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「二重の安息」 甲斐慎一郎 マタイの福音書、11章 聖書は、人の心は疲れており、安息を必要としていると教えています。「心の疲れ」には、次のような二種類のものがあります。 第一は、必要な力やエネルギーを受けたり、補給したりしないことによる疲れです。 第二は、力を受けても不必要なところに使ったり、浪費したりすることによる疲れです。 第一の疲れに関しては、「神より与えられる安息」を、第二の疲れに関しては、「信仰者が見いだす安息」を聖書は教えています。 一、神より与えられる安息(28節) からだが疲れてくると次のようになります。 1.物事に集中することができなくなったり、まともに考えられなくなったりして、間違いを犯しやすくなる――判断を誤る。 2.おっくうになったり、面倒になったり、大儀になったりする――力を失う。 3.他の人のことなど顧みる余裕がなくなり、自分のことだけするようになる――自己中心。 心の疲れもからだの疲れに似ています。 1.判断を誤る――心の疲れている人は、何が善であり、何が悪であるかが分からなくなって、間違いを犯してしまうのです。 2.力を失う――心の疲れている人は、正しいことや良いことをする力がないだけでなく、罪や誘惑に勝つ力もないのです。 3.自己中心――心の疲れている人は、神のことも他の人のことも考えず、わがままです。 この心の疲れの解決は、キリストのところに行くことです。キリストのところに行くとは、第一に、この心の疲れは神より離れた罪のためであることを認め、第二に、その罪を悔い改めて神に立ち返り、第三に、キリストの十字架は自分の罪のためであると信じることです。このようにする時、私たちは神より安息が与えられます。これこそ罪の重荷から解き放されて安息する「救い」です。 二、信仰者が見いだす安息(29、30節) 不必要なところに力を使う心の疲れとは、どのようなことでしょうか。この11章には三つの問題が記されています。 1.バプテスマのヨハネの疑惑(2~6節)。 キリストは、バプテスマのヨハネにも理解されませんでした。 2.この時代の人々の非難(16~19節)。 この世の人々は、罪を悲しむことを教えた悔い改めの使者ヨハネも、神を喜ぶことを教えられた福音の使者キリストも受け入れずに非難しました。 3.悔い改めなかった町々(10~24節)。 コラジンやベツサイダやカペナウムの町々は、キリストが多くのわざを行われたにもかかわらず悔い改めませんでした。 私たちは、自分を理解してくれると思っていた人に誤解されたり、どんなに良いことをしても非難しかされなかったり、いくら労しても良い結果が出なかったりした時、この私が分からせようとか、この私が悪口を封じようとか、この私が良い結果を出そうとか言って、気負い立つなら、心の疲れのために打ちのめされてしまうでしょう。なぜなら、「この私が」という力みこそ、「肉によって完成」(ガラテヤ3章3節)させようとする「自分のわざ」(ヘブル4章10節)であり、心を疲れさせる不必要な労力だからです。 本当の意味と実質において、人を理解させたり、人の悪口を封じたり、良い結果を出したりすることができるのは、神のみであり、人には不可能です。 それよりも私たちのなすべきことは、キリストのくびきを負うことです。これは神にすべてを明け渡す全き献身と、神にすべてを委ねる全き信仰と、神にすべて従う全き服従を表しています。そうする時、私たちは、たましいに安息を見いだし、容易にキリストの荷を担うこと、すなわち神より与えられた奉仕と義務に励むことができます。これこそ自分のわざを休んで安息する「きよめ」です。
2009.09.30
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「神の安息と人の安息」 甲斐慎一郎 ヘブル人への手紙、4章1~11節 「もしヨシュアが彼らに安息を与えたのであったら、神はそのあとで別の日のことを話されることはなかったでしょう」(8節)。 「神の安息にはいった者ならば、神がご自分のわざを終えて休まれたように、自分のわざを終えて休んだはずです」(10節)。 この言葉は、ヨシュアがイスラエルの民を導き入れた乳と密の流れるカナンの地は、地上における安息の地ですが、神が私たちに与えようとしておられる真の安息は、これとは別にあるので、著者は、「私たちは、この安息に入るよう力を尽くして努め……ようではありませんか」と勧めています(11節)。 そこで、人の安息とは、「人が得ることができる安息」。神の安息とは、「神のみが与えることができる安息」として、それぞれどのようなものであるのか、また両者の違いについて聖書の中から学んでみましょう。 