃は動かれぬやうになつて居るであろう」と続けています。 五月はいやな月なり。この二、三日漸く五月心地になりて不快に堪へず。頭もやもや考少しもまとまらず。 夢の中では今でも平気に歩行いて居る。しかし物を飛びこえねばならぬとなるといつでも首を傾ける。 この頃の天気予報の当らぬにも驚く。 体の押されて痛い時は外に仕方がないから、物に触れぬように空中にフハリと浮きたいと思う、空気の比重と人間の比重とを同じにして。 去年の今頃はいざるようにして次の間位へは往かれたものが今年の今は寐返りがむつかしくなった。来年の今頃は動かれぬようになつて居るであらう。 先日余の引いた凶の鬮(くじ)を穴守様で流してもろうたとわざわざ鼠骨の注進。 筍が掘つて見たい。 日光新緑を射て驟雨一過、快。緑のぬれぬれしたる中を鴉一羽葉に触れそうに飛んで行く。 附記、後で見れば文体一致せず。頭のわるい証なり。(墨汁一滴 5月15日) 子規の体が悪くなるに従い、子規はあまりいい夢を見なくなったようです。子規を看病してくれた看護婦・加藤はま子あての手紙に「夜毎の夢さえろくなことはみず、はかなきことばかりに候」と書いています。 足しひれて邯鄲の昼寝夢さめぬ(明治30) 雜煮くふてよき初夢を忘れけり(明治31) 短夜の鶏鳴いて夢悪し(明治32) 初夢に尾のある者を見たりけり(明治33)
2018.01.12
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花の春うかれて屠蘇の二日醉(明治25) 屠蘇に醉ふ龜岩ふんで躍りけり(明治26) 屠蘇の醉風頻りに吹く頬のあたり(明治28) 養老の屠蘇にもならぬめでたさよ(明治28) 拜領の盃屠蘇を飲み初めぬ(明治30) 病牀に蜜柑剥くなり屠蘇の醉(明治31) 福祿が行事に立つや屠蘇の醉(明治32) 子規は、屠蘇についての句を数多く残しています。 屠蘇は、山椒・桔梗・肉桂(クスノキ科の常緑喬木の樹皮・シナモン)・白術(キク科のオケラの外皮をはいだもの)・防風などを調合して、紅の絹袋に入れ、酒に浸したものです。一種の邪気払いで、年のはじめに飲むことによって一年の幸せを願います。中国から伝来し、日本では九世紀前半には、天皇のために、元日からの三日間、屠蘇散・白散・度嶂散を御薬として用いたようです。 江戸時代になると、庶民の間にも屠蘇は広がり、医者が病人に贈ることもありました。目下の人から飲むのが作法とされていますが、これは中国の風習からきたもののようです。 下戸の子規のことですから、屠蘇よりもおせち料理を好んだのではないでしょうか。 おせち料理の「おせち」とは、お節=節供のことで、その日に用いられる料理のことをいいますが、一般には、正月の正式な食事や食べもののことをいいます。正月には、年神に酒や餅を供え、雑煮で家族や一族が揃って食べ、新年を祝います。それとは別に、数々のめでたい料理を重箱などに盛り、三が日の食事とします。 子孫繁栄を願う数の子やごまめ(=田作り)、一年間マメに働くようにとの煮豆、叩きごぼう、昆布巻、卵焼き、蒲鉾、里芋、大根、人参、煮しめ、甘露煮に加え、栗や豆のきんとん・羊羹などの甘味類や酢の物も用意されます。 おせち料理は、正月三が日に食べるといいますが、古くからの習俗では年神をお祭りするときの料理であり、大晦日の夜から食べはじめてもよいとされていました。かつて東京では年越しの正式な食事をオセチと呼んでいたといいます。 口紅や四十の顔も松の内(明治26) 父母います人たれたれぞ花の春(明治27) 銭湯に善き衣着たり松の内(明治30) 蟹を得たり新年会の残り酒(明治33)
2018.01.11
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あたら元旦を持ちも食はずに紙衣哉 漱石(明治29) 五斗米を餅にして喰ふ春来たり 漱石(明治30) 餅を切る庖丁鈍し古暦 漱石(明治30) ふくれしよ今年の腹の粟餅に 漱石(明治30) 内田百閒は、紅山の出身で、中学生の時に漱石の『吾輩は猫である』を読んで感激、漱石ファンとなりました。東大に入学してから、明治44年に胃潰瘍で入院中の漱石を見舞い、その門に入りました。 百閒の著作『漱石山房の元旦』の中に、漱石の家の雑煮が言及されています。「屠蘇が出て、女中がお膳を持って来る。お雑煮は毎年きまった鴨の這入った汁であった。大変うまい。しかしお雑煮という物にそういう味をつけて、うまくしてあるのは下品なような気がしたが、こちらの習わしであろうと考えて、いつもおいしく頂戴した」とあります。 東京の雑煮は、焼いた切り餅に鶏ガラや鴨の肉と昆布でとったダシを使ったすまし汁で、小松菜・大根・かまぼこの具になります。一方、百閒の育った岡山の雑煮は、丸もちをそのまま、カツオと昆布のダシでとったすまし汁に入れます。具は、焼いたブリを入れ、ほうれん草、紅白のかまぼこを彩にします。 岡山の昆布と鰹節のダシを食べ慣れていた百閒には、肉のダシを下品だと感じさせたのでしょうか。 近年は億劫になって、年賀に出かける事もないが、その以前はお正月というと随分忙しかった。今の気持で考えると他人の事のように思はれる。大晦日は大概夜遅くなるので、寝不足の儘元旦の床を離れ、先す恒例のお雑煮を祝うのだが、私の家は昔からの仕来りで元日味噌汁、二日は汁粉、三日になって初めてすましという事になっている。味噌汁の雑煮などうまかったためしがない。 元旦から時間にせかせか追っかけられて、フロックコートを箸て、学校の賀詞交換会に顔を出す。大礼服のたしなみがなかったので参賀する事は出来なかった。それから掛け持ちの私立大学の名刺交換会に廻り、どうかするとその席で飲み過ぎて、いい加減お正月らしくなったりする。 昔の先生や先輩の家にも廻らなければならぬものと考えているので、出かけて行くが、一軒一軒上がり込んでいては間に合わない。人の家の玄関口をのぞいて歩くなど、余計な事だと当時の日記に書いているが、全くその通りだと思う。郊外の大久保だの目白他のという所へ行くのは迷惑であって、磨いた靴が台なしになった。大正の初めの頃の事であるが、その時分荻窪とか世田ケ谷とかは狐狸の住み家であったのではないかと思う。 そうして方方廻っても、夕方余り遅くならぬ内には必ず早稲田南町の漱石先生の許に廻るように心掛けた。当時の気持では、漱石山房で年賀をしなければ年が改まったような気がしななかったのである。 学校の経験からいうと、大学を出たものがすぐ高等学校の先生に赴任して来る事はしばある。つまり三年か四年の先輩が先生となる事は珍らしくないのであって、そういう点からいうと、小宮豊隆さんとか安倍能成さんとかいう人達は、私どもの先生になったかも知れないのだが、今自分が五十を一つ越した歳で、その人達を見ると、大して違うようにも思わない。しかし漱石先生に年賀している当時は矢張り大分隔てがあったようで、歳の点だけでなく、漱石先生との関係で私よりもずっと先輩であったわけなのだが、その人達はお正月の席でもくつろいでいた。私などは固くなって、先生の前に新年の祝辞をいうのであるが、漱石先生はお目出度いのか面倒臭いのか知らないけれど、ふんふんと曖昧な声をするばかりで甚だ心もとない。