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「いいことはおかげさまわるいことは身から出たさび」 「かんがえてばかりいると日がくれちゃうよ」 「がんばんなくてもいいからさ、具体的に動くことだね。」 「なやみはつきねんだなあ生きているんだもの」 「やれなかった、やらなかったどっちかな。 」 「一生悟れなくてもいいから感動いっぱい、感激いっぱいのいのちを生きたいと思います」 「私の、このヘタな文字、つたない文章も、見てくれる人のおかげで書かせていただけるんです。〈おかげさん〉でないものは、この世に一ツもありません。みんな〈おかげさん〉で成り立っているんです」 「水にぬれなければおよげませんよ」 「あとじゃできねんだよなあいまのことはいましかできぬ」 「とにかく具体的に動いてごらん具体的に動けば具体的な答が出るから」
2006.02.28
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なつかしのプロレスラー アドリアンアドニス幼少期からアマレスで鍛え、アマレスジュニア五輪で2度の優勝実績があり、一時期プロアメフト球団に在籍した次期もあった。75年11月プロレスデビューし、77年ロスでアメリカスヘビー級王座奪取し、80年7月ジェシーベンチュラとのコンビでAWA世界タッグ王座奪取。昭和57年マードックとの「スーパーバイオレンスコンビ」で新日来日を果たし、84年4月このコンビでNY入りしWWF世界タッグ奪取。合体技を得意とし58年新日のMSGタッグリーグ決勝に進出し猪木&ホーガン組を苦しめた。翌年MSGタッグリーグも決勝進出し猪木&藤波組に惜敗。その年の12月新日フィリピン遠征に帯同し、藤波&木村組を相手にWWF世界タッグ王座防衛を果たしている。88年カナダで交通事故の為34歳の若さで亡くなったが、晩年はオカマキャラに転身し評判を落としてしまった
2006.02.27
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ぬるかわ温泉さんに2月25日宿泊。26日湯布院にて散策。面白いお店が多く満喫した。佐々木さんという似顔絵屋さんに娘を描いていただいた。(以下 紹介記事) 元美術教師で画家の佐々木さんが描いてくれる、湯布院では結構有名な似顔絵屋さん。いつも『犬屋敷』、『猫屋敷』の前で営業しており、所要時間4分ほどで描きあげてくれる。自分への旅のお土産としていかが?気さくな佐々木さんとの湯布院弁トークも絶妙で、これもまた、楽しい旅の思い出のひとつだ。 (以上紹介記事)
2006.02.26
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松田優作の初監督映画「ア・ホーマンス」で俳優デビューした石橋凌。この作品の主題歌は彼のバンドARBの曲だった。何がいいって言うのはこれって言う具体的な表現はできないけれど、味があるっていうか、硬派な感じっていうか。かっこいいと思う基準はきわめて感覚的で難しいですが。石橋凌とにかく好きですね。彼のような男になりたいと思っています。
2006.02.25
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小倉南区天ぷら専門店はまやに行く。ご飯イカの塩辛漬物おかわり自由 ご飯3杯食べて、大満足だった。塩辛がおいしい、よく調べたら塩辛も商売にされているみたいだった。
2006.02.25
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笑顔がいいじゃないか!またがんばってね 安藤美姫!
2006.02.24
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かえり船清水みのる 作詞倉若晴生 作曲波の背の背に ゆられてゆれて月の潮路の かえり船かすむ故国よ 小島の沖じゃ夢もわびしく よみがえる捨てた未練が 未練となって今も昔の 切なさよまぶた合わせりゃ まぶたににじむ霧の波止場の ドラの音熱い涙も 故国につけばうれし涙と 変るだろかもめ行くなら 男の心せめてあの娘に 伝えてよ
2006.02.24
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華やかな表舞台に出てくるスポーツ選手。プロ選手であっても彼らの末路は厳しい。引退すれば彼らに何の生活の保証もない。苦しい思いをして活躍しても栄光に比例して彼らになんらの保証はない。ただ一握りの勝利者は経済的な成功を勝ち取れるがトップに上り詰めて初めて手に出来るのだ。スポーツ振興と軽く言うが、大多数の人がスポーツに没頭し得ないのは、上り詰めた先に花園ではなく荒涼とした世界があることを知っているからに違いない。
2006.02.23
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参加することに意義があるでも見る側としたら勝敗にこだわってしまいますね。女子フィギアスケートに期待しています。安藤美姫がんばれ!!
