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YouTubeで見つけた曲です。「遠い世界に」は小学校中学年のころ、はやっていたように思いますが、曲名を覚えておらず、今日初めて知りました。いい歌だなと思っていた曲にまた再会できたのはYouTubeのおかげです。素朴ないい歌だと思います。紙風船と五つの赤い風船を混同してましたが、今回別なグループと知りました。■参考リンクWikipedia:五つの赤い風船五つの赤い風船(いつつのあかいふうせん)は、日本のフォークグループ。概要1967年結成、1972年解散。1979年二度のライブのためだけに再結成。2000年再結成。1960年代後半から70年代初頭にかけて数多くのヒット曲を発表し初期フォーク・ブームを牽引、若者から絶大な人気を得た。特に西岡と藤原の混声ハーモニーは高い評価を得た[1]。なお、1975年に結成し、1976年に解散した「五つの赤い風船'75」は事実上別グループである。
2022.04.17
昔は、毎年卒業シーズンになると、その年の卒業ソングみたいな感じで、ヒット曲が生まれてましたがいまはどうなんでしょうか。久々に『いちご白書』をもう一度を聴きましたがいい歌です。荒井由実さんの作とは知りませんでした。ついでに荒井由実さんが提供された歌でご自分で歌われているものを集めました。こぼれるような才能の方です。特に『いちご白書』をもう一度が素朴でよかったです。2022.6.19内容の追加。■参考リンクWikipedia:『いちご白書』をもう一度「『いちご白書』をもう一度」(いちごはくしょをもういちど)は、1975年8月1日にフォーク・グループのバンバンがリリースした5枚目のシングル曲。バンバンとしては唯一のオリコン1位を獲得し、年間売り上げ13位にランクインした[1]。タイトルにある『いちご白書』とは、1970年に公開されたアメリカ映画で、1968年にコロンビア大学で実際に起こった学園紛争の手記をもとに制作されたものである[3]。荒井由実時代の松任谷由実作品として知られる。解説作詞・作曲は荒井由実(現・松任谷由実)。過ぎ去った学生時代を思い出すという内容の曲である。フォーク・グループバンバンのばんばひろふみは当時、ラジオの深夜番組においてディスクジョッキーとして活動し人気も高かったが、デビューから4年経過してもまだヒット曲がないことに焦りを感じていた[3]。その頃、荒井の曲を聞き「他の女性シンガーとは違う。キラキラしたすごい才能」と感銘を受けたばんばは「彼女の曲で売れなければ諦めもつく」と考え、最後の曲として荒井に書いてもらいたいと思い、荒井に会うためあらゆる伝を探し行き着いた所が松任谷正隆であった。そしてばんばは荒井と直接会い、条件を何も付けずに一曲依頼した[3]。荒井は、当時あった学生運動を題材にした歌を書きたいと思っていたところにばんばが現れ、「初対面のばんばが学生っぽく、最後のピースがはまった感じだった」と感じ、曲を書く事となった[3][4]。その題材を提供したのが早大紛争を経験した音楽プロデューサー・前田仁であった。デモテープを聞いたばんばは、興行が振るわずすぐ打ち切られた[3][信頼性要検証]、誰も知らないような映画をタイトルに使ったことに驚き、日常性を的確に捉えながら学生時代への別れを表現する斬新なフレーズにまた驚いたという[3]。レコード発売前にばんばは、本曲を自分が担当する深夜放送で流したところ、たちまちリクエストはがきが段ボール箱にあふれるほど殺到し、発売後はヒットチャートになった[3]。当時は、学生運動の象徴であった東大安田講堂事件から6年が経過し、学生運動の高揚と退潮がまだ社会の記憶に残っていた時代であり、ばんばは本曲について「社会を変えるつもりで闘争に加わった学生達は、生活のために会社の歯車となり、彼らは皆何らかの敗北感を持っていた。この歌は挫折感を抱えた同世代への鎮魂歌なんです」と語っており[3]、同世代の者も同じように受け止めている[3]。本曲の「就職が決まって髪を切ってきた時」というフレーズには、しばしば「髪を切るのは就職活動の前だろう」というツッコミが入ると言われる[5]。日本経済新聞2015年11月10日のコラム「春秋」では、「昨今に比べればおおらかな就職戦線だったから、こういう光景があったかもしれない。いまみたいにシューカツなるものがマニュアル化していなかった時代だ」としている[5]。また、ばんば自身は「一瞬妙に思ったが、超優秀だから長髪でも内定した、ということにしておこう」と語っている[3]。この曲のヒットによりバンバンを継続することになり、ばんばは「バンバンの寿命を延ばしてくれた曲」と語っている。ばんばは今でもテレビ番組などでよくこの曲を歌う。荒井も松任谷姓になった後の2003年にアルバム『Yuming Compositions: FACES』でセルフカバーした。また、カップリングの「冷たい雨」は、翌1976年にはハイ・ファイ・セットがカバーしてオリコン最高位30位、15.4万枚のセールスを記録している[2]。後に倉田まり子もカバーした。チャート成績初登場は78位であったがリリースされてから約2か月余りでオリコンのトップ10にランクインした。12週目には1位を獲得し、6週間1位を獲得した。累計売上は75.1万枚を記録している[1][2]。
2022.03.22
2012年から使い続けたデルのデスクトップPCが先日壊れました。途中間違ってモーターに水をぶっかけたりして壊しましたが、そのたびに修理して無事戻って来てくれましたが、今回はそれもかなわず2年前に買っておいた同じデルの小型のデスクトップを使い始めました。メモリを増設した際、微妙にケースがずれてねじが1本しまらなくなりましたが、PCは動くからまあいいやと放置。先日マイクロソフトからWindows11への切り替えのおすすめが来ました。7から10にするときは、既存のソフトが使えなくなるといけないと思い、さんざん伸ばして、結果的に失敗だったので今回はすぐに切り替えました。操作にも慣れ、切り替えに伴う不具合もなく順調です。ふとWindowsの歴代の起動音が懐かしくなってYouTubeを検索しました。3.1は記憶にありませんが、95はよく覚えてます。優雅な感じで、PCが生活の一部になった時期でもあり、一番好きです。XPも好きです。こういう曲はおそらく世界のPCで何百億、何千億回と再生されるでしょうが、作曲者はいくらもらえるんだろうか、気にかかります。2024.4.18リンク切れにより差替え。■参考リンクWikipedia:ブライアン・イーノブライアン・イーノ(Brian Eno、本名:英語: Brian Peter George St. Jean le Baptiste de la Salle Eno[1]、1948年5月15日 - )は、イングランド出身の音楽家(イーノ本人は自らを「ノン・ミュージシャン」と呼んでいる)、音楽プロデューサー。ロックバンド「ロキシー・ミュージック」の元メンバー。ソロ転向後は、アンビエント・ミュージック(環境音楽)を開拓した第一人者として知られている。実弟は、同分野で活動するロジャー・イーノ。エピソードマイクロソフト社のオペレーティングシステム、「Windows 95」の起動音「The Microsoft Sound」は彼の作曲によるものである。「The Microsoft Sound.wav」のプロパティには彼の名が記されている。「CHRONICLE POP MUSIC CRITIC」誌の1996年のインタビューによると、マイクロソフトからの依頼は「人を鼓舞し、世界中の人に愛され、明るく斬新で、感情を揺さぶられ、情熱をかきたてられるような曲。ただし、長さは3秒コンマ25」であったという。当時新しいアイデアが思い浮かばずに悩んでいた彼は、これを「待ち望んでいた課題だ」と快諾し、製作にとりかかった。最終的に84個のごく短いフレーズが製作され、その中の一つが「The Microsoft Sound」として提供された。ちなみに、親友ロバート・フリップは後年、Windows OSの後継ソフトである「Windows Vista」のサウンドを担当している。祝「Windows 95」20周年 ブライアン・イーノ作曲の起動音を40倍引き伸ばした音源が公開2015/08/26 15:06掲載Windows 95の20周年を記念して、起動音を40倍引き伸ばした音源が公開。オリジナルの起動音はブライアン・イーノ(Brian Eno)作曲。オリジナルは6秒ですが、引き伸ばした音源は3分54秒あります。アンビエントぽい仕上がりです。手がけたのはロンドン在住のデジタル・アーティスト、ダニエル・ジョーンズ。Windows 95のほかにもWindows 98、Windows 2000、Windows NT、Windows Vista、Windows XPの起動音を引き伸ばした音源もアップされています。以下略
2022.03.05
先日小林明子さんの曲を探していたときに見つけました。久々に聴くと、尾崎亜美さんの作詞作曲もよく、金井夕子さんの落ち着いた安定感のある声の歌も心に響き、名曲だったと思います。今頃の季節に合う曲だと思います。■参考リンクWikipedia:金井夕子金井 夕子(かない ゆうこ、1958年7月7日 - )は、北海道札幌市出身の歌手、作詞家である。作詞家名は青木 茗(あおき めい)。北海道札幌藻岩高等学校卒業。所属事務所は第一プロダクションから、後に尾崎亜美の所属するメロディ・パークに移籍した。来歴公開オーディション番組『スター誕生!』に挑戦し、18回決戦大会では不合格となるも、2度目の第23回決戦大会で中尾ミエの「片想い」を歌ってスカウトされ、最優秀賞を得た。1978年にキャニオン・レコード(現ポニーキャニオン)からデビューした。当時の新人アイドルのデビュー年齢としては年長の方であり、「パステルラブ」「スリランカ慕情」などのヒット曲がある。独特のアルトボイスと卓越した歌唱力で、いわゆる「スタ誕」出身のアイドルとは一線を画したイメージを持った歌手であった。また作詞も手がけ、自身の曲を始め、歌手引退後は青木 茗(あおき めい)名義で作詞活動を行ない、岩崎良美の「Vacance」や、小泉今日子の「夢見る年頃」、堀ちえみの「時を駆ける少女」「真珠色の季節」などの詞を提供している。デビュー曲の「パステル ラヴ」は松本典子と星野真里が、アルバム収録の「走れウサギ」は越美晴が、「マヤマヤ ビーチ」は「月の浜辺」と改題して岩崎良美がカバーしている。2度の離婚を経て、現在、カバン屋を営み、またヨガ講師でもある。
2022.02.23
ひるのいこいのバックナンバーをチェックしていたら小林明子さんの「真実」を見つけました。当時好きな曲でしたが、曲名は知りませんでした。3曲とも曲、歌詞、歌手とも素晴らしい大人の歌だと、今、あらためて思います。カーペンターズの歌も歌われているそうで、今度聴きたいと思います。ニコニコ動画:恋に落ちて2023.8.23リンク切れにより差し替え。2024.3.30リンク切れにより差し替え。dailymotion:真実ニコニコ動画:心みだれて〜Say it with flowers〜■参考リンクWikipedia:小林明子小林 明子(こばやし あきこ、1958年11月5日 - )は、日本のシンガーソングライター。MSエンタテインメント所属。プロフィール東京都出身。学習院大学文学部哲学科卒業。所属した軽音楽同好会(作曲家の都倉俊一、キーボーディストの難波弘之は先輩に当たる)ではキーボードでハードロックを演奏していた。東京大学教授の秘書を経て、音楽出版会社に勤務。1984年、ブレッド&バターの「ムーン・アイズ」で作家としてデビュー。翌年、「恋におちて -Fall in love-」(TBS系ドラマ・『金曜日の妻たちへIII 恋におちて』主題歌)で歌手デビュー。社会現象化したドラマと共に大ヒットとなり、この曲で第27回日本レコード大賞作曲奨励賞を受賞。作家としては、中森明菜や沢田知可子などの作曲を手掛けた。カーペンターズのボーカルであるカレン・カーペンターに声が似ていることに着目したスタッフが、「リチャード・カーペンターにアプローチしてみては」と提案。デモテープを聞いたリチャードはメロディと歌声を気に入りプロデュースを引き受け、1988年、アルバム「City of Angels」の発表に至った。1992年に拠点をイギリスに移し、"holi"というアーティストネームで活動を開始する。1994年に元ジャパンのメンバー、スティーヴ・ジャンセン、リチャード・バルビエリ、ミック・カーンらと制作したholi名義のアルバム「Under the Monkey Puzzle Tree」を発表する。1995年にはブライアン・イーノとU2によるユニット、パッセンジャーズの「Original Soundtracks 1」にゲストボーカルとして参加している。2001年にイギリス人会計士と結婚。同年、小林明子名義では10年ぶりとなるアルバム「Beloved」をリリース(プロデュースはリチャード・バルビエリ)。2003年にモスクワ交響楽団との共演によるカーペンターズのカバーアルバム「A Song For You」をリリース。2004年からはハープとのコラボレーションによるライブを中心に、日本での本格的な活動を再開。その後も日本とイギリスを往復しながら活動を継続している。
2022.02.20
丸八そばで食べていたときに、有線でかかっていた曲が気になって調べたら、じゅん&ネネの「愛するって こわい」でした。子供のころ聴いた覚えがありますが、今あらためて聴くとしみじみといい歌だと思います、歳のせいでしょうか。同様に気になっていた曲を調べたら園まりさんの「逢いたくて逢いたくて」でした。園まりさんは「夢は夜ひらく」のオリジナルも歌われていて、この曲は外国の曲との類似性も指摘されていることを知りびっくり。聴いてみると、外人が演歌歌っている感じです。2022.2.22リンク切れにより差し替え。2022.3.13リンク切れにより差し替え。■参考リンクWikipedia:夢は夜ひらく『夢は夜ひらく』(ゆめはよるひらく)は、曽根幸明が作曲した日本の歌謡曲。園まりが歌ったものと藤圭子が歌ったものが特に有名である。藤圭子版のタイトルは『圭子の夢は夜ひらく』(JASRAC届出の題名)である。本項では原曲である『ひとりぽっちの唄』についても併せて記載する。概要原曲は、東京少年鑑別所(練馬少年鑑別所、通称ネリカン)で歌われていた俗曲を採譜・補作し、曽根が自ら「藤原伸」名義で歌った『ひとりぽっちの唄』[1](1966年、テイチク、作詞:川上貞次(曽根のペンネーム))である。その後、歌詞・曲名を新たにつけかえ、園まりが歌うことになった[2] [3]。歌詞の異なる様々なバージョンがあり、JASRACには20を超える作詞者による異なるバージョンが登録されている(2006年2月時点)。レコードでは1966年に園まり(ポリドール)の歌で発売し大ヒットとなった[4]。それに追随する形で他社からカバー盤が出され[4]、緑川アコ(クラウンレコード)、藤田功(曾根幸明)と愛まち子(テイチク)、梅宮辰夫(コロムビア)、バーブ佐竹(キングレコード)の競作となった。緑川アコ版は園まりのオリジナル版相手に健闘した[4]。このうち梅宮版は要注意歌謡曲指定制度における旋律のみ使用可能なBランク指定となり、制度が1988年に失効するまで受け続けた[5][6]。1967年には、園まり版の歌詞をモチーフとして園まり自身の主演による映画が公開されている(後述)。その後多くの歌手にカバーされ、中でも1970年発売の『圭子の夢は夜ひらく』(石坂まさを作詞)は藤圭子の代表曲となった。1999年には石坂の作詞家生活30周年を記念し、藤圭子版の歌碑が出身地である東京都新宿区の花園神社に建てられた。アメリカ合衆国のデュエット曲『サマー・ワイン(英語版)』(リー・ヘイズルウッド作)との類似が指摘されることもある。発売順としては、1966年2月にヘイズルウッドとSuzi Jane Hokom歌唱のオリジナル版『サマー・ワイン』が米国で発売され、同年9月5日に園のオリジナル版『夢は夜ひらく』(SDR-1210)が日本発売、同年11月にヘイズルウッドとナンシー・シナトラのカバー版『サマー・ワイン』が米国発売されている。オリジナル版『サマー・ワイン』の音源は日本で注目されることはなく、またカバー版『サマー・ワイン』の日本発売(JET-1781)は翌1967年の8月であることから偶然であるとする意見が一般的である。