その内に屠蘇が出て、女中がお膳を持って来る。お雑煮は毎年きまった鴨の這入った汁であった。大変うまい。しかしお雑煮という物にそういう味をつけて、うまくしてあるのは下品なような気がしたが、こちらの習わしであろうと考えて、いつもおいしく頂戴した。 毎週木曜に先生の許に集まる時と大して変わった点があるわけでもないけれど、ふだんは見馴れないような、高名な人の顔を見る事もあった。高浜虚子氏が来ておられて、漱石先生やその他の人人と能だか謡だかの話がはずんでいたが、私は謡をうたう人の気持ちが嫌いだったので、つい傍から「謡は乙に澄ましているからいやだ」というような事をいったら、高浜さんが私の方に向き直って、謡が乙だというのは、それはどういう意味ですかと反問されたので、忽ち詰まってしまった事もある。 さっき云った小宮さんや安倍さんと同輩の鈴木三重吉さんは大概いつも酔っ払っていて、どうかするとお正月の晩から泣き出したり、変に腹を立てて傍の者に八つ当りしたりした。そういう時に、漱石先生はそれを聞いているのだが、成り行きに任せて、知らん顔をしているようである。早い客はひる前から来るのも有ったに違いない。平生余り顔を見せないような人もいて、そういう人人が入れ代わったり、中にはその儘晩までいすわるのもある中で、漱石先生はよく疲れずに、みんなの相手が出来たものだと思う。 漱石先生がなくなられた後も、お正月には矢張り同じような顔振れが漱石参謀に集まっていたが、一座の気持が大分変わって来た事はいう迄もない。大正八年の私の日記を見ると、余程面白くなかったと見えて、その席に漱石先生の幽霊が出ればいいと思ったなどと書いている。その日は、「朝から空のよごれた変な天気で風が吹いていた。夏目にいる頃から段段激しくなって、帰りには雨が降り出した。道道次第にひどくなって、教会の横へ来たら街燈がみんな消えて真暗になった。稲妻がぴかりと光った。大分してから遠雷が鳴ったらしい。俥屋の前まで来たらぱっと電燈がついた。そうしてまた稲光がした。家に帰った頃は暴風雨になった」と書いているが、なるほどそういう元日もあったという事を薄薄思い出す。 先生の生前には木曜日に集まっていたのであるが、なくなられてからは命日の九日を九日会という事にして、以前からの同じ顔振れが寄り合った。お正月は、元日とすぐ後の九日と二度続けて漱石山房へ行く事になる。そのどちらの事であったか判然した事を覚えていないけれど、神楽坂の川鉄から取り寄せた相鴨鍋の御馳走で、その座の人数は十人許りであったが、みんな無闇矢鱈に食べたようであった。私なども息が苦しくなるほど詰め込んで、いいお正月をして帰って来た。何日か後に用事があって夏目へ行った時、その晩の相鴨代が百円だったという話を聞いて胆を潰した事がある。(内田百閒 漱石山房の元旦)
2018.01.10
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明治30(1897)年は、松山において1月に「ほととぎす」が創刊されました。このころの子規は、俳句界に新風を吹き込もうと、躍起になっていました。元旦は鎌倉に滞在して、4日に新年の発会式を上野池之端の「湖心亭」で開きました。 この年の新年に詠んだ俳句には次のようなものがあります。 塗椀の家にひさしき雑煮哉 蓬莱や上野の山と相対す と、「病気などに負けるものか」という、エネルギーの感じられる句を詠んでいます。 明治31(1898)年は、蕪村を旗頭にして俳句革新を進めた年であり、『歌よみに与ふる書』で短歌革新も標榜した年です。まだ死ねぬとばかり、この年も元気な子規でありました。3日に子規の家で根岸会発会が催され、門人たちが集まりました。 門番に餅を賜ふや三ケ日 めでたさも一茶位や雑煮餅 しかし、明治32(1899)年になると、体に陰りが見えて、少し気弱になってきます。その気分を反映してか、この年は病状が悪化して、座ることができなくなりました。元日から子規は発熱します。この日、昨年暮れに高浜虚子からもらった鴨をタライから隣の陸羯南の家の池に放しました。子規は、背負われて羯南宅へ行き、鴨を見送ります。しかし、鴨はその後に死んでしまいました。 初暦五月の中に死ぬ日あり 明治33(1900)年の正月は、やや体の調子が良くなりました。しかし、春になると病状が悪化し、6月を最後に人力車で出かけることも不可能になりました。秋には漱石がロンドンに旅たちます。7日に根岸庵歌会が開かれました。 いたつきの病の牀(とこ)をおとづれし年ほぎ人に酒しひにけり 長病(ながやみ)の今年も参る雑煮哉 病牀を囲む礼者や五六人 病室の暖炉の側や福寿草 明治34(1901)年は、死への恐怖からか時に取り乱すようになりました。冬には門人たちが交代で看病するようになります。 あら玉の年のはじめの七草を植えて来し病めるわがため 春深く腐りし蜜柑好みけり 春の日や病牀にして絵の稽古 明治35(1902)年は、子規が鬼籍に入る年です。句も歌もどことなく死の影がつきまといます。 鉢植の梅はいやしもしかれども病の床に見らく飽かなく 薬飲むあとの蜜柑や寒の内 大事がる金魚死にたり枯しのぶ 鬚剃るや上野の鐘の霞む日に
2018.01.09
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妻や子供にDVをしたこともあった漱石でしたが、晩年になると子供たちと楽しそうにカルタにふけっていました。 ただし、「屁をひって尻つぼめ」「臭いものにはふたをしろ」「頭かくして尻かくさず」などの札を、自分の前に配して、これらを子供たちに取られないようにしたといいます。 でも今から思えば本当に父は優しくなったのです。お正月など、いつも子供達と一緒に、楽しそうにカルタをとっていた父を想い出します。「屁をひって尻つぼめ」「臭いものにはふたをしろ」「頭かくして尻かくさず」といったおかしな札だけを自分のまん前に並べて、これだけは絶対に誰にも取らせまいと、父は、真剣な気構えで坐っているのでした。私達がまた、その札を絶対に父にとられまいと、他の札が読まれる時にも全く上ので、父の前の札ばかり見つめているので、かえって父に負けてしまうのでした。負けても父の得意の札を見事に取った時には、それこそ鬼の首でもとったように快哉を叫んだものでした。(松岡筆子 夏目漱石の『猫』の娘) こうしたところは小説には登場しませんが、『彼岸過迄』や『こころ』などにもカルタが登場します。どうも、漱石はカルタでの心理とともに、家庭の団欒を表現しています。 彼らが公然と膝を突き合わせて、例になく長い時間を、遠慮の交らない談話に更したのは、正月半なかばの歌留多会の折であった。その時敬太郎は千代子から、あなた随分鈍いのねといわれた。百代子からは、あたしあなたと組むのは厭やよ、負けるにきまってるからと怒られた。(彼岸過迄 雨の降る日) ある日奥さんがKに歌留多をやるから誰れか友達を連れて来ないかといった事があります。するとKはすぐ友達なぞは一人もないと答えたので、奥さんは驚いてしまいました。なるほどKに友達というほどの友達は一人もなかったのです。