2006.02.22
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ダニエルカール・アグネスチャン・欧陽菲菲来日して何年もたつはずだがなんでいつまでも片言の日本語でしゃべっているのか?きっとこれが彼らの魅力のひとつだし、個性だし人気の秘訣なのだろう。
2006.02.21
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ケロちゃんの退社で興味をもって調べたら新日本プロレスがユークスというゲームソフト会社に子会社化されているではないか。おどろいた。いろんなところで劇的な変化がおきている。
2006.02.20
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霊柩車を目撃したら親指(或いは他の指)を隠さないと親族が亡くなる。って言うのがあるそうです。私は知りませんでしたが家内は知っておりました。なるほどといった感じもいたします。ちなみに私の小学校時代は霊柩車を見ると縁起が良いみたいなことをいっていたような記憶があります。あと1日でホンダのシビックを3台見るといいというようなことも言っており本気で信じていました。小学校時代のことです。不思議ですがいろいろな言い伝えというか迷信があるものですね。
2006.02.19
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我が家での志村けん人気がすごい!!うちの娘たちは志村けんが大好きだ。健康器具のCMの歌動物番組の志村園長などなど。志村けんがTVに出ると子供は喜ぶ。年齢を重ねるにつれて魅力を増しているのは私の好きな黒木瞳だけではなくお笑い界にもいたんだって感じました。
2006.02.18
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子供時代に「夜爪を切ると、親の死に目に会えない」とよく母に言われておりました。あるホームページにこのように書かれておりました。(以下 抜粋)親の死に目に会えないというのは江戸時代にさかのぼるようで、江戸時代に儒教の考えで親からもらった体の一部を夜切るのは親不孝の始まりと言われていたそうです。古くは日本書記に「謹んでおのれの爪を収めよ」とあり人体の一部である爪には霊魂が宿っていると考えられていました。また、昔夜に暗がりで爪を切ると切った爪がどこかに飛んでしまい、どこに飛んだか判らなくなることから、親に頂いた大切な体の一部を粗末にしてしまうことの戒めのことわざでした。 第二の言い伝えとしては、昔(江戸時代)は電気もなく、今のような爪切りもなく、刃物で爪を切った時代に生まれた言葉で、暗いところで刃物を使って爪を切るために手先がおぼつかず、あやまって足を切ってしまい、その傷が元で破傷風にかかってしまい、親よりも先に死んでしまうぞというところから生まれた戒めの言葉でもあるようです。 また、江戸時代、お城の門番で夜間の勤務を夜詰めといっていました。その仕事はとても重要で、たとえ親が死にそうになっても家に帰れませんでした。それから夜詰めは親の死に目に会えないとなり夜爪は親の死に目に会えないとなった、という説もあるようです。そういった様々な言い伝えから、夜爪を切ることは、夜詰めといって世の自分、自分の余命を詰めてしまう、または、ちぢめてしまうということで寿命を縮めるといけないから切らないほうが良いといわれていたようです。 また、他の例としては、夜爪を切ってどこかに切った爪が飛んでしまいその爪で怪我をしてしまう。とか、切ったあとに掃除をするのが大変だからなどといったものもあるようです。 (以上 抜粋)どうであれ、昔からの言い伝えには意味があるものだなと感じ入りました。多分第2番目の説が一番現実に近いのではないかと思います。
2006.02.18
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風の中のすばる 砂の中の銀河 みんな何処(ドコ)へ行った 見送られることもなく 草原のペガサス 街角のヴィーナス みんな何処へ行った 見守られることもなく 地上にある星を 誰も覚えていない 人は空ばかり見てる つばめよ高い空から 教えてよ地上の星を つばめよ地上の星は 今何処(ドコ)に あるのだろう 崖の上のジュピター 水底のシリウス みんな何処へ行った 見守られることもなく 名立たるものを追って 輝くものを追って 人は氷ばかり掴む つばめよ高い空から 教えてよ地上の星を つばめよ地上の星は 今何処(ドコ)に あるのだろう 名立たるものを追って 輝くものを追って 人は氷ばかり掴む 風の中のすばる 砂の中の銀河 みんな何処(ドコ)へ行った 見送られることもなく つばめよ高い空から 教えてよ地上の星を つばめよ地上の星は 今何処(ドコ)に あるのだろう
