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長嶋の猛抗議も実らず風向きが変わった日本シリーズでは、その直後、まさかの投手稲尾がホームランを打ってライオンズが勝ってしまうところで確実になります。 上はそのときの写真、ホームに帰還する稲尾に三原監督自ら迎えるシーンです。 ライオンズの三連覇が近づいてきました。 つづく
2008年04月30日
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なかなか更改がおいつかなくて本当に申し訳ありません!明日、といっても5月4日(日)なのですが、西武ライオンズの試合を観に千葉マリンスタジアムに行ってきます。 また、皆様に情報をお送りできればと思います。
2008年04月29日
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昭和33年の日本シリーズ、3連敗を食らって福岡に戻ったライオンズは不思議と移動中にも焦燥感がなかったようです。逆に読売の方が「なんとか勝たなくては!!」という気持ちが強かったようです。 そんな中、雨天中止をはさんで行われた第四戦、サードを守っていたルーキー長島に打球が飛んだのですが、ファールを確信していると、なんとこれがフェア!球場がどよめきに包まれました。 上の写真はそのときのもの。審判に必死に抗議する長島(やっぱり当時からゼスチャーだったりする)、その左に立つのがショート広岡、審判の横で長島とともに抗議するのが水原監督、すかさず16番をつけた打撃の神様、川上も加わっての抗議に発展します。 しかし、流れを変えることはできず、ライオンズの勝利、ここから大逆転が始まります。 つづくい
2008年04月28日
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昭和33年、三度目の正直とばかりに巨人は西鉄ライオンズに対抗します。この年に入団した長島茂雄を据えた打線で臨みました。 実は、稲尾和久は後年、苦手だったバッターにこの長島を挙げています。理由は「名に考えてるんだかさっぱりわからない」というものでした。 だいたい打者に投げていると「狙っている球」がわかってくるそうで、いかにも「ここ狙うぞ」と見せて全く違うところを狙って投手をだますのを得意としたのが南海ホークスの野村(現楽天監督)とすれば、この長島は「本当に名に考えてるんだかわからなかった」そうです。上の写真はそんな2人の初対決。稲尾がシュートでファールフライにうちとっています。 そんな巨人はエース藤田を中心に3連勝、「ついに西鉄に勝つときがきた!!」と誰もが思っていたとき、奇跡が起こります。 つづく
2008年04月27日
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西鉄ライオンズは昭和32年、そして33年もリーグ優勝を果たして日本シリーズに進出するのですが、その相手はすべて読売ジャイアンツ。ライオンズとジャイアンツがどれほど強かったかが想像できます。 昭和32年の日本シリーズではライオンズは引き分けを挟んで負けなしの日本一で、ジャイアンツが手も足も出ない状態になってしまいました。 ライオンズファンだけでなく、福岡の町は大騒ぎになりました。東京から球界の覇者である巨人を倒して優勝旗を福岡に持って帰ってくるんですから、ハンパじゃなかったようです。 上の写真は移動するライオンズ戦士たち。左上が稲尾、右下が豊田。当時は飛行機移動などない時代ですから寝台車でちゃんと寝れることも野球選手の仕事だった時代でした。 つづく
2008年04月26日
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更改が遅れてスミマセン。気分いれかえまた更改しますので見てやってください!! 昭和31年から33年までのプロ野球はまさに「西鉄ライオンズの時代」というべきのまさに「栄光時代」でした。 初優勝から一年はさんで昭和31年、リーグ優勝したライオンズはセリーグの読売と一騎打ちになります。 ご承知のように三原監督にとってはまさに「古巣にお礼参り」、「中原に覇を唱えん」状態でした。 両チームのエースである巨人藤田(後監督)、稲尾が投げあう中、ライオンズは始めて日本一に輝きました。かつての親友である水原監督率いる巨人に勝ったことは散々マスコミにも取り上げられ野球ファンが爆発的に増えるきっかけとなります。 しかし、三原ライオンズはこれでは終わりませんでした。 つづく
2008年04月25日