2022.02.03
クリスマスまであと2週間になりました。Luminous(ルミナス)のクリスマスの歌を聴いて昔聴いたパット・ブーン(Pat Boone)のThe First Noelを思い出しました。一緒にほかのクリスマスソングもご紹介します。うろ覚えですが百万人の英語で習ったような記憶があります。クリスマスの頃、よく歌っていました。優しく包み込むような暖かい歌声が好きでした。Wikipediaをみると、日本にも何度か公演に来られているようです。現在87歳とのこと。長生きしていただきたいです。■参考リンクWikipedia:パット・ブーンパット・ブーン(Pat Boone, 1934年6月1日 - )は、アメリカ合衆国出身のポピュラー音楽の歌手来歴・人物トリニ・ロペス(左)とパット・ブーン(右)。1975年3月。フロリダ州ジャクソンビル出身で、本名はCharles Eugene Patrick Boone。西部開拓史上の英雄ダニエル・ブーンの子孫で、娘は歌手のデビー・ブーンである。映画『十字架と飛び出しナイフ』で、クリスチャン俳優として知られるようになった。日本公演1975年6月14日 東京厚生年金会館、25日,26日 中野サンプラザ1977年4月20日,21日 神奈川県立県民ホール、22日 日本武道館、23日 堺市民会館(2回公演)、24日 京都府勤労会館、24日 大阪毎日ホール、25日 西宮市民会館、27日,28日,29日 名古屋市公会堂1979年 with デビー・ブーン10月28日 中野サンプラザ、29日 北海道厚生年金会館、30日 フェスティバルホール、31日 福岡市民会館、11月1日 名古屋市公会堂、2日 那覇市民会館1999年12月5日 東京厚生年金会館、7日 フェスティバルホール、9日 福岡サンパレス、10日 愛知県芸術劇場、11日 Bunkamuraオーチャードホール、15日 静岡市民文化会館、17日 ゆうぽうと簡易保険ホール
2021.12.09
YouTubeで拾った歌です。今まで聴いた瑠璃色の地球で一番透明感があって心に残りました。風のとおり道を聴いて、以前観たときはそれほど印象に残らなかったとなりのトトロがまた観たくなりました。クリスマスの歌や讃美歌とか歌ってほしいです。■参考リンクWikipedia:LuminousLuminous(ルミナス)は、日本の女性歌手グループである。音楽大学を卒業した女性4人がクラシック、ポップス、日本歌曲を歌唱する。「Luminous(ルミナス)」は「光を発する」という意味。メンバー村田 ゆう子(むらた ゆうこ)コロラトゥーラソプラノ東京音楽大学音楽学部声楽学科オペラコース卒業同大学研究科オペラコース修了二期会会員橋本朗子(はしもと あきこ)ソプラノ国立音楽大学音楽学部声楽学科卒業二期会会員珍田 さほり(ちんだ さほり)ソプラノ国立音楽大学音楽学部声楽学科卒業石原陽香瑠(いしはら ひかる)(陽香留)メゾソプラノ洗足学園音楽大学声楽コース卒業卒業
2021.12.08
久しぶりに金井克子さんのあまい囁きを聴きました。野沢那智さんがセリフを話してるのにびっくり。原曲でアランドロンのセリフがあったのを調べて知り納得。担当の声優だったんですね。2022.7.16金井克子さん・野沢那智さんのリンク切れにより、中村晃子さん・細川俊之さんに差し替え。セリーヌディオンさん・アランドロンさんの分を追加。2022.12.16金井克子さん・野沢那智さんの分を再掲載。金井克子さんは他人の関係も好きでした。朱里エイコさんと同じく大人のセクシーな歌でした。野沢那智さんで思い出しましたが、白石冬美さんとのパックインミュージックもよく聴きました。お二人の声も今は聴けず残念です。おまけで巨人の星で、白石冬美さん演じる星明子が木の陰から「ひゅーま」というシーンが懐かしいです。YouTubeにはありませんでした。
2021.12.06
麻生よう子さんのデビューのきっかけについてふと思い立って調べましたがわかりませんでした。オーディション番組だったかなんだったか。どちらかというとアイドル系というよりも演歌系のように思いましたが、逃避行は1974年当時中三の自分にも引っかかる歌でした。今改めてテレサテンさんの歌とともに聴くとこの曲の世界の深さを改めて感じます。その他、人形の家、涙のかわくまでのカバーも良いです。2022.12.16リンク切れの差替え。2023.2.26リンク切れの差替え。2023.11.12リンク切れの差し替え。■参考リンクWikipedia:麻生よう子麻生 よう子(あそう ようこ、1955年12月3日 - )は、日本の元歌手。経歴大阪府吹田市出身。大阪成蹊女子高等学校1年生の秋、歌手になる事を目指し自ら退学届を提出し上京[1]。1974年にデビュー曲『逃避行』がロング・ヒットし、その歌唱力が評価されて同年の第16回日本レコード大賞最優秀新人賞を受賞した。1979年には、グロリア・ゲイナーのカバー曲「恋のサバイバル2」がスマッシュ・ヒット、布施明の「恋のサバイバル -I WILL SURVIVE-」と競作曲になり話題となった。1991年6月にはCDアルバム『ジャスト・ワン・モア・タイム』を出す。結婚後は引退し、郷里の吹田市に居住しているという。2002年2月にはベストアルバム『DREAM PRICE 1000 / 麻生よう子 逃避行』、また2007年12月には『エッセンシャル・ベスト 麻生よう子』が発売された。
2021.11.30
美空ひばりさんが歌われるカバー曲は昴をはじめ、感動的な曲が色々ありますが、時間があったのでYouTubeから拾ってみました。世代的にはひばりさんから遠い世代の自分ですが、ちょっと身近に感じます。2022.5.18リンク切れにより差し替え。2022.7.16リンク切れにより差し替え。2023.12.17リンク切れにより差し替え。
2021.11.21
たまたまYouTubeで見つけました。以前マルモのおきてを観たときもすごい子役さんだと思いましたが、マンドリン演奏でも人を感動させる能力を持っているのにびっくり。いろいろな才能にあふれて、彼女が将来どんな人生になるのか楽しみです。2023.7.13リンク切れにより差し替え。2023.9.5リンク切れにより削除。2023.12.1内容の追加。芦田愛菜「奇跡のコラボ」高嶋ちさ子:YouTube2023.9.5内容の追加。芦田愛菜 スズキ スペーシア「ザ かぞく 海辺のウクレレ夕方」篇 TVCM2022.5.7リンク切れにより差し替え。2023.9.5リンク切れにより削除。2021.11.19内容の追加■参考リンク芦田愛菜 医学部進学への厳しすぎる壁「オール10は当たり前」記事投稿日:2020/09/17 06:00 最終更新日:2020/09/17 06:00女性自身「裏切られたというけれど、その人が裏切ったというわけではなく、その人の見えなかった部分が見えただけ。見えなかった部分が見えたとき『それもその人なんだ』と受け止めることができる、揺るがない自分がいることが信じることと思いました」示唆に富んだ持論をこう語ったのは芦田愛菜(16)。これは芦田が主演する10月公開映画『星の子』の完成イベントで同作のテーマでもある「信じること」について質問された際に彼女が答えたもの。大人顔負けの名回答は各メディアでも取り上げられ「16歳とは思えない!」「もはや哲学者の域」といった称賛が相次いだ。今年4月に都内の超名門私立・A大学の付属中学校から系列の女子高に進学し勉学に励むかたわら、女優業もこなす多忙な日々を送る芦田。彼女が司会を務める『サンドウィッチマン&芦田愛菜の博士ちゃん』を放送するテレビ朝日の関係者は勤勉ぶりをこう明かす。「『博士ちゃん』は単発番組の視聴率が好調だったことからレギュラー化が決まりましたが、その際に芦田さんサイドは“学業を優先させること”を条件にしたそうです。そのため制作スケジュールはかなりタイトですが、芦田さんは打ち合わせでものみ込みが早く、現場のスタッフも助けられています」学友たちからも絶大な信頼を獲得しているという。「中学時代はマンドリン部に所属し、3年生時には部長を務め、部員たちをまとめあげました。高校進学後も、成績はトップクラスで、学内でも常に一目置かれている存在です」(芦田が通う女子高の保護者)多忙ながら“文芸両道”を完璧にこなす芦田だが、その胸には壮大な夢を秘めていた。「芦田さんは女優業をこの先も続けていくそうですが、将来的には医者にもなりたいそうです。A大学の医学部に内部進学する形で医師への道を目指していくのだと思います」(芸能関係者)10歳時のインタビューで「薬剤師になって新薬を開発したい」と答えるなど、かねてから医療分野への興味を示してきた芦田。中学に進学したての’17年4月放送の『スッキリ!!』(日本テレビ系)で将来の夢を聞かれた際も「医学系の道に進んで、病理医になりたい」と明言していた。「’16年放送の長瀬智也さん(41)主演ドラマ『フラジャイル』(フジテレビ系)に感銘を受けた芦田さんは、原作や医学書を読み込み、人の細胞や組織を観察して病気の診断をする病理医を目指すことにしたそうです」(前出・芸能関係者)以下略
2021.10.31
久々に女子十二楽坊の曲をYouTubeで探しました。My Heart Will Go Onとか、マー・ジンジンさんの冬のソナタとか、知らない曲で結構いい曲がありました。マー・ジンジンさんのFacebookも更新されてないようですし、みんな今頃どうしているんでしょうか。
2021.10.30
小さなスナックは小学3年の頃流行った曲です。地味ながら心に残る曲でした。その後パープル・シャドウズは大きなヒットが無かったので忘れていましたが、改めて聴くとやはりいい歌です。スナックという言葉もだんだん、昭和の彼方に消えていきそうになりました。別れても好きな人がパープル・シャドウズの曲と知りびっくり。やはりこの曲はシルヴィアさんみたいなしっとりした声が似合います。2022.11.3リンク切れにより差し替え。■参考リンクWikipedia:パープル・シャドウズパープル・シャドウズ(Purple Shadows)は、1968年結成のグループ・サウンズのバンドである。概要1968年の結成当時、グループ・サウンズ人気は既に下降線をたどり始めていたが、他のグループ・サウンズとは異なるムード歌謡的な曲調の「小さなスナック」の大ヒットを飛ばす。だがその後はヒット曲に恵まれなかった。その後メンバーの脱退・加入を繰り返し、1980年代には「今井久&パープル・シャドウズ」名義で活動した。ハワイアン的なムード歌謡風の曲調が特徴。今井のギターをフィーチャーしたインスト・アルバムも発売された。岡村はその後RVC→BMGビクターでプロデューサー・ディレクターとして活動し、レイジー・西城秀樹[1]・角松敏生などを担当した。それから10年後の1979年、ロス・インディオス&シルヴィアがカバー・シングルとして発売、翌1980年に掛けて大ヒットとなった「別れても好きな人」は、パープル・シャドウズが本家であった。元はシャッフルのリズムだったが、ロス・インディオス&シルヴィアのカバー・バージョンは、一部歌詞の地名を変更(青山→原宿、狸穴→高輪など)落ち着いたムード歌謡曲調にアレンジし直されている。2007年2月17日、2008年2月22日、2009年2月27日、(BS2)グループサウンズ大全集 綿引則史&今井久、2012年1月24日、NHK歌謡コンサート(NHK総合)に出演し、「小さなスナック」を披露。Wikipedia:スナックバー (飲食店)スナックバー(英: snack bar)は、カウンター付きの飲食店。日本では高速道路の休憩施設以外ではアルコール飲料を提供するものを指すが、日本以外ではアルコール類を提供しないものも含む。アルコール以外に軽食(スナック)を提供するバーというのが名前の由来。日本のスナックバー形態深夜における酒類提供飲食店営業日本では「スナック」と略され、一般に女性がカウンター越しに接客する飲酒店を指す。店の責任者は女性であることが多く、その女性は「ママ」と呼ばれる。深夜0時以降まで営業している店が多い。客が酒や軽食を口にしながら、「ママ」や店員、あるいは客同士で会話を楽しんだり、カラオケを歌ったりするのが主たるサービス。提供するアルコール類、料理類はあくまでその補助にすぎず、ブランデーなど高価な商品がある一方で、安価な甲類焼酎などが提供されることも多いのが(狭義の)バーとの違いである。1970年代前半頃までは敢えて今風に言うとカフェバー形態を指し、昼間はパフェなどのデザートメニューも展開していた。マスターとバーテンダーは共に蝶ネクタイ姿、店内の雰囲気はヨーロッパ風のプチモダンな空間を模していた店舗も往々にして存在した。その後、流行の変化で、ファッショナブルな印象のあった「スナック」という名称はそのままに、客層の高齢化とともに、業態も現在のように変化した。接待飲食等営業テーブルにソファー掛けで女性が男性客の横で接待する店は、関西や九州では「ラウンジ」と呼ばれ、さらに高級店は「クラブ」と呼ばれる[1]。ただし、こちらは法律上、風俗営業となり、深夜0時以降の営業はできない。スナックコーナー高速道路のサービスエリア・パーキングエリアでは、レストランと違って軽食を提供する場を指す。フードコートと同義に使われている。歴史第二次世界大戦後、バーやキャバレーといったいわゆる「風俗」は、地方自治体の青少年保護育成条例の影響で、24時を越えての深夜営業が不可能となった。そこで、いわゆる「風俗」とは異なって、深夜営業が可能な「スナック・バー(いわゆるスナック)」が誕生した。日本の地方自治体で最も早く青少年保護育成条例を制定したのは1950年の岡山県であるが、「スナック・バー(いわゆるスナック)」の誕生に最も影響を与えたのは、1964年8月1日の東京都の「東京都青少年の健全な育成に関する条例」である。これ以降、全国津々浦々に「スナック・バー(いわゆるスナック)」が広まった。これを昭和のスナックブームと呼ぶ。令和の時代になり、スナックのリバイバルブームが起こっている[要出典]。法律上の位置づけ「食品衛生法」に基づき、所在地を管轄する保健所に飲食店営業の許可を得て営業している。午前0時以降、アルコール類を提供する場合は、別途「風俗営業等の規制及び業務の適正化等に関する法律(風適法)」に基づき、各都道府県の公安委員会に対し深夜酒類提供飲食店営業の届出をしなければならない。なお、深夜酒類提供飲食店と風俗営業は兼ねることはできないので、風適法上の接待はできない。そのため、カウンター越しに接客をしている。
2021.10.25