2006.02.17
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すみれSeptemberLove作詞:竜 真知子/作曲:土屋昌已/編曲:佐藤 宣彦,山口 一久,SHAZNAそれは 九月だったあやしい 季節だった夕やみを ドレスに替えて君が踊れば 都会も踊るまるでマンハッタン・ストーリー君さえいれば パラダイス昔見た シネマのように恋に人生 賭けてみようかYou・You・You・誘惑の摩天楼You・You・You・夢が花咲くすみれSeptember Love踊ろうSeptember dancing明日は明日 ラィララィラ・・・・君は 夢か幻すみれSeptember Love again今夜はSeptember dreamingゆら ゆら ゆられて ラィラィラィラィ君は 奇跡だった優しい 天使だったあきらめを 覚えかけてた僕の心に ふれた微笑You・You・You・許されるものならばYou・You・You・夢の続きをすみれSeptember Love踊ろうSeptember dancing明日は明日 ラィララィラ・・・・君は 君の幻すみれSeptember Love again今夜はSeptember dreamingゆら ゆら ゆられて ラィラィラィラィ
2006.02.17
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ミミズにおしっこをかけるとちんちんが腫れるとよく母に言われておりました。実際に子供時代に腫れたこともあります。ミミズの祟りかと思っておりましたが、あるホームページにこのようにかかれておりました。ミミズに小便をかける事と、おチンチンが腫れる事の因果関係を説明できる事はありません。実際に経験したことのある方もいらっしゃるかもしれませんが、これは、ミミズがいるようなところで遊んでいた時、当然手は汚れているでしょう。そのような汚い手でおチンチンをさわると、場合によっては細菌が入って炎症(亀頭包皮炎や尿道炎)を起こす、その結果おチンチンが腫れるということだと思われます。納得!!
2006.02.16
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諸説あるようですし、蛇が幽霊だったりするようです。口笛は夜ふくとあまり感じのいいものでもなく、子供が夜口笛を吹かないように言い聞かせるためにいったのではないかと、解釈しておりました。娘を持つ身になり、このような非科学的な言い方も少しは必要ではないかと感じております。
2006.02.15
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2/14バレンタインデーということで双子娘が家内と一緒にハート型の巨大コロッケを作って私の帰宅を待っていてくれた。双子娘ももうすぐ6歳。私の家に生まれてくれ2歳のときに不動産屋を創業。5歳のときに廃業。不安な想いをさせる。なにかと寂しい想いをさせながらも健やかに育ってくれた。私にとって人生最高のコロッケだったのではないかと親バカ丸出しで感謝しつつ、日記にしたためる。双子娘ありがとう!!
2006.02.14
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「独立自営」森村市左衛門 明治経営者名著集 ダイヤモンド社近代セラミック産業を築いた「独立自営」の精神第4編 第一 現代思想(その一)花よりも実を結べ更に考えなければならぬ事は、いわゆる旨くやった連中は随分世間には多いようなものだが、これ決して多いのではない。他の堅実なる労作に依って産をなし、富を得た人は、彼等空中楼閣黨の如く、華美に世人の眼に映じないまでの事である。富めりと雖も静かに富み、勝てりと雖も敢えて叫び誇らぬ処から、殊更に世人の目に映じないのである。最後の勝利者は矢張り堅実なる人の手に帰しているのは、古今の常態である。花を咲かせると言うが、花は終局の目的ではない。