一、人の安息について 安息には、様々な安息がありますが、人間を構成している三つの要素に関して述べるなら、次のようになるでしょう。1.肉体的な安息(からだの安息)です。2.精神的な安息(心の安息)です。3.霊的な安息(霊の安息)です。 この中で人の安息、すなわち人が得ることができる安息とは、どれでしょうか。 1.肉体的な安息 必要な睡眠や休息または栄養をとることによって得ることができます。 2.精神的な安息 スポーツやレクレーションなどによって気分転換を図ったり、何か偉大なものを当てにしたりすることによって、ある程度、得ることができます。 3.霊的な安息 次に述べるような神のみが与えることができる安息であり、人が通常、得ることができないものです。 二、神の安息について それでは、神のみが与えることができる安息とは、どのようなものでしょうか。これに関して聖書は、次のような三段階の安息を教えています。 1.神との平和による安息 神に敵対していた私たちが罪を赦されて、神と和解することによって得ることができる安息です(ローマ5章1節、コロサイ1章20~22節)。 2.自分のわざを休む安息 無力で罪深い私たちが、自分の力で神のわざを行おうと焦ったり、もがいたりすることを止めて、神にすべてを明け渡し、ゆだねることによって得ることができる安息です(ヘブル4章10節)。 3.永遠に神の中に憩う安息 すべての苦しみから全く解放され、永遠に神の中に憩うことによって得ることができる安息です(第二テサロニケ1章7節、黙示録21章3、4節)。 この神との平和による安息こそ救いであり、自分のわざを休む安息こそ聖めであり、永遠に神の中に憩う安息こそ天の御国です。 三、安息の教訓について 神の安息と人の安息について、特に両者の違いをまとめるなら、次のようになります。 1.人の安息が、肉体的また精神的な安息に限られるのに対して、神の安息は、まず第一に霊的な安息ですが、それはまた真の精神的かつ肉体的な安息を与えられる秘訣です。 2.人の安息が、労働の合間や休息している時だけの一時的かつ断続的な安息であるのに対して、神の安息は、何をしている時にも与えられる恒久的な安息です。 3.人の安息が、何かをすることによって与えられるわざによる安息であるのに対して、神の安息は、信じるなら直ちに与えられる信仰による安息です(3節)。 この安息を与えられる時、私たちは、「いやいやながらでなく、強いられてでもなく」(第二コリント9章7節)、心から喜んで奉仕することができるようになるのです。
2009.09.27
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「神の悩みと人の悩み」 甲斐慎一郎 イザヤ書、63章8~10節 「彼らのすべての悩みのとき、主も悩まれて」(9節、口語訳、文語訳)。 この言葉の前半には、イスラエルの民の悩み、すなわち人の悩みについて、後半には、主も悩まれたこと、すなわち神の悩みについて記されています。 一、人の悩みについて 「悩み」とは、患難や罪による心の苦しみのことですが、私たちは、罪とは何か、患難はどのように考えたならばよいのかということとともに、「悩み」に関しても正しい知識が必要です。なぜなら一口に「悩み」と言っても、様々な悩みがあるからです。 1.あってはならない悩み――神に背いて、罪から来る、または罪に至る悩み わがままや自己中心、軽蔑や高慢、憎悪や嫉妬、敵意や争い、貪欲や耽溺、汚れや好色などの、神に背いて、罪から来る悩み、またはこれらの罪に至る悩みは、あってはならない注意すべきものです。 2.委ねなければならない悩み――人知や人力が及ばないので、神に委ねる悩み 人類の堕落以後、罪の傷痕として残っているあらゆる欠陥や弱点、また有限な人間として避けられない無知や無力などの人の知恵や力の及ばないものに対する悩みは、全知全能の神が摂理の御手をもって「すべてのことを働かせて益としてくださる」(ローマ8章28節)ことを信じて、委ねるべきものです。 3.なくてはならない悩み――神に近づき、罪から救われるために必要な悩み ヤコブは、罪ある人たちと二心の人たちに、「あなたがたは、苦しみなさい(文語訳は、悩みなさい)。悲しみなさい。泣きなさい。あなたがたの笑いを悲しみに、喜びを憂いに変えなさい」と勧めています(4章9節)。 私たちは、自分のいやな性質やかたくなな性格、また最もいけない所や恥ずべき悪癖、そして汚れた思いや罪深い心のために真剣に悩んだことがあるでしょうか。私たちは、パウロのように「ああわれ悩める人なるかな、この死の体より我を救わん者は誰ぞ」(ローマ7章24節、文語訳)と叫んだことがあるでしょうか。 二、神の悩みについて どこまでも正しく聖く、また全知全能の神は、人間のような「あってはならない悩み」や「委ねなければならない悩み」や「なくてはならない悩み」などは、全くないことは言うまでもありません。