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仕事での書類作成の仕事が山積みになってしまった最近の奄太郎は、どうしたら仕事がはかどるか考えていました。ブログの更改も遅れてしまったし、ライオンズ史もまだ書きかけだし・・・・ ということで、とりあえず野球を観戦して気持ちを切り替えることにしようと25日の横浜対広島の試合を観ていました。 今年の観戦もこれでいくつになるか考えてみました。 北海道日本ハム 対 千葉ロッテ (名護) 横浜 対 千葉ロッテ (宜野湾) 千葉ロッテ 対 オリックス (千葉マリン) 千葉ロッテ 対 東北楽天 (千葉マリン) 埼玉西武 対 福岡ソフトバンク (西武ドーム) 埼玉西武 対 オリックス (西武ドーム) 横浜 対 ヤクルト (横浜) 千葉ロッテ 対 オリックス (千葉マリン) オリックス 対 福岡ソフトバンク (大阪ドーム) 横浜 対 広島 (横浜) もう10試合目になるのか・・・・しかし自分は人気のないカードが大好きのようです。 気持ちが切り替わったかって??さぁ~どうでしょうかね・・・・「一生やってろ!!」と自分でも思う今日このごろです。
2008年04月24日
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いや~、最近更改が遅れて申し訳ありません。珍しく仕事が忙しくて・・・・・もちろん野球観戦もしているのですが・・・・・ 帰ったらすぐ寝てしまうことが多く気がついたら・・・・という感じです。 やっぱりなれない出張の影響かな?? 時差ボケが直るまで、もう少し時間を!!!
2008年04月23日
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長らくお待たせしてスミマセン、そこの野球ファンのあなた!あなたですよ!ライオンズ史の続きです。 今まで紹介した選手のほかにも河野、島原などいい選手がたくさんいたのですが、まぁこの辺がライオンズの選手の中心層でした。 三原監督を招請したライオンズはまさに「三原軍団」として快進撃を続け、当時常勝チームだった南海ホークスと覇権を争うまでになっていきます。 上は勝った瞬間の稲尾、和田、城戸ら。役者が揃ったライオンズはついに監督招請3年目にして優勝します。日本シリーズで中日に破れたもののリーグチャンピョンとしての「栄光時代」が始まります。 つづく
2008年04月22日
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この日は休日、史跡、寺院を20箇所くらい見まくってました。夜東京に帰りましたね。
2008年04月21日
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丸一日仕事・・・・・朝から夜まで。太陽見なかった気がします。
2008年04月20日
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仕事してましたが、朝、京都御所近辺を散策
2008年04月19日
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一日仕事。たまには仕事もします。
2008年04月18日
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ただいま京都より帰ってまいりました。軽くその時の流れをお伝えしまず。 17日京都入り10寺くらい見て、大阪まで出てやじゃり野球観戦。
2008年04月17日
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ライオンズ史の続きなんですが、16日から関西への出張となってしまいました。帰京後再度継続したいと思っております。 関西行って何をするかって??仕事もするんですが(あたりまえだ)この私がそれだけで終わるわけないじゃないですか!!仕事は18日からなんでその前に大阪に入ります。 16日早朝に出かけて史跡を見つつ、そのまま大阪ドームでオリックス対ソフトバンクの観戦ですよ!パウエルの登板で1万人ほど入った15日の大阪ドームは中継ぎ陣が総崩れ、連敗街道をひた走っている青波に「喝」をいれるべく、ついに有給とって私が動きだしました。 出張かばんにオリックスの帽子入れてるヤツはそうはいないでしょう。16日の中継で一塁側でスーツ着てオリックスの帽子を被っているおバカな格好しているがいたら私です。 ぜひ暇な皆さんは見てみてください!!