果実熟して初めて最後の目的が得らるるのだ。花には狂い咲きもあろうが、果実は決して酔狂や誤魔化しては得られぬ。真面目な堅実な労作以外に果実を得る手段はない。狂い咲きを見て果実を忘れてはならぬ。狂い咲きは決して世間の常態でもなければ、果実を得るものでもない。只人目を惹く異例に過ぎないのである。陶板に記された『國利民福』 名古屋駅から大阪方向に出発してすぐ、右手の車窓に「Noritake」の文字が見える。日本陶器(現・(株)ノリタケカンパニーリミテド)発祥の地で、敷地内には煉瓦づくりの創業当時の工場も保存されている。 15年ほど前、この地にドーム球場の構想が生まれたとき、この煉瓦工場の下から日本陶器創立の宣誓文を記した陶板が掘り起こされた。 森村市左衛門の『國利民福』の思想の原点は、幕末・維新に重なる。彼は、天保10年(1839)に江戸・京橋の馬具・袋物商の長男・市太郎として生まれた。六代目の誕生である。各藩御用をつとめる商売は順調だったが、やがて激動の時代を迎えようとしていた。 日米和親条約が結ばれた翌年の安政2年(1855)、江戸をマグニチュード6.9の地震が襲った。死者1万人にのぼる安政大地震である。京橋も焼き尽くされ、森村家は灰盡に帰した。16歳の市太郎は、人夫、露店商で一家を支えて店を再建した。安政6年に横浜が開港されると、市太郎は片道32kmの道のりを往復して、横浜でラシャ、時計などを仕入れて薄利で売った。やがて、大名屋敷から声がかかるようになり、中津藩(大分県)に出入りするうち、福沢諭吉の存在を知った。 万延元年(1860)、幕府は日米修好通商条約に批准する使節団を派遣することになり、米国への贈答品の注文が森村の店に舞い込んだ。使節団が米国で使用する通貨への両替も頼まれたので、市太郎が横浜の両替所で交渉したが、日本の小判(金)とメキシコ銀貨の交換レートは1:2だった。国際レートは1:4だったから外国商人はぼろ儲けである。「これでは日本の金がすべて流出してしまう」と福沢に訴えると、「貿易で取り戻すしかない」という。市太郎はこの言葉を胸に刻んで生きることになる。 文久2年(1862)、幕府は皇女和宮の降嫁を得て公武合体に延命を託すが、市太郎は「時勢は追々変転せんとし、徳川の勢力しだいに衰う」と記している。この頃、森村商店は騎兵用の鞍を製作し、土佐藩士板垣退助の勧めもあって、各藩に納めている。武器や軍服の製造も始めた。 森村組、ニューヨークに進出 時代は明治に移った。市太郎は塩問屋の談合に義憤を感じて製塩業を始めた。養蚕、銅山、漁業にも手を広げたが、ことごとく失敗した。この苦境を救ったのは本業の馬具である。木戸孝允、山県有朋に評価され陸軍に鞍や軍服を納めることができた。しかし、役人に賄賂を要求されたことに激怒して軍御用達を辞してしまった。市太郎は銀座にテーラーを開き、かねて計画していた外国貿易の準備を始めた。 明治9年(1876)に、慶應義塾に学んだ弟・豊と森村組を創立した。そして、豊は、福沢諭吉の紹介により、輸入商の佐藤百太郎(順天堂の創設者の長男)の世話で、後に生糸貿易で名をなす新井領一郎、丸善店員の鈴木東一、三井組の伊達忠七とともにニューヨークに旅立った。市太郎37歳、豊22歳のことであった。 同年9月、豊は佐藤、伊達と共同で「日之出商会」を設立し、市太郎が日本で蒔絵、印籠などを調達して米国に送った。横浜通いで鍛えた市太郎の眼は確かで、名古屋で3円で仕入れた花生が10倍で売れた。2年後、明治11年、豊は単独で六番街238番館に「森村ブラザーズ」を設立した。市太郎も日本橋で絵草紙屋を営む義弟の大倉孫兵衛を引き入れて、北海道から京都、大阪まで足を延ばして精力的に仕入れを行った。 もちろん、政府に保護された商売敵も多く、市太郎は福沢に弱音を吐いて「へこたれるな」と励まされることもあった。ともかく、森村組は「独立自営」を貫き、信用第一で顧客を増やしていった。ある時、現地の店員が間違って商品を倍の値段で売ってしまった。豊は、「相手は納得して買ったのだから仕方がない」という店員をたしなめ、金を返させた。この一件で店員も客も「日本人は信用できる」と感激したという。 業容の拡大とともに、森村組の将来を担う社員が次々と入社してきた。慶應義塾を出た村井保固は、あえて弱小の森村組に入社した。明治12年にニューヨークに渡り、避暑地への出張店舗、卸業への転換などを献策した。広瀬実栄は土佐藩の重臣の子だが、板垣とともに新政府を辞した後に市太郎に請われて入社し、後に森村銀行の初代頭取になる。