久々にケルティック・ウーマンを聴きました。何気なく聴いていたアメイジング・グレイスが深い意味を持っているのに驚いたり、子供の頃歌っていた遠き山に日は落ちてが、ケルティック・ウーマンが歌うと別の歌に聴こえます。アレックス・シャープさんの動画が観れたのも良かったです。■参考リンクWikipedia:アメイジング・グレイス成立作詞者はジョン・ニュートン (John Newton,1725–1807)。作曲者は不詳。アイルランドかスコットランドの民謡を掛け合わせて作られたとしたり、19世紀に南部アメリカで作られたとするなど、諸説がある。ジョン・ニュートンは1725年、イギリスに生まれた。母親は幼いニュートンに聖書を読んで聞かせるなど敬虔なクリスチャンだったが、ニュートンが7歳の時に亡くなった。成長したニュートンは、商船の指揮官であった父に付いて船乗りとなったが、さまざまな船を渡り歩くうちに黒人奴隷を輸送するいわゆる「奴隷貿易」に携わり富を得るようになった。当時奴隷として拉致された黒人への扱いは家畜以下であり、輸送に用いられる船内の衛生環境は劣悪であった。このため多くの者が輸送先に到着する前に感染症や脱水症状、栄養失調などの原因で死亡したといわれる。ニュートンもまたこのような扱いを拉致してきた黒人に対して当然のように行っていたが、1748年5月10日、彼が22歳の時に転機は訪れた。イングランドへ蜜蠟を輸送中、船が嵐に遭い浸水、転覆の危険に陥ったのである。今にも海に呑まれそうな船の中で、彼は必死に神に祈った。敬虔なクリスチャンの母を持ちながら、彼が心の底から神に祈ったのはこの時が初めてだったという。すると流出していた貨物が船倉の穴を塞いで浸水が弱まり、船は運よく難を逃れたのである。ニュートンはこの日を精神的転機とし、それ以降、酒や賭け事、不謹慎な行いを控え、聖書や宗教的書物を読むようになった。また、彼は奴隷に対しそれまでになかった同情を感じるようにもなったが、その後の6年間も依然として奴隷貿易に従事し続けた。のちに、真の改悛を迎えるにはさらに多くの時間と出来事が必要だったと彼は語っている。1755年、ニュートンは病気を理由に船を降り、勉学と多額の献金を重ねて牧師となった。そして1772年、「アメイジング・グレイス」が作詞された。歌詞中では、黒人奴隷貿易に関わったことに対する悔恨と、それにも拘らず赦しを与えた神の愛に対する感謝が歌われている。この曲のほかにも、彼はいくつかの賛美歌を遺している。この賛美歌を評して、アメリカの精神科医のM・スコット・ペックは、この恩寵を歌う詩の最初でgrace(恩寵)にAmazing(奇しき) が結び付けられていることに注目し「恩寵に結びつけられた最初の言葉が奇しきである。事が普通のコースをたどらず、われわれの知っている自然の法則で予想できない時、我々は(それを奇跡だと)驚く」しかし「(神の)恩寵が手を差し伸べ、我々を喜んで迎え入れてくれるのを人は(やがて)知る。これ以上人は何を望むのか。」と著書で説いている。5つのYou Raise Me Up:ユー・レイズ・ミー・アップ(ケルティックウーマン、マーティン、森麻季、シークレットガーデン、ジョシュグローバン)←イナバウアー←琴バウアー
2021.10.19
ひで&たまさんの歌を探してたら、ほうせんかという歌を見つけました。気楽に自然な感じで歌っているのに、心にしみるいい歌でした。誰の歌か調べたら中島みゆきさんです。よく考えると、昔聴いた気がします。たまさんは、中島みゆきさんの歌を歌わせたら並ぶものは無いし、中島さんとは別世界を作り出していると改めて思います。■参考リンクWikipedia:おもいで河「おもいで河」(おもいでがわ)は、中島みゆきの6作目のシングル。1978年8月21日にキャニオン・レコードよりリリース[1]。解説若草恵が編曲を担当しているシングルである。「おもいで河」「ほうせんか」ともにオリジナルアルバムには収録されていない。「おもいで河」は1986年のベストアルバム『中島みゆき THE BEST』において、「ほうせんか」は1987年のベストアルバム『Singles』においてアルバム初収録となった。B面の「ほうせんか」は松山千春を育て、1977年に37歳で急死したSTVのディレクター竹田健二への追悼曲である。
2021.09.19
六甲おろしや、広島カープの歌が好きな友人が、最近よく聴く歌手だと教えてくれたのが、陸上自衛隊の歌姫鶫真衣(つぐみ まい)さんです。お気に入りは栄冠は君に輝くだそうで、YouTubeで聴いてみると楽しそうに歌っていて、こちらも元気がでます。その歌手に合った歌と言うのがあると思います。春よ、来い、も、結構聴かせます。吹奏楽 : 関西吹奏楽連盟 合唱 : 関西合唱連盟鶫真衣■参考リンク鶫真衣3曹 ユーチューブ配信に並々ならぬ力を入れる「陸自音楽隊の歌姫」 (1/2ページ)菊池雅之 最新国防ファイル2021.6.25 ZAKZAK陸上自衛隊の音楽隊には、現在2人のボーカリストがいる。朝霞駐屯地(東京都練馬区など)にある中央音楽隊の松永美智子3曹と、伊丹駐屯地(兵庫県伊丹市)にある中部方面音楽隊の鶫真衣(つぐみ・まい)3曹だ。 中部方面音楽隊は、新型コロナウイルス感染症拡大を受け、コンサートが開催できなくなったため、独自にユーチューブ配信を開始している。「コロナに負けるな!」とのシリーズタイトルで、演奏動画を7本アップしており、いずれも大好評だ。 今年4月には、日本ラグビーの聖地である「東大阪市花園ラグビー場」で第8弾を撮影し、現在鋭意編集中である。そこでも、鶫3曹は美しい歌声を響き渡らせた。 鶫3曹が歌と出合ったのは小学生時代。習っていたピアノの先生から、「歌うのが好きなら、一緒にレッスンしてみる?」と誘われたのがきっかけだ。中学3年生から、オペラ歌手でもある先生から本格的に学び始め、「将来は歌手になりたい」と思うようになった。 音楽を学ぶために音楽大学を経て、大学院に進み、レストランで歌を歌うバイトもした。 大学院2年の時だった。自衛隊の広報担当者が客としてやってきて、「海上自衛隊に引き続き、陸自でもボーカルを採用するので、試験を受けてみませんか?」と誘われた。以下略
2021.09.10
先日サイボーグ009で紹介した東京マイスタージンガーが歌う他のドラマの主題歌をご紹介します。ジャイアントロボは、エジプトのスフィンクスが被っているような三角の布切れみたいなのが印象的です。キャプテンウルトラは、ドラマは覚えてませんが、主題歌は今でもかすかに覚えてます。2022.5.18リンク切れにより差し替え。また、多くの童謡も歌われています。3曲ご紹介します。
2021.08.22
サイボーグ009の歌が聴きたくなってYouTubeを探しました。ロシア民謡調の勇ましい中にも、悲しげなメロディーと歌詞が好きでした。子供の頃、聴いた曲の途中にも歌詞が入っていることを発見。コーラスの東京マイスタージンガーさんは、2008年に再結成されたそうですが、歌声は40年前と変わらないパワーです。■参考リンクWikipedia:サイボーグ009(アニメ)制作略史テレビアニメ・20世紀に公開された劇場版アニメテレビシリーズは、1968年に第1作目、1979年 - 1980年に第2作目、2001年 - 2002年に第3作目が放送された。さらに「サイボーグ009」と題された劇場版アニメーション作品が1966年・1967年・1980年に公開されている。主題歌「サイボーグ009」作詞 - 漆原昌久 / 作曲・編曲 - 小杉太一郎 / 歌 - 東京マイスタージンガーオープニング映像は第1・2作とも同じ(サイボーグチームのシルエット)だが、スタッフや声優のクレジットテロップは第1作では画面一杯なのに対し、第2作では画面の隅にクレジットされている。なお双方とも声優テロップには「配役」がクレジットされているが、東映アニメ映画で配役がクレジットされたのは、第1作が史上初。Wikipedia:東京マイスタージンガー東京マイスタージンガーは日本のコーラス・グループである。元々は「歌のメリーゴーラウンド」という番組のために結成された合唱グループである。番組が放送された1964年から番組終了の1968年までレギュラー出演しその後解散するが2008年5月4日放送の「アニメ主題歌大全集」に出演し、約40年ぶりに再結成された。初期メンバーは一緒に参加していたボーカル・ショップのメンバーを含めて12人である。
2021.08.16
先日、ひで&たまさんのリンク修正をやったら思いのほかアクセスがあったのに気をよくして5曲ご紹介します。ミクシイのページも無くなってるようですが、また復活してほしいものです。2023.1.14リンク切れにより削除、差し替え、内容の追加。■参考リンクYahoo!知恵袋mih********さん2020/6/6 23:24ひで&たまさんのyoutubeに2~3日前からはまりましたが、なぜ、活動中止しているんですか?子育てとかだったら、安心できるのですが・・。どなたかご存じでしたら、教えていただければと思い投稿します。万が一、あまり、広めるべきではない情報の場合は無回答でお願いします。ベストアンサーdec********さんカテゴリマスター2020/6/11 12:09「2019年8月現在、演奏活動を行なっておりません。今後の予定も未定です。現状について、ご理解いただけたら幸いです」http://page.mixi.jp/recent_page_feed.pl?page_id=101756&module_id=540276&from=menu仕事の傍らライブ活動をされていて2017年~2018年も休止して復活してますから心配ないと思いますけどね
2021.08.14
来週半ば以降暑さが戻りそうですが、ここ数日猛暑も一服して連日の雨でほっと一息です。先日、朝顔の写真を撮影したとき、空が高くなっていることに気付き、秋だなと思いました。週3回、プールで1時間半水中歩行してますが、今日ふと、この空どこまで高いのか♪と、ふきのとうの曲がい思い出されて、YouTubeで聴いたら、昔聴いた時より胸に沁みました。ついでにサイドバーにあった20歳のめぐり逢いをたたたいたら、懐かしいメロディがよみがえり、もっと感動しました。題名がわからないけど昔好きだった曲の一つです。今日は思わぬ儲けものでした。
2021.08.13
1990年は前年末に株価がピークを打ちましたが、まだバブルの余韻のあった頃。赴任地の甲府で真夏の果実を知りましたが、1回聴いて大好きになりました。カラオケでよく歌いましたが、音程が高くていつも苦戦しました。稲村ジェーンという映画は知っていましたが観たことはありませんでした。評価は様々なようですが、DVDが最近リリースされたそうです。スポット映像を観ると面白そうなので機会を見つけて観たいと思います、清水美砂さんも出てますし。2021.11.25リンク切れの修正、内容の追加。■参考リンクWikipedia:稲村ジェーン『稲村ジェーン』(いなむらジェーン、英語: Inamura Jane)は、1990年9月8日に公開された日本映画。主演は加勢大周。監督・音楽は桑田佳祐。1965年の鎌倉市稲村ヶ崎を舞台としている。概要サザンオールスターズのバンドマスターとして活動している桑田佳祐の初監督作品[2][3]。1990年度の日本映画配給収入年間ランキング4位、累計配収額は18億3000万円[1]、観客動員数350万人を記録した[3]。公開翌年である1991年にレーザーディスクとVHSで作品ソフトが発売されたが、これらの絶版後は長きに渡りメディアでの視聴がほとんど不可能となっていた[4]。その後、サザンのデビュー43周年である2021年6月25日にBlu-ray・DVDが発売されることが決定した[5]。ソフトは30周年コンプリートエディションとして限定生産のBOX仕様で発売され、主人公の愛車であるダイハツ「ミゼット」のミニチュアモデル、当時のスタッフが保管していた桑田直筆の撮影コンテなどを掲載したフォトブックが付属される[6]。桑田の地元である神奈川県茅ヶ崎市で開催される茅ヶ崎映画祭にて「茅ヶ崎映画祭開催10周年記念特別招待作品」に選出され、2021年6月25日に茅ヶ崎市を含む全国6都市での同時上映会が開催された[7]。あらすじ1964年に行われた東京オリンピックの翌年、1965年の鎌倉市の稲村ヶ崎を舞台に、変わりゆく時代の渦中を生きる若者たちのサーファーのひと夏を描いた作品[3][8]。稲村ヶ崎に帰ってきたヒロシ(加勢大周)、伊勢佐木町のチンピラ・カッチャン(的場浩司)、ラテン・バンドのリーダー・マサシ(金山一彦)の前に横須賀の波子(清水美砂)というとびきりイイ女が現れ、波子を中心にヒロシ、マサシ、カッチャンに奇妙な友情が生まれる[9]。評価興行収入面では成功し、使用された楽曲への評価は現在も高いものの、映画そのものの内容に関しては著名人や評論家から批判された[10][11]。映画監督の肩書きも持つビートたけしは、自身の映画批評本『仁義なき映画論』にて本作を「半分もみないうちに逃げ出したくなっちゃって、こんなに長く感じた映画は初めてだね」と酷評した。ただ、「オレは非難しているんじゃない。誤解しないように。」と述べていたり「音楽映画なのに邪魔なセリフがありすぎて音楽を殺している。」「音楽と絵でやったほうがインパクトの強いものになる。」「この映画は音楽だけ」「テレビのスポットの『稲村ジェーン』は見事なもの」など、音楽面については高く評価した。しかし、最初の酷評の文章だけしか読んでいなかった当時の桑田は「つまらないというのは感性が足りないから。武さんは若者の気持ちが分かっていない」と述べている[12][11][10]。たけしは翌年、サーフィンに熱中する若者の恋愛模様を描くセリフがほとんどない映画『あの夏、いちばん静かな海。』を発表したが、これは『稲村ジェーン』に触発されたのではという批評も存在する[13]。その一方、桑田は芸人としてのたけしを認めており[14]、たけしもミュージシャンとしての桑田を認めている[15]。2004年に桑田の父親が死去した際には、たけしから生花が送られている[16]。後述の通り桑田と対談した村上龍はこの映画の実音がないラフ編集版を見たうえで、「荒い編集だけど、頑張ったね」と感想を述べている[17]。桑田本人は「自分の作品の出来に、内心では確固たる自信が持てなかった“後ろめたさ”もあった」と話しており、DVD・Blu-ray発売に伴うコメントでもそれをネタ的に自虐している。一方でサウンドトラックとして使用された楽曲を制作できたことや、多くのスタッフやサポートミュージシャンに出会えたことに対しては感謝する発言をしている[10][3]。
2021.08.12