2008年04月16日
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西鉄ライオンズにはいい投手もたくさんいましたが、やはり代表格はこの人でしょう。 そう稲尾和久ですね。あまり、野球を知らない人でも名前は知ってたりするくらい有名な投手です。 稲尾は和田、仰木とならぶ九州出身の選手。当時から大人気でした。実家は別府の漁師でやはり小さいことから親の手伝いをしていました。本人曰くゆれる船の上で立って仕事するのでバランス感覚や下半身を強化したそうです。 稲尾といえば投げる時にかかとを上げてスキップするような投げ方をしていましたが、それはこの時に培ったものだそうです。 家計が厳しいながらも野球を続けていた稲尾には、まず南海ホークスが触手を入れていますが、それを聞いた西鉄が獲得に動き、「実家に近いとこのチームに行け」という親の助言もあり西鉄に入団しました。 ただ、大物ルーキーでないため、打撃投手を行う毎日で三原監督とは話す機会もなかったそうです。 ある時、高校の卒業式に出席するため休日をもらう予定を立てた時、初めて三原監督が稲尾の前に来ていいました。 「今までの思い出のために卒業式に出るか、今後の自分を考えて平和台に残るか自分で決めなさい」まさに三原戦術である。一聞、「自己判断しろ」といわれているように聞こえるがこういわれたら残らざるを得ない。稲尾は平和台に残った。 バッティングピッチャーをやりながら、絶妙なコントロールを練習していた少年稲尾は後にリーグを代表する選手になってゆく。 つづく
2008年04月15日
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仰木彬は入団後、西鉄ライオンズの寮で生活をはじめましたが、先輩選手のど肝を抜くことを数々やっていました。 後に仰木と名コンビとなる中西太は、たくあん一切れでドンブリ飯3杯お替りしているのを見て驚いたと述懐しています。 更には、前述したように野手に転向したわけですが、三原監督自ら厳しいノックを受けていた時のこと、あまりに頭にきたのか、捕球したボールを監督に向かって投げつけたことがあったそうです。普通の監督なら「生意気だ!」となる人も多いのですが、ここが三原は違っていてニヤリとボールをかわして更に厳しいノックをしていました。三原監督はこのような選手が好きであったようです。 また、地元出身の人気選手で気さくな性格からか真偽は別にしてさまざまな伝説を生みました。キャンプ中には練習よりナンパに精を出していたとか、豊田お気に入りのグローブに自分の名前を勝手に書いていたとか、後に入団する稲尾にマージャンを教えてお金を巻き上げるくせに自分が負けると一切払わなかったとか・・・・・ こんな仰木でしたが、試合になると三原監督のソバに座り、相手の戦法などを監督とお互いに議論していたそうです。この少年はご承知のように三原監督他界後、当時「三原マジック」といわれて独特の采配を継承、「仰木マジック」とよばれ一世を風靡します。 上の写真は当時のライオンズ選手たち、下中央が中西、右が仰木、中西の上が豊田。 つづく
2008年04月14日
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ある意味、西鉄ライオンズの「チーム風」を一番継承したのが、下位打線を打っていた名セカンドである仰木彬でしょう。 他界して三年目になりましたが、後に名将としてその名をほしいままにする選手です。 仰木は福岡県の地元生まれてお父さんは学校の先生でした。しかし戦死して母親に育てられますが家庭は大変な貧しさだったようで、妹を2人も栄養失調で亡くしています。本人も炭坑などで小さなころから働きそこで足腰を強化していきました。 この世代の選手は仕事の中で精神力や体力を培った人が多くいます。 後、福岡県代表で甲子園に行き、投手としてライオンズに入団しますが、三原監督にいきなり「投手クビ」を宣告されセカンドに回りました。 次回は仰木彬の「伝承」についてちょっと触れてみたいと思います。 つづく
2008年04月13日