神の悩みはすべて、神ご自身に関するものではなく、私たちに関するものです。このことを分かりやすく述べるなら、次のようになります。 1.神は、私たちが「あってはならない悩み」を持っていることを悩まれる方です。 2.神は、私たちが「委ねなければならない悩み」を委ねていないことを悩まれる方です。 3.神は、私たちが「なくてはならない悩み」を持っていないことを悩まれる方です。 それゆえに「その愛とあわれみによって主は彼らを贖い、昔からずっと、彼らを背負い、抱いて来られ」ました(9節)。これは、「自分から十字架の上で、私たちの罪をその身に負われ」た(第一ペテロ2章24節)キリストの十字架による救いにほかなりません。 三、三種類の悩みの関係について 私たちは、「なくてはならない悩み」が深くなればなるほど、ますます神に近づくとともに、キリストの十字架の救いの必要性が分かり、救いの経験が明確になります。 救いの経験が明確になればなるほど、罪から来る、または罪に至る「あってはならない悩み」がなくなってくるとともに、「委ねなければならない悩み」も神に委ねることができるようになり、悩みが軽くなっていきます。 しかし、この「なくてはならない悩み」がないなら、その罪のためにますます「あってはならない悩み」が深くなるとともに、「委ねなければならない悩み」も委ねることができず、ますます深く悩むようになるでしょう。 私たちは、どのようなことに悩み、またその悩みを解決しているでしょうか。
2009.09.24
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「三種類の悩み」 甲斐慎一郎 ヤコブの手紙、4章6~10節 この世に住んでいる人で何の悩みも持っていない人は、おそらくだれもいないでしょう。そこで悩みについて学んでみましょう。 一、あってはならない悩み これは罪に至るまちがった悩みであり、決してあってはならない注意すべきものです。 1.卑屈な悩み これは、自らの惨めな境遇や環境を恨んで卑屈になり、恵まれた人を憎み、嫉妬し、果ては復讐心や殺意を抱く悩みのことです。聖書のことばで表現すれば、喜ぶ者とともに喜べない悩みです(ローマ12章15節)。 2.贅沢な悩み しかし人間は、恵まれた境遇や環境にあれば悩みがないかと言えば、そうでもありません。神と人の恩を忘れ、自分よりも不遇な人が大ぜいいるにもかかわらず、贅沢とわがままな心のために、不平と不満と呟きが絶えない悩みというものがあります。聖書のことばで表現すれば、泣く者とともに泣けない悩みです(ローマ12章15節)。 3.見栄の悩み 人間は、自らの体裁や面子にこだわり、見栄を張ろうとすると悩みが尽きないだけでなく、罪を犯してしまう者です。 二、ゆだねなければならない悩み これは人類の堕落以後、罪の傷痕として残っているあらゆる欠陥や弱点、また有限な人間として避けられない無知や無力など、人の知恵や力の及ばないものに対する悩みです。また自分は悪くなくても他の人の罪のために苦しめられたり、悩まされたりする悩みです。 しかし私たちは、欠陥や弱点、また無知や無力、そして患難や苦難があったとしても、いつも悩み苦しむわけではありません。私たちは、どのような時に悩むのでしょうか。 1.まず頭脳的に理解することができず、不可解に思う時、人は悩むものです。 2.次にたとえ頭脳的には納得することができても、感情的に不安定で心が穏やかでない時、人は悩むものです。 3.最後に頭脳的に納得し、感情的に安定しても、目前の問題課題が自分の意志ではどうすることもできない時、人は悩むものです。 このような悩みは、全知全能の神が摂理の御手をもって「すべてのことを働かせて益としてくださる」(ローマ8章28節)ということを信じて、ゆだねるべきものなのです。 三、なくてはならない悩み ヤコブは、罪ある人たちと二心の人たちに、「あなたがたは、苦しみなさい(文語訳は、悩みなさい)。悲しみなさい。泣きなさい。あなたがたの笑いを悲しみに、喜びを憂いに変えなさい」と勧めています(4章9節)。 私たちは、自分のいやな性質やかたくなな性格、また最もいけない所や恥ずべき悪癖、そして汚れた思いや罪深い心のために真剣に悩んだことがあるでしょうか。 私たちは、神と人と自分に対して真実であろうとすればするほど、また真に敬虔な人、真に愛の人、真に謙虚な人になろうとすればするほど、自分の弱さと罪深さのために悩み苦しむものです。しかしこれは私たちが心から罪を悔い改め、私たちの罪のために死んでくださったキリストの十字架を信じて罪を赦され、あらゆる点において成長しようとする時にどうしても必要な悩みなのです。 四、三種類の悩みの関係 私たちは、「なくてはならない悩み」が深くなればなるほど、ますます神に近づくとともに、キリストの十字架の救いの必要性が分かり、救いの経験が明確になっていきます。 そしてこの救いの経験が明確になればなるほど、罪に至る「あってはならない悩み」がなくなってくるとともに、「ゆだねなければならない悩み」も神にゆだねることができるようになり、悩みが軽くなっていきます。 しかし私たちに「なくてはならない悩み」がなければ、罪のためにますます「あってはならない悩み」が深くなるとともに、「ゆだねなければならない悩み」もゆだねることができず、ますます悩むようになるのです。 私たちは、どのようなことに悩み、またその悩みを解決しているでしょうか。