ZARDの坂井泉水さんがカバーされている曲は聴いたことなかったですが、今回2つ見つけました。異邦人は曲に合ったさらっとした感じの歌い方で好きです。1967年生まれの坂井さんも生きていれば54歳。亡くなって14年経ちますがいまだに大きな存在感です。2022.6.5リンク切れの修正。2022.9.19リンク切れの修正。2022.12.6リンク切れの修正。2023.5.14リンク切れの修正。■参考リンクWikipedia:坂井泉水坂井 泉水(さかい いずみ、1967年〈昭和42年〉2月6日 - 2007年〈平成19年〉5月27日)は、日本の女性歌手、作詞家。音楽ユニット・ZARDのボーカリスト。本名は蒲池 幸子(かまち さちこ)。事務所はSENSUI。レコード会社はビーイング、レーベルはB-Gram RECORDS。血液型はA型。戒名は麗唱院澄響幸輝大姉(れいしょういんちょうきょうこうきだいし)。人物20代前半まではモデルやレースクイーンとして活動していたが、歌手になるという強い希望を持ち続け、1991年2月、自身によるソロプロジェクト「ZARD」のボーカルとして歌手デビューを果たす。多くのヒット曲を生み出した。かつてビーインググループでは、女性アーティストのメディア露出を極力抑えるメディア・コントロール戦略[1]がよく取られていたこと、また坂井が極度のあがり症だった[2]ことにより、特に6thシングル「負けないで」で大ブレイクしたあとは、ほとんどマスメディアに登場せず、また、ライブもほとんど行われなかった。歌手として「ZARD」も参照1990年8月にスターダストプロモーションの代表取締役であった細野義朗にビーイング社長である長戸大幸を紹介され、B.B.クィーンズの音楽コーラス隊(B.B.クィーンズシスターズ、のちのMi-Ke)のオーディションを受ける。オーディションでは落選するも長戸に才能を認められ、以後「坂井泉水」として音楽ユニット「ZARD」結成の準備に入る。1991年(平成3年)2月10日、シングル「Good-bye My Loneliness」でデビュー。以降、音楽活動を続け「負けないで」「揺れる想い」「マイ フレンド」など9作でミリオンヒットを記録。90年代アーティスト・トータル・セールス:女性ボーカル・アーティスト1位(オリコン調べ)に輝いた。1997年の長者番付歌手部門で8位、1999年の長者番付歌手部門で5位となる。
2021.08.02
今は野球は観ませんが、40歳くらいまでは巨人ファンでした。ただ、歌は軍歌っぽくて好きではありませんでした。阪神の六甲おろしは昭和60年の優勝のときは、かっこよく聞こえました。バース、掛布、岡田のバクスクリーン3連発はリアルでは見られませんでしたが、優勝を暗示する勢いのあるシーンでした。中日が昭和49年に優勝したときは残念でしたが、球団歌は好きでした。広島の歌は友人が酔うとカラオケで歌います。東洋工業はマツダに変わったのになぜ広島東洋カープのままなのか?2022.6.19.リンク切れにより差し替え■参考リンクYahoo!知恵袋zon********さん2016/9/11 13:57広島東洋カープは、なぜ広島マツダカープに変更しないのでしょうか?東洋ってマツダの前身の名前ですよね?ベストアンサーこのベストアンサーは投票で選ばれましたcur********さん2016/9/11 15:16カープは広島県や広島市、地元財界の支援で誕生しましたが、カープの運営方針を地元財界の合議で決めていたため、路線対立もあり、存続が危ぶまれた時期がありました。そこで東洋工業に経営を一本化しました。その時税制上の理由もあって、チーム名に「東洋」という名前を入れました。それが1967年のことで、それからずっと「広島東洋カープ」です。このころからカープは弱いながらもやっと安定経営できるようになってきました。東洋工業が「マツダ」になったのは1984年のことで、その頃には創業家の松田家は「マツダ」の経営から退いており、「マツダ」もカープ球団の経営には関与しない状態になっていました。マツダは今でも地元広島の大企業としてカープの大口スポンサーではありますが、カープ球団の経営に関与しているわけではありません。カープ球団のピンチを救ってくれたのはあくまで「マツダ」ではなく「東洋工業」でそういう球団の歴史を尊重する意味でも「東洋」を外さないのです。だから「広島東洋カープ」の「東洋」は他球団のチーム名にある企業名とは意味合いが違うのです。
2021.07.28
チェッカーズの全盛期の1983-1984年の頃は、TBSのザ・ベストテンを観てても、女性向けのアイドルグループと思って関心は全然ありませんでした。いま、改めて聴きなおすと藤井フミヤさんの伸びのある歌唱力と、歌詞が心に刺さります。「トランジスタのボリム上げて」とか、「ダイヤル回して」とか、時代を感じさせます。自分は、ちいさいころから悪ガキでも、15で不良とも呼ばれませんでしたが、聴いていると、社会人になりたての頃に戻してくれる歌だと思います。
2021.07.19
インスタグラムで見つけた動画です。一回観たら忘れられ無さそうな、お相撲さんみたいな頭の人の持つ観覧車が結構シュールで夢に出てきそうですが、1度乗ってみたい気がします、ちょっと怖いですが。いったいこの独創的な観覧車はどこの国にあるんでしょうか。音楽も哀愁を帯びていい感じです。
2021.07.10
中学1年の頃、ハチのムサシは死んだのさと言う歌がはやりました。結構調子のいい歌でよく歌っていました。子供向けの歌という感じでもなく、今回調べたら学生運動を示唆する歌でした。平田隆夫とセルスターズの歌では悪魔がにくいのほうが、好きでした。昆虫物語 みなしごハッチのオープニングと言い、私の知っているハチに関する歌はちょっと寂しいしんみりした歌なのが印章的です。■参考リンクWikipedia:ハチのムサシは死んだのさ解説この歌は平田隆夫とセルスターズにとって2枚目のシングルである。日活スターで動物詩人でもあった内田良平が発表した詩集『おれは石川五右衛門が好きなんだ』[1]の中の「ハチのミヤモトムサシは死んだんだ」というタイトルの詩に、セルスターズのバンドリーダである平田隆夫が曲をつけた。詞は太陽に挑んで負けて死んでしまったハチの物語である。メンバーの菊谷英二がBS日テレ「歌え!昭和のベストテン」2017年2月18日の放送で語ったところによるとこの曲は学生運動を示唆した楽曲で、ハチのムサシという1人の青年が国を変えようと国家という太陽に挑戦して焼かれて死んで落ちたという内容だという。また当時はテレビでこうした思想を言わず童謡のように押し通したとも述べている。歌の前奏と間奏に入るスキャットは、平田のアイデアで管楽器の代わりに入っている[2] 。この歌は当時の殺虫剤「キンチョール」のCMソングに使用された他、テレビアニメ『天才バカボン』第29回(第57話)「パパがテレビで歌うのだ」や特撮テレビ番組『ウルトラマンA』第11話「超獣は10人の女?」[3]でも流れた。また、当時はこの歌と同じくハチを主人公としたテレビアニメ『昆虫物語 みなしごハッチ』の人気が高かったことや、この歌の振り付けが特徴的だったこともあり、セルスターズのファンになる子供たちが急増した[2]。累計60万枚を売り上げる大ヒットとなった[4]。セルスターズはこの歌で「第23回NHK紅白歌合戦」に出場を果たし[5]、編曲の土持城夫は「第14回日本レコード大賞」で編曲賞を受賞している。Wikipedia:昆虫物語 みなしごハッチストーリースズメバチに襲われ母と離れ離れになってしまった主人公ミツバチのハッチがまだ見ぬ母を探して苦難の旅をするストーリー。ハッチがまだ卵の頃にシマコハナバチのおばさんに拾われ育てられていたが、自分がミツバチの子であることを知り、本当の母を探しに旅に出る。ほぼ毎回悪役にいじめられたり、他の虫の死に遭遇するなど子供向けアニメにしては悲劇的なストーリーが多い。基本的に鳥やネズミなどの哺乳類や、カエルやトカゲなどの両生類や爬虫類、クモやスズメバチ、カマキリなど昆虫などを捕食する生きているものは悪役として描かれることが多い。しかし、中には心優しいものやハッチの仲間になってくれる悪役もいる。一方で、ハッチらハチは必ずしも弱い種族ではなく、さらに弱い生き物が登場する場合は、それらをこらしめたり守る場面もある。人間が登場するときは、首から上が見えないように描かれている。人間は環境を破壊したり捕虫したりするなど一貫して悪役として描かれているが、人間による環境破壊がいかに虫達にとって甚大な被害をもたらしているかを描写するためで、子供向けアニメにしては極めて深刻かつ現実的なテーマを取り扱っているといえる。実際に、本作に於いて自然保護をする人間は一切登場せず、中には無意識の内に環境破壊に手を貸している人間も登場する(リメイク版では人間の姿は一切描写されていない)。
2021.06.02
小学5年生の頃、姉がレコードを買ってきて、よく聴いてました・ヘドバとダビデのほかに雪村いづみさんのもよく聴いた覚えがありますが、今回は見つかりませんでした。ザ・ピーナッツのカバーもパンチがあっていいです。■参考リンクWikipedia:ナオミの夢Wikipedia:ナオミの夢「ナオミの夢」(ヘブライ語: אני חולם על נעמי;ラテン文字転写:ANI HOLEM AL NAOMI,英語: I Dream of Naomi)は、1970年のイスラエルの楽曲。ヘドバとダビデ(ヘドバ・アムラニ(ヘブライ語版) とダビデ・タル(ヘブライ語版)[1])の著名な歌である。1970年開催の世界47ヶ国の代表が出場した第1回東京国際歌謡音楽祭(後の世界歌謡祭)でグランプリを受賞し、イスラエルと日本において有名になった。概要1970年、ヘドバとダビデは非常に高く評価され重要性がある日本の東京国際歌謡音楽祭に参加した。しかし当初彼らには音楽祭に参加するための作品がなく、ヘドバとダビデはイスラエル人の作曲家・編曲家のデビッド・クリボシェ(ヘブライ語版)にオリジナル作品の制作を支援してもらうために問い合わせた。クリヴォシェは当時シュトラウス・エリート(現:シュトラウス(英語版、ヘブライ語版))のコーヒーのCMソング作曲のために尽力していた。ヘドバとダビデはそのメロディーを好きになり、東京国際歌謡音楽祭においてそのメロディーを使うことを決めた。ヘドバとダビデはそのメロディーに歌詞を付けてもらうため、イスラエル人のソングライターであり詩人であるティルザー・アタールの許へ相談に出向いた。アタールは彼らが東京国際歌謡音楽祭に出場し、日本において目も眩むような成功をもたらしてグランプリを受賞した際の作詞を行った。本作は日本語に翻訳され評価を受けて販売され、後に日本において大成功をもたらすこととなる(後述)。本作は、イスラエルでは「בואו נטייל(散歩に行こう)」のB面曲として発売された[2]。東京国際歌謡音楽祭でグランプリに輝いたため急遽レコード会社が発売を決め、帰国直前の2人を引き止めほとんど意味を教えずに日本語の歌詞を覚えさせて1週間そこそこで日本語版をレコーディングした。B面にイスラエルで唄っているオリジナルのヘブライ語版を入れることを条件に、翌71年1月25日日本語版が発売された[3]。1971年4月19日にオリジナル・コンフィデンス誌(オリコン)総合チャートで第1位を獲得[4][5]、4週に亘って連続1位を獲得し、67万枚のヒットとなった[3]。当時、オリコンのチャートが始まってまだ3年余りの時期ながら、第1位を記録した5組目の洋楽アーティストになっている[4][5]。日本語による本作の売上は数十万部であると評価されている。非日本人歌手にとっては大きな売上とみなされた。また同時にイスラエルでも成功がもたらされた。本作は『イスラエルの声(ヘブライ語版、英語版)』の1971年の歌謡パレードにおいても流された。1971年12月時点で、売上は100万枚以上に達している[6]。
2021.05.26
インターネットの訃報欄を見ていたところ、弘田三枝子さんのお名前を発見しました、去年7月にお亡くなりになったとのこと。ジャングル大帝の力強い歌が好きでした。人形の家は、「わたしはー、はなたにー、ひのちほー、あずけたー」とかよくまねてました。夢見るシャンソン人形はいま聴いても、本家とともに踊りだしたくなる感じです。自分と10歳くらい違う方が亡くなるのを最近たまにニュースでみますが、死もはるか先の他人事ではなくなってきた感じです。心よりご冥福をお祈りします。Wikipedia:弘田三枝子弘田 三枝子(ひろた みえこ、本名:竹永 三枝子、1947年2月5日 - 2020年7月21日[1])は、日本のポップス、歌謡歌手[2]。愛称はMICO(ミコ)[2]、(パンチの)ミコちゃん[3][4]。歌唱力とパンチの効いた歌声で、洋楽をカバーした和製ポップスを歌ってヒットをさせ、和製R&B娘とも評された[5]。後のミュージシャン(都はるみ、大瀧詠一、山下達郎、竹内まりや、桑田佳祐ら)に多大な影響を与えた[6]。ジャズで鍛えたスキャットを得意とし、決まったコードの中で様々な絵が描けるので、あらかじめ決めないでスリルを感じながらその場でスキャットを奏でて楽しんでいたという。カムバック弘田は、60年代前半あたりまでは好調を保っていたが筒美京平らが曲を提供したにもかかわらず、それ以後のGSブームなどには完全に乗り遅れてしまった。60年代初頭のアメリカン・ポップスやオールディーズを歌う歌手という古いイメージを払拭し、カムバックを果たしたのが川口真作曲の「人形の家」である。弘田は1969年10月20日、「人形の家」でオリコンチャート首位となり[4]、第11回日本レコード大賞の歌唱賞を受賞した[14]。他方、1966年に雑誌スイングジャーナルの人気投票「女性歌手」部門でトップに立ち、小規模なジャズライブを中心に活動していた弘田が、カムバックという形で再度表立った活動を始めたことに対して、コアなジャズファンから、ジャズイベントの楽屋などで「弘田三枝子は堕落した」と言われたという。
2021.05.22
高橋真梨子さんの曲が好きで、たまにYouTubeで聴きます。以前はCDの曲とかアップされてもすぐ削除されてたのが、最近は長期間YouTube上に残っています。ありがたいことですが、なんかあったのか、しらべたら、昨年実施予定の「最後のツアー」が中止になったままで、来年開催予定とのこと。昨年のアルバムのタイトル「高橋千秋楽」からして、ひょっとしてこのまま引退されてしまうのではと心配してましたが、とりあえずよかったです。「最後のツアー」が終わっても引き続きのご活躍を希望します。2021.10.9リンク切れの差替え。2021.10.30リンク切れの差替え。■参考リンク高橋真梨子オフィシャルサイト全国ラストコンサートツアー2022「our Days」開催予定のお知らせ2020年に予定しておりました全国コンサートツアーIwatani Presents Mariko Takahashi Concert vol.44「our Days」supported by TACHIHIは、新型コロナ感染拡大の影響で2021年の振替公演を含め、全公演中止となりました。(チケットの払い戻しは、2021年4月25日をもって終了しております)改めまして、全国ラスト・ツアー「our Days」として2022年1月下旬から同規模以上の開催を予定しております。新たなツアースケジュールは、2021年8月上旬にconcertのページにてご案内いたします。公演を楽しみにお待ち頂いていたお客様には大変申し訳ございませんが、もうしばらくお待ち頂けますようお願い申し上げます。皆様のご理解とご協力を賜りますようお願い申し上げます。 2021年4月26日 株式会社ザ・ミュージックス高橋真梨子の全国36公演中止、同規模以上再び模索[2021年3月1日12時2分]日刊スポーツ歌手高橋真梨子(71)が「今年で最後」と位置づけ、5月から来年にかけて実施予定だった全国ツアー36公演を中止することを1日、所属する芸能事務所のホームページ(HP)で発表した。当初は昨年に予定していたが、新型コロナウイルスの感染拡大を受けて1年延期。だが、コロナが治まらないことから今年の開催も断念、中止を決めた。HPでは「2020年に予定しておりました全国コンサートツアー『Iwatani Presents Mariko Takahashi Concert vol.44「our Days」supported by TACHIHI』は、新型コロナ感染拡大の影響で2021年に振替公演として実施する準備を進めて参りました」と説明。続けて「しかしながら、感染急拡大、各地での緊急事態宣言発出の状況を鑑み協議を行った結果、当初の予定通り5月からはお客様が安心してコンサートをお楽しみいただけない状況と判断し、2021年~2022年に行う予定でした全てのコンサートの中止を決定いたしました」と発表した。今後については「来年1月下旬から改めて全国ラスト・ツアー『our Days』として同規模以上の開催を予定」としている。