市太郎の長男の明六も慶應義塾を出てニューヨークに渡った。 卸事業に転じた森村組は、明治26年には輸出高が25万円(現在の25億円ほど)に達した。主力は陶磁器で、瀬戸、京などから生地を購入し、専属の絵付工場で絵付けをして出荷した。手描きの“金盛絵付け”の花瓶などが評判を呼び、瀬戸の窯元に依頼してコーヒーカップの製造も始めた。やがて、生地、絵付けともに名古屋に集約し、欧州にならって分業方式の生産も導入した。明治27年、市太郎は六代目市左衛門を襲名した。 “純白”への20年の挑戦 明治27年から製造を始めた洋食器は苦戦だった。純白が求められるのに日本の磁器は灰色の「でもしろ」(これでも白)だった。光沢もなく熱にも弱かった。そこで、東京工業学校(現・東京工業大学)から飛鳥井孝太郎が入社し、名古屋支店で研究を開始した。この事業は大倉孫兵衛の資金で行われたが、失敗の連続で、やむなく飛鳥井は欧州に渡ったが、どの工場でも粘土の混合や焼成温度は秘中の秘だから大して成果はあがらなかった。 そんなおり、市左衛門に不幸が重なった。明治30年に明六が死亡した。豊も同年に胃がんで死去したのだ。失意の底にある市左衛門に対して、大倉孫兵衛と長男の和親の方も辛かった。明治35年、金盛絵付け技術と交換に欧州の工場見学が認められ、ドイツ粘土研究所の分析で天草陶石が最適であることもわかった。ようやく、明治36年(1903)に純白の生地が完成した。 明治37年、欧州から製陶機械や石炭窯を導入し、名古屋駅に近い鷹羽村則武に「日本陶器合名会社」が創立された。そして、煉瓦づくりの工場の建設にあたって、冒頭にある出資者の陶板が市左衛門の手で埋められた。 日本陶器は森村組から分離され、大倉和親が代表者になった。和親は工場内に家を建てて陣頭指揮をしたが、洋食器の歩留まりはあがらず、損失は増える一方だった。ようやく明治末年になって、思うような製品ができるようになり、創業の地にちなんだ「ノリタケ」ブランドは、輸出だけでなく、皇室、外務省、海軍、帝国ホテル、精養軒に採用され、三越でも扱われて何とか黒字化した。 ただ、輸出では八寸皿のディナープレートが求められたが、八寸の大皿では中央が垂れてしまうので、どうしても市左衛門が出荷を承知しない。そこで村井が伊勢本一郎を日本陶器に送りこんだ。伊勢は、東京工業学校で飛鳥井の後輩だった江副孫右衛門を開発責任者に据えた。このため、飛鳥井は退社を余儀なくされるが、市左衛門の励ましに発奮して、名古屋製陶(現・鳴海製陶(株))に移って後にノリタケのライバルとなる。 一方、江副は欧州に渡って原料の改良につとめ、さらにこれまで中央が垂れないように中央の粘土を薄くしていたのを、逆に中央を厚くする逆転の発想で垂れを抑えることに成功した。すでに、大正3年(1914)と元号も変わっており、純白を志して20年後のことだった。 同年、第一次世界大戦が勃発し、欧州からの輸入が途絶した米国からディナーセットの注文が殺到、大正5年に1万組、同10年10万組と輸出が激増し、やがて、欧州、アジアにも「ノリタケ」が広がっていった。 セラミック新事業が次々と開花 大倉和親は私費で研究室をつくり、苦境の中でも新製品の開発を怠らなかった。成型技術から人造石膏が生まれ、業界トップになった。大衆品向けの絵付け転写印刷、金使用の水金なども開発した。 八寸皿完成の大正3年には、国産初の洋風衛生陶器を製品化。大正6年に北九州小倉に「東洋陶器」(現・東陶機器(株))を設立した。衛生陶器は関東大地震以後、東京で需要が拡大し、シェア90%にまで達した。 明治38年(1905)には、芝浦製作所(現・(株)東芝)の要請で、15,000ボルト送電用碍子を製造。碍子は水力発電の普及とともに需要が拡大し、一時、日本陶器の収益の4割を稼いだ。そして、大正8年に市左衛門の次男・開作、和親の出資で「日本碍子」(現・日本碍子(株))を設立した。 昭和恐慌下の昭和5年(1930)には、自動車・航空機の点火プラグを開発、昭和11年に江副孫右衛門を社長に「日本特殊陶業(株)」を設立し、森村豊の遺児・勇が取締役に就いた。 さらに、大倉和親は常滑の伊奈製陶所(現・(株)イナックス)を資金援助して、近代陶管、タイルの生産を開始する。これら5社がそれぞれの業界で今日もトップ企業を維持しているのは、まさに驚異である。 森村組も順調だった。陶器だけでなく、ミキモトの真珠、工芸品に手を広げて黒字を続けていた。