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ライオンズ黄金期の5番を打っていたのが右の関口清治、戦争中に野球ができずつらい時代もあったものの、ノンプロを経て西鉄ライオンズに加入。スラッガーとして活躍していました。当時のライオンズ選手の中でもひときわ大きいのが印象的でした。 後には、ノンプロ時代に一緒にやった名将西本幸雄の元でコーチを歴任します。 私が野球を観るようになったとき、近鉄の監督をしていたのが西本監督から受け継いだ関口監督でした。 左にいるのがキャッチャーの和田、実家は大分で食堂をやっている典型的な九州人だったので平和台では大変人気でした。 後に入団する大投手稲尾の女房役として活躍します。 ライオンズは後述するように、この後波乱の球団となり、選手も流出していきますが、この和田は例外的にライオンズに残り続けて、埼玉移転後の黄金期もライオンズの指導者をしていました。 つづく
2008年04月12日
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ライオンズの強力打線の4番に座っていたのが、当時のスーパーヒーローである「大下弘」通称「ポンちゃん」。由来はポンポンボールを飛ばすから。 大下は当時、巨人の川上、阪神の藤村とならぶ「青バットの大下」といわれるくらいのスターで、元々セネターズ(現日本ハム)に居ましたが、三原監督のいる九州にやってきました。 「青バット」を使うこと、子供好きで子供たちへのサービスを欠かさなかったことは当時から有名で大人気だったそうです。 また、後輩選手に対しても大変優しく、お金のない選手を下宿させたり、自分は酒が飲めないのに飲み会を開いて酒代を払ったりしており、選手たちからも絶大な信頼がありました。 後に入団する稲尾は大下に「遊び方」の指南を受けたそうで、その中で特に女には気をつけるようさんざんいわれたそうです。入団当時の稲尾はまだ無名の選手でその意味がさっぱりわからなかったそうですが、後々有名になってくるとあまりに異性からの誘惑が多く「やっと大下さんに言ってる意味がわかった」と後に語っています。 当時のライオンズファンからみると、ライオンズの「背番号3」はこの大下なんですね。 自筆の日記もつけるくらい文筆家としてもすぐれていた大下は、後に里かえりするように東映フライヤーズ(現日本ハム)の監督に就任。三原野球を継承する指揮を執りますが、大きな結果を得られず、残念ながら病苦による自殺を遂げてしまいます。 その東映フライヤーズは後に日本ハムが経営、三原が社長に就任し優勝を成し遂げます。 つづく
2008年04月11日
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体調管理ができず、更改が遅れてしまい、このブログを待ってくれている「数人の」方々、申し訳ありません。 では、続きを・・・・ 西鉄ライオンズの流線型打線の3番といったらこの人しかいないでしょう。そう中西太。 私くらいの世代では「指導者」のイメージの強い中西ですが、ライオンズ切ってのパワーヒッターでした。多くの人は中西を「怪童」とい、いまだに「中西イコール怪童」という感じです。 中西は三原監督と同じ高松出身。甲子園にも出て早くからプロ入りを嘱望されていました。当時からえらい体が大きく、ライナーの当りがホームランになったとか、バットを振ったらチップしてボールの焦げたにおいがしたとか、体が大きいのに足が速かったとか、真偽は別として多くの伝説を持っています。 中西はのちには西鉄ライオンズの監督を皮切りに、日本ハムファイターズ初代監督、阪神監督、ヤクルト監督代行、千葉ロッテ監督代行(たった3年のピンクロッテ最後の監督)、更にはコーチを歴任していきます。この人ほど多くの球団を渡り歩いた人はいないんじゃないでしょうか? 「西鉄魂」を多くの選手に伝えていくことになります。
2008年04月10日
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すいません、皆さん、ただいまカゼひいており動けません~ もう少しアップお待ちください・・・・・
2008年04月09日
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流線型打線の2番、すなわち打者を返してしまうバッターとして君臨していたのが豊田泰光です。 豊田泰光といえば、今では物怖じせずズバズバ意見をいう「毒舌」が今ではイメージとして定着していますが、当時のライオンズでは強打者として活躍していました。またイケメンとしても有名で茨城県出身ながらとても人気がありました。 当時から我が強い豊田も三原監督の下では天性の才能を発揮、首位打者など獲得しています。 つづく
2008年04月08日