往来で会った時挨拶をするくらいのものは多少ありましたが、それらだって決して歌留多などを取る柄ではなかったのです。奥さんはそれじゃ私の知ったものでも呼んで来たらどうかといい直しましたが、私も生憎そんな陽気な遊びをする心持になれないので、好い加減な生返事をしたなり、打ちやっておきました。ところが晩になってKと私はとうとうお嬢さんに引っ張り出されてしまいました。客も誰も来ないのに、内々の小人数だけで取ろうという歌留多ですからすこぶる静かなものでした。その上こういう遊技をやり付けないKは、まるで懐手をしている人と同様でした。私はKに一体百人一首の歌を知っているのかと尋ねました。Kはよく知らないと答えました。私の言葉を聞いたお嬢さんは、大方Kを軽蔑するとでも取ったのでしょう。それから眼に立つようにKの加勢をし出しました。しまいには二人がほとんど組になって私に当るという有様になって来ました。私は相手次第では喧嘩を始めたかも知れなかったのです。(こころ 先生と遺書) 漱石は、「屁をひって尻つぼめ」のようなおならやお尻に関する冗談が好きでした。明治44(1911)年、漱石は痔の手術をしましたが、その頃、胃が悪いので、お腹にガスが溜まっておならがよく出ました。ところが、肛門が悪いので、妙な音になります。それを漱石の友人が聞いて、「破れ障子」に例えました。漱石はその語感が気に入り、「破障子」という落款を作っています。 九月の半ばごろ大阪からかえって参りましたが、それから間もなく痔が悪いというので、またも病院通いでとうとう切らなけりゃいけないとあって手術をいたしました。切った時は局部麻酔で事なくすんだのでしょうが、後で床を歩いてもひびけるといって飛び上がって痛がりました。でもこの病はなかなかしつこくて、翌年になってもまだ膿が出たりしてなやましておりました。 そんなぐあいで、そのころの夏目の体は、まったくのこわれもので、病気ばかりしているうえに、いつ何時命にかかわるような病気にやられないものでないので、実際体のことには気を使いました。けれども急場を通り越すと自分では案外平気でおりました。 少々きたないお話になりますが、このころ胃は悪し、肛門は悪しで、よくガスが出るのですが、それがまことに妙な音をひびかせます。中村さんでしたか菅さんでしたか、どなたかがおいでになっていてその奇態なおならをききつけて、まるで破れ障子の風に鳴る音だとかおっしゃったので、それから破れ障子はおもしろい、まったくそのとおりだというので、落款をほらせる折りに「破障子」というのをたのんで、自分の書に捺していました。(夏目鏡子 漱石の思い出 47 破れ障子) 大正4(1915)年、漱石は京都にとどまった折、文芸芸妓といわれた「大友」の女将・磯田多佳と知り合い、かねてより漱石のファンだった金太郎(梅垣きぬ)と時間を過ごします。その折、金太郎に下ネタばかりで接しました。以下が、金太郎の感想です。 そしてその時の話が、どだい下品な汚ない事ばっかりどしたわ。初対面もなにも、そんな角張った事は抜きで、何やら話のつづきから先生ちうたらこうお云いやすの。おいどの穴が乾いたら、ほろほろ粉が一落ちるお云いやして、金ちゃんもそうゃないかおいやすのどっせ。へえ、まあそうどっせえなア。こうあたしもお返事せんなりまへんやろ。先生とは初めから、そんな風でお目に懸って来たんどす。(梅垣きぬ 漱石先生) こうした癖はさておき、『道草』には「正月の寒い晩、歌留多に招かれた彼は、そのうちの一間で暖たかい宵を笑い声の裡に更ふかした記憶もあった(72)」とあり、漱石はカルタあそびに、心の通いあう暖かい家庭のイメージを抱いていたようです。
2018.01.08
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七草は七ツ異なる風情かな(明治22) 明治21年(1888)の夏、子規は三並良、藤野古白とともに向島にある長命寺境内の桜餅屋に寄宿して、『七艸(草)集』を書き上げました。しかし、これは春の七草でなく、秋の七草から題を取り、漢文の「蘭之巻」、漢詩の「萩之巻」、和歌の「をミなへし乃巻」、俳句の「尾花のまき」、謡曲の「あさかほのまき」、「かる萱の巻」で構成されましたが、後に向島の地誌「葛之巻」と小説の「瞿麦の巻」を書き足して、「かる萱の巻」をはずします。この『七草集』は友人たちの間で回覧されて評判となり、夏目漱石が漢詩紀行文『木屑録』を書くきっかけをつくりました。 秋の七草は、花の美しさを愛でるものテスが、春の七草はビタミンか不足する冬に、地面から顔を出す食べられる野草を摘んで、自らの栄養とします。芹(セリ)、薺(ナズナ)、五行(ゴギョウ=母子草)、はこべら(=はこべ)、すずな(=蕪)、すずしろ(=大根)、仏の座(=タビラコ)が七草です。明治大正の頃は、野に出ればこれらの七草は簡単に揃いましたが、今の時代ではスーパーのパックで販売されています。 愛媛では、七草を迎えると、台所の七つ道具といわれる火箸、火搔き、連木、杓子、包丁、火吹き竹、しゃもじを揃え、茹でた七草をまな板の上に乗せて「もろこしの鳥が、日本の土地へ飛びわたらぬうちに、薺七草カチカチカチ」という呪文を、台所の七つ道具で七草を叩きながら唱えます。これは、農作物への被害を無くし豊作を祝う願いが七草と結びついたもので、こうした行動には厄災を払う意味があります。「もろこしの鳥」とは「鬼車鳥」のことで、この鳥が子供の着物の上に血を落とすと疳の虫が起こるとか切った爪を食べるといわれ、7歳以下の子供の着物は夜干してはいけない、夜に爪を切ってはいけないというタブーがありました。また、七草を茹でた湯で爪を洗うと邪気払いになるという伝承もありました。 砧うつ拍子でたゝく薺哉(明治26) 手鞠つく拍子にあはす薺哉(明治26) 薺泥に咲て蛙なく田の薄月夜(明治30) 松の内薺うつ日も過ぎにけり(明治30) 摘み残す薺は花にあらはれぬ(明治32) 若餅や薺の七日過ぎて後(明治32) 古沢や泥にまみるゝ芹薺(明治26) この岡に田芹つむ妹名のらさね(明治27) 継橋知れず野芹を摘んで戻りけり(明治28) 田の中や芹摘みて去る足の跡(明治33) 苗代の濁り流れて芹の花(明治35) 子規は、明治34年1月17日発表の『墨汁一滴』に七草の鉢植えのことを記しています。これは7日の新年会に、岡麓が持参したものでした。 一月七日の会に麓のもて来しつと(=苞)こそいとやさしく興あるものなれ。長き手つけたる竹の籠の小く浅きに木の葉にやあらん敷きなして土を盛り、七草をいささかばかりずつぞ植えたる。一草ごとに三、四寸ばかりの札を立て添へたり。正面に亀野座という札あるは菫(スミレ)の如ごとき草なり。こは仏の座とあるべきを縁喜物なれば仏の字を忌みたる植木師のわざなるべし。その左に五行とあるは厚き細長き葉のやや白みを帯びたる、こは春になれば黄なる花の咲く草なり、これら皆寸にも足らず。その後に植えたるには田平子の札あり。はこべらの事か。真後に芹と薺とあり。薺は二寸ばかりも伸びてはや蕾のふふみ(含み)たるもゆかし。右側に植えて鈴菜とあるは丈三寸ばかり小松菜のたぐいならん。真中に鈴白の札立てたるは葉五、六寸ばかりの赤蕪にて紅の根を半ば土の上にあらはしたるさま殊にきわだちて目もさめなん心地する。『源語』『枕草子』などにもあるべき趣きなりかし。 あら玉の年のはじめの七くさを籠に植ゑて来し病めるわがため(墨汁一滴 明治34年1月17日)
