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「おバカさんだなあ・・」と思ったけれど、「でも、なんだかこういう人って好きだなあ」とも思ってしまった。公務員ランナー川内選手のことだ。 エジプト国際マラソンに招待されたはいいが、パスポートを忘れて招待機に乗れず、自腹で80万円払って飛行機に乗ったそうだ(後にエジプト大使館の好意で25万円は払い戻されたそうだ。良かったねぇ)。ネットでは「海外に何度も行っているのにお粗末」といった旨の意見もあったけれど、「川内選手の頭の中はきっとレースのことでいっぱいだったのだろうなあ」と私は思った。給水のこと、道の路面のこと、靴のこと、時差ボケへの対応、体調管理。こういうタイプの人を何人か知っている。「研究者」と呼ばれる人たちだ。自分が今研究していることで頭の中はいっぱい。ひとたび何かを考え始めると、ものすごい集中力で他のことは全くお留守になる。中にはガスの火を止めるのを忘れて危うく火事を起こしそうになった人もいた。周りはハラハラドキドキだけれど、ここまで没頭できることがあることが羨ましくもある。人の意向を気にして身動きがとれなくなりがちな日本人の中にあって、こういう人は頼もしいし面白い。人間らしさが微笑ましくもある。エジプト国際マラソンでは優勝したそうだ。お母さんもパスポートを届けた甲斐があったというもの。一度きりの人生、周りを気にしてばかりいてはもったいない。「失敗することなんて怖がるな」自分の子どもたちにも、もっとそう言ってあげればよかったなあ、と今思っている。
2013.01.20
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体罰による高校生の自殺が問題になっている。個人的には体罰を完全否定する気はない。とても稀だけれど「愛のムチ」はあると思う。 でも体罰する側がどんなに「愛のムチだ」と言っても、体罰される側がそう思っていなければ、それはただの暴力でしかないし、どんなに「相手との信頼関係があれば」と言っても、相手が自分を本当に信頼しているかどうかを測る術は無い。多くの先輩教師を見た経験から一つ言えることは、「本当に力のある教師は体罰なんてしない」ということだ。それは教師だけでなく親もそうだと思う。言葉や態度で相手を納得させることができないから手が出るのだ。そしてほとんどの体罰は「怒り」をコントロールできない未熟さの中で行われる。私も子どもの躾と思ってお尻を叩いたことがある。けれどその後には後悔と自己嫌悪だけが残った。「お尻を叩かれたら痛いからしないでおこう」と子どもが思ったとしたら、それでは叱った意味がない。「なぜそれをしてはいけないのか、したら周りにどういう迷惑がかかるのか」を、子どもが理解して初めて叱る意味がある。甘い子育てよりも厳しい子育ての方が良いと私は思う。でも「厳しい子育て=体罰をすること」ではないことは確かだ。「体罰も時には必要」という意識が、安易な体罰を生んでいるのではないかと思う。
2013.01.13
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あけましておめでとうございます良いお正月をお迎えでしょうか。今年もどうぞよろしくお願い致します。私はお正月というと祖父のことを思い出します。子どもの頃毎年祖父の家でお正月をすごしていたからです。祖父は厳しい人でした。今どきの「優しいおじいちゃん」とは違い、おもちゃやお菓子をもらった記憶は全くありません。ただ年に一度だけ、お正月に孫たち全員に同じ額のお年玉をくれたのを覚えています。戦地にいる間に、妻(私の祖母)を病気で亡くし、復員してからばらばらに預けられていた子どもたちを迎えに行き、生活に困窮する中、苦労して子どもたちを育て上げたそうです。そんな祖父の元に、孫たちは入学、卒業、就職、結婚、と何かあるたびに必ず挨拶に行きました。お祝いをくれるわけでも、褒めてくれるわけでもありません。ただその時その時孫たちに言葉をかけてくれました。大学に入った時には「学問を修めることで高飛車で偉そうな女になるな」と。就職した時には「お前の歳で褒めてもらおうと思うな。叱ってくれる人の話を一所懸命に聞きなさい」と。優しい言葉をかける人ではなかったけれど、そういう言葉のひとつひとつを思い出すたびに、厳しい祖父の不器用な愛情を今も感じます。30年も前のことです。言葉ってすごいなあ、と思います。そしてそんな祖父がいなければ(祖父だけではないですが)、今の自分はここにいないんだなあ、と思います。
2013.01.01
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