大正6年(1917)には、森村開作が社長に就任したが、第一次世界大戦後の不況と昭和恐慌により、森村組の業務は日本陶器に合流し、明治30年創立の森村銀行も三菱銀行に吸収された。ニューヨークの「森村ブラザーズ」も、昭和16年(1941)の日米開戦で資産を凍結されて命脈を絶たれた。戦後は、森村商事(株)と改名し、陶器材料の輸入販売や不動産事業などを行っている。 森村市左衛門は、大正8年(1919)に81歳で歿した。『國利民福』を志した市左衛門の業績は多岐にわたる。明治15年(1882)に日銀監事に任命され、松方内閣の時に金本位制を主張して勇名をはせた。明治21年には日本商工会議所創設に参加した。富士製紙の設立や富士紡績の再建でも無償で力を尽くした。富士紡が、せめて工場前の橋に「森村橋」と命名させてくれと頼んだというエピソードが伝わっている。 教育面では、日本陶器に夜学を設けて従業員教育を行い、豊、明六を記念する「森村豊明会」のもと、日本女子大や三輪田学園、高千穂学園への援助、森村学園の創立など女性教育を進め、慶應、早稲田、東京工業、北里研究所にも寄付を行った。しかし、桂太郎総理の要請による済生会への寄付は断っているのが面目躍如である。(文中、社名は略称、敬称略) 取材・大喜三郎 撮影・古城 渡 取材協力 株式会社ノリタケカンパニーリミテド 日本碍子株式会社 日本特殊陶業株式会社 東陶機器株式会社 株式会社イナックス 参考 『森村市左衛門の無欲の生涯』砂川幸雄(草思社)
2006.02.14
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田上康朗先生HP「人様に役立つ限り、生きていける」 を読ませていただいた。田上康朗先生にはいろいろとご指導いただき、感謝しています。親身になってくださるお姿は本当に勉強になります。 「人様に役立つ限り、生きていける」 かみ締めながら生活していきたいです。
2006.02.13
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むすめどもがたまごっちを飼い始めた。可愛がることでやさしさを勉強できると思う。大人からみてもたまごっちなかなか可愛いものだ。ゲームもついているし、通信機能、PCとの交信もできるみたい。
2006.02.13
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柔道は、心身の力を、最も有効に使用する道である。その修行は、攻撃防御の練習によって身体精神を鍛錬修養し、その道の真髄を体得する事である。そうして、是によって、己を完成し、世を補益するのが、柔道修行究極の目的である。嘉納治五郎 師範
2006.02.12
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2級建設業経理事務士という資格があります。簿記の建設業版といったところでしょうか。会社内に2級建設業経理事務士がいることで、公共工事の入札に係る経営事項審査(経審)の評価対象になります。 そういった意味では非常に意義のある資格であります。私は2級建設業経理事務士を取得すべく3月12日の検定試験に向けて勉強中であります。昨年11月には第1種高圧ガス販売主任者を受験したばかりでありますし、内容は全く違うものですが、頭が受験モードになっております。「自力で必達」がんばるぞ!!■ 建設業経理事務士検定試験の概要 検定試験には受験資格はありません。ご自分の力に見合った級を受験することができます。(1) 試験の内容及び程度 検定試験は、その難易度により1級から4級までの4つの級に分かれて実施されます。各級の内容と程度は、次のとおりです。なお、1級は財務諸表、財務分析、原価計算の3科目からなり、3科目すべてに合格した時点で、1級の資格を取得することができます。2級 建設業の簿記・原価計算及び会社会計実践的な建設業簿記、基礎的な建設業原価計算を修得し、決算等に関する実務を行えること。
2006.02.11
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自分の感受性くらい 茨木 のり子 ぱさぱさにかわいていく心を ひとのせいにはするな みずから水やりを怠っておいて 気難しくなってきたのを 友人のせいにはするな しなやかさを失ったのはどちらなのか 苛立つのを 近親のせいにはするな 何もかもへたくそだったのはわたくし 初心消えかかるのを 暮らしのせいにはするな そもそもが ひよわな志にすぎなかった 駄目なことの一切を 時代のせいにはするな わずかに光る尊厳の放棄 自分の感受性くらい 自分で守れ ばかものよ