2018.01.07
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明治39(1906)年1月1日、『吾輩は猫である』の(七)(八)が『ホトトギス』(第九巻第四号)に発表されました。1月3日、漱石は寺田寅彦を訪ね、雑煮をご馳走になります。餅は二片ありましたが一片しか食べませんでした。 明治40(1907)年1月1日、単行本『鶉籠』を春陽堂から刊行し、『野分』を『ホトトギス』(第十巻第四号)に発表しました。1月3日、寺田寅彦ら門下生が集まり、松板東洋城の料理で夕食を共にしています。漱石は、この誘いを野間真綱、野村伝四、高浜虚子、寺田寅彦に葉書で知らせました。 明治42(1908)年1月1日、松根東洋城、森田草平、鈴木三重吉、小宮豊隆ら、大勢の門下生が年始に見えました。この日の模様は、翌年の新年の小品『元日』(『永日小品』)に描写されています。 雑煮を食って、書斎に引き取ると、しばらくして三四人来た。いずれも若い男である。そのうちの一人がフロックを着ている。着なれないせいか、メルトンに対して妙に遠慮する傾きがある。あとのものは皆和服で、かつ不断着のままだからとんと正月らしくない。この連中がフロックを眺めて、やあ――やあと一ッずついった。みんな驚いた証拠である。自分も一番あとで、やあといった。 フロックは白い手巾(ハンケチ)を出して、用もない顔を拭いた。そうして、しきりに屠蘇を飲んだ。ほかの連中も大いに膳のものを突ッついている。ところへ虚子が車で来た。これは黒い羽織に黒い紋付を着て、極めて旧式にきまっている。あなたは黒紋付を持っていますが、やはり能をやるからその必要があるんでしょうと聞いたら、虚子が、ええそうですと答えた。そうして、一つ謡いませんかといい出した。自分は謡ってもようござんすと応じた。 それから二人して東北というものを謡った。よほど以前に習っただけで、ほとんど復習という事をやらないから、ところどころはなはだ曖昧である。その上、我ながら覚束ない声が出た。ようやく謡ってしまうと、聞いていた若い連中が、申し合せたように自分をまずいといい出した。中にもフロックは、あなたの声はひょろひょろしていると云った。この連中は元来謡のうの字も心得ないもの共である。だから虚子と自分の優劣はとても分らないだろうと思っていた。しかし、批評をされて見ると、素人でも理の当然なところだからやむをえない。馬鹿をいえという勇気も出なかった。 すると虚子が近来鼓を習っているという話しを始めた。謡のうの字も知らない連中が、一つ打って御覧なさい、ぜひ御聞かせなさいと所望している。虚子は自分に、じゃ、あなた謡って下さいと依頼した。これは囃の何物たるを知らない自分にとっては、迷惑でもあったが、また斬新という興味もあった。謡いましょうと引き受けた。虚子は車夫を走らして鼓を取り寄せた。鼓がくると、台所から七輪を持って来さして、かんかんいう炭火の上で鼓の皮を焙り始めた。みんな驚いて見ている。自分もこの猛烈な焙りかたには驚いた。大丈夫ですかと尋ねたら、ええ大丈夫ですと答えながら、指の先で張切った皮の上をかんと弾はじいた。ちょっと好い音がした。もういいでしょうと、七輪からおろして、鼓の緒を締めにかかった。紋服の男が、赤い緒をいじくっているところが何となく品が好い。今度はみんな感心して見ている。 虚子はやがて羽織を脱いだ。そうして鼓を抱(か)い込んだ。自分は少し待ってくれと頼んだ。第一彼がどこいらで鼓を打つか見当がつかないからちょっと打ち合せをしたい。虚子は、ここで掛声をいくつかけて、ここで鼓をどう打つから、おやりなさいと懇(ねんご)ろに説明してくれた。自分にはとても呑み込めない。けれども合点の行くまで研究していれば、二三時間はかかる。やむをえず、好い加減に領承(りょうしょう)した。そこで羽衣の曲(くせ)を謡い出した。春霞たなびきにけりと半行ほど来るうちに、どうも出が好くなかったと後悔し始めた。はなはだ無勢力である。けれども途中から急に振るい出しては、総体の調子が崩くずれるから、萎靡因循(いびいんじゅん)のまま、少し押して行くと、虚子がやにわに大きな掛声をかけて、鼓をかんと一つ打った。 自分は虚子がこう猛烈に来ようとは夢にも予期していなかった。元来が優美な悠長なものとばかり考えていた掛声は、まるで真剣勝負のそれのように自分の鼓膜を動かした。自分の謡はこの掛声で二三度波を打った。それがようやく静まりかけた時に、虚子がまた腹いっぱいに横合から威嚇(おどか)した。自分の声は威嚇されるたびによろよろする。そうして小さくなる。しばらくすると聞いているものがくすくす笑い出した。自分も内心から馬鹿馬鹿しくなった。その時フロックが真先に立って、どっと吹き出した。自分も調子につれて、いっしょに吹き出した。 それからさんざんな批評を受けた。中にもフロックのはもっとも皮肉であった。虚子は微笑しながら、仕方なしに自分の鼓に、自分の謡を合せて、めでたく謡い納めた。やがて、まだ廻らなければならない所があると云って車に乗って帰って行った。あとからまたいろいろ若いものに冷かされた。細君までいっしょになって夫を貶(くさ)した末、高浜さんが鼓を御打ちなさる時、襦袢の袖がぴらぴら見えたが、大変好い色だったと賞(ほめ)ている。フロックはたちまち賛成した。自分は虚子の襦袢の袖の色も、袖の色のぴらぴらするところもけっして好いとは思わない。(永日小品 元日) 漱石の謡については、各人が様々な感想を口にしています。 寺田寅彦は『夏目漱石先生の追憶』で「謡曲を宝生新氏に教わって居た。いつか謡って聞かされたときに先生の謡は巻舌だといったら、ひどいことをいう奴だといっていつ迄もその事を覚えて居られた」と書き、謡の師匠・宝生新は『謡曲の稽古』で「ああいう方ですから、巧く謡おうなぞという所謂当気味のない、たた素直に声を出しさえすればい〉いというお考えだろうと思ってましたが、先生はどうもそうでありませんでしたね。謡ってる間に、御自分で節を拵えたいという意志が働く。そこがどうも夏目先生らしくないと思いましたよ。もっとも、声が出て、それに艶があったから、自然そういう事になったのかも知れませんがね」といっています。 野上豊一郎は『漱石先生と謡』で、「先生の謡の調子は、先生の画の如く箇性的であった。上手かというと、上手であったとは云えないが、下手かというと、決して下手でもなかった。声量は十分にあり、つやのある、密度の多い声柄であるが、それだけ節まわしがねばりがちなので、重ぐれて聞こえることがあった」と書いています。 妻の鏡子は『漱石の思い出』て「胃がたいへん悪くなるまでは、とにかくにも続いて謡の稽古をやっておりました。そこで毎晩夕食を喰べると謡い始めます。自分では運動のつもりなのでしょうが、それが毎晩たいがい時刻がきまっておりますので、それまた夏目さんの旦那さんの謡が始まったと近所ではいったものだそうです。