2021.05.12
エメラルドの伝説は小学3年生のとき、流行りましたが、寂しそうな曲調が好きでした。萩原さんが亡くなって2年経ちましたが、いま、あらためて、大阪で生まれた女、酒と泪と男と女を聴くと、演技同様胸に沁みます。たまたま見つけたオシャレ30・30の動画を観ると、オーラ出まくりで、カッコよかったなと思います。■Wikipedia:萩原健一1972年に製作された松竹映画『約束』(斎藤耕一監督)の製作現場に、サード助監督として参加した。だが、主演俳優・中山仁が降板したため、代役に抜擢される[7]。何人もの女優に出演を断られたが、最終的に岸惠子が共演を承諾した。この演技で高い評価を得て、俳優へと本格的に転身[8]。同年のテレビドラマ『太陽にほえろ!』の初代新人刑事=マカロニ役でその人気を決定付ける[6]。1972年12月をもって音楽活動を停止(これによりPYGは事実上解散)。1974年には神代辰巳 とのコンビによる映画『青春の蹉跌』でキネマ旬報の最優秀主演男優賞を受賞。これは現在のアカデミー賞最優秀主演男優賞に値する。続いて日本テレビ系のテレビドラマ『傷だらけの天使』(1974-75年)、倉本聰脚本の『前略おふくろ様』(1975-76年)と連続してドラマ作品に主演し、後者は続編も制作された。
2021.05.08
YouTubeで中森明菜さんの難破船を探してたら加藤登紀子さんのが出てきて、聴いたら聴きほれるくらいうまかったですが調べたらこちらが本家でした。次々いろんな曲をしばらく聴いてました。長期間第一線で活躍されて素晴らしいと思いました。これからもますますのご活躍をお祈りいたします。2021.4.29リンク切れにより差替え。■参考リンクWikipedia:難破船 (曲)「難破船」(なんぱせん)は、1984年に加藤登紀子が発表した楽曲。1987年に中森明菜がカバーし、19枚目のシングルとしてリリースし、ヒットした。概要1984年12月1日にポリドールより発売された、加藤登紀子のスタジオ・アルバム『最後のダンスパーティ』 (LP: 28MX-1196, CD: H33P-20002)に収録された。同曲は加藤から中森明菜に提供され、1987年9月30日に、19枚目のシングルとしてリリースした(ワーナー・パイオニア,EP: L-1755)。背景「難破船」は、加藤が作詞と作曲を手掛け、自身が歌唱した楽曲で、ムーンライダーズの白井良明が編曲を担当し、同メンバーの武川雅寛によりストリングス・アレンジが施された[1][2][3]。この楽曲は、アレンジを手掛けた白井プロデュースによるスタジオ・アルバム『最後のダンスパーティ』の収録曲として発表された[2][4][5]。「難破船」を含むこのアルバムのレコーディングは1984年秋に行われ、同年12月1日にポリドールより、LP (28MX-1196)とCD (H33P-20002)の2形態でこのアルバムは発売された[2][4]。加藤のこの楽曲は自身の複数のアルバムに収録された。その後加藤は中森明菜にこの楽曲を提供、1987年9月30日に中森のシングルとしてリリースされた[6][7]。1991年11月には『TOKIKO SONGS』の収録曲として「難破船」を新録音し、2001年11月には『MY BEST ALBUM Tokiko Today』にてこの楽曲を新たにセルフカバーした[8][9]。2010年4月21日には、スペシャル・アルバム『iTunes Originals: 加藤登紀子』をiTunes限定でリリースし、加藤が中森に楽曲提供した「難破船」についてのインタビューも収められた[5][10]。
2021.04.02
はいだしょうこさんの、YouTubeでの歌に関する記事をネットで見つけたので、ご紹介します。よくYouTubeで聴きますが、一番好きなのはひこうき雲で、それから以前ご紹介しましたが、童謡、唱歌も、自然な感じで好きです。10年前の情熱大陸も実像が窺えてよかったです。2022.11.3情熱大陸をリンク切れで削除。■参考リンク元うたのおねえさん・はいだしょうこ「自分の歌を届けたい」 YouTubeで歌い続ける理由を語る By - NEWS ONLINE 編集部 公開:2021-03-22 更新:2021-03-22 ニッポン放送歌手・女優のはいだしょうこが、自身のYouTubeチャンネル「はいだしょうこの歌とか、、、」の近況について語った。1月12日に放送された、ニッポン放送「東貴博と山根千佳のラジオビバリー昼ズ」に出演したはいだ。NHK「おかあさんといっしょ」では、第19代目うたのおねえさんとして歌声をお茶の間に届けた。2020年4月に開設した「はいだしょうこの歌とか、、、」は、登録者数が21万人を超え、有名曲のカバーや、ユニークな画風を活かして紙芝居を制作し、読み聞かせにも挑戦している。2020年12月には、歌手・中森明菜の楽曲「飾りじゃないのよ涙は」をカバーした動画を投稿。はいだが気づいた時には、再生数が131万回を突破しており、驚愕したという。そこではいだは、YouTubeチャンネル開設を決めた理由について明かした。以下略
2021.03.24
アゴ&キンゾーで思い出したハンダース、何十年ぶりで想い出の渚を聴きましたが、結構丁寧に作ってあって完成度高いです、聴かせます。GSが流行った頃、好きだった曲は、想い出の渚、亜麻色の髪の乙女、白いサンゴ礁でといった落ち着いた曲でした。昔からズー・ニー・ヴーというのは変な名前だと思い今回調べましたが、わかりませんでした。尾崎紀世彦さんのまた逢う日までが、実はズー・ニー・ヴーのひとりの悲しみが原曲と今回知りびっくり。白いサンゴ礁にこめた阿久悠さんの思いを、YouTubeのコメントや参考リンクのブログで今回初めて知りました。こんなに深い意味があったとは。2024.2.11リンク切れにより一部差替え。■参考リンクWikipedia:ザ・ハンダース概要TBSで放送された、『ぎんざNOW!』の素人コメディアン道場においてチャンピオンに輝いた人物によって構成されたコメディ集団である。名前の由来は、メンバーが6人(=半ダース)であることによる。沿革1975年結成。『笑って!笑って!!60分』(TBS)にレギュラー出演し、コントやコミックソングなどを得意とした。1978年7月21日発売のシングルレコード「ハンダースの想い出の渚」は30万枚[1] または40万枚[2] のセールスを記録した。1980年に解散。リーダーの清水アキラによると元より渡辺プロの意向で組まされた音楽グループで、メンバーの仲はあまりよくなかったという。後にメンバーであった桜金造とアゴ勇が「アゴ&キンゾー」を結成し、『お笑いスター誕生!!』(日本テレビ)に出演してコント等を行っていたが1984年に解散した。以後、それぞれピン(単独)で活動するようになる。2007年11月21日、「ハンダースの想い出の渚」の30周年記念パーティが東京都文京区の椿山荘で行われ、小林まさひろを除くメンバー5人が1日限りの再結成を果たした。また、フジテレビ系『爆笑そっくりものまね紅白歌合戦スペシャル』の2007年12月25日放送の回にもメンバー5人が出演し、「ハンダースの想い出の渚2007」を披露した。2010年7月、清水アキラが毎日公演する箱根のホテルでハンダース復活コンサートが行われ、中本賢を除くメンバー全員が集まり『ザ・ノンフィクション・あの頃に戻れない〜30年後のザ・ハンダース〜』(フジテレビ・2010年10月10日)で放送された。メンバー清水アキラ長野県出身。解散後はモノマネ芸人として、フジテレビ『ものまね王座決定戦』でものまね四天王の一人と称されるほどの活躍をした。セロハンテープを顔に貼り付けて、物真似をされる側の本人に似せた姿の物真似は、彼を代表する芸のひとつとなった。2009年12月より1年間、箱根湯本温泉「天成園」にて歌謡ショー(毎日無料ライブ)を催していた。元タレントの清水良太郎は彼の三男。桜金造(一時期の芸名:佐藤金造)広島県出身。小山ゆうえんちのCMで有名。各種ドラマ・バラエティで活躍。2007年、東京都知事選挙に出馬するも落選。政治色がついたためか、仕事が激減。以降は主に怪談の語り手としても活動している。2013年2月、自宅浴室で脳内出血のため倒れた。アゴ勇(別名:アゴイサム、現:あご勇)千葉県出身。名のとおり、独特のアゴの形態が特徴で人気となる。舞台やテレビに出演。バラエティでは、アゴの形を生かした芸で出演することも。アパッチけん(現:中本賢)東京都出身。解散後は、俳優として活躍。現在は、本名の中本賢として活躍。『男はつらいよ』シリーズの他、映画『釣りバカ日誌シリーズ』では、西田敏行演じるハマちゃんの良き理解者であり隣人である釣り舟屋の経営者・太田八郎役をレギュラーで演じている。2008年9月までラジオ日本『横浜ガサガサ探検隊』(ウィークデーの午前中)のメインMCとしてDJも。環境問題に取り組み川崎市教育委員を務める。鈴木末吉(現:鈴木寿永吉)神奈川県出身。解散後は、モノマネ芸人として活躍。アントニオ猪木のモノマネの元祖、他にも井上順のものまねを得意とする。各種テレビ・イベントなどなどで活躍中。六本木に笑パブを営む。小林まさひろ(ありがとうの小林君)神奈川県出身。リーダー格の人物であったが、デビュー時のプロモーション(営団地下鉄銀座線全区間のルートに相当する道路を休まず歩き抜く)を桜がサボり参加しなかった"事件"の引責という形でハンダースを脱退(事務所を解雇)。脱退後も芸能活動を継続、映画『の・ようなもの』で落語家役、映画『(金)(ビ)の金魂巻』で主役の医師、フジテレビドラマ『ただいま放課後』でたのきんトリオと主役の高校生4人組を演じ、日本テレビ『ルックルックこんにちは』などに出演していたが、自身の結婚とふぐ調理師の免許取得を機に芸能界完全引退。1985年より、東京・赤坂でふぐ料理専門店 参虎を開店、2011年3月閉店。2011年4月出身地の横浜鶴見に店を移転、居酒屋鶴見参虎で再出発、各種テレビ・イベント芸能の仕事も復活していた。2015年5月8日放送のTBSテレビ『爆報! THE フライデー』で末期の大腸がんであることを自ら告白し、「私の体はがんで出来ています。でも、頑張って治療を受けます」と宣言するが、2016年6月22日朝に逝去。62歳没。ハンダースの想い出の渚ハンダースの想い出の渚(ハンダースのおもいでのなぎさ)はザ・ハンダースの持ちネタのひとつで、ザ・ワイルドワンズの「想い出の渚」を著名人の物真似によるメドレー形式で歌うもの。シングルレコード「ハンダースの思い出の渚」で物真似されている著名人は以下のとおりである。1番森進一 → 左卜全 → ポパイ → 和田アキ子 → 清水健太郎 → 高見山 → 越路吹雪[3]間奏淀川長治2番クール・ファイブ → 大橋巨泉 → 堺正章 → ブルース・リー → 森田健作 → 藤山寛美 → 宇崎竜童 → 正司花江 → 加藤茶 → 上田吉二郎 → キャンディーズ[3]なお、テレビなどでザ・ハンダースが「想い出の渚」を披露する場合は、上記以外の人物を物真似することもある。最後にキャンディーズの衣装に早替りをする。Wikipedia:ズー・ニー・ヴーズー・ニー・ヴー(Zoo Nee Voo)は、日本のグループ・サウンズバンド。所属レコード会社は日本コロムビアを経てキャニオン・レコード(現:ポニーキャニオン)。 1968年春に結成し、1971年解散。概要結成当時は「ZOOM BOOM 5」という名前だった。1969年に新宿音楽祭の敢闘賞を受賞。代表曲は2枚目のシングル「白いサンゴ礁」。この曲は当初B面だったが、ヒットしたため後年に発売された再発盤ではAB面が逆になっている。ジャケットは見開き仕様だったためオリジナルデザインの片面がそのまま使用された。オリコン最高位18位、累計売上17.7万枚を記録した[1]。4枚目のシングル「ひとりの悲しみ」は、改詩改題して尾崎紀世彦が歌った「また逢う日まで」の元歌として有名。(共に阿久悠作詞、筒美京平作曲)アレンジも全く同じであるが、符割りが微妙に違う。白いサンゴ礁(ズー・ニー・ブー) 戦没者へのレクイエム
2021.01.22
高2でグッド・フィーリングのアルバムを聴いて以来、高校生の時、ファンだった木之内みどりさんです。両国の日大講堂に木之内さん見たさにニッポン放送の公開番組を見に行って、ピンクレディーがたしかサウスポーを歌っていた思い出があります。前略おふくろ様2も、木之内みどりさん見たさに見始めましたが、いつの間にかドラマにひきこまれました。木之内さんの登場シーンはいつも癒されました。今回、歌もドラマもまとめてご紹介します。2021.1.20内容の追加。2021.5.26リンク切れの差替え。■参考リンクWikipedia:木之内みどり木之内 みどり(きのうち みどり、1957年6月10日 - )は、北海道小樽市出身の日本の元アイドル歌手、元女優である。1976年時点の公称サイズは、身長163cm、体重42kg、B78cm・W57cm・H84cm[1]。血液型O型[2]。来歴・人物北海道小樽市に生まれる。9人兄妹の末っ子。15歳中学3年生のときに、日本テレビの「ミス・ティーン・コンテスト」に応募するが準優勝、望みは叶わず[3]。「家を建てたい」と16歳の8月、小樽から上京する、歌謡番組のマスコットガールで芸能界入りのきっかけを掴んだ[4]。 1974年5月10日、「めざめ」で歌手としてデビュー、キュートな顔立ちと愛らしい歌声で人気を集めた。本業の歌手としてはレコードの売り上げが伸びないのにもかかわらず、ブロマイドが飛ぶように売れる怪現象を起こした。1976年(昭和51年)ヘアートリートメントのCMに出演し、お茶の間にも知名度を上げたが、歌手としてはなかなか成功できず、映画『野球狂の詩』(1977年)、テレビドラマ『刑事犬カール』(1977年 - 1978年)などに出演[5]、女優として活躍した。またグラビアアイドルとしても人気が高く、篠山紀信撮影で知られる『GORO』(小学館)の表紙を6回も飾った。そのうち1978年には3回を占め、ラストは引退後の1978年10月12日号であった[6]。1977年10月25日発売の『刑事犬カール』の主題歌「走れ風のように」や1978年2月25日発売の「横浜いれぶん」がようやくヒットしたが、1978年1月19日に放送開始した『ザ・ベストテン』にはランクインせず、『夜のヒットスタジオ』にも出演を果たせなかった[7]。
2021.01.02
haruka nakamuraの音楽のある風景とLamp feat.Nujabes。8ミリフィルムで撮影したような、粗いけれど心の原風景のような映像と、優しい音楽がマッチしています。ノスタルジックな気持ちにさせてくれます。自宅作業で疲れたときに聴くと癒されそうです。■参考リンク言葉を忘れるほどの孤独が生んだ、haruka nakamuraの音楽インタビュー・テキスト 金子厚武2014/12/26 CINRA.NET東京在住の音楽家、haruka nakamuraが2枚組の新作『音楽のある風景』を完成させた。これまでに『grace』『twilight』、Nujabesとのコラボレーションを基にした『MELODICA』という3枚のソロ作を発表し、地元青森の夕暮れの風景を、過去・現在・未来の3つの視点で描いてきたnakamura。『音楽のある風景』は、即興をベースに作られた『twilight』を契機に編成された「haruka nakamura PIANO ENSEMBLE」によって公開録音が行われ、闇から光への軌跡を描き出した、感動的な大作である。自由と孤独は常に隣り合わせ。haruka nakamuraの波瀾万丈な音楽人生を紐解いていくと、そんな真理を思い出さずにはいられない。しかし、彼の音楽は、孤独であることが、1人でいることが、本当はいかに豊かな時間であるかということを教えてくれる。そう、結局のところ人間は1人だ。だからこそ、音楽でつながれる一瞬というのは、紛れもない奇跡なのである。『音楽のある風景』はまさにそんな一瞬の邂逅を、光り輝く瞬間を記録した、美しきドキュメントだと言えよう。以下略2016-3-12 UP独特な感性で人々を魅了するアーティストharuka nakamura Yoshiki Noda:i bought