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三原監督の西鉄打線は「流線型打線」といわれました。なぜそういわれたかは諸説ありわかっていません。 流線型とは新幹線や飛行機の先っちょが丸みを帯びているあの形のことで、日本では蒸気機関車の空気抵抗を少なくするため流線型機関車なんかが製造されていました。 では、その流線型打線とはどういうものか?というとこれがビックリの打線です。 1番には巧打の長打力打者を置き、2番で返す。すなわち1番と2番ですでに得点してしまうというもの。得点にいたらずに塁にいる時は3,4,5番の長打力のあるバッターで返すというとんでもないもんでした。 その1番に陣取っていたのが、上の高倉照幸。熊本の出身なので平和台では大人気でした。 でも、この流線型打線、意外と後世に残ったりしています。 たとえば85年に優勝した阪神タイガースの真弓。先頭打者ながらホームランバッターでした。阪神ファンなら懐かしい話です。また、89年優勝したころの近鉄の村上やオリックス時代のイチローも一時期、先頭打者でホームランをえらく打った時期がありました。 上にあげた一例ですが、真弓は元ライオンズの選手、近鉄村上やオリックスのイチローはライオンズ出身の仰木監督が指揮を執った時代のこと。すべて三原ライオンズに通じているのがわかるでしょうか? 流線型打線は形を変えて残っていくのです。 つづく
2008年04月07日
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三原監督はこう言ったという 「各個人は他人のことに関し無関心であってもらいたい。個人的な友好関係とグラウンドにおける各人の立場がチームプレーの上に何の関連もないようになってほしい。 つまり各人がプロ野球人としての独立独歩でプレーしてもらいたい。」 高校野球とは違って、あくまで全員が「個人事業主」というのが明確にされています。つまり「サラリーマンじゃないよ」ということ。 また、三原は「人の真似はしてはいけない」とも言っています。学ぶのはいいけどあくまで「自己流」にアレンジしたものでなければならないということですね。 このようなチーム編成をして、西鉄は単なる「社会人チーム」から、個性の強い選手の集まりへと変わり始めます。当時のマスコミはこれに「野武士軍団」というニックネームをつけました。 「西鉄イコール野武士」のイメージは球史にとても強く残っています。ではその主人公たちをみてみましょう。 つづく
2008年04月07日
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当時の新生「西鉄ライオンズ」はもともとノンプロのチームを母体としているだけに、当時の選手も「普通のサラリーマン」という感覚でいる人が多くいました。 どんな会社でもやり手の新しいトップがくると、社員たちは冷静にそれを分析、少しでもあらがあると容赦なくつっつくという行為を行いますのが、それは当時も同じことでした。 三原は早稲田、巨人と野球技術の最高峰で野球をしてきたわけですが、それに比べて西鉄のやっていた野球はノンプロの空気が抜けない、ただ、筑豊炭田を中心にした炭坑がにぎわっていて西鉄自体も好景気、それにあぐらをかいているようなチームでした。当然三原はその意識改革からはじめます。 すでにいるベテランにはプライドを保たせつつ少しづつ本場の野球を教え、新しく入団してくる新選手に洗練された技術を指導するといった具合にして「勝つ集団」へとチームを変えはじめました。その先には自分が引導をつきつけた「東京、巨人」があったのはいうまでもありません。 つづく
2008年04月07日
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西鉄ライオンズは新たに監督に読売から三原脩を招請しました。ここから「三原野球」といわれる現代のプロ野球に大きな足跡を残す歴史がはじまります。 三原脩は元々社会人契約選手第一号でした。すなわち「始めてのプロ野球選手」です。一時期戦争に召集されましたがその後読売巨人の監督になっていましたが、その後戦争から帰ってきた水原茂が監督になりました。これには巨人内部で三原排斥運動が起こったのが原因で三原は巨人の「総監督」として読売新聞勤務になりました。 元々入社したのが報知新聞で、当時の報知新聞は読売新聞より格上の新聞でしたが、戦後立場が逆転、皮肉にも読売新聞勤務となりました。 「総監督」とはいっても完全な閑職でユニフォームも着ないようになっていた三原に西鉄が声をかけたのです。 戦争のケガで若いのに現役ができなくなった三原は、西鉄の要請に答え東京から福岡へ向かうことになります。「いつか巨人を見返してやる!」そんな気持ちがあったのかもしれません。 つづく