2006.02.10
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人の行く裏に道あり花の山 株式投資の格言といえば、何をおいてもまず出てくるのが、このことばである。投資家は、とかく群集心理で動きがちだ。いわゆる付和雷同である。が、それでは大きな成功は得られない。むしろ他人とは反対のことをやったほうが、うまくいく場合が多いと説いている。 大勢に順応すれば、たしかに危険は少ないし、事なかれ主義で何事によらず逆らわないのが世渡りの平均像とすれば、この格言、多分にアマノジャク精神に満ちている。だが、人生の成功者はだれもやらないことを黙々とやってきた人たちであり、欧米では「リッチマンになりたければ”孤独”に耐えろ」と教えるのが通例。人並みにやっていたのでは、人並みの結果しか得られないというわけだ。 株式相場は、上げばかりでもなければ、下げばかりが続くこともない。どこかで転機を迎える。その転機を、どうしたらつかめるか。四囲の環境や材料から続み取るのは、むろん大切なことだが、大勢があまりにも一方へかたより過ぎたときなどには、この格言を思い出すことだ。 これと類似の格言に「友なき方へ行くべし」「相場師は孤独を愛す」などがあり、ウォール街にも「人が売るときに買い、人が買うときには売れ」(Buy when others sell; Sell when others buy.) 「株というものは高いときには最上に、安いときには最低にみえるものだ」ということばがある。
2006.02.09
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○…万人の気弱きときは米上がるべきの理なり。諸人気強きときは米下がるべきの種なり。(三猿金泉秘録) ○…弱気の理、世に現われ出ればみな弱気、何時にても買いの種まけ。(同) ○…万人が心に迷う米なれば、つれなき道へおもむくがよし。 (同) ○…万人が万人ながら弱気なら、のぼるべき理をふくむ米なり。 (同) ○…千人が千人ながら強気なら、くだるべき理をふくむ米なり。 (同) ○…野も山も皆一面に弱気なら、阿呆になりて米を買うべし。 (同) ○…万人が万人ながら強気なら、たわけになりて米を売るべし。 (同) ○…万人があきれはてたる値が出れば、それが高下の界(さかい)なりけり。(同) ○…いつとても買い落城の弱峠、こわいところを買うが極意ぞ。 (同) ○…いつとても売り落城の強峠、こわいところを売るが極意ぞ。 (同) ○…向かう理は、高きを売りて安きを買う。米商いの大秘密と知れ。 (同) ○…米だんだん下げ、人気も揃い弱く、何程下がるも知れがたく、わが考えも弱かるべしと思う節、心を転じ買い入れるべきなり。この思い切り、海中に飛び入る心持ち甚だ成しにくきものなれど、その節疑いの気を生ぜず買うべし。きわめて利運なり。下げと見込むとき、思い入れの通り下がるものなれば心易きものなれど(わけはないが)、人気下がると片寄るときは、かえって上がるものゆえ考えに及ばざるなり。上げも同断。すなわち海中に飛び込む心持ち、極意なり。(宗久翁秘録) ○…十人が十人片寄るときは決して(必ず)その裏くるものなり。(同) ○…米弱みにみえ、しきりに売り気進み立ち候節、気転じ買い方につくべし。きわめて利運なり。ぜひ上ぐべしと買い気進み立ち候節、これまた気を転じ売るべし。(同) ○…わが思い入れをみだりに人に話すなかれ。他の了簡聞くことなかれ。(相庭高下伝) ○…売り買いはいくさの備えも同じこと、米商いの軍兵(ぐんぴょう)は金。(三猿金泉秘録) ○…商い仕掛けたるとき、まず損銀をつもるべし。後悔を先へ慎むべし。(八木虎之巻) ○…商いに三つの慎みあり。第一油断、第二不巧(慎重を欠くこと)、第三不敵なり。油断よりおこりて利をとるべきときを忘れ、損を見切り逃げるときをはずし、利に乗じて米多く仕入るべきときを失い、不巧より仕掛けの商い覚悟なく、思い入れの立てようも人気に迷いて思慮浅く、あるいは臨機応変のかけひきにうとく、不敵よりおこりて大高下の節、俵数(取引量)を恐れず、はじめより身上不相応に米を仕込み、すこしのことにてその米こたえがたく(わずかの損勘定にもその建玉を維持することができず)、利になるべきを損にて仕舞い、あるいは底値に付け込み天井にのせ、これらは勝ちいくさに長追いして伏勢にあたり、かえって敗北するに同じ。(商家秘録) ○…商いをせんと思う節、最初まず損銀のつもりをすべし。思い入れ違いたるところにて、これほどの損にて仕舞うと分別し、その上にても違うならば、誤りて(まちがいとして)早く見切り仕舞うべし。最初に計りし損より多く損すべからず。(同) ○…商い致す節、何程の金高に売買致すべきと分限に応じ相定め申すべきことなり。(宗久翁秘録)