2009.09.21
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「神の渇きと人の渇き」 甲斐慎一郎 詩篇、63章1~8節 「私のたましいは、神を、生ける神を求めて渇いています」(詩篇42篇2節)。 「イエスは……『わたしは渇く』と言われた」(ヨハネ19章28節)。 この前半の詩篇の言葉には、人の渇きについて、後半のヨハネの福音書の言葉には、神の渇きについて記されています。 しかし「渇き」とは、何でしょうか。それは「求め」と、どこが違うのでしょうか。このことに関して、詩篇の63篇は、次のように教えています。 1.切に求める(1節a)――がまんすることができないほどの強い求めが渇きです。 2.慕い求める(1節b)――好きでたまらず、愛してやまない求めが渇きです。 3.飽くまで求める(5節)――満足する(飽く)までやめない求めが渇きです。 ですから、がまんすることができるような求めや、好きでもなく愛してもいないような求めや、満足しなくてもいいような求めは、渇きではありません。 一、人の渇きについて これには、人間を構成している三つの要素によって、肉体的な渇きと精神的な渇きと霊的な渇きに分けることができますが、何に対して渇くのかという渇きの対象によって分けるなら、次のような二つになります。 1.世への渇き これは、「世」と「世にあるもの」(第一ヨハネ2章15節)を、それが汚れて罪深いものでであっても構わずに、肉体的な渇きと精神的な渇きのために、切に求め、慕い求め、そし飽くまで求めることです。 2.神への渇き これは、自らの汚れと罪深さを厭い、正しさと聖さを求める霊的な渇きのことで、そのために生ける神を切に求め、慕い求め、そして飽くまで求めることです。 私たちの渇きは、どちらでしょうか。 二、神の渇きについて 冒頭に記したキリストの渇きは、直接的には肉体の渇きのことですが、聖書は、神の渇きについて、次のような驚くべきことを私たちに教えています。 1.いなくなった一匹の羊を見つけるまで捜し歩く羊飼いと、なくした一枚の銀貨を見つけるまで念入りに捜す女の人の姿は(ルカ15章4~10節)、私たちを切に求めている神の渇きでなくて何でしょうか。 2.「たとい、女たちが忘れても、このわたしはあなたを忘れない。見よ。わたしは手のひらにあなたを刻んだ」(イザヤ49章15、16節)とある主の言葉は、私たちを慕い求めている神の渇きでなくて、何でしょうか。 3.「彼は、自分のいのちの激しい苦しみのあとを見て、満足する」(イザヤ53章11節)とあるキリストの贖いは、私たちを飽く(満足する)まで求めている神の渇きでなくて、何でしょうか。 私たちは、このような神の渇きをどれだけ知っているでしょうか。 三、渇きの教訓について 私たちのこの世における姿と次に来る世における永遠の運命を決定するものは、血筋や家柄、また知識や教養、そして能力や賜物ではなく渇きです。世への渇きは、私たちを堕落させ、その行き着く所は永遠の死ですが、神への渇きは、私たちを向上させ、その行き着く所は永遠のいのちです。 人間にとって渇きほど大切なものはありません。しかし生まれながらの人間は、世に対する激しい渇きがあるのみです。それでは、どうすれば神への渇きを持つことができるでしょうか。次の三つのことが必要です。 1.様々な苦しみに会うたびに、世がどんなにむなしく頼りにならないかを知る。 2.自らの罪深さを自覚するたびに、世がどんなに恐ろしく汚れているかを知る。 3.聖書を読むたびに、神の渇きがどんなに深いものであるかを知る。 私たちは、このようなことを通して神への渇きが増し加わっているでしょうか。
2009.09.19