夏などになると白いものを着た人が、通りがかりに生垣のところに佇んできいてられるのもしばしばお見うけいたしました。なかなかいい声だという評判ですよと、ある時そんなこんなの評判を申しますと、乃公の謡なんかきいてるものがあるのかなあと、ひどく謙遜していましたが、そうかと思ば、貴方の声より安倍さんの謡い声の方がよほどいいなどと人をほめようものなら、おまえには謡なんかわからないんだ、安倍はちょっとききのいいように言いまわしがうまいんだとかなんとか申しまして御機嫌斜めなのです」と書いています。 ひどいのは野上弥生子で、「私は、先生の俳句、書、画というふうなものは、ホビー以上だと申しましたが、たった一つどうしても及第点のあげられないものは、謡でございます。山羊の鳴くような甘ったるい間のびした謡でした」と言うのです。 漱石も、『稽古の歴史』で「一体謡曲くらい習わない人にとってつまらないものはないでしょう、それをすこしの御構いもなく、側に坐らせておいて一番も二番も謡って聞かせる人がありますがあれ程惨酷な事は世にありますまい」と語っています。 みんなの声を総合すると、声はいいのですが、節回しは今ひとつといったところでしょうか。『吾輩は猫である』には「後架(=トイレ)の中で謡をうたって、近所で後架先生と渾名をつけられているにも関せず一向平気なもので、やはりこれは平の宗盛にて候を繰返している。みんながそら宗盛だと吹き出すくらいである」とあり、熱心ではあるけれども、漱石自身も自分の謡がうまくないと自覚していたようです。
2018.01.06
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1月5日の愛媛新聞紙上で、愛媛出版文化賞の発表があり、私の『大食らい子規と明治』が、奨励賞に選ばれました。2014年に『やきとり王国』で同賞の部門賞をいただいていますので、引き続きの受賞となります。(実業之日本社から『愛媛「地理・地名・地図」の謎』が出ているのですが、こちらは監修なので……) 「大食漢の子規が体験した食に関するエピソードを通じて、子規の障害と指揮が生きた明治時代についてつづった作品である。 子規の食に対するこだわりはよく知られており、子規による三大随筆の一つといわれる『仰臥漫録』には、死を迎える一年前の日々の献立が克明に記録されている。職をこよなく愛する指揮は、家族の団欒が子供達の教育にとって極めて大事であるという考えから、家族や弟子との会食の時間を大切にしていた。 本書は、「大食らい子規」「紀行文と食べもの」「門人・知人と食べもの」の3章によって構成されており、食という観点から子規の生涯、紀行、交友についてつづられている。ほとんどのエピソードが2ページにまとめられ、小気味良いテンポで読みやすい。食を通じて、子規の人柄に触れることができる良書である」と選定理由が述べられています。 どのような形であっても、出版された本が評価されるのは、ありがたいことです。 アマゾンになければ、版元のアトラス出版から手に入れることができますので、ご興味のある方はアトラス出版HP(こちら)まで。 明治38(1905)年1月1日、『吾輩は猫である』が『ホトトギス』(第八巻第四号)に掲載されました。1月3日には、高浜虚子、坂本四方太、橋口貢、橋口清(五葉)を招き、野間真綱からもらった猪肉の入った雑煮がふるまわれました。鏡子は、女中たちと猫が雑煮の食べ残しを喉に引っ掛けて踊りを踊っているようにするのをみて、あまりいやしん坊をするからと笑いました。この様子は、早速『吾輩は猫である』に取り入れられました。 今朝見た通りの餅が、今朝見た通りの色で椀の底に膠着している。白状するが餅というものは今まで一辺も口に入れた事がない。見るとうまそうにもあるし、また少しは気味がわるくもある。前足で上にかかっている菜っ葉を掻き寄せる。爪を見ると餅の上皮が引き掛ってねばねばする。嗅かいで見ると釜の底の飯を御櫃へ移す時のような香がする。食おうかな、やめようかな、とあたりを見廻す。幸か不幸か誰もいない。御三は暮も春も同じような顔をして羽根をついている。小供は奥座敷で「何とおっしゃる兎さん」を歌っている。食うとすれば今だ。もしこの機をはずすと来年までは餅というものの味を知らずに暮してしまわねばならぬ。吾輩はこの刹那に猫ながら一の真理を感得した。「得難き機会はすべての動物をして、好まざる事をも敢てせしむ」吾輩は実を云うとそんなに雑煮を食いたくはないのである。否椀底の様子を熟視すればするほど気味が悪くなって、食うのが厭になったのである。この時もし御三でも勝手口を開けたなら、奥の小供の足音がこちらへ近付くのを聞き得たなら、吾輩は惜気おしげもなく椀を見棄てたろう、しかも雑煮の事は来年まで念頭に浮ばなかったろう。ところが誰も来ない、いくら蹰躇(ちゅうちょ)していても誰も来ない。早く食わぬか食わぬかと催促されるような心持がする。吾輩は椀の中を覗き込みながら、早く誰か来てくれればいいと念じた。やはり誰も来てくれない。吾輩はとうとう雑煮を食わなければならぬ。最後にからだ全体の重量を椀の底へ落すようにして、あぐりと餅の角を一寸ばかり食い込んだ。このくらい力を込めて食い付いたのだから、大抵なものなら噛み切れる訳だが、驚いた! もうよかろうと思って歯を引こうとすると引けない。もう一辺噛み直そうとすると動きがとれない。餅は魔物だなと疳づいた時はすでに遅かった。沼へでも落ちた人が足を抜こうと焦慮(あせ)るたびにぶくぶく深く沈むように、噛めば噛むほど口が重くなる、歯が動かなくなる。歯答えはあるが、歯答えがあるだけでどうしても始末をつける事が出来ない。美学者迷亭先生がかつて吾輩の主人を評して君は割り切れない男だといった事があるが、なるほどうまい事をいったものだ。この餅も主人と同じようにどうしても割り切れない。噛んでも噛んでも、三で十を割るごとく尽未来際方のつく期はあるまいと思われた。この煩悶の際吾輩は覚えず第二の真理に逢着した。「すべての動物は直覚的に事物の適不適を予知す」真理はすでに二つまで発明したが、餅がくっ付いているので毫も愉快を感じない。歯が餅の肉に吸収されて、抜けるように痛い。早く食い切って逃げないと御三が来る。小供の唱歌もやんだようだ、きっと台所へ馳け出して来るに相違ない。煩悶の極尻尾をぐるぐる振って見たが何等の功能もない、耳を立てたり寝かしたりしたが駄目である。考えて見ると耳と尻尾は餅と何等の関係もない。要するに振り損の、立て損の、寝かし損であると気が付いたからやめにした。ようやくの事これは前足の助けを借りて餅を払い落すに限ると考え付いた。まず右の方をあげて口の周囲を撫なで廻す。撫でたくらいで割り切れる訳のものではない。今度は左の方を伸して口を中心として急劇に円を劃くして見る。そんな呪(まじない)で魔は落ちない。辛防が肝心だと思って左右交る交るに動かしたがやはり依然として歯は餅の中にぶら下っている。ええ面倒だと両足を一度に使う。すると不思議な事にこの時だけは後足二本で立つ事が出来た。何だか猫でないような感じがする。