2006.02.08
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ほぼ毎日テレビに出ている、細木数子さん。家内はテレビに釘付けです。
2006.02.07
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「この道を行けばどうなるものか、危ぶむなかれ。 危ぶめば道はなし。踏み出せばその一足が道となる。 迷わず行けよ。行けばわかる」 「馬鹿になれ とことん馬鹿になれ 恥をかけ とことん恥をかけ かいてかいて恥かいて 裸になったら見えてくる 本当の自分が見えてくる 本当の自分も笑ってた それくらい 馬鹿になれ」「元気が一番、元気があれば何でもできる」
2006.02.06
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最近ぐらぐらしていると言っていた5歳娘の前歯がぽろりととれました。今まで歯があったのに、とれて無くなり不思議な感覚のようです。ボーっともの想いにふけっている様子です。書留で第1種高圧ガス販売主任者免許が届きました。受験勉強のことを思い出しています。
2006.02.05
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新年会 2次会 ラーメン屋で今に至る。帰ったら今日は昨日になっていた。そして今は明日になっていた。
2006.02.04
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『 祝婚歌 』 吉野 弘 二人が睦まじくいるためには 愚かでいるほうがいい 立派すぎないほうがいい 立派すぎることは 長持ちしないことだと気付いているほうがいい 完璧をめざさないほうがいい 完璧なんて不自然なことだと うそぶいているほうがいい 二人のうちどちらかが ふざけているほうがいい ずっこけているほうがいい 互いに非難することがあっても 非難できる資格が自分にあったかどうか あとで 疑わしくなるほうがいい 正しいことを言うときは 少しひかえめにするほうがいい 正しいことを言うときは 相手を傷つけやすいものだと 気付いているほうがいい 立派でありたいとか 正しくありたいとかいう 無理な緊張には 色目を使わず ゆったり ゆたかに 光を浴びているほうがいい 健康で 風に吹かれながら 生きていることのなつかしさに ふと 胸が熱くなる そんな日があってもいい そして なぜ胸が熱くなるのか 黙っていても 二人にはわかるのであってほしい
2006.02.03
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世渡り十訓 一: 感謝の世渡りに不平なし。 二: 明るい道を明るく通れ。 三: 健康を盾に、努力を矛に。 四: 平凡に堪えよ、然からば非凡の成功を得ん。 五: 夕に熟慮し、朝に断行せよ。 六: 仲良く働け、笑って暮らせ。 七: 希望に生きるは唯一の若返り法。 八: 沈んでも屈するな、浮かんでも奢るな。 九: 足るものは富み、与うるものは貴し。 十: 無駄のないのが世渡り上手。
2006.02.02
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【法句経104】おのれをととのえ なすところつねにつつしみあり かくおのれに克〔か〕つはすべて他の人々に かてるにまさる (解説)負けず嫌いの人間が人から社会的人間的に負けるととっても悔しい思いをする。しかしそんなことで苛立つより自分をととのえ身につつしみをもって生きる事の方が難しくそれが出来ればすべての他の人に勝つことと同じと申されている。
2006.02.01
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