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「エリヤの生涯(3)」 甲斐慎一郎 列王記、第一、19章 「旧約と新約の間には根本的な相違があります。新約における宗教は、各個人の選択によるものであり、その信奉心は聖霊の導きによるものです。これに対して旧約における宗教は、律法から出ています。……唯一の神の権威を根本の主意とする旧約においては、偶像を礼拝することは、犯罪であるだけでなく、イスラエルの王である天の神に対する反逆であり、国民はそのために大きな刑罰を受けるのです」(A・イーダーシャイム)。 一、民が主の契約を捨てたことを知って絶望し、逃走して死を願ったエリヤ(1~4節) イズレエルにある避暑の宮殿にいたイゼベルは、アハブからエリヤがしたすべての事と、バアルの預言者たちを剣で皆殺しにしたこととを残らず聞くと、烈火のごとく怒り、使者を遣わして二十四時間以内に必ずエリヤを殺すと脅しました(1、2節)。 するとエリヤは、そこを立ち去り、荒野へはいって行き、深い絶望に襲われて自分の死を願いました(3、4節)。全力を尽くして主に仕え、精一杯の働きをし、心を注ぎ出して祈り、その結果、驚くべき神のみわざが現されたにもかかわらず、翌日に民は主に背いたのですから、彼の心中の苦しみを推し量ることができる人はだれもいないでしょう。 カルメル山の出来事の翌日、イスラエルが再び契約を破ったことを知った時(1節)、エリヤは絶望して逃走しました。しかし彼が逃走したのは、決してイゼベルを恐れたためではありません。深い失望と落胆のためです。それとともにカルメル山からイズレエルまでアハブの前を走ったので、その激しい疲労のために失望の色を濃くしたのでしょう。 二、主のお取扱いを受けて立ち直り、主から重大な任務を命じられたエリヤ(5~18節) 主は、心身ともに疲労困憊していたエリヤに対して、まず十分な睡眠と食物を与えられました(5~7節)。こうして彼は、肉体的な疲労が取れ、元気を回復しました(8節)。 次に主は、エリヤに悩みを打ち明けさせるとともに(9、10節)、風と地震と火のあとに彼に現れて、かすかな細い声で語られました(11、12節)。彼は、この神の顕現と御声によって心に大きな変化を受け、慰めと希望が与えられたのではないでしょうか。 「神の答えは、あなたは神の性格と御旨と行為を見て、敬虔にひざまずいて主をあがめなさい。……またあなたは自分の務めを果たし、その結果は神に任せなさい。神は後にこれらのことを明らかにされるからです、ということです」(A・イーダーシャイム)。 主は、エリヤにハザエルとエフーとエリシャに油をそそいで、それぞれアラムの王、イスラエルの王、エリヤに代わる預言者とするように仰せられました(15、16節)。これは、主の契約を破ったイスラエル人はアラムの王ハザエルに殺され、アハブの家はイスラエルの王エフーに滅ぼされ、エリシャはエリヤの任務を受け継ぐことを意味しています。こうしてエリヤは、主から重大な任務を命じられて、前進して行かなければならないのです。 また主は、エリヤだけが主に熱心に仕えているのではなく、「恵みの選びによって残された者」(ローマ11章5節)が七千人もいることを告げて、彼を慰められたのです(18節)。 三、エリシャを見つけ、彼を後継の預言者として認めて任命したエリヤ(19~21節) エリヤは、エリシャを見つけると、自分の外套を彼に掛けました(19節)。これは、後継の預言者として彼を認め、彼を任命したことを教えています。 エリシャは、すべてを捨ててエリヤに従っただけでなく(20節)、家族の者たちと別れるために一くびきの牛の肉を調理し、彼らに与えて、それを食べさせました(21節)。 神にすべてをささげて、主に仕えようとする者は、いままで与えられていたすべてのものを捨てることだけで決して満足してはなりません。それとともに以前に持っていたもの、また行っていたことを新しい務めのために聖別しなければならないのです。拙著「ソロモンと王たちの生涯」19「アハブとエリヤ(3)」より転載
2009.09.15
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「エリヤの生涯(2)」 甲斐慎一郎 列王記、第一、18章 雨が降らくなってから三年半の歳月が流れました(ヤコブ5章17節)。エリヤがききんを預言したことによって、それが効を奏するとすれば、すでにあるはずです。しかしアハブもイスラエルの民も、このようなことがあっても悔い改めようとはしませんでした。 一、アハブに会いに行くためオバデヤに会い、彼に取り次ぎを命じたエリヤ(1~15節) 「そのころ、サマリヤではききんがひど」く(2節)、しかも夏でしたので、イゼベルはサマリヤの宮殿を出て、イズレエルにある避暑の宮殿にいました(45、46節、21章1、2節を参照)。神の摂理によってイゼベルがサマリヤにいなかったので、アハブは、オバデヤを呼び寄せ、草を見つけるために、ふたりで国を二分して巡り歩くことができただけでなく(3~6節)、その後、エリヤの挑戦に応じて自らカルメル山に行くのです(20節)。 主は、エリヤにアハブに会いに行くように命じられました(1節)。エリヤはアハブに会いに行くためにオバデヤに会い、王に取り次ぐよう彼に命じました(7、8節)。 