猫であろうが、あるまいがこうなった日にゃあ構うものか、何でも餅の魔が落ちるまでやるべしという意気込みで無茶苦茶に顔中引っ掻かき廻す。前足の運動が猛烈なのでややともすると中心を失って倒れかかる。倒れかかるたびに後足で調子をとらなくてはならぬから、一つ所にいる訳にも行かんので、台所中あちら、こちらと飛んで廻る。我ながらよくこんなに器用に起っていられたものだと思う。第三の真理が驀地(ばくち)に現前(げんぜん)する。「危きに臨めば平常なし能ざるところのものを為し能う。これを天祐という」幸に天祐を享たる吾輩が一生懸命餅の魔と戦っていると、何だか足音がして奥より人が来るような気合である。ここで人に来られては大変だと思って、いよいよ躍起となって台所をかけ廻る。足音はだんだん近付いてくる。ああ残念だが天祐が少し足りない。とうとう小供に見付けられた。「あら猫が御雑煮を食べて踊を踊っている」と大きな声をする。この声を第一に聞きつけたのが御三である。羽根も羽子板も打ち遣やって勝手から「あらまあ」と飛込んで来る。細君は縮緬の紋付で「いやな猫ねえ」と仰せられる。主人さえ書斎から出て来て「この馬鹿野郎」といった。面白い面白いと云うのは小供ばかりである。そうしてみんな申し合せたようにげらげら笑っている。腹は立つ、苦しくはある、踊はやめる訳にゆかぬ、弱った。ようやく笑いがやみそうになったら、五つになる女の子が「御かあ様、猫も随分ね」といったので狂瀾(きょうらん)を既倒(きとう)に何とかするという勢でまた大変笑われた。人間の同情に乏しい実行も大分見聞したが、この時ほど恨めしく感じた事はなかった。ついに天祐もどっかへ消え失うせて、在来の通り四つ這ばいになって、眼を白黒するの醜態を演ずるまでに閉口した。さすが見殺しにするのも気の毒と見えて「まあ餅をとってやれ」と主人が御三に命ずる。御三はもっと踊らせようじゃありませんかという眼付で細君を見る。細君は踊は見たいが、殺してまで見る気はないのでだまっている。「取ってやらんと死んでしまう、早くとってやれ」と主人は再び下女を顧りみる。御三は御馳走を半分食べかけて夢から起された時のように、気のない顔をして餅をつかんでぐいと引く。寒月君じゃないが前歯がみんな折れるかと思った。どうも痛いの痛くないのって、餅の中へ堅く食い込んでいる歯を情け容赦もなく引張るのだからたまらない。吾輩が「すべての安楽は困苦を通過せざるべからず」と云う第四の真理を経験して、けろけろとあたりを見廻した時には、家人はすでに奥座敷へ這入ってしまっておった。(吾輩は猫である 2)
2018.01.05
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明治29(1896)年6月、漱石は中根鏡子と結婚し、熊本で新しい家庭を築きます。6月9日に光琳寺の家(熊本市下通)で結婚式を挙げました。列席者は新婦の父、東京から来た女中と婆や、車夫の総勢6名。この日は猛暑でした。漱石はフロック・コートを着用、新婦は東京からもって行った一張羅の夏の振り袖、父はふだんの背広服で、簡素な式が執り行われましたが、暑くてたまらないと、鏡子の父は漱石の浴衣を借りて、くつろいでしまいました。 ただ、鏡子は貴族院書記官長の娘として自由に育ったため、家事は思うようにできませんでした。しかも、朝寝坊で、漱石は朝食抜きで学校へ行くこともありました。 明治30年(1897)、結婚して初めての正月は、熊本2件目の家の合羽町(現・熊本市坪井)で迎えました。新築で部屋数も多かったため、同僚の長谷川貞一郎や山川信次郎が下宿していました。この正月、鏡子は苦心しておせち料理をつくりました。しかし、下宿していた漱石の同僚・長谷川貞一郎を訪ねてくる学生たちが多く、用意していたおせち料理は、食べ盛りの学生たちが食べ尽くしてしまい、出す料理がなくなってしまいました。漱石は怒り出して、年始早々大げんか。鏡子は元日の夜から十二時ごろまでかかってきんとんづくりに精を出しました。これに懲りた漱石は、次の年から、正月は家にいないよう、旅行に出かけるようになりました。 長谷川さんは私たちと違ってなかなかの交際家でして、お客がずいぶんとおいでになります。翌年新家庭初めての正月を迎えました時に私もさっぱり、勝手はわからぬなら、大いに奮発していろいろ御馳走を調えたつもりでしたところ、なにしろ思いがけなくお客が四、五人、生徒が五、六人もつめかけて来る始末で、さっそく金団(きんとん)がなくなったのを始めとして、後から来た方々にはお膳も出せない始末、そこへ女中は一人と来いるし、出入りの商人がまたどうしたものか、自分のほうも正月だとあって少しも仕出しをしてくれないので、とうとう不体裁だとあって、夏目が怒りだします。長谷川さんが気の毒がって仲を取りなしてくださいますけれども、私も口惜しいので、晴れ着の上に前掛けをかけたままで、元日の夜から十二時ごろまでかかって、金団を作りました。なにしろお客の口数の多いところへもって行って、生徒さんたちがむやみとたべるのだからやりきれたものではありません。私も泣きたくなったのですが、夏目もこれにこりたと見えて、正月には家にいないに限るとあって、次の年から正月へかけて、たいてい大晦日あたりに旅行に出ることにいたしました。(漱石の思い出)
2018.01.04
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「日本人」明治29年1月5日号に発表された『新年二十九度』という子規の文章があります。 文字通り、子規が迎えた29度の新年を振り返るというものです。 新年も大方は夢の中に過ぎぬ。廃藩置県といい、太陽暦採用といい、世人が胸騒がしき正月を迎えたらん頃はまだ知らぬ仏なりき。 小さい頃の新年の出来事は、はっきり覚えていません。記憶がはっきりし出すのは6、7歳からです。 六、七歳の頃より後は、節気と正月をただ面白きものとのみ覚えたり。これ余が世の中に対して利害の念を起こしたる初めなり。節季は餅搗煤払より門松を樹(たて)て輪飾に𣜿葉(ゆずりは)、田作、橙、炭などを縛り作るまでいずれか面白からぬはなく、婆殿の側にて余念なくこれを身居りたり。…… まして正月は嬉し。元日は北風の寒さもなかなかにめでたき心地して、短き袴着け尺ばかりの大小をさしたるも我ながらいみじ。三が日も過ぐれば十ばかりの子供つれだちて門々の飾りの橙を取ることこの頃の流行なり。余も人の後につきて行けば、中には小さき鎌もて橙を伐り落としなどする者あり。たくみに偸むこともいと羨ましく覚えぬ。かくて盗み取りたる橙は、橙投げとて道中に立ちて両方より投げつ止めつするほどに五つ六つの橙皆つぶれてまた偸みにと出で立つ。またある時は家々の飾りをもらい集めて二、三十ばかりを抱え、野外れへ持ち出るでてこれを焼く。この時おのおの切餅二、三個を袂にし行き、これをどんどの中に入れおけば真黒になりて焼けたるを灰の中より掘り出でて喰う。凧揚げて遊ぶ者多かれど余はあまりこれを好まざりき。全て戸外の遊戯はつたなき方なりければ、内に籠り居て独り歌がるたを拾い、こよなき楽みとせり。この時代は何事もただ興あるごとく覚えし時代なりき。 子規の子供時代には、軒飾りの橙を盗むことが遊びと横行していたことがわかります。 