2008年04月06日
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昭和25年、プロ野球がセリーグとパリーグに分かれて開催されたしょっぱなの頃、西鉄ライオンズはパリーグに加盟していました。 パリーグは毎日新聞社を球団経営に入れるか入れぬか親会社がケンカ別れしてできたリーグで、その毎日新聞球団は球団経営に参加、毎日オリオンズ(現千葉ロッテマリーンズ)を旗揚げしました。 その西鉄と毎日の試合、毎日が大量リードされ配色濃厚になってくると毎日オリオンズは平和台に照明がないことをいいことに、ワザと日没まで試合を延ばしてノーゲームにしてしまうという卑劣な行為を行い、これに博多っ子が激怒して大事件に発展しました。これを「平和台事件」といいます。 上の写真は、警備する進駐軍に守られ球場を出るオリオンズの選手たち。周りは怒ったライオンズに囲まれさながら「戦場」と化しています。オリオンズの選手は試合後も球場から出ることもできなかったのです。 オリオンズではこの事件をきっかけに湯浅初代監督が更迭までされました。今、60年近く経ち、チームもすべてが変わり、マリンスタジアムで「俺たちの誇り~♪」なんて応援しているファンでもこの「卑劣行為」を知る人は少ないことでしょう。 面白いことにこのライオンズとオリオンズ、後々にいたってもなにかと縁のあるチーム同士になります。 つづく
2008年04月05日
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西鉄、西日本はともに平和台球場を本拠地にしていました。西鉄ライオンズに統合されてからももちろんこの球場を使用していました。 かつて黒田家の50万石以上の「居城」であった福岡城の跡地に建てられていて堀を渡って石垣の合間からこの球場が見えてくるのを今でも覚えています。 ライオンズのまさに「ふるさと」の球場でした。 現在では取り壊され、古代の遺跡が出てきちゃったりしてるんですが、この平和台球場、当時としては仕方がないのですが、ある大きな欠陥がありました。 それにより大きな事件へと発展していきます。 つづく
2008年04月04日
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九州にはかつてプロ野球チームが2つありました。ひとつは「西鉄ライオンズ」。これは西日本鉄道傘下の野球チーム。そしてもうひとつが「西日本パイレーツ」。こちらは福岡ではメジャーな地方紙である西日本新聞の傘下のチームです。 プロ野球がセパの2リーグ制になった時、それぞれが別のリーグに所属していました。したがってどちらのリーグにも九州(福岡)が本拠地のチームがあったことになります。 しかし、この地方都市、当時は筑豊炭田などを配し栄華を極めていたとはいえ、さすがに2つのチームは運営が難しい。したがってくっつく形で西鉄ライオンズに統合されました。 ここから正式な「ライオンズ史」がはじまります。 つづく
2008年04月03日
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ただいま、ライオンズ史を不評(一部に好評)連載している私ですが、ちとウイルス感染にあってしまったもようで休んでいます。 申し訳ありませんが今日お休みをください。気分は大分よくなったのですが念のため・・・・待ち望んでいただいているそこのアナタ!申し訳ありません!
2008年04月02日
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ご存知の方も多いと思いますが、現在の埼玉西武ライオンズの発祥は福岡です。例の「西鉄ライオンズ」。 この福岡の町に福岡タワーがあり登ったことがあります。そこから見た福岡の町の印象は「ものすごく小さい」というものでした。これが九州最大の街なのか????街の際が見えるでないか!東京モン特有の発想ですが、この山と海に囲まれた小さな街にライオンズは生まれました。 目の前には現在の「福岡の顔」ソフトバンクホークスの本拠地である福岡ドーム、右側にみえる緑の杜が福岡城跡でここにライオンズの球場である平和台球場がありました。 つづく
2008年04月01日
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