二、アハブに偶像の預言者を集めさせ、彼らに信仰の戦いを挑んだエリヤ(16~29節) エリヤは、アハブに偶像の預言者をカルメル山に集めさせ、大胆にもひとりで四百五十人のバアルの預言者に立ち向かい、主が神であるのか、それともバアルが神であるのかという信仰の戦いを挑みました。そのために祭壇を築き、たきぎの上に雄牛を載せ、「火をもって答える神、その方が神である」と民に信仰の決断を迫りました(20~24節)。 バアルは火の神でしたが、バアルの預言者たちが声をからして朝から昼まで叫んでも、剣や槍で自分たちの身を傷つけても、火を呼び下すことはできませんでした(26~29節)。 この日、カルメル山の上で起こった事件は、イスラエルの歴史の中で特別な出来事です。聖書は、山上の光景を三つ教えています。「第一はシナイ山上においてモーセを通して契約を結んだ時、第二はカルメル山上においてエリヤを通して契約を確認した時、第三は変貌山上においてモーセとエリヤがキリストについて荘重なあかしをし、そして契約は、このキリストによって完了し、変貌し、一新された時です」(A・イーダーシャイム)。 三、天から火を呼び下し、主が神であることを民に明らかに示したエリヤ(30~40節) エリヤは、こわれていた主の祭壇を建て直し、たきぎの上に雄牛を載せただけでなく、その上に三度も水を注がせました(30~35節)。晩のささげ物をささげるころになると、主に祈りました(36節)。この時、エリヤではなく生ける神ご自身が手を伸ばし、奇蹟を行われました。この御手を動かしたのは祈りでした。その祈りは主こそ神であることを沈着冷静にとらえつつ、火のように激しい熱心さでみわざを行ってくださることを求めています。 民はひれ伏して、「主こそ神です」と言いました(39節)。こうしてイスラエルは悔い改めて神に立ち返りました。アハブは、事の一部始終をしばし茫然として眺めていましたが、やがてこうべを垂れ、しばらくの間、主に対して悔い改めの心を表したのです。 四、祈りによって大雨を降らせ、アハブの前を走って帰途についたエリヤ(41~46節) しかしエリヤの奉仕は、これで終わったのではありません。彼は、苦しみ悶えて七度も祈り、主が彼の祈りに答えてくださったので、三年半ぶりに雨が降りました(41~45節)。 「エリヤは、悔い改めた王の前を走ることを恥とせず、かえってそのことをイズレエルに伝える先駆者になろうとしています。イズレエルの入口まで新しい知らせを伝えに行きました。その門まで神の警戒の声のように先駆をなしました。しかしアハブは門をはいるならば、再び誘惑者(イゼベル)に会おうとしています。両者(アハブとイゼベル)は、この門のそばで相離れなければなりません。以後イスラエルの王は、主につくか、またはイゼベルの神につくかを決断しなければならないのです」(A・イーダーシャイム)。拙著「ソロモンと王たちの生涯」18「アハブとエリヤ(2)」より転載
2009.09.12
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「エリヤの生涯(1)」 甲斐慎一郎 列王記第一、17章 イスラエルの背教は、アハブの治世にその頂点に達しました。しかし主は、この堕落を食い止めるために旧約時代において最大の預言者であるエリヤを遣わされました。 一、アハブの前に立ち、二、三年の間は露も雨も降らないことを預言したエリヤ(1節) エリヤは、「毛衣を着て、腰に皮帯を締めた人でした」(第二列王1章8節)。彼は、服装だけでなく、その使命においても旧約におけるバプテスマのヨハネであるということができます(マタイ3章4節、17章11、12節)。アハブの前に忽然と現れ、「ここ二、三年の間は露も雨も降らないであろう」と預言すると、王の前から忽然と姿を消しました(1節)。 エリヤは、アハブの預言者と祭司は主を知らず、主に対して全く無力であることを教えるためにこのような奇怪な行動をとったのでしょう。そして、神のことばは必ず成就することを心から信じて、「雨が降らないように祈」ったのです(ヤコブ5章17節)。 二、ケリテ川のほとりに行って住み、主の命を受けた烏に養われたエリヤ(2~7節) エリヤは、主のことばに従ってケリテ川のほとりに行って住み、主の命を受けた烏に養われました(3~6節)。それにしても烏がパンと肉を運ぶとは、何とも心もとない話です。 エリヤは、ミデヤンの荒野において神の教育を受けたモーセのように、いや主イエス・キリストのように、ただ神とともにあってイスラエルのために祈り、また将来のために準備しなければなりませんでした。このようにしてイスラエルを滅亡から救うために、自然の世界を支配しておられる全能の神に拠り頼む訓練を受けたのです。 三、ツァレファテに行って住み、主の命を受けたやもめに養われたエリヤ(8~16節) しばらくすると、ケリテ川がかれたので、エリヤは、主のことばに従ってシドンのツァレファテに行って住み、主の命を受けたひとりのやもめに養われました(7~16節)。 