橙は赤し鏡の餅白し(明治26) 年忘橙剥いて酒酌まん(明治29) 正月や橙投げる屋敷町(明治29) おかざりの橙落す童かな(明治29) 赤門の橙小き飾り哉(明治31) 十の歳は初めて髷のなき新年に逢えり。この時まで余は髷を結び脇指(わきざし)を横たえたり。 明治十七年は初めて東都に居候の正月を迎えぬ。半年を東京の塵にもぶれたれば多少の見識と度胸と出来たりと見え「臥聞車馬朝金闕。間見旭光射竹櫳」と詠みたるは金モールに眼のくるる時代も過ぎたるならん。横着なる居候にはありける。東京の正月も貴顕参朝のほかには竹飾りの少し風の変わりたると「おめでとう」と言う言葉のみ珍しく覚えぬ。余幼かりし時阿嬢(はは)教えたまいけるは「おめでとうとは女子の語なり。男はただめでとうとばかりいうべし」と余も男なればその教えに従い来れるを東京にては男女ともおめでとうという。さては東京は物事めめしき処よと感じぬ。 明治十八年は猿楽町の片隅に下宿屋の雑煮餅を喰いぬ。 明治十八年の暮は井林、清水両学友とともに同じ下宿屋にありしが初めて浮世の節季を知りぬ。下宿量の滞りは七、八円に及びて誰も財布の底をはたきぬ。井林は二十九日頃より何処へ行きけん帰らず。余は三十一日の朝ある友の下宿に行きて除夜をそこに明かし後に残る清水は病気のまねして蒲団を被りしまま飯を食わずにその日を送りければ、さすがの鬼婆も最速に来ざりしとぞ。元旦も間がわるく二日の日に三人初めて下宿屋に顔を合わせて笑いながら去年を語れり。余は二十歳になることのまことに口おしかりき。この十九年は余が上京以来三度目の新年なれば自ら「至今三歳阿蒙詬。仍旧一寒范叔貧」と嘲りぬ。実に余は前年の夏の試験に落第し、この頃は着物を典して寄席に耽る時なりしなり。…… 明治二十三年は郷里にありて阿嬢の膝下に数の子をとうべぬ。…… やがて明治二十九年とはなりぬ。立つといいけん古の人の言葉も覚束なけれども。 今年はと思ふことなきにしもあらず 子規の若い頃は、なかなかにめちゃくちゃでした。
2018.01.03
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「猫」の吾輩には名前がありませんでしたが、漱石が早稲田南町で買った犬には「ヘクトー」という名前がありました。 明治時代の終わり頃、謡の先生である宝生新から子犬をもらい受けました。漱石の『硝子戸の中』には「Hさんの御弟子は彼を風呂敷に包んで電車に載のせて宅まで連れて来てくれた。私はその夜、彼を裏の物置の隅に寝かした。寒くないように藁を敷いて、できるだけ居心地の好い寝床ねを拵えてやったあと、私は物置の戸を締めた。すると彼は宵の口から泣き出した。夜中には物置の戸を爪で掻き破って外へ出ようとした。彼は暗い所にたった独り寝るのが淋しかったのだろう、翌朝までまんじりともしない様子であった。この不安は次の晩もつづいた。その次の晩もつづいた。私は一週間余りかかって、彼が与えられた藁の上にようやく安らかに眠るようになるまで、彼の事が夜になると必ず気にかかった」とあり、漱石が子犬を気遣っている様子が書かれています。 ところが、子犬を渡した宝生新は、「そうでしたかね、私の方から先生の許へ犬を差上げたのですかね。それがへクタというのですか、すっかり忘れてしまいましたよ。ええ、私も犬が好きで飼っていますが、どうせ陸(ろく)な犬じゃなかったでしょう(宝生新『謡曲の稽古』)」と、素っ気がありません。 「ヘクトー」という名前は「イリアッドに出てくるトロイ一の勇将の名前であった。トロイと希臘(ギリシャ)と戦争をした時、ヘクトーはついにアキリス(=アキレス)のために打たれた。アキリスはヘクトーに殺された自分の友達の讐(かたき)を取ったのである。アキリスが怒いかって希臘方がたから躍り出した時に、城の中に逃げ込まなかったものはヘクトー一人であった。ヘクトーは三たびトロイの城壁をめぐってアキリスの鋒先を避けた。アキリスも三たびトロイの城壁をめぐってその後を追いかけた。そうしてしまいにとうとうヘクトーを槍で突き殺した。それから彼の死骸を自分の軍車チャリオットに縛りつけてまたトロイの城壁を三度引き摺り廻した。……私はこの偉大な名を、風呂敷包にして持って来た小さい犬に与えたのである(硝子戸の中)」と、その由来を記しています。 ヘクトーは、「時々顔を見合せると、彼は必かならず尾を掉って私に飛びついて来た。あるいは彼の背を遠慮なく私の身体に擦りつけた。私は彼の泥足のために、衣服や外套を汚した事が何度あるか分らない」というほど、漱石になついていました。 しかし、この頃の漱石は体調がすぐれず、大正元年には痔の手術、翌年からは胃潰瘍が悪化し、床に伏せることが多くなりました。「去年の夏から秋へかけて病気をした私は、一カ月ばかりの間ついにヘクトーに会う機会を得ずに過ぎた。病がようやく怠たって、床とこの外へ出られるようになってから、私は始めて茶の間の縁に立って彼の姿を宵闇の裡に認めた。私はすぐ彼の名を呼んだ。しかし生垣の根にじっとうずくまっている彼は、いくら呼んでも少しも私の情に応じなかった。彼は首も動かさず、尾も振らず、ただ白い塊のまま垣根にこびりついてるだけであった。私は一カ月ばかり会わないうちに、彼がもう主人の声を忘れてしまったものと思って、微かな哀愁を感ぜずにはいられなかった」となり、ヘクトーは漱石のことを忘れてしまったようでした。 漱石が愛犬ヘクトーの死を知らされたのは、大正3年(1914)10月31日のことです。日記には「天長節、秋雨蕭々、時にザアザアという音を聞く。うちの犬が下の家に死んでいるという報知が来た、どうもそうらしいといって首輪を見たら果たしてそうであった。こちらで埋めようかという。いや私の方で埋めるといって車夫をやる。箱と四角な墓標を買ってこさせる。裏で鋤の音がきこえる。墓標を持ってくる。『わが犬のために』として『秋風の聞こえぬ土に埋めてやりぬ』と書いた」と記しています。 病気が回復した漱石がヘクトーに声をかけると、久しぶりに見るヘクトーの様子がどうもおかしいようです。「ヘクトーは元気なさそうに尻尾を垂れて、私の方へ背中を向けていた。手水鉢を離れた時、私は彼の口から流れる垂涎を見た(硝子戸の中)」漱石は、看護婦に病院に連れていくように命じた翌日、ヘクトーは姿を消しました。それから1週間ほど経って、ヘクトーの死を知らせる一報が届いたのでした。 ヘクトーの墓は、猫の墓から一間ほど離れた東北に建てられました。漱石の書斎の硝子戸のうちから、裏庭を覗くと、二つともよく見えます。漱石は「もう薄黒く朽ちかけた猫のに比べると、ヘクトーのはまだ生々しく光っている。しかし間もなく二つとも同じ色に古びて、同じく人の眼につかなくなるだろう(硝子戸の中」と思いました。
2018.01.02