2020.12.28
明日12/24 21:00からはいだしょうこさんのトークライブがユーチューブで行われるというニュースが届きました。リンクをクリックしてもまだページが表示されませんが、クリスマスの歌も一緒に披露してもらえると嬉しいです。12/24(木) 21:00~はいだしょうこさん生配信トークライブ歌謡曲、童謡、クラシックを歌われるとき、それぞれ別の歌手みたいな雰囲気がいいです。
2020.12.23
はいだしょうこさんのカバー曲です。一つ一つ丁寧に歌われていて、はいださんの暖かさが伝わってきます。特に木綿のハンカチーフは。はいださんのお芝居の一幕を見ているようで、感動的です。最後の180°(ワンエイティー)オリジナル曲です。ふだんと違ってテンポの速い曲リズミカルな曲です。本当はこういう人だったんだ、と予想外の魅力が楽しめます。
2020.12.19
忘年会シーズンになりましたが、神田の飲み屋街のわきを通り過ぎても、新型肺炎再流行のせいか全然活気がありません。お店の方も死んだような顔をされています。この先が心配です。焼け石に水ですが、空いているこの機会を利用して仕事帰りに一人呑み兼夕食のお店の新規開拓してます。忘年会と言えば、二次会はカラオケで、昔はよく同僚と楽しくデュエットを歌いコミュニケーションを深めました。このシーズン向けにデュエット曲も投入されました。今のご時世だと忘年会は新型肺炎のため×なので、デュエットなんか今の人は無理なのかと思っていたら、カラオケボックスに1人でいってもシステムを使って全国からデュエット相手を探して歌えるようです。同じようなアプリもあるようです。一人カラオケは一人焼き肉と並んで、ハードルの高いものと思い込んでましたが、通信の発達はそれを壊したように思います。ただやっぱり全く知らない人とのデュエットはちょっと気が引けます。吉永小百合さんの映像には癒されます。202407.29リンク切れにより差し替え。■参考リンク2024.7.29リンク切れにより削除。Wikipedia:3年目の浮気3年目の浮気(さんねんめのうわき)は、ヒロシ&キーボーのデビュー曲である。佐々木勉作詞・作曲、櫻庭伸幸編曲。B面の「愛し合うなら…今」も同じである。オリコン1位を3週連続で獲得し、73万6000枚を売り上げる大ヒットとなった。TBS系列『ザ・ベストテン』では1982年11月25日に初登場で8位、最高2位(3週連続)まで浮上し、1983年2月3日まで11週連続でランクインされた。なお同番組の1982年度年間ランキングでは45位、1983年度年間ランキングは64位だった。累計売上は130万枚。本曲の大ヒットがあるものの、ヒロシ&キーボーはNHK『NHK紅白歌合戦』に出場歴がない。歌詞の内容により紅白に出場できなかったと2人はフジテレビ系列『HEY!HEY!HEY! MUSIC CHAMP』出演時に語っている(ヒットから約25年後、2008年になってようやくNHKの歌番組で2人は同曲を歌唱披露した)。
2020.12.02
久々にあの鐘を鳴らすのはあなたを聴きました。この曲が流行った頃は中学一年生で、当時はちあきなおみさんの喝采や、小柳ルミ子さんの瀬戸の花嫁に夢中でした。今、あらためて聴くと歌詞が心に沁みます。1972年は小柳ルミ子さんの瀬戸の花嫁が11月に日本歌謡大賞を獲って、このまま日本レコード大賞も獲るのかと思いきや、10月らいから大ヒットしたちあきなおみさんの喝采がするすると伸びて、受賞したのが印象的でした。当時は感動した、お母さんを横に瀬戸の花嫁を歌う受賞した小柳ルミ子さんのシーンも、今思うと、あれ、受賞するのはあらかじめわかっていたから連れてきたのかなととも思いますが、たとえお約束でも当時は日本中が感動を求めていたように思います。小学生の頃は、大晦日のレコード大賞から、紅白歌合戦に続く時間は朝から楽しみでわくわく感で一杯でした。そのくせ10時を過ぎると眠くなってましたが。朱里エイコさんのカバーも聴かせます。パッチギの名演技が印章的な大友浩平さんとのデュエットもななかイケてます。どしゃぶりの雨の中でもパンチが効いて好きでした。題名は忘れましたがドラマの挿入歌で10年くらい前に聴いて懐かしかったです。■参考リンクWikipedia:あの鐘を鳴らすのはあなた「あの鐘を鳴らすのはあなた」(あのかねをならすのはあなた)は、1972年3月25日に発売された和田アキ子の11枚目のシングル。概要和田の所属事務所・ホリプロダクション(現・ホリプロ)の社長(当時)の堀威夫が、日本レコード大賞の歌唱賞を取るのにふさわしい曲を、ということで作詞家の阿久悠に作詞を依頼した。堀は「ケ・サラ」(ホセ・フェリシアーノ版が日本でヒット)のようなイメージの曲をと頼んだが、阿久は「人生」という語り口はどうかと思い、時代と孤独をテーマに作詞した[1]。そして、見事和田は第14回日本レコード大賞最優秀歌唱賞を受賞[2]。現在も多くの世代から支持されており、自他共に認める彼女の代表曲となる。サビの歌詞に登場する「砂漠」は東京のことを指している。また、タイトルにある「あなた」にはモデルがいるわけではなく、和田が今まで出逢ってきた人達全てとの意味を込めて阿久が書いた言葉である。レコード大賞最優秀歌唱賞受賞発表のとき、和田は感極まりたまたま近くにいた沢田研二の腕を掴み一緒にステージまで行き、歌っている最中も感動の涙でメイクが落ちたことによって「黒い涙」が流れ落ちた。和田の号泣ぶりと沢田のオロオロした姿が後にレコード大賞史に残る名シーンとして紹介されている。後日、和田は「(司会の)高橋圭三さんが『あの鐘…』と言った瞬間、頭が真っ白になってしまった。私はジュリーが大阪のナンバ一番で歌っていた時から仲良しだったのと、私の腕力が強すぎて逆らえなかったのでしょう。」と振り返っている。発売当時はオリコン53位と必ずしも大ヒットしたとは言えないが、2016年10月現在も人気作品であり、オリジナル7インチシングル盤の価格が中古市場で価格高騰する傾向にある[注釈 1]。Wikipedia:大友康平大友 康平(おおとも こうへい、1956年1月1日 - )は、日本のロックバンド「HOUND DOG」(ハウンド・ドッグ)のボーカル、俳優、タレント。直木賞作家の長部日出雄は母方の叔父にあたる。身長170cm、体重62kg。血液型A型。妻は元ファッションモデルの木下桂子。
2020.11.30
YouTubeで昭和の曲を聴いてたら本田路津子さんの耳をすましてごらんが出てきて久々に聴きました。1972年のNHKの朝の連続ドラマの藍より青くの主題歌で印象に残る曲でした。当時は天地真理さんとか、小柳ルミ子さんとかのアイドルに夢中でその良さがわかりませんでしたが、いま聴くと心にしみます。1972年は私立の中1に上がった年で、札幌五輪、あさま山荘、ミュンヘン五輪、父の死とか、とにかくいろいろあった年で、そういった意味でも印象に残る曲でした。赤色エレジーも女性ならではの世界観が構築されており、賛美歌も優しさで包んでくれる聖母のイメージが良いです。森山良子さんとともに好きになりました。2023.5.4リンク切れにより差し替え。■参考リンクWikipedia:本田路津子本田 路津子(ほんだ るつこ、1949年(昭和24年)1月6日 - )は、日本の元フォークシンガー、現ゴスペルシンガー。福岡県大牟田市出身。経歴福岡県大牟田市出身だが、その後、家族(当時両親、妹)と共に、新潟県に転居し、桜美林高等学校入学と同時に、東京都町田市に単身で転居。その後、桜美林大学に進学。路津子の名前の由来は、両親がキリスト教徒であったので(本人は結婚するまでキリスト教徒ではなかった)、旧約聖書の「ルツ記(英語ではルース)」に出てくるボアズの誠実な嫁ルツからとったものと言われている。本来のキリスト教での表記は「路律」であるが、路律子ではあまりに難読となるため、路津子にした、とのことである。「路」の字は「路加(るか)(英語ではルーク)(ルカ記)」という読み方でも知られている。桜美林大学文学部英文科卒業。在学時は聖歌隊に所属し、英字新聞編集活動にも参加。フランシス・ジェームズ・チャイルドのチャイルド・バラッドについての研究をしている。1970年9月1日、ジョーン・バエズの『シルキー』を歌ってハルミラフォークコンテストに優勝し、CBSソニーから『秋でもないのに』でプロ歌手としてデビュー。続いて『風がはこぶもの』、『一人の手』などのヒット曲を出し、森山良子と並んでカレッジフォークの第一人者として活躍した。『ひとりの手』は、アレックス・コンフォート(英語版)の詩“One Man's Hands”にピート・シーガーがメロディをつけたもので、当時の反戦や人種差別撤廃を訴える歌になっており、日本語の歌詞は本田路津子自身が訳したもの。1976年に刊行された日本キリスト教団出版局の『ともにうたおう-新しい讃美歌50曲-』では、末節に讃美歌らしい歌詞が付け加えられ、34番として所収されている。当時はフォーク界でのジョーン・バエズの影響は大きく、本田路津子もその状況下で活動していた訳だが、普段控えめな彼女が、ジョーン・バエズから受けた影響について聞かれたときに、「いえ、私が尊敬するのは、ジュディー・コリンズ(英語版)です」と語ったと言われている。デビューのきっかけとなった曲が、ジュディー・コリンズのグレートシルキー(英語版)という説もあるが、オークニーに伝わる『スール・スケリー島の大アザラシ』という伝承歌を、フランシス・ジェームズ・チャイルドが自身のバラッド集に収めたもので、ジョーン・バエズの『シルキー』と同一である。ハルミラフォークコンテストでは、たまたま優勝するのを見ていた六文銭の小室等が、当時新進のレコード会社であったCBSソニーの社長に紹介し、彼女の歌うのを聴いて「全身が震えた」社長は、その場で契約したということである。この逸話は、英国ウェールズ出身のメリー・ホプキンがTVのタレント発掘番組「Opportunity Knocks」で優勝し、それを見ていたモデル歌手女優のツイギーがビートルズのポール・マッカートニーに紹介した話を思い出させるものである。また、所属事務所のミュージカル・ステーションも、当時新しい姿の音楽事務所であった。デビュー曲の『秋でもないのに』は、ハルミラフォークコンテストのときに審査員をしていたギタリストの石川鷹彦の持ち歌で、もともと男言葉で書かれていた詩を女性用に書き直したものである。石川は、コンテストのときに彼女にあまり良い点をつけなかったそうで、このことは後になっても、本人から「石川先生は、あのとき良い点をつけてはくださらなかったんですよね」と言われることとなった。1972年の連続テレビ小説『藍より青く』の主題歌『耳をすましてごらん』でお茶の間にも親しまれ、NHK紅白歌合戦にも2回出場(第23回NHK紅白歌合戦で本曲を歌った)している。なお『耳をすましてごらん』は、1990年にアイドル歌手の南野陽子がシングル曲としてカヴァーし、ヒットさせている。1972年にNHK「みんなのうた」で『小犬のプルー』が、1974年には『今日の日はさようなら』が放送された。一方、テレビCMでは、『三ツ矢サイダーシルバー(♪遠くへ行きたいな?)』、『HOYA眼鏡(♪あなたのことは?)』、『トワイニング紅茶(♪アイスティーを作るなら?)』を手がけている。また、ラジオでは、せんだみつおの司会で『ポケットいっぱいフォーク』という番組に出演していた。1975年に結婚を理由に引退し渡米した。その「さよならコンサート」では、アンコールなしで公で歌う最後の曲として、『至上の愛』(ジュディー・コリンズのアメイジング・グレイス)を熱唱。自ら、キリスト教に帰依する覚悟を明かした。1988年帰国して以来、国内外の教会のコンサートなどで神の愛を歌い、賛美歌の歌い手として活躍している。 2001年度には第4回ゴスペルCCM賞大賞のアーティスト部門・アルバム部門と国際ソロプチミスト賞(福岡-東)を受賞している[1]。
2020.11.27
Wikipediaでムード歌謡を調べていたら思い出した曲です。ムード歌謡は一時は古臭い印象を覚えましたが、いま改めて聴くと新鮮で心にしみます。三條正人さんの歌の「古代の文字よー」という部分、ラブユー東京の「シャボン玉のようなー」という部分が好きでした。男の色気を感じます。併せて三條さんの奥さんの香山美子さんの番組もご紹介します。■参考リンクWikipedia:小樽のひとよ「小樽のひとよ」(おたるのひとよ)は、鶴岡雅義と東京ロマンチカの楽曲で、デビューシングルである。1967年9月25日に発売。累計売上は150万枚を超えた[1]。解説作詞は池田充男、作曲はリーダーの鶴岡雅義である。北海道・小樽のご当地ソングでもある。ボーカルは三条正人であった。なお発売当初は大海晴彦の「花園町哀歌」との両A面扱いであった。曲は公演先の釧路で地元の女性と恋仲となった「鶴岡雅義と東京ロマンチカ」メンバーの実体験を元に鶴岡がまず曲を書き[2]、以前にも鶴岡の曲に詞を付けたことのあった池田に作詞を依頼した。池田は曲の舞台を自らもよく知る小樽に変更することを提案[3]、鶴岡から聞いた体験談も盛り込み「電話で愛を」という曲名で詞を書いたが、鶴岡がパンチ不足であるとして、池田に新たに作詞を依頼。そこでできたのは「粉雪のラブレター」という曲であった[1]。しかし、小樽市サイドから「もっと観光PRを」との要請を受け、随所に地名などを織り込んだ歌詞に変更し、「小樽のひとよ」に改題したものである。曲名は、北島三郎の「女シリーズ」を参考に、「女」を平仮名の「ひと」にして「よ」をつけたものである[1]。レコードジャケットの制作は小樽のデザイナーである藤森茂男に依頼され、藤森がデート中にバーで喫煙する妻を描いたスケッチがジャケットに使われた[4]。オリコンチャートにおいては、1968年5月にトップ10に初登場した。1969年に東映制作、NET(現・テレビ朝日)系で放送されたテレビドラマ『霧のロマン 小樽の女』の主題歌にもなった。一方、北海道以外では、「粉雪のラブレター」もほぼ同時期にシングル発売されたが、こちらはヒットしなかった[1]。Wikipedia:ラブユー東京ラブユー東京(ラブユーとうきょう)は、1966年に発売された黒沢明とロス・プリモスのシングルである。規格品番はCW-460。解説この曲は黒沢明とロス・プリモスの代表曲とされる。ロス・プリモスがビクターからクラウンへ移籍した後、初めて吹き込んだ曲[1]。初回出荷はわずか1000枚に留まった[2]。発売当初のA面曲は「涙とともに」であった。実際、当時のロス・プリモスは自身のテーマ曲として「涙とともに」を歌うことが多かった[2]。しかし発売から半年後、山梨県甲府市のホステスの間で「ラブユー東京」が話題になり[2]、また作曲した中川博之と友人で後に推理作家としてデビューする内田康夫が制作に係わった深夜ラジオで連夜「ラブユー東京」を流し[2]、次第に知名度が上がる。