「イエスがこの出来事を引用された箇所は(ルカ4章25、26節)、三つのことを教えています。第一は、エリヤをもてなすことはツァレファテのやもめに与えられた特権であること、第二は、この特権は彼女に真の霊的祝福となること、第三は、神はユダヤ人だけの神ではなく、異邦人にとっても神であること(ローマ3章29節)です」(A・イーダーシャイム)。 エリヤは、よりによって自分のいのちを狙うイゼベルの生まれたシドンに行き、イスラエルではなく異邦人の町であるツァレファテに住み、しかも最後の食事をして死のうとしているような貧しいやもめに養われました。このようにしてイスラエルを滅亡から救うために、人間の世界を支配しておられる全能の神に拠り頼む訓練を受けたのです。 四、重い病気のために息を引き取ったやもめの息子を生き返らせたエリヤ(17~24節) ところがやもめの息子が重い病気になり、ついに息を引き取りました(17節)。これはやもめはもちろんのこと、エリヤにとっても大きな信仰の試練でした(18節)。しかしエリヤの望みえない時に望みを抱く信仰と執拗な祈りによって、その子は生き返りました(19~23節)。やもめは、生き返った息子を腕に抱き、エリヤに、「今、私はあなたが神の人であり、あなたの口にある主のことばが真実であることを知りました」と言いました(24節)。 「これは、このやもめが最初にエリヤを迎えた時、すでに学んだことであり、また日々の食事の際に目撃したことでした。そして神は、ことばに表せない彼女の思いと祈りに答えて、神が人をお取り扱いになる最も高尚な意味は、さばきではなくあわれみであり、刑罰と復讐ではなく愛と赦しであることを示された時、彼女は、このことを知ることができました」(A・イーダーシャイム)。 このようにして彼は、イスラエルを滅亡から救うために人間のいのち――肉体的、精神的そして霊的ないのち――を支配しておられる全能の神に拠り頼む訓練を受けたのです。拙著「ソロモンと王たちの生涯」17「アハブとエリヤ(1)」より転載
2009.09.10
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「厳粛な選択」 甲斐慎一郎 申命記、30章15~20節 「私は、きょう、あなたがたに対して天と地とを、証人に立てる。私は、いのちと死、祝福とのろいを、あなたの前に置く。あなたはいのちを選びなさい」(19節)。 シェイクスピアの名作「ハムレット」の中に「生くべきか、生くべきにあらざるか、それが問題だ」という言葉があります。 人間の一生は、日常生活の小さな出来事から、人生の大きな転機に至るまで、どれにしようか、どちらにしようか、という選択の連続であるということができます。そして非常に厳粛なことは、人がどのような人生を送るかということは、事の大小を問わず、その人が何を選ぶかによって決まってしまうということです。 そこで人間にとって最も大切な選択ということについて、次のような三つの観点から学んでみましょう。 一、自由選択について――現世的なもの まず二つ以上のものの中から自由にいくつかのものを選ぶことができる自由選択です。 これは、私たちの衣食住や趣味、娯楽など、日常生活に関するものから、進学や就職や結婚など、人生の大切な転機、そして政治的、経済的、社会的な問題の解決に至るまで、その人の考えや思想、また希望や好み、さらに能力や才能、そして事情や境遇に応じて、自由に選択することができるものです。 この自由選択をすることができるものは、道徳的な善悪と関わりなく、従って人間の永遠の運命とは全く関係のない現世的なものに限ることを忘れてはなりません。しかしそれぞれの選択に違いがある以上、その結果にも違いが生じることは言うまでもありません。 二、二者択一について――永遠的なもの 次は二つのものの中から、必ずどちらか一つを選ばなければならない二者択一です。 これは、善か悪か、正義や不義か、真理か虚偽かのどちらかを選ばなければならない倫理や道徳、また神を信じるか信じないか、罪を悔い改めるか悔い改めないかのどちらかを選ばなければならない信仰や宗教など、局外中立はあり得ず、また両者とも選ぶことが許されないものです。 二者択一は、自由選択とは全く別個なもので、この二つは決して混同したり、交換したりすることができないものです。そしてこの二者択一の道徳や宗教こそ、私たちの人格を形造り、人間の真の価値を定めるだけでなく、私たちの永遠の運命を決定する根本的なものであることを知らなければなりません。 三、選択不能について――摂理的なもの この二つの選択に対して、人が生まれた時には、すでに定まっている選択不能のものがあります。