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「猫」が漱石を有名にしてくれましたが、漱石は犬の方が好きだったようです。 漱石は二度(三度という説あり)、犬を飼っています。熊本時代と晩年の早稲田時代(漱石山房)です。どちらも知り合いから譲られた犬で、後者は「ヘクトー」という名前をもらっています。 熊本時代に飼っていた犬は、妻の夏目鏡子著(松岡譲の聞き書)『漱石の思い出』によると、「よそからもらった大きな犬」で、「やたらに人に吠えつく犬」でした。しかし、漱石と女中のテルは犬好きで、その犬を可愛かっていました。 ところが、犬が通行人に噛み付いてしまい、夜に巡査が漱石の家にやってきて厳重注意を受けます。その時、漱石は「犬なんてものはりこうなもので、怪しとみるからこそ吠えるのであって、家のものなどや人相のいいものには吠えるはずのものではない。噛みつかれたりするのは、よくよく人相の悪いものか、犬に特に敵意をはさんでいる者で、犬ばかりを責めるわけには行かない」と反撃しました。 その日、犬は警察に引かれて行ってしまいました。翌日、狂犬病の検査で異状がなかったことから、こんど噛みついたら撲殺するとかおどかされましたが、犬は許されてかえってきます。 家が内坪井町から北千反畑に引っ越ししても、漱石は犬を連れて行きました。 ところが、女中のテルが目を離したすきに、その犬は家を飛び出し、よそのおかみさんに噛みついてしまいました。しかも、すぐ近所にすむ巡査の奥さんでした。巡査がどなり込んで来ましたが、漱石は女中から門前の空地にゴミを捨てに来るのがその奥さんと聞いていたので、犬も怪しいと睨んで噛みついたと理屈をこねました。犬は今度も警察に引っ張られましたが、また何事もなく帰されてきました。 ある晩のこと、夜おそくなって帰ってきた漱石に、犬が吠えました。玄関が開くと、漱石の袂と袴とがひどく破けています。家の犬にやられたのでした。反論に異議を唱えたのか、漱石は「よくよく人相の悪いものか、犬に特に敵意をはさんでいる者」とみなしたのです。「飼い犬に手をかまれた」漱石は、苦笑いをするばかりでした 12 犬の話 明治三十三年、私たちはこの年の七月に長らく住みなれた土地熊本を去るのですが、それより先、四月、私が嫁いでから六度めの最後の転居をいたしました。北千反畑というところです。 内坪井町にいたころ、よそから大きな犬をもらって飼っておりましたが、その犬がやたらに人に吠えつく犬でして、人の影さえ見れば吠え立てるという始末で、ほとほと困ってってしまいました。家では結句そのほうが用心がいいなどと言ってはおりますものの、通行人の迷惑たらありませんでしたでしょう。向かいに荒物屋があるのですが、あまりその犬が吠えるので、客足が薄くなったなどという非難さえあったくらいでしたが、夏目はそれをまたたいへんかわいがっておりますし、女中のテルがまた犬には目のないほうで、書生にいられた行徳二郎さんなどは、筆子を乳母車にのせて、犬の綱を引いて、毎日近所の藤崎八幡に遊びに行くと行ったわけで、家の者にはなついておりましたのですが、付近の憎まれ者であったのです。 ところがある時のこと、どうしたはずみかとうとう通行人に噛みつてしまったので、その人がたいへん怒って警察に訴えました。家のものも出て詫びたのですが、夜になると巡査が訪ねて来ました。すると夏目が玄関に出て行って応待するその問答がすこぶるおかしいのです。私なんぞは最初から、用心にはよくっても、そうそう人に吠えては、通る人には気の毒で、もし自分たちがいい気持ちで散歩でもしている時に、横合いから見知らぬ犬に吠えつかれでもすればいやな気持ちに違いないのだからと、口癖のように申していたのですが、とうとうこんなことになったのですから、今度ばかりは一言もあるまいから、黙って引っ込むよりほかはあるまいと思いのほか、なかなか巡査にまけておりません。夏目のいうには、犬なんてものはりこうなもので、怪しとみるからこそ吠えるのであって、家のものなどや人相のいいものには吠えるはずのものではない。噛みつかれたりするのは、よくよく人相の悪いものか、犬に特に敵意をはさんでいる者で、犬ばかりを責めるわけには行かない。人聞が悪いのだと言わぬばかりの申し分です。そこへ女中のテルも犬びいきで加勢に出るというわけで議論の果てしがつきません、巡査も理屈は何とでもつこうが、要するに犬の分際で人間に噛みつくとは何事だ、犬より人間がたいせつにきまっているというわけで、とにかく狂犬病でもあっては一大事と、テルに犬を連行してこいとあって、その日は警察に引かれて行ってしまいました。その晩妙に淋しく思っておりますと、翌日早々に帰って参りました。検べたところ狂犬病じゃないとのことでしたが、こんど噛みついたら撲殺するとかおどかされて、とにかくいつも結(ゆわ)いておくという条件で許されてかえって来たのです。 さて内坪井町から北千反畑に移りましたが、この物騒な犬もいっしょに連れて参りました。主人が好きで下女が好きなのですから、犬にとってこれほど心じようぶなことはありますまい。あいかわらず吠えては人を困らせておりました。 ある朝のことです。夜用心に縄を放しておいて、朝つなぐのを忘れてテルが門を開けたものとみえます。犬は元気に吠え立てながら、一目散に門を飛び出しました。しまったと思って口笛を吹いたり、犬の名を呼んだりした時にはもう遅い。前の空地のところで、もうその時はよそのおかみさんに噛みついてしまっていたのでした。ところがこれは普通の通行人でも何でもなく、すぐ近所にすむ巡査の細君と知って、今度はただですむまいという形勢です。さあ、夏目も女中も困ってしまいました。私だけがそれ御覧さい、言わないことじゃないでしょうといったわけです。 果たせるかな巡査がどなり込んで来ました。夏目は相変わらず前の時と同じような理屈をこねて、いっかな巡査のいうことに屈服しません。というのには、夏目にも腹に一物あってのことです。実は女中のテルが朝早く門を開けると、いつも門前の空地に塵埃を捨てに来る女が巡査の妻女だということを知って、それを夏目の耳に入れていたのからたまりません。人の見てないうちにこそこそと人の門前に塵挨を捨てるなどということは、いわば畜生にも劣るような所業で、その罰で犬も怪しと睨んで噛みついたのだと、まあこういったぐあいです。が今度の巡査は、前の時のお役目で来たのとは違って、自分の妻女がやられているのだから、それぐらいのことでみすみす退却はしません。またまた警察に引っ張られて行きましたが、さりとて狂犬病でもないのでまた何事もなく帰されて来ました。それみたことかとテルが喜ぶの喜ばないのって。 するとある晩のことです。夜おそくなって夏目が謡の会に行って帰って参りました。門に音がしたと思うと、ひとしきり犬が吠えて、そうして玄関が開きました。出迎えて見ると、夏目はまっ青な顔をしています。そうして袂と袴とがひどく破けています。どうなすったのですと驚いてたずねますけれども、黙っております。だんだんきいてみると、家の犬にやられたのだとわかって、これこそ飼い犬に手をかまれた格好だと笑いますと、夏目もしかたなしに苦笑いをしておりました。 この犬は私たちが熊本を引き上げる時、よく吠えていいというのでもらってった方がありましたが、世の中にはよくよく物好きな方もあったものです。(夏目鏡子著『漱石の思い出』)
2018.01.01
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