ロス・プリモスは自らキャバレーやレコード店を回って18万枚もの歌詞カードを配布し、プロモーションに務めた[1]。1967年7月、同品番でジャケットデザインを差し替え、「ラブユー東京」がA面曲に昇格する[2]。旧版ジャケットは2色刷りのロス・プリモスのメンバーの写真が使用されており、新版ジャケットはカラー印刷の夜景と女性の写真が使用されている。A面/B面入れ替え・ジャケット差し替え前のレコードの売上は累計で4〜5万枚程度であったが[1]、有線放送から人気になり[1]、1967年9月からは毎日1万枚、ピーク時には1日に3万枚も売れた[1]。1967年12月17日から4日間、日劇で「ラブユー東京」の100万枚突破記念ショーが開催された[1]。オリコンチャートが正式に発表されて以後の同チャート圏内でのセールスでは30万枚そこそこだが、実際には1967年の段階で既にヒットしている。Wikipedia:ムード歌謡ムード歌謡(ムードかよう)は、第二次世界大戦後、特に1952年(昭和27年)の連合国の占領軍の撤退以降の日本で独自に発達したポピュラー音楽のスタイル、ジャンルの一つである。広義では歌謡曲に含まれ、コーラスを主体としたものをムードコーラスと呼ぶことがある。来歴・特徴ハワイアン、ジャズ、ラテンをベースにした歌謡曲であり、いずれもダンサブルな音楽である。1950年代(昭和20年代後半)、主に連合国の占領軍(の中でも主にアメリカ軍)を相手に活動していた歌手やバンドが、東京の銀座や赤坂のナイトクラブに移り、客の要望に応じてムードのあるダンス音楽を演奏し始めたのが、「ムード歌謡」の始まりといわれる。もともとこの当時に流行していたハワイアン音楽のバンドや進駐軍相手にジャズを歌っていた歌手が中心となり、スティール・ギター、ファルセットといったハワイアン音楽の特徴や半音進行を織り交ぜたジャズ音楽のテイストは、そのままムード歌謡にも引き継がれた。第一人者といわれるフランク永井や和田弘とマヒナスターズ、松尾和子らの人気とともにムード歌謡は流行、レコードデビューするバンドや歌手も増加し、1960年代には一大ジャンルを形成した。日本語による歌詞は、独特の世界観を持っている。楽曲の演奏されるステージであった「ナイトクラブ」や酒場が存在した歓楽街や繁華街を舞台にしたものが多く生まれ、銀座や赤坂のほか、横浜の伊勢佐木町、札幌のすすきのや中の島、大阪の御堂筋や宗右衛門町、岐阜の柳ヶ瀬、神戸の新開地や福原、長崎の思案橋等の「盛り場」の地名や、それらを有する札幌、東京、岐阜、大阪、神戸、長崎等、都市名を冠した楽曲タイトルをもった。これら地名は、「ムード」を表現する要素となり、とくに地方都市を舞台としたものは、のちに「ご当地ソング」とも呼ばれた。また、歌詞世界の描く時間帯はおもに「夜」であり、繁華街のある「港」や別れの舞台である「空港」をも描いた。男性ヴォーカルを有するグループが多い反面、女性の視点から女言葉で書かれた歌詞も多く、女性歌手をゲストに迎えた楽曲もつくられた。俳優の石原裕次郎が歌手としても活躍し、ムード歌謡のヒット曲を連発した。1950年代 - 1960年代(昭和30年代 - 昭和40年代前半)には、特に演奏スタイルの定義にこだわらなければ、ムード歌謡こそが歌謡曲の本流だったといえる[要出典]。森進一・五木ひろし・八代亜紀といったのちの演歌界の大御所も、デビュー当時はムード歌謡色が濃かった[要出典]。大相撲の増位山太志郎は、『そんな女のひとりごと』などのヒットを飛ばしている。1970年代(昭和40年代後半)から、伝統的な大人の社交場としてのナイトクラブやキャバレーの文化が衰退していく。それにあわせて、ムード歌謡の描く歌詞世界はどこか非現実的で古くさいものと感じられるようになる。また、演歌と愛好者層が重なることから演歌と混同されて捉えられる事も多くなる。上記の森、五木、八代だけでなく、ジャズに憧れてプロ入りし、この分野の第一人者でもあった前川清も、ソロ転向後は演歌歌手として扱われるケースが多くなってきた。同時期には、一方でフォークソングなどニューミュージックなどの台頭もあり、ムード歌謡は徐々に衰退していったが、1970年代後半(昭和50年代)にカラオケスナックが流行、時代に合わせたスタイルでヒットを飛ばす例もあった[要出典]。現在の「ムード歌謡」はポップス色の強い楽曲はシティ・ポップスと呼ばれ、旧来の「ムード歌謡」、および演歌ポップスやニューアダルトミュージックの一部を指すジャンル用語となっている。
2020.11.12
はいだしょうこさんの童謡はみかんの花咲く丘が好きです。今回、ほかの歌も初めて聴きましたが、どれも心に響きます。冬景色はメロディーは知っていましたが題名をはじめて知りました。冬の凛とした空気が伝わってくるいい歌です。2003年の歌のお姉さんになりたての頃の映像がかわいいです。2022.11.8リンク切れにより削除。■参考リンクWikipedia:はいだしょうこはいだ しょうこ(1979年(昭和54年)3月25日 - )は日本の歌手、女優、タレント、声優。本名:拝田 祥子(はいだ しょうこ)。宝塚歌劇団所属時の芸名は、千琴 ひめか(ちこと ひめか)。歌劇団在団時の愛称は、ショーコ。東京都出身。宝塚歌劇団84期生。NHK『おかあさんといっしょ』第19代目うたのおねえさん。東宝芸能を経てホリプロ所属。生い立ち父は前国立音楽大学准教授で、現ミュージカルアカデミー ドリーム学院長、国際ピアノデュオ協会会員、立川市地域文化振興財団評議委員の拝田正機[1]。母は声楽家で、ミュージカルアカデミー ドリーム声楽コース講師[2]。姉は薬剤師。はいだ曰く「歌う薬剤師」で、はいだのソロCDにコーラスで参加したり、コンサートにゲスト参加したこともあり、はいだのブログにもたびたび登場している[3]。小学校在籍時には「全国童謡コンクール」でグランプリ賞受賞[4][5][注 1]。9歳から中田喜直に師事し[注 2]、童謡・ポップスを学び、この頃から童謡歌手としてコンサート活動を行っていた。国立音楽大学附属高等学校声楽科に進学[4]。モデルクラブにも所属していたことがあり、1985年には『家醸本みりん』のCMに出演していたことがある[6]。『おかあさんといっしょ』 うたのおねえさんその後、2003年4月7日から2008年3月28日までの5年間、NHKの未就園児向け番組『おかあさんといっしょ』の第19代目うたのおねえさんとして活躍した[5]。宝塚歌劇団出身のうたのおねえさんは、第8代目の森晴美以来となる歴代2人目。就任時に「たくさんの子供達に自分の名前を覚えてもらいたい」という理由で、芸名を本名のひらがな表記の『はいだしょうこ』へ変更。番組で共演したうたのおにいさんは第10代目の今井ゆうぞう。共演したたいそうのおにいさん、おねえさんは、最初の2年間は佐藤弘道ときよこ(当時:タリキヨコ)、その後の3年間は小林よしひさといとうまゆ。
2020.11.08
いま、深夜2時ですが、文化の日にしては東京は珍しく冷たい雨が降っています。西田佐知子さんのアカシアの雨がやむときを思い出しました。物憂い感じの独特の声が好きで、小学生のころ、小柳ルミ子さんや天地真理さんのファンの一方で、こっそりファンでした。1971年に関口宏さんとの婚約が発表されたときは、なぜか口惜しかったのを覚えています。今、思うと小学生が関口宏さんと張り合ってもしょうがない気もしますが。2020.11.29.リンク切れにより差替え。■参考リンクWikipedia:西田佐知子西田 佐知子(にしだ さちこ、本名:関口 佐智子。1939年〈昭和14年〉1月9日 - )は、日本の元歌手。愛称は「さっちん」。夫は俳優・テレビ司会者・タレントの関口宏、息子は俳優・タレントの関口知宏。略歴大阪府大阪市城東区生まれ。帝国女子高等学校(現・大阪国際滝井高等学校)中退[1]。西田佐智子の名で歌手デビュー。それ以前には、「浪花けい子」の名で活動したこともあった[2]。代表作「アカシアの雨がやむとき」は、60年安保当時の世相を表現するテーマ曲のように扱われており、その物憂げな歌声はニュース映像のBGMで使用されることがある[3]。年譜1956年(昭和31年) - 「伊那の恋唄」でマーキュリーからデビュー1960年 - 「死ぬまで一緒に」発売1961年 - ギリシャ映画『日曜はダメよ』同名主題歌のスマッシュヒット、続けて外国曲のカバー「コーヒールンバ」のメガヒットで一躍その名を知られるようになる。1962年 - 「アカシアの雨がやむとき」で村田英雄の「王将」とともに第4回日本レコード大賞特別賞を受賞1967年 - レコード売上1000万枚を突破の記念曲「たそがれの恋」発売。9月30日にはレコード売上1000万枚突破記念チャリティ・リサイタルを東京厚生年金会館で開催1971年 - 関口宏との結婚を発表する。これを機に芸能活動を大幅に縮小1982年 - 「テレビを見ている女」を発売(現在のところ最終シングル)1982年以降表立った活動は無いが、 1990年(平成2年)、歌手・平井菜水のデビュー曲「めざめ」(夫の関口宏が司会を務める日本テレビ系テレビ番組『知ってるつもり?!』のエンディング曲)の作詞を行っている。人物1971年3月24日の結婚後は仕事をセーブし、オリジナル作品のほか歌謡曲・演歌・ニューミュージックなどのカバー作品も発表し、レコーディング活動が中心となっていたが、1982年発売のシングル「テレビを見ている女」を最後に、現在は専業主婦となっている。1990年には作詞家としても活動していた[4]。この時期に活動していた多くのスター歌手はモノラルからステレオへの過渡期にあり、過去のモノラル録音曲をステレオで再録音することが多かった。西田も結婚後の1970年代後半にモノラル時代の主要曲をアルバム用にステレオ再録音したが、現在は廃盤となっている。また、現在発売されるコンピレーション・アルバムでは、モノラル録音のものはモノラル・オリジナル音源を収録することで統一されている。「初めての街で」は2017年時点でも菊正宗酒造のTVコマーシャルで歌声が使用されている[5]が、2009年にはジェロが歌うバージョンも使用された。エピソード「コーヒールンバ」のヒット当時、本人はコーヒーを飲む習慣がなく「(歌詞中の)モカ・マタリって何?」といった調子だったのが、結婚後は夫の影響で飲むようになった、という。
2020.11.03
秋を感じる曲でまず思い出すのはサトウハチローさんのちいさい秋みつけた。歌詞にあるハゼの葉の紅葉を調べたら俳句の季語になるくらいきれいでした。旅愁が米国で生れ、日本経由で中国に渡った可能性を知りびっくり。里の秋は今まできちんと聴いたことがなかったのでのどかな田舎の秋とばかり思っていましたが、戦争の影があったとは。これまで主人は冷き土の下にはYouTubeにあまりありませんでしたが今回立川清登さんのものを発見、懐かしく聴きました。唱歌は作成を指導した米国人音楽教師の影響で賛美歌が多く用いられたことが興味深かったです。2022.7.19リンク切れにより差し替え。2024.7.11リンク切れにより差し替え。■参考リンクWikipedia:ちいさい秋みつけた作詞のきっかけサトウハチローが住んでいた東京都文京区弥生の自宅の庭にはぜの木が植えられており、この木の紅葉する情景を見たのが作詞のきっかけとなった[2]。この自宅は1996年に岩手県北上市のサトウハチロー記念館に移築され、はぜの木は後楽園駅近くの礫川公園(れきせんこうえん)に移植された[2]。櫨紅葉 はぜもみじ(はぜもみぢ/はじもみぢ)2020/10/09佐藤愛子『気がつけば、終着駅』を読んでスカッとしたきれいの秘密を見つけよう♪Wikipedia:旅愁 (唱歌)旅愁(りょしゅう)は日本の詩人である犬童球渓が明治40年(1907年)に詞を訳した翻訳唱歌である。1907年8月に発表された音楽教科書「中等教育唱歌集」で取り上げられて以来、日本人に広く親しまれてきた。原曲はジョン・P・オードウェイ(John P. Ordway)による“Dreaming of Home and Mother”(家と母を夢見て)という楽曲である。2007年(平成19年)に日本の歌百選の1曲に選ばれた。中国では、李叔同の作詞により『送別』の題で広く知られている。日本と同様にアメリカ音楽だと気がつかない人も多い。1982年の中国の映画『北京の思い出(城南旧事)』(沈潔主演)でも劇中歌として使われた。李叔同は1907年当時日本留学生であったから、日本でこの曲に接し中国語で作詞した可能性がある。Wikipedia:里の秋概要1945年(昭和20年)12月24日、ラジオ番組「外地引揚同胞激励の午后」の中で、引揚援護局のあいさつの後、川田正子の新曲として全国に向けて放送された。放送直後から多くの反響があり、翌年に始まったラジオ番組「復員だより」[1]の曲として使われた。1番ではふるさとの秋を母親と過ごす様子、2番では出征中の父親を夜空の下で思う様子、3番では父親の無事な復員(ここでの椰子の島、船という言葉から父親は南方軍麾下の部隊にいることが窺える)を願う母子の思いを表現している。2003年(平成15年)にNPO「日本童謡の会」が全国約5800人のアンケートに基づき発表した「好きな童謡」で第10位に選ばれた[2]。Wikipedia:主人は冷たい土の中に概要「故郷の人々(スワニー河)」が発表された翌年の1852年に発表された。プランテーションの年老いた主人が亡くなり、そこの奴隷として働いていた黒人らが、優しく皆に慕われていた主人を偲んで嘆き悲しむという内容。フォスターが南部を旅行した際に書かれたプランテーション・ソングの1つであり、表題の"Massa"("Master"の訛り)をはじめフォスターの他のプランテーション・ソングと同様に黒人英語が歌詞に多用されている。この楽曲の旋律は、ジョセフ・C・ラドゲイト(1864年 - 1947年)が新規に歌詞を付けて1898年に発表した賛美歌"A friend of Jesus!"(聖歌519/新聖歌426「世には良き友も」)に転用されている[1]。日本における紹介この楽曲は昭和初期に日本で紹介され、現在も広く歌われている。最初期のSPレコードは「お優しかった御主人様」の表題で[2]、後に直訳の「主人は冷たい土の中に」が広く用いられるようになったが、その他にも様々な訳題が存在する[3]訳詞は武井君子による「静かに眠れ」の副題が付いたものが広く知られており、音楽の教科書にも採用されている[4]他、勝承夫や水田詩仙の訳詞も存在する。また、加藤義清作詞の「春風」はこの楽曲の旋律を転用しているが、歌詞は原曲と無関係なものになっている[5]。また、吉丸一昌作詞の「夕の鐘」[6]は、1953年に公開された映画、小津安二郎監督の『東京物語』の最後の方で挿入歌として使われている。小津安二郎のフォスター好きは有名であり、映画の公開当時は音楽の教科書にも載っていた。[7]CiNii:唱歌『夕の鐘』と映画『東京物語』--日本におけるキリスト教文化の受容と変容の一断面A Song (Shoka) "Yube no Kane" and a Movie "Tokyo Story" : A Case Study of the Acceptance and Modification of Christian Culture in Japan伊藤 利行ITO Toshiyuki岡崎学園国際短期大学人間環境学研究所抄録小津安次郎監督の松竹映画『東京物語』(1953年)は、親子・人間の絆を扱った世界の映画史上の傑作である。そのクライマックスに唱歌『夕の鐘』が用いられている。この歌のメロディーは、フォスターの『主人は冷たい土の中に』であるが、このメロディーは、キリスト教の『聖歌』519の中でも用いられている。この聖歌の歌詞の内容と『東京物語』の主張は不思議に合致するように見える。日本の唱歌は、米国人音楽教師Luther Whiting Mason (1818-1896)の指導の下で1882年に誕生した。彼の選択した歌の中には、キリスト教の讃美歌に由来するものが多く、以来唱歌を学んだ日本人の心の中に讃美歌のメロディーが入り込むことになった。従って、映画『東京物語』のクライマックスで唱歌『夕の鐘』を聞く時、観衆は幼き子供の頃の素直な感受性に引き戻され、それが聖歌519番を知る者である場合には加えて深い愛への思いを抱かされるにいたるのである。ここに一つのメロディーを通して知りうるキリスト教文化の受容と変容の姿がある。