これは男女の性別をはじめ、人種や民族、さらにどのような家庭に、どのようなものを持って生まれたかというような先天的な境遇や環境、また能力や賜物、そして性質や性格です。 この先天的にものの善し悪しに関しては、次のように考えていくのが最も賢明です。 1.この先天的なものの善し悪しは、その人のせいではないので、私たちは、良くても誇ってはならず、悪くてもひがんではなりません。 2.この先天的なものの善し悪しは、現世における人間の判断に過ぎず、永遠の観点から見た神の判断は全く別です。 3.この先天的なものの善し悪しは、神の摂理として受け止め、その中で精一杯生きていくことが私たちの責務です。 私たちにとって最も大切なのは、二者択一です。もし私たちが信仰の方を選ぶなら、自由選択において最善のものを選び、選択不能のものも最善と見ていくことができますが、不信仰の方を選ぶなら、自由選択において気まぐれに選び、選択不能のものは、不可解なものとしか見ることはできないのです。
2009.09.06
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「神の権威と人の権威」 甲斐慎一郎 ローマ人への手紙、13章1~7節 「ヨハネのバプテスマは、どこから来たものですか。天からですか。それとも人からですか」(マタイ21章25節)。 冒頭の言葉は、「何の権威によって、これらのことをしておられるのですか」(同21章23節)とキリストに質問した祭司長や民の長老たちに対して主が彼らに尋ねられた質問です。この言葉には、天からの権威、すなわち神の権威と、人からの権威、すなわち人の権威が記されています。 一、権威の三つの面について 聖書は「すべての支配、権威、権力、主権」とあるように、同義語を並べて記しています(エペソ1章21節、3章10節、6章12節)。このようなことから「権威とは、完全に手中に収めて支配する力」のことです。権威には、様々なものがありますが、代表的なものは、次のような三つです。 1.命令する権威 「私も権威の下にある者ですが、私自身の下にも兵士たちがいまして、そのひとりに『行け』と言えば行きますし、別の者に『来い』と言えば来ます」とあるように(マタイ8章9節)、他(者)を服従させる力のことです。 2.制御する権威 「汚れた霊どもを制する権威をお授けになった」とあるように(同10章1節)、他(者)を自由に操る力のことです。 3.審判する権威 「さばきを行う権威が彼らに与えられた」とあるように(黙示録20章4節)、他(者)に賞罰を与える力のことです。 しかしこれは権威の三つの面であるということもできるでしょう。 二、人の権威について 人の権威の代表的なものは、国家の権威です。これには、いわゆる「三権」があり、その内容は次のとおりです。1.立法権――法律を制定する権力です。2.行政権――法律を執行する権力です。3.司法権――法律を適用する権力です。 専制君主や独裁者は、この三権を一手に握り、権力をほしいままに行使していますが、民主主義の国家においては、この三権を分立させ、権力の濫用を防ごうとしています。 このような間違った権力は、恐ろしいものですが、多くの人々が住んでいる社会においては、「個人の権利と利益」、「公共の福祉と安全」、「国家の秩序と平和」を守るために、正しい権力は不可欠なものです。それで主権在民の民主主義の国においては、国民の承認と合意のもとに、その権力が国家に与えられているということができます。 三、神の権威について パウロは、「人はみな、上に立つ権威に従うべきです。神によらない権威はなく、存在している権威はすべて、神によって立てられたものです」(1節)と述べ、権威の起源は、神にあると教えています。私たちに対する神の権威を実際的なことに当てはめるなら、次のようになります。 1.命令する権威(創造する権威) 「主が仰せられると、そのようになり、主が命じられると、それは堅く立つ」とあるように(詩篇33篇9節)、神は、命令することによって、すべてのことを創造する権威を持っておられます(創世記1章3、6、7、9、11、14、15、20、24節)。 2.制御する権威(生殺与奪の権) 「わたしは殺し、また生かす。わたしは傷つけ、またいやす」とあるように(申命記32章39節)、神は、生殺与奪の権を握り、良いことも悪いことも、あらゆる出来事をご自身の目的と計画のために自由自在に配剤し、操る権威を持っておられます。 3.審判する権威(賞罰を与える権威) 神は、善を蒔く者には善を、悪を蒔く者には悪を刈り取らせ(ガラテヤ6章8節)、「それぞれのしわざに応じて報い」を与える権威を持っておられます(黙示録22章12節)。 神は、この三つの権威を行使することによって世界を治めておられるのです。
2009.09.04
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