2020.10.25
ブルーコメッツの曲を探していたら、美空ひばりさんと歌った真赤な太陽を思い出しました。Wikipediaによれば、この曲は作曲者が美空ひばりさんか江利チエミさんに歌わせるか迷ったとのこと。またエド山口さんによれば、黛ジュンさんがシングルを出す予定だったのを美空ひばりさんのお母さんから横やりが入ったとのこと。どちらの歌もそれぞれに印象的です。一人グループサウンズと呼ばれたパンチのある黛ジュンさんの歌もなかなかです。今回の件で、長い間、誰が歌っているのか、曲名がわからなかった曲が黛さんのものとわかり、収穫でした。どの曲も50年以上経っても新鮮です。2022.11.5リンク切れにより差し替え。■参考リンクWikipedia:真赤な太陽 (美空ひばりの曲)『真赤な太陽』(まっかなたいよう)は、1967年(昭和42年)5月25日に発売された、美空ひばりとジャッキー吉川とブルー・コメッツの楽曲。解説グループ・サウンズ全盛期であったこの頃、美空ひばりが「ブルー・シャトウ」の大ヒット[注釈 1]を飛ばしたジャッキー吉川とブルー・コメッツ[注釈 2]の5人を従えて歌った楽曲。元は美空ひばり芸能生活20周年記念アルバム『歌は我が命~美空ひばり芸能生活20周年記念』に収録する為に制作された曲で、シングル盤を発売する際にひばりのスタッフの中で評判が高く、ひばりの母・加藤喜美枝もシングル化を推したことから、アルバムからのシングル・カットとして発売されることになったという話が残る[1]。本楽曲はグループ・サウンズの雰囲気を強調しており、歌番組などでは当時30歳だったひばりが初めてミニスカートを着用し、ゴーゴーダンスを踊りながら歌うなど、それまでのひばりのイメージとは大きく異なる楽曲であり、ひばりの新境地が垣間見えた楽曲であった。結果的に、「ブルー・シャトウ」の150万枚には及ばなかったものの、140万枚を売り上げるミリオンセラーとなり[2]、記録的な売り上げを残した。これは美空ひばり自身の歴代シングル売り上げ枚数では第4位に相当する[2]。後に多数のシンガー、ミュージシャンにカバーされた曲でもある(後述)。作曲を手がけた原信夫は本楽曲が完成した際、ひばりと江利チエミのどちらに歌わせるか迷った末にひばりの楽曲にした。本楽曲がヒットした後にチエミは「あれは本当は私の曲よ」と嫉妬したという[3]。2020年06月24日「真っ赤な太陽」ツゥのブログ | 足利発 - みんカラWikipedia:黛ジュン黛 ジュン(まゆずみ ジュン、1948年5月26日 - )は、日本の歌手、女優。本名、渡邊 順子(わたなべ じゅんこ)。東京都調布市出身。1960年代後半を中心に、独特のパンチの効いた魅力的な歌声でヒットを飛ばした。実兄は作曲家の三木たかし。概略世間が認識しているよりも活動開始は古く、1956年、8歳から歌手活動を始めている。品川区立冨士見台中学校卒業後、本名で各地の米軍キャンプをジャズ歌手として巡った。1964年に「渡辺順子」の名でデビューするもヒットせず、1967年に石原プロモーションへ移籍する。作曲家の黛敏郎のファンだったことと、パンチのある歌唱力から「黛ジュン」と改名し、東芝音楽工業(現:ユニバーサル ミュージック合同会社)から「恋のハレルヤ」で再デビュー。ミニスカートと共にパンチの効いた歌声で一気に注目を集める。グループサウンズのブーム[1]と同時代に活躍したこととサウンドから、中村晃子らとともに一人GSとも呼ばれた。「土曜の夜何かが起きる」ほかの曲は、一人GSの有名曲である。鈴木邦彦が、作曲を担当することが多かった。兄の三木たかしが作曲したヒット曲もある。1968年にリリースされた「天使の誘惑」は更なる大ヒットとなり、その年の第10回日本レコード大賞に輝いた。1967年から1968年の2年間で、レコード売上が500万枚を記録。自身のヒット曲が主題歌となった映画にも出演。「天使の誘惑」「夕月」では主演に抜擢、売れっ子女優にもなった。また年末恒例のNHK紅白歌合戦では、1967年の第18回から1970年の第21回まで、4年連続で通算4回の出場を果たしている。
2020.10.11
グループサウンズの中で一番好きだったジャッキー吉川とブルー・コメッツです。中でもブルー・シャトウが好きでした。1971年小学6年生の時、たしか進学塾の帰りで、旧国鉄両国駅東口を下りたらブルーコメッツが自動車に荷物を積んでいるところを発見。井上忠夫さんに話しかけたら、気さくに答えてくれて旅行から帰る途中とのこと。当時はなぜかサイン帳とマジックを常備した小学生だったのですかさず出したら快く応じていただいてサインを頂きました。新曲津軽の海をよろしくと言われ、サイン帳にも津軽の海と書いていただきましたが、レコードを買わなかったのを申し訳なく思います。てっきり北へ向かう人の群れは誰も無口で♪的な歌と思っていたら、YouTubeで聴いたら明るい歌でした。その後井上さんは1987年にコカ・コーラのCMのI feel Cokeを作曲されました。今でも口ずさむ名曲です。CMに登場されるどなたの笑顔もきれいで輝いてます。■参考リンクWikipedia:ジャッキー吉川とブルー・コメッツジャッキー吉川とブルー・コメッツ(ジャッキーよしかわとブルー・コメッツ)は、日本のバンドで1960年代に一世を風靡したグループ・サウンズの一つ。1957年に結成されたロックコンボが母体。グループ名の由来は[1]「どの星よりも光り輝く彗星のように」である。当時の所属芸能事務所は大橋プロダクション(渡辺プロダクションと業務提携)。21世紀の所属事務所はオフィス・アタック。略称は「ブルコメ」が定着しているが、2013年現在公式では「COMETS(コメッツ)」を用いている。Wikipedia:ブルー・シャトウ「ブルー・シャトウ」(Blue Chateau)は、ジャッキー吉川とブルー・コメッツが1967年にヒットさせた楽曲である。概要1967年3月15日に発売され、レコード売上150万枚[1]の同グループ最大のヒット曲となり、第9回日本レコード大賞を受賞した。またこの曲は『第18回NHK紅白歌合戦』(1967年)の際の出場曲で、同時にグループとして2回目の出場曲でもある。橋本淳作詞、井上忠夫(当時。後に井上大輔)作曲、森岡賢一郎編曲。この曲はもともと、作曲者の井上忠夫が木の実ナナに提供する作品を書いているうちに出来たものである。カナダのレイクルイーズホテルに宿泊中作曲した。その後むしろ男性が歌うべきと考え、ブルー・コメッツの作品として発表したといわれる。ファとシを除いた「四七抜き(よなぬき)短音階」を基調とした日本風の曲であり、井上は発表当時「外国のリズムと日本のメロディーの新しい組み合わせを考えた」と語ったという[2][3]。また、当時のレコードジャケットのライナーノーツには、この曲がわずか3分で出来たものであることと、発表前に関係者に聴かせたところ「この曲、何となく(童謡の)『月の沙漠』に似ている」と言われたことが記されている。しかし後年(1987年)、井上自身はこの曲が大ヒットしたことを、もともと洋楽っぽく格好いいもの、ひいては新しいものを目指してきたグループ・サウンズ(GS)というジャンルにとっては「悲劇だった」と振り返っている[2]。「でも実は(『ブルー・シャトウ』を作ったことは)ジレンマでね。目標としてきた洋楽とは正反対のものを作っちゃったんだから。他のGSがそのまねをさせられ始めたのもつらかった。あの曲からGSの悲劇は始まったと思う」[2](井上)さらに井上は「新しい音楽をつくるつもりだったのに、結局は歌謡曲に飲み込まれてしまった」と、当時の悔いを口にしている[2]。作詞家の湯川れい子は、当時週刊誌のインタビューで「紅いバラの バラの かおりが」のような印象的な歌詞があっていいとは思いますが、メロディーはまったく歌謡曲ですね」と答えたことで、週刊誌上で論争になったという。そのため、シャネルズ(のちのラッツ&スター)の「ランナウェイ」の作詞を依頼されたとき、ディレクターから「作詞は井上さんからの推薦で湯川さんに」と聞かされたときはびっくりしたという[4]。(実際にこの曲がヒットした後、「バラ色の雲」「長い髪の少女」など、「売れ線」として歌謡曲調の作品をGSが歌わされるケースが増え、それらは目論見どおりヒットしたため、洋楽に傾倒した作品はますます隅に追いやられる結果となった[2]。因みにザ・スパイダースのかまやつひろしも、やはり後年になって、洋楽色が薄まった「夕陽が泣いている」のヒットについて、「曲が来た時に物凄く抵抗があったが、皮肉なもので当たってしまった」といった旨を語っている[5])その後井上は、シャネルズのデビュー作「ランナウェイ」を世に送ったが、この曲を作った時に「やっと決着がついた気がした。(GSの時代に本当に)やりたかったことをやっとやれたってね」[2]と述懐している。一方で井上の死後、ジャッキー吉川は「GSブームはいい曲をたくさん残した。大ちゃん(井上)はそれを誇ってよかったんだ」と語っている[3]。ブルー・コメッツの曲としては、先行する「青い瞳」・「青い渚」に続く「青い」シリーズの第三弾であり、前2作と同様に、橋本・井上のコンビの作品である。また、1969年1月にはB面を「青い瞳」(日本語・ステレオ音源バージョン)に、更に1976年7月1日にはB面を「マリアの泉」にそれぞれ差し替えて再リリースされ、1991年7月21日には8cmシングルCDとして初リリースされた。ただしカップリング(B面)は1969年再リリース盤同様、「青い瞳」(日本語・ステレオ音源バージョン)となり、両A面シングルとなっている。Wikipedia:井上大輔井上 大輔(いのうえ だいすけ、1941年9月13日 - 2000年5月30日)は、日本のミュージシャン、作曲家。本名及び旧芸名は井上 忠夫(いのうえ ただお)[2]。東京都出身。日本大学豊山高等学校、日本大学芸術学部卒業。略歴1963年、ジャズ喫茶で演奏中、ジャッキー吉川・大橋道二にスカウトされジャッキー吉川とブルー・コメッツに参加、リード・ヴォーカル、フルート、サックスを担当。作曲も行い、「青い瞳」「ブルー・シャトウ」などの曲を書いてヒットさせた。なお、ブルコメ参加時に寺内タケシの勧めでそれまでしていたメガネからコンタクトレンズに変えている。1972年のメンバーチェンジ(実質的な解散)後、作曲家に転身。「学園天国」「ランナウェイ」など、数多くのヒット曲を放った。1981年、本名の井上忠夫から「井上大輔」に改名[2]。ジャッキー吉川とブルー・コメッツ再結成に参加した時期でもあり、「元GSというレッテルから離れ、一から出直す」という意図もあったとされている[2]。なお「大輔」は、かねてからの愛称「大ちゃん」に由来[2](ロカビリー時代に内田裕也がとっさに「井上ダイスケ」と誤って紹介したことがきっかけ)。日大芸術学部の同級生で友人の富野喜幸(現・富野由悠季)の頼みで手掛けた劇場版『機動戦士ガンダム』シリーズの主題歌「哀・戦士」(第2作)、「めぐりあい」(第3作)や、コカ・コーラのCM曲「I FEEL COKE」などのソロ作品がヒットした。
2020.10.10
先日ご紹介したかまやつろしさんご出身のザ・スパイダースです。解散して40年以上経った今も、メンバーが第一線で活躍されているのはすごいです。小学生の自分には、当時はグループサウンズの中では地味に感じていた歌も、古びることもなく年ごとに輝きを増している感じです。大地真央さんが歌うと街の灯りも、お芝居のワンシーンのように物語性を帯びてきます。以前ご紹介した忘れていいのとともに、好きな歌です。天地真理さんの涙から明日へも素朴でいいです。どの曲も紹介したいと欲張ったら7曲になってしまいました。■参考リンクWikipedia:ザ・スパイダースザ・スパイダース(The Spiders)は、日本のグループ・サウンズ (GS) のバンド。1961年、田辺昭知が結成し、ジャッキー吉川とブルー・コメッツとともにGSの礎を築いたグループ。ヒット曲に「夕陽が泣いている」「なんとなくなんとなく」「あの時君は若かった」などがあり、1970年に解散。当時の音楽の先端であったビートルズ、ローリング・ストーンズなどブリティッシュ・ビート・グループに強く影響を受けていた。一方、堺正章、井上順、かまやつひろしの3人を中心に繰り広げられる軽妙なやりとりによるコミカルな要素も持った人気グループであった。田辺昭知は後に芸能事務所、田辺エージェンシーを設立し、社長となった。[1]忘れていいの-愛の幕切れ-(1984)大地真央・小川知子と谷村新司と、好きなCM サンキスト・レモンリキュール(調査中)
2020.10.09
昭和40年代前半に流行ったグループサウンズ。ブルーコメッツの頃は好きでしたが、だんだん若い女性向けアイドル化したものが多くなり、ついていけなくなりました。そんな中で、ザ・スパイダースは暖かい歌が多かったです。小学生の自分にはまだ深く理解できませんでしたが、やっと今頃になってその良さがわかってきました。特にかまやつひろしさんの歌は胸にしみます。学生時代ゼミのコンパで先輩が手拍子で我が良き友よを手拍子で歌っていたのをまだ覚えてます。時間ですよの釜田さんのシーンを探しましたが無いので代わりに似たシーンです。■参考リンクWikipedia:かまやつひろしかまやつ ひろし / ムッシュかまやつ(本名:釜萢 弘(かまやつ ひろし)、1939年1月12日 - 2017年3月1日[1])は、日本のミュージシャン、俳優。通称「ムッシュ」。「ザ・スパイダース」の元メンバーでもある。1989年以降は、ミュージシャンとしては「ムッシュかまやつ」が正式な活動名である。東京府(現・東京都)出身。血液型はB型。父はジャズシンガーのティーブ・釜萢。長男のTAROかまやつことかまやつ太郎はアーティスト。ジャズシンガーの浅田陽子は母方の叔母、ジャズ・トランペッターの森山久は義理の叔父(浅田の夫)。フォーク歌手の森山良子は従妹、元・歌手の森山奈歩は従姪、シンガーソングライターの森山直太朗は従甥にあたる。Twitter:ちかるんさん@busuharu時間ですよ 第66回あれ? 浜さん、また釜田さんのことを好きになるん???
2020.09.23
猛暑も大分やわらぎ、少しは落ち着いて寝られるようになりました。今朝早く目が覚めて、うとうとしながら今日は月曜の朝だっけ?仕事しなくちゃと憂鬱に思いましたが、よく考えたら日曜の朝とj気付き、なんか得した気分で二度寝しました。南野陽子さんの秋からも、そばにいてが似合う時期になってきました。斉藤由貴さんの卒業と合わせてご紹介します。当時スケバン刑事は観ませんでしたが、予告編を見ると楽しそうです。2023.8.1リンク切れにより差替え、内容の追加。
2020.09.09
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